2012年1月

ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル1/4上野東急監督/ブラッド・バード脚本/ジョシュ・アッペルバウム、アンドレ・ネメック
原題は"Mission: Impossible - Ghost Protocol"とそのまんま。おおむね面白いんだけど、途中から人物関係の把握が怪しくなってきてしまった。どういうつながりがあるんだ? とかね。
冒頭、ロシアの牢獄から逃げるとき「情報をくれた」と一緒に逃がした男。後に武器商人との接触(?)のときに出てきたけど、彼はあれだけだったの? どんな情報をくれたのか気になってたし、もっと重要な役回りで登場するかと思ったのに拍子抜けだった。
ドバイのホテルでパスワードを盗むため出し抜くシーン。ジェーンが相手にした2人のうち、アシスタントっぽい男は誰だったの?
後半、インドの富豪みたいなのがでてきたけど、どういう関係があるんだ? とかね。もう一回見れば分かるのもあるんだろうけど、スピーディな場面転換を優先させすぎて、説明不足の部分があるなと思った。つじつまが、カチリカチリとはまっていかないんだよね。なんとなく、強引に納得させられてる感じ。
はらはらドキドキは十分。イーサンがドバイで高層ビルを粘着手袋で登るところ、その後の砂嵐なんかはなかなかだった。
女性メンバーのジェーンはきれいだし、何かんがえてるか分からん感じの暗殺屋モローも、いい。なので、女性陣に関しては満足かな。ただし、悪役のコバルト=ヘンドリクス博士は、ちょっとなあ…。007っぽい誇大妄想的犯罪者だと、どーも現実味が薄くて、むしろお笑いっぽく感じてしまう。もうちょい、ありそう、な感じを出して欲しかったかも。
現実的っていっても、侵入・脱出etcもろもろの破天荒な部分をいってるんじゃない。どうやって? あり得ない! は、この映画には禁句。あれはあれでいいのだ。むしろ笑い飛ばせばいい。…とはいうもののIMFの手引きがなくなったのに高級車や自家用飛行機、脱出用の貨車を用意できるのはなぜなんだ? とは思うけどね。まあ、どっかに支援者が隠れているんだろう。ははは。
でも、よーく考えると基本的な流れが甘いかな。ヘンドリクスは地球の豊かな未来のため、核戦争はあった方がいい思っているらしい。そのためヘンドリクスはクレムリンに潜入して起爆装置(?)を単独で入手するんだけど、そんなスパイみたいな博士がいるのかよ。誰か雇ってやらせればいいのに。
パスワードは、ジェーンたちが盗むのに失敗して、モローの手に渡ってしまい、それをヘンドリクスがダイヤで買う、という流れ。ヘンドリクスは、パスワード奪取に動かなかったの? 最初からモローを雇っていたのかな? で、装置とパスワードを手に入れ、原子力潜水艦に指示を出して核弾頭を発射させる…? しかし、いろいろ盗まれた時点でロシアも防衛策を講じるだろ。ニセの指示には従うなとか、パスワードを変えるとか。と考えると、話自体がアホらしく見えてくる。だから、あまり突っ込まず見るのが正解なのかも。
ところで、着弾した核弾頭が爆発しなかったのは、なんでなの? よく分からなかったよ。
ニューイヤーズ・イブ1/6ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/ゲイリー・マーシャル脚本/キャサリン・ファゲイト
原題も"New Year's Eve"。「ラブ・アクチュアリー」「バレンタインデー」などの三番煎じともいえる映画。複数の人物・シチュエーションを絡めてクライマックスにもっていく。なので期待していなかった。実際、最初からテンション高めで、しだいにじわりとくる感じはない。それに、最後はタイムズスクエアのボールドロップで盛り上げるんだろ、って見えているから、意外性もないだろう、って分かる。そんなのには、乗らないよ、と構えていたんだけどね。でも、最後は上手くのせられてしまった。大半のエピソードは概ね予定調和のステレオタイプだけど、上手くできている。さすがはハリウッド。
・看護師(ハル・ベリー)と末期ガン患者(デ・ニーロ)の話は、ありきたり。しっかし、ハル・ベリーは別人みたいな印象で、完全にオバサン化してた。で、その後の話が泣かせる。看護師が仕事を終え、着飾って帰宅すると、相手はネットの向こう。夫は軍人でイラン辺りに行っているのだった…。デ・ニーロの娘は、ボールドロップを指揮していた女性(ヒラリー・スワンク)の父親だった…。ロクでもないオヤジだったけど、娘が指揮するボールドロップを見て、新年早々旅立っていく…。
・高所恐怖症ながらポールダウンを指揮するヒラリー・スワンクは、やり手の出たがり屋? ボールにトラブル発生で、いったんは首にした熟練の技術者に助けられるという話。職人をリストラするというのは、彼の地でも同じなのだね。黒人警官が登場するんだけど、彼の役回りがよく分からなかった。
・エレベータに缶詰にされた男女はよくある話。彼女がボン・ジョビのバックコーラスのオーディション…という設定も、ありがち。漫画家の男性がタフツ大学卒って、なんか意味があるのかな?
・友だちと夜遊びしたい15歳の少年少女…うち1人の娘の母親が、サラ・ジェシカ・パーカー。
・パーティの女料理長(キャサリン・ハイグル)の元カレが人気ロックスター(ジョン・ボン・ジョビ)で、パーティのゲスト! で、ヨリをもどす話。ありきたりだな。
・新年最初に生まれた赤ちゃんには賞金が出る、っていうんで競い合う夫婦たち。女医がなかなかよかったんだけど、有名な役者じゃないのかな
・車の事故で、知人の結婚式から戻れなくなった青年…は、真夜中に去年出会った女性との再会の約束が…というのもよくある話。さて、現れるのは…。でも、残ってるのは婆さんばかりだよな、と思っていたら、なんとサラ・ジェシカ・パーカーだった! おいおい。こんな馬面のオバチャンとシンデレラごっこかよ。ちょっとがっくり。この青年(母親の方だっけ?)の母親はレコード会社の社長で、飼っている犬の名前がiPodって…。
・ついにレコード会社をやめる決心をした中年女性(ミシェル・ファイファー)は、今年中にやりたい願い事の数々を達成するのに、宅配の兄ちゃん(サラ・ジェシカ・パーカーの弟という設定)の手を借りる。どーも彼女は自分の意見を言えないタイプ。男にも縁がなさそう。それを兄ちゃんが応援する。これは、ちょっといい話。ミシェル・ファイファーも可愛いオバチャンになっていた。兄ちゃんが友人(エレベーターの男性)に、「それがイタイ女でさあ」とミシェル・ファイファーのことを説明するんだけど、原文はどうだったんだろ。知りたいところだ。
気になったのは、企業との提携が感じられるシーンの多さ。TOSHIBAが最も多く、コダック、Philips、TDK、HSBC、ニベア…なんて企業のロゴがでまくり。他にもシャーロック・ホームズの新作看板や、小澤征爾(?)らしき顔なんかもでてた。ちょっと露骨すぎないか。
ボールドロップ、というから、あのボールが2012年とともに落下するのかな? と思ったら、なーんだ。あのボールを見ながらカウントダウンする、という意味なのか。そんなの見て楽しいか? という気分。だから、デ・ニーロの「ボールドロップを見たい」という気持ちが、たとえ、かつて娘と見た記憶があるにしても、よく分からなかった。
そういやあ、アメリカン・アイドルの司会ライアン・シークレストとブルームバーグ市長がでてたな。これなんかも、ニューヨーク市のPRそのものだな。
PRといえば、エンドロールに登場人物の「その後」やNGシーンがあったけど、妊婦の腹から「バレンタインデイ」のDVDが出てくるって、おいおい。同じスタッフの映画なんだろうけど、やりすぎだろ。
エレベーター閉じ込められ彼女が新年早々歌うのは「蛍の光」。おお。この曲はお別れではなく、新しい年を迎えての曲なのか。
絶対の愛1/9キネカ大森2監督/キム・ギドク脚本/キム・ギドク
2006年の韓国/日本映画。出資してるってコトかな。韓国タイトルは「時間」で、国際タイトルも"Time"。
はじめは面白く見ていたけれど、ミステリー要素がなくネタバレしたまま進んでいくのでつまらなくなって眠くなった。で、最後のオチは、ふ〜んなるほどね、という感じ。ミステリアスな要素を孕んだまま進むんならヒキもあるけど、この程度の話だったら60分ぐらいで十分だ。長すぎる。
