2013年3月

テッド3/1MOVIX亀有シアター6監督/セス・マクファーレン脚本/セス・マクファーレン、アレック・サルキン、ウェルズリー・ワイルド
原題も"Ted"。allcinemaのあらすじは「1985年、クリスマスの夜。友だちのいない孤独な少年ジョンは、神様にあるお願いをする。すると奇跡が起こり、大好きなテディベアの“テッド”に魂が吹き込まれ、人間のように動いて喋り出したのだ。以来、片時も離れず友情を育んだジョンとテッド。やがて月日は流れ、27年後。ジョンはすっかりダメ中年オヤジに成長し、一方のテッドは姿こそ昔と変わらない愛くるしさだが、中身はジョンに輪を掛けて不良で下品なエロオヤジになっていた。そんなテッドの存在に我慢ならないのがジョンの恋人ロリーだった。勝手気ままなテッドのせいでジョンとロリーの生活は引っかき回されっぱなし。ついに怒りが爆発したロリーは、テッドを家から追い出すようジョンに迫るが…」
バカバカしくて楽しい。ダメ中年ジョンに、広告会社の美人クリエイターの恋人がいるのはなぜだ! というツッコミはさておいて。『ヤング≒アダルト』という映画もあったけれど、西欧には大人になりきれない人が少なくないのか。ジョンとテッドの暮らしぶりは『40歳の童貞男』なんかで描かれているのとほぼ同じ。マリファナ吸いながら『フラッシュ・ゴードン』みてる。『ショーン・オブ・ザ・デッド』(英)ともちょっと似てるね。あっちこっちでヤリまくりらしい(なんと、ノラ・ジョーンズとも!)テッドは、デリヘル女をしたがえてホームパーティしてる…! こういう描写がなかなかリアル。
リアルというと、人種差別ネタがゴロゴロしてるのも面白い。小さいころからユダヤ人をいじめていた。店を開くなら、メキシコ人はお断り。ロリーの上司は彼女のことを「僕みたいな白人が君みたいな色黒の…」。その上司はジョンに、自分はいかに資産があるかを見せびらかす。
テッドが家でパーティを開いてると、『フラッシュ・ゴードン』のサム・ジョーンズがやってきて、素手で壁をぶち破る。すると隣の中国人が怒ってやってくる。その中国人を、映画の悪役ミン皇帝に見立て、のしてしまう…。隣の変な東洋人というのでは「ティファニーで朝食を」の日本人があるけど、いまも見方は変わってないのだなと認識。これなんかもステレオタイプな偏見か。
あとは、ラストで復活したテッドが、脳障害の後遺症みたいな感じで顔を引きつらせてしゃべる…が、実はちゃんと治っていた、というのは病人へのからかい。まあ、スタンダップならオーケーでも、昼間の番組じゃNGだろう。
とまあ、映画すべてをステレオタイプの凝縮というカタチにしているといったほうがいいのかもね。表面的には差別はないことになってるけど、ちゃんとあることを見せている。笑いの裏に、ちゃんとスルドイ視線がある。
マリファナが一般的であることも、ちゃんと見せている。下品なエロに差別に葉っぱ。同じものを日本でつくったら、青少年に悪影響を与えるから云々と騒ぎ立てる連中が登場するだろうけど、こうやって洋画だと何も言われない。不思議なことだ。
オタクだけどー般社会になんとか同調し、生活を送れるジョンとテッド。それに対比して、それができない有害な親子を登場させている。むかしからテッドのファンだけどで、自分の所有物にしたいと思い込んでしまう男とその息子。こういう不気味な存在も、よく映画には登場する。たとえば、ジョン・レノン殺害犯人なども、この手の有害オタクといってよいだろう。これもステレオタイプだけど、よくある設定をうまく結びつけ、「そうそう。あるある」と思える映画に仕立て上げているのだから、大したものだ。
ただし、映画的知識に乏しいと、十分に楽しめない。映画業界内悪ふざけがたくさんでてくるんだけど、ほとんど分からなかつた。それに、この映画の核ともいうべき『フラッシュ・ゴードン』も見ていないので、共感度もいまひとつ。他に、なにやら有名どころのカメオ出演もたくさんあるようだけど、ほとんど分からなかった。このあたりはWebで調べて、あとから「なるほど」と納得しなくちゃならないのかも。
それに、この手の映画のギャグは、字幕でも吹き替えでも存分には伝わらないよな。町山智浩が苦労しているようだけど、ジョン・クロフォードを星一徹と訳されてもなあ…。というわけで、ネイティブでないと存分には楽しめないのだろう。きっと。まあ、仕方がない。
ジョンが自立するには、デッドと別れるしかない。というわけで、ひとり暮らしを始めるテッド。この件もいろいろ面白い。エロ話でスーパーに採用されたり昇進したり、はては同僚の女性と商品の上でセックスしまくったり。ひどい所ばっかり強調してる。でもま、一般大衆の心は、これでつかめるのだろう。
ラストに近いところで、ジョンとテッドが殴り合う。これは、互いに自立するには欠かせないイニシエーションだったんだろう。互いに甘えることをやめ、対等な友人として存在すること。これが、大人への第一歩なのだろう。それができない大人が、アメリカでも多くなってきている、ってことかな。
ロリー役のミラ・クニス。ケバイなあ…と見つつ、マリオン・コティヤールに似てるなあ…と。でも、違うよなあ…。で、後から「ブラック・スワン」にでていたと知って、ああ、なるほど。あのときもコティヤールに似てると思ったっけ。
塀の中のジュリアス・シーザー3/4銀座テアトルシネマ監督/パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ脚本/パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ
イタリア映画。原題は"Cesare deve morire"。Google翻訳かけたら「シーザーは死ななければならない」となった。邦題は、見た瞬間に「囚人が…」と分かってしまうつくりだが、それでよいのかどうか。
allcinemaのあらすじは「イタリアのローマ郊外にあるレビッビア刑務所。ここで行われている演劇実習は、毎年様々な演目を囚人みずからが演じ、所内の劇場で一般の観客にお披露目される。いよいよ今年の演劇実習が始まり、舞台演出家のファビオ・カヴァッリによって演目が『ジュリアス・シーザー』と発表される。さっそくオーディションが始まり、配役が決まっていく。演じるのは10年以上の長期刑や終身刑の重犯罪者ばかり。彼らは、所内のいたるところでセリフを練習し、来たるお披露目に向けて懸命に稽古を繰り返す。カメラは、そんな彼らの日常に密着しつつ、虚実が交錯する演出で、次第に刑務所全体がローマ帝国に変貌していくかのような錯覚を起こさせ、あるいは俳優=囚人と演じる役柄が同化していくさまをスリリングに描き出していく」
刑務所の中で囚人が舞台劇を成功させるドラマだと思っていた。オープニングはカラーで、芝居のクライマックス。終劇し、挨拶。なるほど、そもそもの始まりを見せる訳か。しかし立派な劇場だ。どこで演っているのだろう。というところで半年前に戻りると、突然モノクローム映像になる。そして、刑務所の偉いやつが説明を始める。どうもこの刑務所には演劇プログラムのようなものがあって、誰でも応募できるらしい。で、オーディションして希望者の中からキャストが選ばれる。各面々が犯した犯罪と刑期がデータとしてでてくる(んだけど、「累犯」とか「組織犯罪」っていわれても、ピンとこないだろ、フツー)。さて、稽古が始まる。
という時点で、演じているのが本物の囚人であるという情報は与えられないし、最後までそうは告げられない。だから、役者が囚人を演じているとも取れるし、ひょっとしたら囚人が実名で練習風景を見せているドキュメンタリーのようでもある。でも、ドキュメンタリーにしては場面が様式的過ぎるし、まるで刑務所を舞台に芝居が演じられているようにも見えてくる。こういう何だか分からなさは、イライラを増幅させる。
見終えて公式HPで見ると「実在の刑務所に服役中の囚人たちが演ずる、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」をカメラで捉えた」と書いている。また「ローマ郊外にあるレビッビア刑務所。ここでは囚人たちによる演劇実習が定期的に行われている。 毎年様々な演目を囚人たちが演じて、所内劇場で一般の観客相手にお披露目する」とも書いてある。しかし、そのどこまでが実際で、どこからが創作=演出かは分からない。画面に現れた犯罪と刑期が真実なのか、それとも軽い刑期の人間が終身刑の囚人を演じているのか、分からない。犯罪と刑期は真実で、登場する彼らが演劇実習に参加したのか。演劇実習はすでに経験済みの囚人を選んで配役したのか。「シーザー」が選ばれたのは本当のことなのか。この映画のためなのか。そういったことは、まったく分からない。
たとえば実際の中学生が演じる「中学生時代」はドキュメンタリーかというと、そうではない。中学生が演じるドラマだ。でも、その中学校で毎年やっている何かの行事を、その行事に参加した中学生が、自分自身を演じるとしたら、それはドラマなのか? たんなる再現ドラマ? セミドキュメンタリー? よく分からない。この映画の背景、実際のところが分からないので、断じることはできない。
では、「シーザー」は囚人たちの現況を象徴する何かのアナロジーになっているだろうか。どうも、そんな具合には見えない。もっともシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」も正史のシーザーもよく知らないので、偉そうには言えないんだけど。でも、そういう深読みもできなくて、こういう妙な構造の映画をつくっても、たいして意味がないだろ。そう。この映画には意味=メッセージ性が感じられないのだ。簡単に言うと「だから何?」である。
映画を分かりにくくしている要因のひとつに、字幕表現がある。台詞と、劇中劇の台詞との区別がつきにくのだ。この手の設定では、劇中劇の台詞は斜体になったり、"○○○"などとクォーテーションに挟まれて表現されるのが常だ。ところが、この映画ではそういう区分けはまったくされていない。だから、どれが劇中劇の台詞かどうか、あいまいな部分が多い。これが区別されると、もう少し理解が進むのではないだろうか。もっとも、劇中劇の台詞がそのまま自分のつぶやきになっている…なんていうところもあるだろうから、はっきり区別するのは難しいのかも知れないけどね。でも、だから、すべて同じ正体でいいとは思わない。
「女衒」とか、ふりがななしででてきて、驚いた。それから、「阻」という字にもふりがななしだったな。ふりがな付きの漢字もあったけど、首をひねる字幕だった。
ひとりの囚人が、最後に、「監獄が牢獄になった」云々いうんだけど、その違いは何だってんだよ。意味の違いなんて、わからんぞ。
というわけで、前半も早々に退屈してきた。だって、ドラマがないのだから。刑務所内のあちこちで台詞の稽古。シェイクスピアの書いた台詞を読んでいるだけなのだから、面白くなりようがない。その台詞が、囚人の人生と重なってくる、というわけでもなさそうだし…。というところで、ひとつドラマが発生。「お前は俺のいないところで俺の悪口をいってる」とかなんとか囚人同士が対立して表ヘ出ろ、的なことになって、これは…と思ったんだけれど、結局なにも起こらず収まってしまった。なんだよ。つまんねえの。
以降は、廊下や外庭などで繰り広げられる台詞の稽古。迫真の演技なのかどーか知らないけど、どーせドラマは起こらない。そう思うと、感動もなにも芽生えてこない。
あ、そうだ。途中、一個所だけ、風景写真がカラーになるところがあるのだけれど、あれは、どういう意味だったのだろう。自由かなにかの象徴か?
