2012年6月

星の旅人たち6/7ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/エミリオ・エステヴェス脚本/エミリオ・エステヴェス
原題は"The Way"。「サン・ジャックへの道」のリメイクかと思ったら別物らしい。でもパクリだよな。IMDbのポスターだってそっくり。中味は劣化コピー。たいした事件も起きずだらだらと。後半は眠くなった。
眼科医トム(マーティン・シーン)の息子ダニエル(エミリオ・エステヴェス)の訃報が届く。フランスからスペインへの巡礼の旅の1日目に、天候不順で遭難した、という。トムは渡仏するが、息子を火葬にして、息子がなし得なかった巡礼の旅に出る、という話。なんだけど、ダニエルはいい歳をして自分探しの真っ最中で、どうも医大の博士コースを辞めて世界旅行に旅立っていた、らしい。トムは休学を、といったのに、学校をやめてでかけている。で、行った先のアルバムがチラッと見えるのだけれど、唐招提寺の前にいるみたいな写真だったりする。セリフではインドや中東諸国の名前がでるけど、それ以外に日本にも来ている? というのは、ダニエルの遺品として残されているリュックに、なんと旭日旗が縫い付けられているのだ。…という背景を見て、ダニエルってアホなんじゃないかと思うわけだ。いまどき何が自分探し、世界旅行だ。設定では40歳ぐらいだろうか。そんな年まで、なんやってんだ? 女房子どももいないようだし。たしか一人息子。しかも、中東の旅よりはるかに楽な巡礼の初っぱなで死んじゃうなんて、マヌケじゃん。
であとは、カミサンにやせないとセックスは嫌だと言われているオランダ人のデブ男。娘に暴力をふるう亭主から逃れてきた(?)カナダ人女性。アイルランド人でスランプ中の雑文書き(なんか類型的な人物造形だよな)。の、4人でだらだら旅をつづける。主な事故は、リュックを川に落とし、自力で救出する。もうひとつは、ジプシーにリュックを盗まれる。ジプシー少年が盗み、4人で追いかけるんだけど、ある一角で見失う。トムは「一軒一軒訪問しよう」というが、デブと作家に「それはまずい」と言われあきらめる。…と、酒場に戻った一行のところに、くだんの泥棒少年の父親が息子を連れてやってきてリュックを返し謝らせるのだけれど、嘘っぽくてたまらなかった。ジプシーは泥棒というステレオタイプな描き方をしながら、良心的なジプシーもいる(かも知れない)とリカバーする。そんなんで心温まる物語をでっち上げようってのか? 安っぽすぎる。がっかりだ。
トムは、息子の遺灰をちょこちょことあっちこっちに撒きながら巡礼をつづけるのだけれど、ああいうのはオーケーなのか? 日本じゃ死体遺棄になるんじゃないのかね。で、つつがなく巡礼が終わり、証明書の名前を自分じゃなくて息子のダニエルのに描き直してもらって、息子と一緒に巡礼の旅を終えた、という満足感にひたるトム。さらに、ジプシーに言われた通り海岸線まで行って残りの遺灰をぶちまけるんだけど、おいおい、みんな撒いちゃうのか? 国には一切持ち帰らないのか? アメリカ人って、そういう感覚なのかね。国に墓標もつくらないのかな。
巡礼の途中、トムはしばしば息子の幻影を見る。でも、こういう手法ってありがちで、手垢が付きすぎてるよな。
興味深かったのは、スペインに入って、ある宿での話。巡礼者が何人かテーブルについて食事中なんだけど、カール大帝の事蹟についてフランス人巡礼者とスペイン人の宿のオヤジが言い争いになるんだよ。カール大帝の名前は知ってるけど、どんなことしたのか覚えてないので、ついていけなかった。ま、いずれ、歴史上の事柄について日本人と朝鮮半島の人との間で意見の食い違いが生じるのと同じようなことなんだろう。世界中、どこでも同じなんだな。
カナダ人女性が、トムの巡礼理由について「どーせジェームス・テイラーかなんか聞いてた口でしょ」みたいな言い方でバカにするんだけど、ジェームス・テイラーをよく知らんので団塊の代表みたいに言われてもピンとこなかった。
そういえば、冒頭でトムが診ていた、視力検査表を覚えてしまって、メガネを拒否する婆さんのエピソードや、ゴルフ仲間の話は、なにかのメタファーになってるのか? なってないように思うんだけど…。
巡礼の旅そのものについても、荷物が盗まれる話は描き込まれていたけど、その対策はどうするのかとか、洗濯物はいつ洗うのだ、とか、宿の予約はどうするんだ、とか、いろいろ知りたいこともあった。
捜査官X6/8シネマスクエアとうきゅう監督/ピーター・チャン脚本/オーブリー・ラム
原題は「武侠」。20世紀初頭の中国の山村。夫婦と幼い息子2人が食事している。なんと安らぐ光景だ。家の屋根の上には牛を飼い、洗濯場にはアヒルが飼われている。地場産業として紙漉が盛んで、家の主人ジンシーはその紙を家に貼る職人らしい。飯屋では肉片にぶんぶん蠅がたかっている。妻は、今晩使うのか、魚の浮き袋(コンドーム用)を洗っている。夫は「生臭いからいやだ。子供ができたらできたでいいよ」という。こうした描写の細かさに、これは面白いかも、と期待した。
この村に指名手配中の悪党2人組がやってきて、両替屋に押し込む。両替屋の夫婦が殴られている次の間で障子紙を貼っていたのが、ジンシー。ずっと怖がっているんだけど、なにせドニー・イェンが演じてるので実は達人というのが分かっちゃってる。でも、達人と分からないように、悪人の1人に組み付いたまま、相手の力を利用して2人を殺してしまう。アクションは悪くないけど、先が見える展開なのでぜんぜんワクワクしないのだ。
事件を調べに来た捜査官バイジュウ(金城武)は「なぜ素人が指名手配中の悪人を?」としつこく推理するんだけど、その推理が正しいのかどうかも、なんか曖昧。両替屋の女房が「見た」といってるのに、バイジュウが推理するその場面では、ジンシーは窓を閉め切ってしまうことになっている。ううむ。なんか納得がいかんなあ。
バイジュウの推理は、始めのうちは面白かったけど、その後が進まない。だらだらとしつこくジンシーに絡むあたりからは、はっきりいって退屈。しかも、途中で突然、殺人集団の七十二地刹とかなんとかいう存在が登場するんだけど、これが具体的に何だかよく分からない。まあ、ちょっとうとうとしつつあったので、見のがしたのかも知れないけど、だから何? 的な感じだ。
ジンシーは10年前に人を殺し、服役していた、と告白する。のだけれど、いまの女房とは5年前ぐらいに一緒になっている。女房には連れ子がいたけど、自分の子どもも産ませている。なのに、なんで魚の浮き袋のコンドーム? 女房はもう子どもをつくりたくなかったのか? なんてことを考えたり。でも、七十二地刹のメンバーだったら、どうなんだ? 七十二地刹は西夏で、反漢族みたいなことも言ってたけど、さらに分からなくなってくる。七十二地刹の連中は、どうやってジンシーの存在を知ったんだっけ? 朦朧としてて、記憶にないよ。それにしても、ジンシーはなんで七十二地刹を抜けたのだ? どうして七十二地刹はジンシーを復帰させようと、仲間の命を犠牲にしてまでもしつこく粘るのだ? 七十二地刹のボスの息子だから? なんか、よく分からない展開だなあ。
ジンシーが一家を惨殺した過去のイメージが盛んに出るんだけど、それがどう影響してるのか? はたまた、むかしバイジュウが盗人少年を見のがしてやったことがあったんだけど、少年は反省もせず両親とバイジュウに毒を盛った、という過去のイメージも出てくる。このエピソードは、何を告げようとしているのだ?
てなわけで、冒頭から悪漢退治あたりまではヒキがあったのに、以後、ずるずると分かりにくく、つまらなくなっていく。
最後は父親がやってきて、ジンシーを連れ戻すのは諦めたのか、息子を連れていこうとする。ジンシーは自分の腕を断ちきってそれを止めようとするのだけれど…どうなったんだっけ。ああ、思い出した。バイジュウがジンシーの父親の足の裏や首に針を打って成敗したんだっけかな。まったく武術はダメなバイジュウが、よくもまあ、だよな。まあ、その代わり、強盗少年にもられた毒で体が弱っていたので、バイジュウもそのまま死んでしまうんだったな。
で、最後は何事もなかったかのように、一家四人で食事をする風景で、冒頭と同じようにジンシーは障子張りの道具をもって出かけていく、というもの。えーっ? ジンシーのせいで村はムチャクチャにされたのに、同じようにに仕事があるのか? って誰だって思うよなあ。意外性も何もない、後半は強引にカンフーアクションにもって行くだけの映画だった。冒頭のいい感じが、ああもったいない。
バイジュウは盛んにもう一人の自分(ドッペルゲンガーか?)を見るんだけど、あれは死にゆく自分を見るもうひとりの自分と言うことなのかな…。わからん。
ジンシーの奥さんが、美人じゃないけど素朴な感じで、いい感じ。しかし、「捜査官X」って、どういう意味を含ませた題名なんだ?