待ちあわせに急ぐセヒ。整形医の門前で、術後のマスク女とぶつかる。喫茶店でジウと合流するが、セヒは最近、ジウが他の女性に関心を持ち始めたののではないかと疑心暗鬼。嫉妬に狂い、些細なことで逆上する。SEXしていても、自分のカラダに飽きたのではないかと不安に陥っている。そこで、整形して別の顔になってジウに接近することを計画。ジウの元から去り、6ヵ月後、腫れがひいてからスェヒとして喫茶店のウェイトレスになってジウを誘惑する。ジウはセヒを思っているのだけれど、セックスの相手がいない。ついついスェヒとつきあい始める。スェヒがジウの家に行くと、セヒの写真が飾ってある。ジウもセヒが忘れられないという。スェヒはセヒに嫉妬し、ジウを攻める。そして、自分がセヒであることを身をもって示す。困惑したジウは整形医を訪れ、別人となることを決意。スェヒも、それに感づくのだけれど、6ヵ月を過ぎても別人ジウが現れない。別人ジウを探し求めるスェヒ…。ついに別人ジウが現れたか! と追うが、逃げる別人ジウ。別人ジウはクルマにはねられ、顔がぐちゃぐちゃ。スェヒは整形医を訪れ、今度はまったくの別人になることを決意。術後、整形医の門前で若い娘=最初のシーンのセヒとぶつかる…で終わり。
ひねりがあるのは最初のシーンと最後のシーンだけで、あとはバレバレ。セヒの突然の転居も、整形医を訪れることも、ストレートに描いてしまう。ぜーんぜんミステリアスがない。これじゃつまらんよ。冒頭のマスクや女とぶつかるところだって、あんなに露骨に描いていれば、いつか何かある、って分かっちゃうしね。結局のところ、女とくにセヒは嫉妬深い、ってだけだろ。冒頭とラストシーンも、女の嫉妬深さは無限ループ、と言っているに過ぎない。可哀想なのはジウだよな。別にセヒが嫌いになったわけじゃないのに、あんなヒステリー女。女は自分以外の女性に彼氏の視線が行くことに耐えられない、だって? でも女性だって別の男に感心をもったりするだろ。愛なんか長つづきしない。そんなの当たり前のことじゃん。あほじゃねえか。なのに、セヒって、バカじゃねえの? ってなぐらい騒ぎ立てる。
整形すれば別人、という設定は無理がありすぎ。そもそも声は変わらない。カラダも変わらない。性格も変わらない。別人とはいえないだろ。
それと、ジウが整形したのは事実らしいけど、なぜすぐにスェヒのところに現れないのだ? 意味不明だ。最後に交通事故で死んだ男だって、ジウとは限らない。たんにジウは、スェヒから逃れたかっただけかも知れない。なのにスェヒは別人へと2度目の整形をする。なんのために? よく分からない。
ジウとセヒがデートした彫刻公園がよくでてくる。まあ、しょぼい公園だ。けど、自らちんぽこいじってる像や、ちんぽこ囓られる像があったりする。そんな公園に男女が行くって、なんだよ。男女の仲は、セックスしかないとでもいうのかね。女性視点の男性、女性に支配される男たち、ということを言おうとしているのか? 分からない。
それにしても、ジウはセヒが去ってもモテモテじゃないか。合コンではブスとカップルになったけど、ホテルにまで行った。けど、相手がブスだからか、セヒが忘れられないからか、セックスには及ばす。なのに、外から窓に石を投げつけられる。って、これは監視していたセヒのせいなのか?
翌日、旧知の女友達と出会って、彼女から誘われる。店を出る前に彼女がトイレに行き、さあ次はホテルだ! と意気込んでいるジウに、彼女が「気が変わった」という。トイレで何が起きたのだ? セヒが彼女に嫌がられでもしたのか? なら、なぜ彼女は起こったことを言わない? ううむ。舌っ足らずだな。
てな具合で、すんなり納得できるような仕上がりにはなっていなかった。やっぱ、完成度が低いとしか言いようがない。思いつきの設定、思いつきのラストシーン。それだけじゃ、映画は面白くなりませんぜ。
しっかし、スェヒは赤の他人を別人ジウと思い込んで自室に招き入れたり、あるいはラブホに行っちゃったり、そんな韓国女性って無防備なの?
無言歌1/10ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ワン・ビン(王兵)脚本/ワン・ピン
原題は「夾辺溝」、英文タイトルは"The Ditch"で、溝の意味。監督は「単騎、千里を走る。」のワン・ピン(王斌)とは違う、ドキュメンタリー出の人らしい。無言歌というのはWikiによると「ロマン派音楽に伝統的な抒情的小品または性格的小品の一種。「言葉のない歌」という意味で、器楽曲、中でも主にピアノ独奏曲に用いられる。フェリックス・メンデルスゾーンが最初に用い、生涯にわたって作曲した」そうだが、日本でつけたタイトルだからなあ。「溝」の方がイメージぴったりな感じだ。それに、ラストの暗転後、か弱い歌が聞こえてくるんだけど、無言歌じゃないじゃん。
さて、allcinemaによれば「1956年、ソ連でのスターリン批判を教訓に、共産党に対する批判を歓迎する“百花斉放百家争鳴”を提唱した。しかしほどなく方針を一転させ、批判した知識人たちを“右派分子”として粛正、辺境の再教育収容所へと送り、劣悪な環境の中で多くの死者を」だした出来事を映画化したらしい。
のだが、物語性やドラマはほとんどなく、収容所「夾辺溝」でのエピソードの堆積といってよい。そのエピソードも、腹が減ってネズミを食う、他人のゲロを食う、わけの分からんものを食う、人肉を食ってるやつがいるらしい、人が死んでいく、死骸は原野に置かれ砂をかけられるだけ…。というようなものだけ。で、それをだらだら長々と映していくんだよ。途中で飽きてきて、少し眠くなった。もうちょい短く切って、抑揚をつけろと思った。
ネズミやゲロは見るだけで気持ち悪くなったけど、それが最高レベルのグロでしかも最初の方なので、以後の他の描写にはあまり感じなくなってしまった。とんでもなく悲壮感漂う感じでもなく、淡々と素っ気なく描かれていたからかも知れない。
ちょっとしたドラマもあるにはある。収容者の面接に上海から妻がくるが、夫は死んでいたというだけの話。老人と中年男が脱走を企み、老人が途中で歩けなくなって放置される。ぐらいなもんかね。
収容所といっても、管理者は掘っ立て小屋。収容者は地面に掘った穴に住んでる。穴の上は板かなんかで蓋がされ、その上に土が盛られている。でも、明かり取りの穴が開いてるから、外気が入ってくる。ストーブはある。てなところで何年も暮らすらしい。飢饉があったらしく、食事は具のないスープばかり。周囲は寒く、雨も降らないのか草も枯れている。木も生えていない。後半で死者を荼毘に付すシーンがあるのだけど、枯れ木がわずかたった。あんなじゃ生焼けだろ。そもそも、枯れ木はどこからもってきた?
町や駅からどのぐらい離れているのだろう? 最後の方で分かるけど、歩けるところに駅があるみたい。死んだ男の妻も列車で来たらしいからね。近隣の村人との交流はあるみたい。最初の方で「交換するものがない」なんていってて、誰と何をどう交換するのだ? と思っていたのだけれど、死人の布団を剥いで村人にやって何かと交換した、というようなことを言っていた。という具合で、地理的条件が分かりにくい。
収容所も、穴蔵がいくつあるのか知らないが、管理もそんな厳しくないみたい。女も、管理者の許可を得てやってきた様子がない。管理者とも話していたけど、咎め立てされていなかった。食事は外で配給かと思ったら、後半になって、穴蔵に缶をもってきている様子が映っていた。それにしても、あんな荒涼地帯で、水はどうしてるんだろう? 豊富にあるみたいだったけど、川が近くにあるのか? トイレは? 病人を看病する場所をつくりたい、なんて所長が言っていたけど、医者はいるのか? などなど、施設の様子もアバウトにしか分からない。
あんないい加減な施設なら、逃げられるんじゃないか、簡単に。と思ったけど、何かあると実家の家族や親戚に害が及ぶからできないのかもね。
時間の流れも、描かれない。いちど雪が地面にあるのが映ったけど、それだけ。
ラストでは、収容者に死者が多いからいったん家に帰し、飢饉が過ぎたらまた呼び戻そう、なんてことを所長が言っていたけれど、上の決定で簡単にそんな具合になっちゃうのか。しかし、所長や班長は、「食料がなくて死骸を食べています」と報告はしなかったのかね。しても、聞く耳を持たない上層部だったのか?