それと、ほとんど個人に焦点が当たらないので、キャラの区別がつきにくい。できたのは3、4人? 途中からは、演出かがどれだか分からなくなってしまった。
で、冒頭の場面に戻り、画面はカラーになって、観客が入ってくる。芝居も佳境に入り…ブルータスの死になるんだけど、冒頭のブルータスの死とちょっと違うのが気になった。冒頭では刺した剣が曲がっていたけど、2度目は違う。ってことは、別公演なのか?
刑務所で演劇実習があるのも驚きだけれど、他にもいろいろ。たとえば舞台公演を終え、囚人は自分の部屋に戻る。看守が牢の扉を開けるとき、看守は囚人に完全に背を向けるのだよ。そんなのあり得ないよなあ。それと、獄は個室らしいのだけれど、コーヒーマシンみたいなのを使ってたのだ。室内で火が使えるのか? それとも電気? あと、入ったばかりの囚人に役があてがわれるんたけど、そいつがニコニコ喜んでるのが違和感。刑務所に連れてこられて1日2日で、そんな笑っていられるのか?
  
逃走車3/6新宿ミラノ3監督/ムクンダ・マイケル・デュウィル脚本/ムクンダ・マイケル・デュウィル
原題は"Vehicle 19"。19号車、でよいのかな。allcinemaのあらすじは「別れた妻に会うためアメリカから南アフリカのヨハネスブルグにやって来たマイケル。予約していた車種と違うレンタカーに戸惑いつつも、先を急ぐ彼はそのまま車に乗り込む。ところが、車内から拳銃と縛られた女性が見つかり、事情を理解する間もなく車自体が何者かに襲撃されてしまう。不案内なヨハネスブルグの街を爆走して必死に逃げるマイケルは、ほどなく自分が指名手配されていることを知るのだが…」
そもそも設定がよく分からない。マイケルは「保釈請求拒否」という書類をもってなかったっけ? 勤めを終えて出所したようでもあり、仮保釈のようでもあり、よく分からん。仮保釈で本来は海外渡航禁止なのに南アまで来ちまった、ってことか?
レンタカーの車種違いで、事件に巻き込まれ…というけど、どういう手違いがあってそんなことになるのだ? これは一切説明がないので分からない。レンタカーの人間も、警察と同じく人身売買の一味だったのか? それにしても大ボケな悪徳警官グループだ。
マイケルがムショに入ったのは酔っぱらい運転(と明言はしてないけど)か何かでひき逃げしたからみたい。で妻は南アへ。でも、なぜ妻は大使館内にいるのだ? この件もさっぱりわからない。
で。見終えてallcinemaのあらすじを読むと「元妻」となっている。そんなこと説明してなかったよなあ。離婚された妻を追って南アへ、なのか。その妻が、どーしてマイケルに会うことにしたんだ? 「約束の時間に来て」なんて言ってるからには、元妻も不機嫌ではないらしい。どういう関係なのだ?
といった案配で、巻き込まれ型の話を成立させるための強引さがあちこちに。
しかし、レンタカーが車種違い。見知らぬ携帯が車内にあって、メールが…。なんと拳銃も。そして電話が…。ということは、悪徳警官一味が検事のレイチェル誘拐につかったクルマがレンタカーになってしまっていた、ということか。どうやって? ということはさておいて、後部座席の奥から縛られた女が飛び出してくる! という展開は期待感はもたせてくれる。のだけれど、以後の流れがあまり盛り上がらない。電話で言われた通り倉庫に行くと、撃ってきた。あわてて逃げる! のだけれど、カーチェイスが下手くそ。2台とも横転させるのだけれど、どうやってやったのか、その経過を大雑把に端折ってしまってる。そこが見どころなのに! というわけで、タイトルとは裏腹に、カーアクションには見るべきものはない。残念。
レイチェルが撃たれ、死ぬ前に悪徳警官一味の悪事をケータイに録音する。そして、それを信頼できる某裁判官のところにもっていけ、という。いっぽう、警察署長からして悪徳なので、全警察を敵にまわしたマイケル。ケータイを裁判所までとどけようとするのだけれど…。でもな、スーパーでのカーアクションもあるんだけど、ヨリが多すぎて迫力ないし。いまいちワクワクしないのだよな。
ラストも、結局、警官が待ち受けてる裁判所前に行き、マスコミに突っ込んで男性キャスターを人質に取る。対する悪徳警官。そこに、裁判所をガードする警官が割って入り、悪徳警官に「ここではあなた方は撃てない」云々をいうのだけれど、それを無視して悪徳警官がマイケルを撃つ。力を振り絞り、たまたまオンだったキャスターのマイクを通じて、レイチェルの告発の声を流す! これで悪徳警官一味は一網打尽。マイケルは、病院で静養していて、元妻も一緒、というところで終わり。…なのだけれど、裁判所の警官が偉そうだったのは、どうしてなんだろ。警察署とは管轄が別だからなのかな。それで、警察署の警官と違って汚染されていなかった? 最後はマイケルに背を向け、かばうようにしていたけれど、フツーそんなことしないよな。というあたりの説得力、なるほど感が足りなかったかも。それに、離婚したはずの元妻がマイケルに好意的なのも、よく分からない。
面白かったところもある。マイケルが「右ハンドル?」なんてぶつぶついい、走らせて左側通行、とやっと分かるところ。徐行してたら自転車(?)とぶつかって軽く跳ねるのだけれど、相手は罵声を浴びせて行ってしまう、とか。他にも治安の悪そうなところが、聞いているのと似ている。
Web見てたら、録音が証拠に使えるなら、メールしちゃえばいいのに、なんて言ってる人がいた。なるほど、そうだよな。ほんとに。
世界にひとつのプレイブック3/8新宿武蔵野館1監督/デヴィッド・O・ラッセル脚本/デヴィッド・O・ラッセル
原題は"Silver Linings Playbook"。Silver Liningsは銀の裏地のことで、「どんなに辛くても、希望は絶体ある」というような意味らしい。Playbookはゲームの作戦ノートのこと。
allcinemaのあらすじは「妻の浮気が原因で怒りをコントロールできなくなり、精神病院入りを余儀なくされたパット。ようやく退院したものの、妻ばかりか仕事も家も失ってしまい、実家に戻って社会復帰を図ることに。心身の健康を取り戻せば、接近禁止令の出ている妻ともやり直せると思い込んでいるパットだったが、あいかわらず突然キレてはトラブルを引き起こすこともしばしば。そんなある日、友人に誘われたディナーで近所に住む若い女性ティファニーと出会う。彼女もまた、夫を事故で亡くして以来、心に問題を抱えており、パットはそんな彼女のエキセントリックな言動に振り回されるハメに。ところがティファニーはパットの妻とも知り合いで、パットがよりを戻せるよう手助けしてあげると提案。その交換条件として、ダンス・コンテストにパートナーとなって出場することを迫られるパットだったが…」
ジェニファー・ローレンスがアカデミー、ゴールデン・グローブ、LA批評家協会賞などの主演女優賞を獲得というので、どうかなと思って見たら、なんとキチガイでストーカーな男女の話だった。映画では、パットは躁鬱病となっていたけれど、あれは躁状態なのか? 一方のティファニーは、セックス依存症? そういやあパットの父親もかなりな神経質で、ギャンブル依存症。兄貴のジェイク(弁護士?)も人の悪口を平気で言ったりして変人だな。かなりな異常な人物たちが主人公および周辺にいて、まともな人間は脇役という映画。この手の、異常者を一般化・美化してものごとを斟酌する話は、好きではない。だって精神異常者とつき合うのは大変だよ。
妻の浮気現場を目撃して暴行し、病院行き…。しかも妻への接近禁止令もでてる。ということは相当なことをしたってことだよな。それをちゃんと描かないで話を進めている。それはちょっと卑怯だ。
パットが退院できた理由は分からないけど、父親に向かって「武器よさらば」(だっけ?)の理不尽さを訴えたり、結婚式のビデオがないと騒いだり、いずれも夜中。後者では近所がみな起きて、警察までやってくる。あんな状態で放し飼いにするのは、迷惑なんじゃないのか?
