2013年4月

ジャンゴ 繋がれざる者4/1MOVIX亀有シアター9監督/クエンティン・タランティーノ脚本/クエンティン・タランティーノ
原題は"Django Unchained"。「解き放たれしジャンゴ」あるいは「ジャンゴ 解き放たれし者」の方が分かりやすいんじゃないのかなあ…。
allcinemaのあらすじは「南北戦争勃発前夜のアメリカ南部。賞金稼ぎのドイツ人歯科医キング・シュルツは、お尋ね者三兄弟の顔を知る黒人奴隷ジャンゴを見つけると、彼の鎖を解き放ち、三兄弟の追跡に繰り出す。その後、ジャンゴの腕を見込んだシュルツは、彼を賞金稼ぎの相棒にして2人で旅を続けることに。しかし、そんなジャンゴが真に目指す先は、奴隷市場で生き別れた最愛の妻ブルームヒルダのもと。やがて、彼女が極悪非道な農園領主カルビン・キャンディに売り飛ばされたことを突き止めたジャンゴとシュルツ。2人はキャンディに近づくため、ある周到な作戦を準備するのだが…」
2時間45分、飽きなかった。いや、面白かった。わくわくドキドキはなかったけれど、時制を入れ替えたり、伏線をちまちま張ったりするような小賢しい編集が一切なく、骨太な展開がいい。それでいて面白い。
冒頭からしばらくは、実は本題ではなくシュルツとジャンゴの出会いなのだよね。でも、最初の、いきなり保安官を射殺するくだりにはびっくり。どうするんだ、と思っていたら、むかし悪人いま保安官なんていうのも、ザラだったんだね。てなわけで3兄弟の働いている農場へ行くと、ジャンゴが3兄弟を仕留めてしまう。まあ、自分と妻をいたぶった相手だから我慢できなかったんだろう。ここでも指名手配書を農場主のビッグ・ダディに見せて、納得させてしまう。シュルツの知恵者ぶりが気持ちいい。ドイツ移民で、歯科医から賞金稼ぎになり、でも身なりは紳士然としているところも面白い。これを恨みに思ったビッグ・ダディは、KKKの格好で2人を襲うんだけど、袋の覆面だから目が見えない! って騒ぎ立てるのが笑える。しかし、ジャンゴはどこで銃の使い方を習ったんだろう。
てなわけで、ドイツ人と黒人がタッグを組んで西部で賞金稼ぎという、まったく王道な西部劇ではない設定がユニーク。シュルツに差別意識のかけらもないのも面白い。もともとドイツはそうだったんだろうか?
で、当初はためらっていた、ジャンゴの妻のいるミシシッピーへ。ここは南部でも黒人差別の激しいところのはず。ブルームヒルダを救い出す手筈が、なんかちょっとくどい気がする。あんな手の込んだことをしなきゃ、女奴隷のひとりも買えないのか? いまいち首をひねる展開だけど、白人の領主にこびへつらう黒人執事や、領主の行き遅れの姉がでてきたりして、ただならぬ雰囲気。並の西部劇では描かれない設定が引きつける。
なかでも凄いのが、黒人奴隷を闘犬みたいにして、死ぬまで戦わせる遊びがあること。あんなの、本当にあったのかどうか知らないが、それに耐える黒人、嫌だ、と逃げる黒人までしつこく描く。いや、凄まじい。その戦う黒人のバイヤーとしてジャンゴとシュルツが領主宅にのりこみ、一芝居打つが、黒人執事にバレてしまって、最後は激しい撃ち合いに、というお話。
銃撃シーンは肉片飛び散り鮮血ほとばしる。撃たれた連中はわめきまくる。ラストの銃撃戦では、中間地帯に倒れた男に、敵味方の流れ弾がガンガン当たる。男の絶叫がそのたびに響き渡る。といった具合で、過剰にリアルなのが、あたりまえの西部劇と違うところ。やっぱ、マカロニウェスタン系譜を引いているから、見るからに痛いのかな。
そのマカロニウェスタンは、そんなに見てない。テレビでジュリアーノ・ジェンマはよく見たけど、フランコ・ネロは見てない。まあ、冒頭のジャンゴのテーマソングぐらいは知ってるけど。でもまあ、西部のある町、悪徳保安官、悪農場主、虐げられる農民、助けるガンマン、捕まって拷問されるがなんとか抜けだして逆襲、皆殺し…てなお定まりの筋立ては踏襲していて、最後の爆発的な逆襲に期待して見ていたんだけど。なんと、シュルツは「だって我慢できなかったんだもん」といって、呆気なくもキャンディ(レオナルド・ディカプリオ)を撃ち殺してしまう。あいかわらずのタランティーノ節。このシュルツの銃は、「タクシードライバー」と同じく、袖に仕込んだもの。ま、だまし討ちだな。そのシュルツも、なんと呆気なく撃たれて死んでしまうのには驚いた。シュルツには感情移入していたので、残念。でも、ちょっと分からないところも。
正体がばれて、守勢に回ったジャンゴとシュルツ。黒人闘士を買うことで契約がまとまり、でもなんとかかんとかで、いったん街に戻ってから正式に契約するということになって。ついでにドイツ語を話す女奴隷を安く買うことにして、ブルームヒルダだけ安く買って逃げようとしたんだろうと思う。でもそれがバレてしまう。のだけれど、シュルツはちゃんと黒人闘士を買うだけの金をちゃんと持っていて、それをブルームヒルダの購入費として渡すことで仲直り。というところがキャンディの、金さえもらえばオーケー的な部分なのかも知れないが。そこで、キャンディが握手を求める。それをシュルツは拒む。拒むことで最後の大乱闘になるんだけど、拒む理由がよく分からない。なんで? 倫理観?
というわけで、最後はジャンゴひとりで農場の荒くれどもを相手にする。定番だな。で、みんなやっつけて、家もダイナマイトで爆発させて、妻をつれて颯爽といずこかへ消えていく。定番だ。
呆気ないといえば、囚われのジャンゴが逃げ出すときも、言葉巧みにカーボーイをだまくらかし、手錠を外されたらさっさと撃ち殺す。カーボーイのひとりとして登場するタランティーノは、ダイナマイトで吹っ飛んでしまう。自虐的というかなんというか。呆気なさ過ぎて笑っちゃう。
・ジャンゴが、キャンディをカンデイと呼ぶ場面があり、点々がついていた。あれは、黒人闘士を犬にかみ殺させる場面だったけど、黒人訛りかなんかを表現しようとしたのかな?
・キャンディの手下に、女ガンマンみたいなのがいて、覆面していたんだけど、どこかで何か大逆転? と思っていたら、何もなかった。あれは、どういう意味だったんだろう?
フランコ・ネロは、黒人による戦いの場面で登場。キャンディの知り合いの悪徳農場主という設定らしい。その場面しかでてこないんだけど、悪役としての顔見せだったね。
サミュエル・L・ジャクソンは、根っから白人にひれ伏す黒人執事の役で登場。どっかで黒人側につくのかなと思ったら、最後まで白人の犬だった。そういう黒人も少なくなかったんだろう。ナチに取り入ったフランス人みたいな設定だね。
といったこと以外に、きっとマカロニウェスタンや西部劇やあれやこれや、下敷きにした映画・エピソードなんかは山のようにあるんだろうけど、詳しくないので分からない。まあ、知ってる人の感想文でも読んで、「なるほど」となっとくしてみることにしてみよう。
すーちゃん まいちゃん さわ子さん4/5ヒューマントラストシネマ有楽町スクリーン1監督/御法川修脚本/田中幸子
allcinemaのあらすじは「すーちゃんはカフェに勤務して12年になる34歳の独身女性。バイト時代に知り合ったまいちゃん、さわ子さんとは10年来の付き合い。3人とも未婚の彼女たちは、一緒にピクニックに出かけたり、おいしい鍋をつついたりと楽しい時間を共有しながらも、それぞれに悩みや不安も抱えていた。職場の中田マネージャーに淡い恋心を抱いているすーちゃんに対し、OA機器メーカーでバリバリ働くまいちゃんは上司や後輩に苛立ち、妻子持ちとの不倫にも行き詰まりを感じてストレスは増すばかり。一方、在宅勤務のさわ子さんも、祖母を介護する母を手伝い、自由な時間を楽しむ心のゆとりもない日々を送っていた。そんな3人は、やがてそれぞれに人生の転機を迎えるが…」
これを読んで、3人の関係が分かった。年齢も違う、住まいも違い女3人が、なぜ友だちなのか不思議だったのだ。原作にはあるんだろうけど、映画では説明されていない。それは片手落ちのような気がする。それと、すーちゃんの年齢が34というのも映画と違う。映画では30歳だった。まいちゃんは34歳。さわ子さんは不明。で、実年齢は柴咲コウ(すーちゃん)が31、真木よう子(まいちゃん)が30、寺島しのぶ(さわ子さん)は40。なんか、微妙に原作とも違うのかな。まいちゃんの仕事も、正確には描かれていない。あらすじにはOA機器メーカーとあるけど、ね。さわ子さんは、Webデザイナー? しかし、この3人はいつ、どんなバイトで知り合ったんだろう。気になって仕方がない。
漫画が原作らしい。四コマ? なせいで、全体を通すドラマがない。エピソードの積み重ね。しかも、3人の知人はほとんどかぶらない。3人が知り合い、ということを除外すれば、オムニバス形式のような案配。面白いエピソードも、あるにはある。けど、すーちゃんの人物描写がいちばん興味深い。几帳面で考えすぎで、少し屈折…な感じ。まいちゃんは、妻ある男と不倫中という、アブナイ状況。それを受け入れつつ、仕事をバリバリしたいタイプ…のようだけど、仕事ができるようにも見えない。なんか中途半端。エピソードも薄くて、それほど描写に熱が入ってない感じ。さわ子さんに関しては、完全に添えもの。祖母の介護は最近だろうし、母親に任せればいいんだから、完全に行き遅れ。でも、それがなぜかは分からない。会社勤めの経験は? 3人で一緒だったバイトも、想像もつかぬ。どうやってWebデザイナーに? など、謎ばかり。いまいち感情移入ができにくい。演じているのが寺島しのぶ、というのも、個人的にはいまいちだし…。というわけで、いちばん見たいのは、すーちゃん。で、原作もすーちゃんが主人公だったみたいね。なるほど。
前半はほのぼの。後半は悲惨なむ感じ。すーちゃんの場合は、中田マネージャーが同僚の女の子と結婚してしまう・・・のだけれど、この中田という男の煮え切らなさは理解不能。いったい何を考えているのだ的な不愉快さが伝わってくる。同僚の女の子も、中田を色仕掛けでねじ伏せたような印象で、まあ、可哀想な家庭が築かれるんだろう。いるよね。さんざ遊んで、30過ぎてそこそこの男を結婚相手に選んで、なんとなく収まってしまうような女って。そんな感じ。すーちゃんは、そんなことが許せない性格らしいけど、ちょっと嫌みを言うぐらいしかできない。あるいは、バイト募集に応じてきた中年オヤジに、逆に説教してしまうという…。でもま、この中年オヤジの描き方はステレオタイプすぎると思うけど。
まいちゃんは、不倫関係を解消して結婚相談所に入会。さっさと相手を決めて、さっさと子供をつくってしまう。あな恐ろしや。知らぬは亭主ばかりかな。なんだけど、真木よう子が結婚相談所? と思った時点でリアリティがない。キャスティングに失敗だな。
さわ子さんは、小学校の同級生といい仲になるけど、子供を産める証明書を、と要求されて決裂。まあそうだわな。しかし、この映画に出てくる男って、どうしようもない連中ばかりで。こんな男たちに、女たちは右往左往させられているのか? と思うと、残念。というか、これって現実的な話なのか? なんか、3人の性格なんかは分かる気がするけど、人生の選び方は、いまいち納得いかないね。それでも、後半の悲惨な現実も、あまりリアルに描かないことで、なんとなくほんわかと受け入れてしまえる。タッチの問題かな。リアルにやったらエライことになりそうな話ばかりだもんな。
ちょっとだけ、いいな、と思えたのは、すーちゃんとまいこさんが、さわ子さんの家に呼ばれ、おばあさんに挨拶に行くところ。その前に、実の孫とひ孫が、家に寄っても祖母に挨拶もしない、としておいての展開で。「東京物語」からあるような設定。家族が「認知症だから分からない」と思っていても、実は、結構分かっていたりすることもある、という意味を込めて、訴えてきていた。
その他、すーちゃんの「ちょっと迷子になってきます」や、まいちゃんの「捨てた過去も、それもよかったかも…(みたいなやつ)」は、面白い台詞。すーちゃんの、最後の、「先のことを考えないのもいいかな…」的な台詞は、ちょっと捨て鉢ではないかと思うんだが。じっさいに、バイトの青年に好かれている状況が描かれているのだから。でも、彼の気持ちを察していないとしたら、すーちゃんも、ちょっと鈍感?