死者と言えば、驚いたのが、されまで使っていた布団でくるんで荷車に乗せ、埋葬に行くこと。え? 布団も廃棄するのか? 布団は価値あるものなんじゃないか? と思っていたら、最後の方で、埋葬者の布団を剥いで近隣の農家にもっていった、とあったので、なるほど、とは思ったけど。でも、おおむね死者と一緒に廃棄しちゃうのが習慣みたいね。
しかし、エピソードばかりで、その後、は何も描かれない。人肉を食ったと捕まった連中はどうなったのか。逃亡した男は列車に乗れたのか? 残って収容所の仕事を手伝えと言われた男はどうしたのか。妻は上海に戻ってどうしたのか。ほったらかしだ。
てな具合で、要は被写体に寄りすぎていて、フレームの外が見えない感じ。人肉を食うほど悲惨な感じもさほど伝わってこないし、なんかいろいろ中途半端。もちろん、すべてをドキュメンタリー風にしようという意図からこうなったんだろうと思う。下手にドラマにして、創った感じがでるのも嫌だったんだろう。でも、なんか゜ああ、そうですか」で終わってしまうような気もしないでもない。スターリンや毛沢東、金日成…。共産主義という独裁体制のもとで、翻弄された人民は気の毒としかいいようがないけどね。
サンザシの樹の下で1/11ギンレイホール監督/チャン・イーモウ脚本/イン・リーチュエン
中国映画。英文タイトルは"Under the Hawthorn Tree"。下方政策を扱っているというので、昨日につづいてハードかなと思っていたら。どーも様子が違う。なんか、「初恋のきた道」路線というか、日活青春ドラマみたいな感じなのだ。で、帰って調べたら、なーんだ。チャン・イーモウ自身じゃないか。どーりで…。
1970年初頭。下方政策で、町の高校生たちが村に取材(?)に行く。のんびりしたもので、悲惨な感じはゼロ。少女ジンチュウは村長の家に寄宿し、そこで地質調査隊のスンという青年に会った。と思ったら、いきなり相思相愛になっちゃうのがテキトーな感じ。ジンチュウが町に戻ってからも、スンはそっとジンチュウに会いに行ったりして恋がつづく。でも母親に見つかって「もう会うな」と言われるのだけれど、スンが入院したらしいと聞いてジンチュウが会いに行く…。「健康診断だ」というスンと別れ、しばらくして、連絡が来て行ってみると、スンは死の床についていた・・・という悲恋なお話し。あまりにアホらしくて、途中から飽きてきてしまった…。
恋を邪魔する環境、母親の反対、恋人の病死…。決まり切ったような展開は、いまどき見ていて恥ずかしい。ずけずけとジンチュウの学校まで様子を覗きに行くスン、ダメと分かっていながら会いに行ってしまうジンチュウ。おまえらアホか。仕事を抜けだして水着になってベタベタしたり、自転車に二人乗りしたり、あり得ないだろ、そんなの。スンは、そんなに仕事を休んで大丈夫なのか? いくら映画だからって、勝手放題だよな。水着の件あたりでは、発覚してお灸をすえられ大反省…なんて展開があるんじゃないかと嫌な感じがしたけど、そんなことはなかった。けっ。
この映画も、町と村、スンが入院した病院なんかの位置関係や距離がよく分からない。スンがちょくちょくやってきたりするのをみると、バスで数時間あるいは自転車で数時間+川を渡って山を越えた辺りが村なのか。でも、あの丘陵地帯は自転車じゃムリっぽいけどなあ。片道何時間なんだろ? 病院は、ジンチュウが住む町とは別なところにあるんだろうか? だって、ジンチュウがスンと別れるとき川を渡っていったのだから、そうとしか思えない。なんか、環境の設定が曖昧だよな。
その川での別れは彼岸と此岸を表しているのは確実で、典型的な表象シーン。だから、次はスンの死なのは明白なのだけれど、最後のシーンで再開したらスンはまだ生きていて、涙を流すのだった。まあ、これは話を盛り上げるために仕方がなかったのかも知れないが、ちょっと勇み足かもね。
最初の頃、ジンチュウが「学校に残る」というのが意味不明だったけど、後半で、教師になる道というのがわかってきた。字幕が下手なんじゃないか?
妊娠した友だちは、あれは同級生? 途中から突然でてきたみたいで、なんかよく分からなかった。それにしても、17、8になろうって娘がどうやったら子供ができるかも知らないとは、困った家庭だ。でも、弟と妹のひょうきんなところは可愛かったけどね。
シークエンスにはフェードアウトが使われていた。それと、まるで無声映画の場面転換みたいな感じで、以後の経緯などの説明字幕が入るのが妙な感じだった。邪魔ではないけど、必要あるのか? という感じ。その字幕やエンドロールは中国語と英文でが書かれている。これって、ハナから世界公開を意識していたってことか。
下方政策についての批判もほとんどなく、腑抜けた悲恋を描いて事足りるというのはどーなんだろ。昨日見た「無言歌」とはえらいスタンスの違う映画だな。
宇宙人ポール1/12シネ・リーブル池袋シアター2監督/グレッグ・モットーラ脚本/サイモン・ペッグ、ニック・フロスト
原題は"Paul"のみ。主演の2人が脚本も書いている。話題のバカ映画だ。
イギリスのSFオタク2人がアメリカのコミックショー「コミコン」にやってきた。ついでにSF関連の聖地を訪ねようとエリア51に行く。そこでクルマの事故を目撃。事故ったクルマにいたのは、あの有名な姿カタチをした宇宙人ポールだった! 意気投合した3人は、宇宙に戻るというポールとともに一路某所へ向かう。途中、南部の敬虔な(?)カソリックの娘ルース(にしては歳とりすぎ)が加わり、最初にポールを発見したときは少女だったけどしまは婆さんのタラが加わる。追跡するのはエリア51のゾイルと2人の部下。指示するのはビッグ・ガイという女性上司…。南部のチンピラ2人、ルースの父親を交えて、RVは突っ走る!
