2012年7月

ブラック・ブレッド7/3銀座テアトルシネマ監督/アウグスティ・ビリャロンガ脚本/アウグスティ・ビリャロンガ
スペイン/フランス映画。原題は"Pa negre"。カタルーニャ語で黒いパンという意味らしい。しかし、上映前のロビーで「人間関係が分かりやすく載っているパンフレットを販売しております。ネタバレはしておりませんので…」なんてアナウンスしている。げ。また複雑怪奇な話か…。「裏切りのサーカス」のそうだったけど、「リピーター割引」なんてのもやっている。一回見て分からんような映画は不良品だろ。そう思いつつ見ていった。でも、「裏切りのサーカス」ほど省略しているわけではない。というか、言及していない、が正しいかも知れない。よく分からなかったのは、アンドレウが身を寄せる家のことだ。ババアが1人。オバサンが3人。子どもが4人。最初、アンドレウ1人が預けられたと思っていたので、オバサン3人はババアの娘かと思ってた。そしたら、なかの1人はフロレンシア(アンドレウの母)だったのね。でも3人ともババアの娘だと最後まで思ってた。でも、人物関係図を見たらババアはファリオル(アンドレウの父)の母親だった。で、2人は娘でいいのかな。ヌリアは、ババアの息子の娘、みたいだな。それ以外は、なんとなく分かった。分かったけど、この映画って、修飾語と接続詞がなくて、名詞ばっかり、みたいな映画なので、因果関係やつながりがほとんど分からない。いや、それ以前に、スペイン内戦後の世界のようだけど、西暦何年なのかも分からない。ちったあ気を配れや、そのぐらい。歴史好きな連中ばかりじゃないんだからさ。
荷馬車の男(ディオニス)が、息子(クレット)とともに覆面男に殺される。目撃したアンドレウが村に戻って報告する。でも、村の人は「たたりだ」と言ったりして驚かない。アンドレウは父のファリオルとともに呼び出され、警察(かと思ったら、町長なのか?)で事情聴取を受ける。ファリオルはアンドレウに「余計な通報をしやがって」みたいにいうし、署長(町長?)に「お前らみたいな連中は…」扱いされる。どうもファリオルは共産主義者で、ディオニスと一緒に鳥を商売にしていたことがあるらしく、仲間らしい。
で、事件からどれぐらい経ったのかは知らないが、ファリオルはパリへ逃げるという。で、アンドレウと母はババアの家に厄介になることに。ヌリアは、ババアの息子の娘でいいんだけど。あとの2人は、誰の子なんだ? ババアの娘2人のどちらかの子ども? 若い方はまだ未婚? そういやあ、変な中年に「嫁に来てくれ」とかなんとか言われてたけど…。
で、新たな環境になじんでいくアンドレウの様子が延々と描かれていくのだけれど、すっかり冒頭の殺人事件のことは忘れ去られたかのよう。どうなってんだ?
ヌリアの意味深な存在。裸は教師に見せる? いやまて、あの年で教師と関係があるような言い方も…。左手の指がないのは、どういう意味? 教会で働く肺病の青年は、なんなんだ? 背中に羽が生えている? 夫ディオニスを失って、墓の前で泣いている妻パウレタはどういう存在? それよか、息子のクレットは生きてるのか? どうなったんだ? 洞窟に隠れているピトルリウアって、誰よ。事故現場でクレットがアンドレウに言った言葉が、ピトルリウアだったよな。母フロレンシアが隠し持っている写真の主で、背中に羽の生えた衣装のなんとかいう男は、何なんだ? その墓もあったようだったけど。マヌベンヌ婦人っていうのは、農場主なのか? それでババアたちは小作をやってるのか? 思わせぶりに風呂敷を広げているけど…。
で、アンドレウは夜中に屋根裏部屋からの音を聞く。ヌリアは「行ってみれば」と鍵の在りかをアンドレウに教える。で、夜中に行ってみたら、フランスに行ったはずのファリオルが鳥籠をつくってた! 「フランスから戻ってきた」というけれど、本当に行ってたのか? それに、翌日ヌリアは「お父さんがいたんでしょ」といったりする。なーんだ。みんな知ってたってことかよ。ていうか、何があったんだ? と思っていると、夜、公安みたいのが家にやってきてファリオルが連れていかれてしまう。なんで? 冒頭の事件の犯人という話もあるし、アカだからというのもあった。アカだから、なら、もっと早く捕まっててもおかしくないだろうに…。よく分からない。
で、ピトルリウアともう1人(写真の羽根の男?)はホモ関係で、洞窟で去勢されたとかなんとか…。襲った中にファリオルもいた? とかなんとか、よく分からんけど、をアンドレウは知ったりする。
捕まる前にファリオルは「マヌベンヌ夫人に相談しろ」という。面会に行ったら、マヌベンヌ夫人への手紙を手渡される。フロレンシアはそっと見てからマヌベンヌ夫人に渡す。マヌベンヌ夫人は署長(町長?)への手紙をフロレンシアに渡す。その手紙をもって行くと、執務室でフロレンシアは署長(町長?)に…。その様子をアンドレウが覗いている…。ほんと、好奇心の強いやつだな、この子ども。…でも、効なくファリオルは死刑になるのだけれど、直前にファリオルとアンドレウが面会を許されていくとき、処刑後の死骸を運び出しているところを通る、ってのが凄いね。で、2人で面会後、アンドレウだけが外に出るんだけど、最後のセックスが許されると言うことなのかい?
しかし、ヌリアが「あんたの父さんはバルセロナに移送されるのよ」といってたからそうなのかと思ったら、いきなり教会で葬式なので「えっ?」と思った。で、神父は「教会を凌辱したしたやつの葬儀はできない」と拒否するんだけど、これは内戦の影響なのか。よくわからない。そんなこんなで悲嘆にくれているとパウレタがやってきて「なんとかかんとかなんとかかんとか」と罵倒するように言うんだけど、どうも、それは冒頭の殺人事件の背景を曝露していたらしい。そして、犯人はファリオルだと指摘していたみたいなんだけど、セリフでまくしたてるだけで、しかも、名前だけ登場する人物がいたり、それまで登場していない人物の名前が混じっていたりして、こちらは「?」。ぽかーん。である。おい。そういうネタバラシの仕方はないだろう。それじゃ分からんよ。むかついたね。
結局、なんのために登場したか分からない肺病青年や、ヌリアのエピソード、学校風景なんかをだらだら描かないで、肝心部分をちゃんと描けばいいじゃないか、と思った。しかも、そのことをフロレンシアはファリオルのマヌベンヌ夫人への手紙を盗み見した時点で悟っていたらしい。なんだよ。まったく。
で。いつのまにかアンドレウはマヌベンヌ夫人の養子になる話が進んでいて。アンドレウは断るようなそぶりを見せていたんだけど、なんと、ぬけぬけと養子になって貧乏生活を脱出。上流階級の学校に移ったんだけど、そこに面会に来た母フロレンシアを冷たく突き放す、というところで映画は終わっている。
ぎゃー。なんなんだ。この中途半端さって。スペイン映画と言えば内戦のことばかり描いていて、でもなかなか濃厚な描写の映画が多くて嫌いではないんだけど、この映画みたいに説明不足な映画はめずらしい。殺人事件の背景も分からなかったし。あれが1回見ただけで分かった人ってのは、凄いな。尊敬するよ。いろんなエピソードも多くはみな中途半端で放り投げっぱなし。意味ありげに見えて、かなりのいい加減な映画であると見たぞ。ま、スペイン内戦を記憶しているスペイン人には評価が高くても、国外で上映するならそれなりの配慮がないと分からんよ。
アメイジング・スパイダーマン7/4新宿ミラノ1監督/マーク・ウェブ脚本/ジェームズ・ヴァンダービルト、アルヴィン・サージェント、スティーヴ・クローヴス
原題は"The Amazing Spider-Man"。なかなか渋いスパイダーマンだった。よくあるSF+学園ものでスタートするんだけど、話が重層的になっているし、スパイダーマンとなるピーター・パーカーの成長物語としても見応えがある。育ての親となる伯父(マーティン・シーン)伯母(サリー・フィールド)もいい。スパイダーマンもかっこいい。
父リチャードとカート・コナーズはオズコープ社の同僚。一緒に遺伝子研究をしていたけれど、リチャードと母は誰かに襲われる。それから10年ぐらい? カート・コナーズはオズコープ社の研究者として活躍していた。伯父伯母に育てられたピーターは、あるとき父のカバンを見つけ出す。中には、父とカート・コナーズの写真、遺伝子研究の鍵となる計算式が入っていた・・・。ピーターはオズコープ社の研修にもぐり込み、そこで蜘蛛に刺されて超能力を身につける…。という辺りはよくあるパターン。しかし、ピーターがダメ男という設定で、いろいろとドジを繰り返すというところがおかしい。
