2011年10月

熊楠 KUMAGUSU(パイロット版)10/2明治大学アカデミーコモン2階監督/山本政志脚本/---
明治大学アカデミーホールで開催された「南方熊楠シンポジウム」に関連して、参考上映された24分53秒のパイロット版。Wikipedia「1991年より南方熊楠を主人公とした作品『熊楠KUMAGUSU』の製作が開始された」「主演渡辺哲、町田町蔵、出演泉谷しげる・室井滋ほか、1991年6月に撮影開始、10月完成予定であったが資金難で中止」らしい。フィルムをビデオに撮ったものをプロジェクター投射なので、画像は極めて悪い。
始まって5分ぐらいから。故郷田辺か。上半身裸の熊楠。役者の顔は熊楠になんとなく似ているけれど、腹があまりでていないので、ちょっと貧弱な感じ。セリフ廻しも、ちょっと軽めだなあ。もっと寡黙で、ぼそっ、としゃべる印象なんだけど。それも、論理的でなくて、意表を突いたようなことを…。ま、これは個人的な印象なんだけど。
水辺の熊楠。資料が山積みの部屋に戻って。次はいきなり宴会。素っ裸で、ちんぽに徳利を刺して踊りまくり、一緒に飲んでいる仲間(?)にゲロをぶちまける。仲間は、怒るどころか拍手。宴会の客の中に、平田満。日中の座敷。姉のような人に小言を言われてる。その女性の亭主(?)は、いいじゃないか的な反応。このシーン、台詞は日本語ではないが、何語? 女中みたいなのは、室井滋だ。船で島へ向かう…みたいなところでお終いかな。あるサイトでは、渡辺哲が演じる晩年の熊楠もあったというのだが、記憶にない。熊楠役は、町田町蔵と、1人だけキャストがでてきた。これって、町田康?
次の回の冒頭を見る。採集に行く熊楠。学生に会い、「わしはイギリスに留学してて、誰それになんとかかんとか云々…」。絶壁の上までキノコを採らせに登らせる。…というところで、ひととおり。で、出た。
断片的な映像なので、物語性はほとんどない。学生を登らせるところで笑いもでたけど、それほどのこともなかろう。ま、未完成だからなんとも言えないけどね。
ライフ - いのちをつなぐ物語 -10/4上野東急監督/マイケル・ガントン、マーサ・ホームズ脚本/---
原題は"One Life"。Wikipediaによると「BBC Earthによるドキュメンタリー番組『Life』の劇場版」で、もとはテレビで放送されたシリーズを85分にまとめたものらしい。そんなことはつゆ知らず…。動物や昆虫の生態を数分ずつつづっていく。なかには産んだ卵をおたまじゃくしになるまで待って、それを背負って木に登るカエルとか、地中に持ち込んだ葉っぱを養分としてキノコを生育するアリとか、動物の骨を割ってそれを食べる鷲とか、ココナツみたいなのを石で割って食べるサルとか、「おお」と驚くようなのもあるけど、多くは割りとフツー。見慣れた感じがする。トカゲに追われるネズミっていうのもあったけど、あれなんか完全なるモンタージュだな。だって、ネズミとトカゲが同じフレームに一度も入って来ないんだもの。
最初のうちは、生き残る知恵みたいなのが主で、生ぬるいなあ…と思っていたんだけど、中盤からは食われる動物もでてきて、バランスは取れてる。でも、最後の方はクジラだの一夫一婦制の鳥をだしたりして、人間の生活にダブらせようという姑息な意図が見えてきて、うんざり。事実を淡々と見せてくれた方が面白いと思うんだけど。しかも、ナレーションが、命をつなぐとか愛がどうたらとか、わざとらしい歯の浮くようなのが多くて、それも勘弁してくれ、だ。
むしろ、どうやって撮影したのか、に興味がある。カメラはどうセットされているのか。動物たちはカメラを意識しないのか? はじめは意識していたけど、だんだん意識しなくなったとか、そういう事実があるのだろうか? 撮影クルーが自然の中に介入することで、自然は自然のまま維持できていないのではないか? などとも思ったりして。だからこそなんだが、撮影の様子を最後の方にネタバラシ的にやってくれたらよかったのにな、と思った。
カンパニー・メン10/5ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ジョン・ウェルズ脚本/ジョン・ウェルズ
原題も"The Company Men"。たんなる「会社の人々」なのか「会社人間」の意味があるのかは知らない。大企業(なんとなくGEを連想する)のリストラ話。
2008年、リーマン・ショック後のアメリカが舞台で、ドキュメンタリー「ヤバい経済学」や「キャピタリズム マネーは踊る」の世界をドラマ化した、ってな感じかな。でも日本じゃこの手のリストラは1990年代から始まっていて、「トウキョウソナタ」をはじめいろんな映画で取り上げられている。なので、緊迫感より既視感の方が強かった。
GTXは不況の造船部門を縮小して鉄道部門と統合。同時に大幅なリストラを開始する。販売部長のボビー(ベン・アフレック)もその対象となる。株価の低下を防ぎ、買収を回避する目的もあった。リストラ第2弾では、上司のフィル(クリス・クーパー)と、造船部門トップのジーン(トミー・リー・ジョーンズ)も対象に。ジーンはCEOのサリンジャーとともにGTXを興した仲間。フィルは、現場たたき上げの役員だった。さて、彼らの運命やいかに?
解雇を他人に知られたくないのは洋の東西を問わないようで、家族以外には黙ってる。そして、自分の経歴ならどこでも雇ってもらえる、とエラソーにしてる。なかでもボビーの脳天気さはマンガ的。見栄が先に立って住宅ローンも払えないのにゴルフの練習場に通ったりスポーツカーを乗り回したり。妻のマギーの方がよっぽど現実的だ。それでも現実には逆らえず、豪邸を売って、死んでも行きたくないという実家に戻るんだけどね。そして、最後は、妻の兄ジャック(ケヴィン・コスナー)が営む大工作業を手伝う。60歳近いフィルもアル中になり、最後は車の排ガスで自殺する。この辺りの展開は、日本でシナリオを書いても同じようになるだろうな。ある意味、ステレオタイプ。
監督のジョン・ウェルズはテレビ畑の出身で、もとは製作の人のようだ。それが「ER」で監督まで手がけ、これが初映画監督。群衆劇には自信があったのかもしれない。事実だけを淡々と並べていき、それを有名俳優が演じているからドラマチックに見えるけど、意外な展開があるわけではない。ほぼ予定調和で、収まるところに収まってしまう。ドラとしての奥行きが浅く、流れを追ってるだけだったりするのだよな。フィルの家庭のこと(娘がイタリアに行きたいと言っていたけど、どうなったのか…)なんか気になるんだけどね。
よく分からなかったのが、ジーンの家庭。家に妻はいるみたいだけど、GTXの人事担当サリー(マリア・ベロは「ER」にでてたね)の家に入り浸り。サリーの友人たちと食事をしたり、あれは公認の愛人関係なのか? ジーンまでも首にしたんだから2人の関係は冷めると思ったら、そうでもない。なんかよく分からない。でも、最後のシーンでは、2人は別れてしまっているような風。このあたり、端折りすぎだと思う。
興味深かったのは、ジーンやフィルがしきりに昔を懐かしがり、モノづくりの大切さを唱えるところかな。造船も自動車も、アメリカの産業じゃなくなった、といいつつ、造船への思いを捨てきれない様子をしつこく映画居ていく。このあたりも日本と同じじゃないか。こないだ見た「海炭市叙景」も、造船業の不振をしつこく描いていたけど、あれなんか1980年代の話だろ。いよいよアメリカも、日本と同じになってきたのか、ってな気がしてしまった。
だからといって、最後にジーンが地元の小さな造船会社を買収し、ボビーたちを呼び戻して起業しようとするのが成功するかというと、なんか、難しいと思うんだけど。なんとなくハッピー・エンディングにしているけど、先はかなり険しいと思うぞ。
37歳のボビーが販売部長で年収12万ドル。というのは、安いと思った。日本で年収1000万であんな豪邸に住めないし、資産家には入らないよな。でも、あちらではかなりの高給取りになる。で、ボビーの新しい会社では6万ドルとか8万ドルだっけ。フツーの安サラリーマンになっちゃうのね。フィルが役員で2000万円ぐらいだったかな? 違ったっけ。目を疑ったのはCEOのサリンジャー。2200万ってでたので、一瞬、2000万円は安すぎるだろと思い、ドルで計算したら、なんと20億円じゃないか。リストラしてる会社の社長が? これはひどすぎるよな。と、改めての実感。会社は結局、買収されてしまうんだが、痛くもかゆくもないかもね。ジーンの給料は分からないけど、持ち株があるので、だから起業できたんだろう。たんまりあって働く必用もないのなら、あんなに首になってあんなに落ち込むことないのにね。
へーっと思ったのは、リストラされた社員に12ヵ月分の給料が支払われ(退職金ということか。在社時の給料と同じなら、ボビーは経済的に困るはずはないので、いくらか少ないのかもね)、再就職用の事務机が与えられること。それも1年間だったかな? 翌日から捨てられる、という思い込みがあったので、少し驚いた。驚いたといえば、ケヴィン・コスナーがでてきたこと。え。こんな渋い脇役になっちゃったの?