基本的な構造は、「駅馬車」と同じくA地点からB地点へと突っ走るロードムービーで、内容は「E.T.」の焼き直し。もっとも「E.T.」では宇宙人を助けるのは子供たちだったけど、こちらはいいオッサン。しかも、オタク。ま、大人になりきれていない連中であるのは同じだけど。
いろんな映画へのオマージュ的なものがたくさんある。追っ手から隠れるのに看板の裏、道路の両サイドに明かり…なんてのは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だ。「E.T.」のアイディアは、ポールがスピルバーグに教えた、とか。ゾイルの部下2人はR2D2とC-3POかな。その他もろもろ、こちらが気づかないのも含めて、たくさんあるに違いない。会話の小ネタも楽しい。ロレンツォ・ゾイル…なんてのはまったく分からなかったけど、Webで見たら単なるダジャレらしい。分からなかったものも、たくさんあるに違いない。全部分かったらかなり楽しいに違いない。
最後に大きなオチもある。追跡していたゾイルが、なんと組織内でポールを逃がしてやる側だったとは! そういえば、そういう人物がいたとセリフで言ってたっけ。うーむ。してやられた。トンマな部下2人を選んだのも(しかも、追跡しているのは宇宙人と告げずに)、つかまえられちゃ困るからなんだな。ははは。
バカ映画ってだけじゃない。ポールの再生能力でルースの目を治してやるシーンは、ちょっとうるっときてしまう。そういうハートフルな所も含めて、突っ込みどころがほとんどない。よくできた脚本だ。
ルースの設定が面白い。キリスト教原理主義にどっぷりの父親に感化されて、神を信じ込んでいる。南部の田舎にゃ、この手のアメリカ人がたくさんいるようだ。いっぽう、オタク2人は神なんか信じちゃいない。このギャップが愉快。ポールのゴッドハンド(?)が頭を覆うと、世界の成り立ちが一瞬で分かってしまい、ルースはコロリと神を否定してしまうってのも愉快。皮肉もちゃんと入ってる。
黒幕たるビッグ・ガイがシガニー・ウィーバーってのも「エイリアン」へのリスペクト。そういえば最初の方、ホテルでだったかな、外国人と異星人が同じエイリアンで表現されることがギャグになっていたっけ。しかし、シガニー・ウィーバーは宇宙船の下敷きになっちゃったのかな。気の毒…。
とにかく最後までテンションと密度が変わらず、一気呵成に見られて笑えたのだった。
サラの鍵1/18新宿武蔵野館1監督/ジル・パケ=ブランネール脚本/ジル・パケ=ブランネール、セルジュ・ジョンクール
フランス映画。原題は"Elle s'appelait Sarah"で、意味よく分からず。
1942年のフランス、ユダヤ人の一斉検挙。サラの一家にも仏警官がやってきて、両親とサラが連行される。サラは気を利かして弟を納戸に閉じ込め、鍵をかけた…。一家が連れていかれたのは競輪場。おお。「黄色い星の子供たち」と同じだ。アウシュビッツの扱い方も、反ナチ一辺倒からフランス人も加担した、というものになってきたのか。2010年に同じ題材を取り上げるからには、その傾向があるのだろう。
父親はサラを「お前が余計なことを」と責めるが、子供にあたってもしょうがないだろ。で、競輪場から収容所へ。収容所では男女に分かれ、母親と子供も分離される…と、この流れは全く同じなので、驚きはない。「黄色い星の子供たち」の焼き直しみたいに見えて、少し退屈。なのだけれど、何としても弟を助けるのだ、という執念と、心やさしいドイツ監視兵のおかげで逃げ出す! 優しいドイツ兵が登場するのも、なんかめずらしい感じ。
この話と並行して、現在のパリ。ジャーナリストのジュリアが件のユダヤ人狩りを取材していて、夫の両親の持ち家が、かつてのユダヤ人の住まいではないかと疑うのだけれど、どんぴしゃり。彼女は米国人で、仏人の夫と結婚。娘が1人いるけれど実子か夫の連れ子か分からない。なぜって、この後、彼女の妊娠が分かるんだけど、それまで不妊治療してた…ってことは、実子ではないのかな? と見えたのだ。で、その家を改造してジュリアたちが住む、ということになるらしい。では、それ以前は、夫の両親がそこに住んでいたのかどうかは分からず。家を買ったのは祖父の代で、祖母がいるだけだから。
しかし、第二次大戦を扱う物語も、両親の代ではなく、祖父母の代になってしまったのだな、いまや。戦後70年近いのだから当然だけど、頭でたどるのがひと苦労だよ。それに、ジュリア役のクリスティン・スコット・トーマスがいい歳だから、その義理の祖母って何歳だ? って話だよな。
サラは心やさしいフランス人に救われ、パリの実家へ。そこで、納戸の中の弟の死体を発見する。ちょうどその家はフランス人一家(ジュリアの夫の祖父母一家)が入居したところで、たまたま義祖父と義父の2人しかいなかった。つまり、義祖母は顛末を知らず、少年だった義父だけが隠しつづけてきた、と。
そんなことをほじくり返す妻にいらつく夫。しかも、ジュリアの妊娠に「子供はもういらない」と突き放す。…この件はとってつけた感じでいまいち。ずつと不妊治療をつづけていながら、子供ができたのに「歳をとった父親にはなりたくない」とつっけんどんな夫って、なんだよ、と思ってしまう。説得力はあまりない。まあ、夫婦間の対立項を際立たせるためのひと手間だろうけど、イマイチな設定だな。
で、サラはフランス人一家の世話になって戦後を過ごすのだけれど、ある日思い立って家をでる。…のあたりが、ちょっとサラリとした感じでトントンと進んでしまうのがもったいないけど、この辺りの「サラはどこにいる」の追跡が始まって、俄然スリリングになってくる。いったんは中絶を決意するが、翻意。サラを世話した一家の末裔を探しだし(これは電話帳からだったかな? 忘れた)、アメリカに向かったことを知る。そしてアメリカに戻り、名字をネットで調べ一軒一軒訪ね歩いて夫の存在を知る。けれど、会えたのは後妻で、サラは遠い過去に自殺していた。で、夫には病気なので会えず。…というのが妙なところ。後妻が会わせたくないのか、夫が会いたくないと言ったのか? よく分からない。息子に巡り会う。けれど、彼は何も知らず、ユダヤ人扱いされたことに憤る…。その息子はイタリアにいるときいて会いに行く。けれど、自分を悲劇のユダヤ人の子孫とする話に憤ってしまう…。っていうのに驚いた。サラは自分がユダヤ人とはまったく言わなかったらしい。でも、ユダヤ人であることはまずいことなんだろうか? なんか、そんなふうに感じられたのだが。
でまあ、それ以上の説得はやめてしまうのだけれど、彼女の執念は何だったのだろう? 調査の過程で義父の話(サラが弟の死骸を発見した現場に遭遇)を聞いたけれど、とくに責めるわけでもない。もちろん、夫の先祖に過失があった、と責めるわけでもない。自分はアメリカ人だから、ユダヤ人に関して知識はあっても門外漢。その彼女が、贖罪の気持ちになる理由は何だろう? 「もし、あなたが当時のフランスの警官だったらどうする?」とジュリアが若い部下に聞く。すると、冗談ではぐらかされてしまう。それもそうだ。フランス人だってしたくてユダヤ人を迫害したわけじゃないだろう。そうしなければ自分が生きていけなくなる。そういう状況なのだから、誰も過去のフランス人を責めることなんかできないと思う。もちろん戦った人もいるだろうけど、凄いと思うけれども必ずしも賢いとも思わない。ユダヤ人を迫害した多くのフランス人は、「しかたなかった」という思いを抱いて、苦しみつづけるしかないのだと思う。それは、戦時下の日本でも同じことだ。
サラは、渡米することでユダヤ人の自分を消そうとした。ユダヤ人でいればいつかまた危機が訪れると思い、息子には何も告げなかった。というわりに、多くの日記を残していたりするのが矛盾なんだけど。まあ、それは映画だから。
サラの息子は、父親から真実を知らされるのだけれど、瀕死の父親が急に元気に立ち上がってサラの日記を取り出し、ウィスキーを飲み始めたのには驚いた。どこにそんな元気が? でまあ、1年半後、離婚した(?)ジュリアは娘と、幼い次女と3人でアメリカに暮らす。サラの息子とレストランで会って、幼女に名前を聞く。「ルーシーよ」と応える幼女。でも、実はそれは縫いぐるみのキリンの名前で、ジュリアは娘をサラと名付けた、ということかわかる。後半の盛り上がりと、ラストの名前の盛り上がりは、さすが。テンションの頂点で映画はラストを向かえる。ううむ。なかなかだ。
クリスティン・スコット・トーマスは50歳か。それで子供を産むのはどーかと思うけどなあ。日増しに婆さん顔になっていくけれど、気品のある婆さん面で、いい感じに老けていくよなあ、彼女は。
あと、よかったのは、サラを拾って育てるオヤジ。最初は無愛想なんだけど、ちゃんと面倒をみるところが素晴らしい。
ロボジー1/20MOVIX亀有シアター10監督/矢口史靖脚本/矢口史靖
タイトルで話は分かった。思った通りの話だった。
