2013年9月

スター・トレック イントゥ・ダークネス9/2新宿ミラノ2監督/J.J.エイブラムス脚本/ロベルト・オーチー、 アレックス・カーツマン、デイモン・リンデロフ
原題は"Star Trek Into Darkness"。allcinemaのあらすじは「西暦2259年。USSエンタープライズのクルーたちとともに惑星ニビルを探査中のジェームズ・T・カークは、副艦長スポックの窮地を救うために重大な規律違反を犯してしまう。地球に帰還したカークはその責任を問われ、艦長を解任される。その頃、ロンドンでは恐るべき陰謀が進行していた。やがて首謀者ジョン・ハリソンは惑星クロノスに逃亡。この緊急事態に、再びUSSエンタープライズの艦長に復帰したカークは、ジョン・ハリソンを追ってクリンゴン人が支配するクロノスへと向かうのだったが」
最初のエピソードでのカークのルール無視、自己弁護とか、うんざり。欧米の映画を見てると、こういうやつらばっかり。とはいいつつ話がストレートで分かりやすく(といっても、スポックが溶岩のなかで生きてたり、その溶岩が一瞬にして石化すると簡単にテレポートできたり、テキトーさ加減が過ぎるとは思うけど)、こりゃ寝ないで見通せるかな、と。
がしかし、途中からなんだかわけが分からなくなってくる。そもそもハリソンって、どういう存在なのだ? マーカス提督との関係が、セリフだけで説明されるので、よく分からん。300年前の冬眠していた何体もの1人らしいけど、人間? なんで超人的パワーをもってるのだ? マーカス提督はハリソンを眠りから冷まし、何かを得ようとしたけど…どうなったんだ? ヤバイと思って冬眠中の一団を魚雷に仕込んだ? その疑惑にマーカス提督の娘キャロルが気づき、ハリソン追討に向かうエンタープライズにもぐり込む…って、名前を偽って搭乗できるぐらいセキュリティはいい加減なのね。
そもそもハリソンが情報室を爆破したりトップ会議を襲撃したのは、なのんのため? マーカス提督の陰謀を阻止するため? マーカスはクリンゴンと戦争をしたがってるとかいってたけど、そのことか? それとも、自分(ハリソン)と冬眠中の仲間を抹殺せんとする企みへの反抗? でも、多くの非関係者の命を奪ってしまうことには無関心だったのね。よく分からん。
で、クリンゴンとの中立地帯に降り立ち、たまたまクリンゴン星人と対立しかけたところにハリソン登場で、カークやスポックを助けるのは何のため? さらに、魚雷の数を聞いて投降するのはなぜなんだ? あのパワーをもってすれば魚雷なんてかわせるのではないのか?
で、ハリソンは「実は自分は…」と話し始めるんだけど、なんかピンとこない。では敵はマーカスなのか? マーカス艦が現れ、キャロルがマーカス艦へ転送されて父親と対立したり、黒幕はマーカスか、と思っていたらなんと。マーカス艦がエンタープライズに攻撃…というところでいきなり攻撃不能になってしまう。あれはなぜなんだ? スコットがマーカス艦に転送されて、何か工作でもしたのか?
さらに、カークとハリソンがエンタープライズから人間大砲のごとく発射され、マーカス艦に乗り移るという無茶をするんだが、手引きをするのがスコット。これが、携帯みたいのでエンタープライズと話しているのに全然探知されない不思議。乗り込ませるのに、マーカス艦のハッチを手動で開けてしまうテキトーさ。バカバカしくなってくる。
で、こんどはハリソンがマーカス提督をぶっ殺し、自分の仲間の再生を目論んでいることが知れる。そして、カークとマーカスが死闘を繰り広げ…あたりは、もうわけが分からんので、中味に興味がなくなってしまった。だって話のつじつまがよく見えないんだもの。
で、ハリソンは捕獲され、ふたたび眠りに就く。いっぽうエンタープライズの動力が反応しないので、カークが動力室に入って発電装置みたいのを蹴って直す。おい。昭和のテレビかよ。で、最後はエンタープライズがなぜか地球に落下するんだけど、あれで何万人が死んだんだ? というような派手な落下。被ばくして死んだカークは、ハリソンの血清を注射されて生き返る(テキトーすぎ)というのは、冒頭の、難病に冒された少年(?)をハリソンの血清で治すのが伏線になってるわけだが、この少年の親が、息子の快癒との引き換えに資料室を爆破させて多くの命を奪うのだが、そんなこと軽々にするやつはおらんだろ。
というわけで、話がバカなので、いくら映像が派手でもいっこうにつたわってこなかった。キャロル約のアリス・イヴもエラ張り女だし。ちょいエロなシーンも一瞬あるけど、アホみたいなモノ。ううむ。
そういえば。スポックが感情を剥き出しにしてボカボカ敵を殴るシーンがあったけど、ファンはああしたところで驚いたりしているのかもね。
マン・オブ・スティール9/6新宿ミラノ1監督/ザック・スナイダー脚本/デヴィッド.S.ゴイヤー
原題は"Man of Steel"。allcinemaのあらすじは「クリプトン星で生まれたその赤ん坊は、滅亡を悟った父に最後の希望を託され、地球へと送られた。地球にたどり着いた彼は、ジョナサンとマーサの夫婦に拾われ、クラーク・ケントとして育てられる。次第に超人的な能力に目覚めていく少年時代、養父からはその能力を使うことを固く禁じられていた。周囲との違いに孤独と葛藤を抱えながら青年へと成長したクラークは、やがて自分探しの旅に出て、自らの使命を確信する。そんなある日、クリプトン星の生き残り、ゾッド将軍がクラークの存在に気づき、彼を追って地球へと襲来する」
最初はクリプトン星で。地下資源を掘りすぎてあと7日だか20日だかで星が崩壊してしまうという。なすすべのない元老院にゾッド将軍らが反乱を起こす! のだけど、文明が発達してるのに、巨大宇宙船で逃げるとかしないのか? ゾッド将軍の目的は何なの? そういやあコデックスなるものを争うんだけど、それを最初に手に入れるのはカル=エル(クラーク・ケント)の父親ジョー=エルなんだよな。それもひとりで勝手に…。でも、コデックスが何なのかはなかなか分からない。ちょうどそのとき、ジョーの妻は自然分娩で子供を産んだ。これも後から分かるんだけど、300年も自然分娩はなく、クリプトン星人はどういう人になるか役目を決められて生育・生まれるらしい。でもな。じゃあ男女の必要性はないじゃん。性的享楽はどうなってるんだ? セックスもなし? 地球より進化した星なら優れた遺伝子をもつ精子と卵子を組み合わせ…とかするんだろうけど、そういう精子や卵子はストック保存しておいて、いつでも好きな組み合わせがつくれるんじゃないか。とか、優性学のことを考えてしまう。
と思っていたら、コデックスというのは、全クリプトン星人のDNAデータらしい。で、それをジョーはカル=エルとともに地球に送ってしまうのだ。地球で生き残ってくれればいい…と。そんな大事なことを一人で決定するのは勝手すぎるだろ。しかも、生まれたばかりのカル=エルを送って、どうされようというのだろう。…てなことを考えてしまった。
で、ゾッド将軍は、ジョー=エルを殺害するんだけど、これが短刀のひと突き。おいおい。そんなんで死んじゃうの? クリプトン星人は地球じゃスーパーマンだけど、クリプトンではただの人だから? うーむ。
で、ゾッド将軍らは政府軍に逮捕され、どっか宇宙に放逐されてしまうんだけど、そんなことしたら彼らが生き延びて、クリプトン星人が滅亡しちゃうじゃないか、と思った。放逐する技術があるなら、クリプトンの知性ある人々を逃がせばいいじゃないか、と。
てなわけで、カル=エルの誕生とクリプトン星の崩壊については興味深いけど、ツッコミどころ満載。最先端科学をもちつつ、衣装や道具は古代ローマ的というもファンタジー的設定だけど、それはそれでまあ面白かった。
で、あんなでかいカプセルが地球に落下したのに、だれにも気づかれずにいた…というのがびっくりだぜ。拾ったジョナサン・ケントは、どうやって家まで持ってかえったんだ?
