2012年8月

ダークナイト ライジング8/1MOVIX亀有シアター9監督/クリストファー・ノーラン脚本/ジョナサン・ノーラン、クリストファー・ノーラン
原題は"The Dark Knight Rises"。『ダークナイト』は2度見た。1度目に寝てしまったので、リベンジ。ちゃんと見たけど、とくに感動はなかった。という過去があるのでどうかなと思ったんだけど、30分ぐらいしてちょっと寝てしまった。ははは。やっぱね。クリストファー・ノーランのこのシリーズは、「善悪が問われる』とか「究極の選択を迫る」であるとかいわれ、評価されている。でも、そんなテーマは特別なものではなく、映画ではよくあるものだ。それをもちあげて騒ぐのはいかがなものかと思っている。でまあ、本作も『ダークナイト』を引きずるんだろうと思ったら、その通り。引退したバットマン=ウェインは屋敷に引きこもり、人と顔を合わさない・・・って、ハワード・ヒューズかよ。
オープニングは、CIAと博士が乗る飛行機に、犯罪者を連行するから乗せろとかいって割り込んでくる話なんだけど、なんのことやら分からない。本作の悪玉の1人であるベインが覆面された犯罪者として乗り込み、博士を誘拐するんだけど、たかが博士1人のためにそこまで大げさにする必要があるか? しかも、ベイン自らでてくる必要がどこにある。…さっそく萎えた。で、博士の役割は中盤に分かりはするんだけど、遠すぎるよ。それと、機体を切断して落下させるんだけど、ベインは仲間のひとりに「機体に残れ」という。死ねって言うことか? なんでそんなことする必要あるんだ? ますます分からん。
で、引っ込んでいるウェインの屋敷にセリーナ(キャット・ウーマン/アン・ハサウェイ)が潜入し、ウェインの母親のネックレスを盗む。でも、足腰が弱ってるウェインは為すすべがない。って、そんなのアリか? しかも、セリーナの目的はウェインの指紋で、それをセリーナに依頼したのはウェインの会社の役員の1人…。しかし、その指紋を役員に渡すのも、さっさと渡さず、最初に指4本分を渡し、親指は後から…って、それにどんな意味があるんだ? 屋敷内に潜入されたのも、指紋を採取されたのも気づかないのは、ウェインの勘が鈍っているから、ね。はいはい。なっとくいかないけど。
以後も、いろんな人物が登場する。誰なんだかよく分からなかったミランダ(マリオン・コティヤール)は、なんとウェインの会社の会長とかいってたな。にしては軽すぎる登場だけど…。あと、真面目な警官ジョン・ブレイク(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)、ゴードン市警本部長、フォックス(モーガン・フリーマン)は、前作にもでてたな。ウェインの会社の社長か。あ、そうだそうだ。ぐらいはいい。リーアム・ニーソンとなると、分からんよな。「影の同盟」なんてのが突然登場して「?」と思ったけど、あれか、「ビギンズ」の話か? すっかり忘れちゃってるよ、そんなの。
以降の話も、よれよれ。表向きは、役員の1人の陰謀、のようだ。セリーナにウェインの指紋を採取させ、それを利用してウェインが不正株取引をしたみたいにして(?具体的にはよく分からなかった)破産させ、会社からも追い出す。役員はベインをも金で操っていたようだ。でも、どこまでやらせていたのか、よく分からず。たとえば核融合炉の件、地下を掘ってウェインの武器倉庫に侵入する件。これらは、役員の発案だったっけ? それとも、大ボス→ベイン経由の仕掛けだったっけ? とにかく、ベインは役員の指示を受けて働いているように装っていた、らしい。でも、そんなことをする必要って、あるか? 途中で、ベインさっさと役員を殺しちゃうしなあ。ベインのやることは規模がでかいけど、アホみたいなスケールでやってることになってたりする。ホント、理解不能。
で、いよいよウェインもバットマンに復帰を決め込むんだけど、どういう経緯だっけ。すっかり忘れてるなあ。ははは。で、いろいろ筋が通らないところがあるんだよな。セリーナは、依頼されれば何でもやるコソ泥なのに、途中から正義に目覚めちゃったりする。ゴードン市警本部長は、ハービー・デントの死をバットマンのせいにしたままでいる。それは、ハービー・デント法によって悪人どもを逮捕するのに都合がいいから、らしい。でも、ハービー・デント法って、なんなんだ? その内容が分からんと、ゴードンが嘘を突き通している理由も分からんよ。
執事に見放されたウェインを、ミランダが慰める。おいおい。なんで簡単に関係をもっちまうんだよ。というのは、ウェインに対してではなく、終わってみればミランダに言いたい。だって、大ボスはミランダで、彼女がベインを操っていたのだから。そもそもミランダがゴッサムシティの制圧、市民による支配(といっても大半が囚人なので、市民革命とはいえないだろ。市民法廷もでてくるけど、共産主義政権下に発生した無秩序な暴挙しか連想できない。あんなことを、ミランダは望んだのかい? さらに、ゴッサムシティ(というより、ニューヨーク)の破壊、原子爆弾の爆破を望んでいたのなら、ややこしいことをせず、会社の会長としての立場を利用すれば簡単じゃん。それに、弱ってるときにウェインをバラせば手間もかからない。なのに、なんで?
で、ベインは核融合炉を、冒頭に誘拐した博士に核爆弾に変えさせる。そして、期限を限って、爆破させることにする。のだけれど、誰もゴッサムシティから逃げ出さないというのは、どーゆーことなんだ? 爆破したら放射性物質が降り注ぐだろ。アホか。最後には、沖合で爆発するんだけど、見えるところで爆発するんだぜ。アホかといいたい。
で、最後の1日ってところでやっと爆発阻止に動き出す、っていうのもアホらしい。さっさとできなかった理由は、あるか? とくにないだろ。せいぜい、バットマンが監禁されてて出てこれなかった、というのと合わせているだけじゃないの? その監禁されていたのは井戸の底で、それが何なのかよく分からなかったんだけど、これは「ビギンズ」にでてきていたのかい? で、この件から、ミランダの出生の秘密、ベインとの関係も明らかになり、バットマンとなったウェイン、セリーナのキャットウーマン、ゴードン市警本部長、ジョン・ブレイクらが反ベインで団結して動き出すんだけど…。ベインはキャットウーマンがバイクから放った砲弾1発でおだぶつ。さらに、大ボスのミランダも、核爆弾を運んで市内を動き回るトラックの運転席に乗り移り、事故っておだぶつ。という、なんとも呆気ない終わり方をしてしまう。なんだよ…。バットマンがキャットウーマンとキスするっていうのも、おいおい、だな。このバットマン、女性に飢えてるな、きっと。
で、爆発を制止できないとなって、バットマンは空飛ぶバットモビール(?)につり下げてゴッサムシティの沖合へ。でも、2分足らずで、あんな遠くまで行けるかよ! で、ドカン。見事、バットマンはみんなのために犠牲になりましたとさ。でも、本当に死んだのか? ジョン・ブレイクは警察を辞めて、妙な仕掛けのあるところに行くんだけど、あれはウェインの隠れ屋敷か。実はバットマン、途中で海中に飛び降りていた。そして、ジョン・ブレイクはロビンになる、っていうことかな? それとも、やっぱりバットマンは死んでしまっていて、彼は第2のバットマンになるのか?
でも、根本的な疑問。ウェインの屋敷建設を請け負った建設会社はどこなんだろう。さらに、森の中の新たな屋敷、あれを請け負った建設会社はどこにある? という不粋な感想を言っておこうかな。
それにしても、ミランダは父親の仇(母親?)を討つために、あんなことをしたのか? ベインは、なんでミランダの忠臣なんだ? よく分からん。で、この映画でも善と悪がなんたらと言われているけれど、それって、何のこと? 分からんよ。まったく。なんでIMDbで9.0の高得点なのか、理解できん。
あ、そうそう。ジョン・ブレイクが市街から子ども達を逃がそうと橋にやってくるが、橋を守っていた警官はがそれを阻止。あまつさえ、橋の一部を破壊してしまう。命令だから? 誰の。なぜそんなことをするのだろう?