しかし、全編あり得ない話。それでどんどん引っぱっていくのは、やっぱり「たられば」の強さなんだろうな。男子のシンクロ、女子高生のジャズ、スチュワーデスの裏話…と、一発ネタで勝負し、成功させてきた矢口史靖。発想というか視点の独自性は、際立ってる。もっとも、もうちょっと丁寧にとって欲しいとか、カット尻が長くて編集のタイミングが悪いとか、つなぎが変とか、主に編集に関して、勘所が悪いなという思いは相変わらずあるけどね。
地方の家電メーカー。窓ぎわの技術者に二足歩行ロボットの開発を命じ、自社PRを図ろうとする。でも、期限までに開発できず、ロボット博には中に人間を入れて誤魔化そうと企む。ちょうど背丈がぴったりの老人鈴木さんが選ばれるが、会場で女子大生のピンチを救ったことが評判になって、あちこちのイベントに引っ張りだこ。鈴木さんは暇がつぶれてご機嫌だけれど、誤魔化しつづける技術者3人組はいつバレるかとおどおど。地元CATVの女性ディレクター、女子大生が所属する大学のロボット部なんかを巻き込んで、ドタバタがつづく…。
というコメディだけど、いろいろ見るべきところがあった。不要な老人が、若者から必要とされる事態となる皮肉。科学やデジタルより、生身の方が有効。技術を疑う、より、どうやってなし遂げているかを技術的に解明しようとする学生たち…。などなど、現代へのアイロニーが根底に漂っていて、なかなか面白い。
もちろん、世間的に有名になっているのにロボット衣装のままトイレに行ったりタクシーに乗ったりバレるだろ! ってな、あり得ねーシーンも盛りだくさん。でも、そこはコメディだからね。いいんだよ。笑って見のがせば。
はじめは、爺さんの着ぐるみロボットで誤魔化していた技術者たちが、大学生とのふれ合いで、自分たちでちゃんとロボットをつくろう、と目覚め始めるのもいい感じ。もっとも、やっぱりそれでもまともなロボットがつくれず、鈴木さんのところに再度、お願いにくるラストでしめくくるんだけど、それがまたいい。結局、技術者たちはウソをつきつづけていくことになるわけだけれど、世の中なんて、そんなものかもしれないぜ、というメッセージが読み取れる。ホンダのASIMOにも、小人が入ってるのかもね…。
なぜか、ミッキー・カーチスが五十嵐信次郎という芸名で登場している。
ウィンターズ・ボーン1/23ギンレイホール監督/デブラ・グラニック脚本/デブラ・グラニック、アン・ロッセリーニ
原題の"Winter's Bone"は、冬の骨、という意味らしい。しかし、こんな話だったのか…。想像とは全く違ったおぞましい話で、気分が暗くなっちまった。アメリカの中西部。Webを見たらミズーリ州らしい。雰囲気は「脱出」みたいな感じで、旧い因習に縛られる様子。
リーは17歳。父は覚醒剤(生産みたい)で捕まり、保釈中だけど行方不明。母は分裂病。弟と妹がいる。収入がなくて馬にエサも与えられず、馬を隣家に「もらってくれ」と行ったりする。学校なんて行ってないみたい。食うものがないのだから。
警察がきて、裁判にでないと保釈が取り消され、担保になってる土地家屋は没収。出ていってもらうことになる、と宣告する。絶望するリーは、父の兄に救いを求めるが、「手を引け」「家にいろ」といわれる。それを無視して父の従兄弟、一族の長老にもかけ合うが、ボコボコにされてしまう…。
だんだん分かってくるんだけど、リーはドリー一族のひとりで、どうも一族郎党で覚醒剤の密造をしていたらしい。で、父が逮捕され、10年の刑に耐えきれずすべて白状してしまった。もし裁判で証言すれば大変なことになる。そこで、一族の誰かが父親を抹殺した…。ううむ。「脱出」の時代ならありそうだけど、現在のアメリカでもあるのかね。警官もうろうろしてるのに、あんな大っぴらに覚醒剤やコカイン、大麻なんかを手がけるって、できるのか? それとも、警官の一部も仲間みたいなのもなのか。
仲間を売ったのは父親んのだから、子供たちには関係ない、と一族の連中は思わないのだろうか? もっとも親身になってくれるのは父の兄なんだけど、彼が始めからもっと正直にリーに話していればよかったのに、とも思う。隠すことはないじゃないか。なんか、むりやりドラマにしたててるような雰囲気も感じられてしまったりする。
しかし、あんなに貧しいのか? 貧しいなりに工夫するとか都会に出るとかなにもないのかな。ま、友人はすでに子持ちだったりするように、他にすることもないような土地なんだろうけど。17歳じゃムリなのかな。それにしても、隣家の奥さんの太っていること。あえてそういう役者を選択したのだろうから、ああした地域でも食べ物が豊富な家庭はあるし、デブもいるよ、ということなのだろう。隣家の子供たちが飢えているっていうのに…。
結局、話に意外な事実も何もなく、父親は一族の誰かに殺され、池に沈められていた。その死骸のありかまで連れていかれ、腕を「切れ」と一族のこわもてのオバサンがいうのだけれど、映画的な演出に過ぎるような気がした。どうやら父親が裁判前に死んでいることを証明できれば、保釈金はもどってくる、らしい。そのために、こわもてオバサンは好意で両手首をくれたわけなんだけど、そんなことするなら自然死とか事故死に見せかけて始末すれば万々歳だったじゃないか。どーも、素直に納得がいかなかったりする。それに、警察も、手首だけで納得してしまうってのもなあ…。土地家屋だけじゃ足りないからって、ある男が現金を追加したらしいけど、その男の正体も警察は追求していないみたいだし。なんか、すべてが杜撰な気がしてしまって、ううむ…。
というような具合で物語はいまいち切迫感が感じられなくて、どちらかというとリーという娘のしっかり具合に感心してしまっていた。弟にスペルや足し算を教える。妹にはシチューのつくり方を「見ておけ」と命ずる。弟たちに銃の扱いを教える。リスの解体も…。うわ。年のわりになんてしっかりしてるのだ。まあ、自力で生きていかなくてはならない環境だから何だろうけど、そっちのほうに感動してしまったよ。このリーを演じてるジェニファー・ローレンスがごくフツーな感じの女の子で、そういうメイクなのかも知れないけど、素朴な感じでよかった。あとの、ひと癖もふた癖もありそうな一族の連中の区別がよくつかないし、どういう関係なのかもいまいち分からないのが困ったところ。
★町山智浩・キラキラの解説を聞いたら、なるほどの内容。むかし、アイルランドはイングランド(カソリック)に征服されていた。イングランドはスコットランド(プロテスタント)も征服した。そこでイングランドはスコットランド人をアイルランドに入植させて農業をやらせた。彼らはスコッチアイリッシュと呼ばれるようになった。カソリックとプロテスタントを対立させることで、2国民をコントロールしようとした。それが、現在もつづくアイルランド問題の原点らしい。さらに、じゃがいも飢饉が発生。イングランドは棄民政策で、アイルランドに住んでいる人々をアメリカに送り出した。しかし、アメリカの土地はイングランド系の人々に占有されていた。小作人になるのが嫌で、山の中に入っていき、ヒルビリーになった、らしい。なので、血族・家族の掟を大切にする。で、それはいまもつづいていて、覚醒剤密造の一大根拠地になっていて問題になっている、らしい。なーるほどね。でも、その背景は初見の日本人には理解できないからなあ。
パーフェクト・センス1/24新宿武蔵野館3監督/デヴィッド・マッケンジー脚本/キム・フップス・オーカソン
原題は"Perfect Sense"って、「完全なる感覚」? 人々の感覚が次々に失われていく世界が舞台。主な登場人物はシェフのマイケル(ユアン・マクレガー)と、感染症学者のスーザン(エヴァ・グリーン)の2人。マイケルは1人でないと寝られない。女を誘ってセックスすると、捨ててしまう。過去に、婚約者が病気で死んで、墓参りもたまに行く程度。スーザンは、卵巣の病気で子供が産めない。そんな設定。他にも多数出てくるけれど、マイケルの同僚の男とスーザンの姉がでてくる程度で、あとは背景扱い。
雰囲気は「CODE46」「わたしを離さないで」「あなたになら言える秘密のこと」みたいな非現実感に満たされている。話は「ブラインドネス」か。こないだの「コンテイジョン」のようなリアリティはない。
マイケルの働く店がスーザンの自宅近くで、タバコの貸し借りで知り合う。…そういえばこの映画、ちかごろめずらしくタバコを吸うシーンがよく登場する。とくにマイケルはニコ中みたいな感じ。シェフがそれでいいのか?
嗅覚がなくなる人が増え、レストランにお客が来ない。食材が余ってるからとスーザンを誘って御馳走するが、とつぜん「昔のことを思い出した」と号泣し始める。それでマイケルが送っていって、一夜を過ごすのだけれど、そこで関係をもったかどうかは分からない。でもま、親密になってつきあい始める。感覚喪失の症状が広がるのを背景に、2人の関係がだらだらと描かれる。
嗅覚喪失時には、思い出して泣く。味覚喪失時は、過食になる。聴覚喪失は怒りと暴力とともに訪れる。そして最後に視覚が失われると、皆一様に平穏で仕合わせになる…。ということなんだけど、それぞれの因果関係はたいしてないと思う。むしろ、視覚を喪失して安心する理由が分からない。残る感覚は触覚だけ。後の感覚は何もない。それで、どうして仕合わせなのだ? 食料も得られない。トイレも分からない。後は死を待つのみ。その、どこが平穏なのだ?
