2011年8月

大鹿村騒動記8/1MOVIX亀有シアター7監督/阪本順治脚本/荒井晴彦、阪本順治
今年7月19日に亡くなった原田芳雄の遺作である。この映画の完成披露試写会に登場した原田はやせ衰え、頭髪もなく、往時を偲ぶ面影すらなかった。想像するに映画は半年以上前(おそらく去年の夏から秋にかけてか・・・)に撮影されたようで、まだ肉付きもよく元気な姿がみられた。こんなに早く亡くなるとはね。
どんな内容かほとんど知らずにみた。コメディだけど、根底には暗い部分が広がっている。笑ってていいのか? と自問するようなところがある。
善(原田芳雄)は、大鹿村で食堂(名前がディアイーターって、笑える)を経営。1人暮らし。そこに、治(岸部一徳)と貴子(大楠道代)がこっそりやってくる。善と貴子は夫婦で、18年前に貴子と治が駆け落ち。でも、貴子が認知症を患ったから「返す」と連れてやってきた。善と治はもともと友だちなので大げんかにはならないけど、突然のことに戸惑う。3人日後は村のイベント、大鹿歌舞伎の公演日。村の連中と稽古もしなくちゃならないし、貴子を押しつけられるは、さてどうなるか。という話。
大鹿村も大鹿歌舞伎も実在のものらしい。なので、素人衆も何気で映画に登場したりしている。だからというわけではないんだろうけど、画質はかなり悪い。まるで素人が撮ったんじゃないかと思うような、ライティングもテキトーでメリハリのない場面もたくさんでてくる。困ったものである。
台詞が抜群にいい。軽くかわす会話に生活感がにじんだり、関係性が想像できたりする。台詞はつまりエピソードにもつながっていて、面白い小ネタが満載。前半は、くくっ、と要所で笑わせてもらった。たとえば治の寝言で、「お客さん。道案内してください。世田谷は難しいんです」とかいうのがあった。これだけで治がタクシー運転手だと分かる。上手い台詞だ。役所の娘・美江(松たか子)は、東京に行ってしまった彼を思っているのだけれど、それを茶化して善が「木綿のハンカチーフ」を歌うのだけれど、美江はぜんぜん分からない。年齢差がすぐわかる。ほかにも、何気ない台詞で、なるほど、ふふふ、っていうのが盛りだくさん。大きな物語のうねりを、小さな流れが織りなしていく。
役者も、いい感じのがそろってる。佐藤浩市、三國連太郎、石橋蓮司、小野武彦、でんでん、小倉一郎・・・。ま、瑛太と富浦智嗣はよくわかんないけどね。富浦智嗣の、性同一障害という設定は、何をいわんとしたのだろう?
後半は、郵便局員の佐藤浩市がケガをして、貴子が昔演じた杵柄で急遽代演! となるのだけれど、歌舞伎の上演場面になると弾け具合がゆるくなってしまう。急にマジメになってもしょうがないと思うんだけど、「六千両後日文章 重忠館の段」をちゃんと見せたかったのかね。貴子の道柴も凄みを感じないし。なんかちょっとトーンダウンしたのがもったいない。
てなわけで歌舞伎も成功のうちに幕が降りたのだけれど、それで映画が終わっちゃっていいのか? だって、ときどき貴子は現実に戻ったりするけれど、おおむね自分が誰か、この世がどうなっているかも分からなくなりつつある。そんなボケ女房を押しつけられで、善だって70歳前後。どうするんだ? 治だっていつまで村にいるわけでもなし。怪しい不安感が漂ったままの終わり方だ。瑛太と富浦の行く末も、佐藤浩一と松たか子の運命も、リニアモーター賛成派vs反対派の決着も、みーんなペンディング。予兆さえ見せずにみな中途半端に放り投げてしまう。騒動は、まだ始まったばかりではないか。
エンディングテーマは、忌野清志郎だった。なんだか鎮魂歌のようではないか。
ハリー・ポッターと死の秘宝 PART28/2上野東急監督/デヴィッド・イェーツ脚本/スティーヴン・クローヴス
原題は"Harry Potter and the Deathly Hallows"。見たのは2D版。ハリー・ポッターシリーズ最終章の後編だ。「賢者の石」「秘密の部屋」あたりはよかった。「アズカバンの囚人」であらら・・・となって、「炎のゴブレット」以降は途中で寝るようになり、「不死鳥の騎士団」「謎のプリンス」「死の秘宝PART1」とそれは変わらない。なので、ストーリーもよく覚えてない、というより見てなかったりするし、分からない人物がいつも登場する、という体たらく。じゃ、見なきゃいいじゃないか、という話だけどね。あの、闇の世界のヴォルデモートの封印が解け、表に出てくるようになって話がどんどん暗くなり、つまらなくなっていった、っていう印象しかない。1話ごとの完結する話もなくなり、盛り上がりや見どころも失せた。・・・というのは私の印象だけなのかも知れないが、まあ、要するにどーでもいー話になってしまった。しかも、3人組はどんどんオッサンオバサンへと成長していって、あどけなさや可愛さのかけらもなくなった。ヴォルデモート以外のドラマがなくなって、登場する人物の造形もどんどん薄っぺらになっていく。チェスの駒のように役割を果たしてはいるけれど人間が描かれなくなり、面白みもなくなっていった。それでも公開ごとに話題になるのが不思議でならなかった。いまでも不思議だけど。
ヴォルデモートがなんで復活したのか、ハリーの両親との関係は、なんてことはすっかり記憶から欠落している。あるいは知らないままだ。スネイプ先生はやっぱり悪だったのね。でも、この映画では幼い頃からの記憶が描かれていたけど、ありゃどういう意味なんだ? とかなんとか、分からんことだらけで興味も持てない。やっぱ、寝ちゃうよなあ。
それに、魔法使い同士の戦いなのに、なんかスッキリしないところも多かったりする。銀行にもぐり込むのに、面倒な工作をしてたけれど、行員に魔法をかけたら愛想がよくなっちまった。だったらはじめから行員すべてに魔法をかければあっさり金庫に入れるじゃないか、とか。金庫の中のものが突然2つに分割して溢れはじめるけど、あれってきっかけは何? それに、分割が止まったのはなぜ? とか。箒があれば飛べるのに、たいていの連中は歩いたり落っこちたり、なんか変じゃね? べラトリックス(ヘレナ・ボナム=カーター)って強いのかと思ってたら、なんてことのない教師と戦って、簡単に破壊されちまう・・・って、ありか? 銀髪のドラコ、3人組に助けてもらって悔悛したのかと思ったら、そうでもないみたい。かといって刃向かい続けるわけでもなさそう。どういうこと? しかも、19年後の場面では、ドラコも息子を学校に送り込もうと駅にやってきている。ううむ。あのさ。ヴォルデモートが消滅して、では、彼に付いていた多くの賛同者たちはどう裁かれたのだ? お咎めなしなのか? などなど、これまでの流れを知らずとも、疑問があちこちに湧いてくる。
そうそう。ロンとハーマイオニーが突然キスしたのには驚いた。あれって、これまでに兆候があったのか? あったんならいいけど、なんか、いきなりなので、おいおい、という気分だった。で、ハリーはロンの妹と結婚したわけ? なんか、冴えない終わり方だなあ。ま、いいけどね、どうでも。
しかし、ヴォルデモートの目的、野望って、いったい何だったんだ? ヴォルデモートに味方した連中は、どうやってオルグされたんだ? ヴォルデモート一味になると、どういう特典がついたんだい? 疑問は尽きないけれど、まあ、どうでもいいことではある。ははは。
トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン8/3上野東急2監督/マイケル・ベイ脚本/アーレン・クルーガー
原題は"Transformers: Dark of the Moon"。見たのは2D版。この映画も、これまで寝てたなあ。なので、寝る覚悟はできていた。そして、始まって50分ぐらい経って睡魔が訪れ、かれこれ10分余り寝てしまった。その後はなんとか目が開いていたけど、2時間目ぐらい、クライマックスが延々とつづく最中、ふっ、と一瞬また目をつむってしまった。やっぱ、人間ドラマがない映画は興味を維持できない。
最初のつかみは悪くない。惑星サイバトロンでのオートボットvsディセプティコンの戦い。敗れたオートボットが宇宙船で脱出するが、月に不時着。それを察知した米ソが月面着陸競争を繰り広げ・・・という件は、実写映像もまじえてドラマチック。でも、ドラマはそこまでで、あとは大半がゲームの画面みたい。
主人公のサムは同じだけど、ヒロインが違ってる。あのケバいミカエラは登場せず、ロージーという知的な女性が恋人として登場。でも、なんでこんな美女がサムと? という疑問はあるよな。前回までの功績で大統領から勲章をもらい、そのときホワイトハウス内でであったという設定なんだけど、なんで彼女はホワイトハウスにいたんだ? どうやってお付き合いが始まった? 大学卒業しても就職先が決まらなくて恥ずかしい思いをしているサムは、女運だけは強いらしい。
オートボットたちは地球の平和を守るために活躍しているらしいが、それって単にアメリカの手先になってるだけ。アラブ攻撃してどーなるってんだ。この一時をみて、オートボットの知的レベルが分かるな。それはいい。アポロ11は不時着した 宇宙船から柱とかいうのを持って来ていて、それをオートボットには隠していた。それがバレて騒動が起こるんだけど、この過程があまりよく分からなかった。柱はたくさんあるはずなのに、アメリカが回収したのは6本ぐらいだっけかな。さらに、宇宙船に誰が乗っていたかはオートボットは知っていて、なんとワープして月まで行っちゃうのだ(たしかそうだったよな)。そこで発見したのは、虫の息のセンチネルを発見。地球に連れて帰るが、これが今回の曲者で、サイバトロン復活のためディセプティコン側についていたのだ。てなわけで、柱をめぐって戦いがはじまる。のだけれど、なんでセンチネルはたくさんの柱をもってたんだ? その柱をつかって月にいるディセプティコンたちを地球にワープさせたりするんだけど、そのために何10年も寝たふりをしてた、ってことかい? バカじゃね? ディセプティコンと一緒に地球を乗っ取りたいなら、さっさと地球にやってくりゃいいじゃん。そこそこ大きな母船もあるのに、なんで時間と手間をかけなくちゃならないんだ? 意味わからん。
で、戦い終えて、といってもシカゴだけの話だけど、それでめでたしめでたしといってる。でも、全世界に設置された柱はどうしたの? 柱をもっていったディセプティコンたちだって、まだ地球に残っているだろうに、そのままにしておいていいの? とか、よく分からんことが多い。困ったもんである。
サムの彼女ロージーの上司が、ディセプティコンに心を売り、政府も騙していたらしい。それで資産を大きくしていたらしいが、そんなことをする地球人ってあるかね。「ディセプティコンに支配される地球で、支配される人間のトップになりたいのか?」なんていわれていたけど、まったくその通り。変じゃね?
