2011年11月

カウボーイ&エイリアン11/2上野東急2監督/ジョン・ファヴロー脚本/マーク・ファーガス、ホーク・オストビー、スティーヴ・オーデカーク
原題は"Cowboys & Aliens"と、複数形になってる。エイリアンが19世紀後半のアメリカ西部にやってくる、というお話。でもコメディではない。
荒野。気を失っていたジェイク(ダニエル・クレイグ)が気づく。腹に傷。左手首に得体の知れない腕輪…。いったいどういう話なのか、好奇心が湧く。強盗3人組(頭の皮をぶら下げていた)に囲まれるが、瞬時に倒してしまう。ジェイクは何者? 彼が宇宙人? など、疑問符だらけ。
記憶を失っているジェイクは町で医者に手当てしてもらう。町では親が金持ちの乱暴者パーシーに金蹴りをくらわせ、バーに入ると、エラ(オリヴィア・ワイルド)がつきまとってくる。が、突然、保安官らに囲まれる。ここも一撃で倒すのかと思ったら、エラに殴られて監獄へ…。パーシーと一緒に連邦保安官の所に送られようとしたそのとき、空から母船と飛行物体が! 飛行物体は、住人をどんどん掠っていく。パーシーも保安官もバーの奥さんも、それなりの登場人物がどんどん掠われる。なんとか逃げたジェイク。腕輪を飛行物体にあてると、光が発射されて一機打ち落とす! てなわけで、パーシーのオヤジで町の有力者カーネル(ハリソン・フォード)、その手下のインディアン、医者、エラ、保安官の息子(少年)、バーの主人、ジェイクたちは掠われた人たちを救出に出かける。…という話。
人物の性格づけがしっかりしている一方で、得体の知れない人物も混じっている。そんな有象無象がよく描き分けられている。カーネルは金の亡者で、使用人に対して過剰に厳格だけれど、親バカ。そのカーネルに育てられたインディアン。バーの主人は銃を撃ったことがなく、カミサンはそんな亭主を尻に敷いている。西部なんて嫌だ、と思っている保安官の息子。カーネルを恐れず、正義を貫き通そうとする保安官。人のいい医者。で、得体の知れないのがジェイクとエラ。エラのオリヴィア・ワイルドは黒木メイサ風の冷徹な目玉の美女で、そういうメイクもその素性が分かると納得。ジェイクも、ほんとはいいやつ、と思っていたら全然違っていた。西部劇には定番の設定と、人を裏切るような設定と展開が渾然となって中盤過ぎまでぐぐっと引っぱっていく。
でも、その後がいまいち。まず、エイリアンが、フツー過ぎ。「エイリアン」のキャラをベースにCGで描く様子は、たんなる怪獣。知性があるように見えない。胸が割れて手がでてくるなんて、いまどき流行らないだろ。そもそも、あいつら裸なのか?
彼らの狙いが金の採掘って、おい、いくら西部劇だからって、金鉱掘りの宇宙人ってのはないだろ。だいいち、目的は何なのだ?
母船を地中に埋め込み、地下からちゅうちゅう金を吸い上げている…って、アリか? この宇宙人。
一行はインディアンの一群、ジェイクがリーダーだった強盗団なんかも引き連れ、宇宙船へ。外では大乱闘。ジェイクら数人は母船の中へ。…でも、要するにこの段階ではダンジョン内での追いつ追われつ、爆破するしない、みたいな話になっていて、凡百のアクション映画と同類になってしまっているのだ。これじゃ、ぜんぜんワクワクしないよ。
実はエラは宇宙人で、人間の姿は仮のもの、らしい。エラの星も、地球に来ているエイリアンに襲われ、その復讐に来ているらしい。のだけれど、どうやってやってきたのかは、描かれていない。エラは一度エイリアンに殺されてしまうのだけれど、インディアンに荼毘に付されて、生き返る。ありゃ。なんで? しかも、エラの容姿は仮の姿なんだから、素のままで生き返ればいいのに…。もうひとつ希望をいえば、オリヴィア・ワイルドのセクシーショットが欲しかったかも。
とか、後半になるにつれアラが目立ってきて、しかも、なんとなく展開が読めるようになってきて、俄然つまらなくなってしまった。もうちょい、ヒキを考えた展開はできなかったのかね。
ジェイクが一緒に暮らしていて、エイリアンに掠われたのは売春婦のはずなんだが、映像は清楚な女性で登場。ジェイクも、ほんらいは強盗のボスなのに、まじめそうな人物として登場する。そのギャップが、最後までぬぐえなかった。なんか、ジェイクはいいやつ、っていうイメージを必要以上に植え付けているような気がするな。
宇宙人は、人間を食べていたんじゃないよな。解剖したりして、地球人の特性を調べていたんだろ? 違ったっけ? でも、解剖しなくてもスキャン装置かなんかでできるぐらいの科学は発達しているんじゃないのか?
ジェイクは護送馬車から逃げるとき、パーシーの手を折ったはずだけど、すぐ治っちまったのか?
それにしても、最後にエラが身を挺して母船を爆破するんだけど、自分を犠牲にしなくても爆破できたんじゃないのかな。ムリやり犠牲の心を見せているような気がしてしまう。ここでも、また再び甦る、手はなかったのかね。たとえば次は、ジェイクの妻で元娼婦の容姿となって現れるとか、ね。ダメかね。
夜よ、こんにちは11/4キネカ大森2監督/マルコ・ベロッキオ脚本/マルコ・ベロッキオ
イタリア映画。原題は"Buongiorno, notte"。「おはよう、こんばんわ」という意味なのかな?
解説によると「イタリア最大の事件と呼ばれたモロ元首相誘拐暗殺事件を犯人側の視点から描いた社会派人間ドラマ。史実とフィクションを織り交ぜ、暴力で社会を変えようとすることの無意味さを浮き彫りにしていく。1978年3月16日、極左武装集団“赤い旅団”がイタリアのアルド・モロ元首相を誘拐、声明文を政府に送りつける。人質はアパートの一室に監禁され、その世話を唯一の女性メンバー、キアラが受け持った。テレビはこの事件を大きく取り上げるが、メンバーたちは、自分たちの行動が社会から支持されていないことを知り、次第に苛立ちを募らせていく…」だと。製作は2003年、日本公開は2006年。すでに社会主義は落ちぶれた時代の映画。当時のイタリアの情勢や、モロ党首が誘拐される経緯なども分からないので、よく理解できていないと思う。こういう政治的な映画は、知識がないと難しい。
赤い旅団、あったねえ。モロ首相。なんとなく覚えてる。バーダー・マインホフのドイツ赤軍、日本赤軍…。いろいろあったけど、みんな過去の遺物になっちまった。本気であんなことを考えていた連中がいただなんて、笑っちゃうぐらいバカげている。でも、当時はみんなマジだったんだからオソロシイ。実際、多くの人の命が失われたのだ。革命という宗教にとらわれた連中は、どうしようもない。ま、現在なら新興宗教に走るかオタクになるような輩なんだろうけど。
夫婦を装った2人が部屋を借りる。モロ党首を監禁するためだ。小柄なヒゲがリーダー格で、他に長髪男と夫役の男。女性のキアラの4人。2ヵ月近くモロ党首を監禁する。誘拐シーンはなく、ニュース映像がテレビに映されるカタチで表現される。それを淡々と見る4人。木箱に入ったモロ首相を運んできたのは男3人だけど、彼らが誘拐したのかは分からない。他に実行犯がいて、4人は監禁役なのかも知れない。中心になるのは、キアラ。彼女も、赤い旅団の行動は正しいと思っているけれど、少し揺れがある。とくに、ローマ法王が解放するよう発言すると、モロ党首を死刑にする必要はない、と思うようになる。けれど、なぜそうなるのかは、よく分からない。
キアラは図書館で働いている23歳。両親はすでに亡く、叔母ぐらいしか親戚がいないみたい。で、叔母から法事に呼ばれるのだけれど、そこに図書館の同僚の青年を連れていく。参加者のなかに第二次大戦のパルチザンがいて、日本で知られるところのカチューシャを歌う。その歌詞が、パルチザンの抵抗の歌になっているのに驚いた。ロシアの元歌がそうなんだろうか? ファシストと戦った彼らは、いま(1978年当時)なお社会主義を信じているらしい。そんな環境で育ったから、キアラも極左に走ったのかも。実際、赤い旅団は正しい、と話す人もいたりして、イタリアというところはスケベ男だけの国じゃないのだな、と思ったりした。
キアラは、自分の正体が図書館でバレていやしないか、つねに心配している。一度など、エレベーターに赤い旅団の星マークが書いてあったりして、かなり気にしている様子。ある日、図書館に警官が押し寄せてくる。さては発覚したか。けれど、逮捕されたのは、例の、法事につきあってくれた同僚だった。彼が赤い旅団なのか、別の組織なのかは知らないけれど、公的機関の中にも極左は紛れ込んでいた、というわけだ。
しかし、呆れてしまうのは、彼らの論理だな。リーダーがモロ首相と話すシーンがよく登場するのだけれど、まるきり問答無用。裁判といいつつ、はじめから出来レースで、死刑を宣言してしまう。連想したのは日本赤軍の内部でのリンチで、あれなんか赤い旅団なんかよりいい加減で、ドロドロした私怨を革命のために、といいながらリンチ殺害していったのだから。
それと比べると、この4人はかなり自由。夫役の男にはつきあっている彼女がいて、どーしても会いたいからと監禁場所を公然と脱出してしまう。もっとも翌日には戻っていたけどね。他にも、カナリヤが逃げたからとカーテンを開け放ち、ベランダに出てしまうのは長髪男。なんていい加減なやつらなんだ。
キアラの揺れは、幻想で表現される。でも、幻想、と分かるような表現ではない。フツーにモロ党首が監禁部屋から抜け出て、ふらふらと室内を歩いたりする。ああ、これはキアラの夢あるいは願いなのか、と分かってくるけれど、表現技法としては稚拙な部類に入ると思う。もうちょいなんとかできたろ。ま、CG一切使わないような映画なので、制約はあるかも知れないけど。
1978年当時でも、赤い旅団の行動に疑問を持っていたメンバーはいた、と、この映画はいいたいのだろうか? この誘拐事件の犯人は逮捕されているらしいが、そういう事実がベースになっているのかな。それとも、監督の願望? いずれにしても、いまさらそんなことをいわれてもね、という思いがする。こんな映画が、いま、なぜ創られる必要があったのか、よくわからん。
他にもわからんのことはあって、題名にもなっている「夜よ、こんにちは」なんだが。これ、モロ党首が誘拐されたとき、彼の私物として登場したんだよなあ。なんでモロ党首がシナリオを? と思っていたら、キアラの同僚の青年が書いているのが「夜よ、こんにちは」だった。で、そのシナリオをキアラに読ませているらしい。って、どういうことだ? このシナリオ何だか、最初に誘拐犯が見つけて、で、テーブルの上から滑らせるようにして落とすんだが、同じような仕草を法王もしていた。誘拐犯たちへの手紙を書いていて、その書きそんじ(?)をテーブルから落としていた。あれにはなにか、意味があるのかな?