最終目的地4/10ギンレイホール監督/ジェームズ・アイヴォリー脚本/ルース・プラワー・ジャブヴァーラ
原題は"The City of Your Final Destination"。allcinemaのあらすじは「アメリカの大学院生オマーは、自殺した作家ユルスの伝記を執筆すべく遺族の公認を求めるも、あえなく拒絶されてしまう。しかし恋人に鼓舞され、直接面会して説得するため南米ウルグアイの人里離れた亡き作家の邸宅へと向かう。そこでは作家の妻、作家の愛人とその娘、作家の兄とそのゲイの恋人が奇妙な共同生活を送っていた。さっそく交渉を始めると、兄のアダムからは条件付きながらすんなりと公認を得られた一方、妻のキャロラインには頑なに反対されてしまう。そんな中、作家の愛人アーデンとの距離が急速に縮まっていくオマーだったが」
ひたすら退屈な2時間だった。なんなんだ、これは? な話。ドラマはないし盛り上がりもない。深遠さもミステリアスも笑いもない。どこが面白いのだ? さっぱり分からなかった。まず、ユルスという作家の価値が分からない。だって自著が一冊で自死したわけだろ。60歳ぐらいで亡くなったとして、作家で食ってた筈もなく、いったい何をしてきた人なのだ? また、そんな人の伝記にどういう意味があるのだろう?
オマーは何かの理由で帰国できなくなったイラン人(?)らしい。それが英文学だかを専攻・講義しているっていうのも、なんか違和感。自国で紹介するなら分かるんだけど。そのオマーの同居人が、几帳面で合理的なディアドレで、個性的だけど美人の部類に入る。なぜにイラン人と? てな疑問がつきまとう。でまた、ユルスの兄アダムの恋人が日本人のピートで真田広之なんだけど、25年も連れ添ってるという。なんなんだよ。
妻キャロライン役のローラ・リニーはいいとして、愛人アーデン役にシャルロット・ゲンズブールで28歳の設定っていうのはムリがありすぎ。しかも、なぜかオマーはいつのまにかアーデンに惹かれ、1年後ぐらいにディアドレと別れ、アーデン恋しさに大学教師の夢も人生も捨ててウルグアイにやってくる。アホか。子持ちの、キリギリスみたいな身体にしゃくれ顔のアーデンに、どんな魅力があるってんだ。
てなわけで、ほとんどディアドレ役のアレクサンドラ・マリア・ララを見ていた。だって他に楽しみがないんだもん。
やっぱ、それなりのメリハリ、ドラマ、トリガーとなるエピソードをちゃんと映像で見せていかないと、映画にはならない、という証拠だな。だれにも、どこにも共感することはできなかった。
・作家の兄が近所にいて、妻、愛人、愛人との子供が同じ屋根の下に住んでいる異様さがまったく感じられない。
・アンソニー・ホプキンスが額にいきなり絆創膏してるシーンがあるんだけど、ケガした場面なんてなかったよな。
・蜂をいぶしてるとき真田広之が「風が…」って日本語使ってるような気がするんだけど、あれは演出なのか? 偶然?
結局、キャロラインは金がなかったからウルグアイから出て行けなかった、ってことなのか? 最後は、アダムの宝石を売った金をもらってアメリカへ、と。
で、アメリカでディアドレはキャロラインと出会うんだけど、なんで彼女はキャロラインに興味をもつのだろう。ウルグアイでは対立してたような感じだったのに…。キャロラインを利用してひと山…とか打算的な考えでも浮かんだのかな?
と、意味不明もたくさんあったでござる。
人生の特等席4/10ギンレイホール監督/ロバート・ロレンツ脚本/ランディ・ブラウン
原題は"Trouble with the Curve"。「カーブに問題」と「思いがけない展開」の2つの意味があるみたい。allcinemaのあらすじは「数々の名選手を発掘してきたメジャーリーグの伝説的スカウトマン、ガス・ロベル。しかし近年はパソコンを使ったデータ分析が主流で、ガスのような昔気質のスカウトマンはすっかり時代遅れに。視力も衰え、残り3ヵ月となった球団との契約も延長は望み薄。そんな中、ドラフトの目玉選手のスカウティングに向かったガスのもとに、弁護士としてキャリアの大事な時期を迎えていた一人娘のミッキーがやって来る。すっかり疎遠になっていた2人は、久々の再会も互いに素直になれずにギクシャクしたまま。そんな2人の前に、かつてガスに見出され、引退した現在では新米スカウトマンとして再出発を図るジョニーが姿を現わすが」
冒頭にちょっと登場するピーナツ売りのバイトの少年。彼が、ラスト近くで思わぬカタチで登場する。この仕掛けは面白いんだけど、あとはよくあるパターンのステレオタイプなお話。デジタルよりアナログのほうが優るとか、若いやつより老人の方が秀でているところがあるとか、出世主義のビジネス社会より気ままで気楽な野球スカウトの方が人生楽しめる、とか、よくある設定で意外性がない。ある意味で、現代のおとぎ話・夢物語。これを素直に信じるやつはいない。
いろんなエピソードが詰め込まれているんだけど、それぞれがあまり有機的に結びついていない。むりやり話を広げ、てんでばらばらにとっちらかっている印象。テーマに沿った演出=トーンがつくられているとはとても言い難い。なので、中盤の展開は意外性もなく間延びしてて退屈だ。
そもそもミッキーがガスの面倒をみなくちゃ、と思ったきっかけが曖昧。自分が担当する裁判のプレゼンがあって、その成否で経営者の一員に加われるか否か、つてときなのに。なんで? そういう流れになるんだったら、ミッキーの心の揺れぐらいあらかじめ描写しとかないとダメだろ。それに、いまつきあってる上昇志向の弁護士との関係も、なんか中途半端。なるほどね、と思わせるものがないと、説得力がない。
で、見てるとミッキーは大リーグの記録や情報に詳しいらしいことが次第に分かってくる。ではガスと親密かというとさにあらず。6歳で親戚に1年(?)預けられ、13歳からは寄宿舎のある学校に入れられ、反発心で弁護士になった、と明かされる。え? じゃ、ミッキーはいつ父親と一緒にスカウト回りしてたんだ? ミッキーの博識は父親譲りじゃなくて独学? などと、こちらがうろたえてしまう。人物の造形も、こんなんじゃダメだろ。
ガスが頑固者、はいい。でも、6歳(?)のミッキーのスカートをめくってた男を半殺しにしてしまうほど、ってのは、なんだね、どうも。刑務所も覚悟した、と話していたけど、それで相手は死んだのか? 逮捕・収監されたのか? が、分からない。まあ、あの様子ではうやむやみたいだけどね。で、スカートめくりの一件をミッキーに話せないでいる、というのも「なんで?」な感じ。未遂だったんだから、もう33歳のミッキーに話しても問題はなかったんじゃないの?
てな疑問もふつふつと。他にも、
・ミッキーはあの夜、元ピッチャーで今スカウトのジョニーとセックスしたのか?
・そのジョニーは、ガスに裏切られたと思い、ミッキーにも罵声を浴びせて消えていく。のだけれど、最後にやってきてミッキーにキスして仲直り。でも、そのまえに謝るのが筋だろ。なぜ謝らないの?
・あれだけ視力が弱っているガス。で、結局、眼科にはかからないの? せめて眼科の扉を押すぐらいのカットは入れて欲しかった。
・ドラフト1位の生意気小僧が実は無能で、ピーナツ売りの少年が実は埋もれた素材だった、という漫画チックな展開は面白いんだけど、フィールディングの経験もない少年とメジャーが契約するかね。
・「アイス・キューブ」「カーダシアン一族」「ドクター・フィル」という言葉が説明なくセリフにでてくる。あとで調べたら、アイス・キューブは俳優・監督・ラッパーらしい。Dr.フィルはテレビで有名な心理学者、ロバート・カーダシアンはO・J・シンプソン事件の弁護人で、家族兄弟はタレントがたくさんいるらしい。でも、日本人にゃ分からんよな、そのまま出したって。どういう喩えででてきたかも忘れてるんだけど、ニュアンスはまったく伝わらんよな。
ソハの地下水道4/12キネカ大森1監督/アグニェシュカ・ホランド脚本/デヴィッド・F・シャムーン
原題は"In Darkness"。allcinemaのあらすじは「1943年、ナチス占領下のポーランド。下水修理の仕事をしているソハは、ナチスの迫害を恐れて地下水道に隠れようとするユダヤ人に手を貸し、代わりに金銭の見返りを要求する。地下水道を知り尽くしたソハは、彼らの隠れ場所を手配し、定期的に食料を調達して過酷な潜伏生活をサポートしていく。しかし子供も多く、次第にナチスの厳しい追及をかわすことが困難になる。自分の妻子や若い相棒にも危険が迫り、一度は手を引こうとするソハだったが…」
実録『アンダーグラウンド』なんだけど、真実? と思いつつ見ていたけ。でも、どーも実録的な感じ。最後には実話であり、助けたソハは1年半ぐらい後に交通事故で亡くなった、とクレジットがでる。でも、地下に1年4ヵ月、実際はどんなだったのだろう? ソハがユダヤ人たちのために食料を買いに行くと、店の女主人が「パーティ?」と聞く。そんな状況が、長続きするとは思えないんだが。どうやって水や食料を提供しつづけられたのだろう。映画的な省略ではなく、真実のところを知りたいと強く思う。
その映画的な省略と、中途半端なドラマもどきが見ていて退屈。いや、ドラマらしいドラマがないのが問題で、くだらんいさかいが延々とつづくだけ、といってもいい。ゲットーから収容所へ送られそうだというので、20人ぐらいが一斉に地下を目指す。のだけれど、バカな子供は「やだ」と泣き叫ぶ。20歳ぐらいの娘も、「地下なんて」と抵抗し、いったんはもぐったものの、抜けだして地上に戻り、結局は収容所送りにになってしまう。こいつらバカなんじゃないのか?