それにしても、最初から最後まで、トランスフォーマーたちがガチャガチャ動き、戦い、変身し放題。これが2時間半以上もつづくのだ。飽きちゃうよ。やっぱ、映画は人間ドラマがないとな。このシリーズだって、1作目の半分ぐらいは人間が主の話だった。それが、もう、3Dのためなのか知らないが、ずうっと見せ場がつづくみたいな感じで、疲れる。もういいよ、という気分だ。
サムが面接に行く会社の上司(採用担当?)に、ジョン・マルコビッチ。でも、後半は登場しない。なんかもったいない。
ちゃんと伝える8/4キネカ大森3監督/園子温脚本/園子温
あの「愛のむきだし」と同時期かちょっと後に、こんなストレートな表現を含む映画を撮っているなんて。どういう監督なんだ、園子温は。まあ、後半、というか、ラスト近くはむちゃくちゃになって、笑ってしまうほどの異常さは見せてはいるんだけど、おおむね直球だからなあ。
豊川稲荷参道近く、というから、愛知県豊川市か。その参道入口がしきりに登場する。おおきな看板用の板が立っていて、金鳥やオロナイン、学生服のホーロー看板が何枚もゴテゴテと貼り付けてある。これは意図的なんだけど、どういう意味なんだろう? 時代はまったく合わない。でも、懐かしい。コレクターアイテムにもなっている。ではねこの映画とどういう関係があるのか? この映画自体が時代錯誤で懐かしさを感じる珍しい内容だ、とでもいいたいのだろうか? よく分からない。あと、何度も出るのが、主人公である北史郎の自宅の表札。これが場面転換でなんども登場する。この手の手法は昔の映画でよく使われていたけれど、最近はほとんどない。それをベタにあえてやる。それは何なのだろう? これも、現在のドラマとは、ちょっと違いますよ、というサインなんだろうか? これもよく分からない。
史郎は、タウン誌の編集部に勤める27歳。高校時代からつきあっている陽子(伊藤歩)と、そろそろ結婚も、と考えている。というとき、父・徹二(奥田英二)が胃がんで倒れる。ところが看病中の史郎も悪性のがんと発覚。父と約束していた湖での魚釣りをめざそうとするが・・・というお涙頂戴人情話にカタチを借りたマゾ青年のファザコン・死体愛玩話だったりする。
この映画は、いろいろと変な感じのところがある。母・いずみ(高橋恵子)の存在も、なんとなく薄気味が悪い。家で史郎と食事をする場面なんか、とても妖しい感じがしたりする。「悶える性感妻」みたいな展開が待っているのではないのかな、と、妙にそわそわしてしまうところがあるのだ。それに、いずみの規則正しさというのが、その神経質そうな雰囲気をさらに煽っている。たとえば毎日のように病院に行くのだが、乗るバスはいつも同じ。バスの運転手が声をかけるほどなのだ。この几帳面さが、また、妖しい。
父のがんも、変。フツー、がんで倒れるとはいわない。何か別の症状ががんが発覚、ということの方が多いだろう。でも、この映画はがんを心筋梗塞か脳梗塞のように扱ってしまう。なんか、強引すぎる病気の描写だ。徹二は胃がんの筈だが、手術したという説明はない。ベッドで退屈な日々を送っている、と紹介されるだけ。胃がんなら術後しばらくして退院、フツーの生活に戻りつつ、放射線治療となるんだろうけど、そういうわけでもない。むしろ、手遅れのがんで、淡々と死を待つかのような感じなのだが、闘病生活は描かれない。そんなことはどうでもいいから単純化したのだろうか。
突然倒れた父を、毎日のように見舞う息子・史郎も薄気味が悪い。一見して好青年だけど、心はひねくれているのではないかと想像できたりする。だって父親が教師をする学校に入り、父親が監督をするサッカー部に入ってしごかれ、全国大会で優勝した、らしいのだ。だから、ひどい恨みがどこかにあるはずなのに、そんな感情はおくびにも出さない。理想的な親子として穏やかに対話し、父親が「釣りがしたくなって釣り竿をかった。そのうち一緒に行くか」というアバウトな約束をかたくなに守り、挙げ句、とんでもないことまでしてしまうのだから。史郎の屈折した父親への愛情は、どういう経緯で生まれたのだろう。とても妖しい。
史郎には高校時代からつきあっている陽子という彼女がいる。結婚を前提につきあっているにしては、どーも性的な匂いが感じられない。陽子は、機能としての恋人がそこにいる、みたいな扱われ方でしかない。つまりまあ、後に史郎が告白するのだけれど、「俺もがんだ」といったとき、それを受け止める理想的な女性の姿として、そこに描かれた女神のような感じかな。余命幾ばくもない彼氏に、「結婚する。史郎の短い一生と、つきあう」といってくれるなんて、美しすぎるだろ。「ウォーク・トゥ・リメンバー」を連想するけれど、あの映画のような恋愛ドラマは、ここにはまったくないのだし。
自分が父より先に死ぬかも知れない、と医師からいわれる史郎。この反応が、素っ気ない。一瞬、視線を失うだけで、あとは平静。両親にも陽子にも打ち明けず、孤独や、迫り来る死に恐怖を抱いているようにも見えない。自分の死より、自分の死を父親に見せるのは困る、という主張の方が大きいように描かれる。なんかこれも、理想の息子みたいで、人間らしくないよな。どーもこの映画、感情に訴えることがほとんどなく、すべてがパターン化された意味の集合体のように見える。
父親が、倒れる寸前にみつけたセミの抜け殻。セミは、抜け殻で自分を主張している、というようなことをいっていた。確かに自分はここにいた、という証が抜け殻にはある、ということか。でもそれは、抜け殻でしかないのだよなあ。病院にいる自分は、抜け殻だ、ということなのかな。対して、史郎は路上に鳩の死骸を見つける。そして、近くの空き地に穴を掘り、埋葬する。ともに、実態や魂がいなくなった抜け殻を拾う、という体験をさせ、死を象徴させているつもりなのかも知れないけれど、なんかタルい。象徴としてのオブジェというだけで、それ以上の意味性はとくに感じられないのだけれど、どういうつもりでやったんだろう。手法としては初歩で、あけすけ露骨すぎると思うんだけどなあ。
で、史郎が願っていた通り、父親の方が先に死ぬ。その火葬場への道すがら、史郎は父と行く予定だった湖が近くなのを知り、運転手を追い出して霊柩車を運転して湖に向かう。火葬場は分刻みで予約が入っているのに、どうすんだ! と、思ってしまった。で、霊柩車で湖畔に着けて、自分一人で釣り糸をたらすのかと思いきや、湖のかなり手前で霊柩車を停め、棺から父の遺体をとりだし、背中に背負って湖まで歩いていく様子を見て、こりゃ大変なことになっちまった、と思った。「らくだ」のかんかんのうじゃないか。死人を弔うために、遺骸もつかってしまうという、落語のあれだ。史郎は父の遺骸をベンチに座らせ、一緒に釣り糸をたらす。にこやかに・・・。でも、たわいもない口約束を、そこまでして守る=実行させたものは何なんだろう? ひょっとして、少年時代は親らしいこともしてくれなかった父親に対する恨みが、まったく逆の行為を通して表出した、ということではなかろうかしらん。などと、穿ち過ぎな感想を抱いたりして。だって、一筋縄ではいきそうもない監督だからね。
そういえば、史郎が運転する車のナンバーが「5554」だった。これって、「go go go 死」を意識しているのかな?