人生はビギナーズ6/11ギンレイホール監督/マイク・ミルズ脚本/マイク・ミルズ
原題は単に"Beginners"。allcinemaの荒筋は「アートディレクターのオリヴァーは、愛に臆病な内向的で真面目な38歳独身男。ある日、44年連れ添った妻に先立たれ、自らもガンを宣告された父ハルから、ゲイであることを告白される。厳格だった父の突然のカミングアウトに戸惑いつつも、病に立ち向かいながら新たな人生を謳歌し始めた父と語り合い、少しずつ距離を縮めていくオリヴァー。やがて父との永遠の別れを経て、大いなる喪失感を抱えたままの彼の前に、フランス出身の女優アナが現われる。互いに人と距離を置きながら生きてきた似たもの同士の2人は、ほどなく恋に落ちるのだったが…」なんだけど、あまりピンとこなかった。背景があまり描かれず、人物の掘り下げも中途半端なのだよね。なぜオリヴァーは独身なんだ? 仕事も、クライアントのニーズに応えることなく、妙なメッセージを込めすぎて採用されなかったりしてる。そんなんで、なぜ首にならないのだ? そういうオリヴァーが、たまたま行ったパーティでアナに好かれてしまうのだ? さっぱり分からない。アナは役者で、アパートはN.Y.。仕事のときだけL.A.でホテル暮らしらしい。でも、どんな映画に出ているか分からないし、彼女の友人知人も登場しない。いったいアナはオリヴァーのどこが気に入り、つき合うようになり、セックスをし、オリヴァーの家で同居しようという気になったのだろう。オリヴァーは、38年間守ってきた臆病を、どうやって克服したというのだろう。さらに、やってきたと思ったら、あっという間にオリヴァーの家を出て行ってしまうアナ。なんで? こうした経緯が、たんに「そうなりました」という具合に羅列されるだけ。ドラマがない。苦悩も何もない。
父親は美術館長。母親は建築デザイナー。いうことない家庭じゃん。母親はすでになく、最近、その父親を失ったばかり。でも、彼自身38歳で、父親も70半ば。それで父親を失ったからといって、思い詰める必要はどこにもないだろ。では、そういう過去=少年時代があったのかというと、母親とのエピソードを見るとそうは見えない。なかなか気の利いた子どもで、母親が催眠術のふりをすると、上出来の演技力で眠ってみせる。撃たれたフリして死ぬのも上手。母親にはユーモアがあり、オリヴァーも負けず劣らずに見える。なのに、なんで? 父親は厳格だったとあるけど、近寄りがたいほどオソロシイ親父って訳でもなかったろ?
父親がゲイを告白したことがショック、とも見えない。むしろ、観客として驚いたのは、オリヴァーの母親は、相手(オリヴァーの父親)がゲイだと知っていて「私が直してあげる」といって結婚したこと。そして、父親は母親が死ぬまで、ゲイを行動に移すことがなかった、ってことだな。ひぇー! で、70過ぎて若い恋人を募集し、40歳ぐらいの相手を見つけ、同居までしちまった、ってことかな。でも、それでオリヴァーが傷ついたようにも見えない。
てなわけで、いろいろ要素は散りばめられているけれど、有機的に活かされているとは見えないところだ。ハーヴェイ・ミルクのことなど、ゲイに関することも登場するけど、ゲイの権利を云々のような政治的なメッセージはほとんどない(困ったことに、ハリウッドはゲイを扱う映画を評価しちゃうからな)。ずうっと淡々としていて、最後まで淡々としている。ハーヴェイは出ていったアナを追い、アナは戻ってくる。でも、それで上手く行くのかい?
タイトルのビギナーズ、はどういう意味なんだろう。父親を失うのは初めて、恋が初めて、同棲が初めて…そんなことなのか? でも、そんなの38歳の男だったらアホらしくて同情も共感もできっこない。ま、アナ役の、メラニー・ロランの造形的に美しい容姿を眺めるぐらいしか、することはなかった。
オープニングの「スター・ダスト」は、作曲家のホーギー・カーマイケル自身のやつかな?
メゾン ある娼館の記憶6/12ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/ベルトラン・ボネロ脚本/ベルトラン・ボネロ
原題は"L'Apollonide (Souvenirs de la maison close)"。フランス映画。1899〜1900年の娼館の様子を描くのだけれど、官能的・退廃的で妖しい雰囲気は突出していない。むしろ娼館の現実や下世話な日常を積み重ねていく。食事、ゲーム、ピクニック、洗濯、何気ない会話…。そこに、蠱惑的な世界はない。大きな事件もあるにはあるが、故意にドラマチックには描かない。抑制というより、流す感じ。全体的を通した起承転結のあるストーリーはないので平板というばそうなんだけど、個々のエピソードに興味深いものがあって飽きなかった。人物は、数人を除いて掘り下げが浅いので、ちょっと不満かな。
フランスの娼婦も、借金に縛られて嫌々というのが主流らしい。でも女衒に飼われて泣く泣く、という風でもないみたい。15歳の少女(ポーリーンだつたかな)が手紙で売り込んできて、数ヵ月後に娼婦になるのだけれど、あっけらかんとしたもの。「自立して自由が欲しかった」なんていって、女将に「自由はないよ」なんて言われていた。でも、彼女に借金はないわけで、いつでも辞められるのだろう。実際、後半では突然いなくなっていたが、別の娼館に行ったみたい。借金がなければ、自由はあったんだろうな。他の娼婦には借金があるみたいだけど、親の借金なのか、借金が増えるようなシステムになっているのかは、分からなかった。
マドレーヌという娼婦は、客の求めに応じてベッドに縛られ、挙げ句、口を切り裂かれる。のだけれど、徐々に危機が迫る描き方をせず、いきなり血だらけで叫ぶシーンで知らせる。その経緯は、一度にではなく、数回に分けて見せていく。だから、全然ドラマチックじゃない。敢えてしてるんだろうけど、どうなのかね。しかし、娼婦を切り裂く男というと、切り裂きジャックを連想してしまうね。
そのマドレーヌは事件後、笑う女と名付けられ、娼館で家事を行なうことになる。でも、傷のある彼女を指名する客もいるし、わざわざ見世物として派遣を依頼する客もいる。侏儒の女が、珍しそうにマドレーヌを見るのだけれど、フリークスにも階級があるのが興味深いね。人間の欲望、興味は尽きないのだね。医学も未熟で、それでも働かねばならぬ時代には、醜さもウリになったわけだ。身体を売るという意味では、相変わらず娼婦のままなんだよな。
アルジェリア人だっけ。色の黒い娘。あの子は料金高め、みたいなことを言っていた。フランス人よりも希少価値があるってことなのかね。陰毛を封筒に入れて客に配ったり、いろいろ工夫しているのは日本も同じなのか。なかには結構なデブもいて、あれも客の好みに合わせたのかな。
客は、多くて5人程度。少ないと2〜3人なのかな。客が仮面で行為に及んでいるシーンがあったけど、あれは、娼婦にとって客は不特定多数の個性のない男たちである、ということの暗示だろう。
行為の後は、口をすすぐのが常識らしい。お客の好みはいろいろらしく、ポーリーンはシャンパン風呂の後で不満を言っていた。精液を落とす薬品もあるみたいで、使うと「ひりひりするよ」ということらしい。それ以外に、避妊の方法はなかったのだろうか。娼館には5歳ぐらいの女の子が2人ばかりいたけど、あれも、娼婦が失敗して生んだ子供なんだろう。母親らしい人は出てこなかったので、死んでしまったりしたのだろうか。
他に、「人形」というご指名があった。人形のような動作で客に対するらしい。セックスは後背位だったけど、あれこれ対応技術も必要だったのね。ジャポニズムの影響は、着物の女性の絵が部屋にかけてあったり、着物を着て日本スタイルで客に対する娼婦もいたことで分かる。だけど、客が「日本語でしゃべれ。日本語みたいしゃべればいいんだよ」と無理強いしていたのが笑えた。
女将は、家賃の値上げに悩んでる。で、顧客である警視総監に手紙を出すんだけど、助けることはできないという返事をもらう。そして翌年、娼館は閉められることになる。1900年のパリは、大家が強気に出るほど部屋不足だったのかね。あっさり閉めてしまう、という展開にちょっと拍子抜け。この年か前年には、パリにメトロが開通、という話題があった。客が「あんなもの」と言っていたけれど、みな歩きだったのか。いつの時代も、新しいものは迷惑がられるのだなあ。
娼婦を診る医師がいて、嫌がる娼婦もいる。梅毒を宣言され、呆気なく逝ってしまう。このあたりは日本の映画と同じような展開。そういやあ「仁 〜JIN〜」にも似たようなシーンがあったなあ。で、娼館最後の日(?)に、無料サービスで様々な客がやってくる。のなかに、マドレーヌを切り裂いた男がいたみたいなんだけど…。あの、飼われていた黒豹が唸っていたのがそれだと思うんだけど、あの後、彼は黒豹にズタズタにされたのかな。それをマジックミラー(?)越しみたいに、娼婦たちは見ていたのかな。その後(だったかな)、マドレーヌは精液の涙を流すのだけれど、そういえばマドレーヌと男との会話でそんな話をしていた。でも、どんな内容だったか忘れてしまってたよ。あらら…。
娼館が閉まって。彼女たちはどうするんだろう、みたいなセリフの後、いきなり現在になる。パーティのシーン(だっけか?)で、音楽がロックになってたりしたのは、ここへの予兆だったのか…。ホクロのある娼婦クロチルド役のセリーヌ・サレットだ。おお。スタイルいい! ちょっと年増で、シャーロット・ランプリングに雰囲気が似てて、なかなかなんだよなあ。…でも、彼女は現在でも街娼でがんばってる、ってオチ。ううむ。這い上がれないのかよ…。
ハロー!?ゴースト6/14新宿武蔵野館3監督/キム・ヨンタク脚本/キム・ヨンタク
英文タイトルは"Hello Ghost"だけど、韓国語の題名もあるのかな?
