2011年12月

コンテイジョン12/1MOVIX亀有シアター4監督/スティーヴン・ソダーバーグ脚本/スコット・Z・バーンズ
原題も"Contagion"で「伝染」の意味。なにやら瀬々敬久監督の「感染列島」に似ている。「感染列島」については2年前に「ムダに長く中味は薄っぺら。くだらんロマンスなんか端折って、ウィルスの感染ルートや騒然とした街区、日本の状態などをリアルに描くべきだったろう。できるならセミドキュメントタッチでね」と感想を書いてるんだけど、この希望通りになってる。さすがはソダーバーグ。ムダなくシャープに決めている。
マット・デイモンが主人公のようにも読めるけれど、とくに誰が中心というわけでもない群像劇。WHOのレオノーラ(マリオン・コティヤール)、どっかの研究室のリーダーみたいなチーヴァー博士(ローレンス・フィッシュバーン)、その部下のミアーズ(ケイト・ウィンスレット)、分析医らしきヘクストール(ジェニファー・イーリー)、感染源と目されるベス(グウィネス・パルトロウ)とその夫ミッチ(マット・デイモン)が3本の柱となって、その周囲にもサブ的な存在があり、それぞれ独立しつつ、絡み合いながら話が進んでいく。複数の場所、そして、ときに時制が遡っての話などが錯綜し、こりゃもうソダーバーグの得意技。最初の方でベスが死んでしまうのでどうなるのかなと思ったら、ちゃんと過去イメージも出てきて、時制を自由に操り、最後はカッチリはめ込んで収拾を図る。すばらしい。
不満を言えば、チーヴァー博士がどういう位置づけにあるのかがよく分からないこと。陣頭指揮を執っているみたいだけど、その上にはだれがいるの? 部下の2人の関係や、現地での指揮系統は? なんてところが描かれると、もうちょい楽しめたかも。
あとは…。全世界規模の流行といいつつ、実際に被害がどの程度に及んでいるのかが分かりづらい。街にゴミがたまってるとか、商店のモノが少なくなってるとか、配給品を奪い合うとか、そういう描写はリアルのようでそうでもなかったりする。たとえばゴミ回収が出来ないのに電気も水も市民に提供されている。テレビも映る。変だろ、それって。
荒らされたスーパーの棚、まだ商品が載ってるのが変。日本の3.11直後の米や水、乾麺なんか、まったく残ってなかったぜ。配給品を奪い合うほどなのに、ミッチと娘は数ヵ月自宅で暮らしているのだけれど、食糧はどうした? 娘のボーイフレンドを家に入れないほど警戒してるのに、あっちこっち出歩いてもいる。あのあたりの不整合さは、映画のウソとはいえ気になってしまう。やるなら徹底してリアルにやって欲しかった。
とはいえ、伝染病が発生したら起こるであろう騒動、感染への恐怖、隔離地域からの脱出に便宜を図る権力者など、ありそうなことを描いていき、かといって大仰にドラマ仕立てにしたり、オチをつけたりせず淡々と見せていく手法は好感が持てる。ウソの中にもリアルが感じられたしね。
マリオン・コティヤールの使命は、感染経路の特定らしいが、それぞれ役割が違うのだね。でも、何のために特定が必要なのか、とか説明がない物足りない。説明過剰にならない程度にやってくれたら分かりやすかったのにな、という思いがある。でも、マリオンは相変わらず可愛いね。しかし、WHOの職員って、危険な場所にもああして無防備に単独で出かけていって、調査しなくちゃならないのかい? 大変だねえ、とは思ったけど、実際に単独行動なのかなあ? 気になる。
死体を埋めるシーンがあった。棺桶、白い防護服…。まるで3.11後の日本と同じ。よく上映延期にならなかったもんだ。ちょっと驚いている。
ラスト、過去に遡る感じで感染経路が明かされるのだけれど、あれだけブタがいて一匹だけなの? 他のブタは大丈夫だったの? ちょっと気になるね。
よく分からないのはアラン(ジュード・ロウ)の役回り。ネット・ジャーナリストとして読者が多く、「自分も感染したけどレンギョウが効く」と言いつづけてる。けど実は感染してなくて…というような話だけど、たんにデマを流すアホがいる、とでもいいたかったのかな。
三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船12/5上野東急2監督/ポール・W・S・アンダーソン脚本/アレックス・リトヴァク、アンドリュー・デイヴィス
原題は"The Three Musketeers"と素直に「三銃士」なのに、どーしてだらだら副題をつけるかね。で冒頭からいきなりアトスが水中歩行に飛び道具。ポルトスは馬鹿力。こりゃ三銃士じゃないぜ。と萎える。
「シャーロック・ホームズ」もそうだったけど、CG使って海へ空へ破天荒にSF加味して見せればいい、と思ってるみたいね。ゲーム世代にはこういうのもウケるのかな。でも、わしゃダメだった。三銃士は剣で戦わなくちゃ。1948年の活劇、1973年の洒脱。あっちの方がよっぽどマシだ。
そもそも衣装が銃士じゃない。ここはキチッとやって欲しかった。ダルタニアンもちょっとカッコつけすぎだろ。成長譚にもなってない。最初の方でロシュフォールに喧嘩を売ったら、いきなり銃で撃たれるって、インディ・ジョーンズのギャグかって。たった1枚の羊皮紙のスケッチから飛行船をつくっちゃったり、この時代にそんなもんあるか! ってな感じで、突っ込みどころが盛りだくさん。話の展開も大雑把すぎて、人間をほとんど描けていない。破天荒CG(でも、ちゃちだった)にすると、たいていこうなっちゃうけどね。なんか、ドラマの「流れ」というより「紙芝居」的で、途中で飽きてきてしまったよ。
よく分からなかったのは冒頭のダ・ヴィンチの設計図のエピソード。三銃士は誰の命令で設計図を狙ったのか、鍵をもってる3人をどう特定したか、あの段階でミレディはどっち側についていたのか? 英国のバッキンガム公爵ではあったけれど、二重スパイだとするなら、実はリシュリュー枢機卿? よく分からなくなってきたぞ。
可愛かったのはダルタニアンが恋する侍女コンスタンス。彼女に限らず女性陣は大きく胸をはだけて豊乳状態だったけど、SFXでおっきくしてんだろうなあ。まあ、いいけど。
ラスト。ダルタニアンがコンスタンスに「火曜日と美人の前では…」と言うのだけれど、この火曜日は何のことだろう。本編中のどこかにでてきてたっけ?
ミレディのミラ・ジョボビッチは悪女に見えないのが残念だった。といっても、彼女ももう36歳か。
それと、バッキンガム公爵は個人的に飛行船をつくったのかな。それとも、英国王のため? オーラスで、フランスに攻め込もうとする英国飛行船団が映ったけど、あの様子だと国を挙げてかもな。それにしても、なんと大げさな! そういえば、飛行船同士で大砲を撃ち合うのがアホらしく見えた。船体狙わず、気球部分を撃て! とね。しばらくしてからそうしたけど、ありゃ変だ。
エンディングノート12/6ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/砂田麻美脚本/---
ガン宣告された父親を撮りつづけたドキュメンタリー。予告を見て、お父さんのひょうきんな様子に興味をもっていた。でも、よくあるこの手のドキュメンタリーと同じに、結局は情緒にながされて落涙かな…と思っていたら、違った。ほとんど泣くところはなかった。ちょっと来たのは、最後近く、妻に「愛しているよ」と木訥に言うところかな。通い合ってる感じが伝わってきた。あとは、父親本人の明るい性格もあるのか、ユーモアも交えた内容で、ある意味で淡々と見られた。強烈な感動はないけれど、実直な意志はつたわってきた。
砂田知昭さん69歳。サラリーマンを引退して2年。ガン発覚は5月で、亡くなったのは半年後の年末。あまりにも短い余命だった。で、監督はその次女なんだけど、ガン発覚以前の映像がたくさんあるのが不思議だった。退職の送別会やあれやこれや、まだ元気な頃から父親を撮っていたわけだ。それが意外な方向に向いてしまったのだろう。では、最初は何を目的に撮っていたんだろう?