そういう状況であるのに、セラピーは嫌々ながら行ってるけど、薬は「頭がぼんやりするから」と飲まない。医師も、パットが飲んでいないことを知りつつ、「飲みなさい」というだけ。こんな杜撰な状態で、またぞろ事件を起こしたらどうなるんだろう。薬ぐらい飲みゃいいだろうに。それで自分がなくなることはない。精神障害では、薬を飲まないことでたがが外れて事故を起こすことが多い。てんかん患者が運転中に意識を失い、人をはねたりするのもそのせいだ。薬を飲まないことを否定しないような描き方は、どうかと思う。
パットが妻のニッキに「会いたい」とこだわりつづけるのは、なんだろう? 不倫され、会いたくないと言われているのに、なぜなんだ? 三行半を突きつけてやればいいじゃないか。しかも後半でニッキ本人も登場するんだけどかなりな馬面で、とくに魅力もない。そろそろパットと会話してもいいかな、とダンスコンテストに来るんだけど、ってことはパットはニッキに暴力は振るってないということだ。ところで、ニッキの浮気問題は、どうなっちゃってるの? このことは街中が知ってるんだろ? よく分からん映画だ。
そのパットに接近してくる女性が、ティファニー。パットの友人の奥さんの妹。亭主が警官で、困っているクルマを助けようとして降りたところを跳ねられたという、ちょっとマヌケな死に方をされ、それで落ち込んで会社の男全員とやりまくり、会社を首になった、という、変な女。友人の家の食事会で向精神薬の話で意気投合し、食事会の途中なのに「帰る」といいだしパットに送ってくれるよういう。で、自分の部屋は離れだから親に気づかれない、寝よう、と誘う。こういう、フツーならあり得ない展開をみると、途端に萎えるね。躁鬱病の暴力オヤジが、ヤリマンとはいえ、若くてキレイな女性にセックスを迫られるって、あり得ないだろ。ここでパットは「妻がいるから」と断るんだけど、なんで? だよな。
さてそれ以後、パットが近所をジョギングしてるとティファニーがががって並走してきて、友だちになりたいサインを送りつづけるんだけど、これも理解不能。なぜティファニーはパットのストーカーになったんだ? が、描かれていない。あまりにもいい加減。
とまあ精神病者の話がつづくうちはツッコミどころが多くてもそれなりに興味をもって見てられたんだけど、ハロウィンでのいさかいがあったりしたあたりから、つまらなくなってくる。パットもティファニーも、フツーの人間みたいに描かれるようになるからだ。ティファニーはダンスをしていて、パットに「コンテストに出よう」と誘う。ダンスに興味はなかったけど、ティファニーの姉を通じてニッキに手紙を渡してやる、ともちかけられて承知。2人はコンテストに向けで練習する…という、フツーな展開。ここに、パットの父親、兄、友人知人らのアメフト好き、博打なんかが絡んできて…。ニッキに向かって「お前は験が悪い」というパットの父親に向け、「いいや、私とパットが一緒にいるときは、いつもイーグルスが勝ってる!」とやり返す件では、ティファニーは理知的すぎる存在になっていて、ううむ…。挙げ句、パットの父親とその友人が有り金全部賭けることになって…というバカバカしい話になり、アメフトの勝敗とパットとティファニーがコンテストで、10点満点の5点以上取れるか取れないかで賭けることになる…って、アホだろ。
そうそう。ティファニーは、ニッキから手紙がきた、とパットに渡すんだけど、そのなかに「サインを見落とすな」とかいう件があり、さらにまた、ティファニーがパットに同じような表現を使って話す場面があり、これでニッキの手紙というのはティファニーのでっち上げであることが分かる。この辺りで、恋の行方が方向転換しているのだが、映画はそれを最後のどんでん返しにもっていこうとする。
ティファニーはコンテスト参加を渋るパットに「ニッキがくるから」とウソをいう。でも、ニッキは、もうそろそろパットと会ってもいいかも、とティファニーの姉と一緒にコンテストを見にくる。それでうろたえるティファニー。2人のヨリが戻ると思い込み、コンテストが終わった会場を去ろうとするが、そこにパットがやってきて…のハッピーエンドのつもりだろうけど、えー? だよな。あんな自我の強すぎる頭のビョーキの2人が結婚して、はたして何年もつんだ? 子供ができてはノイローゼ、浮気をされては大げんか…。いずれ破綻するに決まってる。としか思えないよな。
・パットの友人というのが中南米系顔で、その奥さんは白人…。そういう家庭もフツーなのだね。
・精神科の医師はインド人で、その医師とアメフトの会場で出会う。地元の連中が「アジア人がうるさい」とかいってケンカふっかけ乱闘になるというのは…あるのだねえ、差別が。
・騒ぎが起きると近所のオタク小僧がやってきて「精神病患者の取材を…」と申し出るんだけど、いるんだねえ、そういう子供が。それにしても、息子がビョーキでも家族がどうどうとしていられるというのは、よいことだ。
・最初の方で「ゴールの手前でスパイクしやがって」とか、アメフトのことで父親がいうんだけど、「スパイクする」ってなんだよ、だね。知らんよ、そんなこと。
あの日 あの時 愛の記憶3/11ギンレイホール監督/アンナ・ジャスティス脚本/パメラ・カッツ
原題は"Die verlorene Zeit"。google翻訳したら「損失時間」とでたよ。失われた時間、ということかな。
allcinemaのあらすじは「1976年、ニューヨーク。ドイツからアメリカに渡って結婚し、優しい夫と娘とともに幸せな日々を送る女性、ハンナ。ところがある日、テレビから聞こえてくる声にショックを受ける。死んだと思っていたかつての恋人、トマシュに間違いなかった。それは1944年のポーランド、アウシュヴィッツ強制収容所でのこと。ユダヤ人の彼女は、政治犯として収容されていたトマシュとそこで出会い、恋に落ちた。トマシュはレジスタンス活動に加わっており、収容所内の実態を写したネガフィルムを持ち出すという過酷な任務を控えていた。脱走計画が着々と準備される中、彼は周囲の反対を押し切り、ハンナも一緒に連れ出すという危険な賭けを強行するのだが…」
相変わらずの収容所映画。ドイツ人はいつも極悪非道で心のない人非人に描かれてるな。と思ったら、なんとドイツ映画だった。なるほど。それでユダヤ人を嫌うポーランド人や、ポーランド人をシベリア送りするロシア人がでてくるのか。
映画は1944年と1976年の現在が交互に描かれるのだが、それにしても設定が分かりにくい。収容所にいるからトマシュもハンナもユダヤ人かと思っていたら、脱獄してトマシュの馬の先生(馬番?)の家にたどり着いてから事情が少し分かってきた。ハンナはユダヤ人。トマシュはポーランド人。で、トマシュの家は馬番もいるほどの屋敷なのだな。でも母親はフツーに生活しているし、兄は反ナチ抵抗線線にいるらしい。どうしてトマシュだけ収容所に? allcinemaのあらすじで「政治犯」となってるけど、そんな説明はなかったぞ。それに、収容所での様子もよく分からない。トマシュはパン運びをしたり事務方みたいなことをしたり。その傍ら何やらコソコソしてて、フィルムを外に持ち出す云々いっている。かと思うと物資を調達してドイツ兵に渡したり…。そんな自由というか裏のある生活ができたのか? とくに、ハンナと金網越しに話したり、果てはドイツ兵のいなくなった事務室にハンナを招き入れ性交に及んだり…。おいおい。そんなことまでできたの?
そして、トマシュは脱出計画を実行に移すんだけど、どこで拾ってきたのかドイツ将校の軍服姿で、ハンナを引き連れ堂々とゲートをでていってしまう。そんなこと、できたのか? 守衛をしてるドイツ兵なら、収容所の将校の顔ぐらい知ってるんじゃないのか? というわけで、ハラハラドキドキより、おいおい、そんなことあり得るのか? という疑問の眼差しで見ていた。
なんなく実家へもどるトマシュ。そこに待ち受けているのはドイツ軍…かと思いきや、母親と馬番がのんびり暮らしている。家はドイツ軍に接収されてて、離れに住んでたのかな? そんなところにトマシュが戻るか?
さてと。トマシュがハンナを「婚約者。ユダヤ人」と紹介すると、母親は激怒する。なるほど。ポーランド人もユダヤ人を嫌っていたのか。まあ、ユダヤ人に好意的だとドイツ軍に睨まれるってこともあるだろうけど。でもね。トマスも、トマスの兄もレジスタンスに身を投じているのだから、反ナチで意思統一されているはず。とすれば、ユダヤ人に同情的でもいいだろう。実際、トマスの兄も兄嫁もハンナには好意的。ということは、母親はドイツ関係なくユダヤ人嫌い、ということではないのかね。そういう人たちがポーランド国内にいた、ということだろう。さすがドイツ映画。
馬に乗りたいというドイツ兵がやってきて、馬番が戻るまだお茶を飲んでいけ、と母親が誘う。その部屋には、体調をくずしたハンナが寝ている…。ここは緊張を演出したんだろうけど、ここで捕まるとは思えないのでハラハラしない。さて。母親は、ドイツ兵にハンナを発見して欲しくて部屋に招いたのか。そのようにとれる演出なのだけれど、でも、もしドイツ兵に発見されたら母親自身にも「匿っていたのか」という追及が及ぶはず。そんなことをするか? では、ここはどういうつもりだったのか。ハンナはクローゼットに隠れていて無事だったんだけど、とてもいい加減な感じのシーンだね。それと、どうやらここでハンナはトマシュの子を流産したのではないかと思われるんだけど、言及はない。なので、1976年時点で存在するハンナの娘がトマシュの子かどうかは定かではない。もしそうなら32歳になってるわけだけど、そんな歳には見えなかったしなあ。
そんなこんなでハンナは兄嫁の家に居候になる。説明が少なく、かなり後になってから説明が加えられたり、説明のために同じシーンが繰り返し、別のアングルから描かれるという変わった手法を使っているので、最初は兄嫁と分からず「?」な感じだった。さて。トマシュの兄は戻ってきたが、トマシュはワルシャワから行方不明。それに、フィルムを渡す使命があったことを知らされていなかったことにハンナは腹を立てる。ううむ。そんなことでカッカするものか? 西洋人は面倒くせえ。兄は「トマシュはもう死んでる。はっきり言ってやれ」と妻にいったり、かなりな現実的・冷徹な見方。ってなところに母親が「家がソ連兵に接収された」と転がり込んでくるんだけど、このときの兄嫁の「ハンナはお客さんだから」とキッパリ言う態度に惚れ惚れ。とはいうものの、まもなくソ連兵がやってきて、兄と兄嫁をシベリアに連れていってしまう。母親は「こんな年寄りはシベリアまでもたない」と助かってしまうのが皮肉。で、たまたまその場におらず、隠れていたハンナは助かる…。という展開なんだけど、そうか。ソ連はポーランドへと反撃すると、ポーランド人までシベリア送りにしたのか。いや。ドイツが去ったと思ったらソ連。ポーランド、さんざんだな。
この後、母親をおいてハンナは出ていくんだけど、出ていった家は兄の家ではなくソ連軍に接収された、といっていた自宅のようだった。家は、ソ連軍から返してもらったのか? さらに雪中で倒れているところを赤十字のバスに救われるとは、なんと映画的な都合のよさよ。ちょっと呆れた。
てな話と平衡して、現在のハンナが冒頭過ぎから交互に描かれる。のだけれど、素朴な美形の若いときに比べ、鷲鼻でがさつな感じの現在の役者に、ちょっと失望。もうちょい可憐なバアサンにしてくれてもよかったのに。で、亭主と娘がいるんだけど、娘がトマシュの子かどうかは最後まで分からず。で、亭主が何か立派なことをしたのか、仲間内を呼んでパーティということでクリーニング屋にテーブルクロスを取りに行くと、たまたまテレビで放送されていた番組に、トマシュを認めて動揺…。かつて戦後に調査を依頼したけど「死亡か」と言われ忘却の彼方だったのに…。というわけで再調査を依頼するんだけど、電話だけでも対応してくれるそういう組織がいまでもちゃんとあるのだね。まだ収容所の悪夢は終わっていないということなんだろうな。
で、あれやこれやでトマシュはポーランド在住ということが分かるんだけど、どんな番組に出ていたかぐらい、番組表をみるとかテレビ局に聞けば済むだろ、というようなところであたふたしたりして、おいおい、な感じ。
てなわけで、なんとなく「サラの鍵」みたいな雰囲気になって、適当なところで終わるのかと思いきや、ハンナがポーランドまで行ってバス停で再会、というところまで見せてしまうので、ちょっと安っぽくなったかな。なんか、後半になって、トマシュがフィルムを渡すためにレジスタンスと合流した辺りから話に躍動感がなくなっちまって、ちょっと退屈。しかも、1976年のハンナは、トマシュを探していることを夫や娘にひた隠す。はて、その理由は? と何かを期待したけれど、何もない。いっぽうのトマシュは、かつて好きになったことのある人の存在を、娘に話している。この2人の対応の違いはなんなのだろう?