ジョナサン役がケヴィン・コスナー。妻のマーサがダイアン・レイン。ダイアン・レインが老け役だけど、かわいいね。
以後の、カル=エル改めクラーク・ケントの成長物語は、ちょっくら時制が前後して分かりにくい部分もあったけど、なかなか興味深い。幼いときから、力は使うな、と言われつづけて育ったクラーク。スクールバスの川への転落では、思わず使ってしまう。いじめっ子にも、使いたくなるけど、使わない。使わないことによって、人を見殺にしてもよいのか? という問いはバットマン『ダークナイト』の、助かりたければ相手の船を爆破させるスイッチを押せと脅される究極の選択=ダブルバインドと同じ。まあ、原案にクリストファー・ノーランがいるんだから、当然なんだけど。しかも、竜巻に巻き込まれる義父ジョナサンをも見殺しにすることになる。こういう体験をしてきたら、歪むだろうな、というようなエピソード。だいたい力を見せないようにといったって、すでにいろいろと小出しで見せてきてしまっているのだから、義父の命と引き換えにするのは…ねえ。それに、しばらくしたら堂々とスーパーマンデビューするんだから、父親の見殺しはふまり意味がない。
そういうクラークが、極点に近いどこか(?)で、はるか昔に移転先を見つけるためにやってきて、そのままになっていたクリプトンの宇宙船を発見する。のだけれど、あれは偶然だよな。取材中のロイス・レインもまきぞいになるんだけど、クラークが昔からもっていたS字のついたスティックを差し込むと、なんと、死んだはずのジョー=エルが登場する。しかも、かつて録画された三次元映像なんかじゃなくて、現在のかたちと意志を持った存在としてでてくる。おまえ、それって、どういうことだよ。死んだ人間の脳細胞が活動するなんて?
手名具合にツッコミどころは多い。けれど、もともともともとコミックにこじつけで話をつくっているのだからムリは承知。あまり不粋なことは言わないようにしよう。
緊張感がみなぎっていたのは、ゾッド将軍たちが地球にやってくるまで。以降のバトルはCG満艦飾で、しかも、ちゃん見せるのではなく、テンポを上げるために間引いたりコマ落とし風にしたりで、何がどうなってるのかよく分からん部分も。『パシフィック・リム』と同じで、殴ったりとばされたりもどーせCGと思うとちっとも迫力がない。飽きてくる。なので、後半のバトルに関してはあまり覚えていないし、どーでもいい。人間ドラマも希薄になってしまってるし。
しかし、あのスーパーマンスーツは、地球に着ていた宇宙船にあったものだよな。あれは、どうしたんだ? 地球でこそスーパーマンだけど、他の星ではフツーの存在なんだろ? あらかじめ、誰がつくったんだろう? 胸のS字も、なんとエスではなく、クリプトンの家紋らしい。こじつけが面白い。
で、最後は地球征服をもくろむゾッド将軍一行をやっつけてしまうんだけど、心は微妙ではないだろうか。たまたま地球にやってきて、地球人に育てられたクラーク・ケント。でも血筋はクリプトン星。どっちを大切にするか。まずは共存を提案してもいいと思うんだけど、あっさりと地球人側についてしまう。アメリカに移民したドイツ人が、故郷ドイツやドイツ人に刃向かい、ドイツを滅ぼす、ということだな。イタリアもロシアもアラブ人もアフリカ人も、アメリカ国籍を取得したらアメリカのために故国に矢を放て、ということなのだろう。人種のるつぼアメリカらしいけど、果たしてどこまで共感が得られるのだろう。西洋人はルーツが同じっぽいし、皇室の姻戚関係も多いので違和感は少ないかも知れないけど、日本などのアジアやアフリカ諸国、他の神を信奉するムスリムには、受け入れがたい趣旨かも知れないね。
しかし、後半のバトルで、あんなに建物や何やかにやを破壊して、犠牲者は山のように出ているだろうに、それに言及しないのも不思議であるよ。とヤボな突っ込み。
魔女と呼ばれた少女9/6ギンレイホール監督/キム・グエン脚本/キム・グエン
カナダ映画。原題は"Rebelle"。フランス語で「反乱」という意味のようだが。allcinemaのあらすじは「紛争の続くアフリカ、コンゴ民主共和国。平穏に暮らしていた12歳の少女コモナの村も反政府軍の襲撃を受けてしまう。さらにコモナは兵士として拉致され、その際、自らの手で両親を銃殺することも強要される羽目に。やがて兵士となった彼女は、戦闘中に亡霊に導かれて窮地を脱する。亡霊が見えるコモナは、ボスからも“魔女”と崇められるようになった。そして、ある時コモナは、彼女に想いを寄せる少年マジシャンと2人で逃亡を図るが」
あらすじに「コンゴ民主共和国」とあってたまげた。映画には、どこと特定する何もなかったはず。だから、紛争のつづくアフリカのどこかの国、という設定だとばかり思っていたから。つまり、政府軍と反乱軍のどちらが悪いか分からない状態で、反乱軍に連れ去られたケース、という設定かと思ったのだ。ところが、特定されるのならば、どちらが正しい方に近いか判断できるわけで…。
同情とか哀れみはあまり湧いてこなかった。概ね既知のモチーフだというのがいちばん大きい。もちろん哀しい出来事だ。しかも、いまもつづいている。では、この映画の主人公コモナに同情して、それで問題は解決するだろうか。なにも解決しない。ではどうすればいいか。でも、それを示唆するメッセージはこの映画にいささかも含まれていない。こんなの、たんなるウケ狙いだろ。この程度の映画なら、いくらでもある。問題提起して、それでオシマイなんて、それはない。と思ってしまう。
極論をいうと、ひとつの国家を維持できないような民族に、銃やクルマ、電気などの文明を与えるのをやめるのが一番いいのではないか。何も教えず石器時代に戻れというわけではない。ひととおりの教育はする。留学もいい。そうして培った文化によって自力(その国の人々の力)で文明の品々が製造できるようになるならそれでよし。さもなくば、槍と楯でずっと暮らしていなさい。それが一番だ。と思ったりする。
もちろん西欧諸国によるアフリカ進出が、そもそもの原因だ。独立しても部族間の争いは絶えない。武器商人が悪いのも分かる。だからまず、武器商人には退出願う…といった状況を、先進国側がつくれないものなのか。そもそもの原因をつくった西欧諸国の責任として、できないかね。
さて、他国が途上国を管理するなんて…と思うむきもあるだろうけど、完成された物質文明を与えるだけでは、人間は何も考えないようになってしまうと思う。銃ひとつとっても、それをつくり出せる国力があれば、まったく違う未来が見えてくるはず。でも、何も考えず、出来合のものを与えられるだけでは、人間は進歩しないだろう。
一番いいのは、完全隔離して誰も接触できないようにすること。そうすれば目先の欲望も少しは減って、銃で殺しあいから、槍で部族間の殺し合い程度に収まるんじゃなかろうか。『セデック・バレ』を見た限りでは、未開国家であれば、部族間の争いはどうしても生じる。それをなくすことは難しい。自然のままを残すのであれば、そういう争いを包含したものとして見つめていかなくてはならないのではないだろうか。ここで、殺しはいけない、などといいはじめたら、18世紀のアフリカでキリスト教を布教したような連中と同じ道を歩むことになるだけだ。
そういうのが、もっとも安穏な文明の発達だと思う。要するに、猿にマシンガンを持たせるのがいかんのだ。なんていうと、なんて差別論者だとかいわれそうだけど、じゃあどうすんだよ、だよな。暴力的な連中だけ格子のなかにでも入れろってか。そんなの、この映画で示唆してることと大差ないじゃん。
反乱軍兵士に強要され、両親を殺すシーンは、とくに衝撃はなかった。既知だったし、『ルワンダの涙』でも出て来ていたと思うから。むしろ、日本人ならどうするか? を考えた。銃を渡されたら、結果的に自分が殺されるのを覚悟しても相手に銃を向けるのではないのかな。戦前の12歳なら確実にそうするだろう。現在は、半数以下だろうけど。
マジシャンは、なぜ反乱軍から逃げたのか? 理由が分からない。ちょっと前のマジシャンのテントの中での2人の会話にヒントがあったのかな? 当日はマジシャンがリーダー格で正規軍と戦っていて…。多勢に無勢に見えたけど、あれで勝ってたのか…。で、仲間と「一緒に行くんだ」「行かない」とか争っていたけど、あの辺もよく分からず。と思っていたら、突然の2人でのトンズラ。おいおい。ボスの女連れて逃げるか。で、もどったところはオジのところ…って、浅はか。すぐ見つかるじゃん。やっぱ子供ってことかね。
戦闘の前には麻薬に似た効用のある樹液を飲むのだが、そのせいでコモナは幻覚を見るようになる。その幻覚は大駱駝艦みたいな白塗りの人間で、コモナに危険を知らせたり誘導したりする。これによって彼女は"魔女"とあがめられるようになるんだけど、かといって反乱軍のなかであまり特別な扱いされない。労働もするし、きっと誰かの夜とぎもさせられていたんだろう。けどその霊力がボスに及ぶと、彼女はボスの女になる。これでやっと特別扱いだけど、女王様というわけではない。ボスの前の女が死んだから、その代わり、程度。そんな扱いなのか。
マジシャンは色が白く、紙も金髪だ。染めているのか? と思ったけど、あり得ない。で、コモナと駆け落ち後、プロポーズしたんだけど、白い雄鳥を要求される。それで白い雄鳥を探して白子のたくさんいる村に入って行ったとき、分かった。マジシャンも白子なのだ。だからマジシャンは反乱軍のなかで魔術師的なことをしていたのだ。名前もマジシャンだし。…でもその割りにあまり特別扱いされてなかったよなあ。
白子ばかりの村というのも不気味。というか、そんなに出現率は高いのか? アフリカの白子って。で、白子は異界につながる力があるとみなされるんだろうけど、普段からマジシャンが白子として忌避される様子がないのが不思議だった。白子はフツーに多いのだろうか?