どうやら父親も映像が好きだったらしく、子どもが誕生してからの、おそらく70年代の8mmフィルムが多く使われていた。結婚式や生まれたばかりの子どもを抱く父親だの、素材がふんだんにあった様子。こりゃ、つなぐだけで1本できちゃうじゃないか。ぐらいな感じ。スチルも、どういう第三者が撮ったのだ? というようなものがたくさん。記念写真好きな一家だったのが幸いしたのかもね。ある意味、うらやましい。
お父さん、娘に撮られるのが嬉しくてしょうがない感じ。すでに映画界に身を投じていたからか、撮ることに寛容だったのだろうか。日常的に撮られることに慣れている。がん告知5分後(だったかな?)の、ベンチで座る父親も、ちゃんと撮っている。ある意味、凄い嗅覚。
奥さんや、長女、長男も、撮られることに理解がある。というか、撮っていることを意識していないようにも見える。撮っている監督に対して、許容量があるのだろう。いや、でも、たぶん「こんなときに撮るな」とか言われてるんじゃないのかな。そして、それを父親が制して「いいんだ、好きなように獲れ」とか言ってたりするのでは…。
砂田知昭さんは名古屋で生まれ、15歳で上京したらしい。「?」と思ったら、慶應に進学。後で分かるのだけれど、父親が開業医だったらしい。親戚の家(?)にでも寄宿して、医学部進学を狙ったのか。でも入ったのは経済学部。関電工に就職し、営業畑…。予告では「中間管理職?」と思っていたら、なんと役員にまでなり67歳まで勤め上げた。退職後は週末だけ家に戻るカタチでなんとかかんとか、とか言ってたな。なんか、好きなように楽しくやってきたって感じだな。長男夫婦はアメリカ出張中。長女は、よく分からなかったが結婚してる。次女の監督は30過ぎてまだ未婚。といっても家はでているのだろう。お父さん夫妻は、代々木のマンション住まい。郊外の家を売り払って、都心に夫婦だけで移り住んだ、ってところかな。斎場も自分で決めていて、子どもの幼稚園がどーたらといってたかな? で、四ツ谷の聖イグナチオ教会にしたとか。へー。あそこで葬儀ができるんだ。しかも、本人、「洗礼を受けることにする」と神父に打ち明けている。なんか泥縄みたいな感じ。呼ぶのも近親者だけにする。すべては、お金をかけたくないから、らしい。いいことだ。
名古屋には、90過ぎの母親がいるらしい。ひとり住まいか独居かわからんけど。会いに行くシーンがある。まだ矍鑠としてた。父親は10年前に他界、と紹介されたんだけど、なんと、その父親のビデオ映像が出てくる。ん? 80過ぎてまだ診療してたのか? と思ったら、痴呆になっていて、それでも「病院をきれいにして開けろ」みたいなことをつぶやいている。誰が撮ったんだ? これも監督? だとしたら先見の明がありすぎというか、日常的になんでも撮っていたのだな。この、なりふりかまわなさ、図太さはドキュメンタリー作家には不可欠だよな。
父親は、告知後、エンディングノートをPCに入力し始める。主に身辺整理と葬儀に関してのようだ。で、ふと思う。この人、あれがしたかった、これもそれも…という欲をあまり出さない。生への執着心より、生との決別に向き合ってる感じ。こういう一途さは、仕事でも同じだったんだろうな、きっと。で、そういう血筋は、医師だった彼の父と似ているように思った。とくに信仰心もあるように思えないのに、この腹の据わりようはどうだ。家族との会話でも、病や死の話がどんどんでてくる。かぞくも「そんなに体がつらけりゃ薬やめれば」なんていい、父親が「そしたら長く生きられない」なんていったり。開けっぴろげすぎ。
さすがに臨終シーンはイメージ映像と音声だけだし、死に顔も写さない。これは、娘としての父親への配慮だろうし、安易に情に流すまいということなのかも。こういう姿勢はいいと思う。泣かせてなんぼ、はやだしね。
いささか早い終焉だったけれど、家族や友人に恵まれ、仕事でも成功し、最後には孫にも会えたし。いい人生だったんだじゃないかと思えたりした。愛された娘の、大好きな父親への、ラブレターみたいなものかも知れない。
父親の言葉、を監督が本人に成り代わってナレーションで語るのだけれど、あれは監督の創作なのか。それとも、エンディングノートに書いてあったことを読んでいるのか。どっちなんだろう。あ、あと気になるのは、父親がどこに葬られたか。誰かが「おじいちゃんと同じ所じゃなきゃやだ」とかいってたけど、どこかの市営墓地があるのかな。そこにキリスト教の墓標を新たに建てたのかな?
恋の罪12/8テアトル新宿監督/園子温脚本/園子温
東電OL殺人事件にヒントを得ているが、設定もテーマも違う。同じなのは、普段はエリート女史が渋谷円山町で夜な夜な安い金で春をひさいでいた、ということだけ。「冷たい熱帯魚」「愛のむきだし」には及ばないが、強引さは「愛のむきだし」に匹敵するかも。ただし観念的な部分が前に出すぎ。カフカの「城」や田村隆一の詩の一節「言葉なんか覚えるんじゃなかった」に拘泥して、いささかくどい。とくに中盤が退屈。あのあたりざっくり削って100分ぐらい(この映画144分もあるんだぜ)にしたら、キレがでたかも。
刑事の和子(水野美紀)。作家の妻のいずみ(神楽坂恵)、大学准教授の美津子(富樫真)の、3人の欲求不満仮面女が登場する。話は、円山町のバラックのようなアパートで、頭と下肢がマネキンで、胴と大腿部が人間の死体が見つかるところから始まる。
最初はいずみの家庭。夫は有名作家。神経症的生活スタイルで、出勤・帰宅、その他の時間はきっちり決まってる。いずみは女中の如くかしずいてるという、あり得ない設定。どーやってお前ら知り合って結婚したんだ? セックスしてんのか? で、いずけみが暇つぶしと称してスーパーの売り子→AV女優→売春婦へと転落あるいは解放される過程を描いていく。
事件を追うのが女刑事の和子。夫と娘がいるが、夫の後輩と浮気中で、奴隷的セックスの虜になってる
いずみは渋谷でカオルという男に声をかけられラブホテルへ。そこで変態セックスを強要されるけれど、カオルの知り合いの美津子と知り合いになり、売春を覚える。美津子には、やらせるなら金を取れ、ということを教えられる。カオルはデリヘルに勤めていて、美津子はそこで働いていた…。という3人の女がもつれ合いながら話が進む。
前述の通り美津子のバートがかなり辛い。田村隆一の「言葉なんか覚えるんじゃなかった」という詩は映画のテーマと関係あるのかも知れない。けれど、だからって見た後で調べて「なるほど」と思いたくもない。それになにより、手がかりとなる素材を生のままだすのは、頭のいいやり方とは思えない。美津子に関する中盤は意識が映画から離れてしまうことも多くて、眠りはしなかったけれど退屈だった。で、その美津子はいずみを教育する立場として登場する。曰く「タダでするな。相手からは金をもらえ」と。それがどういう意味かはよく分からない。
美津子が夜な夜な準教授から売春婦に姿形を変え、やられることに生き甲斐を感じているのは、美津子の母に言わせると「血筋」らしい。父親、つまりは自分の夫が下品な田舎者の血筋なので、それで売春婦になんかなるのだと母親は信じ込んでいる。ま、住んでいる家の様子からすると相当の家柄のようだけれど、いまどきあんな家に住んでいる元華族なんていやしない。
さらに、美津子はそんな父親(画家)に愛情を覚え、父親の方も娘に性的欲望を感じていたが、娘を描くことで代償としていたようだ。近親相姦的な間柄だな。ま、母親がそれを嫉妬したということなのだろう。でも、そういう、とってつけたような背景っていうのは深みも説得力がないよな。よくあるステレオタイプな設定だと思う。
この映画でいちばん盛り上がったのは、美津子がいずみとカオルを自宅に連れていったところだ。美津子の母親志津(大方斐紗子)の存在が他を圧倒している。その上流階級を鼻にかけたような口調がサイコー。娘が売春しているのも知っているとかで、どういう親子なんだと思っていたら、父親の血筋が悪いとののしり合う関係だったりして。
で、結論を言えば志津がいずみとカオルをけしかけて(といっても具体性はまったくない)美津子を殺し、解体。いずみは一人いずこかへ立ち去っていく。カオルは志津の家で首をつらされた(どうやって?)、という設定で、刑事の和子らが乗り込んだとき、隣室にはカオルがぶら下がっているという寸法なんだけど、話がかなりいい加減。いつ首をつったか知らないが、しばらくしたら腐って胴が落ちるだろ。見つからなかった首などは志津の家のボストンバッグから見つかるんだけど、なんで首をもってきたの? そもそもマネキンと娘の死体を組み合わせた理由は? などと、突っ込みどころが満載。まあ、あえてそういうことは説明しないのかもしれないけれど、「冷たい熱帯魚」のあのリアルと比べると書き割りみたいな安っぽさ。