最後に触覚を残すのは、なぜなんだろう? 触れる感覚だから、残ってしまうから? ううむ。意味不明。
ひとつひとつ感覚が失われるたび、人々はどん底に落ちるが、意外と簡単に耐性ができるような描き方をしている。嗅覚や味覚がなくたって、食事の楽しみは失われるわけじゃない、という具合に。聴覚でもそうみたいな描き方だ。まあ、あり得る話だけど、そんなことより、別のことが気になっていた。すでにいくつかの感覚が失われた人たちは、この症状にどう反応したのか、ということだ。味覚障害や嗅覚のない人は少なくない。つんぼや盲もいる。ヘレンケラーのように、唖が加わる人もいる。そういう人にとって、この突然の症状は、どういう意味を持っていたのだろう?
結局のところ、この現象は感染症でもなく、原因不明のままだ。こういう設定は、やっぱリアリティからは遠く隔たったものだよな。すべては観念的な話で終始するし、だからどうしたレベルだもんな。
エヴァ・グリーンは美人だけど、近づきがたい素っ気なさがある。とくに口元がいささかだらしないので、品のない感じが時々する。スラリとしているので貧乳かと思ったら、なーんと、豊かなおっぱいが出て来たりして驚いた。ユアン・マクレガーのペニスも、一瞬、見えたかのようになるんだが…。それがどうした、だよな。
デビルズ・ダブル - ある影武者の物語 -1/25シネマスクエアとうきゅう監督/リー・タマホリ脚本/マイケル・トーマス
ベルギー映画なんですと。へー。めずらしい。でも、スタッフはハリウッド映画も撮ってる連中なので、資本だけ、なのかも。原題も"The Devil's Double"。「悪魔の影武者」とかいう意味かな。
どこまで実話なんだ? と思いながら見ていた。だって、フセインの長男ウダイのすることっていったら、女子高生(花嫁も)誘拐、強姦、殺人、死体遺棄、銃乱射、暴行、拷問、らんちき騒ぎ、麻薬…と、乱暴狼藉し放題なのだから。こりゃ脚色してあるんだろ、と思ってWikiを見たら、殺害方法やその他大げさにしているところはありそうだけれど、したことはあらまし本当だった。凄っ。
そんなウダイに見込まれて影武者にされたラティフの物語。なんだけど、ウダイとラティフをドミニク・クーパーが演じているし、ウダイの出番も多いので、ウダイとラティフの物語とした方がよいのかも。
ウダイとラティフは同級生で、似ていると評判だったらしい。それで、ウダイはラティフを誘拐し、強引に影武者に仕立てる。のだけれど、その目的がアバウトなのだよな。自分の身の危険を防ぐため、も多少ありそうだけど、どっちかっていうと、父フセインに影武者がいるから俺も…ぐらいな感じなのだ。ウダイも狙われてはいただろうけど、この映画では結構、人前に出てる。とくに酒と女は本人だ。
このウダイという人物が興味深い。ワガママし放題なんだけど、側近は制止しない。むしろ、ウダイの後始末をこまめに実行する。フセインが怖いからもあるだろうけど、その当のフセインですら「生まれたときに殺しておけばよかった」というほど気違いじみたことをするのだから、だったら軟禁状態にしておけよ、という話なんだけど、そうはしていない。理性がありながらウダイを甘やかすフセインは、単なる親バカだったということなのか。やれやれだ。
Wikiには、フセインは父親に虐待されて育ったので、息子は甘やかした、とあった。でも、次男はウダイのようにはなっていない。ってことは、横暴で独裁的で残虐な素因をもって生まれてきた、ってことではないのかね。で、強力なマザコンだ。どうもフセインが実母をないがしろにして、女に溺れているのを憎んでいるらしい。でも、父親に反抗はできない。なので周囲に当たり散らしている。だから、まともに話せる相手はいない。せいぜい、恋人サラブかいる程度。そういうなかに、あえてラティフを呼んだのは、話し相手が欲しいから、みたいに見える部分がある。ラティフが反抗しても、いっときは暴力で威圧しても、「戻って来いよ」なんていったりするのだから。自分の分身として、他の取り巻きとは別の感情を抱いていたのかも。もしくは、ラティフをそばに置くことで、陰と陽のバランスをとろうとしていたのかも知れない。そんな風に見えたりする。
映画では、ラティフが、花嫁を殺された夫に呼びかけ、2人で暗殺しようとする。けれど、致命傷を与えることができなかった。ラストのテロップで、後にウダイが米軍に殺害されたこと、ラティフが英国で妻と一緒のところを目撃されたこと、を教えてくれる。
なかなか興味深い内容なのだけれど、あまりにも非現実的な話なので現実とは思えず、フィクションに見えてしまうところが欠点なのかも。ウダイがあまりにもあっけらかんとしているので、戦慄的な内容にもかかわらず、恐ろしさが伝わってこないのだ。もったいない。
恋人サラブの派手な顔つきが、イラクの美人なのか。濃い顔立ちだ。手込めにされる花嫁も、すごい顔立ちだった。美人の尺度が違うのかもね。そのサラブは売春婦みたいなんだけど、実は子持ち。ウダイがそんな女性になぜ惹かれるのか、よく分からない。サラブという女も、ラティフに気があるようなフリをして、結局はウダイのスパイみたいなこともするし。変な女。しかもサラブは日常的にチャドルをつけておらず、肌も露出しているのだけれど、いいのかそれで? まあ、他にも細かい「?」はあるけど、まあ映画だからな。
そうそう。ウダイの誕生パーティで全裸シーンがあるんだけど、立ち姿の女性の陰毛や、ペニスにまでボカシが入っていた。いまどき珍しい処理だなあ。
ヒミズ1/27ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/園子温脚本/園子温
話題作らしいけど、いまいちインパクトはない。去年の震災を扱っているとは聞いていたが、つけ足しのようなもので、とくに掘り下げているわけではない。いろいろ、やっつけな感じがする。
主人公は住田祐一、中3らしい。生業は貸しボート屋。でも父親は働かず借金をつくり帰ってきては祐一を殴る。母親も何もせず男をつくって逃げてしまう。祐一は曲がったことが嫌いで立派な大人になろうとしているのに、家庭環境が最悪。息子に「ホントに俺、おまえ、いらねえんだよ。溺れたとき、死ねばよかったんだ。ほら、あれ、保険金も入ったはずだし」と何度もいう(で、思ったのは、いらない子供に保険をかけていたのか? 金があったら酒か博打に使いそうな父親だけど、ということだ。不自然)。でも言ったことをすぐに忘れてしまう父親に耐えかね、殺して埋めてしまう。そして、世の中のクズを抹殺しようと包丁をもって街をうろつく(「キック・アス」「スーパー!」を連想してしまった)。けれど、結局は自首する。…というのが基本の話。これは、なんか元になった事件があるのだろうか?
