2013年7月

殺しのナンバー7/4シネマスクエアとうきゅう監督/カスパー・バーフォード脚本/F・スコット・フレイジャー
原題は"The Numbers Station"。allcinemaのあらすじは「アメリカ、ニュージャージー州。CIA捜査官エマーソン・ケントは、裏切り者の元捜査官を暗殺する際、重大なミスを犯してしまい、イングランド東部サフォーク州にある人里離れたブラックレグ・マイナー送信局に左遷される。そこはヨーロッパの工作員に機密指令を送るCIAの極秘施設、乱数放送局だった。彼の任務は、暗号オペレーター、キャサリンの警護という簡単なものだった。ところがある日、2人は何者かの襲撃に遭う。間一髪で局内に避難したものの、彼らはそこでCIA最重要幹部15人の暗殺という恐るべき暗号指令が正体不明の敵によって発信されてしまったことを知るのだったが…」。アメリカ映画だけどメジャー作品じゃない。なんか、ヨーロッパ的なテイストの不思議な映画だった。
最初の方はちょっと分かりにくいけど、終わってみれば話は案外とシンプル。しかもある意味、密室劇なのでちょっと単調。中盤のダレはわずかにあるけれど、それでも最後までテンションが下がることなくつづいた。派手なドンパチが少なく、ロマンス臭もほとんどないところは、メジャー作品じゃないからか。
現在でも、第一線のスパイにはラジオ電波で数字を乱数化した暗号が送られ、それを解読してミッションを遂行している。その放送局はイギリスにあり、2組の男女が一週間おき(だっけかな?)に入れ替わる…という、どう考えてもありそうにない設定。重大な任務なのに放送局は警備も薄い。男女2人だけ、っていうのもムリやりっぽい。だって片方が腹下しでもしたらどうすんだよ。
で、交代するために行ったら、誰も出てこない。どうも拷問して殺されたらしい…。その、別の2人が拷問され殺される様子がときどきフラッシュバック的にインサートされるのが、主観に客観がまじるみたいで不思議な感じ。でまあ、犯人は結局のところ3人で、それもCIAのOBたち。自分たちの処遇に不満(だっけか、もうよく覚えてないよ)で、それでケントの上司を含む幹部の暗殺指令を送らせた、という次第。それをケントとキャサリンとで探り出し、犯人たちをやっつけつつ、指令を解除するという話。
安全にはずの基地に簡単に犯人が入れた理由もそれで納得だけど、それにしても話がちっちゃくないか? それもたった3人にやられちゃう。ううむ。
ケントはともかく、キャサリンの普段は描かれない。どういう私生活なのか…。はたまた2人のロマンスもあるだろうなと思ったら、これがない。気配だけ。このあたりの素っ気なさも、ヨーロッパ映画風だよな。ジョン・キューザックなんかじゃなくて、そのままフランス俳優でも使って気怠い感じにつくった方が、まだ味がでたような気がするんだけどな。
それでも印象的なのは、冒頭のケントの非情な行動。元CIAで現在はバーの主人(?)みたいなのを淡々と撃ち殺したと思ったら、次はどっかのオッサンを射殺する。それを目撃した娘らしいのがいたんだけど、ケントは躊躇する。それを生ぬるい、とでもいうように上司が射殺する。…というトラウマで現場から放送局へ飛ばされたみたい。よくある設定だけど、世の中にはそんなハードボイルドなCIA職員が本当にいるのかね。
セデック・バレ 第一部 太陽旗7/5キネカ大森1監督/ウェイ・ダーション脚本/ウェイ・ダーション
原題は「賽?克?巴?」=「セデック・バレ」とは"真の人"の意味らしい。「allcinemaのあらすじは「台湾中部の山岳地帯に住む誇り高き原住民族、セデック族。狩猟で生計を立てる彼らは自然との調和を大切にする一方、部族間の争いでは、戦った相手の首を狩るという勇猛な伝統を受け継いでいた。そんな中、1895年に台湾が日本の統治下に入ったことで、セデック族の暮らす山奥にも日本軍が押し寄せ、集落が次々と支配下に収められていった。そして日本軍は、セデック独自の伝統や文化は野蛮なものとして強制的に禁じ、彼らにも日本の教育や文化を押しつけていく。それから35年、かつて勇猛果敢な青年としてその名を轟かせたマヘボ集落の頭目モーナ・ルダオは、ひたすら耐え忍ぶ日々を送っていた。しかし、ついに忍耐の限界を迎えたモーナは、セデックの誇りを懸けた全滅覚悟の武装蜂起を決意する」
映画自体は大味すぎて、概略は分かるけど人間関係などはよく分からない。いちおう、原住民の分類などの説明は冒頭にあるけれど、覚えられるものではない。こまるのは部族ち部族の関係だ。なぜって服装がまったく同じで、顔つきも似てる。なのに殺し合うぐらい対立している。さらに、モーナの妻や息子、娘たちがどれなのかも、アバウトに分かっていく感じ。もっと要所でカチッと説明しなくちゃ分からんよ。あと、セデック族だけど日本の警官をやってる2人も登場するんだけど、彼らの関係もよく分からない。兄弟? で、妻は原住民なのか日本人なのか。師範学校を出ているといっていたけど、それは台湾の師範学校? とか、追求していくと曖昧なことだらけ。こうした、人物への掘り下げをちゃんとやれば、もっと奥行きの深いドラマになっただろうに。素材が興味深いだけに惜しい。さらに、日本に帰順して大人しくなってからの展開は、単調でちょっとダレる。もっとも、最後の襲撃シーンは迫力あったけど。ところで、首がびゅんびゅん刎ねられるシーンは、CGなのかな。
話はあらすじにある通り。こんな出来事があったとは知らなかった。でも、反乱といっても、いろんなところで行き違いがあるみたいで、どう評したらいいのか分からない。日本人の原住民に対する差別感はあっただろう。けれど、帝国主義時代の植民地支配にはありがちなことで、日本だけが異常というわけではない。それに、台湾の大半を占める漢民族は反乱を起こしていない(のかな?)。当時の文明化された日本人の視点から見て、台湾原住民の方が異常だった、という考え方もできる。
たとえば宮古島島民遭難事件というのがあり、これは明治4年に宮古島の船が台湾に漂着したが、69人のうち3人が溺死、他の54名は台湾原住民に首を狩られている。そういう文化習俗の人たちなのである。
日本が台湾支配をすることになって、原住民だけ例外にするわけにはいかないだろう。制圧は当然のことだと思う。そして、部族間の首狩りを禁じ、教育を与えたのは間違ったことではないと思う。のだけれど、ある意味では風俗習慣の押しつけであり、本来ならそっとしておくべきだった、ともいえる。もちろん、首狩りもさせておくのが理想だ。それを含めての風俗習慣なのだから。戦いなくして、相手の首を取らずして、セデック族に意味はない。…という考え方だ。でも、それは正しいのか? 答はでない。かといって「暮らしはそのままに、でも首狩りは禁止」などという解決法はあり得ない。いったい日本は、セデック族にどう対応すればよかったのだろうか。分からない。
しかし、驚くのは、いまから100年ぐらい前に、まだ首狩りを日常的に行っていた民族がいた、ということ。それも、同じ民族内の他部族同士で狩り場を競い合い、憎み合っている。高地の狩猟民族ならではのことかも知れないけど、あんな狭い島の高地の一部に、よくも長々と生きながらえてきたものだ。互いに殺し合っているというのに。では、それの風俗習慣を尊重しておくべきか…。繰り返しになるけど、答は難しい。
日本人は、基本的にセデック族に好意的だと思う。だって、狩りのための銃を彼らに貸し出しているくらいなのだから。そして、セデック族から日本の警官になっているものもいる。そりゃ昇進や給料が日本人と同じとはいくまいが、そんな差別は現在でもいくらでもある。西洋人は、東洋人に対してそんなことしないぞ。
日本に好意的な台湾映画のせいなのか、映画の描写は日本にも好意的、というか、平等な視点を保っている。日本の植民地政策が悪い、ともいっていない。日本人すべてが悪人とも言っていない。いい日本人もいるし、悪い日本人もいる、という視点で描いている。見ていて、少しだけホッとする。
しかし、わからないのが、モーナの蜂起。歴史的にも、結婚式に遭遇した警官が唾液でつくった酒を進められ、それを嫌って原住民を殴ったことが直接的な原因と言われているようだけど。その程度のことで自分たちが全滅するような蜂起をするものか? それが分かっていての、我慢に我慢を重ねての結果なのか。たとえば播州赤穂の浅野内匠頭みたいに…。それほどプライドが高いのか? 日本人も誇り高いと言われているけど、ペリーの黒船には西洋礼賛の人々が登場するし、太平洋戦争終了時にもアメリカ礼賛で、外来の技術や文化をどっと採り入れてしまう。あくまで武士道だ、なんていって果てるのはアホだったではないか。太平洋戦争だって、一部の守旧派に翻弄されただけだと思うぞ。セデック族のも、そんな見栄や建前だったのか? よく分からない。たんに直情的で先を考えることができなかったのか。分からないけどね。
あと思ったのは、セデック族は誇り高いかどうか、ということ、別の部族と仲よくしたと見せかけ、酔わせて闇討ち、なんていう場面も合ったりして、それじゃ正々堂々としてないだろ、とも思わせる。まあ、日本の戦国時代もこんなやり方はあったらしいけどね。てなわけで二部へ。
セデック・バレ 第二部 虹の橋7/5キネカ大森1監督/ウェイ・ダーション脚本/ウェイ・ダーション
allcinemaのあらすじは「霧社公学校を襲撃したセデック族は、日本人であれば女子供の区別なく容赦なくその手にかけ、多くの命を奪っていった。直ちに報復を開始した日本軍だったが、セデックは地の利を活かした戦いで日本軍を苦しめていく。それでも日本軍の圧倒的な武力の前に、次第に追い詰められていくセデック族だったが…」
一部とうって変わって、こちらはアクションシーンの連続。だけど、ただ闇雲に日本人を襲うシーンばかりがつづくので、正直いってあきる。殺戮シーンは長けりゃいいってもんじゃない。要所で締まればいいのだ。次第に追いつめられていくのだけれど、ちょっと衝撃的なのはモーナの一族の女子供たちが進んで自死の道を選んでいくこと。まるで沖縄戦で死んでいった島民みたい。いや、沖縄戦は軍の指導で死を選ばざるを得ない状況があった。ところが、こちらは足手まといにならないため、戦う男たちの食料を減らさないために死ぬのだ。しかも、男の中から何人か始末する担当がついている。げげ。多くは縊死。この精神はなんなんだ。最後で日本軍の将校が「こんなところに日本の武士道が生きていたか」なんてつぶやくのだけれど、同じことを思った。死して報いるという思想は、世界的にも珍しいよな。それに、日本の武士道より徹底してる。
もうひとつ、日本の警察官になっていた2人の自死が、これまた美学になっていた驚いた。1人は着物姿の妻の喉笛を切り裂き、幼子の首を絞め、切腹する。惜しむらくは日本刀でなく蛮刀だったけど。もう一人は、あれは妻はどうしたか覚えてないが、本人は縊死だった。
この辺りの死を見せつけられると、なぜモーナが決起したのか、首をひねってしまう。こんな結果は分かっていたのに、なぜだ? と。そして、モーナの息子とかが倒され、幾人かは逮捕され獄死。モーナは行方不明になったが、3年後ぐらいに洞窟で遺骸が発見され、でもまた行方不明になり、後に台北の大学かどっかで見つかって…とかいう話だった。Wikiの「霧社事件」とは概略同じだけど、当人たちの意志などはかなり脚色(美化)されている感じ。まあ、そうしなきゃ映画にならないけどね。
勘違いしたのは、追いつめられたモーナがつり橋を渡り、日本軍に突撃したきた後のシーン。次のシーンはモーナが死んで、天国で仲間に会っているのかと思った。そしたら違っていて、まだ生きて戦っているのだった。では、あの吊り橋のシーンは、どう切り抜けたのだろう?
