2011年7月

SUPER 8/スーパーエイト7/2上野東急2監督/J.J.エイブラムス脚本/J.J.エイブラムス
原題も"Super 8"。プロデューサーにスピルバーグがいるので、監督より大きく名前がでてる。話題の映画だ。
工場の連続安全記録(2年ぐらいつづいていたのかな)の数字が外され、「1」が改めて掛け直される。次は葬儀後の飲食。数人の少年が事故の事を話題にしている。1人だけ、玄関前で座り込んでいる少年ジョー。葬儀にやってきた男が、家主らしい男に追い出される。…くだくだ情景描写にこだわらず、数カットで映画の設定を見事に述べている。この切れ味は凄い。で、4ヵ月後。母を失ったジョーは、幼なじみで映画製作の中心人物チャールズ、そして歯の矯正中(この設定もよくあるなあ)のケイリー、その他2人とともに、8mmフィルムで相変わらずゾンビ映画をつくっていた! という明るい展開。時代は1979年。世界共通規格がコダックのスーパー8で、日本にもあったけれど、どっちかっていうとフジカシングル8の方が主流だったかも。僕もニコンのカメラを買って、スーパー8を使っていた。1本3分45秒だったっけかな。とまあ、そんな往年の8mmファン、映画ファンには懐かしくもまた羨ましい話が進んでいく。
チャールズが監督なんだけど、シナリオや設定を撮影直前までいじってしまうタイプ。香港映画か! 女の子アリスを口説いて映画に出演させるのだけれど、始めは上級生かと思っていた。大人びた顔してるしね。演じてるエル・ファニングはダコタ・ファニングの妹で、実際に13歳らしい。ませてる! アリスは、夜中に車を運転してやってくる。それって不良じゃん。アリスはジョーに気づき、「保安官助手の息子がいるじゃん。告げ口されたらやだから、帰る」なんてことをいう。ジョーがいるとは思っていなかった、ってことなのね。ここ、伏線にもなってる(実はアリスは、ジョーのことをよく知っていた、というかとても気にしていた)。で、無人駅で撮影を始めるんだけど、リハでのアリスの演技力にみなが舌を巻くところが、凄い。見ているこちらも、思わず入ってしまう。
この後、たまたま通過する列車を背景に本番スタート。でも、トラックが線路に入り込み、脱線事故になる。その間もカメラは回っていた…。しかし、どんだけ長い列車なんだ! それに、ぶつかったトラックは爆発したように見えるのに、運転していた黒人の先生はまだ息がある…って、おいおいだけど。
ジョーの父親の保安官助手は、いろいろ探ろうとする。でも、軍関係者がシャットアウトして近づけさせない。少年たちは映画を撮りつづける…。という中で、町ではクルマのバッテリーばかりが盗まれたり、犬がいなくなったり、人もいなくなったり、電子レンジが゜なくなったり…。でも、このとき既に、列車で何か生き物を運んでいたらしいのは分かってるので、その犯人はなんとなく想像がつく。有り体に言えば地球外生物が宇宙船を造るための材料を集めていたのだけれど、犬が消えた(後に遠い場所から発見される)理由は最後まで分からず。人間も、食糧にするのかどうか、それもよく分からず。電池や家電品は宇宙船の外装なんだろうけど、そもそも地球外生物が発見されたとき、軍は、彼らがどんな形にも変わるキューブを利用して宇宙船などを造るのを知っていた。ならば、バッテリーや家電製品は、宇宙船のどの部分に使われたのだ? という疑問が残るのだけどね。それに、人に見られず、どうやって盗んだんだ? という根本的な疑問が残っちゃうよな。
どちらかというとありきたりな展開になっていくこの映画の緊張感を持ちこたえていたのは、ジョーとアリスの関係だ。ジョーはメイキャップ担当で、アリスに接近。ゾンビメイクを仕上げたら、アリスがジョーを襲う仕草をしつつ、首にキスしたりするのだけれど、なんとも妖しい雰囲気のアリスの存在は、謎も相まってハラハラ…。さらに、2人で昔の8ミリを見るシーンがあるのだけれど、それはジョーの父親が撮影したジョーの成長記録で、そこには事故死した母親も写っている。なかなか胸が熱くなるシーンだし、この映画の軽い部分を補って余りある部分でもある。とはいいつつ、そういう展開はありふれたもので、よくあるよなあ、とも言えたりする。この映画全体にも言えることなんだけど、エピソードも含めて小ぎれいにできあがっていて、泥臭さがない。それが余計に、この映画の作為的なところを強調する結果になってしまって、じわりと涙腺を弛めるまでになっていないのが残念。いいシナリオも、撮り方ひとつで厚みがなくなってしまったりするものなんだよなあ。
てなわけで、いろいろ映していると、事故のときのフィルムが映写されだして、そこにタコの足みたいなのが写っているのを発見。少年たちは黒人先生の資料を見つけ出して、かつて軍が地球外生物を捕獲し、秘密裏に研究していたことなどを知る。いっぽう、父親と上手くいってないアリスは地球外生物に掠われてしまう。という辺りでアリスがいなくなってしまうので、話が俄然つまらなくなってしまう。だって、おおよそ先が予想できてしまう話だし、意外性がなくなってしまったのだから…。
つまり、後半は冒険譚で引っぱろうという魂胆だったのだろうけど、面白くないのだ。というのも、「E.T.」にはあった、地球人と地球外生物との心の交流がないからでもある。この映画では、地球外生物とふれ合った人間は彼が「帰りたがっている」ことを悟る。けれど、意思疎通まではいかない。たとえば少年たちが彼らの脱出の手伝いをする、ということはない。これが、後半、感情移入しにくかった理由かも知れない。
地球外生物のキャラ設定も中途半端。帰りたいだけで傷つける意志はないみたいな感じなのに、人間を掠う。掠った人間は逆さ釣りして保存している。あれは、食べるため? 意味が分からない。さらに、軍に捕まった少年たちを乗せた軍のクルマを襲う。地球外生物は、少年たちを逃がすために軍を襲った、と考えるには無理がある。では、なぜ突然、おおぴっらに軍のクルマを襲ったのだ?
てなわけで、いろいろ素材を集めきった地球外生物は、いよいよ宇宙船を完成させ、地球を離れていく。そのときのシーンは、「未知との遭遇」とそっくり。でも、エイリアンみたいな格好の地球外生物には、同情も共感もしにくいんだけどね。
アリスの父親が登場してからしばらくして、この父親が冒頭の葬儀のとき、追い返された男だと分かった。アリスの父親とジョーの母親は同じ職場で、本来はアリスの父親が勤務に就くところ、酔っぱらっていたので代わりにアリスの母親が仕事に就いた。そこで事故が起きた。本来なら…という気持ちがアリスの父親にもあったし、アリス自身にもあった。だから、アリスはジョーに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった、というネタバラシがある。なーるほど。けど、それはやっぱり同情であって愛情ではないよなあ。という気持ちになるので、なんとなくのラブロマンスも、ちょい興ざめ。もっとこのロマンスを大切にして欲しかったなあ、という気分だよ。
映画大好き5人組も、主たる3人意外はあまり目立たない。1人はスタッフとしてより探偵役で映画に出ているので、そういう部分では目立っているんだけど、5人の少年たち、ということになると、存在感がない。残る1人は何おかいわんや。そこそこ長さもあるのだから、この残る2人も、もうちょい描き込んでもよかったんじゃないのかな。そうそう。歯科矯正中のケイリーは、すぐゲロを吐く。なんだか、「スタンド・バイ・ミー」のパイ食い競争でゲロを吐く少年のことを連想してしまったよ。
とうわけで、この映画でよかったのは最初の30分あまり。それと、ジョーとアリスのほのかな愛…というところかな。話自体は、よくあるパターン。その他の味付けだと、チャールズのエロっぽい姉と、カメラ屋のアンちゃんとの話。アリスのビンボーな家庭環境もかなり悲惨で、グレかかってた感じだな、なんとなく。しかし、これらのサブストーリーがシームレスにうまく絡んでいるかというと、いかにも頭で考えてつくった感じがして、おっ、なるほど、とはならないのが残念。いろいろと作為が見え透いてしまうのだ。このあたりは、もったいない感じだな。
それにしても、保安官助手ってどういう立場なんだ? 同じような助手クラスが警察には何人もいるし、助手の中でもリーダー的な風にも見えるけれど、40ぐらいになってまだ助手って、中途半端だなあ。それと、タイトルのスーパー8だけど、8mmが映し出した映像が何らかの役割をもつのかと思ったら、そうはならないマヌケではないか?