主人公は自殺志願のカン・サンマン。孤児院育ち。睡眠薬を試みるが、一時的に呼吸が止まっただけで生き返る。が、太ったオッサン、泣く女、ジジイ、少年の、4人の霊が見えるようになった。病院ではキチガイ扱いされる。そこで、霊に成仏してもらおうと、それぞれこの世に残した願い事を叶えてやることにした。
ジジイ霊の願いは、カメラを持ち主に返すこと。なのでカメラ店を探すのだが、ない。困り果てたサンマンが「誰が持ってるんだ?」とつぶやくと、オッサン霊は誰それ、と答える。「知ってるなら最初に言えよ」「聞かれないと言えないことになってる」って、なんてバカなんだ。それはいい。で、現在の持ち主の刑事のところに行って「タンスの二段目の引き出しに入ってるカメラを返せ。さもないと浮気(?)をバラすぞ」とかいって奪い取る。…なんだけど、なんでカメラなのか、どうして刑事なのかさっぱり分からない。もやもや〜。
子どもの要求は、アニメ映画を見ること。でも、それ以外に当てクジを引いて巨大なベッコアメを当てたりするし、何が願い事なのか? ううむ。もやもや〜。
オッサンの願いは、クルマを運転すること? 廃品置き場に行って、ひねくれたオヤジに会い…あまりよく覚えてない。…奥さんとの仲が戻るような話だったかな…。なんでそんな話題を突っ込んでくるんだろう。仲直りさせるのが願いだったのか? とか、各エピソードのツメが甘くて、何だかイライラしてきて欠伸状態。実は少し眠くなってた。少しうとうと〜。
眠気をなんとかやり過ごし、最後は泣く女。彼女の夢は、「料理を食べさせてあげたい」というもの。じゃあ特定の誰かがいるのかと思ったら、そういうことはない。サンマンと買い物に行き、料理をつくっていると、看護婦のヨンス(痩せすぎていない葉月里緒奈って感じ)がやってきて、つくった料理を食べる。え? それだけ? もやもや〜。
この4つのエピソードに加えて、最初の方から看護婦のヨンスが登場して、サンマンとと絡んでいく。ヨンスは、サンマンが運び込まれた病院の看護婦だったっけかな? なんか、そのあたり曖昧。彼女の父親が、彼女が働く病院のホスピス(といってもフツーの病室だけど)にいて、屋上で博打をしたり、ときに危篤になったり。どうもヨンスはもてあましているみたい。母親はすでになく、ダメな父親を毛嫌いしているらしい。サンマンが行くところ、ヨンスがいる。妙な行動のサンマンだけど、どうやらヨンスには嫌われていないらしい。…のだけれど、なんでそうなるの? ま、バカ映画だからロマンスもご都合主義なんだろ。と思っていた…。
のだけれど、ラストの15分ぐらいで戦慄が走った。おお。すべては、このために曖昧でもやもやしていたのか! あとは涙うるうるな展開で、場内からはすすり泣きも…。うーむ。してやられた。勘の鋭い人なら想定することも可能なのかも知れないけど、こちらは事前情報が皆無。しかも、各エピソードの詰めの甘さに辟易していたという案配なので、いっぱい食らった感じ。でも、心地よい裏切られ感に満ち満ちていて、それまでのもやもやは、一気にすっ飛んでしまった。
実は4人の霊は、両親と祖父、兄だった…。みんなで海に行くぞ!(みんなで映画だ! だっけ?)。タクシー運転手の父親がニコニコ顔でいう。祖父は隣家(?)からカメラを借り、母親はお弁当をつくる…のだっけかな? 詳細は忘れた。が、事故に遭って、残されたのはサンマン一人。それで孤児院暮らしだったのだ。それが、海苔巻きの具で思い出す。サンマンがヨンスにつくってきた海苔巻きの具が、ほうれん草ではなくセロリだった。「なんでセロリ?」と問われ、「母さんが××(忘れた)にいいからって…」と答えてから、「?」となる。なんで俺、母親のことを知ってるんだ? 次々に甦る家族のこと。そういえば、ヨンスの患者に少年がいて、死に直面すると(?)記憶を失うとか何とかいう話があって、それも伏線になっていたのね。
冒頭で睡眠薬を吐きだしたのも、ずっと見守ってくれていた霊のおかげ。そういえば、ヨンスとの接触も、ジジイや父親がしむけていた。うわー。ここまでやられると、泣かずにはおれんぞ。
当然ながらサンマンとヨンスは結婚し、男の子が生まれる。ヨンスはサンマンの昔の写真を見て「いつも1人だけね」というのだけれど、息子は「一緒に写ってるの、だれ?」という、これはまあありきたりのオチだけど、それさえほのぼのと見えてくる。
突っ込みどころは、少なくない。交通事故なのだから家は残っているはずで、家族写真だってあるだろう。孤児院にいたって、昔の話ぐらいだれかしてくれてもおかしくはない。警官がカメラをちょろまかした、っていうのも変な感じ。廃品置き場の男女の話は、どう関係してくるんだ? あのベッコアメが当たったのは、兄貴霊が奥の手を使ったのか? などなど。各霊のエピソードも、もうちょっと「なるほど」感がでるようになってたらよかったのに。欲をいえば、各エピソードにもやもや感がなく(みんなのしたかったこと、がはっきり分かる方がいいと思う。現状では混乱してしまう)、そこそこ完結していながら、最後にすべてがリンクするというカタチになっていたら文句ないんだけどな。やっぱ、オチまでもって行く過程が、いささか物足りない。
それでも、4つの霊にとりつかれたサンマンの描写はなかなか面白く、相手の目には映っていない霊を横に侍らせてみたり、ひとり芝居になったり、手を変え品を変え工夫している。これは、面白かった。でも、なんといっても、ラスト15分ぐらいの種明かしには、やられた。
ファイナル・ジャッジメント6/15新宿ミラノ1監督/浜本正機脚本/「ファイナル・ジャッジメント」シナリオプロジェクト
制作総指揮・大川隆法。幸福の科学の映画だ。allcinemaの荒筋は「2009年、アジアの大国オウランの軍事的拡張に危機感を抱いた青年・鷲尾正悟は衆議院選に立候補するも大敗してしまう。その数年後、正悟の警告は現実のものとなり、日本はオウラン軍に襲撃され、なすすべなく占領されてしまう。すべての自由は奪われ、独裁体制を批判する者は粛正の対象となっていった。そんな中、正悟は地下抵抗組織“ROLE”と合流し、日本の未来のために立ち上がる」。まあ、間違ってないけど…。
しかし、鷲尾正悟が危機感を抱くようになった過程や、落選後の2年間の軌跡などは見事に無視。また、オウラン国(中国のことだな)の侵略戦略や、如何にして日本を植民地としたか、なども描かれない。交戦もなく、政府が国を売ったと言うことか? 日本の右翼は何やってたんだってはなしだが…。そんなことには触れない。安保条約が行使された兆候もない。…むしろ、こうやってカットされた部分をつないだ方が、面白い映画になりそうな気がするんだが。
で、なぜか鷲尾正悟は神に選ばれた人で、レジスタントらにかつがれて渋谷から世界へ同時生中継する。その演説内容を世界が評価して、オウラン国は撤退した、という字幕による(!)エンディングなんだけど、「?」だよな。だいたい、落選したときの演説を動画サイトかなんかにアップしたら世界が評価したとか、鷲尾正悟には世界が注目してるとか、過程を抜きにした結果の羅列では、説得力がない。
オウラン国は宗教が禁止らしい。パルチザンのアジトでは各宗教が隠れて活動していたけれど、オウラン軍が踏み込んだときレジスタンスや宗教人が無事という流れが理解できない。そもそも、あんな大きなアジトがあって、これまで目をつけられなかったことの方が不思議。オウラン国の少数民族で、両親を殺されたインド顔の娘が出てくる。彼女は鷲尾正悟たちと行動をともにするのだけれど、実はスパイだった。なんとオウラン軍極東支部長かなんかの養子になっていたという。なぜだ? まあ、彼女は最後には心を入れかえるのだけれど、なぜだ?