判断を迫られる事態に直面しても、必ず怒鳴りあい、罵りあいになる。子供が騒ぐのを止めることもできない。夜中に同室の女のベッドに忍び込んでセックスする…と思ったらこの男、地下でもやりまくってて、妊娠までさせてしまう…だけじゃなくて、団体生活に耐えられず別行動に移り、あげく地下でのたれ死にしてしまう。登場するユダヤ人は、みなアホにしか見えない。感情移入できるキャラが一人もいない。見ていてイライラのし通しだった。日本人なら、ああはならないだろう。
そういえば、ユダヤ人が、ソハに支払う金を値切るところがあった。「ユダヤ人は命の値段も値切るのか」と言い返すんだけど、まったくその通りだと思った。なんだかこの映画って、ユダヤ人の嫌な部分をこれでもか、と見せてくれているような気がしてしまうのだが、どうなんだろう。
個人に迫った描写がほとんどないのも困ったもの。記憶に残る人物は3、4人で、それでも掘り下げは浅い。後の10人ぐらいは、印象にも残らない。尺は2時間越えで長ったらしいのに、なにやってんだ、って感じだね。
サスペンス性も、薄い。何度か危機的状況は訪れるけれど、バカバカしいタイミングで助かってしまうので、呆気にとられるほど。ちっともドラマチックじゃないのだ。
おそらく地下の生活は単調で、ドラマらしいドラマが実際もなかったんじゃないのかな。だから、無理矢理ドラマっぽい状況をつくりだし、盛り上げようとしているみたいな感じがする。そんなことしないで、退屈なほどのんびりして何もすることのない地下生活を、そのまま描いた方が心に迫ったんじゃないのかな、と思ったりしてしまう。
疑問といえば、ソハの存在も変。そもそもコソ泥だろ? それを英雄に仕立て上げてもなあ…。金のために始めたようだけど、見つかれば自分たちの命も危ない。そんな危険なことを、ポーランド人が好きこのんでするか? だいたい、ポーランド国内でもユダヤ人は嫌われてるんだろ? そんななかで、途中からは無償の行為になっていく。どうしてなんだ? とくにユダヤ人に恩があるわけでもなさそうだし。だらだら撮っているくせに、ソハの心に全然迫れていない。
というようなわけで、かなり退屈しながら見終わった。他にも疑問点はたくさんあって…
・ゲットーの住人が消えているのにドイツ軍は気づかないのか? ゲットーって、それほど厳格に住人調査はされていなかったのか? 後半で、行方不明になった娘を確認するため、男が収容所にもぐり込む場面があるんだけど、そんな簡単に出入りができるものだったのかね。
・ソハは助ける条件として、11人まで、と限定する。これはドラマだろう。なのに、あっさりしすぎ。誰が選ばれ、誰が選ばれなかったのか、ほとんど分からない。選ばれなかった連中の恨めしそうな顔を写すカットはあったけれど、彼らがどうなったかは描かない。わずかに遺体がみつかった、とかいう話がでてくる程度。個人的には、置いてきぼりを食らった連中の恨み、反逆を期待したんだけどな。
・地下道が迷路で、素人にはまったく分からない感がでていないよな。
・そんな中、ユダヤ人の死骸が見つかってるようなことも話されていた。なのになぜ一斉捜索しないのだ? 玉葱の料理の匂いなんて証拠もあるのに…。解せない。
・ソハのムショ仲間で現在はポーランド軍(?)の司令官って奴は、本当のところはどこの国の人なんだ? ポーランド人? ウクライナ人? あの制服は、どこの国のなんだろう。「ドイツ人はウクライナの救世主だ。ポーランドにとっても」なんて話していたけど、意味がよく分からなかった。いま調べたらヴィーンヌィツャ大虐殺というのがあったらしく、ソ連軍による虐殺だったみたい。これらを含む、共産国ソ連とドイツのどっちをとるか、レベルの話なのかな。それに、どうしてムショ暮らしが士官にまでなっちゃうんだ? よく分からん。
・ソハがユダヤ人1人を助けるため、若いドイツ兵を殺害する。金のためなのかユダヤ人のためなのか知らないけど、そこまでするか? だな。しかも、1人殺したせいで10人だったか30人だったかの無実のポーランド人が縛り首。なかに自分の同僚までいたっていうのに…。そこまでしてユダヤ人を助ける動機は、なんなんだ? 聖書の教え? 羊一匹のために、多くの羊を犠牲にしてもいいっていうのか? ソハの奥さんは人道主義的な感じだったけど、その影響? 元同僚も、なぜソハの行為をバラさなかったんだろう。「助けてくれれば、ユダヤ人情報を教える」とかいって。
・ラスト。ソ連軍に解放されたことが分かり、ユダヤ人たちは地上にでてくる。久しぶりの地上で目がうつろ…なんだけど、なんで? な感じがする。だってソハは時々子供に、マンホールの穴から人を見せていたし、赤ん坊が死んだときは誰でも自由に出入りできそうな出口近くの土手に埋めていた。地下といっても完全に遮断されているわけではない、という具合に描いていながら、ラストのあの描写は不自然だよね。
相変わらずの反ナチ映画で、この手の映画をつくっていれば評価されるだろうという、安っぽさがミエミエな感じ。それにしても描かれるドイツ兵は相も変わらず無慈悲で非人間的で同情心も優しさのかけらもない鬼のような性格に描かれている。いくら戦時下だったからといっても、そこまでみな右に倣えの人非人になっていたのかね。と、この手の映画を見るといつも思うのだよね。
菖蒲4/12キネカ大森1監督/アンジェイ・ワイダ脚本/Jaroslaw Iwaszkiewicz(short story "Tatarak")、Krystyna Janda/monologue "Zapiski ostatnie"、S?ndor M?rai/short story "Nagle wezwanie"、Andrzej Wajda/screenplay
原題は"Tatarak"。allcinemaの解説全文は「ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督が、同国を代表する作家ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィチの同名短編を基に生と死を巡る普遍的かつ深遠なテーマを描く文芸ドラマ。本作の主演女優クリスティナ・ヤンダの夫にしてワイダ監督の盟友でもあった名カメラマン、エドヴァルト・クウォシンスキの病死を受けて当初の構想が大きく変更され、ドラマ部分に加えてそのメイキングシーン、さらにはヤンダ自身が夫の死について語る私的な独白パートというメタ的な重層構造を採り入れた実験的構成で描かれていく。
ポーランドの小さな町に暮す医師とその妻マルタ。2人の息子をワルシャワ蜂起で亡くしたことが尾を引き、夫婦の間には埋めがたい溝が出来てしまう。そんな中、夫は自らの診断で妻が余命わずかであることを知るが、それを彼女には告知できずにいた。一方、マルタはある日、美しい青年ボグシと出会い、いつしか互いに惹かれ合っていくのだったが…」。
冒頭にモノローグがどうたら、話がどうたらという字幕が出るんだけど、始まってみれば、一室にいる中年女性がベッドから置きだして淡々と話をはじめる。アンジェイ・ワイダから出演依頼がきたけど亭主が病気でどうたらこうたら…。正直いって字幕を読むのが面倒くさい。話し言葉が理解できればまだしも、だらだら語りを理解するには、字幕は適していない。で、次にセリフの読み合わせみたいな場面になり、やっとドラマが始まる。うーむ。こういう展開なのか。めんど。
でそのドラマだけど、始まりが変。部屋に高齢の女性が通され、医師と看護婦が覗く。高齢の女性に、中年女性がお茶を差し出す。で、医師が中年女性のX線テレビを撮影する。どうも中年女性は病気らしいが、本人は気づいてない様子。で、中年女性が病院を出る。高齢女性が去ろうとすると、医師が「夏までもつかどうか」と耳打ちする。女性2人は河辺のオープンカフェに行き雑談。中年女性の目は、若い青年に釘付け。青年には、若い恋人がいる様子…。
てな流れなんだけど、なんと、この中年女性こそが主人公マルタで、しかも医師の妻だったとは…。じゃ、あの高齢女性はなんだったの? なんで彼女に病状を伝えたの? ひょっとして母親? なんかよくわからん展開。で、このマルタが件の青年ボグシに色目をつかい、文学の話をしようとするんだけど、体育会的なボグシはそんなの嫌い。で、若くて大学生の都会的な彼女がいるのにマルタの散歩や水浴びにつきあって、なんと彼の方からキスしてくる。さらに、教会儀式に使うらしい菖蒲を向こう岸から運んでくる最中に溺れ、マルタの腕の中で死んでいくという、それだけのドラマがあるんだけど、その間に女優=マルタの独白が2回ほど挟まり、さらに、溺れるシーンでいきなりメイキング画像になって、撮影現場から水着のまま疾走し、見ず知らずのクルマをヒッチハイクしてどこかへ行くシーンがインサートされる。なんなんだ。
実は「ソハの地下水道」の後にパンを食べたので瞼が重くなり、二度目の独白あたりで10分ぐらい寝たような気がする。ま、寝ても起きてても影響ないと思うんだけどね。
てなわけで、だからどうした!のなんだかよく分からない映画だった。Twitterには「アンジェイ・ワイダも惚けたか。それとも、まだまだ実験でもしようてのか。やめてくれ。寝ちゃうから…」と書いたんだけど、要約すればそんな感じ。女優の亭主が死にそうだ、死んだ、なんていう話のどこが映画になるんだ? という疑問も、allcinemaの解説を読めば、ふーん、という気もしないではないけれど、でもそれが映画の中で説明されているわけではない。そんなのは映画ではない。映画は映されたものがすべてだ。裏の事情なんて、読めないし、読む必要がない。というわけで、まあ、勝手にやってください、だな。
琥珀色のキラキラ4/16新宿武蔵野館3監督/中野量太脚本/中野量太
30分の短編。東映チャンネルのあらすじは「おかっぱ頭の涼子はちょっと内気な中学一年生。二年前に母を病気で亡くしてからはずっと父・省三との二人暮らし。そんな藍沢家に三か月前、突然、髪を頭の上でキュッと束ねた関西弁の道子さんがやって来た。家族のようで家族でない微妙な三人の琥珀色の物語。『若手映画作家育成プロジェクト』から生まれた作品」
検尿を忘れ、父の小水をもっていったら「再検査」。父はビビって小水の代わりに味醂を入れる。それを舐めて糖尿病と思い込んだ娘は、父親の彼女に告げに行く。病院に行ったら、たんなる腰痛だった…という単純な話。母の死、父子家族、父の恋人、父の病気…というような体験の中で、少女の揺れる心を描く話だけど、いまいち月並み。というか、例外的な家族設定によって少女の一般性を語ろう、という魂胆が安っぽい。
常識的に考えて変な行為が少なくない。回想シーンで母親の骨揚げがでてくるんだが、めいめい個人で骨を拾っている。監督が骨揚げを体験したことがないのか、周囲が教えなかったのか。さらに、骨がでかい。大腿骨がしっかりがっしり残ってる焼き方なんて、あまりないぞ。それに、半分以上の骨が骨壺に入らない、なんていうのも、あまり聞いたことがない。そして、父親の抱えた骨箱の小さいこと…。ありゃ、骨壺が小さすぎたんじゃないのか?
尿検査の再検で、最初と同じ検査をするというのは変だろ。タンパクがでていて糖尿病が疑われたら、フツーは病院で採血だろ。糖尿が疑われたわけじゃないとしても、同じように尿の検査だけ、というのはおかしい。いや、そもそも検便は一般的にあるけど、学校で尿検査だけをする、というのはあるのか?
