もうひとりの息子 | 4/1 | ギンレイホール | 監督/ロレーヌ・レヴィ | 脚本/ロレーヌ・レヴィ、ナタリー・ソージェン、ノアン・フィトゥッシ |
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フランス映画だと。ふーん。原題は"Le fils de l'autre"。allcinemaのあらすじは「テルアビブに暮らすフランス系イスラエル人家族の18歳になる息子ヨセフ。ある日、兵役検査で両親の実の子ではないことが判明する。18年前、湾岸戦争の混乱の中、病院で別の赤ん坊と取り違えられていたのだ。しかも相手は高い壁の向こうに暮らすパレスチナ人夫婦の息子ヤシンだった。最初は事実を受け止めきれず激しく動揺するヨセフとヤシン、そしてそれぞれの家族たちだったが」 子どもの取り違えの話である。取り違えといえば「そして父になる」があったけど、同時期に同じような設定の映画があったんだな。「そして父になる」は見ていないので確かなことは言えないのだけれど、こちらの方が設定に社会的政治的ひねりを入れていて、事は深刻だ。互いに敵対する国の子どもを実子と思って18年間育ててきた、というのだから。なので、話は過激に面白くなるのかな、と思っていたらさにあらず。中途半端にだらだらな中盤へと突入するので、ちょっと萎えた。 個人が葛藤している様子は、多少描かれる。しかし、パターンに嵌まっちゃってる感じで、しかも、外面だけ。内面に斬り込んでいないので、いまいちスリリングではない。たとえば、両家族とも、母親は憎しみよりも許容の心が優先する。だから、相手の家族を拒否せず、迎え入れる。父親は、受け入れがたい感情を露骨に示す。とくにパレスチナの父親が、怒りを露わにする。もちろん、もって行く先がないのは承知ではあるけれど。 パレスチナの一家がテルアビブにやってくるシーンで、パレスチナの父親が「占領しているくせに」みたいな、いかにもなことを口にして、テルアビブの父親と口論になるところなんか、当たり前すぎてつまらない。怒っていればドラマになる、とでも思っているのだろうか、この監督は。 怒りと敵意はパレスチナの父親の方が大きいんだけど、もっと凄いのが、パレスチナの兄。これまで可愛がってきた弟ヤシンを、敵国人のように忌み嫌うようになる。そんななのか? なんか、キャラ設定でそういう役回りを課されたみたいで、ステレオタイプに見えてしまう。とくに思うのは、パレスチナ人は「敵対的」「狭量」に設定されていて、イスラエル人が比較的落ち着いていて、受け入れる態度を示していること。まあ、占領しているイスラエル人と、されているパレスチナ人との違いなのかも知れないけど、ステレオタイプに過ぎるんじゃないのかな。 あと、とても気になったのが、ヨセフは音楽好きであまり勉強は得意じゃないみたいな感じで、いっぽうのヤシンはパリ大学の医学部に合格する秀才に描かれているのも、なんかな、な感じ。ユダヤ人は頭がよくて、パレスチナ人は芸人だ、みたいに見えても仕方がないと思う。こういうの、やっぱり意図的にやられているのかな。 ギョッとしたのが、ユダヤ教ラビの態度。ヨセフが相談に行くと、「ユダヤ教徒は、状態である。このままユダヤ教徒でいるには改宗が必要だ」みたいなことを言うのだ。さらに、ヤシンについては「彼は生まれながらにユダヤ教徒だ」とも。ひぇー。ユダヤ教って、血筋で決まるのかよ。なんの救いもないじゃないか。なので、一気にユダヤ教が嫌いになった。 それと、根本的に疑問なのが、「顔」だ。たぶん実の両親ともにフランス系(?)白人のヤシンが、縮れっ毛で浅黒い。で、ひょっとして父親は白人?なヨセフは、アラブ顔に見えなくもないというキャスティング。まあ、あの地域は人種が入り混じってて、人種の違いは顔では分からない、のかも知れないんだけどね。 しかし、中盤の展開の中味のないことといったら…。実はイスラエル人の息子、と判明したヤシンは、たびたびテルアビブを訪れ、ヨセフと友だちづきあいをするようになる。実父が軍人で大佐なので、通行証も簡単に得られたんだろう。それより以前に、フランス留学してるせいで西洋人に対する抵抗がないみたい。…という設定も、パレスチナ人の過激さは刷り込まれたもの、みたいな見せ方に見えなくもない。 ヤシンは毎日のようにテルアビブにやってきて、海岸でアイスクリームを売って小銭を貯めている…という設定に、どういう意味があるんだろう? イスラエルの大佐に、通行証を発行してもらったパレスチナの父親。この関係も、なんかな、な感じ。イスラエルが嫌いなら、大佐に礼なんて言いに行かなきゃいいのに。 こういう一連の、イスラエルに好意的でパレスチナに意地悪な視線というのは、やっぱ、製作国がフランスであることに由来しているのかな。まあ、とくにパレスチナに批判的であるとは思わないけど、心根が出てしまっているような気もしないでもない。 弟や父親がテルアビブに行けるようになった兄は、自分も通行証が欲しい、といいだす。ひょっとしてテロ行為でもするのか? と、アブナイ展開の可能性も想像したんだけど、そんなことはまったくなくて。兄弟でテルアビブに入って、ヨセフと会う。兄はテルアビブの繁華街を見て、自分たちの国との違い、贅沢さを身を以て知り、驚いたようなところもあるみたい。ヨセフに攻撃的になることもない。やれやれ、と見ていたら、海岸でチンピラに絡まれ、ヨセフが刺されてしまう。死ぬほどのことはないんだけど、何かよく分からない痛み分けみたいな感じで、パレスチナの兄も怒りの矛先を納めてしまう。 まあ、このまま2人の子どもは、同じ家族の中で暮らしていくんだろう。しかも。この一件で、相手を敵意をもって見るのではなく、ひとりの人間として見るような関係になるのだろう、というような終わり方だ。なんとなく事を荒立てず、無事に着地させた感じだけど、こんなんでいいのかね。なんか切れ味がにぶいような気がするんだが。ユニークな設定も、少しも活かされてないかな、と思ったりした。 | ||||
少女は自転車にのって | 4/1 | ギンレイホール | 監督/ハイファ・アル=マンスール | 脚本/ハイファ・アル=マンスール |
サウジアラビアの映画だったのかよ。原題は"Wadjda"で主人公の少女の名前だな。allcinemaのあらすじは「厳格なイスラム教が支配する国サウジアラビアの首都リヤド。10歳のおてんば少女ワジダは、近所の男の子アブダラと自転車競争がしたくてたまらない。ところがお母さんは、女の子が自転車に乗るなんてもってのほかと、まるで相手にしてくれない。そこでワジダは、自分でお金を貯めて自転車を買おうと決意する。しかし、自転車代の800リヤルは、ワジダにとって夢のまた夢。そんな時、コーランの暗誦コンテストに優勝すると賞金1000リヤルがもらえると知る。さっそく、それまでほとんど興味のなかったコーランを必死でお勉強するワジダだったが」 まず連想したのが『運動靴と赤い金魚』で、貧乏な国では自転車を欲しがる、というだけで映画になるのだな、ということだった。ところが、なんか『運動靴』とは違うんだよな。あっちはイランの話で、貧乏故に妹の靴がボロボロで、兄貴が徒競走に出て賞品の靴を狙う、という、まさに貧乏が根底にある話だった。それにひきかえこちらは、立ちはだかるのは貧乏ではなく戒律なのだ。 とはいっても、戒律のお陰で自由がないとか虐げられている、というのではない。なぜなら、この国(あとからサウジアラビアと知った。見る前は知らず、見ている途中にも、説明はなかった)の大人の女性は戒律を厳しく守っていて、不満があるように見えないからだ。 そりゃあ非イスラム圏と比べたら自由度は少ないだろう。けれど、彼女たちは、そんなことは知らないはず。…もちろん、映画の中で、上級生がファッション雑誌やペティキュアをもっていたりしたけれど、国外と比べて云々というのは、情報がないのではないだろうか。あるのか? たとえばアメリカ映画が自由に見られるとか、雑誌も買えるとか、あるいはインターネットで西側諸国の情報がわんさか…というようなことが? でも、映画では、そんな描写はなった。 というようなことを思うと、ワジダはとても変な子供だ。勉強が嫌いで音楽が好きで、近所の同年代の男の子とよく遊んでいる。とくに、少年と一緒に遊ぶ、というのは、日本だって茶化されるに決まっている、というようなひとを、男女が離れて暮らさなくてはいけないサウジで、ああも大目に見られるのか? よく分からない。 要は、はたしてワジダがどれぐらい息苦しさを感じ、逃げ出したいか、というような抑圧され具合がちっとも見えないから、だから、彼女の自由への憧れも伝わってこない、ということだ。むしろ、この監督、映画のつくり方を知っているのか? というような疑問すら湧いてきた。だって、いろんなところでヌケがあって、伝えるべき情報をちゃんと伝えてないのだもの。というわけで、前半に10分ぐらい寝てしまったよ。 そもそも、ワジダと母親は、どういう境遇なのか、よく分からない。冒頭で、クルマでの送り迎えが描かれ、そこに、別の男性がやってきて、家に入って行く。ここで登場する男性2人が誰なのか、ずうっと分からない。だいぶたって、最初の男は運転手、もうひとりは父親だと分かるんだけど、そんなのセリフでなにげなく説明しろよ、な気分。 で、父親はいっしょに住んでない様子で、たまにきてはゲームしたり、なんか良く分からない。後半にかけて、この亭主が嫁をもらうというようなことになり、ああ、第2夫人か第3夫人をもらうのかな? と思ったんだけど、では、ワジダの母親は何番目の夫人なんだ? 夫人たちは他の夫人と同じ家でいっしょに住んでいるわけではないのか? とか、疑問だらけ。へたくそな脚本だなあ、と、イライラも通り越して、寝てしまったのだった。 それにしても、女性の服装が完全装備。全身黒ずくめで目しか出さない。もちろん家では脱いでて、フツーな恰好なんだけど、来客男性にその姿を見られてはならない。ベランダから外を見るのも、外にいる男性に見られてはならないからたいへん! でも、反動なのか、家の中ではかなり派手。ワジダの学校(当然、女子校)の校長先生なんて、かなり色っぽい。でも、昔からの宗教的な制約なんだから、べつに困ることもないと思うんだけど、監督はそれを"抑圧されている"と思って欲しいらしい。だったら、そういう風に描けばいいのに、そうしない。というのは、技術が未熟なんだろ。 というわけで、自転車が欲しいワジダは、コーラン暗唱大会にでることにして、DVDソフトを買ったりして勉強を始めるんだけど、案外簡単に上達してしまうのがつまらない。過程を見せなきゃしょうがないだろ。はたまた、乗り越える壁もなく、すんなり優勝ではアホみたいだ。そもそも大会自体が学内のコンテストで、なんなんだ、というレベル。 賞金を何に遣うか校長に聞かれ「自転車を買う」といったら渋い顔をされ、強引に寄付に回されてしまう。可哀想なワジダ。でも、亭主が新しい妻を迎え、捨てられた(という表現をしていたけれど、そんなことはないんだろ?)母親が、なんと自転車を買ってやるというのは、話としてはありきたりで出来過ぎというか、つまらない。 で、母親は運転手つきで、どこへ行ってるんだ? 仕事でもしているのか? 何やってるのだ? まあ、女性は運転禁止の国らしいけど、だったらそういうことをちゃんと描かないと、後の話につながらないだろ。 で、近所の少年と自転車で競争するところで終わってるんだけど、これじゃ何のガス抜きにもなってないよな。 ・校長の浮気(家に男が出入りしている)のことが話題に出てたけど、これも、浮気は大罪、とかいわないと分からない。あるいは、みんなやってることなのか? ・ミサンガなんて、分からないよ。注釈付きで字幕してもらわないと。 ・母親が服を買いに行くんだけど、店員に「試着はトイレで」といわれ、でも、服の裾が床についてるよ! 汚ね。 | ||||
ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅 | 4/3 | 新宿武蔵野館2 | 監督/アレクサンダー・ペイン | 脚本/ボブ・ネルソン |
原題は"Nebraska"。allcinemaのあらすじは「アメリカ北西部のモンタナ州に暮らす老人ウディ・グラント。ある日、100万ドルの賞金が当たったという、どう考えてもインチキな手紙を受け取る。ところがウディはそれを信じ込み、はるか遠くのネブラスカまで歩いて賞金を受け取りに行こうとする始末。息子のデイビッドは、周囲が何を言ってもまるで耳を貸さない父に根負けし、無駄骨承知で彼を車でネブラスカまで連れて行くことに。そしてその道中で、ウディの生まれ故郷に立ち寄る父子だったが」 この手の話を「ほんわかした」とか「ゆったりした」とか「あったかい」とか言ってるやつはアホだと思う。あんな、アルツか痴呆か知恵遅れみたいなジジイが家にいたら、たまらんぞ。そういう現実を見ないで、なにが「ほんわか」だと思う。 それにしても、グラント爺さんは得体が知れない。なぜインチキな手紙を信じ込んでいるのか。しかも歩いて取りに行くのか。その理由は最後まで分からない。もちろんいくつかの示唆はある。いくつかの、息子デイビッドも知らない事実がポロポロと明らかになったりしているからだ。たとえば自動車修理工(だっけか?)と思っていた過去のもっと昔に、ジェット戦闘機乗りだった、と知って驚愕するデイビッド。故郷の町の新聞社の女性オーナーは、グラントの彼女だった。でも、そうした事実だけで納得できるものではない。それが現在のグラントの行き方にどう影響を与えているかは、分からない。 もちろん、はっきりとした解き明かしがあればいい、ということをいうつもりはない。だけど、見終わって「ああ、なるほど」「もしかして…」ぐらいの想像が許されないと、どーも据わりが悪い。 100万ドル以外にも、むかし故郷の知り合いに貸したコンプレッサーを返してもらっていない、というような不満をぶつぶつ言ったりする。ではそれは、なんなんだ? という話だ。100万ドルもコンプレッサーも、何かのアナロジーになっているのか? その辺りが読めないので、どーもいまいち共感も感情移入もできないのだよな。 で。グラントの妄想(?)は止まることがないので、デイビッドはしかたなくグラントをクルマに乗せてネブラスカのリンカーンという町を目指す。のだけれど、途中でグラントがケガをして(何で額を割ったんだっけ?)病院行き。本来はリンカーンからの帰路、立ち寄るはずだった両親の故郷ー向かう。ここにはグラントの兄が住んでいて、誕生会かなにかがあるので、ファミリーが集まるらしい。てなわけで町のバーに寄ったらグラントの旧友がたくさんいて、しゃべっちゃダメというのに100万ドルのことをべらべら。のお陰で旧友や親戚にも、「グラントは大金持ち」という話が広がってしまって、デイビッドは困り果てるわけだ。 コンプレッサーを持って行ったままの知人は「むかし世話をした」から金を返せ、という。グラントの兄の子ども(双子?)も、当然のように金をよこせ、といってくる。このあたり、まさに古き良きアメリカだなあ、と思ってしまう。双子なんか、覆面してグラントを襲い、当選の手紙を奪っちゃうんだからもの凄い。こういう田舎って、ほんとにまだあるのかもなあ。 結局、手紙はインチキというのが明白になり、周囲はみなグラントを忘れようとする。でも、グラントは忘れない。デイビッドと一緒にリンカーンの、手紙をよこした事務所に行くが「当選番号が当たっていたら、の話よ」といわれてしまい、呆然。でもデイビッドは、父親が欲しいと言っていたトラックを買ってやり、とりあえず故郷の町まで戻ってくる。ほんとうは運転は止められているんだけど、いまだけは、とデイビッドは街中でハンドルをグラントと代わる。残念賞でもらった「当選」と書いてある帽子、そして、中古だけど新品に近い(?)トラックに乗って、意気揚々のグラント。町の人々は「ひょっとして、当たったのか?」というような顔をしてグラントを見るのだけれど、グラントも「さあ、どうだ」てな調子で運転する。…というところで終わるんだけど、最後にグラントが運転を誤ってどっかに突っ込んだりして終わるのかと思ったんだけど、そういうことはなかったな。 というわけで、全体としては、だからどうしたレベル。しかし、いくつかの小ネタは面白いのもあった。コンプレッサーを盗んだ知人を演ずるのはステイシー・キーチ。デイビッドと兄貴は、その家からコンプレッサーを盗む=取り返した、つもりだったけど、別の知人だったので大慌て、とか。往路でラシュモア山を見に行ったら、グラントは「リンカーンには耳がついてない」とけなすのだけれど、これって目的地のリンカーンは話を聞いてくれない、を示唆しているのだろうか、とか。 あとは、母親のエピソード。実は故郷で新聞社を経営する女性は、むかしグラントの恋人で。でも、簡単にさせなかったので、グラントは現在の妻=デイビッドの母親と一緒になった。その母親を、町中の男たちが狙っていた…ということは、けっこうな数の男たちと…? でも、いまはすっかりグラントを尻に敷いて、しっかりものの婆さんになってるけどな。 あと、デイビッドの別れた彼女がかなりのデブで、でもそんな彼女にデイビッドは未練たっぷり(「またセックスできる?」なんて聞いている。)なのが、リアルだな。 | ||||
ローン・サバイバー | 4/4 | 新宿ミラノ1 | 監督/ピーター・バーグ | 脚本/ピーター・バーグ |
原題は"Lone Survivor"。allcinemaのあらすじは「2005年6月。世界最強と謳われるアメリカ海軍特殊部隊ネイビーシールズが、極秘任務“レッド・ウィング作戦”を決行する。最終目標はタリバン幹部アフマド・シャーを見つけ出し、殺害すること。マーカスを含む4人の兵士がヘリコプターでアフガニスタンの山岳地帯に降下し、偵察活動を開始する。そしてタリバンの秘密基地を発見し、標的の存在を確認する。しかし山中で無線状態が悪く、本部との連絡がうまく取れない。そんな時、山羊飼いの男たちと遭遇。マーカスたちは彼らを拘束するが、その処遇を巡って意見が割れる。彼らを解放すれば、確実にタリバンに通報されてしまう。だからといって、明らかな非戦闘員を口封じのために殺害することが許されるのか。極限状況の中、激しい議論の末に苦渋の決断を下すマーカスたちだったが」 死を覚悟して戦う潔さが描かれている、といえばそうなんだけど。どーも素直に感動できないものがある。というのは、評判らしい銃撃戦の、なんとも安っぽい陳腐さにある。一見、激しく、リアリティに満ちているかのように見える。でも、無防備に敵に全身を見せ、簡単に撃たれるタリバンの様子を見ていると、西部劇=騎兵隊もので呆気なく撃たれて死んでいくインディアンを想起してしまうのだよな。いっぽうで、米兵は簡単には死なない。少しずつ傷つき、あるいは捉えられて、残酷に殺されるという過程を見せたりする。これも、西部劇におけるインディアンの野蛮さの強調と似たようなところがある。まさにこれは、アメリカ映画の伝統芸ではないか。真に迫る銃撃戦というよりも、従来の枠をはみ出すことなく、パターンに徹した描き方だといえる。 要するにここには「弱腰オバマはアフガンから撤退したが、君たちは犬死にじゃない」というメッセージが込められているのではないだろうか。まあ、こういう国威高揚は必要かも知れないけど、傍から見ると白ける部分もある。なぜなら『ブラックホーク・ダウン』もそうだけど、『ローン・サバイバー』も作戦失敗でトンマな状況に陥る話。もうアメリカ最強! な時代が終わってるのはわかるんだが、亡くなった兵士の追悼映画をつくってどうすんだ? な気がしてしまう。救出に向かったヘリも、ロケット弾を喰らってなんとも簡単に撃ち落とされてしまう。2人を救いに行って、大勢(16人らしい)が死んでいるのだ。 この映画、人間がほとんど描けてない。まず、冒頭ではシールズの訓練の過酷さを紹介。メンバーとなったパットンという若手が軸なのかと思ったら、そうじゃなくてヒゲもじゃの4人が作戦には出かけることになる。でもって、ターゲットを見つけるところまで行くんだけど、撃たない。どうやら正式な命令がないと、撃てないらしい。しかも、無線が使えない状態になってしまっていた。というわけでいったん引き返して…とかやってるところに羊飼いがやってきて、マーカスが足を踏まれてしまうというマヌケなことに。羊飼い3人は確保したけど、この処理も独自にはできない。命令を仰ごうにも無線がダメ。で、3人を解放しちゃうんだよ。これがまたトンマ。 ここで、無防備の原住民を殺害した場合に問われる国際的な責任、を考慮してしまった。決定したのは上官だと思うけれど、解放すればすぐにタリバンがやってくるのは目に見えていた。逃げる先は山頂だけど、簡単に着いてしまって逃げ場なし。無線はつながらない。で、戦闘状態に陥り、4人対200人の銃撃戦になる、という寸法。ま、多勢に無勢で勝負は見えている。というなかで、命からがら逃げ出したマーカスが、原住民に助けられる、という意外な展開。なんで? な話なんだが。もちろんタリバンはすぐにやってくる。引きずり出され、断酒されようというマーカス。というところで、なんとこの原住民たちは、タリバンに銃を向けるのだ! おお。どうなってるんだ。 というところに、やっと攻撃用ヘリ・アパッチがやってきて、マーカスは無事救出。めでたしめでたし、なのかな、な話であった。 映画が終わって字幕が出て、"パシュトゥーンの掟"がどうたら、という簡単な説明がでる。しかし、簡単過ぎて、なにそれ? な感じ。Webで調べはしたけれど、いまいちよく分からなかったりする。もうちょい"パシュトゥーンの掟"について、描き込む必要があったんじゃないのかな。というより、この映画、ネイビーシールズの話にするより、"パシュトゥーンの掟"を守ったアフガン人の話にした方がよくないか? http://lonesurvivor.jp/column/index.html ・タリバンに攻め込まれ、行く手は崖。そこを転がり降りるんだけど、あれは死ぬだろ。映画的演出だとは思うが、やりすぎ。 ・アパッチ、ブラックフォークぐらいはなんとか分かるけど、RPGっていわれても分からんよ。 ・それにしても、4人ともみんなヒゲで区別がつかない。階級も分からない。マーカスは兵曹だったのね。ちゃんと人間を描かないから、こんなことになる。 ・見終わって靴ひもを締め直してたら、中年男性に声をかけられた。「何でラストでアフガン人に助けられたんですかね? パシュトゥーンの掟とかいってましけど、あれ何ですかねえ?」 掟のことは私も分からないけど…と、しばらく話をしてしまった。映画館で見知らぬ人と話するなんて、珍しい。 | ||||