超能力を身につけ、まずは学校のいじめっ子にバスケットボールで仕返しをする。それを伯父に咎められてむしゃくしゃ。コンビニ強盗を見のがしたら、たまたま近くを歩いていた伯父がその強盗に撃たれて死んでしまう。そこで直情的に犯人捜し。なんだけど、弱虫がマスクマンになって悪いやつを懲らしめる過程は「スーパー!」の逆パロディかよ、思えてしまう。雲の糸発射装置を(どうやったのか知らないけど)発明したり、スーツやマスクを自分で縫ったり。手作り感が笑えたりする。
そんなことをしてるうち、スパイダーマンは警察に目をつけられるのだけれど、その警部が、ピーターの彼女グウェンの父親っていう設定も、話を面白くしている。ピーターは警部のスパイダーマン批判に刃向かうんだけど、言い負けてしまう。落ち込んでいるとき、ある事件が発生して、スパイダーマンは伯父殺しの犯人捜しから、目を違う方に向け出すのだ。なかなかよく考えられた脚本だ。
学園の中の、いじめっ子。そして、伯父殺しの犯人。父親と同僚だったカート・コナーズの謎。カート・コナーズを首にしてしまうオズコープ社…。少しずつオーバーラップしながら進んでいき、本映画の最大の敵カート・コナーズ=爬虫類男との戦いをクリア。しかし、その代償としてグウェンの父の警部が死んでしまう。すべては、父親が隠してきた計算式をカート・コナーズに教えてしまったことから始まっている。その反省と成長があり、さらに次回への布石も打たれている。まだまだ両親の謎もあるし、伯父殺し犯人も捕まってない。さあ、次回作はどうなるのかな。
あり得ない! はたくさんある。引き出しの底に隠した書類が無事だった…って。家が家捜しされるなら、伯父の家に探索の手が伸びても不思議じゃ内だろうに…。いじめっこにボコボコにされたピーターを誰も助けないのか? 簡単にオズコープ社に潜入でき、実験室にまで入り込めてしまう! そこで蜘蛛に刺されたせいでピーターはスパイダーマンになるんだけど、それしきのことで超能力が得られるなら、オズコープ社の社員の何人かがスパイダーマンになっていてもおかしくないだろ。ピーターは、両親が飛行機事故で死んだって教えてもらってなかったの? グウェンがいじめっ子の家庭教師をしてるのはなぜ? グウェンがオズコープ社でバイトしてるのはなぜ? カート・コナーズの右手はいつどうして切断されたのか? 警察はどうしてあんなにトンマなのか? オズコープ社は何の研究をしてたのだ? とかなんとか、「?」に加え「変!」がたくさんある。どーせアメコミだから、ってゆとりの見方もできるんだけど、やっぱフツーに考えておかしい。次回作で明らかになることもあるだろうけど、もうちょいツメをしっかりしてもらえたらな。
でも、スパイダーマンは格好よかったし、アクションシーンも何がどうなったのか分からないぐらい早いんだけど、その見えない=判別できないほどの速さも、なかなかリアルっぽい。それになによりも、リアルに悩み苦しむスパイダーマンが生々しくてよい。ヒロイン・グウェン役のエマ・ストーンは目がでかくて濃い顔立ちだけど、嫌みがないからいいか。個人的には、バスケのシーンでインクをこぼされた女の子が可愛いみたいだったんだけどね。
プレイ‐獲物‐7/5ヒューマントラストシネマ渋谷シフター1監督/エリック・ヴァレット脚本/リュック・ボッシ、ローラン・チュルネル
フランス映画。原題は"La proie"。英文タイトルは"The Prey"って、Playじゃなくて「餌食」の方なのか。それでサブタイトルが「獲物」なのか。
要素はそこそこなんだけど、料理の仕方が大雑把。さすがフランス製のアクション。リュック・ベッソンとか「ジャック・メスリーヌ」とかとと同じで、展開は意外性に満ちててめまぐるしいけど、ありえねー! 論理的にどうなんだ? って思えるところがたくさんある。のだけれど、これが無謀に面白いから困ってしまうってやつ。主人公のアドリアンは、ただの強盗かと思ったら、逃げ足は速いは1人で3人の猛者をのしちゃうは列車へ飛び乗ったり飛び降りたり撃たれても走る走る。おまえはジェイソン・ボーンか! それを追う警察はトンマ揃いで出し抜かれてばっかりなんだけど、胸は薄いけどスラリと背が高くて理知的な顔立ちの女刑事クレールが格好いいんだ、これが。そこに、少女連続暴行犯のモレルが絡んで、さあどうなる! って話。転がるような展開で、飽きない。アクション、サスペンスなんだけど、あまりにあり得ないが続出して時々笑っちゃったりした。しかし、ラストもいかにもフランス映画って趣で、なるほどね。ツメは甘いけど、面白いから許してやろう、って気になってしまう。
銀行(?)強盗で収監中のアドリアン。驚くのは妻が面会に来ていて、Sex用の部屋を用意されていること。すいぶん進んでいるんだな。フランスは。それと、盗んだ金を隠しているらしいんだけど、それが見つからないままになっていること。同じ監獄に仲間が入れられていて、金の隠し場所はアドリアンだけが知ってる、って設定。だから仲間から「教えろ」としつこくされるんだけど、言わない。しかも、アドリアンと仲間が何で揉めているか、囚人たちはみな知ってるらしい。…って、警察の追求は甘すぎないか? 金の隠し場所ぐらい拷問してでも吐かせればいいのに!
同房の男がモレルで、極悪囚人がモレルを犯そうとする。もちろん看守も巻き込んで。襲われてるモレルを、アドリアンが救う。で、モレルは誤認逮捕ってことで釈放されるからって、金の隠し場所のヒントになることをモレルに告げてしまうのだな。面会に来ていた妻が「隠し場所を教えて」っていっても教えなかったのに、モレルを通じて教えたのには訳がある。強盗仲間がアドリアンの妻と娘を監視しているってことを知ったからだ。が、元警官の男がアドリアンに面会に来て、モレルは誤認逮捕なんかじゃない。連続暴行犯に間違いない、って教えられてから気が気ではない。…というところに、極悪囚人3人組が独房からでてきてアドリアンに…。でも、なんと1対3で勝っちゃうんだよお立ち会い。ついでに極悪看守も、たぶんやっつけて、まんまと脱獄に成功してしまう。なんて行き当たりばったりでテキトーな展開なのだ!
で。おとり捜査で認められたクレールが、アドリアン逮捕の指揮を執ることになる。のだけど、アドリアンが最初に自宅に戻るってのは、あり得ねーだろ。いきなりクレールに追いつめられるんだけど、窓ガラスを破って地上に落下。バンの屋根に落ちて無事って、おいおい。一緒に落ちた男性刑事は伸びてたぜ。でもって走る、走る、走る。最後は電車の屋根に飛び乗って逃げ切るって…。
アドリアンが隠し場所(墓場)に行くと、中に妻の死骸。モレルの犯行なんだろうけど、この、あまりに素っ気ない切り捨て方はフランス映画だなあ。で、娘はモレルとその彼女(妻?)が連れ回しているという寸法なんだけど、この妻ってどういう頭の構造をしているのだろう。モレルが少女にちょっかいだして殺していることを知っているんだぜ。女としてモレルを独占したいと思わないのか? 理解不能。
モレルは監獄でアドリアンの毛髪を頂戴してきていて、それを自信の犯行現場に置いておくということにしたらしい。それでアドリアンは、少女連続暴行犯としても追われることになる…のだけど、そんなのアドリアンのアリバイを見れば一発だろ。山の中で真っ黒になった少女の死骸が見つかってたけど、彼女が殺された頃、アドリアンは収監されていたんじゃないのか? いや、その前に、あの死骸が発見された経緯が描かれていないんだけど、ひょっしてモレルの通報なのか? なんか、警察は杜撰だな。
警察といえば、黒人の情報担当がときどきでてきて、そんなこと知ってたのか、っていうような情報をもってくるんだけど、あの情報能力を駆使すればもっと的確に効率よく操作できると思うんだけど、そうはなってないんだよな。映画としての展開が優先されちゃってるのかな。
で、アドリアンは、面会に来た元警官を頼ってやってくるんだけど、どーもこの元警官は免職にでもなったみたい。ひとりで犯人モレル説を叫んでいたせいかな。なのに警察に平気で入り込み、署長室から署長をいつわり、電話の発信元を調べちゃったりする。おいおい。そんなことできるのかよ。っていうより、電話の発信元を調べられるなら、ちゃんと調べて真犯人を追及しろよ、といいたくなってしまった。
で、モレルが南仏にいるらしいことが分かり、アドリアンはそっちに向かう。で、なんと、パリ(?)のスーパーマーケットで会った少女と再会するんだけど、そりゃあり得ないだろ。で、モレル、彼女、アドリアンの娘の3人を乗せたクルマに「道案内を」ってことで少女を同乗させ、山中へ。で、途中逃げた少女をひとり追いかけ、殺しちゃうのだよ。おお。なんとまあ、この呆気ない切り捨て方。フランス映画だなあ。
ここで疑問なのが、物心ついているはずのアドリアンの娘が、大人しくモレルと彼女にくっついてることだな。いくら言語障害があるっていったって、感情はあるんだから騒いだりしないのか?