この亡霊=白子=マジシャン=白い雄鳥は、映画としては原初的なギミックだな。白子がリスクを回避する、幸せに導く的な意味合いだけど、だからどうしたレベル。その先の何かを発信しなければ、いまどきの映画としては魅力がない。
願いかなって白い雄鳥を得、マジシャンとコモナはマジシャンのオジサンの家に行く。そして結ばれるんだけど、コモナが恥じらいもなくさっさと脱ぐのは、もうさんざん男の相手をしたからなんだろう。けど、その哀しい過去の体験がつたわってこないのが残念。
当然のように反乱軍がコモナを連れ戻しにきて、マジシャンは殺される。のち、コモナは隊長の女みたいなことになるんだが、コモナは一計を案ずる。膣道の奥にカミソリを施した果実を突っ込んで、隊長のペニスを傷つける。そのスキに逃げ出すんだけど、そんなことしないでも逃げ出すチャンスはいくらでもあるように見えるんだが・・・。逃走後、さっさと果実は取り除いたのかと思ったらさにあらず。数日入れっぱなしだったみたい。疑問なのは、カミソリはどうしたんだ、ということだな。隊長のチンポに刺さったままだったのか? コモナのまんこは傷つかなかったのか? で、よろよろになって、コモナはまたまた肉屋のオジサンさんを頼る…。気がよすぎないか、オジサン。自分の甥は死んで、コモナが宿しているのは、反乱軍の見ず知らずの隊長のタネ。ううむ…。
な、なんかピリッとこない内容だった。なるほど、と思ったことがひとつある。政府軍、反乱軍の他に、一般市民も多数いることだ。当然と言えば当然なんだけど、どちらにも与せず、大人しく暮らしているのが奇妙におかしかった。
夏の終り9/9ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/熊切和嘉脚本/宇治田隆史
瀬戸内寂聴の自伝的小説が原作らしい。allcinemaのあらすじは「長年にわたって妻子ある年上の作家・小杉慎吾との愛人生活を送る相澤知子。慎吾は妻のいる家と知子の家を、きっちり週に半分ずつ行き来しており、不倫でありながらも知子にとっては穏やかで安定した日々だった。ところがある日、帰宅した知子は、慎吾から木下涼太という男の来訪があったことを告げられ、心のざわつきを覚える。涼太はかつて、結婚していた知子が恋に落ち、夫と子どもを捨てて駆け落ちした相手だった。年下で、知子に対して一途で情熱的な涼太。彼のことが忘れられず、慎吾との生活を続けながらも、いつしか涼太との関係も復活させてしまう知子だったが」
背景となる説明が、それも重要な説明がほとんどない。出来事をぶつ切りにしてつないだ感じ。しかも、ときどき時制が変になる。入れ替わっているのではないかと思えるのだけれど、たんにトンでいるだけなのかも知れない。明らかな過去、たとえば知子と涼太の出会いというか、地元の選挙での行動。夫との別れ。慎吾との出会いなどは、色彩もオレンジ系で明確に過去と知れるから。つまりまあ、接続詞や修飾語が排除され、名詞と動詞が羅列されているみたいな感じか。大雑把には分かるけど、変化の気配や経緯がほとんどつたわらない。たとえば、↑のあらすじにある「きっちり週に半分ずつ行き来して」「涼太はかつて、結婚していた知子が恋に落ち、夫と子どもを捨てて駆け落ちした相手」などという説明は一切ない。ないことが"あらすじ"に書かれていること自体がおかしいだろ、という話だが。
あとで見たら『海炭市叙景』の監督だと。なるほど。という気持ちもあるけど、あっちは折り目の説明はちゃんとしてたと思うけどな。だから、そのとき分からなくてもねあとで「あ、なるほど」はあったと思う。だけど、こちらにはない。
そもそも知子(満島ひかり)に激しさを感じない。慎吾に従順で、慎吾の妻にも、申し訳なさと敵対心が交錯している感じ。涼太との関係も、そもそもどれだけ彼に惹かれたか、どうして別れたか、なぜ慎吾との関係が濃い(知子は「時間が違う」というようなことを言っていたけど)のかも、分からない。だから、見る側はその関係性を斟酌しつつ見ることができない。なぜまた知子は涼太とつき合うようになったのか。それは慎吾への当てつけなのか。分からない。
慎吾の妻は、知子の存在を認めているらしいけれど、だからといって馴れ馴れしいわけではない。では、どうやって慎吾は妻を納得させたのか。あるいは、騒動はなかったのか。そんなことも分からない。
知子は、独り立ちしたいのか。慎吾を独占したいのか。それもよく分からない。染色をやっているようだけれど、それは売れているのか。趣味なのか。分からない。
慎吾は、小説家らしいけど、売れなくなってきているのか? それで、心ならずもエロ小説を請け負ったらしいが、知子に「死にたい。一緒に死んでくれ」と言ったのは、そのせいなのか? おかしかったのは、知子が「なぜ奥さんに頼まないの?」といったら「あいつは一緒懸命生きているから」と返事したこと。これで知子は慎吾と絶縁かと思ったら、どーも共同生活はやめて、独居はしたらしい。のだけれど、そこに慎吾から電話がかかり、一緒に小田原まで泊まりがけで行ったりする。なんだよ。別れられないのか。で、次のシーンでは、知子が小田原で人待ち加減。知子が、ふっ、と振り向くところで映画は終わっている。知子が待っていたのは慎吾だと思うけど、なんだよ、結局だらだらか。涼太は、単に利用されただけか。気の毒に。
気の毒といえば、最初に結婚した旦那と娘が気の毒だ。世田谷に家を買ったからと娘と3人で向かう途中、知子は「好きな人ができたから」と、行くのを辞める。亭主は幼い娘を抱えてひとりとぼとぼ…。自分の娘より、男が好きなのか。という時点で、バカ女としか思えない。
というわけで、よく分からない映画であった。
・風呂に行って、雨に降られ、涼太のところに。そこで一夜を過ごして…かと思ったら、涼太が「泊まっていけよ」って、朝じゃないのか? で、次のシーンでは、コートを着ている知子を涼太が追っている。風呂に行ったときはセーターじゃなかったか? で、「泊まって云々」のときはジャケット。ってことは、あの3シーンはみな別の日?
・波止場(知子はどこに行っていたのだ? 外国? ひとりで?)での知子と涼太との接触は、周囲がストップモーションになりながら2人は動いているというような技法を使っているけれど、たいして効果はない。しかし、なぜ慎吾と涼太が2人で迎えに来ているのだ?