個人的には、志津に力点を置いて語れば面白い映画になったような気がするんだけどね。ババア志津の活躍をもっと見たかった。カフカの「城」だの田村隆一の詩なんか、どーでもいいよ。そんなんで読み解いても意味ない。
とまあ、園子温にしては、いまいちな感じだったんだけど。この映画、設定とか分かりやすすぎてつまんないんだと思う。たとえば登場する人物はみな一様に、引き裂かれた自己をもっている。本心や欲望を抑圧し、オモテ面で生きているのだよね。その化けの皮がはがれていくかいかないか。美津子は二重人格的に生活することで平常を保っている。いずみは、耐えきれずに欲望をさらけ出す。和子は、もっとも一般人に近い状況で、本心を隠し通そうとしている。美津子の母なんか、いつでもスイッチのON/OFFができる体質になってしまっている(その結果、壊れちゃうんだけど)。いずみの亭主は男だけど、家では几帳面な小説家も家を離れればスケベオヤジとなってしまう。昨今の人間は、どろどろした本音を抱えたまま苦悩しているけれど、本音だけで生活すれば危険が待っていますよ、というようなことなのかね。
その対比としてデリヘル嬢たちが登場するわけなんだけれど、彼女たちのように本音だけで生きている女性たちをあまり描いてないし、とくに賛美してもいない。この辺り、ちょっと…。
そういえば、題名は「恋の罪」なのに、映画のオフィシャル・サイトでは「ようこそ、愛の地獄へ」と、「恋」と「愛」を使い分けている。これは、意識して使い分けているのかい? 恋の罪によって、愛の地獄へ堕ちた、ということか。「恋」は、美津子と父親の関係? 和子と愛人の関係か? では、「愛」はなんだ? よくわからん。
タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密12/8新宿ミラノ1監督/スティーヴン・スピルバーグ脚本/スティーヴン・モファット、エドガー・ライト、ジョー・コーニッシュ
原題は"The Adventures of Tintin"。"Tintin"の英語読みはティンティン。1929年頃、フランスで誕生したマンガらしい。「ティ」表記がなかった時代だと「チンチン」になっちゃうから「タンタン」にしたのかな。
めくるめくノンストップのアドベンチャーで、場面展開は息つく間もなく急転直下。なので、めまいがするほど。しかもアニメの精度が上がってて、実写をアニメっぽくした感じなので情報量が多い。正直いって、目が疲れた。もちろん2Dなんだけどね。
子供向けだと思うのだけど、簡単に人が死んだり血糊も見せる。ではそれなりに緻密かというと、そうでもない。理屈より勢いで引っぱってく感じ。だから、突っ込みどころも多いんだけど、所詮はアニメだし子供むけだからな。と鷹揚になれればいいんだけど、どーもそういかない性格でね。話についていけない、あるいは、テキトーさにイライラしてしまって、ちょっと退屈。最後の15分ぐらいはうつらうつらしてしまった。やっぱ、アタマ使って考えない映画は合わない。
たまたまノミの市で帆船模型を買ったら「売ってくれ」と2人にいわれ、何かあるのかと図書館で調べたら本物の帆船ユニコーン号に歴史在り。ってんで帰ると部屋中荒らされてる。でも、帆船マストに仕込まれてた暗号文が残っていて、「これだ!」と思ったらスリに盗まれ、もう一艘のユニコーン号も簡単に探しだし、でも怪しい連中に狙われ、家に戻ったら誘拐され船内に監禁。そこでアル中のアドック船長と出会って…。って、あれよあれよと話は進む。だけど、あまり早くて帆船のいわれや子孫がどうのという件がよく分からない。なんとなく分かったつもりで見ていっても、なんか合点がいかぬ。ユニコーン号の船長だったアドック卿の子孫も、どーして簡単にとらわれの身になってるのか。っていうか、謎の男サッカリンは、アドック卿の乗ったユニコーン号を襲った海賊の子孫らしいけど、なんでわざわざ怪しい行動をとらなくちゃならないんだ?
アドック卿が3艘の模型を残し、そこに暗号文を仕込んだ、というのをサッカリンはどうやって知ったんだ。で、それを集めるのにはアドック船長は必要ない。なのに、アドック船長を軟禁しているのはなぜだ? アドックを殺してはいかん、といっていたのに、途中からアドックも抹殺対象になっちゃったり。おい。それでいいのか? とか、いろいろ辻褄の合わないみたいな部分が気になってくる。なのに話はそんなの無視してどんどん進む。こんな様子にだんだん飽きてきてしまって、アフリカの何とかいう国へ行って3艘目のユニコーン号を奪取した当たりから、ついうとうと…。ふっと我に帰ってはまたうとうと…。てなわけで、気がついたらラストの数カット。やれやれ。こまったもんだ。もう一度見ても良かったけど、そうまですることもないだろ、ってなわけで、もういいや。
そうそう。驚いたとき「ビックリふじつぼ」っていうのは、何か意味があるのかな?
クリスマスのその夜に12/9ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ベント・ハーメル脚本/ベント・ハーメル
ノルウェードイツスウェーデン映画。原題は"Hjem til jul"。舞台はノルウェー。監督は「ホルテンさんのはじめての冒険」のベント・ハーメル。
冒頭、少年が教会を経てもみの木をとりに行く。照準。誰かが狙っている。そこに少年の母親が…。照準…。で、場面は一転して、複数のエピソードをつづれおりに見せていく。
@妻に追い出された男の話。離婚が成立しているのかどうか分からないけど、既に女には新しい亭主がいる。で、子どもに会いたくて家に忍び込むという話。いちばん笑いの多いエピソードだけど、子どもに会えないほどの悪い亭主だったのか? 医者に愚痴ったりするぐらいだから、ちょっと頭か変なのかもしれんけど。それにしても、サンタに扮装した元亭主のちんちんをまさぐったり、エロい奥さんだね。再婚相手の男のことを「Hを発音するやつ」とか言ってたけど、それはノルウェー人ではないってことか? スウェーデン人?
Aその亭主の主治医は、忙しさからか妻とセックスする時間もない・・・って、どういうことよ。ま、関係が冷めているのかも知れないけど、でも、ちゃんと出かけるときはキスしたりしてる。それとも、もともと子どもは要らない主義? で、電話で呼び出されていくと、男に誘拐されロッジへ。そこで、男の妻の出産に立ち会わされる。2人はコソボから逃げてきて、ノルウェーからスウェーデンに行く途中とかいってたけど、コソボからのルートはノルウェーの方が近いのか? 2人は教会に厄介になっていたけどクリスマスで人が多くやってきて、告げ口されるのを恐れて逃げる途中とかいってた。けど、逃げる理由も弱いし、車が故障してたまたまロッジに逃げ込めた理由もいまいち分からない。スウェーデンの支援者が用意してくれたんだっけ? それにしてもなあ。で、医者は帰りしな、自分のクルマを2人に提供して歩いて帰り(除雪車に拾われたけど)、妻に「子どもをつくろうと思う」と言うという、できすぎた心温まる物語。ううむな感じ。
B白人の少年と黒人の少女の話は、何かどーでもいい感じ。少女の家はムスリムなのでクリスマスを祝わない。彼も、うちは祝わない、といってるけどウソ。家にいたくない何かがある感じ。彼女は彼を家に誘い、屋上で星を見る。それだけ。彼が彼女の家のトイレを借りたい、と言うシーンがあるけど、何か意味があるのかと思ったら何もなかった。けっ。
C乞食が無賃乗車を見つかり、今度はクルマをかっぱらおうとする。その家はトレーラーハウスで、女主人に見つかってしまう。この女主人は乞食の知り合いで、どーも友人だったらしぃ。っていうか、彼に処女を捧げようとしたこともあった、らしい。そこで食事と衣服とお金をもらい、乞食は電車で故郷に向かう。が、目的地の直前に、車内で死んでしまう。車掌がいうには、昔はならしたサッカー選手だったけど、大事なときにミスして以来落ち目になり、国外へ…。音沙汰知れずだったらしい。という、O・ヘンリー的な話で、構造的にはよくできた話だけど、リアリティがなくて、ううむ…。トレーラーハウスの女主人が、なかなか可愛いおばちゃんだった。