チャールズがアリスを誘ったのは、アリスのことが好きだったから。なのに、ジョーとアリスがいい仲になってる。それに腹を立てて本音を言うところが面白かった。「お前ら、両思いだろ。腹が立つ!」ってね。
エンドロールの半分に、少年たちが撮っていた映画の完成版が映し出される。まあ、これはお決まりのパターン。エンドロールを読みつつ映画も…というわけにはいかないので、映画の方だけに集中することにした。
犬飼さんちの犬7/5シネマスクエアとうきゅう監督/亀井亨脚本/永森裕二
TV版があっての映画版らしい。TVのことはなーんも知らん。時間を間違えて、頭が少し欠けた状態から見た。ちょうどタイトルがでる前あたり。終了後、次の回の頭を見たら、オープニングタイトルも含めて5分もなかった。
島のスーパーに出向中の犬飼さん。スーパーでトラブルが発生して本社に呼ばれ、1年ぶりに家に帰ると犬がいた。犬は嫌いなのに! という話。それ以上は何もなく、犬との交流で心が温まる、ってなこともない。様々な問題も放り出しっぱなしだし…。ううむ、なデキ。見ればTVKなどローカルテレビ局が出資してつくった映画みたいだけど、TV版もキー局ではないみたい。ローカル局でも、制作できるのだな…。
島でだけ採れる草からつくる島石鹸が大ブームに! という設定自体嘘くさい。流通が行きとどき、儲け族がうじゃうじゃいるいまどき、速攻類似品がでるだろ。それに、島民挙げてその草を根こそぎ採り尽くしてしまうに違いない。そういうのとは無縁に、スーパーの店員2人がカゴを背負って草取りなんて…。でもまあいい。映画だし。
むかつくのは鳥飼さんの妻・潤子と2人の子供だな。いくら子供が「飼いたい」と言ったからって、亭主が嫌いな犬を無断で飼うなんて。しかも、夫に責められてもどこ吹く風。さらに情けないのが、座敷犬にしてることだ。犬なんて家の中に入れるな。つけあがるだけだろ。まったく。
あんなに嫌いだった犬なのに、嫌々ながらつきあわされる犬飼さん。それも、奥さんのカラオケ教室やなんやかや。って、そこまで舐められてる亭主って何よ。そもそも奥さんはカラオケどころじゃなくて、若い連中と路上ライブに夢中だったりする。放し飼いも同然じゃん。で、それを犬飼さんも知ることになるんだけど、追求するわけじゃなし。いわゆる「温かい目で遠くから見つめる」…ってか。そりゃあなた、奥さんが日頃の生活に不満足だからに他ならないではないか。そこをフォローしない映画なんて! それに、犬を飼うに至った理由をまともに亭主に説明したのが、犬飼さんが家に戻って4ヵ月以上たってからだってんだから、ダメ嫁だな。
しかし、あんなに嫌いだった犬を散歩に連れていったり、慣れるものなのか? そんな風にはならんと思うがなあ。と思っていたら、なーんと、田舎に帰ったとき弟に「昔、犬を飼いたいってオヤジに言って、ダメって言われたじゃないか」という言葉でひっくり返る。つまり、子供のときは犬と添い寝するほど好きだったのが、この一件から嫌いになった…。しかし、だよ、その過程が絵日記に残されていた…って、そりゃ小学生の頃の話だろ。それを人間は忘れるか? 忘れないと思うぞ。というわけで、昔は好きだったけど、という設定には説得力がない。むしろ、絵日記に登場する犬の墓が気になった。単に捨てただけじゃなかったのか? ひょっとして、殺したのか? などと疑ってしまうぞ。
しかし、犬飼さん、背広にネクタイ、コート着て犬を散歩に連れ出すか?
島石鹸の原料を水増しし、トラブル。その後始末に犬飼さんと、島の娘。鳥飼さんが島の店長とともに東京本社へ。しかし、その後、4ヵ月以上も犬飼・鳥飼の2人がトラブル処理や新商品開発のため東京に残る、ってフツーありえんよな。鳥飼なんてただの店員でしかない。犬飼さんだって同じだ。
で、犬飼・鳥飼の発案で、草を石鹸だけじゃなくサプリメントに! って案が通るのだけど、役所の許可が下りるのが早すぎ!
でもって、鳥飼さんは東京に残り、犬飼さんは店長として島に戻るのだけれど、なんと犬と一緒だった! ウソだろ。妻や子供たちが反対するだろ。いくら別の犬を、っていったって、馴れた犬の方が可愛いに決まってる。その経緯を説明しないなんて、おかしいぞ。
ペットショップの店員や、犬の運動場の店員など、変わったキャラの脇役もいるのだけれど、他と絡んで話に額見が出るわけじゃない。その場しのぎの存在、てな扱い。もっと機能させなきゃもったいないだろ。などと、突っ込みどころは満載。
この映画、女性がまともに撮られていないのが大きな難点。妻・潤子のちはる、本社の徳永えり、鳥飼さんの小野花梨、それから、鳥飼さんの娘もそうだけれど、まともに正面から顔がよく見えるように撮られていない。もちろん、アップなんかない。一番優遇されている小野花梨も、キレイに撮られていない。これって、もったいないだろ。
前後関係を懇切丁寧に描くためか、人物が歩くシーンが丁寧すぎるぐらい入れ込まれていたりする。そんなのカットしちまえよ。犬飼がCMに出演にの後に、そのことを家で話して大うけする場面もあったけれど、あんなのなくてもいい。いきなりCM撮影現場とか、CMそのもので構わない。それでこそ映画なんだけど、TVに慣れすぎた演出が、くどい。
ハロルドとモード/少年は虹を渡る7/6ギンレイホール監督/ハル・アシュビー脚本/コリン・ヒギンズ
原題は"Harold and Maude"。1971年アメリカ映画。去年リバイバル公開された。のであるが、途中で10分ぐらい寝てしまったよ。やっぱり40年の経過は、映画のテンポにも表れているし、メッセージも時代かがってる。
ハロルド19歳らしいが、映画に年齢をいっているところって、あったっけかな? 免許があるので16歳ぐらいかと思ったら見合い話になったので、こりゃ20歳を超えているのかと思ったのだが、ハズレ。冒頭でハロルドは首つりの真似をするのだけれど、発見した母親は「また?」てな反応。自殺の演技をして、母親を驚かせようとするのだけれど、母の方が上手でだまされない。そもそもの始まりは、寄宿学校に入れられ、化学の実験で大爆発を起こしたのだが、ハロルドが死んだと思い込んだ母がうろたえて手すりにすがりながら歩いていたのを見て、らしい。つまりは、母親の関心を惹きたい、ということだ。有り体に言えば子供のまま成長してない。自殺に対する本気度はゼロ。でも、日常的には陰気。
他にも他人の葬儀に出席したり、霊柩車をマイカーにしてたりする。でも死への願望というより、死への興味といった方がいいかも。そういえばわしも、小学生の頃、なぜ生まれてきたのか、死んだらどうなるのか、死にたくない、と強く思ったことがある。でも、一般に人間は、そういうことを忘れていく。とりあえず死はないものと考えて生きることができるようになる。きっとハロルドは、そうなることができないでいるのだろう。
墓地や教会で、ある老婆と出会う。モード79歳。彼女も死に感心があるようだけれど、日常的には陽気。でも、実はモードの死にたい願望は本気である。白バイ警官をおちょくったり、乱暴な運転が目に余るのも、最後になってみれば「なるほど」と思えてくる。なにせモードは怖いものなし。だって、死ぬのは75じゃ早すぎる。けど85は遅すぎる。80がちょうどいい、なんて言ってるんだから。ハロルドとモードのこの対比が、映画の基本構造になっている。しかし、19歳を「少年」と呼ぶのは、変だよな。
死への興味が共通することから、2人は友人関係、そして、恋人通しになる。フツーならあり得ない設定だけど、実年齢75歳のルース・ゴードン(モード役)がお茶目で、なかなか可愛いので、案外と違和感なく見られるのが面白い。
息子を心配する母親は、はやいところ結婚させようと見合いを企む。それに従うハロルド…という構図が、なんともね。ハロルドは、この時代の一般的な若者と違って、親に逆らったり既成概念に反発したり権力に刃向かおうとはしない。いたって素直。これじゃ、アメリカン・ニューシネマじゃないだろ、ってなぐらい軟弱だ。父親は亡くなっているのか、登場するのは母親だけだけれど、大金持ちで遊んで暮らしている。資本家の一部である自分を否定したりしない。たんにもう、母親に甘えたいだけなのだ。まあ、その代償として、祖母の年齢であるモードに認められ、存在意義を見出したのかも。てなわけで、一緒にはちゃめちゃ、ついには一夜を共にする。その結果ハロルドは結婚を決意して、母に言う。するとこれまで通っていた精神科に連れていかれ、分析されたりする。んでもって、モードの誕生祝いだ! と騒いでると、「あたし薬を飲んだの」とモードに告白され、青ざめる。病院に連れていったけれど、時既に遅し。モードは80になったら、ちゃんと死んでいったのだった。で、この背景にあるのは、アウシュビッツ生活ではないかと思われる。あるシーンでモードの腕に刺青があるのが見えた。彼女はいま、多くの死の上に生きている。活かされている。そういう思いがあるに違いない。だから、死ぬのは怖くない、のかも知れない。死ぬ前に、やるだけやって死のう、と思っていたのかも知れない。いっぽうのハロルドは、恋人の死を悲しんでクルマを飛ばすのだけれど、断崖から落ちたクルマにはハロルドは乗っていなかった。始めから死ねないのはもちろんだけれど、別の見方をすると、これまでの自分を殺して、新しく生まれ変わった、というようにも読める。まあ、それはそれで論理的な展開で、ハロルドがクルマと一緒に死ななかったことは、観客には明らかだ。でも、ひょっとして、公開当時は「死んじゃった?」と思う人も多かったりしたのか?
ユニークなキャラとして、軍人の叔父が登場する。片腕がないんだけど、袖に仕掛けがしてあって、ふだんは折り畳まれている。それが、操作をすると敬礼するようになっている。連想するのは「博士ノ異常な愛情」(1964)だ。それに、ときどき流れる「ドナウ川のさざ波」からは、「2001年宇宙の旅」(1968)が思い浮かぶ。この映画の監督は、キューブリックに思い入れがある人なんだろうか?