スイッチを押すとき10/6新宿武蔵野館2監督/中島良脚本/岡本貴也
設定に説得力がないので、いらつく映画だった。110分あるが、60〜70分でも十分だ。情緒的だったり繰り返しだったり、ムダなカットが多すぎ。だったらもっと社会背景や、人物の掘り下げに使えといいたい。ま、それだけの能力がないんだろうけどな、脚本も監督も。
話は単純で、2011年、自殺者の急増を受けて何とか法が制定され、青少年自殺抑制プロジェクトがスタート。子供たちが数ヵ所のセンターに集められ、調査が始まる。子供たちは心臓に起爆装置を埋め込まれ、同時に携帯スイッチを渡される。死にたくなったらそのスイッチを押せばいい。で、舞台となるセンターには当初40人程度いたが、1、2年で大半がスイッチを押して死亡。7年後に6人残っていた。そこに、新しい職員がやってくる…という始まり。
という枠組みで始まった時点から違和感を感じた。10歳の子供を強制的に連行し、隔離センターに住まわせるなんて、あり得んだろ。こういう異常な設定を納得させるには、「リベリオン」とか「イーオン・フラックス」みたいな独裁的な未来世界にしなくちゃならん。または、クローン人間の世界を描いた「わたしを離さないで」みたいなテイストが必要だ。ところがこの映画、未来感もなければ空気感も醸し出せていない。三文芝居なのだ。なんだあの職員の制服。ウルトラ警備隊か?
無機的な環境で独房のような部屋で情報隔離され、肉親とも会えない環境で暮らす17最たち。そんな設定に、なるほどと思えるわけないだろ。そんなんで、どういう調査ができるというのだ。自殺の原因は、そもそも社会の中にある。それを排除してテストもなにもない。しかも、無作為に選ばれた子供たちが、12、3歳で大半が死んでいったという話はなんなんだ。だったら、世の中の大半はみな自殺しても不思議ではない、ということになってしまう。10人に1人自殺しても驚異的なパーセンテージだろうに、あり得ないだろ。また、センターは巨大な建物なのに、映画に登場するのは独房と食堂と中庭だけ。職員も10人以上いるようには見えない。なんであんな広大な敷地と建物が要るのだ? ラストで分かるんだけど、センターの場所は江ノ島の近くの高台。そこの署長が「東京に帰りたい」って、アホか。センターを抜けだして近くの小学校に寝泊まりするのだけれど、そこは17歳のうちの1人が通っていた学校らしいが、そっから自分の家まで何時間かかってるんだ? GPSも埋め込まれているという割りに、なかなか追っ手がやってこないのはなぜ? などなど、バカバカしい設定にはまったくついていけなかった。
そもそも、自殺者を減らす目的で始まった実験で、子供たちに速く自殺してもらいたいという大人たちの理屈がまったくわからない。たとえば、実験状況を口外されると困るので、口封じ、とか理由がないとな。新任の職員が実は別のセンターの被検者というのは、それは構わない。けど、あまりにも簡単に仲間を殺しすぎ。まるで感情のない人間だ。なのに、正体がばれるといい男になっちまう。わけが分からん。
6人いる17歳。2人が女性で4人が男性。水沢エレナが残るのはミエミエだけど、残りのキャラの印象の薄いこと。喧嘩っ早かったり車椅子だったり、表面的な描き分けしかできていなくて、人間が全然描けていない。こんな映画につきあわされて芝居をしている役者さんたちには、ご苦労さんなこった。それにしても、あのスイッチも、50年前のウルトラ警備隊がもっていそうな、無骨で汚らしいシロモノだったなあ。
猿の惑星:創世記(ジェネシス)10/11上野東急監督/ルパート・ワイアット脚本/リック・ジャッファ、アマンダ・シルヴァー
原題は"Rise of the Planet of the Apes"。いわゆるビギニング物。ラストは、あと1本はつくれる余裕を残しているが、原因と過程が明白なってしまっている分、つづきのドラマはつくりにくいかな? という感じ。
アルツハイマーの新薬でチンパンジーの知能が向上する。しかし、チンパンが暴れたので射殺され、子どもが残された。研究者のウィルはこっそり引き取り、家で育てる。ついでにアルツハイマーだった父に新薬を投与したら劇的に恢復! 3年後、チンパンのシーザーは手話が通じるようになる。5年後、新薬の効き目が失われた父親のため、ウィルは強力な新薬をめざす。一方、シーザーは隣家のパイロットに暴行し、サルの牢獄(あんなのあるのか?)に入れられる。強力な新薬はサルに劇的に効いたが、人間には劇薬になった。シーザーは強力新薬を手に入れ、サルたちに投与。一揆を起こしてサンフランシスコで暴れ回り、森の中へ逃げ込む。一方、新薬は研究者→隣家のパイロットを介して世界に広がっていく…。というところまで。
新薬がチンパンの知能を促進し、人間を滅ぼす効果があるという、あまりにも単純な設定にあんぐり。製薬会社・研究者の功名心と工場長の金銭欲が治験の暴走につながり、ひいては人類滅亡とサルの覇権につながったという話だけど、よくある話。もうちょい考えてくれよ、という気分。その他、話は単純で、肉付けもあまりされていない。なので、後半になると飽きて来る。それに、サルはほとんどCGなので、生身のサルがここまでやるか…という驚きもない。役者で惹かれるのは、獣医キャロラインのフリーダ・ピントかな。「スラムドッグ$ミリオネア」のヒロインだ。驚くほど美しい。彼女を見るための106分だったかも知れない。
随所に笑える映画だ。たとえば後半、監獄でシーザーが飼育員に"No!"と発するシーンでは、場内から笑いが聞こえた。作り手は、サルが言葉を発するシーンとして重厚な雰囲気のつもりなんだろうけど、驚きよりは笑いが来る。そういうシーンが随所にある。
ところでシーザーは雄? 3年後って、もうシーザーは成人だろ。いつ「キャロラインとやりたい」っていいだすのかなと思ってたんだけど、我慢してたのかな。びっくりしたのは、次は5年後に飛ぶ。じゃ、最初から数えたら8年かよ。ウィルは何歳の設定なんだ? いや、ウィルとキャロラインは結婚もせず5年以上もつきあってるのか?
研究所で、強力な新薬がサルに投与されようとしている場面で、ウィルが「やめろ」と静止する。なのにウィルは新薬を実父に投与しているし、強力な新薬すらも投与しようとしていた。それって矛盾してないか?