D浮気男と愛人の話。「女房とは別れる」といいつつ、「子供がいる家はムリ」とだらだら状態。で、愛人は教会のミサにもぐり込み、浮気男の妻の横に座る。男の趣味なのか、妻も愛人も、同じ赤いショールを身につけている。…セックスシーンが派手なだけで、中味は単純。ううむ。
で、最初の照準だけど、狙っていたのはコソボの、出産した女だった。コソボにいたら家族に殺される、というほどの内戦(は、一応収束しているのではなかったのかな)で逃げてきたわけだけれど、彼女は殺さなかった、ということを見せている。しかしそれは、たまたまクリスマスだったからであって、それ以外のときは情け容赦なく親戚家族も殺していたんじゃないのかな、と思わせる部分もあった。
リアル・スティール12/13上野東急監督/ショーン・レヴィ脚本/ジョン・ゲイティンズ
 原題も"Real Steel"。話は完全に子供向け。女性も登場するけど、お色気シーンはほとんどない。しかもロボットバトルだ。ひょっとして「トランスフォーマー」シリーズみたいにバトルだけでドラマもなく、途中で飽きちゃうかも、と思っていたんだけど大違い。定番のパターンではあるけれど、深いドラマがあった。ラストに近づくにつれて感動が高まり、最後はうるうるしてしまう。
西暦2020年。元ボクサーのチャーリー(ヒュー・ジャックマン)はロボット・ボクシングに夢中。セコハンのロボットを手に入れて戦わせるけれど、いつも負けてばかり。…というのはボクサーの転落の様子を見事に捉えていてお見事。お調子者で目先のことしか考えず、女にもだらしがない。以前つきあった女性との間に息子・マックスがいるけど会ったこともない。その女性が死に、彼女の妹夫妻とチャーリーで養育権を話し合うのだけれど、里子に出せば金が入りロボットが買えるからと妹夫婦にも金を要求し、養育権を渡す。のはいいんだけど、ここでちょっと親心が出たか。最後にしばらく預からせてくれ、と言ってしまう。なぜそういう気持ちになったかは描かれていないけれど、心の底では息子に会いたい気持ちが残っていた、と思わせたいんだろう。いささか不自然だけれど、まあ許す。
チャーリーは、元トレーナーの娘ベイリー(エヴァンジェリン・リリー)とも関係があって、いわばヒモ状態。ベイリーは、チャーリーがバカ男だったのは分かっていても、カラダが求めてしまう…みたいな設定になってる。バカ男なのにモテるってのは、許せん! と思ってしまうよ。チャーリーが現役の頃、ベイリーは15、6のはずで、そのころマックスの母親とつきあってた、って設定かも。
マックスが可愛いい。それに、頭がいい。バカ男の息子が利口という、これも定番だ。で、新しく買ったロボット、ノイジーボーイを連れてのツアーに、むりやり連れていってもらうことになるのだけど、この中古ロボットがおかしい。かつては鳴らした強力ロボットだけど、その後、日本などに売られ、舞い戻ってきたとらしい。ボディに「超悪男子」とか書いてある。チャーリーが命令しても動かないのを、マックスが「ミギ、ヒダリ」と日本語で言うと動いちゃう! 大笑い。
そのノイジーボーイも叩きのめされ、マックスの親権を売って手に入れた金の半分もパア。というわけで、中古ロボ捨て場みたいなところにもぐり込んだのだが、そこでマックスが2世代前ぐらいのスパーリング用ロボットを発見する。こいつの名前がなんとATOMって、おいおい。鉄腕アトムからきてるのはミエミエだな。このロボット、シャドー機能がついていて、人間の動きをそのまま真似して動ける。でも、スパーリング用だからとチャーリーも馬鹿にしているのだけれど、場末のバトルで勝利すると、あれよあれよで勝ちまくり、正式な試合の前座にまで出世してしまう。で、そこでも勝利し、最強のロボ、ゼウスに戦いを挑む、っていうあり得ないサクセスストーリー。でも、それなりの説得力で、応援しちゃうんだよ。落ちこぼれの烙印を押された連中が、偉そうにしているやつらにギャフンといわせるドラマは面白い。
この映画には、いくつもの成長が埋め込まれている。マックスの成長は、父親に対する信頼感の獲得だな。いちばん顕著なのが、マックスを得てやっと子供から大人へと脱皮するチャーリーだろう。それから、ATOM。このロボットの、何も語らず黙々と命令に従って戦いつづけるATOMが、華々しいなかにあって1人哀愁を感じさせてくれるのだ。殴られても殴られても向かっていく。その姿が、感動的。「トランスフォーマー」ではロボットに感情移入なんてできなかったけど、この映画でいちばん感情移入できるのが、ATOMなのだ。
ATOMは物言わぬロボット。闘鶏のニワトリの如く、戦闘場に放り出され、戦うことを強いられる。勝ったら誉められ、負けたらスクラップ。最後のゼウスとの戦いなど、ゴリラと猿ぐらい大きさが違う。なのにガンガン殴られる。でも耐える。顔や胸板が変形し、機能が壊れても、気力だけで立ち向かうみたいに、動けなくなるまで戦う。ああ。なんて健気。ここで、戦わされるロボットへの哀愁が感じられないやつはアホだ。ま、チャーリーもマックスも、ATOMのことを気遣ったりせず、立て! しか言わないのはちょっと気になったけどね。まあ、それは2人が自分たちの人生をダブらせて、ATOMに託している部分が大きいからかも知れないんだけど。で、殴られながらチャンスをうかがい、そして攻撃に反転。最後はダウンも奪うんだけど、判定にもちこまれ、僅差でゼウスの勝ち。ま、この結果は予想がつくんだけど、至る過程が壮絶なだけでなく、いとおしいくらいに哀しい部分がにじみ出ていて、なかなかなのだ。たんなる成長ドラマに終わっていないところが、いい。「トランスフォーマー」シリーズよか断然こっちが面白い。
ゼウスを操るのは、タク・マシドという人物。なんか日本人みたいな設定で、どーもゲーマーからの参入で神聖化されているみたい。なぜって、マックスがタク・マシドを憧れの目で見ているし、取り巻きからもらったTシャツ(だよな)を嬉しそうに着ていたから。で、彼はいつも美女を侍らせているって設定なんだけど、類型的であり、たいした説明もないんだけど、あの程度の扱いでちょうどいい感じがする。
分からないところをちょっとだけ。最後、マックスがチャーリーに(だったかな?)「秘密は守るから」と言ったのは、どういう意味だ? チャーリーに秘密なんてあったっけ? それから、字幕があまりよくない。とくに前半、舌足らずで意味不明の字幕が多すぎ。意味が伝わらないままどんどん先に進んでしまう感じがして、困ったよ。
12/16キネカ大森1監督/セミフ・カプランオール脚本/セミフ・カプランオール、オルチュン・コクサル
2007年トルコ映画。原題は"Yumurta"。ユスフ3部作の1作目。最後の方の、犬に襲われる前後で瞬間的に沈没した。
3部作すべてに言えるんだけど、ドラマと言えるような話はなくて、淡々と日常のささいな出来事をだらだらと描写していく感じ。フツーなら描かない部分、カットしてしまう部分にリキを入れて、延々と見せる。なので、正直にいって飽きる。まったくつまらなくはない。それなりに興味深い部分もある。でも、みな風景なんだよ。ドラマがあんまりないんだよ。とくに最後の「蜜蜂」にはドラマがなかった。退屈。「卵」「ミルク」は、それでもまあ、少しは何かありそうと思わせた。何もないんだけどね。
ユスフの壮年期を描く、第1作。冒頭、老女が霧の中を歩いている。古書店に電話。主はいるのに出ない。そこに女性がやってきて、パーティの贈り物にしたいからと料理本を手にとり、代金の代わりに酒を置いていく。留守電を聞くと「兄さん、電話して」。次は、実家に戻った古書店主。彼がユスフらしい。母親が死んで、葬儀。まとわりつく少年。家に戻ると、娘がいる。ユスフには誰だか分からない。しばらくして、叔母の孫娘アイラと分かる。
以後、話がだらだら…。田舎が嫌いなユスフは早く帰りたくてしょうがない。でも相続の手続etcでそうもいかない。ユスフは、弁護士事務所に行ったとき、突然倒れてしまう。その意味は、この映画では明かされない。アイラは、ユスフの母は、ユスフが羊を生け贄として神に捧げることを望んでいた、という。でもユスフにはそのつもりがない。
田舎で、ユスフは友人と会う。友人に、かつての恋人(?)が離婚して戻っていることを知らされ、会いに行く。そんな過程で、ユスフが詩集を出していること。最近はスランプで書いていないこと。くだんの詩集が賞を受賞したことなどが分かる。
アイラは25、6かと思ったら、大学を志して勉強中らしい。18、9の設定か。しかし、なぜユスフの母の世話をしつつ同居していたか、わからない。トルコの大家族的なシステムでは当然のことなのだろうか?