ハロルドの叔父はマッカーサーの右腕だったらしい。ハロルドを軍隊に誘うのに「東洋女が抱けるぞ」みたいなことをいう。それと、ハロルドの母が「日本の大使館に医者を呼んでもらったこともある」と言うシーンがある。ってことは、ハロルドは幼少時、日本に来ていたということだ。1950年代の初めぐらいだから、まだ終戦直後。ハロルドの叔父は、占領軍の1人だったのかもね。
歌詞付きの音楽がたくさん流れる。よく流れる曲の歌詞は、いろんな生き方がある云々というようなものだった。このことからも、ハロルドはまだ成長しきれておらず、人生を発見できていないということなんだろうなと思う。
イリュージョニスト7/6キネカ大森1監督/シルヴァン・ショメ脚本/シルヴァン・ショメ
原題は"L'illusionniste"。英/仏製作のアニメ。あの「ベルヴィル・ランデブー」の監督だ。映画は見てないけど、CDはもってる。昼飯直後だったけど、ぜーんぜん睡魔は襲ってこず、最後まで緊張感あふれる映像を見せてくれた。素晴らしい。
実をいうと、ストーリーは大したことがない。主人公はドサ周りの老手品師。ある離れ小島で仕事をしたら、ホテルの掃除夫の娘に気に入られてしまう。きっと憧れの都会の匂いでもしたんだろう。手品師も、彼女の靴がひどいので買い与えてやる。もちろん、手品の要領で、サッ、と登場させる。これに魅せられた娘は、無一文のまま手品師が帰る船に乗り込んでしまう…。お荷物を背負い込んだ手品師だけれど、実の娘のように思ったのか、2人でホテル生活を始める。あれが欲しい、これも気に入った、とねだる娘。「魔法じゃないんだけど…」と思いつつ、娘が喜ぶなら、と買い与える手品師。娘は、みんな魔法だと思い込んでいる。…とこの辺りまで見てきて、展開は読めてしまった。そして、その通りの結末になった。
そもそも、娘は結構、わがままな性格に描かれている。たとえば、手品師に赤い靴をもらうと、それまで履いていた、穴は開いているけれど、自分のモノだった靴をポイと暖炉にくべてしまう。用がなくなったら、捨てる女なのだ。こりゃ、手品師もそのうち捨てられる、って分かるようにつくられてる。その意味で、分かりやすすぎる。
もちろん、世間を知らないうちは、手品師にも敬意を払っているし、芸人仲間の腹話術師や、あと、首をくくろうとしていた芸人にも、配慮を欠かさなかった。でも、若い男と知り合ってしまうと、もうそっちに夢中。遅く帰ってきて寝相は悪い、なんていうシーンも混じってくる。「木綿のハンカチーフ」ではないが、都会の絵の具にどんどん染まりだしていく。
こうなってくると哀れなのは手品師。仕事も減り、自動車修理工場で働いたり、看板書きのバイトをしたりする。挙げ句はショーウィンドウで商品を手品のように登場させる仕事まで…。そんな苦労を知らず、娘は恋にうつつ…。という、どこかで何度も見てきたようなストーリー展開。
なのであるが、絵が素晴らしい。人物の動きはもちろん、大自然の風景や町の雑踏も、もうお見事というほかない。ペン蛾に水彩で着色という絵が、情報量たっぷりの繊細な動きをみせてくれる。画面の端までデリケートに動いている。日本のアニメがレベルが高いって? あほぬかせ。この精度に比べたら、月とスッポンだ。…というぐらい美しい。
どこかノスタルジックで(アニメは1959年という設定)、哀愁にあふれているタッチが、いい。音楽もまた、いい。素晴らしい世界観で、仕上がっている。これを見ているだけでも、心が解けてくる感じがする。
で、最後、手品師は手品に使っていたウサギを放し、ボストンバックひとつで列車に乗り込み、どこかへ向かう。からっぽの部屋に戻ってきた娘は「魔法じゃないんだよ」という置き手紙を見ても、涙ひとつ流さない。そして、手品師が残してくれた幾ばくかのお金とカバン(あの中には何が入っているのだろう? 手品師が買い与えてきたもろもろの品々なのかな?)を手に、恋人の所へ向かう。ほら。やっぱり手品師は捨てられた。
で、列車のなかで手品師が取り出して見ているのは、何? と思ったら。それは写真だと分かる。で、「ソニー・タチシェフに捧ぐ」と出るんだけど、それは監督の知り合いか? と思っていたら、Webの解説で「落ちぶれた自分を尊敬の眼差しで慕うアリスに、いつしか生き別れた娘の面影を重ね、彼女を喜ばせるべく魔法の呪文とともにプレゼントを贈り続けるタチシェフだったが…」なんていうフレーズがあった。ってことは、あの写真は実の娘の写真なのか…。そんな説明、映画の中にはなかったように思うけどなあ…。
それにしても、芸人の末路は残酷だ。腹話術師がその代表だけれど、人形も売り払って酒浸りで、最後は乞食。ホテルで首をくくろうとした芸人もいた。アクロバットの兄弟(?)は元気だったけど…。ホテルの支配人が、小人というのも、なかなか深い。
ジャック・タチの名前がクレジットされていた。Webで見るとタチのオリジナル脚本らしい。そういえば、手品師が慌てて隠れるようにして入った映画館でかかっていたのが、タチの映画ではなかったか。洒落た献辞の仕方だね。他にも、クレジットには日本人らしい名前がいくつか。は、いいんだけど、中国人スタッフの名前がずらずらと。安く挙げるには、そうしないとならない状況になってるんだね。
ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える7/7シネ・リーブル池袋シアター2監督/トッド・フィリップス脚本/クレイグ・メイジン、スコット・アームストロング、トッド・フィリップス
原題は"The Hangover Part II"。前作のヒットを受けての第2弾なんだけど、プロットがそっくり同じ。場所がラスベガスから国外のタイに変わっただけ。今回は歯科医のステュがタイ娘と結婚することになり、彼の地で式を。悪友2人は招待されたけど、ダグの妻の弟・アランは外された。自分も招待されると思ってたのに…というところから始まる。なんとか4人で行くことになったんだけど、相変わらずアランはトンチンカン。新婦の弟で16歳にしてスタンフォードの医学専攻のテディも一緒に飲み始めたら…。で、翌朝、アランは丸刈りの坊主頭、ステュは顔に刺青、フィルは…普通。で、テディは行方不明。ダグはホテルに帰ってた…。で、アラン、ステュ、フィルの3人でテディを探しに、あるいは、昨日の記憶をたどってあれやこれや、という流れ。ダグはほとんど話に関与せず、ホテルの電話番みたいなソンな役割。スケジュールの都合でもあって、一緒に撮影できなかったのかね。なんか、妙な感じだった。
無言の寺院、オカマ売春、裏取引…と一見派手だけど、なんか中味が薄い。全体の流れにあまり必然性というか、因果関係もないし。前作の方が物語性もあったし、なんで? という疑問と、それが解決していく納得感みたいなものもあった。でも、今回はそれが足りないのだよなあ。
とくに嫌な感じなのが、テディの切断された指。なんで指が切られたのか? その答えは、エンドクレジットで分かることは分かるけれど、でも納得か行かない。だって、将来外科医になろうという青年だろ? それが、いくら酔った勢いとはいえ、自分で指を落とすなんて。しかも、結婚することからして反対の新婦の父親が、たいして怒りもせず、テディが見つかればそれでよし、みたいな終わり方って、どうなのかね。
それと、前夜停電があったからって、そのままエレベーターのカゴが止まりっぱなしで、その中に閉じ込められた、ってオチもなあ。ホテルのエレベーターだぜ。あり得んだろ。
今回の諸悪の根源みたいなミスター・チャウって、前回はどんな役回りででてたんだっけ? すっかり忘れてる。それから、最後の最後にまたまたマイク・タイソンがでてきて歌ったりするんだけど、もういいよ、タイソンは、って気分。でもま、こういうのがアメリカの超B級なのかも知れないけどね。
劇場版 神聖かまってちゃん/ロックンロールは鳴り止まないっ7/8キネカ大森2監督/入江悠脚本/入江悠
神聖かまってちゃんは、文化系トークラジオで紹介されていたのをずいぶん前にYoutubeで聞いたことがある。そのときだけのことで、とくに歌詞にも興味を抱かなかった。もちろん映画にも対して期待していなかった。のだけれど、なかなか疾走感あふれた映画で、いくつかの人生模様が「コンサート」に向かって突っ走っていく様が、なかなか見応えがある。
将棋が強い女子高生、って設定が魅力的。大学は行かない、と家庭で揉めている。現在は、アマ王座戦で決勝戦に出場が決まった。でも、彼氏は将棋に関心はない。そんな彼氏に「コンサート行こう」といわれ、事前勉強だと渡されたCDでかまってちゃんが好きになる。それにしても、将棋好きな女の子はカッコイイと思うけど、あんな扱いされるのか? あんなやつ、こっちから振っちまえ、って思ったね。それに、女子高生・美知子役の二階堂ふみが、いかにもどこにもいそうな親しみの感じられる可愛さで、これまたよかった。
もう歳だからと肩を叩かれそうなポールダンサー(森下くるみ)はシングルマザー。幼稚園生の息子・涼太はPCを手放さず、Youtubで、かまってちゃんを見てる。
かまってちゃんのマネージャー、ツルギ。「業界30年」が口癖の上司から、キャンペーンのテーマソングを歌わせろ、メジャーデビューだ、いまやらなきゃ消えるぞ、などと言われるけれど、今のままの、かまってちゃん、にこだわり板挟み中。
そして、かまってちゃんのボーカル、の子は、リハにも出てこないで引きこもり中。
この4〜5つの話が同時進行で交錯しながら、コンサートまであと○日、とカウントダウンしていく。しかも、それぞれにスピード感がある。
それぞれの話の設定は単純で、大人や会社、社会など、既成の権威によって、これから伸びようとする若い可能性の芽をつむ、あるいは、抑え込む、というものだ。もちろん、若いからといって何をしてもいいというわけではないけれど、あまりにも制約が多すぎないか? というメッセージが聞こえてくる。「やりたいことぐらい、やらせてくれ」「好きなことがやりたいんだ」「既存の成功例なんかなぞりたくない」「命令されるのはまっぴらだ」・・・とかね。大人や先人には知識や経験があるだろう。でも、それじゃ、つまんないだろう。それは、壊すためにあるんじゃないか? そうやって、新しいものが生まれてくるんじゃないのか? と。
