2012年2月

ALWAYS 三丁目の夕日'642/1MOVIX亀有シアター10監督/山崎貴脚本/山崎貴
見たのは 2D版。オープニングから10分間ぐらいは、わくわくした。画面の中の情報量に圧倒される。モデルになっている街は東麻布辺りか。いつもの人物、運ばれるテレビ、オリンピックや映画のポスター、商店の看板、ミゼッetc. その存在を目で追っていくだけで楽しい。あーそうそう、あったあった、と。けれど、それが一段落すると懐かしさも落ち着いてくる。そうなると、話のアラが目につきだして、オープニングのテンションが維持できなくなる。
今回は、鈴木オートの六ちゃん(星野六子:堀北真希)の恋愛話と、茶川の養子(ではないのかな?)・淳之介の親離れが主な話題。なんだけど、いまいち大雑把で感動までは至らない。CGにばかり力を入れ過ぎなんだよな。きっと。
六ちゃんは、病院の若い医師・菊地(森山未來)に恋心を抱く。で、通勤途中を待ち伏せて挨拶するのを最大の歓びとしているのだけれど、どうせなら「明日がある」でもBGMにすればいいのにね。で、あるとき菊地がクルマの修理を頼みにきて…。それまでオシャレしてたのに修理工と分かってがっくり、かと思ったら銀座にデートに誘われて…。なんだけど、すれ違うだけで互いに恋心を抱くかい? もうちょいドラマチックな背景が必要だと思うぞ。女たらしかと思った菊地が、実は無料奉仕の医師で…というオチも分かりやすすぎるというか、結局みんないい人という話で、ウソっぽい。まあ、みんなの妄想が創りだした街の出来事なのだから、それでもいいのかも知れないけど、ちょっとな。結婚話も、映画の中で出てきたけれど、鈴木オートの主人夫婦が六ちゃんの親みたいな扱いで。結婚式も新婚旅行も鈴木オートが送り出している。六ちゃんの両親はどうした? 菊地の、千葉にいる親はどうした? って話だよな。その辺りのいい加減さは、いくらなんでも、という気分。
堀北真希は、東京生活6年ぐらいになるんだろ。もう東北弁が抜けてもいいだろ。それに、2005年の第一作の頃は山出しの素朴な感じがあったけど、すでに垢抜けたお嬢さんになっちゃってて、いまいち素朴な感じが伝わらない。ううむ、だなあ。
茶川の方は、ヒロミ(小雪)が妊娠中。なのに少年漫画誌に連載中の小説がいまいちで、ライバルの作家・緑沼アキラに水をあけられていて、焦っている。話としてはこっちの方が重層的で面白いんだけど、ツメが甘すぎてアホらしく見えたりするのたよ。編集者に「緑沼の文体が新しい」といわれ、改善を要求されるのだけれど、受け入れられない茶川。その時代錯誤に共感できない。作家なら新しいものに挑めよ。茶川って、そんなに古い体質なのか? 前作(だっけ?)みたいに淳之介のアイディアを借りるとか、はたまた淳之介が代筆して凌ぐのかと思いきや、緑沼アキラが淳之介だったという仰天オチをもってきた。それはいい。けれど、今度は淳之介に「東大に行け。作家なんて不安定」を強調しつづけるのが理解不能。だって、茶川自身が父親から勘当された、と思っていたけれど実は父親は不退転の覚悟で作家に挑め、と送り出していた、ということを知るのだろ。それが分かっていながら(それを映画では描いていながら)、淳之介にサラリーマン人生を押しつける。おまえ、学習してないな、としか思えない。それに、茶川が作家を目指したときは、海のものとも山のものともつかない状態だったはず。けど、淳之介は緑沼アキラとして大成功しているのだ。その足を引っぱるとは、バカじゃねえの? 嫉妬以外の何物でもないじゃん、って話だ。才能を見出したら、応援するのが、親の努めだろ。
でも、いくら文才があっても、作家だけを目指せ、というのもあり得ない。だって基礎知識もついてない中学生だ。「とりあえず勉強しろ。余技で小説もいいだろう。大学に入ったら、本格的に書けばいい」ぐらいのアドバイスすればいいだろと思う。
というわけで、茶川のバカさ加減だけが異常に強調される結果になっている。最後、編集者と打ち合わせて淳之介を家から追い出す、というのも、ミエミエ。それに、そんなことぐらいで淳之介は育ての親を捨てるのか。いや、茶川は捨てさせるのか? そりゃ、イジメにも等しいだろ。やっちゃいけないことだ。
ヒロミの存在が希薄。っていうか、「細かすぎて伝わらないモノマネ」のマリア・イーちゃんが浮かんでくる感じ。色っぽさより、顔のでかさばかりが気になっちまった。いちばん効果を発揮しているキャラは、鈴木オートの堤真一だな。菊地を殴るシーンは最高にデフォルメされてて、面白かった。あと、気になったのは、茶川の隣家の店先にいつもいるジジイなんだけど、ありゃなんなんだ?
欲をいわせてもらえば、くどい演出の連続ではなく、もっと街の住人をスケッチしていく方向に進むといいと思うんだけどね。鈴木オートの奥さん・薬師丸ひろこが夕食のおかずを惣菜屋や八百屋で買ってると小雪と遭遇し、店のオッサンやオバチャンと会話するとか、いろいろ絡ませようはあるだろ。郵便配達の神戸ちゃんも、もったいない。警官も、自転車に乗ってるだけじゃもったいない。ピエール瀧もそうだ。みんな、たんなる書き割りになっちゃってる。1人数分でいいんだから。
で、今回扱ったのは1964年(昭和39年)。月刊誌が、週刊誌にとって代わられつつある時期だ。小説や読み物は、消える運命にある。そういう時代に、茶川や淳之介はどう対応するのだろう。そもそも茶川は芥川賞の候補になったぐらいなんだから、本来は純文学を目指しているはず。少年読み物は、心ならずも書いているはずだ。なのに、映画では純文学を書いている気配もなく、少年誌での地位ばかり気にしている。これって、おかしいよな。
医師・菊地が、中卒の女修理工に恋心を抱く、という設定も、嘘くさくていけない。60年代を美化、理想化するばかりで、あの時代の暴力的で野性的な青年たちの様子はどこにもない。街にはチンピラがたむろし、みなナイフを持ち歩いていて、喝上げや婦女暴行も茶飯事。安保も公害も列車事故、その他の社会事件もたくさんあった。そういう時代でもあったことを見ないようにして、ただ、昔はよかった、懐かしい、と美化するだけでいいのかねと思ってしまうのだけれど、しょうがないのかね。
六ちゃんの結婚式で悔しがってたブ男とブス3人は、誰?
菊地と六ちゃんが一泊旅行に行くときのクルマのナンバーが「ね14-41」か「ね41-14」のどっちかだった。新婚旅行のときの新幹線の列車番号は「117」で、ホームは18番。両隣に17、19番ホームが…。「いいな」「いーな」「イク」とか読めてしまうのだけど…。
東京タワーの第2展望台って、タワーができた当時はなかったのか。知らなかった。
J・エドガー2/2上野東急2監督/クリント・イーストウッド脚本/ダスティン・ランス・ブラック
なんと、上野東急は4月末日で閉館だと…。ううう。
原題は"J. Edgar"。FBI長官のエドガー・フーバーの半生記。引退間際に回顧録を口実筆記させるという設定で、過去を振り返りつつ、現在も進行形で映画は進んでいく。フーバーの存在は知ってたけど、こうして概観してみると長い。Wikiなどで見ると、1917年に大学を卒業し司法省へ。1919年に諜報部門に移り、1924年にFBI長官。以来、1972年に亡くなるまで(ニクソン大統領の時代)その座についていたらしい。映画でも紹介されてたけど、図書館の検索カードシステム、指紋照合、科学的捜査なんかをFBIに採り入脅かすものは、すべて嫌いだったみたいだな。ギャングも黒人解放運動も、みな共産主義と同列、っていう大雑把さがものすごい。頭は悪くないのに、なんなんだ、この単純さは?