それと、トマシュが命がけで収容所からワルシャワまで運んだフィルムだけれど、あれにはいったい何が写っていたのか。それも明らかにされない。いろんなところで放り投げっぱなし。そして、男と女の情緒で終わらせる。映画をつまらなくしているのは女性監督、女性脚本家のせいではないかと思うんだがね。
オズ はじまりの戦い3/13新宿ミラノ1監督/サム・ライミ脚本/ミッチェル・カプナー、デヴィッド・リンゼイ=アベアー
原題は"Oz the Great and Powerful"。もとになった『オズの魔法使』は以前にビデオで見ている。でもすっかり忘れている。でも、それほど面白くは見なかった、という記憶はある。なので、どこをどう下敷きにしているか、分からない。allcinemaの解説では「“偉大なる魔法使いオズ”誕生の知られざる物語」とあるけれど、オズ自体が『オズの魔法使』でどう活躍したか覚えていないので、よく分からない。
allcinemaのあらすじは「カンザスのサーカス一座の奇術師オズは、ある日、竜巻に巻き込まれて不思議な魔法の国オズに迷い込む。そして偶然名前が同じだったばかりに、古くから伝わる予言に示された“偉大なる魔法使い”と誤解されてしまう。さらに、西の魔女セオドラに導かれて向かったエメラルド・シティで、今度は東の魔女エヴァノラから“邪悪な魔女に支配されているオズの国を救ってほしい”と懇願され、人々からも救世主と信じ込まれるハメに。最初は怖じ気づくオズだったが、財宝と名声の誘惑に負け、翼の生えた猿フィンリーを案内役に、邪悪な魔女を探す旅へと繰り出すのだったが…」
ディズニーなのね。のぞきからくりに入り込んでいく呈のオープニングは、なかなか。しかもモノクロスタンダード。そうして始まる、いかがわしい見世物小屋での手品…。オズが空中浮遊を成功させると、足の悪い少女から「歩けるようにして!」と詰め寄られ、たじたじとなって引き上げていくくだりは、なかなか泣かせる。このオズという男、かなりの女たらし。助手の娘をとっかえひっかえ、見世物仲間の女房(?)にまで手を出している。でも、郷里にはオズを慕う娘がいて、彼女はオズとの血痕を望んでいる。でもオズは、田舎でくすぶるより出世を夢見ている…というところに竜巻…で、連れていかれた先は花の咲き乱れる魔法の国。もちろんカラー。でも、いつワイドスクリーンになったんだっけ。
おとぎ話なんだから設定や展開が多少適当でもかまわない、と思う。でも話がシンプルなのだから、つじつまはちゃんと合わせて欲しいし、話のもって行き方にも説得力は欲しい。「あれ? なんで? どうなってんの?」って思わせないように、ね。ところが、いろいろ理解不能なことが連続するのだ。
・たとえば最初に魔女セオドラに会い、エメラルドシティに連れていかれる。そこで悪い魔女エヴァノラに会い、「悪いのは魔女グリンダ」といわれ、グリンダ退治にでかける。ところがグリンダと話してみると、悪いのはエヴァノラとセオドラ、といわれ、簡単に信じてしまう。言われりゃすぐに信じちまうのか? オズって男は。まあ、グリンダが、オズの昔なじみの娘と瓜二つだったので、それで信じてしまったのかも知れないけど、説得力はないよなあ。それに、そのときオズは猿・瀬戸物娘と一緒だ。猿や瀬戸物娘は、どの魔女が悪いヤツか、知らないのか?
・グリンダに連れていかれたのは、お城のある国。ん? 魔法の国には城が2つあるのか? エメラルドシティとグリンダの国とは、どう住み分けているのだ? もともと2つともあったものなのか。エメラルドシティのエヴァノラとセオドラが、グリンダの父王を殺したってことか。では、なぜ一気にグリンダの国を占領しなかったのだろう?
・エヴァノラとセオドラは姉妹らしい。でも、セオドラは、そんなに悪ではないみたい。オズに振られ、エヴァノラに感情をなくすリンゴを食べさせられ、極悪魔女になっちまった、みたい。考えれば彼女は被害者だよな。気の毒すぎないか?
・それにしても、話の流れでは、オズはセオドラと一夜を過ごし、エメラルドシティに着くとその夜、エヴァノラの寝室にもぐり込んでいる。おいおい。魔女を簡単に弄んじゃうのか? しかも、安っぽいオルゴールで!
・最初、セオドラの僕として登場したナックという小人。これが途中から、グリンダ支持の側になっている。どういうこっちゃ。もともとどっちの味方なのだ? どうしてセオドラと一緒にいたのだ?
・エメラルドシティには住民がほとんどいない。なぜいないのだ? 住民に嫌われているから? こんな街を支配していて、エヴァノラとセオドラは楽しいのか?
・オズたちは、エメラルドシティにつづく芥子畑に案山子の兵隊を歩かせ、相手を攪乱する。それはいい。でも、芥子畑にどうやってロープを張ったのだ? 自分たちも芥子にやられちゃうじゃないか!
・オズのもつカバンを、猿に持たせる。すると、凄く重いことがわかる。でも何でそんなに重いのだ? なかにあれこれ詰まっているから? オルゴールとか…。あとから中を見せるとかしないと、何の意味があったのかと気が気ではないよ。
…などと、納得のいかないことはたくさんあった。
面白いところも、あった。最初の方ではのぞきからくり、パラパラ漫画、そして、本物の魔法が使えないオズは、現代科学を駆使してエヴァノラおよびセオドラと戦う。爆弾や花火はいいとして、煙幕スクリーンに自分の巨大な顔を投影し、魔女たちを驚かす、というのはまるでジョルジュ・メリエス。映画の始まりを仕掛けにするとは、なかなかではないか。「ヒューゴの不思議な発明」を思い出して、ちょっと感動してしまったよ。まあでも、スコセッシの二番煎じではあるけどね。
で、エヴァノラとセオドラを退治して…というより、尻尾を丸めて逃げ出すんだけどね。ちょっと呆気ない。でもエヴァノラとグリンダの魔女対決は用意してあるんだけど、だったら魔法使いオズを待たず、最初から魔女同士で戦えよ、って話なんだが。で、オズはそのまま現代にもどり、足の悪い娘を歩けるようにしてやり、オズを慕っている昔なじみの娘と一緒になって、自分は偉大な魔術師になる…というハッピーエンドかと思ったら、違ったよ。そのまま単純にグリンダと結ばれてしまった。ってことは、オズは魔法の国の王様になっちまうのか! あんな嘘つきで女たらしの悪党でも、ああいう結末を迎えられる。それはまあ、世の悪党どもにとって救いではあるけれど、どーも納得がいかない。
結局この映画は、魔法の国の魔女たちが、ジョルジュ・メリエスもどきのペテン師にしてスケコマシに、してやられる話でしかないようだ。ちぇっ。
しかし、女優陣は豪華。エヴァノラはまだまだ美しいレイチェル・ワイズ、セオドラには小悪魔的なミラ・クニス、そしてグリンダは素朴な味わいのミシェル・ウィリアムズ。とくに目立つのは最近絶好調のミラ・クニスかな。リンゴを食べてからはババア顔になってしまうのがもったいないんだが。
ブルーノのしあわせガイド3/13ゲートシティホール(大崎)監督/フランチェスコ・ブルーニ脚本/フランチェスコ・ブルーニ
一般試写会。原題は"Scialla!"。ラストに流れるラップで、盛んにタイトルが連呼されていた。2012年4月のイタリア映画祭では「シャッラ/いいから!」という題名で公開されたらしい。英文タイトルは"Easy!"