もちろん、それで成功する人は少ない。圧倒的な多数が失敗し、後悔する。でも、だからって親の言うことを聞いとけばよかった、なんて決して思いたくない。失敗したら、自分で尻ぬぐいぐらいするさ、という決意が見えるような気がするのだ。つまりそれは、監督のメッセージでもあって、やりたいことをやりなさい、でも失敗したからってくよくよするな、後悔だの責任転嫁なんかしないで、自分でオトシマエをつけろよな、という励ましでもあると思う。
という理屈は、女子高生とマネージャーにはあてはまるんだけど、シングルマザーのどうなんだろう。彼女にとっては、未練を捨てることが再生への道だ、と諭しているような気がする。結婚が上手くいかなかったからって、それは元亭主のせいだけじゃない。うじうじと責任転嫁をしていては、先はないぜ、と。その象徴的な部分が、友人たちとの合コンで、途中退席するとき「今度誘ってくれたら、もれなく子供がついて来ますから」と捨て台詞を言えるようになったことかも知れない。もう誤魔化さない。ありのままの自分で生きる。そう決意することで、人生が前向きになってくる、ということだろう。そうして、息子の涼太に対しても、いったんはPCを捨ててしまったけれど、改めてiPadを買って与える。他の子供と違っていても、その道に長けていればいいのだ、という親から子へのメッセージかも知れない。
そして、そういう、鬱屈しているみんなの心を解放してくれるのが、神聖かまってちゃん。そのコンサートに向けて、リードボーカルの の子は、引きこもっていてリハにも出てこない。コンサートはちゃんと開催されるのか? さて、ニコ生でオンエアだ! というところに各話が収斂し、盛り上がってく。もちろん、の子はちゃんと本番には出てくる。そして、女子高生には引きこもりの兄がいて、部屋から出てこないのだけれど、その兄もドアを開ける勇気が湧いてくる。なぜかっていうと女子高生は元カレにもらった神聖かまってちゃんのCDを兄の部屋のドアの下のすき間からそっと差し込んでいて、でもCDはずっとそのままだったんだけど、最後にそのCDが中に引き込まれていくのだ。そして、彼がドアの外にでてくる予感を感じさせて映画は終わる。なかなか感動的な映画であった。
女子高生が決勝で、苦労しながら勝つ展開もなかなか。そういえば女子高生は、彼氏が別の女の子を神聖構ってちゃんのコンサートに誘ってるを知り、彼氏にケリを入れるんだけど、それもかっこよかったね。将棋の強い彼女なんて、カッコイイのにねえ。
SR サイタマノラッパー2 〜女子ラッパー☆傷だらけのライム〜7/8キネカ大森2監督/入江悠脚本/入江悠
サイタマなのに舞台は群馬。第1作を見てないので分からんけど、この映画にも登場する2人の埼玉人のラッパーが主役だったのかな? で。2人は早世した伝説のタケダ先輩というラッパーの痕跡を求めて群馬にやってくる。その群馬5人の元女子ラッパーB-hackがいた! 彼女らはタケダ先輩の薫陶を受け継いでいるはずだけど、いまやではアユムは実家(こんにゃく屋)の手伝い。ミッツーは実家の旅館が破綻寸前で母親は夜逃げ。マミーは風俗店勤務。それに後輩のビヨンセの父親は選挙に出馬。クドーはツッパリ? でも心はまだラッパーのアユムだけは再結成・コンサートを目論んでて、4人を集める。で、コンサートの資金集めにバイトしたりするんだけど・・・てな話。
埼玉が群馬をバカにしている構造が、笑える。次回作は栃木? みたいなギャグもあるし。「わざわざ埼玉から群馬まではるばるやってきたんじゃねーか」に「なにいってんだ、クルマで30分だろ」も笑えた。ビヨンセの父親の選挙でウグイス嬢やると、ラップになっちゃったり。小ネタが素直に笑える。でも、この映画の構造は、差別される側の底辺の女たちの物語なんだよな。しかも、最後までどんどん堕ちていく。マミーは店長の子を堕ろして、でも別れられなくて一緒に夜逃げする。旅館の再建を考えていたミッツーも、結局、抵当に取られて東京に逃げ帰る。ビヨンセのオヤジは落選。アユムも、こんにゃく屋から抜け出せない。コンサートだって、できなかった。夢のない悲惨な話なのだ。でも、そういう現実はあまり感じさせず、陽気に笑って誤魔化せ的なつくりになっていて、笑いながらしみじみ考えてしまったりする。
そして、アユムの母親の三回忌(だっけ?)に、ミッツーとマミーが「昔世話になったから」と顔を見せる。「アユムちゃん、ラップやってんだって? 歌って見せてよ」と迫る親戚の男どもに顔をくしゃくしゃにしてうつむくアユム。そこにミッツーが乗り込んできて、ラップで元気づける。ガマンしてたアユムも、心の叫びをラップで語り出す。ウソも飾りもない現実の哀しさを・・・。いや、これがホントのラップではないのかなと思わせるような悲痛な叫びだった。
でも、アユムは凹んでいなかった。歳も28ぐらいだけど、まだまだラップは諦めていない。こんにゃく運びながら、それでも夢だけは抱きつづけている。なんか哀れさえ感じてしまうラストだけれど、そのサバイバルな感じは好感がもてるね。とくに、アユム役の山田真歩が、いかにも冴えない女子って感じで、ぴったり。
ミッツーの安藤サクラは、なんかテキトー感の漂う演技で、本気でやってんのか? って思うような気もした。まあ、あれが素なのか知れないけど、なんか力が入ってないように見えたなあ。
エンドロールで流れるラップは、そこそこ立派に聞こえるのだけれど、河辺で埼玉の2人とラップ合戦するときの歌は、なんかなあ、という感じ。同録のせいだろうか。ちゃんとスタジオ録音すれば、もっと聞きけるものになったんじゃないのかなあ。あまりラップになってなかったし。
そういえば、ラストでアユムの父親がアユムに「なんとかかんとかでよう、なんとか」と言ったら「お父さん、いまに、ラップになってたよ」っていうのもいいんだけど、もうちょいラップに聞こえるようにあざとくやってくれるとよかったかなあ。なんて、思ったりして。
マイティ・ソー7/12池袋東急監督/ケネス・ブラナー脚本/アシュリー・エドワード・ミラー、ザック・ステンツ、ドン・ペイン
原題は"Thor"。マーベルコミックが原作のSFなんだけど、北欧神話が盛り込まれている。最初に地球の現在。科学者のジェーン(ナタリー・ポートマン)らが天体観測してると人が降ってくる。一転して歴史経過の説明。かつて地球は氷の世界の宇宙人に攻め込まれていた。それを、アスガルドという星の宇宙人が救った。いまでもアスガルドと氷の国はいがみ合っている・・・みたいな感じ。Webの説明をみるとアスガルドは神の国らしい。神々は地上ではなく別の宇宙人で、その宇宙人を地球人は神だと信じ込んだ、ってなことか。
で、昔こてんぱんにやられた氷の国の連中が、アスガルドの王宮に忍び込む。大切な何とかいうのを奪い返そうとしたのだが、早期発見される。これに王の息子で喧嘩っ早いソーは、仕返しだ! と弟のロキと友人3人と氷の国へ行って大暴れ。それを父のオーディンが仲裁し、ソーは地球に追放される。で、最初に空から降ってきたのがソーだった、というわけだ。一緒に放り出された小槌があるんだけど、それが地面にめり込んでて抜けない。というところに政府の秘密組織がやってきて、ジェーンの研究データを奪い、小槌も確保。そこにソーが乗り込んで抜こうとするんだけど、彼も抜けない! 剣が抜ける抜けないとかって、ゼルダの伝説みたい。まあ、あれも神話世界からの引用なんだろうけど。
友人たちはソーを救おうと地球にやってくるんだけど、実は裏切り者は弟のロキだった! しかしねえ、ロキは実は氷の国の孤児で、それを引き取って弟として育てられてんだよ。けれど王になるのは兄のソーだからって氷の国のボスと結んでソーを陥れようとしたらしい。暴れん坊のソーが実はいいやつで、思慮深そうなロキが悪人。やっぱり、もらいっ子はなあ、っていうストレートな展開は、神話によくあるパターンで、古典的すぎないか? 悔悛して父や兄に謝り、マジメになるとか、まあ、それもよくある王道な展開だけど、ひねりがあってもよかったような気がする。
デストロイヤーっていう名前の巨人ボットが、ロキによって地球に送り込まれた辺りで、少しうとうとしてしまった。だって話に深みがないんだもん。てなわけで、気づいたら小槌は引き抜かれていて、ソーが暴れていた。その小槌で地球への通路をたたき割ってしまい、ソーは地球に戻れなくなってしまう。実はジェーンに恋してしまい、戻ってくる約束してたのにね。って、これもよくある展開だなあ。新鮮味がない。
で、エンドロールの後に「ソーはアベンジャーで戻ってくる」というようなクレジットがあり、サミュエル・L・ジャクソンが登場する。そして、宇宙に堕ちていった(?)はずのロキも生きている! って、これは続編の紹介なのかね。よくわからんです。
ソーの友人の一人に浅野忠信がでてくる。英語能力のせいか他の役者とほとんど絡まず、台詞もぼそっとしゃべるのがいくつかあるだけ。いてもいなくてもいいような役どころだった。残念。
ソウル・キッチン7/13ギンレイホール監督/ファティ・アキン脚本/ファティ・アキン、アダム・ボウスドウコス
原題も"Soul Kitchen"。始めどこの映画か分からなかった。主人公はアラブっぽい顔立ち。文字はデンマーク? いやまて、ドイツ語か。すると、ドイツのトルコ移民の話だな。音楽はブルガリアのジプシーみたいだし。てな理解でいたんだけれど、後からWebで見たらなんとドイツのギリシア移民らしい。ときどき「ギリシア!」と呼ばれたりしていたのは知ってたけど、ギリシアか・・・。顔がわからん、あの辺りは。製作国は独/仏/伊らしい。ふーん。主演のアダム・ボウスドウコスは、脚本にも参加している!
