2014年5月

MUD マッド5/2キネカ大森3監督/ジェフ・ニコルズ脚本/ジェフ・ニコルズ
原題も"Mud"。allcinemaのあらすじは「南部のアーカンソーに暮らす14歳の少年エリス。ある日彼は、親友のネックボーンとミシシッピ川に浮かぶ島へと探検に繰り出す。そして2人は、洪水で木の上に打ち上げられたボートに寝泊まりしている怪しげな男マッドと遭遇する。マッドは愛する女性ジュニパーのために殺人を犯して追われる身で、この島でジュニパーと落ち合い、一緒に逃亡する準備をしていると告白する。エリスはその話に引き込まれ、愛する2人の逃亡を成功させようとマッドに協力するのだったが…」
少年2人が、近くの孤島の木の上にボートが引っかかって残されていることを知り、見に行く…というのが冒頭部分。まるで『スタンド・バイ・ミー』。少年たちが大人になるための通過儀礼を描くところも似たようなものだけど、『スタンド・バイ・ミー』は主に子供たちの世界から抜け出す儀式を描いていたのに比べて、こちらは大人の世界に踏み込むというか放り投げられてしまう。最初の方は、さてどうなるかな的な興味が引っぱっていったんだけど、途中からご都合主義と強引さ、荒唐無稽さについていけなくなった。ありゃ、やりすぎだろ。
島の木の上に船が…というのは洪水のせいらしい。そんなものを少年たちが最初に発見したのか? すでにマッドが住んでたし、冒険野郎は他にもいるはず。3人だけの秘密の場所、という設定にあまり説得力がない。さらに、地元出身のマッドが人を殺め、逃げてきているのに、警察があの島を捜さないのは不自然。というか、地元へ逃げてきている時点で、この話は変だ。想い人のジュニパーも、たしか地元の出身? でも、落ち合う場所に地元を指定するのも、かなり不自然だ。
そもそもマッドという人物が、いまいち怪しい。ジュニパーに惚れていて、でも相手にはされず、彼女の周囲をうろついて見守るだけ。彼女のつき合ってる男がワルだとしゃしゃり出て、打ちのめす。このたびの相手は、タイミングがどーので殺してしまった。それがかなりのギャングの息子で、父親と息子(殺した相手の兄)、子分たちに狙われている。なんと警察にもギャングの仲間がいる。というような状態で、呑気に島で暮らしている。あほか。
で、たまたま島にやってきたエリスとネックボーンの14歳少年2人に「食糧を頼む」「ボートでここを脱出するから手伝ってくれ」とと気楽な頼み事。さらに、ギャングの息子を殺したことを簡単に告白し、想い人であるジュニパーと数日後、近くで待ち合わせていて、一緒に逃げるんだ、てなことまでしゃべる。バカか。あっけらかんと正直すぎて見てられない。
でなんと、速攻でエリスとネックボーンはジュニパーを発見してしまう都合の良さ。おいおい。スーパーマーケットのカートを押す手に鳥の刺青があるからって、ホントかよ。なんだけど、ホントだったりして、おいおい。
最初は食糧をねだるだけだったのが、ボートの改修や移動に必要な道具、そしてエンジンまで少年2人に頼み込むって、おまえ、大人としてどーかしてるだろ>>マッド。そもそも少年2人で持ち上げられないようなエンジンを、どうやって運んだんだ? てなところが随所にあって、あんぐり。マッド、お前は男か?
そんな体たらくなマッドががんばるところが一ヵ所。島の、毒蛇がたむろってる川に落ちたエリスを助け上げ、病院にかけつけるところ。そこだけだな。
その帰り、マッドは、もう別の男と酒場でいちゃいちゃしていた(その場面を少年たちが確認)というジュニパーの泊まっているモーテルまで行って、別れの挨拶を、遠くからする。で、このあたりだっけ、警官がマッドの所在を確認したからとギャングに連絡し(このときに通じている警官が携帯を使うんだけど、それ以外、携帯が出てこなかったような…。いったい時代設定はいつなんだ?)ギャングたちがマッドを追い、エリスの家に行くのは…。なんか記憶があやふやだけど。とにかく、病院から戻って家のベッドにいたエリスのところにマッドが行き、そこをギャングたちに狙撃されるんだが、もう家は蜂の巣状態。エリスと両親は無事で、でもギャングたちはマッドに撃ち殺され、でもマッドも水中に逃げるところを撃たれた…。でもまあ、これで死ぬことは亡いだろ、と思っていたら、海中で貝をとっている男の上をマッドらしき身体が流れていったんだが…。あのシーンがいまいちよく分からない。あの、貝を捕っていた男は、ネックボーンの叔父じゃないよな。船の上で寝てた男は、ネックボーンじゃないように見えたんだが・・・。で、何日か後(?)、マッドはトムと一緒に船上にいるんだが。ということは、トム(ニックのボートハウスの対岸のボートハウスの住人)が助けあげたと言うことか。まったく、都合よくできてるよ。
だいたい、ジュニパーはなぜあの町にやってきたんだ? マッドと会うため? 尻軽女が、どうしてマッドの言う通りにしたのか意味不明。そんなことしたら自分もギャングに狙われるだろうに。
ギャングたちは簡単にジュニパーの宿を見つけだし、張り番をしているはずなのに、エリスはその監視の目をかいくぐってジュニパーに会いに行ったりしてるんだが、それってギャングがボケなだけですかね。ほんと、この映画で、ギャングはかなりなアホに描かれている。
関わりたくない、といっていたトム老人。最終的には狙撃で手助けし、川から助けあげている。だったら最初から手助けしてやれよ、な気分。しかし、銃弾からトムの存在は明らかになってしまうんじゃないのかね。
この映画、男と女の関係が3つでてくる。ひとつはマッドとジュニパー。もうひとつは、エリスの両親。そして、エリスと上級生のメイ・パール。いずれも、男が追い、女が手のひらを掠めるように逃げていく関係。女は、男を嫌いではないけれど、託せない。なかで、エリスがメイ・パールをつけ回すのは、『アメリカン・グラフィティ』のリチャード・ドレイファスと、ちょっと似てる、か、な?
