2012年3月

トスカーナの贋作2/29ギンレイホール監督/アッバス・キアロスタミ脚本/アッバス・キアロスタミ
というわけで2度目。寝たところを確かめに。最初に寝てしまったドライブの部分はそんなに長くなかった。本にサインをするところは記憶にある。ピノシュの妹に関する件を見ていなかったのかも。で、駐車場で降りて…喫茶店のようなところに入るところは見ていなかった。話していた内容は、もう忘れている。なんか、どーでもいいようなことをぐだぐだ話していたんじゃなかったかな。記憶に残る内容では無かった。なのでか、また、ふっ、と寝てしまったよ。気がつくとジェームズが庭に出て携帯で電話している。ピノシェが店のオバチャンとなにか会話する。ここで、「旦那さんは・・・」と夫婦と勘違いされる。で、店を出て誰かの結婚式の写真に一緒に写るということになって。ピノシェははしゃぐが、ジェームズは嫌だという。でも、花嫁に引っぱられるようにしてスタジオへ。で、次は舗道をあるく2人。どうやらジェームズは新婚の2人に皮肉っぽいことを言ったみたい。…というところで、セリフに変化が起きる。どうもピノシェの方がジェームズを夫扱いするような話っぷりになる。ジェームズはそれを否定せず、でも、まだピノシェを妻扱いはしていない。さらに広場に出る。ここのシーンが長まわしで、まずピノシェが教会から出てくる。中央の彫像について、2人は意見を主張し合う。ジェームズが納得しないので、ピノシェは近くにいた老カップルに感想を聞き、その妻の方の話をジェームズに聞かせようとする。という過程で、夫の方がジェームズに「あんたは見るからに知的なようだが、いまのあんたに必要なのは奥さんと並んで歩くこと。肩を抱いてね」てなことをいう。で、2人は老カップルと別れ、ジェームズはピノシェの肩を抱きながら老カップルに教えられたレストランへ。そこで、テキパキ反応しない従業員にジェームズが切れて、ワインもコルク臭いと不満を言って、広場の一角の階段に腰を下ろす。ここでの会話から、ジェームズはピノシェを妻扱いするようになる。で、ホテル内に入って…。
というわけで、2人がどのように他人の関係から夫婦の会話へ変化していくかがわかった。成果はそれぐらい。でも、それが分かったとしても、この映画の「つまらない」という評価は、変わらない。だからなに? である。
要は思わせぶりな手法で観客を幻惑しているだけだ。とくに中味はない。トスカーナの贋作にしても牽強付会で、それがどうした?レベル。とりあえず、これまでにあまりない手法を試してみました、みなさんいかがですか? みたいな感じかな。
もちろん、あれこれ読むことはできて、たとえば、本物以上に本物らしい贋作=トスカーナの贋作を夫婦関係になぞらえてはいるのだろう。後半2人が織りなすウソの夫婦関係は、どこまでが真実でなにがウソか分からない。現実だと思っているものが虚構だったり、虚構に頼ったり救われたりしていることはいくらでもあるのだ、というように解釈したりすることもできると思う。でも、そんなのむりくりだよなあ。
いくつかの夫婦が登場する。広場で出会った観光中の老夫婦。教会から出てくる老夫婦は妻が腰の曲がってしまっている。結婚写真を撮るのに並ぶ新婚さん。2人が一緒に撮影したらしい新婚さん。できたてのカップルから15年目で心がすれ違う主人公の2人、リタイヤして旅行する夫婦、残り少ない人生を淡々と生きる夫婦…そのクロニクルを何気なく見せているのだけれど、それがどうした、という気にもなる。
広場での長まわしは、どういう意味があるのだろうね。たんにやって見せたかったから? とくに緊張感もなかったぜ。
あと、あちこちで見られる映り込み。2人の片割れが鏡やガラスに映り込んでいたりする。クルマのフロントガラスに街の情景が映り込んで乗っている2人が見えない、とか。これらもまた、本物と贋作の対比と考えていいのだけれど、で、それがどうした? という感じ。とにかく、いろんな手法が採り入れられ使われているけれど、メッセージにまで昇華し切れていない。
それと、舌足らずなままのものも少なくない。たとえば、息子。彼の父親との関係はどうなっているのだ? 彼の実際の父親=ピノシェの夫は、いるのか? 2人がドライブに出かけるとき、誰かに声をかけるところがあったけれど、あれは家族なのだろうか? それともご近所さん? …妹の話は、最後の方で回収されていた(「ジェ、ジェ、ジェ、ジェームズ」で)からいいんだけどね。
というわけで、だからどうした? な内容だった。セリフも、とくに深いものはなかったし。頭に入ることもなく、残ることもなかった。
気になったのは、ピノシュが全然知的に見えなかったこと。講演会に後からきて最前列に座り、息子と会話して、隣に座った翻訳者と会話する。1回目は、訳者と知り合いかと思ったのだけれど、そうではないみたいね。自分が画廊をやっていて、ジェームズに質問があるからと訳者にメッセージを渡したみたい。後半でジェームズが「招待された」といっていたけれど、ピノシュは何に招待したのか? また、見ず知らずの女性の招待を受けるジェームズって…と思ってしまった。また、ピノシュはジェームズの本に納得できないところがあるにもかかわらず6冊も買ってサインをもらい、妹や知人に贈呈するというのは、何のため? アホか。さらに、出かける用意をしていたのだろうけど、中途半端なドレスがみすぼらしい。肩や背中に肉がつきすぎて、キリッとしたこれまでのピノシュの感じと大違い。田舎のオバサンにしか見えない。レストランで化粧をしてイアリングをつけるころなんか、娼婦にしか見えない。そういうバカな女に設定されているのかな。よく分からない。
●Webの中に、これは逆ナンパの話、という解釈があった。知的作家に舞い上がったファン女という話か。なるほど。そういわれてみると納得できるところはある。けど、どこでどう惚れたのか、が描かれてないので分かりにくいよな。
ドラゴン・タトゥーの女3/3上野東急監督/デヴィッド・フィンチャー脚本/スティーヴン・ザイリアン
原題は"The Girl with the Dragon Tattoo"。本家の「ミレニアム」は見ている。今年の正月に、ロングバージョンの本家3部作をCATVでやってたんだけど、気づくのが遅くて第3部の途中からしか見ていない。もう一回やんないかな。というのは別の話だけど、やっぱりあっちは元がテレビシリーズ。いっぽうこっちは、資本をどっさり投入したハリウッド大作。「こっちは映画だ!」と主張していて、見応えがある。まずは、オープニングからして素晴らしい。
概ね話は同じかと思う。でも、パレードの写真とか諸々の写真やデータをMacに取り込んで管理・閲覧している具合は、こっちの方が進んでいるかな。それから、ミレニアム社だけど、本家は4〜5人所帯のミニコミ風だったけど、こっちは数10人規模のスタッフのいるオフィスになっていた。それから、なにより驚いたのは舞台がアメリカに置きかえられておらず、スウェーデンのままだったこと。そのせいでか、ただでさえ登場人物が多くて複雑怪奇なのに、よけいに覚えられず。これは、「ミレニアム」でも同じだったけど。あと、ミカエルはオフィスで、リスベットは会社の資料室で、ともに核心に迫っていくところで、なにがきっかけで犯人が現社長のマルティンと分かったのか、が分かりにくいこと。固有名詞と人物と、がちゃんと頭に入っていないと、「なーるほど!」と膝家を撃てないのかもね。ああ、悔しい!
あと、本家と比べてクライマックスとそれ以後が、派手じゃない? あんな人体処理場って、本家でも出てきていたっけ? 覚えてないよ…。そして、事件の後のミカエルの裁判の後日談、リスベットの恋心なんかも、こっちのほうが丁寧に描かれている感じ。
いや。「ミレニアム」では、犯人が分かっておしまい、だったような気がしたんだけど…。記憶があやふやだ。
リスベットとミカエルのセックスシーンで、派手にモザイクが出るのが興ざめ。あれはダニエル・クレイグのチンポコが見えてるからなのか? でも、最近の映画はとくに消さずに見せてるじゃないか。なんかなあ、あのモザイクはないよなあ。
それにしても、あの島の住人の複雑さは、映画で一度聞いて覚えろというのは無理難題。人物相関図を手にしていないと、ありゃ分からんよ。とくに、ハリエットを逃がしてくれたアニタだっけ、が突然最後にでてきたり。やっぱ、あああいつが!的な意外性と驚きがないとなあ。
で、事件が解決後、リスベットが変装してタックスヘイブンだかスイス銀行だかを回って、そもそものミカエルの告発相手の金をなんかしちゃうのだけれど、なぜああいうことをしたのか、ってなところがよく分かんなかったりする。
ソニーコロンビアの映画なのに、Macが大活躍。ソニーの映画はいつもVAIOが出てくるのにね。
指輪をはめたい3/5キネカ大森3監督/岩田ユキ脚本/岩田ユキ
スケート場で転倒し、記憶障害に陥った置き薬会社の社員・片山(山田孝之)。貴重品を探してスケート場に戻るが、なんか様子が変。女の子たちがスケートの練習をしていて、1人の少女エミ(二階堂ふみ)だけが話し相手になってくれる…という時点で、このスケート場のシーンはすべて幻想だと分かってしまう。リアリティがないんだもん。で、片山は指輪をもっていて、誰かに求婚する予定だった…? 家に戻れば3人の女性とつきあっていたらしい事実が…。1人は会社の同僚の住友さん(小西真奈美)。もう1人は風俗ギャル(真木よう子)。あと1人は大道芸で人形劇をやってる不思議ちゃん(池脇千鶴)。さて、相手は誰? という設定。
結局、3人ともミスリードさせる役割で、本命はエミちゃんだった! と言われても、ふーん、てな感じ。意外性はない。3人との関係がどんな具合か見せていく過程が、いささかくどくて、もういいよ、という感じもなきにしもあらず。それになにより、エミにふられたから、見返してやろうと3人とつきあい始め、すべてが上手くいき、しかも3人ともが「指輪の相手は私」と思っている、という設定の方が、あり得ない! だろ。
てなわけで、1時間を過ぎたあたりで退屈も頂点に達し、10分ぐらい寝てしまった。どうやら、片山が10日ほど行方不明になっていた、というくだり辺り。
分からなかったのは、置き薬会社の同僚たちが、片山の結婚祝いの看板を作り始めたこと。あれは何だったのだ? 寝ている間に説明はあったのかな?