キアラがモロ党首を解放する、という幻想(らしくないが)シーンだけど。3人の内1人は、モロ党首が食べなかった食事を食べていて、それには睡眠薬は入っていないはずなのに、眠り込んでいるのは、なぜ?
愛の勝利を ムッソリーニを愛した女11/4キネカ大森2監督/マルコ・ベロッキオ脚本/マルコ・ベロッキオ
イタリア映画。原題は"Vincere"。「勝つ」という意味らしい。解説によれば「独裁者ムッソリーニの愛人でありながらも歴史から抹殺された一人の女性の知られざる悲劇の物語を描く伝記ドラマ --- 1910年代前半のイタリア。イーダは、社会党の党員として政治闘争に身を投じていたムッソリーニと出会い、恋に落ちる。やがてムッソリーニは過激な言動がもとで党を除名となり窮地に陥る。そんなムッソリーニをイーダは私財をなげうって献身的に支えていく。その後イーダはムッソリーニの子どもを出産、認知も受けるが、正妻ラケーレがいたムッソリーニは、政権を奪取するやスキャンダルを恐れてイーダとその息子の存在を闇へと葬り去ろうと動き出す」とのこと。
で、見終えてからWikipedia見たら、実在の人物として書かれている。でも、本当に愛人だったかどうか、どーも怪しい。この映画も、イーダの妄想、と切って捨てている部分もある。冒頭、ムッソリーニの演説を聞くイーダ、警官に追われるムッソリーニとキス(カモフラージュのため)するイーダ、イーダの部屋を訪れセックスするムッソリーニ…いずれも前後の脈絡なく接点だけが提示される。演説のシーンはイーダの片思いでもいい。でも、たまたま夜に出くわしたり、突然、家にやってきたりは奇異すぎる。前後に出会いや会話があって然るべきだ。でもそうはせず、接点だけを描く。ということは、すべてイーダの妄想、といっているようなものだ。なので、物語の進行も疑問符付きで見ていた。子供ができた、とムッソリーニに告げる場面では、ムッソリーニの取り巻きが、イーダを別の部屋につれていく。なんとムッソリーニは、正妻と息子とともにいるではないか…。さらに話が進んで、戦争のシーンで、看護婦姿の正妻がイーダを罵倒する。この辺りも、接点だけを描き、流れを描かない。淡々と、出来事を個条書きのように映像化していく。ムッソリーニがどのように歴史の階段を登っていったか、というエポックにもほとんど触れない。ドラマとして見たとき、感動すべきところがあまりない。
そうした映像に交互して、ニュース映像が、飛び出す字幕つきで登場する。時代を感じさせる手法だけれど、単にそれだけ。なので、だんだん飽きてきて、目をつむったりしているうちに、少し寝てしまっていた。覚えているのは、息子がどこかの寮に入れられるシーン。顔写真のような映像が、ときどき挿入されるの何なのだ?
気がつけばイーダは精神病院で、息子に会わせろ、といっている。…あらら、20〜30分ぐらい寝たのか。精神病院とはね。、イーダは妄想癖なのか。それで精神病院へ入った、ということか。冒頭の出会い3シーンも、振り返ってみればイーダの主観で描かている。顔写真のような映像は、病院の証明写真。ムッソリーニの正妻と子供を見る場面の妙な違和感も。窓下に現れて、これはあなたの息子、と叫ぶシーンも…。なるほど。監督も、イーダは本当にムッソリーニの愛人だった、という確証はないのだ。彼女の妄想がそうさせたのだ。という視点が色濃くなっているのは、そのせいなのだ。こうなってくると、愛がどーのというより、恐ろしいパラノイアの映画なわけで、感動もへったくれもない。とくに同情も共感もできなかったなあ。
イーダを演じるジョヴァンナ・メッゾジョルノは、美しい。マリオン・コティヤールの可愛らしさを薄め、上品にした感じ。とくに、冒頭部分の出会いに絡む部分では裸体も見せているのだけれど、なかなか魅力的。実年齢は36歳ぐらいなのだね。次第に歳を取り、やつれ、老いていく過程をよくまあ、演じきっている。
Wikipediaを見るとイーダは1937年に57歳で死亡。息子も1942年に27歳で精神病院で死亡。ムッソリーニは1945年に61歳で死亡。ってことは、イーダはムッソリーニより4歳ぐらい年上だったのだね。政治的に抹殺された、という印象よりも、頭のおかしいストーカー、という印象の方が強かった。
はじめの方で、盲人たちが手を前の人間の肩に乗せ、固まって歩くシーンがあって、たぶん世の中や人々が視野を失っている時代を象徴するメタファーだと思うけれど、ああいう表現はすきだ。でも、場面以外にそうした表現手法がとられているところはなかったかも。病院内でチャップリンの「キッド」を見て、自分の境遇と重ねてみるシーンは、あまりにもベタすぎて泣けないよなあ。
というわけで、なんだかどっちつかずの中途半端なスタンスのまま終わってしまっている。この手の映画をつくるなら、やっぱイーダを信頼するという立場から描いて欲しかったような気がする。監督自らが疑問を抱きながら、じゃ、観客もついていかないぜ。
スクリーム4:ネクスト・ジェネレーション11/6新宿ミラノ1監督/ウェス・クレイヴン脚本/ケヴィン・ウィリアムソン
原題は"Scre4m"。いわずと知れたシリーズ4作目。ネクスト・ジェネレーションだから知らない役者が総ざらえかと思ったら、あに図らんや、以前の主要キャラが総ざらえ。あのとき、の揺り返しというべき事件が始まったのには驚いた。次々登場する頭の悪そうなエロっぽい女の子、次々と発生する殺人事件、ホントに意外だった真犯人。正直いって前作までのストーリーなどほとんど忘れているのに、前作までの話を踏まえた展開がどんどん進んでいく。しかも、登場人物の関係など忘れているのに、人物がうじゃうじゃでてくる。こりゃまいったな。と思ったんだけど、でも、そういう辻褄は合わなくても十分に楽しめた。これは、話がよくできているからなんだろうと思う。前作までの話がかっちり頭に入っている人なら、きっと、サイコーに楽しめたんじゃないかと思う。
冒頭、電話を取る娘。で、2人殺される。が、それは「スタブ」というホラーシリーズの中の話…と語り始める娘2人(「ショーン・オブ・ザ・デッド」を見てる)も殺されて、これも「スタブ」という映画の中の話。という二段オチ。で、その映画を見ていた2人が「ソウ4」を話題にし始める…で、そこで惨劇。やっと"Scre4m"のタイトルがでる。なかなか笑わせてくれる。
10年前の生き残りのシドニーが本を書いた。再び地元に住むらしい。そこに、保安官のデューイと元レポーターのゲイルが登場。かつての仲間がそろう。3バカ娘がいて、その1人はシドニーの従姉妹。その元カレ。高校の映研の2人。デューイの部下の女性警官。シドニーのマネージャー。なんてところがうじゃうじゃでてきて、青年たちの関係なんか、もう分からん。あとはもう、次々と殺されていくんだけど、意味があるんだかないんだか分からん。なんか、いちばん無関係そうで実は…なのが女性警官なので怪しいなと思っていたのだけれど、外れ。で、彼女の共犯者としてシドニーの従姉妹の元カレを疑っていたのだけれど、これも外れ。なんと、シドニーの従姉妹が本命で、映研の長髪君が共犯だった。うへー。どうも、前回の惨劇で生き残ったシドニーに嫉妬して、自分も目立ちたかった! というのが動機らしい。まったく。しかし、従姉妹に嫉妬し、母親までも刺し殺して有名人になりたがる心理、なんとなくありそうな気がするから怖い。ま、映画はぜーんぜん怖くなかったけど。でも、10年前の物語をきっちり踏まえながら、新たな話を展開させる脚本が上手くできている。今回もしっかり生き残ったシドニー。また何年後かに「5」ができるのかな?