ジュニパー役のリース・ウィザースプーンは、肩とか背中にすごい肉がついている。調べたら2012年9月27日に男児を出産とあった。そのせいなのかな。
部隊はアーカンソーで、中部なんだけど、川と巨大な湖があるらしい。エリスの家はボートハウスで、川に浮かんでいる。でも、エリスの母はここをでて行きたいと夫に言う。でも、川魚を捕って売り、暮らしている夫は「ちょっと待った」。なにしろ、ボートハウスは妻の父親のものを受け継いでいるので、妻が出ていったら役所が解体にくるという。家で銃撃戦があったこともあってか、妻は出て行ってしまい、家は解体されるんだけど、行政はああいうボートハウスをなくしたいと思っているのだね。現状はすでに禁止で、既存の物件は相続者がいる限り、とかなっているのだろう。
ネックボーンが一緒に住んでいるのは、あれは叔父なのね。ネックボーンの両親はどうなったのか知らないけど、まあ、そういう設定なんだろう。はいはい。
ポール・ヴァーホーヴェン/トリック5/2キネカ大森3監督/ポール・ヴァーホーヴェン脚本/ロバート・アルベルディンク・タイム、キム・ファン・コーテン、ポール・ヴァーホーヴェン
オランダ映画。原題は"Steekspel"。英文タイトルは"Tricked"。allcinemaのあらすじは「資産家のレムコは50歳の誕生パーティで妻子に囲まれ、裕福で幸せな人生を噛みしめる。するとそこに、海外で暮らしていたはずの元愛人ナジャが不敵な笑みと共に現われ…」
2部構成になっていて、前半の30分余はメイキング。後半50分余が本編。しかし、前半は要らなかったな。「冒頭部分の5分間の映像を公開し、続きの5分間の脚本を一般公募しては監督自らセレクトしてつなぎ合わせて撮影を行い、再び映像を公開して次の脚本を公募するという作業を繰り返して1本の映画に仕上げた」ということの説明と、あとは自画自賛で退屈。プロが書いた最初の5分間が具体的にどこまでなのか分からないし、その後もどこまでつくり、どっから公募したか、も分からない。公募といっても、どういう人を対象にどんなメディアで公募したかも分からない。結局のところ、複数の脚本家のアイディアから監督のお気に入りな話の展開をつくりあげたってことだろ。そもそも数人の脚本家に依頼するのは珍しくないし、共作になることも多いわけで、問題は書いたのが多数の素人ってことだとしたら、その素人がどんなレベルなのかを知りたいところ。なかにシナリオ教室が登場してたけど、ああいう、ある程度学んだ人が対象だったのかな?
メイキングがつまらなかったので(寝そうだった)本編も期待しなかったんだけど、とても面白かった。練り上げられた脚本みたいで、よく出来ている。
以下、記憶に頼るあらすじ。レムコはプレイボーイ。元愛人ナジャが腹ぼてでパーティにやってくる。のだけれど、元愛人というのを知りつつ妻も迎え入れるというのが、なんとも心が広い? 息子はオタク。娘(妹?)の友人メリルに気があるのか、PCにはメリルの顔でアイコラしたヌード写真がいっぱい。客でやってきたメリルも、それをしりつつ、いきなりオッパイをみせて挑発する! という、開けっぴろげな大らかさが面白いね。娘は早々に酔っぱらい、吐き気をこらえてトイレに行くと、ナジャがいた。便器に吐くと、なかにタンポンが浮かんでる…。翌日。なんとレムコはホテル(?)でメリルと密会中! おお。レムコの「ナジャのお腹の子は僕の子。離婚するかも知れない」に対して、メリルは「どうせ私とは遊びでしょ」と。その足でメリルは娘と会い、タンポンの話を仕入れる。ついでに父親と密会していることも…。怒り心頭の娘。メリルは息子にタンポンのことを話し、Googleマップでナジャの家を探し、屋上から腹の膨らみが偽者であることを確認。ところでレムコの会社は危機に瀕していた。幹部2人(どうもレムコ、妻、この幹部2人が創業者のようで、おのおの25%ずつ株式を所有しているようだ)で、会社を中国企業に売却する話を進めていた。レムコは反対していて、「売るぐらいなら潰す」と言っている。これに対して幹部Bはナジャとつるみ、お腹の子をネタにして売却するよう迫り、レムコも納得してしまう(という件は、いまいち説得力が弱いかな)。で、腹ぼてがインチキ、ということを母親に伝えたのは息子だったっけか、メリルだっけか。一緒にだったか、忘れれた。反発し合っていた娘とメリルも、なんとはなしに仲直り((という件も、少し説得力が弱いかな)。さて中国企業とサインという当日、妻が会議室に乗り込んでいき、ナジャの腹にハサミを突き刺し、レムコも「お前ら詐欺か」と幹部Bに「訴えてやる」というんだけど、ふと思い立って幹部Aに「君が僕側についてくれれば、幹部Bを解雇できるが、どうだ」と持ち掛け、了承を得る。一件落着。その晩、レムコは妻とレストランで食事中、妻から「妊娠したの」と打ち明けられ、喜んだのもつかのま「父親は誰だと思う?」と凄まれ、凍りつく。
あらすじを書くなんてムダなのは分かってるんだけど。ははは。情緒的なシーンや風景、移動とかのムダな部分を一切なくし、必要なことを機能的に描くだけなのに、とてもウィットに富んでいて面白い話に出来ていた。ウディ・アレンなんか、こんな物語展開は好きそうだな、と思ったりして。
元愛人ナジャを演じるサリー・ハルムセンが、クレア・デインズに二階堂ふみを混ぜたみたいでとても可愛い。メリルの レムコ娘の友人メリルを演ずるハイテ・ヤンセンは、葉月里緒奈とキーラ・ナイトレイを合わせたみたいな感じの無機質なエロ可愛さ。脱ぎっぷりもよくて、堂々としてる。奥さん役の女優もけっこう可愛い。そういうところも、興味の対象だからね。