でその、ギリシア移民でレストラン経営者のジノスが腰を痛める中、兄のイリアスが日帰り仮釈放になってジノスを頼ってくるは、つきあってる彼女は仕事で中国に行っちゃうは、新しく雇ったシェフの料理はいままでの常連の口に合わず客が激減するは、昔の同級生がしつこく店を売れとせまってくるは、どたんばたんしっちゃかめっちゃかに話が進行する。もの凄い登場人物なんだけど、これがみなちゃんとキャラが立っていて、一度見たら忘れられないほどに造形されている。テンポも早く、一瞬も飽きさせない。しかも、時間は約100分。昨今の日本映画の、ムダなシーンばっかり積み重ね、時間ばかり長くて退屈な映画と比べたら、雲泥の差。それぐらい魅了されてしまった。
ストーリーを追ってもしょうがない。人物で追っていこうか。
ジノスの彼女は大富豪の娘らしい。じゃ、ドイツ人? よく分からん。最初のうち、上海とはskypeで交流。「裸が見たい」とジノスが言うと、ぱっと脱いでくれる。よしっ、ってパンツ脱いで・・・と見たら、向かいのビルから覗かれそうなのでやめてしまった! 「上海に行く」といいつつ、なかなか行かないジノスに飽き飽きしたのか、どーやら中国人の彼氏をつくってしまったみたい。だから女ってやつは・・・。でも、最後に彼女の家の資産がものを言うのだよな。
兄貴のイリアスが、中途半端な悪党で。捕まったのは盗み。でも、通いで外出できるようになった。勤め先が必要だからとジノスに頼み込んだわけだ。「こんな兄貴に・・・」という躊躇が見えるのがオカシイ。仮出所中も、昔の仲間2人と行動し、しょっちゅうあれこれこまめに盗みを働くマメなところがあるのが笑える。でも、ジノスの不安は的中し、最後はとんでもないことになってしまう。それでも兄弟の仲がそんなに悪くならないのが不思議。西洋流なんだろうか。
本来は冷製の料理を、客に温めてくれと言われ、できないと断ったおかげで店を首になった職人気質のシェフ。彼を雇ったはいいけど、これまでの客が納得しない。カツとかコロッケが、やっぱ労働者は好きなんだよなあ。洒落た料理なんて・・・と、一斉に出ていってしまうのがおかしい。でもま、ジノスはこのシェフから料理の基本をたたき込まれるのだけどね。
居候みたいなジジイ。ジノスのレストランは倉庫を改築したみたいに広い。その一角に、手づくりボート(?)をもってるジジイを住まわせている。このジジイ、ついぞ家賃を払ったことがない。落語に出てくる店子みたいなやつだ。いい味になってる。
同級生は、不動産屋。ジノスのレストランの敷地を開発業者に売りつけて一儲けを企んでるんだけど、ジノスは絶対に「売る」といわない。なので、食中毒を出した、なんてウソ電話を保健所にかけたりする。そうとうなワルだ。
税務署員が、督促に来るんだけど、ジノスには払えない。この税務署員がオバチャンなんだけど、なーんと、話の展開にうまく使われている。パーティの料理に媚薬が使われ、同級生の不動産屋とやっちゃうのだ。で、翌朝になって後悔し、不動産屋に仕返しを・・・。人を小道具というか伏線に使うような手法が、この監督、うまい。
レストランには女店員がいるんだけど、鼻がつぶれたような感じで、ブスではないが美人でもない。理由は分からないけど大きな部屋に住んでいて、画家をめざしているんだけど、実は不法移民らしい。この得体の知れなさのスケールが楽しい。
腰が痛いので、ジノスはマッサージにかかるんだけど、これが妙に色っぽく可愛いマッサージ師。ジノスも腹を触られてて、「うつぶせになりたい」とカメラが引くとパンツが山になってる。マッサージ師は「健康な証拠よ」みたいに言うんだけど、これも笑える。気になってたマッサージ師は、ジノスを整体師に紹介する件でも登場するんだけど、やっぱり美人なのだ。そうして、ジノスが彼女に振られ、そうして最後に1人、店に招待する女性客は、このマッサージ師だった。おお。やっぱり! って、ちょっと予想が当たって嬉しかった。
てなわけで、ジノスは大衆食堂から脱皮しようとしたけど客が入らず。でもスクラッチDJみたいなスタイルにしたら若い客が押し寄せて、料理も大好評。改装して保健所の要求も満たし、税金も払えて万歳! というところで、バカ兄貴が博打で不動産屋に借金して店を抵当に取られる。だけど、不動産屋は税務署オバチャンのせいで刑務所入り。店が競売に! 金は元カノに借りよう。200万ユーロ! 200万15ユーロ! ライバルの開発業者が薬と間違って飲んだボタン(?)のせいでむせてる間にジノスが競り落とし、めでたしめでたし。あとは、店にマッサージ師の彼女を呼んで・・・。よかったねえ。
わたしを離さないで7/13ギンレイホール監督/マーク・ロマネク脚本/アレックス・ガーランド
原題は"Never Let Me Go" 邦題はそれを訳したものなんだろうけど、誰に対していっているのかよく分からんな。「誰か私を助けて」みたいにも読めるんだけど、原題・・・。で、予告編はちょっと見た。キャリー・マリガンだぜ! ってなわけで、主に彼女目当て。予告では青春群像劇みたいな印象だったけど、始まるやいなや「あれ?」となる。だって「1967年、人間の平均寿命は100歳になった」なんて字幕がでるのだ。どういうことだ? ひょっとしてSFか? で、過去に戻って寄宿学校の様子になるんだけど、1973年(ぐらい)にしては古臭い。生徒は外の世界に触れることもなく、隔離されているらしい。ん? ひょっとしてレプラとか、伝染病の罹患者たちなのか? というわりに、買い物ごっこをしたり、社会生活の基本も学んでいたりする。なんなんだ?
実は、この寄宿学校の部分は退屈。まだ子役がやってて、12、3歳の様子でキャリー・マリガンでてこない。しかも、事件などもなくドラマ性が薄い。せいぜい、キャシー(主人公)とトミー(いじめられっこ)が相思相愛っぽいところにルースが割り込んで、トミーを自分のモノにしてしまう、ぐらい。なので、寝ちゃうかも知れないな、この気怠さ何もなさは・・・などと思っていた。
で、そんなときに校長(シャーロット・ランプリング)が「提供」とか「終了」とか変な言葉を使って生徒に説明を始めて(んだっけかな)、しかも、件の学校には18歳までしかいられないので別の場所に移るということになって。このあたりで、この話の枠組み=設定が見えてきた。なーるほど。そういうことか。で、こっからキャシーはキャリー・マリガン、ルースはキーラ・ナイトレイ、トミーはアンドリュー・ガーフィールドが演じることになる。
彼らはクローンなのだ。しかも、臓器提供者として生まれ、18歳を過ぎると随時提供が発生し、3〜4回の提供後、終了=死ぬことが運命づけられている。18最以後はクローンたちが共同で生活するドミトリーみたいなところに住み、一緒に街に出かけたり、一般社会とも接触することができるようになる。けれど、次第に離ればなれになっていく。
クローンは、志願して介護者になることができる。介護者は提供者の世話をしたり、事後のフォローをしたりする。でも、提供から逃れることはできない・・・。
そうやって1995年ぐらいに、介護者のキャシーは、既に2度提供し、ボロボロになったルースと再会し、2人てトミーを探しだす。トミーもすでに提供を済ませており、次がいつ来るか分からない。というとき、クローン仲間が話していたことを実行に移すことにする。クローンが本当に相思相愛なら、申告すれば提供までの期間を3年伸ばすことができる、というものだ。ボロボロのルースは嫉妬からトミーを奪ったと告白し、しばらく後に次の提供を行ない、終了する。
キャシーとトミーは、ルースから教えてもらったかつての校長の居所へ行くのだけれど、その、申告すれば3年猶予ということは噂で事実ではないと知らされる。むかし、生徒に書かせた絵をギャラリーにもって行っていたけれど、あれは絵から真実性が読み取れるからではなく、クローンにも心があることを外部の人間に知らせるためだった、とも言われる。
トミーは最後の提供を行ない(というこれが、冒頭のシーンにつながる)、しばらくしてキャシーにもあと1ヵ月後ぐらいに提供するよう命令が届く・・・というところでオシマイ。
ごくフツーの、ちょっと暗い青春ものみたいな描き方で、SF臭さはほとんどない。でも、その分、ドラマがないのでいまいち感情移入できなかったりする。最初から「寿命が100歳」みたいにバラさずに、寄宿学校での少年少女の交流をもっとロマンチックに、冒険譚なんかも交えて描き、観客がすっかりハマってしまったところで、実は彼らはクローン・・・って種明かしした方がドラマチックになったんじゃないのかな。
臓器提供者として運命づけられたクローンの哀しみみたいなのを淡々と描いているのだけれど、みんな大人しいなあ、という気がしてしまう。普通に育てたら、自分の運命に疑問を持つやつ、逆らうやつ、逃げるやつもでてくるんじゃないのかな。そういうやつはロボトミーしちゃうとか、何らかの刷り込み教育(宗教?)するとか、そんな描写は要らないのだろうか? まあ、そんなことをすると、どんどんSF臭さが増えていって、情緒的な表現からはかけ離れていくのだろうけど。でも、何か物足りないところがあった。
キャシーの子役はキャリー・マリガンに似ていたけれど、ルースのキーラ・ナイトレイはかなり顔が違っちまってる。ルースは子役の子が頭よさそうで可愛かったんだよなあ。