警官2人。「ブルース・ウィリス以外の警官はみな殺される」「退職間近な警官と、新妻に子供が出来た設定だと死ぬ」「ハンサムじゃない警官は大丈夫だ」「ははは」なんて会話してると、グサッと刺殺される。で、ひとこと。「ダイ・ハードと違うじゃん」…笑える。3バカの1人(HEROSのヘイデン・パネッティーア)に電話がかかり、ホラー映画のトリビアクイズが始まる。間違えると、誰だったか、を殺す、とかいう設定。せっぱ詰まってるとき、クイズかよ。笑っちゃう。でも、後から考えれば、これは共犯者を臭わす伏線になってたかも。「最近のホラーはリメイクが多い」とかも。この手のホラー映画の小ネタがてんこもりで、楽しい。
殺し方も残酷というより笑っちゃうようなのも多い。サスペンス性はほとんどなく、怖いところはひとつもない。殺しを、うはうは楽しめる映画だった。
デューイ役のデヴィッド・アークエットとゲイル役のコートニー・コックスは、実際の夫婦なのだね。
ヤコブへの手紙11/8ギンレイホール監督/クラウス・ハロ脚本/クラウス・ハロ
フィンランド映画。原題は"Postia pappi Jaakobille"。英文タイトルは"Letters to Father Jaakob"。
終身刑のレイラが恩赦で出獄に。所長が「ここで働け」というので、いやいや向かった先は、田舎の牧師館。そこには盲目のヤコブ牧師がいた。ヤコブの頼みは、送られてくる手紙の朗読と、返事の代書。でもレイラはやる気が出ない。…てな話。
終身刑が突然出獄? しかも、明日からここで働け、なんて都合がよすぎるだろ。というのは、後半への伏線でもある。それはさておき、この映画、レイラとヤコブと郵便配達夫の3人の映画である。もっともミステリアスなのがレイラ。太って巨漢、ふてぶてしい顔つき、素っ気ない態度、横柄な口の利き方…。どんな女なんだ? とんでもない惨殺事件でも引き起こしたのか? と、誰もが思う。ところが分かってみれば同情できる犯罪で、だからこそレイラのあの性格、態度はなんなのだ? と疑問に思ってしまう。レイラのキャラクター造形の時点で、この映画は方向を間違っているように思う。だって、姉に暴力を振るう姉の亭主を刺殺したからって、性格があんな歪むはずがない。そもそも父親に殴られる妹(レイラ)を、姉がかばってくれた。その姉のためにしたことではないか。それに、そういう話なら、レイラはもっとひ弱で内向的で臆病で大人しいイメージだ。あんな、叩いても蹴飛ばしてもびくともしないような頑丈な女じゃない。
文面を読むだけで差出人まで指摘するヤコブ牧師。その奥の深さを知るようになるレイラだけど、でも、態度にはなかなかでない。変わらない日常に変化をきたす最初は、郵便配達夫の侵入だ。深夜の物音。レイラがはがいじめしてみたら、配達夫。本人は「牧師の安否を確認にきた」というが、レイラは盗みだという。本当のところ、どうなんだろう。封書に入った札束に感づいていただろうけど、それを盗みにはいるか? おかしいのは、翌日から配達夫が牧師館にこなくなること。レイラが追求すると、「手紙がきていない」と逃げる。それは事実らしいのだけれど、ちょっと前まで束で来ていたものが急に来なくなるということがあるか? 納得できる展開ではないね。
さらに、手紙が来なくなったことが原因なのか、牧師は変調をきたす。突然、「今日は結婚式だ」と身支度をして教会に行く。が、誰も来ない。レイラは牧師に「あなたは手紙に見返りを求めている」みたいなことをいう。手紙がきていることを、牧師は自分の存在理由としていた、と言いたかったのだろう。打ちのめされてしまう(?)ヤコブ。
この後のレイラが、これまた変な行動。こんな牧師館でてってやる、と荷物をまとめタクシーを呼ぶが、結局、乗らず。では、雨漏りでも直すのかと思ったら、なんと首つりの準備…。なんで急に? そんな弱さがあるとは思えないふてぶてしさだったのにね。それにしても、首つりロープの縛り方を知っているのが不思議。どこで覚えたんだ? で、その首つりもヤコブ牧師に感づかれて中止。
というわけで、弱った牧師にレイラはニセ手紙をでっち上げて読み上げる。が、それは自分の生い立ちと事件のあらまし。それを聞いて牧師は、レイラの姉も熱心に手紙をくれていたひとりだったと知らせる。そして、レイラの手紙を見せる。…が、弱り切った牧師は、倒れたまま死んでしまう…。最初にいったように、このオチはいいとして、設定や人物造形、エピソードやディテールがアバウトすぎる。
警官と教会からクルマが来て、ヤコブ牧師の遺体を運んでいくのだけれど、これは明らかに当日のことと思われる。レイラは荷物を手にしていて、おそらくヘルシンキの姉の住所を尋ねるのだろう。それはいい。しかし、ヤコブ牧師は変死だ。しかも、釈放されたとはいえ殺人犯と2人暮らし。まず、レイラを数時間尋問し、勝手に移動するな、と命ずるのではないだろうか。まあ、映画のウソだ、というれれば致し方ないけどね。
BIUTIFUL ビューティフル11/8ギンレイホール監督/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ脚本/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、アルマンド・ボー、ニコラス・ヒアコボーネ
スペイン/メキシコ映画。原題は"Biutiful"。登場する人物や設定、エピソードはそれぞれに面白いんだけど、いったい何を言いたかったのかがさっぱり分からない。暗く思い話をつぎつぎと繰り出し、風呂敷を広げてとっちらかし、そのまま散らかして終わってしまった感じ。何も収拾されていない。だから何なんだ?