再検査だというのに父親は自分の尿を入れず、味醂を入れる(これは笑える)。友人に糖尿病の恐ろしさを聞かされていた娘は、心配で父の尿を舐める…って、そんなことする娘は変態。しかも、その尿=味醂を捨て、自分の小水に変えるのだが、女が座り小便で試験管に尿を入れるのは不可能。それに、洗ってないから味醂と混じって、またまた再々検査だろ。
娘が、父親を案じて家庭の医学を書店で万引きする…って、あり得ないだろ。そんなもん図書館で見るだろ。ムリやり事件化してる感があって、イラつく。
母親の再検査のシーンも、ちょっと違和感。なんと病院に娘を連れていってるのだ。フツー子連れで行ったりしないよな。それに、「再検査っていつて、帰ってこなかった」と象徴的に言うのはムリがある。だって、検尿か採血の再検査で病気が発見されても、さらに精密検査もあるし、進行の早い腫瘍なんかを除けば1年以上闘病するのが常だ。なんか、いろんな面でつくりすぎてる感じがして、どーも共感できる内容ではなかった。
そうそう。再検査で単なる腰痛、と分かった3ヵ月後、父は彼女と別れてしまってる。これも経緯だけを告げるだけで、なんか弱い。なんで? って、フツー思うよなあ。
冒頭直後、友人が意地悪グループにジュース3本買ってこい、と200円渡されるシーンがある。3本は買えないというと、ねぎれ、といわれる。ある意味でイジメなこの話が、どこにも反映されないのは、もったいないだろ。だったら描くな、な場面だね。
チチを撮りに4/16新宿武蔵野館3監督/中野量太脚本/中野量太
74分と短い作品。allcinemaのあらすじは「フリーターの姉・葉月と女子高生の妹・呼春は母との3人暮らし。父親は14年前に女をつくって家を出て行ったきり。そんなある日、その父親が余命わずかとの連絡が入る。知らせを受けた母親は娘たちに会いに行くよう告げ、ついでにその顔をカメラで撮ってきてと頼む。父に対してあまり特別な想いを持たない葉月と呼春は乗り気しないながらも、どうにか父の暮らす田舎までやって来るが」
見終えて思うのは、話づくりの安易さだ。少女が主人公、片親で、万引が登場し、親の骨揚げシーンがあって、川沿いの風景がでてくるなど、設定が『琥珀色のキラキラ』と共通してる。もしかして同じ設定の連作でも狙ってるのか? それともこういう設定が好きなのか。ドラマより設定で話を展開しようと思ってるんじゃないのかな。それは安易だろ。
尺が74分と倍以上になってるので話のうねりはつくられてるけど、でも、基本構造はあまり変わらない。そういうなかでの枝葉の肉付け方は、『琥珀色のキラキラ』より進化はしている。でも、ツッコミどころは相変わらずなんだよね。
冒頭の電話のシーン。よく内容が理解できないままだったんだけど、たぶん時制を入れ替えていて、いずれこのシーンが登場してくるんだろう、と思ったんだけどあに図らんや、でてこなかった。察するに、あれは元亭主の弟からの電話で、危篤状態をつたえるものだったのかな? 「お姉さんなんて呼ばないで」というセリフだけ覚えてるんだけど、中途半端だよな。
で、呼春が川岸で弁当を食べるシーン。はいいんだけど、鯉みたいな魚にエサを与え、食べさせてるのには意味があるのか? ラストで、母・佐和が川に放り投げた元亭主(呼春の父)の骨を川の魚が食べる、でも、その魚はマグロ、という場面があるんだけど、そこにつなげるためのもの、としても、それだけ? と思ってしまう。さらに、川に突き出ている棒杭みたいなのに何かを投げていて、そこに釣り竿をもった青年2人が近づいてきて「とってやるよ」とリール竿でアプローチするんだけど、あれはいったい何なのだ? どういう意味があるのだ?
一転して、人気の少ない昼間の歓楽街。ケバイ女が、得意客と話している。またきてね、ああいいよ、で客が女に飴玉をなめさせるんだけど、ここも意味不明。彼女が葉月で20歳というのはあとから分かるんだけど、あれはファッションヘルス? ソープ? 飴をなめさせるのは、ふぐりを舐めさせる、のアナロジーかなにかなのか? でも、あれはバイトだ、といっていたけど、じゃあ葉月の本業はなんなのだ?
その葉月が化粧を落とし、呼春を拾って家に帰る。どーも母・佐和から「話があるから」と言われ、葉月は早引けしたらしいが、佐和が戻ってきたのは夜。この時間のズレに意味があるのか? 母は持ち帰り寿司を御馳走にしつつ、「あんたたちのお父さんがもうすぐ死ぬ。だから見舞に行け。自分は明日仕事で行けない。ついては写真を撮ってこい。それを見て、ざまあみろ、と笑いたい」という。そこで取り出すのが買ったばかりのデジカメの箱、というのは変だよな。わざわざそのために、デジカメを買うか? 携帯の写メで十分だろ。洗濯物のブラジャー(葉月のか小春のものか分からないけど)がボロボロなのに、どーしてデジカメを買う金がある?
で、翌日、佐和は2人を駅まで送る。おー。佐和は運転するのか。まあ、地方だと軽自動車は必須なのかな。で、見舞の果物セットを渡すと2人が驚くんだけど、いまごろ気づくか? クルマに乗るとき気づけよ。で、見舞として意外性はあるけど、いまどきあんな果物カゴなんてないだろ。金を包んだ方がましだろ。で、母親と別れ、2人はスーツに制服姿から、ラフなスタイルに変身。果物カゴもロッカーに入れようとして入らない。でも、あれ、角度を変えれば中に入るだろ。以降の葉月と呼春が電車で移動する過程は、ほとんど記憶にない。
で、移動の過程で在宅の佐和に元夫が昨日朝に他界した、という知らせが入り、それを葉月に伝えるのだけれど、丸1日たたないと佐和に連絡が行かないというのは変だろ。それに、冒頭の、義弟からの連絡は、数日前ということになるし。さらに、「明日は仕事がある」といいつつ、佐和が家でのんびりしているのはなぜなんだ? どういう仕事なのだ? という気持ちで、もやもやする。ラスト近くで分かることは分かるんだが、そこまで引っぱる必要が果たしてあったのかどうかだな。で、佐和は喪服に着替えて電車に乗るのだが…。
異母弟の不思議なキャラ設定は面白い。4年生なのに、妙に大人びて、冷めている。けれど、よく考えて見ると母に逃げられ父に死なれた10歳の少年が、どうして平然としてられるのだ? そこを描かないと面白さも半減する。また、実家では少年に葉月と呼春を迎えに行かせるのだけれど、たった1人遠い道を歩かせるか普通。誰かがクルマで迎えに行くのが筋だろ。
元亭主の弟の女房が、葉月と呼春に遺産相続を放棄してくれ、と頼み込む場面は興味深かった。でも、ステレオタイプに女房が金にうるさいみたいに描くのはいかがなものか。実際は遺産で争う家庭が少なくないわけで、いい機会だから話してしまおう、というのは間違いではない。実家にとっては、それこそ死活問題なのだから。悪人役を女房ひとりに押しつけるような描き方は、だから首肯できない。まあ、念書まで書かせるのはやり過ぎだと思うけどね。葉月と呼春はまだ子供だし、世間のことも分かっていない。それを丸め込むような行為は行きすぎ。とりあえず話だけはしておく、ということに止めておけばよかったのに。
佐和がいったんは喪服を着て出かけようとしたのに、結局、行かなかったのはなぜだろう? 電車の乗り換えがうまくいかなかったから? 葉月からの、権利放棄してやった! というメールのせい? よく分からない。
たまたま葬式に出ることになった葉月と呼春だけど、元亭主の弟はまあ許せるとして、母親や他の家族たちの態度はどんなものかねえ。申し訳ない感じがでてない。そういう連中だということを描きたかったのか? そうじゃないだろ。そうだとしても、実家の人たちvs葉月と呼春、という対立が感じられる場面が欲しかった。こう、実家の親戚たちが、腫れ物に触るような目つきで2人を恐る恐るみているとかね。
元亭主が公園で佐和に別れ話をいう回想場面に違和感。女つくって女房子供を捨てる男が、あんな実直そうで、妻に「すまん」なんて頭下げるかね。さっさと荷物丸めて女の尻を追って行っちゃってるんじゃないのか? フツー。ありきたりだけど、父親の机の上に佐和、葉月、呼春に囲まれ笑顔の父親…の写真が飾ってあるとか。佐和宛に書きかけて出さなかった手紙だとか。そういう反省と未練を感じさせるものでも出した方がよかったんじゃないのかね。
遺体の撮影については、ちょっとハラハラした。露骨に撮って、実家の誰かに「不謹慎な」とか責められるのかな、と思ったから。でも、そういうことはなかったみたい。焼かれる前の棺の回り(だったか、焼かれた後だったか)に集まる家族に向かってカメラを向け「チーズ」といってしまうあっけらかんさに、リアリティを見た。案外そんなものなのかもね。
焼き場には行かないと帰ろうとした2人。ここで、葉月はが呼春の態度が気にくわないのか何度も蹴り上げるんだけど、あの暴力性はなんなんだ。でも、呼春に「私たちはお金なんか欲しくない。そんなものに頼らないで生きていく。そう言えばよかったのに、なぜ言わなかった」みたいなみことを言われ、葉月も反省するんだけど、なんか取って付けたみたいな感じ。
骨揚げのシーンでは、2人箸で骨を拾い上げていた。『琥珀色のキラキラ』での誤りを指摘され、学んだのかね。
ラスト。帰ってきた2人が宝くじボックスで働く母親に合図を送り、仕事の終わった母親が、いつもの河辺にやってくる。葉月が、万引き(?)してきた父親の骨を佐和に渡す。佐和は、ここに投げたらいつでも墓参りできる、と川に投げる。と、その骨をマグロがジャンプして食べてしまう! というバカなシーン。まあ、これぐらい大げさなのはいいとして。父親のマグロ好きが呼春に遺伝し、父親の骨をマグロが食べる、という話にどういう因果関係を考えているんだろう。ううむ。きっと深く考えてなくて、思いつきだろうな。
佐和を中心に並んで座る葉月と呼春が、母親の胸をさわる。佐和が「チチさわるな」という。そういえば冒頭近くで、自転車の荷台にのった呼春が、運転する葉月の胸をさわり、「チチさわるな」といわれていた。乳を触る子供たちなのか? それだけじゃない。タイトルにもなっているけど、この「チチ」は「父」と「乳」を指しているのだろう。でも、どういう意味をかけているのか、そこが曖昧模糊としている。何を言おうとしているのだろうね。これも、思いつきかな。●後記/『チチを撮りに』の「チチ」は「父」と「乳」を意味してる。娘たちは「父」の代わりに「乳」で代償し、父の記憶のない妹は姉の「乳」でも代償してる。父の死に顔を撮ってきたけど、やっぱり自分たちの「父」的存在は母親だ…でいいのかね。やっぱりよく分からん。
ライジング・ドラゴン4/16新宿ミラノ1監督/ジャッキー・チェン脚本/ジャッキー・チェン、スタンリー・トン、エドワード・タン、フランキー・チェン
原題は「十二生肖」、英文タイトルは"Chinese Zodiac"。allcinemaのあらすじは「19世紀の清王朝時代。列強の進出により、十二支をモチーフにした国宝のブロンズ像“十二生肖”が略奪され、散逸してしまう。そして現代、世界中に散らばった12体のブロンズ像は、それぞれが高額で取引されていた。アンティーク・ディーラーのマックス・プロフィット社は12体すべてを手に入れるべく、その収集を“アジアの鷹”と呼ばれるトレジャー・ハンターのJCに依頼する。高額の報酬に惹かれて依頼を受けたJCは、さっそく精鋭メンバーによる特殊チームを結成すると、秘宝を追って世界各地へと繰り出していくのだったが」…このあらすじを読んで、JCがトレジャー・ハンターだと初めて知ったよ。それとJCは、ジャッキー・チェンの頭文字なのね。
昼食後で、しかもわずかの仮眠もとれず。話もごちゃごちゃしてて展開が早い。字幕を読むのもあたふた。てなわけで、20分もしたら眠ってしまい、気がついたら島を発見するところだった。こちらが設定が読み込めてない上、説明を極端に省きつつの話運びなので、アバウトには付いていったけど、詳細はほとんど理解できず。なのでもう1回見直したんだけど、今度は後半で眠くなり、スカイダイブの前後でまたまた少し寝てしまった。きっとこの映画、合わないんだと思う。
まず、12体のブロンズ像の経緯がよく分からない。奪われたのは分かっても、その後のオークションは何なのだ? 所有者は? 買った人は? で、2度目に分かったんだけど、年ごとにオークションで高値が付いてる、ということなのね。1回目は早すぎて分からなかったよ。で、JCがどっかの基地に潜入して逃げるエピソードなんだけど、あれは何を狙ってて、何を奪ったの? ずっと見てて、あの一団は美術品窃盗団にしか見えなかったんだけど、トレジャー・ハンターは泥棒、でいいんだよな。違うのか? 逃亡を手伝うのが、足の長い女性メンバーのボニー。でも、彼女のしたのは鍵箱を外してクルマの下に入れたことだけ。なんか意味があるのかな、と思っていたけど、鍵を隠した、ということだけみたいね。で、あの鍵はいったい何の鍵だったんだ? よく分からん。…てな調子で最後まで、些細なことを大げさに描写していくアクションコメディで、スリルもサスペンスもない。バカ映画に近いかも。もちろんJCが建物の上からするすると地上まで降りたり、ソファを使っての格闘をしたり、見せ場はあるんだけど、本筋には関係ない。あっと驚くようなアクロバットはもうないし、見ていて飽きてしまうと言うのが本音だった。
そういうことより、背景の方が興味深かった。この映画では主に阿片戦争時に英仏軍が円明園から奪った十二生肖を扱っているけど、それ以外の、植民地時代に西欧列強が略奪した美術工芸品の返還運動を描いているのだ。中国やフランスではNPO法人もできていて、オークションへの出品反対運動なども行なわれている。奪われた側の国々の運動やニュースも、ちゃんとでてくる。いっぽうで、オークションで値のつり上げを企む一味も登場し、そのグループからJCたちは美術品の確保あるいは強奪を依頼されている、みたいね。具体的には、市場に出ていないいくつかの十二生肖を見つけ出し、奪うことみたい。
ナショナル・ジオグラフィックスの記者を装ってNPOから教授に接近して、十二生肖の存在を確認。その立体情報をWeb経由で送信し、立体コピーするというのはとってもタイムリーだな。で、本物とコピーを入れ替えてしまったりするんだけど、そういえばああやって泥棒した十二生肖は、売られっぱなしになったんだっけ? はたまたJCらが一味に持ち込んで手に入れた稼ぎは、どうしたんだっけ? そのままか?