HPのStoryは「ローマの街に暮らす独身中年男のブルーノは、ゴーストライターとしてタレントの伝記を執筆するほか、元教師という経験を活かし補習塾で生計を立てている。彼の朝はデスクの掃除から始まる。けれど、今日もパソコンの画面は真っ白のままだ。決して余裕のある暮らしを送っているとは言えないが、当の本人にそれほど焦りはない。そんなふうに自由気ままなひとり暮らしを楽しんでいたブルーノだが、ある日、生徒の母親から、自分の留守中の半年間一人息子のルカと同居をしてほしいと頼まれる。その上、ルカは15年前にブルーノとの間にできた子だと言う驚愕の事実を告げられる!…以下略」
やさぐれオヤジと、反抗期を迎えた息子の、ちょっと粋な関係。というか、半分は漫才みたいなトンマなかけあいなんだけど。後半に起こるひとつの事件が、ちょっとあり得ない展開だったので、テンションが下がってしまった。それと、ちょこっちょこっと漂う教育的配慮=若いうちは勉強しなさい、そうしないとまともな仕事にもつけなくなりますよ的なメッセージがあるのを除くと、かなり面白く、楽しい映画だった。とくに、息子に対する愛情がほとばしってしまうオヤジの健気さに、納得してしまった。そうなんだよ。どんなにアホでも、子供は可愛いものなのだ。
学校が子供をダメにする、と教師をやめたブルーノ。かつては文学青年だったけど、いまは伝記のゴーストライターと家庭教師のその日暮らし。子供たちには、せせこましい勉強は強制せず、本質を見る目を養って欲しいと思っている。女教師から、ルカが将来の夢について「麻薬の売人になりたい」と書いたとと聞かされ、はっきりしているのは(だっけ?)いいことだ、なんて言ったりもする。子供たちを枠に嵌めたくない気持ちでいっぱいだ。それだけのことで、他に夢もなければ女もいないやもめ暮らし。生徒のひとりに15歳のルカがいた。不良ではないけど授業は嫌い。好きなことをして過ごしたい的な未熟さを抱えもっている。で、それまでは年を越えた友だちみたいにつきあっていたけれど、突然、息子だと分かる。15年前、ブルーノが教えていた娘がいて、ほんのわずかつき合っただけで別れてしまった。でも子供ができて、彼女は女手ひとつで育て上げ、38歳になってまだ向学心に燃えていて、論文を書く(だっけ?)ため、マリ共和国へ行くから預かってくれ、といわれる。…って、女はしたたかだ。知っているのに押しつけず、頃合いを見計らって真実を明かす。とはいうものの、15年前につきあった女の顔ぐらい覚えておけ >> ブルーノ、だよな。
互いに干渉しない、ということで預かったものの、教師から「落第させる」といわれ、あわてるブルーノがおかしい。まいにち顔突き合わせ、初歩から教える。それでもブールのに反抗せず、いやいやながらつき合うルカも、いい感じ。父親的な存在を求めていたのかもね。
ブルーノとルカ、以外に、男の関係がいくつも描かれる。ルカと太めの用務員の関係も、なかなか渋い。人生、出世の見込みのない用務員に「用務員」というと、彼は「学校監督官」だったか忘れたけど、名前だけは雑務ではないような肩書きになっているのを示して抵抗する。別にけんか腰ではなく、人生を達観したような会話で、なかなかいい。ブルーノには、ギャングのボスがいる。ボスはかつてブルーノの生徒で、その指導に感謝を抱いている、という設定。子分たちにも名画を見るよう勧め、トリュフォーの「大人は判ってくれない」の鑑賞会を開いたりしている。子分たちは迷惑に話だけど、本人は学芸を理解しないでなんの人生と思っているほどで、これが後々、ブルーノとルカを助けることになるのだから面白い。
一方で、女性はやっかいな存在としてしか登場しない。まずは、ルカを預けてひとりで外国に行ってしまう母親。学校の女教師は、ルカを目の敵にしている。ルカには女友達はいない。ルカが母親と電話しているのを呆然と見つめているバアサン。ブルーノが伝記を書くために取材しているのは、元ポルノ女優で、デキのいい息子を自慢する。まさにこれは、ブルーノとルカとの関係のアナロジー。そして行きつけのカフェの奥さんは、詮索好き…。ルカを慕う幼なじみとか同級生ぐらい配してもいいと思うんだけど、気配もない。ブルーノはヘルニアを患っているせいか、女っ気なし! 男と女の対比が全編に漂っている。
「おまえ、そんなんじゃロクな仕事につけないぞ」「かまわないよ」「ウェイターだって難しいんだ」「ふーん」「いくらもらってるか訊いて見ろ」「あんたが訊けよ」で、ブルーノがウェイターに給料を訊くシーンまである。ほんと。子供の将来のこととなると、親は心配なのだよ。
ルカには黒人と、もうひとりの友だちがいて、いつも3人で遊んでる。ボクシングジムで知り合った麻薬の売人から仕事を任されそうになるんだけど、ルカは乗り気ではない。もちろん麻薬も拒否するだけの理性はもっている。なのに、たまたま売人がボスの家にいくとき3人でついていき、クルマで待ってろと言われるのに1人だけこっそりボスの家に入り込み、現金と麻薬を盗んできてしまう。それがバレて追われるんだけど、この事件だけは脚本が練れてないと思う。だって、そういうことをする少年には見えないのだから。ここはもうすこし説得力のある設定・展開にしてもらいたかった。たとえば友人あるいは近所の知り合いの女の子の家族に病人がいて、治療を受ける金がない。どうしよう。たまたま売人についていって、ボスに面通しさせられる。ひとり部屋に残されて、なにげなく物色していたら、現金が…。その金をちょろまかして治療代に充てたんだが、あとで発覚して…というような感じならまだ許せるような気がする。
で、ボスに見つかって、ルカが逃げる過程でブルーノは「おれはお前の父親だ」とやっと告白。とはいっても追いつめられ、公園へ逃げ込む。そこにボスがやってきて、「麻薬が戻ってきたかどうかは問題じゃない」と麻薬を捨てるところがカッコイイね。で、公園でしゃがみこむルカとブルーノ。身代わりに一発殴られるんだけど、ボスがふと気づく。「あ、先生じゃないですか」と。尊敬する先生だから、とそりでお咎めなし。なかなか微笑ましい。というか、勉強はしておくものだ。どんなところで役に立つか分からない、という教訓としていささか強引だけど、なるほどね、な展開だった。
このボスとはまだ話があって、エンドロールで刑務所に面会に来るブルーノ。逮捕されたボスの伝記を書いているという寸法。ボスは、ラストは脚色して大立ち回りをしたことにしてくれ、と。いいや、できない、とブルーノ。これもおかしい。
なんとなく情けない設定のブルーノだけど、格好いいところもある。ポルノ女優にインタビュー中、セックスを誘われる。でも、ブルーノは拒否する。その理由はよく分からない。ひょっとしたら、ポルノ女優という職業を軽蔑していたからかも知れない。けれど、彼女が借りた本を返しに来て、でも、その流れでいい仲になってしまうというしゃれた展開。しかも、翌朝、ルカがひとりで食事をしていると、ブルーノの部屋から彼女が出て来て…という、これまた憎い演出。これでルカは「おやじもなかなかやるじゃん」と思ったに違いない。
で、試験は猛勉強の甲斐あって合否ギリギリ。教師は追試を認めるレベルになるが、ルカは自ら落第を選択。救ってもらうのではなく、地力で乗り越える道を選ぶ。この態度に有頂天のブルーノ。「これでどんな職業にでもなれる」と、バイクで走りながら夢想するシーンも、親バカで微笑ましい。
というわけで、ルカの泥棒は釈然としない展開だけど、ラストもで清々しく終わる。
ところでアキレスとパトロクロスの関係について女教師が質問し、他の生徒が困惑しているとき、。ルカが「ホモでしょ?」と言って激怒される場面がある。実はたまたま読んでいた小谷野敦『日本人のための世界史入門』がこのことに触れていて、タイムリー。面白く見た。小谷野は「男色関係にあったとみてよいだろう」と書いていたけれど、彼の地でも表現は微妙みたいね。間違ってはいないけれど、露骨に言うものではない、ということなのかも。
ブルーノがハンバーガーか何かを頼むとき「キュウリ抜き」と頼むのだけれど、ルカが同居すると「キュウリは嫌いだ」とつぶやくところがあって、あ、ホントの親子だ、と思わせるところは微笑ましい。
そういえば、少年たちが「黄色いクルマ」にこだわるのは、なんでだっけ?
アンタッチャブルズ3/15新宿武蔵野館3監督/ダヴィド・シャロン脚本/レミ・フール、ジュリアン・ワー、ダヴィド・シャロン
原題は"De l'autre c?t? du p?riph"。英文タイトルは"On the Other Side of the Freeway"で、同じような意味のようだ。道路の反対側、ってな意味? もっと深い意味があるのかな?
allcinemaのあらすじは「ある日、フランス郊外の荒廃した地区ボビニーの古びた闇賭博場で、大企業の社長夫人ポニーヌの死体が発見される。捜査に当たるのはパリ警視庁のエリート刑事フランソワ。ところがそこに、これを出世の足がかりにしたいと意気込むボビニー警察経済課の野心あふれるウスマヌ刑事が割り込んでくる。地元の強みを活かして自分を売り込み、思惑通りフランソワとコンビを組むことに成功するが…」
警視正を狙う本庁のエリート刑事と、所轄の経済課(?)の刑事。「踊る大捜査線」みたいな設定だけど、ほとんどこの2人が画面に登場するので、組織の他のメンバーがほとんど描かれない。所轄の、ちょっと胸のでかい女刑事が少しだけ登場するけど、人格までは描かれない。とまあ、あまり人物に迫る取り上げ方を(2人を除いて)しないので、その点がつまらい。まあ、凸凹コンビが描ければいい、ってことなのかも知れないけどね。
すっとぼけた感じのウスマヌ・ディアキテ刑事。黒人。憧れはビバヒルのエディ・マーフィ。実は切れ者…かと思ったらそうでもない。同僚にも名前を覚えてもらえず、みんなからよそ者扱い。自分は身を隠しているつもりでも、街の不良からは「おまえ、どう見ても刑事」とバカにされる。秘密裏に誰かを追っていたんだけど、そこにパトカーが介入し、計画はオジャン。しかも警察に捕まってしまう。「俺は刑事だ!」といってるのに。同じようなシーンが中盤にもあって、本庁へフランソワに会いに行くんだけど、周囲の人から不審人物扱い。「身分証を見せろ」に何かの会員証を見せたりして、おちょっくったりする。毎度のことなので、遊んでるんだろう。…というように、黒人差別ネタがてんこもりで、なかなかおかしい。
フランソワの方は、現場よりゴマすりがモットー。女はとっかえひっかえ。ハナからディアキテ刑事なんか眼中にない。でも案外切れる。ディアキテはなんとか捜査に加わりたくて、合同捜査を、なんて上司に進言し、それが通ってしまうという展開。2人の対照的なキャラが描かれつつ、おとぼけ調に謎を追っていく前半は、笑えるし面白い。だけど、後半の謎解きが深まるにつれ、キャラがほとんど活かされなくなる。単純な話を複雑なように見せ、ひもといていくという流れなんだけど、分かりにくさも加わって、いまいち「なるほど感」もない。だから、終わってもあんまりスカッとしないのだよね。残念。
で、社長夫人が賭場に出入りしていた…というところから、会社のクルマの運転手(住まいはディアキテ刑事のご近所で知り合い)→社長と、社長付みたいな男を追及→労働組合の幹部みたいのにお金を渡していた→社長付が怪しいと会社に潜入して手帳を入手でも違法捜査なので2人は捜査を外される…。フランソワが街で、タクシー運転手に荷物を入れさせている客を見て、なにか浮かぶ。再度、運転手を締め上げ…その日は運転手を休んでいて、社長付と2人で賭場に行ったことが分かる→社長付を追及。組合から環流してた金を社長夫人に渡していたが、要求がエスカレートするので殺した。社長付と社長夫人はデキていた? 最後はフランソワもディアキテを認めて、ディアキテはパリに移動…とかいう展開だったかな。いや。正直いって、話がちゃんと追えていなかった。映画が悪いのか字幕がいまいちなのか私の理解力が足りないのか。要所要所がカチッと嵌まっていかず、なんかだらだらと進んでいく感じ。先にも書いたように、後半はつまらなくなるし。なので少し眠くなってきたせいもあるんだけど。というわけで、なんかもうどうでもいいや的に後半を見ていたのだよ。
で、結局、ディアキテ刑事が最初に追っていた、実は海外に逃亡していなくてパリに潜入しているという男は、どうなったんだっけ? とか、よく分からんことばかり…。
横道世之介3/19シネ・リーブル池袋シアター2監督/沖田修一脚本/沖田修一、前田司郎
allcinemaのあらすじは「長崎の港町で生まれ育った横道世之介、18歳。この春、大学進学のために上京。少々お人好し過ぎるものの、明るく素直な性格で周囲の人々を魅了していく。そんな世之介は、入学式で出会った倉持一平や同級生の加藤雄介らと友情を育む一方、年上の女性・片瀬千春に片思いをしたり、あるいはお嬢様の与謝野祥子との間に淡い恋が芽生えたりと大学ライフを謳歌していくのだが…」
ムダに長い160分。たいしたドラマもなく、出来事も多くはほのめかすだけ。踏み込まず、距離感をもって描く。全体に平板でフラットな構成なんだけど、意図的なんだろう。けどちょっとじれったい。監督は「南極料理人」の人らしい。そういえばあの映画もドラマがなくてエピソードの集積だった。
最初、新宿駅の大俯瞰。右手にMy Cityが見えて左手には広いスペース。どこだ?(予告編で確かめたらアルタ前だった) さらにPePeの前。乗った電車は西武新宿線か な。すでに借りていたアパートに入っていく。四畳半ではなく結構広い。隣の家から目覚ましの音…で外へ行くが、「目覚ましうるさい」などの貼り紙。一軒おいて隣の部屋の小窓が開いて、30がらみの女は江口のりこ。「ご飯食べてく?」といきなり誘われ、あれは結局、食べたってことか?