中国やアフリカ(セネガル)からの移民が、低賃金・過酷な環境で肉体労働をしているのは、スペインでも同じなのだな。ウスバル(ハビエル・バルデム)は、中国人がつくった偽ブランド商品をアフリカ人露天商に卸したり、中国人を建設現場に派遣したり、法律すれすれの仕事でかすりをとって暮らしている。40歳ぐらい。血尿。どうやら膀胱がん。余命2ヵ月。
ウスバルは悪人ではない。むしろ善人だ。なぜ現在のような仕事をしているかは分からない。この点が、この映画の弱点かも知れない。ひねりというか、話に厚みがないのだ。エピソードばかりに気が入っていて、人間そのものに抉り込んでいない。こんなもんだ、という前提で進んでいく。観客のもやもやは、最後まで消えない。
ウスバルは、死人の声が聞ける。霊も見えるらしい。ところどころで天井に貼り付いた霊が映るんだけど、それ以上の追求がない。ウスバルの妻マランブラは極度の躁鬱病で、別居中。2人の子供の養育権は、ウスバルにあるらしい。マランブラは、正確には分からないけれど、デリヘルみたいなことをやってる様子。ついでに、ウスバルの兄とも関係しているらしい。機嫌がいいときは子供に優しいけど、悪いときは下の男の子を殴ったりする。2人はいったんヨリが戻るが、最後はマランブラが病院行きで、ウスバルの手に子供が残る。でも、余命わずか…。
ウスバルと兄は、父親の遺体を火葬して墓を売る、という話をしている。父親は反フランコでメキシコに逃亡したが、現地で死亡。20歳ぐらいだった。そのとき、ウスバルは母の胎内にいた、らしい。防腐処理をした遺体はかなりきれいで、画面にもでてくる。驚いたのは墓なんだけど、マンションみたいな建屋のになってて、上の方からクレーンで釣り下ろすのだ。遺体を火葬して小さくし(保管するのか撒くのか知らないが)あの区画を売って金にしようということなのかな。そんなに兄弟は金に困ってるのか? この経緯はよく分からない。
兄が建設業をやってて、ウスバルは知り合いの中国人手配師から不法滞在の中国人労働者を提供してもらい、斡旋する。その手数料をもらっているらしい。この兄弟の関係も、長い時間だらだら映している割りに、中味がない
あと、大きな流れとしてあるのは、中国人か。地下のタコ部屋に30人近く詰め込んで、朝早くから夜遅くまで働かせている。その、リーダー格の男とその家族。その男の同性愛の彼氏。使われている連中はいいとして、使っている何人かの背景がよく分からない。同性愛の彼氏は、共同経営者的な関係なのか? 心優しいウスバルは中国人のためと安物のストーブを買ってくるが、これがもとで25人が二酸化炭素中毒死。ばれたらヤバイとリーダーは死体を近海に捨て、それが発覚すると同性愛の彼氏を口封じのために殺す…。悪い連鎖もいいところだけれど、いっぽうでアホかとも思う。
ウスバルは、露天商なのに麻薬に手をだしたせいでセネガルに強制送還された男の妻と子供を自宅に住まわせたりする。ほんと。心が優しい。じゃなんであんな底辺で悪事すれすれに暮らしているのだ? という疑問はやっぱり消えない。
あれやこれや、ウスバルは先輩霊媒師に相談に行く。見えている霊を恐れている風にも見えない。そういえば、先輩霊媒師が「子供に」とくれた石のお守りはなんなのだ?
そして、画面は冒頭の雪山に…。一緒にいたのは、通じている警官だったのか。何気ない会話をしているけれど、いったい何をしているのだ? ひょっとしてウスバルは、警官を口封じのために殺すためなのか? なんの説明もないけど、そこまでやる気なのか? わからない。でもウスバルは、自分の命が、もうないじゃないか。
父親を知らないウスバル。初めての対面は、その死体とだった。2人の子供を残して死のうとしているウスバル。ちょっと似ていると言えばそうだけど、それで何を言うつもりなのだ? 善良な心を持つ天使のような男がいて、悪事すれすれのことをしながら、不法移民を救い、妻には恵まれなかったけれど子供には愛情を注いでいる。なのに、ガンで死ななくてはならない…。そんな踏んだり蹴ったりの人生を、なぜ送らなくてはならないか? とかいうことか? でも、それじゃどこにも救いがないじゃないか。未来も見えないじゃないか。ううむ。隔靴掻痒。だからなんだってんだ! と、強く言いたい。
★と思って、Webで他人様の感想をいくつか見ていたら、冒頭とラストは三途の川、という書いている人がいた。おおっ。そうか。あれは、死んで間もないウスバルと、三途の川の番人との会話なのか。それで煙草を差し出したりしていたのか。番人の顔が警官に似ていたので、勘違いしてしまっていたよ。なるほど。いや、スッキリ!
東京オアシス11/10ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/松本佳奈、中村佳代白木朋子、松本佳奈、中村佳代
クソ、とは言わんが、ゴミ、レベルのどうでもいい映画。作り手の自己満足以外の何物でもない。「かもめ食堂」「めがね」と同類のスローライフな映画と言われているけれど、その域に達しないばかりか、下手な物真似で終わっている。最後まで語らないことで語ったつもりになっているのも、同じようなことかもね。
トウコ(小林聡美)を軸にしたオムニバスで、3つの話がつながって描かれる。で。監督には2名クレジットされているけれど、誰がどれを演出したかは書かれていない。そもそも、3つの話にそれぞれ題名もない。シナリオは、3人クレジット。白木朋子がベースを書いて、監督2人が手を入れたのだろうけれど、どのようにつくられたのか、手がかりもない。困ったものだ。
1話目は、カガノ(加瀬亮)とトウコの話。延々と車窓風景。西から新宿に向かう。コンビニをうろつくカガノ。外でアイスを囓っていたら、急に駆け出す。カガノはトウコが車道に飛び出しそうになるのを止めようとしたらしい。トウコは、死ぬつもりはなかった、という。そして、乗せて行ってくれ、とレタスの積んである小型バンに相乗りし、東京タワーを見つつ高速を抜け、明け方どこかの海岸に着く。そして、別れる。それだけの話。会話はあれやこれや。どうでもいいようなことばかり。最後に、何かから逃げてきたんでしょ、といわれ、同意するトウコ。それだけ。退屈な話だ。
セリフが棒読みみたいにハキハキしてる。すべてを言葉に出して会話するようなセリフ。まるでラジオドラマみたい。もっと感情を込めて、間を取って、タメをつくり、表情で見せる会話もできたろうに、そうしないのはなぜ? それと、港区あたりで12時前ぐらいに乗って、明け方に高速を降りて、海岸…って、それってどこよ? 映画だからどうでもいいって? そんなこたあないぞ。
翌日(?)なのか。トウコは平気で街を歩いている。2話目。映画館。キクチ(原田知世)とバイトの青年が、最後の客を送り出す。老女(もたいまさこ)がひとり、とまどっている。キクチはバイト君に言って、家まで送らせる。キクチが館内を見ると、トウコが眠っている。「あ、トウコさん」。2人は知り合い…。で、2人の会話になる。ここでトウコが女優でキクチが脚本家で、かつて同じ映画会社にいたらしいことがわかる。キクチは突然会社を辞め、シナリオもやめ、映画館の店長として働いている。1話で、カガノがトウコに「見たことのある人」といったのも道理で、また、トウコが「近くで撮影があって抜けてきた」といったのも本当のことかも知れない、と分かる。でも、それはそれだけのこと。トウコはキクチに「また書きなさいよ」といって別れる。帰りしな、バイト君とまたすれ違って。バイト君が「さっき言った、見たことのあるような人とすれ違いました」とキクチに言う。ま、その程度しか人の記憶に残らない女優、ということか。老女を送ってていたせたのは、老女が連れがいなくなったから、という理由らしい。連れが最初からいたかどうかも怪しい、と思いつつ家まで送らせた、らしい。でも、送らせた理由は分からない。ひとりでも帰れそうなものなのにね。
3話目は、ヤスコ(黒木華)の動物園の面接から始まる。彼女は美大を5浪中の23歳でいまだバイト未経験。思うところがあってもぎりのバイトに応募した。動物園を散策中、トウコに声をかけられる。話はあれやこれや。キモになるのはツチブタで、夜行性なのでその姿は一日に一度、エサの時にしか見られない、と。それで話をしながらエサの時間を待つが、ツチブタは繁殖のため兵庫県の動物園に行っている、というオチ。それだけ。
相変わらずトウコは東京を歩いている。ラストシーンは、三菱一号館の前を歩くトウコ。
というわけで、たいしたメッセージもない。ドラマもない。つまらない。