死にゆく妻との旅路8/4キネカ大森3監督/塙幸成脚本/山田耕大
借金苦の清水久典(三浦友和)が、末期がんの妻・ひとみをつれて放浪するロードムービーだ。孫もいるような夫婦、その妻ひとみを石田ゆり子が演じるのが違和感ありすぎに見えた。だってまだ40そこそこ。若すぎるだろ。こんな妻なら、俺だって愛おしく感じるかもな、と。でも、ラストに、清水ひとみに捧ぐという一文と(1958-1999)に驚いた。ひとみは41歳で他界していたのか。実際の彼女がどんなかは知らないが、石田ゆり子とほぼ同じ年なのか。ううむ。この美貌はあり得るかも知れないわけだ・・・。しかし、40歳で孫がいる女性って、どうよ。
久典は4千万の借金で前途多難。でも、連帯保証人になったせいや、経営していたらしい紡績会社の経営不振もある様子。親戚は「自己破産しろ」というが「そんなことをしたら、ここじゃ暮らしていけない」と拒否する。ううむ。この時点で共感できなかった。石川県七尾という田舎はさておいて、見栄で自己破産を嫌がっていて、どうする? 術後間もない妻がいて、3ヵ月後に再発の可能性と宣告されていて、それでもなお、働き口をさがす? でも、就職できて年収500万としても、4千万返すにゃ20年以上かかるだろ。おまえ、いくつになる? そう思うと、いちばん被害額が少なく抑えられる方策を選ぶのが筋なんじゃないのか? と。
まずはひとりで、小型バンに乗って仕事を探しに行く。どっかの温泉宿で働いたか、フィリピン娘に貢がせたか、50万はできた。いったん戻って、ふたたび出かけようとしたら、ひとみが「ひとりは嫌だ」とだだをこね、一緒に出かけるハメに・・・。けど、常識的に考えて、結婚20年目の夫婦がこんなベタベタしてるのって、気味が悪くないか? しかも、妻は余命が限られている。県外に出て温泉宿をまわっても仕事はない。それなのに延々と兵庫や静岡あたりを点々として、結局、地元の近くの漁港に住み着く。久典がホームレスを見て嫌な顔をするシーンがあったけど、寝てる場所がクルマに変わっただけで、やってることは同じだよな。それに、何日も港に停まっていて、関係者から不審な目で見られないのが不思議でしょうがなかった。
まあ結局、ひとみはクルマの中で、走行中に息絶える。保護責任者遺棄致死という罪状で逮捕されるのだけれど、20日ぐらいで出られたようだ。ひとみが、「病院はいやや」といったことが認められたのかな。ってことは、洗いざらい警察でしゃべったってことなんだろうけど。まあ、それもこれも織り込み済みで妻との限りある旅を選択したのだから、しょうがない。そういう選択をする人もいるのだ、というぐらいで、どこにも共感するところはなかった。勝手にやってくれ、だ。
亭主を「おっさん」と呼ぶ妻・ひとみ。その彼女が、自分のことを「名前で呼んで」というのが、少し身勝手な感じがしたりした。まず、亭主を名前で呼んでやれ。
津軽百年食堂8/10ギンレイホール監督/大森一樹脚本/青柳祐美子、大森一樹
ベタで過剰な説明ゼリフ。大仰な演出。予定調和なストーリー展開。うんざりするな、こういう映画は。やっぱり大森一樹。映画的な面白さを期待する方が間違っているのは分かるんだけど、ここまですべてに田舎くさいと(別に津軽が舞台だからということではないよ)、退屈を通り越してやになってくる。
津軽から東京に出て来て、大道芸てで食っている陽一、同じくカメラマン助手の七海。偶然出会った2人がルームシェアすることになって。でも、津軽に帰らなくちゃならなくなって。で、最後は「やっぱり田舎がいちばん」と傷をなめあうお話。集団就職や木綿のハンカチーフの時代でもあるまいに、故郷回帰に踊らされたか、いやな臭いもぷんぷんする。事実、エンドクレジットに大学教授や政治家の名前もずらずら登場していた。けっ。
明治時代に、大森食堂を開業するエピソードが、並行して語られる。けど、こっちの話にはまったくドラマがない。はっきり言って、なくてもいい話だ。
その大森食堂の4代目が陽一。東京に出たけど仕事もなく、バルーンアーチストで食べているらしい。「就職できないから食堂を継ぎたい」と言ったにもかかわらず、父親に断られている、というのは変だろ。それに、大道芸ではそんなに稼げないぞ。そんななかで、あるところから「もっとバルーン教室をつづけて欲しい」と言われているのに「もう辞めるかも」と答えている不思議。陽一も、その父親も何を考えているのかよく分からんね。シナリオが悪い。
七海は25歳。師事しているカメラマンと不倫中。40歳も年が離れている、という設定だけど、大杉蓮は65には見えんぞ。で、そのカメラマンが脳梗塞(?)かなんかで倒れて。看病する奥さんの姿を見て、入り込むスキがない、と再確認って、バカか。そもそも、65歳とどういう関係なのかまったく描かれず、「写真を見て一目惚れ」って、台詞だけで語られる。それじゃ映画の意味がないだろ。しかもその65歳が、「七海ちゃん。最近、男の人と暮らしはじめたらしいね。泊まりにくくなっちっゃたな」なんて七海にいうんだぜ。25歳の愛人が若い男と…っていったら、それだけで焦るとか喧嘩腰になるとか、フツーだろ。
で、陽一の父がバイク事故して入院。呼ばれて1週間手伝うつもりが、だらだらと。しかし、立ち食いそばみたいなのに、「汁はいいが、麺がな」といちゃもんつける父親って…。麺だって軽く手ごねして製麺機に入れちゃうんだから、味なんて変わるもんじゃないだろ。陽一は「自分なりに変えてみた」というけれど、どこをどう変えるっていうんだ? そばなんて、変えようがないぞ。それだけじゃない。明治編では、津軽そばの鍵は焼きイワシの出汁、ってことになってた。麺のことはなにも言ってない。なのに、平成編では、父親は「汁はいい」と言い切り、麺に注文をだしている。これも変な話だ。
まあそんなこんなで、桜まつりに出店を出して成功させ、陽一は店を継ぐことに。七海はカメラマンへの恋は、ファザコンからきてただけ、と納得して、地元で写真を撮りつづけることに。…っていうけど、津軽で写真スタジオ開いて、何をどう撮って食っていくんだ? 七海の父親がやってた写真館を再開するらしいけど、写真館だった部屋が10年もそのまま放置されていたのは、なぜなんだ? 借りてたんじゃなくて、所有物だったのか? それで固定資産税を払いつづけてた? それともやっぱり賃貸で、ずっと誰も入らなかったのを借りたのか?
桜まつりに出店を出すのに、人手が足りないからって、陽一は友人や七海たちまで呼ぶ。けど、それまでは祖母、両親、姉しかいなくて店を開けていたんだよな。それなのに人手不足はないだろ。
大森食堂、津軽そばにいちゃもんつける客がいるんだけど、「これがそば? 東京じゃこんなのはそばとはいわねえ」みたいなことをオタクっぽいオッサンが言うんだぜ。あり得ないよ。まずくても、騒ぐような客なんて、この世にゃチンピラ以外いない。いったい、あの大仰な演出はなんなのだ? 映画的誇張? あほか。
その他、明治編で、「この子の親は死に、私の夫はいなくなった…」みたいな台詞を女が言うのだが、じゃ、幼い娘はあんたの娘じゃないのかい? そもそも、その娘が大森食堂の2代目なんだろ? それと、「津軽に店を出して、あんたの焼きイワシの出汁を待ってるんだ」みたいな台詞があるんだが、開店しちゃったのに出汁がない、で、何を出汁に使ってそばを出してるんだ? 現在のところは? と、ツッコミを入れたくなった。
その他にも、陽一と七海がいつのまにか相思相愛になって結婚するかのような描き方など、辻褄の合わないようなことはたくさんある。とキリがないのでやめよう。それにしても驚いたのは、野村宏伸という名前がエンドクレジットにあったこと。しばらく考えて、七海の父親のアシスタントをやっていたおっさんと気づいた。げ。なんて変わり様だ!