で、JCたちは仕事は仕事と割り切って、NPOでも活動するココに接近したりする。他にも、過去に強奪に加担したフランス軍人の子孫キャサリンなんかもでてくるんだけど、それぞれちゃんと説明されてないから、話の中の位置づけや因果関係がよく分からなかった。こうやってWebの情報を見て、へーそうだったのか、っていってるんだから困ったものだ。細かいことはいいじゃないか、と言われそうだけど、キチンと整理されてないと、演技のひとつひとつも説得力がなくなるよね。
で、どういうわけかJCたちはココやキャサリンも引き連れて南洋の孤島へクルーザーででかけ、難破した舟を発見。これはキャサリンの先祖が乗っていたらしいが、先祖はここで死んでいるのに、難破した場所である島の絵がキャサリンの家に残されているのはどうしたことだ?
島では舟を簡単に発見。そこに、西洋美術ヤクザっぽい連中が追いかけてきて(彼らはどういう存在なんだっけ?)と思ったら、島を拠点とする海賊一味も登場。海賊はグローバルな構成で、日本語を話すジャック・スパロウみたいなのや、流暢な北京語を話す黒人がいたりするのは、まあいい。JCたちが一瞬で十二生肖のひとつと、延べ金の入った枯木を発見できたのに、それに気づかない海賊って何だ? というようなツッコミはきっとお断りなんだろうな。てなわけで、島の出来事はまるっきりバカ話。
JCに仕事を依頼する一味は地下に贋作工場も所有していて、結構あくどい。社長の息子は、オークションで世界に4枚しかない切手を落札すると、3枚をその場で破り捨て、「これで世界で1枚の切手になった」と笑顔を見せる。すごいことをするな。でも、そういうことって、ありそうなことだなと思った。石碑の文字を削って拓本の価値を上げようとするのと同じだものなあ。で、その地下工場に乗り込んだのは、ココの弟を含むNPO法人の学生が拉致されているのを救出するため、なんだけど、いつから心を入れかえたのだ、JCたちは。で、大騒ぎがあり、弟たちは無事救出はいいけど、ここでもJCは西洋美術ヤクザっぽい連中のところから奪ってきた「薔薇」の絵を一味に渡して手打ち。
で、十二生肖の最後のひとつ、竜の首をオークションにだした一味だけど、それが売れなかったので火山口に投げ捨てる、を実行することになる。それを阻止しようと、JCがスカイダイブ。パラシュートなしで地上に落ちて死なないという、あり得ない設定で奪い返すんだけど、やれやれ、忙しい話だ。
最後に、キャサリンは所有の、国宝級の掛け軸をココに返す。最初にココがキャサリン邸で見つけたとき、「もってかえる」と息巻いた物件だ。こうして西欧帝国主義が中国に謝罪して友好へ…という視点が描かれているのはいいんだけど、でもキャサリンの家や美術品は銀行の抵当に入っていて、勝手に処分できないんじゃなかったっけ? それと、同時に、「韓国に対しても美術品だか書物だかが返還された」という話をしていたんだけど、セリフでは"japan"と言っているのに、字幕に「日本から韓国に」とは書かれていなかった。あれは、文字数の制限からなのか、それとも、日本国民への配慮なんだろうか?
JCの仲間には韓国人俳優のクォン・サンウがいるんだけど、最近はよく中国映画でも見かけるね。で、その妻が手足の長いボニーで、ジャン・ランシンというモデル出身の役者らしい。しかし、スタイルよすぎで、目が釘付け。凄い。顔はエキゾチックだけど…。
てなわけで、辻褄がどこでどう合っているのかよく分からない映画。ジャッキー・チェン最後のアクション大作というわりに、ずさんなところがありすぎで、いまいち手放しで誉められなかったよ。
そうそう。JCの仲間の一人で、妻が出産というメンバーがいて。その妻が最後に一瞬でてきたら、スー・チーだった。JCは恐妻家で、その妻も最後にでてくるんだけど、フツーな顔のオバサンだった。あれは、だれ?
フライト4/18109シネマズ木場シアター7監督/ロバート・ゼメキス脚本/ジョン・ゲイティンズ
原題も"Flight"。allcinemaのあらすじは"フロリダ州オーランド発アトランタ行きの旅客機が突如制御不能に陥り、急降下を始める。もはや墜落は避けられないと思われた危機的な状況の中、機長のウィトカーは驚異的な操縦テクニックで機体を不時着させ、犠牲者を最小限にとどめて多くの命を救うことに成功する。その奇跡の着陸はマスコミに賞賛され、ウィトカーは一夜にしてヒーローとなる。ところが、彼の血中からアルコールが検出されたことで事態は思わぬ方向へ。もし飲酒が表沙汰になれば、パイロットとして致命的なだけでなく、場合によっては過失致死で終身刑の可能性も。そこでウィトカーは、弁護士のラングとともに事実の隠蔽に動き出すが"。
予断なく見た。ひょっとして、ハドソン川の奇跡みたいな話かな、と。ところが、いきなり白人スチュワーデスと朝を迎えてるパイロット。出がけにコカインを吸っていく! おやおや。で、悪天候の中飛び立つが…までの展開は一気呵成。なんと、クライマックスが最初に来てしまった。じゃ、このあとはもっと凄い事件が? と思ったら、以下は↑のあらすじの通り。新しくできた白人のい恋人との関係も合わせて、もの凄く長い中だるみ、って感じ。しかも尺が138分もあるときてはたまらない。寝はしなかったけど、退屈した。
ハドソン川の奇跡に啓発されてるんだろう。ものすごいテクニックで不時着し、多くの乗員の命を救った美談。けど人の命を預かるのが黒人パイロットで色事の相手が白人スチュワーデス、新恋人ニコールもヤク中とはいえ白人系。実家は広大な土地を所有する元農家で、父の時代は農薬散布かなにかをやっていた。で、そのパイロットがアル中コカイン中毒で、乗客を危険な状態にさらしつづけていたとしたら…。このパイロットを許すか? 断罪するか。分かりやすい対比だ。黒人差別的な表現はないけど、でも、やっぱその視線はあるだろうな。
ウィトカーには「志」なんてない。親が残してくれた農場でも、昔は高潔だったけどいまはどうだ…みたいな懺悔はない。単なる酔っぱらい。乗客を救った背面飛行だって、理性からの発想でなく、コカインのせいで思いついたアクロバットかも知れない。って、そしたら薬物もときには役に立つ、ってことになっちゃうよな。
で、中盤からはたんなるアル中患者の描写になってきて、「やめる」といいつつ飲んでしまい、謝罪し、弁解し、でもまた繰り返し、嘘をかさねるという話ばかり。ううう。わかったよ。何か別のドラマでも起きないのかよ。あるいは、周囲の人たちをもっと掘り下げるとかさあ。
この映画、ウィトカーとニコールだけはベタベタに描くけど、それ以外がほとんど薄っぺら。せいぜい黒人スチュワーデスのマーガレットと薬物屋のメイズが目立っている程度。とくに、メイズが登場するとコメディっぽくなるのがおかしい。弁護士(ドン・チードル)とパイロット組合の理事でウィトカーの友人のアンダーソンは有名どころだけど、あとは存在感がない。とくに、事故で亡くなるスチュワーデス2人のうち、ウィトカーの相手は素っ裸も含めてそこそこ画面にはでてくるんだけど、リアリティがない。もう1人は東洋系らしいが、ほとんど扱われない。他にも元妻や息子もわざとらしい演技しか見せてくれない。このあたりを掘り下げるとよかったんじゃないのかね。
で、弁護士の手腕で血中アルコール濃度などはもみ消され、事故調査委員会での発言だけ、ということになって。ホテルに缶詰になったんだけど、たまたまつづき部屋の隣室に入れて、冷蔵庫にミニボトルを発見。で、飲んでしまう…のはアル中の性なのか。で、アンダーソンと弁護士は、ぐでんぐでんのウィトカーを回復させるのはコカインだ! ってなわけでメイズを呼んで一発キメさせる。で、聴聞会に出席…というのは、まるきりコメディよ。
聴聞会では、発見された空のウォッカボトルが問題になる。で、スチュワーデスのひとり=ウィトカーの情事の相手がアル中で、2回ほどカウンセリングを受けていたというようなことが分かり、形勢はウィトカーに都合よくすすむ。だけど、「ウォッカを飲んだのは彼女ですね?」という質問に、ウィトカーは耐えられず「自分が飲んだ」と答え、刑務所に入ることになる、という話。
ま、死者に責任を押しつけるようなことはできなかったんだろう。そして立ち直る道を選択する、というのが、正しい道である、と、アル中キャンペーンのPR映画みたいな終わり方で、ちょっとつまらない。ずっと父親を嫌っていた息子も、突然、父親を尊敬しだしちゃうのは、とってつけたかのような話だ。うさんくさい。てなわけで、世の中的に正しい結論になってしまっていたよ。ううむ。
・ニコールは後半早々とウィトカーに見切りを付けて出て行ってしまうんだけど、そのニコールが通ってる断酒会にウィトカーも出席するのは、まずいんじゃないの? 顔が割れてるんだから、ばれちゃうだろ。
・マーガレットはウィトカーのアル中を知っていたらしい。同乗のパイロットで、初対面らしい副操縦士は「ウォッカ臭かった」と言っているぐらいだから、他の乗組員も知っていたはず。なのに、告発していない。そういう体制もよくないんじゃないのかね。
・主人公のデンゼル・ワシントン。なんか最近は、口をもごもごすることが多くて、生理的に気持ち悪い。キリッとした感じがなくなってきてるような気がするんだがね。昔からそうだっけ?