…とか、疑問だらけのこの映画。説明を排除する、は熊切和嘉の手法なんだろうけど、最低限つたえるべきことはあるわけで、それまで描かないでは、なにもつたわらない。
・風俗では、どこかしっくりこないところも少なくない。知子は着物だったり洋装だったり。大正みたいに見えることもあれば、高度成長前の感じをつたえる所もあったりする。時代考証はちゃんとやってるのかな。もうすぐ東京オリンピックな時代で「『ALWAYS 三丁目の夕日』」と同じ時代とは思えないよな。そうだ。知子が「トイレに行く」というシーンがあるんだが、あの時代なら「ご不浄へ」じゃないのかね。
・舞台は昭和30年代だと思うんだけど。知子は何歳なのだ? 夫と娘を捨てて、涼太と恋をして、酌婦をして慎吾と知り合って8年。20歳で子をなして25、6で慎吾と知り合ったとしたら、34、5か。満島ひかりじゃムリだ。
・満島ひかりは、棒読みみたいなセリフまわし。たどたどしく、舌足らず。敢えてベストテイクでないものを使っているのか。怒鳴るような役が多かったから、この手の情緒的なセリフは不得手なのか。
・満島を筆頭に、聞き取れないセリフが続出。なんで、そんなものを使うか。慎吾の小林薫はまだしも、他は推して知るべし。ただでさえ分かりにくいのに、セリフが聞き取れないじゃしょうがないだろ。 ・何度か登場するヘアピンカーブの坂道と、そこから見えるガードみたいなトンネル。だからどうしたな感じで、何度も出過ぎなせいか印象に残らない。
ヒステリア9/11キネカ大森3監督/ターニャ・ウェクスラー脚本/ スティーヴン・ダイヤー、ジョナ・リサ・ダイヤー
原題は"Hysteria"。allcinemaのあらすじは「19世紀、ヴィクトリア朝最盛期のロンドン。未だ古い迷信がまかり通る医学界では、科学的な先進医療に前向きな若い医師モーティマーはどの病院でも煙たがられてしまい、職場を転々とする日々。そんな中、女性医療の第一人者ダリンプル医師の助手として雇われることに。そこでは、ロンドン中の女性を悩ませている病“ヒステリー”に効果のある特別な“マッサージ治療”が行われ、評判を呼んでいた。そこへきて美男のモーティマーが治療に当たることで、クリニックはますます繁盛していく。そんなモーティマーは、ダリンプルの貞淑な末娘エミリーと惹かれ合う一方、エミリーとは対照的に、女性の自立と解放を目指す進歩的な思想を持つ長女シャーロットからは、マッサージを小手先の治療と非難されてしまう。やがて治療のしすぎで腱鞘炎となり、再び職を失ってしまうモーティマーだったが」
まだばい菌の存在が指摘され始めた頃で、大半の医師は消毒には無関心。そこで選んだ病院が、女性専門のヒステリー治療病院。そこで行われていたのは何と性感マッサージだってんだから笑ってしまう。亭主に相手にされず、欲求不満なオバチャンたちを如何にイカすか。そのテクニックが医者の技量だったとは! 女性たちも、されることに恥じらいを感じることなく、ヘタな治療には露骨に文句を言うのが面白い。そもそも、イク様子を医者とはいえ男に見られて恥ずかしくはないのか? と思ってしまう。
で、右手を酷使して腱鞘炎になり、まともな治療ができなくなったモーティマーは、呆気なく首になる。院長の娘と婚約までしていたのに…。というところで役割を発揮するのが、同居人のエドモント。これが変人で、登場したばかりの発電機(ベッドを3つ重ねしたぐらいの大きさ)で羽根の扇風機をつくってみたり、開通したばかりの電話機を導入していたりする。その羽根の扇風機で「そうだ!」とひらめくモーティマー。ここに電動マッサージ=初期バイブレーターが発明されたのだ。凄いね。
院長の娘は2人いて、長女のシャーロットは男勝りの活動化。慈善事業に邁進し、でも社会(上流階級や男たち)の賛同を得られず、借金まみれ。父親はそんなシャーロットを毛嫌いし、家に貧乏人をつれてくるな、と言ったりする。たとえそれが病人でも。いや、医療というのがこんなだった時代もあったんだね。
一方の次女エミリーはピアノを弾き、でも骨相学をやってるという、こちらもやっぱちょっとヘン。だけどお嬢様なので、父親の意向通りモーティマーと婚約。一度は破断したけど、電動マッサージ器の成功で結婚する運びになるんだが…。
結婚式の当日、シャーロットも一応は呼ばれてやってくるんだけれど、当日、慈善ハウス具借金の形で閉鎖となり、そこに暮らしていたオバチャンが血だらけで報告に来たから大騒ぎ。貧乏人と接触したくない父親、しかも、シャーロットが父の知人に借りた資金の手形が父親の手に移っていた。ハウスを閉鎖したのは、娘に返済能力なし、と見切りをつけた父親だった! そこに、誰が呼んだか警官がやってきて、オバチャンを拘束しようとする。思いあまってシャーロットが警官にパンチ! で、裁判沙汰になってしまう。
ここで「彼女はヒステリー」という証言が得られれば、シャーロットは精神病院に送られ、なんと子宮摘出となってしまう! ひぇぇぇぇぇぇ。でも父親は「刑務所よりはまし」と、モーティマーに証言を要求する…。さて、モーティマーはどう発言するのか? いやもう、ここは予定調和の如くになっていく。「シャーロットは勝ち気な性格だが、慈善活動に邁進している。そもそもヒステリーなんていう病気はない!」と。
ちょっと残念なのが、モーティマーの心の揺れがはっきり表現されていないことかな。そもそも志高く医療に身を投じたんだけど、病院では望みかなわず。性感マッサージ業は上手くいっているし、院長の娘とも婚約。ゆくゆくは病院を継いで…というバラ色の未来が一方に。その反面で、慈善事業に打ち込もうとしているシャーロットの正しさに感銘しているとか、人柄にも惹かれていきつつある…という部分が簡単に済まされてしまっている。もったいない。ここをガツンと描けばもっと感動的になったんではないのかな。
エミリーとの別離も曖昧だ。自分の頭を差し出して骨相学を見てもらおうとするんだけど、「もう骨相学はやめた」と言われてしまう。骨相学がインチキという話はでてなかったのにね。エミリーが姉の生き方に影響を受け、自立した女になろうとしつつある、というのも見せて欲しかった。
で、最後は、1ヵ月の刑期を終えて出所してきたシャーロットを迎えに行くモーティマー。ここで指輪を差し出して結婚を申し込むんだけど、シャーロットは「それよりここでキスして!」とはっちゃける。しかも、電マの特許料でモーティマーとエドモントは大金持ちになっていて、モーティマーは慈善事業への資金提供を申し出る。楽しいね。
というわけで、最後のところがバタバタとしていて、ちょい論理性に欠けるのがもったいない。とはいいつつ、ユーモアたっぷりで、初めて知ることも少なくなく、とこも面白かった。
病院の女中が、なかなかいい役どころ。元娼婦で、それをシャーロットが更正させようと父親のところに送り込んだ。モーティマーに色目を使い、頬を舌で膨らまして、フェラしてあげるよ、とメッセージを送ってくる。という存在だから、初めての電動マッサージ機のモニターになるのは彼女しかいないよな。
ほかに、モーティマーの同居人エドモント、病院の受付のおばちゃん、病院を訪れマッサージを心待ちにしているオバチャンたち…。いや、なかなかユニークな映画だ。
最後は、完成された携帯用電マがうやうやしくも王室にもたらされる、という映像で締めくくられる。ひぇー。そんなこと描いて不敬罪にならないのか? さらにエンドクレジットは、歴史的電マの進化を写真付きで。なかに、日立製のもあったけど、たまたま肩ほぐし用にでも開発したのが、あちらにピッタリ、だったのかもね。
日本の悲劇9/13新宿武蔵野館3監督/小林政広脚本/小林政広
allcinemaのあらすじは「大病を患い自分の命がそう長くないことを自覚した父親と、失業し妻と子に去られ父親の年金で生活する息子。母の命日に勝手に退院してきた父は、自室の扉を封鎖し食事をすることすらやめてしまう。部屋から出るよう扉越しに説得する息子と、それを頑なに拒否する父親、二人の胸に去来するものとは」
登場人物4人。白黒。1シーンワンショット。カメラはFIX。少ないカット。演劇的なセリフ廻し。と、これだけでも話題になりそう。傑作をつくってやったぞ的なスタッフの鼻息の荒さがつたわってくる。けど、それは沈鬱で重苦しい雰囲気をかもし出そうとする手法に頼ったもので、中味についてはいかにも底が浅い。こんなのちっとも悲劇じゃないだろ。それを悲劇に仕立て上げ、社会問題化、共感してもらおうという魂胆が見え透いている。
父母と息子の3人家族。息子は結婚して娘1人。リストラで職を失い、ローンが払えず家を失う。自殺念慮でリストカット。家族に告げず自ら精神病院に入る。亭主に行方不明で、嫁は離婚届を義父母に預け、実家の石巻へ(東日本大震災の犠牲になったのかな?)。…しばらくして息子は実家に舞い戻ってくる。親の年金に頼る暮らし。母が倒れ、6年に死亡。…その後は380円の弁当を2つ買い、ひとつを昼飯。残った弁当の半分を夕食にして易い焼酎で晩酌。残りの半分は翌日の朝食にしたとか父親に訴えていたけど、一緒に住んでたんじゃなかったのか? それともこれは、リストラ後の生活のことだっけ? …母の介護がやって済んだ(「やっと死んでくれた」と言っていたな)と思ったら、父親の肺がんが発覚。すでに手遅れで、開いたけれど手の施しようがない。余命わずか。父親はそれ以上の治療を拒否し、帰宅(このシーンから映画が始まり、過去の映像がインサートされつつ進む)。ちょうど母の死後1年目。まだ納骨していない。父親は部屋にこもり、食事を拒否。戸も中から釘を打ち付ける。「おまえを年金で食べさせるため」と言っていたけど、真意は分からない。息子は食事するよう訴えるが、父親は拒否。結局そのまま…。息子はいまだに職探し。…というのが物語のあらまし。しかし、こういうのを分からせるために、息子の北村一輝はだらだらと説明ゼリフを怒鳴り散らす。なんとかならなかったのかね。芝居じゃないんだから。