モールス8/10シネマスクエアとうきゅう監督/マット・リーヴス脚本/マット・リーヴス
原題は"Let Me In"。少女が主人公のホラーだろう、って思ってた。たぶん予告も見てない。昼飯後だったけど、ま、寝ないかも、な。と思ってたんだけど、冒頭から眠りかけた。救急車で運ばれる男…。なんか、雰囲気が違うなあ。おどろおどろしくないじゃん。ここはじっくり寝て、次の回で挽回するか、なんてね。ところが、次にいきなりの既視感が訪れた。雪の中庭。ジャングルジム。少年。転居してきた少年。あれえ? と見ていって分かった。これって「ぼくのエリ 200歳の少女」のリメイクじゃん。リメイクされるのは分かってた。でも、これがそうとは思ってなかったから。
ほとんどオリジナル通りだ。でも、オリジナルの「はかなさ」「危うさ」「いたたまれなさ」「宿命的な感じ」「エキセントリックな感じ」なんていうのは失われている。結局、ちょっと変わったヴァンパイア物扱いなんだよな。とくに吸血鬼のメイクアップや動きのCG(故意にだろうけど、動きがアニメっぽくてちゃちい)に、アメリカ映画っぽさがにじみ出ててる。
まあ、オリジナルと比べ泣けりゃ、そこそこの映画なんだろうけど。そうもいかない。やっぱり、アメリカとヨーロッパ、ヨーロッパでもスウェーデンだと、またちょっと違ってたりして、映画は奥が深い。それが、アメリカに行くと底が浅くなっちまう。ま、しょうがないけど。
少年オーウェン(コディ・スミット=マクフィー)と吸血少女アビー(クロエ・グレース・モレッツ)、ともに見た記憶があるように思ったんだが。クロエ・グレース・モレッツは、「キック・アス」の姉ちゃんだった。あのやんちゃが、こうなっちゃうの! コディ・スミット=マクフィーの方は、やっぱ見てないかも。この2人のキャラに引っぱられて見てられた感はある。
「ぼくのエリ」のときは、分からずに見ていたけど、今回はストーリーを知っているから、場面における心理状態まで理解しつつ見ることができた。意外性と言うより、頭の整理ってとこかな。でも、注文をつけるとすると、ラストシーンがいまいちだな。オリジナルの、ちっょと大きめのボストンバッグ(だったと思うが)と比べ、この映画ではバカでかい荷物、という風にしか見えない。あれじゃ、移動できないだろ! とツッコミを入れたくなるよなあ。
サラエボ、希望の街角8/11キネカ大森1監督/ヤスミラ・ジュバニッチ脚本/ヤスミラ・ジュバニッチ
原題は"Na putu"。何語だろう? 製作国はボスニア・ヘルツェゴヴィナ/オーストリア/ドイツ/クロアチア。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの話は、素人には分かりにくい。数年前に関連書を読んでいるんだけど、国がいくつもあって宗教もいくつもあって、それが民族間で争うようになって、ぐちゃぐちゃだ。むかしはムスリムが住む地域が飛び飛びにあったり、ひとつの村にムスリムとキリスト教徒が混濁して隣どおしだったりして、普通に生活していた。それが民族対立が起きると、ひと晩で仲違い。仇敵の如く罵り合い殺し合い、犯しあったりした。その経緯も、どの国がどーで、などというのはすっが頭から飛んでいる。なので、物語が進むにつれて記憶をたどりつつ、なんか見終えた。
実は内容までは知らなくて、サッカーに関する青春ものだったりするのかな? なんて思っていたら、ぜんぜん違った。
ルナは、スッチー。亭主のアマルは管制官なんだけど、仕事中に飲酒して6ヵ月の停職。偶然再会した戦友に誘われてイスラム教原理主義のキャンプに誘われて行くんだけど、あっという間に感化されてしまう。そんな亭主に愛想を尽かすルナ、というのが大筋なんだけど、最初は大したドラマも起きず、何が言いたいのか分からなかった。酒と煙草が好きでセックスだった大好きなアマルの堕落生活。でも子供が出来ないので人工授精を…なんていう話がつづくからね。でも、戦友に誘われ、キャンプでパソコンの先生をやるんだと1人で出かけてしまった辺りから、ザワザワ感が襲ってきた。そもそもルナは原理主義が嫌いで、アマルがキャンプに行くのも嫌がっていた。なのに、妻を置いて行ってしまうアマルには不満。で、しばらくして電話がかかってきてルナもキャンプに行くことになる。実をいうと、この過程がこの映画のいちばん弱いところで、アマルがキャンプに行く理由が明瞭には描かれない。たんに戦友の誘いであり、停職期間中仕事ができる、ぐらいなもの。ここにもうちょい説得力があると、もっと切れ味はよくなったかも。それと、アマルがキャンプに行く理由も、よく分からない。あんなに嫌がっていたのに…。ここも、もうちょい工夫すべきだったかも。でもまあ、それは小さな欠点かも知れない。
ルナを連れていくのは戦友の配偶者で、原理主義者らしく目が出るだけの黒のベール姿。それで連れていかれるんだけど、途中「携帯は切って。電池も抜いて。逆探知される」なんていうのだ。山中から湖を渡り、テント生活のキャンプへ。ここに至る経緯の、なんと怖い感じのしたことか。ホラー映画なんか及びも付かないおどろおどろしさがある。たとえるならば、オウム真理教みたいなカルト集団の本拠地に連れていかれる見たいな感じといったらよいのか。
キャンプでも原理主義は徹底していて、男女は必ず別れて生活する。衣装も強制され、ルナのイライラは限界に達してしまう。それで、1人先に帰ってしまうんだけど、いっぽうのアマルがどんどん原理主義化していく様子が生々しくて、これも怖い。
アマルが原理主義にはまる理由もあるんだろう。アル中、停職処分、種なしと言われること…。男として、いまひとつ女房に頭が上がらない感じ。日本でも新興宗教にはまるのは貧乏人と病人で、弱点を持っている輩がハマる。それと同じことが、イスラム教にもあるんだなあと、なんとなく納得してしまった。
それと、全編を通して思ったのは、同じムスリムでもレベルがいろいろあるんだな、ってことだ。ルナとアマルもムスリムだけど、酒も飲むし煙草も吸う。露骨にセックスも。それに違和感なく暮らしていた。アマルの実家でも、同じようなもの。それに比べ、原理主義の厳格すぎること。アマルはハマるにつれて禁酒はもちろん、婚姻前のセックスはダメだといいはじめる。イスラムの正式な結婚式をしないとダメだ、といいはじめるのだよ。さらに、ルナの家族に対しても「なんで故郷に帰らないんだ。故郷を奪還することが教えに従うことだ」みたいなことをいって顰蹙を買ってしまう。さらに、法律で禁止されている一夫多妻も当選と思うようになる。そうやって次第に原理主義化していくアマルの様子が見事に描かれていて、いや、怖かった。こういう怖さを、ルナたち、フツーのムスリムも感じているのだね。原理主義は特別、とはよく聞くけど、見せられるとやっぱり強烈だった。
原理主義を当然と思う、アマル。もとのアマルに戻って欲しいと願うルナ。その葛藤がつづく後半は、いささか同じことの繰り返しになって緊張感はゆるむのだよね。観客の期待は、アマルが過激に走ることなんだけど、最終的にはそうはならない。といっても戦友がアマルをリクルートしたのも「いい兵士だった」からであって、それは当然ながら原理主義者としてもいい働きをしてくれるだろうことを期待しているわけだ。現実の生活からはじき出された感のあるアマルにとって、実力発揮のいいチャンス到来というわけだ。最後の方には、空港でムスリムのエライ人を迎えるなかにアマルの姿もあって、いよいよ…と思わせるけれど、それ以上映画は語らない。ま、こんだけの内容でも、役者たちは原理主義者の非難の的になってるんじゃないかと心配になるぐらいなので、それも当然かも知れない。本当は、何か示唆するシーンも入れたかったんじゃないのかな。まだまだ、何が起きるか分からないよ、と。
で、人工授精に頼ろうとしていたルナだったんだけど、最後のセックスでなんと妊娠していることが発覚。…という展開はあらかじめ読めるので驚きはないのだけれど、この事実が映画のサゲになってしまっているのが、ちと残念。それでも、2人の仲がもとにもどることもなく、ルナは「あなたの子なら生みたくない」というぐらい。夫と決別して自立の道を選ぶ、というラストにあまり力強さはなくなっている。とはいうものの、中盤からの緊張感はなかなかのものだし、クライマックスを盛り上げられなかったのにも理由があるだろうから、いたしかたのな終わらせ方かも知れない。
アマルが昔の家を訪れ、泣くシーンは、説明がないと分からないかも知れない。まあ、観客にそれを勉強しろというのも酷なことで、理由を知りたいところではある。
ブルーバレンタイン8/11キネカ大森1監督/デレク・シアンフランス脚本/デレク・シアンフランス、ジョーイ・カーティス、カミ・デラヴィン
原題も"Blue Valentine"とそのまんま。この映画には2つの時間軸が登場する。1つは、男女の出会いから結婚まで。もうひとつは4、5年後の現在で(解説によると結婚7年目だって。あの子は6歳という設定か…ううむ)、破綻する過程が描かれる。その2つの時間軸が交互に描くことで、あんなに愛し合っていたのに…こんなにいがみ合うようになるのか、という感じを強調する仕掛けになっている。ある意味で成功しているのだけれど、現在の時間軸にいまひとつ説得力がないので、うーむなるほど、とならないのが残念なところ、かな。