で、次は武道館で、大学の入学式。ただ大学名が「法政」と実名で出たのは驚いた。早稲田落ちの法政という、ありがちだけど、微妙な設定。もう少しいうと、おそらく明治・立教・青学あたりにも蹴られ、MARCH底辺の法政にひっかかった、ということか。法政にゴマンといるだろう。なるほど。主人公の立場がよく分かる。
そういえば家は西武新宿沿線。ということは、馬場で山手線に乗り換え、新宿で総武線経由の市ヶ谷あるいは飯田橋。ということは、毎日、早稲田の学生を目撃することになる。もしかして早稲田に受かるつもりで西武新宿にアパートを借りたけど落ちた、ということか。などと考える。
入学式で会話を交わした倉持(池松壮亮)は、「法政じゃ人生終われない。来年早稲田を再受験」といっていた。しかし、その倉持は、後に出会う阿久津(朝倉あき)という同級生と恋仲になり、子供ができて結婚。大学を辞めることになるというのは、皮肉。でも、辞めずに学生結婚でもいいような気がするが…。それに、阿久津みたいなカワイイ娘がどうして倉持と? と思ってしまうのはキャスティングのミスではないのか。伊藤淳史と安藤サクラぐらいの顔のカップルならリアリティあるような気がするんだけどね。
次は、入学式からいきなりキャンパス、教室なので、授業? と思ったらスーツ姿。じゃあ歩いて行ったのか。地図を思い浮かべるのに時間がかかったけど、市ヶ谷キャンパスは靖国の裏だから、案外と近いはず。で、身上書かなんかを書いてたのね。ここで世之介は阿久津と出会うんだけど、この2人がカップルに? かと思ったらまったく違った。まあいい。
この後、世之介、倉持、阿久津はサンバ研究会みたいなのに入るんだけど、ちょっとどーかしてる。何も考えてないじゃん。フツー過ぎて面白くも何ともない。親戚の男子が小説家志望のジャス好き というのと対象的すぎる。は、いいんだけど、この辺りで時代設定がいつなのか、困惑した。親戚の男子の様子は、どう見ても70年代。でも、ファッションなんかはもっと新しい。しばらくして、倉持と阿久津の子供が、中学生なのに中卒男子の18歳とつき合ってる云々の"現在"のシーンが登場するので、では2012年から15年を引いたら1997年? なんか、画面の中の風景や衣装はもっと古いような気がするんだが、じゃあ、この映画の"現在は"いつなんだろ? でも、結局わからず。予告編を見たら「1987年」で、その16年後となっていた。ってことは、この映画の現在は「2003年」なのか。…しかし、そういうことをちゃんと知らせてくれないと、分からんよな。まったく。ぷりぷり。時代設定が分かりにくすぎ。
でまあ、冒頭で書いたようにムダに長く平板でエピソードの集積で、結局、最後は若くして34歳で死んでしまう世之介という存在を思うと、なんか、スカッとしない映画だな、ともやもやしたまま見終わった。その死は、2001年に新大久保駅で発生した乗客転落事故を思わせるもので、Wikiには「山手線新大久保駅で泥酔した男性がプラットホームから線路に転落し、さらに、その男性を救助しようとして線路に飛び降りた日本人カメラマンと韓国人が、折から進入してきた電車にはねられ、3人とも死亡した」とある。この事故についてはほとんど触れられていなくて、おそらく事故の事実関係とはまったく関係ないと思われる。単に設定を借りただけだろう。けど、なんかもやもやしちゃうなあ。でまあ、34歳で死んでしまう男の話の、どこが映画になるんだ? ひとつも面白くないじゃん。だからなに? という気持ちでいた。で、見終えた夜、寝ようとしてふと気がついた。そうか。これは漱石の「三四郎」なのだ、と。
九州からの上京。三四郎が列車内でアプローチされるのは、世之介が江口のりこに誘われるのと酷似。美禰子は祥子。同郷の、得体の知れない先輩がいて。三四郎は東京で様々なことを体験する。題名も、どちらも主人公の名前だ。東大と法政の違いや、他の様々な設定の違いは、ある。でも、要は時代の典型的な青年を代表していること、ではないかと。そう考えると、いろんなところに釈然とするようになった。ラストへの展開は、大きな違いがある。「三四郎」は「それから」「門」とつづくけれど、この映画は世之介の死で終わってしまう。果たして死で終わってよかったのか、大いに疑問がある。世之介を殺す理由が、この映画ではよく分からない。大いに釈然としない。なんか、答を放棄した感じにも思える。
この映画では、主人公は、たいして大きな壁にぶち当たらない。困難を克服するようなこともない。だから面白くないんだけど、唯一、世之介が代わるのは隣の部屋の男のせいだ。隣人は、カメラマンだった。そして、彼の個展である写真を見て、自分も写真を撮ろうと決意する。その決意で、最初のロールを撮るところで映画は終わる。そのロールには、祥子がパリ留学する当日の模様と、街のスナップが写っている。その種明かしがされる、というのぐらいが、この映画のちょっとしたドラマチックになっている。それ以外、世之介は、たんにフツーでダメなヤツである。しかし、世之介が変化した後のことは一切語られない。この辺りも、隔靴掻痒。
というわけで、この映画の隔靴掻痒な部分をあげつらっておこうか。
・九州からだったら、東京の前に関西の学校を考えるのがフツーなんじゃないの?
・同郷の、マスコミ志望のやつが登場する。業界御用達の喫茶店? そこでモデルの千春(伊藤歩)と出会うんだけど、突然すぎる。同じ一年生とか、説明も一切ない。
・その千春という女性の正体が不明。妙にお高くとまっているわりに、まだ売れてないんだろ? それに、祥子の知り合いでもある? プールに行ったとき、そんな感じだった。千春の、最初に別れた男との関係は? どうやって有名になれたのか。あの母親を出す理由は? 見られたくなけりゃ、ホテルに連れてこないだろ。まして世之介がそのホテルで働いてると知っているのだから。とか、ううむなところがたくさん。個人的には伊藤歩はミスキャスト。ミステリアスで色っぽくて不思議な感じは、いまいちだよな。
・アパートの隣室のカメラマンへのチョコは、誰かファンがいるということか? 説明不足。で、その隣室のカメラマンと知り合って、世之介は写真の道に入っていく。これが、この映画における世之介の唯一の成長の第一歩なんだけど、その後プロになったとか成果はなに? とかには一切触れていない。はたして世之介は、それまでの主に巻き込まれ型な人生から脱した生き方をしていったのだろうか。はたまた、彼の人生を変えた写真は、どんな写真だったのだろう?
・世之介は学校を卒業したのか。どうして祥子と別れたのか。祥子は海外で何をしているのか。
・この映画のスタイルである、踏み込まずに描かれるあれこれは、じれったい。感じろ、ということか。勝手に想像しろということか。ううむ。
・長崎で難民に係わって逮捕あるいは補導され、祥子の親には連絡が行かなかったのか? というより、祥子はどう両親を説得して長崎に来たんだ? のちのち、祥子の父親に「つき合ってるのか?」なんて呼び出される不思議。残土処理の会社社長で、あんなお嬢様が生まれるのか? 母親の影響? なんか説得力がない。
・そういえば、倉持と阿久津の子は、どうなったのだろう。若いガソリンスタンドのアンちゃんと駆け落ちでもしたのか? 愛され、大切に育てられても、親を裏切るのが子供というものだけどね。
・世之介は、高校時代の彼女とセックスしてるのか? あるいは世之介は、祥子とセックス…してないよな。キスだけ?
・世之介という名前。井原西鶴の「好色一代男」から来てると思うんだけど、ほとんど何も関係なかったな。
・世之介が死んだことを知って、昔の知り合いが驚かない不思議。千春も、祥子も。なんなんだ? と思った。
・どうやって撮ったのだろう? と思ったシーン。2人がクリスマスの夜キスするシーン。カメラがすーっと上がっていく。たんに吊ってるだけなのか。クレーンなのか。それと、ラスト、見送って写真をとりつつ歩く世之介を追う場面。ふわっ、と上って下がるカメラ。移動車にクレーンをつけている?