Wikiには「職員の私生活を調査し、不倫・同性愛・借金、さらには体重などを理由に次々に職員を解雇していった」とあるけど、同性愛者を敵視したシーンはなかったな。映画はフーバー本人が同性愛者だったとしているのだけれど、その葛藤あるいは偽善については描かれていなかった。
生涯をかけて仕事一筋、っていう人物だったようだ。また、かなりのマザコンで、恋人もいなかった。ダンスも踊れないし、吃音症のようでもある。それでマザコンだったのかな。秘書のヘレンにアプローチ&プロポーズしたのは、一目惚れ? それとも同性愛者をカモフラージュするため? 後に、映画女優と交際している、と同性愛相手の部下トルソンに告白するシーンがあるんだけど、両刀遣い? よく分からん。で、ヘレンに結婚を断られると「個人秘書になってくれ」と頼み込んで、生涯部下として近くに置く。ヘレンも仕事一筋だったみたいで、結婚しなかったのかな。互いの心の内は分からないけど、もの凄い関係だ。もうちょい丁寧に描いて欲しかったところだね。
片腕選びも、ほぼ直感。弁護士になるまでの腰掛けのつもり、というトルソンを半ばムリやり入局させてしまう。人事は実力だと言っていながら、することは身勝手。ま、一目惚れして囲ったようなもんだな。公私混同で身辺を固めるところは、システムより人情の人だったのかもね。
で、若くしてFBI長官になると、部下もお気に入りで固めていく。実力もあったかも知れないけど、二の次みたいだな。でも、部下が手柄を立てると嫉妬して、追放したりする。デリンジャーを仕留めたパーヴィスがそのいい例だ。「あなたは自ら逮捕したことはないのね」と質問され、フーバーは自ら逮捕に向かうのだけれど、それもホントかどうか分からない、みたいな描写が後半に出てくる。見栄というか虚栄心が強く、なかったこともあったかのように言ったり、虚言癖もあった様子。仕立屋にも借金をしてるんだけど、それを踏み倒したり。得体の知れない男だ。
映画館で、FBIがいかに素晴らしい活躍をしているか、自らの演説をニュースフィルムとして上映させる。けど、ギャングを応援する観客には受けない。むしろ、ニュースの後の「パブリック・エネミーズ」の予告編に賞賛の声を挙げる。デリンジャーは人気だったのだね。そういえば、冒頭でデリンジャーのデスマスクがでてくるんだけど、字幕で紹介していないのは片手落ちだよな。
ギャング相手のエピソードはあまりなく、ウェイトが高いのはリンドバーグの息子の誘拐事件。これで地元警察との対立や、科学的捜査の嚆矢なんかが描かれる。その意味では、画期的な事件だったのだな。犯人は逮捕するけど、その信憑性はいまいちのよう。
他に、ケネディ大統領の色事の盗聴で、弟のロバートにブラフをかけたりする。キング牧師にも工作をして、ノーベル賞受賞を妨害しようとしてたけど、見事に失敗。…でも、この辺りの件については、内容がよく分からなかった。キング牧師については、何をネタに脅していたのだろう? で、捜索相手の盗聴を合法化させたりもしているのだけれど、フーバー以前って、アメリカは個人に対する尊厳はかなり高かったのだね。移民はもちろん、米国民は法で強く守られていた。それをどんどん破壊して、個人情報を国家が管理するように仕向けたのは、フーバーなのだな。
でも、ニクソンからジャーナリストを盗聴しろと言われても、それは断っていた。そこまではできなかったのか。ま、後のウォーターゲート事件への伏線になっているんだが、ニクソンの、情報コントロールへの欲求はかなり強かつたのだな。
てなわけで、フーバーは極秘ファイルを手中にして要人をコントロールしたりしていて、ニクソンも自分のファイルを取り上げてしまいたかったようだ。でも、フーバーがヘレンに、自分が死んだら始末するように言い残していたようだ。しっかし、すべて廃棄されてしまったの? もったいない。
てな具合に、1919年から死までを概略描くのだけれど、ひととおり見せました、という感じ。逆に言うと、人物描写もいまいちだし、エピソードの掘り下げも甘い。なので、途中から退屈になってきてしまった。
そもそもイーストウッドの映画は主張があまりなく、こんなことがありました的な、事実を淡々と羅列するスタイルになっている。この映画も例に漏れない。フーバーの功績も、偏執的な部分も、過ちと思えるものも、ぽんと放り投げるように提示している。あとは観客が判断すればいい、というように。でも、それじゃホントは面白くないんだよな。上手くいっている場合もあるけど、この映画で成功しているとは思えない。だってフーバーの成長も挫折もあまり感じられないし、対立項となる敵もさらりとしか出てこない。やっぱ映画は宿敵を討ち果たして、あるいは、無念な気持ちになったりして終わって欲しいのだよな。
最初の方の、バレンタインデーの一斉検挙はどういう意味があったのだ? なぜ若くして長官になれたのだ? フーバーの同性愛はどこまで本気だったのか? トルソンとは深い仲? ヘレンは生涯バージン? リンドバーグ事件の犯人はどうなった? どこが勇み足だったのだ? などなど、みないまいち舌足らずで、消化不良。3時間ぐらいかけて仕上げないと、語り尽くせないのかな? でも、飽きちゃいそう。映画で見るより、本で読んだ方が納得できそうな素材かもね。それにしても、Wikiでも見て予習していかないと、ついていけないよ。
アニマル・キングダム1/3新宿武蔵野館2監督/デヴィッド・ミショッド脚本/デヴィッド・ミショッド
原題も"Animal Kingdom"。オーストラリア映画。「犯罪一家の物語」という話だったのでドンパチ派手なクライムムービーかと思ったら、マヌケな犯罪一家の崩壊の様子を淡々と見せる映画だった。オープニング。少年ジョシュアがソファでテレビを見ている横に女性が寝ている。のどかな感じ。救命隊が入ってくる。「何をやった?」「ヘロイン」。少年は祖母に電話し、どうしたらいいかわからないと訴える。高校生のジョシュアは祖母ジャニーンの家に引き取られる…というところから始まる。
祖母の家には長男ホープ(最初は潜伏中)、次男のクレイグ、三男のダレンがいて、親友のパリーも出入りしている(クレイグとバリーがあごヒゲなので区別がつきにくい)がいて、家の外にはパトカーが監視中という札付き一家。そのうち長男ホープが舞い戻ってくるんだけど、こいつが凶暴なアホ。次男は臆病だけど警官と内通していて主に麻薬を取り扱っている。三男は生真面目という設定。そんな息子たちをジャニーンは溺愛している。一家の犯罪はタイトルバックで主に銀行強盗と分かる。ジョシュアの母はジャニーンの娘なのだが、あるときトランプで言い争いになって、仲違い。
ジョシュアは案外とフツーの高校生。それが、いきなり銃を手渡され「人を脅せ」と言われたりする。命令に背くわけにもいかないんだろうけど、カルチャーショックだわな。
で、ホープとバリーが買い物に行って、バリーがクルマに乗ったところで射殺される。「銃を持っているぞ」で撃たれるのだから、凄い。バリーには妻も子もあり、ホープに「引退する。株の方が儲かる」なんていってたところなのに。これに怒ったホープは仇討ちを目論み、ジョシュアにクルマを盗め、と命ずる。のだけれど、これが転落の最初なんだよな。なんで素人の彼に大事なことを頼むかな。でも、そんな安易なところからほころびが広がっていくのが現実のような気もしてきて、リアリティがある。で、そのクルマを利用して警官2人を3バカ兄弟が射殺する。おお。戦争開始か。
当然のことだけど一家は目をつけられていて、ジョシュア、ホープ、ダレンが参考人として呼ばれる。けど、一家とつき合いのある悪徳弁護士のおかげもあって釈放されちゃうのだよ。すげー。でも、ジョシュアの彼女のニッキーがからんできて話がもつれる。ダレンが、まずいことになるから女と別れろ、ってジョシュアに言って。その通り、別れ話を切り出すんだけど、ニッキーはあきらめきれない。ジョシュアも、心を入れかえて証言する、と警官のいうことを聞くことにする。てなときに、なんとニッキーはホープとダレンのいるコディ家に行っちまうのだ。なんでまた…。と言ってる間にホープがニッキーにヘロインを注射し、くらっときたところを窒息死させる。ダレンは「やめろ」といいつつ、見ているだけ。ホープの異常さが強調されるところだけれど、淡々としていて、実際はこんな感じなのだろう、と思わせるに十分な描写力だった。
証言者保護で警官に隔離されているジョシュア。そこに、別の警官たちが…。これって、悪徳弁護士とクレイグの知り合いの警官を通じての工作で、はっきりとは言われてないけど、ジョシュア暗殺だ。かろうじて逃げ出すジョシュア。家に戻って、ニッキーに電話してみれば、携帯が近くで鳴る。って、彼女の死骸が近くにあるってコトだけど。で、ジョシュアは祖母ジャニーンと悪徳弁護士、そのアシスタント(?)の女性弁護士(?)との話し合いで、コディ家はニッキーの死には無関係、という証言を引き出させようとする。裁判シーンはないけど、それが大当たり。なんと、ホープとダレンは無罪釈放を勝ち取ってしまう。
えーと。その間に、次男のクレイグが警官に射殺されてたな。どの時点だっけ?
手な具合で、まんまと刑務所に入るのを避けられたホープとダレン。自慢気にマスコミ取材に応じている。というところに、「あんなんじゃ暮らしていけない」とコディ家に舞い戻ってきたジョシュア。たまたまホープと2人きりになって。一瞬でホープを射殺する。というところで映画終了。
とんでもない環境に放り込まれてしまったジョシュア。叔父たちの放埒ぶりに唖然とし、でも反対もできない。悩む暇もなく流されていく感じがよくでている。あんな環境の中では、少年は何も抵抗なんてできないだろう。家出もしたし、悪事を証言しようと一家との決別を決心もした。けれど、結局、なんとなく舞い戻ってきてしまう。他に行くところもなければ、そうなっちゃうだろうな。
驚いたのは、証言者保護で隔離されているジョシュアを警護している警官が情けないこと。武装警官が襲ってくると知ると、「俺は降りる」とかなんとか、みな逃げてしまう。おいおい。そんなんじゃ証言者が守れないだろうが。でも、実際はあんな感じで、我が身が大切だよな、と納得したりもした。
ホープも、トンマだ。バリーの復讐だからと無為な警官殺しをする。そんなことすればどうなるか、想像できない連中。クレイグ、ダレンも一緒なんだから、みんなアホ。でも、悪人ってこんな感じで気分とか勢いでやっちゃうんだろうな、と妙に納得してしまう。無軌道でアホなんだけど、妙に説得力があるのだ。この映画に登場する連中は、みななそう。合理性のかけらもない。ああ、あそこでそうしなければ…というのばっかり。
こんな悪人一家なのに、警官殺しも無罪、ニッキー殺しも無罪、という判決が下るのが驚き。こんなことあり得ない、と思うのだけれど、証拠不十分でこうなっちゃうのは、案外とありそうな気もする。悪徳弁護士も、いそうだしね。まあ、弁護士にいくら払うことになるのか気にはなるけど…。
気の毒なのはニッキーの両親だけど、ジョシュアはニッキーの死に「少しは責任がある」と言う程度、っていうのも日本人感覚ではないな。
とまあ、いろいろ非合理的な部分もあるのだけれど、全体的には不思議なリアリティがある。現実の犯罪なんて、こんなものかもね、って感じかな。まあ、最後の、ホープに対するジョシュアの一撃が救いではあるのだけれど、強烈なアホ1人に引きずられる情けない一家の話でもあるのかもね。さて、ジョシュアはあれで刑務所に入るのだろうか?