父親は大工のようだ。酒が好きで喫煙も。息子に病院行きを勧められるがずっと「大丈夫」と言いつづけての結末だ。酒は、母(妻)に制限されているのか、毎日1合ぐらい。たいした量ではない。というか、妻に頭が上がらないのが可愛い。なのでアル中なんかではまったくない。
母親の病気(脳卒中か?)はしょうがないだろう。あり得ることだ。しかし父親の病気は、早期発見で対応できたかも知れない。肺がんは完治は困難かも知れないが、余命は伸びたかも知れない。息子のリストラ、ローン崩壊もあり得ること。たとえそれが1家族に集中して起こったからといって、日本の悲劇ではない。同じような境遇でも強く生きている人はたくさんいるはずだ。「何が日本の悲劇」だ、と怒る人もいるのではないか。
息子の嫁も、ろくでもない。亭主の危機を助けることなく離婚はないだろ。精神的に弱く、自殺まで考える亭主を捨てるとはね。亭主の方も、リストラ如きでリストカットは情けない。もちろん、うつ病とか自立できない大人とか、病気なら仕方がない部分はあるが、ごくフツーの男ならめそめそするのはみっともない。しかし、自分で病院を探し、家族に言わず入院というのも手回しが良すぎる。というか、なんなんだこの息子はという気がする。
父親が、絶望して即身成仏を目指す理由が分からない。息子に年金を与えたいから? だとしたら大甘だろう。叱咤激励して息子の自立を促せよ。息子も、父親に1日でも長く生きて欲しいなら、なぜ蹴破って入らない。別に延命治療せずとも、生きられるだけ生きさせる方法はあるはずだ。…ひょっとして、本音は年金が欲しいからなのか。それにしても、「悲劇」の前に、こいつらろくでもない家族だな、としかいいようがない。病気やリストラは気の毒だけど、それに立ち向かうこともせず、あたふた逃げ回っているだけなんだもの。まったく共感できない映画だ。
この監督は現実を知らなすぎる。現実を過剰に歪曲し、すべて悲劇に結びつけようとしている。ある意味で、医療関係者や弱者を救済している役所とか、そういったことに会いつつも生きている人たちに失礼な話だ。1つの家族に不幸を集中させれば、それでお涙頂戴できると思っているんだろうか。底が浅すぎる。
分からないところ。
他人がでてこない。それは、そういう制約でつくるのが前提だったんだろうけど。不自然だ。元職人で一戸建て。なら隣近所や町内会、職人仲間のつき合いもあるはず。映画ではまったくの孤独な家庭のように見えるけど、そんなのはあり得ないだろう。それに、やたらと電話がかかってくる。いったいどこからなのだ? でないならそれで訪ねてくるとかあっても不思議ではない。
最後から2カット目。母親の前に座りつづけるワイシャツ姿。あれは父親? それとも息子? ワイシャツが白すぎるし、父ならもう3、4日たっているのだから、正座したままではいられないだろう。経過日数が分からないので何とも言えないが。あと気になったのは、閉じこもってからの糞尿だ。食べなくてもある程度はでるだろ。
最後のカットは、息子が面接に向かう直前の場面。雑然とした机に父親の写真があるのは、死んだという表象か。でも、出がけに父親に声はかける。すでに長い時間が経過していて死んでいるのは知っているけれどそのままにしていて、声だけは儀式的にかけるということか? でもカレンダーは、冒頭の、父親が退院してきた3月のままなのだ。同じ年なら1ヵ月以内。もしかして1年以上経った同じ3月なのか? それにしてもいまだ就職の面接に行ってるっても、おいおい。まだ父親の年金で食べているのか。仕事なら、選ばなければいくらでもあるだろうに。単純肉体労働は嫌だ、ということか。贅沢ではないのか? あるいは、仕事探しも儀式になってしまっているのか?
仲代達矢は、大工には見えない。風格もありすぎ。別の役者なら、ぜんぜん違う雰囲気になるだろうな。それと気がついたのが、細面なのに腹まわりがすごいことだ。病人にゃ見えないよ。
あの頃、君を追いかけた9/19新宿武蔵野館1監督/ギデンズ・コー脚本/ギデンズ・コー
原題は「那些年,我們一起追的女孩」、英文タイトルは"You Are the Apple of My Eye"。allcinemaのあらすじは「1994年、台湾中西部の町、彰化(しょうか)。高校生のコートンは、悪友たちとバカなことをしてふざけ合い、能天気な毎日を送っていた。そんなコートンに手を焼いた教師は、クラス一の優等生チアイーに指導役を命じる。最初は反発し合う2人だったが、ある出来事をきっかけに距離が近づき始める。それでも自信のないコートンはあと一歩が踏み出せず、2人の仲はグループ交際止まりのまま。やがて別々の大学に進み、離れ離れとなるコートンとチアイーだったが」
前半は高校が舞台、後半は遠距離交際…なラブコメだ。明確なストーリーはなく、大半がエピソードの積み重ね。遊び仲間のデブ、サッカー志願のかっこつけ、勃起男、ヘタな手品の股カキ男、チアイーの友人チアウェイらも、ほとんど添えもので、登場場面は多いけれど単なるにぎやかし。メインとなるのはコートンとチアイーの物語。
甘く切ない、はほとんどなし。いつまでたっても幼稚でバカなことばかりやってるコートン。優等生のチアイー。その2人がなんとなく惹かれ合いつつ、でも決定的にならないもどかしさがコミカルに描かれる。だから楽しいことは楽しいんだけど、後半になるとちょっと飽きてくるところもなきにしもあらず。
主人公のコートンという男が、よく理解できない。教室で授業中にマスカキしたり、AVビデオはしょっちゅう見てる。だけど、学校では女子に対して性的欲望をほとんど見せない。なんで? な感じ。クラス1のチアイーにも、好意は持っているけど、熱狂適度では他の仲間にひけをとる。まあ、そういう、少し距離感のある設定の方が映画が面白くなるのかも知れないけどね。笑ったのが家庭環境。家では全裸。その父親(奥田瑛二そっくり)も全裸。母親はまったく気にしていない。へんなの。しかし、こういう部分が面白かったりする。
勉強を教えてやれ、といわれ、でもそんな嫌な顔もしないチアイー。その彼女が後ろの席からコートンを呼ぶとき、ボールペンで背中を突っつくのがかわいい。でも、そのせいでコートンのシャツに青いインクの跡が…というのは不要だな。先がでたまま突っつくなんて、無神経だろ。
クラスで泥棒事件が発生し、教師みたいな警備員みたいのが「持ち物検査をする」といきりまくったとき、悪童たちと一緒にチアイーも立ち上がり、結局、「半腰で立ってろ」という罰を受けるのだが、このシーンはちょっとだけ感動的だった。でも犯人は分からずで、チアイーにそういう正義感があったというのも突然な話。まあ、これもたんなるエピソードだな。
あとは、大学生になってから一緒にどこかへ旅して、熱気球を挙げるシーン…は、よくあるパターン。ああ、あのとき打ち明け合っていれば・・・と。
ひとつだけ違和感なのは、大学生になって喧嘩バトル大会を主催して、テコンドー相手にぼこぼこにされるシーン。それまでとくに喧嘩っ早いイメージもなく、せいぜいブルース・リー好きだけだったのでね。幼稚さが退行したように見えた。
冒頭が結婚式に参加、というシーンだったので、ラストはどうなるのかな? ハッピーエンドならいいなと思っていたけど、残念。あれこれあって、チアイーは別の男と一緒になることに。で、その相手というのがかなりなオッサンで、ちょっと引いた。結婚式に参加の悪童どもは、「チアイーとキスしてもいいか?」と新郎に聞く。新郎は「その前に、僕とキスすればOK」と答える。そういえば、キスされないと思ったんだろうけど、まっさきにコートンがディープキスで迫る。このシーンに、コートンが花嫁姿のチアイーとキスするシーンがダブるんだけど、最初は、その後の2人のキスかと思っていた。しかし、それだけではないかも知れないと思うようになった。というのは、ここで過去の場面が走馬燈のようにフラッシュバックするんだけど、そのなかに、喧嘩バトルの後でコートンがチアイーに「悪かった。幼稚すぎた」と謝りにくるシーンがあるのだ。え? 現実には謝ってないはず…。このせいで別れたはず…。で、思ったのはパラレルワールドのこと。「この世にはパラレルワールドがあって、そっちの世界では僕たちはつき合っているかも」みたいなことをコートンが言っていたのだ。つまり、あのとき素直に謝り、2人が結婚している別の世界が必ずある、ということを言おうとしているのではないか。ちょっと洒落たラストでよかった。
・最初の、教室でのマスかきシーンで立ち上がったコートンの後ろ姿が半ケツ状態。ってことは、前から見たら勃起状態なのか?