監獄から脱出したシーザーが、ウィルの家に潜入して冷蔵庫から強力な新薬を盗む。そして、サルの折の前で中の薬剤を気化させる。その結果、サルたちの知能が急上昇するのだが、シーザーはその新薬の存在を知らないはずだし、まして使用法も不案内なはず。このあたりは、かなりいい加減な展開だな。
研究所のサルが自分の名前(?)を英文表記する場面。あれは、強力な新薬を処方されてからだっけ? なんか、新薬、次の新薬との間の5年間に何か起こったのか、ほとんど描いてくれないのでよく分からない。なにも5年も時間をあけなくてもよかったんじゃないのかね。
監獄の中で、シーザーとオランウータンが手話で会話する場面があるんだけど。シーザーはウィルから習い、オランはサーカスで習得したという設定。では、同じ手話なわけかい? 動物向けのサインではなくて、人間用の手話なのか? そういや、サル側から手を差し伸べて、その手のひらを指でなぞるとOKということらしいが、あれもその手話のひとつなのか?
監獄の中で、ビスケットを配るシーンがある。あれはシーザー? ライバルのロケットなのか? シーザーが抜けだして飼育係のビスケットを盗み、それを仲間に分配して味方にした、んだよな。でも、ビスケット1枚でそんな効果があるのか?
シーザーが檻の中で、円の中に分割した1/4円を書くシーンがある。最後には、仲間のサルへのメッセージか、道路標識にも書かれていた。あれは、何だったんだ?
しかし、隣家のパイロットは気の毒だったね。幼いシーザーに突然襲われ、次は痴呆の父親にクルマを壊され、さらにシーザーに襲われ、最後は、強力な新薬を伝染される(あれ、みんな隣家だよな?)。たいへんなこっちゃ。
人生、ここにあり!10/13ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/ジュリオ・マンフレドニア脚本/ジュリオ・マンフレドニア、ファビオ・ボニファッチ
原題は"Si puo fare"で、google翻訳では「あなたにできること」。また、2009年のイタリア映画祭のときは「やればできるさ」という題だったらしい。邦題は、精神病者ということを隠そうとしているようで、せこい気がする。
最初に、労働組合のような場。男が非難されている。次のシーン、同棲相手(?)の女性から三行半? 「市場」という言葉の意味がわからん…。余りにテンポが早くて付いていけず。顔も分からん。で、次のシーンは、禿げ男が精神病院に行くところ。てなわけで、ハゲのネッロが精神病院で組合活動し、毎日のろのろしていた患者に寄せ木(というからインテリアの細工かと思ったら、なんと床張りだった)を行なわせ、自立させていこうとする話。
組合といっても労働組合のようでもなく、生協みたいな感じもするし、カウンセリングのようにも見える。あの組合とは何なのだ? イタリアの社会背景の説明がまったくない状態で始まるので、設定はいまだによく分からない。Webのサイトに説明があるようなので、あとで読もう。
というわけで、これまでの組合活動から、キチガイ相手の組合活動を始めたネッロ。会議を開いて発言させ、社会に関与する行動をさせようとする。しかし、精神病者を一般人と同じように扱うのは、どうなのかね。彼らとのコミュニケーションは、どこかでズレが生じるはず。医師はそのズレを恐れて過剰投与していたのだが、そのせいで患者たちは眠く、やる気がなく、勃起もしない状態だった。いっぽうネッロは一般人と同じように扱うことで、自我を目覚めさせようとした。映画はトリッキーな描き方をするけれど、実際はもっと慎重に、危険を回避するように行われたはずだ。精神病者も私たちと変わりがない、という幻想を与えるとしたら、それはちょっと危ないような気がする。つまり、ちゃんと安全装置を働かせた上での社会参加ならいいと思うけれど、この映画のように放し飼いというのは、どうなんだろう、ということだ。
驚いたのは、患者2人が材料を仕入れにクルマで出かける件。大丈夫か? キチガイ2人放し飼いにして…。イタリアじゃ、あれは容認されることなのだろうか? 病院には医師が2人いて、若い方がネッロの行動に賛同する。そして、上司(?)の医師をさておいて病院外に部屋を借り、床張りビジネスを始めてしまう・・・。しかも、投薬量も半減。おいおい。大丈夫なのか? 男どもは近所の女性を見て勃起。これは…と、ネッロはマイクロを仕立てて女郎買いに出かける。行きはドキドキ、帰りは喝采。そりゃ話としては面白いけど、いいのか、それ?
しかも、若くてイケメンのジージョは、仕事をくれた先の若い女性に恋をしていきなり告白。相手も、精神病者とわかって映画を見に行ったりキスしてくれたり…。ああ、こりゃ、振られたときの反動が大変だなあ、と思って見ていたら、案の定。彼女の男友達がジージョをからかい、ジージョの仲間のルカが暴力沙汰。一件落着かと思ったら、ジージョは首をつってしまう…。おお。想像以上の悪い展開。しかも、ジージョの母が「息子が一般人にのぼせているから引き取りたい」とネッロに訴えたのを退けたばかりだったのだ。てなわけで、仕事場から撤退し、もとの病院へ。あちゃ。
しかし、これからが、また、お伽噺的展開。ネッロに落ち度はないという裁定が下り、上司の医師もネッロの試みを評価して、作業療法として積極的にやろうといいだす。でもって、地下鉄(だっけ?)の床を彼らが手がけることになって…というところで、明るく終わる。実際がこんなドラマチックな展開のはずはなく、演出だと思うので、半ば感動、半ばわだかまり…。とにかく、映画としては面白いエピソードだらけなのだけれど、実際の困難の部分を端折ってしまって、いいんだろうか、という気がする。
・納税者番号とかECとかが出てくるのは、制度の問題なんだろう。でも、意味がよく分からない。
・音楽がジプシー・ブラスで景気がいい。本家のハンガリーとかのバンドなのかな。よく分からん。他には、ボブ・ディランっぽい曲調のがあったりした。
・患者たちは、みな、味がある連中ばかり。理事長役の、無言の青年。瓶底メガネの陽気なやつは、なにかあると「エイドリアーン!」って、ロッキーかよ。あと、会計役のおっさんとか、いかにもという演技だった。でも、瓶底メガネが、工具のホチキスを人に向ける場面は、誰かがケガしそうでやだったね。
・事業が軌道に乗って、地下鉄の仕事が舞い込んだとき。ネッロは会議を開いて、受けるよう勧める。でも、採決の結果、否決される。仕事をしても給料が入らず、将来のために投資するような仕事は、患者たちは嫌いらしい。一般人と同様、給料が入ったら、パーッと使いたい見たい。そのことをネッロがパートナー(一度は別れたけれど、仲直りした。なかなかキレイな女優さん)に残念そうに言うと、「あなたがそうするよう育てたのだから、あなたの勝利じゃないの」みたいなことをいうのだが、なるほど、だよな。精神病者に自我が芽生えたのだから。
キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー10/19池袋東急監督/ジョー・ジョンストン脚本/クリストファー・マルクス、スティーヴン・マクフィーリー
原題は"Captain America: The First Avenger"とそのまま。マーベルの真打の実写化? 見たのは2D版。昨今のCGを使ったヒーロー・アクションものとしては上出来な部類だとは思う。マンガだから荒唐無稽も構わない。第二次世界大戦でキャプテン・アメリカがドイツ相手に大活躍もいい。がしかし、アースキン博士と超人誕生の話が戦争とどう関係しているのか、その説明が足りないので、慌ただしくあらすじを見ているような気分になってしまう。