監督失格2/6キネカ大森1監督/平野勝之脚本/---
AV女優の林由美香を扱ったドキュメンタリーで、去年の話題作。でも、感想はといえば、要するにキワモノじゃん。日常的に撮りつづけることで事件に遭遇し、それで1本ものにしてしまう。その意味で「エンディングノート」と同じだ。プランがあって撮るのではなく、とりあえず回す、が習慣になってないとできなかった映画だね。
かつて男女関係にあったAV監督の平野勝之が、由美香の死後5年たって、その残された映像をまとめたもの。前半は「由美香」(1997)という監督と由美香の北海道不倫自転車旅行記からの映像をダイジェストしたもの。後半は、2人の関係が他人になってからの、2005年前後のもの。で、監督が由美香の死に直面したということは知っていたので、いつどうなるかだけに関心が集中していた。なので、前半の部分は、いささか退屈だった。
でその林由美香については、生前のことはまったく知らなかった。死後、本が出版され、熱狂的な支持があったことを知っている程度だった。なので、動いている由美香を見るのはこれが初めて。で、北海道自転車旅行の映像を見た印象は、ぽっちゃり系で、美人ではないな、というものだった。どこかオバサンがすでに入っていて、長じて蓮っ葉な物言いをするババアになりそうな印象。26歳なのに…。由美香の実母も出てくるのだけれど、あんな感じ。でも、女というよりオッサンみたいな実母のようになるとは思えなかったけどね。それと思ったのは、化粧が濃いということかな。この前半のパートは平野と由美香の蜜月時代を描いているのだけれど、べたべたということではない。しょっちゅう喧嘩してるし、喧嘩のシーンでカメラを回さなかったことで「あんたは監督失格だね」とまでいわれている。関係性の映像化については、監督よりも由美香の方が冷静というか、客観性をもっているのが驚き。だって、ヒステリックに騒ぐのは、たいていの場合、女の方だからね。なのに、「撮れ」という発言は凄いと思う。
で、多くの由美香の男がそうであったように、2人は別れる。別れても相談相手になっていたりして、不思議なことに監督と由美香の母親との交流は信頼関係の篤いものになっていた、というのも面白い。平野監督って、社会性はちゃんと持ち合わせているのだな。でも、その社会性があるゆえに、いざという時にビデオが回せないのだよな。きっと。
で、2005年。平野監督は久しぶりに由美香と仕事をすることになって、誕生日の6月27日に彼女の部屋を訪れる。が、応答なし。翌日、由美香の弟子(2人いるらしい)の1人をつれて再訪。反応がないので由美香の母に連絡。母親の鍵で室内に入ると、監督がうつぶせで横たわっている由美香を発見。6月の梅雨時で、臭いもしていた。後に分かった死亡推定時間は26日だったという。この過程は、やはり第一発見者の様子を生々しく映しているので、衝撃的。けれど、監督の期待感や作為みたいなものがうっすらと感じられてしまうところもある。母親と監督、弟子とエレベーターで上がっていくときは、日常会話で和やかな部分もあったりする。でも、それぞれの思いは違うはず。監督は「ひょっとしたら」と思っているように見える。母親は「どうしたんだろ?」程度な感じ。弟子は、よく分からない。ドアを開けると、犬がでてくる。3人が入ると臭い。監督はすぐに感づた。母親は、自分じゃ見られないと監督に見に行かせる。エレベーターに入る前からカメラはたぶん弟子がもっていて、カメラは玄関を入ったところに置かれる。置いたのは弟子だと思う。レンズは奥の部屋に向けられていて、監督と母親の腰から下が見える感じ。でも、その後の、崩れ落ちて泣き叫ぶ母親の様子はきっちりとフレームに入っている。まるで計算して置いたかのよう。カメラの位置は弟子の判断によるのだから、手柄は彼女だと言うことになるのだろうか。それとも、監督があらかじめ弟子に指示しておいたのだろうか。ただし、最後までカメラは置かれたままで、監督が由美香を撮りに行くことはなかった。監督の社会性と常識がジャマしたのかも知れない。もし母親がいなかったら、どうしていたのだろう? と思った。
犬は、飼い主の死後丸2日間、空腹だったはず。どうしていたのだろう。まさか…。とは思うが、少し気にはなった。
この様子を撮影していたことを知った母親との間で確執が生まれ、弁護士を挟んでビデオを封印する調停が結ばれたという。その後、どういう経緯があったのかは知らないが和解が成立。この映画の誕生となった、らしい。編集している様子も映るのだけれど、個人的にコツコツとやっているみたいに見えるんだけれど、クレジットには多くの名前が登場する。プロデュース庵野秀明、製作・企画甘木モリオ、編集李英美…。彼らは、この映画のどの部分に堂関与しているのだろう? と不思議になる。こんな極私的な映像に、どう関わったというのだろう…。さらに音楽は矢野顕子だ。これは客が入る、売れる、と踏んでの製作だよなあ。どう見ても。
そうそう。冒頭は、腰を痛めた平野監督が、痛みを押して自転車に乗るところ。そして、この映画は、乗り込んで走るところで終わっている。編集の時から号泣していた監督だけれど、5年も前に死んだ由美香に、どういう思いがあるのだろう? つきあっていたのは10年も前だ。それで泣けるというのは、それだけ由美香の存在が大きかったということなんだろうけど、どう大きかったのかがあまり伝わってこない。なんか、ただの由美香ファンの1人みたいに見えてくる。
由美香の棺を運ぶのが、みな由美香と関係があって、捨てられた男たちだっていうのもなあ。ううむ。演出みたいに思えてくる。
自転車はドロップハンドル。左手でハンドルを握り、右手にカメラ。叫びつつ泣きつつ、夜の生活道路を走っていく(その必要性がどこにあるのか分からない)。ちゃんとフレームは監督の顔をとらえている。そのハンドルさばきカメラさばきの冷静さと、由美香への思いからの号泣が、どうも結びつかないのだよなあ。わだかまりを残しつつのエンディングだった。
前半で、円形のフレームが登場するのは、内視鏡みたいなCCD小型カメラだからなのかな。それと、平野監督がいつもTHE NORTH FACEブランドを着ているのが気になった。支援でもしてもらっているのかい?
たまもの ( 旧題:熟女・発情 タマしゃぶり )2/6キネカ大森1監督/いまおかしんじ脚本/いまおかしんじ
「監督失格」の林由美香が主演するピンク映画で、2004年の作品。最初に「熟女・発情 タマしゃぶり」とタイトルが出るので「?」となったけど、ピンク作品が評判を呼んで一般公開されたるのを期に改題したらしい。なんで? という気分。で、海外の映画祭にも招待されたらしく、英文字幕つきだった。
あどけない由美香なので古い作品かと思ったら、2003年という文字の印刷されたポスターが画面に見えた。じゃ、死のちょっと前。32、3歳なのか。じゃ、熟女でもいいのかも知れないけど、その年には見えない。
話は単純。プロボーラー志望の由美香が郵便局の青年にアタックして関係を結ぶ。でも、郵便局の同僚の娘も彼が好きで、こちらも強引に彼と関係を結んでしまう。そのうち、彼から「結婚する」と連絡があるのだが、相手は同僚の娘なのか? で、これが最後だからと由美香のところに来るのだが、由美香はボーリングのボールで彼を殴り殺してしまう。由美香と同僚の娘は、一緒に彼の死骸を海辺に捨てに行く…というような話。
だけど、映画の文法をよく知らない描写・編集で、文章に譬えると形容詞と接続詞がないようなのを読まされてる感じ。基本として抑えるべき背景や関係がほとんど描かれず、関係の変化や流れなどもブツ切れ。そうとう想像で補わないと分からない。補っても分からないところがたくさんある。このあたり、いくらピンクといえど、ううむな感じ。日活ロマンポルノの質の高さが思い返される。
ピンクなんだから突っ込んでもしょうがないんだけど。変なところがいくつもある。ずっと声を発しないので唖の設定かと思ったら、彼を殺害した後(だったかな?)に「ストライク一発」とか細くいう。さらに、死骸を埋めた後に「お腹空いた」とぽつり。唖でもないのに話さないのは何で?
プロボーラー志望だけあって、部屋にはたくさんのボール(=玉好きってことか?)やトロフィー、ポスターも。で、1個だけうやうやしく置いてあるボールが、ときどき人間の顔になって「ストライク一発」とつぶやくのだが、どういうことなんだ? 女を捨てた男を、タマ(金玉とかかっているんだろうけど)で殺したからか?
冒頭、弁当を食べている由美香がいて、バイクが倒れるような音がし、郵便物を回収する由美香が写る。つぎ、その郵便物を郵便局にもっていく由美香に、局の青年が怒鳴るんだが、ここの意味がよく分からない。想像するに、局の青年に惚れた由美香が、ボーリングのボールで配達のバイクを倒してしまう。郵便物をもって行くことが口実になって、青年と会えるってこと? なんか、まどろっこしいなあ。
彼に「結婚する」と告げられた喫茶店。お茶代は払うと一万円札を出したら店の人に「細かいのないですか」と言われ、走ってコンビニまで行って崩そうとして、でも時間がかかりそうなのでレジの金をわしづかみにして逃走するって…。なんとしてでも、あの場は自分で払いたかった、という、その意味が分からない。
郵便局の彼に惚れていながら、ボーリング場の主人と懇ろになってカラダまで許してしまうのは…ピング映画だから、だよな。ははは。でもだったら、主人の奥さんを出して「別れて」なんて言わせる必要もないよな。
最後に、彼の部屋に同僚の娘(結婚相手?)がやってきて。死体を見ても驚かず、由美香と一緒に捨てに行くって、どういうことなのだ? 死骸をリヤカーで運ぶのは「傷だらけの天使」を連想させるなあ。
とか、いい加減でテキトーなところも多い映画だった。実をいうと、途中で、局の同僚が青年と関係を結ぶ少し後ぐらいに、5分ぐらい、ふっ、と寝てしまった。「監督失格」のあとの幕間にパンを食べたせいだろうとは思うけど、緊張感があればそんなことはないのだけどね。
マシンガン・プリーチャー2/9ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/マーク・フォースター脚本/ジェイソン・ケラー
原題も"Machine Gun Preacher"。題名から、破天荒な宣教師が大暴れ? と思ったらその通りだった。でも映画は、アフリカの内戦で少年が母親を殴り殺すことを強制されるシーンではじまる。で、サム・チルダーが出所するシーンにつながる。ん? どうつながるのだ?