・テストで高得点が取れず、コートンは坊主頭に。チアイーはポニーテールにする、という話だったけど、ポニーテールに罰則の要素があるのか? ないよな。
・掃除中に制止。あれは軍事的なものなのかな。よく分からないけど。で、その背景で別の男女がじゃれてるのがいい。
・みんなでAVを見て、「飯島愛も老けたな」「俺は大浦あんな」とかいう場面がある。台湾の青少年のおかずは、日本のAVが支えていたようだ。
ウルヴァリン:SAMURAI9/19シネマスクエアとうきゅう監督/ジェームズ・マンゴールド脚本/マーク・ボンバック、スコット・フランク
原題は"The Wolverine"。へー。元はサブタイトルがないんだ。allcinemaのあらすじは「カナダの山奥で隠遁生活を送るウルヴァリンことローガンのもとに、彼の旧友でもある日本の大物実業家・矢志田の使者が現われる。余命わずかの矢志田は、命の恩人であるローガンに最後に一目会いたいと願っていた。日本を訪れ、病床の矢志田と再会したローガンだったが、矢志田はまもなく“君の永遠の命を終わらせてあげる”との謎の言葉を残して息を引き取る。その後、葬儀に参列したローガンは、謎の武装集団に狙われた矢志田の孫娘マリコを救い出す。執拗な追っ手をかわし、一緒に逃避行を続ける2人はいつしか恋に落ちる。またやがて、戦いの中で、自らの不老不死の肉体を支えていた驚異的な治癒能力が失われていることに気づくローガンだったが」
実はウルヴァリンは知らなくて、X-MENシリーズのキャラクターからのスピンオフなのか。『X-MEN』も見てないからよく分からない。ときどき登場して添い寝してるジーンという女性がなんだかよく分からなくて、前作までと関係があるのかと思ったら、ウルヴァリン=ローガンだけをフィーチャーした作品は『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』に次いで2本目のようだ。
おおまか話はあらすじ通りだけど、話がいささか混乱気味。単純化しよう。矢志田は、第二次世界大戦末期、将校として長崎にいた。そこに原爆投下。上官とともに切腹して果てるべきところ、躊躇しているところをローガンに助けられた。…んだけど、なぜローガンが長崎の基地で井戸に囚われの身になっていたのかは不明。時は経て矢志田はアジア有数の実業家となった。シンゲンという息子とマリコという孫がいて、さらにマリコの妹分として、ユキオという孤児の少女を拾って養育した。矢志田は病に倒れたが、その治療に数百億円を投入。会社が倒産しかけたが、シンゲンが帳簿を誤魔化して切り抜けた。が、余命わずか。命の恩人のローガンを呼び、刀を渡そうとユキオを遣いにやった。ローガンが日本に到着すると、マリコが父シンゲンに殴られるているのを目撃する。また、矢志田に「君は治癒能力のおかげで死なない。その力を私に移植すれば、君は願い通り死ねるようになる」といわれる。実は矢志田は永遠の生命を望み、ローガンをおびき寄せた、ということだ。その矢志田の主治医はミュータントの女性で、彼女は治癒能力をなくす装置? 生物? をローガンに口移しする。…なのだけれど、彼女の位置づけがいまいち分からない。もっと分からないのが矢志田家を誰が引き継ぐかだ。矢志田の死後3日目に遺言が開示されるといっていたけど、いつのまにかうやむやに…。矢志田はマリコに継がせるつもりらしいけど、マリコはそのつもりがない。なのに、父シンゲンに言われて法務大臣と婚約している状態。そのシンゲンはヤクザとも関係している。さらに、数百年前から矢志田家を守ってきたハラダという弓の使い手がいて、でも矢志田家というよりマリコの守護神みたい。かつてマリコはハラダと結婚するつもりだったけれど、それは矢志田に止められた。そのハラダはミュータント医者と連携というより従っている感じ。…てな関係で、いったい企業としての矢志田をコントロールしているのが誰なのかよく分からない。矢志田本人? 父に不的確と言われているシンゲンも配下をたくさんもっている…し。ユキオは矢志田家の一員ではなく、ハラダと同じような位置づけらしく、矢志田の命を受けて動いているけれど、マリコとは姉妹同様。ハラダとは協調するけれど、ミュータント医者とは対立する…。もうムチャクチャでござる。
ムチャクチャなので、マリコが誘拐される理由とか「?」だし、他にもわけが分からんことがたくさんある。矢志田の葬儀で、シンゲンが配下を使って娘のマリコを誘拐する必要性はどこにある? いちいち挙げていたらキリがないけどね。
で、ローガンは自分の力で胸を切り裂いて心臓にへばりついた装置を取り払い、治癒能力が復活。その身体でシンゲンと斬り合い、ムチャクチャ斬られ突き刺されつつ、シンゲンを倒してしまう! ユキオはエレベーター? のリフト効果を利用してミュータント医者をやっつける。というところに登場する、メタルな鎧武者。その鎧武者に乗り込んでいた矢志田がローガンの指先のナイフを切り落とし、そこから治癒能力を吸い取る…って、どーゆーことなんだかね。ムチャクチャやな。そうやって若返った矢志田だったけれど、最後はマリコに刺され、奈落の底に落ちていく…って、おいおい。シンゲンは権力奪取のため娘マリコの命を奪おうとし、マリコは権力者矢志田の復活を封じ込めるため、実の祖父を殺害する。なんて話なのだ。要はお家騒動なんだけど、矢志田も悪人、シンゲンも悪人、マリコは祖父殺し…。なんてこった。日本人は悪人である、という話なのか?
で、結局マリコは矢志田を継ぐことになる。ユキオはローガンと一緒に自家用飛行機でいずこかへ…って、なんでユキオが矢志田を離れるのかよく分からない。ローガンの仲間になったわけじゃないだろうに。ヘンなの。
エンドクレジットの途中に、次回への布石のような映像が挟まれていた。また新たな物語が待ち受けているということなのだろう。
てな具合にムチャクチャなんだけど、そんなことにはいささかも悪びれることなく、堂々と骨太な話運びで進んでいくので、なんとなく見てしまう。それに90%日本が舞台なので、背景を見たりして「どこで撮影?」と考えるのも楽しい。
・見たのは、増上寺の襲撃の途中から。後半のバトル辺りから眠くなり…でも何とか見終えた。でも、エンドロールの最後は寝てしまった。で、次の回は、上野駅辺りから寝てしまい、気がついたら長崎でバスに乗っていた。とにかく、もれなく見た感じ。
・なかなか興味深いと思ったのは、長崎の原爆投下を扱っていること。投下前、日本兵は連合軍捕虜を収容所から解き放つなど、好意的に描かれているのが面白かった。
・増上寺の葬儀から、点々と秋葉原?高田馬場辺り?経由で上野駅で新幹線に乗り、途中下車して停まったホテルは銀座8丁目の有名なカプセルマンション。で、最終的にバスで到着したのは九州・長崎の外れとは…。しかし、あの家は誰の家? 矢志田が生まれたのは崖の上の高層建築が建ってたところなんだろ? 母親の里か? 数百年前から矢志田家と関係のある土地らしいが…。なんかいい加減。
・新幹線の屋根でのバトルは大笑い。新幹線に穴まで開けて、屋根に上り、そして、マリコのいる座席にまた舞い戻ってくる…。ありえねえ!