でまあ、逃走するアドリアンを救うため、元警官は死んでしまう。なんとまあ、呆気ない切り捨て方! で、アドリアンの隠した金で南仏に別荘を借りた(買った?)モレルの元へ、アドリアンとクレールが向かう…。ドンパチあってクレールは撃たれたんだか何だか分からないけど気絶。ほんと、最後までドジな刑事のままだった。スタイルは超絶素晴らしいんだけど。娘を奪って逃げるアドリアン。追うモレル。…って、モレルも自分がヤバイって思わないのか? 思ったらアドリアンどころじゃないと思うんだが…。崖に追いつめられ、落ちたかと思わせて木にぶら下がっているアドリアン。なんて古典的な! 崖の上から撃とうとするモレル。そのモレルを、やっとおいついたクレールが射殺。経緯を分かっていると思えないクレールの上司がそれを見守り、クレールに「よくやった」みたいなまなざしを向ける。おお。日本の2時間ドラマじゃん。…というところに、銃弾。アドリアンは撃たれて落下。撃ったのは、真っ黒になって発見された少女の父親で、警察の捜査内容から真犯人をアドリアンと思い込んでいたため。って、おやおや。
でその3ヵ月後だったかな。教会で過ごすアドリアンの娘のところに、クレールが訪れる。なんと、娘宛にモロッコ(だっけ?)から手紙がきていた、と尼僧がクレールに渡す。微笑むクレール。生きていてくれたのね、ってところなんだろうけど、おいおい。アドリアンはどうやって娘のいる教会の住所を知ったんだ? とまあ、ムチャクチャな展開なんだけど、まあ、それが面白いのだから困ったもんである。
善き人7/9キネカ大森3監督/ヴィセンテ・アモリン脚本/ジョン・ラサール
イギリス/ドイツ映画。原題は"Good"。併映が「サラの鍵」で、収容所つながり。でも、「サラ〜」は見なかった。
たいていがナチ=絶対悪の昨今、この映画のような巻き込まれ型の苦悩を描く作品はレア。なのでとても面白く見た。ところがIMDbでは星が6.1と、フツー評価。「巻き込まれたなんて言い訳だ、死んでも反対すべきだった」とでもいうのだろうか。高評価ではないことに納得がいかない。彼我の考え方の違いなのだろうか。
allcinemaのあらすじは「1930年代、ナチス台頭のドイツ。ベルリンの大学で文学を教えるジョン・ハルダーは、家族思いの善良で平凡な男。ところがある日、安楽死をテーマにした彼の小説がヒトラーに気に入られ、渋々ながらも入党せざるを得なくなる。しかしジョンには、モーリスというユダヤ人の親友がいた。生き延びるためのやむを得ない選択ながら、モーリスへの後ろめたさに苛まれるジョン。やがて、ユダヤ人への弾圧が激しくなる中、ジョンはモーリスの国外脱出を手助けしようとするが…」というもの。
きっかけとなった小説は、病気の妻を死なせるという内容。ヒトラーは、役に立たない人間を抹殺することの正当性を欲しがったというわけだ。それでジョンは召還されるのだけれど、挨拶代わりのハイル・ヒトラーのたどたどしさが、ジョンの気持ちを物語っている。なんと、相手にされる前にするのだ。けれど、及び腰にふらふらと右手を挙げるが伸びきらない。「ここではした方がいいんだろうな。でも本心じゃないんだよ」というためらいが、鮮やかに描かれている。こうしてジョンは依頼されるままに医療機関の調査なんかもするようになるんだけれど、ひとつ大きな壁があった。ナチ入党である。大学の学長?上司?である義父はすでに入党していて、出世するなら入党しろとしつこかった。でも、そんなことは嫌だ、というスタンスだった。まだナチの支配が圧倒的になる前だったからね。
第一次大戦で戦友だったモーリスは、ユダヤ人。ジョンの入党前、2人でビールを飲みつつ話すシーンがあるんだけど、ナチの台頭を少しも予感していない風だ。一般大衆の動向に対する読みも甘く、「そのうちつぶれる」としか思っていない。モーリスも、ドイツから出ていくつもりなんかさらさらない。その後のシーンでも、2人が第一次大戦時の話題になり、「俺たちはヒトラーに会ってる。使いっ走りの伝令伍長で、お前が呼んだらお前に敬礼したはずだ」なんていってる。ドイツ国民にとっても、ナチの台頭は思いもよらぬこと、だったということか。…これって、当時のドイツの知的市民の平均的な判断だったのか。しかし、こういうシーンがあるから、その後の暗黒時代がより強烈に見えるのだと思う。そういえば、このシーンもそうだけど、背景のエキストラがとても自然な演技で驚くほど。単なる書き割りではなく、それぞれの人生を背負った人間が生きている感じがよくでてる。これはこの映画全般にいえる。
ジョンにアプローチするナチの影。これと対をなすのが、20歳そこそこの学生アンだ。この映画は全体に彩度が高くなく、とくに前半はセピア系のモノトーンに近い発色になっている。そのなかで、アンの服の赤が切り取ったように浮きあがっている。話が進み、ジョンがナチに捉え込まれるようになると、ハーケンクロイツの描かれた国旗の赤との類似性が分かってくる。この2つの赤は、ジョンにからみつき、人生を狂わせていく赤だ。
ジョンは年老いた母がいて、でもそんな義母の面倒や家事を全くしない妻がいる。子どもも3人だったかな、いる。まあ、よく我慢してきたな、って気がする。でも、真面目で律儀なところが、いかにもドイツ人といった感じも伝わってくる。そう。ジョンは平凡な小心者なのだ。それが、突然、アンに狂ってしまう。アンがなぜジョンに接近したか、その理由は描かれていない。色仕掛けで大人の男を落とし、その地位と名誉を踏み台に生きていこうという積もりだったのか。魔性の女、という設定だ。ジョンという存在は、アンが生きていくのに都合よく利用できる存在と判断されたのだろう。学校で接近し、雨の中、自宅にまで押し寄せ、キスで迫ってくる。ダメな妻ヘレンが2階で寝ているっていうのに…。このことをモーリスに話しているのだけれど、勃起しなかった、らしい。戸惑いが先、だったのかも知れない。でも、ダメ妻との生活と比べたら、若い女の方がいいに決まってる。なんと仕事部屋を別に借り、そこでアンと暮らしはじめてしまうのだからやることは早い。母親、妻、子どもは置き去り…というわけにも行かないのだろう、郊外に家を借り、母をひとり住まいさせたみたい。でも、これって母親を捨てたも同然だよな。良心を捨てるのと同時期に、ジョンはナチに入党し、ついに、親衛隊の制服を着用することになる。気づいてみれば街はユダヤ人狩りが横行。モーリスから国外脱出のための切符の手配を頼まれるが、ジョンは「できない」としか言えない。小市民的な存在のまま親衛隊の将校になってしまった悲劇がじわじわ迫ってきて、自由がなくなっていく様子が見事。
ナチを扱った多くの映画では、ドイツ兵はみな一様に血も涙もない人間に描かれている。でも、そんなはずはないのだよな。本心ではなく、仕方なく命令に従ってきてしまった、っていう兵隊の方が多かったんじゃないのかな。つねづねそう思っていた。ヒトラーを支持した国民も、思いもかけぬ方向に突っ走っていくヒトラーに、きっと驚愕したんじゃないかと思う。いくら集団催眠的な状態だといっても、時が経てば目も覚めるだろう。目が覚めたとき、どうしようも無いことになっている…。そういうことではなかったのだろうか。この「善き人」は、そういう、これまでの疑問に対する回答のような映画のような気がする。
そんなことをいうと「言い訳するな」「やったことは犯罪』などという非難が湧き起こるような気がするんだけど、後世の価値観・見方で過去を断罪するのはムリがある。だって、そんなことをしたら、非国民! といわれるだけだから。というような、個々の国民の意志を離れた集団の犯罪について描いているのだろう。でもこれは別に弁解でもなく正当化でもないと思う。これからも、ともすればそうなってしまう集団心理と、ブレーキをかけられないことへの警鐘なんだろうと思う。芽は早いうちに摘まないとだめなのだ。
もう遅すぎる。でも、モーリスのために何とかしたい。ジョンは出国証明書がないと買えないパリ行きの切符を、駅員に「出世させてやる」というエサを見せて手に入れる。手に入れることができたということは、駅員もまた本意ではなく命令されたからやっているだけのことなのだ。大半の国民が、こうした疑心暗鬼に支えられてナチの言いなりになっていた。それが、当時のドイツなんだろう。
母親が死に、ユダヤ人が住んでいた豪邸を手にするジョンとアン。ジョンは、そういうことにも不感症になってしまったということか。ここで2つの面白いエピソードがある。ひとつは、フレディというジョンの親衛隊における同僚。実は彼も見えない圧力におののいていた。結婚してるのに子供ができないと、自分の評価が下がる。出世もできない。そうジョンに告白し、案に妻と寝てくれ、と依頼するのだ。そうまでして純血アーリア人であろうとするのも、フレディが見えない圧力に屈していたからだ。多くの国民は、疑心暗鬼の中、病人や障害者、ユダヤ人を排除する手伝いをしてきたというわけだ。もし誰かがその異常さに気づいて異を唱えていれば…。そういうメッセージも読み取れる。もうひとつは、パリのドイツ公使(だっけ?)がユダヤ人に殺されたからとユダヤ人狩りにいくことになったジョンに対するアンの態度。彼女は、親衛隊の制服姿のジョンに「鏡を見て」と勧める。どーもアンは、制服フェチだったのかも知れない。文学者が好きなふりして、親衛隊員ジョンを創造していったのだ、と。で、でかけようとするジョンの股間から性器をまさぐりだし、咥える。ユダヤ人への暴力と性行為が同一次元で重なり合い、快感へと昇華していく象徴のように描いている。エロスだね。
ユダヤ人狩りの現場で、ジョンはモーリスの部屋に行くが、不在。アンに「モーリスが来たら渡してくれ」と切符を託していたんだけど、なんとアンはモーリスをナチに売っていた…。ま、そういう役回りででているから当然なんだけど。
その後、ジョンは親衛隊の力を利用してモーリスが送られた収容所を探し出し、会いに行く。のだけれど、そこの管理者は、特定の人間を探し出すのは不可能、という。ユダヤ人は3万人もいて、も毎日のように大量に死んでいくからだ。収容所の中を、茫然自失でさまようジョン。「これは、これは、現実なのだ…」と、やっと現実を知って涙する。そこで終わる。
モーリスが生きているかどうか、それを見せずに終わるいさぎよさがいい。アンには決別の言葉を吐いたけれど、その後は見せない。妻と子どもたちの消息は簡単に触れられているだけ。さて、ジョンはこの後どういう判断をし、どう親衛隊の中で生きていったのだろうか。人間を取り戻した彼は、どうなったのか。その余韻が沁みてくる。
分からないのが、3個所ほど登場するジョンの幻聴。最初は、大学で那智の思想に合わない本を焼くシーン。あとは、パーティの楽隊だったかな。それから、ユダヤ人狩りにおけるトラックの荷台のユダヤ人、だったかな。突然、歌を歌い出すのだ。菓子の意味もよく分からなかった。重要なメッセージが込められているはずなんだけど、あれだけが分かりにくい描写だったな。
崖っぷちの男7/15新宿ミラノ3監督/アスガー・レス脚本/パブロ・F・フェニベス
原題は"Man on a Ledge"。Ledgeは「(建物の)水平の出っ張り、壁に取り付けた棚」という意味だって。日本語には適当な言葉がないのかもね。予告の、窓の外にいる男の場面しか見ていないので、どういう話なのかと思っていたら、男ニックは最後までLedgeにいた。さて、なんのために?