ベインがゴッサムシティを支配するのを、政府は認めた、とかなんとか言ってたけど、中途半端にニューヨークの摩天楼やなんかをだすと、政府、国家、国際関係なんかが頭に浮かんでしまう。すると、すべてがあり得ない話に見えてきてしまう。だから、この世のどこかの閉鎖された街、あるいはコミックの世界にあるだけの街、にした方がいいと思うんだがな、バットマンシリーズは。
かぞくのくに8/6テアトル新宿監督/ヤン・ヨンヒ脚本/ヤン・ヨンヒ
地上の楽園が待っているといわれ、日本から多くの在日朝鮮人が帰国(?)した時代があった。その事実は知っているが、いつ頃、どのぐらいの数が、ということまでは知らない。また、どういう生活が待っていたのか、も詳しくは知らない。まあ、それでも一般に比べれば知っている方かも知れない。なのに、この映画は冒頭で1970年ぐらい(だっけ?)に帰還事業があった、と簡単に触れるだけ。これでは、背景と状況に対する情報インプットが少なすぎると思う。
映画は、自宅の喫茶店で連絡を待つ家族→総連(同朋協会らしい)本部での迎え入れ→自宅に戻る…という流れで始まる。この辺りも不親切。なぜ待っているのか、なぜ大喜びするのか、がよく分からない。さらに、総連本部(かと思ったら、Webに同朋協会とあった。総連とは違うのか。関係や位置づけがよく分からんな)での場面も、状況が飲み込めないままなので、疑問符がついたままだったりする。そのうえ、セリフが聞き取りにくい。しかも、ミドルかロングが多く、画面の中の誰がしゃべっているか分からない。加えて、朝鮮語なので字幕になり、字幕を読んでいると、誰のセリフかがもっと分からなくなる。男も女も上衣が白だから、区別もつきにくい。
手持ちの長まわしが多いのだが、その必要性はどこにあるのだろう。とくに冒頭などはヨリの絵をFIXでつなぎ、ときどきミドルを挟むぐらいの方がよかったんじゃないのかな。それで多少説明的なナレーションをかぶせるぐらいの方が、リエ(安藤サクラ)の心象もつたわって、いいんじゃないかと思う。はじめ、ヤン同士って、総連(同朋協会)の人間なのか北から付いてきた監視なのか分からなくて、困ったよ。そりゃちゃんと見てれば説明はあったんだろうけど、なにせ冒頭が聞こえづらくて忙しなかったのでね。
人間の掘り下げがいまひとつだった。画面には登場しているのだけれど、人となりや考え方が映像で描かれていない。泣いたり怒ったり、ではなくて、なんらかの行動が欲しかったかも。たとえば、ソンホを迎える同級生たち。オカマのチョリはセリフも多いけど、彼が登場する意味合いが分からない。他に男友達2人も、位置づけがいまひとつ分からない。ただ、スニ(京野ことみ)だけに意味がある。では、他は添えもの? また、ここで歌われる「白いブランコ」には、どういう想い出やドラマがあったのか、というのも見えてこない。素材は申し分なく、監督本人の経験談を基にしているようだけれど、映画化に際してフィクションを加えるのをためらいすぎてはしないだろうか。
で。ハナッから気になって仕方がなかったのは、年齢だ。「25年ぶりの日本」というのはたくさんでてくる。でも、いつ帰還したのか、ソンホ何歳のときなのか、はずっと分からない。後半になってやっと16歳のとき、とでてくるんだけどね。で、Wikiを見ると帰還運動は1950年代〜1984年とある。となるとソンホは1984年頃16歳で帰還して、41歳、映画の舞台は2009年。その妹のリエは、じゃあ何歳なのだ? 10歳違いとして31歳? では、兄と別れたのは6歳…(Webには9歳とあった。じゃ兄と7つ違いで34歳の設定かよ…げ)。兄に対して懐かしい、久しぶりという感覚は、あるのだろうか? しかし、安藤サクラは若すぎるだろ。母親の宮崎美子だって実年齢54歳だから、母親の歳じゃない。っていうか、ソンホが41歳に見えない! リエは20代半ばのはずだから、まだ娘、って思っていると、なんと語学学校の教師だったりするのが違和感(でも、映画の中で安藤サクラは朝鮮語を、たしかひと言もしゃべっていなかった、なあ)。京野ことみのスニが41歳というのも、信じろというのは難しい。という具合に、設定の違和感、キャスティングの不思議に戸惑ってしまった。
ソンホの父親は、総連(じゃなく同朋教会だって)幹部。だから、自分の息子を送り出すのもメンツのうちだったんだろう。本人は「行きたくないけど…」と言っていたのを、叔父が聞いている。叔父は金回りがよさそうなので、パチンコ屋か何かか。この辺りの人々の心の揺れが、あまり感じられない。父親は悪いと思っているのか。でも、息子ソンホに謝ろうというそぶりは見せない。母親も、息子可愛さの感情は表に出すが、夫に従順すぎるぐらい。叔父も、後半になってソンホの本音を聞かされていて、それで父親(叔父にとっては兄)に対して、いま書いたように怒りをバクハツさせている。でも、家族内の対立は、これぐらいなんだよな。リエも、心の中では父親を非難しているのかも知れないけれど、これも従順に見える。たとえば父親と喧嘩して家をでて一人暮らし、ってな設定なら理解できるんだけどね。だって、リエは総連嫌いなんじゃないの?なのに、なぜ朝鮮籍でいるの? そのあたりの根源的なことが分からないので、なかなか同情や共感はむずかしい。
もうひとつの対立は、ソンホがリエに情報提供者にならないか、と誘うことからはじまる。ここでリエは、感情を押し殺して断る。もともとソンホもヤン同士から強制されてのことなんだろうけど、そのことでの心の揺れは父親に対してぶつけられる。ソンホがリエを誘うのを父親が立ち聞きし、それでソンホに「立場は分かるが、そんなことはやめろ」と静かに言う。それに対してソンホは「わかる? わかるわけないだろ!」と拳を握りしめてうなる。儒教精神からか父親を睨みつけるわけにいかないのか、悔しさを引きずるように部屋を歩きまわる。このシーンが、この映画のもっとも強烈な怒りだったかも知れないけれど、対立にはなっていない。っていうのも、父親は黙ったままだからだ。父親は息子を叱るわけでもない。かといって謝りもしない。この父親は、何なのだ? 思想的なことがそんなに支配しているのか? この日本に住んで資本主義を享受しつつ、それでも北を崇拝しているのか? 自分が息子にした仕打ちを、反省もしないのか。そういう連中が総連系なのか? という不快感しか残らない。なぜって、父親の人間がほとんど描かれていないから。母親も似たり寄ったりで、泣いているか笑っているか。表情の演技しかしない。そういえば初恋相手(?)のスニ=京野ことみも、後半の泣き顔演技だけだった。
そもそもソンホたち3人の帰国者は、病気治療だという。これもあっさりとしか説明されておらず、「ん?」なところだ。3人いて、女性は顔の痣。もう一人の男性はわからなかった。で、ソンホは脳腫瘍だという。病院で検査し、3日後に説明…って、フツーそんなに早く結果を伝えるかな? まあいい。PhilipsのMRIで検査して、画像にはでかい悪性腫瘍。それも5年前に発覚? あの大きさで日常的に問題なく暮らせているのが不思議。そもそも、北でどういう検査をしたのだろう? 5年間ほっといた?悪性であそこまでになったら、残りの命は…の方が心配。でも、そのことには触れられていない。で、家族の誰もが、術後は放射線治療が必要になることを知らない。母親など、クスリで抑えられるか? なんて聞いている。深刻さがみな足りないんじゃないのかな。
なのに、北への突然の帰国命令。ヤン同士も上司から命令されただけで、きっと発信元は分からないんだろ。言われるがママ。リエがスパイを断った、という情報が北に行き、それで、病気治療も急遽中止になったのかも知れない。では、そもその、病人を帰国させるということ自体がウソだと言うことになる。でも、そういう国なのだ、ということは伝わってくる。でも、衝撃や驚きはない。そういう国だろう、ということはみんな知っているから。
ここでやっと父親が、総連(同朋協会?)の上司(?)なのかよく分からないけれど、に「そりゃないだろ」的な反抗的態度を示す。その場には、痣で帰国した女性の父親もいて逆上しちゃうんだけど、あいまいな答えをする総連(同朋協会)職員にヤン同士が「報告しないでおいてやる」的なことをいうのだ。この辺りの人間関係がさっぱりわからない。総連(同朋協会)のトップが誰で、幹部は何人ぐらいいて、彼らにはどういう権限があるのか、とか。ま、何となく分かるのは、総連(同朋協会)にも上下関係があるけど、北の命令には疑問なく従うだけ、ということか。判断停止。そのうろたえぶりを、もう少し情けなく描いてくれたらよかったかも。しかし、この後に及んでも父親は息子に大した言葉をかけてやれないんだよな。情けない。
ソンホが妹に言う言葉。それは、スーツケース屋でのこと。「それ(スーツケース)をもって、世界中の国に行ってこい」。ソンホの不自由さは、この言葉に凝縮されている。だからこそ、リエはソンホが北に戻るとすぐ、スーツケースやに行って、ソンホが気に入ったケースを買うわけだ。そしておそらくは、家をでて自立するのだろう。でも、遅すぎないか? 30過ぎてだろ。もっと早く気づけよ、と言いたくなった。
毎日店の前にヤン同士のクルマ…じゃ、周囲に何と言われていることやら。長時間の駐車なら、誰かが警察に通報するんじゃないのか? で、警官とヤン同士の諍いとか、ないのかね。で、あのクルマと運転手は総連が提供してるんだよな。しかし、ヤン同士も可愛そうと言えば可愛そう。見張っているときリエに罵倒され、返す言葉が「そういう国にこれからも住むんだ。ソンホも、俺も」だっけ。あと、誰かに「俺にも子供がいる」とかいってた。心はあるのだ。でも、仕事だからやっている。それを否定できない立場にいる、ということだ。映画の中で、いちばん人間性を感じられたのは、ヤン同士かも知れない。
カットが雑なところがいくつかあった。リエとソンホが遅く帰ってくるところだったかな。リエが後ろ手で戸を閉める。のだけど、戸の間に、家を覆っている蔦の葉っぱが何枚か挟まってしまうのだ。おいおい。撮り直してくれよ。京野ことみがソンホと話しているシーンで、河川敷近くの階段を降りる途中にも、なんか、あったな。忘れたな。長まわしにこだわるより、違和感のない画面にこだわって欲しかった。
とくに気になったのが、前半の手持ちカメラのぶれ。小刻みな揺れは、酔っちゃうような感覚に襲われた。
それと、一家の住まいを千住柳町・千住龍田町にしている理由て、なんかあるんだろうか。住居表示が、あそこだけはっきり写り過ぎなんだけど…。
ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜8/7ギンレイシネマ監督/テイト・テイラー脚本/テイト・テイラー
原題は"The Help"。家政婦、という意味らしい。1960年代前後。南部では人種隔離法(ジム・クロウ法)が生きていた。なかでもミシシッピー州は全米一黒人差別がひどかった。子どもは通いの黒人家政婦が育て、バスやトイレも別。でも、公民権運動が盛んに成り、ケネディはジム・クロウ法を禁止する法案を成立させていた…らしい。Wikiにそんなことが書いてある。アカデミー賞にノミネートされて、助演女優賞をゲットしている。まあね。黒人差別に敏感なアカデミーが好きそうなモチーフというかテーマだ。
146分もある。後半、本が出版されたところで「終わりか」と思ったらまだつづく。黒人教会で、エイビリーンがみんなのサインが書かれた本を献本されるところで「終わりか」と思ったらまだつづく。結局、スキーターを見送り、エイビリーン自信が作家の道を歩むだろう、みたいな余韻を残して歩いて行くところで、やっとエンディングだった。あのたび重なる引っぱりは、ちょっとしつこかったような気がするんだけどな。
南部の一般的家庭に育ったスキーター23歳。大卒は珍しく、帰京すると友人の多くは結婚・子持ち。育児は黒人家政婦に任せっぱなしだった。ニューヨークの出版社に就職したかったけど、落とされて、地元の新聞社へ。家事専門のコラムを書くことになったけど、黒人の待遇には違和感を感じたままだった。そこで、黒人家政婦にインタビューし、それをまとめて本にすれば売れるし、それで箔をつけてNYへ、と目論む。…という背景を考えると、どーも諸手を挙げて"いい映画"と持ち上げたくなくなってしまう。スキーターにとっては踏み台でも、当事者である黒人家政婦たちにとっては、生活や命をかけた挑戦になる。なのにスキーターは「意味があること」などと、論をすり替えてしまう。はたして、それでよかったのか。
映画では、家政婦たちの曝露本で被害を被った家政婦は、ほとんどいないようになっている。しかし、ほんとうにそんなことはあり得るのだろうか? この話が事実に基づくのか否か、わからない。なのでなんともいえないのだけれど、あんな狭い町で、曝露した家政婦が誰、と特定できないわけがない。特定されたら、働きつづけることなんて、できないと思う。そこがひっかかって、素直に賞賛できないのだ。ほんとうにスキーターの行為は、素晴らしいことなのか?