・で、思ったのは、結局はごくフツーの青年の物語。それで? と聞き返したい気分。
ミラノ、愛に生きる3/22ギンレイホール監督/ルカ・グァダニーノ脚本/ルカ・グァダニーノ
イタリア映画。原題は"Io sono l'amore"。allcinemaのあらすじは「ミラノの大富豪一族に嫁いだロシア人妻のエンマ。何不自由ない生活を送りながらも満たされない心に、いつしか孤独を募らせていく。そんな時、エンマは息子の友人でシェフのアントニオと出会う。心の奥底に眠っていた情熱的な感情がわきあがり、次第に抑えがたくなっていくエンマだったが…」。
タイトルもよく知らぬまま見はじめたのだけれど、イラついた。ハナッから人物がうじゃうじゃ登場する。そこにいない人の名前も頻出する。人物をちゃんと説明したり描いたりしない。次の場面の台詞が聞こえてきてから場面が変わったりする。誰の台詞か分からないこともしばしば。…うーん、ダメだこりゃ。と、理解するのを半ば諦めた。
そのだらだらした前半部というのは、エンマの祖父の誕生パーティに親戚一堂集まるだとか、自宅で若者たちがパーティをするとか、金持ちの鼻持ちならない部分が臭うようなものばかり。たくさんの使用人は働いているとか、配膳の様子、料理のあれこれなど、どーでもいい話ばかりで、描かれることにとくに意味はない(魚のスープ以外は)。で、しかも、前半で仕込んだ固有名詞などが、後半になってあまり出てこない。で、話はいつのまにか富豪一家の話ではなく、エンマとアントニオの、歳の差不倫カップルの話になってしまって、そのままラストに向かう。おいおい。じゃ、あの前半部分は前振りだったのか? 長すぎるし、たいして意味ないだろ。
というわけで、前半はとても眠かった。そのまま寝るんじゃないかと思ったぐらい。ときどき面白くなりそうな出来事がもちあがるが、大筋には関係なく、関係がありそうでも、そのうち言及されなくなる。要は、雰囲気だけなのだ。けっ。
で、改めて題名を見ると、そーか。不倫の話でよかったのか。なーんだ、である。
グローバル化によって、大会社を所有する一族の時代が終焉する。その象徴的な事件が、祖父の死。誕生日から半年ぐらいのことで、後継を指名されたのが父親のタンクレディと長男のエド。グローバル化に逆らえず、父親は会社を分割して海外に売る。反対するエド。…というと、ビジネスドラマっぽく思えるけど、臭いだけでドラマはない。そこにスリリングもなにもない。会社も、紡績業を営んでいるぐらいしか示されない。茫洋。
長男は、スポーツマン? 年もよく分からない。いま何をしているかも、よく分からない。親友の、シェフをしているアントニオとボートレースをして負けた、ぐらいの情報。次男もいるみたいだけど、あまり登場しない。妹は、油絵を描いていたけど写真に転向した、とかいっているから学生か。彼女はエドや母親エンマに同性愛であることを打ち明ける…。なんか、しょぼい「地獄に堕ちた勇者ども」みたいな感じ。でもすべては前振りというか、たんにエンマの置かれている環境紹介なのだよな。
中盤過ぎに、エンマがロシア人であることが分かる。それで、前半にエドとエンマが<>つきの字幕で話していた言葉がロシア語だったのだろう、と分かった。それと、エドが好きな魚のスープというのが、そもそもロシア仕込みのエンマがつくる料理であることも、やつと分かった。だって、会社の売却相手であるインド人との会話の中で、やっとロシアという言葉が出てくるだけ(たぶん)。それじゃ分からんよ。
どうやらエンマは、ロシアを訪れたタンクレディと知り合い結婚。イタリアに来てから、一度も帰省したことがない、ということらしい。では、エンマに何らかの予兆は示されていたか? いない。義父や義母ともぎくしゃくしている様子はなかったし、孤独感や抑圧があったようにも見えない。…まあ、もういちどじっくり見たら、それらしいことも描かれているのかも知れないけどね。たとえばパーティの合間の転た寝でエンマが見た夢。血が流れているようなのがあったけど、あそこに秘密があるのか? それはそうと、突然、エンマとアントニオが恋し合う。あまりにも唐突。そもそも2人の接点も少ない。エピソードも、とくにない。「愛に生きる」の「愛」は、どういう「愛」なのだ?
てなわけで、エンマが家の料理人としてアントニオを呼び寄せ、魚のスープを供しただけで事が発覚してしまう。席を立つエド。追うエンマ。プールサイドで、エドがよろけてプールに落ちる。たまたま頭を角にぶつけて死亡…って、あっけなさすぎるだろ。人を殺して話を収束させるのは、卑怯な手だよなあ。結果、タンクレディはエンマに「お前は存在しない」と、一族からの追放を宣言。エンマは、普段着で家をでていく…って、こんな古くさい家が、まだあるのかよ。アホか。
・前半、パーティの途中で乳繰り合ってた2人は、あれは誰だったんだ? まだ顔が判別できる前だったので、分からなかった。
・エンマは、クリーニング屋で「服に入っていた」とCDを渡される。あれは、娘のものだよな? あのコートは娘のものだったのか?
・アントニオがエンマのレシピでつくったスープを、家族の食事会にだす。それだけでエドは母親とアントニオの不倫を確信する。つて、なんでだよ。
・女中は、奥様が家出する、とわかると荷造りの手伝いをする。ってことは、エンマの不満を日頃から聞かされていたってことか?
・残されたエドの嫁はどうなるのだ? 妊娠中だってのに。
・アントニオにしても、友人の母親が相手だぜ。きっと数年で別れるね、この2人。アントニオは自立可能だけど、エンマは路頭に迷う、かな。
・エンドクレジットのときに写る、洞窟(?)でうずくまっている人は、なんなのだ?
思秋期3/22ギンレイホール監督/パディ・コンシダイン脚本/パディ・コンシダイン
イギリス映画。原題は"Tyrannosaur"。ティラノサウルス、なのかい。で、パディ・コンシダインは主に役者で、この映画だけ監督・脚本をしているらしい。なんでなんだろ。allcinemaのあらすじは「妻に先立たれた失業中の中年男ジョセフは衝動的な怒りを抑えられず、酒を飲んではところ構わず大暴れする自暴自棄な毎日を送っていた。そんなある日、ひょんなことからチャリティ・ショップで働く女性ハンナと出会う。明るく優しい彼女は、誰からも相手にされないジョセフに対しても身構えることなく自然に接し、いつしか彼の凝り固まった心をほぐしていく。ところがそんなハンナにも、人には言えないある暗い秘密があったのだが…」というもの。
見ているだけで暗くなる。登場するのは、バカなんじゃないか? と思うような連中ばかり。もっと早く行動しろよ。あるいは、自分が悪いだろ、としか思えない。もちろん、不器用な人間も世の中にはいるだろうけど、こんな、不器用すぎる変態ばかり集め、どうしようもなさを見せつけられても、同情も共感もできないよな。ラストには、前向きな姿勢が見られるけど、とってつけたようなもの。違和感ありすぎで、うさん臭ささえ感じてしまう。
ノミ屋で問題を起こし、腹いせに飼い犬を蹴殺す。年金(?)かなんかを郵便局に受けとりに行き、移民らしい局員に難癖をつけ、もうくるなと言われ、ガラスを割る。パブで遊んでる少年たちに「うるせー」と絡み、威圧する。ま、返り討ちにあってボコボコにされるんだけど。さらに、ガンガン音を立てて庭の物置を壊す。主人公のジョセフはそういう男だ。妻に死なれ一人暮らしらしいが、なぜ荒れるのか、理解に苦しむ。自分から世間に喧嘩を売ってるだけじゃん。そんなジョセフが、リサイクルショップ(?)で働くハンナと出会う。パブで少年たちを威圧してすぐハンナの店に隠れるようにして入ったのは、その態度とは裏腹に、意外に小心者だということだろう。それに、ラスト近くで、ハンナに興味をもっていたらしいこともいう。ってことは、悪友のジイさんたち以外の世間は相手にしてくれないけど、ハンナなら…と思っていたのか。なんでかね。ハンナがかなりのブスだからかな。もしそうなら説得力はあるけどね。で、少年たちに殴られ、ハンナの店の前まで行って転がっている。ということは、ハンナに介抱して欲しいという下心ありということだな。
そんなハンナは信心深い。と思ったら、実はDVの犠牲者だった…。だけど、この夫婦関係も変。壁にはにこやかな結婚写真。でも、ハンナが後に語るところでは、亭主のジェームズに犯され、ガラスを突っ込まれて子供が産めない身体になってしまった、と。これだけで2人の関係を想像しろというのもムリな話だけど、どういう経緯で結婚に至ったんだ? 結婚前はフツーにしていて、後に豹変? 実はジェームズは変態の暴力男? 帰宅したジェームズが、ソファで寝ているハンナに小便をかけるシーンには笑ってしまったんだけど、なんでそんな日常に我慢してる。信心深いから? それとも、信仰に逃げ込んだのは、結婚後か? というか、そんなに日常的に殴られてたら、もっと以前に発覚するだろ。ジョセフと知り合ってから、突然、ジョセフが目立つところを殴るようになったわけでもあるまいに。
亭主に暴力を振るわれ、ジョセフの家に逃げ込んできたハンナ。ジョセフはハンナの家に、彼女のものを取りに行き、ジェームズの死骸を発見する。どういうことをしたのか知らないけれど、追いつめられたハンナはジェームズを殺してしまったわけだ。そこまでするまえに、なんで逃げ出せなかったのか。逃げ出せないような人もいる、ということなのだろうけど、なんかなあ。そういう人であることが、すでに変なんじゃないか?