・マリコのTAOはヒラメ顔。足が長くて、モデル? と思ったらそうだった。あの手のつり目扁平顔が好まれるのだよな。ユキオの福島リラは、輪をかけたヒラメ顔。目玉が両端についている感じ。彼女もモデルらしい。…じつはデヴォン青木? と思ったりしてた。ははは。
・可哀想なのはシンゲンだ。父に目をかけてもらえないのだから。でも、マリコの後見人でやってけば問題なかったんじゃないの? 帳簿の誤魔化しは得意みたいだし。
・しかし、ウルヴァリン=ローガンって、治癒能力がなければただの人なのか? 何発も撃たれて、結構、フツーに動いてたけど。
・ハラダ役は韓国系らしいけど、日本語がヘン。この役もだれか日本人使えばよかったのに。
凶悪9/24ヒューマントラストシネマ有楽町2監督/白石和彌脚本/高橋泉、白石和彌
allcinemaのあらすじは「ある日、スクープ雑誌『明潮24』に死刑囚の須藤純次から手紙が届く。それは、判決を受けた事件の他に、彼が関わった誰も知らない3つの殺人事件について告白するものだった。須藤曰く、彼が“先生”と呼ぶ首謀者の男が娑婆でのうのうと生きていることが許せず、雑誌で取り上げて追い詰めてほしいというのだった。最初は半信半疑だった記者の藤井修一。しかし取材を進めていく中で、次第に須藤の告発は本物に違いないとの確信が深まっていく藤井だったが」
最初の30分ぐらいは、藤井(山田孝之)が事件にのめり込んでいく過程と、痴呆症の母親に手を焼く藤井の妻・洋子とのいさかいなんだが、表現が静的で暗くて陰気。音楽もおどろおどろしい。正直に言って、つまらない。須藤(ピエール瀧)に面会に行っても、陽気で腰の低い須藤に比べ、藤井の生気のなさが目立ちすぎ。そういう演出なのか、演出が下手なのか、どっちなんだろう。
ピエール瀧は、やっぱイントネーションが変。藤井の母親もセリフ廻しがヘタだな…と思ったら、あれは吉村実子だったのかよ。気がつかなかった…。さらに、やる気のなさそうな洋子役の池脇千鶴。ぜんぜん話が転がらない。
ところが須藤が「先生」と呼んで慕っていた木村が登場すると、いっきに画面が色気を放ちはじめる。木村役の、リリー・フランキーの存在感。ひょうひょうと、そのまま地でいってるようなセリフ廻しの軽さが、やってること(人殺し、詐欺、泥棒)の重さと相反して、不思議におかしい。死体を焼却炉で焼くとき、バラバラにした血だらけの腕からブレスレットだか時計だかを外して、ニコニコしながら「高く売れそうじゃん」といったり、いざ火をつける段になると「俺にやらせて。やってみたかったんだ」とうれしそうに言う。その後も、老人を酔わしてスタンガン喰らわすところなんかも、いかにも楽しそうにやってる。その狂気の程合いが、見事にでてるんだよね。おそるべし。それに比べたらピエール瀧の須藤は、どう見てもいい人なんだよ。ドスも利いてないし、人が苦しんでいるのを見て喜んだり、平気で殺したりしてしまう異常さがまったくつたわってこない。
それでも、中盤のリリー・フランキーが登場するパートは面白い。果たして記者・藤井の立場、という部分は必要だったのだろうか。藤井も含めて客観的に描写した方が全体のリズムも統一されるし、テンポよく物語りが進んだのではないかと思うぞ。
藤井の母親は痴呆症。妻・洋子が一日中、世話を焼いている。洋子は「施設に入れたい」というんだけど、藤井は「いまは事件に集中したい」と取りあわないんだけど、そんなやついるかって話だよ。妻を思い、母親を思い、その上で仕事にも没入するのが人間だろ。しかも毎日11時過ぎぐらいには帰宅しているようだし。あんな辛気くさい亭主に惚れる洋子って女もどーかと思う。子供がいるわけでもないんだから、さっさと実家に帰らせてもらえばいいのに、とずっと見ていた。
藤井は、須藤と木村が共謀した3件の殺人事件を信じ、裏を取っていく。そして確信すると木村に極刑を与えたいと思うようになっていく。須藤に、思うように操られている自分を、どう思っていたんだろう。逮捕された木村からも、「俺を死刑にしたいと思っているのはお前だ」とばかりに指を指されるんだけど、世のため人のため、犠牲になった人のため、と思ってやってるんだろうか。…そういえば藤井の書棚には早川ポケミスがぎっしりあったけど、ミステリー好きがあんな偏屈と思われるのもやだな。
そもそも犠牲になった老人たちも、気の毒な犠牲者としては描かれない。借金まみれで家族の負担になっていたりする。資産はあっても単なる土地もちだったりする。そんな老人たちに対しては、ちっとも同情心が湧かない。藤井の母親を痴呆に設定したのは、犠牲になった老人と対比させるためにだろう。犯人を追及する藤井だって家庭を顧みないし、母親をほったらかしにしている、と見せたいんだろう。でもあからさまなので、わざとらしさばかりが鼻についてしまう。
というわけで、藤井をフィーチャーしすぎるのはどーも納得できないなというような映画であった。編集部に、こんなヘンな編集部員がいたというような話になっていて、よく「新潮21」は映画化にオーケーしたな。「もっとカッコよく描いてくれよ」とか、注文つけなかったのかな。
・須藤は暴力団幹部、と最後に紹介されるのだけれど、どこかに所属しているとは見えなかった。ずっと一匹狼かと思っていた。
・須藤は「これ、誰にも言ってない話なんだけどね」と殺人事件を記者の藤井に告白する。ほんとうに検察に言わなかったのか? では、藤井が須藤に面接するとき立ち会う係官は、どういう話をしたのか報告するんじゃないの? それで何も動かなかったのか?
・須藤が刑務所から藤井にだす手紙。殺害現場の見取り図を送ってきたりするんだけど、検閲はしないのか?
・電気屋の爺さんの遺体を捨てるとき、林の入口まで車を乗り付け、3人であちこちに足跡をつけている。ポケットに小銭まで入れてる。それも素手で。それで自死と警察が判断したのか…。あれ? あのジイさん、首をつったって言ってなかっつたっけ?
・木村の娘は清楚な高校生みたいだったけれど、彼女のその後はどうなったんだろう。 ・雑誌の女編集長は、「そんなの記事にならない。誰も読まない」と、ステレオタイプな対応をずっとするんだけど、これもよく「新潮21」がオーケーしたよな。
・で。藤井は結局、離婚しなかったのか?
終戦のエンペラー9/26キネカ大森2監督/ピーター・ウェーバー脚本/デヴィッド・クラス、ヴェラ・ブラシ
原題は"Emperor"。allcinemaのあらすじは「1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦が終結する。その直後、ダグラス・マッカーサー率いるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が上陸、日本の占領統治が始まる。さっそく戦犯の拘束に乗り出したマッカーサーは、日本の文化にも精通していたフェラーズ准将に真の戦争責任が誰にあったかを突き止めるよう命じる。しかし、日本独特のあいまいな意志決定のあり方に知日派のフェラーズも困惑し、調査は予想以上の困難を強いられるが」
いろいろと複雑な内容かと思ったらさにあらず。極めてシンプルだった。しかし、一方で中味もドラマもクライマックスもないのも事実。こんな映画、アメリカ人は見ないだろ。と思ったら日本の資本が入ってるようだから、日本映画のウェイトが高いのかな。
「日本の降伏は天皇が決定した。天皇を温存し、天皇制を維持させることで日米は合意したが、米国政府には天皇に戦争責任を認めさせたいという意向があった。それは多分に政治的なもの(国民に対する人気取り)があった。命令を受けたマッカーサーは、フェラーズ准将に調査を命じた。…のだけれど、何を命じたのか、最初のうちは曖昧でよく分からなかった。フェラーズが最初に会うのは東條英機で、「3人選べ」というんだけど、なんで3人なのかよく分からない。東條は何を選べばよかったんだ? 東條は何も語らず、近衛文麿を選ぶ。近衛は、「自分はすでに首相ではなかったから分からない」と答え、木戸を指名する。しかし、木戸は面会に現れなかった。そこでフェラーズは宮内庁の関屋と会う。関屋は、「陛下ははっきりと意見を述べることはない。ただし戦争を憂える短歌を歌った」と答える。明確な証拠が得られないフェラーズは、天皇に責任があった、という結論を導くしかなかった…というところに木戸が面会にやってくる。どーも、話すとアブナイらしい。木戸は、敗戦を受け入れるか否かの御前会議で賛否が3対3に別れたが、天皇の意見によって降伏が決定したこと。さらに、録音された玉音放送のレコードを狙って軍部が宮内庁を襲撃したが、鎮圧したことなどを話した。これが決定打になって、フェラーズは天皇に戦争責任なし、との報告書をまとめ、マッカーサーに提出する。マッカーサーは「証拠がない。これはお前の憶測だ」という。フェラーズは「閣下は日本を再生するのが任務。そのためには、天皇を裁判にかけるようなことはしてはならない」という。マッカーサーもそのことは承知なので、フェラーズの見解を受け入れる。…てな流れだったよな。多分。
天皇の戦争責任についてはみんな知っている。その議論があったことも知っている。決定したのがマッカーサーだというのも分かっている。要は、マッカーサーに命じられて実際に調査した男がいて、それがフェラーズだった、というだけの話だ。フェラーズは任務としてやっただけで、どれだけ日本を思ってのことか、それは分からない。それに、調査がアバウトすぎる。行き当たりばったりで、順番に聞いていくだけ。根拠も薄弱だし、天皇の側近が答えなければそれで終わりではないか。ぜんぜんスリリングではない。
玉音放送については『日本のいちばん長い日』という映画がある。クーデターがどの程度の規模なのか知らないけど、あんなにドンパチやったのか? てなわけで、この映画で初めて知ることは、それほど多くはないと思う。
この映画でちょっと目を見張ったのが、近衛文麿のフェラーズへの対応だ。日本の戦争責任を問うフェラーズに、近衛は臆せず「他国を武力で奪うのは西欧諸国がやってきたこと。日本はそれを真似ただけ。アメリカも2つの原爆で市民をおおく殺害した」と言う。フェラーズは「歴史の講義はおいといて…」てなことしかいえない。あと気になったのは、フェラーズが靴を脱がず部屋に入ったこと。脱ごうとしたフェラーズに近衛が「そのまま」と言ってはいるが、「では」と上がる奴がどうして日本びいきなのだ。この一点をもってしてフェラーズは単なる外人だよ。
それと、マッカーサーの私邸に天皇が訪れたときの場面が面白かった。というのも、占領下でもアンタッチャブルな皇室に対して、マッカーサーがどんどん過激なことをしていくから。占領軍は勝手に宮城には入れないとか、皇宮警察なのか近衛兵なのか知らないけど、宮城を守る兵士(?)は銃をもってよかったの? とか、天皇はGHQには出かけていかない、とか、そういう取り決めがあったのかね。しかも、天皇と会うときは「目を見るな」「触るな・握手するな」「会話は通訳を通して」とか、並んで立つときはどっち側、とか細かい決めごとが米軍に強制される。そういうことを、占領軍は受け入れていたのか…。よく分からないんだけど。で、そういうのを、どんどん破っていくマッカーサー。関屋も退室を求められ、慌てる…。マッカーサー、なかなかカッコイイではないか。思わぬ対応をされてドギマギする天皇。でも、いきなり立ち上がって、自ら英語で「責任はすべて自分にある。国民には罪はない」と謝罪する姿もまたカッコイイ。これはまだ人間宣言する前だけど、皇宮で神扱いに慣れていた天皇が考えを改めるには十分な体験ではなかったのかな。
しかし、日本ってめんどくせー国だなと見ながら思った。アヤの叔父がフェラーズに、かつて本音と建前について述べたシーンがあったけど、それとか。他にも、白黒つけず、灰色、とか。天皇は自分の意見を短歌にして告げるとか。外国からみたら、なんなんだこの非合理的な国は、と思うだろうよな。※アヤの叔父の「日本人には武士道精神が…」には首肯しかねるけどね。
・フェラーズって、実際は1896年生まれと言うから、終戦時は48か49歳。アヤが留学していたのは1940年ぐらい? じゃあフェラーズは大学で何やってたんだ? 先生なのか? というか、2人のロマンスって、本当のことなのか? つくりごと臭いけどな。
・フェラーズはアヤの行方を、日本人の通訳兼世話係・高橋に依頼する。でも、なかなか分からない。結局自分で、アヤの叔父の家を訪ね、そこで初めて亡くなったことを知る。高橋は、調べはついていたけど知らせなかった、ということなのか? ・フェラーズと同僚の少将が、フェラーズはアヤのいる静岡を爆撃対象から外していることをつきとめ、マッカーサーに報告する。のちにフェラーズも、そのことについてだと思うけれど、特定の場所を外した、と報告に来る(だよな)。するとマッカーサーはニコリとして、その報告書を捨ててしまう。「少将もお払い箱にしたよ」というんだけど、じゃあ、個人的な感情で爆撃目標を変えた(でも、実際は爆撃された)ことを認めてるのか?