ユスフは、アイラとともに存命の叔母のひとりを尋ねに行く。そんな様子を、アイラに心を寄せている青年が見て、嫉妬する。なことしているうちに、ユスフも心が動いたのか、羊を生け贄として捧げることにする。それが終わって家に戻ろうとした帰り、犬に襲われる。…のだけれど、横道に逸れたあたり、犬に襲われたあたりでうとうとしてしまったので、確実ではないのだけどね。で、ラストシーンは、ひとりになったアイラ。と思いきや、ユスフは家に戻らず、実家に戻ってきていた。一緒に食事するユスフとアイラ。ここでオシマイ。
とまあ、よくわからん映画。トルコのしきたり、イスラムのしきたり、なんていうのを知らないと、すんなり入らないのかも知れない。なぜアイラはユスフの母と暮らし、その母が死んだ後もユスフの母の家に暮らしつづけるのか? ユスフとアイラの関係は、どういうものなのだろう? 恋愛感情があるのか? なぜアイラはユスフに関心を寄せつづけるのか? ユスフのかつての彼女との関係は、何だったのか? 少年が出入りしているが、彼は親戚なのか? なんなのだ? などなど、描かない部分も多々あって、いろいろ腑に落ちない。まあ、語りすぎない映画があっても構わんとは思うが、必要もない情景描写などが腐るほどあるのに、言うべきことを言わないのはなぜなのか、よく分からない。
井戸に落ちて這い上がれないシーンは、ありゃ夢の中のことだろうけど、分かりにくいつくりだ。
ミルク12/16キネカ大森1監督/セミフ・カプランオール脚本/セミフ・カプランオール、オルチュン・コクサル
2008年トルコ映画。原題は"S?t"。ユスフ3部作の2作目。1作目が終わってパンを食べたせいか、30分目ぐらいで数分沈没した。
ユスフの青年期を描く第2作。でも、時代が20年遡るわけではない。時台は現代で、でも、ユスフが若くなっているという設定。冒頭のエピソードは、祈祷師みたいな老人が若い女を逆さ吊りにし、口から蛇を吐かせる、という話。つづく話のなかで、母が台所で蛇を見つけ、ユスフに退治してくれるよう頼むシーンがあるが、関係あるのかないのかよく分からん。で、次はどんなシーンだったかな。村を歩いているユスフが友だちに会い、一緒にクルマでどこかに行く。途中か目的地かで降り、同乗の女性と話をするでもなく一緒に並んでいる、というだけのシーン。なんなんだ、これは。ユスフは20歳ぐらいか。母親の手伝いをして、牛乳や乳製品を市場にもって行って売っている。父親はいない。移動は赤いサイドカー。詩を投稿していて、雑誌に載って大喜び。建設現場で働く友だち=詩を書いているに見せに行ったりしている。この友だちが「卵」で出会った友だちかな? 詩の師匠みたいなオヤジと一緒にビール飲んだり、徴兵検査でどこかの街に行ったりする。
ユスフには持病があるらしい。医者の診断書もあって、それを見せていた。その街の書店で詩が好きな娘と出会うのだけれど、それは「卵」でアイラを演じていたサーデット・ウシュル・アクソイ。黒木メイサ似で「ソフィアの夜明け」にも出ていたようだ。むむ。ってことは、彼女が「卵」で登場したかつての恋人? 同じ役者が演じているってことは、やっぱユスフとアイラは…。ななんて思っていたら、こっちの映画のユスフは、その彼女と再会の約束をしていたのに、会ったとも会わなかったとも言わずに、実家に戻ってきてしまう。そして、その彼女のことにはもう触れない。げ。なんだよ。なので、彼女とその後どうなったかは分からない。
で、後半は、ユスフの母親の浮気話になっていく。サイドカーの空気が抜け、たまたま空気入れを借りた相手がいい男? だったので、彼女からアプローチしたみたいなところもあったりする。亭主がいないので寂しかったのかも。でも、ユスフの母親は、家にその彼氏と、その娘を迎えている。ってことは、浮気ではなく認められたつきあいなのか? この辺りで、「卵」の冒頭に登場したババアが登場する。ユスフの母親が戸惑っていると、その手をやさしく包んでくれる。げ。あのババアはユスフの母親かと思っていたのに、違うのか? それとも、将来の自分が慰めにやってきたのか? 意味が分からない。
そんなユスフの母親は息子が徴兵検査に行っている間、ユスフが開拓したお得意のところに牛乳も届けていない。かなり浮ついた状態だったってことか。それにしても、商売熱心だった母親が、そこまで夢中になるものか。男に。
さて、ユスフは2人のクルマを追っていったりするのだけれど、確証を得ている様子はない。それまで登場していた母親も登場しなくなるし。なんか、妙な展開。で、追跡の帰り、ユスフはサイドカーで転倒する。ひっくり返ったユスフは口から泡。そーか。彼の持病はてんかんか。
次の追跡では、鴨を撃つハンターを追うハメに。ハンターが母親の彼氏ではないと思うが、母親に死なれて戸惑う鴨の雛がでてきたり、そんなハンターを石で殴り殺そうとしたり、そうしようとしたとき足元に巨大ナマズを発見して家に持ち帰り、でも、呆然とした表情でナマズを腕から落としたりと、幻想的なシーンがつづく。最後は、工事現場でヘルメット姿の男。あれは、よく分からなかったんだけど、ユスフの友だちではなく、ユスフ自身だったんだよな? 違うか? ううむ、よく分からん。
蜂蜜12/16キネカ大森1監督/セミフ・カプランオール脚本/セミフ・カプランオール、オルチュン・コクサル
2010年トルコ映画。原題は"Bal"。ユスフ3部作の3作目。ベルリン国際映画祭・金熊賞らしいが、3作の中でいちばん退屈。最初の15分ぐらいで沈没し、15〜20分ぐらい寝たかも。ユスフの幼年期を描くが、これも時代を遡らず、2009年という設定。しかも、山村だ。共通するのは、ユスフという人物だけで、あとは現代が舞台になっている。
3作の中でいちばんドラマチックがない。そりゃ、父親が死ぬというドラマはあるけど、ドラマチックではない。90%が間(ま)だよ、この映画。冒頭、父親らしき男の話。木の上にロープをかけ、登っていく。途中で枝が折れかけ、墜落。ロープが途中で止まり、宙ぶらりん(?)。で、あとは両親とユスフ、小学校のユスフ、という話が延々つづく。耐えきれず、最初の15分ぐらいで寝てしまい、20分ぐらい寝たかも。
父親との会話では、夢を見たとかいって耳打ちする。小さな声で話してもいいんだぞ、とかなんとか。あとは食事のシーンばかり。で、父親は蜜蜂の巣をとって歩く仕事らしく、あるとき出ていったままもどらない。心配する妻。…そんなことも知らず、ユスフは学校の朗読でいい点を取ろう、としか思っていない。どーもユスフはどもりなのか、朗読が下手。下手なのに手を上げて、指名されようとする。指名されれば詰まってばかりで、相手にされない。
幼いユスフは、すでに虚弱体質? 体育の時間や休み時間は遊ばず、教室の中。ううむ。それで仲間はずれになったり、いじめられたりはしないのか、と心配。
山歩きの途中、父親が突然倒れる。そーか。てんかんは、父親譲りだったのか。でも、ユスフがてんかん持ちとは説明されていない。で、最後に、宙づりになったまま、父親が死んでしまったことが分かる。でも、そんなのあり得ないだろ。自分で登ってるんだぜ。ロープを弛めるのもできるだろうし、いくらでも降りられるだろうに。なんか変な終わり方。
妙なババアも、サーデット・ウシュル・アクソイも登場しない。ううむ…な3部作だった。
スウィッチ12/19新宿武蔵野館3監督/フレデリック・シェンデルフェール脚本/ジャン=クリストフ・グランジェ、フレデリック・シェンデルフェール
フランス映画。原題は"Switch"。日本タイトルは「スウィッチ」らしいが、サイトなどには SWITCH [スウィッチ] と書いてあったりする。ややこしい。内容はまったく知らず、ポスターの絵柄からホラーかサスペンスかな? と思いつつ見はじめた。スキだらけなホンだけど、映画だからと割り切ってしまえば、勢いで見てしまうサスペンスになってる。フランス映画らしい饒舌さも味になってる。けど、真犯人の背景の大半がセリフで説明されるのは、いささか舌足らず。理屈はそれでいいかも知れないけど、犯人の苦悩や狂気までは伝わらない。ラストも、いわゆる"その後"のエピソードもなくブツ切れというのはもったいない。せめて松葉杖姿でアホ刑事に憎まれ口を叩くぐらいは見せて欲しいし、あるいは、犯人に迫る部分になってもよかったかも、
カナダ在住の売れないデザイナーの娘ソフィ。雑誌社の女性が彼女に、家を交換してバカンスを過ごせるWebサイトを紹介してくれる。SWITCHというサイトに登録したら、さっそくベネディクトという女性から返事があり契約成立。速攻でパリへ。が、翌朝、いきなり警察に踏み込まれ、ソフィはベネディクトとして精神異常の殺人犯扱い…という、設定はよくあるパターン。なんだけど、オッサンが主人公なら掃いて捨てるほどあるけれど、この映画は若い娘ってところがミソ。そんなに美人じゃないけど、素朴な田舎娘の雰囲気はOK。意味のないオッパイ見せのサービスもあって、時間を気にせず楽しめる。とくにいいのが、ソフィが身体を張って逃げるシーン。フツーの娘なのに歯科医を人質を取って警部ダミアンから銃を奪って逃走。その後も、おまえ素人じゃないだろ! っていうぐらいの体力で殴る、蹴る、走る、奪う、逃げる逃げる! 見てるこっちも力が入っちゃうほどだ。
今年見た「アンノウン」では、もう一人の自分の登場で自分がハメられた、と思わせておいて実は…という反則のような手口の展開だったけれど、この映画はそんなことはなかった。これが、実はソフィが異常者で…なんていうオチだったら、怒り狂っちゃうよな。ちゃんと、もうひとりのベネディクトが存在し、工作しているというのも見せている。
で、ベネディクト(に間違われたソフィ)は非公然活動家で、しかも精神異常者として入院歴在あり。つきあっていた男性トマを殺害した、という罪状で追われることになる。トマは政府要人の息子らしい。頭部は見あたらず、性器が異常に傷つけられていた。
ただし、警察が凡庸というかアホ。ちゃんと調べればソフィがベネディクトと別人ということは分かるだろうに、ちゃんと調べない。その言い訳に、バカンスの季節だからあっちもこっちも誰も彼も休んでる、ということをいう。だから、ずうっとソフィをベネディクトと思い込み、真相には迫れない。こんなんあり得ないだろ。とくに、ベネディクトの母のアーティストを翌日になって訪ねるというのは、バカすぎて笑ってしまう。フランス映画だな。
で、最後に真相が分かるんだけど、いまひとつな感じ。ベネディクトとトマは、異母兄弟。といっても、精子バンクの提供を受けた子供。ソフィも同じく姉妹らしいが、セリフで「精子は2度使用された」とあった。すると、ベネディクトソフィは一卵性双生児なのか?(ベネディクトの母親がソフィの写真を見て「娘だ」といったのもそのせい?) でも、そうするとベネディクトにもソフィにも母親がいるというのが辻褄が合わないよなあ。見落としか聞き逃しがあったのかな?