愛国心を喚起する戦意高揚映画である。Wikiで見ると、コミックのデビューは1941年3月。アメリカの参戦は真珠湾攻撃がきっかけなので、それ以前のことである。しかし、デビュー作の表紙ではキャプテン・アメリカがヒトラーを殴っているというから、ドイツを敵と認識していたのだろう。作者の意図なのか、背後に政治が動いていたのか分からないが、戦意高揚と徴兵の役割を果たしたのは間違いない。そんな政治色の強い映画を、いまなぜに? ブッシュのアメリカは戦費で疲弊し、経済的に先が見えない状態。イラクからも撤退し、いまさら戦争でもないはずだ。とすると、経済的に危機にあるアメリカを、国民挙げて救おう、というメッセージが込められているということか? 強かったアメリカを忘れるな。リスクを恐れず、自己犠牲の精神で未来を切り拓こう、というわけか。
敵がヒトラー直接ではなく、ドイツ人のアースキン博士が生み出したもうひとりの超人であるというのも興味深い。アースキンは、ドイツのためにシュミットという超人を生み出した。しかし、本来、悪のシュミットは悪を増幅させ、世界制覇を狙う。もちろんヒトラーのナチをも敵に回して、だ。それに対するキャプテン・アメリカ=スティーブは、愛国心にあふれているけれど、虚弱体質。その正義感と犠牲の心を増幅させ、キャプテン・アメリカへと変貌を遂げる。本来はアースキン博士が生み出した兄弟であり、表裏一体の関係にあるシュミットとスティーブが戦う物語は、アメリカ国内の2大政党や、ブッシュvsオバマという関係をも想起させる。敵は、外にはない。内にあるのだ、とでもいうように。
さて、現在。極点付近で、飛行物体が発見される。中に、キャプテン・アメリカの盾が…。1941年ノルウェーの教会。ついにシュミットが発光物体を手中にする。同じ頃、アメリカでは虚弱体質のスティーブが、なんとか軍隊に入隊するべく苦労していた…。というのが発端。飛行物体の謎はラストで解明されるけれど、発光物体についての説明はほとんどない。秘められたパワーがあり、シュミットはそれを武器に応用するのだけれど、そもそもあの物体は何なのだ? テキトーでもいいから、少し説明して欲しかった。
アースキン博士はもとはドイツの研究者。で、現在は米軍のために働いている。一方、ナチのヒドラ部門の長にシュミットがいる。後半で、シュミットも実はアースキン博士が誕生させた超人だと分かる。「我こそはアースキンの最高傑作」といいつつ、スティーブに劣る部分があることも自覚している。この辺りの前提となる部分が、説明不足。アースキンはナチにおいてどういう存在=位置づけだったのか? ヒトラーとの関係は? そもそもの出自は? ということが知りたい。本来は平和を願っていたが、ヒトラーによって人間兵器をつくるよう命じられ、心ならずも…というような背景がないと、説得力に欠ける。また、醜く生まれてきたシュミットの屈折した感情も、彼が世界制覇を目的とする根源にはあるかも知れない。その辺りの心のひだ、心理状態がないから、この映画は人間ドラマとして薄っぺらなものになってしまっていると思う。それと、アースキンやシュミットに関する女性あるいは家族関係が描かれないのも物足りない。
人物が薄っぺらなのは、全体に言える。この映画で人間らしく描かれるのはキャプテン・アメリカ=スティーブと友人のバッキーぐらいで、あとは将棋の駒のよう。女性将校のペギーもしかりで、ほんのちょっとしか登場しない金髪の秘書の方がよほど魅力的だ。話を動かすためのシナリオになってしまって、人間の心に迫れていない結果だろう。
でもって。超人として生まれ変わるスティーブだけれど、潜入していたヒドラ党のスパイにアースキン博士を殺され、薬液を奪われる。この追走劇は疾走感があったけれど、なぜヒドラ党が薬液を奪ったのか、がよく分からない。おそらくシュミットは自分の所でも超人を製造したいのだけれど、技術が及ばないということなのだろう。でもそれなら、アースキン博士を誘拐した方が早いだろ。で、アースキン博士が死んだせいでか、スティーブは戦争債券キャンペーンのドサ廻りをさせられる。というくだりもよく分からない。だってスティーブはすでに超人なのだ。なぜその力を活用しよう、と軍は思わないのか。変だよな。たまたまバッキーの所属する部隊が全滅・あるいは捕虜に? という場面に出くわして実力を発揮するのだけれど、うなだれてないで動けばよかったじゃないか。
でまあ、以後はキャプテン・アメリカとなって大活躍。シュミットもナチとは無関係に世界制覇に向かうのだけれど、シュミットとナチの関係がわからない。もうナチは敗戦間近だから、どーでもいいのかい? ナチとヒドラ党の確執はないの? てな具合に突っ込みどころも多く、メインストリームもいまいち説得力がない。
でまあ、あれやこれやで(というのは、このあたり眠くなっていて記憶がなんとなくしかない)シュミットを倒し、乗っていた飛行艇が北極に墜落。というわけで冒頭につながるのだけれど、次のシーンでスティーブは1941年のベッドに寝ている。が、実はそれは現代で、セットの中だった、というオチはミエミエ。ま、それでもいいんだろうけど。でまあ、そこにサミュエル・L・ジャクソンが近づいてきて、現代の敵のために働けとかなんとかいうんだけど、サミュエル・L・ジャクソンって、同じような役回りの人物をこれまでにも演じているよなあ。題名は忘れちまったけど。で、クレジットの後に、続編のお知らせがあった。2012年8月公開となっていたけど、1年後って、長くないか?
・ドイツ軍の巨大戦車登場。パラレルワールドの第二次大戦なのか?
・バッキーは入隊後すぐに軍曹。ってことは、再入隊なのか? スティーブも、あっという間に将校。なんか、よく分からんね。
・この映画、女はひ弱な男が嫌いだからマッチョになろう、というメッセージも込められてしまっている。けっ、だな。
・戦闘シーンは「スター・ウォーズ」に似てる。でも、ヒドラ党の光線銃に対して、米軍の銃も互角以上に戦えている。青い発光体の威力は、あんまりないのではないのかな。
・キャプテン・アメリカの参謀的兵隊たちは、バッキーも含めて各国混成部隊みたい。東洋人もいたりして。どういう意味があるのか分からない。
・最初の方で、未来のクルマをPRしてた男が、いつのまにか米国軍の研究者として出ているのも突然すぎる。
・エンドクレジットが、2D版なのにやたら立体感があって面白かった。
ツレがうつになりまして。10/20MOVIX亀有シアター4監督/佐々部清脚本/青島武
亭主(ツレ:堺雅人)が鬱になり、外資系IT会社を退社。1年以上ぷーたろーしている間、売れない漫画家の妻(ハルさん:宮崎あおい)があれやこれや日記につけた日常を見せていくスタイル。モチーフとして鬱は悪くない。タイムリーだしね。けど、この夫婦、いろんな意味で恵まれている。
所沢らしいが、持ち家らしい一軒家に住んでいる。子供がいない。失業保険とハルさんのイラストで1年もたせるというのは、負担が少ないからできるんだろうと思う。ごく一般の住宅ローンあり子供の学費大変です、なんていう夫婦にはできない話だ。
ツレの性格が几帳面に設定されている。まるで、几帳面が鬱になるようなえがきかただけど、そりゃ違うだろ。神経症と鬱は違うのだ。鬱はズボラでもなるんじゃないの? それに遺伝的要素も大きい。誤解を与えるような描き方が気になった。
ツレの鬱の症状が、あまり伝わってこない。堺雅人のへらへら顔も原因だと思うけど、鬱病になって笑顔なんてそうは見せないのではないの? もっと深刻に落ち込む様子が描かれて然るべきではないかと思った。自殺念慮も、屋上の縁を歩くシーンと、ハルさんが仕事に集中していて相手にされないとき、浴場で首をつるシーンがあったけど、切迫感が伝わってこない。電車のホームを歩いていて線路に呼び寄せられる感、屋上から下界に吸い込まれたいと願う感じが、ない。浴場のシーンは、あまりにもミエミエで、失礼ながら笑ってしまった。一般人がつい、鬱の人を疎ましく思ってしまうことがあるけれど、ハルさんの立場を分かってあげる余裕もなくなってしまうのだろうか? あれで、自分が疎外されていると思ってしまうほどならば、一般人にとって大きな負担だよな。もちろん、病気だから仕方がないというのは分かるけれど、まるで知恵遅れの子供に接するようにしなければならないなら、面倒を見る一般人の方も、ストレスがたまってしまうだろう。「なんでこのぐらい」と思いがちだしね、鬱に対しては。