映画では、家政婦にインタビューし、裏付けもとらず、そのまま書き上げているようだ。変えてあるのは、名前だけ。これじゃ、どこの家の話かすぐに分かってしまうだろう。事実、分かってしまっている。でも、それで雇い主と家政婦の関係が壊れた、という事例は描いていない。ウソだろ、この一件で、もともと書くことが好きだったエイビリーンが表現にめざめ、自立していくようだけど、そんなのはほんのわずか。大多数は、仕事がなくなったら生活もできなくなるような人ばかり。スキーターには、その人たちを援助する覚悟はあったのだろうか。なかったと思う。しかも、その原稿をNYの、自分を落とした編集者のところに送って指示を仰ぐのだけれど、NYの編集者は電話の向こうで涼しい顔。彼女には、黒人家政婦がどーたらということより、どうしたら売れる本になるかと言うことしかないみたいに見える。
それにしても、南部の白人のステレオタイプな描き方はどうだろう。黒人問題に感心があるのはスキーターだけで、他には問題意識を持つ白人は登場しない。では、スキーターの違和感は、どこから生まれたのだろう。スキーターの両親にしても、ごく普通に黒人差別者だ。もちろん、他の過程よりは寛容なところがあるかも知れないけれど、それでも29年間(だっけ?)勤めた家政婦を、ある事件をきっかけに首にしている。全米婦人何とか会の会長かなんかを家に招待したとき、たまたま家政婦の娘が訪問してきて、「裏に回れ」といったのに無視して招待客がいるところに入り込んだからだ。その会長からの圧力があったにしろ、結局、首にした。この件に関しては、家政婦の娘がアホだとしかいえない。その場の状況に合わせて臨機応変に対応するのが人間。あんなことをしたら雇い主の機嫌を損なうし、母親の立場も危うい、と考えるのがフツーだ。長い間勤めた家政婦を首にしたことを、スキーターの母親は悔いているみたい。でも、ラスト近くで、スキーターの同級生の1人で、家政婦に意地悪して糞パイを食べさせられた女性に対して強い姿勢にでるのは突然すぎて違和感がありすぎる。たとえば、スキーターがテレビで公民権運動に関するニュースを見ていて、家政婦と庭師の2人の黒人も一緒に見ているシーンがあったんだけど、そこにやってきた母親はテレビを消してしまう。黒人にそんなものを見せるな、ということらしい。ここで彼女が、一緒にテレビを見るなりのことをしていれば、ラストの伏線にもなるんだろうが、そうはなっていない。だから違和感があるのだ。
その糞パイの話だけど、これは別の家政婦の話で。嵐の日、外につくってある黒人専用トイレに行けない…と思っていたら、老母が「家のトイレを使え』と寛容に言う。でも、スキーターの同級生の娘は、ダメだという。結局、家政婦は家の中で、娘がいつも使っているトイレを使う。それに怒って、嵐の中「出ていけ!」となった。その仕返しに、家政婦が自分の糞入りのパイを謝罪としてもってきて、娘に食わせたというエピソード。で、本が出てから、この娘のところにアフリカの飢餓を救う会みたいなところから手紙がきていて、中に「糞パイ2切れ」と書いてあるシーンがあるんだけど、あれはどういう意味なのだ? 誰が出したんだろう。アフリカの難民云々は、地元のパーティか何かで登場した支援活動だったと思うんだけど、糞パイのことを知っているのはそんな多くないはず。…ううむ。よく分からない。
たしかに、トイレも別というのは気の毒な気がするけれど、ごく一般的に家政婦を雇うような家なら、家族用と来客用ぐらいは分けるだろうな。ただし、黒人は病気がうつるから戸外にトイレを…となると、差別だけど。で、その、黒人のトイレは衛生的に問題があるから・・・という条例案を起草してどっかの議員に提案した女性がいる。これもスキーターの同級生。で、田舎の同級生仲間というかグループのリーダーみたいな事をしている。で、会報もだしているようなんだけど、そこに条例案を載せてね、とスキーターに依頼したのになかなか載らない。まあ、スキーターは立場的に載せたくないだろう。で、文面をちょっと変えて載せてしまう…という件がよく分からなかった。その条例案をみた人たちが、彼女の家の庭に便器を捨てていった? かなんか、よく分からん事態になっている。あの場面の説明は、字幕が足りないんじゃないのかな? それとも、理解できなかった私がアホか? しかし、あの一件でスキーターはグループの村八分になったろうに、でもその描写はない。
というわけで、本が売れてスキーターはNYへ。彼女は「断ろうと思う。本によってみんなが危険にさらされるのに、ここを去るなんて」というんだけど、家政婦たちに「あんたがいてもいなくても危険は変わりない。あんたはあんたの道を行きな」と送り出されるという、ご都合主義。ううむ。スキーターも、そういうってくれるだろうな、と計算してとりあえず言ってみたって感じなんじゃないのかね。
個人的には、あの本が巻き起こした波紋、それによってどのぐらいの家政婦が職を失ったか、の方に興味がある。そして、ミシシッピーの黒人家政婦は、いつまで継続したのか。また、現在はどうなっているのか、に関心がある。
それにしても多くの白人の子ども達が黒人家政婦にやさしく育てられながら、長じると態度が変わるのはなぜなのだろう。周囲の誰もが差別感情をもっているから、自分もそうしなくちゃいけない、ということなのだろうか。でも、たんにそれだけ? そこんところも、よく理解できないな。
ラ・ワン8/9新宿武蔵野館3監督/アヌバウ・シンハー脚本/アヌバウ・シンハー、カニカー・ディッローン、ムスタク・シェイク、デヴィッド・ベヌロ
インド映画。原題は"Ra.One"。156分と長尺。20分ぐらいで眠くなり、軽く寝たんだけど、また少し寝て。しばらく見ていたんだけど、また寝てしまった。で、またまたしばらくしたら、少し寝てしまった。都合4回、うとうと。要は、合わないんだと思う。ムダな要素の多いインド映画。加えて、単純なストーリー。そして、受け身で見るだけのアクション。考えるところが、ちっともない。それが楽しめない体質なんだと思う。…あとは、ちょっと体調が悪かったのかも。
ビデオソフト制作会社に勤めるシェカル。息子のプラティクに「絶対負けない悪人キャラを!」といわれラ・ワンを開発する。対するヒーローはGワン。ところがラ・ワンがゲームの世界から現実世界に飛び出してきて大暴れ。シェカルが殺されてしまう(というシーンは寝ていたので見ていない…)。そこでプラティクがGワンを現実世界に放ち、ラ・ワンvsGワンの戦いが繰り広げられる。というのがメインストリーム。で、Gワンはシェカルの顔をもつキャラなので、未亡人のソニアとプラティクが感情移入し、ドタバタコメディがプラスされる。そこに、わけの分からん踊りである。何でもかんでもぶち込んだ結果の156分だろうけど、長すぎる。
エンドクレジットのメイキングを見ると、すべてCGではなく実物やワイヤーアクションを採り入れた特撮が主みたい。だから、なかなか迫力はあるんだけど、どれもどっかで見たことのあるようなシーンばかり。「スパイキッズ」+「ターミネーター」+「マトリックス」+「スーパーマン」+「スパイダーマン」+「アイアンマン」+「大陸横断超特急」+その他その他。なので、飽きる。それと、冒頭のエピソードは、あれはゲームの世界の話なのかな。よく分からない話がちょこちょこでてきて「?」なところもあった。ま、ずいぶん寝てたから、こっちの責任もあるけどね。
主な舞台がイギリスで、ときどきインドにも移動するけど、新しいインドイメージなので貧乏くさい感じはまったくない。だから、つまんない、ってのもあるかも知れないんだけどね。
ラ・ワンは、他人の外見を拝借することができる。ゲームの世界から現実世界にでてきて最初にコピーしたのは、ゲーム制作会社の中国人だ。つぎは、広告に登場するイギリス人。つまり、インド人にとっての敵が中国人とイギリス人と言うことで、これは現実社会ともシンクロしているわけだ。中国は実際に敵対関係にあるし、イギリスは元の宗主国だから。インドの観衆を意識してのことなんだろうか。
ゲームの世界から実世界へでられるのは、この世界を飛び回っている電波や赤外線なんかの波長を利用しているから、というのは面白かった。実際、地上には無数の電波が充満しているわけで、それを使えばできないことはないかも知れない、と思わせてくれる。ま、手ざわりまではムリじゃないかと思うんだが…。
ラ・ワンは、実体+ハートで構成され、実体だけをやっつけても死なずに再生する。胸にハートを取り付けているとき破壊されると、死ぬ、という設定。これにはあんまり意味も説得力もないと思うんだけど…。で、最後の戦いでラ・ワンが分身の術を使い、10体になる。対するGワンとプラティク。「ホンモノには影があるけど、他のにはない」と見抜いて打ち勝つのであるが、あまりにもバカバカしくて拍子抜け。おいおい。
Gワンは、基本敵に操作ウェアを装着して操るんだけど、自律して動く。このあたり、なんかいい加減というかテキトーだな。
CUT8/13キネカ大森2監督/アミール・ナデリ脚本/アミール・ナデリ、アボウ・ファルマン、共同脚本青山真治、田澤裕一
allcinemaの解説は「NYを拠点に活動するイラン人監督アミール・ナデリが、日本を舞台に日本人俳優を起用して撮り上げた異色作」「売れない映画監督の秀二(西島秀俊)は、いつも兄からお金を借りて映画を撮っていたが、その兄が借金のトラブルで死んでしまう。兄が秀二のためにヤクザから金を借りていたことを知り、残った借金を返すためにヤクザ相手に殴られ屋をすることになる」というもの。なぜイラン人が日本映画? は分からない。
allcinemaの解説にあるような設定があるんだけど、映画はその枠組みから転げださない。最後まで殴られるだけで、いつになってもドラマが始まらない。これを2時間も見せつけられるのは苦痛だ(実際、途中で少し寝たけど、ドラマは殆ど進行していなかった)。そもそも背景もよく分からない。解説には映画監督とあるけれど、そんな感じには見えなかった。別に職があって趣味で自主映画を撮っている? ぐらいに思っていた。だって「映画は堕落してしまった」「かつて映画は芸術であり、真に娯楽だった」「シネコンの娯楽映画は!」などと拡声器でアピールして警官に注意されたり(そのシーンはなくセリフでの説明)、毎月(?)16mm映写機で古今の名作の上映会を開いたりしていて、映画屋というより濃すぎる映画ファンあるいは1960〜70年代にいた闘士みたいな感じだから。いまどきこんなアホはいないだろ。映画が芸術だ、なんてまともに主張するなんて、いまどきズレてるしね。それに、娯楽映画としてつくられた映画が悪いわけでもない。映画は映画だ。余計な思想の押しつけはやめてくれ、という気分になってくる。