ラヴレース | 4/7 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2 | 監督/ロバート・エプスタイン | 脚本/アンディ・ベリン |
原題は"Lovelace"。allcinemaのあらすじは「1970年。厳格なカトリック教徒の家に育った21歳のリンダ・ボアマン。厳しい両親に反発を感じていた彼女は、バーを経営するチャック・トレイナーと出会い、たちまち恋に落ちる。すぐに結婚したリンダは、チャックの手ほどきで性の快楽に目覚めるとともに、様々な夜のテクニックを仕込まれていく。しかし最初こそ優しかったチャックだったが、次第に強権的で暴力的な本性が露わに。やがて経済的に苦しくなったチャックは、リンダをポルノ映画に出演させることを思いつく。チャックに命じられるまま出演した映画「ディープ・スロート」は、彼女が披露した“秘技”がセンセーションを巻き起こし、空前の大ヒットを記録、一夜にしてトップスターとなるリンダだったが」 チャックとの出会い、同棲・結婚、フェラチオ開眼、映画会社の面接、ポルノ主演、一躍スター扱い、ヒュー・ヘフナーとの交流、次回作の打診…と、とんとん拍子。リンダって、なんの抵抗もなく、楽しげにポルノにでたのか。ふーん。と見ていたら、6年後にポーンと飛んで。彼女はポリグラフの前で証言をしていた。なんのこっちゃ? と見ていたら、前半と同じシーンが、その暗部とともに繰り返される…という構成。 つまり、チャックは暴力夫。借金はギャンブルだったかな? で、ムリやりリンダをポルノに売り、あげく、映画がヒットした後も彼女に売春までさせていた…ということが明らかにされていく。この裏面史は、実は、退屈だった。驚きと言うより、やっぱりな、という感じかな。だから、前半と同じ場面が繰り返されるたびに、またここでもか、という気分になって楽しめなかった。 最後の方でドンデン的にががっとまとめて暴くとか、あるいは最初から暗く湿っぽくやるか、でも良かったんだじゃないのかな。 しかし、リンダがポルノ業界にいたのは17日で、もらった出演料が1200ドルで、収益は6億ドル。2作目へのオファーが2500ドルだってんだから、ひどいもんだったんだな。そういう事実を追う方が、面白くないか? と思ったらどうもドキュメンタリーもあるようで、たぶん、そっちを見た方が面白いかも。 その「ディープ・スロート」は見ていない。とくに思い入れもないし、ぜひ見たいとも思わない。なんか凄いハード・コアなイメージだったんだけど、どうもコメディ要素も多いみたい。というわけでアマンダ・セイフライドは、胸だしのシーンがちゃんとあって、そこまでやるか、な感じ。というか、よくこの仕事を受けたよな。 | ||||
少女は自転車にのって | 4/1 | ギンレイホール | 監督/ハイファ・アル=マンスール | 脚本/ハイファ・アル=マンスール |
2度目。前回、寝たので、リベンジのつもり。だけど、なんとまたもや同じようなところで眠ってしまい、気がついたら、これまた同様に前回に目覚めたところと同じで、少年が屋上で自転車に乗っているところだった。やれやれ。よほど相性がよくないのだろう。 家の前に停まっていたクルマは、バスとタクシーの合いの子みたいなものなのが分かった。一瞬、車内が映り、そこに同じような黒づくめの女性が3、4人乗っていたから。でも、具体的に説明はなかったな。あとから次第に分かってはくるんだけど。 で、朝帰りしてきたのは父親なのは「パパ」とか言ってた。なるほど。さらに、一緒には住んでいるようだけど、団らんシーンはほとんどなかったな。実家も近くにあるみたいで、ワジダの家から、父親が第二夫人を娶る結婚式の光が見えてたからな。 母親が第一夫人であるのは、セリフで、亭主が第二夫人をもとうとしている、ようなことをさらりと言っていた。 それと、背景には選挙があるんだな。ポスターだけかと思っていたら、ワジダの家の下の空き地で宴会みたいのがあって、それは選挙運動の一環だったみたいだな。 ワジダの小銭稼ぎも、いわれりゃ、そうか、なんだけど。なんか曖昧な表現だよな。ミサンガづくりやエアチェックテープなんて、だれでもできるんだろ? そんなものが売り物になるのか? 目的も、初めから自転車が目標なのか、運ばれてる自転車を見て目的が定まったのか、よく分からない。 てなわけで、寝ている間に何があったかは確認できなかったけれど、ははは。しかし、あれやこれや、映画作家としてはいまいち未熟で、伝えるべきものをちゃんと伝えていないように思えたのは変わらなかった。 とまあ、こういうわけ。 | ||||
ペコロスの母に会いに行く | 4/14 | ギンレイホール | 監督/森崎東 | 脚本/阿久根知昭 |
allcinemaのあらすじは「離婚して子連れで長崎に戻ってきた売れない漫画家のゆういち。母のみつえは、夫に先立たれて以来、認知症が進行していた。そんな男やもめで認知症の母を世話するのは簡単なことではなかった。ケアマネージャーの勧めもあり、ゆういちは悩んだ末にみつえを介護施設へ預けることに。個性豊かな面々とグループホームで暮らし始めたみつえにせっせと会いに行くゆういち。一方、次第に若かりし過去の時代へと記憶を遡っていくみつえだったが」 ↑のあらすじ見て、妻とは離婚したのか、と初めて知った。死別か離婚か、どっちかな? 仏壇には父親だけのようだから、離婚かな? とは思っていたけど、背景など杜撰だったりする。公開時は森崎東なのでパスしたんだけど、キネ旬1位なので見てみたら、フツーなドタバタ…に近いコメディだった。 確かに、みつえ役の赤木春恵は見事。半ボケ状態から次第に進行して完全ボケになるまで、丁寧に演技している。認知症への取材もよくできているようで、その症状なども"なるほど"感がある。グループホームの生活、ともに暮らす面々も、暗くならずによく描けていると思う。認知症と診断されていない、みつえの妹や弟たちの軽い健忘症なんかも、うまく描き込んでいる。ほかにもオレオレ詐欺のアプローチなんかのエピソードも、わざとらしくなくさらりと上手く表現されている。 ところが一方で、強引なのが、みつえの友人ちえことの関係。よく考えなくても単なる幼友達で、忘れがたい絆があるわけではない。別れたのは10歳ぐらい? ちえこの一家は長崎に転居し、被ばく…。遊郭で働いていたが、若くして死んだ、という設定になっている。みつえは一度、遊郭でちえことすれ違い、声をかけた(あのとき父、母、ゆういちは、何の目的で遊郭をうろうろしてたんだ?)。でも、ちえこは逃げるように去って行った。まあ、遊女になった自分を見られたことが原因なんだろうけど…。その後も、何度も手紙を出すが、返事がない。後日、手紙がきて遊郭を訪れると、手紙は実は女将(?)が出したもので、みつえに宛てて書いたけれど出せなかった他の手紙も渡される、という設定。 亭主がアル中と神経症(?)で、悲観した母みつえは、息子と心中しようと突堤にいた。そこに郵便配達が、ちえこからの 手紙をもってきて、それで遊郭を訪れることになるんだけど、この幻想的な展開は少し面白い。映画の中でも、ゆういちが、あり得ないような不思議なこと、といっている。まあ、原作者本人の記憶なんだろう。 かたちとしては、ちえこに命を救われる、ということで、なるほどな展開。とはいえ、やっぱり、そんな濃い因縁があるのは変だろ、と思ってしまう。幼い日の、みつえとちえこの交流は、ときどきインサートされつつ描かれてはいる。でも、コーラスの場面は、聞いている2人の少女が大切なんだ、とは分からないような描き方。だって、コーラスの指揮を宇崎竜童がしているんだもの、どうしたってコーラスが主眼だろ、と思ってしまうよなあ。 ところで遊郭の女将(?)が外人顔なんだけど、あれは意図的なんだろうか? 亭主が、なんかよく分からない男に描かれている。サラリーマンなんだろう。真面目風だけど、途中から酒乱になり、給料日に飲み屋の客引きに連れていかれ、給料のほとんどを遣ってしまうような男に描かれている。どこかの島で働いているのか? それとも、一家が島に住んでいるのか。渡しで帰ってくる亭主が描かれる。母は、ゆういちに、「とうちゃんをちゃんと連れてこい」と命じるんだけど、ゆういちの目の前で客引きに連れ去られてしまう。…のは分かってるんだろうから、母親自身が亭主を確保しに行きゃあいいのに、と思ってしまう。 幻覚を見て怯えたりもするんだけど。神経症というより精神病だな。そんなんで仕事が勤まったのか? でも、そういうことは描かれていない。それと、妹2人、弟も1人、それから10歳ぐらいで死んだ弟か妹もいて、子どもは5人のはずだけど、両親と描かれるのは、ゆういちだけ。なんか不自然。 あと、ホームに母親を入居させているキザな男に、竹中直人が登場するんだけど、見せ場はカツラとハゲなんだよな。これって『Shall we ダンス?』のまんまじゃん。なにそれ、だよな。 で、クライマックスは、お祭りが舞台で、タイアップの関係なんだろう。資金集めは大変だろうからね。他にもソニー生命とか、グループホームも実際のものらしい。で、祭りの雑踏の中で母みつえが迷子になり…。亡霊たちに連れられて、ということらしいけれど、橋の上で現在のみつえ、若き日の父親、死の直前(?)のちえこ、幼い日のみつえ(だよな)、が一緒に写真に収まった(と、みつえは思い込んでいる)んだけど。なんでこの3人、しかも、みつえの現在と児童期なんだ? エンドクレジットを見て、どこにでてた? でびっくり。佐々木すみ江、正司照枝、白川和子は分かったけど、穂積隆信、大門正明、島かおり、長内美那子なんか、ええっ? な感じ。 いちばん感動的なのは、クレジットの終わりぐらいに登場する撮影風景、そして、原作者とその母親だな。まだ顕在なんだ! まあ、あれこれ言ったけど、森崎東も86歳で1本撮るんだから、敬服でございます。 | ||||