困ったのは、一部でもそうだったんだけど、人物がどこの誰だかよく分からないこと。いきなり着物姿のビビアン・スーがモブシーンにでてきたときは驚いた。どういう役回りなのだ? しだいに日本警察に勤務する原住民の妻らしいのは分かるんだけど、でも、それ以上は分からない。あと、病院に運ばれてきてた寝てた女は誰? 首を斬られた警官のおくさん? それと、逮捕されて拷問されて死んだ何とかいう男は、誰? とか、尺が長い割りに人物を描いてない分かりにくさが露呈している。
ところで、Wikiによると「まず霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃した。襲撃では日本人のみが狙われ、約140人が殺害された」「700人ほどの暴徒が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。特にモーナのマヘボ社では壮丁の妻が戦闘のなかで全員自殺する事態となった。 一方、鎮圧側の戦死者は日本軍兵士22人、警察官6人、味方蕃21人であった」とあったのには驚いた。日本兵はもっと殺されてるように描かれていたけど、亡くなったのは圧倒的に原住民が多いのだな。それにしても気の毒なのは、運動会の場で奇襲され命を落とした日本人だ。
そういえば、原住民の敵殺害って、そんなに正々堂々とはしてないのね。相手を酔わせて寝首をかいたり、背後から襲ったり。とにかく殺したら「やったー!」的な感じ。このあたりは武士道ではないよな。それと、モーナたちを追撃するため、対立する部族にかけあい、首1ついくらで金を支給するっていうのもな。また、それにほいほいのって、対立部族とはいえ同民族の首を狩って来ちゃうっていうのもね。ものの考え方の違いが激しすぎる。
しかしまあ、この映画の救いは、日本軍を悪人として描いておらず、なるだけ平等の視点で描いていることだな。最後に日本軍が撤退していくとき、台湾の赤い桜を見上げるシーンなど、まるで武士道。まあ、監督もそれを分かりきってやってるんだろうけどね。
最大のわだかまりは、原住民に好意的に描かれていた小島巡査が、のちに生存者を殺した? とか字幕が出てたこと。ん? どういうことだ?
それにしてもエンドロールの文字の汚さは、なんなのだ?
ブルー・アンブレラ7/9新宿ミラノ2監督/Saschka Unseld脚本/-----
原題は"The Blue Umbrella"。雨の日、青い傘が赤い傘と出会い、好きになってしまう。その出会いを、街の中の排水口や窓とか、顔に見えるパーツが見守って応援していく、という話。いったんは地下鉄に入っていく(?)赤い傘を見失い、風に飛ばされる青い傘だけど、ふたたび巡り会って、傘の持ち主同士もカフェで仲よく会話する、というもの。ま、再会するところが強引すぎるけど、なかなか雰囲気はよかった。
モンスターズ・ユニバーシティ7/9新宿ミラノ2監督/ダン・スカンロン脚本/ロバート・L・ベアード、ダニエル・ガーソン、ダン・スカンロン
原題は"Monsters University"。2D、日本語版を見た。allcinemaのあらすじは「身体が小さくいじめられっ子だった少年マイクの夢は、モンスター界一の“怖がらせ屋”になること。そのために誰よりも努力し、ついに超難関大学モンスターズ・ユニバーシティの“怖がらせ学部”への入学を果たす。怖がらせるための知識と理論は誰にも負けない自信のあったマイクだが、見た目がかわいいという致命的な欠点に悩んでいた。そんなマイクは、自分とはまるで対照的な“怖がらせ屋”の名門一族に生まれたエリート学生サリーと出会い、ライバル心を募らせる。ところがマイクの必死の努力も虚しく、“恐くない”彼はとうとう学部を追放されてしまうのだったが…」
学校長に「あんたは怖くない」と断定され、怖がらせ学部から排除されようとする。そこで「怖がらせコンテスト」を思い出し、他の軟弱モンスターたち4人とグループとなって5つの関門に挑戦。よろよろと勝ち抜いて、最後は優勝! という定番の予定調和的話の展開。なので、飽きる。5つの関門も、最初は毒避け競走、次は図書館でこっそり競走、3つ目は迷路、4つ目は隠れん坊(?)、で5つ目にやっと怖がらせ。なんかな。5つ目を除いて、怖がらせと関係ないじゃん。
もっとも、最後の怖がらせでサリーが小細工し、マイクの怖がらせはホントは大したことがないことがばれて、2人は退学。でも、モンスターズ・インクの郵便室に就職し、無関係な仕事を点々とがんばりつつ、なんとか怖がらせやに成り上がった、という話。
そもそも「怖くない」顔立ちのマイクがどうしてMUの「怖がらせ学部」に入れたのか。そこからして疑問。それに、怖がらせ以外のモンスターもたくさんいるようだし、いったいどういう社会が形成されているのだろう? なんていうところが割り切れないままだ。
さらに、マイクより怖くない顔立ちのモンスターはゴマンといる。なのに、見かけで「あんたは怖くない」と言われても説得力がないよな。それに、努力より素質だよ、といわれているような気にもなってくる。
そんなことより、マイクには別に大きな欠点があると思う。それは人の言うことを聞かない。ルールを守らない、だ。小学生のときのモンスターズ・インク見学では、この線から入っちゃダメ、っていうのにノコノコ入っていき、脅しに行くモンスターの後ろから子供の部屋に入り込んでしまう。大学生活の中でも、仲間たちを引き連れてモンスターズ・インクに侵入し、騒ぎを起こす。そして、「怖がらせコンテスト」で自分が怖くないことを思い知らされた後、大学研究室のドアから人間世界に入り込み、騒動を起こす。こんなやつ、会社勤めに向いてないと思うぞ。
その、ラスト前の、マイクとサリーが人間世界に入り込み、幼児に「カワイイ」なんていわれ、大人の人間に追われ、でも機転でホラー効果を生み出して大人を絶叫させる、という逆転ホームランでモンスター世界に戻ってくるわけだけど、ここにドラマがあるだけで、あとはもう完全なる予定調和。これは退屈する。それに、サリーに「実は俺、恐がりなんかだ」と言わせても、いまひとつ説得力がないだろ。
まあ、大人を怖がらせ、無事に戻ってきたからといって大学に復学してしまうのではなく退学というのは、潔くていいけどね。でも、郵便室から成り上がるのは、フツー、難しいよな。あと、思ったのは、ウーズマ・カッパの弱っちい仲間たちは怖がらせ学科に転科したはずなんだから、そのときの連中とモンスターズ・インクで再会するとかあってもよかったんじゃないの。それに、大学なんだからロマンスもね。
ところで、サリーが勧誘されたエリートクラブがロア・オメガ・ロア=ROR、マイクの仲間たちはウーズマ・カッパ(Oozma Kappa)=OKというサークル。こういうクラブが学内にあるのは知ってるけど、名前の由来はなんなんだ?説明してくれよ。
スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜7/10ギンレイホール監督/ジョージ・クルーニー脚本/ジョージ・クルーニー、グラント・ヘスロヴ、ボー・ウィリモン
原題は"The Ides of March"で、3月15日のこと。で、"Beware the Ides of March."はシェークスピアの「ジュリアス・シーザー」に出てくるセリフで、シーザー暗殺の日と予言されたので凶事の警告らしい。allcinemaのあらすじは「ペンシルベニア州知事としての確固たる実績に清廉潔白なイメージ、おまけに申し分ないルックスで有権者の心を掴み、民主党予備選の最有力候補に躍り出たマイク・モリス。いよいよ迎えた天下分け目のオハイオ州予備選を目前に、陣営は緊張と熱気に包まれていた。そんなモリスの選挙キャンペーンをベテラン参謀のポール・ザラとともに支えるのは、弱冠30歳にして周囲も一目置く辣腕ぶりを発揮する広報官のスティーヴン・マイヤーズ。彼もまた、モリスの語る理想に心酔する一人だった。ところがスティーヴンは、ライバル陣営の選挙参謀から巧みな引き抜き工作を仕掛けられる。そんな中、選挙スタッフの美人インターン、モリーと親密な関係となり、束の間の安らぎを得るスティーヴンだったが」
役者が凄い。スティーヴンにライアン・ゴズリング、モリスがジョージ・クルーニー、ポールはフィリップ・シーモア・ホフマン、ライバルの選挙参謀トムがポール・ジアマッティ。ぎゃー! な布陣。