映画では早々に、ニックが元警官で無実の罪(?)で収監されていたことが描かれる。で、向かいのビルに弟ジョーイとその彼女アンジーが侵入する様子が描かれて、そのための時間稼ぎ、と分かる。なるほど。なんだけど、話がちと荒っぽい。脱誤→宝石店のビルに侵入、という計画を立てていたようだけど、脱獄なんてほとんど行き当たりばったり。暗証番号を盗むために、途中でセキュリティを意図的に呼び入れたりする。はたまた、ダイヤが見つからないのでイングランダーを金庫室に呼び込んだりすえるけど、イングランダーがダイヤをポケットにしまうことまでは計算できないよな。他にも、赤外線ランプで切るべきコードがみな赤に見えるだとか、 偶然が多すぎる。ビルの侵入も、素人にあんなことがどうしてできる? というような内容。話に入り込む前に、うさんくささが感じられて、前半がタルい。
タルいといえば、ニックの身元がなかなか割れないのがおかしい。元同僚のアッカーマンは、飛び降り騒ぎの現場で指揮を執るマーカスと顔見知りみたいだし、そもそも2年前の事件をマーサーも知っているのだから、犯罪者となったNYPDの警官だったニックの顔と名前ぐらい分かるだろ。
ニックがあのビルで飛び降り騒ぎをおこす必然性は、と考える。とくに思いつかないが…。そうそう。向かいの宝石ビルの屋上に穴を開けるとき爆発させるんだけど、そのタイミングでニックが飛び降りようという芝居をして、野次馬に喚声を上げさせる。っていうのがあったけど、それ以外には思いつかない。では、いずれ顔も身元もバレルのに、なんで飛び降り狂言なんか? という疑問がつきまとう。
ニックは交渉人としてマーサーを指名する。マーサーは、直近に交渉に失敗していて、交渉相手を橋の下に身投げさせた経歴がある。それで有名だから、ということらしい。それってニックにとってどういうメリットがあるんだろ。せいぜいニュースネタになりやすく、野次馬が集まりやすい、ってだけじゃないのか。そのメリットもよく分からない。最終的に問題のダイヤをジョーイたちが手に入れればよいことで、下の騒ぎを利用して云々というのは、当初は考えていなかったはずだ。たまたま映画ではいろんなことがあって、騒ぎを利用してのあれこれもあるけど、あれは想定外の出来事だろ?
マーサーがニックに煙草を差し出し、ニックは吸い殻を灰皿へ…。その指紋で本人確認されてしまうのだけれど、それはニックの計画なのか? 自分が誰であるか分からせるために、そんな手間をかけるのか? よく分からん。単なるトンマという可能性もある。なぜって、ニックは脱獄前に刑務所に犯罪計画のメモを残して、それが見つかって向かいのビルへの侵入計画が警察にバレるのだ。おいおい。ニックはアホか。それとも、犯罪計画を漏洩して、それによって宝石ビルのチェックをさせる(警備担当がセキュリティを切断して調査に入るが、そのときに暗唱ナンバーを盗むという場面がある)ためか? としたら、計画も壮大すぎるとしかいいようがない。
ウォーカーという名前が最後の頃に何度か出てくる。「誰?」。そもそも、2年前の事件の概要がよく見えない。巨大ダイヤの狂言強奪をイングランダーが仕掛ける。それは、資金に窮したイングランダーの保険金詐欺だ。ダイヤ輸送の警備には、旧知の警官マーカスとアッカーマンに相談した(で、いいのか?)。で、運搬の警備をニックに頼んだ(バイトらしい)。で、ニックは犯人にでっち上げられた…。という事件がセリフだけで簡単に紹介されるだけだから、よく分からなかったのだ。関係者は4人とかいってたような気がするんだけど、この経緯をちゃんと見せないのがよくない。言葉でだけじゃなくて、ちゃんと絵で見せればいいのに。
で、イングランダーと通じていたのは、現場で指揮を執っていたマーカスだけなのか? 元相棒のアッカーマンもなのか? わかりづらい。たとえばアッカーマンが、警察仲間がマーサーにもって行こうとする内部調査資料を「俺がもってってやる」と手に入れ、なかから何枚か抜いてしまうのだが、それはなんなのだ? 内部調査資料で真犯人が言及されていた? ようなことも言っていたけれど、それをいくらマーカスとアッカーマンが握りつぶしたって、内部調査室の人間が不審に思えば、再燃するんじゃないのか? っていうか、ニックが犯人にされていた時点で「そりゃおかしい」と意義を挟めただろう。なぜしなかったんだ。
他にも分からないことがある。最後。マーカスに銃を向けられたニック。そのマーカスをアッカーマンが撃つのだ。なぜなんだ? マーカスとアッカーマンがつるんでるなら、ニックを撃つはずじゃないのか? アッカーマンはニックの仲間なのか? ううん。よく分からん。ビデオなら何度も繰り返して字幕を読み、経緯が分かるんだが、映画じゃなあ…。字幕は懐かしい林完治だったけど、ううむ…。
ホテルのボーイが父親だったという仕掛けには「おお」と驚いた。ってことは、父親、弟、その彼女らがグルになってニックの脱獄→ダイヤの奪取→無実の証明をしようとした、ということだけど、ダイヤ奪取なんて離れ業が、素人にできようとは到底思えないよな。ありゃ、ミッション・インポッシブル並の離れ業だぜ。
マーサーは中島知子に似ている。最後、2人に関係は恋人同士に…って展開だったけど、これはありがちだな。
プリンセス・カイウラニ7/17新宿武蔵野館3監督/マーク・フォービー脚本/マーク・フォービー
原題は"Princess Ka'iulani"。ハワイ王朝の末路を描くが、ドラマがつくれてない。テレビの3時間ドラマを半分に縮めたみたいな感じ。行き当たりばったり、エピソードの積み重ね。人間は描けてないわ、たいしてない伏線も、ほとんど回収できてないわ。つくりが大雑把すぎ。もっと特定の誰かに焦点を当てるとか、切り口を考えるとかしないとなあ。だらだらな100分弱はひたすら退屈。
ハワイ王朝の末路を描いているんだけど、王と妃がいるのは分かった。で、カイウラニの父親が英国人というのも分かった。母親は、王の妹なのか? 王は「姪」といってたけど、血縁関係がよくわからず。王の妻もいたと思うが、子供はいなかったのか? それで王女に指名されたのか? そもそも、なぜ父親が英国人なのだ? そういうことも、知りたいではないか。
あとは、時代背景。アメリカとの関係、白人植民者はいつごろから? 原住民との関係は? どうやって王朝を維持してきたのか、それがなぜ崩壊に向かうのか…ということを、冒頭で簡単に説明してくれないと、よそ者には分からんよ。王朝支持の白人もいるみたいだし…。それに、ラスト近くで原住民の参政権に賛成するヒゲの白人がいるんだけど、それがどういう存在か、なんて前半ではほとんど触れられていない。王朝派vs侵略派(?)の拮抗状態も、クローズアップすべきだったと思う。そうすればサスペンス要素も加味できた。
カイウラニを演じるのは、クオリアンカ・キルヒャー。「ニュー・ワールド』の彼女? と思ったらそうだった。しかし、こんなに馬面だったっけ。ハワイ最後の王女なら、もっと美人に演じて欲しかった。若い頃のジェシカ・アルバとか…。
ハワイの情勢が怪しいので、カイウラニはイギリスに留学する。のだけれど、落ち着き先は、どういう関係なのだろう。父親の友人でハワイの土地もちのイギリス人らしいが、貴族なのか? 息子ショーンと娘アリスがいて、この娘がまた不美人。同じ学校に通うことになるが、同級生に意地悪され、女教師に手紙を破られる。というエピソードが挟まれるが、その後の展開はない。後に意地悪女教師が、亭主が死んで食いつめてるとかで仕事をもらいにやってくるんシーンがあるだけ。とってつけたような大雑把な回収の仕方だなあ。しかし、この女教師は美人だったぞ。
で、学校生活はあっという間に終わり、カイウラニはショーンから愛を告白される…。が、そのときハワイの王政は崩壊していた…。それを知らされずにいたカイウラニのもとに、父がやってくる。で、父の勧めでアメリカ大統領に懇願に行くんだけど、これも大雑把すぎ。到着後のスピーチで記者の賞賛を浴びたんだけど、どこかの新聞社のオフィスが映る。記者が「この記事を」というと部下が「見出しは?」と聞き返す。正確には覚えてないけど、記者はカイウラニを揶揄するような見出しを口にした。今度は、この記者が重要な役回り? と思ったら、以後出てこない。あらららら。さらに、正式招待ではなく、大統領夫人に招待されての食事会。任期があと4週間という大統領から王政維持の太鼓判をもらう。おお。と思ったら、新大統領は約束を反故にした、という展開。なんか、ずっこけまくりじゃないか。
まあ、カイウラニ自身の、いささかヒステリックでワガママな性格も、彼女への感情移入を妨げていると思う。周囲に知恵者がいるわけでもないのも気の毒だけど、結局はアメリカに併合されてしまう。で、旧王族として、ハワイにやってきた長官3人を招待してのパーティで、とつぜん「ハワイ原住民に選挙権を」と主張して、侵略派の逆鱗に荒れたかと思ったら、最初に書いたように王朝を支持するヒゲの白人がカイウラニの肩を持ってくれて、その願いは聞き取られました、とさ。なんだけど、島民の90(80だっけ?)%を占める原住民が選挙権を持って、それで政治は変わったのかどうかは描かれていない。
いったんは喧嘩別れしたショーンとの出会いもあるけど、「ぜひイギリスに」というショーンの願いに「私にはハワイでするべきことがある」とお断り。おやおや。2人の間に子供ができて、その子孫が「ファミリー・ツリー」のジョージ・クルーニーにつながるのか? と思ったら、違ったよ。ははは。しかし、カイウラニはハワイ併合後1年目に、23歳で死んでしまうんだと。あらららら。薄幸だねえ。というわけで、下手くそな展開と映画に、どーも、入り込めなかった(カサカサうるさいババアが近くにいたせいもあるんだけど)。
ハワイの原住民を下等民族扱いし、武力で併合・制圧するアメリカのやり口に憤りは感じる。しかし、同じことを日本も琉球に対してやってるんだよな、「琉球処分」ってかたちで明治政府が。19世紀末。遅れてきた帝国主義国家である日本とアメリカが、同時期に慌てたように小国それも島国を侵略・制圧行動をとっているのは考えるべきところがあると思う。その辺りにもうちょい焦点が当たると、ドラマチックになったんじゃないのかな。でも、あの馬面じゃだめかもな。
永遠の僕たち7/18ギンレイホール監督/ガス・ヴァン・サント脚本/ジェイソン・リュウ
原題は"Restless"。「落ち着かない、不安な、安眠できない」という意味だという。allcinemaのあらすじは「交通事故で両親を失い、自身も臨死を体験した少年、イーノック。以来、日本人の特攻青年ヒロシの霊が見えるようになり、今では唯一の話し相手となっていた。すっかり死にとらわれてしまった彼は、見ず知らずの故人の葬式に紛れ込むことを繰り返していた。ある日、それを見とがめられた彼は、参列者の少女アナベルに救われる。彼女は余命3ヵ月であることをイーノックに打ち明け、2人は急速に距離を縮めていく。そしてそんな2人を、イーノックの傍らでヒロシが優しく見守るが…」というもの。
地面に横たわる自身を、チョークで型どりするシーンから始まる。葬式シーンだけど、実は赤の他人のものと分かってくる。ここでアナベルと知り合うんだけど、このときのアナベルは本当の参列者だったのか? よく分からん。黒衣のイーノックに対してアナベルが「最近は普段着が流行り」なんていってる。彼の地はそういうものなのか。
で、何度目かの葬式のとき葬儀社の男に見とがめられ、それをアナベルが救い、接近する。最初は病院で働いているとウソを言ったアナベルも、実は脳腫瘍で余命3ヵ月と告白。イーノックも、両親に死なれ、学校でいじめられて登校拒否中ということがわかる。そんな2人の、繊細な関係がつづく。
背景が分かるまでの過程は引き込まれる。なんで葬式に? アナベルは病院の死体安置所まででかけたりする。死を身近に感じているから、だけなのか。身近に感じたら、拒否してもいいと思うんだけど。死体安置所で見とがめられたとき、アナベルは、病院ではウェーバーキッズと呼ばれていた。調べたけどよくわからない。スタージ・ウエーバー症候群?