てな有り様で、まあ、肝心な部分を見せない。中盤には鷲尾正悟がレジスタンスのアジトで八正道に触れ、キリストなみのパワーを身につけてしまうのだけれど、アホかという感じ。世界の宗教は認めるといいつつ、そうした宗教をひとつにするのが鷲尾正悟であるみたいな文脈で、これじゃあ…だよな。ま、大川隆法には映画の才能はないみたい。
ジェーン・エア6/18新宿武蔵野館1監督/キャリー・ジョージ・フクナガ脚本/モイラ・バフィーニ
原題は"Jane Eyre"。不朽の名作だから題名は知ってるけど、読んだことがないので物語は知らない。なんだ。こんな話だったのか…。ホラーっぽくてミステリアスで陰気なのだな。ちなみに場内は、ん10年前に文学少女だった方々で9割方占められていた。
多分長い話なので端折られているとは思うのだけれど、時制が交錯したりしていて、「?」と思う部分がいくつかあった。冒頭は、嵐の中、逃げるジェーン。若い牧師らしい家に助けられる→幼いとき→養護院へ→牧師の家→養護院…と繰り返し、ジェーンはロチェスター家の家庭教師となる。…のだけれど、その前に、長じたジェーンが子ども達に送られて養護院をでていくシーンがあった。「?」。なぜなら、そのシーンの前に、牧師はジェーンに田舎の学校の教師の仕事を世話していたからだ。なので、一瞬、あのシーンなんなのだ? という疑問が湧いた。なので、牧師に世話してもらった学校教師の仕事というのは、ロチェスター家の家庭教師? としばらく思ったりもしていた。だから、最初の逃げるシーンは、養護院からの逃亡だったのか? っていうことになる。でも、最後の方になって、あの逃亡はロチェスターの秘密がバレての逃亡というのが分かり、さらに、田舎の学校のシーンも登場するので修正できたけど、はっきりいって編集が悪いと思う。一瞬だけ、なんの説明もなく登場する養護院からでていくシーンが何なのか、ちゃんと言及すべきなのだ。Wikiで荒筋を見たら、ジェーンは養護院の教師になった、というではないか。それなら一般教養も身につけた家庭教師になれるだろう。でも、この映画は言うべきところを言わないので、原作を知らない向きには誤解を招く。
で、ロチェスター家で教えるのはロチェスターの姪だったかな。フランス語をしゃべるんだけど、ロチェスター家も家族構成がどうなってるのか分からないので、姪ってなによ? って思ったりした。そういえば、ジェーン自身も、同じような環境で育ったんだよな。叔母がいて、その死んだ亭主(伯父)の妹の娘とかいったっけ。では、母親は死んだんだっけ。父親も死んでたんだっけ? 早いセリフの中で理解するのはたいへんだったよ。後半で、従兄弟が死んで、叔母の家にもどるときも、「従兄弟?」って、一瞬、分からなくなった。ああ、あのいじめっ子か、って分かったけど、まわりくどい言い回しなので、人物関係には苦労したよ。
この話、基本は「シンデレラ」「小公女」なんかと同じなのね。それが最後に遺産が転がり込み、本当に愛する人と結ばれる、と。ただし、ロチェスターには秘められた事実があって、それがオカルトかホラーみたいに小出しに提示される。ポルターガイストみたいな音。突然の家事。訪問客の刺し傷…。しかしさ、あの屋敷はロチェスターの本宅じゃないはず。その屋敷に、気が狂った妻を隠していたって…。しかも、家政婦頭がいて仕切ってたんだろ? 食事や排泄関係はどうしてたんだよ。ロチェスターは、家政婦頭に隠して、気違い妻の世話をする担当者を、どっかにもぐり込ませていたのか? 気違い妻の弟(と、後に分かる)が訪問してきたときも、弟が突然刺されてしまうだけで、何も語らない。そりゃ変だよな。意識があったんだから。とにかく、ロチェスターの秘密については、あんぐり、な感じ。あり得ねえだろ。
女性の自立が描かれているらしいけど、要するに、勝ち気な娘だったってだけだろ。ジェーンが何か政治運動や社会変革に触れたわけではない。周囲にそういう人がいたわけでもない。だから、女性の自立、ということはあんまり感じることができなかった。時代背景も、ずっと18世紀の話かと思っていたので、19世紀半ばというので驚いた。だって文明の利器が登場しないんだもん。いやはや、文学史に弱いってだけなんだけど。
そもそも、姪をいじめる伯母さんというのは、この時代の定型なのかね。どういう理由で孤児となった少女をいたぶるのか分からないけれど、あれは地がつながってないから? それとも、伯母というのはそういうオソロシイ存在であるのが物語における役割だったんだろうか?
しかし、分からないのがロチェスターとジェーンの引かれ合いで、いつからそうなったんだ? だよな。正直にズケズケ言い(あまりのズケズケ具合に笑っちゃうほどで、そこまで言うか、っていうぐらい負けず嫌いに話していた。家庭教師の分際で、主人に気を使うのは、現在だって常識じゃないのかね。で、そういうところを気に入った、と。では、そういうところが好きになる理由はなんだったんだろう? ロチェスターには、四民平等、女性も自立すべき、という考えがあったようにも見えないけどな。で、ロチェスターにプロポーズされたジェーンが、速攻で嬉しそうに受けてしまうのにも笑ってしまった。そんなにロチェスターと結婚したかったのか? 上流階級に対する憧れ、コンプレックスがあったからか? と勘ぐってしまった。
ま、結局、気違い妻を隠しているのがバレてしまい、二重結婚になるというので一度は破談。というわけで、ジェーンは逃げ出したんだな。
そういえば、助けてくれた牧師みたいな若い男、彼の強引さにも笑った。どうもインドに派遣されるらしいんだけど、一緒に行ってくれと頼む、というより、命令する。もちろん妻として、ということだけど、一方的なんだよ。ジェーンが、行くのはいいけど結婚はヤダ、っていうと、そんなことは神が許さないとか逆上するのがおかしかった。この時代のキリスト教も、ひどかったのだな。
しかし、ジェーンに転がり込んできた遺産は、誰のものなのだ? 最近まで生きていたのが亡くなったらしいが、父親がどっかで生きていたのか? と思ってしまったんだが…。よく分からなかった。
ホラーな雰囲気というと、遺産が転がり込んできたジェーンがロチェスターを訪問したときもそうだ。廃墟と化したロチェスター家の中に佇んでいると、背後に顔が…。ぎゃ。と思ったら、家政婦頭のジュディ・デンチで、おい、そんなところに貼り付いてるなよ、って思った。
しかしまあ、最後は金がものを言うというのは、この手のお話しにはつきもので。いじめられ、ビンボーな娘も、金が入ればロチェスターと同格。しかも、ロチェスターは気違い妻の火付け・自死に巻き込まれ、家は廃墟、自分は盲目(原作ではもっとひどいらしいが)ということで、ジェーンの格下になってしまった。ここでようやっとジェーンがロチェスターを助けてやる立場になれる、って訳だな。ま、そこまでロチェスターを思う理由は分からないけどね。
まあ、19世紀半ばのイギリスには、まだああいう社会制度が残されていた、ということで、上流社会のあれやこれやは、よく分からないよ。
ジェーンを演じるのは「アリス・イン・ワンダーランド」のミア・ワシコウスカ。髪をあげているので下ぶくれが強調され、ときに片桐はいりに見えるのも、座興か。
ソウル・サーファー6/20MOVIX亀有シアター4監督/ショーン・マクナマラ脚本/ショーン・マクナマラ、デボラ・シュワルツ、ダグラス・シュワルツ、マイケル・バーク