そんな鬱病患者に対して、この映画に登場する他人は、やさしく理解してくれる。フツーそんなに理解してくれないぞ。傍目には一般人=健康にしか見えないんだから。なのに、心に重いものを抱え込んでいる。そんな鬱病患者を理解してくれる人なんて、めったにないぞ。そんな立場に立ったツレの姿も見てみたかったね。
退職届を出して以後も、数週間、会社に出ているツレ。しかし、出社時の苦痛がいかほどのものか、病者が甘い。満員電車に乗れない自分、ひと駅ひと駅、降りながら、やっと、這うように出勤する姿ぐらい見せろよ。吐き気、脂汗、呼吸困難…。そういうの、描けよ、と思った。最後に出勤で、ハルさんがツレと一緒に電車に乗って「こんな電車によく堪えられたね」というシーンがあるけれど、乗客の数が少なすぎるだろ。すき間もあるし。もっとぎゅうぎゅうの電車に、宮崎あおいも 詰め込んで、悲鳴を上げさせろ、と思った。
この夫婦のラッキーなのは、ツレのプータロー時にハルさんのマンガが売れ、ツレは講演で収入が得られるようになることだな。フツーそんなこと、あり得ないからね。
まあ、でも、講演のシーンで、在職中にクレームの電話をかけてきたコンピュータ音痴の、出来ないさんが来ていたこと、は伏線がよく効いていた。とはいえ、マンガが売れました、で終わって欲しかったので、講演のシーンは押しつけがましくてやなんだけどね。あと、ハルさんのイラストが立体的になって宙を舞うシーンは、気持ち悪い。あんなアニメ、要らんだろ。
ハルさんの両親は床屋で、東京に住んでいるようだけれど、母親が一度会いに来るだけで、あとは電話。ツレと義父母の会うシーンはない。家族で応援するなら、ツレと義父母の交流も画にした方がよかったんじゃないのかな。
義父母の床屋に来ていた書店の次男坊が鬱で自殺、というエピソードは、わざとらしくて好きではない。
吹越満が演ずる同病患者の接近や、ツレの兄の「がんばれ」連呼(鬱病患者に「がんばれ」は禁句というのを前提として出しておかないと、観客は分からんと思う)、IT会社の同僚・上司ともいいやつばかり、とか、あまりにも出来過ぎで、要素を適当に配置しただけのシナリオには、味も厚みもない。もうちょい、話を練って欲しかったな。この映画が、鬱病患者のほのぼの映画だとしたら、対極に存在するであろう、リアルで暗く、おぞましい鬱の物語も見てみたい気がする。
そうそう。恢復してきて、ツレが勃起するようになったのは、いつ頃なのか、というのも気になったんだがね。
アクシデント10/21新宿武蔵野館2監督/ソイ・チェン脚本/セット・カムイェン、ニコール・タン
原題は"意外"。英文タイトルは"Accident"。香港映画。あの、しつこく予告編をやってた映画だ。アクションシーンが多そうな印象だったけど、実はとても叙情的で、詩的な側面のある映画だった。
最初に、女性の交通事故のシーン。何を意味するかは、後になって分かる。で、次は街中。車を運転するオヤジ。エンストする女。歩く男。鮮魚トラック。ビルの2階の男…。などが散文的に切り替わって映し出される。知った顔は、香港映画でお馴染みのラム・シューだけ。いったい何なのだ? 戸惑っていると、オヤジのクルマのフロントガラスに垂れ幕が落ち、それにいらだって垂れ幕を引き千切ると…上からガラス片(?)がどどっと落ちてくる。警察や救急車が来る。女や男たちは消えていく…。鮮魚トラックの男が捨てた吸い殻を、メガネの男が拾い上げる…。ん? というのが、最初のステージ。
実は彼らは暗殺集団で、請け負った仕事を自然死のように見せかけるプロ。Webに寄れば、ブレイン(リーダー)、ふとっちょ(ラム・シュー)、女、おやじの4人。ところが、おやじにボケが入りかけていて、捨てた吸い殻もそのせいだった…。で、新しい仕事(父親を殺してくれ)という仕事でも、トラブルる。挙げ句、交通事故が発生し、ふとっちょが巻き込まれて事故死。ブレインは、自分たちが他の暗殺集団に狙われている…と疑心暗鬼になり、ひそかに1人で攻撃を開始する…というところまでが2ステージ目。で、3ステージ目が、静かなる戦いとなる。いつも大雑把すぎる香港映画にしては、緻密で静謐、スリリングな映画。「カンバセーション-盗聴-」「シャーキーズ・マシーン」「張り込み」なんかに通底する雰囲気があって、なかなかだ。
ただし、いところと、いい加減なところが混じっているのが、やっぱり香港映画。たとえば、あり得ないのが殺し方。ブレインは「確実性」を重視しているようだけれど、実際はかなり偶然性に頼った殺害方法になっている。冒頭、最初の殺しも、被害者が垂れ幕を自ら引き千切らなくては、ガラスが落下しない。2つめの、父親を殺す手法も、雨の日に路面電車の架線にヒモをひっかけ、垂れたヒモをターゲットに触れさせる、というもの。雨の日に凧なんか揚がらないだろ! それに、ボケおやじは仕込みの風船を始動させるのを忘れている。映像だけではどんな具合に仕掛けが上手くいったか分からないけど、あんな殺害方法はムリだね。
父親殺害を依頼してきた息子は、父親が牛耳っている不動産を自分のものにしたかったらしい。あと、保険金。で、息子が接触する保険屋、をブレインは監視するようになる。息子が死亡証明書をもって行っても、保険屋が受けとらなかったりしたからだ。ひょっとして黒幕は保険屋で、息子に父親殺害依頼をさせてブレインたち暗殺集団をおびき寄せ、父親殺害と同時に路面電車を暴走させてふとっちょを殺した、と。次に狙われるのは、おやじ、女、そして自分…。なので、ブレインは保険屋のマンションの階下に部屋を借りる。…あのマンションの大家は、父親殺しの息子だったかなあ? 違ったかなあ。よく分からん。
で、盗聴するのだけれど、テープに録らず手帳にメモする、というのが香港流か? なんとアナログ。ただし、この辺りで、観客も「ほんとに保険屋が黒幕か? ひょっとして、ブレインの思い込みじゃないのか?」と気づくと思うのだ。俺もそう思ったし。結果的に、そうだった。だから、後半の失速につながって、意外性がなくなったのだよ。残念。
痴呆のおやじに関しては、人間を深く描いていた。けれど、ふとっちょや女、ブレインは記号的でしかなかった。もうちょっとブレイン、女に深みを持たせ、ブレインの葛藤を描いていたらよかったのに。とくに、冒頭の事故は、ブレインの恋人か妻か、いずれかのはず。なのに、回想シーンでしか登場しない。もったいないことだ。暗殺者集団でありながら、つねに何かの影に怯えている、という側面を描き出していれば、後半にも厚みが出たのにね。
保険屋には彼女がいて、もうすぐ結婚するような感じだった。ラスト。ブレインが、すべては自分の思い込みで、保険屋は自分を狙っているのではない、と気がついたとき、すでに設置した仕掛けのトリガーは作動してしまっていて、しかも、そのとき日食が発生したことで狙いが保険屋から保険屋の彼女に移動してしまい、彼女が犠牲になるという結末を迎える。男が残り、女が死ぬ。これは、意識してブレインの場合と同じにしているのだろうから、それを上手く利用しなくちゃ、ね。
というわけで、ラストは早々とネタバレしてしまい、それ以上の意外性もなく終わってしまったので、それまでのいい感じが削がれてしまった。とはいうものの、全体の雰囲気、とくに、保険屋を狙う過程の気だるく淡々としたバラードのような情景は、捨てがたい。
・ブレインが自室の扉のすき間に枯葉を突っ込んでおくのだけれど、侵入者を感知するにしては、枯葉は目立ちすぎだろ。
・自室に入ると、彼女がいる。え? 同居してるのか? と思ったら、どうやら回想らしい。分かりにくいよなあ。・保険屋の下の階に入ったとき、ブレインは鏡をいじって太陽の光を反射させる。それはラストを予兆させるものではあるけれど、あの時点で光を操作することに意味はあったのか?