小林聡美と原田知世は、大林宣彦に見出された女優。小林ともたいは、「かもめ食堂」「めがね」で一緒。小林、もたい、加瀬亮、光石研、市川実日子は「めがね」で一緒。小林、加瀬、もたい「プール」で一緒。なんとなく、いろいろデジャヴュな映画ではあるけれど、それ以上の何かは、特になかった。
マネーボール11/14上野東急監督/ベネット・ミラー脚本/スティーヴン・ザイリアン、アーロン・ソーキン
原題も"Moneyball"とそのまま。「不公平なゲームに勝利する技術」という意味らしい。映画は、オークランド・アスレチックスの2002年の活躍を描いている。
まずは実際の映像を使って、2001年のリーグ・ディビジョンシリーズの様子。記録を見ると、この年はマリナーズが7割1分6厘という勝率で西地区優勝。アスレチックスは6割3分で2位なので、ワイルドカードでの出場。でも、東地区1位で勝率5割9分4厘のNYYに負けてしまう。GMのビリー・ビーンはヤンキースタジアムに行かず、アスレチックスの球場でラジオを、たまに経過だけちょっと聞いて、というような案配だ。ということは、2001年のアスレチックスも絶好調で、ということは古い体質での選手集め、育成も功を奏していたってことなんだよな。これは、あとからデータを調べてのことだから、見ているときは分からなかった。まあ、そういうことを言っちゃうと、2002年の奇跡が色褪せちまうからあえて言わなかったのかも知れないけどね。
で、この活躍を受けてチームの3本柱が抜けてしまう。一塁手のジアンビはNYYへ。1億2000万ドルとかいってたな。7年総額120億? 凄っ。デイモンはレッドソックスへ。こちらは700万ドルから800万ドル(ぐらいだったな)へアップらしいが、そのわずかな差額を提示すれば残るというのに、オーナーは「払えない」で、移籍してしまう。あともう1人、なんとかいうのがいて、その3枚看板が抜けてしまった。爺さんスカウトたちは、ジアンビやデイモン並の選手が欲しい、と思う。でも、ビリーは、金が使えない。この絶対的矛盾にぶち当たってしまった。
ビリーがデイモンを確保しようと電話する相手は、あれはデイモンの代理人か何かだろうか。デイモン1人ではなく複数の選手を担当しているみたいで、駆け引きをしてるみたいな感じ。あの手の代理人が、選手の年俸をつり上げているんだろう。
ビリーは、単身、インディアンズのGMを訪ねていく。相手はGMに成り立てなのか、とても陽気。周囲にはスタッフを侍らせ、ビリーの「あいつが欲しい、こいつをやるから」の申し出に、なかなか首を振らない。こういう直接の交渉もあるわけか。GMって、神経がすり減るような仕事だな。で、そこで、スタッフのひとり、太めの青年ピーター・ブランドに着目する。インディアンズGMとの話が終わると事務室内をうろうろして、ピーターを発見。「お前は何者だ?」という追求が始まるのが面白い。他球団の事務室をうろうろし、ピーターの素性を聞き出し、才能を感じると、ピーターを金で買ってしまうのだから、もの凄い。日本じゃ考えられない。まあ、実際はどうか知らないけど、映画ではピーターは、自分がアスレチックスに売られたことを知らないのだから。
この過程で、ビル・ジェームズという名前がでてくる。とくに説明がないので分からなかったんだけど、どうやらピーターが使っている統計学的手法を導入した人物のようだ。Wikipediaで見ると彼は「野球ライターで野球史研究家・野球統計の専門家」で、セイバーメトリクスを提唱した。そして、「野球には、様々な価値基準・指標が存在するが、セイバーメトリクスではこれらの重要性を数値から客観的に分析した。それによって野球における采配に統計学的根拠を与えようとした。しかし、それは野球を知っているものならば「常識」であるはずのバント・盗塁の効力を否定するなど、しばしば野球の従来の伝統的価値観を覆すものであると同時に、ジェームズ自身が本格的に野球をプレーした経験が無く、無名のライターに過ぎなかったこともあって当初は批判的に扱われた。この理論が一般的に知られるようになった現在でも「野球はデータではなく人間がプレーするもの」という野球哲学を持つ人々からは歓迎されていない風潮がある。一方、メジャーリーグは、公式記録にセイバーメトリクスに基づく指標を複数使用している」という。これを知っているかいないかでは、映画の楽しみ方も違ってくるのだろう。こちらは米国野球に詳しくないので、あとから事実を知るような案配だ。まあ、知らなくてもそこそこ楽しめたけれど、1回目では「ビル・ジェームズって、誰?」という具合。時間が合ったので、つづけて最初の45分ぐらいをもう一度見て、「なるほど」と思った部分も少なくなかった。
というわけで、ピーターはビル・ジェームズの「セイバーメトリクス」に造詣が深かったというわけだ。もうひとつ、ピーターがイェール大学の経済学出身だったというのが大きいようだ。映画では細切れに紹介されるのだけれど、ビリーかかつてドラフト1位でメッツに入団。結局パッとした成績が残せず、スカウトになった過去がある。実はビリーはスタンフォードから奨学金が出るほどの秀才で、スカウトの甘言に説得されて野球界に入ったという過去がある。それをかなり悔いている様子なのだ。それでピーターを雇った、ということに映画ではなっている。
で、ビリーはピーターの分析に従って、出塁率の高い選手を選び出す。これが、肩を壊したキャッチャー・ハッテバーグ。ベガスと女好きの選手。高齢でNYYを追い出された選手。老スカウトや監督は猛反発するけど突っぱねて我を通す。シーズン始めは、ビリーの思惑が外れっぱなし。というのも監督がハッテバーグを使いたがらないからで、ビリーが文句を言っても監督は従わないという、この辺りの分業制が興味深い。雇われ監督であっても、選手の起用は俺がする、といわれると、文句を言えないのだ。それでビリーがしたのは、ペーニャという一塁手をトレードに出してしまい、キャッチャーから一塁に転向したハッテバーグを使わざるを得なくしたこと。凄っ。そんなことまでするのか。
ほかにも、シーズン途中でビリーは不要選手をどんどん切っていく。将来に不安を抱いていたハッテバーグを救ったのもやさしさからじゃない。合理主義の結果なのだ。いや、凄い。てなわけで、強引に我を通し始めた後半戦、アスレチックスの連勝が止まらない。20連勝がかかった試合は、11-0で大勝しているから、ジンクスを破って球場まで行ったっていうのに、なんとあれよあれよで11-12と逆転されてしまう。そこを、例の出番に恵まれなかったハッテバーグの一振りで逆転しちゃうと言う、ホントにそんなことがあったのかというような、出来すぎたドラマで盛り上げる。凄っ。結局、アメリカンリーグの記録を塗り替える20連勝しちゃうんだから、凄っ。
というわけで、2002年のシーズンは6割3分6厘の勝率と、看板が抜けても好成績でデビジョン1位。なんだけど、デビジョンシリーズではツインズに負けてまたもやリーグ優勝できず。残念。まあ、ピーターの「セイバーメトリクス」が証明されたかたちにはなったけれど、ここぞというとき実力が発揮できないチームだったみたいね。それでも、ビリーにはレッドソックスから史上最高額の1250万ドルでGMに誘われる。でも、結局、それを蹴って、現在もアスレチックスのGMをしているらしい。なんと、どこまでもドラマみたいな人生を送っているのだな。
Wikipediaによると、「ビーンが1997年10月にGMに就任してから、2007年度シーズン終了時点までの10年間に積み上げた白星は、ヤンキースとレッドソックスに次ぐアメリカン・リーグ三位の901個[1]。この間、チームをプレーオフに5回導いている。現在では、セイバーメトリクスを根幹となすマネー・ボール型チームと見なされているのは、アスレチックスの他にトロント・ブルージェイズ、ボストン・レッドソックス、クリーブランド・インディアンス、サンディエゴ・パドレス、ニューヨーク・ヤンキースなどがあり、彼等は新思考派とも呼ばれている」という。
アスレチックスの貧乏ぶりは、凄いみたい。トレードされてきた選手がソーダ(?)を飲もうとしたら、自販機はコインが必要だと言われ、怒るシーンがある。
ぺっぺっと紙コップに吐いているのは、噛み煙草?
ビーンの別れた妻が、近くに住んでいるみたい。12歳の娘がいて、彼女の歌う歌が、ビリーの迷いを的確に表見する。このシーンがなかなかいい。で、別れた妻は再婚しているのだけれど、その亭主がデイモンの名前を正確に言えないんだけど、あれは野球を知らないってことなのか? それとも、外人なのでスペルが読めないのか?