このあたりまではヒキがあった。どうなるかな、と。しかし、以後が軽いロマンスのイメージビデオみたいになっちまう。当然のように2人はセックスする。アナベルは時間を惜しむように色んなファッションに身を包む。スポーツをし、寸劇も演じるのだけれど、意見の対立で距離を置くことになる。正直言って、ちょっとダレる。だって、どうでもいい話だから。
緊張感がもどるのは、アナベルがひきつけを起こして入院し…のあたりから。でも、もう根幹となるドラマのネタはすべて出し尽くしてしまっているから、驚くような展開はない。というか、見たばかりなのにもう記憶がない。どうでもいいような感じだからか。最後はアナベルの葬儀の場面で、スピーチしようとするイーノックの顔のアップ。その脳裏に、アナベルの想い出が甦る…のだけれど、イーノックはなかなか話だそうとせず、ためらったかのような笑みを浮かべたままだ。けど、このシーンはなかなかよい。感動も抑制が効いていて、お涙頂戴ではないし。
アナベルは、昆虫の写生や動物図鑑を見るのが好き。というキャラ設定以外、ほとんど人物は描かれない。母と、年の離れた姉がいる。それ以上はなにも描かれない。イーノックは両親が早くに死に、伯母に育てられている。ともに父親が不在というのが印象的。
幼い(正確に何歳かは分からない)イーノックは両親とクルマに乗っていて事故に遭う。臨死体験し、以来、日本の特攻隊員ヒロシの幽霊が見えるようになる。という設定なんだけど、とってつけたような話で面白くない。なぜ日本の特攻隊か分からない。原爆シーンと瓦礫も登場するが、なぜ広島ではなく長崎なのかもわからない。とにかく、ヒロシのエピソードは、なくても構わないと思う。最後の方で、2人はシルクハットに燕尾服姿のヒロシの幽霊をともに見るんだけど、死が近づいてアナベルも幽霊を見ることができるようになったということか…。ヒロシがなぜ天皇みたいな格好になるのかも分からない。
てなわけで、ガス・ヴァン・サントらしい繊細な演出が冴えているところもあるんだけど、間延びしてるところや、意味不明なところもあったりして、緊張が途切れてしまうのがもったいない。
アナベル役のミア・ワシコウスカ、見た顔だなと思いつつ気がつかなかった。『ジェーン・エア」のときは「アリス」の子だと分かったのに…。現代劇が初めてだったからかな…。
ハロウィンの衣装。イーノックは当然ながら特攻隊なんだけど、学校の元の同級生も同じ格好なのだ。そんなに特攻隊はポピュラーなのか?
加瀬亮の英語の発音は、自然だった。
ヒア アフター7/18ギンレイホール監督/クリント・イーストウッド脚本/ピーター・モーガン
原題の"Hereafter"は、「来世、あの世」という意味。津波のシーンが問題と、去年、3.11後に上映中止になった曰く付きの映画。
allcinemaのあらすじは「パリのジャーナリスト、マリーは、恋人と東南アジアでのバカンスを楽しんでいた。だがそのさなか、津波に襲われ、九死に一生を得る。それ以来、死の淵を彷徨っていた時に見た不思議な光景(ビジョン)が忘れられないマリーは、そのビジョンが何たるかを追究しようと独自に調査を始めるのだった。サンフランシスコ。かつて霊能者として活躍したジョージ。今では自らその能力と距離を置き、工場で働いていた。しかし、好意を寄せていた女性との間に図らずも霊能力が介在してしまい、2人は離ればなれに。ロンドンに暮らす双子の少年ジェイソンとマーカス。ある日、突然の交通事故で兄ジェイソンがこの世を去ってしまう。もう一度兄と話したいと願うマーカスは霊能者を訪ね歩き、やがてジョージの古いウェブサイトに行き着く。そんな中、それぞれの事情でロンドンにやって来るジョージとマリー。こうして、3人の人生は引き寄せ合うように交錯していくこととなるが…」というもの。
フランス、イギリス、アメリカの3つの国の人物を同時並行して追いながら、最後はイギリスのブックフェアへと導き、それぞれを交流させるという構造で、それぞれの話も面白い。さすがイーストウッドなんだけど、中盤でオカルト映画だと分かってしまう。これで大部がっくりしてしまった。"Hereafter"が「来世」の意味であるのが分かっていたら、期待外れにはならなかったのかもしれないけど…。要は、第三者として臨死や来世を描いているならいいけれど、この手の主張にも一理あり、みたいなスタンスなのが気に入らない。イーストウッドの力業で見せてしまうんだけど、終わってみればだからどうなの? という思いしか湧いてこない。ま、イーストウッドの関心領域なんだろうけど、対立や克服などのドラマ性が希薄だから、物足りないところもある。
たとえば、双子のジェイソンは、街のチンピラにからかわれて車道に飛び出し、跳ねられる。チンピラたちが逃げるかと思ったら、呆然と見守ってるんだよ。あの後、彼らはどうなったんだ? という思いがずっと消えなかった。その双子は頭がよくて、ヤク中アル中の母親をサポートし、里子に出されないようあれこれ工作している。2人だとなかなか可愛いヤツなのだ。それが、片割れが死に、マーカスだけになるとからきし無口になってしまう。でも、その背景を追求したりはしない。最後まで、マーカスの「ジェイソンと話したい」という思いだけで突っ走る。ストレート過ぎないか?
ジェイソンの葬儀は、短時間で義務的かつ流れ作業のように行なわれていた。次に待っているのは、シーク教徒…。シークと言えば、マリーの会社で話題になっていたけど、関係があるのかな?
いちばんオカルトなのが、マリーのパート。津波に遭って臨死体験。以後、集中力がなくなってテレビキャスターを降板。ミッテランの曝露本を書く予定が臨死体験ものを書き上げてしまう。このときの上司たちの反応が面白かった。「そんなもの、アメリカかイギリスならいざしらず、フランスじゃうけない」みたいなの。なるほど。フランスは哲学の国だものなあ。いちぱんガックリ来たのが、臨死を研究しているという女医みたいなのに会いに行ったシーンで、これゃオカルトだよ、と確信してしまった。
津波のシーンは、迫力があった。ほんとうに3.11を彷彿させる映像で、イーストウッドの予告のようにも見えてくるね。
ジョージのパートが一番ドラマ性に近くて、客観的な立場から「霊能者になってしまった男」を描くのなら興味深いんだけど、そういうことではない。むしろ、ホントにここまで分かるのか? ここまで霊視できるやつなんて、この世にいないだろ、と思わせてしまう。なので、陳腐に見えてしまう。料理教室でパートナーとなった女性との交流も、あっけなく終わってしまったし…。女性が強引に「見て欲しい」と言った割りに、すぐ引いてしまった理由は何なのだ? 父親の謝罪って、何よ? と消化不良。ただし、料理教室で、目隠しして味見して、素材が何かを書き当てる場面は、必要以上にエロくて困った。
で、最後はロンドンのブックフェアで3人が交錯し、ジョージはマーカスのためにジェイソンを呼び出してやる。ジョージはマリーの著作にふれ、なぜか惹かれていく。理由は分からない。その2人の正式な出会いで終わるんだけど、なんだかジョージには予知能力もあるような描かれ方だった。ううむ…。
そういえば、マーカスは多くの自称霊媒師を訪ね歩き、ほとんどがインチキであることを身をもって体験した。なのに、ネットで顔を見ただけのジョージに「会わせて欲しい」としつこく粘れたんだろうか。それだけ、ビビッときたのか? これも予知能力? そのマーカスは、里親をほっぽり出してブックフェアの会場から消えてしまうわけだけど、家じゃ「またか」と大騒ぎしなかったのか? 変だよなあ。
ジョージのディケンズ好きという設定は、彼を最後にロンドンに向かわせるためだけのものなのか?