チルダーは、アメリカの田舎によくいるような中年ライダーのヤク中。早速、幼友達のドニーと銃を片手に売人を襲ってキメている。てな最中、たまたま乗せたヒッチハイカーおやじとトラブって半殺しにして道路に捨ててトンズラしちゃう。で、こういうやつなんだ、と思っていたら、どーも様子が違う。殺しちまったんじゃないかとオドオドし、なんと不良ライダーをやめちゃうだ。で、お勤め中に女房のリンが熱を入れるようになった教会に通うようになり、真面目な建築業に就くようになる。って、凄い転身!
チルダーは自分を「ペンシルベニアのヒルビリー」といっていた。「ウィンターズ・ボーン」にでてきた、英国からやってきたけど米国になじめなくて山の住人になったヒルビリーだ。なーるほど。でも、出所したときリンが「ヌードダンサーをやめて真面目に働いてる」っていったら「バカ野郎。ダンサーに戻れ!」なんて憤っていたチルダーが洗礼までしてしまう宗教って…。日本人には分からないキリスト教の世界だよな。
ここまでは変化の激しい展開でとっても面白かった。だけれど、以降しばらく中盤の中だるみに突入する。暴力オヤジが帰依し、ヤク漬けで死にかけのドニーまでをも真面目に復活させる宗教。これって、もしかしてその宗派のPR映画か? そっから金でもでてんのか? と思うような展開だ。で、チルダーはアフリカ内戦のことを知って支援活動に赴くのだけれど、アウトリーチプログラムとかいってたな。特定の宗派の活動かと思ったら、出張サービスということで一般用語なのだな。で、ウガンダに行って建設支援をするのだけれど、そこでスーダンの独立解放軍(?)のデンと出会い、子供たちの悲惨な様子を知る。で、孤児院をつくるのだ! と目覚めてしまうのだけれど、あまりにもありきたりな展開なので、ちょっと退屈。
スーダンといえば、最近2つに分離したんだったよなあ。ダルフール紛争、内戦…。アバウトにしか知らないけど、他のアフリカ諸国と同じくどろどろなのは知っている。冒頭の、親を殺させて人間としての感情をマヒさせ、少年兵として育成する手法も知ってた。だから衝撃はとくになかった。むしろ、デンたちの軍が正義で、対する軍が悪である、と単純に言い切ってよいものだろうか? と疑問を抱きつつ見ていた。詳しくは知らないので断言はできないんだけど、こういった内戦には複雑な歴史が背景にある。ボタンの掛け違いの、どこがどう誤っているのか、どちらが悪いのか、というようなことは、第三者には分からなくなっているのが普通だ。とくに、先進諸国のリベラルな価値観で物事を推し量るのは、必ずしも正しいとは言えない。その地域の、その時代の価値観というのが、あるはずだから。なので、映画が一方に肩入れするように進んでいくのは、気持ちのいいものではなかった。本当に、そうなのか? という疑問が、つねにどこかにあった。でも、映画は分かりやすさを優先するからね。善悪をはっきりと、単純化して見せるのは、仕方がないことなのかも知れない。
で、次第にチルダーは様々な困難と対峙するようになる。スーダンでは子供たちを救えなかったことへの悔恨。資金不足のいらだちから娘と対立したり、ドニーへの理解が足りなくてヤク中死へと追いやったり、はては家を売り払って孤児院の資金にしたり。追いつめられていくチルダーの鬼気迫る感じはなかなかだった。ようやっと中だるみ(宗教PR)が終わった。
こうして、マシンガン・プリーチャーが誕生する。対立組織の連中をガンガン殺しまくり、仲間からも忌み嫌われるなど、マジで殺し屋に堕してしまう。ここでチルダーに諭しを与えるのは、冒頭の少年なのが、あまりにも分かりやすい展開なんだけど、まあいいか。心がすさんだチルダーに、少年は「殺伐としたものに心を奪われてはいけない」とかいようような内容のことをいって、チルダーの野獣性を鎮めるのだけれど、あまりにも出来すぎた映画的セリフだとは思うが、まあいいだろう。
てなわけで、現在も戦っているチルダーは実在の人、と、エンドクレジットに実写が出てくるのだ! これがもう主演のジェラルド・バトラーそっくり。片手で銃を扱いつつ連射したり、ワイルドなところも映画のまんま。こんなやつが現実にいるのか。ってことは、映画の中味も、真実に近いってことか。うわ。凄いな。
リン役のミシェル・モナハンはエロかわいい。リヴ・タイラーの上品さをはぎ取った感じで、なかなかセクシー。経歴を見たら、出演作の半分ぐらいを見ていた。って、なかなか名前を覚えられないのだよなあ。と、言い訳。
ミケランジェロの暗号2/14ギンレイホール監督/ヴォルフガング・ムルンベルガー脚本/ポール・ヘンゲ、脚色/ヴォルフガング・ムルンベルガー
原題は"Mein bester Feind"。google翻訳では「私の最高の敵」となった。ドイツ映画か? と思ったら、後で見たらオーストリアだと。「ダ・ヴィンチ・コード」みたいな話かと思ったら、いきなりドイツ軍輸送機がパルチザンに撃墜されるシーンから始まった。で、時は遡り1938年。ウィーンの画商カウフマン家にルディがやってくる。若旦那のヴィクトルと抱き合うが、どういう仲か? と思っていたら、窓に六芒星を描く少年たち。喧嘩になって、ヴィクトルとルディは刑務所に。父ヤーコブの計らいで出してもらうが、ルディには反ナチの疑いがかかっているとか…。ルディはカウフマン家の家政婦の息子で、母亡き後も華族同様に育てられた。ベルリン(だっけ?)にでて、戻ってきたところだった。ルディはヒトラーの勢力拡大を憂えることを話す…。
画廊では、新進作家のパーティ。でも、記者の関心はミケランジェロのスケッチ画。かつてイタリアから盗まれ、それが200年ぐらい前にカウフマン家のものになり、伝わってきたらしい。その鑑定がどうたらいっていたが、忘れた。で、ヴィクトルは隠し部屋にあるその絵をルディに見せる。その直後、親衛隊の制服(伍長)姿のルディをヴィクトルは街で目撃する! ヒトラーが欧州に進軍する直前の風雲急な感じがでてて、スリリングな展開。
なのだけど、中盤から話がややこしくなってきて、しかも、マンガチックな展開になってきてしまう。前半の緊張感が台無しな感じで、もったいないと思う。
そもそも、なぜあの絵をイタリアが欲しがったのか、ってところが伝わってこなかった。ムッソリーニがぜひとも、と欲しがっているので、ヒトラーは同盟関係を維持するためにもお土産にしたかった、ってことなんだろうけど。ヒトラーは単に名画を没収したかったのか。それとも、交渉に使うことを考えていたんだろうか。よく分からない。また絵、そのものの意味合いや謎はあっさりと済ませてしまう。なんでもモーゼを描いたものらしいけど、1枚の簡単なスケッチ画。そのモーゼに角があるのはキリスト教徒が勘違いしたから、とヴィクトルはルディに説明していたけど、話には関係なかった。ミケランジェロ自身が絵にメッセージを込めたのかと思ったら、違うのだよな。肩すかし。
で、ムッソリーニがその絵の存在を知っていたのか、よく分からない。最初の方で、画廊のパーティでイタリア人の女性記者がヤーコブに「イタリアから盗まれたものは、返すべきだ」と憤っていたけれど、それほど話題になる絵であった、ということなのだろうか。
ヒットラーからの指令は、その絵を手に入れろ、だったようだ。で、ルディはそのためにウィーンに戻ってきたのかな。たまたまヴィクトルに絵を見せられた、ってことなのかな。工作員としてやってきたにしては、なにも仕事をしてないよな。で、ルディは上司に報告し、親衛隊がカウフマン家を襲い、絵を持ち去る。のだけれど、ヤーコブがすでに贋作とすり替えていて、親衛隊がもって行ったのは偽者。本物は、ヤーコブがどこかに隠した、らしい。
隠し場所としてすぐ頭に浮かんだのは、ルディの旅行カバン。なぜって、ヴィクトルがルディに、もう一軒の別の画廊からオーストリアに絵をもってくるとき、ルディのカバンに忍ばせた、っていってたから。このミエミエの伏線で観客を誤魔化し、実は別のところに隠していたんだけど、その衝撃度はあまりない。そうそう。ルディはアーリア人だから、カウフマン家の人のようにナチの荷物チェックがないというのを利用した、という話だった。よくある手だな。で、カウフマン一家は収容所へ。
で、ドイツとイタリアの交渉中に、イタリア人の鑑定家が偽者と見破り、話がご破算になりかける。そこでヒトラーから、再度「本物を」と命令が下り、ヴィクトルが呼ばれる。すでにヤーコブは亡くなっていて、母親は存命の模様。ヴィクトルは、父親の最後を知っている人物に出会い、最後の言葉を知らされる。「私の姿を見るのを忘れるな」とかなんとか言うような言葉。スイスの銀行に預けていると嘘をつき、飛行機で移動中に墜落。冒頭につながる。で、元気なヴィクトルがルディの制服に身を包み、ルディにユダヤの服を着せる。そこにドイツ軍が到着する。
こっから話がマンガになる。2人とも「私がルディ・スメカルだ」と主張するのだけれど、ヴィクトルが軍部を着ているものだから、とりあえずはヴィクトルが信じられる。けど、そんなことってあるか? 以降も、ヴィクトルがルディを尋問するというカタチで、ドイツ軍の中で2人が対峙する。ヴィクトルはどうやってドイツ軍仲間に本物と印象づけられたのだろう? あり得ない設定だよな。この間、ルディを椅子に座らせヴィクトルが立って尋問、で疑われるが、偶然に助けられて切り抜ける。次は、ユダヤ人は割礼しているから、とルディが下半身を見られる。が、たまたまルディが包茎手術をしていたから、と切り抜ける。このご都合主義には大笑い。さらに、ルディの現在の婚約者であるレナが呼ばれる。レナはかつてのヴィクトルの恋人。けど、カウフマン家の財産めあてでは? という疑いを残している。さて…。でも、ぜーんぜん緊張しない。なんか、先が読める映画なんだよな、これって。で、2人を前にして、レナはヴィクトルを婚約者と認め、これでルディは完全にユダヤ人扱いになる。