愛の渦 | 4/15 | テアトル新宿 | 監督/三浦大輔 | 脚本/三浦大輔 |
allcinemaのあらすじは「閑静な住宅街にある豪華マンションの一室。そこは、男2万円、女千円、カップル5千円で参加できる秘密クラブ主催の乱交パーティ会場。集まってきたのは暗い顔のニートや真面目そうなサラリーマン、地味なメガネの女子大生など、ごく普通のセックスがしたくてたまらない男女8人。全員バスタオル1枚の姿で、いかにも気まずい空気が漂う。それでも所詮彼らの目的は一つだけ。ぎこちない会話を重ねながら徐々に相手を見つけていく一同だったが」 というわけで、冒頭とラストの数カットを覗いて、密室の中で複数の男女がセックスするだけの話。新手のポルノ映画としても十分に機能していると思う。集まったのは途中参加するカップル(柄本時生、信江勇)を含めて男女5人ずつの10人。その一人ひとりがなかなか個性的で、うまく描き分けられている。これは『恋の渦』も同様で、なかなかお見事。 みな初対面なので、初めはおずおず。1組が意気投合して別室のセックス部屋へ消えると、他もカップリングしていき…という過程は、なかなか面白い。 セックスシーンも結構、過激で。といっても艶めかしさやエロチックとはほど遠く、なんか大雑把。体位も後背位と騎乗位、茶臼ぐらい。ただし、互いに全裸で絡み合っていて、全身が映っている映像にボカシがないのは、これは映倫の基準がゆるくなったから、なのかな。 話はニート(池松壮亮)と女子大生(門脇麦)が中心のようなんだけど、とくに2人の出番が多いとか言うことではない。フリーター(新井浩文)、サラリーマン(滝藤健一)、OL(三津谷葉子)、保母(中村映里子)、童貞(駒木根隆介)、常連(赤澤セリ)も、同じような比重で登場する。それぞれに、ひと癖もふた癖もありそうで、何もなかったりする。 童貞がOLを「カワイイ」といったら、保母がサラリーマンだかフリーターに「そんな可愛くないじゃん」と、自分の方が上、というような口調になったり。あるいは、途中参加のカップル男が、「あんた(保母)とやりたい。この程度の女(OL)はやったことあるし」と言われて内心傷ついたり。保母と合意成立したカップル男が、彼女がシャワー行ってるスキに女子大生を連れてセックス部屋に行ってしまったり…。様子見、かけひき、さやあてもたくさん。 カワイイ保母が「マンコが臭い」といわれたり、デブが常連に「あんた童貞でしょ」といわれて開き直ったり。意外な展開も面白い。 途中参加したカップルは、少し飽きてきたからスワッピングでも、と参加した。のだけれど、彼女がかなりのデブで。そのカップル女がニートを指名してセックス部屋へ。あとからカップル男が女子大生を連れ込んで、見ながら見られながら牽制しつつ(観客は、ニートと女子大生はこころが通じ合いつつある、と思い込んでいるから)セックスしてると…突然、カップル男が自分の彼女を殴りつけ「本気になってんじゃないよ!」と怒り出す。…というのも、なるほどな展開で。割れ鍋に綴じ蓋。あんなデブなのに、嫉妬するか? と思うんだけれど、彼氏が柄本時生だからなあ、と納得してみたりwww。 というわけで、うまく描き分けられてはいるけれど、ニートと女子大生以外のキャラは、ある意味ではステレオタイプではある。というわけで問題はニートと女子大生なんだけど、いまいちよく分からない描き方をされている。 田舎から「布団でも買え」と入金されたなけなしの2万円を注ぎ込んで、なんでまた乱交に? なニート。上品な女子大生が、なぜに乱交を? というか、2人とも童貞・処女じゃないんだろうから、では、それはどうやって捨てたのか? などと興味が湧いてる。 で、5時に乱交は終了。女子大生が「携帯がない」というので、店員(窪塚洋介)がニートの携帯を使って女子大生の携帯にTELするんだけど。それはないだろう。と思っていたら、店員はニートに履歴を消せ、と凄んでそれは一件落着。ニートは明け方の街に消えていくんだけど…の次のシーンで、2人はファミレスで向かい合っている。女子大生がニートにTELし、「二度と会わないでくれ」と言い渡す、のだった。のだけれど、わざわざ女子大生から電話して番号を伝えるようなリスクを犯す必要があるのか? それとも、消したフリしてやっぱり履歴を消してなかったのか? というところが、「?」ではある。 このシーンで女子大生は「あれは、本当の私ではない」といい、ニートは「あれが、本当の私」と対立することを言うんだけど。でも、それ以上のことは分からない。まあ、曖昧にして考えさせようという魂胆なんだろうけど、もうすこし手がかりは欲しいところだな。 しかし、参加者10人で男が4人=8万円、女が4人=4千円、カップル1組=5千円で、合計8万9千円。六本木で営業してて、そりゃ安すぎないか? 非合法で見つかれば犯罪になるだろうし、シーツや飲み物なにやかやも経費としてかかる。男は5万円ぐらいに設定してもおかしくないんじゃないのかな? 店長(田中哲司)と店員も存在感ありすぎ。っていうか、いちばんこの2人が面白い。実は、乱交に参加していた常連女は店長の彼女(妻?)で、店の経営が危ういのでサクラで参加させているとか。チャラい店員に、その晩、子どもが誕生していたとか、なかなかほのぼのとしたエピソードもあったりして…。 | ||||
ウルフ・オブ・ウォールストリート | 4/17 | シネマスクエアとうきゅう | 監督/マーティン・スコセッシ | 脚本/テレンス・ウィンター |
原題は"The Wolf of Wall Street"。「80年代後半のウォール街。証券マンのジョーダン・ベルフォートは26歳で会社を設立すると、富裕層をカモにそのモラルなき巧みなセールストークで瞬く間に会社を社員700人の大企業へと成長させ、自らも年収49億円の億万長者となる。ドラッグでキメまくり、セックスとパーティに明け暮れた彼のクレイジーな豪遊ライフは衆目を集め、いつしか“ウォール街の狼”と呼ばれて時代の寵児に。当然のように捜査当局もそんな彼を放ってはおかなかったが」 実話が元になっているらしい。それにしても破天荒な人生ドラマ。冒頭からテンポよく、就職の当日にブラックマンデーで、キャリアを活かして田舎の、店頭株だけを扱う証券会社に就職、月に700万稼ぐ生活になったけど、たまたま仲間ができて起業。貧乏人にクズ株を売りつける商売で急成長。そんな様子に、妻が「金持ちを狙ったら?」と言われ、やり方を変える。まずは優良株で釣って、信用がとれたらクズ株を押しつける…で、あっというまに大規模に。 仲間っていうのが全然エリートじゃなくて、ヤクの売人みたいなのばっかり。それでもジョーダンの躾がいいのか、口八丁手八丁でどんどん成果が上がっていくのがおかしい。ほんとに、実話というのがオソロシイ。 ジョーダンは、ほんとは真面目だったらしい。最初に仲間に加わったドニーに約を教えてもらって考えが変わったのか。社内も社外も乱痴気騒ぎで、社内でセックスしたりストリッパーをパーティに呼んだり、もう無茶苦茶。ある日、パーティにナオミという美女がやってきて、ドニーはいきなり皆の前でチンポをだしてマスかきはじめる…って、なんなんだよ。ジョーダンは本気でアタックして愛人関係になり、その結果の離婚、そして、ナオミと再婚。いや、もう無茶苦茶すぎて時間の経つのも忘れるほど…だったんだけど、それからの3、40分は一気にテンションが下がってつまらなくなる。話がなんか地味な感じになって、ホント、寝るかと思った。 のだけれど、そうなる前にテンポが戻ってきてこちらも復活。あとは最後までそこそこ楽しく見られた。とはいっても、やっぱいまいち分からないことが多すぎる。そもそも、どの一件で訴追されたのかが、よく分からない。実は内緒で80%ぐらいをもっている会社の上場のことか? スイス銀行に金を運んだこと? 所得隠し? マネーロンダリング? そういえば、ヅラ(の社員)とスイスの男(?)とのなんだかんだがきっかけ? とかいうアレは何だったんだ? そのあたりの説明がほとんどなく、なんか勢いでどんどん進んでいく。こういっちゃなんだけど、この手の犯罪って、殺人や傷害と比べると、そんなに悪い印象がないんだよね。だから余計に、そんなんで重罪なの? という思いもあったりするしね。 で。要するに、ジョーダンが社長に復帰せず、勇退していたら、問題なかったのか? でも、ジョーダンが社長に居座ったから、FBIが突っ込んできた、ということでいいのかな? というわけで、どこのどれが罪の対象となって、これこれこうなった、というのがないので、見ていても「なるほど」感があまり感じられないのが、いまいち残念なところ。彼の地の観客は、そんなこと説明されなくても、ちゃんと分かるのかね。 ジョータンが司法取引して、ドニーと会うシーン。「マイクを付けている」というメモをドニーに見せて、しゃべると捕まるぞ、と示唆したシーン。でも、その後、そのメモがFBIの手に渡って証拠となるんだけど、FBIはどうやってあのメモを手に入れたのだ? あれは、ドニーが裏切ったのか? ナオミの叔母にスイス銀行の高座をつくらせていて。でも、その叔母が亡くなってしまって、さて、口座のお金は? というシーンで、スイス銀行の担当者はジョーダンに、すぐスイスに来れば偽の遺言書をつくる、とほのめかす。なのでジョーダンは飛行機に乗るため荒海に向かったんだが遭難して、救助される。で。件の叔母の口座の2000万ドルだっけかな、は、その後どうなったのだ? とくにフォローがなかったんだけど、凄く気になる。ところで、荒海の中で救助され、窓から自分が乗るはずだった飛行機ず爆発したっていうのは、はホントのことなのか? ジョーダンがかなりの早漏であると表現されているのか面白かった。ほんと。あっという間。それでも最初の妻やナオミが我慢したのは、ジョーダンがもってくるサラリー=お金、だったのかね。 「金が欲しくない奴はマックで働け!」とかいうセリフが何度も出てきて、おかしかった。 小人の芸人を会社のパーティに呼んで、的に投げて楽しむという場面があったんだけど。それ以外にも、小人をどうやって弄んだら受けるか、というようなことを就業時間中に会議しているというシーンもあって、なんてやつらだ、とか、少し思った。 ベニハナの名前とロッキー青木が一瞬出てくるんだけど、なんのこっちゃ。Webで見たら「ロッキー青木が1999年、インサイダー取引で不正な利益を得たとして罰金50万ドル、保護観察3年の有罪判決を受け、ナスダックに上場する「BENIHANA」会長の座を辞任した」という過去があったそうで、それをもとにしているらしい。 というわけで、最後の1時間は楽しかったけど、よく分からない場面も結構あって、いまいち置いてきぼりな感じもなくはなかったのだった。 | ||||