・さらに、出前持ちを呼びつけたのは、どういう意味があったのだろう? わからなかった。
・ふとっちょが殺され、おやじも殺された。ってことは、相手はブレインのグループのメンバーを知ってる、ってことだ。なら、もっとはやくブレインも殺されてもおかしくはない。と考えれば、ふとっちょもおやじも、単なる事故だと分かっていいはずだ。しかし、ブレインが自覚するのは、2階から転落したおやじの入院している病院に行ってから。ううむ。それは、ちょっと遅すぎないか? 気づくのか。
・ブレインの部屋に空き巣が入って、それまで貯めた金がそっくり盗まれているのだけれど、あの空き巣に関する後日談がないのはつまらない。何かで活かしてしかるべきではないの?
東京公園10/26ギンレイホール監督/真山真治脚本/真山真治、内田雅章、合田典彦
そうか。真山真治だったのか。分かりそうで分からない。意味ありげで、たいした意味はない。なにかありそうなそぶりだけ、なわけだ。
カメラマン志望の光司(三浦春馬)。公園で子供連れの女性(百合香=井川遙)を撮っていたら、歯科医に声をかけられる。彼女の尾行して、撮影してくれ、と。「フォロー・ミー」かよ。光司は夜、バーテンのバイトをしている。馴染み客は美咲(小西真奈美)、美優(榮倉奈々)。光司はヒロと同居していて、デジカメをヒロに借りて尾行を開始する…。でも、初日から百合香に見られてしまうのだけれど…。でも、映画は、気づいた、とは描いていない。ある日、美優が家にやってくる。3人で居るのだけれど、霊も居るらしい…と見ていたら、なんと、ヒロが霊で、光司には見えるけれど美優には見えない、らしい。で、美優はヒロの元カノらしい。このあたり、伏線があってなるほど、ではなく、え? ええっ? ってな感じ。後半、光司が大島に向かうシーンがある。病室に、母親。そして、美咲と光司。で、美咲が「お母さん」なんて呼んでる。え? えええ? ここで分かるのは、美咲と光司が兄弟、それも、義理の兄弟であること。光司の父親と美咲の母親が結婚し、2人は義理の姉弟になった。でも、美咲の方が9歳年上。ってことは、美咲の母親の方が光司の父親より年上なのか? なんて思いつつ見てた。しかし、この辺りの設定は、後出しじゃんけんみたいで、なんだよそれ、という気分。伏線もなく、突然明かされる。ぜんぜん、なるほど、と合点がいくこともない。いったい、何を狙ってのことなのだ?
他にも分からないことはある。光司は一軒家にヒロと住んでいたが、あれは両親の家なのか? というのは、両親は3年ぐらい前にリタイアして大島に行き、仕事もせず遊んでいるらしいからだ。60歳前と思うけれど、息子を大学にやりながら働かないというのは、どういう暮らし向きなのだ? と、別のことも考えてしまう。で。ヒロっていうのは光司の弟? と最初思っていたのだけれど、そういうわけでもなさそう。むしろ、他人? 他人を家に下宿させていたのか? それとも、あの家自体が一軒家のような下宿宿なのか? 他に住人も大家もいなかったけど…。しかも、両親と離れ離れに暮らしているのに、姉と弟が一緒に暮らしていないというのも、変だろ。経済的なことを考えたら、美咲と光司は同居するのがフツーだ。ひょっとしてそれは、義理の姉弟を意識してなのか? いや、でも、後半の話の要は、なんと、美咲が光司にずっと惹かれていた、という、意外な話になってしまうのだから、本来なら重要なことだ。なぜ2人は同居していないのか。美咲が「一緒にはなれにない」と抑えていたような話があったけれど、そのせいで、なのか? この辺り、ほとんど納得できる説明がない。というより、「フォロー・ミー」を縦糸にしつつ、横糸をテキトーにどんどん足していってるだけで、何を伝えたいのかがまったく分からない。
分からないといえば、百合香と亭主の歯科医、そして、光司の尊敬する写真家の話も「?」だ。だって、部屋に貼ってある写真は井川遙そのもの。百合香は井川遙。ひょっとして同一人物? と観客が思っても不思議ではない。なのに、光司自身がそれに気づかないのだ。それを美優(美咲だっけ?)に指摘されても「似てる? 似てるかなあ?」なんて言っている。で、エンドクレジットで気づいたんだけど、くだんの写真家の名前は志田杏子。志田光司、志田美咲と同じではないか。ってことは、親戚か何かだったのか? 聞き取れなかった台詞に、その説明があったのかな? でまあ、それはさておき。歯科医は妻の浮気を疑り、妻が当日行く公園をメールしてくると、その公園を光司に伝える。光司が公園に行って写真を撮る、を繰り返してきた。その公園の場所は、東京の中心から左巻の渦になっているらしいのだが、それはアンモナイトを暗示しているという。歯科医と百合香は考古学が縁で知り合い、歯科医がアンモナイトを発見したことも思い出にあるらしい。…ということが分かると、歯科医は疑念を捨てて妻と娘の元に走り寄っていく…とまあ、アホな展開というか、わけの分からない収拾のつけ方をする。なんなんだ?
いっぽうの、美咲が光司を好き、を知らなかったのは光司だけで、美優に言われて驚く始末。さらに、バイト先のオカマのマスターにも指摘される。で、最初に出会ったときから、互いに見つめ合っていたのを思い出したりして、なんなんだよ。あほか。でもって、光司は姉のマンションを訪れ、被写体になれ、と迫り、撮る。の結果、キスしてしまうのだけれど、そもそも光司は姉のことを女と意識していなかったのに、そりゃないだろ。ええい。どうせなら、次のシーンは翌朝のベッドでもいいんじゃねえか、と思ったんだけど、そうはいかなかった。なんだ。つまんない。
結局のところ、光司の住まいか下宿かに美優がやってきて、ヒロの部屋だったところに転がり込む。美優とヒロの間に入る混むすき間はない、なんていっていたけれど、美優がやってくると同時にヒロの亡霊も消えてしまい、光司と美優は家具を買いにIKEAに行く。そこで、歯科医夫妻にでくわし、会釈を交わす、という終わり方。だから、なに? 思わせぶりに設定、要素を散りばめて、なにかありそうで何もない、の典型だな。読み込んでもムダだから、やめておこう。
最近、テレビやCMでよく見かける榮倉奈々だけど、演技をしていないときの清楚で純朴な感じが失われ、ボーイッシュで勝ち気なキャラになっちまってる。彼女は、ちょっと奥手で繊細な感じのキャラが合うような気がするんだけどねえ。まあいいけど。
軽蔑10/26ギンレイホール監督/廣木隆一脚本/奥寺佐渡子
エンドクレジットで気づいたけど、中上健次の原作だったのね。しかも、奥寺佐渡子のホンではないか。なのに、なんでこんなにつまんねえんだ。つまらない上にムダに長い。2時間15分も要らんだろ。いまからでも遅くない。70分ぐらいに編集し直したら、少しは見られるようになるかもしれんぞ。
この映画、台詞がとても聞きづらい。さらに、妙な訛りでしゃべるので、なに言ってるのかよく分からない。分からない状態でごちゃごちゃやってるので、見ていてもちっとも面白くならない。やっぱ、言葉も大切なんだよ、映画では。
カズ(高良健吾)が、兄貴にどやしつけられている。組にナイショでなにかしていてたらしい。楽屋で真知子(鈴木杏)らが化粧してる。ポールダンスのショー。むちむち寸胴な鈴木杏は、ぜーんぜん色っぽくない。と、そこに青年が3人ぐらい襲撃し、なかのひとりカズが半裸の真知子の手を引いて逃げる。駐車場。カズが真知子を犯そうとするが、拒まれる。でも、「前から私のこと見てたね」「好きだ」なんて会話で、止めてあったクルマで高飛び(といっても、目指すはカズの田舎)する。以上の流れがよく分からない。カズと組、兄貴の関係はどうなってるのだ? 襲撃は、何のため? 後から、競馬賭博をしていた店を襲ったらしいことが分かる。でも、どういうメリットがあるのだ? 逆に追われて危険だろ。しかも、逃亡先が田舎って、いまどきありかよ。すぐ足がつくだろ。それに、カズと真知子の仲だけど、競馬賭博をしていた店の女をチラチラ見ていた程度で、どうして「一緒に逃げよう」となるのだ? 真知子にとって、なんのメリットもないだろ。道行なら、それなりの設定をしっかりしなくちゃ説得力がない。(Webサイトを見たら、600万の借金を帳消しにする代わり、組に断りなく賭博をしていた店を襲撃した、と書いてあった。組員ではないらしい。ふーん。台詞が聞き取れなかったんで、分かんなかったよ。それにしても、なんで2人は田舎に逃げる必要があったのだ?)