前半は淡々とリアルな選挙の裏側を描いていく。もっとも予備選なので民主党内の戦い。でも、アメリカの選挙システムを熟知しているわけではないので、ここが天王山、に思えないところが辛い。わかってりゃ、もっと面白いだろうに。
モリスは州知事。ライバルはブルマン上院議員。この辺りからしてアメリカだ。州知事から一気に大統領候補だ。で、モリスがリードしているんだけど、共和党議員たちとしては戦いやすいブルマンに票を投じる、らしい。予備選で共和党員が民主党候補に投票? という辺りが納得できないけど、そうなのだろう。まあ、このあたりから駆け引きが始まってる。
そこでポールは、オハイオの実力者トンプソン議員にアプローチする。が、ブルマンの方がトンプソンに好条件を提示。負け戦が濃厚になる…。清廉潔白で鳴らしたモリスは、トンプソンを餌で釣るのは嫌だという。ポールは「そんな場合じゃない」と説得する。なときに、スティーヴンはトムから引き抜きの相談をされ、でもそのことをすぐにポールに告げなかった。
誰も知らないと思っていたスティーヴンとトムの密会が、マスコミに漏れた。誰が漏らしたのか…困惑するスティーヴンにポールが「俺だ」といってのけるんだから凄い。曰く、忠誠心のないやつはダメだ。選挙なんかに係わってないで、別の道を行け、と諭す。うーむ。なかなか。ポールは裏がない。それで生きてきた。フィリップ・シーモア・ホフマンにはうってつけの役だな。
と、このあたりまでは、リアルな裏話なんだけど、後半はつくりものめいたドラマチックに覆われていく。でも、それはそれで面白いんだけどね。
ポールに首になったスティーヴンは、トムのところへ「使ってくれ」と行く。このあたりの展開はかなりムリがあると思う。ポールの下でやってきた男が、そう簡単にライバルになびかんだろ。そんなことしたら、これからずっと信用されなくなるよな。と、おもいつつ、映画だからね。
で、トムがいうには、スティーヴンを首にするために電話した、と。おお。裏の裏だよ。密会のことを上司に言うならそれでいい。でも、言わなかったら、首にされるだろう。そのぐらいライバルから邪魔な存在だと認められていたと言うことだ。後述するが、スティーブンはモリスが選挙スタッフと寝てる、という裏情報をお土産にしようとしたんだけど、聞いてもくれなかった。このあたりの流れを見ると、スティーヴンはあまり頭がいいように見えないんだよね。むしろ、マヌケに見える。
さてここからがスティーヴンの巻き返し。実はスティーヴンは、選挙事務所の女性スタッフ、モリーと関係した。彼女は民主党内の大物の娘、らしい。後朝の朝、彼女に電話がかかってきた。たまたま似た携帯で、スティーヴンがでたんだが…相手がモリスだと知ってスティーヴンが驚愕。しかも、モリーは堕胎費用をモリスに借りようとしていた。一切の後始末をしたのち、スティーヴンはモリーに事務所をでて家に帰るよういう。
スティーヴンは産婦人科にモリーを迎えに行くつもりだったけれど、忙しくて行けない。そこでモリーの部屋に行ったら、彼女は薬の飲み過ぎで亡くなっていた…。って、このあたりはホント、嘘くさい展開。でも、この強引さがまた、映画だなと思わせてくれた。
スティーヴンが辞めて、その後釜に俺が、と喜んでる男性スタッフとモリーがにこやかに話してるシーンがあって、そこにスティーヴンが訪ねていくシーンがあって、このときは何でもなかったのにね。いったいモリーが死んだ、あるいは自殺した原因は何だったんだろう。モリーはなぜモリスと寝たのか。そんな状況なのに、どうしてモリーはスティーヴンを誘ったのか。しかも、20歳? あるいは19歳で、異性行為した場合、男が罰せられる年齢なのに。もしかして、お嬢さんなので、父親に反発してた? 無軌道な柄には見えなかったんだけどな。
スティーヴンは、今度はモリスに接触。モリーとのことで脅し、ポールを首にして自分を参謀にしろ、と要求。同時に、なぜだか分からないけどトンプソンからスティーヴンに接触があり、自分を副大統領候補に推すなら協力する、といってきたので、それをお土産にする。って、おいおい、な展開。トンプソンの要求のエスカレートぶりも凄いもんだ。ちなみにトンプソンは黒人。
てなわけで、モリーの葬儀で参謀トップになったスティーヴンと首になったポールが鉢合わせ。年収1万ドルで知り合いの会社に呼ばれてるんだ、とポールはあっけらかんとしている。この手の策謀には慣れっこなんだろうか。ちょっと寂しそうだったけれど、でも、年収1億ありゃ別に選挙参謀なんかしなくっても…と思うけれど、自分の力で大統領にしたい願望というのはあるのだろうな、と。
さよなら渓谷7/16新宿武蔵野館1監督/大森立嗣脚本/大森立嗣、高田亮
原作は吉田修一。allcinemaのあらすじは「美しい自然が残る渓谷の町でひっそりと暮らす尾崎俊介と妻のかなこ。ところがある日、隣に住む女が幼い娘を殺害した実行犯として逮捕され、マスコミが大勢押し寄せる。そんな中、容疑者である母親と俊介が不倫関係にあったとの情報提供により、俊介に共犯の疑いがかけられる事態に。しかも通報したのは、かなこだった。事件の取材を続けていた週刊誌記者・渡辺は、この夫婦に興味を持ち、2人の過去を調べ始めるが」。
渡辺が調べ始めると、尾崎俊介は大学時代は野球部で、部の仲間3人と女子高生をレイプした件で退部。のち、証券会社に勤めたけれどやめて、現在にいたるらしい。という話が描かれた時点で、かなこは、かつてレイプされた女子高生ではないかと想像がつき、渡辺の同僚の鈴木杏が調べた事実をしゃべった時点で確信した。なので、この事実が描かれたときの驚きはまったくなし。ってことは、他の多くの観客もそうなんだろう。
まず、渡辺の経歴。社会人ラグビー選手で、身体をこわして退社。このことを妻に罵られつづけている。のだけれど、週刊誌の、それも契約ではないような記者になって働いているのに、何が不満なんだろ。経済的に困窮してる様子もない。ラグビー部をもてるような大会社の社員の妻でありたかった? バカじゃね、この妻。しかし、スポーツから記者への転身なんて、フツー転落とはいわんだろ。よくできたもんだ。なので、渡辺と尾崎俊介がともに運動部、というアナロジーあるいはサブストーリーは、ほとんど意味がない。
さらに渡辺は、あまり有能な記者ではない様子。取材が甘かったり、"かなこ"の過去を鈴木杏に教えてもらい、そのことをネタに尾崎俊介にプレッシャーかけたり。"かなこ"と、かつての被害者が同一人物、ぐらい気がつけよ。というか、他社の有能な記者なら、こんなことすぐ気がつくだろ。マスコミはみんなバカ、というわけか?
尾崎俊介。彼ら4人は事件の後、刑を受けたのか? 示談で済んだのか。言及されていないのが分からない。また、後輩に頼み込んで証券会社に入社したが、辞めてしまったらしい。…という経緯がよく分からない。出所してから証券会社? いくら後輩がいたからって、そんな簡単に就職できるものじゃないだろ。
4人のうちの1人は新井浩文が演じてて、跡取り社長で羽振りがいい。過去を悔いてもいない。どころかクラブで同席した尾崎俊介を「こいつむかしレイプして」なんて話のネタにしている。そんなことしたら尾崎俊介の過去が社内で広まっちゃうだろう。そしたら、後輩が言うように「何も言わずに辞めちゃうし」というレベルじゃないはず。あと、辞めたのがいつなのか、よく分からない。DVで入院中の"かなこ"を見舞に来ているところをみると、6ヵ月ちょっと前のことか? その頃に"かなこ"も行方不明になっている。ってことは、尾崎俊介はかなりの間、証券会社で働いたということだよな。直近に"かなこ"から連絡を受けたときは不動産屋だったようだけど。でも、日雇いとか浮浪者になっていたわけじゃない。貯金もそこそこあったようだし…。
ついでにいうと、"かなこ"がDVで病院に入院、を、尾崎俊介はどうやって知ったのか? 尾崎俊介は事件以来、ずっと"かなこ"のことを見守ってきていた、ということなのか? そのあたりの背景も描いてもらわないとなあ。
もっと疑問なのは、残り2人の現在にはまったく触れていないこと。あたかも尾崎俊介と"かなこ"の2人の物語にしてしまっている。"かなこ"にとっては、4人の野蛮人、ではないのだろうか?