シンディは大学生か。生まれてから一度も街を出たことがない。両親がいがみ合う家庭で、父親がいつも母親を罵倒していた。13歳で初体験を済ませると、25人ぐらいとセックスしてきたのは、そういう家庭だったから、ということだろうか。愛より快楽? 精神分析学に頼りすぎているきらいもあるように思うんだが…。大学時代はレスリング部員と交際してて、でも、あるとき彼が生でやってたことを知って、関係を断つ。このあたりはすごく合理的。恋に溺れまいとしている感じとか、愛とセックスを混同しない様子が描かれている。それに、養老院でボランティアをしたりして、心の優しい娘としても描かれている。
彼と別れた直後、養老院で運送屋の兄ちゃんディーンにアタックされる。こっちは中卒で、とくにしたいこともない。音楽は好きだけど、仕事にしようという憧れもない。彼もまた、一生、街を出ていかないタイプだと思う。シンディがディーンに惹かれたのは、偉そうじゃないところかも。音楽で喜ばせたり、とにかく手を変え品を変えご機嫌を取ろうとする。しかも、シンディが妊娠していることも理解し、一緒になろうと言ってくれた。それで結婚に至ったわけだ。こちらは、いたってフツーなドラマ。
破綻のきっかけは、最初から孕んでいたわけだ。けど、でも夫婦の危機は前夫の子供ではないのだよね。しかも、それがはっきりと描かれてないんだよ。「え? 何が原因なの?」って思うぐらいよく分からない。
現実の軸は、犬の失踪から始まる。ディーンと子供のフランキー(男みたいな名前だけど娘らしい)はとても仲がよい。フランキーの会話はとても自然で、シナリオとは関係なく話しているみたい。犬は結局、逃げ出した果てに交通事故らしく、道端で発見される。その事実を隠すため、フランキーはシンディの父親のところに預けられる。このときディーンが「扉をちゃんと閉めとけっていったろ」と言っていたなあ。久しぶりの夫婦だけになれたからなのか、ディーンはラブホを予約してシンディと一夜を過ごすことにする。シンディは翌日も仕事で、通勤に2時間もかかるから「いや」といってるんだけど、半ば強引。で、飲んで踊ってへべれけになって。「なんで夢を持たないの? 音楽も、いろいろ上手いのに」とシンディがディーンに言う。「いいんだよ、俺はこのままで」みたいにディーンが答える。ディーンが「子供をつくろう」なんていうんだけど、シンディが乗り気薄。セックスしようとすると、シンディがマグロになっちゃう。なので「こんなセックスは嫌だ」とふて寝してしまう。
翌朝、早起きして先に出かけるシンディ。昼頃、店員に電話で起こされるディーン。先に帰ったことにむかっと来て、シンディの職場・病院に乗り込む。そこでシンディを追及し、言い争いになるんだけど、会話に中味がまるきりない。何をどう怒り、非難しているのかさつぱり分からない。止めに入る医者まで殴ってしまい、意気消沈のディーン。シンディに「別れて」と言われ、結婚指輪を放り投げてしまうんだけど、思い直してすぐ探し出す・・・。なんか、決断力がないのかも。ってわけで、そのまま別れることになっちまうのだよ。えー! 去りゆく父を追う娘…。ううむ。
ってわけで、娘の存在が原因ではない。ディーンは相変わらず運送屋のバイトはしているみたいに見えたけど、違うのかな。どうなんだ? すると、何が原因なのだ? なんとなくできる倦怠感? ううむ。わかんねえなあ。
シンディには向学心がある。学生時代は医師をめざし、現実は看護士のようだけど、キャリアアップをめざしている。いっぽうのディーンは、そういうことに関心がない。このズレはあるかもしれないけど、夫婦の断絶にはならんのではないの? むしろ、2人の間に子供はできなかったの? つくらなかったの? その辺りが気になる。それに、シンディは医師から目をかけられていたようなのだけれど、それは技量に対してではなく、愛人になって欲しいから、だったなんていうオチもある。シンディって、男好きのする女だった、ってことが言いたいのかね。よく分からんが。
ってなわけで、いけすかない元カレとの間の子を実子同様に愛するディーンはいいやつじゃん、とは思う。多少、酔っぱらって無茶するけど、基本いいやつじゃないか、ディーンって。なのに、どうして別れるの? っていう印象の方が強くて、すなおに納得できる映画じゃなかった。ま、男女ともに自己主張ばかりがつよい国民だからな、アメリカ人は。離婚率も50%らしいし。もっとも、日本みたいにガマンとあきらめの状態で同居しつづけるのもどうかとは思うけどね。
ヒマラヤ 運命の山8/15シネ・リーブル池袋2監督/ヨゼフ・フィルスマイアー脚本/ラインハルト・クロス、スフェン・ゼフェリン
原題は"Nanga Parbat"。2009年製作。登山映画なんだが、この手の映画でなるほど凄い、ピンと来るというのは、めったにないね。これもそういう感じ。こちらに山に関する知識がないからなんだろうけど、タイトルが「ヒマラヤ」なのに、目指してるのはナンガ・パルバート? ってとこで、つまずいてしまう。そりゃヒマラヤにはいくつかの山の集合体で、マナスルなんてのがあるのは知ってる。けどナンガ・パルバートなんて知らなかった。知ってる人は知ってるだろうが、知らない人にはその凄さが伝わってこない。エベレストと比べてどうなのか? どこが難しいのか、なんて、山に知識がなけりゃ分からん。なのに、そういう事前の一般教育なしに話が進んでいくわけで、素人には「エベレストより低い山なのね…」ぐらいしか分からんわけだ。
登山映画の迫力を出すにはどうするか。っていうのが、まだまだ解答がでていない気がする。去年公開の「アイガー北壁」(2008)というのがあったけど、おっ、これもドイツ映画なのか。で、もういちど確かめたら、「ヒマラヤ 運命の山」の製作国はなんと日本なのだな。いや、この映画の登場人物はドイツ人なので、ドイツじゃ山岳映画が大流行なのか? と思ったのだ。…のであるが、主人公のラインホルト・メスナーをくぐったら、なーんとイタリアのドイツ語圏に生まれたイタリア人とあるではないか! ますます分からん。映画ではそんなこと描かれていないし、Webにも説明はない。どこが金を出してつくったのかね? 魑魅魍魎。
でその「アイガー北壁」もそうだったけど、ベースキャンプはどこで、つぎにどこにビバークし、どういうルートでどこを目指すのか、ということが俯瞰的にはまつたく分からない描き方をしている。雪原をいくシーン。ビバーク。猛烈な吹雪。で、翌朝は晴れて、夜は死にそうだったのがわりと平然と、衣服も汚れてない様子で歩いてる…。てなシーンの連続で、だんだん激しくなる、辛くなる、疲弊する、ボロボロになっていく…っていう感じが伝わってこないんだよね。
この映画でも、ラインホルトを追う弟ギュンターの描写はほとんどなし。兄弟の後から登ってくる2人の位置関係やルートもよく分からない。下山も、いかにしてどの方向に降りたのかも分からない。もちろん、図を入れて解説したらドキュメンタリー風になっちゃうだろうけど、ね。てなわけで、山岳映画の限界をまたしても感じたのであった。
で、この映画はラインホルトとギュンターのメスナー兄弟がナンガ・パルバートに挑み、登攀は成功するが下山中にギュンターが遭難する話。
最初に2人の練習風景が描かれる。どうも兄が当然すべき何かをせず、弟が文句を言うのだけれど、安全のための何かをしなかったということだろう。でもラインホルトは「成功したからいいじゃないか」と笑ってる。身勝手な兄が強調される。時代が遡って少年時代。教会に行っても天井まで何歩で登れるかなんて兄弟で話していて、父親や神父に睨まれる。頭の中は登山のことだらけ。そういう国民性が、ドイツ人にはあったりするのかね。この手の映画が割りとつくられているようでもあるし…。いずれにしても、生まれつき傲慢で我がままなところがある兄、それに従って行く弟、という構図が説明されている。
で、講演会の模様になって、ここで遭難に関して話している男のところに、松葉杖のラインホルトが入ってくるのは、これは遭難直後にドイツ国内で説明会を開いているところなのかも知れない。話していたのはカール博士で、ナンガ・パルバート攻略の指揮官だった人物。彼の兄も登山家で、山で亡くなっているらしい。その弔い合戦でナンガ・パルバートに挑むのだが、そのメンバーにメスナー兄弟を選んで招待したらしい。20代半ばで、メスナー兄弟は有名登山家だったみたいね。このカール博士は自らは登らないんだけど、これは引退したからなのかな。それとも昔からそういう役割なんだろうか? 顔つきからも、メスナー兄弟は女にもてそうなハンサムな役者が演じているけれど、カール博士は文化系な顔立ちだもんなあ…。
で、説明会でカール博士はギュンターの遭難にはラインホルトの勝手な行動が影響していると話そうとしていたのだが、そこに表れたラインホルトが「違う。真実はこうだ」と話し始める…という流れで、ナンガ・パルバートに挑み始めようとするところから描かれる。という、ちょっと手の込んだイントロがある。