原作はカズオ・イシグロだって。へー。
あぜ道のダンディ7/14テアトル新宿監督/石井裕也脚本/石井裕也
久々にどうしようもない映画を見た。昨日「ソウル・キッチン」を見たので、どうしても比べてしまう。最初のうちは「このカット要らない」「台詞がくどい」「この台詞要らない」「台詞が説明的すぎ」「宮田宮田って、名前ばかり呼ぶな」とか突っ込んでた。でも、のべつなので飽き飽きしてきて、中味を考える。けど、どうやったって主人公の宮田(光石研)って人間がバカにしか見えないし、こんなバカとつきあってる中学以来の同級生真田(田口トモロウ)はアホである。そもそも映画のテーマにもならんようなことばかりだろ。くだらねえ。
宮田淳一、中卒、トラックの運転手。前橋辺り。50歳ぐらい。妻は10年ぐらい前に他界。受験期の息子と娘あり。・・・が、胃痛を胃がんと間違えて悩む。唯一の友人は真田。5年介護した父が亡くなり、親の遺産で食べている。介護疲れの妻に逃げられた。・・・という設定以上に話は膨らまないし、深まらない。
そもそも出てくるエピソードが類型的。子供たちが話さない。「洗濯物を一緒に洗うな」と娘にいわれる。息子はゲームばかり。と、居酒屋で真田に愚痴り、ちょっとでも反論されると怒鳴り出す。ちょっと性格おかしいんじゃないか? この宮田っての。
思春期の子供が親と話さないなんて当たり前。宮田の過干渉の方が異常。娘の部屋に入って調べたり、変だ。果ては娘をつけたりして。しかも、娘を尾行するのにどこで待ちかまえてるかといったら、なんと娘の学校の正門横なんだから笑える。アホか。
ゲーム機もプリクラも知らないやつがどこにいる。みんな「機械」と呼ぶのも、変だろ。子供2人がどこを受験しているのかも知らない。学校名を言われても、どこにある学校なのかも知らない。あんた、受験料だしてんだろ? いくら中卒だって、子供の将来について関心がなさ過ぎなのも変。たいした給料じゃないのに「金はある」と子供たちに威張ってみせて何になるってんだ。1浪の息子と現役の娘が一度に入学したら、初年度だけで300万ぐらいかかるだろ。それを、息子が「もう手続きしてきたから」って、それって、お金を振り込んだってことだよな。それを父親は知らないのか? 変だろ。もつとおかしいのは、子供2人が東京の大学で、一緒に住まわせないのも変。ふつう、兄妹で一緒に住むだろ。
というように、何から何まで変。もしかして監督・脚本の石井裕也は、そういうことを知らないのではないのか?
最後の方で、実は子供2人は父親のことをちゃーんと気にしていたとか、息子はバイトしてたとか、息子は風呂なし四畳半に住むことにしたとか、親が気にするほど子供はバカじゃなく、ちゃんと育ってるということを見せてはいるけれど、そんなのも当たり前。どこにも、心に触れるようなところのないクソみたいな映画だった。
真田は、宮田の息子に「お父さんはダンディだ」というけれど、どこがどうダンディなんだ? ぜんぜんダンディでも何でもないだろ。そもそも、宮田自身は何を目的に、どう生きようとしているのか、ぜんぜん描かれない。冒頭で、会社に行くときに自転車で、競馬中継をぶつぶついいつつ到着すると「一着でゴールイン」とつぶやくのだけれど、彼自身は、何かで一着になりたいと思っているのか?
中卒と言いつつ、難しい言葉で説教したりするんだけど、それにも違和感。中卒を言うなら、なにかコンプレックス持っているとか、知らないことが多すぎるとか、なんか引け目があるとか、そういう図式をもってきてもよかったんじゃないのかね。
石井裕也は「川の底からこんにちは」の監督なんだけれど、どうしてこんなクズみたいな、なくてもなくてもいいような映画を撮ったのだろう? 「川の・・・」が、偶然だったのだろうか?
黄色い星の子供たち7/26新宿武蔵野館1監督/ローズ・ボッシュ脚本/ローズ・ボッシュ
原題は"La rafle."。どうやら「ユダヤ人の一斉検挙」という意味らしい。フランス/ドイツ/ハンガリー映画。
相変わらずのユダヤ人強制収容所の話である。まだまだ創られつづけるのだな。なんていうと「当たり前だ」と叱られそうだが、現在のドイツ人が少し気の毒だよな、という気にもなる。べつに、忘れろというわけじゃない。過去の歴史にしてしまわないぞ、という気持ちの強さに気圧されている、ということかも知れない。大量虐殺や侵略はナチ以外にもたくさんあるのに、延々とつくりつづけられるのは、ユダヤ人の話だけだからからだ。それが悪いわけじゃないんだけどね。
一種の群像劇だ。なので最初の20分ぐらいは登場人物のスケッチをかねて、当時の状況を描いていく。1942年。パリ。ユダヤ人は胸に星マークをつけなくてはならない。ヴァイスマン一家は、両親と息子2人、娘2人。だったかな? それと、母親が妊娠中の一家。隣近所の家族もいくつか描かれる。けど、ぐちゃくぢゃしてて、整理がつかん。それと、看護婦学校のメラニー(アネット・モノ)。そして、ヴィシー政権(ペタン首相ら)。ゲシュタポ。ヒトラー。これらが並行して進んでいく。最初に軸になるのはヴァイスマン一家で両親がかなりフィーチャーされる。奥さんがなかなか色っぽいので、さてどうなるのかな・・・などと。
一方の看護学校では、顔面に損傷を受けた場合の治療の説明をしている。生徒たちは、野戦病院での仕事が多くなるんだろうな。でも一方で、ユダヤ人生徒を教壇にひっぱりあげて、「ユダヤ人はかぎ鼻でもなければ・・・」なんて説明している。教師はユダヤ人に偏見がなさそうだ。でも、メラニーの周囲の人物は、以後登場しない(多分)んだよ。なんか中途半端。
よくわからんのが、ヴィシー政権とゲシュタポの関係。ヴィシーは、反ドイツじゃなかったよなあ・・・なんて、「カサブランカ」思い出しつつ、でも、ペタンはドイツとどういう関係あるいはどの程度の協力関係だったのだ? そういえばゲシュタポの偉そうなやつが1万人じゃ足りないとかなんとか言ってたけど、ペタンもゲシュタポもあまり掘り下げて描かれない。単に「機能」として描かれるだけなので、いまひとつピンとこない。
で、そのうち分かってくるのは、のちに台詞でも語られているのだけれど「民族浄化の意味では、フランスも共犯じゃないか」という主張で、これはこの映画に一貫して流れている。ドイツ兵よりフランス軍あるいはフランス警察の方が多く登場し、一斉検挙や護送、フランス国内の収容所の監視では、ユダヤ人にひどい扱いをしていることが描かれる。もちろんそれは占領下のパリの宿命であったろうけれど、ヴィシー政権下のフランスでも同じだったのか? というようなことになると、よく分からない。このあたりは、ヨーロッパの人たちは説明がなくても分かるのだろうけれどね。
困ったことにフランス人のキャラも、人間味のない人形のような描き方をされる。最初に匿ってくれた何人かの老人たち。太った店のオバサン(ユダヤに優しいのかと思ったら、本当はユダヤ嫌いだった!)。競技場の配管主任。通行証が偽物と分かっていながら、娘を外に出してやった警官。競技場に隔離されたユダヤ人に水を与えた消防士たち。それと、フランスの収容所の管理をしていた警官のボス。・・・いろいろ登場するけど、消防士と配管工ぐらいかな、人間扱いされてたのは。もうちょっと人間臭く描けなかったのか。もったいない。
ヒトラーも登場する。残されてる実際の映像をうまく利用しつつ、その前後の様子を描くような形で使われている。のだけれど、あえてヒトラーを登場させる意味はないと思うんだが・・・。登場させることで、なんか、話が軽くなってしまったような気がする。あんまり似ていなかったしね。
むしろ、思ったのは、いまさらながらの、ヒトラーはなぜユダヤ人を消滅させたかったのか、ということ。そういえば、そのことについて、正確には知らなかったかも知れないな、と。アーリア人が優生学的に優れているから、とかを主張したんだったよな。で、ユダヤ人はなぜ迫害の対象になったのだ? 一般的な迫害のされ方と、ヒトラーによる迫害は、同じだったのか? ああ。不勉強。
てなわけで、ドイツ人の手先となったフランス警察の手で、ヴァイスマン一家は他の多くのユダヤ人と共に検挙され、いったん、巨大な競技場に収容される。そこにメラニーが派遣される。同じ看護学校から何人か、ではなく、彼女だけなのが何か変。で、1万人以上いる競技場に、医師ダヴィッド(ジャン・レノ)が1人に看護婦が数人。で、あとから収容所に行くときに分かるんだけど、ダヴィッドもユダヤ人だったのね! わしゃフランス人かと思っていたよ。しっかし、ジャン・レノ、太ったね。戦火のユダヤ人があんな太ってちゃいかんだろ、という太り方だ。で、それまで迫害されるユダヤ人一家、および、妊娠中の母を失った少年ノノ(だっけ?)が中心に動いていたのが、軸が2つ(ヴァイスマン一家と医療班)になる。以後、競技場からフランス国内の収容所へ、ダヴィッドとメラニーもともに移る。このあたりは、よくある収容所風景で、後半になって、彼らはさらに国外の東の収容所へと送られる。のだけれど、ここに中途半端なヤマ場が設けられている。なんと送る当日になって列車が足りないからと、男、女子供が分けられ、さらに女から子供が引き離されるのだけれど、その引き離される様子が、いかにも残酷でひどいことのように描かれるのだ。