で、"かなこ"。鈴木杏の調べでは、婚約が整った相手がいたが、身元調査されて破談。その後、別の相手と結婚したが、流産。過去がばれて暴力を振るわれたのはこのときの男だったか、その後の男だったか。最後は行方不明、という転落人生という。最初の相手が身元調査で、はあるかも知れない。けれど、流産が事件の後遺症とはいっていなかった。さらに、その後結婚した相手を井浦新が演じていたけど、役柄として変態だろ。人間を愛さず、背景や外形だけを見るような男ばかりが登場するのは、なぜなんだ。そうしなければ物語にならないからだろうか。というわけで、"かなこ"の転落は事件だけのせいとも言えないような気もしないでもない。
そもそも、よく言われることだけど、高校生でありながら大学運動部の部室に夜中入り浸り、飲酒していることがフツーの女性のすることか。なんていうと、男を正当化する云々いいはじめる教条的な連中からあれこれ言われそうだな。しかし、彼女にもスキがあったのは否定できないだろ。
"かなこ"が憎んでいたのは、尾崎俊介だけではないはず。なのに、この映画には尾崎俊介しか敵役が登場しない。一緒にいたけど、途中で逃げた友人の「かなこ」に対しても憎しみをもっているから、過去を捨てて行方不明になったとき、「かなこ」の名前を借りて"かなこ"になったのだろう。それは分からないでもない。でも、犯人の、尾崎俊介以外の3人に対する気持ちが見えない。
さてと。どういうわけか、尾崎俊介は15年ぶりに"かなこ"と再会する。前述した見舞。そこで金を渡そうとするのだけれど、拒否される。けど、その後しばらくして電話があり(不動産屋として)、泥酔している(?)"かなこ"に金を貸せと言われ、そこから2人の放浪生活が始まるわけだ。どうも日本海側をうろうろし、また八王子辺りに戻ってきた様子。なんだけど、このどうしようもなさを、もうちょっとドラマチックに描けなかったものか。そうすれば、どうしようもなく結ばれていった加害者と被害者のねじれた愛情が見えてきたものを。西川美和の「ゆれる」を感じさせるあれこれはあるんだけど、あそこまでの緊張感が伝わってこないのだよなぁ。
てなわけで、過去を悔い、「あなたのためなら死んでもいい」とつきまとう尾崎俊介を足蹴にしつつ日本海を放浪し、その末に愛してしまう性。ここの盛り上がりもいまひとつだった。自分を理解してくれる人、こんな私を受け入れてくれるのは、加害者しかいなかった、的な哀切がもっとあるべきではないのか。
というわけで、冒頭につながり、仲のよい夫婦に見えた2人の過去が暴かれる…。でも、ときに"かなこ"は意地悪になり、「隣家の母親と不倫関係にあった」と嘘をついて尾崎俊介を逮捕させたりする。思うに警官もある意味ではレイプ犯と類似している。容疑者の心を精神的に蹂躙して、ズタズタにする。若い刑事が尾崎に「お前みたいなの見ると虫酸が走る」というけれど、警官のやってることもレイプと変わらない。尾崎俊介を警察に預け、尋問をさせるというのは、自分と同じ体験をさせたかったのかも知れない。もちろん尾崎俊介は、そうされても当然と、怒りもしない。その様子を見て、謝りもしない"かなこ"は、ここで尾崎俊介と同じレベルに達したと言えるかも知れない。いや、怒りもしない尾崎俊介に、申し訳なさを感じ始めている自分がいて、それが許せなかったのだろう。最後は、簡単な書き置きだけ置いて、出て行ってしまう。このまま幸せにはなれない、と。まあ、引き裂かれるような心が存在していると言うことなのだろう。できれば、幸せに終わって欲しかった気もするんだけどね。"かなこ"の尾崎俊介に対する許しは、あり得ないと言うことか。尾崎俊介は、でも諦めてはいない。一生かけても…なラストだった。
構図で見ると、赦しを請う男と、それを弄びいたぶる女ということか。"かなこ"は被害者でいつづけることて自分を確認する。幸せになってしまったら、自分がなくなってしまう。ある意味で、不幸を身にまとうことを無意識下に選択したとも見える。もし事件がレイプではなく、家族を殺されたとか障害を負わされたという設定なら、話はどうなるだろうか。障害を負うなどの肉体的な傷と、この映画の場合のように精神的な傷と、どちらが負担が大きいのだろうか。果たして精神的な傷は、忘れることはないにしても、薄まることはあるのか。日本はもちろん、世界中の女性たちは過去の数々の戦争を通じて、レイプされながら人生を乗り越えてきた。そんな強い女は、この映画には見えないような気がする。
現在の基準で考えると尾崎俊介の犯した事件はサイテーな出来事だけど、ちょっと前までは「ちょっとした災難」で済まされ、もっと昔は、事件でもなかった。…なんてことをいうと、この凄い勢いで非難されそうだな。犯された快感が忘れられない女性が主人公の長谷部安春の「犯す!」なんて、いま公開されたら「男の勝手な視線」と罵声を投げつけられるだろうな。でも、そうでもない時代があったことも確かなんだよね。果たして女は弱くなったのか。強くなったのか。
まあ、こんなことをいっても、男の勝手な解釈とか言われるだけだろうけどね。
しっかし、事実を知った渡辺が、夫を顧みることなく、でも「別れないからね」と済まして言う妻を、何も言わず抱擁するシーンの、嘘くさいことよ。あんなバカ妻なんか無視して生きなさい、と思ったけどね。
アフター・アース7/17新宿ミラノ3監督/M・ナイト・シャマラン脚本/ゲイリー・ウィッタ、M・ナイト・シャマラン
原題は"After Earth"。原案はウィル・スミスなんだと。allcinemaのあらすじは「西暦3072年。人類はとうの昔に地球を離れ、別の惑星に移住していた。伝説の兵士サイファと、そんな優秀な父に憧れながらもわだかまりを抱える息子キタイ。ある時、サイファは妻の勧めで宇宙遠征の任務にキタイを同行させる。ところが途中で宇宙船がトラブルに巻き込まれ、見知らぬ惑星に不時着してしまう。しかも救援を要請する緊急シグナル“ビーコン”は機体から遥か離れた地点に落下してしまっていた。しかし生存者は彼ら2人だけ。おまけにサイファは重傷を負って動くことができない。そこでキタイがビーコン探索へと向かうことに。そんな息子に対し、サイファは衝撃の事実を告げる。ここはなんと、人類が1000年前に捨てた後も、人類を抹消するための進化を連綿と続けてきた危険極まりない星、地球だったのだ。こうしてキタイはサイファの指示を頼りに、危険な緑の大地へと飛び込んでいくのだったが」
本来は成長物語なんだろうけど、キタイという少年は我が強すぎて他人の言うことを聞かず、わがまま。これが最後までつづく。本来なら、途中で試練あって自分の愚かさを知り、知性と勇気を身につけていくはずなんだけど、最後まで臆病で傲慢なまま終わる。クライマックスではアーサという怪獣と戦い、おのれの恐怖を消す(ゴーストのレベル)ことに成功し、アーサを倒すんだけど、過程を経ることなくいきなりゴーストレベルになってしまうのが、とても違和感。
この手の、父と同じゴーストレベルのレンジャーになりたくて人一倍がんばるけど、調和は乱す、というようなキャラ設定は、あちらでは定番なのか。よく見かける。でも、ああいう少年は嫌いだ。だって、我が儘でバカなだけだろ。それに、映画の中でも成長しないんだからさあ。
最初に、これまでの歴史がダイジェストで紹介される。人類は地球を捨てて他の惑星へ。そこで先住生物に襲われ、レンジャーが矢面に立っていた…とかいうんだけど、地球を捨てた理由は何だっけ? いや、人間は他の星から見たら侵略者ではないか。じゃあ襲われても仕方ないんじゃないのか? と思ってしまうんだが。
で、ゴーストの術を使えるサイファは将軍らしいが、そんな風に見えないところがショボイ。キタイはその息子。いいとこのお坊ちゃんだ。レンジャーの試験に落ちたのに、父親の権限で訓練先へと連れていってもらうことになり、船員たちからも特別待遇される。なんだよ、これって。特権階級の話かよ。げ。
で、トラブルが発生して「ワープしろ」って、おい、「スタートレック」か。そういや、制服がそんな感じ。安っぽい。で、やってきた星が地球、というのは「猿の惑星」のよう。父親から渡された武器は、両端に刃が付いたもので、「G.I.ジョー」でイ・ビョンホンが使う武器と同じじゃないか。
具体的には描かれないんだけど、キタイは父を慕い憧れつつ、姉が死んだのは父のせい、という思いがあるい。キタイを匿い、自らは敵(アーサ?)と戦って死んだ姉センシの様子が繰り返し描かれるんだけど、飽きる。もっと話を深めろ。
話もチャチいけど、小道具や大道具も安っぽい。レンジャーの制服とか、武器とか、いろいろ古めかしくてつくりものめいてる。他にも、モロにビニールか? てな感じのモノがたくさん登場。金をかけてないのかな。
危険度がハンパない現在の地球。という割りに、大した怪獣に襲われない。ご都合主義で切り抜けていく様子は、全然、ハラハラしない。唯一、岸壁からジャンプして鷲みたいなのと追いつ追われつ、の場面はなかなかよかった。のだけれど、あの鷲はなぜキタイを助けたのか? しかも、自分の命と引き換えに? さっぱり分からない。
キタイは期待、センシは戦士なんだろう。武器は日本刀? ゴーストは、気配を殺す免許皆伝か? 日本の武士道に影響されてるのが誰なのか知らないが、薄っぺらだね。
親バカなウィル・スミスの、息子をヒーローに仕立て上げる安っぽい話に、最近は一発芸も冴えないシャマランのワンパターンな演出が加わって、つまんねー話が一丁上がり、ってことか。ウィル・スミスの言い分を聞く監督が、シャマランしかいなかった、ってことなのか?