途次、2人のセックス描写がある。鈴木杏は寸胴貧乳で、性経験も少ないのか、ぎくしゃく。下手くそ。で、転がり込むのは、最後の方で和歌山・新宮と分かる。中上健次の原作と知っていればすぐ分かるんだろうけど、読んでないからね。
カズの父親は土地もちで、不動産収入があるらしい。叔父の酒屋を手伝うが、昔の仲間に引きずられ、叔父に真知子の素性を云々されてやめてしまう。田舎のこと、真知子はなじめない(という描写はあまりないんだけどね)。よく行くのが、カズの祖父の妾だった女(緑魔子)のやってる喫茶店。彼女に「あんたは、結局、カズさんの嫁にはなれない。それが田舎のしきたり」といわれ、新宿に戻ってしまう。カズは、バカラ賭博で借金をつくり、首が回らない。でも、真知子を追って新宿にもどり、「結婚しよう」と連れ戻す。
結婚式は若い者どうし、らしいが。客というか友人がたくさんでてきて驚いた。いったい誰の知り合い、という設定なのだ? フツーの若い男女もたくさんいたけど、このシーンでしか登場してなかったよな。
あとは、だらだら、ぐだぐだ。カズが金を借りたのは大森南朋が演じる男だけど、ヤクザかと思ったらWebには高利貸しとある。で、カズと仲間は「バカラ賭博の店を襲えばいいんだ。新宿でもそれでチャラになった」とかいって、襲撃する。目的は金? でも、奪ったカバンには拳銃とわずかな金…。それが発覚し、仲間2人が大森南朋らにボコボコにされるのだけれど、バカラ賭博主催してたのは大森らなのか? よく分からん。分からんまま、カズは父親にも見捨てられる。なぜか分からないけど、大森たちは緑魔子の店も燃やしてしまう。借金で追われているというのに、カズと真知子は緑魔子の葬式に出るのだけれど、そこに大森がやってくる。ううむ。で、カズの仲間たちはどうしたんだ? 残りの2人の運命は? 1人は死んだはずだけど、カズは罪悪館ないの? 緑魔子に対してもだよな。で、最後は大森の事務所に単身乗り込んで、銃で2人射殺するが、大森に刺され、大森のスキをみて銃を奪い返し、撃ち殺す。って、そんなうまくいくものかいな。傷口を押さえて街を歩くカズ。真知子がタクシーに乗せていずこかへ向かうが、息絶える…って、血みどろのカズを後部座席に「はいどうぞ」と乗せるタクシーがど゜こにいる?
あれこれ、すべてが突っ込みどころで、細かいこと言ってられない。人間をちゃんと描いていないし、背景も説明不足。行動も意味不明。田舎に戻って両親に金をねだる26歳って、いまどきそんなのが映画の主人公になり得るのかよ。どうしようもないバカ、愛すべきダメ人間を描くなら、もっと他にもやりようはいくらでもあるはず。でも、この映画は首をひねるようなエピソードの積み重ねで、ちっとも説得力がない。共感もない。同情もない。ちっとも愛すべきダメ人間になり得ていない。つまり、人物に魅力がないのだよ。
鈴木杏だって、大森が「女をよこせ」というほどいい女でもないわけで。むしろ、カズの昔の女、蒼井そら、の方が可愛いくらい。人間をちゃんと描かない映画は、つまらないよ。
魚介類 山岡マイコ10/27シネ・リーブル池袋1監督/梶野竜太郎脚本/梶野竜太郎
少しは期待した俺が悪かった。ここまで、どーしようもないとは思わなかった。アイドルになりたいレベルの、イマイチ以下の役者をそろえて、トンデモストーリーを下手くそに演出していくだけ。というか、この映画に演出があるのかどうかも疑わしい。役者も演出も大学の映研以下だから。何らかのテーマについて物語性豊かに人物も描いていく、なんていう志はかけらもない。そりゃ、海から制服着た女子高生が「あたし、魚介類で〜す」とやってきてもいい。ときどき名前が変わって「出世魚で〜す」とやってもいい。でも、それなりに、何かは欲しい。でも、この映画には何もない。こういう、何もないからっぽの映画を撮るのも、ひとつの才能かも知れないが、俺は遠慮したい。
むしろ、疑問に思うのは、こんな映画をモーニングショーやレイトショーにすることもなく、堂々と朝から夜まで平常公開していることだ。10時30分の回に、客は10人程度しかいなかったぞ。シネ・リーブルで上映して、だれが利益を得るのだろう。製作サイドから劇場に補償金が出ているのだろうけど、そこまでして一般公開する必要性って、なんなのだ? のちのちビデオで地道に儲けようということなのかも知れないけど、でも、こんなんでビデオも売れないだろ。誰が買うんだ? しっかし、映画およびビデオ業界は分からない。こんな映画のためにスクリーンひとつつぶすなら、もっと他に上映に値する映画があるだろうに…。
というわけで、内容については言及するに及ばず。
アジョシ10/27ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/イ・ジョンボム脚本/イ・ジョンボム
韓国映画。「アジョン」かとばっかり思ってた。「アジョシ」なのね。で、意味は「おじさん」。英文タイトルは"The Man from Nowhere"。話の基本構造は単純なんだけど、解明の手順が複雑で尾鰭がつき、登場人物数が多いので途中で分からなくなる。「こいつ、誰だっけ?」てなもんである。でも、いちいち思い出してもいられない。だって、物語はどんどん進んで行ってしまうから。なので、テキトーなところであきらめて、成り行きに任せることにした。ビデオでゆっくり確認する、ぐらいの態度でないと、詳細までカッチリと分かることはないと思う。いや、ビデオで見ても曖昧=アバウトな部分はかなりあるのではないかと思う。でもま、それも含めて、スピード感とハードボイルドと情緒がからみあったクライムムービー。
髪を鬼太郎みたいにしているテシク(ウォンピン)。質屋らしいが、幅一間、窓口しかないような店だ。近くの少女ソミと交流がある。
次に、クラブでの麻薬取引を現行犯逮捕しようとする警察の様子。ところが、踊り子が麻薬を盗み取り、逃走。警察は、逮捕を逃す。いっぽう、組織は麻薬を横取りした人物を追求する…。で、このときミスを犯したマンソクが、組織のボスにけちょんけちょんにされる…。
横取りした踊り子は、ソミの母親。結局、バレるんだけど、彼女はヤクをテシクに預けていた…という関係で巻き込まれる。という流れ。あとはもう、組織のボス、その組織にヤクを提供していたマンソクとジョンソク兄弟(弟の狂気じみた風体も魅力的。兄の方は極悪人に見えないのが残念)、その用心棒、人身売買のババアなんかが絡んで、話はめくるめく急展開。疑問点や曖昧な部分はあるけれど、最後まで一気呵成に見せるのが凄い。アクションがどーのこーのというより、演出がいい。街中の様子、人の動き、何気ない動作などにも気配りされていて、背景と登場人物が一体感をもって描かれている。人物だけが目立つとか、不自然になるとかがなくて、絵になってるって感じかな。逃走するクルマが通り過ぎる後(だったかな?)に、住民の婆さんが水を撒くところがあったけど、とても自然だった。他にも、用心棒ラムが誤射した女がトイレの中で倒れているところとか、何気にすごい。
痛いシーンは、山のようにある。血も相当流れる。殴る蹴るも盛りだくさん。でも、惜しみ惜しみ見せるのではなく、流れの中の一環として見せるので、どんなシーンも先に動いている感じがでている。そして、肝心なものを見せない演出や、一瞬の静止画で提示する手法なども上手い。ま、惜しむらくは、そういう手法がほとんどなので、説明がほとんどないこと。記憶力がよくないと、置いていかれる。ただし、画像の記憶が大切であって、覚えられないほどの名前が登場することはない。映画は説明ではない。見せるのだ、ということをよく知っているのだろう。
で、途中からは、掠われたソミを救うことに全力を挙げるテシクを追うことになる。そもそもテシクはかつて軍の秘密工作員で…。という、ミエミエの伏線があるのだけれど、ムチャクチャ強いというわけでもないところがミソ。そこそこ殴られるし撃たれるし捕まる。それでも、甦ってくるのだけれど、それが自然に描けている。
ただし、最後に兄マンソクのところに単身乗り込み、部下を簡単に撃ち殺し、英語しかしゃべらない用心棒ラムと一騎打ちし、マンソクを射殺するまでの経緯は、ちょっと出来すぎ。もうちょい、スーパースターでなくしてくれた方がよかった。それにしても、ラムが次第にテシクに敬意を払うようになる経緯が、うまく描けていた。ラム自身も、影のある用心棒を魅力的に演じている。それはそうと、防弾ガラスのクルマだからと安心するマンソクに対し、テシクは同じ場所に何発も銃を撃ち込んでガラスに穴を開ける。のだけれど、撃ちつづけた銃弾は、どうなったのだ? 跳ね返って銃口に逆戻り、しないのか?