しっかし、かつて相思相愛になったけれど「いまのあなたはつまらない」と出て行ってしまったエリを思う気持ちが尋常ではない、ってのが説得力がない。それほどまでに思う理由って、何だ? しかも、思っているのは、出会った当時のエミ。だから、スケート場の幻想が登場するはずなのだろうが、そんな妙な一途があるものか。
しかも、片山はエミに出て行かれ、アパートを移り、3人の女性とつきあっていながらもエミの幻影を忘れることができずにいた、ってことだよな。ますます変だろ。変な映画だ。
エリ役の二階堂ふみは「ヒミズ」にでていた少女。この映画でも、スケート場のエミは化粧けっの少ない素朴さで可愛い(宮崎あおいにゴリラを混ぜた感じ)。で、別れて後のエミも登場するのだけれど、大人の化粧をしてまるっきり別人。すごいね、化粧の威力って。なんとなく内山理名っぽい感じになっちまっていた。
サラリーマンNEO 劇場版(笑)3/5キネカ大森3監督/吉田照幸脚本/吉田照幸、羽原大介、内村宏幸、平松政俊
くだらんバカ映画かなと思っていた。ところが、なかなかヨクできたバカ映画だった。
業界第5位のビール会社、NEOの新入社員・新城(小池徹平)。タイガースファンの課長・中西(生瀬勝久)の下、セクシービールで業界首位を目指すが…。という、よく有るサラリーマン物、あるいはそのパロディってとこかな。大まかにストーリー展開はあるのだけれど、それはさておき、小ネタギャグが満載で、しかもそれが結構笑える。よくある手垢の付いた、または、先が読めるギャグではなく、意表を突くようなもの、あるいはベタすぎてかえって可笑しいってなのばかり。脚本で結構、つめたんではないのかな、という気がした。全体の構成もカチッと決まっていて、テキトーなやっつけ仕事には見えない。かなり完成度は高いと思う。
具体的なギャグまではあまり覚えてないけど、ひとつとても面白いのがあった。新城が配属された部には部長がいるんだけど、リーダーは中西課長が勤めている。部長(田中要次)もいるけど、なにもしゃべらない? のだけれど、後半で突然、しゃべり出す。「パパ…」と。なんと根尾社長(伊東四郎)の息子で、部長として入社していた、ということが分かるんだけど、中西課長もそれを知らなかったって…。おいおいだけど、この一発ギャグのために田中要次は画面の端に絶えず顔をチラリと覗かせていたわけで…。そこまでの仕込みをやってのけるという映画というのも、日本じゃそうはない。こういった手の込んだ、緻密でインテリジェンスに満ちたギャグがたくさんある。エンドクレジットの途中で入る、ジャングルの中で沢村一樹が逃げるシーンはこうやって撮られたメイキングなんかもその類。あれも笑えた。
役者が、役者と分かる格好で出てこない! 田口浩正は長髪、大杉蓮も怪しい格好。かと思うと、郷ひろみが、郷ひろみ役で登場したり。平泉誠が22歳の新入社員としてでてきたり。エンドクレジットに宮崎美子がでてきたときは、「どこに?」と驚いてしまったよ。
沢村一樹も、コメディで威力を発揮するよな。「ショムニ」の警備員が忘れがたいのだが、最近は二枚目ばかり。やっば、この手のマヌケな二枚目をやらせると、並ぶものがないね。もちろん、生瀬勝久の爆発ぶりも最高潮。これでもかと言うほど多くの癖のある脇役を迎えて、豪華絢爛。真面目にバカをしちゃうもんね的な疾走感がたまらない。
なんと原作はNHKの番組なんだそうで。集められたギャグを磨き上げてシナリオにしているのかもね。時間と金をかけられる特殊法人だからね。
セイジ -陸の魚-3/6シネ・リーブル池袋1監督/伊勢谷友介脚本/龜石太夏匡、伊勢谷友介、石田基紀
重そうな内容を扱っているけれど、映像が表現にまで達していないので、底の浅さが見えてしまう。フォトジェニックなカットもあるけれど、それらが意味するものが不明だったりもする。伝えるべき部分を伝えず、中途半端に曖昧にしているのも、首をひねってしまうところ。それと、メッセージやテーマに関わることをセリフでべらべらしゃべってしまっちゃしょうがねえだろ、とも思う。モチーフはいいとして、いろいろと舌足らずな感じの映画。
allcinemaの荒筋は「バブルの熱気が冷めやらぬ20年前。あてのない自転車旅行に繰り出した青年は、ひょんなことから旧道沿いに佇む寂れたドライブイン“House475”で住み込みのバイトを始めることに。やがて、寡黙な雇われ店長のセイジやオーナーの翔子、個性豊かな常連客たちとの交流を深めていく青年だったが…」となっている。前半は、設定だけで話が全然進まない。それはそれで面白いのだけれど、それ以上のツッコミが期待するように発生してこない。
僕=森山未來から見たHouse475をめぐる人々ではあるが、裕木奈江の位置づけがテキトー過ぎ。彼女は店のオーナーで離婚してて子供もいるらしいが、毎日店にでるわけではない。家がどうなっているか、わからない。子供も登場しない。はじめのうち、りつ子が娘なのかと思っていたよ。それにしても裕木奈江は相変わらず素っ気ないセリフ廻しで、情感がこもっとらんなあ。幼顔のまま老けつつある。
りつ子は盲人・津川雅彦の孫だったのね。通り魔に殺されたのは、津川の息子夫婦ということか。しかし、その両親がほとんど登場しないので、殺害事件の被害者が誰なのか、はじめ分からなかった。で、振り返って思うに、店のイベントに津川と孫娘が遊びに来ていたが、あれはどうやってやってきてたんだ? 盲人なんだから、まさか歩きじゃないだろ。しかし、津川がHouse475とどういうつながりがあるのか知らんが、父親が津川と娘を店に連れていくって、ありかね?
酔っぱらい医者の存在も意味不明。妻がいないのかと思ったら、最後の方で電話で話していた。別れたわけではなさそう。入院でもしてるのか?
新井浩文がこわもて風で実はからきしという設定は面白かった。他の青年たちも、それなりに存在感はあったけれど、それだけのこと。映画のテーマに関わることがない。もったいないだろ。ちょっとは考えろよ、ってな気分になる。
で、そもそもの主人公=僕だけど、映画のサイトで見たら「広告代理店で仕事に追われる日常を送っている"僕"のもとに、ある一通の企画書が届く。それは、忘れていた20年前のあの夏を思い出させるものだった」とか書いてある。そんな描写、冒頭にあったっけ? その企画書を送ったのは、りつ子ってことかい? ふーん。「就職先を適当に決めて」という言い方が、鼻についた。テキトーに決められるぐらいデキル学生だったのかい? いくら就職バブル期といったってさあ。けっ。
で、かつてあるとき、House475が職を求めてやってきて居座った。それがセイジ。寡黙で暗くて得体が知れない。そういう存在を受け入れる店だというのはいいけど、フツーそんな男を、離婚したての女主人が雇うわけないだろ。近所の噂になっちまう。あんな山の中の店なんかにご近所さんが夜ごと訪れて賑わっているというのも変だし。あり得ない話、というのならいいんだけどね。そういうこっちゃないんだろ?