実をいうと、このシーンでは別の展開を予想した。男と女子供が分けられているところにドイツ軍が割り込んできて機関銃を空にぶっ放し、銃を持った兵隊が中に割ってはいる。むむ。連れていくのが面倒なので、半分殺しちゃうのか、と。でも、そんなことはなく、ただ、子供が母親たちから引き離されるだけだった。え? これがヤマ場なの? ちょっと萎えた。
そのちょっと前に、ヴァイスマン一家の長男ジョーが、もうひとりの少年と共に国内の収容所を脱出。すたこら逃げ出す。これがなんとも簡単に成功し、しかも、欠員ができたことがフランス警察やドイツ軍には察知されないのだ。それってありか? しかも、一緒に逃げる相手は、便所で一緒になっただけの少年。それも、逃げる直前になって初めて顔を合わせたような感じで描かれる。ううむ。なんか場当たりな展開だなあ。その2人が逃げる横を、東へ向かう列車が通過していくのだけれど、その列車に乗っているのが誰かはよく分からない。つまり、列車が足りないから別便で送ることにしたらしいけれど、男、女、子供、のどこから順番に送り出したか描かれてないからだ。
というわけで、1945年。パリ。行方不明者の写真が、広い場所に数多く貼り出されている。みな同じ体裁なので、どっかの組織が作成した行方不明者情報なんだろうけれど、だれがどう貼り出しているのかは分からない。そこでメラニーが働いている。そこに面会者。まんまと逃げおおせ、いまは親切な人の養子になっているというジョーとの涙の対面。さらに、メラニーはその場で、見覚えのある顔を・・・。ノノだった。連れている老人が言うには、列車から助け出されたのか駅にいた、と。でも、それがどこでの話かは分からない。フランス国内で乗車するときなのか。途中で停車したときなのか。ポーランドでなのか。なんか、曖昧。それよりノノが元気がないのが気になる。連れてきた老人も「この子の名前は分かるか?」なんてメラニーに聞いている。ってことは、ノノは自分の名前も分からなくなっているのか? いったいどうしたのだ? で、場面は変わって、養父母と遊園地にいるジョーなのだが、顔が虚ろ。ひょっとして、ここでジョーとノノが対面するのか? と思ったのだけれど、そんなことはなく、とても中途半端なまま終わってしまう。ううむ。
字幕で、最後に、列車で送られたユダヤ人は、ひとりも生きて戻らなかった、と書いていた。ん? ではなぜノノは戻って来られたのだ? あんな子供が。ひょっとして、列車に乗らなかった? どうやって?
ゲシュタポは、最初はフランス国籍のないユダヤ人を検挙、といっていたけれど、途中から変わったのか? そのあたり、説明してなかったけど。
アネット・モノは凛々しく美しい。けど、何か物足りない。ヴァイスマン一家の両親、とくに母親は美しいのだけれど、これも最後はフェードアウトしてしまうので、ちょっとなあ。最後は、キメてくれ! それとやっぱ、ゲシュタポやヴィシー政権、ユダヤ人を迫害するフランス人なども、表面的でなく描いて欲しかったね。まあ、いろいろ考えさせてはくれたけど。
ちいさな哲学者たち7/26新宿武蔵野館2監督/ジャン=ピエール・ポッジ、ピエール・バルジエ脚本/---
原題は"Ce n'est qu'un d?but"。google翻訳では「これはほんの始まりです」。フランス映画。
幼稚園の生徒に「哲学」の授業を採り入れ、その模様を撮影したものをまとめたらしい。しかし、見はじめてすぐ、こりゃ寝るな、と思った。その通り。15分ぐらいたったら眠っていた。一度目覚めてしばらく見ていたのだけれど、また眠ってしまった。それから起きて、最後の20分ぐらい見たかな。
最初は、「考える」「話す」なんていう概念を子供たちが自覚する様子が映されるのだけれど、正直にいってまどろっこしい。子供が「話す」という行為や言葉が思い浮かばず、口から何かをだす仕草をしたからといって、現場の教師のように「すごい」とは思えなかった。だって、そうだろう。幼稚園児は言葉を知らない。まして考えるのも、そんな得意じゃないだろう。個体差もあるし、成長度合いによっても違ってくる。じっさい、画面にいつも登場するのは6、7名の子供で、おそらく他の子供は対応できずに騒いでいたか寝てたかしていたんだろう。そして、話になりそうな部分をつないで、映画に仕立てた。だから、話の筋は通っているように見えるけれど、そもそも子供の会話や発想が際立ってるわけでもない。事件が起きたり、対立や失敗が起きたりするわけでもない。淡々と、幼児レベルの言葉になるかならないかの思考が繰り返されるだけ。そりゃ中には家庭のあれこれを素朴に話す子がいたり、幼児ならではの男女のもつれを話したりする場合もある。でも、それはもう、たんに幼いだけで、深みは特にない。そういうものだ、と思ってしまうと、興味はほとんど湧かない。そういうわけで、寝てしまったのだと思う。
そういうことより、現代フランスの家庭事情が少し見えて、そっちの方が興味深かった。たとえば幼稚園児の半分は白人じゃない。黒人系が1/4ぐらい。つぎに北アフリカっぽい人種。そして、他にアジアが少し。黒人も、母親が黒人という家庭が登場していた。で、子供同士で、どれだけ黒いか、という話になっていったりしていた。そうなのだ。教育されていない子供は、純粋に物事を見るのだ。中国人少女は「黒人は嫌い」といっていた。教師はそれを制止せず、話をつづけさせる。嫌いな理由は「暴力的だから」と。すると別な子が「そんなことないよ」という。「いや、殴る」なんて話も飛び出す。このあたりの感想も、まだ矯正されていない純粋な視点が表れているように見えた。もちろん、親が話していることを聞いてそれに影響されている、というのも少しはあるだろうけどね。
その他、「両親は結婚していない。だから結婚はしないほうがいい」だの「女同士で結婚はできないよ。そういう法則だ」なんていう子供もいる。すると教師が「法則って、なに?」と突っ込む。なんか、そりゃ幼稚園児にゃムリだろ。もちろん、教師が話を方向付けることがあまりないようなのはいいんだけど。もし、女同士でも結婚できるよ、なんて刷り込めば、変わっちゃうからね、考え方が。だから、幼児期にこういう「哲学」をさせることは、どうなんだろう、という気もする。ちょっとアブナイ気もするのだよなあ。
女性客を中心に割りと入っていた。オバサン連中は、こういうテーマが好きだからね。同類の映画では「ぼくの好きな先生」「パリ20区、僕たちのクラス」があるけど、「ぼくの好きな先生」は学校そのものや教師が対象になっていた。「パリ20区」は、あれは中学生だったかな。もっと考えがしっかりしてきていたから、刺激的だった。この映画のように幼稚園児というのは、ううむ、だな。
コクリコ坂から7/27キネカ大森1監督/宮崎吾朗脚本/宮崎駿
そういえばむかし、高校に木造の講堂があった。雨ざらしで手入れもされず、ガラスも割れて雨風に打たれて哀れな姿をさらしていた。そんな状態であったときは、さほど愛着を感じなかったんだけど、卒業してからそれが解体されてしまったことを知ると、途端に懐かしさともったいなさが感じられるようになった。建築に興味を持ち始めていたから、なおさらだ。同じような講堂があった別の高校ではそれをちゃんと保存し、いまじゃ指定文化財か何かになっているはずだ。古いものは要らないという単純な考え。コンクリートの新校舎がいい、という思い。それはもう過去のものになってしまった。むかしは、あんなものを保存しようなんていうと変わり者扱いされたけれど、いまじゃ、解体した方がいい、というと変な眼で見られるはずだ。それだけ価値観は変わっているのだろうと思う。そんなことを考えた。
時代は1963年。横浜の近く? 江ノ電みたいなのが通る港町だけど、後半になってホテルニューグランド近くから市電に乗って帰るシーンがあるので、あの電車は市電なのかな? 正確には分からない。松崎海は高校2年生。父親は早くに亡くなり、祖母と母、妹との4人暮らし。でも実家の洋館でアパート経営していて、朝夕はご飯づくりをしている。というのも、母が海外出張中だから、らしい。海は、毎日、亡くなった父親にむけて(?)信号旗をあげている。信号旗は、1枚1枚にローマ字が当てはめられているらしいことを初めて知ったよ。
学校では旧い木造の建物、通称カルチェラタンの解体計画が進んでいて、カルチェラタンを使用している文化部生徒たちが反対している。その文化部の、新聞部の風間俊に惚れてしまう。出会いは、「坊ちゃん」そのもので、俊が建物のポーチから飛び降りる、というもの。あまりの素朴な表現に、うわああああ。ただし、俊は以前から海の存在を知っていて、合図を送ってはいた。それは、毎朝、父親の艀で港までやってくる俊が、海の信号旗に返信しているからだけれど、ではどうやって見初めたかは描かれていない。つまり、飛び降り行為は、俊の海に対する示威行為であったとみてもよさそうだ。
宮崎アニメと比べて絵もいまひとつだし、動きもぎこちない。ううむ。これじゃなあ・・・。なんて思っていたのだけれど、中盤あたりから動きのぎくしゃくした感じは気にならなくなってきた。こなれてきたせいなのか、こちらが見慣れてきたせいなのか。どっちなんだろ。
その中盤には、海と俊が同じ父親の子ではないかという疑惑を俊が発見し、海との距離を置こうとする展開になる。・・・ざんねんなことに、この事実は見る前に耳に入ってきてしまっていたので、意外性はない。それより、どうやって解消するのかが気になったけれど、まあ、友人の子だったという妥当で想定内の結末になって、これまたひねりのない素朴なストーリー展開なのだけれど、素朴すぎて反論できません。それでいいんじゃない? って感じ。