インポッシブル7/22新宿武蔵野館1監督/フアン・アントニオ・バヨナ脚本/セルヒオ・G・サンチェス
原題は"The imposible"。製作はスペイン/アメリカ。スペインのスタッフがハリウッドスターを使って撮ったってことかな。allcinemaのあらすじは「2004年12月。イギリス人夫婦マリアとヘンリーは、3人の息子たちとともにタイのリゾート地を訪れ、バカンスを楽しんでいた。ところがクリスマスの翌日、スマトラ島沖で巨大地震が発生、一家を津波の濁流が襲う。一緒に流されたマリアと長男ルーカスは辛うじて生き延びるが、大ケガを負ったマリアは歩くこともできず、地元の人の助けでどうにか病院に搬送される。しかしそこは、遺体と重傷患者であふれかえり、手当もままならない状態だった。一方、下の息子2人ともども瓦礫の山と化したホテルで九死に一生を得たヘンリー。彼は息子たちを高台へと避難させると自分は一人残り、行方不明となったマリアとルーカスを見つけるため、ホテル周辺を探し回るのだったが」
冒頭で、津波に流された家族の、真実の物語、と字幕。バックにはザワザワとしたSEだったか音楽。と、いきなりの轟音で背後からジェット機。ドキッ。てな具合に、何か起きますよ的な予兆を、間、静寂、SE、音楽で巧みに見せていく。飛行機内では、生意気で同情心のない長男ルーカスを見せる。ホテルでの数日も、いつくるかいつくるか、と思わせつつ、行燈みたいな熱気球を夜空に上げる地元の儀式みたいのを見せる。いろいろと、これから起こることと重ねてしまう。
で、津波のシーン。これが生々しい。がれきに叩きつけられる。流木が刺さる…などなど。どこまでがCGか知らないけど、泥水の中流される姿もおぞましい。きれいごとではなく、現実として描いている。正直にいって、怖い。
一家はイギリス人らしいけど、日本で働いているらしい。東日本大震災の出来事を嫌でも連想するけれど、企画が先だったのか、後なのかも気になるところだね。
まずは、マリアとルーカス。マリアの太腿辺りがえぐれてる。額も傷だらけ。水の引いた湿地帯を、とぼとぼ歩く。傷も気になるけど、ばい菌も。ここで、少年の声を聞く。助けようとするマリアにルーカスが「構ってる場合じゃない」とかいうんだけど、この手の身勝手でバカな少年を登場させるのは定番なのかな。こないだ見た「アフター・アース」のバカ息子を連想して、ちょっとウンザリ。まあ、無知な少年の成長物語にするには、ああいうバカさをあらかじめ呈示しておく必要もあるんだろうけど…。マリアは「あれが弟たちだったとしたらどう?」と説得して救い出す。
気になるのはなかなか救助隊がこないこと。プーケットって、そんなところなのかね。で、現地人に救われ、トラックで病院へ行くが野戦病院状態で、救った少年とはぐれてしまう。ここの、流されてるとき名飲み込んでしまった何かを吐き出すシーンが、またおぞましい。
さて、応急手当を受けたマリアは、ルーカスに「あんたも誰かの役に立ちなさい」といい、ルーカスは院内での探し人の手伝いを自発的に始める。成長ドラマだね。こういうところが「アフター・アース」との違いだな。で、1組の出会いを助けた後、戻ると母親がいない。どーも胸の手術をすることになって、でもそのとき名前を取り違えてルーカスの母親だとは分からなかったらしい。で、単なる孤児扱いされることになったルーカスは、胸に名前を書かれたシールを貼られる。
いっぽう、父親は2人の幼子をなんとか救い出して、ホテルを中心に妻とルーカスを探していた。この、子供二人がほとんど無傷というのが信じがたいんだけど、どうやって助かったのか。不思議。で、さっさと避難すりゃいいのに、妻と息子を探すと救助隊にもいい、息子2人を安全な場所に避難させてしまうんだよな、ヘンリーは。この手の合理性を欠いた愛情は、映画によくでてくるね。フツーに考えて、自分が探すより救助隊に、あるいは、助かっているなら病院か避難所にいるだろ。夜中に湿地帯や浜辺をうろついたって、危険なだけじゃん、と思うんだが。まあ、これは映画的な演出かも知れないけどね。でも、バカじゃん、感が強い。
この後、妻と子供が「ビーチに行ってる」と書き置きを残して行方不明中の男性と遭遇し、病院を探し回るヘンリー。しかも、子供2人は別のところに移動してしまったとかで、こちらも連絡が取れない状態。ルーカスは何とか母親と巡り会う。でもマリアは足の傷が悪くなり、でも、体調がよくないからと手術はできない状態。というところに、ヘンリーが空しく探し人掲示板を見に来る。別のところに送られつつあった子供2人もやってくる。…という、いかにも映画的な都合の良さは甘く見るとして、でも、なかなかスリリングでやきもきさせてくれて、よかった。もちろん、ヘンリーと子供3人の再会もね。で、「母さんもここに」のルーカスの返事に歓喜。…ではあるけど、周囲には死体の袋、けが人、などなど、ヘンリー一家と比べると気の毒な人々がたくさんいるのをちゃんと映しているのだよね。これが、つくりものめいていないところなのかも知れない。たまたま運のいい、奇跡的な家族のお話ですよ、と。そうとでも思わないと、他の家族から恨みを買ってしまう。
・マリアは、足を失うのかな? と思ったけれど、体力も回復したのか手術することに。このシーンでマリアの、津波に飲まれたときのイメージが再現される。これまた濁流の中を翻弄される映像で、「津波なんてただ流されるだけだろ」とか思っている観客に、オソロシイ現実を見せつける。
・ヘンリーが、携帯をもっている男に「貸してくれ」といって断られるシーンがある。後に「自由に使ってくれ」という男を登場させているのだけれど、こういう対比の表現も巧みだね。まあ、電池がなくなるから貸したくないという気持ちも分からないでもない。だって1人に貸したら、他の人にも貸さないとならなくなる。あっという間に電池切れで使えなくなるだろう。自分だったら、どうする? という問題を突きつけられている気分にもなる。
・ルーカスは、最初の頃に助けた少年が、父親らしい男性といるのを病院で見つける。そのことをマリアに伝えようとするのだけれど、手術のためだったか何かで、伝えられなくなる場面がある。でも後に、手術が終わったマリアに、誇らしげに伝えるのだ。これでホントにルーカスは大人へと成長した、ということを象徴的に表す場面で、なかなか感動的。
・小道具が気が効いている。病院内でマリアとはぐれ、孤児扱い。胸に名前を書いたシールを貼られる。それを剥がすのは、シンガポールの病院へと向かう機内なのだけれど、これまた象徴的。
・ヘンリーが一緒に行動していた男のもっていたメモ。こには、その男の妻が書いた「ちょっとビーチに行ってる」というものなんだけど、これに探し人情報なんかを書いていたのだ。マリアと再会後、このメモにふつ気づくのだけれど、きっとあの男の家族は…と思わせる。なかなか渋い使い方だ。
・マリアが、別の女性だと取り違えられ、腕に書かれた別人の名前。これが、シンガポール行きの飛行機の中で、さりげなく映される。現場の混乱もあるだろうけど、これまた象徴的。
・ひとつだけ、CMみたいな場面があった。タイをでるとき、保険会社チューリッヒのおっさんが握手。で、一家だけ特別機でシンガポールへ。他の人たちと違って豪華。ああ、そういえば最初着いたとき、テーブルにチューリッヒの封筒があったけど、あれは保険のことか…。っていうか、チューリッヒのPR映画でもあるのだな。
・ナオミ・ワッツも44だからもうオバサンなんだけど、やっぱ美しいね。話しかけてきた老婆は、ジェラルディン・チャップリンだったのね。
ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日7/23ギンレイシネマ監督/アン・リー脚本/デヴィッド・マギー、ディーン・ジョーガリス
原題は"Life of Pi"。allcinemaのあらすじは「小説のネタを探していたカナダ人作家は、パイ・パテルというインド人男性を訪ね、彼の語る驚愕の冒険譚を聞くことになる??。インドのボンディシェリで動物園を営む一家に育ったパイ少年。やがて彼が16歳となったとき、一家はカナダに移住することになり、パイは両親や動物たちと一緒に日本の貨物船に乗り込むことに。しかし、途中で嵐に遭遇し、船は沈没。運良く救命ボートに乗り移ることができたパイだったが、彼と同じように辛くも逃げ延びたシマウマやハイエナ、オランウータン、そしてリチャード・パーカーと名付けられたベンガルトラと同乗するハメに。こうして少年パイの過酷な漂流生活がスタートするのだが」。虎と流されるだけの話かと思ったら、他にもいろいろ要素があったのだね。でも、中盤が間延びしてちと退屈。最後に、すべては作り話的な話になりかけていて、おいおい、どーなんだよ、な感じ。
最初の30分ぐらいはパイ少年のクロニクルで、名前の由来(フランス語からとったけれど、インドでは小便の意味なのでバカにされた。それで、自分から「愛称はパイ。円周率!」というようにして、環境を変えようとしたという話)、宗教オタク(ヒンドゥー、キリスト、イスラム…と同時に入信したというような話。そうすれば有り難みがあるとでも思ったのかな。でも、それを許す父親も父親か。で、あるとき動物園の虎と仲良くなろうとして、檻に近づいて餌をやろうとして父親に止められた。パイは、虎の目に通じるものがあったとかなんとか言ったんだけど、否定される。で、父親は生きた鹿みたいなのを檻に縛り付け「どうなるか見ろ」という。あっという間に虎が食い殺してしまった(でもさ。檻の外側に縛り付けたのに、一瞬で檻の中に引きずり込まれていたのは、どういうこった?)のを見て、パイはそれまでの価値観が逆転してしまった…(これは、宗教を信じられなくなったと言うことか?)。そんななか、恋もした。けど、この恋物語はとってつけたようなものだった。で、借地を返し、動物はカナダで売って旅費にするつもりで、航海にでた(コックがジェラール・ドパルデューだったのには驚いた。後の打ち明け話につながってくるのかね)。けど嵐で沈没。パイは救命ボートにただ一人乗り込めたんだけど、乗り込んでたのがシマウマ。それと、ハイエナ。そこに、バナナにのったオランウータンが流れ着き…。凶暴なハイエナがシマウマをかみ殺し、さらにオランウータンも(だっけかな?)…と思っていたら、虎も隠れて乗っていた! と。どうやって共存するのかと思ったら、筏をつくってボートとつなぎ、そこで生活するのだった。なーんだ。心が通じるわけでも、襲われないわけでもないんだ。
ここでまたまた大きな省略がある。一瞬でシマウマ、オランウータン、ハイエナはどうなったのだ。当然、虎が食べたのだよな。にしてはボートはキレイで骨ひとつ残っていない。話をきれい事にするための省略かね。
というわけで、あとは水問題、食糧問題。クジラやイルカは登場しても食べない。トビウオとマグロが食われる。このマグロを餌にして調教しようとするけど、そんなにうまくいかず。大嵐で虎もパイもへろへろになったときぐらいしか、接近していないのだよな。
で、ふと気づくとある島に。ミーアキャットの楽園なんだけど、寄る寝ようとしたら花の芯に人間の歯があり、人食い島と発覚。ひと晩で逃げ出す。…という、この人食い島のエピソードは面白かったけど、他の部分はありきたりな感じで退屈。ところで人食い島は幻覚かなんかかと思っていたんだけど、パイにとってはそうではなかったようだ。
で、メキシコに到着。虎は淡々と森に消えていく。パイは苦難を共にしたのだから振り向くだろうと思っていたら、そのまま呆気なく消えてしまった。残念。
乗っていたのは日本の船だったので、状況を聴きに日本人がやってきて、件の航海記を話すが、虎も人食い島も信じてもらえず。なのでパイは作り話をしたという。それは「コックと船員と母親がボートに乗船した。コックが船員を殺し、食べた。次いで母親を殺した。僕はコックを殺した」とかいう話だったかな。ってことはあれかい。この作り話が本当なんだけど、それをはっきりとは言えず、虎と漂流した、という物語にして自分や他人に言い聞かせてきた、と。パイ=虎であり、勇気ある存在であるとかいうのか。でも、人肉食や母親を殺される悲惨な状況に陥った割りに、カナダに暮らす現在のパイは性格破綻もしていないし苦悩もない。フツーに明るく家族を作家に紹介する。というところが、いまいち納得できないもやもやなところかな。
パイの本名の名付け親にして、作家にパイの存在を知らせたのは、パイの叔父だった。その叔父は水泳が得意で、パリのプールにちなんでパイの本名をつけたらしいが。インド人も水泳をする、というので驚いた。選手権試合なんかにでてこないじゃん。
パイの父親は小児麻痺、母親は医者だったか何だったか、大学出。母親の実家は、カーストの低い相手と結婚したからと、娘(母親)を勘当したとかいってたな。それは何か、関係あるのかな。
虎と漂流したことで、パイは虎と心がつながったと思ったのだろうか。で、考え方は戻ったのだろうか? 宗教に対する考え方は、変化したのだろうか。そういえば、3つの宗教+ユダヤ教も学校で講義しているとかいってたっけか。