で、通り魔無差別殺人犯が現れている話がニュースとして登場するが、ここではひょっとしてセイジが? とミスリードさせるつもりなのだろうけど、露骨すぎて、それはないだろう、と思ってしまう。跳ねられて死んだ猪を持ち帰り、解体するシーンも、犯罪者への連想より、自然の恵みをありがたくいただく姿勢の方がつたわってきてしまう。
寡黙なセイジは、いっぽうで突然多弁になったりする。自然の生きものを救おう運動の男女がやってきたとき、滔滔と自説を述べる件は、セリフでメッセージを伝えすぎ。そこまで言葉にしなくても分かってくれる、はずだ。だって、男女は高級車に乗って、女は香水をつけてやってきてるんだろ。それだけでじゅうぶんじゃないか。
で、突然の無差別殺人犯の凶行。しかし、犯人のことはほとんど触れない。翌日だったか、自殺していた、と報道されるだけ。映画は被害者となったりつ子の両親、そして、片腕を奪われたりつ子に注目させようとする。でも、犯行に到る殺人者の軌跡や、犯行後の顛末も、人の生き死にに関係しているのだから、素っ気なく扱っちゃいかんと思う。まるで突然現れた書き割りのような人物にしか描いてないのは、中途半端すぎ。
でまあ、事件によって現実を受け止められなくなったりつ子に、周囲はあれこれ気を使うのだけれど、セイジだけはりつ子に会いに行けない。それはセイジの過去と関係する。両親の暴力が妹に向けられ「殺される」と思ったセイジは両親を殺害した(という設定は、わりかしありきたりだよな)。それで少年院に入り、出所後、どういう経緯かHouse475にやってきた。はたして裕木奈江はセイジの過去を知って受け入れたのか? 定かではない。が、妹はセイジが院に入っているときに死んでしまった。妹を救おうとして両親を殺害しながら、結局、妹を救えなかった絶望感。りつ子と妹が重なり、りつ子に会えなかったんだろう。
セイジはある意味で苦行僧だ。それも、達観できていない苦行僧。理由なき暴力がこの世には存在し、それから守ってくれる大人は少ない。まして、神仏など何の役にも立たない。そのことを象徴しているのが、津川が神社を壊すシーンだ。津川とりつ子はしょっちゅうお詣りしていた。けれど、神はりつ子を守ってくれなかった。善行を積んでも報われることもない。善人でも悲劇に出会う、ということなんだけど、露骨に見せすぎだろと思う。また、誰かがセイジのことを「海には住めない魚だ」という場面があったけれど、だからなに? という気分。飛べない鳥でも海中の猫でもいいってことかい? それとも、魚に何か意味があるのか?
さらに、両親の暴力から妹を守るための暴力は果たして正義なのか? 何が善で何が悪か、分からない、ということも語っている。善行が無為であったり、はたまた偽善になったりもする。自然の動物を守る会の2人に話した内容と通底するものがあるのだけれど、これも説明しすぎだと思う。
てなわけで、セイジはりつ子の前で自らの肉体(左腕)を切り離してまでも、他人である少女の心を取り戻そうとする。その鬼気迫るクライマックスは多少インパクトあるけれど、ひるがえって思うに腕を切ったからといってりつ子の放心状態がもどるという確証もないわけで、説得力もない。セイジが鉈を持った時点で、なんとなく予想もついてしまったし。まさに自己犠牲の苦行僧だけど、だからなに? という気もしてしまう。
で、僕は怖くなってHouse475を逃げだし、20年ぶりに再訪する。待っていたのは、りつ子だった。…という話。ううむ。それで終わっちゃうのかよ。その後の経緯も知りたいね。
セイジの腕は、くっついたかどうか。そのセイジはどうしたのか。裕木奈江は? 新井浩文たちは? いいオッサンになってるはずだけど、気になる。
20年後、僕がHouse475を訪れると、改装中? よく分からんが。現在店はやってない。その店先に、僕がかつて乗っていた自転車が、後ろにリヤカーをつけて置いてある。古びてなくてぴっかぴか。それはないだろ。
なんとなく「ゆれる」にテイストが似ている。けれど、あっちの、堪えきれないようなザワザワ感がこっちにはまるでない。
西島秀俊の腹の筋肉が割れているのが凄い。感動してしまった。その西島演じるセイジに、裕木奈江の体の奥が疼く感じがまったくでていない。セックスシーンもちゃち。おい。40過ぎてまだブリッ子やってんのかよ。潔く脱げ、裕木奈江。
フォトジェニックな構図や画調、イメージはたくさんあるんだけど、それがメッセージやテーマとそんなに連関してこない。もうちょいメタファーとしての映像の使い方を工夫した方がよいのではないだろうか。
私だけのハッピー・エンディング3/7ギンレイホール監督/ニコール・カッセル脚本/グレン・ウェルズ
原題は"A Little Bit of Heaven"で、主人公のマーリー(ケイト・ハドソン)を慰めにきた小人男のニックネーム、だったかな。ちょっとだけ天国気分、みたいな感じ? 分からん。
ケイト・ハドソンは「あの頃ペニー・レインと」のころは可愛いかな…と思っていたけど、最近はバカ面にしか見えない。年も感じるし。でも、そのせいでか「キラー・インサイド・ミー」のバカ女っぽい役ははまってるな、と思ったりしてる。ラブコメのヒロインじゃ、ないだろ、もう。
ギンレイでの併映は「50/50 フィフティ・フィフティ」。ガンを宣告され、主治医と恋愛という設定が同じなのでカップリングしたんだろうが、「50/50」と比べると雲泥の差。あっちは考えさせる部分がたくさんあるのに、こっちはほとんどない。余命わずか、という設定を軽んじているようにも思えてくる。
で。マーリーは広告会社のやり手プランナー? なのかな。恋愛も結婚もするつもりがなく、セックスフレンドは何人もいて呼びつける女王様。が、体調不良で医者に行ったら末期の大腸ガン。主治医のジュリアン(ガエル・ガルシア・ベルナル)はユダヤ系のメキシコ人でハンサムなんだけど、仕事一筋の堅物。それが、たまたまクラブで遭遇して意気投合…やがて恋愛に、というハーレクインみたいな話。
マーリーの友人たちの同情なんかも描かれているけど、ありきたり。同じアパートにゲイの黒人がいて、小人男も彼がマーリーを慰めようと送り込むんだけど、たんにそれだけの話。それに、ジュリアンがなぜマーリーに恋するようになるのかも不明。いや、そもそもあれだけ恋なんて、といっていたマーリーがジュリアンに惹かれていく理由も定かではない。それに、たくさんいたはずのセックスフレンドたちは、どうしたのだ?
ちょっと面白かったのは、天国の神さま(ウーピー・ゴールドバーグ)が「あんたは死ぬ。その代わり願い事を3つきいてやろう」といい、その3つが現実社会で聞き届けられるようになることぐらいかな。でも、そういうのって、よくあるパターンで新鮮味はないけどね。
マーリーの母がキャシー・ベイツだったり、役者は超豪華なんだけど、話に中身がないと辛いものがあるぜよ。
ヤング≒アダルト3/9新宿武蔵野館2監督/ジェイソン・ライトマン脚本/ディアブロ・コディ
「≒」は「ほぼ等しい」という意味のようだ。なんとなく分かってはいたけど、ね。原題は"Young Adult"。Wikipediaによれば発達心理学では「12歳から19歳までの若い大人という意味で、第二次世界大戦後アメリカの図書館界で使われだした」「自分は子供ではないと思い始めているが、周囲からは大人と認められない時期。思春期を過ごす年代で、自我の芽生え、進路の選択、大人や社会との葛藤がある時期」なんだと。また「英語圏においては児童文学と文学一般の間にyoung adultというカテゴリーを設けている。日本語で言うところのジュブナイルがこれに相当するが、ライトノベルをこれに含める見方もある」そうな。なるほど。
メイビス(シャーリーズ・セロン)37歳バツイチあり。ミネアポリスで1人暮らし。愛犬あり。ヤングアダルト本のライター。でも原作者としてクレジットされず、表2にかろうじて名前あり状態。現在はシリーズ最終編を執筆中だけど行き詰まっている。毎晩飲んだくれ。…というところに田舎の元カレから「子供が生まれた」のメール。で、突然、田舎に帰ることに決める。
帰る前に東洋系の知人と「こっちはあんなとこから飛び出してきたのよ。彼? その田舎でしょぼい仕事してるわ」みたいなことを話しているのだけれど、元カレに子供ができたという幸せに猛烈な嫉妬心を抱いたみたい。
まあ、大人になりきれていない女性の話なんだけど、その彼女がヤングアダルト向けの小説家だっていうのが露骨なアナロジー。しかも、住んでいるミネアポリスはミネソタ州の郡都で州最大の都市だというが、調べたら人口は38万人程度。州都セントポールと併せたミネアポリス・セントポール都市圏では330万人に人口になるらしく、ミニアップルと呼ばれているようだ。Big Apple= ニューヨークに対する呼称なんだろうけど、大都市扱いなんだな。
で、メイビスが中高〜大学時代の件の元カレ、バディに接近して、再びモノにしようとあれこれ行動を起こす。まるで他人のオモチャを欲しがるだだっ子みたいだ。大きな疑問は、なんでまた昔の彼を? なんだけど、それには解答がない。
解答らしきものはあるにはある。田舎を出る前に元カレの子を妊娠したんだけど流産。あの子が生きていれば自分にはハイティーンの子供がいたのよ! と人前で泣きながら告白するシーンがあるんだけど、そんなの少なからずある体験で、あの異常行動の原因とするには説得力がない。かえって、アホか、と思ってしまう。むしろ、そういう女だ、と理解した方がいいのかも。たんに嫉妬心が強いのか。はたまた、行き詰まっている小説を書くためのヒントを得るため故意にバカやっているのか。
始めのうちは、アホか、と思って見ていた。けれど、次第に、もしかして、もうそろそろ子供みたいな生活はやめて大人にならなくちゃいけないと気づき始め、過去=子供っぽさをふっきるための儀式の場所として田舎の元カレを選んだのではないのかな、と思うようになった。つまり、あれは自然ではなく、演じているのではないか、と。ダメな自分、子供っぽい自分を思いっきり出し切って、おさらばする。そういう意図があったんじゃないのかな、と。
しかし、田舎の高校のヒロインで、曲がりなりにも作家をやっていたりするのだから、そんな落ち込むことないのに、と思うんだけどね。やっぱ、ゴーストライターじゃ物足りないのか。もしかしたら、シリーズ最終編は、いろんなエピソードがてんこもりで、とてつもない傑作に仕上がるのかも知れない。