で、兄がつくった1200万余の借金を、なぜ弟が返済しなくてはならないのか。その理由もわからない。で、その借金の返済のために始めたのが殴られ屋。殴るのは怪しいバーと、併設された雀荘に集うヤクザたち。で、返済期限までの5日だったか7日だったかで、なんと完済してしまうのだ。アホかと言いたい。顔も変形して血だらけの素人衆を、1発5000円だの1万円を払って殴るヤクザなんていない。…もう、その時点で興味は失せた。話がそこから動いてドラマが発生するならまだしも、最後までこれなのだからたまらない。秀二は、殴られるたびに古今東西の名画を思い出し、痛みを忘れる? ヤクザに殴られる話と映画狂の話と、どう関係があるのか、さっぱり分からない。
それから、不思議なバーには陽子(常盤貴子)というママとヒロシ(笹野高史)という借金取りがいて、秀二に気を使っている風なんだけど、でも身体を気遣ったりはしていない。あの2人はなんなのだ? さっぱり意味が分からない。
主人公の映画狂・秀二は、シネコンで上映するような娯楽主体の映画は糞だといい、映画は死んだ、と言い放つ。けれど、この映画の方がさらに輪をかけて糞であることも間違いない。だって、面白くもなければ考える部分もないのだから。
秀二という存在は、本当の映画の象徴で、それが時代に翻弄され傷め尽くされている。それを乗り越えれば、映画の再生はある…とかいいたいわけかな? でもだったら、そんなややこしいメッセージなんか映画にせず、面白くて深い映画を1本つくった方がよっぽどマシだと思うがね。
しかし、秀二の認める名画に、SABUや
常盤貴子の、まるで普段着な衣装が、オバサンっぽくてなかなかよかった。
ヘルタースケルター8/13MOVIX亀有シアター8監督/蜷川実花脚本/金子ありさ
冒頭から疾走する街、風俗が短いカットで積み重ねられる…のだが、車道の早まわしはいいんだけど、人物のカット尻がワンテンポ長い。あれをツメて畳みかけるようにするといいと思うんだが、あの切り方の生理は監督のものなのだろうか。で、トップモデルのりりこ(沢尻エリカ)が登場し、華々しさの裏のワガママさを見せつける。エリカ様自身の現実とシンクロして…といわれているけれど、監督もそれを意識してのことだろうから、単なる話題づくりだけだと思うけどね。この段階で沢尻エリカのちょうどいい大きさの胸も露わになるし、恋人(窪塚洋介)とのドギースタイルによるセックスシーンも。ま、冒頭で度肝を抜くには十分。お得意の色彩のレトリックも相変わらず巧みで、見せてくれる。
で、りりこ の容姿は目と耳と爪以外は整形で、しかも、他人の生体を移植しているので免疫抑制剤を飲みつづけなくてはならず、さらに常日頃のメンテナンスも大事。それをしていても肌に痣が浮き出てきてしまう…という展開になって、さてどうなるのかな、と思ったらそれ以上に話が転がっていかない。後輩モデルの台頭におびえる りりこ。そのりりこ に、後輩つぶしや何やかにや命令され実行するマネージャーの寺島しのぶ、対策を練る社長の桃井かおり…。なんていうのがドタバタするだけで、新しさがどこにもない。後輩モデルの台頭なんて「イヴの総て」だし、こないだビデオで見た『ワンダー・ボーイズ』も同じような話があった。タレントだのモデルなんか一種の消費財で、旬のうちはいいけど飽きられたら捨てられる。そういうことを言いたいのは分かるけど、はっきり言って古典的なテーマ過ぎて、そのまま出されてもつまらないよな。ま、この映画では2段オチになってて、りりこ の妹もブスだったけど整形してそこそこ見られる顔になって登場というのがあるけど、スターになれるほどの美形ではなかったし…。
いちばん興味深い人物は寺島しのぶで、りりこ に絶対服従。同棲中の年下の彼を寝取られても何も言えず、自分を捨てた窪塚の結婚相手に硫酸をかけたり、後輩モデルを刺そうとまでする。同じ会社の後輩を潰せば会社の存亡にも係わると思うんだけど、見えなくなってしまっている。そんなキャラが中途半端にしか使われていない。もったいない。
生体移植による整形というSFまがいの設定は面白いんだけど、これまたそれ以上に突っ込まない。これか監督が女性であることと無縁じゃないかもね。男なら科学的な話や臓器売買方面に話を展開しても不思議ではない。でも、なにもツッコミがないのだよ。もったいない。
つまらないのは、検事の大森南朋とアシスタントの鈴木杏のパート。これが時々インサートされ、並行して進行していくのだけど、大森は観念的なことをぶつぶついっているだけ。こっちには全然つたわらない。しかもセリフが棒読みで、キャラとしても魅力がない。一度だけ刑事の寺島進が絡むんだけど、寺島の活き活きした演技と比べるとぎくしゃくブリがめだった。鈴木杏は、いてもいなくてもいい感じ。というより、このパートは必要なのか? 後半で大森が水族館でりりこ と会話するシーンがあるけど、絡むのはあそこだけ。しかも観念的。退屈で退屈で、眠くなりそうだった。それから、大森がりりこ のことをタイガーリリーって呼ぶ理由って、どっかで説明していたっけ?
てなわけで、再手術を繰り返すけど、シミは増える一方。後輩を蹴落とすことしか考えず、いつまでも君臨できると錯覚する りりこ。結局、覚醒剤らしいものに逃避するんだけど、見えない蝶が見える辺りの見せ方は、面白かった。ま、それまでが中だるみだったからね。そう。この映画、冒頭は活きがいい→なかだるみ→しりすぼみ→ラストでちょっとだけ盛り上がり、なのだ。
スキャンダル発覚と記者会見のシーンをパターン的に仕上げているのはなぜなんだろう。無機質で同じような感じの記者たち。マイクはどれも同じで、社名も書かれていない。シャッター音とフラッシュが連続し、りりこ が話し始めようとすると、静寂が…。って、変だよなあ。フツー、話し始めると途端にシャッター音の密度が濃くなるんじゃね? 単にここは、マスコミも各社顔がなくどこも類型的、みたいなことを言いたいのかね。で、ラストは、業界に居られなくなった りりこ が、フリークショーみたいなアングラバーにいるというもの。あの怪しい雰囲気は買いなんだけど、それまでの中だるみが激しすぎる。そういえば、この辺りであの義足の芸大卒・片山真理氏がでてると聞いたんだけど、すっかり探すのを忘れていた。ポールダンスの次あたり? 侏儒と絡む辺り?
で、最後はサイボーグかなんかで逆襲するのかと思いきや、りりこ の写真集の再発売で復讐? って、それはないよな。だして売れるほどのムーヴメントがあるという背景も描かれてないし。
ヘルタースケルターとは「しっちゃかめっちゃか」の意味でビートルズの楽曲名。原作マンガの題名らしい。
後半にクラシックなどが入るけど、全体に音楽はよかった。不協和音的なマイナーな流れは、この映画にあっているように思った。けど、どうせなら最後までそれて押し通して欲しかったかも。
会話の中で「アリアドネの糸」とかいう表現がフツーに使われていた。「?」。後で調べたけど、こんなのすぐ分かるヤツなんて、おらんと思うぞ。
旅芸人の記録8/16東京芸術センター・シネマブルースタジオ監督/テオ・アンゲロプロス脚本/テオ・アンゲロプロス
ギリシア映画。1975年製作で、日本公開は1979年。フィルム上映。232分、途中休憩なし。初見。最初にキネマ旬報・スクリーン1位、とでる。内容については知らなかった。単純にいっちゃうと1939年から1952年までのギリシアの歴史を、旅芸人一座の興亡とともに見せていくもの。重厚な画調で、構図も、すべてに完成度が高く、1枚の写真としても十分成立するようなものが綿々とつづく。とはいっても、カットがとても長い。ムダに長いので飽きてくるときもあるけれど、それがこの映画のリズムだし、ああじゃなかったら迫ってくるものも違ってくるだろう。この映画を見るには劇場しかない。ビデオだと緊張が保てず、きっと、2〜3日かけて見ることになるかも。
多くに様式主義が採り入れられている。とくに戦闘シーンなどはそうだ。王党派と共産党(パルチザン)の市街戦なんて、もろ記号的な様式主義。リアリズムではなく、記号のように描かれる。ヒトラーの侵攻からギリシア国内内戦を描く中盤は、正直に言って退屈。なぜなら人間ドラマがなく、歴史上の出来事を様式的に見せていくだけだから。ここをもうちょい工夫してたら、さらにインパクトの強い映画になったろうに。
いちばんやっかいなのは、人物の見分けがぜんぜんつかないことだ。一貫してアップがない。ミドルかロングで集団を写していく。しかも、名前も人間関係もほとんど説明されない。夫婦、姉弟などの断片的な関係が語られても、旅芸人たち全体に関する情報が与えられていないから、ぼんやりとしか分からない。しかも、戦乱に巻き込まれるとひとり消えひとり消えするんだけど、それが誰なのかも分からない。後半で、捕虜生活から脱出する男(亭主らしい)や、刑死した弟なんかがでてくるけど、それまでの経緯も紹介されているわけではないので、すっきりしない。すっきりしないまま、後半は、その刑死した弟をもつ姉が中心になっていくんだけど、そもそも彼女は旅芸人たちの中でどういう位置づけだっけ? と思い返しても分からない。若い女性は2人いたように思うけど…。それに、志願して出征していった暴力亭主は、あれはどうなったんだ? あの奥さん、亭主が出征すると、すぐ別の男(旅芸人の中の右翼的なでっぷり男)を引っ張り込んでたよなあ。で、どうなったんだ? それから、右翼でっぷり男は途中から見えなくなったように思うんだけど、どうなったの? などなど、胃の腑に落ちない展開で、どーも、物語的に辻褄を合わせたい自分としては、モヤモヤ感がぬぐえないのだよね。
今年見た映画に「やがて来たる者へ」があって、これはイタリア山岳部の農民がパルチザンになってドイツ軍と戦う話だった。枢軸国イタリアって、国民が一致してファシストを支援していた訳ではなかったのね、とちょっと驚いた。日本みたいに島国だと国境を接しているわけではないからムリとしても、じゃあ、ドイツ国内でも反ナチのゲリラはいたのかな? と、興味をもった。この映画でも、それに似たような感想を抱いたわけで、もちろんそれはギリシアの歴史を知らないからそう思うだけなんだけど、ギリシアにもいろいろあったんだね、ということだ。とくに大戦終了後は右翼と共産党の対立があって、王党派に対抗して多くのパルチザンが抵抗をつづけていたのだな。このあたりの大戦後の状況は、程度の差はあれど、日本も似ている。共産主義の台頭を、米映画支援して阻止していたのだなあ。