原題も"Soul Surfer"。13歳でサメに左腕を食いちぎられながら、再起する少女サーファーの物語。内容は、ベタである。定番の展開で、落ち込む本人と家族、慰める友人、行く末のことで対立する両親、支えてくれる伝道師(若い女性)、心温まる人々に囲まれ、「私は生まれながらのマーメイド」と海に戻っていく。が、大会で挫折していったんは諦めるが、タイ・プーケットの難民をみて、自分より不幸な人はいるのだ、って『視点を変える」ことで復活。再度挑んだ大会では優勝できなかったけれど、いいサーフができた! という終わり方。お涙頂戴も感動の押しつけもあるけど、日本映画みたいな「がましさ」がなく、あっさりしたもの。展開も早くて、ある意味では淡々と、にも思える。でも、その軽さが幸いしているのかも。
内容的には星3つなんだけど、エンドクレジットを見て、うるうるしてしまった。これも定番なんだけど、モデルになった本人が登場する。で、ちょっとびっくりするのは、この映画は事実だったのだ、っていう再確認があったことだ。この映画も冒頭に"based on a true story"ってでるんだけど、たいがいは脚色してあって事実とは別物だろ? って思う。けど、エンドクレジットに添えられた映像は、映画の中のシーンと同じだったのだ。回復後、最初に海に入ったときの場面。オレンジかグレープフルーツかをカットしたけどトレイから落としてしまう場面。ボランティアに励む場面。ともに映画の中に使われていた。ああ、そういえば映画の中で兄の一人がつねにビデオを回していたっけ。そうか。彼女の映像は、きっとドキュメンタリー映画が作れるぐらいたくさんあって、それを基にこの映画はつくられているのだ。そう思った途端、本編の中のベサニーもホンモノだったんだ、って分かったのだ。なので、感動が、エンドロールを見ながらこみ上げてきた。そして、本当に素晴らしいと思えたし、また、賞賛したいという気持ちになった。ここに、映画のための美化はない、と思えたのだ。
お目当てのひとつは、ベサニー役のアナソフィア・ロブ。「テラビシアにかける橋」(2007)のときは14歳か。あれから5年。あの輝きは、どうなっちゃってるのだろう? きっと、いろいろ劣化してるんだろうな、と思ったらさにあらず。「テラビシア」のときの瑞々しさ、純朴さが残されていた。撮影時は18歳か。ケバイ女にはなって欲しくないなあ…なんて。
ライバルの、土着民の子(ソーニャ・バルモレス)もなかなか魅力的だったな。ヘレン・ハントとデニス・クエイドの両親も最高。まあ、サーフィン大会の点数のつけ方とか、どうやって波をとらえるのか、なんていうのはよく分からなかったけれど、雰囲気で理解すりゃいいことだ。海中のシーンもよく撮れているし、片腕のないベサニーのCGもよく出来てたし。気軽に見て、感動、にはお誂え向きだな。
まあ、ちょいと気になるところは、牧師らしいのが若い女性で、その教えに導かれているところかな。ま、米国ではフツーのことなんだろうけど、教会っていうより心のケア団体、みたいにも見えちゃうしね。そもそも、あんな若い女性が牧師になってるハワイって…。で、調べたらワールド・ビジョンという、キリスト教に基づいて人道支援を行う団体らしい。ううむ…。
ゲンスブールと女たち6/21ギンレイホール監督/ジョアン・スファール脚本/ジョアン・スファール
原題は"Gainsbourg(Vie heroique)"。フランス/アメリカ映画。ゲンズブールについては、名前は知っているけど、業績はよく知らない。おぼろげ、な感じ。で、見ていくうちにピアニスト、歌手etcなのは分かってきた。そういやシャルル・アズナヴールってのもいたな。フランスじゃ、歌手が役者ってのが多いな。イヴ・モンタンもそうだったな。なんてことを思ったりしつつ…。冒頭の、少年時代の話がすこぶる面白い。ピアノは嫌いで、父親に殴られながら覚えた。ユダヤの星を率先してもらいに行った。絵画教室で知り合ったモデルに話しかけ、まんまとヌードを描いてしまった。モデルと一緒にカフェに行って、生意気な口調で話す様子とか、トリュフォーの映画みたいで小気味いい。
顔のでかい化け物=少年ゲンズブールの妄想? が登場したり、人形の分身が現れて心の言葉を話したり。しかも、顔の化け物も人形の分身もCGではなく作り物であるというのがいい。こういう得体の知れない象徴的な存在がときどき顔を出す映画って、最近あまり見ないので期待したんだけど。ゲンズブールが大人になってからは、だんだんフツーになっていってしまう。せいぜいバルドーとつき合うようになる前まで、だな。なんとかついていけたのは。ジェーン・バーキン役の女性が魅力的だな…なんて思いつつ、でも、話はとくに面白くなく、このあたりになるとバルドーとかバーキンとか、その存在だけで見せていこうとしている感じ。つまらん。なので、バーキンのパートの途中から睡魔に襲われて、気がついたら舞台で右翼に攻撃を受けているところだった。どうやら国家を何かのリズムで歌って、顰蹙を買ったらしい。おやおや。でも、まだバーキンがでてるのか。なんて思っていたら、あっという間に終わってしまった。あらら。なんだよ。
この映画って、ゲンズブールを知ってて、華麗なる女遍歴も知ってて、晩年のトラブルなんかも知ってて、っていう人じゃないと楽しめないのかもな。あのシャルロット・ゲンズブールは、このセルジュ・ゲンスブールの娘で、母親はジェーン・バーキンなのか。ふーん。…という人にはハードルが高かったか。でも、少年時代は良かったよ。と、負け惜しみ。
スノーホワイト6/22シネマスクエアとうきゅう監督/ルパート・サンダーズ脚本/エヴァン・ドーハティ、ジョン・リー・ハンコック、ホセイン・アミニ
原題は"Snow White and the Huntsman"。Huntsmanは猟師だ。「白雪姫」の実写化だけど、「ロード・オブ・ザ・リング」や「ブラザー・グリム」の系譜を引き継ぐファンタジーで、全般的には面白く見た。けれど、世界観や衣装などには現実に近いものが大幅に採り入れられているので、細かなところで突っ込みどころが色々と見えてきてしまうのだよな。
王妃が死に、つづいて魔法の軍団に攻め込まれる。軍団には勝利したけれど、身を偽って王に取り入ったラヴェンナは王妃になる。と、速攻で王を殺害し、女王となる。スノーホワイトは塔に幽閉される。時は流れて10年ぐらい? 衰えの見えたラヴェンナに、鏡がいう。今はあなたが一番美しいが、すぐにスノーホワイトに追い抜かれる、と。で、スノーホワイトの生心臓を狙うが、彼女は牢を逃げ出したところ。ラヴェンナは弟フィンに、スノーホワイトを捉えるよう命ずる。というわけで、逃げるスノーホワイトとフィンの追いかけっこが始まる。
基本は単純な構造なんだけど、分かりにくい場面が多いんだよな。ラヴェンナが王を殺害するときに言う言葉。私も同じような経験をしてきた、とかなんとかいう感じだっけ。あれ、意味分からなかった。字幕も妙な言い回しで、何を言ってたんだろう? 後半に過去映像がちらっとでてくるんだけど、よく分からない。もっとちゃんと描いてくれよ。それに、ラヴェンナが率いている連中がどういう存在なのかが、よくわからない。ラヴェンナがあの手であちこちの国を落としているとして、スノーホワイトの国にずっと腰を落ち着ける理由がよくわからない。
若いアンちゃんが殴られてる。殴ってるのはオッサン。あとから殴られてるのがHuntsmanと分かるんだけど、なぜ殴られていたのか不明。殴っていたのは、だれ? とくに意味はないのかな。それとも、妻が死んで荒れていたころのことか? で、そのHuntsmanがスノーホワイト討伐隊に選ばれるんだけど、なんでなの? そもそも、Huntsmanが黒い森を熟知しているとかなんとかって、言ってたっけ?