青い塩7/20キネカ大森3監督/イ・ヒョンスン脚本/イ・ヒョンスン
英文タイトルは"Blue Salt"。allcinemaのあらすじは「ソウルの伝説的な闇組織のボスだったドゥホンは、ヤクザの世界から足を洗い、母の故郷プサンで穏やかな生活を送っていた。そんな彼は、通い始めた料理教室で一見ごく普通の少女セビンと出会う。しかし彼女の正体は、ある理由から今は裏社会で働くライフル競技の元射撃選手。組織に雇われドゥホンの動向を探っていたのだった。しかし、次第にドゥホンの人柄に心惹かれてしまうセビン。そんな中、ついにドゥホン暗殺の指令を受けてしまうセビンだったが…」。
allcinemaのジャンル分けは「ロマンス/サスペンス/犯罪」だけど、マンガ的要素やコミカルな部分も多い。かなりカリカチュアライズされているんだけど鈴木清順ほどの様式化はされておらず、中途半端。リアリズムに徹すればスタイリッシュな話にも仕上がったかも。お笑い芸人がシリアスドラマを演じて、どうしてもどっかで笑いを取らなくちゃ、って気持ちが出ちゃって話をぶちこわしにするような、そんな感じ。話が予定調和だからスリリングなサスペンスはなく、かなり退屈。
そもそもソン・ガンホが伝説的なヤクザに見えない。片鱗を見せるのは、まな板から落ちた包丁を素手でつかむところぐらい? セビン役のシン・セギョンは、ほしのあき みたいな髪型の美少女系で、とても殺し屋には見えない。接近して監視するにしても、同じ料理教室で言葉を交わすなんて、あり得ないだろ。…だからマンガ的なんだけど、
始めのうち、暗殺集団が分かりにくかった。婆さんがボスらしいんだけど、あれはあれでもっとカッキリ見せた方がいいと思う。あと、なんとか組のチンピラがセギョンと友人を脅してる、という設定もいまひとつ分かりにくい。友人の借金を返すためにセギョンは殺し屋をやっているのか。交通事故のせいで殺し屋になったのか? セギョンのコーチも暗殺集団の一味らしいが、経緯もなにも説明されないのでイラつく。
後半。暗殺集団の1人が隣のビルからドゥホンを狙っている。それを止めようとするセギョン。そこに暗殺集団のリーダー格の男が割って入り、なんと狙ってる男の方を殺してしまうのだ。使命を考えたら、そりゃおかしいだろ。…というような展開は他にもあったりして、話にスンナリ入り込めず。
韓国ヤクザは日本と同じ流儀なのね。親分が集まって連合会をつくり、先代大親分の指名で次の大親分を決める。ヤクザのスタイルは黒ずくめで日本とそっくり。で、ドゥホンが連合会を成立させ、引退したらしい。でも、自分の舎弟はどうした? 捨てたのか、他の親分に預けたのか? で、現在の大親分が事故を装って殺され、跡目をどうするか、ということに。大親分の遺言書にはドゥホンの名があるらしいので、彼を呼び戻そうという話が進んでいる、みたい。その一方で、ある親分は殺し屋集団をつかってドゥホンを消そうとしている、らしい。で、セギョンが接近したということか。ヤクザも殺し屋も何とか組も、関係性や位置づけ何かがよく分からないまま話が進み、セリフで固有名が語られる。余計に分からん。
ドゥホンに忠実な男エックがいるんだけど、彼の存在が面白かった。かつての舎弟なのか? いっそ、ドゥホンに惚れてるという同性愛関係にすればいいのに…。あれやこれやで、真犯人の親分は分かるが、それまでも出番が多いから「やっぱり」感が強くて意外性はない。ま、そんなこと意図してないかも知れないけど。暗殺集団も、意味なく仲間割れして自滅していく。で、セギョンが暗殺リーダー格の男に「どうせなら私が殺る」と買って出て、塩田のなかでドゥホンを撃ち殺す。のだけど、どーせ塩の弾なんだろ、と思っていたらその通り。ドゥホン、エック、セギョン、その友人(ずっと誘拐されていたという設定)で南の島にいて、レストランを開いているという終わり方。
塩の弾丸にはムリがある。線条痕を消して銃を特定させないためというのならいざ知らず、岩塩の弾丸なら内蔵を破壊するに十分な硬度があるんじゃなかろうか。撃った瞬間にくだけて弱い散弾ぐらいの力になっていた、なら分からんでもないけど…。
隣のビルから狙われることを想定に入れない伝説のヤクザってなんだよ。しかも、何とか組の連中(?)に侵入され、襲われる。で、隣のビルにいたセギョンが射撃で連中を撃って難を逃れるんだけど、撃たれた連中の死骸や負傷者はどう始末したってんだ?
ワンドゥギ7/20キネカ大森3監督/イ・ハン脚本/キム・ドンウ
英語タイトルは"Punch"。高校生が主人公の青春映画の形式をとっているけれど、脇役の人たちの存在感が素晴らしくて、しかも感動的なドラマも用意されている。ちかごろ希な、上出来の映画だと思う。
ワンドゥクは高校生。父親はキャバレー芸人だったけど、店が閉まったのでテキ屋家業で糊口を凌いでいる。父親は"せむし"である。芸人志望の知恵遅れミングが同居しているが、彼のことはミング伯父と呼んでいる。そう呼ばせたのは父親だ。弱者が弱者に寄せるやさしさが、なにげなく描かれている。
ワンドゥクは喧嘩が強い。でも、強がりとかチンピラではない。心の中は正義感に満ちている。天敵は、教師ドンジュ。口汚く横柄。ワンドゥクが生活保護みたいなのを受けていることや、援助物資をもらっていること、母親がフィリピン人でどこそこの店で働いている、なんていうことを他の生徒の前で平気でしゃべってしまう。しかも、ドンジュはワンドゥクの隣家に住んでいて、ドンジュがもらった援助物資にたかったりしている。では不良教師かというと、まったくちがう。不法滞在外国人の支援活動をしたり、学校では共産主義を教えてみたり、社会の不正に対しては熱く活動する男だったりする。でも、それを前面にださず、照れ隠しのように不良っぽさを前に出す。なかなか奥行きがあって、味がある存在感。とてもいい。
クラスの優等生ユナがワンドゥクに接近してくる。青春ドラマの定番だけど、とくにムリやり感はない。よくあるのは、不良に襲われている彼女を救って近づきになるというパターンだけど、そういうわざとらしさもない。もちろんユナの同情でもない。ユナを好きな同級生がいるけど、彼とワンドゥクの悪仲間的な関係も、べたべた描かれずにちょうどいい感じ。窪塚と柴崎の「GO」を連想させる感じ。
ワンドゥクとドンジュの屋上でのやりとりに「うるさい!」と怒鳴る近所の禿げオヤジがいる。とにかく不機嫌。うるさいのが嫌い。得体も知れない。…のだけれど、あるとき美しい女性の同居人が要るのにドンジュが気づく。なんと妹だという。この兄妹、どういう関係なのだろう? 興味津々。なかなか引っぱってくれる。
そして、ワンドゥクが初めて知る出生の秘密。父親からではなくドンジュから知らされるという屈辱だ。ドンジュは会いに行けというが、そうなれない。けれど、ドンジュが教えたのだろう。父親がミング伯父とともに大道販売の地方巡業にでかけているとき、母親が会いに来た。古びた靴、味の濃すぎる料理、父親と別れた理由も分からない…。それでも、ときおり料理をつくって訪ねてきて、重箱を玄関前に置いて行ってくれる。
ワンドゥクが、母を連れて父親の仕事ぶりを見に行く件…。呆気にとられる父親。父親と母親のののしり合い。やっぱりヨリが戻るのは難しいか…と、うなだれるワンドゥク。母を送りがてら、靴屋に寄る。新聞配達で稼いだ金で、靴を買ってやろうというのだ。これはフツーの泣かせどころだけど、つっけんどんな靴屋の女主人が「この人、だれよ」と、ワンドゥクに聞く。フィリピン人だから、違和感ありすぎなわけだ。間があって「オモニ」とワンドゥクがいう。おおおおお。恥ずかしさはない。堂々と、自慢するように宣言する。その後の、駅でだったかな。母親の「一度だけ、お前を抱きしめていい?」という言葉も迫ってくる。子供のとき、抱いてやれなかったことの悔恨と、ずっとほったらかしにしてきたことの謝罪の意味を込めてなんだろうけど、ムダに感動的な音楽が煽るわけでもなく、淡々と描かれる映像と最低限のセリフで、十分につたわってくる。すばらしい。
感動はそれだけでは終わらない。母親の働く食堂を、父親が訪ねる。鳥料理が好きな父親が、お代わりを注文するんだったかな。店の主人のオバサンが「世の中にはあんな人もいるんだねえ」と、せむし男を蔑むようにいう。それにたいして、母親も「主人です」とどうどうと宣言するのだ。ワンドゥクといい、フィリピン人の母親といい、ハンデを背負い、最下層を生きている人の心の強さに脱帽だ。カッコよすぎる!
ワンドゥクは、悪仲間の同級生の紹介だったかな、で、キックボクシングを習い始める。ジムのコーチがまた、いい味をだしてる。入門テストで「お前のは喧嘩パンチだ。二度と来るな』と突っ返す。それでも頭をさげて、入門する。…という件は「キッズ・リターン」みたいな感じだけど、まあ、いい。不良の再起にはボクシングがいちばん似合うのだから。
近所の謎の妹は、武侠小説を書いている作家だと知れる。ドンジュは気に入ってしまい、なんやかやでアプローチ。
ドンジュの父親は資本家で、海外からの不法労働者を働かせていたりするらしい。それを告発したんだけど、逆に犯人に仕立てられ、逮捕。ということがあったりするんだけど、父親との対決姿勢は崩さない。そうして、支援していた教会を買い取り、慈善活動を本格的に始める。そのパーティ準備で、近所の謎の禿げオヤジの正体が分かる。なんと、画家だった! なるほどね。
父親と母親も同居するらしい。自分は、キックボクシングに打ち込む。それを支えてくれるユナもいる。ドンジュと作家は、同じベッドで寝る関係になった。ラストも、そこそこ清々しい終わり方で、底辺から見上げる未来が期待に満ちていることを思わせてくれた。
それぞれの人物が存在感をもって描かれていて、いろんな意味でとても共感がもてる。感動も押しつけがましくなく、自然に描かれながら、圧倒的に迫ってくる。
The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛7/23シネマスクエアとうきゅう監督/リュック・ベッソン脚本/レベッカ・フレイン
原題は"The Lady"。もう監督はしないと言っていたリュック・ベッソンが、なぜ撮りつづけるのだ? という疑問はいいとして。これこれこういう事実がありました、ということを伝えるだけの、ほとんどドラマのない紙芝居みたいなシロモノになってしまっている。
スーチー女史に関心があるかというと、それほどではない。なぜなら、父親が立派な人だった、という理由だけで祭り上げられた人に見えるからだ。だって、それじゃあ北朝鮮と同じで、世襲じゃないか。彼女自身が積極的に何かをした人であるならまだしも、そうではないというのは、どーも納得がいかないところがある。この映画でも、結果的には、完全に祭り上げられた人として描かれてしまっている。彼女自身が積極的に何かをする場面もない。あの、ノーベル賞にしても、世の中の動きの仲から選ばれたのではなく、なんと、亭主の工作だったことをバラしてしまっている。賞を受賞すれば、身の保証がされやすくなるから、らしい。おいおい。それって…。
この映画にはヤマ場もなければ対決もない。スーチーが軟禁されたり解放されたり。亭主がビルマにやってきたり帰ったり。子どもたちがやってきたり帰ったり。再会と別離のたびに夫婦、親子が抱き合うシーンがあり、それが繰り返されるだけだ。対立はあるだろう、と言われるかも知れない。けれど、スーチーが直接戦いを挑む相手というのが、分かりにくい。現将軍? でも、すぐ引退してしまった。次の将軍? いずれにしても存在感がなさすぎる。では、ミャンマーという体制? でも、それはよく見えない。最初の暗殺者と、関係あるのか? などなど、個人としての敵がみえない。国家という敵としても、とらえどころがない。対立軸が、分かりにくいのだ。
政府がスーチーにするのは、行動の制限だけ。しかも、国外退去すれば、べつに自由にしててもいいよ、というもの。要は、反政府活動のシンボルとして居られてはまずい存在で、だから、延々と意地悪をしつづげる。その意地悪の過程が見られるだけなので、ドラマとしては面白くない。せいぜい、銃を向ける将校に立ち向かっていくところぐらいかな、緊張するのは。でも、撃たれないのは分かっているから、ねえ…。
彼女よりたいへんな思いをするビルマ人たち。反政府活動家たちのなかに、もうひとりの主人公を設定し、具体的な戦いを見せていくとか、なんか技術が必要だったんじゃないのかな。この映画だけじゃ、スーチー女史が凄い人だ、とは思えなかったんだよなあ。
ビルマに戻って、スーチーの寝床の近くに、さっそくゴキブリ登場って…。何がいいたいんだ?