ウォルト・ディズニーの約束 | 4/21 | 新宿武蔵野館3 | 監督/ジョン・リー・ハンコック | 脚本/ケリー・マーセル、スー・スミス |
原題は"Saving Mr. Banks"。allcinemaのあらすじは「1961年、ロサンジェルス。ハリウッドを代表する大物映画プロデューサー、ウォルト・ディズニーには、娘との約束でもある20年来の悲願があった。それは、彼女の愛読書『メリー・ポピンズ』を映画化するというもの。しかしウォルトの再三の懇願にもかかわらず、いまだ原作者のP・L・トラヴァースから許可を得られずにいた。そんな中、ようやく映画化についての話し合いが実現することになり、トラヴァースがロンドンからやって来る。さっそく最大限のもてなしで彼女を迎えようとするウォルトだったが、お堅い英国淑女トラヴァースの心を掴むことに苦心する。おまけに、アニメもミュージカルも拒否された上、内容にもことごとく難癖をつけられるなど、頑なな彼女にすっかり手を焼き、一向に了解を取り付けられないウォルトだったが」 現在の話は↑の通りなんだけど、もうひとつ1900年初頭オーストラリアでの幼児期の話が平行して進む。この過去の話が陰惨で、その影響で『メリー・ポピンズ』原作が書かれていて、しかも、いまだにトラウマから抜け出せいていない、という設定。P・L・トラヴァース(1899-1996)は、調べたらPamela Lyndon Traversらしい。この名前については、映画でも重要な鍵になっているので、あとから触れようか。 そもそも話がいろいろアバウト。映画化は嫌だといいつつハリウッドに行ったのは金のため(最近は書いていないのですっからかん)らしいのに、じゃあなぜ意地を通すのか? ト書きにも注文付けたり、それってたんなる無知? はたまた建物や風景、色彩まで自分のイメージ通りにしろという。まあ、多少の意見はあっても、そこまで主張するか? 映画じゃなくて演劇でも演出・脚色されるぐらいのことは知っていて当然だと思うんだけど、なぜ? さらに、『メリー・ポピンズ』に登場する旦那さんバンクスを「ほんとは悪い人じゃない」とか、あれこれ言い張ったりする。これって、たんなる頑固で意地っ張りなだけなのか? いや、そこには幼児期の思いが反映されていたのだよ…というのが、この映画のひとつの解釈になっている。 でその幼児期を描くパートなんだけど、これがなんとも具体性に乏しくて、曖昧模糊なのでいまいち「なるほど」な説得力を欠いているのだよな。まず、しゃれた家から、田舎のボロ屋に引っ越す。銀行員で娘たちを愛しているけどアル中で、妻を悩ませている、というのは分かるんだけど、なんで田舎に住まなきゃいけないのだ? (Webで見たら、転勤のようだ) それと、部下を怒鳴りつけたり、酒が止められなかったりする原因は、なんなんだ? たんにアル中だから? それじゃつまんねえだろ、映画として。 酒で失敗し、喀血…というのは、胃潰瘍? それとも胃がんかなんかで、酒に逃れていたのか? なんの説明もない。で、家で療養している父がパメラに「母さんが薬を隠しているからとってこい」といい、パメラは必死で酒瓶を探して持って行くと、今度は母が「あんた、父さんに酒を渡したわね」と怒り、そのままふらふらと川に行って入水…というところをパメラが引き戻す、という場面なんだけど、アホかと思う。死んだわけでもないのに、なんで自殺しようとするんだよ、母親は。 てなわけで、そのどこがトラウマになるような話なのか、よく分からない。この程度の経験をした少年少女はもっといただろうし、パメラみたいに父親から抱きしめられ愛されることもなく、働かされていた子どもはたくさんいただろう。後半で、ディズニーがパメラに自分の生い立ちを話すシーンがあるけれど、まさにディズニーなんかは、親に可愛がってもらえなかった少年だったわけだ(ディズニー映画だから、美化している部分はあると思うけど)。同じような境遇にありながら、成長すると180度違ってしまう。こりゃもう、環境のせいではなく、個体の問題だろ。 でまあ、頑固なパメラに手を焼くディズニー、脚本家、音楽担当の2人、そして、秘書の2人…。いろいろご機嫌を取っても、なかなか懐柔できないのだけれど、ディズニーランドに招待して木馬に乗せたら、パメラがちょっと笑顔を見せた。ラストで、バンクスが凧揚げに行く設定にして歌曲をつくり、それには了承するパメラ…と心の扉が開きかけるのだけれど、ペンギンをアニメにする、ということを知ると「契約違反」と豹変し、帰国してしまう。 おいおい。生活費のために原作を売るんじゃなかったのか? いや、ほかにも、ミュージカルは嫌だ、といっていたのに、いつの間にか了解していたりするし、なんか、ご都合主義的かつアバウトに話が進んでしまっている。テキトーすぎるだろ。 さてと。帰国したことを知ったディズニーだけど、契約書を再度見たら、書類の中にパメラの本名ヘレン・ゴフが見えた。秘書は「トラヴァースだなんていかにも英国風の名前にしてるけど、オーストラリアの出身なのね」とかバカにしたようにいうんだけど、ディズニーの頭にはなにかひらめいた模様。で、1時間後の飛行機でイギリスに向かい、膝詰め談判、というか心理分析をする。 療養中だったゴフ家にやってきた女性は、伯母(?)それとも大叔母(?)なのか、よく分からない。けど、Webの伝記を見ると、大叔母かなあ…で、彼女は父親を治しにやってきた女性で、彼女がメリー・ポピンズだ、とかなんとか話をするんだけど、だからどーした、な話で。それでパメラが説得されて映画化にオーケーしたような展開。しかも、ダイヤログや設定、赤を使ってはいけないという突拍子もない、でも一度は受け入れられた条件はそのままなのか、それとも元に戻ってディズニー側のやりたい放題だったのかは、分からない。まあ、ペンギンはアニメで登場していたけど。 分からないのが、ディズニーがパメラを試写に招待しなかったこと。それを知って、パメラが勝手にやってきてしまうんだけど、なんだかな、な感じだぜ。しかも、映画を見ながらパメラが大泣きするって、ホントだったのか? なんか眉唾臭い。というのも、Wikipediaには「ディズニーの映画化作品(1964年)については、彼女は不満を表明した。彼女はシャーマン兄弟の音楽はうまくマッチしていないといい、また設定の全体が甘い話になりすぎていると考えていた」とある。 さてと。Webに年譜があったんだが、それを見ると… ・父トラヴァース・ロバート・ゴフは1863年ロンドンで生まれオーストラリアに移住 ・母マーガレットが1874年オーストラリアで生まれる。スコットランド人の血を引いていた ・ヘレン・リンドン・ゴフが1899年誕生 ・1907年、父トラヴァースか死去。大叔母ヘレンの家に越す ・1920年、ヘレン・リンドン・ゴフがパメラ・トラヴァースに改名。パメラはゴフ一族のなかの名前、トラヴァースは父のクリスチャン・ネーム ・1924年、イギリスに移住、25歳 …というようなことが書いてあった。なんだ、ゴフという名前だってイギリス人の名前じゃないか。他にも、ディズニーから『メアリー・ポピンズ』の映画化を申し込まれたのは1959年で、パメラ60歳の時。映画化は1964年。1952年に『公園のメアリー・ポピンズ』を発表後10年間は書いておらず、次巻は1962年に書かれている。ってことは、映画化の途中で執筆を再開したわけで、金に困っていたかどうかも、怪しい? とか、いろいろと「?」が多い。とはいうものの、1つだけほのぼのと泣かせるエピソードがあり、それは運転手(ポール・ジアマッティ)との交流で、しみじみといい。運転手が、娘から『メリー・ポピンズ』の原作を教えてもらったこと。素晴らしい娘だけど、障害があって車椅子生活であること、というような話から打ち解けていくんだけど。試写会のとき、運転手にわたしたメモには、障害があってもひとかどの著名人になった人の名前が書かれていて、ディズニーの名前も書かれていたりするのだ。しかも、それまで、ファーストネームで呼び合うことを嫌っていたパメラが、運転手が持参した娘の本にサインしてもらう折、「あなたの名前、聞いてなかったわよね」とパメラに言われるんだが、これもなかなかいい。この運転手との交流程度のレベルのエピソードが他に2つ3つあったら、いい映画になったんだろうになあ、と思った。 | ||||
それでも夜は明ける | 4/22 | 新宿武蔵野館2 | 監督/スティーヴ・マックィーン | 脚本/ジョン・リドリー |
原題は"12 Years a Slave"。allcinemaのあらすじは「ニューヨークに暮らす音楽家のソロモン・ノーサップは生まれながらの自由黒人。妻子とともに、白人を含む多くの友人に囲まれ、幸せな日々を送っていた。だがある日、2週間の興行に参加した彼は、興行主に騙され拉致された末、奴隷市場に送られてしまう。自分は自由黒人だとどれだけ必死に訴えようが、無駄な抵抗だと悟るのに時間はいらなかった。そして名前も人間としての尊厳も奪われ、奴隷として大農園主フォードに買われていく。それでも農場では、その有能さを認められ、温厚なフォードに気に入られるソロモンだったが」 黒人を拉致して奴隷にする話は珍しいので、設定としては興味深かった。でも、そもそも自由黒人ってなんだよ、って話だ。ウェブ検索したけどほとんど出てこない。解放奴隷は出てくるけど、南北戦争以前から自由を与えられていた黒人なんだろう。描写を見ると白人からも敬意をもって遇されている。家も立派で、ヴァイオリンを弾くという。いったいどういう身分なんだ? 米国人にとっては、説明しなくても承知のことなんだろうか? 日本人には分かりづらいので、日本人向けにイントロの説明が欲しいところだ。 さてそれで、背景や経緯も、わかりづらい。白人2人組がソロモンに接近し、サーカス興行での演奏を依頼する。ってことは、ソロモンは演奏家なのか? で、興行は上手くいったらしく、件の2人と打ち上げをする。が、ソロモンはぐでんぐでんに酔っぱらい、気がついたら手錠を嵌められていた…。別の男がいて、ソロモンが「自分は奴隷だ」と認めるまで鞭打つ。でもって、他の黒人男性2人、母と子ども2人とともに南部へ送られる…のだけど、最初に近づいてきた2人が拉致集団の最前線なのか? それにしちゃ手が込みすぎてるよな。わざわざ興行させて、飲ませて、って。そんなことしないで、もっと簡単に拉致れるんじゃないのか? それにしても、この手の黒人拉致集団が幅を効かせていたってことは、南部じゃ奴隷不足だったのかね。