そういえば、売って手に入るのは1200万ユーロといっていたが、1ユーロ=130円として15億余だぜ。これが夫婦二人の持ち分なのか、1人分なのかわからないけど。仕事するより、15億もらった方がいいよなあ。
ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!5/8シネ・リーブル池袋・シアター1監督/エドガー・ライト脚本/サイモン・ペッグ、エドガー・ライト
原題は"The World's End"。allcinemaのあらすじは「イギリス郊外の町ニュートン・ヘイヴン。ここに、いまや冴えない中年オヤジに成り下がったゲイリーらかつての悪友5人組が集結する。目的はただ一つ。学生時代に果たせなかった“パブ・クロール(パブのハシゴ呑み)”を今度こそ完遂すること。こうして5人は、ゴールとなる“ワールズ・エンド”という店を目指し、一晩で12軒のパブを巡る過酷な挑戦を開始する。そんな中、町では思いもよらぬ事態が静かに進行していたのだが…」
バカ映画。ビールを飲むだけの映画かと思ったら、途中で人間の顔をした宇宙人が登場して…というSF展開で、でも、そうなるとこちらの興味から外れてくるので退屈になり、意識朦朧→うつらうつら→朦朧→熟睡→朦朧…を30分以上繰り返したかも。この手のバカ映画とは、ほんとに相性が悪いよ。
冒頭で5人の紹介と、高校卒業時の12軒のパブへの挑戦を、ざっくり。で、12軒はクリアできず、でも2人脱落…という顛末なんだけど、早すぎて誰が誰やらよくわからず。で、現在の彼らのこともざっくり映し出すんだけど、これまた大雑把すぎて誰が誰やら分からない。いらつく。で、そのリーダー格だったゲイリー・キングが、いまや(25年後ぐらい?)中年オヤジで断酒会に入っているんだが、なぜかあのときのリベンジを思い立ち、仲間4人をめぐって約束をとりつける。のだけど、みな及び腰ながらちゃんとやって来てしまうところがご都合主義。まあいけど。
で、3人が「アンディもくるのか?」というアンディは弁護士で、キングはアンディに600ポンド返す(他の3人に200ポンドずつ借りたらしい)…というのがよく分からなかった。借りてたのか?
で、最初の1軒目に行ったらチェーン店になってて。2軒目も同じチェーン店になってる、というのが笑える。あと、不動産屋オリヴァーの妹サムが登場するんだけど、高校時代はキングとトイレに行って一発やっちゃった…とか。で、トイレに行くサムを追いかけて行って、やらせろ、と言ったら殴られるとか。そのサムを建設業のプリンスが好きだったとか。かつてカーディーラーのピーターをいじめた奴と遭遇するんだけど(「椅子を貸してくれますか?」とくる)、相手がピーターに気がつかないとか。むかしマリファナを売ってくれたオヤジと遭遇するけど、現在は…なにやってたっけ? あと、妙な爺さんがいたり、キングの顔写真が「出入り禁止」とともに貼られていたり。そういう小ネタは面白いんだけど。
3軒目か4軒目で、キングがトイレにやって来た青年をからかってるうちに喧嘩になり、プロレス技でなぎ倒したら首が取れてしまう! おやおや。こりゃ、夢とか妄想の世界、なのかな? と思っていたら、他の仲間や青年の仲間がやってきて。入り乱れて大乱闘。でも、5銃士たちが勝ってしまう! というテキトーさ!
以降は、町の住人と思っていたのがロボット(?)で、青い血を流すんだっけ? もう飽きてるから記憶もあやふや。いくパブごとにいろんな連中が襲ってきて、やっつけながらワールズ・エンドを目指していった、らしい。逃げたりしないで飲んでいた方が目立たないから、とか言ってなかったっけ? なんか、無茶苦茶。
最後はなんか、ボスキャラがでてきて。ワールズ・エンドが大爆発するんだけど、サムの運転で3人が逃げ出し…だっけ? たしかオリヴァーとピーターは実はロボットだった、じゃなかったかな。記憶曖昧。
で、その爆発のおかげで地球は壊滅・頽廃し…とかいう昔話をアンディが若いモノたちにしている。ピーターは人間のフリをして現在も父親を演じていて、プリンスとサムは一緒になった。キングは、仲間(誰なんだ?)を引き連れ、あれは宇宙人狩りをしているということなのか? よく分からない。
途中から無茶苦茶すぎて、でもそういう展開には興味がないので、ちっとも面白がれない。なので寝たというわけだ。
キングは、頭の中も身体も高校生のときとまったく変わらない。たとえば、ピーターから譲られたクルマにいまも乗ってて、でも、シャーシ以外は全部交換しているみたいで、なんと名義もピーターのままにしているとか、やることが徹底している。まあ、成長するのを拒むキャラだな。
歌舞伎町はいすくーる5/9新宿シネマ3監督/軽部進一脚本/那須真知子
allcinemaのあらすじは「不動産で莫大な富を築き、“歌舞伎町の帝王”となった男、覇稲剣(はいねけん)。ある日、新たな刺激が欲しくなった彼は、ふと学校に行こうと思い立つ。そんな剣の思いつきを叶えるため、大番頭の鬼九政宗が見つけてきた学校は、新宿歌舞伎町のド真ん中にある《定時制歌舞伎町高校》だった。そこは、ひとクセもふたクセもある奇々怪々な生徒の巣窟。それでも憧れの学園生活をエンジョイする剣だったが」