この後が、よく分からない部分。ヴィクトルは、スイス銀行ではヴィクトルと母親の署名が必要、とドイツ軍にいう。いっぽうでレナに何とかという男(これは、最初に画廊にいた画家か?)に連絡させ、スイスのどっかで合流することにする。レナは列車で。ヴィクトルは飛行機でスイスに向かう。レナと母親は逮捕されて刑務所へ。って、これはスイス警察に? なんの容疑で? スイスには、ナチに抵抗できるだけの力があったのか? よく分からない。いっぽうで、ヴィクトルは飛行場で正体がバレ、親衛隊と元の自宅(レナが譲り受け、のちに返却するという口約束。でも、レナとルディが住んでいた模様)へ。みんなで屋探しするんだけど、ルディがハタと気づく。絵は、カウフマン家から「お前の荷物だ」といわれたカバンの中に違いない、と。ところが、ヴィクトルは、父の肖像画が飾ってあった場所を見上げ、ハタと気づく。けれど、カバンの中から絵を見つけたルディは大喜びで本部へ持ち帰る。…という、ミケランジェロの絵の隠し場所の示唆は、ほんと、ミエミエで分かりやすすぎて意外性がなかった。
てなわけで、命と引き替えに財産一式をルディに贈与する旨の誓約書を書かされ、比較的安全な収容所へとヴィクトルは行くことになった、らしい。さて、持ち帰ったミケランジェロの絵だけれど、なんとイタリアで政権交代が起こってムッソリーニは座を降りてしまった。もう絵は不要。てなわけで、戦後。…とこの辺りの展開が早すぎるというか大雑把。ルディはかつてカウフマン家のものだった画廊を手に入れ、オークションをするという。そこに、ヴィクトル、母、レナの3人が訪れる。ヴィクトルは父親の肖像画を見つけ、「買い戻そうかと思って」というと、ルディは「もってけ」という。肖像画の裏には…。でまたもや、あのイタリア人の鑑定家が、オークションに出品されている絵は「偽者!」と叫ぶ。でも、ミケランジェロの絵を取り戻したぐらいで、胸がスカッとはしないよなあ。だいたい、なんで元ナチのルディは平然とオーストリアで画廊主をしていられるのか理解不能。手に入れたものも含めて、元に戻すようなことはされなかつたのだろうか? などと、わだかまるものがたくさんある終わり方。とくに、スイスへ向かう下りの理屈がよく分からなかった。ビデオで見れば、なるほど、になるのかな。
いちばん嫌なだったのは、使用人の息子がユダヤ人である旦那様一家に恨みをもっている、という設定だ。家族同様に扱われていたのに、所詮使用人、というひがみ根性。それでナチに入って恨みを晴らす、という古くさすぎる設定がくだらない。もしかして、ナチに入ったというのは隠れ蓑で、じつは連合国側のスパイだったりするのかな? と思った私がバカだった。
エンドクレジットで、Marthe Kellerという名を発見。ん? マルテ・ケラーって、あのマルテ・ケラー? で、帰って調べたら、母親役の役者でマルト・ケラーとなっていたけど、昔はマルテ・ケラーって表記されてなかったか?
ナチの将校は、おおむねマヌケに描かれている。ルディの直属の上司は石橋凌にそっくり。レナ役の女優はオバサン顔なんだけど、それなりにいい感じ。
ビーストリー2/16新宿武蔵野館2監督/ダニエル・バーンズ脚本/ダニエル・バーンズ
原題も"Beastly"。ティーン向けのロマンス。子供だまし的な内容だ。
「世の中見た目だ!」とのたまう美少年が魔女にぶ男にされ、1年の間に「愛してる」と言われないと魔法がとけない、といわれてしまう。お伽噺か「美女と野獣」みたいな設定だ。で、話は予定調和で進んでいくので、途中で飽きる。だって時代が現在で場所が高校、王子は売れっ子キャスターの息子で、惚れるのが貧困家庭の娘、ってぐらいしか違いがないのだ。もうちょい工夫が欲しいところだよな。
カイルはキャスターの息子。両親は離婚し、父親と暮らす。でも父は忙しく子供と接する時間がなく構ってもらえない…という設定だけど、それが哀しいか? 小学生じゃあるまいし、うるせーオヤジがいなくて金は使い放題。楽しくてしょうがないだろ。そんなんで性格が歪むか? で、オヤジの影響なのか、人は見かけよで成長し、生徒会長(?)にも選ばれる。それって単なるアホだろ。しかも、そんなカイルを教師までもがおだてる。封建時代から現在に設定を変えても、細部に説得力がなくては、なるほど、とは思えないよな。
一方、書記に立候補したリンディは質素で…かと思いきや、ちょっと見は可愛いけどよく見るとケバい。南米のおっかさん風でスタイルも大したことはない。でも、演じるヴァネッサ・ハジェンズは、いま売れっ子みたいだけどな。で、外見にはとらわれないといいつつ、元気はつらつ自己主張も全開のカイルに、なんとなく惹かれているというのは気にくわない。ここは「けっ」と小馬鹿にしていなくちゃいかんだろ。
魔女生徒のケンドラがカイルを別人にしちゃうんだけど、ちょっと見はパンク風。そんな醜くないじゃん。むしろ、好き、っていう女の子は多そうな気がするぞ。どうせならエレファントマンとかチビデブど近眼にしないと説得力がないと思うぞ。
で、リンディの父親が借金か何かのもつれで人殺しをして、殺した相手の兄弟に狙われているから、という理由で、カイルの家にリンディが保護される、というむりくりな設定。しかも途中で、その兄弟は警察に逮捕されたらしいんだけど、父親の殺人罪は最後まで忘れ去られているという、とんでもないことになっている。ムチャクチャ過ぎだろ。
そもそも、鼻も引っかけなかったリンディに惹かれていく理由も分からない。リンディが慈善事業に精を出しているからとか、家庭環境が悪いとかいうのも、彼女をストーキングし始めてから知ったこと。話運びが悪すぎる。家にかくまってからも、女の子はモノで釣ればイチコロ、という発想が抜けない。その彼女との交流も、せいぜいカイルが屋上に温室をつくったことぐらいで、リンディがどうしてパンク容貌のカイルに惹かれはじめるのかも、テキトー。
さらにさらに。落ち着ける場所へ行こうと誘った先は「小さなコテージ」で、なんとリムジンで出かける。行ってみたら豪壮な田舎屋。なーんだ。カイルのために街中に隠れ家を借りてやったりせず、始めからここで過ごすようにすればよかったじゃないか。携帯も通じないらしいし。それに、この辺りから、リンディがカイルの財産あるいは金遣いの荒さに対して鈍感になってしまうのも、ううむだな。「どうせいくなら自転車で」とか「そんな金があるなら恵まれない浮浪者に寄付を」とか言ったらいいじゃないか。いくらティーン向けだからって、ここまでテキトー過ぎると、見たくなくなっちゃうよな。
てなわけで、リンディはパンク容貌カイルのどこに惚れたのか分からないまま"I love you"と言ってもらえて魔法がとけてしまう。おい。結局、美男と財産が勝つんじゃないか。けっ。こんなのにだまされるアメリカのハイティーンは、アホだな。
エンドクレジットで、家庭教師の目が見えるようになったり、女中の息子たちのグリーンカードが手に入ったりしてるんだけど、あれは魔法なのか? なんか、よく分からんぞ。最後までいい加減な映画だったよ。
麒麟の翼 〜劇場版・新参者〜2/20MOVIX亀有シアター6監督/土井裕泰脚本/櫻井武晴
テレビシリーズの映画化だけど、ほとんど意味がない。前後編2回分を一気に見た感じ。映画には映画のつくりかた、撮り方がありそうなものなのに、テレビのまんま。つまんない。
日本橋で鉄鋼会社の部長・青柳(中井貴一)が死ぬ。近くに潜んでいた青年・八島(三浦貴大)が容疑者として逮捕される。…という時点で、八島は犯人じゃないと分かるわけだが、日本橋署の加賀恭一郎(阿部寛)はどうやってこの事件を解決するか? といういつもの流れなんだけど、真犯人はすぐに分からなくてもなんとなく見当がついてしまう。だって、のっけから何度もプールに沈む少年の姿が何度も登場すりゃ、それに関係することかな? と思うだろ。で、青柳の息子・悠人(松坂桃李)が中学時代に水泳部で、部長の糸川(劇団ひとり)が刑事に対しておどおど応えてるんだから、そっちの筋だろってわかっちゃう。っていうか、他に怪しい線は登場してこないし。
で、警察上層部はさっさと八島を真犯人として報道発表したいが、加賀があれこれ注文をつけて(従兄弟の松宮を使って)1日1日と延ばさせる。…のはいいんだけど、八島は真犯人ではない、という判断が加賀にできたのかどうか疑わしい。だって、確信をもてたのは八島が殺害時間に江戸橋の地下道ではなく日本橋の上にしゃがみ込んでいた監視カメラ画像がみつかってからだろ? それ以前に、「違う」という確信は持ててないと思う。
なので、この映画では、加賀は報道発表の引き延ばし程度しかやってない。あとは日本橋をうろうろして、八島の行動を追っているだけ。笑えるのは、各店主や神社の神主たちが、被害者のことを明瞭に覚えていること。そんなのあり得ないだろう。いや、青柳が折り鶴を賽銭箱の上に奉納しているのに気がついているなら、そのちょっと前に青柳の息子・悠人が同じことをしているのに気づいていてもいいはずではないか。
今回の事件では、加賀の推測に基づく判断が多すぎる。最後、まるで見てきたかのように「キリンのツバサ」サイトのこと、折り鶴の奉納のこと、悠人ら水泳部3年3人と、プールで溺れた下級生・吉永のことなどを話すのだけれど、それって調べて裏の取れてることじゃないんじゃないの?