allcinemaの解説を読むと「旅一座の家族を通じギリシア現代史をパノラミックに総括した壮大な映画の叙事詩。一家の物語はそのままアトレウス家の古代神話--戦争から帰ったアガメムノンが妻とアイギストスに殺され、やがて息子オレステスがその復讐を姉エレクトラと共に果す--をもじっている。これを39年のメタクサス将軍の極右独裁体制の開始から、ムッソリーニの侵攻、42年の独軍占領、44年の国民統一戦線(共産党系の国民解放軍と亡命した国王の復讐を望む王党派の民主国民同盟の連立政府)の勝利、戦後のゲリラ下部組織の掃討から共産派弾圧、52年のパパゴス元帥の軍事政権の誕生までの歴史事実を生々しく介在させ、政治の荒波に翻弄される画面外の民衆の息吹すら感じさせる」とあるけど、ギリシア神話は知らないので、作者の意図はほとんど理解できていないと思う。ただし、雄大な叙事詩を目指したのであろうことは分かる。分かる感じがするだけであって、理解はできていないと言うことだ。各シーンには深い意味があるのだろう。でも、日本人の私には分からない。
その、旅芸人が開く劇の舞台の上でも、現実の事件が起こされていく。舞台に男が乗り込んできて、男が逃げるけれど、捕まってしまう。あれは、王党派に共産主義者が…なのか? ドイツ軍がやってきて、「イギリス人を匿ってないか?」と問いただす。団員の右翼でっぷりが売ったとか何とか女が騒いで、団員が捕まって銃殺されるんだけど、あれはどういう経緯なのだ? 舞台に突然男が乗り込み、男女を射殺…。観客は芝居だと思っているが、実際に殺されていた…って、あれは共産主義者がやってきて王党派を射殺? なんか、よくわからんのだけどね。
映画は大きく4つのパートに分かれる。そして、4人の語りが入る。最初はアコーデオン弾きのジジイ。これから始まる物語の概要を、舞台の上から語り出す。でも、芝居を見に来た客に対してなのか、映画を見ている観客になのか分からない状態なので、ぼーっと見ていた。言っていることもよく分からなかったし。次は移動する電車の中で、男が1920年代のトルコとの戦いをうだうだ語る。3つめのパートは、国民党側の男がやってきて「弟は?」で、女(姉だろう)が強姦されて捨てられて、起き上がると大戦前から大戦後までの経緯をうだうだ語る。最後は、王党派に捕虜になった男が妻の元に帰ってきて、拷問のことをうだうだ語る。これは、カメラを通して観客に語る形式をとる。突然なので最初は「え?」と思ったんだけど、時の流れを語る意味もあるのだろう。まあ、狂言回し的な感じなんだろうけど、これも様式的な部分の一つかも知れない。そもそも、舞台の上の芝居仕立てで、ギリシアの歴史を語るのだから、当然なんだろうけど。
でまあ、最初は8人ぐらいの旅芸人の一団が、ひとり消えふたり消えしていって、大戦中は中断。戦後も、各自バラバラな生活をする。で、平等な選挙をするからと言うことでパルチザンに投降を求め、一定の期間までに投降しないと、徹底的につぶす、と宣言。そのパルチザンに、団員もいたりして・・・。で、世の中が少し落ち着いたので、女(姉役)が元のメンバーに新人を加え、新たに旅回りを始める。その訪れた街は…というのが冒頭で、そこから1939年に時間が戻り…という構造だ。1939年の駅前には、荷馬車。1952年の駅前には、バイクの荷車という描き分けがされていた。まあ、そういう話で、それ以上でもないような気がする。以下、疑問点をぱらぱらと…。
・終戦後、一座が海岸で英軍に遭遇し、芝居。そこに銃弾。英兵が1人、撃たれたの? 様式的な描き方すぎて=芝居かがってて笑ってしまったよ。
・終戦後、解放された広場に米英露ギリシアの旗。そこに銃弾2発ぐらい? 人が散ると、銃弾の数より多く死体が3つぐらい転がっている。カメラがぐるっとまわると(時間の経過を表しているのか?)、でも死体はそのままで、デモ隊みたいに人々がやってくる…。って、これが血の日曜日? 大量の人が殺戮されたのではないの? これも様式的な表現だからなのか?
・他にも、カメラがぐるっとまわると時代が変わる、というシーンがあったなあ。そういえば。
・戦後の、ダンスホールでの右派と左派の対立が興味深かった。まるで「ウェストサイド物語」。このシーンは、女(姉)が昔の仲間を集めにやってきたシーンなんだけど、楽団の中にアコーデオン弾きがいる。で、女は、ホール内での対立を眺めているだけなんだよね。どちらにも加担しない、という意味なのかい?
・松林の結婚式。米兵と結婚したのは誰? 大きな息子がいたけど、1939年には少年だったあの子供? 米兵との結婚に、不満たらたらな息子。そして、松林の情景は日本の戦後を思わせるところがあった。
・銃殺刑にあったのは、最初の方で…明日どこどとへ行くといっていた青年か…。逮捕されたときひげ面だったノッポがあれか?
・アコーデオン弾きの爺さんだけは分かるな。
トガニ 幼き瞳の告発8/20新宿武蔵野館1監督/ファン・ドンヒョク脚本/ファン・ドンヒョク
韓国映画。「トガニ」とは「るつぼ」の意味らしい。allcinemaの解説では「郊外の街にある聴覚障害者学校に赴任した美術教師のカン・イノ。しかし着任早々、怯えたような児童たちの表情から学園内に漂う不穏な空気を感じ取る。ある日、一人の女子児童が女寮長によって顔を洗濯機に押しつけられている現場を目撃したイノは、彼女を保護して病院に入院させる。そして、以前知り合った人権センターで働く気の強い女性ソ・ユジンに連絡を取る。やがて、児童たちが校長をはじめとする教師たちから日常的に性的虐待を受けている実態が判明。イノとユジンはマスコミを利用して校長たちを告発、ようやく警察が動いて逮捕にこぎ着けるのだったが…」というもの。現実の事件を小説化→映画化したらしい。映画の終わりには「加害者の一部は職に復帰」とあったんだけど、エンドクレジットのあとに、さらに字幕がついた。一枚目はよく見なかったんだけど、二枚目では「学校は閉鎖云々」あった。小説や映画によって、そうなったのかな?
映画としては、とくに突っ込むところはない。丁寧に撮られている。のだけれど、そもそも幼児の性的虐待というモチーフなのに、オッサンが幼児の上に覆い被さったりするシーンがたくさんでてきて、見ていて気持ちのいいもんじゃない。もちろん編集でつないでそう見せているのだろう。演じている子供は、内容をちゃんと理解していないかも知れない。でも、できあがった映画では、そのシーンが生々しく描かれているのだ。出演している子供たちが、将来この映画を見てどのように感じるか、を思うと気が重くなる…。
それと、見ながら思っていたのは韓国という国の後進性と、ファナティックな国民性のことだった。とくに現在、李明博現大統領が竹島に上陸して示威活動。タレントが泳いで竹島に上陸したり、ロンドンオリンピックでサッカー選手が「独島は韓国のもの」というプラカードを掲げたり、韓国内でも竹島は古来韓国のもの宣言で一致団結している。この異様なムードの源泉が、この映画からも臭ってくる。他にも、大統領が交代すると逮捕されるという不気味さも思い出す。実際、李明博大統領の兄もすでに逮捕されているらしいが、血族の濃さというか、自分たちの利益のためなら一致結束していく様子は、気持ち悪いぐらいだ。で、その行動様式も、映画では描かれている。だから、内部告発的な映画と見ることもできるんだけど、監督のファン・ドンヒョクにそんな思惑があったかどうか分からない。韓国国民も、この映画を見て「自分たちが告発されている」と思うのかどうか、怪しい気もする。
この映画で描かれるもの。それは、韓国の腐敗だ。幼児への性的虐待が発覚しても、行政は責任をとらない。警察官は賄賂をもらっている手前、動かない。裁判が開かれても、証人の警備員や医師は買収されて偽証する。慈善家の顔をもちながら、幼児への性的虐待をする聾学校の校長。その校長と近親相姦の妹。キリスト教団体は被告の校長を支援する。被告の妹や妻が、被告に有利に動き回る。検察官までもが買収され、重要な証拠を提出しない。さらに弁護士が元裁判官で、弁護士として最初の裁判では負けさせないという温情ルールがあることから、なんと判決は禁固3ヵ月ていどで1年の執行猶予つきになる。主人公のカン・イノの母親までが、「そういうことには目をつぶって、家族のことを考えるんだよ」という。どこまで腐ってるんだ、という話だ。
もちろん日本も戦後一時期には、おかしな裁判があった。いまだってないとはいえない。でも、それはある特定の団体の人間が被告となり、それをかばうために行われたりすることが多い。検察や警察が被告になると判決が甘くなったりすることが、証明している。が、この映画の被害者は障害を持つ幼児であり、加害者は正直者の皮を被ったオッサンである。そのオッサンたちに世話になった、なっている、これからもなるような人間が、あそこまで嘘を突き通す社会というのは、どういうものなんだと思う。
とかく韓国は意見がひとつにまとまりやすい。国の利害に関する問題だと、一致団結したかのようだ。竹島問題も結論ありきで、検証しようとする姿勢もない。こんな国で、いったい学問というのは成立するのかと、いつも首をひねってしまう。それとも韓国の歴史学者は、言いたいことも言えない環境下にいるのか? たとえば日本なら、少数とはいえ反日本的な言説も自由にいえる。言ったからといって、殴られたり殺されたりはしないだろう。けれど、彼の国では自国の利害を害する意見や発言は、袋だたきに合う、らしい。まるで日露戦争時代の日本と同じだ。ということは、彼の国の文化程度・国民の知性は100年ぐらい遅れているってことか? 元になった事件が最近のもの、というのを聞いて、なんて土俗的な国なんだと、ため息で出てしまう。そんな気分に陥った2時間だった。
もし監督が、自国民に対して自戒を込めた意味でこの映画をつくったのなら評価したい気はする。でも、そうとも断定できないところが、もやもやする。国民感情としては、知りたくないことを知らされてしまった、という気持ちの方が大きいのではないか。この映画を見たからといって冷静に自国の歴史を振り返るようにもならないと思うし、都合の悪いことを隠す体質は変わらないような気もする。
とまあ、映画の内容よりも、政治的、民族的なことが頭に渦巻いた2時間だった。映画的には、内容を分かりやすく伝える手法が徹底していて、不明なところや辻褄の合わないところは、なかったように思う。表現上で象徴的だったのは、ガラスを割る、ということだ。市民活動家の女性が酔っ払って運転し、主人公のクルマにぶつかる。そのクルマのドアガラスが割れているのだ。これは後に、彼女がおっちょこちょいで、よく鍵を入れたままロックする性癖があることの紹介になっている。他にも、主人公の運転するクルマにうさぎ(?)がぶつかって割れる。他に、主人公がドアガラスを割るシーンがあったような気がするが、定かではない。もうひとつは、裏切った検事の乗るクルマに卵がぶつけられる、というのがあった。これはガラスは割れないが、視界が邪魔される。市民運動化の女性の場合は、新しいことを切り拓く、ということの象徴かも知れない。主人公の場合は、これから起こることの予兆。そして、新しいことへの挑戦などの意味が。検事の場合は、先を見る目が曇った、などの象徴に使われているのだろう。それなりに面白いけど、市民活動家の女性の酔っぱらい運転は、いかがなものかね。