何かで捕まった親子がラヴェンナの前に連れ出されてるシーンがあった。息子の方が反抗的で、スキを見てラヴェンナを刺すんだけど、ええええ? だよな。魔女なのに、あんな簡単に刺されるの? しかも、刺した息子を殺さないんだけど、あの親子は何だったんだ? あれって、ウィリアム王子じゃないよな…? ううむ。
ラストで、スノーホワイトはラヴェンナをナイフで刺して殺すんだけど、ええっ? こんなんで死んじゃうの? じゃ、最初の方で刺されたとき平気だったのは、どうしてだ? って、思うよな、だれでも。
それにしても、幼いときに別れたウィリアム王子の存在感のないこと。たまたまスノーホワイトが生きていて逃亡中、って聞きつけると、なんと討伐隊に潜入しての探索。おいおい。もうちょい頭を使えよ。ずっと付いていくだけで威力を発揮すること亡く、スノーホワイトと遭遇しても討伐隊の一派と間違えられてあわや、ってなところを救われるって、なんだよ。ウィリアムって、公爵か子爵の息子なんだよな。ってことは、自国の王が殺された時点で、ラヴェンナに立ち向かわなかったのか? それとも、刃向かったけど負けてしまったのか? でも、様子では中立を保っている、っていうか、反ラヴェンナの立場だよな。それで、よくラヴェンナにひねり潰されなかったもんだ。
Huntsmanだって、そんなに存在感があるとも思えない。しかたなく討伐隊に入ったけど…てな感じで、スノーホワイトを含む元の王族に忠誠をつくしてきた、って風でもないし。成り行きで連れがスノーホワイトと知り、あとづけで忠誠心をだした、てな感じだよな。しかも、戦争に行っている間に女房がフィンに殺されたとかいう設定だけど、その戦争ってなんだよ? ラヴェンナがどこかの敵国と戦って、その兵隊として駆り出されたのか?
ラストの戴冠式のシーンを見ると、教会の連中もちゃんといたりするのだけれど、いままであいつらは何をしていたんだ? 魔女ラヴェンナの前にひれ伏していたのか?
もともとがお伽噺なんだから、ご都合主義はいいんだ。そうじゃない部分で「あれ?」があると、素直に話に没入できないよ。せっかく、そこそこ、いい感じの出来なのに。もったいない。
それでも7人の小人が元山師でいま盗賊グループっていうのは面白い。結構みな現実的で現金なのもいい。ラヴェンナがスノーホワイトに毒入りリンゴを食べさせるのに、ウィリアム王子に化けるといいのもなるほど。ラヴェンナが使う魔法と美醜の関係なんていうのも、ファミコンゲームみたいで面白い。黒い森のシーンも面白かった。いいところだって少なくないのだ。
で。毒入りリンゴを食べたスノーホワイトは仮死状態。ウィリアム王子がキスしても目覚めない。ってことは、Huntsmanの他にいないじゃないか。それはいい。でも、妻を失って悲しんでいる最中の男とスノーホワイトが…って、そりゃちょいと無理があるよな。ラストで、スノーホワイトが戴冠式に臨むのだけれど、Huntsmanは遠くから眺めるだけ。それじゃ「ローマの休日」じゃん。どうなるんだよ、2人は。まさか次回作、じゃないだろうな。
小人の1人が死に、6人になったんだけど、その後のシーンで7人の場面って、なかった? 一瞬見たような気がするんだが…。そういえば小人の一人が「アリス・クリードの失踪」にでてたエディ・マーサンなんだが、CG合成か。それにしても贅沢なキャスティングだ。他にも、見たことのあるような役者が結構でてた。名前までは分からないけどね。
スノーホワイトが城攻めに行くシーンは「ジャンヌ・ダルク」を彷彿とさせて凛々しかった。
しかし、この映画の最大の欠点は、スノーホワイト(クリステン・スチュワート)よりも、悪魔の女王ラヴェンナ(シャーリーズ・セロン)の方が数倍美しい、ってことだな。
ヒューゴの不思議な発明6/25ギンレイホール監督/マーティン・スコセッシ脚本/ジョン・ローガン
2D版。原題は"Hugo"だけ。邦題の「発明」は、誇大表現だろう。ヒューゴは何も発明してないんだから。
3時45分の回を見ようとして着いたらロビーがやたら静か。時計を見ると、4時30分。…1時間勘違いしちまったのか。てなわけで、始まってから30数分(ヒューゴとイザベルが公安官に誰何され、とりあえず解放される。次にヒューゴがイザベルのペンダントがハート型の先端(自動筆記の機械人形に心を吹き込む、という意味があるわけだ)をもつ鍵であることを知る)のところから最後まで。緊張感は途切れることなく保てた。しかし、パパ・ジョルジュがジョルジュ・メリエスで、2人が追っていたのはその過去だったってことが分かると、「なーんだ」という気分になってしまった。そんなこと、凄くないじゃないか、と。
ヒューゴが修理中(発明じゃない)の機械人形は、西村真琴の学天則をいやでも想起させる。「列車の到着」「工場の出口」『大列車強盗」は見たことがある。むしろ「水をかけられた水を撒く人」はなぜないの? 「イントレランス」は「グッドモーニング・バビロン!」を連想してしまう…。バスター・キートン。ダグラス・フェアバンクスはいたのか?(顔をよく知らないもんでね)、キートンはいいけど、チャップリンは新しすぎないか? リュミエールのスタジオや撮影シーンも、なんか大仰な感じ。とか、ツッコミを入れながら見てしまった。この映画が映画への愛を語っているのは分かるんだけど、そういう具体的な映像はそんなにゾクッとはしなかった。
死んだと思われていたメリエスの復興。最後にフィルムが発掘され、フランス映画アカデミーの会員になった、という舞台は、アカデミーの名誉受賞みたい。ふつーな感じかなあ、という印象だった。ところが…。
★さて、「タンタンの冒険」を見終えてから、今度は最初から。前半はなるほど、なるほど、の連続。途中から見たときは、そもそも、の話が分かっていなかった。だいたい、見る前は「ナルニア国物語」みたいなSFファンタジー(スコセッシには似合わないけどね)と思っていた。で、すでに分かっている結末と、そこへの伏線がカチリカチリと結びつき、話の深みが伝わってくる。
駅。そこに集う人々。公安員。ヒューゴの父親が機械人形を手に入れた経緯。父親の修理ノート。父親の死。伯父の存在…。イザベルとの出会い。ヒューゴとメリエスの出会い、対立、寛容…。モザイクのように散りばめられた素材が、次第に有機的に結びついてくる感じが、心地よい。なるほど。こういう下地があっての後半だったのだ。俄然、後半が輝いてきて、途中で出るつもりだったけど、最後まで見てしまった。いろいろ仕掛けもあるし、機械人形という存在の役割も見えてきた。
父親が火事で事故死し、飲んだくれの伯父に引き取られたヒューゴ。伯父の代わりに駅の時計整備を任され、いまは忘れ去られている時計の内側に住まうことになる。歯車と蒸気。1920年代の工業化の象徴だよな。その、機械仕掛けの胎内に住まい(意味は違うけれど「モダンタイムス」のようでもある)、父親が修理しきれなかった自動筆記人形を持ち込んで修理をつづけるという入れ子構造。不完全な自動筆記人形はまた、戦争で機能を欠落し、金属のギプスなしでは歩けない公安官とのアナロジーでもある。欠落という意味では、母を失い、父をも失ったヒューゴ自身がそうである。だからこそヒューゴは人形を修理し、完全な形で動かしたいという願望を強く持ちつづけることになる。もちろんイザベルもまた両親がなく、メリエスも過去の栄光を失っている。公安官が恋する花屋の中年女も、兄弟を戦争で失っている。みな何かを失っていて、その空洞を埋めたいと思っているわけだ。そして、その空洞を埋めるものこそ、夢であり、映画なのだ。
孤児となって、人から忘れられた空間に住むヒューゴはイザベルにいう。「人にはみな役割がある。僕が生きているのも、意味がある」と。自分だって社会の一員であり、自分があるから全体が機能する。当然ながらこれは、自分も重要な歯車のひとつである、という主張に他ならない。だって、そうじゃなかったら、生きている意味がないじゃないか。役割があるからこそ、他人からも一目置かれる。そういう存在になりたい、ということだ。そうやって機能したいと願う歯車=ヒューゴが出くわしたのは、自ら歯車であることを放棄してしまったメリエスだった。こうなったら話は、ヒューゴがメリエスをこの世界に連れ戻す、という展開にならなくちゃならない。もちろん、話はそのように進んでいく。