で、ベネディクトは早くに母親と別れ(両親が離婚した)、精神病院に入った。ひきかえトマの家は政府要人。ソフィはどーか知らないが、そこそこの家庭に育った。こんな理不尽なことはない! と、兄妹2人を殺そうとしたらしいのだけれど、なんか、狂気の殺人犯にしてはしょぼい結末。2人を特定し、殺すために精子バンクの会社にまで潜入するというのは、相当のような感じがするけど、そのサイコな感じがあまりでていない。もっと強調すればいいのにね。
雑誌社の女性や、パリで知り合ったイラン人(実はパキスタン人)は、ベネディクトに金で雇われたらしい。じゃ、トマの近所の人たちの証言も、買収されていたのか?
ベネディクトが、黒づくめの衣装(キャットウーマンか!)でパリをうろうろって…お前なあ。などなど、いくらでも突っ込めるけど、真実の部分以外は面白かったから許してやろう。
そうそう。警部が拳銃を盗まれるというのは黒沢の「野良犬」だよな。ダミアンに追われ逃げるソフィのシーンは秀逸。他人の家の中を抜けるって、中国映画によくあるよなあ。
ロンドン・ブルバード -LAST BODYGUARD-12/27ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/ウィリアム・モナハン脚本/ウィリアム・モナハン
原題は"London Boulevard"。「Boulevard(仏)は街路樹や側道などを備えた広い道路。英語圏ではブールバードのように発音し、しばしばBlvdと省略表記される。」とWikiにあった。ロンドンを舞台にしたギャング映画。スタイリッシュで人物描写も深みがあり、これはいい、と思いながら見ていたのだけれど、ラスト30分ぐらいからいろいろ舌足らず、中途半端になってきて失速。終わり方も暗くて、ぜんぜんスカッとした感じがない。無常観といえばそうなんだろうけど、いたたまれない感じ。振り返れば設定にもいろいろ穴はあって、それを上回る爽快感がなかったのが残念。
3年間のムショ暮らしを終えたミッチェル(コリン・ファレル)。馴染みのダチであるビリーが向かえに来て、住まいを紹介される。ビリーはギャングのボスのギャントの配下で取り立てをやっている。それをミッチェルに手伝わせようとする。
出所祝いのパーティでペニーという記者と知り合い、仕事を紹介される。行ってみたら、女優シャーロット(キーラ・ナイトレイ)の用心棒で、なんとなくそれも始める…という流れ。内容については事前にまったく知らなかったのだけれど、なにかありそうな感じでだんだん話に引き込まれていく。脇の人物も描き込まれていて、アル中でだらしのないミッチェルの妹ブライオニー、シャーロットと同居している(男女関係はない)プロデューサー(?)のジョーダン、度胸のないチンピラのピリー、誰とでも寝る記者のペニー、浮浪者の老人ジョー、インド人の医師、サイコなサッカー少年、家を乗っ取られた医者…とか、少ない出番の人物も丁寧に描かれている。
取り立てには嫌々つきあってたんだけれど、ある黒人の家で数人にボコボコにされて、その結果、ボスのギャントに見込まれたミッチェル。シマの一部を任すからといわれるんだけど、拒否。の結果、ギャントの部下に狙われるハメになる。いっぽうでシャーロットと心を通わせるようになり…というのが中盤の流れ。さてどうなるのかな、と思っていたら、話がだんだん分かりづらくなっていった。たとえば、ボスニア人って誰よ? その後、シャーロットの家に死体が送られてきたけど、あの死体は誰? とか、あれあれあれ? という感じ。
そもそもこの映画、地理的感じがあまりでてなくて、言葉から察するに下町の貧乏人が住んでいる地区かなと思うんだけど、元医者の家(いまミッチェルが住んでいるところ)、妹の家、シャーロットの家、仲間のよくいる場所、なんていうのがどういう位相でからんでいるのかが見えにくいんだよね。
それと、ギャントがどの程度のボスであるかも分かりづらい。やってるのは金貸しと取り立てぐらいで、事業を展開してるようにも見えない。いつもいる部下も2人だけで、スケール感がないんだよね。で、ミッチェルに惚れて部下にしたいという気持ちが、異常に強すぎるってのも変。いや、そもそもミッチェルってどんなやつなのよ、というのも見えにくい。
ミッチェルは相手を殴って重傷を負わせ、3年食らい込んだ。では、それ以前は何をしていたのだろう? ギャングだったのか。でも、ギャングでビリーの仲間なら、その存在をギャントが知らなかった、ってことはあるかね。出所祝いにも大勢やってきてたし、地域でも顔だったみたいな描き方がされている。半端なチンピラじゃないように思えるんだが…。なのに、「もうムショはまっぴらだ」というだけで(?)、悪事から足を洗おうとしている、らしい。ビリーの強引な取り立ても、見ていられない、という心の優しさを見せたりしている。そんな男が、元ギャング? うーむ。いちばん造形されていないのが、ミッチェルなのかも知れないね。
シャーロットは化粧品のイメージガールになっているらしく、街中に顔写真がある。けれど、現在の彼女は芸能生活から遠ざかり、家に閉じこもったまま。なので、パパラッチがいつも監視している状態。という割りに、ひとりで化粧品を買いにいったりしているのだけれど、どうやったんだ? なんていうシーンもあったりする。このあたり、整合性がイマイチだな。
ミッチェルとシャーロットが近づいていくのも、それほど具体的な何かがあったからというわけではない。なんか、雰囲気。ミッチェルがそばにいる間にも元亭主がスペインで男爵だかなにかを交通事故で死なせてしまうようなことがあったりするんだけど、で、関係ないよなあ。むしろ、イタリアでレイプされた、なんていう話をジョーダンがしてたけど、これもさらりと言うだけ。ううむ。
いろいろ要素はばらまかれているんだけど、それが放置されたままで、有機的に噛みあってこない。
勧誘したけど断られたからと、ギャントはミッチェルと狙い始める。そりゃ、プライドがそうさせるのか? しかし、妹や、妹がつきあってる男まで殺すことはないだろ。いや、ミッチェルを組に入れるため関係ない黒人を殺したり(ミッチェルを殴った黒人の代わりらしい)、元医者を簡単に殺したり、なんか、殺しがあまりにも素っ気なく行なわれる。
浮浪者ジョーも団地のサッカー少年に殺されていて、ミッチェルはそのサッカー少年を探そうとする。日本でも浮浪者狩りなんていうのがあったけど、それは抑圧された少年たちだろ。ここで描かれるのは、サッカーで将来を嘱望されるような少年なんだから、わかんないよなあ。
てなわけで、追われるミッチェルは、やっと仕事を始めようとするシャーロットとロスで落ち合うことを約束するのだけれど、その間に妹はギャントに殺され(部下にやらせず自分でハンマーで殴ったみたい。殺しが好きなのか)、ミッチェル本人は、例のサッカー少年に刺されて死んでしまう。げっ。なんて暗い結末。さらに、ジョーダンも自死してしまうのだが、追いつめられたからって…。わからん。
ヤクザ生活から足を洗おうとし、堅気の女に惚れつつ、つまらないことで命を落とす…っていう話は、70年代の東映や日活のヤクザ映画や、ちょっと前の韓国映画にもよくあった話。そんなのをロンドンのギャングでやられても、もやもやが増すだけだよなあ。最後はやっぱり、上手くやって欲しかった。どっかにハッピーな未来が見えないと、がっくりきちゃうよな。イギリスのいまって、そういう退廃的な雰囲気が漂っているのかね。ううむ。
キーラ・ナイトレイは、カリブの海賊話のお姫様なんかより、この手の内容の映画が好きみたいだなあ。受け口っぽくて超貧乳なので色っぽさは相変わらずないけど。ヤリマンの記者ペニーが可愛かったけど、最初にちょいと出ただけ。コリン・ファレルは、メル・ギブソンに見えてしょうがなかった。
繁華街。シャーロットの写真の下にTDK、SANYOの文字が…。しかし、三洋電機はもう、存在しないのだよなあ…と、感慨。
50/50 フィフティ・フィフティ12/27新宿武蔵野館3監督/ジョナサン・レヴィン脚本/ウィル・ライザー