で、ここからは核心に触れるけど、リレーでスタートが早すぎて失格になった、という原因をつくった吉永を、上級生3人がプールでしごいた。その結果吉永が溺れ、脳死のような状態になってしまった、と。その現場を見た部長の糸川は、生徒たちをがばい、吉永の単独行動と警察に言うのだが、そんなの吉永の意識が戻ったらウソって分かっちゃうだろ。脚本家もそれに気づいていて、せりふで「意識が戻ったら云々」とエクスキューズをしゃべってる。あほか。それだけではない。意識不明に助けられる、がもう一度発生するのだ。容疑者・八島は警官に追われ、トラックにはねられる。で、意識不明。もし八島が素直に逮捕されていれば、事件は簡単に解決したのに、またしても八島の意識不明で悠人ら3人は助けられる。って、ご都合主義もいいところ。バカか。
で、その糸川に対して、加賀が、「黙っていれば分からない」ということをお前が教えたんだ」と恫喝するのだけれど、そんな単純な問題か? 糸川は確かに悪い。が、事を穏便に、被害を最小にしようとしてついてしまったウソで、たまたまそれが成功してしまった。言い出せなくなってしまった・・・。罪悪感を抱えつつ生きなければならなくなった。その苦悩に触れることなくただ断罪すればいいのだろうか?
しかも、それを言うのが、父親との交流を拒みつづける加賀であるのだから、説得力がない。加賀はまた、悠人に対しても、父親との思いを淡々と語ったりする。おい。お前がいえる立場か? という印象をもってしまうよなあ。ここは、自分と父親との関係に重ね合わせて、自分の痛みとしても語らなければ説得力はないんじゃないのかな。それと、ひとつついたウソが大変なことにつながる、ということを強調するために、アナロジーとしてのサブエピソードを加えるべきだろう。宮部みゆきなら、そういう配慮は欠かさないと思うんだが。この原作は東野圭吾だからなあ…。
他にも不自然さは数知れず。たとえば、八島は地下道で刺された青柳を目撃しているのに、助けようとしない。それどころか、サラリーマンのもつ革カバンを盗んでいる。あほか。盗むにしても財布から現金だけ抜き取るのが基本だろ。なんでカバンを? 信じられない行動だ。
八島と、同棲する香織(新垣結衣)。この2人、ヒッチハイクして東京までやってきて、万歳をする。ううむ。いまどき東京はそんな憧れの街じゃないだろ。いくら孤児院出身だからって…。香織の部屋には「介護士入門」みたいな本があったけど、彼女は勉強していたのだろ? でも、そういうことは映画では一切触れられていない。おいおい。
2人の同棲生活。貧乏は分かるけど、の割りに2間の部屋に住んでいたりして、結構、住宅費つかってるじゃないか、と思った。家賃も払えない貧乏なら、6畳1間の風呂なしに設定しろよ。
あとは、派遣切りと労災隠しというステレオタイプ。これも、そうせざるを得ない中小企業の現状が描かれるとか、企業幹部の悩んだ末の行きすぎた行為に反省しているとか、そういうのが最後にでてくるならまだしも、あまりにも単純すぎ。
悠人が突然、信心深くなるのは罪悪感からとして。そこに折り鶴を、という発想はどこからきたんだろ?
息子のパソコンを無断で覗く父親って、おい。
3人のうち1人が犯人として逮捕されるのは当然。以前の事件を隠蔽したとして糸川が追求されるのも当然(でも、どういう罪になるのだろう?)。では、悠人ともう1人が、警察に追求もされずにいるのは、それでいいのか? 吉永をしごいた本人なのに、それでいいのか?
でもって、刺されて死ぬかというのに折り鶴を日本橋までもって行って倒れる…って、1世紀前の探偵小説のダイイングメッセージなんかやっててどうすんだよ。青柳は吉永のことをそこまで思えたのか? ううむ。理解できない。映画のウソも、甚だしすぎる。って、原作が悪いのかな?
てなわけで、中味はスカスカ。説得力も共感もなし。
他に変な描写というと、マスコミが青柳の家や八島のアパートに押しかける場面かな。あの程度の事件で、あんな大騒ぎはないだろ。しかも、ある日群がっていたかと思うと、次のシーンではさっぱりいなかったり、これもご都合主義すぎる。ご都合主義といえば、警察の描写もテキトーすぎ。あんなに多くの特設本部をつくりながら、加賀と松宮の2人以外は、何を調べているのだ?
八島役の三浦貴大って、友和・百恵の息子なのか…。げっ。柄本時生が、好青年で出てくるのは笑っちゃう…な。新垣結衣は、つるつるプラスチックみたいな顔でいまいちビンボー感がにじみ出ていない。黒木メイサは、いなくてもいい役だし…。加賀の父親のエピソードは、テレビ版を見てないと分からないから、要らんだろ。ついでに、田中麗奈のでている部分は物語に関係ないから、カットしちゃえ。あんなお節介な看護婦は存在しないぞ。そもそも、この程度の話に130分もかけるのはどうかしてる。内容的には90分で十分だな。
たんに事件が解決すればいい、ではないだろう。たとえば車椅子姿の吉永が最後に写り、カメラが寄っていって手のアップになると、小指がピクッと動く…とか。未来につながる終わり方をしてくれないと、寂しすぎるだろ。
聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-2/21キネカ大森3監督/成島出、特撮監督/佛田洋脚本/長谷川康夫、飯田健三郎
山本五十六が日米開戦に反対だったのは知っていた。戦中に南洋のどこかで撃墜されたのも知っていた。でも、海戦でどんな役回りだったかまでは知らなかった。なので、興味深く見ることができた。とくに前半の、「三国同盟反対」の件は、なるほどな話。ヒトラーの原書では日本人をバカにしているのに、翻訳ではカットされているとか、三国同盟賛成の部下たちをやりこめるところは、おお、さすがの感。
また、新聞社の主幹からして国威高揚、抗戦論者だったり、市井の人たちも「景気をよくするには戦争だ」と話していたりする様子は、オソロシイ。日清・日露と勝ち進み、欧米列強なにするものぞ、と血気盛んな時代が7〜80年前にあったことは、改めて記憶にとどめなくてはならない。ああいう時代があった、ということは、今後起こらないという保証はないのだから。
街の反戦論は、声が小さい。映画では小料理屋の女主人(瀬戸朝香)が、弟が戦死して骨ももどってこない、というぐらい。ああいう意見は「弱腰」とか「お国のため」という怒声にかき消されていったのだろう。まことに大衆というのはアホである。そのアホを味方につけるためにマスコミが時局を論じ、戦意高揚を煽り立てた。さらに、撤退を転身と言い逃れる軍部を指弾することなく、逆に手先になってしまった。戦争を起こしたのは国だけど、盛り立てたのはマスコミや愚民なのだ。…という姿勢が、類型的ではあるがよく描けていた。
また、共感してしまったのは家族の食卓だ。山本五十六も家に帰れば4児の父親。6人で囲むちゃぶ台にカレイの煮付けがひと皿(一匹)。その魚肉を五十六が箸で取り分け、子供たちや妻に与える。みな「ありがとうございます」と姿勢を正して感謝する。こういう時代でもあったのだな、と思うと、ちょっと感動してしまった。魚に関しては、後半に鯛も出てくるのだけれど、あれはどういう意味だったのだろう? 食卓の鯛には誰も手をつけずに食事が終わる。ああしたものだったのか? で、その鯛は、その後、どうしたのだ? とても知りたい。
もうひとつ、五十六と甘味処の少女のエピソードが泣かせる。たまたま入った店で、五十六の指が欠けているのを見て、少女が茶碗を落としてしまう。「驚かしてゴメン」と笑顔の五十六が目に留めたのが、少女の髪につけられたリボンのみすぼらしさ。次に訪れたときは砂糖が配給で店はやってなかったんだけど、新しいリボンをあげる。なかなかいいエピソード。
五十六の人柄を描写するエピソードが、多い。部下が三国同盟賛成反対で対立しかけると、ぜんぜん別の話題にふってしまう。ミッドウェー海戦で戦局が悪くなると、部下と将棋をする。など、落ち着かせる、熱を冷まさせる上手だったことが分かる仕組み。また、ミッドウェー敗戦の責任者である南雲中将を責めないところなど、人間こうありたいと思わせるような話が多い。
てな具合で中盤のミッドウェーあたりまでは、なかなかいいな、という印象だったのだが…。
後半、話が舌足らずになってしまう。大きな原因は戦闘シーンが多くなること。CGを多用しているのだけれど、これがちゃちい。また、どの時点のどの海戦なのか、というのがほとんど分からなくなる。おそらく、説明が必要と分かっていながら、でも正確に伝えていては映画にならなくなる。かといって中途半端にやっても意味がない・・・なら、ええい、説明は省いて雰囲気で見せちまえ! だと思うのだけれど、それが隔靴掻痒な結果となってしまった。五十六も、洋上にいたかと思うと、白いスーツ姿で実家に戻ったり。ミッドウェーでも、五十六は日本近海にいたようだけど、そういうのが伝わらない。最後の方では南洋の島みたいなところで戦闘機を送り出していたけど、連合艦隊はどうしたの? と、素朴に思ってしまう。時間、位置、経過が説明なしに進んでいくのは、見ていてつらい。