元カレを含め、多くの友人は夢を捨て、さっさと大人になってしまっている。まあ、それが田舎の生活だからね。でも、1人だけ子供のままのオッサンがいた。チビでデブで、ホモと間違えられ同級生にボコボコにされ、松葉杖なしに歩けなくなったマット(パットン・オズワルド)だ。メイビスの隣のロッカーを使っていながら、メイビスは彼の存在をあまり知らなかった。一方は学校のヒロイン、もう一方はいじめられっ子。その2人が、ともに大人になれないままでいるのが象徴的だ。つまり、マットが外見的に障碍者なんだけど、メイビスは内面的な障碍者、ということを示唆している。久しぶりに再会して、2人が意気投合してしまうのも、当然なのかも知れない。勢いでセックスまでしちゃうし。
んなわけで、1人で勝手に騒動を起こし、1人でミネアポリスに帰っていく。きっとメイビスはこれで立派になって、少しはまともな小説が書けるようになるのかもね。
それにしても、昔は10代で子供にサヨナラしてたのに。その典型例が「アメリカン・グラフィティ」だったわけだ。あっちはプロムの当日で、その翌日からみな大人になっていった。それが、昨今では卒業して40近くなっても子供のまんま、ってなことがアメリカでもあるのだね。
しっかし、アメリカのど田舎には住みたくないね。あんな陰湿な土地柄なのに、マットは地元から離れようとしない。離れられないのかも知れないけど、自分をいじめ、片輪にした相手としょっちゅう会うだろうに。そんなところに住みつづけるんて…。
メイビスの愛車は、ミニ。あの「ミニミニ大作戦」を思い出させる演出だね。
メイビスの化粧七変化も面白い。元カレと会ったりするときは、時間をかけて念入りに化粧をする。化粧で女は変わる、を見せてくれる。で、一夜明けると普段着のだぶだぶジーンズに。この落差がまたカッコイイのだシャーリーズ・セロン。カラダはでかいけど。
SHAME -シェイム-3/13シネマスクエアとうきゅう監督/スティーヴ・マックィーン脚本/スティーヴ・マックィーン、アビ・モーガン
原題は"Shame"。「はじらい」「羞恥心」なんて意味だが、この映画のどこがそうなんだか、よく分からんよ。
毎晩のように取っ替え引っ替え商売女を家に呼びSEX。電車内では視姦。ネットではAV本番視聴。会社のトイレでオナニー。会社のPCにもエロ画像が満載…ブランドンの生活にはSEXしかないみたい。で、ハンサム。会社の上司と飲みに行って、上司が軟派して失敗した相手に誘われて、道かげでSEXしちゃったりする。こういう行きずりのSEXは燃えるらしい。ごく普通の女性に対して自分からアプローチすることはないんだけど、女性一般からは「いい男ね」と思われるやつなんだから、羨ましい。しかし、玄人相手で毎日出しているのに、それでもオナニーするか。そんなにたまるのか。そんなに強いのか? 多くの女性としたい、エロ画像みたい、オナニーする、は男性の生理的欲望だから異常とはいえない。けれど、商売女としかやりたがらない、っていうのは少し変かも。
そんなブランドンには奔放な妹がいて、金と住まいに困っている。毎日のように電話がかかってくるけど、ブランドンは無視。で、あるとき帰ると勝手に部屋に入り込んでいる。しかたなくソファで寝てもいい、と許可するのだけれど・・・。
妹のシシー(キャリー・マリガン)は歌手。バーで歌うから、とブランドンは上司と聞きに行くが、その帰りにシシーと上司はタクシーの中で猛烈キス。家に戻ると2人は寝室にこもってしまったので、自分は深夜のジョギングにでかける…。以降、シシーは上司に電話攻撃してるが、上司には妻も子もいる。「それがわかって寝たんだろ」といっても「そんなのわかんなーい」なんていってる。というシシーはリストカットの常連。ま、そういう妹だから、面倒を見るのがやなのかも。
てなところで、ブランドンが会社の同僚の黒人女性をデートに誘い、後日、SEXに及ぶが立たず。って、おいおい。玄人相手にはビンビンなのに、素人相手にごく当たり前のSEXじゃ立たないのか? しかも、その苦悩をいやすため出かけた先は、ホモの巣窟みたいなところ。ここで男にフェラしてもらって興奮している。かと思うと、玄人女と3Pしまくったりもしている。さらに、バーで近くにいた女性にしゃべりでくどいて立ち止まらせ、スカートの中に手を突っ込んで、イカせてしまう。というところに女性の亭主がやってくるんだけど、その亭主に自分がしたことをあけすけにしゃべり、店を出てからボコボコにされたりする。ううむ。自暴自棄か。
その前だったか後だったか。シシーに電話しても出ないので心配して行ってみると、またしてもリストカット。死にはしなかったけど、死にたい願望、あるいは、構ってもらいたい願望のシグナルなのか。…しかし、同僚の黒人女性に立たなかったあたりまでは、なんとか物語して見られたけど、以降はだらだらになっていくばかりで退屈。濃厚なSEXシーンもあるんだけどねちっこくなくて、カット割りも激しすぎ。もうちょい粘っこくてイヤらしくてもいいんじゃないかと思うんだが…。ってか、だんだん、この映画、何をいいたいのか分からなくなってきて、寝そうになった。
最後は、またもや電車内。冒頭では雑踏に消えた女性が、今度は、ちゃんと相手してくれそうな雰囲気だ…てなところで終わる。だからなんだよ! ううむ。性欲過剰でアブノーマルなSEXが好きな男の日常生活を見ても、あんまり面白いものではないことが分かったよ。
キャリー・マリガンが出演するので清楚な役かと思ったら、心が病んだ寂しがりやで前後の見境のない奔放な行動をするやっかい娘の役だった。しかも、誰かに部屋に侵入された、と思ったブランドンが浴室をガバッと開けると、シシーは入浴中。で、鏡に映ったキャリー・マリガンの裸体がさらけ出されるのだ。げ。髪は金髪だけど陰毛は黒ってことは染めているってことか。少し三段腹っぽくて、全体にぷにぷにしてたな。ううむ。
しかしこの映画、ぼかしの基準がよく分からん。最初の、娼婦とSEX後のブランドンのシルエットにはペニスがはっきり見えているのにボカシなし。でも、娼婦の陰毛にはボカシあり。キャリー・マリガンの陰毛ははっきり見えているけど、あれはSEXシーンではないから? それとも鏡に映ったものは二次的なものだからいいとか? で、ブランドンのペニスも光が当たっている場合はボカシ。うーむ。よくわからん。
ときどき長まわしがあるんだけど、どういう意味があるのかね。効果がある長まわしは、キャリー・マリガンがバーで歌う「ニューヨーク、ニューヨーク」のシーンで一曲全部歌わせているのが、なかなかよかった。伴奏もほとんどなく歌いきっている。あれは吹き替え? 本人?
朝日新聞に沢木耕太郎の映画評が載っていた。「セックスに「依存」することの虚しさを描いた作品ではない。むしろ肉親というものを持ってしまったことの哀しさを描いた作品なのだ」「妹は兄に「依存」し、兄も妹を切り捨てられない」「子供時分に負ってしまった共通の傷があるのではないかと思わせるものがあるが、監督のスティーブ・マックィーンは賢明にも最後までそれを明らかにしない」「少なくともブランドンに欠落感が存在することは間違いない。欠落を埋めるためのセックス。あるいは欠落があるということを忘れるためのセックス。しかし、埋め切ることもできず、忘れ去ることもできない」「欠落とは何なのか、最後までわからないまま、こちらには、ただひりひりとした欠落感だけが伝わってくる」「官能的であることをやめたセックスは、ほとんど修行僧が自らを罰するためにおこなう「行」のように映る」てなことが書いてあって、一里ある気はするのだけれど、そんなたいそうなものか、という気がする。共通の傷があるのなら、それはもう少し感じさせてくれないと、ああ、なるほど、にはならんよな。ブランドンと妹は、アイルランドからやってきた、とあった。もしかしたらIRAがらみであるとか、そういうのがあるなら、描いても別に問題ないと思うんだがね。
シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム3/14上野東急2監督/ガイ・リッチー脚本/マイケル・マローニー、キーラン・マローニー
原題は"Sherlock Holmes: A Game of Shadows"。シリーズの第2作なんだが、もうモリアーティ教授が登場してしまう。早すぎないか。で、たぶん前作も途中でうとうとしたので、今回も…と思っていたら、その通り、汽車から逃げる辺りでうとっ、として、気づいたらジプシー集団のなかにいた。あと、最後の盛り上がり、滝壺のある屋敷でのホームズとモリアーティ教授との対決が始まる辺りで少し気を失ってしまった。
要は、考えさせる部分があまりないってことなんだけどね。アクションなんかなくてもいいし、CGの街並みなんかも要らない。事件があって謎があり、その謎が少しずつ解き明かされる、あるいは、危機が迫る…なんていう物語であれば、十分に耐えられる。たとえば「ドラゴン・タトゥーの女」なんか、そんなに派手じゃないのにヒキは十分なわけだ。でも、このシリーズはこけおどしばかりで中味がからっきし。これじゃ、緊張感が保てない。そもそも、ホームズとワトソンは、誰に頼まれて何を追っているのだ? ぜーんぜん分からないまま時間だけが過ぎていく。途中からもう、どうでもいい気分になっちゃったね。
最初から、よく分からない。アイリーン(レイチェル・マクアダムス)が何か荷物を運んでる。中国人に化けたホームズがホームズが近づく。アイリーンの護衛の男が現れ、ホームズを囲む。そのすきにアイリーンはオークション会場に行く。老人に荷物(金のつもり?)を渡す。が、中味は時限爆弾。あわや爆発、というとき護衛をやっつけたホームズが現れ、爆発を回避。ついでに、老人がアイリーンに渡した手紙も失敬する。ドジを踏んだアイリーンはモリアーティ教授に報告するが、毒を飲まされる…。で、以降の話の展開は、正直にいってなにがなにやら分からない。何を追ってるのか、何から逃げているのか。分からない。ジプシーのシムがどう関わっているのか? マイクロフトは、どこまで弟ホームズと連携しているのか? なんてことも分かりにくい。じっくり見ていれば分かるのかも知れないけど、こんな映画、そんなマジに見てらんないよな。
それに、背後にいる敵はモリアーティ教授だ、って分かってるんだから。なのにモリアーティはフツーに大学で教鞭を執っていたりして、そんな悪に見えなかったりして・・・。最後、モリアーティの悪が暴かれて、それが銃や大砲などの密売だと分かっても、ふーん、てな感じ。つまらにアクションやCGにリキ入れてないで、話をカチッとつくってくれた方が面白くなると思うんだが…。
ホームズの推理、あるいは、対決するときの相手の行動の予測、がスローででるのは前回と同じだけど、今回はその数がずいぶんと多かった。前回人気だったから、おまけしたのかな?