観客の中に、若い聾唖者が何人かいた。あとから気づいたんだけど、入場するとき「整理券10番まで」「整理券20番まで」というのを、声だけでなくフリップでも行っていたのは、こうした人たちへの配慮だったのね。
Virginia/ヴァージニア8/21ヒューマントラストシネマ有楽町監督/フランシス・フォード・コッポラ脚本/フランシス・フォード・コッポラ
原題は"Twixt"。意味はよく分からないが、betwixtの短縮形で「合間」みたいな意味らしいが、定かではない。allcinemaのあらすじは「次回作の執筆に悩むミステリー作家ボルティモアは、サイン会のために寂れた田舎町へとやってくる。かつてエドガー・アラン・ポーが滞在したこともあるというその町では、数日前に胸に杭を打ち込まれた身元不明の少女の死体が発見されたばかり。彼はミステリー好きの保安官から、この事件を題材にした小説を書こうと提案される。やがて夢の中でヴィーと名乗る謎の美少女や憧れの作家ポーと出会ったボルティモアは、かつてこの町で起きた凄惨な事件について知ることに。そして2人に導かれるように、現在と過去、それぞれの事件の謎を紐解いていくボルティモアだったが…」というもの。ジャンルもホラー/ミステリー/ファンタジーとなっているのでコッポラ制作総指揮の「ジーパーズ・クリーパーズ」みたいに中盤から悪魔の実体が登場するようなのかとおもいきや、つくりも中味も青臭くて純粋なお話だった。モノトーンに赤や黄色が鮮やかな画調だけど、画質は、なんで? というぐらいにボケボケ。意図的にしてもひどすぎるだろ。
作家ひとりでクルマに乗って、田舎町をサイン会って、あり得ないだろ。売上げより経費の方がかかるに決まってる。保安官事務所に冷蔵室があって、そこに少女の死体が、しかも杭を打たれたままのが何日も放置されてるって、あり得ないだろ。後半で、ボルティモアが時計職人と時計台に上り、墜落するんだけど…あの時計職人は夢の中の宿屋にいたのに、現実の人物として登場? なんか変だなあ。などなど、次第に夢と現実が入り混じってくる。
まだある。ポーの説明によって、1950年代に発生した幼児13人殺しの顛末が、イメージとして登場する。変態(?)聖職者が運営する孤児院らしいが、その虐殺からいったん逃れ、でも最後は聖職者に捕まって地下室に封印された少女が、夢の中のヴィーであることが分かる。最後は、保安官事務所。事務官が惨殺され、保安官は首つり自殺。ボルティモアが冷蔵室の遺体の覆いをとると、これまたヴィーで、ヴァンパイアとなってボルティモアに襲いかかる。なんだかよく分からんなと思ったけど、はたと気がついた。これは、コッポラ版の「インセプション」だと。
現実と思っていたサイン会の旅。これはすでに夢なのだ。あの、7つの時計が勝手な時間を表示しているいうのも、現実離れしているしね。ヴィーやポーと出会った森、これがさらなる夢で1950年代の話。その夢の中で、幼児殺し事件の顛末を、もう一段階深い夢として見ている。だから、ヴィーはすべての夢の中に登場することができる。そして、保安官殺しやヴィーの吸血鬼化の理由も解決がつく。おそらくボルティモアはフツーに売れっ子の小説家で、夢の世界をもとに小説を書いているのだろう。だから今回も、夢の世界にネタ探しにやってきた。そこで起こった出来事なのだ。編集者や妻とのSkypeでのやりとりは、夢の中に混じり込んできた現実の一部、ということかもね。ラストシーンで、仕上がった原稿を編集者に渡してOKをもらうシーンが、すべては夢の中の出来事であることを証明している。
それが分かってしまえば、あとはディテールを楽しむだけ。なぜポーが出てくるのかは分からないけど、先達としてボルティモアが尊敬しているからかな。なのに、所有している貴重本はポーのものじゃなかったよな。奥さんが金に困ってるから「売る」といきまいてたけど。そういえば、調べたらヴァージニアというのは、ポーの従姉妹で妻だったらしい。結婚したのはポー27歳、ヴァージニア13歳。そのヴァージニアは24歳で亡くなり、後を追うようにしてポーも亡くなった。40歳だったという。映画中にもあったけど、ポーの書く小説の主人公はすべてヴァージニアがモデルで、遺作の詩「アナベル・リー」もそうらしい。これは見た後に知ったことで、あらかじめ知っていたら、なるほど、のシーンも多かったろう。それにしても、ヴィーを演じていたのはエル・ファニングだったのか。妖しくてカワイイ…。
で、始めは保安官のネタをバカにしていたボルティモアだけど、なんとなく気になりだして、アイディアをもらうことになった。保安官は「共著で」というがボルティモアは「原案(?だっけ)ってことで」とやんわり。編集者にSkypeでアイディアを話し、翌朝までに梗概を送る、と約束してMacに向かう。この件がユーモアあふれていて楽しかった。ケースに入った椅子と机を組み立て、事務用品を几帳面に所定の位置に置き、ウィスキーグラスにロックをなみなみと…。書き出しで悩む。編集者に「霧の街はやめてくれ」といわれているので考えるんだけど、なかなか「霧」からぬけられない。笑える。ヴァンパイヤものは、霧がつきものだからね。で、ほとんど書けないまま寝てしまうんだが…。このとき、「ヴァージニア」とタイプしようとするとヴィッキーとでてしまうのは、Vで娘のヴィッキーを登録しているからか? それだけ娘を思っていたということだろうけど、あれも夢なので娘ヴィッキーが死んだというのも、それも夢の中の嘘かも知れない。で、翌朝、「あらすじは? こないぞ」と編集者からファクスが来るんだけど、メールとかSkypeじゃないのかよ…。
で、ラストシーンで自慢気に原稿を渡しているボルティモアだったけど、編集者と話しているとき、本は「共著」になってたっけ? 原案のクレジットはあったっけ? なんか、よく覚えていないが。思うに、保安官を殺したのはボルティモア自信ではないかと思う。といっても、実際に手を下したというわけではなく、共著や原案としてしゃしゃり出られるのを危惧して、夢の中で抹殺してしまったのだろう。ちがうかな?
もうひとつ、重要な要素として登場する対岸のデスメタルっぽい連中はなんだったのかな。ジプシーのように放浪するヴァンパイアの集団? そもそもヴィーがなぜ吸血鬼になったのか、分からないよな。それともあれは、1950年代に殺された幼児たちの生まれ変わり? よく分からない。
興味深いキャラとして、図書館の女性とバアサンが登場するんだけど、なんも関係なかったみたいね。時計台の中は歯車ばかりで、これはこれでポーの小説っぽくてよかった。あの時計職人も、もうちょい描かれてもよかったかなあ。
アベンジャーズ8/23新宿ミラノ1監督/ジョス・ウェドン脚本/ジョス・ウェドン
原題は"The Avengers"。この手の、なーんも考えなくていい映画では必ず寝てしまうんだけど、やっぱり寝てしまった。30分過ぎから眠くなり、1時間目ぐらいでうとうと、気がついたら、空飛ぶ空母が襲われていた…。
冒頭で、どっかの宇宙人(?)がどーたらという話があり、それで地球を襲うことになったらしい、とある。だけど、大雑把すぎてほとんど意味が分からない。字幕が悪いのか、もともとのセリフに説明が足りないのか…。で、地球では、なんとかキューブの実験中で、そこに「マイティ・ソー」のロキが現れ、なんとかキューブを盗んでいく、というのが発端。だけど、なんで神々の1人であるロキが宇宙人の手先になってやってくるのかよく分からず。
で、長官のニック(サミュエル・L・ジャクソン)は、マーベルコミックのヒーローたちを招集する…。集まったのは超人ハルク、キャプテン・アメリカ、アイアンマン。そこに、「弟が問題を起こして…」とロキの兄マイティ・ソーが加わる。ニックの部下に、ナターシャ(スカーレット・ヨハンソン)。ロキによって早々に心を変えさせられてしまうジェレミー・レナーはニックの部下? と思っていたら、彼はホークアイという役回りで超人のひとり? でも、ホークアイをよく知らない…。ニックとナターシャは「アイアンマン2」に出てきていたらしいけど、ほとんど記憶にない。ナターシャは、スパイ訓練を受けてはいるけど、ただの人なのか? わかったようなわからないアベンジャーズの面々だ。
そもそもキューブにはどういうパワーがあるのか。キューブをゲットしたのに、さらに攻撃してくるロキたちの狙いって、なんなの? 簡単に説明されていた気はするんだけど、胃の腑に落ちる説明じゃなかったので、どーも納得しきれない。その辺りを分かりやすく説明してくれないとなあ…。それと、ロキの手下となって動く人たちって、いったいあれは、誰? ロキに心を入れかえられてしまったその他大勢の地球人なのかね。そういえばホークアイや科学者たちもロキによって簡単にロキ派に心変わりさせられちゃうんだけど、あんなに簡単に心を奪えるなら、他のアベンジャーズたちにもその手でアプローチすればいいのにね。
この映画、CG合成による派手なアクションシーンの間に、アベンジャーズやニックたちの激論がサンドイッチされるような展開になっている。この、こうしようああしたほうがいい的激論が、正直つまらない。もっと人間ドラマをつくればいいのにと思うんだが。たとえば、そもそもの宇宙人の狙い、ロキの思惑、など敵方の心理や葛藤なども掘り下げて欲しいわけで、それがなけりゃただのCGゲーム画像と変わりないと思う。
キャプテンは古典的な超人なので、空が飛べない。そのせいか、チームの頭脳としてメンバーに指示を出す役回りになっていたのが笑えた。案外、足手まといになっていたりするんじゃないのかな。そういえば、キャプテンがニックにお金を渡すのは、あれはチップのつもり? なんなんだろう。それから、キャプテンが「星のスーツは、原題にはダサくないかな?」って、ファッションを気にしているのが笑えた。
アイアンマンのウェイトが高いのは、この映画がアイアンマンの延長線上にあるからなのか。グィネス・パルトロウもちゃんと登場するし、アイアンマンの活躍もいちばん見どころがあった。たんなる鉄の装備で、あんなことまでできるのか? というシーンばっかりで呆れたけど。
ハルクは、かなりのお邪魔虫? 最初に変身したときは、敵味方の区別つかずに大暴れするし。まあ、最後には宇宙人相手に大暴れしてくれるけど、あの時点では理性は働いているのか否か、よく分からない。どーも、あぶないメンバーにしか見えない。ところで、地上に落ちたハルク(すでに人間に戻っていた)を見つけた警備員が、「服も縮んだから」といってハルクに投げてよこす。おいおい。服は破れてるんじゃないのかい? 服も伸びたり縮んだりするのか?