レッドソックスからの誘いをピーターに話すと、ピーターは2塁に走るのを怖がるデブの2軍選手のビデオをビリーに見せる。一塁を蹴って、デブは転ぶ。選手にタッチされ、アウトかと思ったら、ホームラン。意気揚々とダイヤモンドを走る。…なんだけど、ピーターは、レッドソックスへ行け、といってるのか? 「未知の世界を怖がってないで、進んでいけ」というようなことを言っているように思えるんだけど、よく分からない。
老スカウトたちが、選手を判断するのに彼女がブスか否か、を材料にしているのだけれど、あの場で名前がでた選手は実際の選手なのかね。それとも、仮名? デイモンについては、ピーターに「点の撮り方を知らない選手。700万ドルの価値はない。放出して正解」と言わせているし、一塁手のペーニャにしても、ひどい扱い。もっとひどいのは、監督だ。でも、監督役のフィリップ・シーモア・ホフマンが名演技。ホントの監督みたいに見えた。
ステキな金縛り11/15キネカ大森1監督/三谷幸喜脚本/三谷幸喜
「ラヂオの時間」「みんなのいえ」「THE 有頂天ホテル」「ザ・マジックアワー」ときての最新作だ。ボルテージは次第に低下している。「ラヂオの時間」の設定・展開の意外性は素晴らしかった。「みんなのいえ」は印象が薄いけれど、つまらなくはなかった。「THE 有頂天ホテル」あたりから変になってきた。グランドホテル形式とかビリー・ワイルダーとか、古き良きハリウッドの形骸だけを真似るスタイルが前面に出るようになって、意外性やスピード感がないがしろにされるようになった。それは「ザ・マジックアワー」でピークに達し、様式的でパターン化された"お約束"的な設定・展開・笑いが主となってしまった。ワイルダーが好きな監督自身は楽しいだろう。でも、見る方は先の読める展開、使い古されたベタなギャグ、のんびりしたスピードを強いられるようになってきた。で、今回の「ステキな金縛り」だけれど、これなんか「幽霊が裁判に出たら面白いんじゃないの?」という設定だけで1本映画をつくってしまったという感じ。それ以上の意外性や裏切りもなく、ただもう漫然と最後までだらだらと2時間22分。激しくも長い中だるみに眠い目をこすりながら、なんとか見終わった。せめて1時間40分ぐらいに縮めてくれたらまだ耐えられただろうに…。
設定がバカバカしいのだから、非現実的でないなどという突っ込みはなし。なのだけれど、逆に、映画の方があまり非現実的な方向に行かないのがつまらないぐらい。もっと派手にバカやったらいいじゃん、と思ってしまう。
冒頭の殺人事件は、いささか分かりにくい。女性2人が取っ組み合って…で、あれ? 顔が同じか? と思ったけれど、でも、分かりにくい。それだけではなく、これが現実なのか、それとも、主人公宝生エミ(深津絵里)が見ていた夢なのか? なんて疑問を持ってしまったぐらい。妙にケバケバしい衣装や舞台装置は要らなかったんじゃないのかな。
次の、宝生エミの法廷でのボケはつまらない…。でも、被告席に榎木兵衛の元気な姿が見えたからいいや。で、本題に入って、山奥のしかばね荘へ行って…というとこいら辺までは、なかなかよろしい。旅館は? あっち、と教えてくれたオヤジが旅館の主だったってのは「ヤング・フランケンシュタイン」でも使ってたけど、昔からある古典的なギャグだよな。
以降の、幽霊・更科六兵衛(西田敏行)が証人になることになって云々の話は、展開がのろのろしてるし、結局、それ以上の意外な展開もないのでだんだん飽きてくる。
まあ、ストーリーを見せるというより、監督の趣味に頼るところの「過程を見せる」ような映画なので、意外性は最初から考慮していないのだと思うけれど、趣味に走った「過程」がそれほど面白くないのがつらいところ。いまどき1940年代に使われたようなギャグやエピソードは、刺戟が少なすぎるのだよ。
それにしても、いきなり宝生の上司である阿部寛が死んでしまうというのも強引だ。少しは伏線を張ったらいいのに、そんなこともしていない。舞台ならそれで観客が笑ってくれても、映画じゃそうはいかないのだよ。
あと、更科六兵衛の主君が北条氏らしいのだが、宝生と似ているので、宝生エミが実は北条氏の姫君? なんて思っていたけれど、そうではなかった。北条と宝生、似てる役名をつけたりするなよな。
三谷幸喜は、「間」の使い方がいまひとつなんだよなあ。そこは少しためて、一拍おいてから返せばいいのに、と思う場所も少なからず。
オープニングタイトルは、モロ、古典的なハリウッドのスタイル。だからって、ローマ字表記はやめてくれ。すばやく読めない。「THE END」を「完」にする積極的な理由もないと思う。
あー、それから。検事だったかな、こんなことをいう。「裁判は、相手に勝つことが目的ではない。真実を明らかにすることが目的なのだ」とかなんとか。これは、間違っている。司法は、真実を明らかにしようとする場所ではない。それは、わかりきった事実である。
水曜日のエミリア11/24ギンレイホール監督/ドン・ルース脚本/ドン・ルース
原題は"Love and Other Impossible Pursuits"。どーもいろいろ納得いかない話・展開で、後味はよくない。だって、でてくるやつで共感できる人物がいないんだもん。
父が判事。ハーバードをでて弁護士になったエミリアが、務める法律事務所の妻子ある上司ジャックを寝取って妻の座に納まる。実子イザベルを産んだが3日で死んでしまい、失意の日々。8歳の継子ウィリアムは、エミリアより女中になついている、という設定で話が進む。
ベビー用品を出したままのエミリアに、ウィリアムが「ネットオークションにだせば」としつこく、エミリアがキレる。ウィリアムも無神経だけど、エミリアも死んだ娘を思いださせる物を捨てないでいるというのが理解できない。次の子のためかと思ったら、そういうわけでもない。娘の死は実はエミリアが抱いたまま寝込んだための窒息死? という隠しごとがあって、それはラスト近くで明かされるのだけれど、ではそれまでのエミリアの描写はなんなのだ。その罪悪感で苦しんでいる様子なんて、ぜんぜん感じられなかったぜ。
描かれていたのは、エミリアがウィリアムのご機嫌を取ろうとしている様子。よく分からないんだけどウィリアムは病弱で、薬を常用。乳製品がダメで…。なのにアイスクリームを食べさせたりして、とんでもない女だな、という印象。この2人の関係が、最後に向かって好くなっていくような描き方をされているんだけど、とくに何か具体的なきっかけもなく、どういう関係なのだ? と首をひねるような有り様。で、ウィリアムの、アイスクリームによる下痢事件(実は、エミリアの実家で食べた何かが悪かったと分かるのだけれど)、家族の肖像画事件、私立学校受験失敗事件、実母の妊娠・再婚事件…なんていうのがつづいて、エミリアとジャックの仲が悪化。エミリアは家をでてしまう。という流れが、日本人の俺にはよく分からない。
さらに、ジャックの元妻キャロリン(医者)がイザベルの検死報告書を見たら、窒息の兆候はなく、乳幼児突然死症候群(SIDS)と断定。自分に罪がないと分かると、そそくさとジャックの元に舞い戻って、仲直りを迫る辺りは、何て身勝手な女、としか思えなかった。
そもそもエミリアがこの映画でいちばん身勝手な女なわけで、それをナタリー・ポートマンが演じているから何とか見ていられるけれど、エミリアをリサ・クドローが演じ、キャロリンをナタリー・ポートマンが演じたらどうだろう? と思いつつ見ていた。だって、悪女の度合いではキャロリンの方が低いわけで、彼女を主人公にして話を再構築すると、エミリアなんかひどい女になっちゃうぜ。ほんとは優しいキャロリンを、醜女のリサ・クドローが演じてるってとこに、この映画の作為があるよな。
この映画、いろいろ説明不足な感が否めない。エミリアの実家の人間関係も、複雑怪奇なのにさらっとしか紹介されない。エミリアは結婚後、仲間2人と事務所をもっているようだけど、説明がない。ウィリアムを学校に迎えに行くのが水曜日のようだけれど、他の日はどうなっているのか分からない。ウィリアムの病気はいったい何なのか、乳製品がダメなのはキャロリンの思い込み? あるいは過保護? というのも不明瞭。ウィリアムが描いた家族の絵も、最初はどれが誰だか分からなかった。など、隔靴掻痒の部分がありすぎて、いらついてしまう。つくりが丁寧でなく、がさつなのだよな。ラストも元のサヤに収まるハッピーエンドっぽくて、おいおい、だったし。
原題でいっている、愛と大切なもの、って何なのさ? 愛というより欲情だろ、エミリアにとっては。まあ、愛を貪るようになったのは、エロきちがいだった父親3度も結婚しているとか、腹違いの姉がいるとか、そういうことが原因でそうなった、といいたいのなら、そりゃ間違いだぜ。
それにしても、一家に法律家や医者がいて、自分はハーバードで、息子を有名私立に入れようなんていう連中の悩みなんて、どーでもいいよ。結局のところ、夫を寝取られたキャロリンの誠実さの方が印象に残った映画だったな。それにしても、円満離婚のために、ジャックはいくら払ったんだろうね。
そうそう。ラストにでてくる家族の絵が、キャロリンが破いた古いやつなのだよな。あれ、ウィリアムが描き直した新しいのじゃなきゃ意味ないだろうにね。
探偵はBARにいる11/25キネカ大森3監督/橋本一脚本/古沢良太、須藤泰司
俺(大泉洋)と、高田(松田龍平)のずっこけ探偵コンビは面白いんだけど、事件や出来事にあまり必然性がないので、いまひとつスッキリ感がない。話の流れも、小説の"文章"の流れをなぞったような展開で、前半は映画らしさを活かした演出がない。映画らしいアクションが見られるのは則天道場へ乗り込んで大立ち回りする場面ぐらい。それに、名前や団体などの固有名詞がセリフの中に頻出するので、それを理解するのも大変。で、そうとう大きな事件があったんだろうな、と思っていたのに、終わってみれば「事件って何だったの?」っていう感じ。そもそもの事件って、なんだったんだ? 隔靴掻痒だな。
ハードボイルド風なナレーション。携帯をもたず、バーに専用電話(?)をもっている探偵・俺。でも、やってることはトンマ。これって、ハードボイルドのパロディだよな。にも関わらず、生々しい事件は発生し、血が流れる。結構リアル。なのに悪人どもはマンガのキャラクターのような誇張されぶり。このギャップが、どーもしっくりこなかった。
最初は、俺がホモの新聞記者のために働くエピソード。そのエピソードに絡めて霧島の殺害シーン。で、1年後、ある女性から「調べて欲しいことがある」と俺に電話がくる。相手を確認しないまま、金が振り込まれるので、俺は調査を開始する。まずは、女の指示通り、弁護士・南の所に行って、女に言われた通りの質問をする。で、その結果、高嶋政伸らに雪の中に埋められ、殺されかける。この殺されかける、が中途半端さのキモだ。なぜなら、高島らは意外と簡単に人を殺しているのに、俺を殺さず脅してる。そんなことするより殺した方が手っ取り早いだろうに、と思うよなあ。主人公が死なないための都合で、高嶋政伸の判断じゃあないよな。こういうところが、かなりいい加減。
俺がヒントを探すためあちこち人を訪ねつつ真相に迫っていく、というスタイルは「チャイナタウン」や「長いお別れ」と同じ。日本でも、樋口有介がこの手のスタイルをワンパターンで踏襲しつづけている。がしかし、それをそのまま映画化しても話にならないんだよね。文章ならそれなりに読めても、映像化するとちゃちくなる。その典型だと思う。
で、則天道場という右翼団体が浮かんでくるんだが、終わってみれば、何だったの、これ? ってな感じ。後半で出てくる大阪の銀漢興産の会長(石橋蓮司)・息子の社長が、そもそもの震源地で、地上げの張本人らしいのは分かった。で、弁護士・南は銀漢興産の配下で動いていた、と。で、放火したのは則天道場の若い衆。それを命じたのが高嶋らしいんだけど、則天道場と南、あるいは銀漢興産とはどういうつながりなのだ?