レイチェル・マクアダムス。よろっと倒れて、モリアーティ教授に囚われの身? 後からでてきて丁々発止、と思ったらでてこない。あれで死んじゃったのか? 呆気なさいすぎるだろ? ワトソンの結婚も、唐突。新婦はオバサン顔で、どうやって出会ったんだ?
監督/●脚本/●
ホームページで見つけた解説は以下の通り。
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今年で12回目を迎える「ショートピース!仙台短篇映画祭」が本年も9月15日〜17日に開催されることが決定した。昨年は3月11日の東日本大震災の影響を受け、それまでの開催場所でもあった仙台メディアテークが被災し、開催が危ぶまれた頃、これまで参加した監督たちから「仙台のために何かできないか」という声が上がりました。その声を受けて映画祭側から各監督たちに「映画祭がやりたい、映画を作ってほしい」と連絡をしたところ、41人が作品制作の形でそれに応えてくれた。
3分11秒という制約の中で、それぞれが3月11日以降の自身と対峙し、葛藤を経て作られたオムニバス作品。監督たちは、あの日から何を思い、映画というフィルターを通してどんな「明日」を見せてくれたのか。昨年の9月17日の映画祭でお披露目され、各映画祭に招待されてきたこの作品がいよいよ劇場にてロードショー。3月10日からキネカ大森、ブリリアショートショートシアターにて期間限定で公開後、ポレポレ東中野とトリウッドで3月31日より同時スタート、トリウッドでは既に2ヶ月以上のロングランが決定している。
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・阿部理沙『ひとりの父』
オヤジが犬の散歩に行くだけの話。高校映研レベル。画質が極めて悪い。
・生田尚久『C e l l 』
同棲中の彼女が殺され(理由分からず)、首をつろうとする話。だから何!
・井上剛『あたらしい日常』
結婚して福島に住む、といってる若夫婦の話か。たんにそれだけ。
・今泉力哉『Mother Said. I sing. Wife Listen.』
ジジイが娘(げ。解説見たら夫婦らしい)の前でギターを弾く。たんにそれだけ。
・入江悠『Never Give Up by MC TOM(SR サイタマノラッパー)』
ラップでメッセージ。なで肩+腕のアクションがふにゃふにゃしてて、力強さが感じられない。
・ウイスット・ポンニミット『明日』
なんか、ほとんど覚えてない。解説読んでも記憶が甦らないけど、コママンガで表現するやつか?
・岡田まり『バースデー』
彼氏に振られた娘の誕生日。首つりしようとしたら、バースデーケーキから娘たちが飛び出してきて…というやつか。
・甲斐田祐輔『夏の視界』
失踪して5年間音信不通の友だちと遭遇した、という話。それだけ。 ・片岡翔『超スーパーギガゴーレムSV プラス超リーサルウエポンアンドギガ』
段ボール製のロボットに子供が入って戦うという話。ううむ。
・加藤直輝『Echo Never Goes out』
思い出せない…。
・河瀬直美『わすれなぐ』
水族館、夏の山、子供、ジイさんなんかがでてくるやつだっけ?
・境千彗子『夜は明ける』
雨の中を女がうろうろするやつか?
・佐々木健太『パスポート』
どんなんだっけ?
・佐藤央『2011/194』
御茶ノ水駅の電車の動きに、「東京物語」の、アパートでの原節子と笠智衆との会話。「買いかぶりですわ。わたし、忘れてしまう日もあるんですの」とか。これが、なかなか合ってるんだよなあ。
・佐藤良祐『Carnival』
青年たちが夜の街をさっさか走るやつだっけ?
・塩田明彦『世界』
知り合いの映画監督が死んだとかで、彼が撮っていた森鴎外のビデオをモニタに映し出していく…とかいうやつか。墓の中から森鴎外がでてきて、舞姫?とバトルする…ううむ。
・志子田勇『測量技師たち』
被災地を淡々と測量する男たち。復興の青図が描かれていく…みたいなの。切り口は面白いけど、建築屋が乗り込んできて、被災者の意見も聞かず、自分らの思惑や名誉のために勝手にプランを立てていく、みたいに見えてしまって、どうもなあ。
・篠原哲雄『柔らかい土』
会社で冷たくされたと思い込み、出社拒否する女性事務員。そこに、福島の土と苗が送られてきた。コスモスが咲いた。彼女は、再び会社に出かけられるようになる。という話。露骨な譬え話だな。
・鈴木太一『ベージュ』
ティッシュ配りの女に「なんで俺にくれないんだ」と青年が文句をいう。さらに「下着は何色?」「ベージュ」「そんなんじゃだめだ。ホントは青いパンティがはきたいんだろ」「いいえ、ベージュ」「だったら、ベージュの下着が着たいと叫べ」とかいって、新宿の路上で叫ぶという、ヘンテコな話。
・鈴木卓爾『駄洒落が目に沁みる』
電気が失われた世界で、自転車を漕ぎ電気をつくる。ダジャレをいいつつ、妙な小屋で人々がたむろする。…雰囲気はデジャビュだけど、バカらしくて面白かった。
・瀬田なつき『Humming』
自転車で走る少年が、感じる誰か。その誰かは街を歩いている。サンダルが脱げる。少年が気づく。でも、見えない・・・。感じる何か。みたいな感じの一瞬を切り取ったもの。 ・タカハタ秀太『びんた』
松尾貴史が有名人に化けて、時事ネタを…。そこに少女が現れて、やなやつにビンタ! という物語。この映画でいちばんウケたかも、
・田中博之『駆ける愛×YOU 欠ける彼 架ける明日』
橋の上を走ったりするような話だっけ? ほとんど覚えてない。
・田中洋一『10.19』
近鉄バッファローズファンの青年?の話だったか。ううむ。
・田中要次『蝶蜻蛉は虹の夢を見る』
セリフを覚えなくてもいい、って言われたから覚えていかなかったら、先輩役者(大杉蓮)に叱られる役者(田中要次)の話。大杉と田中がでてくるのって、韓国らしいんだが、あれは何かのついでに撮ったのかな?
・田平衛史『我が家のなす模様』
帰省した青年。迎える姉は脳天気。「茄子食べるか」「要らない」「お茶」「要らない」といいつつ、お茶を飲むと、なぜかホッとする青年。みたいな感じ。いい味がでていた。
・遠竹真寛『春江』
ああ。婆さんが化粧をして墓参りに行く話か。死んだ亭主か?
・冨永昌敬『妻、一瞬の帰還』『武闘派野郎』
映画監督のところに、分裂症の妻が帰ってくるのだが、合った途端嫉妬の炎を燃やす。で「私、まだダメ。帰る」と病院に戻っていく話。つづいて、その映画監督のところに妻の友人の女性が、彼氏とともにやってくる。「自分を使ってくれ」というわりに、態度のでかい彼氏だった、という話。おかしい。
・外山光男『手』
ああ。クレパスで描いたみたいなアニメか。ほとんど記憶にないな。
・内藤瑛亮『廃棄少女』
防護服の娘相手に、何人かの少女が闘いを挑む…って、あくしょんはさておき、よく意味が分からんよ。
・中野裕之『明日』
これって、あれか? 科学解説ビデオみたいなやつか? 中途半端なイメージ映像が多いので、この手の内容がとても新鮮に見えたよ。
・朴美和『ちょうちょ』
少女が木の幹に手で影絵をするやつね。ううむ。
・濱口竜介『明日のキス』
彼女の部屋に、男がいる。どうも、別の男を部屋に入れていた形跡がある。問い詰めると、経緯を説明する女。むかつきつつ、彼女にキスをしようとすると、断られる。「今日は気分じゃないの。明日ね」と。ううむ。よく分からん。
・日原進太郎『アイツがやって来る』
娘が結婚相手を連れてくるという。むかつく父親。もうそろそろ、というとき、地震発生。娘に連絡するが電話に出ない。心配な両親。深夜、泥だらけの2人が到着すると、父親は2人は「よかった。いらっしゃい」と泣きながら抱きしめる、というアホな話。
・日向朝子『一枚の履歴書』
友だちに誘われて、女子高生がバイトをすることにした。マックで履歴書を書いていたら、友だちが「両親が離婚するから、名字が変わるかも知れない」と。友だちが告白してくれたことに感動する女子高生だった! という、ストレートにほのぼの。他のひねくれた作品の中で、公共広告機構のCFみたいに、すがすがしく見えてしまった。相対論だけど。
・平林勇『Matou』
どんなんだっけ。覚えてないなあ。
・堀江慶『3・12』
地震が発生したから演劇の公演をやめるべきか、なんて話す話か。記憶に残らなかったな。
・真利子哲也『スポーツマン』
受け身ができなくて先輩に叱られてばかりの新人レスラー。なのに、本番では威力を発揮して勝ってしまう話。ううむ…。 ・守屋文雄『ダーンポンビャ』
どんな話か記憶にない。もしかして、砂の上に横になって…とかだっけ?