原題は"50/50"だけ。遺伝性が原因で、脊髄にガンが発生。5年生存率は50%で、転移したら10%という宣告を告げられた27歳の青年の話。同じような設定で園子温が「ちゃんと伝える」という映画を2009年に撮っている。園子温に似合わない青春映画で、教訓臭いところもある映画だった。それに比べると、深刻な設定ながらユーモアが満載。同情を買おうだのという魂胆もなく、お涙頂戴にせず真摯にとらえようという姿勢が感じられる。だから、暗くならずに見られるのが最大のメリットかも。
Webを見たら脚本家が自分のガン体験を元に書いたらしい。ま、話はフィクションだろうけど。
アダムはシアトルのラジオ局に勤めている。レイチェルとの半同棲関係もうまくいっている。それがいきなりのガン宣告。同僚で悪友のカイルは同情してくれるけど、ほんの一瞬。いつも女とヤルことしか考えてない! 母親は達者だけど、父はアルツハイマー。火山に関する番組を仕上げたいけど、まずは抗癌剤だ…。という流れ。アダムの絶望的な感じを過剰に出さないところに、リアリティを感じる。もちろん不安や孤独感は凄まじいはず。でも、まだ死ぬと決まったわけではない。泣いたりわめいたり、映っていないところでしたかもしれないけれど、おおむね立ち向かおうとする姿勢が、素直に美しい。しかし、アメリカの医者は病名や経緯の予測を即物的に告げるのだな。
はじめは「支える」といっていたレイチェルも、だんだんアダムが重荷になってくる。そもそも、アダムはクルマの免許を持っていないという変人だから、抗癌剤投与にも送っていかなくちゃならない。そのアダムが免許を取らないのは、ガンと同じぐらいクルマは死亡率が高いから、らしい。けれど、ガンになってしまった…。てなわけで、レイチェルは浮気。その現場をカイルに発見されて、アダムに告げ口される。で、別れることに。
この、カイルの告げ口が大胆で、アダムの家にやってきて、レイチェルのいる前で携帯で撮った写真を見せつけるのだ。フツーそんなことしたら、いくら旧友でも「余計なことを」って思うんじゃないのな。でも、アダムとカイルは、同性なのに深い絆で結ばれている、らしい。妙な関係だね。
で、レイチェルと入れ替わるようにアダムの前に登場するのが、まだ大学院生で新米セラピーのキャサリン。なんだけど、重篤なガン患者に、24歳の経験も浅いセラピストをつけるかね。アメリカの病院はよく分からない。分からないといえば、結局、抗癌剤が効かずに手術して患部を摘出することになるのだが、明日手術というのにアダムとカイルは"最後の夜"を2人で過ごす。こいつら、ホモか? は、いいとして、日本ならあらかじめ検査入院をして、前日か2日前ぐらいに入院だよな。アメリカじゃ手術の翌日には退院させられるなんていう話をきくけれど、それは本当みたいね。あ、それと。盲腸の手術で数100万するらしいけれど、アダムは医療費をどう工面したのだろう? 会社の医療保険使ったのか? 日頃から自分で保険会社に高い金払ってたのか。どうしたんだろ。とても気になる。
その手術前夜。術中に死ぬこともある、といわれたのか、初めて爆発する。免許を持っていないのに、この世でやってないことをする、とカイルのクルマを無免許で運転し、一通を逆走。止めるカイルを車外に押し出し、わめく。わめいて、キャサリンにもらった携帯番号に電話する。
まあ、事前のセラピーでキャサリンがアダムに惹かれはじめてる、という描写はあるのだが。これはもちろん、映画ならではの展開ではあるけれど、まあ、そういう夢のある話にもっていかないと、話にならないのだからしょうがない。
それと、ちょっと感動するのが、カイルが「ガン患者とともに」とかいう題名の本をしっかり読んでいた、っていうのが分かるシーンが)。アダムがカイルの家のトイレで見つけるのだけれど、お調子者で、「ガン患者を売り物にすれば女の子なんて一発だ」なんていったりするくせに、心づかいはちゃんとしていた、っていうのが心に迫る。
母親の、息子への愛情。いつのまにか、ガン患者の子供をもつ会に入っていたりして…。そして、息子のことが分からなくなっている父親との、会話。抗癌剤治療をするガン仲間の2人…。みんないい。みんな温かい。浮気したレイチェルに厳しいアダムとカイルだけれど、彼女だって大変だったろうな、という気持ちも伝わってくる。1人のガン患者は、周囲にいろんな心の選択を迫ることになるのだ。母親が、担当医が州立大学しか出てないことを気にするのも、もつともという気持ちになってしまう。それだって、息子への愛情のひとつだもの。
しっかし、アダムはおしゃべりなやつだ。セラピーでカイルや母親のことをいろいろ話していて、それに対してキャサリンがあれこれ反応する。つまり、カイルや母親への悪態めいたことを。それをそのまま、カイルと母親に話していたっていうんだから。まったく。
てなわけで、手術は成功。キャサリンを家に呼んで…さて、どうする? とな場面で終わる。でも、骨にだいぶ転移していたようで、ずいぶん削ったといっていた。執刀医は腹腔鏡みたいのを背中につっこんでいたので、そんなんで摘出できるのか? と思っていたのだけれど、あとから、背中を30センチぐらい開いた傷口が映される。ああやっぱりな。では、腹腔鏡でとりきれなくて、途中で開いたということか。なんて思いながら見てた。手術はうまくいっても、治ったわけじゃない。いつ再発・転移するかという不安が伴う。しかも、5年生存率が50%だから、それ以上となると確率はもっと低くなるはず。果たして、アダムは何年生きられるのだろう、という思いがよぎる。たとえ、ハッピーエンドな終わり方でもね。
しかし、「ロンドン・ブルバード」で登場した医者はインド人。この映画での執刀医や麻酔医はアジア人。白人の担当医もでてきてはいるけれど、アジア人の医者、とくに外科医は多いのかね。
アダム役のジョセフ・ゴードン=レヴィットが、どうせ抗癌剤で髪が抜けるのなら、という思いで髪をバリカンで剃ってしまう。自分の毛をね。映画って、それぐらいのことをする価値のあるものなのだよな。日本の映画で、そこまでするやつなんていないよな。
キャサリン役のアナ・ケンドリックは、顔が幼すぎて頼りない感じがたまらない。とくに、歯。「マイレージ、マイライフ」でも、頭はいいけど頼りなげなキャラだったけれど、そういう使われ方が多くなるのかね。という割りに、セラピー中に胸の谷間を見せてたけど…。
ちょっと気になるのが、会社=ラジオ局のこと。勤めは辞めたのか、休職なのか、つくろうとしていた火山の番組はどうしたのか。そこはフォローして欲しかったね。
海洋天堂12/29ギンレイホール監督/シュエ・シャオルー脚本/シュエ・シャオルー
英文タイトルは"Ocean Heaven"。中国映画。監督は「北京ヴァイオリン」の脚本家で、自閉症の青年ターフーと父親ワンの物語。いわゆる良心的な作品なんだけど、当然のように感動の押し売りが随所にある。ワンの妻は息子の症状に耐えきれず入水。ワンは末期ガンという絵に描いたような設定。そこに、ワンに思いを寄せる隣家のやさしい中年女性チャイ。父子を見守る水族館の人たち。水族館で働くどさ回りの芸人リンリン。ターフーを受け入れる施設の人々なんかがからんでくる。もう父子の周囲は心やさしい人ばかり。さあ泣いてくれ感動してくれといわんばかり。というわけで、こちらは白けてしまって、退屈でしょうがなかった。こんなわざとらしい映画に、誰が泣けるというのか。
要するに、障害者のいい部分と、周囲のいい人たちだけを切り取って感動をでっちあげ、いい未来があるかのような終わり方をさせる。観客は「気の毒なところもあるけれど、でもよかったね」とハンカチで涙を拭きながら、満足そうに映画館をでていける、というわけだ。でも、ちょっとまってくれ。ターフーはいま21歳だけど、どんどん歳をとる。50、60のオッサン、ジジイになっても、あなたは愛を注げますか? では、この映画の主人公が21歳の青年ではなく、50歳の自閉症のオッサンだったら、どうしますか? 同じ感動を抱けますか? 隣家の雑貨屋の女主人のように、自閉症の息子をもつ男性と生涯をともにしよう、と決意できますか?