ホークアイは一般の事務方かと思ったら、弓の名手なのね。でも、射っても射っても矢がなくならないというのが七不思議…。
結局、何とかキューブの力で四次元の穴が開いてしまい、そこから宇宙人がうじゃうじゃやってくる。乗り物も凄いし、宇宙人も金属製のスーツ着ていて強そうなんだけど、これがなんとナターシャのピストルやホークアイの矢で簡単に死んでしまう…どころではない。ナターシャの蹴りでも倒れてしまう。結構、いい加減に弱い宇宙人だった。
しっかし、ロキひとりに攪乱されてしまうアベンジャーズたち。浮かぶ航空母艦に、心を奪われたホークアイらが攻め込んでくるんだけど、近づいてきてるのにもまったく気がつかず、しかも、1度の爆発で落下しそうになってしまうというのは、あまりにチャチすぎないかね。
エンドクレジットの後の、みんな疲労困憊のまま、場末のレストランで黙りこくったままハンバーガーを囓ってるのがよかった。神のマイティ・ソーもハンバーガー食べるのね。
個人的には、ニックの部下のコビー・スマルダーズが品のある美しさでよかったな。ニックのサミュエル・L・ジャクソンとコビー・スマルダーズは、「マトリックス」のときみたいな衣装なんだけど、関係はないのかね。
幕末太陽傳8/25ギンレイホーム監督/川島雄三脚本/田中啓一、川島雄三、今村昌平
1957年(昭和32年)の映画だ。10年以上前にだつたか、ビデオに撮ったのを見たことがある。でも一気に見ることはできず途切れ途切れ。途中で眠くなって、うつらうつらしつつ見た覚えがある。今回は劇場なので逃げられないけど、でも、中盤で少し寝てしまった。つまらないわけではないが、引っぱりがあるかというと、そうでもないような気もするのだよね。その大きな理由は、この映画が小ネタの集成であって、大きな流れがないことだと思う。
時は幕末、ところは品川の遊郭・相模屋。串となる話は2つあって、1つは居残り佐平次の話。こちらには品川心中やら五人廻し、大工調べ、明烏、干物箱なんかのエピソードを練り込んで、庶民…とはいっても遊郭の話が半分ぐらいだけど、の話になっている。もうひとつは高杉晋作、井上聞多、伊藤春輔、久坂玄瑞らのイギリス公使館焼き討ち事件。高杉らが相模屋に宿泊しているという設定だ。落語を知っていれば、佐平次がどうなるかはおおよそ分かっている。焼き討ち事件も同様。なので、ストーリーの意外な展開は期待できない。というわけで、町人佐平次の八面六臂の活躍と、あとはディテールを楽しむ他はない。
ところが、全体にごちゃごちゃしている感が先に来てしまうしい、オールスターキャストも、役者に目が行ってしまって邪魔になる。「あ、これは誰だ」「誰だっけな、あれ?」と、役者が出てくるたびに意識がそっちに行ってしまう。小ネタにしても、いまはかなり理解できるようになったけれど、落語を知らず歴史に疎いと、半分も分からないんじゃないかと思う。50年前の庶民の常識は、かなり深かったということなんだけどね、これは。ある程度分かっても、じゃあそれがおかしいかというと、そうでもなかったりする。まあ、体で理解している知識と、後天的に学んだ知識とのギャップもあるんだろうけどね。
佐平次と高杉を結びつける小道具として時計が出てくる。でも、この時計があんまり機能していないんだよな。たとえば中に秘密の暗号が隠されていて、それを佐平次が発見…高杉が解読すると、シーボルトがスパイであることがほのめかされていて、伊能忠敬の作成した地図の国外流出に関連してくる…とかドラマチックがあると飽きないような気がするんだけど、まあ、そもそもそういうフィクションを狙っていないのは分かる。分かるけれど、終わってみれば小ネタのエピソードの羅列…という印象は免れない。
あと、感じたのは編集のタイミングの悪さかな。冒頭で高杉が時計を落とす。それを佐平次が拾う。このとき、落ちた時計を「さあ。時計ですよ」とアップでしっかりみせる。しかも長々と。現代の感覚なら、あんなはっきり見せることもないだろうなと思う。あの辺りの編集センスは時代を感じさせてしまう。同様の、間の悪いつなぎは他にもあった。
全体の印象としてガチャガチャした感じで、しっとりとした静の部分があまりないのももったいない。徳三郎が入れられる家内牢も、ネズミが何匹もいるのはいいけど、みんな逃げないで格子のうえでどっしりしちゃってる。ああいう演出もくどい感じがする。まあ、全体がカリカチャライズされたシロモノだから、あれはあれでいいのかも知れないけどね。
悪くないどころか上出来な映画なんだけど、時代を感じてしまって、冷静に見てしまうというところかな。それにしても、佐平次のあの知識はどこで得たものなのだろう? それは、映画の中でほのめかしもされないけど、裏を感じさせてもよかったんじゃなかろうか。
アーティスト8/25ギンレイホール監督/ミシェル・アザナヴィシウス脚本/ミシェル・アザナヴィシウス
原題は"The Artist"。アカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞、作曲賞を受賞。その他、主要な部門はすべてノミネートされている。がしかし、それほどの映画かい? という感じ。
サイレントからトーキーへの移行に付いていけない男優(ヴァレンティン)の話を白黒&サイレントで制作、というのはあらかじめ知ってしまっていた。尺の1/3ぐらいは、そこに至る過程なので、意外性はない。で、以降、えんえんと落ちぶれ後のはなしをしていく。そろそろ次の展開に…と思っても、まだつづく。で、話が少しずつ動きはじめるんだけど、後輩女優ペピー・ミラーの支援というのはミエミエ。なので、予定調和のまま話が進むのを見守るのみ。最後も、ほら、こうなったでしょ、という結末で。世の中は捨てたもんじゃない、善良な人がいるのですよ、と押しつけられているような気になってくる。こんなふうに美化するだけでよいのだろうか。
ヴァレンティンっは善良な役者だ。浮気している様子もない。妻にも気を使っている。運転手から慕われ、映画界でも人気者だ。「俺が俺が」の図々しさはあるけれど、まあ、役者なんてみな自信家に違いない。ただし彼は、時代の流れを読む才覚がなかった。それは既得権にしがみつくからではない。サイレントの方が優れていると信じ込んでいたのだ。アホである。会社はトーキーに移行すると宣言。それに対抗して自分が監督で1本撮るけれど、見事な不入り。大恐慌が後押しして破産し、妻に家を追い出され、家財を売っての貧乏暮らしとなる。…このあたり、話をつくりすぎな気がするんだけどなあ。これが、当時の時代の没落スターと勃興スターの象徴的な事例なんだろうか?
ヴァレンティンって、モデルはいるのかな。トーキーに対抗してサイレントに固執した大物役者なんていたのかね。よく聞くのは、声が甲高すぎてトーキーに合わなかったとか、大げさな芝居から脱しきれなかったというものだ。この映画では、そのどちらもでてこない。サイレントは芸術的に優れている、と錯覚したという話だけだ。これに説得力があるようには思えないんだがね。それに、自主制作で失敗したヴァレンティンに、手を差し伸べない映画会社というのも冷たすぎないか? それとも、ヴァレンティンが断ったということか?