こわれゆく女4/22キネカ大森2監督/ジョン・カサヴェテス脚本/ジョン・カサヴェテス
原題は"A Woman Under the Influence"。under the influenceは「影響下にある」「酔って、酩酊して」の意味。allcinemaのあらすじは「神経症気味の妻を持て余しながらも、深い愛情から一人で家庭を切り盛りする、労働者階級の中年男。彼は市のベテラン水道工事員として、職場でも慕われている。突然の水道のトラブルでしょっちゅう家を空ける夫に、妻の気持ちは次第に昂ぶり、ついに狂気の世界へ足を踏み入れる。彼女もまた、抑えきれない強い愛情から、夫を苦しめてしまうのだった」というもの。
先入観なしで見た。仕事を終えた亭主(ピーター・フォーク)が、仲間とビールを飲んでいる。そこに上司から、水道管が破裂したから行ってくれ、と電話。亭主は「今夜は女房と2人で…」と断るが、結局、深夜作業。いっぽう女房(ジーナ・ローランズ)は子供3人を母親に預け、夜を待つ。遅くにピーターから「帰れない」との連絡で動揺…。夜の街に迷い込み、男を家に誘って…。朝、その男を憎しみの目で見て、追い出す。その男は、ジーナを一人暮らしだと思っていた…って、家族で暮らしてるのに、アホかと思う。
しばらくして、ピーターが仲間を10人ぐらい連れて朝帰り。この家の名物らしいスパゲティでもてなすが、ジーナの挙動は、幼児っぽい。発達障害とか知恵遅れ? としばらく思っていた。知り合いの家の子供を預かる、ということになったらしい。知り合いの、でも、初対面らしい旦那が子供を連れてくるんだけど、帰ろうとする旦那を引き留め、押しつけがましい親切をあれやこれや。そのうち、家の子と知り合いの子が遊び始めるんだけど、人の家の服を勝手に引っ張り出したり、裸になったり、大騒ぎ。こうした様子に旦那は「こんな家に子供を預けられない」と自分の子供を引き取って帰ろうとしているところにピーターが戻ってきて、娘の裸姿を目撃。旦那に向かって「お前は誰だ。でてけ」と殴りつける! あたりからジーナが変調し始める。自分の子供のことを忘れたり、ピーターの母親を敵視したり、バレエを踊り始めたり…。カメラは手持ちで長回しするピントはずれる接近しすぎなクロースアップになるザラつく・・・。精神の変調をこうした手法で表現しようというのか。で、つき合いの長い医師を呼ぶが、医師が鎮静剤を打とうとすると、ピーターが怒鳴る。自分で呼んでおいてアホかと思う。
この映画、ジーナが分裂病で壊れるのを描くのが主体だけど、ピーターのキレ具合も冒頭からかなりのもの。ちょっとでも気に触ることを言われると激高し、暴力をふるう。子供とのふれ合いが足りないから海に連れていく、と学校を早退させる…。他人のいうことに聞く耳をもたず、自分勝手。他人の都合なんて構わない。もちろん反省の色はない。なので、ジーナは変だけど、ピーターもかなりな性格異常。こんな一家と、だれもつき合いたくないんじゃないのかね。
というわけで半年ほど入院し、退院という当日。ピーターは友人知人親戚一同に声をかけ、びっくりパーティを企画するって、どこまでアホなんだ。セリフにもあったけど、「迎えに行けよ」だ。で、親戚だけを残して簡単な食事会にしようとしたその直後、ジーナは早々に壊れてしまう…。
とまあ、分裂病患者はこうやっておかしくなっていきます。それに、そう簡単に治りませんぜ、というメッセージを延々とつづける。こんな映画のどこに意味があるのだろう。よくある映画のようにキチガイを美化せずリアルに迫ろうという姿勢は、悪いとは思わない。けど、まったく救いを見いだせないまま放り投げるのは、いかがなものか。ジーナ・ローランズの、壊れゆく過程の演技が迫真の演技だとしても、それにどんな価値があるのか分からない。むしろ、壊れゆく過程をリアル以上に創作しているような気もして、納得がいかない気もしないでもない。allcinemaは「現代人の閉ざされた人間関係の中での、純粋な愛情の探求を常に試みてきたカサヴェテスが、市井のありふれた家庭の中にその主題を求めた力作」と解説してるけど、べつに閉ざされた人間関係もないし、ありふれた家庭でもないだろ。異様な人々、といつた方が適切だ。
いったい、子供たちはどんな具合に成長するのだろうか。ピーターは、ジーナ以外の女性を求めようしだすのではないか。ジーナは入退院の繰り返しで、しだいに肉体も蝕まれていくのではないか。投薬のしすぎで朦朧となり、いつまでも病院からでられなくなったりして…。
退院したジーナを迎える家族のシーンで初めて登場する人が多すぎる。ジーナの父親はいい。他にいた女性2人、アドルフさんはどういう間柄なのだ? 説明してくれなくちゃ分からんよな。
ラヴ・ストリームス4/22キネカ大森2監督/ジョン・カサヴェテス脚本/テッド・アレン、ジョン・カサヴェテス
原題も"Love Streams"。allcinemaのあらすじは「ロバートは離婚歴のある、現代人の孤独や愛を描く人気作家。次回作を書くためハリウッド郊外の家に秘書や若い女友達らと奇妙な共同生活を送っていた。姉のサラ(ローランズ)は15年連れ添った夫ジャックと離婚に踏み切り、一人娘の養育権をめぐって協議を重ねていたが、娘は母との同居を拒み、彼女は発作を起こしてしまう。精神科医に勧められ出かけたヨーロッパでも憂さは晴れず、姉は久々に弟を訪ねる。その頃ロバートは、先妻との子アルビーを預かるが、実の息子にどう接するべきか皆目分からないでいた。留守を姉に頼んで、息子とラスベガスに向かったロバートだが、彼を置いて街に繰り出してしまい、翌朝になってホテルに帰ると、息子は母に会いたいと泣き叫んだ。早速、先妻の所へ出向いた二人だが、彼女の現在の夫にロバートは手ひどく殴られ、落胆し家に帰る。一方、サラは初めて自ら異性を求め出かけたボーリング場でケンという若者と出会い、明るさを取り戻すが、娘からの電話でまたも傷つく。彼女は電話口に夫を呼び出し尋ねた。愛は流れ続けるものか、と。そこへ割り込んだロバートは義兄をなじる。翌朝、目覚めた彼の見たものは大量の猛獣や珍獣。潰れた動物園から姉が買い取った動物たちだ。明らかに姉の様子はおかしい。が、その夜、大雨の中、ケンと共に家を出ていく彼女を彼は引き止めることが出来ないのだった」と、めずらしく長いね。
一般に映画というのは散逸されたエピソードを時間軸に沿って収斂させ、クライマックスに向かっていく。そして、落としどころに落ち着く。ところがこの映画は時間軸に沿ってエピソードは撒き散らかされたままで、なにも収拾することはない。放り出しっぱなし。だから、前半に登場したあれはどうなったの? と思っても、そんなことには応えてくれない。もう過ぎ去ったものとして対処しなくてはならない。ラストもしかり。ごく普通の映画のように見ていると、イライラは昂じるし、腹が立ってきてしまう。それに、集中力が伴わない。というわけで、息子を預かってしばらくしたところで瞼が閉じ、気がついたら父親と息子はラスベガスにいた。10分ぐらい寝たのかな。でも、もういちど確認したいとはまったく思わなかった。この間、何があったって構わない。気にもならない。そんな映画だった。
時制も、なんか曖昧。冒頭、男女がやってくる。あとから、ここはロバート(カサヴェテス)の家だと分かるんだけど、ここでは何やら分からん。で、家の中には、若い女性がうじゃうじゃ。ロバートは若い娘に詩の話をしたりしているんだけど、なんのことやらさっぱり分からず。
いっぽうで、サラ(ジーナ・ローランズ)は亭主と別れ話。だけど、調停の場で転居の話をしだし、じゃあサラと一緒に暮らすことになった娘の、父親との毎週末の面会はどうなるんだ? てな検事や弁護士の言葉に、うろたえもせず「会わせない」と。「もう決まったことなのよ」といわれても節を曲げない。異様。で、この時点でサラの正体は分からない。
ロバートはバーで歌ってる黒人歌手に、作家家業の話をあれこれして気を惹き、帰るという歌手に酔った勢いでしつこくからんで、彼女の家まで行ってしまう。最後は階段から転げ落ちて頭から血だるま! しかし、嫌と言いつつ家まで連れていき、母親に看病させ、泊まらせてしまう歌手も変と言えば変。で、ここで気づいたんだけど、冒頭の家でのシーンで、ロバートの鼻と額に傷があったのは、これでついた傷だったのだ! ということは、ここは回想シーンなのか? なんか、時制がよく分からなくなっていく。
で、この黒人歌手、のちにロバートを訪ねてきて、「つき合いたい」なんて言うのには、「?」。どういう魂胆なんだろ。というところに女から電話で、養育費が足りないとか言われている。母子がやってきて、小切手をもらいつつ「この子をちょっと預かって」なんていわれ「ああ、いいよ」なんて預かってしまう。どーも彼女は2番目(?)の妻で、少年(10歳ぐらい?)は実子らしい。ううむ。この辺りで寝てしまう…。どーもロバートはホテルに息子を残し、女を連れて遊びに行っていたらしい。こっから、「帰る」という息子と押し問答で、結局、息子を家まで送っていくんだけど、途中で息子がケガして頭から血だるま。そんな息子を連れていったので、元妻の同居男にしたたか殴られるという。踏んだり蹴ったりの小説家だ。
そうそう。ロバートは愛よりセックスについて書くことの多いベストセラー作家らしいが。映画の中に、執筆シーンはでてこない。どこが流行作家なのだ。編集者からの電話も、あったか?
で、娘に「パパと暮らしたい」といわれたサラは、精神科医から旅行を勧められ…はいいんだけど、いきなり帰国した空港のシーンで、トラック1台分ぐらいある荷物に四苦八苦してるって、おいおい。なんじゃらほい。そのままロバートの家までやってきて抱擁。なので、ロバートが昔つきあった女性なのかと思っていたよ。元夫とは電話で話したりしてるんだけど、夫は「子供を育てるのは大変だ。やっぱ、母親が育てるべきだよ」なんて愚痴ったりするんだけど、そうはならなかった。
ロバートの家で暮らすサラ。ふと思い立って、動物を買いに行く。「犬か猫」と言っていたのに、タクシーに乗せて帰ってきたのは、子馬2頭、ヤギ一匹、ニワトリ数羽、犬も買ったんだけど忘れたのか、あとから運ばれてきた。ブレーメンの音楽隊か!? この辺りかな、サラとロバートが姉弟だったって分かったのは。
サラは、この映画でも分裂症患者。「こわれゆく女」と同じようなというか、後日談みたいな感じがした。別人ではあるけどね。で、元夫と娘をひき殺した夢かなにかを見たり、元夫と娘を道具を使って笑わせようとする夢(実際にあった記憶?)を見たり、少女の頃バレエを踊っていたりしていた夢を見る。だけではなく、現実に踊ったりもする。心配したロバートが医者を呼ぶんだけど、なんと「こわれゆく女」の亭主と同じように、医者に治療させない変な弟である。
サラがボーリング場にひとりで行ったのは、この前だったか後だったか。忘れた。ボーリング場で知り合った年下の男とデキてしまったらしい。ロバートは思い立って、黒人歌手の母親のところを訪ね、ダンスをしていると、娘つまり歌手彼氏を連れて戻ってくる。ロバートに振られた格好だけど、あれだけしつこく迫ったのに、どうして年老いた母親の方を選ぶのか意味不明。
大雨で、庭に放し飼いの動物たちを家の中に避難させていると、ボーリング場の男が、サラを迎えにやってくる。大量の荷物と一緒に、でも、いくつかのトランクはクルマに載らないので打ち捨て、2人はどこかに行ってしまう。ロバートだけが残される。というところでオシマイ。という、なんだか訳の分からない映画。めくるめくうねりもないし、とりとめがない。こんなんで、どーして評価が高いのかさっぱり分からず。
・旦那の口ヒゲが凄い。あんなじゃ、何食ってもヒゲにくっつくだろ。どっか(動物屋だったかな)に登場した老人の眉毛がタワシみたい凄かった。なんであんなもじゃもじゃに設定しているんだろ。
・ロバートが黒人ママと踊っているところに、黒人歌手が戻ってくる。その彼女が寝室に入ると、子供がいた…。おやおや。母親だったのか。という意味は、なにかあるのか?