いざ、パキスタンへ。ここからは本能のままに行動するメスナー兄弟とカール博士の対立の物語。でも、観客には相変わらずのラインホルトの身勝手行動ばかりが気にかかる。ラインホルトからすれば、カールは慎重・臆病すぎてチャンスを逃している。俺なら、チャンスさえもらえればできる。だから、とりあえず登らせてくれ、みたいなもの。でも、メスナー兄弟以外にもチームはいて、彼らだって登りたいわけだ。メスナー兄弟だけ放し飼いにするわけにもいかんだろ。でも、メスナー兄弟はぶーたれ、できる範囲で勝手にいろいろ行動したりするのだけれど、それじゃ統率もとれないよな。それに、メスナー兄弟の思いは、カールを隊長とする登山隊に成功を、ではなく、俺が先に登りたい、なのだから。なのでカールはそれまで一緒だった兄弟を、別のメンバーと組ませてしまう。これなら勝手はできないだろう、という目算だ。で、最後とも言えるチャンスがやってきて、カールは迷うんだけど、天候がよければグループ行動、悪けれはラインホルトの単独登攀を許す、というものだった。で、天候が悪いという意味の赤い花火が上がる。それを見て、ラインホルトは荒天のなか、1人で頂上を目指す。それを知った弟のギュンター。下山用のロープを用意していたの仲間に任せ、寝袋などの装備もないままひとりで兄を追う! この時点で、こいつバカってわかる。後先のこと考えず「兄ちゃんだけずるい」って思っての行動なんだもん。で、猛スピードで追いついて、2人で登攀大成功。はいいんだけど、今度は「降りられない」と悩む兄弟がホントにバカ。はるか下には別働隊が登ってくるのだけれど、そっちに向かって「降りられないよ! ロープをくれ」と叫ぶんだけど、ワガママすぎるだろ、お前ら。仲間だって登りたいんだ。てなわけで見捨てられ、あれやこれやで難行苦行して登ってきた方ではないどっか別の方に降りていく途中、疲れ果てた弟がついていけず雪崩に巻き込まれて遭難。兄だけ手足凍傷で地元民に助けられる。のだけど、助けられたところから勝手に抜け出したりしていて、まったくもう勝手なやつだ。
カールの方は日報を秘書にタイプ打ちさせているんだけど、花火の赤の件で「間違った」とかなんとか言って、秘書に「それでいいんですか?」みたいに言われているところがあったんだけど、あれがよく分からなかった。本当は青の「好天」を上げるところを、意図して間違ったと言いたいのか? ううむ。わからん。というぐらいが、カール君の怪しいところかな。
てな感じで、全編通してみても、メスナー兄弟のバカさ加減、身勝手さが弟遭難の主原因とわかるようなつくりになっている。のであるが、なんと。Webで見ると「当時のドイツ国内で大きなスキャンダルへと発展した初登攀をめぐる知られざる真実を、ラインホルト・メスナー本人の全面協力の下に臨場感溢れる迫真の映像で再現」とあるんだよ。ってことは、ラインホルトの見解が描かれているってことだよなあ。ええっ? そうだったの! あんないい加減なやつに描かれてもオーケーだったんだ! それと、カール博士の造形も、ラインホルトの立場から描かれている、ってことだよな。ってことは、こりゃ眉唾の可能性が大きいってことじゃないか。話は割り引いて聞かないといけないかもな。
最後に、ラインホルトの非の後の活躍などが簡単に説明されるけれど、そりゃ凄いけど、でも、ナンガ・パルバートに関しては怪しいままだな、って思ったりしている私です。
「アイガー北壁」のときもそうだったけど、ドイツ映画ってヒロインがいまいちだな。この映画も、女性というと母親、カール博士の秘書、看護婦ぐらいしかでてこない。若くてキレイな看護婦はチラッとしかでない。このあたり、なんとかならなかったのかね。
未来を生きる君たちへ8/22新宿武蔵野館1監督/スサンネ・ビア脚本/アナス・トマス・イェンセン
原題は"Haevnen"で、復讐という意味らしい。英文題名は"In a Better World"。製作はデンマーク/スウェーデン。監督は「ある愛の風景」の人。
タイトルが、ねえ。なんか原発事故に関連したドキュメンタリーとか、宗教っぽい感じがして、どーもね。違和感がある。内容は、暴力の根源に関する問題を語っているんだけど、最終的には断言することをさけ、中途半端ななあなあレベルに収めてしまう。正しい答えなどないのは分かるけれど、だからって問題を提示するだけじゃしょうがないだろ。しかも、あんなカタチだけのハッピーエンドなんて、うさん臭くてたまらん。
スウェーデン人のクリスチャンの母が死んだ。彼は父と2人でデンマークにやってくる。仕事の関係らしいが、イギリスに長く住んでいた、というようなことも言ってたな。転校すると、初日からいじめられる少年エリアスを目撃。いじめるソフスに立ち向かうが、バスケットボールを当てられあえなく撃沈…。という展開は、いやな感じを引き起こす。俺もいじめられていたことがあるからね。個人的には、ソフスみたいなやつには、うんざりだ。世界中どこにでも、理由なく弱い者をいじめて喜ぶアホはいるのだね。…と、この時点ではクリスチャンも弱者なんだが、彼は負けず嫌い。翌日(だっけかな)、またしてもトイレでエリアスをいじめるソフスを認めると、乱入。棒で背後から殴りかかり、最後はナイフをのど元に当てて「手を出すな」と威嚇する。おお。この時点でも、窮鼠猫を噛む程度かな、と思っていた。さて、事件は速攻明るみに。ソフスは耳が聞こえなくなるかも、というケガ。警察が介入。「ナイフを使ったろ」と問い詰められるけれど、2人は口を割らない。で、クリスチャンは、これで大成功、と思っているらしい。やられる前にやる。やらないと、いつまでもやられる。「これで、もう手を出さないだろう」ということも言っていた。このノウハウは、生得的な物なのか、経験で身につけたのか、どっちなのかね。ま、そういう設定なんだろうけど。
この後、エリアスの父親アントンが、ちょっとしたことから修理工のおやじに殴られるのだけれど、このことをエリアスから聞いたクリスチャンは「なぜやり返さない?」と信じられない顔になる。そして、家で見つけた花火を使って爆弾をつくり、修理工に復讐しようとするのだ…。なんと、クリスチャンは弱者ではなく、彼こそがモンスターだった! エリアスはこれに気づいて一瞬たじろぐんだけど、クリスチャンに助けてもらったりナイフをもらったり、なので、ついてくよ兄弟、見たいな感じになっちゃってる。それでずるずるべったり。2人で修理工の車の下に爆弾をセットして火をつけたら…、そこにジョギングから帰ってきた母娘(この母親は、修理工の妻だったかな? 違うかな)が近づいてきて。固まるクリスチャン。咄嗟に母娘に「逃げろ」と言いにでて、自らケガをするエリアス…。って、このシーン、つい数日前にCATVで見返した「バタフライ・エフェクト」のシーンと酷似しているので驚いた。でまあ、この一件で、やりすぎはまずい、ってクリスチャンは自覚する、という終わり方なんだけどね。
いじめっ子への復讐、修理工への復讐の他にも、復讐劇がからんでくる。ひとつは、アントンの一件。彼は医師で、アフリカで難民(?)を診てるんだけど、ときどき腹の割かれた妊婦がかつぎこまれてくる。生まれてくるのが男か女かを賭け、そうする連中がいるんだという。ボスはビッグマン。地元ギャングみたいなものか。そのビッグマンが足にケガを負ってやってくる。医師として助けはするが、周囲の黒人たちは、アントンの態度が理解できない。治癒しつつあるアントンが女性の死骸を見て「死んだ女とやるのが好きなのがいる。その死骸をくれ」というのにキレて、アントンはビッグマンを地元民に手に委ねる。息子のエリアスやクリスチャンには「復讐はいけない。それが戦争につながっていく」と説くのに、自らが復讐劇に加担する。していい復讐、してはいけない復讐、はあるのか? ということを訴えているのだろうけど。
そういえばアントンは、息子に「なぜやり返さない」と聞かれ、エリアスと弟、クリスチャンをつれて修理屋に乗り込み、修理工に「なぜ殴った」云々としつこく話しかけて挑発し、殴らせ、堂々と退散する。そして子供たちに「痛くない。あいつはバカだ。クソ野郎だ」と言い含めるのは、それは立派なことなのか? 決してそんなことはないと思うぞ。いや、べつに殴れと言っている訳じゃない。わざわざ挑発に行く必要はないってことだ。
そのアントンは、浮気をして妻と険悪な関係。妻がアントンから遠ざかるのも、復讐のひとつだろう。
クリスチャンは、父親を軽蔑している。父のせいで母が早く死んでしまったと思っている。その仕返しで、ワルをしている感じもある。
とまあ、こういう復讐関係が重層的になっていて、つづれ織りのように話は進んでいく。前半の、いじめetcの話はザワザワしたいやーな感じがあった。でも、ソフスへの反撃で話は一件落着。ナイフを隠したせいでクリスチャンとエリアスは注意を受けただけ。ソフスと握手して、それでオシマイなのだ。げ。そんなもんじゃないだろ。ソフスには仲間というか子分もいて、フツーならまたまたやり返して、とか、いろいろあってもおかしくないと思うんだけど、ね。ちょっと物足りない。むしろ、学校の弱腰が気になってしまった。だって、教師2人がエリアスの両親を呼びつけ、「息子さんはいじめられている。息子さんには苦しい状態」なんて切り出し、「旦那さんに出張が多く、ご夫婦が別居してるのも問題」とかいうんだぜ。学校の責任回避・責任転嫁じゃん。デンマークの学校は、いじめられっ子を追い出す・転校を勧めるのが方針なのか?