あとは、この手の映画にありがちなことだけど、軍人たちの階級と役割、力関係がほとんど分からないっていうのが、残念なところだね。この映画では階級にはほとんど触れられず、司令官とか艦長とか参謀とかでてくるけど、関係がいつもながら分からない。まあ、つくっているスタッフにも分かってる人はいないのかも知れないけど…。それも、後半のつらさを後押ししてしまっている。
この手の映画では、必ず若者たちがでてくる。この映画では戦闘機乗りの何人かだけれど、ちょっと類型的かも。他にも、軍部上層部の大半は、記号として登場するだけという感じが強い(これは、庶民の意見を反映させる小料理屋の人物たちも同様)。人間としても掘り下げは、五十六と正反対。いっぽうで、映画の語り手である若手新聞記者・真藤利一(玉木宏)もいることにはいるんだが、存在感が薄い。だって、自分の意見を言わないから。ま、尺が140分なのでしょうがないとは言えるが、伊武雅刀なんて何のために出てきたのかさっぱり分からんよ。
しかし、この時代にもまだ薩長対幕府軍の対立が影を落としているというのが興味深かった。五十六は河井継之助や米百俵の長岡で、そんなことも海軍内の派閥や陸海の対立に関係していたのかと思うと、アホらしい。
で、あとからWikiで見たら五十六には愛人がいて、作戦が終わったら逃げよう、みたいな手紙を書いていたなんていう話がでていた。ひぇー。すると、あの心温まる山本家の食卓は、話半分以下なのかもなあ。で、甘味処の少女のところに通ったのは、少女を愛人に変えて読まなくちゃいけないのかも。南雲中将についても、映画では分かりやすく善悪二元論で悪人に仕立てていたけど、いろいろ説はあるようではないか。映画だけではわからないあれやこれやもあるのだね。そういう話を知ると、いつも正しい人・山本五十六の話だけではなく、案外とダメ男だった山本五十六のドラマも見てみたい気になってくる。
役所広司が山本五十六…。この映画もまた、坊主頭が見られない変な軍記物になるのかな、と思ったらさにあらず。ちょっと長めだけれど、多くの役者が坊主頭になっていた。なかには短髪にしている役者(柄本明、阿部寛とか)もいたけどね。やっぱ、映画なんだから髪の毛ぐらい思い切って刈れや、と思う。
ハンター2/27新宿ミラノ3監督/ダニエル・ネットハイム脚本/アリス・アディソン
原題は"The Hunter"。豪映画。追いつ追われつの話かと思ったら、絶滅種といわれるタスマニアタイガーの話だった。少しサスペンスはあったけど、大したことはない。某社から、絶滅種といわれるタスマニアタイガーの内臓とか主要な部分を確保してきてくれ、と男が依頼される。目撃情報もあって、確保は競争になっているらしい。…という設定は興味深い。でも、話に深みがなくて、いろいろ中途半端。解明されない出来事も多いし、ラスト近く、主要人物を呆気なく殺してしまう。しかも、好ましい人たちを。しかも、その原因もはっきりしない。「テラビシアにかける橋」で、ヒロインが突然死んでしまったのを思い出した。なんか、つくりが粗雑なのだよな。もうちょい伏線をちゃんと回収し、カチッとパーツがはまるような仕上がりにして欲しかったな。
冒頭。レッドリーフ社(製薬会社だと思ったら、バイオ企業とWebにあった)が、デヴィッド(ウィリアム・デフォー)にタスマニアタイガーの確保を依頼するのだけれど、あまりにも直接的で余韻のない描き方。で、デヴィッドがタスマニアに乗り込むのだけれど、背景や状況がよく分からない。アバウトな感じで進んでいくのは狙いなのだろう。でも、最初にタスマニアタイガーの話とかバイオ兵器を予感させるなにかとかあってもよかったんじゃないのかな。
宿泊先は民家。なので驚いた。だって極秘命令で行くのではないの? 宿の仲介者ミンディ(サム・ニール)の正体も、よく分からない。でも、そもそもデヴィッドは大学で教えているって言ってなかったか? 隔靴掻痒。で、宿にはおしゃべりな少女サスと無口(しゃべらないので唖かと思った)な弟バイクがいて、母親のルーシーは寝室で伸びている。なんでだ? で、父親はいるみたいだけど、家にはいない・・・。分からんなあ。いらいら。
発動機の故障で電気は点かず。ロクな水も出ない。なのでバーに行って宿を探すが、島の人々は林業で暮らしているので、環境保護派が大嫌いなので睨まれる。って、じゃ、デヴィッドは環境保護のためにきているという設定なのか…。だれがどうやってデヴィッドの所属などを決定し、タスマニアに乗り込ませたんだろう。そりゃレッドリーフ社が政府と関係手しているから、なのかね。それにしても、極秘のハンターなのに、多くの人に顔を見られていいのか? てな気分になる。
ルーシーの夫は、山に行って戻ってこないらしい。やがて彼もレッドリーフ社の依頼でタスマニアタイガーを探していたことが分かるのだけれど、それにしては一家でタスマニアへ? その夫がいなくなったせいでルーシーは睡眠薬浸り? なのにサスは元気いっぱいだし、バイクも(しゃべらないけど)フツーに元気。なんか変なの。
サスに「起こさないで」と言われていたのでルーシーをほったらかしにしていたデヴィッド。薬を見つけて、寝たままの彼女を風呂に入れる…。もしかして、ウンコ小便まみれだったのか? そうでなかったら変態じゃないか? いくら子供たちも一緒に母親のカラダを洗うからって…。
でまあ、森に行ったり戻ってきたり、その間にルーシーは元気になる。ミンディに、自然保護派の一派を紹介してもらう。なので、デヴィッドは島の住民から環境派と見られ、意地悪をされたりする。この辺りは興味深い。材木で食べているのに、外部から「伐採反対」の連中がやってきて、仕事のジャマをする。なんか屋久島や種子島なんかを連想してしまう。で、この話が拡大するかというと、結局は背景だけで終わってしまう。ちょっと残念。もうちょっと突っ込んで描いてくれると面白かったのに。
デヴィッドが山に入り、仕掛けをせっとしたり、あれこれする様子は面白かった。カラダを煙でいぶすのは臭い消しだろうか。エサに近づいたらフラッシュが焚かれるシーンがあったけど、自動でシャッターが切られる仕組み。でも、あれを仕掛けたのは誰なのか、結局、分からなかった。
で、デヴィッドは、バイクの絵からタスマニアタイガーの居場所を特定することになる。どうやら消えた父親が息子に居場所を話していたらしい。その父親も秘密の指令で動いていたなら、子供に話すなんてアホだと思うんだが、ここは映画だからしょうがないのかな?
この辺りからデヴィッドはルーシーや子供たちに親近感を抱くようになる。それを察知したミンディが、レットリーフ社に警告を発する。それで、別のハンターがタスマニアに送られることになるのだけれど、この辺りもかなりいい加減。そもそもミンディってどういうやつなんだ?環境保護グループと仲良くて、レッドリーフ社にも雇われていて、でも彼自身はタスマニアタイガーを探そうとはしない。ルーシーたちとも交流がある。…ううむ。よく分からない。
さて、デヴィッドはタスマニアタイガーの狩猟の後、巣の洞窟を見つける。さらに、ルーシーの亭主の白骨死体を発見するのだけれど、頭蓋に弾痕の穴が開いていた(殺したのは誰? という疑問が残る)。さらに木と湖の近くをうろうろしていると、男に銃を向けられる。彼は、ちょっと前にバーにいた男だ。この2度目のバーのシーンは、ほとんど意味がなかったなあ。1度目は小便をしに入って島の琳業者たちに威嚇されたので意味があった。けど、2度目はたんに、次のハンターが送り込まれたよ、というのを見せるためだけじゃないか。デヴィッドがビールを飲みに行く理由もない。
さて、いったんは新ハンターに捕捉されたけれど、なんとか逆襲して相手を撃ち殺す…。って、ただの大学教授じゃないだろ? デヴィッドって。で、新ハンターがルーシーの家に侵入して自分の居所を知った、と判断したデヴィッドはとって返す。が、家は全焼。ルーシーとサスは焼死。バイクは、どこかに預けられているという。「お前がレッドリーフ社に告げ口したからだ」とミンディを責めるけれど、でも、ミンディの立場がよく分からないので説得力がないね。
次に森に入ると、タスマニアタイガーが目の前に…。そのままま逃がすのかと思ったら、なんと撃ち殺してしまったよ。おお。レッドリーフ社に売り渡すのか? と思ったら火葬にして灰を山に撒いてしまった。敵をしびれさせる(?)毒をもつタスマニアタイガーは、武器にでもなると考えていたのかな、レッドリーフ社は。でも、そうはさせじと、この世の最後の一頭を誰の手にも渡らないようにしてしまう。まあ、これがこの映画のミソなんだろうけど、それっていいのか? ってな気分だな。
しかし、あの火事は新ハンターの放火か? ミンディが言うように自然発生か? 結局分からずじまい。なんかな。テキトー過ぎないか?