・いちばん呆気にとられたのは、動物を載せてきたタクシーを写したところ。車の窓を通して、その向こうにいるスタッフが見切れてるのだ。おい。こんなカット、使っちゃダメだろ。いや、意図的に使っているのだろうけど、何を意図しているのだ? さっぱり分からず。
というわけで、散漫の極みというべきか。愛だとか何だとかは関係ない。姉も弟も、たんなるビョーキ。精神障害者だ。とくにキチガイ女を描きたいという執着心は異様だね。それにしても、だからなに? な映画であった。
愛してる、愛してない4/23新宿武蔵野館2監督/イ・ユンギ脚本/イ・ユンギ
英文タイトルは"Come Rain, Come Shine"。井上荒野の短編『帰れない猫』が原作。allcinemaのあらすじは「空港へ向かう車の中でたわいない会話を重ねる2人は、結婚して5年になる夫婦。ところが、妻が突然別れを切り出す。彼女は他に好きな人ができて、家を出て行くことを決意したのだ。やがて別れの日を迎えた2人。外は朝から土砂降りの雨。そんな中、夫は妻の荷造りを手伝い、2人の思い出のレストランも予約し、彼女のために美味しいコーヒーを淹れてあげる。最後まで優しい夫に、なぜ私を責めないのと苛立つ妻だったが」
冒頭の車中での会話がタルい。女はこれから東京・大阪3泊3日(?)観光旅行らしい。という中での別れ話。なのだけれど、あまりに素っ気なく、男も動揺していないことに違和感。まあ、冒頭だから…。で、舞台は日本になるのか? と思ったら、一気に別れの日になっていた。あらら。で、ずっと2人は同棲関係かと思ってた。だって夫婦とは言ってないし。女が実家の母と電話で話すんだけど、でていく娘に怒ってるわけでもなさそう。婚前の同棲を認める開けた母親なんだな、なんて思っていた。けど、中盤で夫婦と分かり、違和感が増した。だって女の浮気で別れることになり、でも男は憤りも詰問も暴力的行為もなし。腑抜けか。
で、以下、今日家をでていこうという妻に、あれこれ手伝いの手を差し伸べたりコーヒーを淹れてやったりする男がいて、淡々と荷物をまとめるようで何もしない女が描かれる。それだけの105分は、あまりにも長い。30分でいいだろ、こんな話。
なので、終盤の、男がスパゲティを作り始めたあたりで寝てしまい、気づいたら呆然と立ちつくす女が「何もかもうまくいかなくなったのよね」みたいなことをつぶやくところだった。それで映画はオシマイ。ヨリは戻ったりしたのか? ちょっと気になった。で、調べたら同じようにラストで寝た人がYahoo!知恵袋に問い合わせていた。それによれば、女がパスタを盛りつけ、男にサラダをつくるように言った。男が玉葱で涙目になり、洗面所で顔を洗う。女のところに仔猫がでてくる。で、終わり、らしい。やっぱ、最後まで何もなかったのね。だからどーした! だな。
男=夫は建築家だけど近頃は工芸品をつくってるみたい。女=妻は編集者。ソウル郊外の高級マンション? テラスハウス? 二階立てて、広そう、に住んでる。そんな稼ぎがあるのか? 仔猫が迷い込んできて。その猫を探しに近所の部屋の歯科医夫婦がやってくる。で、中に入れるんだけど、亭主の方は「どうぞ」と促される前にソファに座り、勝手にテレビのスイッチをつける。その上「ここは間取りが云々、見晴らしは家の方がいい」とかいうのだが、失礼な奴だな。韓国はそれがフツーなのか?
描かれるのは雨の日なんだけど、ときどき陽射しのある屋内風景がインサートされる。でも、人気はない。いったいあれは、何を意味しようとしているのだろう? よく分からん。まあ、分かっても、大勢に影響はないと思うけどね。
声をかくす人4/25ギンレイホール監督/ロバート・レッドフォード脚本/ジェームズ・ソロモン
原題は"The Conspirator"。「共謀者」だ。邦題とえらい違いだな。allcinemaのあらすじは「南北戦争の終結間もない1865年。リンカーン大統領が南軍の残党によって暗殺される。主犯のジョン・ウィルクス・ブースは逃亡中に射殺され、さらに7人の男と1人の女が共犯として逮捕される。女の名前はメアリー・サラット。下宿屋を営みながら2人の子どもを育てる未亡人だった。元北軍大尉のフレデリック・エイキンは、元司法長官のジョンソン上院議員から彼女の弁護を頼まれる。犯人への憎しみを抱きながらも、渋々弁護を引き受けたフレデリックだったが、被告が民間人にもかかわらず、一般の法廷ではなく軍法会議にかけられることに違和感を覚える。そんな中、毅然と無罪を主張しながらも、それ以外のことは黙して語らないメアリーに戸惑うフレデリック。しかし、審理が進むにつれ彼女の無実を確信、弁護に力が入る。するとフレデリックへの風当たりも強くなり、いつしか四面楚歌の状況に追い込まれるが」
見てから6日もたってしまった。冒頭から、暗殺者があちこちで侵入しようとしていたり、劇場のバーに行ったり、あれやこれや場面を素速く切り替えて描かれる。がしかし、見ているこちらには、何のことやらほとんど分からない。しかも、リンカーン暗殺以外に、なにやらベッドの病人までもが狙われ、刺されまくっている。で、リンカーンがいずこかに運ばれ、そのご暗殺者はどこかの小屋に逃げ、撃たれて倒れる。どのように撃たれた、よく分からない。とにかく、慌ただしく暗殺劇が描かれ、その後は逮捕された暗殺者たち。そのなかに、メアリーもいた。のだけれど、暗殺者の数が何人で、首謀者が誰で…ということは、説明されたのか知らんが早すぎてよく分からない。さらに、メアリーの容疑が何なのか、それもぼんやりしてる。要は、メアリーは下宿屋をしていて、そこに暗殺者たちが出入りしていた。だから支援していただろう、というものなんだけど、具体性はない。中盤から後半になって、容疑者を縛り首にしないとケジメが付かない、みたいなことを検察だったか長官だったかがいってたけど、そういう背景を最初にびしっと言ってもらわないと、メアリー逮捕劇と以後の展開にいまいち緊張感がない。
そのメアリーの弁護をすることになったのが、元北軍大尉のフレデリック。本意ではないけど、先輩の弁護士(?)にいわれて引き受けるんだけどね根が真面目。遵法精神に則って弁護しようとする。が、軍法会議であるし、検事は証拠や証言をでっち上げ、ハナからメアリーを有罪にする筋書き通りの裁判となる。
で、よく分からないのが、メアリーの息子のジョンの存在。どうやら暗殺者一味と通じていたらしいんだけど、カナダに逃亡したという。もしジョンが自首してくればメアリーは釈放されるだろう、てなことを言うんだけど、その論理が分からない。で、支援者に匿われていたジョンは母親の逮捕を知りながら、結局、自首はしない。映画は、そのせいでメアリーが刑死することになった、というように描くのだけれど、論理が分からないままなので、反応のしようがない。
この映画のキャッチフレーズは「彼女の罪。それは、最期まで秘密を守ろうとしたこと」というものだけれど、これもよく分からない。秘密って、なんだ? 映画の中で明示されていたか? ひょっとしてあれか。メアリーはジョンの関与を知っていた。けれど、それを語れば息子が死刑になるから、それを黙っていた? それで、題名も「声をかくす人」になっているわけか? でも、息子が関与していたことを証言して、どうして自分が無実になるのだ? よく分からない。
裁判の経過は、先にも書いたように筋書き通り。公平な判断は行われない。ここで想起するのが、日本の大津事件だ。ロシア皇太子に斬りかかった巡査の裁判で、政府は死刑を相当とする圧力をかけてきたけれど、裁判官は拒否した事案だ。なんだ。リンカーン暗殺より少し時代は降るけれど、日本の方が民主的な裁判官がいたじゃないか。帝国憲法下でも、三権分立が進んでいたじゃないか、ということ。それとくらべたら、リンカーン暗殺のお手盛り裁判は、ひどいものだ。
そういえばメアリーは別の場所での下宿屋をやっていて、移ってきたらしい。で、その下宿屋はというと、かなりな屋敷。亭主はすでに死んでいて、メアリーと娘のアンナ、息子ジョンとの3人家族。にしては、金持ちだな。どうやって稼いだんだろう? とか素朴に疑問をもってしまった。そのアンナは、暗殺集団のリーダーで逃亡中に撃たれて死んだジョン・ブースを慕っていたみたいだ。しかも、ブースたちの会話も聞いていたりして、メアリーよりアンナの方が情報を知っていたんじゃないの? なんて思ってしまう。しかも、フレデリックが下宿屋を訪ね、引き出しを開けたりあれこれ調べると、たしかブースの写真をみつけた。それだけじゃない。アンナは小箪笥の裏側から、客の名簿までだしてくるではないか。おいおい。警察あるいは軍は、メアリーの下宿屋をちゃんと調べたのか? 杜撰だなあ。
というわけで、よく分からないまま、十分納得しないまま話はどんどん過ぎていく。フレデリックは、メアリーの弁護をしているからというだけの理由でクラブから資格を剥奪されるは、恋人は離れていくは、さんざんだけど、民主国家アメリカも昔はこうだった、ということね。ま、そりゃそうだろう。で、いったん絞首刑の判決が出るんだけど、フレデリックは何だったか忘れたけれど理由を付けて偉い人に執行停止と刑務所の移送のサインをもらい、さてひと安心…かと思ったら、新大統領(?)の死刑執行命令が優先され、アメリカで最初に絞首刑になった女性として記録に残ることになったとかいう話。
死刑台はかなり大きく、当時の実際の写真とほぼ同じ。記録では泣き叫んだらしいが、映画では淡々と死んでいった。で、その後、カナダに逃げた息子ジョンも逮捕されたのだけれど、今度は軍法会議ではなく、どういう理由なのか分からないけれど、無罪釈放になった、と。うーむ。ますます訳が分からない。いったいどういう罪でメアリーは断罪され、息子ジョンはなぜに放免されたのか。首をひねるばかりであるよ。
ただし、改憲は2/3以上ないとできないというハードルの高さは、現在の日本と同じ。そのハードルを低くするため第96条を変え、それでもって第9条を変えようという安倍晋三の姑息さが連想される。
風にそよぐ草4/25ギンレイホール監督/アラン・レネ脚本/アレックス・レヴァル、ロラン・エルビエ
原題は"Les herbes folles"。「狂った草」「生い茂る草」などの意味らしい。冒頭でアスファルトを押し割るようにして生えている草が写されるが、あれのことか。なんの字幕もないので、題名の示唆するところさえつたわらない。
allcinemaのあらすじは「歯科医のマルグリットは、ショッピング帰りに引ったくりに遭いバッグを奪われてしまう。ショッピングセンターの駐車場で財布を拾った初老の男性ジョルジュ。それはバッグを引ったくられたマルグリットの財布だった。お金は抜き取られていたが、中身を確認したジョルジュは、小型飛行機の操縦免許証の顔写真を見て恋に落ちてしまう。そして財布を警察に届けたジョルジョのもとに、後日マルグリットからお礼の電話がかかってくるのだが」
「去年マリエンバードで」とか「ミュリエル」の印象が強いせいか、観念的で難解なイメージがあったんだが。この映画のレネはすっとぼけだった。というか、ハチャメチャ? ラストなんか意味不明で、こりゃ呆けたんじゃないのかな、と思わせる。なんでこんな映画ができたの、さっぱり理解不能だ。
要はストーカーじじいの話。操縦免許の写真を見て、往年の女優のなんとかと似てる、とかつぶやいてたけど、それで会いたくなり、でも直接会うのは腰がひけて。財布は警察に預けたものの、やっぱり会いたくなって住所を調べ、訪問。でもノックする自信がなくて住まいの郵便ポストに手紙を投函する。電話をかける。待ち伏せる…。相手にされないからと、マルグリットのクルマをパンクさせる。たんなるストーカーじじいだ。
そもそもジョルジュが恋に落ちた理由が、あんまりよく分からない。操縦免許の写真と実物の違いには言及されていないし、マルグリットのどこに惚れたかも定かではない。それに、ジョルジュにはとびきりの美人妻スザンヌがいる。はじめ見たときジョルジュの娘? と思ったぐらいだ。しかも孫もいる設定。それなのに、なぜチリチリ赤毛でバアサン顔のマルグリットに恋をする?