カルチェラタン解体反対のために建物を掃除したり、学校の理事長に直訴しに行ったり、視察に来るという理事長を気をつけとコーラスで迎える生徒たちとか、あまりにも素直で純真な様子に、もう、なにもいえない。古き良き時代の幻影を見ているような気分になってしまった。
思い浮かんだのは池部良のでた「青い山脈」で、戦後間もない頃の旧制中学のバンカラな感じが、そっくりじゃないか。1960年代の神奈川に、あんな私立校があったかどうか知らないけれど、あったらいいな、が絵になってるわけで、それだけでも心を捉えるのかも知れない。
設定では、海の家は高台にあるんだけど、学校はさらにそのまた上にあるみたい。俊は、父親の艀で送ってもらっているのだけれど、いったいどこからやってくるのだろう? 三崎とかいってたっけ? それに、港から学校まで自転車って、ありゃ乗って上がるのはムリだろ。降りるのはラクだとしても、ねえ。
それにしても、話をつくったのが男だからかも知れないけど、お父さんは娘にあんな風に思われたい、のだねえ。女の人は、どういう感想を抱くのか、知りたいところではある。
いのちの子ども7/28ヒューマンラストシネマ有楽町シアター2監督/Precious Life脚本/---
"Precious Life"。イスラエル/アメリカ製作のドキュメンタリー。本編前になんとかいうジャーナリストがパレスチナ問題を説明するんだが、これがいい加減で。ホロコーストが起こったので、イスラエルが建国された、みたいなことをいう。おい。シオニズムは以前からあったろ。それより、ガザ地区やハマスの説明をしないと、この映画は分かりにくいと思うんだが、そういうことはしていない。あんな説明なら、要らんよ。
ガザ地区に住む夫婦の赤ん坊が、骨髄移植が必要と診断され、イスラエルの病院へ。医師やスタッフは献身的に行動し、夫婦の子どもや、ガザ地区に住む夫婦の兄弟の子供たち(甥や姪)の血液を検査し、適合者を見つける。移植が終わり、一家はガザ地区に戻るが、ガザ地区からロケット弾が撃ち込まれる度に、お返しの大量爆撃。その爆撃をくぐり抜け、赤ん坊は成長していく・・・。
イスラエル側の視点から描いているので、どうしてもイスラエル人の寛容さ、心の広さが強調される仕上がりになっている。それはしょうがない。割り引けばいい。
登場するイスラエル人は、医療スタッフ、撮影クルー、慰問の軍人も来るが、イスラエル人とパレスチナ人分け隔て無くやさしい。その様子を見ていると、イスラエル人は、イスラム原理主義の特定の連中、たとえば、ハマスなどは憎むが、一般のパレスチナ人、個人としてのイスラム教徒には敵意はない、という風に見える。
ところが、赤ん坊の母親であるラーイダの宗教観はとんでもないものであることが描かれる。彼女も、イスラエルとパレスチナの対立はなんとか話し合いで解決しなくてはならない、と思っている。でも、そもそも論になると、引かない。監督が「聖地を分けようか?」といっても、「それはない」と一蹴。そして、「話してもムダだからやめよう」と話し合いをやめようとする。そして、子どもが助かったら、殉教者にする、とも明言する。彼女がいうには、「命には意味がない。死は誰にでもやってくる。2人の子どもの死は、乗り越えてきた」と、フツーに話す。夫婦は、同じような病気ですでに2人の子どもを亡くしているのだけれど、その子供たちの死は仕方のないこと、と諦めている。ではなぜ、いま赤ん坊の命を救おうとしているのか? という話になると、論理性を失ってしまう。
夫のファウジーの方がイスラエルの立場を理解していて、あとから監督に「妻はそういうつもりでいったんじゃないんだ。疲れていたんだ」と、言い訳の電話をかけてくる。さらに別の日、ラーイダは、「殉教者といっても自爆じゃない。神が定めた日に聖地を開放するため戦うのだ」みたいな、具体性に欠ける弁明をするようになる。でも、最初にラーイダが言っていたのは、イスラム教徒は死を恐れない、ということで、それはそのまま自爆テロを連想させるような言い方だった。聖地を取りもどすためなら、誰が命を惜しむだろう? というぐらいの勢いがあった。それが一般的なアラブ人の考え方なのだろうか? それとも、ラーイダが過激なのか? よく分からない。
実は、僕も見ながら、聖地の解決策を考えていた。たとえば、聖地エルサレムは、イスラエルのものでもパレスチナのものでもなくしてしまえばいいんではないか、と。第三国が管理する非武装地帯のような感じで存在させるとかね。でも、それはパレスチナ人には絶対に認められないことなのだ。つまり、話し合いによる合意を求めつつ、譲歩はしない、ということだ。それじゃ、話し合いは上手くいくはずがない。
そういう、宗教上の立場というのを、この映画は浮き彫りにする。ただし、それがすべてのパレスチナ人に共通の考えであるか否かはわからないんだけどね。このあたりが映画の危うさで、そのまま受け取るべきかどうか、迷うところではある。
ラーイダは「なぜイスラエル人は好意的なのか?」としきりに監督に聞く。パレスチナ人にとってイスラエル人はすべてひとくくりで、個別の人間は見ない、ということを象徴している。これは、ハマスは悪だけれど個別のパレスチナ人は憎まない、というイスラエル人の見方と正反対なわけだ。こういうあぶり出し方によって「だからイスラム教徒は」というひとくくりの解釈が発生するような気がする。もちろん、そういう傾向はあるだろうけれど、果たしてほんとうにそうなのか?
ファウジーの兄が、血液型が適合した娘をガザからイスラエルにつれてくるのだけれど、2人の会話がまた恣意的だ。「ガザとは大違いだ。凄いだろ。立派だろ。この草は知ってるか? 芝生っていうんだ」「私も10日間、こっちの生活を楽しんでいくわ」というような感じ。娘は、骨髄を提供するためにやってきているのだから、ある意味で大手術につきあうことになる。それでも、そういう不安より、イスラエルの文明的な生活にあこがれているということを強調する。そして、娘の病院生活は、チラッとしか(骨髄採取のシーンが少し)映らない。ほんとうに彼女は文明に満足したのか? それとも、骨髄提供で体力が落ち、なにも楽しめなかったのか、それは分からない。
もちろん、パレスチナよりイスラエルの方が清潔でシステマチックで先進的だろう。でも、それに憧れているパレスチナ人ばかりではないことも事実だ。たとえば夫婦がイスラエルで子どもの治療をしてもらってることはガザ地区でも知れ渡っていて、そのことにたいする批判がWeb上でいろいろ書かれていたりする。でも、そういう声には負けない、とラーイダは言う。でもなあ、ラーイダの本心はいったいどこにあるのだ? 子どもの死は仕方のないこと、という宗教からの諦観を身につけている、という。でも、いま現在、治療しないといけない赤ん坊は何が何でも助けたい。ところが、その子が元気になったら殉教者にする。死は怖くない。それに、夫婦の子供たちの血液が適合せず、でも従姉妹たちに適合の可能性がある、ということを聞かされただけで喜び興奮し、失神してしまうほど赤ん坊の命が大切、と思ってもいる。母親としての気持ちと、イスラム教徒としての気持ち、同じガザ地区に住むパレスチナ人としての外向きの顔、もあるだろう。でも、どれがいったい真実に近いのか。まるで分からなくなってくる。
この映画を見終えると、やっぱり問題はイスラム教にあるように思えてくる。聖地の扱いについても、パレスチナ人が譲歩すれば即刻解決するのに、それができない。ロケット砲数発に対して、イスラエルがやり過ぎなくらい砲撃する、とはいっても、そもそもガザからロケット砲を撃ち込む方が悪いだろ、という話になってしまう。パレスチナ人にとってイスラエル人はみな悪人。でも、イスラエル人は個別のパレスチナ人は嫌いではない。・・・こういう文脈で、パレスチナ問題を合理的に解決しようとする。そう見えるよう、映画は編集されている。はたして、それをそのまま鵜呑みにしてよいものなのか。なんか、ちょっとだけ引っかかってしまう。
当然だけれど、パレスチナ人の生活が安定し、物質文明の恩恵を浴びるようになると、イスラム原理主義者は減少するのだろう。そうして西欧的な考えを身につけた人々も多くなっていくのだろう。とは思うが、原理主義者たちはそうならないよう、物質文明に触れないよう操作するのかも知れない。よくは分からないが、あらゆる手段をつかって抵抗するのだろう。そうすれば、ますますテロの頻度は高まるのだろう。
という具合に考えると、ラーイダの考えは原理主義に近くて、その他大勢のイスラム教徒は、それほどイスラエルに敵意を抱いてないのかも知れない。まあ、もちろん、ガザ地区で毎日のように爆撃を受けていればラーイダみたいな考えになるのもムリはないだろうけど。
でもなあ。やっぱりこの映画、イスラエルの心の広さばかりが強調され、パレスチナ人の狭量さが前に出すぎているようにも思うんだよなあ。それをどの程度割り引いて見るか。なかなか難しそうな気がするなあ。ううむ。難しい。

 
 

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