また、地上げのために放火され、まきぞいで死んだ女性が霧島の実娘。放火した若い衆は田口の息子。彼は死体で見つかった。彼が則天道場に前日までいた、というのが、どうして則天道場の高嶋政伸を脅すネタになるのだ?
それに、この辺り、たんなる地上げ話だけで、若い衆が口封じのために殺されたというのも、なーんか、説得力がない。
いやいや、そんなことはない、霧島の殺害があるではないか、と言われるかも知れない。けど、この事件こそ、よくわからない。そもそもの銀漢興産の会長と霧島の対立が、1シーンと手紙のセリフでしか描かれない。しかも、霧島は、岩淵によって最初の妻(竹下景子)と離婚を余儀なくされた…って、セリフでだけ言われてもなあ。いったい何があったんだい? 元は新左翼の旗手だったような霧島が、どうして大阪のヤクザと? 説得力がないよなあ。それにしても、霧島役の西田敏行は元左翼の闘士に見えないよ。そんな霧島に沙織が惚れた理由となると、もっと理解不能。
で、ラスト。沙織(小雪)が銀漢興産の会長、息子(も殺ったんだよなあ。違ったっけ?)弁護士・南、3人一緒に結婚式で殺す必然性って、あるの? 沙織は息子と結婚することになっているのだから、それ以前に手軽に殺せたろうに。たんに、小説的に話を盛り上げようとしているだけ、みたいに思える。でもま、映画だからいいか。
結局、俺は利用されただけ。トンマだよね。しかも、3年ぐらい前に俺は、絡まれている沙織を助け、名刺まで渡している。なのに、顔を覚えていない。アホか。沙織も、どうやって声を変えて俺に電話してきたのか。まあ、映画のいい加減さで許してやってもいいが、ちょっとな。
俺の相棒の高田は、カラテが強く眠るだけの設定。どっかで北大の知恵を使うとか、あってもいいと思うんだけどな。
喫茶店の、俺に色目のエロい娘。尻のアップが映るんだけど、鳥肌じゃん。あんなんダメじゃん。
そうそう。俺が家庭教師で教えた少年は、馴染みの組長の子供? まさか幹部の相田(松重豊)じゃあないよな。
フェア・ゲーム11/28新宿武蔵野館3監督/ダグ・リーマン脚本/ジェズ・バターワース、ジョン=ヘンリー・バターワース
原題は"Fair Game"で、「攻撃や嘲笑するかっこうの標的」という意味らしい。
最初に、マレーシアのいけすかない商人をハメるエピソードがある。なんとヴァレリー(ナオミ・ワッツ)はCIAのやり手で、国際的に活躍しているらしい。次の仕事はイラクのテロ対策。で、イラクが輸入したアルミ筒が「ウラン濃縮のため」と主張する男のタレ込みがある。これに、ヴァレリーらCIA職員は、あり得ない、と否定。すると今度は、副大統領補佐官が乗り込んできて、職員に「可能性がないとは言えまい」「いやあり得ない」「100%ないとは言えまい」「あり得ない」「たとえ1%でも可能性があるかもしれない。もしそれが3%なら大変だ。絶対ないと言いきれるか」「ない」「もしあったら、お前に責任が取れるか」的な脅しで説得し始める。スゴッ。このときの副大統領はチェイニー。
いっぽうで、アフリカ・ニジェールからイラクがウランを大量輸入の疑惑が…とCIAが調査を開始。上司はヴァレリーの夫ウィルソン(ショーン・ペン)が元大使だったことから、ヴァレリーを通して調査を依頼する。ウィルソンは現地に行き、「あり得ない」と報告する。
にもかかわらず、政府は「イラクがウランを輸入。濃縮を開始か?」との説をテレビで流し始める。このときの大統領補佐官は、ライス。で、ヴァレリーとウィルソンは「!」ということになる。ヴァレリーが上司に言っても取りあってくれない…。
イラクの大量破壊兵器が、なかった、というのはすでに常識になってる。でも、なぜかアメリカは大量破壊兵器を口実にイラクを攻撃した。そのからくりが、映画で説明されていく。スリリングだけど、同時に、コワイ。いつもは悪名高いCIAだけど、ブッシュをボスとする政府高官の方が、ゴロツキに思えてくる。
で、この対応に怒ったウィルソンが新聞に反論を載せたら、しばらくして新聞に「ウィルソンの妻はCIAだ」という記事が掲載されてしまう。どうも政権がリークして、書かせたようだ。ヴァレリーはCIAをやめなくてはならなくなり、イラクを亡命しようとしていた科学者たちのフォローも立ち消えになり、幾人かは殺されてしまう…。
以降は、夫婦間の対立と離婚の危機、が主になってきて、政治が二の次になってきてしまう。これがちょっと残念。ま、映画としての面白さは後半なのかも知れないけど、事実をもとにした映画でも、こういう話になるとフィクションが多くなるからね。でまあ、ウィルソンは引くことをせずテレビに出たり各地で講演活動和したりする。もちろん、右派の人々や御用ジャーナリストに邪魔されたり。政治の問題なのに、下世話な報道をされたり。まあ、こういうところは日本も同じだ。
ひょっとしてウィルソンは殺されるのか? と思ったら、そうはならなかった。現実は映画みたいに派手ではないと言うことか。で、ラスト。急転直下で副大統領補佐官と副大統領副補佐官(だっけか?)が逮捕され、刑が確定してしまうようなことになる。このあたり、なぜ彼らが起訴されたのか、よく分からず。セリフで言われていたのは「CIA職員の素性をバラしてはいけない」というようなことだったけれど、それで裁判沙汰になったのか?