・山下敦弘(真夜中の子供シアター)『無事なる三匹』
海岸。2人の青年が「あの女がいい」「あいつは誰とでもやる」なんて話していると、もう1人やってくる。「やってきたのか?」といわれ、3人目が指を差し出す。「くせっ」「俺の肛門に差したから」なんていって、3人目が2人に指を向けると、逃げる2人…。エンドクレジットを見て、なるほどと合点。山下敦弘の雰囲気、世界だ。
・和島香太郎『WAV』
イルカの声みたいなのが聞こえた青年が、その音を掲示板に貼り付ける。「私も聞こえた」という反応が…。で、クジラが大量死、とかいう新聞記事が映し出される。
※上映はあいうえお順
てなわけで、寝るかと思ったら寝なかった。けど、半分ぐらいはなくてもいいようなシロモノ。せめて2/3の27、8本にして、90分ぐらいのオムニバスにしてくれたらよかったと思う。箸にも棒にも、レベルが混じってるのは、やっぱり辛い。
メランコリア3/19新宿武蔵野館2監督/ラース・フォン・トリアー脚本/ラース・フォン・トリアー
デンマーク/スウェーデン/フランス/ドイツ映画。原題は"Melancholia"。監督は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」「ドッグヴィル」「アンチクライスト」など、神と不条理についてしつこく描いてきた人だ。予告編では、地球に惑星が接近して衝突…? というものだったけれど、まったくその通りの話で、それ以上のものはなかった。とはいっても、2時間余りをどうやってもたせるのか? と思っていたら、前半はだらだらと結婚式。後半は不安と恐怖と受け入れが描かれる。たんにそれだけ。こりゃ、寝ちゃうかも、と事前に昼寝して4時20分の回に行ったので、かろうじて寝なかったが、飯の後ならかなりの確率で熟睡かも。
冒頭、宏壮な邸宅と整然と並んだ樹木が映る。その樹木の影が、2つになる。ちかづく星(?)を示唆しているのか。「去年マリエンバートで」を連想させる。そして、いくつかの絵画が登場。ブリューゲルの「雪中の狩人」が、燃える。主人公のジャスティン(キルステン・ダンスト)が花嫁姿で川を流れるのは、ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」そのもの。他にもいくつか絵画がでてきたな。忘れた。で、題名の「メランコリア」はデューラーの有名な版画にある。西洋絵画に詳しくないので、それぞれのメタファが具体的に何なのかは知らない。けれど、理詰めで存在している映画であることは明らか。という時点で、偉そうな雰囲気だな。
つづいて、これから起こるであろう悲劇のいくつかの場面を、超スローモーションで数カット見せる。とても絵画的なイメージではあるけれど、ほんらいはあっという間の出来事を、時間の流れを引き伸ばしてみせることにどういう意味があるんだろう?
てなわけで始まる第1部は「ジャスティン」。花嫁のジャスティンは、花婿のマイケルとリムジンで姉夫婦の大邸宅へ向かっている。大幅な遅刻。で、始まる結婚式。ジャスティンはコピーライター。企画が進行中で、上司は気の利いたキャッチを期待している。マイケルはしょっちゅうキスしていて相思相愛かと思いきや、ジャスティンの素行が怪しくなる。ひとりで外出したり風呂に入ったりあれやこれや。上司はジャスティンのひらめきを期待して、自分の甥で自社の社員になった青年に「ジャスティンにはりつけ。言葉を聞き逃すな」と命ずる。ジャスティンは、その青年と野外でセックスしたりする。で、披露宴が終わって初夜。マイケルがズボンを脱いで迫ろうとするが、ジャスティンは拒否。で、結婚そのものをチャラにしてしまう。
要するに、ジャスティンは結婚に乗り気じゃなかった、と。それでいやいやをしていた、ってことか? 何に憂鬱になっていたのか、それもよくわからない。ジャスティンは上司に「あんな広告、ゼロよ。意味ない。あんたもnothingよ!」と言い返し、せっかくアートディレクターにしてもらったのに、首になってしまう。上司は怒って帰ってしまう。すべては、近づいてくる星のせいなのか?
ジャスティンの母(シャーロット・ランプリング)も結婚式に出席しているけれど、どうやら無神論者で超合理主義者。「結婚式なんてアホらしい」といって、周囲を困らせる。別れた夫(ジャスティンの父親)は、複数のベティを侍らせているのだけれど、あれは意味があるのか? そういえばあの2人、神父による結婚式の誓いはしてないのかな?
などと、いろいろ読みはできるけれど、要するに前半は、本来なら幸せの始まりである結婚式に憂鬱を覚え、一切を捨ててしまうジャスティンという女性の話である。
後半は「クレア」。ジャスティンの姉クレア(シャルロット・ゲンズブール)の話。まず、疲弊して何もする気の起きなくなったジャスティンが、姉夫婦の屋敷にやってくる。姉の夫ジョン(キーファー・サザーランド)は、「星は近づいてきているけど、学者が衝突しないといっている」と楽天的。妻のクレアも、ほぼ同様。で、最大接近する予定の日を超えて、いったんは遠ざかったに見える星がまた接近していると分かる。それを知ったジョンはさっさと自殺してしまう。クレアも動揺する。がしかし、ジャスティンは平穏。クレア、ジャスティン、クレアの息子の3人は、草原で手をつなぎ合って、そのときを迎える。星が炎となって接近する。で、終わり。
はっきりいって、ひねりがまったくない。意外な展開もない。予告本以上でも以下でもない。どこが面白いんだ? 前半で不安を抱えていたジャスティンが、後半落ち着いているのは、ロスの「死の瞬間」にある否認、怒り、取り引き、抑鬱、受容の「受容」の段階にきていたということなのか? と思った。いっぽうで、ショックを受け自殺したり、人の多い街へと逃げようとするクレアは、「怒り」「取り引き」の段階なのだろうか。ジャスティンのように早めに憂鬱を感じ取っていた方が、いざとなったとき腹がくくれる、ということなのかね。
というわけで、いろんな"読める"エレメントは豊富だけれど、だからなに? 的な気分になってしまう。
しかし、あんな大邸宅で暮らす一家の話なんてされても、話が遠すぎて面白くもない。むしろ、下界の一般市民の右往左往の方が興味がある。でも、そういうのはハリウッド映画に任せて、自分は形而上的な観念的なものを追求したんだろうけど、そんなのどーでもいい気がする。だって、彼らだけが人類を代表しているわけではないからね。
マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙3/23上野東急監督/フィリダ・ロイド脚本/アビ・モーガン
原題は"The Iron Lady"。いわゆる伝記なんだけど、ひねくれたつくりになってる。最初に、ミルクを買いに行くみすぼらしい老女がいて、だれも彼女をサッチャーと気づかない。げ。こんな生活してんの? と一瞬思ったけど、じつはそれは監視の目を盗んで抜けだしたからで、普段はちゃんとした生活をしているらしい。ちょっと痴呆が入っていて薬を処方されているのだけれど、飲まないと変になる(だっけ)みたい。
さらに不思議なことは、亭主のデニスと2人暮らしらしいのだが、しばらくしてそれはサッチャーの幻想だと知れる。デニスはすでに亡くなっているのだ。で、この映画の大きなテーマは、サッチャーを支えた亭主の存在で、出会いから以後の様子が延々登場し、果ては痴呆状態のサッチャーの支えとして幻影で登場する。…のだけれど、見終わってみれば亭主の存在ってなんだったの? としか思えないような描き方なのだ。ただ近くにいたオッサン的な扱いでしかない。あれだけフィーチャーしながら、ほとんど人間を描いていないというのも不思議だ。
映画は、現在から過去へと戻り、現在の時制と過去から現在に向かう経過が平行して描かれる、のだけれど。首相時代を描いているなかにデニスとの出会いのころの映像がインサートされたりする。はっきりいって、煩わしい。
現在→娘時代から現在へ。そして、冒頭の場面になって、以降の経過が…という、よくあるパターンで十分だったんじゃないのかね。むりに凝ったせいで、ぐちゃぐちゃになってる気がする。しかも、デニスは幻想として登場するし。そんなひねたつくりじゃなくて、もっとストレートでよかったと思うぞ。
でも、思うに。娘時代のサッチャー、政界進出の頃、デニスとの出会い、初当選…あたりの描写は面白かったし、ワクワクもした。でも、大臣の頃をちょっとやったら、次は党首で首相になっちまう。おいおい。早すぎないか? しかも、首相になるとIRAのテロ、組合のスト、フォークランド紛争など、難題が山のよう。この辺はニュース映像が使われているのだけれど、はっきりいって全然ワクワクできない。だって、サッチャーの決定は、そんな素晴らしいものではないのだもの。それに、この辺りから事実を並べるだけのものになってきて、ドラマがなくなってしまった。映像も断片的なので、正直いって面白くなかった。
なこともあって、実は1時間目ぐらいに眠くなって、数分間、ふっと沈没してしまった。
この映画で一番凄かったのは、サッチャーを演じたメリル・ストリープのメイクと演技だな。すっかり、なりきり状態で、似ているとかいうより、存在そのものがサッチャーになってしまっている。こんな感じだったな、って思うサッチャーは、映画の中にいる、みたいな錯覚に陥ってしまっている。それぐらい、そっくり。
首相時代のサッチャーは、国民の利益に反する政策を貫き通したんだなあ、と思った。そんな彼女も、痴呆状態で人前に出されたりするのが哀れ。それにしても、間近で同僚代議士が爆弾で吹っ飛ばされ、住まい(ホテル?)にまで爆弾がセットされてあわや、だったとは知らなんだ。子供をつくらない、てな政治家や文化人女性が多いなか、ちゃんと子供を産んだのはエライと思った。
あしたのパスタはアルデンテ3/26ギンレイシネマ監督/フェルザン・オズペテク脚本/フェルザン・オズペテク
原題は"Mine vaganti"。イタリア映画。google翻訳だと「緩い大砲」となるんだが、それでいいのか?