そんなに金があるんだから、定時制高校なんかに行かず、学校つくっちまえばいいじゃん。とか思ったけど、それじゃ話が始まらないか。ははは。で。入学したら同級生が有象無象で、教師もあれやこれや。担任でエロい数学教師の鵙古美優瑠(もずこ・みゅうる)が副業でバーレスクダンサーしてるのが発覚して退職騒動→生徒たちが校長の副業(高利貸し)を指摘して助けるとか。同級生の神来夢(じん・らいむ)とのロマンスとか。10歳で意識不明状態が突然目覚め、身体は20歳で頭は10歳の三島剣一(ゼルダ星人が攻めてくる、と妄想している)とか。校長が、ゆーとぴあ のホープで、よろしくねのポーズやゴムぱっちんがでてきたり。ベタでバカなエピソード・小ネタはそこそこ面白いものの、半ばを過ぎても話が転がっていかない。要は事件=ドラマが発生しないのだよな。せいぜい敵対する不良3人組=ヤクザ? がいて、彼らがゼルダ星人みたいな感じ? とかいうのがだらだら続く感じのみ。とくに、ゼルダ星人が登場するのは、昨日見た『ワールズ・エンド』と同じ展開じゃないか。くだらねえ。テキトー。がっくりしてしまう。そして、全体を貫く大きな流れ=串がないので、飽きてきてしまい、1時間ぐらいしたところで寝てしまった。ふ、と気づくと、なにやら戦いは終わった後らしく、覇稲剣は病院のベッドに寝ている。どうやら彼の方が事故で意識不明だったようだ。神来夢も同様に意識不明で、寝ている世界で交流していたと…。なんでえ。『時空刑事』北村薫の『ターン』とかと同じ設定だったのね。
というわけで、もう一回見る気力もなく、もういいや、的な気分。そもそも劇場公開するほどの作品でもないよな。ビデオでいいじゃん、な感じ。
脚本の那須真知子だけが超ベテランのようだけど、もうちょい何とかならなかったのかね。
あ、千葉真一もでたようだけど、寝てたから見ていない。
オープニングから画面が汚い。まともにライティングできてない。レフ板とかちゃんと使ってるのか? テキトーに撮ってるとしか思えないような暗い画面がつづくので、イラッときたよ。
マイ・マザー5/12キネカ大森1監督/グザヴィエ・ドラン脚本/グザヴィエ・ドラン
カナダ映画。原題は"J'ai tu? ma m?re"。”私は母を殺した”という意味らしい。Yahoo!映画のあらすじは「ケベックにある、何の変哲もない町に暮らす17歳の少年ユベール・ミネリ(グザヴィエ・ドラン)。ほかの若者たちと変わらない普通の青春を過ごす彼だったが、二人暮らしを送っている母親との関係に悩んでいた。センスのないセーターや、度重なる小言など、彼女の全てが気に障り、その愛憎が入り混じった感情に振り回されていく。そんな中、ユベールは幼少時代からなじみのある風景で、セント・ローレンス川沿いの土手に座っている母親を見つけたのを機に、ある決意を固める」
母親のいろんな所が嫌いな16歳。分かるよ。教養がなく田舎者でだらしない。もちろん理解もない。でも、母シャンタル・レミングはずいぶん可愛くてキレイ。ん? 主人公ユベール・ミネリと、姓が別だな。母親と一緒に暮らしているのに、父親の姓なのか? 説明はなかったけど、どうなってるんだ。
でもだからって母親に怒鳴り散らしてもしょうがないだろうに。母親の方もやたら怒鳴る。うるさくてしょうがない。母親は「18になったら自由にしていい」といってるんだから、あと2年待てばいいだろうに。なにを焦っているのだろう。それにだいたい、その歳ですでに恋人とセックスを。恋人といっても同級生の男子で、同性愛。お尻はもう処女じゃないという。なんてこっちゃ。しかも、彼氏であるアントナンの母親はそれを承知で、べつに叱ったりもしない。どころか、アントナンの母親がたまたま日焼けサロンでシャンタル見かけると「オタクの息子さんとうちの息子がつき合いだして、そろそろ2ヵ月ですね」と話しかけたりするという…。なんなんだ。アントナンの母親は若い男をとっかえひっかえ家に連れ込んで、それをアントナンも承知という、無茶苦茶な家庭環境なんだけど、フランス語圏カナダでは、こういうのも少年間の同性愛も麻薬も、みんな常識レベルの話なんですかいね。
いさかいをなくすには別居がいい、と母親にもちかけるユベール。もちろんアントナンと愛の巣を築くつもり。でも結局上手くいかず、家庭調査の授業では「母は死んだ」と教師スザンヌに告げ、これまた母親の怒りをかう。それではと慣れない料理をつくってみたり、母親のご機嫌をとろうとしても、母親が気づかない。でもって、またまた母親と喧嘩して、行くところがなくて、家庭調査の授業の時に登場した教師スザンヌのところに転がり込んでしまう。それを受け入れてしまう40がらみの女教師という、いかにも映画だろという展開なんだけど、実をいうとこの辺りで少しうとうとし、お茶を飲んでいた2人…の次が、翌日のシーンで、ユベールが上半身裸になっていた。むむ。これは、何かあったのか? 気になってしまって、↓に書くように2回目を見てしまったという次第。でも、実際に寝落ちしてしまったのはほんの一瞬で、1分もなかった。
てなわけで成績も悪く、母親に反抗的な態度をとってばかりのユベールは、寄宿舎に入れられてしまう。…というような展開が、フランス語圏ではいまだにあるのかよ。
寄宿舎といっても外出は自由なようで、夕方からは私服もOK。けっこういい加減。で、ここでもマッチョ男に言い寄られるんだけど、そんなにオカマ光線を飛ばしているのかね。結局、アントナンへの配慮か、お尻は提供しなかった。で、一方でよく分からないので、イジメ。あのイジメッ子たちは、なぜユベールをボコボコにしたりするのだ? 意味が分からない。