それと、一緒に拉致られた他の黒人たちは、どうやって確保されたんだろう? 中の1人はちゃんと主人のいる奴隷で、途中でそれが発覚して主人のもとに戻っていったけど…。なんかアバウトな感じだ。情緒的にならず、最初はもっとカリッとやって欲しいところだ。 で、以降は結局、南部白人の冷酷さを告発する話なので、凡百の奴隷を扱った映画とさほど変わらずステレオタイプな印象。最初のご主人様はベネディクト・カンバーバッチで、とくに冷酷でもなく黒人ででも能力があれば尊重する、というタイプ。でも、使用人の1人ポール・ダノが小物というか黒人嫌いで、そのプライドを傷つけ、さらに、逆に殴り倒してしまったせいで恨まれてしまう。他の仲間2人とで吊されかかり、でも、ポール・ダノより上の使用人のおかげで助かるんだけど、つま先立ちでやっと首が絞まらない程度。という状態でいるのに、他の奴隷も白人も、素知らぬふりして普段通り動いているのは、そうせざるを得ないからだろうけれど、オソロシイ。 カンバーバッチは、これ以上ソロモンを守れないからと、マイケル・ファスベンダーに売り払う。こいつがかなりな異常男で、奴隷女のパッツィー(ルピタ・ニョンゴ)にご執心。妻が嫉妬して「パッツィーを売って!」というのだけれど「文句があるならお前が出て行け」というほどで、手放そうとしないのがよく分からない。綿花をいちばん摘む奴隷だからなのか。それとも、セックスの対象として? でも、パッツィーはいやいや状態だったけど…。 カンバーバッチのところで、文字が読めるとか知識をひけらかしてはまずい、と悟ったソロモン。無知を装って立ち回るんだけど、たまたま奴隷に混じって綿花摘みをした白人を信じ込み、手紙を出して欲しい、と言ったのがバレて困ったことに。その白人男、「アル中でな」とかいってたけど、どうして奴隷に混じってそんなことをしているのか、よく分からなかった。 そうそう。奴隷は、日曜は自由日らしい。なのでパッツィーが別の農場にお茶しに行くんだけど、主人は白人なのに夫人は黒人で。つまり、主人は奴隷を妻にしたらしい。おお。ちょっと驚きだよな。そういう農場主もいたのか。ソロモンには気の毒だけど、こっちの農場の夫婦関係の方が、興味ありだよ。なぜ女奴隷を正式な妻に迎えたのか。仲間から彼は、なんと言われているのか。仲間がきたとき、黒人の夫人はどう遇されているのか。夫人となって奴隷をしたがえる黒人女性の心境はいかに、なのか。はたまた、老いてもなお、一緒に暮らしたのか、とか。そっちのほうが面白そうだ。だって、この映画、要は政治的・社会的な告発になってるから支持されているわけで、いまいち何かな、という気もしてしまうんだよ。 でまあ、綿花がダメで別の農場に働きに出されたりするんだけど、この場面が映画のオープニングになってるんだよな。では、このサトウキビ畑の場面に意味があるのかというと、そうでもなさそう。それと、このとき登場した女(寝床で隣り合わせで、ソロモンの上に乗ってきてまぐわうのだが…)は、あれは、サトウキビ畑を営む判事だかなにかの家の奴隷仲間? それとも、あれ、パッツィー? よく分からない。 はたまた主人のマイケル・ファスベンダーが嫉妬にとちくるい、ソロモンとパッツィーとの仲を疑る場面があるんだが、ここで主人は、ソロモンにパッツィーをむち打て、と命ずる。ここもなかなかのアンビバレントな状況。というか、映画的演出だろうな。 で、ふと思うに。黒人奴隷は存在し、扱いもひどかったのだろう。主人が女奴隷を慰みものにした例も多いに違いない。では、奴隷を所有していた農場主の大半が奴隷を簡単に殴ったり蹴ったり叩いたり刺したり吊したり…していたんだろうか。そして、妻や子供たちも平気で見ていたのだろうか。奴隷は動物扱い、だとしても、犬や猫を簡単に殺す人もそういないと思うので、そんなことを喜ぶやつっていうのは、南部の白人でも少数派ではなかったのかとと思うのだけれど、どうなんだろう。家畜を大切にするように、奴隷もある程度は大切に扱われていたのではないのかな。なにしろ大金を投入して買っているのだから、それなりに働いてもらわなければならないわけだしなあ。とか、思いつつ見ていた。 さて。ソロモンの運命は、さすらいの大工とであったことから転がり出す。カナダ生まれの大工で、演じてるのはブラッド・ピット。ブラピは結構な平等主義者で、マイケル・ファスベンダーに対しても堂々と演説したりする。この演説がとってつけたような感じなんでいまいち感動とはほど遠いのはさておいて。ソロモンはブラピに、自分が自由黒人であることの証明書を送ってもらいたい、と頼み込む。その結果、警察がやってきて解放されるのだけれど、なんだ、警察はちゃんと機能していたのか、南部でも、という驚き。 もっと衝撃的なのは、ソロモンが迎えの馬車にさっさと乗り込み、逃げるようにその場を去ること。そして、残されたパッツィーが呆然とソロモンを見送ること…。もちろんソロモンがパッツィーに何かできるわけはないのだけれど…。 で、題名通り12年ぶりに家に戻るソロモンなんだけど、家で待っていたのは、ありゃ誰なんだ? 息子と娘と…あと、男は娘の亭主? それとも、妻とその再婚相手と、娘たち? なんかよく分からなかった。妻には再婚相手が! 的な場面はなかったので、では妻は亡くなっていたのか? そんな描写もなかったんだが。名前なんか忘れてるから、よく分からなかったよ。 冒頭近く、妻と鞄を買いにいったソロモンに、青年が近づいてくるシーンがあって、その青年が何か言いたげだったので、なんかあるのかな、と思っていたら、何もなかった。なんなんだ、ありゃ。 | ||||
キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー | 4/23 | 新宿ミラノ1 | 監督/アンソニー・ルッソ、ジョー・ルッソ | 脚本/クリストファー・マルクス、スティーヴン・マクフィーリー |
原題は"Captain America: The Winter Soldier"。公式HPのあらすじは「“アベンジャーズ”の戦いから2年―。ヒーローたちを集結させた国際平和維持組織“S.H.I.E.L.D.(シールド)”は、未知なる脅威から世界を守るため、新たなる防衛システムの開発を進めていた。“キャプテン・アメリカ”ことスティーブ・ロジャースも、アベンジャーズのメンバーとして共に戦ったブラック・ウィドウらとシールドの一員として活動していた。キャプテン・アメリカは、ワシントンD.C.にあるシールドの基地で、長官ニック・フューリーから、ある計画について聞かされる。その計画とは、平和維持のために巨大空中母艦ヘリキャリアで世界を監視しようとするものであり、それは、全人類をシールドの監視下に置き、実質的に世界を支配することを意味していた。キャプテン・アメリカは、そんなシールドのやり方に疑問を持ち始める。突如、ニック・フューリーは、何者かに命を狙われた。その魔の手はキャプテン・アメリカやブラック・ウィドウにも及び、彼らの仲間であるはずのシールドまでもが“アベンジャーズ”である彼らを抹殺しようと動き出したのだ。さらに最強のメタルアームとキャプテン・アメリカに匹敵するほどの戦闘スキルを身に付けた謎の暗殺者ウィンター・ソルジャーが現れ、“アベンジャーズ”を追い詰める。ウィンター・ソルジャーは、第二次世界大戦中に戦死したはずのキャプテン・アメリカの親友の姿によく似ていた…。巨大な包囲網を逃れ逃亡者となったキャプテン・アメリカとブラック・ウィドウ━そんな孤立無援の彼らに唯一手を差し伸べたのは、自由自在に空中を舞うことができるファルコンことサム・ウィルソンだった。ファルコンは、空軍時代はエリート部隊に所属し、その功績も大きいが、任務中に親友を失ったことをきっかけに退役した男だ。自分たち以外は誰も信用できない戦いの中で、壊滅の危機を迎えるアベンジャーズ。さらに、シールドの空飛ぶ巨大母艦“ヘリキャリア”を使って全世界2000万人を同時に殺害しようとする、前代未聞の暗殺計画が発覚する。はたして、シールド内部に何が起こったのか? そして、誰がウィンター・ソルジャーを操っているのか。その行く手には、さらなる恐るべき陰謀が待ち受けていた」 世界の平和を守る組織に、極右がはびこっていた、という話である。何年か前にも、ナチが月に基地をつくっていたという『アイアン・スカイ』なる映画があったが、いまだにナチスは悪の権化として君臨するに相応しい対象のようだ。まあ、現在もウクライナでネオナチが威勢を誇っていたり、イギリスやドイツなんかでネオナチの青年が騒いだりしているわけで、まったくでたらめの話ではない。ナチへの憧れは、とても根深い。一般には失業率の高さ、外国人労働者の流入とか、不満が根底にあってのことらしいが、ゲルマン民族至上説というのはなくならないのだな。 かつてのナチには欲求不満のはけ口となる対象もあったし、理想もあった。ところがこの映画に描かれるヒドラ党の目的はかなり曖昧で。自分たちに反対する人間を抹殺する、であって、あれがしたい、これがしたい、がないのだよな。要するに、自分たちの組織を守るための組織であって、よく考えるといまいち底が薄い。まあ、007に登場する悪の組織と同じようなものなのかもね。で、そういうはびこった悪を、内側から告発していこうという流れは、あの、米国政府が各国首脳を盗聴していたことを告発したスノーデンの行為にも似ている。孤軍奮闘だし。 登場するテロ集団にしても、要求するのはお金であって、でもそれは現在の世界経済で通用する貨幣なわけだ。テロもやり過ぎると世界経済が破綻して、お金の価値がなくなってしまうから、ほどほどにしないとまずいだろ、とはいつも思うことなんだが…。 冒頭の、テロ集団(?)によるシールド所有の船舶への襲撃、それに挑むキャプテン・アメリカとロマノフ/ブラック・ウィドウ…。その後の、ニック・フューリーを襲う集団とのバトルおよびカーチェイスがまた素晴らしい。ここまでやるか、な徹底ぶり。傷ついたニックがキャプテンの家にやってきて・・・でも、ニックは狙撃されて死亡。ひとこと「だれも信ずるな」と言い残して。ニックがロマノフに命じたという別のミッション…。そのミッションでロマノフが手に入れたデータは、ニックからキャプテンの手元に。でも、内容を読み込むことはできない。さらにシールド内部では、キャプテンとロマノフは反逆者扱い。2人は逃亡するんだけど、途中でAppleストアに寄り、データを書き込んだ位置を特定し、向かった先は、かつてキャプテンが訓練を受けたシールドの本拠地。でもいまは寂れている。そこで発見したのは、ゾラ博士の人工知能みたいな声…。で、明かされるのは、ヒドラ党の信奉者が生き残っていて、シールド内部にもはびこっていること。