冒頭から逃げる花嫁。ミステリアスだけれど、この過去のイメージが全編にわたって、ときどきインサートされる。これは主人公の祖母の恋愛と結婚の顛末で、結婚相手の弟の方を好きだったけど、結ばれなかった、という逸話。これによって、祖母は"爆弾"と呼ばれることになったらしい。で、ある家に家族らしいのがどんどん集まってきて食事をする。なぜ集まっているのか、よく分からない。ブルネッティ家と食事をするため? それだけではなさそうだよなあ。さらに、はっきりいって、誰が誰やらさっぱり分からない。主人公トマーゾと兄アントニオ、父親はわかった。姉妹の亭主がいるのもわかった。姉妹なのかと思っていたら母親だったり、母親かと思ったら祖母だったり、関係性が分かりづらい。姉(おしゃべりな亭主の妻)は少しして分かったけれど、ずっと分からなかったのはメガネに青い服の女性で、これは後半になって叔母(父の妹)と分かった。外にも、「ブルネッティと会う」というから誰なのかと思っていたら、しばらくして、会社の合併相手だったとようやく分かった。最終的には分かるんだけど、このあたりがテキトーというか、説明なしに(ちゃんと見て聞いていれば分かるのかも知れないけどね)どんどん進むので、ちょっとイラッときた。
それでも、イタリア料理店のサクセスストーリーかと思っていたら、なんと、パスタ工場の御曹司がゲイだったという話を、イタリア映画らしからぬ抑制の効いた笑いで見せていくコメディで、内容はとても興味深かった。
トマーゾは、ゲイであること家族に隠している。大学も、文学部なのに経営学部と偽ってる。本人は作家になりたいと思っている。このままでは、合併新会社の役員にされてしまう…。この際、みんなの前でカミングアウトしよう、と兄のアントニオに相談する。で、全員で食事中に発言しようとしたら、なんとアントニオが「私はゲイ」と告白。タイミングを奪われ、トマーゾは呆気。両親は怒ってアントニオに勘当を告げる。父親は心筋梗塞も! あわれ、トマーゾはブルネッティの娘アルバ(ニコール・グリマウド)と2人、会社の経営を見ることになる。
というわけで、言いだしかねているところに、パリからトマーゾのゲイ友と彼氏がやってきたり。態度のでかい女中2人が笑わせてくれたり。行かず後家(?)の叔母の、深夜の「ドロボー」事件があったり。あれやこれや、イタリア映画らしからぬ、大騒ぎしない洒落たコメディでくすくす笑わせてくれる。地味、だと思う。だって、話はシリアスなのに、うっすらと笑いがのっている感じなんだから。でも、その抑制の効いた演出が、なかなか見事。ではあるのだけれど、いろいろと中途半端でもある。たとえばアルバ役のニコール・グリマウドの造形的にしびれるぐらいに美しい理由はなんなのだ? っていうか、アルバはトマーゾがゲイと知りつつ好意を抱く理由がよく分からない。最初トマーゾが見かけたアルバは、誰かのクルマに釘で傷つけるような陰湿な女だった。だけど、会って話してみれば、友だちのいない心寂しい女だったりした。いったいアルバって、どういう女なのだ? なんか描き方が中途半端。というか、存在自体、必要とはとても言い難い。むしろ、あそこまで出番が多いなら、ゲイのトマーゾも惚れてしまう…ひと夜を過ごしてしまう、ぐらいにした方がよかないか? でないと、意味不明なままだと思う。
あとは、叔母のルチアーナか。兄と暮らしている(集まったからであって、本来は別に住んでいるのか?)という時点で行かず後家だけど、男に縁がないとかそういう描写はない。毎晩のように「泥棒が窓から逃げた!」と叫ぶのは、なぜなのだ? 自分のところにも男が通っている、ということを周囲にアピールしたいから? ううむ、よく分からん。
姉夫婦の亭主の方がお調子者でおかしい。あとは、お手伝いの2人の存在の圧倒的な強さはどうだ。
でまあ、ラスト近く。祖母が「ちょっとでかけようと思う」なんて言ったと思ったら、翌日、亡くなってしまう。おい。祖母は霊能者か? で、それをきっかけにアントニオが戻ってきて、葬儀に参列する。直前に「僕もゲイ」と告白していたトマーゾとともに、葬儀の列はつづく。のだけれど、いつしか若き日の祖母が列に混ざり込み、昔の参列者と現在の参列者が渾然一体になって祝祭はつづくなのだけれど、このあたりは「8 1/2」のエンディングのような大団円。父親もゲイの息子たちをなんとなく許したようなかたちになって終わる。のだけれど、それってあれかい? 祖母だって思い通りの人生を送れたわけじゃない。他のみんなも同じようなものなのだよ、というようなことを言いたいのか? だとしたら、底が浅すぎると思うんだけどなあ。って、別の解釈はあるのかな?
さすらいの女神(ディーバ)たち3/26ギンレイシネマ監督/マチュー・アマルリック脚本/マチュー・アマルリック、ラファエル・ヴァルブリュンヌ
原題は"Tourn?e"。フランス映画。google翻訳では「ツアー」という意味らしい。その意味通り、フランス国内を巡業するアメリカ人ストリッパー? あるいは半裸ショーの一団の話で、でも、その団長ジョアキムはフランス人というねじれた設定。半ばドキュメンタリータッチで、冒頭の楽屋のシーンはぶよぶよのカラダ、はみ出た腹の肉が醜いババア連中って感じ。もう時期を過ぎたオバサンの半裸ショーなんて、誰が見るんだ? と思いきや、各地で喝采を浴びているってのが最後まで解せなかった。
次第に分かってくるんだけど、ジョアキムは元はフランスのテレビ局かショーの世界かで活躍していたけれど、なにかしくじって追放され、それでアメリカに行ったみたい。パリを外したツアーなのは、そのせいなのかもね。
でも、某所でのショーの何かが30%じゃなくて20%だとかでジョアキムは怒りだし、ひとりで交渉に行くんだけど、あれはパリだったのか? まずは息子に会うんだけど、どうも変。あとから分かってくるのは、その息子は別れた妻と暮らしていて、いっときジョアキムと一緒に行動していただけなのか。1週間おきに元夫婦の間をいったりきたり、とかいうのではないのか? よく分からない。そんなで、昔の仲間にあったりするんだけど、かつて逆らった大御所みたいなのが出てきて、またまた簡単に突っ返されたり。芸能界はやだねー。
というわけで、ツアーから外れたり合流したりしつつ、うろうろ。最後の方は、両腕にめだつ刺青をしてるミミと一緒にクルマで移動したりするんだけど、途中でミミが「調子が悪い」とトイレへ行く。ミミがトイレからでてくると、今度はジョアキムもトイレへ行く。あれ、何だったんだ? 食あたり? よく分からない。そして、ラストは船に乗って島のリゾートホテルみたいなところへ行くんだけど、そこには他に誰もいないみたいなのに、バーから酒をもってきたりしてる。あれは何だったのだ?