スーチーたちがスピーチ会場に向かう道すがら、子ども(弟)が「食べ物買ってくる」と言って姿を消すので、何か意味があるのかと思ったら、何もなかった・・・。なんなんだ?
現将軍は占いに凝っているようだが、占い師に「この亡霊か?」とかいって札を見せる、そこに、アウンサン将軍の顔が刷られている…。アウンサンを亡き者にした側の人物なんだろ? その彼が、現行紙幣に宿敵を賞賛するような肖像を配するのはなぜなのだ? でその、占いに傾倒している現将軍は、途中で辞職(反政府活動激化の責任をとって、だっけ?)するとフェードアウト…。そんなに影が薄いのか?
英国大使館員が退去させられたとかで、原因はコピー機でチラシ? の件が分からなかった。大使館員は政治的なことをしてはいけないのか? というか、誰があのチラシをつくったんだ?
現将軍や後継者は、スーチーを殉教者にしたくない、という判断らしい。理解できないことはない。でも、北朝鮮やカンボジア、アフリカの暴君のような、反抗すれば抹殺、ではなく、国際的な視点もちゃんとあったってことだよな。そのあたりのミャンマー政権の考え方がよく分からない。亭主のビザを発行しなかったり強制退去したり…。それはそれで迷惑な話だけど、命をとるわけでもなく監禁するわけでもない。嫌がられ程度のものにしか思えないんだよなあ。
いっぽうで、政治活動をした市民は無差別に投獄し、ときに地雷原を歩かせたり、独房に軟禁したり、射殺したとしている。ホントにあんな具合に市民を大量虐殺したのか? 制圧時でなく、日常的にもそうしてきたのか? なんか、していることに一貫性がないというか、頭が悪いような気がしてしまうのだが…。
投獄者を救うため、スーチーがハンストをする。ハンストに、どういう意味があったのだろう? これも殉教者にさせてはならない、という現将軍の意向で投獄者を解放したのか? それだけ?
軟禁が解けたのは、日本などのアジア諸国に呼びかけ、何かをさせたらしい。それが功を奏したのか。しかし、どういう条件を提示したのかは描かれない。いったい何を提示したんだ?
女性は頬に白粉? なんのまじないなんだろ。スーチーの遊説で首長族とか顔に刺青の女性とか、いろんな少数民族がでてたけど、あれは凄いなあ。
亭主のアシスタントのカーマは、ごついオッサン。元僧侶? どういう地位、立場なんだろう?
スーチー女史を演じるのは、ミシェル・ヨー。カンフー映画でよく見かける顔だけど、そういわれれば、よく似ているよな。
で、最後は、5年ぐらい前の僧侶のデモのシーン。最後のクレジットでは、いまなお軟禁されて弾圧されてるみたいなことが書いてあったけど、いまはもう議員になって登院しているはず。そこまで、どうして描けなかったね。
戦火の馬7/25ギンレイホール監督/スティーヴン・スピルバーグ脚本/リー・ホール、リチャード・カーティス
原題は"War Horse"。予想通り、戦場を走る馬の話だった。馬を狂言回しにしたオムニバスで、目新しさはない。というか、よくある手法。興味深かったのは、全編、異常なほどオーソドックスなつくりになっていること。主人公アルバートの住む家は、セットなのかCGなのか知らないけど、1950年代の映画に登場しそうなつくり。背景の山や山もそうだし、衣装も贈。でもって色調やハリウッド全盛期の総天然色映画みたいな感じ。さらに、音楽は朗々と歌い上げるジョン・ウィリアムズ。そして、物語はカットバックなんか一切使わず、時間の流れのままに進む。しかも、ゆったりと流れるようなリズムで…。設定は「子鹿物語」みたいだし、ラストの夕焼けにシルエットのシーンは、まるっきり「風と共に去りぬ」。スピルバーグは、ハリウッド映画をバロってるのか?
小作農の少年アルバートは、草原で駿馬と出会う。その馬を、頑固なオヤジが大金で競り落とす。「農馬を」と妻に言われていたのも忘れて…。っていう話は、なんか聞いたことがあるなあ。で、地主に払う地代を待ってもらって、ムリやり馬具をつけさせて農馬としても酷使するんだけど、大雨かなんかで作物は売れない…。父親は泣く泣く軍隊に馬・ジョーイを売りに行く。アルバートはやめるよう懇願するが、ニコルズ大尉は「戦争が終わったら返すから」と約束して戦場へ。そのニコルズ大尉は戦死して、ジョーイと相棒の黒馬はドイツ軍の若い兄弟の兵士の手に。でも、その兄は弟を戦死させないという母との約束を守るため、2人で脱走。でも見つかって銃殺刑。兄弟が隠れた風車小屋にいた馬を、フランス(?)少女が発見。祖父が鞍をつけてやるが、ドイツ軍に発見されて2頭の馬はふたたびドイツ軍の手に落ちる。そして、大砲を引かされる。その大砲から、アルバートのいる塹壕に向かって砲弾が発射される。なんとか激戦を生き抜くが、毒ガスで目をやられてしまう。さて、黒馬が足に怪我して死ぬと、ジョーイは戦場を走り回る。タンクに追われ、塹壕を疾駆し、鉄条網に絡め取られる。そこは、イギリス軍とドイツ軍が対峙する戦場のど真ん中。イギリス兵士がジョーイを発見し、白旗をあげて救いに行く。ドイツ軍からも1人、カッターをもってやってきた。…って、この手の設定もよくある。最近では「戦場のアリア」がそうだった。2人にカッターが1つ。ドイツ兵が「カッターが足りない」と叫ぶと、ドイツ軍の塹壕からカッターが4つ、5つ飛んでくる。このシーンでだけ、場内が笑いに満ちた。で、そのご両軍の戦いがどうなったのかは描かれなかった。終戦。ジョーイは怪我をしていて、救った兵士は医師にみせる。しかし、長くはない、と下士官に射殺を命じる。という近くに、目の見えないアルバートがいた。馬のことが耳に入り、むかし教えた呼び笛を吹く(観客のすべてが読める展開!)。いままさに射殺されようとしていたジョーイが、笛の方を見る。再会。しかし、将校の馬以外は競売にかけられることに。部隊のみんなのカンパで29ポンドあつまるが、なんと100ポンドで落とした爺さんがいた。あの、フランス少女の祖父だ。少女は死んだらしく、形見に、とやってきた。しかし、アルバートの父がボーア戦争の時につけていた旗と、ジョーイがアルバートになついていることを知って、馬をさしだす。アルバートは帰国して、めでたしめでたし。…だったかな。
戦場シーン以外は、50年代ハリウッドの総天然色映画タッチ。で、戦場シーンは、機関銃、大砲、毒ガス、タンク、鉄条網、トラック、塹壕、トーチカ、手榴弾、ヘルメット…など、第一次大戦で登場したもろもろが戦争博物館のように登場する。でてこなかったのは、飛行機とインフルエンザぐらいかも。それはそれで面白かったけど、とりあえずWikiにでてたので、全部、とりあげてみました的な感じで、違和感。つまり、ドラマを見せるための小道具として登場するのではなく、武器や戦い方を見せたいがために話に組み込んだ、みたいに見えるからだ。
戦闘シーンでは、ニコルズ大尉の騎馬突撃が意表を突く。1914年に、あんな無防備な突撃を行っていたのだ、と。ナポレオン時代の、隠れもせず楽隊とともに行進し、バタバタ倒れる戦いと変わらない。しかし、戦場における戦い方の変化は日露戦争が境となって、あんなバカな突撃はしなくなったんじゃないの? でも、中にはああやって、銃に対して剣で突撃てた騎兵もいたってことか…。しかし、第二次大戦で大躍進したのは機関銃だろ。と思っていたら、ちゃんと登場。ニコルズ大尉は見事に戦死していた。ま、従来と以後の典型例を見せようという場面だったのかも。
というわけで、いろいろ違和感を感じつつ、でも、物語のもっていきかたは上手いなあ、と見ていた。しかし、スリルとサスペンス、意外な展開がひとつもなかったのは、なぜだろう。そういう映画はもう、撮りたくないのかね、スピルバーグは。
しかし、ジョーイに係わった人たちが、アルバートの家族を除いてみな死んでしまうというのは、どうなんだろう。フランス少女なんて、死んだ設定にしなくてもいいと思うんだが…。
分からないところもある。フランス少女の両親のことだ。2人とも死んでいるのだけれど、その理由を少女は知りたがっている。でも、祖父は語らない。いったい、何があったというのだろう? あの、少女に誕生日のプレゼントした鞍と関係があるのだろうか?