ていうところに、ミサイルが飛んできて、いのちからがら2人は逃げ出す…。 てな話で、テンポよく、めくるめく展開していく。なので、話を追うのは大変だけど、飽きない。この後も、インサイトという空母が発進する辺りまではイケイケどんどんスピーディな展開だったんだけど、これ以後が俄然フツーになってしまうのだよな。キャプテンとウィンター・ソルジャーのバトルも、それ以前に一度あって、こちらはコマ落とし気味の画調で、カッコイイ。のだけれど、クライマックスは、いわゆるアメコミ映画一般のものと変わらず、CG主体の大げささばかりが目立ってつまらない。なんとかならんか、だな。 でまあ要するに、大戦時にあったヒドラ党が、シールド創設後、そのメンバーの中にも入り込んでいた。シールドの幹部ピアースがまさにそれで、反ヒドラ党となりそうな人物を、遺伝子的・生育環境的に割り出し、空に浮かぶインサイトから撃ち殺す予定である、と。他の幹部には、テロリストを事前に抹殺するシステム、と説明していたけれど…というのが根底にある。 分かりにくいのは、ゾラ博士とウィンター・ソルジャー実はキャプテンの旧友で大戦中に滑落して死んだはずのバッキー・バーンズとの関係なんだけど、どうもバッキーはヒドラ党の捕虜になり、キャプテン同様冷凍保存されていたらしい。さらに、改造されて刺客に育て上げられていたらしい。のだけど、ざざっと説明されただけなので、頭がこんがらがるよ。 まあ、それはいい。じゃあ、最初の、シールドの船を襲わせたのは、だれなんだ? ピアースは「ニック・フューリーがシールズの情報を外部に売るため、襲撃させた。ニック・フューリーが撃たれたのは、その後の仲間割れ」とかいってたけど、それは嘘だよな。じゃ、誰が何のためにデータを船から盗み出そうとしたのだ? さらに、ゾラ博士のデータが、どうしてシールドの船の、だれでもアクセスできるようなところにあるのだ? そのデータが作成された場所へ行ったキャプテンとロマノフ。そこにミサイルを撃ち込んだのは、だれ? なんのために? ピアース? どうやって2人の行動を知ったのか。また、ゾラ博士のことは知っていたのか? そして、そのゾラ博士の意志が保存されているコンピュータを破壊してしまってよかったのか? というような、肝心な部分がいまいちカリッと明らかになっていないような感じなので、いささか心が晴れない。 ところで、キャプテンがたまたまランニングしていて知り合った黒人退役軍人のサム・ウィルソンが、途中から羽根を付けて飛ぶ戦士(ファルコンというらしい)として登場するんだけど、突然すぎるだろ。っていうか、ご都合過ぎるだろ。 キャプテンとロマノフが逃亡中、追っ手をまくためにエスカレーターでキスするシーンがあるんだけど。ロマノフに「目覚めて以来の初キッス?」とかからかわれるのがカワイイ。2人の間に、ロマンスは生まれるのか? ウィンター・ソルジャー/バッキー・バーンズは、記憶が戻りかけているようだ。それを、キャプテンと戦う前に、再度、忘れさせられてしまっていた。のだけれど、クライマックスのバトルで、キャプテンは無抵抗になって殴られるままに…。でも、水没したキャプテンをウィンター・ソルジャー/バッキー・バーンズが助け出し、さらに、エンドクレジット後の映像では、キャプテン・アメリカ博物館に展示してある自分の写真とご対面していた。ってことは、次作ではキャプテンのパートナーとして登場するってことなのかな? ニック・フューリーが追われ、キャプテンの部屋にやってきたのは、安易すぎるだろ。盗聴されているなら、狙われているはず。なら、もうちょっと気を使えよ。まあ、ここで撃たれたことにして地下に潜ろうとした、という見解もあろうが、本当に撃たれて死なないとも限らないわけだからなあ。 キャプテンを支援するシールドの女性メンバーで、コビー・スマルダーズとエミリー・ヴァンキャンプが出てくるんだけど、なかなか可愛い。でも、エミリーの方はキャプテンのご近所さんとしてガードしていたというプロフィールが描かれるのに、コビーの方はいつの間にかいる感じなので、もう少しなんとかして欲しかったところ。 | ||||
母なる復讐 | 4/25 | キネカ大森3 | 監督/キム・ヨンハン | 脚本/イ・サンヒョン |
原題は"? ??? ??"。英文タイトルは"Don't Cry, Mommy"。Yahoo!映画のあらすじは「夫と離婚し、娘のウナ(ナム・ボラ)と一緒に新たな生活をスタートを切ろうと考えていたユリム(ユソン)。二人で力を合わせて生きようとする中、ウナは転入した高校で出会ったチョハン(ドンホ)という男子生徒に心惹(ひ)かれる。チョハンに学校の屋上に呼び出されてテンションが上がるウナだったが、そこで待ち受けていた彼と不良グル?プに犯される。事件を知ったユリムは彼らを訴えるが、チョハンは証拠不十分で釈放、ほかの仲間たちは保護観察処分になってしまう」で、韓国で未成年者が起こした、実際の性犯罪事件をベースにしたものらしい。 映像づくりが下手くそで、「こんなことにならないよう注意しましょう」的な教育映画風のつくりになっている。スリルとかサスペンスとか、そういうのを手がけたことがない監督なのかも知れない。 あらすじ、にあるように。転校してきたウナが、いきなり「あの男子、かっこいいわね」と、ちょい不良っぽい男子に自らアプローチ。そのチョハンに屋上に呼び出され、うきうき出かけたら、他の2人の完全不良っぽいのにレイプされ、様子をビデオ撮りされる。ウナは入院、警察も動き出す。不良3人は逮捕されるが、警察は「この手の犯罪は裁判より示談」と進めるが、母親ユリムは、元夫がつき合っている弁護士に頼み込み裁判するが、刑は軽い。 ユリムと弁護士、刑事が何らかの復讐を企てるのかと思いきや、そういう展開にはならず。逆に、「ビデオをWebにアップするぞ。こい」と呼び出され、ウナはまた犯される。…というあたりで、イライラしてきた。呼び出された時点で母親なりにいい、警察沙汰にすりゃいいじゃねえか。どっちが自分に得があるか、の判断ぐらいできるんじゃないのか? 高校生だろう? 送られてきた動画も決定的な証拠になるじゃないか。なんだけど、そうならない。いらいら。 で、呼び出されたのは1度なのか2度なのか分からないけど、ウナは手首を切って自殺してしまう。母親は、やっとウナの携帯を見て、脅され、呼び出されていたことを知り、チンピラ2人に復讐する。1人は刃物で、もう1人はクルマで跳ねるんだけど、そんな上手くいくかよ。というより、あんた、決定的な証拠がでたんだから、顔見知りの刑事に速攻で相談すりゃいいだろうに。苦労して殺す必要がどこにある? あほか。 でまあ、その過程で、真の黒幕はチョハンだった、ということが分かり、そのチョハンを殺そうともみ合っているところに刑事到着。このボンクラ刑事、ユリムを制止しようともせず、拳銃をうろうろさせ、見てるだけ。あほか。ま、結果、刑事がユリムを撃ち殺しまって。そのあとに、韓国ではこのような未成年の性犯罪が数多く発生するが、罪が軽くて云々…の字幕がだらだらと。 でね。真の黒幕がチョハンだとして、彼は黒幕として何をやっておったんだ? 自分はレイプには参加せず、仲間にやらせていた? 何の目的で? たとえば自分に言い寄ってくる女子を、仲間に配給していたとか? そういうことか? それで金でもとっていたのか? でも、何も描かれないので分からない。 さらに。実は刑事にも娘がいて、なんとウナの同級生で。しかも、ウナがチョハンに呼び出されたとき、屋上にいたようなのだが。その彼女はどういう役回りで屋上にいたのだ? 彼女も真のワルなのか、チョハンに命じられて動いていたのか? 彼女もレイプされていたのか? てなことは説明されないままなので、ドラマ的にも最後にあれこれ放り投げっぱなしな感じ。 母親も娘も刑事もアホ。少年も、動画を送れば証拠になるだろうに。これもアホ。なわけで、最後は退屈なまま終わったのであった、 | ||||
ザ・ドア 交差する世界 | 4/25 | キネカ大森3 | 監督/アノ・サオル | 脚本/ヤン・ベルガー |
ドイツ映画。原題は"Die T?r"。英語タイトルは"The Door"。allcinemaのあらすじは「自らの不倫中に娘を事故で亡くし、妻にも愛想を尽かされ全て失った画家のダビッド。自暴自棄となった彼はある日自殺を試みるが、そこで不思議な扉を発見する。その扉は、娘を失ったあの日に繋がっていた。信じられない思いながらも、ダビッドは扉のあちら側にいる娘を救出することに成功する。ところが、安堵もつかの間ダビッドは不審人物と見なされ襲われてしまい、勢い余ったダビッドは相手を殺してしまう…のだが、なんと相手は“もう1人の自分”だった。果たして、ダビッドが辿る運命とは」 タイムトラベルとパラレルワールドを織り交ぜたような話で、導入からの展開は面白かった。とかいいつつ、実は5年前につながるトンネルの部分で、ふっ、と一瞬寝てしまったのだけれど。気づいたら、5年前で、娘の事故を回避。でも、5年前の自分とかち合わせてしまい、5年前の自分を殺してしまう。しかもその場面を娘に見られてしまう。なので娘は、いまの父親は別人と悟っている。けれど、父親が殺されたとは理解していない…。 浮気問題で冷えていた夫婦関係もやわらいで、セックスするまでに回復もする。のだけれど、庭に埋めた5年前の自分の死体が雨で露出し、友人に見られてしまう。さて、どうする。と思っていたら、怪しい隣人がその友人をスコップで殴り殺してしまう。曰く。「自分も5年先からやってきた。ムショから出て周囲は冷たい。そんなときトンネルをみつけた。競馬の結果も知っているし、天国だ。さあ、こいつを山に埋めに行こう」と。 死体を埋められるほど広い庭。誕生日に友人を呼んでのパーティで、死体を山に埋めに行く時間があるのか? とかいうツッコミもあるんだが、置いといて。この辺りから、いったいどこに向かって話が進んでいるのか、よく分からなくなっていく。話は結局のところ、5年先の世界からどんどん人間がやってきて、5年前の自分を殺しまくる、ということになっていくんだけど。なんでそうなるの? というのが大きな疑問。たとえば仲のよい別の友人夫婦がいるんだけど、その夫婦が突如現れて、5年前の自分を殺してしまう。こりゃたまらん、とダビッドは、その夫婦の娘(5年前の世界の)を救出しようとしたりするんだけど、この夫婦にとって、5年前の自分たちをころすメリットはあるのか? ルールがちゃんと決まってないんだよな。たとえば5年前の自分を抹殺し、入れ替わる必要がある、とか。でも、殺した場合、この5年前の世界の法律はどう対応するのか? 失敗して返り討ちに遭う奴もいるだろうし、じゃあそういうのは社会現象として明らかになっていかないのは変だろ? とかね。