という具合に、この映画は輪郭をすべて曖昧にし、はっきり語らないことを主義としている。だから、なあなあが嫌いな私のような観客には、いらいらいるところが多数で、ストンと腑に落ちにくい。もちろん描かないよさもあるんだろうけど、描かない理由も分からない。結局、分かったのは、いまはドサ回りなショーの親方の、底辺な生活の連続、ということだけなような気がする。
ツアーに加わってるダンサーがあまりにも生っぽいので、本物か? と調べたらやっぱりそうらしい。「披露されるセクシーでユーモラスなショーはキャバレーから発展したバーレスクの進化形“ニュー・バーレスク”と呼ばれるもので、登場する踊り子たちはヒロインのミミ・ル・ムーをはじめ全員が現役の“ニュー・バーレスク”ダンサー。また演技も未経験だったとのこと」とallcinemaにあった。なるほどね。
いちばん面白かったのは、ショーの翌日ミミだったかがスーパーで買い物してて、レジのオバサンに「昨日見たわよ」といわれ、近くにいたジョアキムを呼ぶシーン。レジのオバサン「私も踊るの、見てくれる」って、レジで脱ごうとするんだ。ジョアキムが制止すると急に逆上し、「何だよ! エラソーに!」なんて缶詰投げつけたりする! そういうオバサンって、いそうだよな。
それと、ジョアキムが成り行きで商品=ミミと寝てしまう件は、なんか少しよかった。
ピナ・バウシュ 夢の教室3/27ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/アン・リンセル脚本/---
原題は"Tanztr?ume"。ドイツ映画。「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」(2011)というのが公開中なので、便乗なのではないのか…。で、「夢の教室」(2010)の方が製作年は古いみたい。もっともピナ・バウシュ自身は2009年に他界しているのだが。そのあたりの関係は、よく分からない。
で、30人ぐらいの青少年が踊りを習って、発表することになった。その指導をピナ・バウシュがした、という話らしい。が、そもそもどういう経緯で青少年が集まったのか。誰が何を企画したところから始まったのか。なぜピナ・バウシュなのか。…といったことがほとんど紹介されない。いつのまにか青少年が稽古場にいて、習っている。2人の指導員の赤毛の方がピナ・バウシュかと思っていたら、ピナ・バウシュは途中から登場した。ある程度、青少年に教え込み、本番の舞台で誰を踊らせるか、をセレクトする時点でやっとご登場だ。赤毛の指導員と、そのアシスタントみたいな白髪の指導員は、ピナ・バウシュの弟子? なんなのだ? などとツッコミだすと、得体の知れない映画であることが見えてくる。
時間の経過も分かりにくい。途中で「毎土曜日」と字幕にあって、それでようやく、青少年の練習は週に1日とわかった。さらに、途中で長い休暇もあった模様。そして、全体では1年ぐらいかかっているような気配。その時間の流れがちっとも見えない。そんなことはお構いなしの編集が残念至極。
さて、青少年たちだけれど、腹の出た娘やデブもいる。チビもいる。なんだこれは、と見ていたけれど、目指す人たちではないのだな、とは途中で分かった。しかし、そういう青少年をなぜ指導するか、が分からなければ映画の意味はないはずだ。けれど、この映画はそういうつくりになってしまっている。また、最終的にスポットが当たるメンバーをはじめっからフィーチャーしているので、誰がメインの役を演じるのかな、と考える過程も要らなくなっている。それじゃ、つまんないじゃん。
もっとも目立っている、緑色のドレスの娘(手足が細くて長く、横顔の造形は美しいが、正面から見ると鼻っ柱が太かったりする。父親が事故死しているなんていう話が途中であったりしたけど、ドラマチックでないのが残念)なんか、はじめっからずっと緑色のドレスで、それって、結果が分かっていてそうしているのではないの? と勘ぐりたくなるような演出。他に、キキとか呼ばれるふっくらした娘。あと、そこそこ登場する娘に、クロエ・グレース・モレッツに似たのがいて、もっとちゃんと撮ってくれよ、なんて思いつつ見てた。少年も、メインは3人ぐらいで、なんかな。オーディションで選ばれる、というサクセス感がほとんどない。
演じる劇も、あとから解説を読めばピナ・バウシュの有名な出し物らしいけど、練習中も本番の舞台も断片的で、見どころがいまひとつ。最後の本番の舞台ぐらい、流れが分かるようなサワリを見せてくれたらな、と思ったりした。もっとも、その踊り自体が断片的なのかも知れないけどね。
この手のオーディションのサクセス物だと、悲哀がつきもの。でも、これには、さっぱりない。そもそも選ぶ、選ばれる、に主眼のない話だからなんだろうけど、やっぱそれじゃ面白みに欠ける。壁にぶちあたったり挫折したり、かろうじて生き残ったり、そんなエピソードがないと、ね。しかも、ピナ・バウシュの指導部分があまりないので、彼女の偉大さもあまり伝わってこない。むしろ、アシスタントの2人の指導員の存在の大きさが目立ってしまってると思うぞ。
マリリン 7日間の恋3/30ヒューマントラストシネマ渋谷監督/サイモン・カーティス脚本/エイドリアン・ホッジス
原題はかっこMy Week with Marilyn。イギリス映画。どこまで信憑性があるか知らないが、どうも実話らしい。
イギリスの大金持ちの息子、コリン・クラーク。親の勧める仕事を断り、なんとか映画界にもぐり込もうと企む。…のだけれど、誰かの事務所の待合室に毎日座りつづける、という手法で、おいおい、そんなん許されるのか? というようなやり口なのだ。で、その事務所でローレンス・オリビエとヴィヴィアン・リー夫妻と会い、でも既に知り合いだったみたいで、お茶汲みから仕事をもらう。さらに、オリビエがマリリンを招聘する企画があるとかで、イギリスの滞在先をうまくまとめたことが気に入られ、サードの助監督の座を射止める。…って過程が、実はあまりワクワクしない。だって結局は親の力を利用しているお坊ちゃん。そりゃないだろ、ってな気にもなる。それとも、昔は映画業界なんてだれも見向きもしないから、自由だったのかな?
で、この過程でいろんな人物がごちゃごちゃ登場して非常に分かりづらい。やっと分かったのはローレンス・オリビエとヴィヴィアン・リー、あとプロデューサーみたいなのが2人。あとのオッサンたちは、どういう人物だったのだ? ジュディ・デンチが演じるシビル・ソーンダイクって役者はどういう人? ドミニク・クーパーの演じたミルトン・グリーンって? そのあたりは、映画的知識がないと、おーっ、と驚けないのかも知れない。
で、あとはマリリンとアーサー・ミラーの来英、本読み、撮影開始…となるんだけど、マリリンはミシェル・ウィリアムズが演じる。多少似ていなくもないけれど、やはりまったく違う。エロさも頭悪そーな感じも、キュートな感じもまるででていない。ま、それを望む方がアホなんだけどね。10年後ぐらいには、CGマリリンと役者の共演も可能になってるかも知れないけどね。
本読みのときマリリンが「ミスター・サー」なんて呼ぶのは、サーを名前だと思っている、ってことかな? あれはマリリンのアホさを示すため? でも、マリリンはシナリオを読み込んでいるみたいだったし、なりきれないと(納得できないと)演技できない質だったみたいでもある。あのあたりは、どうなんだろうね。面白かったのは、コリンがシビルに椅子を勧めようとしたら、小道具係が怒るところ。むかしからそういうところ、あるんだね。
で最初、コリンは衣装係の娘にちょっかいだすんだけど、これが「ハリポタ」のエマ・ワトソンだった。彼女は蓮っ葉な大人になっちゃったなあ。主役クラスじゃ使いないかもね。それはさておいて、ローレンス・オリビエは監督としてマリリンを呼んだんだな。ってことが、やっと分かってきたりした。最初からちゃんと見れば分かるのかも知れないけど、テンポ早くて、よく分からなかったよ。でも、どういう意図、どういうつながりで呼んだんだろ。そういうの、描かれてたか?
ローレンス・オリビエの奥さんって、ヴィヴィアン・リーだったのか。ふーん。でも、演じる女優がなんか貧相じゃないか? その奥さんより、ローレンス・オリビエはマリリンに夢中…だったんだけど、セリフを覚えない、遅刻する、勝手に休む、演出通り演技しない…でいらだってくるのがおかしい。もうちょい、ローレンス・オリビエを描き込んでも面白くなったんじゃないのかな。
そんなマリリンは、次第にコリンがお気に入りになっていくんだけど、この映画では「とっちの味方なの?」とマリリンに問われ、「あなた」と言ったのが功を奏したかたちになってる。たったそれだけ? それだけであんなに好かれるの? それにしてもマリリンの奔放さは凄い。サード助監督の前で全裸でも平気だったり(それも私生活で)するのか…。でもそれって、コリンを大人扱い、人間扱いしてないってことじゃないのか?
でまあ、撮影がイヤだからってマリリンとコリンと、あれはマリリンのマネージャー? が3人でクルマで小旅行。ただし、1日なのか数日なのかよく分からないけど。一緒に全裸で泳いだり、エジンバラ宮殿(だったかな?)に連れていったり、コリンの母校イートン校に連れていったり、これも親の七光りのおかけだけど、たんなる貧乏人には真似のできないことばかり。ちぇっ。とは思うけど、まあ、清々しくもあったりして面白かった。
ミルトン・グリーンはコリンに「俺も10日間(だったかな?)べったりだったけど捨てられた」と言っていたけど、どの程度のつき合いだったんだろう? SEX込み? いやその、コリンともしたのかな? という疑問はあるよね。映画はぼやかしているけど。てなわけで、タイトルにもある通り、撮影が終わったら、マリリンは帰って行ってしまった。タイトルの1週間というのは、きっと小旅行の期間なんだろうな。でまあ、最後にマリリンが酒場にやってきてコリンにお別れをいうんだけど、酒場の亭主のびっくりしが顔はよかった。定番の演出だけど。
しかし、この映画って、マリリンの恋の遍歴とかアーサー・ミラーとの不仲とか、そういう歴史的事実を知っていればいるほど興味深く見られるのだろうな。という意味では、予習しておいた方がよかったのかも。…そのぐらいのこと、知っておけよ、ってなことになるのかも知れないけどね。

字幕が明朝体で、それも妙にバランスのぐずれた明朝体で、なんか読みにくかった。

 
 

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