映画だから、どさ回りの可愛い女の子もターフーにやさしく接してくれるけれど、現実にそんなことが起こるだろうか? 映画にはターフーのたわいのないトラブルばかりが映されるけれど、実際はもっと深刻なことも起こるに違いない。どさ回りの女の子が別の場所に行ってしまったからと、仕事場である水族館を抜けだしてしまうターフー。おかげで大勢の人が彼を捜し回ることになる。これから、そんなことが多く起こることになるだろう。それにがまん強く接するのは、大変なことだろうと思う。その大変な部分をさておいて、きれい事で描いてしまうことが果たしてよいことなのだろうか。
父親ワンは、ターフーにやさしく接してきたようだ。でも、母親は耐えきれず自殺してしまった…。それぐらい大変なことなのだ、と示唆はしているけれど、現実は見せていない。ラストで、自炊やバスの乗り方もマスターしたかのように描かれているけれど、あれだって症状によるだろうし、個人でも違ってくる。父親が教えていた頃はダメだったのに、父親が死んだら急にできるようになるというのも、変な話。
大半の施設に入居を断られるのに、以前に学校の校長の世話で、やさしい考えの施設にあっけなく入れるようになってしまうのも、ご都合主義的。しかも、施設に入居した当夜、父親がいないからとわめいたのに、父親の死を受け止められたのか、ということも描かれていない。…など、突っ込みどころも多い。
後半で、父と息子を亀に譬えるシーンが登場する。しかも、ワンは手製の亀の甲羅を背負ってプールに入ったりする。アホかと思った。それにしても、あの亀の親子は何を譬えようとしているのだろう? よく分からんね。
あと、末期の肝臓ガンというのに大量の飲み薬しかもらえず、ずっと働きつづけるという設定も、どんなものなんだろうね。まだ元気で、亀の甲羅を背負っているシーンのすぐ後に、いきなり葬式というのも端折りすぎじゃないのかね。なんか、みんな都合よすぎだよな。
ピザボーイ 史上最凶のご注文12/30シネマスクエアとうきゅう監督/ルーベン・フライシャー脚本/マイケル・ディリバーティ
原題は"30 Minutes or Less"。B級バカ映画。なんだけど笑える小ネタ満載で、話自体もバカなりに面白い。これをタランティーノが演出したら、2時間半ぐらいの濃密な構成の話になるんじゃないのかな、なーんて思いながら見ていた。こっちは82分の小品。でも、捨てがたい。
遺産を早く欲しいからと、オヤジの暗殺を思い立ったドウェインと子分格のトラヴィス。しっかし、こいつら40近いんじゃないか? と思って調べたら、35歳前後だった。オヤジが宝くじで1000万ドルあてて、あれこれ使って残りは100万ドル? それを狙ってのことだけど、いい歳をしてオヤジのプールの落ち葉すくいを時給1000ドルでやってるってんだから、アホ。でも爆弾づくりや女遊びはお手のもの。殺し屋を雇うための10万ドルをつくるため、どっかの誰かに銀行強盗をさせよう、と思い立つ。で、白羽の矢が立ったのが、30分でお届け、のピザ屋の配達人ニックだった。配達にきたニックのカラダに時限爆弾をセットして「さあ、銀行で10万ドル盗んでこい。そうしたら、解錠パスワードを教えよう」というわけで、話が始まる。
以降、話にあまりひねりはない。ニックは親友のチェットと2人で銀行を襲い、10万ドルを奪取。ドウェインは金の受け渡し場所に、殺し屋を行かせる。でも殺し屋はパスワードを知らない。ニックとチェットは殺し屋から逃れ、ドウェインと連絡をとる。ドウェインらはチェットの妹でニックの恋人(?)のケイトを誘拐。殺し屋は標的であるオヤジのところに乗り込み、息子ドウェインの居所を聞き出す。ドウェインは、廃車置き場でニックたちを待ち受ける。そこに殺し屋もやってきて…。という流れ。
でも、流れは一筋縄ではいかない。ニックたちは、強盗のために知人の車を盗み、バレバレな感じで銀行を襲撃し…と、すべてがドタバタ。いっぽうでニックは高校卒業のとき寝たケイトとの仲を復活させようとしているし、それを知ったチェットは怒りまくる。で、昔、ニックの母親が浮気しているのをバラしたのは俺だ、といったりする。そのせいでニックの両親は離婚してるってんだから、なんてこった。このニックとチェットが最後まで無二の親友関係をつづけるんだから、おかしい。
ドウェインとトラヴィスも凸凹コンビで、アホぱっかし。こんな杜撰でどうすんだ、ってな感じなんだけど、話はどんどん進んでく。いいんだよ、はじめっからバカ映画ってわかってるんだから。
ニックとチェットは映画をよく見ていて、会話には題名がたくさんでてくる。ドウェインとトラヴィスも、これまたB級映画好き。そういえば、最初の方でニックがケイトと会ってFacebookの話をするんだけど、ニックは「やめた」なんていう。ニック役のジェシー・アイゼンバーグは「ソーシャルネットワーク」でFacebook開発者のザッカーバーグを演じてるんだから笑える。
とまあ、最後まで誰も死んだりせず(かな? 殺し屋は逃げたんだっけ?)、ドタバタなまま終わるんだけど、ケイトは無事に助かり、金はニックたちのもとへ。でも、札束から銀行強盗対策の青いペンキが飛び出てくるんだけどね。ちゃんと返したのかどうかは分からない。ま、返すことになったら、強盗したことがバレるから、してないか。でも、金は使えないだろうな。
エンドロールの後に、ドウェインの日焼けサロンのCMが流れる。100万ドル手に入れたら…といってたけど、瀕死のオヤジをいいくるめて金を出させたのかな。ま、日焼けサロンっていっても、売春やヘルスも兼ねてるみたいだったけど。ついでに、ニックたちのその後も見せて欲しかったなあ。
うさぎドロップ12/31キネカ大森2監督/SABU脚本/林民夫、SABU
原作はアニメらしい。いわゆるハートウォーミングな物語で、子供を育てたことがある人なら共感できるところがたくさんあると思う。ただし、いいお話しでした、で終わってしまう嫌いもあって、SABUなんだからどっかに毒があってもいいんじゃないか? と思うのだけれど期待は裏切られる。ま、SABUであることを考慮に入れなけりゃそれでいいんだけどね。
祖父が死んだ。葬儀に行ったら、祖父の隠し子・鹿賀りんがいるのを知る。他の家族は誰も面倒を見ようとしない。そこで、孫のダイキチが引き取って世話することにした…。で、突然、5歳の幼児を手もとに置くことのあれやこれやを描いていく。衣服、食事、保育園、病気、寝小便…。こうした中で、幼児がトイレ怖がったり、平気で人の腹を踏んで歩いたり、保育園に迎えに行くと飛んできて足元にしがみついてり、ごはんをオニギリにしたり…。こういう何気ない動作も丁寧に描かれる。りんの保育園の友だち、コウキの場合は、大人の靴を履いてみたり…。ある意味で、子供の可愛い盛りを見せるイメージビデオ、って感じもなきにしもあらず。でも、子供を育てたけんけんがあると、ああいうこともあった、そうそう、と思えてきて飽きないのだよね、これが。もっとも子供なんて可愛いのは10歳ぐらいまでで、あとはぐだぐだなんだけどね。それが分かっていても、でも、あの年齢の子供たちは可愛い。
ダイキチが営業職から倉庫に配置転換を求めたり、子育ては大変、という主張もあるけれど、ダイキチの母親の「そういう時間も、私の時間だから」とかいうようなセリフで分かるように、子育ては充実した時間なんだよ、というメッセージもある。その対極にあるのが、漫画家になるため実子のりんを捨てた吉井正子だ。生まれた子を、なかったことにしてしまう。ある意味で、堕胎と同じことを、生きている娘にしてしまったわけだ。生まれる前に何とかできなかったのは、祖父が「産め」といったからなのだろうか? でも、だったら、りんが大きくなったときのことを考えて、息子や娘たちに連絡したと思うんだけどね。
たんに子供を描くだけじゃしょうがないので、ダイキチと二谷ゆかりの出会いも添えられる。ゆかりはモデルらしいけど、茨城の田舎に住んで息子を保育園に送り迎えするモデルって…。この設定は何とかならなかったのかね。亭主に死なれているという設定だけど、その背景はほとんど描かれず、薄っぺら。
で、映画最大の事件は、りんとコウキが保育園をエスケープし、大人たちを右往左往させる場面。原因は、保育園でお絵かきで両親を描くという場面があり、父親のいないコウキは耐えきれず(?)父親の墓参に行っいたというオチ。よくある展開で驚きもしないが、ゆかりが、父親とは離婚した、といった理由がよく分からない。まだ生きている、と思わせたかっただけ? あまり意味がない理由だと思うが…。
騒動は何事もなくおさまり、平穏な日々がもどる。ダイキチとゆかりは、将来的に結婚…と示唆しているが、どうか分からない。ダイキチの母夫婦も、りんを受け入れる心になったし。よかったよかった、で話は終わる。
ダイキチの叔父になるのかな。秋野大作が、りんを預けろ、と高畑淳子と引き合わせるシーンがある。高畑淳子は、どういう設定なのだ? 斡旋人? 引き受け手?
冒頭の葬儀シーンで、家族がたくさんでるけど、誰が誰やらさっぱり分からず。分からなくてもいい、ってことなのかね。
地理的条件がよく分からなかったので調べたら、祖父の家は竜ヶ崎市郊外の農村地帯。ダイキチの家は土浦市近郊。ダイキチの両親も、土浦市近郊、のようだ。ここから、いろいろ疑問が生じてくる。ダイキチは東京に勤めている。なのに、竜ヶ崎より東京から遠い土浦市に住むのはなぜか? ダイキチは戸建てに住んでいる。設定は27歳らしいが、あり得ないだろ。実家を出て一人暮らし、ならアパートだよな、フツー。空いている家でも安く借りているのか?
保育園の送り迎えが大変なら、より東京に近いところに越せばいい。そして、受け入れ体制の整ってる保育園を探せばいい。
モデルをやってる二谷ゆかりが、土浦市に住んでいるってのはあり得ない。
祖父の家と、ダイキチの子供たち(嫁ぎ先も含む)の住んでいるところは、そんなに離れていない。なのに、6年間も隠し子がいたのが分からない、っていうのはあり得ない。誰も爺さんの住み家に近づかなかったってのか?
生母が分からない、と代吉の母がいう。けど、母子手帳を見ていながら分からない、はないだろ。吉井正子って書いてあるのだ。お手伝いをやとってて、孕ませた、とある。あんな農村地帯でお手伝いをやとって、素性が知れない、はないだろ。そもそも、生母ぐらい、戸籍か住民票をとれば分かるだろ。
「うさぎドロップ」の意味は? うさぎは髪型? ドロップは?

 
 

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