アフリカのギャングの話は、やっぱ黒人はこれだからダメ、っていうような話の運び方だと思う。悪いやつはどこにでもいる、のだろうけど、アフリカはその数が多すぎる、と思っちゃうよな。ま、実際にもそうなんだろうけど。でも、そういう理解のされ方だけでいいのか? アントンが乗るトラックを無心で追う少年少女たちも、長じてこの中から、ギャングがでてくんだろう、としか思えなかった。
離婚話は手垢が付きすぎ。クリスチャンの父への憎悪は、こりゃもう勘違いでしかない。この話は説得力がなさ過ぎて、アホらしいぐらいだった。
というわけで、中盤は「復讐」とは、を少し考えさせる展開になりかけたんだけど、後半はぐだぐだ。みな和解し、にこやかに…的な終焉は、あまりにも稚拙というか、本質からの逃げ腰な態度がミエミエだ。実は、最後に、エリアスの病室にクリスチャンが入るのを許され、恐る恐る入っていくんだけど。そこでクリスチャンが小さなモンスター魂を復活させ、「次はちゃんとやろうぜ」ぐらい言うのかと思ったんだけど、残念ながらそれはなかった。ちぇっ。つまんねえ終わり方。これがアカデミー外国映画賞かよ。けっ。
アザー・ガイズ 俺たち踊るハイパー刑事!8/23ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/ケント・オルターマン脚本/スコット・アームストロング
原題は"The Other Guys"。「俺たち」シリーズ(?)は、「ニュースキャスター」をビデオで。あと「フィギュアスケーター」を劇場で見てる。どっちも退屈で、「フィギュアスケーター」では寝ちまった。なので、この映画でも、ははは、1時間を過ぎたあたりで耐えられなくなって、10分ぐらい寝てしまったよ。最後の30分は見たけどね。
この手のアメリカのコメディが、肌に合わない。見え透いたギャグ。間の悪さ。どこで笑っていいか分からないギャグ。こういうのがてんこ盛りで、心底笑えない。笑いの質が違うんだろうと思うんだが、どうだろう。
それと、ネイティブでないと分からない固有名詞がやたら出てきたりする。これはもう、お手上げ。どこでどう笑っていいのかも分からない。これ見て笑ってる日本人、どこが面白くて笑えてるんだろう?
でも彼の地では受けてんだろう。マーク・ウォールバーグが相手役で、奥さんにエヴァ・メンデス、上司がマイケル・キートン。さらに、サミュエル・L・ジャクソンとドウェイン・ジョンソン。ゲストでヤンキースのデレク・ジーターまででてる。超豪華キャストだよ。ううむ。
なので語る資格なしなのだ。が、しかし。分からないところをいくつか。最初の方で、元カノの携帯に会話が録音されてしまっている、というのは、なぜなんだ? よく分からなかった。それと、この映画の描いている犯罪自体が、なんだかよく分からないものだった。上司のマイケル・キートンは、警部でありながらスーパーマーケットで働いてるんだが、そういうのはいいの?
スーパー!8/23新宿武蔵野館3監督/ジェームズ・ガン脚本/ジェームズ・ガン
原題も"Super"。弱っちいやつがマスクマンになって勧善懲悪を志す、って、まるっきり「キック・アス」と同じ内容なんだけど。どっちが先なんだろう? IMDbでみても、「スーパー!」の方が数ヵ月遅いんだけど、ひょっとして企画は先行してたなんてこともあるかも知れないしなあ。彼の地では、真似しやがって、みたいなことにはならなかったんだろうか? そこが一番気になるところ。
「キック・アス」は少年少女が主人公で、少年はへなちょこ。少女がプロ並みの殺し屋という話だった。いっぽうこちらは、30過ぎのオタクなおっさんと、22歳ぐらいのバカ娘がヒーローを志す。その分ファンタジー度は低くて、逆に生々しい部分がでてくる。でも、その分、「スーパー!」の方が心に滲みてくる。なんたって「キック・アス」はクロエ・グレース・モレッツ演じるヒット・ガールが可愛くて、その快刀乱麻ぶりが爽快だったのが印象的だったから。
弱々しい少年は、まだあり得る。たとえば「未来に生きる君たちへ」の少年のように、気の弱い少年で片づけられる。でも、この映画のフランクみたいに、結婚してる中年おっさんなら別だ。演じるレイン・ウィルソンは実年齢45歳だけど、それが覆面ヒーローをめざすのは、ちょい異常。でも、フランクはオタクとして設定されていない。テレビでヒーロー物は見るけれど、一般的なコミックヒーローについての知識はゼロ。たんに、自分が不細工で冴えない男であることにコンプレックスをもってる、ってだけだ。
そんなフランクにも、人生に2度だけいいことがあった。サラ(リヴ・タイラー)との結婚と、街で警官に逃げる悪漢の行方を指し示したとき。で、結婚式の後に花嫁が別の男とエッチしてるシーンがちらっと映ったんだけど、あれってサラだったのか? 一瞬過ぎてよく分からなかった…。まあいい。
登場するのがみな貧乏人ばかり。フランクは食堂のコック。サラはそこのウェイトレス。ヤク中で誰も相手にしないサラといい仲になって結婚したけど、サラは再びヤク中に…。売人のジョックの愛人になるカタチで、フランクの元を去ってしまう…。なんて俺は情けない、と嘆くフランクに神から啓示。お前は神に選ばれた人間なのだ、と。…この辺り、ちょっとアブナイといえばアブナイ。だって分裂病患者や新興宗教の教祖的な思考なんだもの。
てなわけで、自分でスーツを縫って街へ出るが、素手ではムリと悟ってレンチみたいな武器をもつことに。で、することは、列に割り込んだ男女を叩きのめし、訳の売人を殴り倒し…という、雑魚いじめ。でも、自分じゃ成果があったと納得しているところが、実は、怖いのだが…。でも、そうやってでも行動しないと、フランクの心は現実を把握できないのだろう。行動しなかったら、あっちの世界に行ってしまう。ヒーロー願望にょって、かろうじて現実世界につなぎ止められている、って感じだな。
しばらくするとマスコミでも話題になり、「正義の味方の格好をして暴力をふるう男」として有名になってしまう。でもめげない。そして、サラを救い出しにジョックの屋敷にもぐり込むんだけど、撃たれてリビーの世話になる。リビーはコミック雑誌店の店員。もちろんリビーに正体がばれる。するとリビーは一緒に行動したい、といいだすんだよね。信者がひとりついて教祖様になった、ってことだ。派手好みで「ぶっ殺せ!」「なんで殺しちゃいけないの?」「正しいことじゃん」的な発想のリビーの存在は、興味深い。主人公より、補佐的な立場の人間の方が、行動的なんだよね。社長は飾りで、実際は幹部連中が主役というのはよくあるものね。
そんな仲間に煽られるカタチで、フランクは機関銃や爆弾で武装し、2人でジョック邸に乗り込む。おりしも麻薬の取引の真っ最中。2人は想像以上に強く、手下どもをやっつけていく。けれど、放たれた銃弾がリビーの顔半分を吹き飛ばしてしまう! ってとこは、なかなかリアル。ヒーローも死ぬのだ、という生々しさがつたわってくる。で、手下はすべてやっつけ、フランクはジョックと対峙する。いったんは守勢に回るが、飛び道具でジョックに一撃。「列に割り込むのは悪い。麻薬も悪い。幼児虐待も罪だ」に対して、ジョックは「俺を殺してどうなる?」という。それにたいしてフランクは「どうなるか試してみる」と切り返す。ううむ。この場面が白眉だな。
先だっての「未来に生きる君たちへ」のような逡巡や疑問はかけらもない。悪いものは悪い、で区別しない。列に割り込むことを、軽微だからと許したりしない。そんなことする方が悪い。で、片づけてしまう。その通り、と拍手したい気分になった。
些細なことだからと許してしまえば、つけあがる。何度も繰り返す。周囲をバカにし始める。そんな不快なやつは、お仕置きだ! が、正しいじゃないか。といわれると、そうだよなあ、と思えてくる。この思い切りのよさが、この映画の切ないところでもある。だって、些細なことも許せず、人の命を奪うことになったりするのだもの。ヒーローには、最小的にはいろんなつけが回ってくることを表現していると思う。
サラを取りもどしたフランクだけど、しばらくしたら、やっぱりサラはいなくなった。でも、今回はヤク中から脱出し、いい亭主をみつけ、子供もたくさん育てている。それもフランクのおかげ、とサラの子供たちは手紙を送ってくる。それで、フランクは満足。…という終わり方は、ちょっと気に入らないんだけどなあ。一般人に戻って、どうするんだ、フランク? という思いがつきまとう。
サラを演じるのはリヴ・タイラー。ぜんぜんフランクには不釣り合いだけど、まあ、映画だからな。
誰だっけかがいってた台詞で吹いた。刑務所に入ることに対して「俺は一生図書館の本をワゴンで押すような生活はしたくない」というような内容。お。「ショーシャンク」じゃん。
ジュリエットからの手紙8/25ギンレイホール監督/ゲイリー・ウィニック脚本/ホセ・リベーラ、ティム・サリヴァン
原題は"Letters to Juliet"で、意味は「ジュリエットへの手紙」と邦題と逆になってる。婚約者とイタリア旅行中のソフィ(アマンダ・セイフライド)。亭主は仕事に夢中で、たまたま出会った老婆と孫の相手をしているうち、孫と愛し合うようになる…という、ロマンスの展開の定番みたいな話。ハーレクインか! この骨格を利用し、別の肉付けをすればいくらでも小説が書けそうだな。