しかしこれがアカデミー10部門ノミネート4部門受賞とはね。むしろ中国人が米国資本でインド人の話を映画にした方が興味深い。★後記/ボートの中で、パイが虎であるのは、パイの2つの心の対立である説を「シネマ4の字固め」で言っていた。なるほど。パイの虎の部分がコックを殺した。少し臆病だけど理性的なパイの部分が、航海を維持させた、というわけか。それはそれで納得。で、「シネマ4の字固め」では人食い島のことを「宗教そのもの」と言っていたけれど、あれはたんに、漂流中に死の一歩手前まで行った、ということを表しているのではなかろうか。そもそも、この映画がどれだけ「宗教」について語っているのか、疑問のところがある。宗教を否定するには大がかりで遠回り。神も仏もないのなら、どうしてパイは助かったのか。とかね。理屈がスッキリとは収まらないところがあるような気がするのだが…。
ムーンライズ・キングダム7/23ギンレイシネマ監督/ウェス・アンダーソン脚本/ウェス・アンダーソン、ロマン・コッポラ
原題は"Moonrise Kingdom"。「月の昇る王国」? allcinemaのあらすじは「1965年、アメリカ・ニューイングランド沖に浮かぶ小さな島。家庭に恵まれず世界に自分の居場所がないと感じている12歳の少年サム。所属するボーイスカウトのサマー・キャンプ中に置き手紙を残し、姿を消してしまう。一方、厳格な父と口うるさい母に辟易していた同い年の少女スージーも両親の目をかいくぐり、家を飛び出す。1年前に出会い、瞬く間に恋に落ちたサムとスージー。2人は1年にわたって文通を続け、入念な駆け落ちの計画を練り上げていたのだ。草原で落ち合った2人は、手に手をとって秘密の場所“ムーンライズ・キングダム”を目指す。一方、シャープ警部やボーイスカウトのウォード隊長、スージーの両親ら島の大人たちは2人の失踪に気づき大あわて。折しも島には大きなハリケーンが接近していたのだが」
冒頭からオモチャの家、人形みたいなヒロイン。そして様式化された描写、カリカチャライズされた人々…。「ライフ・アクアティック」とか「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」に似てるなと思ったら、その監督だった。ははは。
「小さな恋のメロディ」と「大人は判ってくれない」を合わせたような話で、理解のない大人たちから逃げ出す少年と少女の話。よくある話で単純ではあるけど、「ライフ」や「ロイヤル」みたいなビミョーな部分がないので、分かりやすかった。それと、いかにもモテなそうなチビでメガネのオタクっぽいサムと、ちょっと神秘的で妖しい美少女スージーのキャラクターも影響してると思う。
サムの両親は早くに死に、里親に出された。ところが反抗的でどの里親も長くつづかない。でも、見かけは悪ガキではないので、どこが扱いにくい少年なのか、ちょっと分かりにくい。スージーは両親に理解されない故の家出かな。ファンタジー好き。不貞腐れ顔のわりにピンクのワンピは子供だったりする。その彼女が読む本がたくさん登場するんだけど、よく分からず。あれ、分かれば内容が深く理解できると思うんだが…。とにかく、彼女も、そんなワルには見えない。最後まで2人ともワルではなく、ごくフツーに近いので、その点の説得力はないかも。っていうか、「ライフ」や「ロイヤル」みたいなビミョーが、ちゃんとあるのかも知れないけど、分からなかった。
スージーは、なんでも望遠鏡を介してみる。なんでも魔法の効果があるとか。お見通し、ということかな。いっぽうのサムは黒縁メガネ。ともに視線は歪んでいると言うことか。
この話が寓話であることは、舞台となる島を紹介するオッサン=狂言回しが登場することでも分かる。地理や自然がどーだと、まるでテレビ番組でインタビューされているかのように話す。このクッションがあることで、すべてのウソは寓話と化して納得される仕組みだ。「メリーに首ったけ」でも同じような狂言回しがでてたけど、あれと同じだな。
2人で落ち合い、海岸でテントを張ってたけど見つかって捕獲される。そこを、サムのボーイスカウト仲間が助けに来て、あとは追いかけっこ。捕まりそうになったり、かわしたりしつつ、小さな冒険大活劇。最後は塔の上から飛び降りようとするところをシャープ警部に救われる。折しも強力な台風が訪れていて…。サムはシャープ警部の世話になり、スージーも家に戻る。2人には接近禁止令でもでているのか。でも、シャープ警部は気を利かして、サムをときどきスージーの家に連れてきて、窓から忍ばせて会わせている、というラスト。
・サムがボーイスカウトから脱走した! 隊長が確認すると、テントに貼ったポスターの裏に穴! って、「ショーシャンクの空に」と同じだな。
・入江にテントを張って、2人はいい気分。2人はレコードをかけてロックに合わせて・・・。でもサムはリズムに合ってない。そのうち2人はダンスしだす。これがリズムに合ってない! 2人はキス。スージーは「固くなってる」と露骨に言う! なんとなんと。と思ったら、サムがスージーの耳にピアスの穴を開ける! おお。つまり、セックスしたということを示唆している! なんとまあ。
・追っての少年を、スージーが刺してしまう! はリアルすぎるかなあ。全編がおとぎ話的なのに、ちょっと違和感。それから、スヌーピーという犬が弓で射られて死ぬのもリアルだな。こういう、痛みに関してはファンタジーのままにはしないということか。
・サムは仲間とは上手くいってない、と思ったんだが。元の仲間が、突然、2人を助けようと動き出すんだよな。腕っ節が強そうなやつが「孤児を助けるのだ!」とかいいはじめて。あの流れはよく分からず。
・オバサンが鬼門な感じ。保健局からやってくる女性は、悪者の代表か。スージーの母親も、シャープ警部補と浮気してたりするし…。その2人が逢い引きする場所は、いつも小灯台のそば。スージーの母親も、その灯台と似たような赤白服を着てたりする。なんか意味があるのかな?
・別のボーイスカウトの隊長に助けてもらおうと行くんだが、これがすべて金で解決するやつ。その隊長の話を、サムの元仲間たちは全員ガム噛みながら聞くというのがおかしいけど、どういう意味なんだろ。
・ボーイスカウトには連隊長みたいのがいるんだが、嵐が来たので撤退しようといっているのに「薬を取りにいく」と小屋に戻り、そのせいで落雷だったかの事故に会う。気の毒。
・サムも逃げるときに落雷に会うんだけど、たしかスージーのキスで生き返るんだっけか。おとぎ話の定番?
・スージーも、なんかいろいろ変。弟のレコードプレイヤーをもって駆け落ちするのはなんで? 逃げるとき、ベッドに人形を寝かせてきたんだけど、これがなかなかユニークすぎる人形だったし。
・最後は大嵐というのは、この手の話の収拾の定番。「台風クラブ」もそうだったなあ。
・オープニングとエンディングは、オーケストラの編成の紹介。楽器の名前などを延々と話していく。どういう意味なんだろ。たとえば…。どれも必要な楽器で、要らないものはない。それぞれに役割があるのだ、とかいうことをいわんとしているのかな?
爆心 長崎の空7/25ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/日向寺太郎脚本/原田裕文
allcinemaのあらすじは「大学三年生の門田清水は父母と暮らし、大学に通い、ボーイフレンドとのデートを楽しむ普通の日々を過ごしていた。だがある夜、心臓発作を起こした母が亡くなってしまう。清水は母の突然の死を受け入れることができない。一年前に一人娘を失った高森砂織は、いまだにその悲しみを癒すことができずにいた。砂織は妊娠するが、また子供を奪われるのではないかという恐怖を感じている。そんな清水と砂織が、浦上天主堂の近くで出会った。大切な人を亡くした二人は心を通わせるようになるのだったが」
原爆ものなので覚悟はしていたけど、こんなにひどいとは思わなかった。つじつまの合わない話、学芸会みたいな説明ゼリフ、あいかわらずステレオタイプな表現(たとえば夕食では主人がビールを飲むとかね)とか、飽き飽きしてくる。
いちぱん奇妙なのは、原爆との因果関係がほとんど指摘されていないことだ。門田清水(北乃きい)の母親(渡辺美奈代・演技が下手くそ)は、心臓麻痺で亡くなったらしい。日頃から疲れやすいようだったけれど、それが被ばく二世のせいとは言われていない。高森沙織(稲森いずみ)と博好(杉本哲太)との娘は、急性肺炎だった。こちらも被ばく三世とは指摘していない。そんなこと、当たり前だろ、といわれるかも知れない。でも、言うべきことは言わないと、伝わらない。あんなんじゃ、背景を知らない人が見たら、「どこが原爆?」になってしまう。「みんな原爆のせいだー!」という昔からのプロパガンダ風にした方が、まだましだ。
もうひとつ。清水の同級生、廣瀬勇一(柳楽優弥。エンドクレジットで分かった!)のキチガイぶりは、あれはなんなの? 原爆とはまったく関係ないよな? 母親に虐待された…かと思ったら自分で根性焼きをしてる? スナック経営の母親に「五島に帰ろう」と泣きつき、受け入れられないと、ひとりで暮らす小屋の内壁に釘を打ち付け、「これはノアの方舟だ。お前は乗せない」と清水にいう。たんなるキチガイだろ。五島の隠れキリシタンが乗り移ったか? しまいには小屋に火をつけ、清水とともに焼け出される。アホか。
キチガイといえば、幼い娘を失った沙織には、娘が浜辺でひろった貝殻が見えるという。では、沙織が心の変調をきたしたのも、原爆のせいだというのだろうか。そんなことはない。たんなる個体差だ。同じように子供を亡くしても、強く生きられる人もいる。それぞれだろう。こうやってすべてを原爆のせいに収斂されるようなやり方は、どーなんだろね。いまどき流行らんよ。
清水の母親は、具合が悪くなって倒れたシーンの次のシーンで、もうお骨になっている! そこで父娘がカレーを食べるんだが、それは母親のつくった最後の料理らしい。倒れた翌日に通夜で翌々日葬儀にしたって2日目のカレー。場合によっては葬儀まで1週間ぐらいかかるぞ。父親がちょっと臭いを嗅ぐのはそのせいか? それにしても妙なシーンだ。
その、母親が倒れた当日、清水は医学部の彼氏とラブホにいた。あんなセックスシーンが必要なのか? と思ったけど、そのとき自分は男とやってた、という罪悪感を出すためなのかも知れない。にしても、あんまり意味がないよな。むしろ、この女、尻軽だな、という印象をもってしまった。とくに、医学部の彼氏が「東京に行って勉強する」といったら「お母さんが死んだのよ。あんたまでいなくなってしまうの」的なことをいって彼氏をなじり、以降、仲が悪くなる。そして、同級生の勇一と寝てしまうのだから、ヤリマンじゃん。
勇一の五島、清水の長崎。どうして彼らは故郷にこだわるのだろう。まるで都会に出るのが罪悪かのようにいう。古くさいステレオタイプだよな。そういえば、沙織の妹・美穂子(池脇千鶴)は、男に捨てられて東京から戻ってきた設定。これまた古色蒼然たるステレオタイプ。なんでこういう発想しかないんだろ。ま、原爆告発の映画ということからして、古くさいけど。いや、やるなと言うんじゃないよ。昔と同じ視点で描いてもしょうがない、ということだ。
両親の原爆話に、沙織と美穂子が「知らなかったよ」って、アホか。原爆体験記なんて山のようにでてる。戸籍謄本なんて簡単に見られるだろ。母親が養子で、両親の欄が真っ白、なんてすぐ分かる。知りたい気持ちがなかったんだ。母の話も、とんでもない話ではない。あのぐらいフツーにするだろ。
全体の構成も変。両家族がいつ交差するのかと思ったら、最初が勇一と美穂子。これは近似接近だな。正式には車道をふらつく沙織を清水かばうところが最初で、最後の火事のシーンで全体が交わる。こんなもったいぶらず、もっと交錯させてドラマにすればいいのに、なんかいらつく。
・66年前、焼け野原を見た、と高森良一(石橋蓮司)は言っていた。ってこては映画の現在は2011年で、焼け野原を見た記憶があるのだから10歳としても、76歳ということになる。じゃあ娘の沙織と美穂子は何歳だよ。現実の稲森いずみは40歳、池脇千鶴は31歳前後だぜ。遅い子供だな。
・電車で幼女に微笑。幼女の隣の席が空く。幼女は向かいに座っていた母親をそこに呼ぶ。母親の座っていた席は青年に座られてしまう…。何げないシーンだけど、気になった。多少伏線にはなっていたけど、あまりピンとこない展開だったな。
・鷺は高森瀧江(沙織と美穂子の母親。しかし宮下順子とは気づかなかった!)にとって幸運を運ぶ鳥らしい。その鷺が、家の何かに引っかかって死ぬ。それを大切に抱え、埋めに空き地へ行く…あたりから、どーも話が奇妙な感じになっていく。オカルトというか、ハチャメチャというか。本筋とは関係のないような方向。で、空き地で焼け出された2人(清水と勇一)と出くわすのだけれど、こういう話で何を言わんとしているのかさっぱり分からない。むしろ、小屋が丸焼けになっても、気がつかれない周辺の住民、消防が気になった。それと、かつて自分が焼け出された場所だからと、勝手に空き地に鷺を埋めていいものなのか?