最後は、ヴァレリーが証言しようとするところ。ここで暗転し、エンドクレジットになるんだけど、本物のヴァレリーが証言する映像がインサートされる。ここまでやられると、この話は真実だったのだな、という気になってくる。
しかし、キャリアレディを装って世界各地を転々とし、夫には素性を知らせているけど、他の友人知人には一切話すことなく子供も育てつつ数10年、CIAでいられるなんて…。凄い女性だ。
話は面白いんだけど、政府やCIAの上司らとの駆け引きに、分かりにくい部分がある。こいつらの役職は? とか、彼らは何を知ったのだ? というような、もっと説明して欲しい部分、固有名詞がセリフや書類に書かれてはいるんだけど説明がないのと早いのとで確認・納得しつつ見るのが難しい部分がある。できればもう1度つづけて見直したいほどだけど、入替制だからできないし。
それと、ウィルソンが暴走して新聞に記事を書かなかったら、ヴァレリーは失職しなかったし、イラクの科学者たちも命を失うことがなかったわけだ。そのことをヴァレリーはまったく非難しないんだけど、それは納得してたということなのかな。
しっかしアメリカって国は、こんな露骨な手法が通用してしまうのが恐ろしい。そして、ブッシュの言うことの方を信じる人間の方が多いことも驚いてしまう。けれど、こういう映画がつくられ、堂々と政権批判できるというのも素晴らしい。
ナオミ・ワッツは43歳か。ちょっと前から頬の肉が垂れてきて、ババアになったなあ、と思っていたんだけど。今回は口元はもちろんだけど、額やあっちこっち、かなりボロボロ。美人は、維持するのが難しいのかな。もしかして、整形をしない40代はこんなものだと言うことなのだろうか? 型崩れが激しすぎる。
リアルを感じたひとつに、エンドクレジットの役名の名字が、白四角でつぶされているのが幾つもあったこと。本名を出すとマズイってことなんだろうけど、あそこまで描いてしまっていまさら、の感もある。ま、本人の了解を取っていない、取れない、のかも知れないけど。
ハラがコレなんで11/29新宿武蔵野館3監督/石井裕也脚本/石井裕也
何を言いたいのか分からない。というより、表現の域に達していないというべきか。奇を衒ったあれこれで意表を突いているつもりでも、全体にカチッと噛みあっていないから、てんでんバラバラ。結局、あらゆる部分でズレまくってる。コメディに分類されているけど、クスッとできたのは2、3ヵ所だった。
もっとも、声だして笑ってる観客もいたけどね。ダウンタウン以降の不条理的笑いのどこが面白いのか分からない俺には、合わないのかも知れないけどね。
原光子(仲里依紗)は22歳ぐらいの設定? 黒人と結婚(正式に?)してカリフォルニアに行ったけど捨てられて腹ぼてで日本に舞い戻りアパート暮らししている。雲の流れを見るのが趣味あるいは主義で、モットーは風向きを見て行動すること。粋と人情が好きでヤボが嫌い。その彼女が、昔、一家で夜逃げした先のアパートに転がり込んで、当時の人たちや、いまも周辺に暮らす低所得者層と意気投合? というか、マドンナみたいな存在になり、中華屋の主人の恋物語に足を突っ込んだりする話。
終わって知ったのだけれど、監督は「川の底からこんにちは」「あぜ道のダンディ」の石井裕也なのだな。いろいろ噛みあって上手くいくと「川の底」になって、噛みあわないと「あぜ道」や「ハラが」になるのかも知れない。というか、「川の底」は意図せず成功してしまったのかも…。というか、どういうのが)映画なのか、見定めるセンスを本来持ち合わせていないのかも知れない。などと思ってしまった。
で、振り返ってみると、「川の底」とこの映画、いろいろ共通点がある。落ちていく若い女。実家の景気がよくない。座右の銘が、「川の底」では「中の下」で「ハラが」では「粋だねえ」。他にもこの映画では「風向き」「OK」何てのみ口癖だ。でもって、あれこれジタバタするけど、どんどん悪い方に…。光子の日和見も、いい方向には向かない…。というような設定・展開が、まるで同じなのだよな。きっと石井裕也の物語づくりは、ある程度パターン化されているのかも知れない。
ストーリーを語ってもしょうがない。だって、ほとんど物語らしい物語はないのだから。なぜ光子は外人と交際し、捨てられたのか。どうして粋や人情を好むのか。まあ、小学生時代に同級生の陽一が、教科書忘れた女の子に自分のを貸して、自分は忘れたことにする姿を見て「粋だ」と思ったらしいことが描かれているけれど、それが粋なのかい? どーも、江戸っ子の粋とは違うような気がするんだけどなあ…。
やっぱ、もっとこう、「粋」を刷り込まれた事件とかエピソードをカチッと描くとかすればよかったのに。そうすれば、黒人の子を宿しつつへこたれない光子の芯の強さ、みたいなのが感じられたような気がするんだけどね。でも、現状では行き当たりばったりというか、てんでんバラバラ。どこにも収束していかない。
ちょっと面白かったところというと、一同で福島に行き、みながムチャクチャなことを言いだすところのズレ方かな。陽一が喫茶店のママに「結婚しよう」と意味不明なことを言ってしまったり。あの辺りの転がり方はよかった。でも、全体にテンポがぬるい。つなぎもぎくしゃく。仲里依紗のセリフ廻しもいまひとつしゃきっとしない。はちゃめちゃ度を極めるなら細かいカットを駆使したり、あるいは手持ちカメラでビュンビュン行くとか、あると思うんだが。音楽も絵に合ってなかったし。映像センスがないんじゃないかと思うほどだ。だいたい、ビンボーで困ってるような中華屋が、あんな立派な建物で営業してるか? 夜逃げしてきた連中が、あんな広い間取りの部屋に住んでるか? まあ、あれでいいと思っているなら勝手にどうぞ、っていう気分だね。あー、退屈だった。
この愛のために撃て11/30ギンレイホール監督/フレッド・カヴァイエ脚本/フレッド・カヴァイエ、ギョーム・ルマン
フランス映画。原題は"? bout portant"。google翻訳によると、「殺し屋」という意味みたい。監督は「すべて彼女のために」で注目されたらしいが、それはポール・ハギスが「スリーデイズ」としてリメイクしていた。おお。なるほど。スタートからラストまで一直線、が同じだ。
逃げる男→看護師の夫婦→誘拐→逃亡→追走→逃走…。の畳みかけるテンポ、疾走感が限りなく美しい。ミステリーで言ったら最後まで巻を措く能わずってとこだな。目が釘付け。純朴な看護師サミュエル、美しくかわいい妊婦の妻ナディア、指名手配中ながら正義感のようにカッコイイ男サルテ。他に、正しい方の中年女性警官と、その部下の女性警官がカッコイイ。悪の警官一派も、それなりに黒い魅力。途中、どっちがどっちか分からなくなる場面もありつつ、最後は落ち着くところに落ち着くんだけど。そこに至る過程が、スリリング。いやあ、よかった。
連想したのは「セルラー」「96時間」「ダイ・ハード」「TAXi」などなど。まだまだ一気呵成な展開の可能性が残されていたのだな。
ちょっと情けない風貌のサミュエルが、愛する妻のためなら何でもやっちまう不死身男になっちゃうのが凄い。その妻がとんでもなく美しい。
いまいち分からなかったのは、サルテという存在。隠れ家にやってきた悪徳警官のひとりを拷問して真相を聞き出すシーンがあるんだけど、早すぎて追いつけなかった。こんな感じなのか…?
悪徳警官一味のボスはヴェルネール。実業家の息子に保険金が早く欲しいから父を殺害してくれ、と頼まれ実行(その際のビデオを保管していて、息子を恐喝していた)。直後に、指名手配中のサルテに強盗に入らせ、サルテを犯人に仕立てようとしたが失敗。サルテに逃げられた。これが冒頭のシーン。サルテは逃走中に事故に遭い、病院へ。そこに悪徳警官一味の1人が潜入し、酸素の管を外す。それを目撃したサミュエルがサルテを救う。帰宅すると、兄の行方を追っていたサルテの弟に襲われ、妻が誘拐される。サルテを連れ出せば、女房は返してやる…と。
以降、サルテとサミュエルの互いに疑心暗鬼な逃避行。2人を狙う悪徳警官たちと正しい警官たちが錯綜して…。なんだけど、サルテはどんな犯罪で指名手配中なのだろう。それに、ヴェルネールとサルテは、通じていた、ってことだよな。本来、悪人のサルテなのに、この映画では不死身のヒーローだ。よーく考えるとムリがある設定だけど、見ているときは考える余裕もないので、そんなものかな、と。
あと、分からないのは、悪徳警官一味がどうやって冷凍倉庫に行ったのか。ここでサルテの弟を殺害し、ナディアを誘拐。なんと、警察署に連れていって監禁するという大胆不敵な振る舞いに出ているっていうのも、後から冷静に考えると、ううむ、なんだけどね。
それと、ふとったマルコーニという男は、あれは誰だったんだっけ? ヴェルネールの上司? よく分からん。
ヴェルネールって、どの程度ワルだったんだろう。実業家殺しはワルの一端で、もっとあれこれやってたのかも知れない。それを示唆するような部分も欲しかったかも。殺人科をさしおいて大事件だけ手がけ、手柄を立てるカラクリも、もう少し知りたかった。ヴェルネール配下の悪徳警官のメリット、報酬なんかも知りたいね。
この手の、実は悪徳警官一味が裏で、という展開はアメリカ映画の得意技だけど、背景の描き方はアメリカの方が丁寧かも。いい加減さを考えると、やっぱフランス映画だよなあ、と思ったりしてしまう。
でも、そういう細かいことには目をつむってもいい。この映画のぶっちぎりの疾走感、ハラハラどきどきあれば、多少のことは許す。

 
 

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