Webで知ったけど、デヴィッドは「フリーランスの傭兵であり、凄腕のハンター」なんて書いてあるぞ。そんなこと、映画で説明していたか? おい。
ルーシー役のフランシス・オコナーは可愛いオバサン。娘のサスもチャーミング。その2人をあんな風に殺すなんて、許せないな。この映画。で、残ったバイクをデヴィッドが引き取る…というラストなんだけど、冷徹な男がなぜ仕事の報酬を捨ててタスマニアタイガーを焼き捨てたのか、その理由が明かされない。もちろんバイクへの親近感もね。タスマニアと、ルーシーの家族が特別だという理由を示さないと、説得力はないな。
面白かったのは、ルーシーの夫はロック好き。デヴィッドはクラシック好き。ルーシーの家は、まだレコード。デヴィッドはiPodで音楽。ルーシーの夫は、音楽を自然の中に響かせるため、木にスピーカーをいくつもぶら下げた。姉のサスはおしゃべり。弟のバイクは無口。…なんていう対比だけど、なんの意味もないと思う、きっと。
それから、デヴィッドはタスマニアデビルの調査にきているという触れ込みらしいが、そのタスマニアデビルって何よ? だよな。
タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら2/28ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/イーライ・クレイグ脚本/イーライ・クレイグ、モーガン・ユルゲンソン
原題は"Tucker and Dale vs Evil"。邦題は「ハングオーバー」のパクリかな。デイル役のタイラー・ラビンがザック・ガリフィアナキスにちょっと似てるから? ううむ。終わってみればツイてないのは大学生たちで、タッカーとデイルは結構ラッキーな結末。変だよな、この邦題。で、カナダ映画。
「13日の金曜日」あたりを下敷きに、悪い偶然が重なることで、どんどん物事がのっぴきならない状態に陥っていく様子をコメディタッチで描く笑えるホラー映画。
どんくさい田舎者のタッカーとデイルが、やっとこさ手に入れた湖の畔のボロ別荘に向かっている。途中、キャンプに向かう大学生9人(女子3人)組と出会う。で、両者の目的地はほぼ同じ。どうやら、20年ぐらい前に猟奇殺人が起こった場所らしい…。で、魚釣りをしていたタッカーとデイルが、下着で飛び込もうとしていた女子大生アリソンに気づかれ、彼女は転落。2人が助けるが、アリソンの仲間は「猟奇殺人犯に誘拐された」と勘違い。大学生チームがアリソンを奪い返しに向かうが、タイミングの悪さでどんどん自滅死していく…。という、途中まで見たら流れが分かってしまうのだけれど、大学生チームの1人がかつての猟奇事件の被害者(実は加害者?)の息子だということが分かり、殺し合いに発展するというおバカさ。エスカレート具合も面白くて、結構笑えた。
けれど、刺したり刺されたり飛び込んだりetcの肝心の場面が、どーも盛り上がらない。もうちょいアップにするとかダイナミックに撮るとかしたらいいのに、どれも静的なんだよ。予算の関係で効果が使えなかったのかな。そこが強調されてると、もっとスプラッターで血みどろでエグイ感じがでたと思うんだけど。
しっかし、仲間が殺されているっていうのにアリソンの救出に向かう大学生って、アホかいな。家まで60キロぐらいなのに、歩いて逃げるのはムリ! なんてほざいたり。恐怖を感じたら逃げればいいのに。でも、そうしたら映画が成立しなくなっちゃうけどね。アリソン役のカトリーナ・ボウデンは結構かわいい。そのアリソンとデイルが、最後は熱々カップルになっちゃうんだから! まったく。それにしても、大学生たちの死にタッカーとデイルもいくつか過失があると思うんだけど、一切、追求されていないね、ははは。
そういえば冒頭は「REC」みたいなビデオ映像だったんだけど、その3日前からの出来事がそのビデオ映像にどうつながるのかなと思ったら、つながらなかった。あれは、現場に潜入したテレビ局のカメラ映像なのか? なんか、あんまり意味がなかったかも。
タッカーとデイルが別荘ると、壁に貼ってある猟奇的な新聞記事に驚くんだけど、買う前に下見はしなかったのかね。それがアメリカの常識?
親愛なるきみへ2/29ギンレイホール監督/ラッセ・ハルストレム脚本/ジェイミー・リンデン
原題は"Dear John"。邦題と同じだけど「ジョン」が「きみ」になってる。「ジョン」だと犬みたいだけどね。惚れ合った2人が戦争で関係を割かれるが、再びよりを戻す話。なのだけど、後半、話に早くケリをつけようとせせこましく荒筋だけで(理屈だけで)引っぱっていく感じが露骨にでてしまい、情感が薄れてしまっている。
allcinemaが「2001年春、米軍の特殊部隊に所属する青年ジョンは、2週間の休暇で帰郷した際、女子大生のサヴァナと出会い恋に落ちる。しかし、愛を深める間もなく、ジョンは赴任地へと旅立つことに。それでもふたりは、手紙を交わすことで互いの距離を縮め愛を育んでいく。しかし、そんなふたりの運命を9.11同時多発テロが変えてしまう。苦悩の末に任務の延長を志願したジョンに対し、孤独に耐えかねたサヴァナの心は揺れていく」と荒筋を書いている。
サヴァナがジョンに惹かれたのは、男っぽいところ。サヴァナが桟橋から荷物を海に落とした。近くにいたジョンがひゅんと飛び込んでとってきた。サヴァナの男友達は桟橋を陸へ もどり、砂浜から海に入ろうとしたが、ジョンが上がってくるところ。で、男友達が、荷物を手渡せ、というのを無視して、ジョンは自らサヴァナに手渡す。やだねー、この態度。ジョンも寄ってけといわれたサヴァナの友人達のパーティについていってしまう。やだねー。ジョンの、サヴァナへの未練が露骨すぎないか。
ジョンには、自閉症気味の父親がいる。のだけれど、なぜそうなったのか、にはまったく触れていない。ジョンが子供の頃に妻が出ていったらしいが、それだけが原因ではないだろう。父親の過去、仕事、どのようにジョンを育てたか、がまったく見えてこない。見えるのは、ジョンも父親もコイン集めが趣味だということだけ。ううむ。とってつけたようだ。
ジョンと父親がサヴァナの家に招待されるが、父親は家から遠くへ離れられず、途中でリタイヤ。それは病気だからしょうがない。サヴァナは、「自閉症」と指摘するが、ジョンは激怒する。それって変じゃないか? 病院に通ってる様子もないし。ジョンは、父親を病人とみられることが嫌なのかね。それはおかしいだろ。で、ジョンは1人でサヴァナの家に行くんだけど、これが田舎の大富豪で乗馬場もあるようなでかい家。おいおい。こんな金持ちじゃ共感できないよ。
ジョンが休暇を終えて兵役に戻ると、手紙でのやりとりがつづく。が、途中で9.11が発生し、部隊の仲間は除隊を拒否し、兵役続行を主張。除隊してサヴァナのもとにもどる、と約束していたジョンも、心が揺れるが兵役続行…。そのうち手紙が来なくなり、やっと来たと思ったら、サヴァナは隣家の子持ちの中年男ティムと結婚することになった、と。おいおい。
サヴァナは、もともとティムに惹かれているのではないか、と思っていた。しかし、次第に、単なる親しい隣人かな、と思うようになっていた。だから、相手は同級生なのかな、と思ったら、なんとティム。これには違和感。なぜって、田舎の富豪がそんな結婚を許すかい? ティムの息子は知恵遅れで、しかも、女房に逃げられたままだ。こんな相手を、サヴァナの父親が認めないだろ。どうやって説得したんだ? サヴァナも、たんに同情心で結婚したのか? この展開で、萎えてしまった。
時は過ぎてジョンの父親が亡くなり、久しぶりにサヴァナの家を訪れるジョン。でも、結婚相手がティムだと知るのは、ここが初めて。しかも、ティムが末期ガンで入退院を繰り返していて、治療のための金もない有り様…と聞く。おいおい。田舎の富豪がいくら使ったのか知らないが、家が没落するほどの金なのか? で、ティムは父親のコレクションをコインショップに持ち込んで売り払う(1枚だけ、父親がコイン集めに没入することになったエラーコインを除いて)。それを匿名でサヴァナに送る。なんとまあリアリティのない展開だこと。で、しばらくしてティムが除隊し(たのかな?)して街に戻り、サヴァナと偶然再会する。結局、ティムは亡くなって、ふたたび2人の仲は…というご都合主義。
ティムの入院中、知恵遅れの息子はサヴァナが養っていたのかな? 描かれていなかったけど。死別しても義理の息子ということで、サヴァナとジョンが養っていくのか? サヴァナの実家は、ほんとに資産がなくなっちまったのか? それとも、嫁に出したから、そんなにお金は与えていないのか? 細部にこだわってしまうと、どーも説得力がない。すべてがきれい事のロマンス、かな。
トスカーナの贋作2/29ギンレイホール監督/アッバス・キアロスタミ脚本/アッバス・キアロスタミ
仏/伊映画だけど、原題の"Copie conforme"はイタリア語? かと思ったらフランス語らしい。「贋作」というより「複製画」ではないのかな…? 英文タイトルは"Certified Copy"で「認証謄本」の意味らしい。これは…調べたら、「謄本を原本と相違ない旨を認証すること」らしい。複製ではあるけれど、本物と同じですよ、ということか。ふうむ。「トスカーナの贋作」っていうから有名画家の贋作をめぐってスリリングな騙し合いが展開されるのかな? と思っていたら大ハズレ。どーも、行き場を失った15年目の夫婦の話だった。といっても、昼のパンをインターバルに囓ったので、さっそく眠くなった。2人でクルマに乗って出かける辺りでうとうと…。どこかに到着したら結婚式が近くで…みたいなところで一度目が醒めて、でもすぐまた居眠りしてしまい、どこかの広場で老夫婦と話している場面で気がついた。老人が男に「奥さんは並んで歩いてもらいたがってる。あんたがするべきことは、奥さんの肩を抱いてやることだ」なんていう。そしたら男が女の肩に手をやった。なんだ。2人は、老夫婦に夫婦と騙ったのか? と思ったら、2人は気の利かないレストランへ。で、そこで2人は夫婦であることが分かった。げ。
いや。寝ている間に説明されたのかも知れんが、最初からの展開では、2人が夫婦だなんて、そんな描写はなかったぞ。まるで他人みたいだった。
で、冒頭に戻ろう。講演会場。そこで美術評論家(?)のジェームズが講演する。途中から聞きに来る女性(ジュリエット・ビノシュ)。彼女の息子もくるが、飽きたのかピノシェとすぐ出ていく。2人でマック(?)みたいなところへ。本にサインをしてもらう話。6冊買った。妹や、嫌い(?)な友人にも…。息子が「ぼくの名字を伏せたのはなぜか?」と聞いたりする。ジェームズがピノシェの画廊(?)を訪れ、2人でドライブ…熟睡…駐車場に到着…熟睡…広場で老カップルと話して…というところで「並んで肩を抱いて」といわれレストランへ。喧嘩して。上がりかまちに座って。「結婚初夜に泊まったホテルはどれだ?」とピノシェが聞くがジェームズは分からない。座っていた階段を上がって「ここよ」と。で、ホテルの人間に「部屋を見せて」と上がっていき、だらだら話してオシマイ。…なんなんだ。最後は、結婚生活も15年もしていると心の行き違いもあるよな、という話になっていくのだけれど、このホテルのシーンではジェームズも夫になりきっている。ん? いつからそうなったんだ。っていうか、夫婦だったのか? 前半はそれを隠していた? ううむ。分からん。

 
 

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