・沙織が娘の墓参にやってくる。墓石に、原爆で亡くなった人の名前が刻まれているのだけれど、赤字になっているのだよ。赤く塗るのは、まだ生きている人ではないの? 長崎では違うのか? あと、墓域に石の椅子があるつくりが興味深かった。あ、そうだ、あの墓石ってキリスト教のものになっていたのかな? よく見てなかったけど。それと、墓場のシーンで画面が急に暗くなるのが違和感。露出が変わったのかな。それと、意味のない短いズームがちょこちょこあったり。へんな感じだった。
・沙織が父親と寺に行くのはなぜなんだろ。「キリスト教が寺だなんて」と娘がいうと父・良一(石橋蓮司)はテキトーに誤魔化してたけど、意味ねえよな。長崎の有名観光地だからだした、ってだけみたいな気がするぞ。そういえば、大沢たかおの「解夏」にも登場していたような…。
風立ちぬ7/25MOVIX亀有シアター3監督/宮崎駿脚本/宮崎駿
映画.comのあらすじは「幼い頃から空にあこがれを抱いて育った学生・堀越二郎は、震災の混乱の中で、少女・菜穂子と運命な出会いを果たす。やがて飛行機設計技師として就職し、その才能を買われた二郎は、同期の本庄らとともに技術視察でドイツや西洋諸国をまわり、見聞を広めていく。そしてある夏、二郎は避暑休暇で訪れた山のホテルで菜穂子と再会。やがて2人は結婚する。菜穂子は病弱で療養所暮らしも長引くが、二郎は愛する人の存在に支えられ、新たな飛行機作りに没頭していく」
さてと。始まりは、屋根から飛行機で飛ぶ夢、教師に英語の本を借りる、いじめっ子をやっつける、母にケンカはダメと言われる、妹が遊ぼうという、勉強中だと拒否、フランスの技師の夢の中へ…。夜、屋根に登って星を見る、妹がきて流れ星が見えるという…と、流れはスムーズ。でも、曰く言い難い淡々さで、説明がまったくない。時代はいつ、場所はどこ、家族構成はこれこれで…というような折り目が正しくない。時代が飛んで汽車、地震…のときも、すでに一高か東大の学生らしいが、説明しない。地震が関東大震災であるとも言わない。この手応えのなさはなんなんだ。エピソードの羅列で、輪郭がまるで見えない。というより、いつになったらドラマが始まるのだろう? 対立項も超えるべき課題も葛藤も嫉妬も憎しみも、ない。ドラマツルギーを無視して、まったく物語ることなく、ほんとうに淡々と流れている映像は、現実のエピソードと主人公二朗の夢の世界を行ったり来たりするのみ。
なのだけど、それが宮崎駿の狙いであると徐々に気づいてきた。二朗は、自分の世界を全うしたのである。世の中に迎合もせず、振りまわされたり翻弄されたりもせず、やりたいことをやり、好きなように生きた。それはたまたま軍国主義・侵略戦争の時代にかちあってしまったけれど、二朗の生き方はまったく変わらなかった。時代に抗うこともなく、空への夢を毎日つむいでいた。生み出す飛行機が戦闘機であり、それは人殺しの機械で、また、乗り組むパイロットも死に追いやる装置であることも知っていたけれど、そのために空への夢を捨てることもしなかった。だからといって戦争を賛美する立場でもなく、とくに反対する立場でもない。そういう時代に遭遇してしまったことを呪いつつも、飛行機をつくるという与えられた仕事の中に、夢と工夫を凝らしていった。それが生きる糧になった。そんな一途な半生をつづった物語だ。
とくにヤマ場はない。アクションもない。せいぜい恋人菜穂子との恋物語ぐらいしか感動的なところはない。感動的といっても胸に迫るというようなものではなく、これもまた淡々と切なくつづられている。この平板すぎるぐらいの流れに、次第に引き込まれていく。ほとんど感情を表現しない二朗の吹っ切れ具合に、清々しささえ感じるようになってしまう。戦争に加担した人たちもまた、多くはこんな感じだったのかも知れない。心の中では「この戦争は負けるかも知れない」と思いつつ、反対することもできない。そんななかで、自分のできることをこなしていく。これは、二朗のような技術者だけでなく、広くあったのではないだろうか。
というわけで、このアニメには起承転結がない、長大な心象風景のようでもある。だから、ドラマを期待する人にはつまらないものに写るやも知れない。小学生の児童には、おそらく支持されないだろう。高校生以上の、大人でないと分からないかも知れない。そういう意味で、これはアニメではあるけれど、立派な映画になっている。カリカチュアされたりすることもなく、真っ向からストレートに題材を扱い、見事に料理してしまった。聞くところによると実際の堀越二朗は震災に遭ってないらしい。だから、震災、高原での再会、恋物語は堀辰雄の世界なのだろう。その小説世界と、飛行機のエンジニアの生き方を融合してしまうのだから、大したものだ。反戦メッセージを極力抑え、でも、ちゃんとその主張はつたわってきている。きっとこれは、宮崎駿の最高傑作になるのではないかと思う。
・軽井沢みたいなところで遭遇するドイツ人スパイは、ゾルゲ?