だって、ラストなんか、近隣の人たちはほとんどみな、5年先の世界からやってきた連中ばかり、みたいな終わり方してるんだぜ。かなり変だろ。 でまあ、5年先の世界から妻までもやってきて、この世界に生きている娘を我がものにしようとするんだけど、でも、娘が5年前の自分に懐いていることを知り、2人を5年先に逃がした…んだよな、多分。って、実を言うと、ラスト辺りでも眠くなって、すこしうとうとしてしまったのだよ。ははは。 するってーと、5年先の世界ではダビッドが2人ともいないわけだ。でも、妻は生きていて、死んだはずの娘も生きている。友人たちは、こちらの世界で殺したりしているから、数は減っている。他にも、5年前の世界にやってきている連中は少なくないので、5年先の世界は人口が目減りしているんじゃないのだろうか。こっちの、5年前の世界で殺されると、あちらの世界では人が、ふっ、ふっ、と消えて行っているのか? そんななかで、死んだはずの娘はどうやって生きていくのだ? とか考えてしまうと、どーも辻褄が合わず、心がもやもや。最後の、バタバタととりあえず店じまい的な収拾のつけかたがいまいちかも。なので、緊張感はもうどっかにいってしまい、それで眠くなったのかもね。 というわけで、5年前の世界に残った、5年先の2人。さてどうなるのやら、で終わらせたかったんだろうけど、どうなっても構わないよ。な、最後だった。設定は意味深で面白そうだったけど、尻すぼみ。ただし、登場する幼女が2人ともなかなか可愛い。ロリの趣味はないけどね。あと、奥さんと、知り合いの奥さん(最後に5年先からやってくる友人)が、フツーな顔立ちなんだけど、妙にエロいところもあったりする。 あと、主人公のダビッドが絵描きという設定で、母と娘の頬が針金で突き刺され、つながっている、というシュールな絵を描いている。妻が「これは私と娘?」とダビッドに問うと「違うよ」と応えるんだけど、そんなはずはない。まあ、痛みを感じつつも固くつながれている、とかいうようなことなのかね。どーでもいいけど。 それにしても、死体を埋めるならもっとちゃんと深く埋めようね。 | ||||
ムード・インディゴ うたかたの日々 | 4/30 | ギンレイホール | 監督/ミシェル・ゴンドリー | 脚本/ミシェル・ゴンドリー、リュック・ボッシ |
先月は大半寝てしまったのでリベンジのつもり。これもディレクターズカット版だった。 前回で記憶にあるのは冒頭と…工事現場で円盤につるされたところぐらいだな…と思いつつ見ていったら、その先の映像にも記憶があり、なんと、結婚式の後、肺に花のタネが入り込んだところも記憶があった。のだけれど、それ以降は途切れ途切れで、2人で生活しているところはちょっとだけ見た記憶があった。ということは、1時間近く見ていたわけで、驚いた。 でも、やっぱり眠くなって2、30分は寝てしまった。気がついたのがどこか覚えてないんだけど、治療費がかさんでコランは貧乏になり、銃身をつくる工場に勤めたり、友人のシックが金を借りにきたりで破産状態。結局、クロエは死んでしまい、その亡骸も乱雑に扱われる…。シックは死んでしまうんだっけか? なんか、どんどん話が暗くなっていき、画面も白黒状態で、惨憺たる状態で終わるという、なんだこの映画、救いも何もないじゃないか、な物語だった。ひどい。 なわけで、映像がカラフルでアニメのようにポップに動く冒頭からの30分あまりはそこそこ楽しい。けど、基本的に話が単純なので、ストーリーを追おうとすると飽きてくる。映像の面白さは、後半になるとトーンダウンするし、ブラックなものになってくる。 まあ、モロモロの背景はあるんだろうけど、よく分からないものが多い。なぜ列車みたいな家に住んでいるのか? なぜにいまどきサルトル? シックはそのサルトルに傾注しすぎて初版本を買い集めたりするんだけど、それもコランに借金してる。自身は工場で働いている。その工場労働を非難するようなところも、多少あるような気もするけど、そんなに社会主義的でもない。そもそもコランは働かなくても生活できる男って設定だし…。そのシックは、最後、古書店主を襲って殺されたかなんか、してなかったかな。火事になったり、洪水みたいな感じで溺れていたり、話はなんか無茶苦茶。結婚式の時に祝ってくれた司祭は、クロエの葬儀で金を要求。でもからっけつなので、棺桶が窓から放り投げられたりと、ひどい有り様。失意のコランはどうするんだっけ? なんか、最後の方はまともに見ていなかったので、よく覚えていない。 タイトルにもなってる「ムード・インディゴ」はデューク・エリントンのナンバー。最初の方にエリントンやサッチモも映像で出て来たりする。フランスじゃエリントンが人気なのか。 働かなくても暮らせる男が主人公って、なんだよ、な気分。フランス映画だから先祖が貴族で…とかなのかも知れないが、それで共感が得られるのかね。それとも、金持ち貴族の没落悲劇ということなのか。 というわけで、前半はまだしも、後半は見るに堪えない。少しは救いのある終わり方にして欲しかったであるよ。 | ||||
ビフォア・ミッドナイト | 4/30 | ギンレイホール | 監督/リチャード・リンクレイター | 脚本/リチャード・リンクレイター、ジュリー・デルピー、イーサン・ホーク |
原題は"Before Midnight"。allcinemaのあらすじは「パリでの運命の再会から9年。当時はそれぞれにパートナーがいたアメリカ人のジェシーと、フランス人のセリーヌは一緒に暮らしているばかりか、ふたりの間にはかわいい双子の娘たちまでいた。パリに暮らしている彼らは、南ギリシャの美しい港町にバカンスにやって来ていた。ウィーンでの初々しい出会いからすでに18年。すっかり中年となり、仕事と子育てに追われる日々。楽しいはずのバカンスも、気づくとすぐに言い合いとなってしまうふたりだったが」 「恋人までの距離」(1995)、「ビフォア・サンセット」(2004)というシリーズの3作目なんだと。げ。どっちも見てないよ。しったことか。 @空港での父親ジェシー(イーサン・ホーク)と息子ハンクとの会話。Aクルマの中でのジェシーとセリーヌ(ジュリー・デルピー)の会話。Bギリシアにある大作家邸での食事風景。Cホテルに向かうジェシーとセリーヌ(ジュリー・デルピー)Dホテルでの喧嘩E仲直り…おおむね以上の6つのシークエンスで構成されるのだけれど、ドラマがあるのはDだけ。それ以前は伏線と言ってはムダに長すぎる会話のやりとりで、これがとても退屈。 タランティーノの「レザボア・ドッグス」みたいな感じではなく、ほんと、どっかの夫婦、友人たちのだらだら話を延々と見せてるみたいで、ほとんど何の引っかかりにもなりはしない。ひと言二言のセリフで済むところを延々とやるんだからな。よして欲しい。 Aでジェシーは、父親として思春期を迎える息子ハンクのそばにいてやりたい、ということをだらだらぬかしやがる。あほかと思う。どうもハンクは前妻との子どもで、母親とシカゴに住んでいるらしい。けど母親がわけありで、でも法律上は週末しか父親に会えない(?)とか。それを、ギリシアで休暇中のジェシーが呼び寄せ、しばらく過ごして帰るところらしい。それはいい。でも、14歳か15歳になるような少年が、父親と一緒に時間を過ごしたいと思うか? フツー思わんだろ。当時の自分を考えて見ろ、といいたい。その後に分かるんだけど、ジェシーは息子と過ごすためにシカゴへの移住を考えているようで、セリーヌにそれを提案するというのだから、あほだ。彼女はどうも、アメリカンスクールで講師かなんかしてるらしく、フランスを離れたくない、と思っているようだしね。あまりにも無神経なジェシーだと思う。 Bでどんな会話があったか、ほとんど覚えていない。ジェシーが女の子をくどく場面をジェシーとセリーヌが即興でやるのを覚えているぐらいで、それがEでの即興劇のわずかな伏線になっていたのね、ぐらいかな。ジェシーとセリーヌの関係や状況を観客に伝えるためなら、あんなに長くする必要はない。それと、あそこに登場していた老作家(彼がジェシーを招待した?)、老女(老作家の連れ合いではないような感じだけど、誰なんだ?)、中年夫婦(こいつらはどういう関係なんだ?)、老作家の孫とその彼女がテーブルについているんだけど、彼らはDでの夫婦喧嘩とは関係がなくて、映画の中でもほとんど機能していない。まあ、ああいうのが面白いという人もいるかも知れないけど、それは個人の趣味嗜好でしかないだろう。 てなわけで、Bの終盤からうとうとしてしまい、気づいたらジェシーとセリーヌがホテルに向かって歩いているところだった。これは、長回しで撮っていたのかな。内容はほとんど記憶にない。 で、中年夫婦が、ギリシアを発つ前夜はここで、と予約してくれたホテルへたどり着くんだけど、セリーヌが「どこが、ぜひに、と勧めるほどのホテルなの?」というような案配で、でも、そのホテルの有り様は本筋ともなにも関係がない。ほんと。エピソードを散らかしっぱなしにしているだけだろ。で、2人はいい雰囲気でまさぐり始めるんだけど、なにがきっかけだか忘れたけど、ハンクのことか何かだったのかな、言い争いになってしまう。 まあ、ささいなことから大げさに、はよくある話。がしかし、先にも書いたけれど14、5歳になる息子、しかも、離婚した妻が育てている息子でアメリカにいる息子のことでぐだぐだいうジェシーはあほだし、それだったらこっちにも言い分があるし、つもりつもった鬱憤もあるのよ、とばかりに、いまさらながら「食事も洗濯も、子どもの世話もみんな私がやってきた。あなたは夢想してるだけ。シカゴに行きたいですって。私には仕事があるのよ。勝手なこといわないで」というようなことを、長々だらだらと話し始めるセリーヌもあほ。言い争いの間にセリーヌは2度部屋をでていき、2度ともすぐにもどってくる。でもジェシーはあわてない。まあ、この手の喧嘩はしょっちゅうで、ジェシーも慣れっこになってる、ってこったよな。で、3度目にでていって戻っててこない。そこでジェシーがオープンカフェみたいなところにいるセリーヌを見つけて、座る。でもって「自分はタイムマシンで未来からやってきた。未来のセリーヌから君への手紙を預かっている」という設定で架空の話をしはじめ、はじめは「また始まった、小説家が…」という顔だったのが、未来の自分が現在の自分に書いたという設定の手紙をジェシーが読み始めると苦笑いしながら設定の役割を演じるようになり、最後は「まいったわ」というな表情でにこやかに談笑しだすという、なんか、テキトーでいい加減なところで仲直りしてしまうというのは、なんか予定調和というのか。あの喧嘩は、毎度お馴染みの儀式のようなものだったんだろうな、と思ったりしてしまう。 なわけで、どこもシャレてないし、あんな夫婦が理想だ、なんていうやつは、これまたアホだと思う。勝手にやってなさい。 |