マッカーサーがどうしたいのか、その遺志もよく描かれていない。ある程度は説明されているんだけど、大統領選出馬を狙っていたマッカーサーにとって、どっちがよかったのか、とかいうことは明確に呈示されているとはいえない。
※Webの情報などを見ると、アヤは想像上の人物らしい。モデルは渡辺ゆり(一色ゆり)で、米国留学中にフェラーズと親交があった。彼女はフェラーズに「日本を知るためには小泉八雲の作品を」と紹介し、フェラーズは小泉八雲を研究したという。ただし知人関係で恋愛関係はなかった。それをムリやりロマンスに仕立てたらしい。そのせいで、アヤとのからみは唐突だったり違和感があったりするのだな。
東ベルリンから来た女930ギンレイホール監督/クリスティアン・ペツォールト脚本/クリスティアン・ペツォールト
原題は"Barbara"。主人公の名前だ。allcinemaのあらすじは「1980年夏の東ドイツ。西側への移住申請が却下され、都会の大病院から片田舎の小さな病院に左遷された女医、バルバラ。秘密警察に監視され、周囲の人間に対しても猜疑心から心を開くことができず、孤立を深めていく。一方で彼女は、西側の恋人ヨルクと秘かに逢瀬を重ね、彼の手引きによる西側への脱出へ向けて着々と準備を進めていた。そんな中、一緒に仕事をする同僚医師アンドレが患者と真摯に向き合い、自らの使命を誠実にこなしていく姿に次第に心打たれていく。バルバラ自身も医師としての誇りを胸に、献身的に患者の治療にあたり、いつしかこの病院に欠かせない存在となっていくのだが…」
バルバラが、なぜ左遷されられたのか「?」だったんだが、↑のあらすじで「移住申請が却下されたから」とあって、ふーん、という気分。たしかに会話に「移住許可」の件は触れられていた。けど、それがもとで左遷、とは言ってなかった。そもそもなぜ移住申請をだしたのか。申請だけでなぜ左遷になるのか。ということが分からない。当時の東独の環境を知らないと、理解できないってことか?
バルバラが田舎の医師と打ち解けない理由、それも分からない。たんなる性格なのか? それとも、田舎をバカにしてる? 田舎の医師たちには、見下されている被害妄想があるみたいだけど、そういうのも背景を知らないと理解できないな。
まあ、そういうことが理解できないままだったからなのか、最初の30分ぐらいは不可解でスリリングで、妖しい感じもあって引き込まれた。得体の知れない冷徹な美女。医師としては優秀。ある日、遠出して、どこかのレストランで現金を受け取り、それを路傍の石垣に隠す…。なんのため? だよな。まあ、東独の事情を熟知し、あるいはこの映画の予告を見たりしていると、逃亡費用と分かるんだろうけど、こっちは前知識ゼロだったので面白かった。
のだけれど、ある日、森で西側(西独か、それ以外か分からず)の男と会うとその場で交尾に至るというガッカリな展開で、神秘性は吹き飛んでしまった。さらにその後、外国人専用ホテルに忍び込み、件の男といちゃつき、逃亡日時を打合せるに及んで、この映画はたんに国外逃亡だけの話なのかと悟ると、がぜんつまらなくなってしまった。だって、逃げたいばかりに西側の男に頼り、軽々しく股をひらくってことだろ? としか思えなかったから。そのせいで、この辺りから退屈してきてしまい、いつのまにかうつらうつら。気がついたらバルバラが同僚の、人のよさそうなアンドレにキスするところだった。これはどういうことだ? まあ、サヨナラは別れのキスなのかな、たんに。というのも、まだこの時点では自身が国外へ逃亡しようとしていて、その後に逃亡中だったステラがバルバラのアパートに転がり込んでくるからだ。これによってバルバラは、自分が脱出するか、彼女を脱出させるかの二者択一にせまられ、ステラを脱出させて終わる。のだけれど、その前に…。
この西側の男の存在もよく分からなくて、本当の恋人なのか、それとも、脱出させてくれると言うからつき合ってるだけの関係なのか、なんかアバウトなのだ。っていうのも、田舎じゃ感情をみせないバルバラが、彼とは盛りの付いた犬のように乳繰り合う。このギャップがね。どーも解せないのだ。
病院では、気になる患者が2人いる。ひとりは前出のステラ。少年院か何かに入っているのか、劣悪な環境で労働させられている。そこからしばしば逃亡し、何度も病院に来ている。しかも、今回は髄膜炎にかかり妊娠もしている。なのに、ちょっと回復すると、警察のようなのがやってきて、また元の環境に戻してしまう。それに耐えられず、ステラはまたしても逃亡。数日の後に、バルバラのアパートに転がり込んでくる。バルバラはステラを脱出させるべく約束の場所に連れていき、お金とともにゴムボートに乗せてやる。これで自分は、脱出できないと分かっていながら…。ということなのだ。
もうひとりは、自殺未遂を図った青年で、頭部内出血で開頭手術も必要になるかも…という患者。その手術の日が、脱出の約束の日なので、結局は手術には立ち会わない。のだけれど、心残りだったのか、ステラを送り出した後、病院に戻ると、その青年の病室に顔を出す。そうして、アンドレにニコリと微笑むんだけど、これは心の施錠が完全に外れた、ということなのかな。まだアンドレに心が動かされているように思えないんだが、まあ、少し寝ちゃったから、何とも言えないんだけどね。
てなわけで、どうやって知り合ったのか知らないけど、西側の恋人がいる。その恋人の前では尻軽。西側にでたいためだけなのか? いちゃいちゃしながら、男が「僕はこっちで暮らしてもいい」というと、バルバラは「それはないわ」みたいに一蹴する。ってことはだ。2人でくらしたいより、西側にでたい、が優先だよな。ってことは、愛と言うより、手段だろ。違うのかな。
というわけで、冒頭からの妖しクスリリングなサスペンス性はさっさと影を潜め、いまいちドラマのない、だらだらな話に陥ってしまい、締まりのない結末を迎える映画であった。
・左遷されると、監視がつく。でも、数時間行方不明でがさ入れされる程度で、とくに厳重注意もない。どころか、二度目は外国人ホテルへの潜入だ。こんなことしてて、鋭く追求もされないというのは、ゆるい気がしてしまう。
・アンドレも左遷組で、NZから輸入した保育器みたいなのの摂氏と華氏を間違え、子供を失明に追い込んだた部下の責任をとらされた感じ。この程度で田舎送りなのか。こんなことしてたら、優秀な医者は育たないだろ、と思ってしまう。
・しかし、この映画はベルリンの壁崩壊9年前の話。ということは、みな自由を体験できているわけで、あのときのあの苦労はなんだったんだ、てな感じだろうよ。teg@)4 ・ところで。バルバラは西側の恋人とはずっとつづいたんだろうか。それとも、アンドレと新しい関係を築くんだろうか。まあ、それはご想像にお任せしますって? けっ。

 
 

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