・夢の世界は、線画アニメが多い。いっぽう現実世界の背景はリアルに塗られている。
・そんななかで、計算尺のアップと菜穂子がキャンバスに塗る絵の具の部分は、なんかCGか実写みたいにも見えなくもなかった。
・線画のシーンでも、いろいろよく動いている。凄いのは群衆シーンで、止まっている人がほとんどいない。手抜きがないので、説得力も高まるのだろう。
・名古屋の街がリアル。建物や看板まで見事に再現している。いっぽう、飛行場まで牛が引いていく試作機などは、これが最新鋭機の運搬か? と思うぐらいの有り様で、こういうのはシルエットに近いリアル描写だったな。
・菜穂子との最初の遭遇は、モネの日傘を差す女そのもの。最後に夢の世界で登場する菜穂子もそうだったけど、あの絵が好きなのかな。宮崎駿。 ・タバコを吸うシーンがとんでもなく多い。これは世の嫌煙傾向への抵抗か。労咳で横になる菜穂子。仕事がある二朗。菜穂子が布団の中から手を出して「つないで」という。「片手で計算尺を使う技術は僕がいちばんかも」…「タバコ吸いたい。ちょっと離しちゃダメ?」「ダメ。ここで吸って」「ダメだよ、そんなの」といいつつ、すぐに火をつけて煙をくゆらせる…というシーンがよかった。
菜穂子と平気でキスできる愛情の深さが、怖いくらいであった。
★追記/2013年8月4日、朝日新聞朝刊の書評に『身体を躾ける政治 中国国民党の新生活運動』深町英夫著が取り上げられていた。評者は内澤旬子。評によると、蒋介石は1934からの国民党政権下で国民の身体を躾けることにこだわったという。具体的には痰を吐くな、ぶつかったら謝る、切符を買うときは順番に、服のボタンは留める…などで、日本留学したとき「日本人が質素に暮らし、冷水で顔を洗い、冷飯を食べるのを見て、徴兵後すぐに兵士として使えると合点したからだ」という。また、「勤勉かつ健康な兵士と労働者の育成、これこそが近代的国民国家に求められるものだ」と思ったかららしい。でも反面で「蒋介石の本意はきわめて監視、統制的で、窮屈な気分に陥ってもおかしくない」と内澤旬子は書いている。これを読んで思った。日本人は勤勉で素直だと言われている。しかし、いったん組織に加入すると個人はかき消され、上司の命令に素直に従うようになる。和を乱さない。反論しない。意見を言わない。言われたことを黙々と行う。そして、社会的な批判眼は失われていく。そういう民族なのだ…。おお。まさにこれは堀越二朗そのものではないか。結果はあの敗戦である。日本人はそのことに学んだか? いま、右傾化の中で、同じようなことが起こってきているのではないか? 個人が優秀で、与えられた業務や夢に一途になれても、その結果がどうなるかに思いを巡らすことができないようでは、危うい…。…ということを、宮崎駿は言わんとしたのではないか。反面教師として、堀越二朗を描いたのではないか。映画のなかの堀越二朗の清々しさの裏側には、そんな危うさを危惧する視点があるのではないかと、ふと思ったのであった。
エンド・オブ・ザ・ワールド7/29キネカ大森3監督/ローリーン・スカファリア脚本/ローリーン・スカファリア
原題は"Seeking a Friend for the End of the World"世界の終わりに、友だちを求めて…みたいな感じ? allcinemaのあらすじは「小惑星の衝突による人類滅亡まで、あと21日となった地球。突然、妻に去られたドッジは、“最後の飛行機に乗り遅れて、両親のいるイギリスに帰れない”と泣き崩れる隣人の女性ペニーと初めて言葉を交わす。翌日、彼女のもとに誤って送られていたドッジ宛ての手紙3年分を渡される。やがて、その中に彼が今でも想い続ける高校時代の恋人オリヴィアからの手紙を見つける。彼は世界が終わる前にオリヴィアへの気持ちを伝えるべく、飛行機を捜すペニーを連れ立ってオリヴィア捜しの旅へと繰り出すのだったが」
この世の終わりという設定は、よくあるパターン。でも、そこそこリアルでファンタジックな展開は、なかなか魅力的。とくに、女房にも逃げられた「童貞男」のスティーヴ・カレルが、あのキーラ・(超貧乳だけど)・ナイトレイに惚れられるのだから、オッサンには夢のような映画だね。
友人がパーティを開き、そこで中年の女性を紹介されるんだけど、女房に逃げられたショックから立ち直れないドッジ。でも、階下(隣室?)の娘が泣いていると同情しちゃうのは、やっぱり相手が若いせいかしらね。しかし、2人が次第に好意を寄せ合っていく過程は、かなりドッジに都合がよすぎ。なにしろペニーは若い(けど働いていない)男と同居してたし、大麻もやるような奔放な娘。いっぽう、手堅く保険会社勤務の、ほとんど遊びも知らないドッジ。どう見ても釣り合わない。でもま、それをくっつけちゃうのが映画ではある。接着剤になるのは、どっかの誰かから押しつけられた犬のソーリー。誰かが、公園で寝てるドッジに「sorry」のメモとともに置き去りにしたから、この名前だ。
しかし、隣近所なのに顔もほとんどわからんのは、彼の地も同じみたいだね。で、周囲で暴動が発生したからと、ペニーに知らせに行くドッジ。そこでペニーの元カレに遭遇するんだけど、この元カレがまた踏ん切りがわるい。捨てられたんだか捨てたんだかよく分からないまま、3人で逃げようとするんだけど、元カレは置き去り…気の毒。ここでドッジは、自分は元恋人に会うために。そして、ペニーには、小型飛行機をもってる知人がいるから、イギリス行きの可能性をエサにするんだけど、ペニーも「あと3週間」とか思うと、なるようになれ、だったのかね。
クルマがガス欠で、ヒッチハイクした親父は殺し屋に自分を撃つよう依頼していたり、フレンドリーズ(正確には何だっけ?)とかなんとかいう妙なレストランに入り、ペギーがハイになった勢いで2人はエッチしてしまう。そのあとの場面の、場違いな感じがなかなかよかった。で、ペギーの元々彼の黒人宅に寄ってクルマを借り(自分たちはシェルターで生き抜くつもりなのがおかしい。ペギーに、クルマは返せよな、といったり)、オリヴィアの家に寄ったけど結局は会わずにやり過ごし、自家用飛行機をもつ知人のところに行ったら、それはドッジの父親だった。
ドッジと父親の間にあるわだかまりについて、説明していたっけ? 前半で。記憶にないが、どーもそうらしい。でも、ペニーをイギリスに送るために、会いたくない父親に会ったのだから、ドッジもどうかしてる。ま、みんなどうかなっちゃう設定なんだろう、世界の終わりなんだから。
で、寝入ったペニーを父親に託し、自分は自宅に戻ると、なんと毎週やってくる家政婦がやってきてて、「じゃ、また来週」とニコニコと帰っていく。これもまあアイロニカルでいい。さて。週末を迎えるのは結局ひとり。と思っていたら、ペニーがやってくる。「引き返してもらった」と。イギリスの両親のそばより、ドッジのそばで終わりたい。ううむ。なかなかオヤジ殺しな映画であった。
ルビー・スパークス7/29キネカ大森3監督/ジョナサン・デイトン脚本/ゾーイ・カザン
原題は"Ruby Sparks"。allcinemaのあらすじは「天才と騒がれ若くして華々しいデビューを飾った小説家のカルヴィン。しかしその後が続かず、今や極度のスランプ状態に。すっかり心を閉ざし、セラピーに通う彼は、セラピストのアドバイスで、理想の女の子“ルビー・スパークス”をヒロインにした小説を書き始める。すると突然、現実の世界で彼の前にルビーが現れる。しかもカルヴィンがタイプライターを叩けば、ルビーはその言葉通りに振舞うのだった。この魔法のような出来事に戸惑いつつも、ルビーとの日々に幸せを感じるカルヴィンだったが」
想像上の人物が現実に登場する、というのは昔からよくある。日本だと、マンガなんかでも多い。そんなファンタジーを、いささか生々しくも映画にしてしまった感じ。でも、男の視点に立つと、そういうことができたら、という妄想はいつでもあるので、興味深く見ることができた。
ファンタジーなんだけど、CGやアニメを使ったりはせず、なんとなく仕立てがリアル。「アダプテーション」とか「マルコヴィッチの穴」みたいなエキセントリックな雰囲気で、不思議感が充満している。
カルヴィンはかなりの奥手で、女の子を誘う勇気もない。以前つき合って別れた子がいて、映画の中盤のパーティで遭遇するんだけど、どうもカルヴィンのデビュー後に接近してきた作家志望で、自分の作品を編集者に見せろと要求するような子だったようだ。いまは別れて、処女作もでたようで、強気でカルヴィンに刃向かっていたのが不気味だった。いるんだろうな、この手の戦略的な女というのは。
書けない…と悩んでいるとき、カルヴィンがふと見た夢。その夢に登場するルビーのことを書いた。これはいい作品になる、と兄夫婦を家に招待したんだけど、引き出しにブラジャーが入ってるのが見つかる。兄夫婦は「変態」を疑う。カルヴィンは理由が分からず狼狽…。次に、家に戻ってくると、馴れ馴れしく挨拶するルビーに出迎えられる!
カルヴィンは幻覚に違いないと判断。兄や精神科医に相談するんだけど、相手にしてもらえない。のだけれど、自分にだけ見えるのではなく、第三者にも見えることが分かり、驚愕。そして、理由は分からないけれど、自分が創作したキャラクターが現実に登場してしまったことに納得することになるわけだ。この流れは、とてもスムーズ。「エンド・オブ・ザ・ワールド」もそうだったけど、仲介者としてカルヴィンが飼っている犬が果たしている役割は大きいかも。
そうやって兄に紹介し、母と義父に紹介。みんなは、やっとカルヴィンもフツーの男になった、と思ってもらえるようになる。ただし、この辺りになると、ルビーは創作物というエキセントリックさを欠くようなところもたびたび。食事もすれば文句も言う、友人がいたりもする。生身の人間と変わりなくなってくる。とくにルビーを演じるゾーイ・カザンがそんなに美人じゃなくて、静止してれば不思議な魅力もないわけではないんだが、笑ったりするとシワが目立つし、顔が歪む。とても妄想から生まれた美女には見えない。あたりまえにフツーでリアルな感じが伝わってきてしまう顔立ちをしているのだ。これは最大の欠点かも知れないんだけど、逆にこの映画では功を奏しているところもありそう。なにしろ、想像から生まれた存在なのに、だんだんフツーの人間になっていく過程を描いているからだ。
でも、カルヴィンの意志が、ルビーのファンタジー性をかろうじてつなぎ止めてくれる。たとえば「ルビーはフランス語がしゃべれる」とタイプすると、その通りになってしまうのだから。この手を頻繁に使うようになるのは、ルビーがカルヴィンに飽き始めてからだ。カルヴィンには他に友だちが誰もいない。どっかに遊びに行くことも、友人たちと食事することもない。そんな生活にルビーは「いくらなんでも」と思い始めてくる。想像上の人間がそんな風になることはないと思うんだけど、まあ、設定的には、想像上のルビーも心変わりするらしい。そんなルビーをつなぎ止めるため、カルヴィンは「ルビーはカルヴィンと離れたくない(みたいな表現だったか…)」みたいなことを小説に書く。すると、もう四六時中べったり。それを重荷に思ってあれこれルビーの性格を書き直しているうちに、ルビーがおかしくなりはじめてしまう。
結局、カルヴィンは「ルビーは自由だ」と書くことで、ルビーを解放する。もうルビーを自分の思い通りに操っていくことはできない。ルビーは、カルヴィンから巣立っていこうとしている…。
というわけで、再び1人ぽっちになってしまったカルヴィン。それまで使っていたタイプライターをしまって、マックを導入。心機一転というか、これは過去の自分を捨てると同時に、ファンタジー世界から抜け出す意味もあるのだろう。そうしてルビーのことを書いた新作を上梓する。そして…公園を散歩していると、一人の娘と遭遇する。それは、ルビーだった。でも、こんどのルビーは生身の人間で、カルヴィンのことをこれっぽっちも知らない。…くせに、カルヴィンの新作をちょうど読んでいるところだったりして…。
というハッピーエンディングな終わり方なんだけど、最後のシーンは要るのだろうか? 妄想が生み出したキャラも、いつかは巣立っていく。自分の自由にはならない、ということで終わってもよかったんじゃないのかな、とも思う。もちろん、心がほっとするラストではあるのだけどね。
あるいは、結局すべてが妄想で、たまたま公園で遭遇したのが、妄想と似た感じの娘だった、ということなのかも知れない。必ずしもハッピーエンディングでなくてもいいと思うんだけどね。
ルビー役のゾーイ・カザンは、娘というより30歳間近だった。「恋するベーカリー」「50歳の恋愛白書」とか見てるから顔が記憶にあったんだろう。しかし、彼女がシナリオも書いているとはね。なるほど。自分で演じたかったのか。ヒロインは、もうちょっと可愛くてエキセントリックな娘がいいな、と映画を見つつ思っていたんだけどね。ははは。

 
 

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