ここに、貸しボート屋の近所に住みついたホームレス、のように見えるけれどたぶん震災で家を失った避難民という設定の4組の男女と、祐一を慕う同級生の茶沢景子、貸し金の金子らが絡むんだけど、どーも有機的な関係があるようには思えない。思いつきで配置されたようにしか見えないのだ。「誰も知らない」が捨てられた子供たちだけにターゲットしたように、この映画もダメ両親と息子だけに焦点を絞れば、緊張感のある映画になったかも知れない。けれど、やけに屈託のない避難民や押しかけ女房みたいな景子の存在が大きくなりすぎて、それで何なのだ? という内容になってしまっている。
景子は、なにやら詩を引用して意味ありげなことを言う。ミルクの中の蠅ぐらい見分けられる、とかなんとかね。「恋の罪」もそうだったけど、園子温はこういう引用が好きだね。なにかあるのか知らないけど、とくに調べようとも思わないのでどうでもいいや。さらに、祐一の名言集を集めている。それだけ祐一は含蓄があるということなんだろう。彼女にとってはね。他の誰も祐一を誉めていないのだから、しょうがない。その祐一は、学校で教師に指されても「フツーが一番」みたいにしか応えない。どーも祐一には夢がなく、没個性でフツーに生活する大人になりたいらしい。まあ、親がひどすぎるから、そう思うんだろうけど。でも、祐一はどこをみても達観したジジ臭い中学生だし、暗くもなければ卑屈にもなっていない。堂々としているように見える。ここがもうギャップを感じてしまうところだ。
景子がなぜ祐一になつくのか。最初は分からなかったけれど、途中で、彼女の両親も経済的に破綻しているらしいことが分かる。の割りに景子も屈託がなく、そればかりでなく、ムダに明るい。しかも、休まず登校してくる。どうやって暮らしてんだ? って話だよ。景子が自分の貯金箱から小銭を出していたら、母親がそれを盗もうとするんだけど、貯金箱の存在を母親は知らなかったのか? あり得ないだろ、って話だ。話が杜撰だ。
避難民たちも、変な連中ばかり。かつては羽振りのよかった社長の夜野正造は、なんであんなに腰が低く軟弱で人がいいんだ? 夫婦者の田村なんか、存在感ほとんどない。他に2人どこかから移ってくるけど、これも枯れ木の賑わい程度。メインテーマには絡まない。唯一、夜野だけが絡むのたせけれど、それは祐一の父親の借金を返すため、たまたま街で会ったチンピラと一緒にヤクの売人の家に潜り込み、殺しと盗みをして600万かすめとるのだけれど、この話もかなりいい加減。売人はアガリを隠して2000万現金でもってる、という話だけど、それを盗もう、なんてどうして初めて会った男に相談するよ。それに、実際に潜入してみれば、なにも夜野を誘わなくてもチンピラ1人でコトが済みそうな相手だったし。アホかと思った。現金を入れた箱に「さわるな貴重品」って書いておくって、バカかよ。
金貸しの金子がボート屋にやってくるのに乗ってきたクルマ。そのナンバーが「5648(殺し屋)」って、アホかよ。金貸し程度で拳銃を持っているって設定も、変だろ。しかも、親の借金を中学生の息子に「返せ」って、ムリだろ。あり得ない展開だ。
なので、こういう脇役より、別の人物の方が気になった。それは、ボート屋にやってくる変なやつ。へらへらと得体の知れないことを言っていたのだけれど、その数日後に無差別殺人事件を起こすのだ。これは、荒川沖駅で発生した無差別殺傷事件を下敷きにしている。もうひとつ、青年が「俺は誰」とつぶやきながら街を歩いていて、金物屋で包丁を盗み、路上で歌う人たちに襲いかかる、というエピソード。それと、バスの中でシルバーシートに座っているのを咎められ、逆上してオバサンを刺す事件は、これは夢だよな。たしか、襲った青年は、路上で歌う人たちを刺そうとした青年と同じだったような…。とにかく、この3つのエピソードの方が、本来の話に肉薄しているような気がするのだが。もっとも、これらのエピソードに登場する変なやつは、明らかに精神異常者として描かれているのが気になるところではあるが。
この映画で目立つのが、暴力。父親が祐一を殴るのはともかく、祐一も景子をがしがし殴る。景子も祐一を躊躇なく殴る。なぜ2人が殴り合う必要があるのか。…あまりにもデジタルでバーチャルな時代には、殴ることがコミュニケーションだとでも言わんばかりだ。そんな2人には、未来は見えない。絶望のどん底にいる。でも、映画はどん底の悲惨さは描かない。笑っちゃうぐらい明るかったり、元気だったりする。もちろん、後半も押し詰まると祐一の目の下には隈ができているけれど、なんで? と思うぐらい違和感がある。それぐらい、この映画の演出は、意図とは違って明るく見える。不思議。景子が祐一に意地悪されるたびに集める呪いの石も、芝居がかりすぎてアホに見えてくる。もうちょい、切迫感のある、どーしようもない絵で撮ってくれなきゃな。是枝裕和とか青山真治が撮ったら、もっと退廃的で空虚な日常とともに、閉塞的な未来が描かれたんじゃないかと思うんだが。
場所の設定も、いまひとつ合点がいかない。貸しボート屋は、被災地の近くという設定ではないのか? 住みついている避難民が、がれきの中にいる映像があることからも、そう想定するのが筋だろう。なのに、景子がボート屋のビラを配るのは、つくば市(画面に文字が見える)。祐一が悪人狩りに出かけるのは、北千住…のようだ。そりゃ、すべてが仮定の街で、それをひとつの世界と理解してやるのが観客の努めであるのは分かる。がしかし、震災の被害を受けた街の近くに、何の影響もない繁華街が広がっているのは違和感がある。あたかも、ひとつの仮想の街が見えるように撮り、編集するのが製作者側の努めだろう。もちろん、別の解釈もある。いばらきフィルムコミッションで発表されているように場所は茨城・常総市の小貝川の河川敷で、被災者たちは東北から流れ流れてたどりついた。ボート屋は昔からあって、祐一の家族はそこに住んでいた。景子はTXでつくば市に行き、祐一もTXで北千住に行った、と素直に理解することもできる。でも、援助が受けられずホームレス状態の被災者というのは不自然。祐一が被災地にいるイメージは、あれは夢か? などと、謎はまたでてくる。ささいなことかも知れないけれど、ある程度の整合性というのは大事だと思う。
景子役の二階堂ふみは、ちょっと見かわいいけど、よーく見ない方がいいかも、程度の可愛さだな。系統としては、宮崎あおい風か。最後に、呪いの石を投げるとき、肘がちゃんと返っていて、女投げではないのに驚いた。
てなわけで、いろいろ中途半端でやっつけな感じが強く、何を言いたいのかもよく分からない。期待が高かったせいでか、残念感が大きい結果になってしまった。祐一君、模範囚で早くでてきて、待っている(かもしれない)景子にやさしくしてやって、フツーに結婚して子どもをつくって、自分が得られなかった平凡で陳腐な家庭を築いてやっておくれ。600万円を立てかえてくれた夜野さんも、君に未来を託しているようだったし。…というところで思い出した。チンピラと夜野が潜入した売人の部屋に、女の死体があったのは、ありゃ本物なのか? だったら、どうして売人だけじゃなく、女の死体も捨てに行かなかったんだ? それと、川? 湖? の真ん中にある、水没しかけた木造の小屋は、何を象徴しているのだろうね。それにしても、祐一役の染谷将太、景子役の二階堂ふみは発育しすぎていて、とても中学生には見えないんですけど・・・。
ハッピー・ゴー・ラッキー1/30キネカ大森1監督/マイク・リー脚本/マイク・リー
これと、次の「夏の終止符」は、「三大映画祭週間2011」と銘打って、カンヌ、ベネチア、ベルリンの各映画祭で何らかの賞を受賞しているけど日本未公開の作品を上映する企画のなかの映画。
で、これは原題は"Happy-Go-Lucky"でイギリス映画。ポピーが自転車に乗っている。20代か? 書店に入り、店員にあれこれ話しかけるけれど無視される。けど、彼女は機嫌をそこねずニコニコ。自転車を停めたところに行くと、ない。「サヨナラも言ってないのに」というだけで怒る様子もない。次は、仲間の女性たちとクラブで踊り明かし、家であれこれバカ話? 紙袋でお面をつくって…と、ここら辺までポピーの素性は分からない。大学生? それにしちゃちと老けてるけど…。でもグループに大学生がいたよな。オバサンっぽいのいたし…。で、しばらくたって、ようやくポピーが小学校教師と分かる。紙袋は、教材を創っていたのだった。オバサン風は同居人。中盤以降に、ポピーが30歳というのも分かる。大学生っぽい仲間は、妹か? 後半、みんなで訪ねていくのは姉夫婦? とまあ、アウトラインを示して話に入るのではなく、見ていくにつれ次第にぼんやり分かってくるスタイル。嫌いではないけど、いささかイラつく展開だ。