でまあ、この話の肉付けは、「ロミオとジュリエット」の舞台となった観光スポットで、そこに残されていた50年前の手紙、そして、叶わなかった50年前の恋ということになる。こういう、叶わなかった恋は、女性好みなのかね。併映が「英国王のスピーチ」だったことも手伝ってか、9時45分開始の1回目なのに、7割方埋まってる。この映画だけ見て11時半にでたら、外は長蛇の列。げ。こんなのが人気なのか? そういえば、案外とロングランだったものなあ。まだロードショーしてるところ、たしかあったと思う。
50年前にイタリアに留学していたクレア。ロレンツォに恋をしたけど本国イギリスに戻って平凡な男と結婚した。帰ろうかどうしようか、その迷いをジュリエットの生家の壁の奥に突っ込んでいた。それをたまたまソフィが発見。クレアに遅ればせながら返事を書いたら・・・クレアが孫と一緒にロレンツォを探しにやってきてしまった…。って、手紙を出して2、3日でクレアがイタリアにやってこれるのか? などというツッコミを入れたくなるが、おおむね話は矛盾なく進む。っていうか、矛盾がでるような話じゃないからな。
ソフィの亭主ヴィクター(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、別に悪いやつじゃない。NYでイタリアレストランを出すので頭がいっぱい。婚約旅行なのに食材の仕入れやワインオークションに顔を出したりで、ソフィをほったらかし。…それで心が離れるんだけど、なんか、女のワガママじゃねえの? 名所観光より、ヴィクターと一緒に行動した方が、よっぽど面白いと思うけどな。ま、このあたり、一般的な女の願望・心理を表そうとしているのかね。そもそもソフィは「ニューヨーカー」誌の事実調査員(なんていう職種があるのだな)で、いつかはライターに、という視点を持っているはず。だったら、なおさら観光地なんて行ってる場合かよ、とも思う。
ジュリエットの生家の壁に恋の悩みを書いて貼る・・・なんていうスポットがあるのだね。京都のどっかにも、恋に悩む乙女の心をつづるノートが置いてあるとかいう話があるけど、世界中、女ってのは同じようなことをするのだな。で、そこで50年前の手紙をソフィが見つける、しかも、はめ込んである煉瓦が外れて発見される、って、あり得ないだろ。まあいい。
クレアが孫を連れている時点で、話の先は完全に読めてしまう。この男と恋に落ちて、ヴィクターは捨てられる、と。しかし、いくらなんでも、いまどきそんな鉄板な展開があり得るのか? それに、孫のチャーリー役のクリストファー・イーガンが、なんとも冴えないトッチャン坊やなんだもん。まるで60年代のトロイ・ドナヒューみたいな髪型、格好! こんなのにソフィが恋するのか? やめてくれよ。っていってんのに、そうなっちゃうのだから困ったもんである。
クレアは50年前15歳。ってことは現在65歳の設定か。それにしちゃ、この婆さん、年食い過ぎじゃないか? と思って見ていたのは、後から気づいたのだが、ヴァネッサ・レッドグレーヴ! ひぇー! こんなんなっちゃって! なんか、ジブリ映画にでてくる婆さんの顔に似てるなあ、なんて思って見ていたのだが。そして、50年後のロレンツォにフランコ・ネロ! これも、あとから知った。いずれ有名俳優だろうとは思っていたが、気づかなかったよ。くくく。
クレアとロレンツォが結ばれるのは構わんよ。互いに相手はいないのだから。でも、たかが1週間ぐらい一緒にいて好きになったから、これが真実の愛、っていうのはどーかね。結婚して2年もすれば、それが過ちだったことを思い知らされる、っていう気がしてしまうぞ。
それはさておき、アマンダ・セイフライドが案外な巨乳で、フツーに歩いていても、たわわに揺れるので、そっちにばかり目が行ってしまった。
ペーパーバード 幸せは翼にのって8/29銀座テアトルシネマ監督/エミリオ・アラゴン脚本/フェルナンド・カステツ、エミリオ・アラゴン
原題は"Pajaros de papel"。英文タイトルは"Paper Birds"。スペイン映画。
いろいろと残念な映画。なにを、どう描く、が出来ていない。主人公は誰だ? 何を描きたいのだ? テーマは? でも、1時間をすぎても、しぼられてこない。ドラマも甘いし緊張感もない。で、終盤に「おお」という急展開があるんだけれど、その顛末が描かれないという「?」な映画。いろいろと隔靴掻痒で、ストレスがたまったぞ。
戦火のスペイン? 妻は看護婦か。8歳ぐらいの息子がいて、亭主は…どうも芸人らしい。さてどういう話になるのかと思っていたら、爆撃で家が破壊され、妻と息子は…? 死んだのか? で、1年後。戦争は終わったらしい。ってことは、フランコが制圧した、ってことなのかな。芸人たちは仕事を求めて親方の所にやってくるが、なかなか仕事にありつけない。で、同性愛者らしい芸人のオッサンがいて。未成年の娘は仕事にありつこうと必死だけど、断られる。8歳ぐらいの少年も下手な手品を披露する…。少年は親方に懇願し、親方は少年を同性愛に押しつける…。という時点で、この少年はひょっとして最初にでていた少年で、じつは生き別れになっていたのが、なんとか再会するような話かな? と思った。ところが、そこに最初の芸人が1年ぶりに合流。どうも同性愛は、最初に芸をしていた相棒と分かる。少年も別もの。てなわけで、話の構造が分かるまで、えらい時間がかかった。
最初にでていた芸人はホルヘ。同性愛はエンリケ。少年はミゲル。娘はメルセデス。
フランコ政権下で、軍隊は市民を監視していたのね。厳しそうな大尉が登場して、芸人一座にもスパイを潜入させる。そんなことも知らず、芸人たちはフランコをからかったり、平気でやってる。ホルヘ、エンリケ、ミゲルは同居し始める。ミゲルは手癖が悪く生意気。ホルヘは躾にうるさく、いつもミゲルを叱りつける。一座は地方巡業にでかけたり、なんとか食いつないでいる。…てな話がだらだらつつくる。はっきりいって、退屈。だって事件もドラマも起きないし、物語がどこに向かおうとしているのか、さっぱりわからんのだもの。
少し感じられるのは反体制活動家の雰囲気で、一座の大道具だったかが、積極的らしいこと。また、ホルヘに関連して、なんとかいう神父がどーたらといっていて、ホルヘが1年間潜伏していたのは、何らかの活動を行なっていたらしい、みともうすうす分かる。なので、いつかは蜂起して戦ったりするのかな? と思っていた。そうしたら、後半になって、ホルヘのいる一座に、フランコの前で芸をするよう命令が下される。大道具は「これはチャンス」とフランコ暗殺を企み、ホルヘに話をもちかけるのだけれど、ななななーんと、ホルヘは乗らないのだよ。いっぽうスパイ君は、暗殺計画が進行中と察して上司に忠告しに行くんだけど、報告書もなにも見ていないと言われ、むむむ。じゃ、怪しいのは、無理やりあの一座にフランコの前で芸をしろ、と命令した大尉だ! と気づいて楽屋を訪ねるんだけど、大尉&大道具に殴られて気絶! さあ、暗殺計画はどう進行するんだ? と思っていたら、ホルヘは「逃げるんだ」とエンリケ、ミゲル、メルセデスをつれてトンズラ。先に名前がでてきていた居酒屋→神父&仲介者の手を借りてポルトガル経由で海外に逃げることにするのだけれど、列車に乗ろうとしたところを制服に着替えたスパイ君と同僚に見つかり、同僚の方にあえなく撃たれてしまう! という、なんか、盛り上がりかけたんだけれど鼠一匹みたいな展開で、ストレスがたまる。
大尉が反体制派の一員だった、というのは仕掛けとしてはよくできていると思う。おおっ、て思ったもの。でも、スパイ君を殴り倒して、ホルヘが計画に参加しないというのが、あらららら、だった。そもそもホルヘはあの計画を知っていたのか? 知らないで巻き込まれた感じなんだよなあ。だって、なーんも役割を果たしていないように思うし。ではなぜ、彼ら4人を反体制派のシンパは助け出そうとしたのだ? 1年間の潜伏と、なんか関係があったのか? よくわからん。それに、暗殺実行は一切描いていないけれど、どうなったんだ? 失敗したにせよ、その顛末は知りたいよなあ。だって、殴られて気絶したスパイ君が、追っ手になって制服姿で突然登場するのは、話が飛びすぎだろ。こちらの集中が途切れていたこともあるんだけど、あの件で、ちゃんと説明はされていたのかなあ?
で、話は現在。一流の芸人になって、引退興行? みたいなのに出演するミゲル。「パパと呼べたのはホルヘだけ」みたいなことを抜かすのだが、パパという呼び方は逃亡するための方便だったじゃないか。それが真の親子関係みたいな描き方になっちゃってるけど、飛躍もいいところじゃないのかね。そもそもミゲルはエンリケの管理下にあったはず。それが、最後はホルヘとの親子関係にすり替わってしまっている。そんなにホルヘはミゲルのことを可愛がってなかったと思うけどな。
タイトルの「ペーパーバード」はミゲルが手にしている折り紙なんだろうけど、とてもちゃちい。日本の折り紙の「船」みたいな感じ。でも、どうしてミゲルはペーパーバードを手にするようになったのだ? そういえば、1年前の爆撃でホルヘが防空壕に入り、そこにいた少年に「いるか?」なんてあげていたけど、あの少年がミゲルだった…? ってことはないよな。あったら覚えてるはずだもん。
しかし、大尉が反体制の黒幕という一発芸で話がマシになるかと思いきや、肩すかし。最後まで何を考えているのかよく分からない話だった。テーマ音楽はなかなかよくて期待させたけれど、中味が追いつかず、ってところかも。

 
 

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