しかし、メリエスの挫折は、人気者から地獄への転落だった。その振れ幅は、人並みではない。でも、メリエスにもいくらかの未練はあった。そのひとつが、自動筆記人形であり、また、「月世界旅行」の絵コンテだったというわけだ。その2つともを、ヒューゴとイザベルに見つけられてしまう。頑なになりすぎたメリエスは、すべてを悪い方へと考えるようになっているのだろう。昔の栄光でちやほやされたくはない。そういう気持ちになっていたとしても、仕方のないことかも知れない。でも、脚光を浴びることへの渇望は、つねに持ちつづけてきた。メリエスの妻ママ・ジャンヌにしてもそうだ。映画研究者(?)のルネ・タバールに「昔のあなたに会いませんか?」といわれると、途端に相好を崩す。やっぱり、檜舞台はいいものだ。結局、メリエスも、あの人はいま的な発掘によってフランスアカデミー会員になり、多くの人から賞賛されれば悪い気はしない。いや、廃棄したと思ったフィルムが発掘され、ふたたび脚光を浴びることになって、至極満足そうでもある。やっとメリエスも息を吹き返した。いみじくも舞台上から、自分の発掘はヒューゴのおかげであると賛辞を送るのも、当然なのだ。自動筆記人形にとってハートの鍵が命の象徴であったように、メリエスにとってヒューゴは復活の象徴なのだ。自動筆記人形を線路に落とし、壊してしまったことをヒューゴはメリエスに詫びる。でもメリエスは「いいや。役割を果たしたのだからいいんだ」と応える。そうなのだ。落語「厩火事」の骨董品のように、たとえ壊れたとしても、役割を果たせていればそれでいいのだ。みな、それぞれの役割を果たし、それが有機的に結びついてメリエスの発掘につながった。そのための歯車として、ちゃんと機能したのだから、それでいいのだ。
メリエスは、まだ幼いルネ・タバールが撮影所に見学にきたとき、自慢気に「夢はここから生まれるんだ」と豪語した。そのメリエスが世間から離脱し、ルネ・タバールは映画研究の第一人者になった。でもタバールはメリエスを忘れることなく、檜舞台に連れ戻した。これも、偶然の遭遇が必然の遭遇へと変化したことの事例だろう。歯車はみな噛み合い、有機的に動いている。不必要なものなんて、ひとつもないのだから。この辺りの、メリエスの家でメリエス、ジャンヌ、タバールたちが心を開いていく過程、そして、メリエスが復活して舞台に立つ辺りのシーンで、映画への愛をつよく感じてしまった。
この映画には、夢を育むものとして映画と書籍が登場する。とくにイザベルは読書家で、本を借りては読みふけっている。書店の主人は、ドラキュラ役者のクリストファー・リー。売ってるのは小難しい本ではなく、ジュール・ヴェルヌの冒険譚だったりする。監督スコセッシにとっての知識の源泉を、ヒューゴは映画を通してつたえ、イザベルは本を通してつたえている、ということなのだろう。いくらデジタルになっても、やっぱ、アナログだろ。そういうメッセージがヒシヒシとつたわってくる。
ヒューゴが、映画を見たことがない(映画を嫌うようになったメリエスが禁止しているらしい)イザベルを映画館に誘う。上演しているのは、ロイドが時計の針にぶら下がる有名なやつ。そのぶら下がりを、ヒューゴが後半でやるハメになるおかしさは、分かりやすくてよかった。けれど、ヒューゴが見る夢の中で、列車に轢かれるのはどういう意味があるのだろう。ラストで、自動筆記人形が線路におち、ヒューゴがそれを拾いに線路に降りた…ところで現実に列車が駅に突進してくるんだけど、あれは予知夢だったということか? なんか、よく分からなかった。さらに、夢の中では停止できなかった列車が構内を破壊して窓から落ちるんだけど、あれは「大陸横断超特急」そのものだよな。どうしてそんなことをしたんだろう? なにか意味はあるのかな?
小説の登場人物らしいのを紹介するところがあって、シドニー・カールトンともう一人の名前をイザベルが挙げるんだけど、どういう小説の人物なんだろう?
そういやあ、前半であんなに「返してくれ」とヒューゴがこだわっていた、父親の修理ノート。メリエスが取り上げ、ヒューゴには渡さなかったんだけど、自動筆記人形が動きはじめた途端、重要なアイテムではなくなってしまった。ううむ。あのノートは、ヒューゴの元に戻ったんだろうか?
ヒューゴの父親が巻き込まれた火事のCGが、ちょっとチンケだったかも。それと、ヒューゴの父親は、博物館の屋根裏であの自動筆記人形を見つけた、という設定になっている。けど、博物館に黙ってもってきちまったのか?
で。メリエスが死んでいた、と思われていたのは、事実なんだろうか? どこまで真実なのか、ちょっと知りたい。
タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密6/25ギンレイホール監督/スティーヴン・スピルバーグ脚本/スティーヴン・モファット、エドガー・ライト、ジョー・コーニッシュ
原題は"The Adventures of Tintin "。2度目。最初のときは、だいぶ寝てしまった。でも、今回も同じようなところで眠気に襲われ、完全には寝なかったものの、かなりボーッとしていた。子孫のハドック船長と出会った後ぐらいから、がぜん眠くなった。インディ・ジョーンズ物と同様のノンストップ・アクション・アドベンチャーなんだけど、ぜんぜんハラハラしないのだよね。実写とアニメの違いもあるだろうけど、ハラハラドキドキがない。船の模型に隠された紙片を集めて、それで、どーせ宝物を見つけるんだろ? という予定調和の話が進むだけ。展開に意外性もなく、かわいいヒロインも登場せず、感情移入できるキャラクターもいないんでは、見る気が失せる。
そもそも、そんな大切なメッセージを帆船模型なんかに封入するって、ありか? しかも、アドック卿の邸宅は売りに出され、帆船のひとつがノミの市で売られているって、なんでだ? そんな、基本的な部分でテキトーだから、見る方も気が乗らない。
タンタンがアホであることも障害になる。たくさんの事件を解決していると紹介されるけど、画面で見る限り、そんな才能があるように見えない。むしろトンマだ。タンタンが冒険を遂行できているのも、偶然のラッキーが積み重なっているだけ。そんなに運がいいのかよ、タンタンって、ってなぐらいが感想だ。
やっば、古典的映画の上っ面をなぞるだけでは、もう、説得される人はいないと思うのだよ。手法の完成度は分かった。それよりむしろ、物語性の豊かさ、意外な展開、驚くべきラストがみんな見たいんだよ。こんなテキトーなんじゃなくて、ね。
それでも、愛してる6/28新宿武蔵野館2監督/ジョディ・フォスター脚本/カイル・キレン
原題は"The Beaver"。映画に登場するマペットだ。役者名のスペルの中の数文字が青く残り、次の役者名でつかわれている文字につながっていくかたちのオープニング。人と人とのつながりを示しているのかも知れないが、この映画に人と人とのつながりなんて、ちゃんと表現されていたのだろうか…。
夫がうつ病になった一家の物語。ウォルター(メル・ギブソン)はおもちゃ会社の二代目社長。妻メレディス(ジョディ・フォスター)はデザイナーかなんかだっけ? 自立している女性だ。高校生の息子ポーターと、小学生のヘンリーがいる。ウォルターは家庭や会社から逃避。なんと、メレディスは夫を家から追い出してしまっている。なので、ウォルターは一人暮らしの酒浸り。…って、うつ病患者に対する処し方じゃないぜ、これは。ひどい家族じゃないか。
ある日、ウォルターはクルマのトランクにビーバーのマペット人形を見つける。人形のことは家族の誰も知らないみたい。どこから紛れ込んだのだろう? で、左手にはめたら、堰を切ったようにぺらぺらとしゃべれるようになり、家に戻ってウォルターと工作をしたり会社でビーバー人形の工作セットをヒットさせたり、はたまたメレディスともよりを戻したり、いいことずくめ。でも、ビーバーマペットはつねに装着。外せない。ヒット商品のせいでテレビや雑誌に引っ張りだこ。でも、外せない。ウォルターの代弁者として、不可欠な存在になってしまった。そのせいで「頭がおかしい」との評判が立つが、そんなことは気にしない。でも、メレディスは夫にフツーになって欲しかった。結婚記念日は人形を外して! と厳命し、そのせいでレストランで大げんかになってしまう。…って、当然だよな。うつ病を緩和させていたのは人形なんだから。緩衝材を挟むことで視線や対立を避け、ストレスを回避できていたのだから。なのにメレディスは、理解できなかった。アホだね、この女。
まあ、この辺りまでの展開は納得できるんだけど、以降がよくわからない。まずは、メレディスと息子2人が家をでていく。風呂場で首つり自殺を試みる。さらに、それまで曲がりなりにもウォルターの管理下にあり、単なる人形だったビーバーが突然意志を持ち始め、ウォルターを襲う。そして最後に、ウォルターはマペットに支配されてしまった左腕を切断する…。画面ではシャッターの下敷きにしたような絵だったけれど、もしかしたら何らかの手段で断ちきったのかも知れない。で、こうなってやっとメレディスが病院に駆けつける。…という話である。題名の「それでも、愛してる」や、キャッチフレーズの「うつであっても、大丈夫。夫婦と家族、これからも、ずっと、いっしょに」がうそ寒く聞こえる。そんな映画じゃないだろ!