で、この映画。物語らしいものがない。ほとんどエピソードの集積。ひとつは、クルマの路上教習。それから、学校関連(先輩教師とフラメンコ、いじめの問題、ソーシャルワーカーとの恋)。同居人とのあれこれ。そんなのが折り重なって進んでいく。物語に必須の対立項というのもとくになくて、なによりポピーがぜーんぜん悩まないので、途中から退屈になってきた。だもんで、後半の、妹夫婦らしい家に行くあたりで、ふっ、と何分か目をつむってしまった。だって、話が面白くないし、意外性もないんだもん。
それでも、なかで一番ドラマらしい話は、路上教習の一件か。すでにペーパー試験は通ったのか、路上教習にでることになった。日本みたいに教習所にいくのではなく、指導員がクルマでやってきて、過程をこなしていくというのが面白かった。のだけれど、このエピソードではポピーという女性のやっかいさもフル回転。のべつまくなししゃべるし、会話の中味はおちょくりや冗談ばかり。教師(「アリス・クイードの失踪」のエディ・マーサン)はいささか小心者でオタクっぽいけど律儀で指導熱心。なのに、その指導をへらへら顔で聞き流す。「ブーツはダメ」って何度いわれても守らない。指導員が「教師という仕事は…」とさんざいわせた後で「私、小学校の教師なの」といったり。あげく、「あんた、一人っ子でしょ」「あんた、いじめられたでしょ」なんてグサリとささることを平気でいう。女性と同居してるとレズを臭わせておいて、ある日、つきあってる男と一緒のところ、しかも、キスシーンを見せびらかす。やな女だ。これじゃ真面目な指導員も興奮して暴走するわな。同情しちゃうよ。
万事この調子で、学校の先輩教師とフラメンコ教室に行っても、ひとりがさつで目立ってしまう。イラつくな、この女。で、こんな女がどういう事件に出くわしてそれを乗り越えるのだ? 人格が変わるほどの出来事に遭うのか? と思えど、そんなこともなく、結局、なーんも起きずに映画は終わってしまう。たんに、やな女を見ただけ、って映画。ああ。すかっとしねえ。
困ったことに、ポピーは教師としては有能、という描写がある。いじめ問題にいち早く気づき、生徒の家庭環境が原因、と感づくののだよね。そういうシーンではポピーは理知的な顔になってたりする。こんな側面しか知らずポピーとつきあうことになるソーシャルワーカー君には、ご愁傷様といっておきたい。いずれ本性を知ってうんざりするに違いないから。…しなかったりしてね。まあ、ああいう脳天気な女がお好みという男もいないことはないだろうけど。
深夜のホームレスとの遭遇は、意味がよく分からなかった。同居しているオバサン顔の友人が何をしているのかも、わからなかった。その他、みんなで出かけた妹夫婦との仲も、そんなよさそうではない(毛嫌いされていたように思う)のも、理由は分からない。てなわけで、いろいろ分からない部分があるけれど、ポピーがノイジーでやな女だということは十分に分かった。わかったけど、だから何? としか思いようがない。この映画の目的はなんなのだ? 何を伝えたいのだ? 分からない。
実を言うと、始めのうち、どこの映画か分からなかった。だって、英語に聞こえないのだもん。ひょっとして英語? と、背景の文字などを見ていくうち、イギリスらしいと分かってきた。しっかし、この手のイギリス下町下層階級の英語は、ほとんど聞き取れない。
夏の終止符1/30キネカ大森1監督/アレクセイ・ポポグレブスキー脚本/アレクセイ・ポポグレブスキー
原題なのか? "Kak ya provel etim letom"のロシア映画。青年がヘッドフォンして氷河みたいなのを眺めている。さらに、ひょんひょん走ったりする。雰囲気が「127時間」っぽくて、若者のいきのいい話なのかな、と思った。その青年パベルは、棒の先に計測器をつけて何かを計るとガリガリ音がする。小屋に戻ってそのことをパートナーのセルゲイに言うと、「余計なことはするな」と一喝されてしまう。という冒頭から、何かありそうな雰囲気で始まるのだけれど、どーでもいいようなシーンばかりがだらだらつづくようになる。結論を言うと、なんだこれは? 中味がないし、ムチャクチャな話じゃねえか、だ。
どーも場所は北極圏の島で、観測所みたい。2人はそこで生活し、定期的に観測データを無線で本局に口伝する。その繰り返しの日々らしい。40代らしいセルゲイは、百葉箱みたいなのに入ってる温度計みたいなのを見て、ノートに書き写す。パベルはモニタの前に座って、表示されるデータを書き写す。その違いで、世代間キャップを見せようとしているらしいんだけど、ぜーんぜん届いてこない。むしろ、アホらしい。そもそもパベルとセルゲイは20歳ぐらいしか違わないと思う。セルゲイには奥さんがいて、スマイルマーク付きのメールも使いこなす。子供も2歳ぐらいのはず。それで昔気質、というのは説得力がない。コンピュータに頼らない調査もいいけど、一長一短。データをネットで送信しないことも含めて、かなり時代錯誤がある。ヘッドフォンで音楽vs仕事一筋、コンピュータvs実測重視…。いったいセルゲイに趣味はあるのか? と疑りたくなる。
いくつかの点で食い違いは生じるけれど、感情的なもつれにまではなっていない。で、だらだら生活はつづく…なんだけど、いつまでたってもドラマが始まらない。ちょっと退屈。
話が動くのは、セルゲイがマス釣りに出かけてから。本来は無断外出で禁じられているのだろう。でも、自分たちの食料にするためかセルゲイは単身ボートで出かける。パベルに食べさせてやりたい風だった。その間に、パベルは本部に口伝するのだけれど、上司から「セルゲイはどこだ。話がある」といわれテキトーに誤魔化すのだけれど、電報をセルゲイ宛の電報を口述させられる。それは、田舎に向かったセルゲイの妻と子供が事故に遭遇し予断を許さない状況。迎えの船を向かわせている、というものだった。
で、セルゲイがもどったのですぐ言うのかと思ったら、言わない。電報も見せない。黙々と2人でマスの塩漬け作業に励む。その後も、あれこれ口実をつくってセルゲイが無線に出ないようにしたりして、事実をつたえない。なんで? そんなことをする意味がどこにある? いずれ迎えの船はくる。そうすればすべて分かることだし、「なぜ早く言わなかった」と責められるだけじゃないか。
てな最中に、セルゲイは奥さんに樽いっぱいの塩漬けのマスを食べさせたいからと、再びマス釣りに出かける。セルゲイは「聞かれたら、無断外出っていえ」と言い残すのだから、それぐらい見のがしてもらえるという判断だったみたい。その後、本部との無線のやりとりなんかがあったりして…という辺りで眠くなってきた。話が転がらず、退屈さが極みに達した感じ。途中、天候が悪くなるとか、ヘリが近づいたりするようなシーンがあったと思うけど、結局、眠ってしまって。気がついたら、パベルが白クマに追われている。崖を滑り落ち、次のシーンではセルゲイのボートに乗せられていた。救助されたと言うことか。ううむ。何があったのか分からんが…。で、上陸し、小屋に向かうセルゲイに、パベルが「奥さんと子供は死んだ」という。これで、初めて妻子のことを知ったのか? それとも、眠っている間に情報は得たのだろうか? 分からんけど。で、威圧的に向かってくるセルゲイに、パベルが発砲するのだよ。げ。なんで? 以降、パベルが逃げまわるという展開。空腹のパベルがマスを盗んだり…。なぜそうなるのか、理解不能。寝てる間に、何かあったのか? 白クマに追われたパベルが救出されたところでは、不和は感じられなかったんだが…。
外は寒い。ふと気づくと、パベルは汚染源に手をかざして暖をとっていた! で、ガイガーカウンターで計るとガリガリなる。それで思いついて、パベルはマスを盗み出して汚染発生源にかざし、ふたたびセルゲイの食料貯蔵庫にしのばせる…。しばらくして、小屋の窓から室内を覗くパベル。中からセルゲイが手招きする。「マスを食え」「食べられない。汚染させたから」といわれ、吐きに行くセルゲイ。でも、暴力は振るわない。なんなんだ、この関係。だったら、パベルも発砲したり逃げたりする必要、なかったじゃん。なんだったんだ、逃亡と汚染の日々は。そこで、セルゲイは「氷に捕まった船が脱出した。3日後に船がくる」とパベルに言う。
で、次のシーンは放射能発生源を吊り上げて船に乗せているところ。ううむ。いったいあの物体は、何だったのだ? 間違って落下した原爆か何かか? で、セルゲイが船で帰るのかと思ったら、さらあらず。「俺は帰らない。お前が帰れ」と、船に乗るのはパベルだっていうのも、変。なーんで、妻子の葬儀に帰らない? セルゲイもパベルも、理解不能な行動をとる映画であった。
ってか、ムダなカットをザックリ取り除いたら、30分ですむ話だな、こりゃ。

 
 

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