組織のボスと、マンソクとジョンソク兄弟との関係が、いまひとつ分かりにくかった。兄弟がソミと母親を誘拐し、その2人を救うため、ボスの頃へ中国人という設定で単身乗り込まされるのだけれど、改めて兄弟がボスのところにヤクを届ける役割を担った、ということでいいのかな。ついでにボスを壊滅させるため、警察も呼んでいた、と。そういうことかな? でも、得意先を失うことになるんじゃないかな、と思うんだが。何発もビンタを食らった復讐ということか。
それにしても、警察は兄弟のことをひとつもマークしていなかった、というのは変だよな。それじゃ、あまりにも警察が無能すぎると思うぞ。
あと、警察が質札を見てテシクが質屋であることと住所を知るのだが、あれはどこで、誰の質札なのだ? ソミの母親? でも、だったらテシクの住まいのすぐ隣なはずで、時間をかけて行くようにも思えない。
ババアと仲間に誘拐される男は、あれは何だったのだ? 臓器提供者を誘拐しているだけなのか? 代わりにソミをババアに渡すのは、どういう交換条件なんだろう…。
あと、殴られた若者で、テシクに使われるやつがいたけど(トイレまで誘導するシーン)、あの若者はどういう若者だったっけ?
しっかし、兄弟は臓器売買を大がかりにやってるうえに、麻薬工場までつくって子供を運び屋として使っている、という設定。どんだけ規模が大きいんだ? 子供を運び屋にするという設定は、近頃見た映画の中にもあったような気がするんだが、どの映画かは忘れた。
テシクの妻が殺される回想シーンがあったけど、誰になぜ狙われたのか、まつたく分からなかった。あれは、分からなくてもいいよ、ということなのかね。
というわけで、なかなかレベルは高いのだけれど、妻を回想する部分は、お涙頂戴の人情劇なので、なくてもいいんじゃないのかな、と思った。最後に単独で乗り込むにあたって髪を切る必要性も、ないような気がするのだが…。
などと、解明したい部分はずいぶんとあるのだけれど、入替制だから1回しか見られないしね。昨今の映画は、それが悩みのタネであるよ。
それにしても、ソミ役のキム・セロン(「冬の小鳥」の孤児)は、またしても幸薄き少女を演じ、泣かせてくれる。天才だな。
キラー・インサイド・ミー10/28キネカ大森1監督/マイケル・ウィンターボトム脚本/ジョン・カラン
原題は"The Killer Inside Me"。「私の中の殺人者」って、ネタバラシじゃないのか? 実は私の妄想…というような話かと思ったら、違った。ちゃんと自覚している殺人者だった。テキサスの田舎町の保安官助手ルー。町外れにいる娼婦ジョイスを追い払うよう命じられるが、彼女に殴られて本能が目覚めたのか、ジョイスに入れ込み通いはじめる。いっぽう町の大物の息子でルーの同級生のエルマーも彼女に入れ込んでいた。てなわけで、ルーはエルマーの父親チェスターに「別れさせてやる」と話を持ち込んで1万ドルせしめ、ジョイスと2人で町を出る話がまとまった。…と思ったら、話が意外な方向にずれていく。なんとルーはジョイスを殴り倒し、そこにやってきたエルマーを撃ち殺し、拳銃をジョイスの手に握らせる。なんなんだ? と思っていたら、どーもルーは生来のサディストで、痛めつけ殺すことに生き甲斐を感じていた変態だと分かってくる。おやおや。
オープニングタイトルから50年代〜60年代の雰囲気がむんむん。画面にも当時のクルマが目白押し。気だるく、閉塞的な南部の町の様子がいい調子で伝わってくる。
クライムムービーだけれど、ノワールではない。むしろ、陽がかんかん照りなぐらいだ。残忍さも、ジョイスを殴るところだけで、あとはさっぱりしたもの。おどろおどしさも、どうしようもなさも、破滅的な何かも感じられない。
でまあ、2人を殺したルーは、その後も証人となるガソリンスタンドの少年や浮浪者なんかも上手く始末し、最後は婚約者のエイミーまで殴り倒して殺してしまう。証人殺しはついでかも知れないけど、婚約者まで手にかけるとなると、こりゃもう変態・ビョーキ。それで性感帯がびりびりくるのかな、と思うしかない。
問題はこのビョーキの寄って来る所なんだけど、映画はどうやら遺伝説をとっている。父親は町で1人の医師だった。6歳のルーは母を亡くしたが、父親は知り合いか何かの息子マイクを養子として迎える。ルーには2歳年上の兄ができた。その兄が幼児にイタズラしてどーのこーの、ムショから出て来たけど、チェスターの会社で仕事中に事故死…なんて過去があるらしい。事故の原因はチェスターにあるとかいう話もでてくる。いや、少年期のルーとマイクのイメージも出てくるんだけど、一瞬だったので「?」。あの、クルマの中で幼女のカラダをまさぐっていたのは、ルーだったのか? よく分からなかった。どっちかによっては、話の核心がまた変わってくる。あれがルーなら、マイクは身代わりで刑務所に? いずれにしても、義兄の死についてはそれ以上明らかにならないのが、不満。
それと、少年ルーはお手伝いさん(?)なのか後妻なのか知らないが、若い女性に「これ、あんたのパパがやったのよ」と、叩かれた尻を見せられるのだけれど、これが現在のルーの変態サディストにつながるということらしいが、彼の屈折した人格にもっと迫ってもよかったんじゃなかろうか。
ルーを演じるケイシー・アフレックって、いまいち存在感が希薄というか薄っぺら。あれは演技なのか。何を考えているか分からない部分は多少あるけれど、底の見えない不気味さまでは感じられない。娼婦ジョイスは、ジェシカ・アルバ。エロかわいい娘だと思っていたら、もう30歳なのね。映画でも頬が少しコケていたけど、薄幸な感じがでてた。でも、彼女の背景は見えないし、エルマーではなくルーを選択した理由も分からない。その意味で、存在感はそれほど感じられなかった。婚約者のエイミーは、ケイト・ハドソン。いやーな感じのあばずれ的女をよく演じてた。けど、寸胴だからあまりエロっぽくない。にしても、この2人に惚れられるルーって、なんなのよ、という気がしてしまう。2人とも、ルーの不気味さにはこれっぽっちも気づいていない、のだから。それは町の人々も同じで、外面はいいやつ、ってことになるんだろうが、どーも納得がいかないなあ。
で、ジョイスは殴られ病院に行き、死んだ、ということになっていたのだけれど、死んだことが台詞でしか伝えられていなかった。なので、後から実は…となるんじゃないのかなと思っていたら、やっぱりそうなった。ミエミエの伏線なので、意外性はぜんぜんなかった。
Webで見たら、ルーを疑う検事以外に、弁護士ってのも登場してたのね。なんか、顔が似てたから、組合の議長も含めてあまりよく区別がつかなかったよ。

 
 

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