精神科でも治らなかったうつ病から、自らのアイディアで抜け出せた男がいた。けれど、彼のいささか不自然な行動を家族が許容できず、結果的に追いつめ、死へと追い込んだ物語だ。幸いなことに首つりは失敗に終わった。でも、精神は分裂し、人格障害に陥ってしまった。その結果の片手切断だ。そうなってやっと妻が労りの態度を見せるようになった。…というところで映画は終わっているけれど、果たしてその後どうなったかなんて分からない。相変わらずメレディスがフツーのウォルターを期待しつづけていたとしたら、大ハズレだ。そんなことには、きっとならない。ビーバー人形をなんのわだかまりも見せず受け入れたのは、小学生のヘンリーだけだった。でもいずれヘンリーも物心がつけば、フツーと違う父親を拒否するに違いない。未来は、そんなに明るいとは言い難い。そういう映画だと理解したんだが…。
それに、やたら観念的なセリフがあったりして、家族のそれぞれがどういう考え、立場でいるのかも、よく分からない。分からないまま中盤へと突入するので、実は途中から眠くなった。眠りはしなかったけれど、細かなことはよく覚えていない。くだくだ、るせー! とは思ったけど。
この映画のもうひとつの芯は、息子ポーターの話だ。利発な少年で、金をもらってレポートの代筆をしている。そこに、チアリーダーの女の子ノラが、卒業スピーチの代筆を頼みにくる。頭が良くて美人で、っていう、ポーターには縁のない娘が近寄ってくる。…という設定自体にリアリティがないよな。自分でも何度も下書きをして、その結果、ポーターに金を出してもいいから依頼する、その根拠はなんなのだ? さらに、ノラはヤク中の兄を亡くしているとか、ダギング(スプレーのイタズラ書き)で逮捕歴ありとか、優等生に似合わない過去が披露されるのだけれど、それらは何を意味しているのかさっぱりわからない。ウォルターのうつ病と、どういう関係があるのだろう。あるいはまた、家族、という切り口から関係あるのか? どーも、そのあたりが分からなかった。
ムリにダギングに誘って警察沙汰になるなど、ポーターのすることはあまり頭がいいとは思えない。さらに、友人のレポートの代筆が発覚して、ブラウン大学への推薦も取り消される。いったいポーターは何のために金を稼いでいたのか? 映画の中で説明されていたっけ? いったんは断絶したポーターとノラの関係だけど、最後はノラの方からポーターに近寄ってきて、壁に直接ではなく、壁に貼った紙にイタズラ書きをして見せる、というエピソードもある。のだけれど、ポーターとノラの話が、うつ病とどういう関連があるのか分からないので、どーもすんなり胃の腑に収まらない。
てなわけで、前半はそこそこ見せたけれど、後半はわけの分からないぐずぐず状態で、要は、ほとんど整理されないままなんとかカタチにしてしまったようなところがミエミエで、説得力に欠けるのだった。
ネイビーシールズ6/29シネ・リーブル池袋シアター1監督/スコット・ウォー、マイク・マッコイ脚本/カート・ジョンスタッド
原題は"Act of Valor"。勇ましき行動、とかいう感じかな。allcinemaの荒筋は「巨大なテロの脅威に立ち向かう米海軍特殊部隊“ネイビーシールズ”の活躍を、徹底した本物志向で描き出した迫力のミリタリー・サスペンス・アクション。ネイビーシールズの全面協力の下、本物のハイテク兵器や戦闘機、潜水艦が登場するだけでなく、メインキャストも現役のネイビーシールズ隊員を起用」というもの。シネ・リーブルで長いことかかっているのも、この「本物志向」のせいか。固定客がいるんだろうな、この手の映画は。でも、こちらは武器の種類はまったく分からない…。
話は分かるような分からないような…。フィリピンの小学校で、イスラム聖戦派の自爆によって米国大使が殺される。仕組んだのはテロリスト、アブ・ジャバール。一方、コスタリカに潜入中の女性CIAが誘拐された。その救出に米海軍特殊部隊ネイビーシールズが派遣される。女性CIAは麻薬王クリストが目当てだった(のか?)が、アブ・ジャバールとのつながりもある模様。アブ・ジャバールはフィリピン人の回教徒(っていうのもいるのか…。キリスト教ばかりかと思ってた…)に暗示をかけ、自爆集団を確立していた。その自爆集団をソマリア経由でメキシコに入国させ、地下トンネルを通って米国に密入国させるつもり。あとは、セラミック弾の仕込まれた爆弾を使用し、全米各都市で自爆テロを遂行する予定。…という情報を、自分は指名手配されてるからとアブ・ジャバールと手を切り、トンズラこいたクリストから聞き出して、自爆テロ阻止に動く、というのが大筋。その大筋は、なんとなく分かる。のだけれど、細かい部分はよく分からない。ま、分からなくても、とくに問題はないと思うけど…。
ネイビーシールズのメンバーが、よく分からない。大尉と、その片腕、それからヒゲ曹長がいるのは分かった。でも、ヒゲ曹長以外は、ほとんど顔の区別がつかない。この映画のキモとなるナレーション(最初は誰が誰に言ってるのか「?」だった)が、映画の途中で大尉が片腕に(片腕が大尉に? どっちがどっちにだか正確に覚えてないけど)渡していた物だな、と。でも、ジジイみたいな声が最後は大尉(?)の声になるのは、なんで? …てなこともよく分からなかった。
戦闘シーンやアクションシーンはお見事だけど、要はドラマが足りないのだよね。話は終わってみれば案外と単純。分かりにくいのは人物の見分け方で、だからドラマがないんだけど。ある意味で、人物は構成要素=歯車みたいなもので、役割を果たしているだけ、みたいな感じ。ま、映画全体が「若者よ来たれ、米国海軍へ!」みたいなプロパガンダ&リクルートみたいなものだから、仕方ないんだけど。
ホンモノであるというのは、どこが凄いのかよく分からない。そういう中でも、「おお」と思ったのがいくつかある。ヘリが船をつり下げて行くってこと。模型飛行機を戦闘場面に飛ばし、周辺の映像を見ながら戦闘するということ。昼間の弾丸軌道が、オレンジ色の光になって見えること。それ以外は、原潜がホンモノだとしても、だから何? なんだよね。
それにしても、ネイビーシールズの銃弾は的の頭部にビシバシ当たるのに、的の銃弾はほとんど当たらない、ってのはホントなのか? 手のひらに穴を開けられた女性CIAは、その後どうしたのかな? なんていうことかせ気になってしまう。
しかし、いま、こういう映画をつくるというのは、どういうことなのだろう。米海軍に応募する人が激減してるのかな。だからこんな国家政策みたいなPR映画がつくられちゃうのかな。イラクも終わり、ビン・ラディンもいなくなったいま、テロへの脅威は大幅に激減しているはず。なのに、イスラム原理主義の自爆テロを脅威として描いているわけで、現実とはズレているのではないだろうか。まあ、それが一般人に一番分かりやすい仮想敵であるのは分かるけど、ちょっと変だよな。
兵員たちにしても、何のために戦うのか、ということについて納得できる答えは持ち合わせているのだろうか? 相変わらず国外に出張って米国の正義を押しつけているわけで、命令だからとそれに文句もいわず従い、でもそれを「お国のため」と信じさせられる。それに、米国民は納得しているのだろうか。ううむ。よくわからない。
大尉は、奥さんが子どもを生む前に亡くなってしまった。それも、部下をかばって手榴弾の上に被さるようにして死んでいった。とても凄いことだとは思うけれど、それはそれ。奥さんはこれからどうやって暮らしていくのだろうか。子どもは、父親を知らずに成長していくのだろうか。それとも、数年後に奥さんは再婚しちゃうのだろうか?
敵側でも、あくまで原理主義に忠実なアブ・ジャバールがいるかと思えば、潮時だからと家族のために第一線を退くクリストみたいなのもいる。その軟弱なクリストがいなけりゃ、アブ・ジャバールの悪だくみは露見しなかっただろうに…と思うと、戦略よりも偶然が支配しているのだよな、この世の中は、という思いを新たにしてしまう。
そうそう。あの、ヘルメットの上に付いているカメラみたいなのは何? 何にために利用するのだ?

 
 

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