そんなわけで、寄宿舎から逃亡してしまったユベール。って、『大人は判ってくれない』だな。寄宿学校の校長から母シャンタルに電話で、「母子家庭が原因。父親の存在が必要ではないか」と諭すと激昂し、校長に言いたい放題。「来週までに学費を返さないと乗り込んでいくぞ」と暴言を吐くのが凄まじい。で、ユベールが隠れた先は、両親が離婚するまで住んでいた開眼近くの家なんだが。あんな所に住んで、どうやって生活できてたんだ? な場所だぜ。
そもにアントナンとともに隠れていたユベール。そこに母親がやってきて(寄宿舎に「母へ」という手紙が置かれていて、「王国にいる」とかなんとか書かれていたのを校長が読んで母親に伝えた)。海岸で座っていたユベールの横に母親が寄り添うように座って、それで映画はオシマイという素っ気なさ。
なんかいまいち、ぶっきらぼう、な感じ。母と息子の対立はどこでもあるだろうけど、こんなか? さらに、親離れできない16歳が同級生とアナルセックスしてるわけ? 的な違和感。そんな16歳をやさしく受け入れる、まるで村上春樹の小説に登場しそうなスザンヌ先生。しかも、田舎者的オバサン度の高い母親だけど、これが結構な美人ときているのだから、かなり説得力がない。これが見るからにオバサンなら「だよな」と共感してあげてもいいんだけど、彼氏がいないのが不思議なほどだと、どーもね。やっぱ両親は鬼のようで、スザンヌ先生はもっと若くて色っぽくあって欲しい。それと、もろもろの因果関係をちゃんと説明してくれないと、分からない。『わたしはロランス』になると、もっと映画としての形容詞・接続詞がなくなって、表面的なケバケバしさが目立ってくる。まあ、この映画では、かろうじて理屈でつながっているのがまだ救いかも。
その理屈を別の側面から補っているのが、ユベールが書いているらしい「小説」、ユベールの思い描く「妄想」、ユベールが自撮りした「告白ビデオ」で、これが適宜、挟まってくる。反抗的でもホモでも、才能があればいいじゃないか、とでも言おうとしているのかね。はたまた、実際の破壊行動にうつらず「妄想」でストレス発散するので、誰にも迷惑をかけていない、とでもいうのかね。あとは、幼少時の、おそらく父親が撮ったのであろう、まだ屈託のない頃の映像が登場するけれど、この辺りは、説明はないけれど、分かりやすすぎていまいち深みに欠けるかも。
で、タイトルのように、ユベールは「母を殺した(精神的にだろうけど)」のかね。ラストで母親に「助けて」といっている訳で、どうみても殺し切れていないと思うんだけどね。
・家庭調査の授業というのが、なんなんだ? 家の収入まで調査させ、皆の前で発表させるって。そんな授業があるのか?
・ところで、祖母の遺産がどーのといっていたけど、あれはどういうことなんだろう。父方か母方かの祖母が亡くなっていて、そのときユベールにも残してくれたということか。日本じゃ配偶者と子が優先で、孫にはまわらんと思うんだけど…。で、その祖母の遺産は母親が18歳までは管理するらしい。18になったらその遺産も使えるんだから、2年我慢すりゃいいんだよ、だから。
・スザンヌ先生は学校をやめてアメリカに行ってしまうんだけど、たびたびメールをくれたりする。という程の親近感は、どこから湧いたのか、よくわからんな。 ・ユベールは絵もよくし、作文はなかなかのデキらしい。スザンヌ先生がコンテストに応募したというユベールの作文がどうなったのか。知りたいところではある。
わたしはロランス5/12キネカ大森1監督/グザヴィエ・ドラン脚本/グザヴィエ・ドラン
カナダ/フランス映画。原題は"Laurence Anyways"。allcinemaのあらすじは「モントリオール在住の国語教師ロランス。彼には、ある秘密があった。それは、彼の心は女であり、今ある男の体は間違いだと思っているということ。30歳の誕生日、ついに彼はそのことを恋人のフレッドに打ち明ける。最初は騙されていたと激しく非難したフレッドだったが、ロランスの気持ちを受け止め、一緒に生きていくと決意する。以来、学校にも女性の格好で出かけていくロランスだったが…」
散文詩のような作りの映画。イントロがあって人物紹介があって、事件が起きて、対立や葛藤が生じ、それを克服する、という感じではない。いつの間にか始まっていて、なんかよく説明されないままどんどん進んで行き、状況が変わっていた! えー? なんで、いつそうなったんだ? な感じの部分が多い、というか、その連続。合点がいかぬまま進行するのは、生理的によろしくない。なので、いささかフラストレーションがたまるし、見せつけられている感が強くて、疎外感すら感じてしまう。あー、そうですか、てな感じかな。まあ、そういう作りを目指したんだろうけど。
ロランスは教師。パートナーもいて、幸せに暮らしている様子。最近、文学の小さな賞をとるなど、文学者としても認められつつあった。という、ある日、ロランスがパートナーのフレッドに「告白したいことがある」と打ち明ける。「自分は生まれたときから女性で、男性の恰好はしているけれど、心は女性」と。ところがフレッドは素直に受け止め、学校へも女装していくことを決意したロランスを応援する。…っていう設定が、かなりのご都合主義的に見えて、素直には納得できなかった。なぜって、ロランスは「男性の恰好はしているけれど、心は女性」なら、なんでフレッドにアプローチしたんだ? って話だよな。ラストで、2人の出会いのシーンが登場するんだけど、映画かCM撮りの休憩時に、ロランスがフレッドに近づいていくのだよ。ん? それって男としてフレッドに接近したのか? それは偽装のため? もしそうならフレッドは、告白されて怒るべきだろう。では、フレッドに男らしさを見出したから? それなら、失礼ね、と怒るべきではないのかな。