そうそう。アルバートの父親の存在も、バカ正直な頑固ジジイで、酒に弱いという、映画に出てくる典型的な性格だった。ボーア戦争で勲章をもらっても、帰ってくるなり「ふん」といって捨ててしまうような人。戦争が嫌い、ということなんだろうけど、もうちょい厚みのある描写ができなかったかなあ。そういえば、ボーア戦争で南アのオランダ人と英国の戦いだっけ?
そうそう。冒頭で、ジョーイはアルバートの家の近くで生まれた設定になってるんだけど、それって、ちょっと違和感あるんだけどねえ。
サニー 永遠の仲間たち7/27新宿武蔵野館2監督/カン・ヒョンチョル脚本/カン・ヒョンチョル
評判がいいらしい。前知識なしに行ったんだが、青春ドラマと中年ドラマをミックスして、なかなか痛快なストーリーだった。実は、演出の勘所はよくない。もっとスマートに編集できるだろ。と思うのだけど、あの、ちょっとぎこちないところがよかったりするのかも。スマートすぎると、この映画の良さは、軽減してしまうかもしれないな。
平凡な主婦のナミ40歳ぐらい。入院中の母を見舞って、病室に高校時代の親友のチュナ(サニーのリーダー)の名前をみつける。チュナは末期ガン(?)。昔の仲間に会いたい、とナミに言う。そこで母校に行くと、恩師がチャンミの消息を教えてくれる。かつて夜逃げしたチャンミを見つけ出したという私立探偵を頼り、たのメンバーを探し出す…。という具合に、7人いたメンバーの残りを1人ひとり探しだしていく、というのが現在の時間軸。その時間軸と絶妙に交差しつつ、25年前のドラマが進行するという構造で、これがとても効果的。
二重まぶたにこだわるデブのチャンミは成績のよくない保険外交員。ののしり担当のジニは、面影がないほど整形していて、いまの関心は亭主の浮気。棒をふりまいて威嚇するクムオクは、姑に意地悪される日々。ミスコリアを夢見るポッキは、風俗嬢。超美形のスジは、いまだ行方不明。そして、チャンミの兄の友人のハンサムボーイも探しだそうとする。…という具合。クムオクとポッキの高校生時代が十分に描かれていないので、ちょっと食い足らないところはあるんだけど、おおむね良しとしよう。
で、サニーというのは、女子愚連隊もどきなのだ…。日本ならスケバンってとこか。でも、セーラー服じゃないので、あんまり怖くない。対立グループと乱闘もするけど、カリカチュアライズされているので、悲壮感もない。とにかく明るいのだ。そんなチンピラが韓国にいるのかどうか知らないが、マンガ的には面白い。で、時代は1980年代で、学生運動も折り込んだりして、日本人にも「そうそう」と思えるようなところがあったりして…。
主人公のナミが田舎からソウルに転向してきた訛りのある娘、っていう設定もおかしい。高校時代の彼女たちの実家の様子なんかをあまり突っ込んで描かないのがよかったのかも。日本映画では描き込みすぎてジメジメしすぎることがあるけど、あっさりなのがいいのかも知れない。
で、スジを残して6人が結集したけれど、チュナは死んでしまう。その葬場で深夜6人が集まり、テーマ曲である「サニー」を踊る。そこにチュナの弁護士がやってきて、遺産を分け与えてくれる。それぞれ生活苦から抜け出すための資金や住居、チャンスなんかで、お金のあるジニには何もなし、ナミにはリーダーの跡目、といった具合に各自にバラバラなのもいい。弱っている仲間を助ける、というサニーの精神が現れているみたいでね。
ハンサムボーイも見つかって、憧れていたナミはそっと会いに行く。でも、彼はスジといい仲だった、という過去もあったりして・・・。で、そのスジがナミを嫌っていたのは、義母がナミと同じ訛りの故郷だったから…という話も子どもっぽくておかしい。
ナミの娘が意地悪にあってるというので、おばさんサニー連がやっつけに行ったり。あり得ないけど、爽快感もある。そして、ラスト。ジニが現れる。…現れるだけで、盛り上がる。実は彼女、シンナー中毒の同級生に顔を切られた、という過去があって、みんな心配していたんだけどね。
エンドロールは、ナミのスケッチで彼女たちのその後が淡々と描かれていく。そして、チュナの墓の前の6人が1人減り2人減りしていく…。最後に残ったのは誰なんだ?
気になった点も少し。ナミが、久しぶり母校を訪ねる。周囲は制服の女子高生たち。…と、急に普段着の少女たちに変わる。ってことは、かつて制服はなかったってことだよな。なのに、ナミは娘の制服を着て想い出にふける、というシーンがある。これは、変じゃないかな。
シンナー中毒の少女は、いまどうしているのだろう。追加で捜索はハンサムボーイか、シンナー中毒少女か、どっちかなと思っていたんだが、ハンサムボーイ。気の毒な存在のシンナー中毒少女のいまを知りたいなあ。
ローマ法王の休日7/30新宿武蔵野館1監督/ナンニ・モレッティ脚本/ナンニ・モレッティ、フランチェスコ・ピッコロ、フェデリカ・ポントレモーリ
原題は"Habemus Papam"。ラテン語で「教皇が決まった」ってな意味らしい。新たにローマ教皇に選出されたメルヴィル。いざベランダから挨拶、というところでパニック障害(?)みたいになり、「ぼくにはできない」と逃げてしまう。ヴァチカンは精神科医を呼ぶが、打つ手なし。お忍びで外部の精神科医に診てもらうが、これも効果なし。というところで、メルヴィルは報道官らヴァチカンの監視を逃れ、市街へ。一方、枢機卿たちや精神科医は情報統制のもと、ヴァチカン内に止め置かれる。しかも、教皇逃亡の事実も知らされない…。
冒頭の、枢機卿たちの互選による教皇選挙の場面は面白かった。アフリカ人や日本人の枢機卿も、教皇の可能性があるんだね。投票は何度も繰り返されて、たぶん過半数を得てないとか、ルールがあるんだろう。屋根から黒い煙が出ると、未決定。白い煙は決定らしい。投票用紙を燃しているから、煙が黒い?
で、何度目かの後、最初の頃に挙がっていた名前ではなく、別の人物=メルヴィルが選出されてしまった! でも本人は嬉しそう。スピーチを目前にしてパニくるけど、でも「辞退する」とも言わない。「私は教皇だ!」と、心は執念を見せている。…という、この辺がよく分からない。
そもそも枢機卿あたりになれば自国で過酷なスケジュールもこなし、スピーチも慣れているはず。ローマ教皇になるっていうのは、そんな人もビビるぐらい大変なことなのか? その迫真さが伝わってこない。また、現実からの逃避も、ただ「嫌だ」というだけで、身体的症状を伴ってないんだよな。動悸や吐き気、不眠、めまい、耳鳴り…なんていう身体的症状がない。じゃ、パニック障害や不安神経症ではない?
精神科医は問診相手が新教皇とは知らされず、質問も個人的なことに触れないよう強要される。それじゃ、分からないよな。保育障害(?)とか言ったのは、外部の女性精神科医だったかな。でも、その後も保育障害については、それ以上掘り下げられない。
教皇はカフェで電話を借りて報道官に連絡したり、ホテルで(宿泊代はもってたのか?)劇団御一行と知り合うんだけど、主演男優が気違いらしく、夜中にセリフ(チェーホフ?)をしゃべり出し、救急車で連れていかれてしまう。なんなんだ? で、その主演男優のセリフに、教皇がセリフで応えるんだけど、どうやら教皇は演劇青年だったらしい。その後も、女性精神科医を訪ねたり、うろうろする。でも、たんにそれだけ。携帯を貸してくれた女性と何かあるとか、主演男優がいなくなった劇団の舞台に立つのか、女性精神科医に過去をほじくり返されるのかと思いきや、そういうことはない。邦題にある「休日」からは、のどかで精神的な解放を連想するけど、ぜんぜん違って、結局のところ教皇は心休めることもない。たんに、うろたえさまようだけなのだ。
ヴァチカンでは、精神科医のリードで、出身地域別にチームがつくられバレーボールの世界選手権が開かれるんだけど、たんにそれだけ。試合は途中で中止され、みなで教皇を迎えに行く決定が採決される。…って、このあたり、話が飛ぶんだけど、いつのまにか教皇は報道官に連絡して会ってたりするのだ。なんか、必要なカットが削除されてるみたいな感じ。さらに、劇団が公演してるんだけど、主演俳優は病院からでてきて舞台に出てる。で、教皇はバルコニー席で観劇してる。という、予想に反した展開。で、なんとそこに、枢機卿たちが退去して訪れるのだ。異様な雰囲気に、役者たちはセリフを失いしどろもどろ。さらに、主演俳優は気違いに逆戻りして一人でセリフとト書きをしゃべりだす。大笑いなシーンだけど、客席からはクスリとも聞こえない。…うーむ。これは字幕が悪いのかな。で、場内から拍手。舞台上では「俺たちに?」てき戸惑い。でも、拍手はバルコニー席の教皇に向けてのものだった…とはいいつつ、客席の人はあれが教皇だとは知らんだろうに。変なの。
さて、何が功を奏したのか、新教皇メルヴィルは、ヴァチカンでスピーチを始める。がしかし、どうやって臆病あるいはプレッシャー、心身症を克服したのだ? で、話し始めて途中から雲行きが怪しくなる。「自分は教皇に相応しくない」「私が見守るのではなく、私が見守られたい」みちたいなことを言って、引き下がってしまう。おお。なんと、みんなの前で引退宣言かよ。あまりにもぶっきらぼうな幕引きに、ちょっと萎えてしまった。結局、メルヴィルは得体の知れない何かに押しつぶされてしまった、ということだけが分かる。けど、ローマ教皇って、そんな大変なの? それとも、これまでも「なりたくない」って逃げる人が多かったんだろうか。
やっぱどっかで教皇職のプレッシャーを映像で見せないと、なるほど、とは思えない。そんなに大変なのか、とね。それがないと、スピーチ前に怖じ気づく理由がわからない。別に「英国王のスピーチ」みたいに吃音だったってわけじゃないだろうし。
ヴァチカンのらしい建物や庭、人々など、どうやって撮影したのか分からないモノがある。ひょっとして、あの類はみなCGなのか?

 
 

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