そのはジョルジュは、警官に言わせれば「50歳ぐらい」らしいけど、どう見ても70近いジイサマ。実年齢を調べてみると、ジョルジュ役のアンドレ・デュソリエは63。スザンヌ役のアンヌ・コンシニ46。実際に若いのだな。で、ジョルジュが惚れるマルグリット役のサビーヌ・アゼマは60だぜ。なぜ60のババアに恋をする。
で、この映画、極めてテンポがのろい。冒頭の、カバンが盗まれるシーンを何度もリフレインしたり、どうでもいいことを、ねっちりたっぷりやったりする。あまりくどいのでだんだん飽きてきて…警官が家にやってきて家の中に迎え入れるとこいらで眠りに入り、奥さんかマルグリットに電話するあたりで起きた。ま、大勢に影響はないだろ。
ジョルジュは、奥手だけど突っ走ると危険な感じで、考えすぎる傾向がありあり。妄想もたくましく、あーだこーだ自問自答しつつ行動する様子がナレーションまじりで表現される。現実と妄想が混沌とするシーンもあって、ジョルジュがマルグリットの同僚の女性歯科医にキスするのは、おそらく妄想か。妄想もそうだけど、マルグリットとの会話でも観念的なことがあったりして、それはそれでレネらしいといえばそうなんだけど、ついていけないし、もう忘れた。だからなに? だよね。
で、ストーキングの方だけど、マルグリットもそのうち憎からず、になっていき、同僚の女性歯科医の意見も採り入れつつつきあい始め、どーもジョルジュを好きになっていったりするのだけれど、だからなに? だよな。こうした老いらくの恋は、レネ自身の思いや体験を表出しているのだろうか。なんともどーも分からない。ドラマにもなっていないので、どーでもいいけど。ここで不思議なのは、亭主が不倫に足をツッコミ始めているのを、妻は知っていながら見守っていること。これまたどういうことなのだろう。本来ならドラマが起きそうなところで起こらない。こういうところも、見ている側には物足りない。
ジョルジュの性格と過去を想像させるのが、飛行機への異常な興味。空を見上げて、なになにだ、などと機種を当てたりする。マルグリットの操縦免許への興味も、それなのだろう。マルグリットに誘われて飛行場に連れていかれ、そこでまのあたりにしたスピットファイアに釘付けになってしまう。スピットファイアは英国機だけど連合国の多くで使われたらしい。そしてジョルジュが見に行く映画が、朝鮮戦争を舞台にしたウィリアム・ホールデン主演の「トコリの橋」(1954)。調べたらグレース・ケリーもでてて、日本のシーンもかなりあるようだ。搭乗していたジェット機が不時着し、救援も失敗して戦死する話のようだ。だからなに、なんだけど。
マルグリット操縦のセスナに乗せてもらい、操縦桿を「握ってみて」と言われ、興奮するジョルジュ。意志なのか偶然なのか機はコントロールを失い、墜落する。現場は見せないけど、そうなのだろう。という2人の末路は何を意味しているのか意味不明。ジョルジュが戦死に憧れていたのか。なんなのか分からない。このとき、ジョルジュは奥さんと一緒だったんだっけか。わすれた。それと、飛行場で小水をして、ファスナーがバカになってしまって締まらず半開き状態に。それを恥じて操縦が狂ったのか。とはいっても、なにもかも理屈では筋の通らない話ばかりで、だから何? なんだよね。
で、最後に妙な話がぶら下がっている。どこの誰なのか分からないけれど、少女が母親に「ママ、猫になったら猫のエサ、食べられる?」と話しかけてオシマイなんだけど、これはいったい何なのだ? さっぱり分からんよ。ちゃんと意味があるのか。やっぱり呆けたかアレン・レネ。ううむ。
リンカーン4/30新宿ミラノ2監督/スティーヴン・スピルバーグ脚本/トニー・クシュナー
原題も"Lincoln"。allcinemaのあらすじは「南北戦争末期。国を二分した激しい戦いは既に4年目に入り、戦況は北軍に傾きつつあったが、いまだ多くの若者の血が流れ続けていた。再選を果たし、任期2期目を迎えた大統領エイブラハム・リンカーンは、奴隷制度の撤廃を定めた合衆国憲法修正第13条の成立に向け、いよいよ本格的な多数派工作に乗り出す。しかし修正案の成立にこだわれば、戦争の終結は先延ばししなければならなくなってしまう。一方家庭でも、子どもの死などで心に傷を抱える妻メアリーとの口論は絶えず、正義感あふれる長男ロバートの北軍入隊を、自らの願いとは裏腹に黙って見届けることしかできない歯がゆさにも苦悩を深めていく。そんな中、あらゆる手を尽くして反対派議員の切り崩しに奔走するリンカーンだったが」。
この間は、暗殺した側の裁判劇を見た。それで知ったんだけど、リンカーン暗殺は単独犯行ではなく、他の閣僚も同時に攻撃されるなど、組織的なものだったのね。その点だけは、なるほど、だった。さてこちらは、議会中心の話だとは聞いていたけれど、ここまで地味だとは思わなかった。派手なバトルもなければ、恋愛劇もない。修正第13条を通すためなら買収も脅しもする。嘘もつく。もちろん根回しはしっかり。な、かなりな寝業師だったということを知った。清廉潔白で理念に燃える人ではなかったのだ。理念に燃えていたのはリンカーンではなく、同じ共和党の急進派、タデウス・スティーブンスだった! とはね。へー。そうなんだ。というのが主たる感想。それ以外は、つまらない映画だった。退屈。前半の、1時間目にぐらいになろうかという辺りでは、あやうく寝落ちしそうになったぐらいだ。それぐらい地味で、何もない映画。
まあ、アメリカのネイティブには感じるところもあるのかも知れない。けど、でてくるジョークはどこをどう笑えばいいのか分からないようなものばかり。彼の地の当時の議会制度もよく分からない。二院制だったようだけれど、すでに上院では可決されていて、下院での議案提出・可決を目論んでいたわけだな。で、冒頭から修正第13条という言葉はよく出てくるんだけど、中味が分からない。まあ、だらだら見ていけばそれが奴隷制度廃止を謳ったものであることはわかった。けど、奴隷解放宣言はすでに謳われていて、リンカーンは大統領に選ばれていて、しかも二期目。くだんの法案は上院で可決されている。ということは、国民の多くは奴隷解放の流れを支持していたわけじゃないか。たまたま議員数が拮抗している下院では、すんなり通らない、という状況下だった、ということだろ。まあ、可決するかしないかでは天と地の違いはあるけど、なぜリンカーンが南北戦争終結よりも修正第13条可決を先んじようとしたのか、その意味がよく分からなかった。いや。なかで説明はしていたよ。していたけれど、なるほど、とは思えなかったのだ。
映画の大半を占めるのが、民主党議員の切り崩し工作。よく分からないんだけど、現在は議員だけど、近々議員じゃなくなる連中がいて、彼らに望みの職を与える代わりに賛成に回れ、ということみたい。汚いことをしたんだな、昔は。昔でも汚いのか? よく分からんが。最初の方で、北軍に自分の土地を占拠されているけどあれは自分たちのもので…と陳情に来る夫婦がいたけど、あれも地方議員の名前がでてきて、工作に利用していたようだけど、意味がよく分からなかった。そんなのばっかり。最後には、迷ってるらしい民主党議員にリンカーンが会いに行ったりしてるんだけど、そのどこが効果を発揮して、賛成に回ったのか。そこのところはさっぱり分からず。同じ民主党議員に罵倒されるのが分かりながら、なぜ賛成に回ったんだろう?
リンカーンの嘘というのは、南軍の副大統領が和平交渉に来ている、ということを隠したことだ。なぜ隠した方がいいのか、というのもよく分からなかった。戦争終結より、奴隷解放の方が優先? でも、そもそも戦争は奴隷制が焦点なんだろ。たんに戦争が長引いて国民が疲弊しているから? ううむ。よく分からん。
リンカーンも工作や嘘でずるいけど、奥さんもずるい。国民が数10万人戦死しているのに、自分の息子は参戦させない。大学にいるように仕向け、愛国心を鼓舞しないようにしている。まあ、リンカーン夫婦も人の親ってことなんだろうけど、ロシアや北朝鮮の指導層なんかとやってることは同じじゃないか、と思っちゃうよな。リンカーンも、妻の息子を参戦させたくないという気持ちに応えようとしちゃってる。ううむ、だよな。どうも次男坊が病気で死んでいて、そのときに精神に異常をきたしたことがあって、余計にそうしているようだけど、兵隊さんはごろごろ死んでるんだぜ。日本の、戦前の将官なんて、息子を積極的に戦場に送り出してるのにね。結局、息子も戦場に行くんだけど、なんと前線ではなく、グラント将軍付きという特権待遇。それに満足しているんじゃじょうがないな、という気分。だって息子は、切断された手足が手押し車で運ばれ捨てられるシーンを目撃しての決断だったわけだろ。ううむ、だなあ。
というわけで、まあ、誰もが結果を知っている話なので、ラストも驚きはない。修正第13条は通過する。その後、リンカーンは暗殺される。が、暗殺シーンは、ベッドに横たわるリンカーンだけの描写で、あっさり。まあ、それが主眼じゃないからいいんだけど。
というわけで、退屈極まりない話だったけれど、感情移入できた人物が1人いた。共和党の急進派、タデウス・スティーブンスだ。彼は、黒人と白人は生物学的に差がないという、当時としては急進的な思想の持ち主。しかし、それを主張すると、民主党からの反発がある。だから、黒人と白人は、法の下に平等である、と心ならずも主張を曲げるんだけど、あのどうにも悔しそうな言い方が印象的。民主党からは「お前、いままでの主張を翻すのか!」と突っ込まれても、うまくかわすのもカッコイイ。この映画の主役は、こっちなんじゃないのか? 「どうせおれは、ハゲだよ。カツラだよ」ボソッと言うところもなかなか。最後、修正第13条が通過すると、その提出案の原本をちょっと拝借し、家に帰る。そこに、黒人の女中。「お前に見せたくてな」。彼女とは夫婦同然。でも、議会の傍聴には連れて行けない。ということか。まだ、当時は黒人との結婚は、正式に認められていなかったのだろうか? でも、カツラをとったつるっバゲ姿でベッドに入る様子は、ちょっと泣かせるものがあったよ。
あとは、南北戦争はどういうものだったのか、もこちらはよく分からなかった。南部は独立していたわけではないのか。で、映画に登場する議会には、議員を送り込んではいないのだよな。南部は南部で大統領を擁立し、独自の議会を開いていたのかな? てな辺りが、よく分からなかった。
要は、もう少しメリハリをつけて現状を説明して欲しかったし、なるほど、と納得できる描写で進めて欲しかった、ってことかな。アメリカ人じゃないから、ぱぱっと字幕で書かれても、ほうそうか、と納得できなかったりする部分が多いんだよね。ということか。

 
 

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