斜向かいの家に住む、若い母親と少年。母親には恋人がいて、犬を可愛がる暴力男。なんか、ステレオタイブな話だな。この母親も、現実的な「男」という欲望にあらがえず、子供を犠牲にしている。セックスの間は子供を外にだし、喧嘩っぱやい犬も容認。挙げ句は、暴力男の悪仲間も家に入り浸るようになり、挙げ句は犬が少年の顔を食いちぎる。それでも男と決別できない。そんな女もなかにはいるのかも知れないけど、悲惨な設定ばかりを集めたね。
さらに、ジョセフの友人の娘。ガンで余命幾ばくもないからと、ジョセフが見舞に行く。でも、娘は父親も、その友だちも嫌い。ある日、ジョセフが見舞に行くと「父は死んだ」とだけいい、ドアを閉めてしまう。親子関係の脆弱さは、イギリスでも同じなのかね。というか、典型的な事例を凝縮した映画だからなあ。でも、葬式はちゃんとやってたし、ジョセフとハンナが離れて立ってたら、近くに来るよう言いに来ていた。そんな悪気がある娘じゃないと思うが…。
で、ハンナは刑務所へ。犬を殺したジョセフも少しだけ刑務所に入っていた様子。でも、あんな暴力犬を殺したからって、刑務所に入れられるのか? 疑問。
さて出所したジョセフは、突然いい人になってしまう。死んだ妻の墓参りはする。ハンナとの面会に行く。なんでなの? 妻に対して申し訳なかった、って、反省したのか? どうしてそうなれちゃうの? 理解不能だな。この後、ハンナが出所したら2人は一緒に暮らすのだろうか。ハンナは、神も仏もあるものか、って心境になったんじゃなかったのか? ううむ。
そういえば、題名のティラノザウルスは、妻の渾名だという。太って、歩くと床がミシミシ。「ジュラシックパーク」で恐竜が迫ってくるシーンを連想したからそう名付けたという。女房にも恵まれなかったのか。これが「思秋期」という哀愁を含んだような邦題になっちまうんだからなあ。
ジョセフ本人も、どういう亭主だったか分かんないものなあ。すべては社会が悪い? 仕事がない、移民がはびこる、少年非行が横行する…。まあ、そうやって自分の不幸を周囲のせいにする考えを改めた、ということなのかね。だからって日常が代わるわけでもあるまいに。な、よく分からないラストだった。
違和感があったのは、近所の家の暴力男の犬が少年のウサギを食いちぎったときのこと。ジョセフは暴力男に立ち向かうかと思ったら、家の中にこもってる。冒頭の大暴れぶりからすると、なぜだ? と思ってしまう。犬や移民、少年には威圧的でも、暴力男には黙っちゃうのか? それはジョセフが下に強く上に弱い小心者だからか? の割りには、物置をガンガン音を立てて壊したり、暴力男を挑発してるんだよな。最後の、少年の顔に噛みついた暴力男の犬を叩き殺しに行くのは、やっと正義のために立ち上がった、ということを示そうとしているのかね。
なんだかんだいっても、家が立派すぎ。ジョセフだって庭付き一戸建て。これで貧乏街区。ハンナの住んでる高級住宅街と比べればしょぼいけど、東京ならいいほうだよな。
キング・オブ・マンハッタン 危険な賭け3/25ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ニコラス・ジャレッキー脚本/ニコラス・ジャレッキー
原題は"Arbitrage"。相場のさや取りのことらしい。allcinemaのあらすじは「ヘッジ・ファンドの大物ロバート・ミラー。一代で巨万の富を築き、幸せな家庭にも恵まれた彼は誰もが羨むニューヨークの成功者。ところが実態は、ロシアの投資で巨大な損失を出してしまい、彼の会社は破綻寸前で、ロバートは会社の売却に一縷の望みを託して懸命の工作に追われていた。そんな最中に、愛人のジュリーと密会し、あろうことか事故を起こしてジュリーを死なせてしまう。しかもその車がジュリーのものだったのをいいことに、黙って現場から逃亡を図るロバートだったが…」なんだけど、情報なしで見たので事故には驚いた。おお。そうくるのか。なぜって、それまで、ぬるかったんだよね。話が。
で、愛人とドライブしてるとき、ロバートが居眠り。ジュリーは死ぬが本人は打撲だけで済み、隠蔽工作を図るんだが、これがなんとも危うい。さてどうなるか、という話。単純な話かと思ったら、次第にいろんな要素が絡みすのも面白い。ひとつは、ジミーという黒人青年の話で、ロバートは事故現場から彼に電話し、救ってもらう。さらに、隠蔽の手助けを頼む。のだけど、警察は簡単にジミーを割り出し、追及。前科のあるジミーは、10年食らうかも知れないと動揺するけど…黙り通す。この流れで、警察は証拠のでっち上げをするんだけど、正義のためにウソをつくのは許されるのか? って課題が残る。
そのでっちあげだけど、警察は高速の料金所でのナンバープレートの写真を偽造する。ジミーは高速を使っていない。かといって、「使っていない」とは言えない。で、弁護士だったかが自分で料金所を通り、そのときの写真を入手。ジミーの写真と比べるんだけど、どこがどう違っているのか、分からなかったよ。もっとちゃんと説明してくれないとなあ。
企業合併についても、自分の会社をいくらで売るか、の駆け引きがある。どうやったら高く売れるか、安く買えるか、のやりとりもまた面白い。契約が済んで、互いにいくらで買うつもりだった? いくらで売れれば御の字だった? と言うところが、なかなか。ただし、ちょっと分かりにくいところもあった。たとえば、もうすぐ辞めるという部下から「騙された」(だっけ?)とか電話がかかってくる。部下に問い詰めると「メイフィールドに言われて」と白状する。これは売却先のメイフィールドが、買い取り価格を安くするためのブラフかなんかだったのかな。判然としなかった。
他にも、基本的なところで分からない部分がある。ロバートは、損失を隠そうと知人から大金を借りて、監査をやりすごそうとする。でも、それって詐欺なんじゃないか? たしか娘も「詐欺」といっていたような気がするんだけど、そんなの合併後に発覚するだろ。それでも合併の契約をしてしまえば問題ないのか? ロバートの弁護士も、この点について触れていないのが不思議。
さらに、契約後、部下がメイフィールドに「不明金がある」と知らされるんだけど、ちっとも動揺しない。それって織り込み済みだった、ってことかい?
てなわけで、ロバートは会社の売却もこなし、事故の隠蔽にも成功する。ただし、妻にはバレてしまって、「警察に行かない代わりに、代表の座を娘に譲れ」といわれる。ま、一文無しになっちゃったわけだ。どうやら捨てられはしなかったみたいだけど、数年後は分からないよな。
悪い奴ほどよく眠る、とまではいかなかったけど、それに近い終わり方。
しかし、ロバートも根っからの悪じゃなくて、ロシアの政策によって思わぬ投資失敗しただけだからね。妻は、ロバートに愛人がいるのを知っていて、泳がしてた感じ。慈善事業が生き甲斐みたいな人らしいから。みんなフツーなんだよな。ロバートも、娘ほどキレない息子を「副社長に」とメイフィールドに押しつけるあたり、単なる親バカ。ジミーにはお礼として2億円ぐらい与えるし、ある意味、いいやつ。だからか、発覚しなきゃいいな、逮捕されなきゃいいな、ってずっと思ってしまった。ロバートが、リチャード・ギアだからなあ。
しつこくて嫌らしい刑事が、ティム・ロスだつたんだな。いわれてみればそうだけど、へー、な感じ。
ジャックと天空の巨人3/28新宿ミラノ3監督/ブライアン・シンガー脚本/ダーレン・レムケ、 クリストファー・マッカリー、ダン・スタッドニー
原題は"Jack the Giant Slayer"。巨人退治屋ジャック、ってな感じか。allcinemaのあらすじは「自分の馬と引き換えに不思議な豆を手に入れた貧しい農夫の青年ジャック。ある日、冒険を夢見てお城から逃げ出したイザベル姫が、激しい嵐に見舞われてジャックの粗末な小屋で雨宿りをすることに。ちょうどその時、ひと粒の豆が地面に落ちて芽を出すや、巨大なつるとなってジャックの小屋もろとも天高く伸び始める。そして逃げ遅れたイザベル姫をはるか天空まで連れ去ってしまうのだった。翌日ジャックは、イザベル姫の救出にやって来たエルモント率いる王家の捜索隊への参加を志願、彼らとともに豆の木を登っていく。やがて天空へと辿り着く一行だったが、そこは世にも恐ろしい巨人族が支配する国だった」
元になってる『ジャックと豆の木』の原型はうろ覚え。巨人はひとりだったんじゃなかったっけ? 姫なんかでてきたったけ? 程度。どこを膨らましたかよく分からなかったけど、物語的には面白くできていた。子供向けのつくりにしては、いろいろ残酷なシーンもあったりするのも、ダークでいい。もっとも、死骸はあまり登場しないけど。
前提となる設定にはいくつか「?」はある。
・そもそもエリック王の時勢に巨人をやっつけられた不思議。巨人の心臓から王冠をつくれば、他の巨人はひれ伏す、とどうやって知ったんだ?
・高官のロデリックは、どうやって王冠と種を手に入れたのか? 後半、ジャックと姫が地下墓を通るとき、エリック王の棺桶が荒らされてる、とか話してたけど、荒らしたのがロデリックだってことか? そんな簡単に手に入っちゃうの? だって、水につけたら大変なことになる種だろ?
・ロデリックの部屋に修道士が忍び込んで種を盗むんだが、目的は何? 懲りずにまた種をまいて、神に会おうというつもりだった、ってことか? いや、それより、修道士はロデリックが王冠と種を隠していることをどうやって知ったんだ?
…といったことの説明がない。これは大きなもやもやだな。
それと。種を盗んだことが発覚し、逃げられないと悟った修道士が、ジャックに「馬を売ってくれ」という。「金はないけど、この種を教会にもっていけば、金を払ってくれる」とも。しかし、もう門は閉じられている。修道士は逃げるために馬を手に入れたのか? それとも、混乱を誘うため? なんか、意味ないよな。ロデリックも、修道士を逮捕するだけじゃなく、城郭内にいた人間すべてを取り調べるべきだったよな。
こうした釈然としない部分はあるものの、話は結構おもしろかった。ひと粒の種から茎がですぎだろとか農民が姫と結婚しようがなんだろうが、徹底的にやってくれ、だ。そもそもおとぎ話なんだから問題はない。
もっとも、ジャックが天空の世界に潜入してからは、ちょっと話がタルかった。あそこをガンガンと畳みかけてくれたらよかったんだが。
脇役のエルモントにユアン・マクレガー、ロデリックにスタンリー・トゥッチと豪華だし、巨人たちをちょっと稚拙なCGで描いているところも正しい。その方が汚らしさもでるしね。
・「後ろに誰かいるの?」という台詞の使い方は、しゃれてる。
・ひと粒だけ残していた種の使い道には拍手! あれで巨人をやっつけるとは!
・ジャックが飼ってた猫がよかった。最後にでてくるかと思ったら、でてこなかった。残念。
・しかし、ジャックと姫が結婚してしまうとは…。せいぜい騎士として仕える程度かと思ったんだけど。
・ロデリックは部下の兵士や騎士に冷淡すぎるような気がするぞ。簡単に殺しちゃうし。 ・エディ・マーサンは好きな役者なんだけど、この映画では扱いが中途半端。もうちょいはっきり撮ってやれよ、と思う。

 
 

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