あと、ヴァレンティンのプライドの高さが影響したことになっているが、武士は食わねど高楊枝な芸人なんているのかね。それとも、芸術家だから? でも、サイレントのどこが芸術で、トーキーのどこが非芸術なのか、示してくれないと分からないよね。もちろん、カラー映画の登場に追随しない監督もいた。けれど、音声が入る入らないと、色が付く付かないとでは、次元が違うような気がするんだけど、当事者にとってはそうではなかったんだろうか。または、むかしは、新しい技術の導入に反対するのがアート指向だったのだろうか。まあ、個人的には3Dは意味がないからそのうち廃れると思っているし、そう言ってきたけど、こういう態度もヴァレンティンと同じなのかね。違うと思うんだけどなあ。
てなわけで、この映画は新しいものの参入に対して、見る目がない旧態依然な感覚の役者の物語、だと思っているんだけどね。
で、ペピーは、新しいものを消化吸収するのに長けていた、ということになる。ここにあるのは、単に老人と若い人の対比だろうか。違うと思う。表現の可能性への理解だと思う。そして、保守性。世の中には、新しいものが登場すると、すぐに反対する人たちがいる。そのとき、大衆が何を求めるか、に思いが至らない。何が受けるか、を考えて判断すれば、そうは間違いないと思うんだけど。でも、既成のものにしがみついて、そのまま沈没してしまう人がいる、ということだと思う。昔のものでも、いいものはいい。新しいものでも、悪いものは悪い。それを見極めればいいんだ。そのとき、プライドは邪魔になる。まあ、プライドだけで生きている人は少なくないけどね。
ペピーが影ながら支援していたのは、ミエミエ。家財を買っていたのもペピーというのも分かってしまう。しかし、ペピーはそこまでする義理はあるのか? ないと思う。映画界入りのきっかけをつくってあげたわけではないからね。なのに、なぜペピーはヴァレンティンに親切なのか。これは、恋以外にないよな。では、恋する理由は何だ? あこがれなら分かるけど、落ちぶれたヴァレンティンに、なぜ恋をしつづけるかが分からない。ここで、ヴァレンティンの奥さんのことが思い出される。亭主の写真にヒゲを書いたりするのが趣味の、不機嫌な奥さん。彼女は、そんなにヴァレンティンが嫌いなのか? その理由は? …のあたりが理解できない。浮気しているわけじゃなし、気を使ってアクセサリーを買ってくれたりする。お金もたくさんあるし、文句をいう筋合いはないと思うんだけどね。そんなに嫌いなら、さっさと分かれて若い男でもつくればいいのに、なんであんなに地味なの? そもそもヴァレンティンは、なぜあんな奥さんをもらったの? 理解できない。
てなわけで、昔のフィルムに火をつけて死のうとするヴァレンティン。これが愛犬に助けられるんだけど、この犬が一番かしこいよ。運転手も、落ちぶれた御主人に無給で1年も仕えるって…。そんなにいい御主人なのか? で、そんなヴァレンティンに、ペピーはトーキー出演のチャンスをつくってやる。なのに、ヴァレンティンはプライドが許さないって、アホの二乗だね。
そういうヴァレンティンを説得するアイディアが、タップダンスによるミュージカルの提案。ペピーの提案で、監督も大喜び。これで、ヴァレンティンにも出番がまわってきて、ペピーとの恋も成就して丸く収まる、というラスト。なんだけど、ヴァレンティンはタップダンスに芸術性を果たして感じているのだろうか? あれで、彼は喜んでいるのか? なんか、ご都合主義的な終わり方だと思うんだけどね。
きっと、音声の使い方で高い評価を受けているのだろう。たしかに、トーキーの出現の表現は、意表を突いていた。控室にいるヴァレンティンに、物の音が聞こえ出す。決して声ではなく、SEで知らせるというのは、切れ味が鋭い。次に音が聞こえるのは、ラストのタップダンスの音。ヴァレンティノが引導を渡される音と、復帰を遂げる音だけにSEが使われている。これは象徴的だし、印象が深い。
音楽では、サイレントによく使われる曲をのべつ使っているのは、気になった。もうちょいバリエーションがあってもいいんじゃない?
ヴァレンティノ役のジャン・デュジャルダンは、渋くていい。けど、ペピー役のベレニス・ベジョは、アヒル顔だろ。もうちょい、あの時代のスターの顔が欲しかった。マルコム・マクダウェルのちょい役は、どういう意味だったんだろう? ジェームズ・クロムウェルは、刑事とか官僚とか偉い役の印象があるので、使用人という設定がどーもすっきりこなかった。
プロメテウス8/28シネマスクエアとうきゅう監督/リドリー・スコット脚本/ジョン・スペイツ、デイモン・リンデロフ
原題は"Prometheus"。人類の起源が云々のキャッチフレーズなので、それにりに期待して行った。そしたら、いきなり冒頭で人類の起源がネタバレされるので驚いた。じゃ、これからの話は、人類の起源を求める旅ではないのか…? が、以降の約2時間、緊張感のある映像でひっぱってくれて、話もそこそこ面白かった。とはいうものの、終わってみれば、話自体が「エイリアン1」のプロットと凄く似ていて、とんでもない意外性はなかった。しかも、これまでの謎は解決されていないし、新たな疑問も湧いてくる始末。これは、「プロメテウス2」への伏線なのかい?
2093年。目的の星が近づき、メレディス(シャーリーズ・セロン)が目覚める。アンドロイドのデヴィッドは、他の乗組員の目覚めをサポートし、着陸態勢をとる。宇宙船プロメテウスはウェイランド社が仕立てた物で、リーダーはメレディス。エリザベスとチャーリーは学者で恋人同士。この2人の知識を利用し、人類の起源を求めようとしたらしい。企画したのはウェイランド社の社長で、メレディスの父親の老人。死にかけだけど、不死を求めて他のスタッフに知られないよう自らも宇宙船に乗り込んでいた。
で、星に到着すると直線が見えるからとそこに着陸。直線の先に小山があるので一同そこに向かうと、洞窟の中に人間の遺骸がゴロゴロ。さらに、その行動がホログラムで洞窟内に再現される…。という展開はあまりにもご都合主義。古代人の絵から、どうやって人類の起源を思いついたのか。確かな根拠はあったのか。目的の星はどうやって特定したのか。着陸地点はテキトー? なのに、すぐに核心にたどり着けた。くさび形文字見たいのをいじると、すぐにホログラム再生→ドアが開く…てな流れは、できすぎ。
さらに、大気組成が地球と同じだからと、さっさとヘルメットを脱いだり、遺骸や壺、その他に気軽に手を出して触りたがるやつらばかりなのも、笑ってしまう。フツー、びびるだろ。そんなことしないだろ。で、メンバーの2人は喧嘩して先に帰るといったけど、迷子に。他のメンバーは、砂嵐が来るからとあわてて帰艦するんだけど、デヴィッドは、洞内から壺をひとつくすねてきてしまう…。
感染は、デヴィッドが企む。彼は壺のエキスみたいなのを酒に混ぜてチャーリーに与える。チャーリーはその夜、エリザベスとセックス。翌日、エリザベスが妊娠し、自力で帝王切開してイカ型エイリアンを取り出す。チャーリーには異変が起きて精神錯乱。メレディスによって焼かれてしまう。こちらはのちに生き返るけど、また焼かれてそれ以上にはならない。迷子の2人は蛇みたいなのに噛まれて死んでしまうんだけど、こちらは感染拡大しない。なので、繁殖はとりあえずイカ型だけみたい。この辺りは、正確に体系づけられていなくて、エイリアンもヘビ型、イカ型、エイリアン型と3種類登場する。
で、チャーリーだったかが文字を読んんだり(なんで読めるんだ? 地球に残された古代文字と似てるから?)、ホログラムの映像からいろいろ分かってくる。さらに、艦内にもちこんだ創造主の頭部を調査したら、ヘルメットの下から人間に似た顔もでてくる(でも、冒頭でこの創造主が登場しちゃってるので、驚きはない。むしろ、この頭部に刺戟を加えると顔が歪んで爆発するんだけど、そっちの方が興味深い)。つまり、この宇宙にいた創造主が地球に人間をつくった。その様子は冒頭に描かれてしまっている。で、現在かあるいは何年か前に、地球の生物を破壊するため、大量破壊兵器を量産した。その量産工場が、このたび訪れた星にあって…ということらしい。ウェイランド社がどうやってこの星を特定したかは分からないけどね。ところが、大量破壊兵器であったはずの生命体が反乱(?)を起こし、創造主は滅亡させられてしまった。そして、破壊兵器である生命体だけが、静かに時を待っていた、というようなことらしい。また、一同が潜入した洞窟は、実は宇宙船で、その中に操縦席もあって旅立てる状態だった。さらに、操縦席近くには、まだ生きている創造主が一体あった・・・と。その創造主に、デヴィッドは社長を会わせようとする。がしかし、創造主が暴れまくってデヴィッドは首をもがれてしまう。創造主は宇宙船を発進させるが、プロメテウスの船長が自爆特攻を試み、創造主の宇宙船は墜落。プロメテウスから脱出艇で逃げ出していたメレディスは、墜落した宇宙船の下敷きになってあわれ最期を遂げる。命からがら逃げ出したエリザベスは、別の宇宙船を利用して、デヴィッドとともに創造主のいるであろう惑星をめざす、というもの。
面白かったのは、手術ロボット。対象手術を選択してカプセルに入ると、自動的に手術してくれる。エリザベスは胎内の異物を取り出すため帝王切開を選択するが、ロボットがなぜか拒否。お腹が痛いからということでカプセルに入り、ムリやり手術してイカ型ベイビーを取り出すんだけど、縫合がホチキスだったり、術後から包帯撒きの半裸で走りまくり。この辺りは、「エイリアン1」のシガニー・ウィーバーを思わせる。さらに、ロボットが1体いて、肝心なところで首がもがれるのも「1」そのまんま。砂嵐の場面で、宇宙船からロープでつながってるだけのエリザベスの様子は、「エイリアン1」のときの、エイリアンの姿を思い起こさせる。ほかにも、「1」と似たシーンがたくさんある。というか、創造主の宇宙船に遭遇し、仲間がやられて、1人助かって逃げるという大まかなプロットは「1」と同じだ。ある意味で、設定をちょっと変えただけで、焼き直しといってもいいだろう。まあ、それでもスリリングな映像と編集で、結構、楽しんだのでいいんだけどね。
何を考えているのか分からないのがデヴィッドだ。チャーリーの感染→エリザベスの胎内で育成してイカ型を創出、という着想はどこから得たのか。そうしないと繁殖できないのか? 創造主は、地球においてイカ型→エイリアンの創出を目論んでいたのか? また、それは社長の命令? エリザベスの過去を知って、どうしようとしたのか? そもそも、あの壺には何が入っていたのだ? 「1」では、あんな焼き物の壺みたいなんじゃなくて、つぼみみたいなどくんどくんいうのが並んでいたけど、どう違うのか? それと、創造主が地球でつくったのは、人間だけ? 他の動植物はどうしたんだ? もともとあったのか?
「1」では、操縦席に創造主が座っていたと思うんだけど、あれはどうしたんだ。今回は、創造主は墜落する宇宙船から抜けだし、でも、イカ型に襲われてしまう。で、創造主の腹からエイリアンがでてくる、という話で終わっている。なので、「プロメテウス」から「エイリアン1」に直接つながるわけではない、んだよな? ううむ。いろいろ分からないことばかりでもやもやするけど、まあいいか。いまごろは辻褄を合わせるために、次回作でも考えているんだろう、きっと。
シャーリーズ・セロンは、いてもいなくてもいい感じ。最後は押しつぶされて死ぬなんて…。でも、美しいから許そう。セロンの父親の社長は、その老人ぶりが「2001年宇宙の旅」を連想させる。でも、彼は生に執着してる…。しかし、セロンの父親だったら60歳ぐらいと考えてよくて、あんなジイサマで父親っていうのは変だろ。セロンは、父親が50歳を超えての娘になっちまうぞ。機械類では、手術ロボットの他に、洞窟内を計測するボールが面白かった。あれをもっと活用すればいいのに。それと、ビデオ画像もね。ビデオ画像をまともに見ていれば、防げることはたくさんあったと思うんだが…。

 
 

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