てなわけで、告白後しばらくして眠くなってしまい、気づいたら殴られたかしてて、顔がボコボコのロランスがいた。そのあとだっけ。カフェみたいな所で彼女が怒鳴り、怒って離れて行ってしまう。あれは、女装に消極的になったロランスに「女装はやめるのか?」とかいってたんだっけか? 覚えてないけど、対立して別れたわけじゃなかったよな。
フレッドはロランスの女装が嫌、というわけでなかった。彼女もいろいろストレスが溜まっていたのか? 突如、ハデなパーティドレスで酒場に行き(まるでミュージカル・ショーの主人公のような感じの演出に意味があるのか?)、意気投合した男と寝てしまう。一月後ぐらいにそれをロランスに責められ、フレッドは言い訳するけれど、二人の関係はオシマイ。ロランスは、売春宿みたいな所へ行き、見るからに退廃的な仲間と暮らしたようだけど、何をしていたのかは分からない。男色に励んでいたのか、小説だけを書いていたのか、分からない。
ロランスはそのうちペニスを取って、女性器を付けたかったのかな? よく分からない。こういうところも、表現がアバウトなんだよな。
数年後、フレッドは結婚し、娘もでき、豪邸に住んでいる。という設定。そこに、ロランスから本が届く。何が書いてあったか覚えてないけど、フレッドについて触れていたのは確かだよな。フレッドの住む白い家の煉瓦だかブロックだかのひとつを「ピンクに塗った」とか告白していて、つまりそれはフレッド恋しさにこっそり訪れていた、ということだ。フレッドが出版社を通してロランスに連絡すると、なんと近くにいる、てなわけで、さっさとやってきて、もうフレッドはロランスに夢中。ということは、2人は別れられない運命なのね。というわけで久しぶりにまぐわったんだろう、と推測。さらに、亭主・娘を置き去りに2人で逃避行とくるんだから、どーしようもない連中だな。
このときの映像は、空にいろんなカラフルなものが浮かんでるもので、心の中を表しているのかも知れないんだけど、あっそー、な感じ。でも、この逃避行も長くはつづかず、撮影で帰れない、という嘘もすぐに亭主に発覚してしまい、ロランスとフレッドも大げんかするんだけど、何がきっかけだか覚えてないよ。なんか、性転換した彼氏とカップルの知り合いの所に居候したりしてたなあ。具体的に覚えてないよ。それぐらい些細なことの繰り返しなので、事件=出来事としてあまり記憶に刻まれないと言うことなんだろう。
そうやって別れて、でもって最初の出会いから10年後なのかな。なにがきっかけだか覚えてないんだけど(ロランスの新刊かなんかだっけ?)、どっかのパブかカフェで再会するんだけど、すぐ別れてしまう。外は木枯らしで、枯葉が舞ってるんだっけかな。これまた心象風景の映像化なんだろうけど、忘れた頃にこういうのが登場する。まあ、悪くはないけど、とくに効果的とも思えない。
のあと、最初の出会いのシーンになるんだけど、それまではそのシークエンスの年号が文字で登場するのに、でてこない。しかもロランスが短髪なので、彼が心を入れかえて男に戻り、やり直すのかな? と思ってしまうんだけど、メイクが若い。これは、10年前の最初の出会いだろう。多分。
というわけで、なんだかよくわからない、オカマの告白と、その女性パートナーとの愛と別離のクロニクルなんだけれど、はっきりいってよく分からない。まあ、この手の、セクシャルマイノリティを扱った映画は玄人受けして、評価も高くなるのが常だけど、まあそれは映画のデキとは別に、この手の人たちを扱ったことに対する評価なんだと思う。だから、そんなものはアテにはならない。
でもやっぱり気になるのは、ロランスは同性愛者なのか? 両刀遣い? 男役? そしてやっぱり、なぜ男にアプローチせず、女性であるフレッドを求めたか、だよな。それが片付かないと、それ以上の話は出来ない。なので、中途半端な映画だという他はない。
最初の方からずっと、インタビューされている声が入る。何かは分からないんだけど、そのインタビューのシーンも後半には登場する。でも、だからどうだ、というようなものでもない。意味があるのかね?
2時間ぐらいの映画かと思ったらなかなか終わらず、169分もあったことを後で知る。たはは。
マイ・マザー5/12キネカ大森1監督/グザヴィエ・ドラン脚本/グザヴィエ・ドラン
カナダ映画。原題は"J'ai tu? ma m?re"。2度目。
スザンヌ先生の所に転がり込んだユベール、のところで少し寝てしまった。翌朝、彼が上半身裸になっていたので、性的関係があったのか? と思ったら寝てたのはほんの一瞬で、2人の間にはなにもなかったのだった。それと、花嫁衣装の女性を追いかけるシーンがあるんだけど、一瞬のことで母親なのかスザンヌ先生なのか、最初は判断に迷ってしまった。似てるんだよ、雰囲気が。で、髪の長い方がスザンヌ先生だったので、花嫁は彼女だった。アメリカからのメールに反応した妄想だから、夢精でもしたのかな?
ジンジャーの朝 〜さよなら、わたしが愛した世界5/13ギンレイホール監督/サリー・ポッター脚本/サリー・ポッター
製作国はイギリス/デンマーク/カナダ/クロアチアって、金集めに苦労しているね。原題は"Ginger & Rosa"とシンプル。allcinemaのあらすじは「冷戦時代に突入した1960年代のロンドン。幼なじみのジンジャーとローザは、同じヘアスタイルとファッションで、どこへ行くのも何をするのも、いつも一緒だった。ラジオでは毎日のように核の脅威が報道され、二人は反核集会に参加するように。やがて意見や見解の相違から、二人の友情には亀裂が生じてしまう。やがてローザが自分の父親と関係を持っていることを知り、またキューバ危機が立ちふさがったこともあり、ジンジャーの世界は崩壊寸前になるのだった」
いきなりキノコ雲、荒涼とした広島が登場するので、日本が舞台になってるのか? と思ったらさにあらず。この年に誕生した2人の少女がいて、1962年には17歳。キューバ危機の報道がラジオから流れてきて、一触即発、第三次大戦は原爆であっという間に何億人も死んでしまう…。イギリスだけでも2千数百万人が死ぬ可能性がある、なんていわれていたようだ。
ジンジャーとローザは同じ日に同じ病院で誕生し、母親同士も仲好し。2人はまるで双子のように育った。ローザの両親は離婚し、父親が出ていったらしい。ジンジャーのところも、どうも父親(教師か?)が生徒に興味をもったりしている、らしいような…。
で。最初の30分ぐらいはジンジャーとローザのイメージビデオ。たわむれる2人、一緒に路上で初体験し、学校サボってヒッチハイクし、海岸に行って…な日々。ジンジャーは、正面からだとキャリー・マリガン、横顔はドリュー・バリモア風だけど、ときにブタ鼻が目立って不細工。なのに、ローザはあまり映らない。ほとんどジンジャーしか写さない。なんでだ? (で、エンドクレジットでエル・ファニングとでてきて、おお、そうだったのか。『SUPER 8/スーパーエイト』『Virginia/ヴァージニア』のエル・ファニングか。でもなんか可愛げが薄れてきてないか? な感じ。見る角度にもよるのかも知れないけど)
そのうちジンジャーは反核運動に足を踏み入れる。という流れで思い出すのは『祭りの準備』で、若い子たちのリーダーとしてデモ活動にも積極的なヒゲ青年も登場するんだけど、ジンジャーもローザも彼に接近することもない。彼も、彼女たちに女を見ていない。のだけれど、どーも父のローランドが、ローザに気がありそう・・・というほのめかしがつづく。3人でローランドのヨットに宿泊したときは、ローザのあえぎ声にジンジャーが耳を塞いだりしている…って、なんちゅうオヤジだ。
ローランドは反戦活動家で、第二次大戦中も徴兵拒否かなんかして入牢していたようだ。神の存在は信じず、娘にもあれしちゃいけない、これするな、はまったく言わない。そのかわり、自由に生きる、な人のようだ。たとえば、娘にも「ダディ」とは呼ばせず、ローランドと呼ばせている。妻がジンジャーを産んだのは、10代のとき。というから、大戦中に反戦活動していて、そこに集まってきた青少年たちがいて、手をつけた、てなところなのだろう。しかもなんと、ジンジャーは俗称で、本名はアフリカ=女は暗黒大陸だから、なんだと。でもう妻には飽きが来ている。つまりまあ、『祭りの準備』で、都会から来たオルグの青年に簡単に身を許してしまう田舎の純粋な娘の図は、ローランドと妻との間の出来事だったわけだな。
という中盤はいささか退屈。前半では、今日はホモじゃなくてレズの映画か? なんて思っていたんだけど、まあ、そういわけでもなかった。でも中盤の話はだらだらで、とくに事件も起こらない。だから、だれる。
家をでていくローランド。どうも仲間と反戦関係の出版物を出しているようだ。物わかりの悪い母より、父親と…と、ローランドの所に身を寄せるジンジャー。でもそこにはローザが夜な夜な訪れ…。男は自由を求め、家をでていく。母親は子どもにうるさい。という展開は、昨日見た『マイ・マザー』と少し似ていなくもないな。こういうステレオタイプがあるのだろうか。
話が動くのは後半も押し詰まってからで、ジンジャーはローザから「妊娠した」と告げられ、動揺。そのままデモに行って逮捕されるんだけど、なにも話さない。一緒に捕まった、あるいは、父親の友人たちが話をして出してもらったんだけど、態度も行動も変。というわけで家にローランド、妻、ジンジャー、ローランドの仲間たちが集まってジンジャーを問い詰めるんだけど、彼女は「言えない。言ったら壊れてしまう」とかなんとか涙ながらに抵抗するんだけど、結局、「ローランドがローザと寝ている」と吐露してしまい、妻が激昂。ローランドは、「俺たちは自由だろ。そのために戦っているんだろ」みたいなことをいって自己正当化し、仲間にも「おまえなあ」的な扱いをされてしまう。2階の部屋に逃げ込んでしまう妻。ドアを開けたら薬を大量に…で、病院。離れたベンチに座るローランドとジンジャー。…てなところで終わったんだっけかな。ラストシーンはあんまり印象的ではない。
というわけで、『祭りの準備』ではエピソードとして描かれたようなこと、すなわち、自由、革新、平和を訴えつつ、下半身の自由ばかり追い求める活動家の物語、が描かれている映画であった。なんだよ。底が浅いなあ。という印象。
まあ、17歳ジンジャーの成長物語でもあるんだろうけど、どっちかってーと、革新を売りにして、うぶで若い娘とやりまくってるエセ活動家を叩いてる感じの映画だと思う。
ローザ役のアリス・イングラートは、顔は十人並み。それほど魔性な感じではない。でも、前半のイメージビデオ風なパートで、エル・ファニングばかりが映るので損をしてる。もっとアリス・イングラートを写さないとなあ。でもって、後半の2人の離れていく様を、もう少し描き込むとか。なんか、エル・ファニングの顔ばかりが映っている感じ。
バスタブでジーンズを縮めているとき、「実存主義なんて堅い話をしたら男は寄ってこない」とか言ってたのはローザだっけ。そういう人物描写が、他にあまりない。せいぜいジンジャーが詩を書いていることぐらいか。父親が反戦活動家だから書く才能があるのかも知れないけど、これも昨日の『マイ・マザー』の主人公と同じで、こういう映画に登場する思春期の青少年は、詩を書くのがスタンダードなのかね。なんか、ステレオタイプな感じ。
ローランドの妻は、10代で娘を産んでいる。だから30代半ばなんだから、それほど老けてないと思うんだが。というより、ローランドがロリータなのかも知れないな。生徒にも手を付けてる様子だし。それにしても、あの妻が意味なく巨乳なのはなぜなんだ? 巨乳よりも未成年の娘に惹かれているオッサン、ということを強調したかったのかな。
モンク、パーカー、ラインハルト、マイルス…と、モダンジャズが鳴ってたのは、眠気覚ましによかったかも。
ミッキーのミニー救出大作戦5/14新宿ミラノ1監督/ローレン・マクマラン脚本/ローレン・マクマラン、Paul Briggs、Nancy Kruse、Raymond S. Persi
『アナと雪の女王』が始まる前に同時上映。原題は"Get A Horse!"。6分の短編。ミッキーマウス・シリーズの第125作目。古典的で古い、ミッキーの白黒映画が始まるんだけど。ミッキーがスクリーンから追い出されるとミッキーはカラーになり、スクリーンに穴を開けたり上下左右に動かしたりして、スクリーンの中のビートと対決する。ギャグの手法も古典的なんだけど、パートカラーが効果的で、結構、面白かった。
アナと雪の女王5/14新宿ミラノ1監督/クリス・バック、ジェニファー・リー脚本/ジェニファー・リー
原題は"Frozen"と素っ気ない。allcinemaのあらすじは「アレンデール王国の王女姉妹エルサとアナ。幼い頃は大の仲良しだった2人だが、姉エルサには触れたものを凍らせてしまう魔法の力があった。ある時、その禁断の力がアナを危険にさらしてしまい、責任を感じたエルサは魔法を封印し部屋に閉じこもってしまう。しかし月日が経ち、国王夫妻が不慮の事故でこの世を去ると、エルサは王位を継がなければならなくなる。美しく成長した彼女は、新女王として戴冠式に臨むが、力を制御できずに、真夏の王国を冬に変えてしまう。エルサは城から逃亡し、雪山に氷の城を築いて“雪の女王”となり、氷の世界でそれまで抑え込んでいた本来の自分を解放していく。エルサが心を閉ざしてしまった理由を知ったアナは、大好きな姉と王国の危機を救うため、危険をかえりみず雪山の奥深くへと旅立つ」
2D/日本語吹き替えで見た。アンデルセンの『雪の女王』をモチーフにしているらしいが、原作との違いは分からない。それと、ミュージカルとは知らなかった…。
童話が原作ということを差し引いても、理屈に合わないところが多くて素直に楽しめなかった。国内外で大ヒットしているらしいけど、だれも疑問に思ったり突っ込んだりしていないのだろうか。疑問。
・エルサが部屋にこもってでてこない。は、許すよ。食いものとか排泄物とかどうすんだ、というツッコミは、ここでは不粋。他にも、アナが肩丸出しのドレスとスカートで雪山に行くのも、大目に見る。
トナカイや雪だるまのオラフがしゃべったりするのも、おとぎ話だから突っ込まない。
-----しかし、以下の様な部分は、そりゃ変だろ、といいたい。許せるいい加減さと、許せないいい加減さがあるのだ。
・そもそも、なぜエルサは魔法を身につけているのか? 両親(国王と女王)はそれを知りつつ、何の対応もしていない。へんだろ。トロールたちに頼っていれば、大事にならずに済んだ可能性はなくはないか? 何のための魔法かラストで分かって「なるほど」もないのね。
・エルサが誤ってアナに当てた魔法。ありゃ何なんだ? 心に刺さると取れなくなるけど、頭だから記憶とともに取り去ることができる? って、どういうこっちゃ。トロールは、魔法をコントロール出来るんなら、エルサが国を氷漬けにしたとき、何らかのアドバイスできたろうに。
・両親が死に、国王・女王が空席になったとき、そのままにしておくものなのか? 映画ではエルサの成人をもって女王に昇格だったけど、それまで誰が国政を仕切っていたのだ? 叔父とか叔母とか、親戚はいなかったのか? エルサとアナには…? はたまた高官が謀反を起こして国を乗っ取る、もなかったのね。しかし、それにしてはアレンデール王国の家臣がほとんど登場しないというのは、おかしいだろ。
・ハンス王子とキスすれば氷が溶ける、と確信して息も絶え絶えで城に戻ったアナ。「キスを」と迫ると、ハンス王子は高笑いして、策謀を明かす…って、そこでバラさなくてもよかったんじゃないの? そのままキスしてやって、でも変わらないことに不審を抱きつつ死んでいくアナを見送ってもよかったんじゃないのかな。
・でそのハンス王子だけど。最初にアナと遭遇し、意気が合ってその日のうちに結婚の約束。でもエルサに反対されて…がきっかけでエルサが魔法を使ってしまうわけだけど。ちょっと短絡的すぎるだろ、エルサ。
・で、山に逃げ込んでしまうエルサ。姉を追うアナは、国のことをハンス王子に任せて出かけるんだけど、そういうのはありなのか? つまり、自分の国を他国の王子(兄貴が12人いるらしいけど)に任せてしまうこと。それに、アレンデール王国の家来たちが素直に従うというのは、あるのか?
・アナは帰るのを拒み、雪の怪獣まで創りだして抵抗する。って、この意味がよく分からない。なんで拒むのか? 自分のせいで街が氷の世界になってしまったんなら、責任をもって、なんとかしよう、と思わなくちゃ為政者としてダメなんじゃないのかね。
・結局、ハンス王子一行に捕まり、城に幽閉されるエルサ。でも魔法で逃げ出し、街は氷に埋もれてしまう。クリストフはトロールに「アンを救うのは、真の愛。それはクリストフのキス」とかなんとか言われて氷の城から街へ向かう。ところで街では、いままさにハンス王子がエルサを殺害しようとしているところに、魔法でボロボロにさせられたアンが楯になって割り込み、アンは氷と化してしまう。クリストフは自分がキスしようとしていたのに、くやしさいっぱい。なんだけど、なんとアンのエルサを守ろうという行為が真の愛であり、これによって氷が溶け出すという、なんちゅーかご都合主義な展開で。じゃあクリストフのキスはどうなるんだよ。ひとり浮きまくり。はいいんだけど、これによってエルサはいつのまにか魔法をコントロールする術を習得してしまったらしい。って、それはどういう理屈だよ。なんでコントロール出来るようになったんだよ!
----- 他にも、「?」はある。
・冒頭は、氷を切り出すシーンなんだけど。あれは冬のことなのか? で、氷室にでも貯蔵し、夏に売る? でも、その説明がなく、港町のシーンになって、以降、冒頭に登場していた氷屋の子どもが登場しない。あれだけ冒頭でフィーチャーしておきながら、なんで?
・クリストフは氷屋なのか? 山小屋でアナが会う前に、最初の方の港のシーンで登場していたけど、冒頭の氷屋の中にはいなかったよな? いた? よく分からない。
・そのクリストフ。最後に方になって、トロールと深い交流があることをトナカイと雪だるまに明かす(んだっけ?)。国王夫妻が頼ったようなトロールをよく知っているって、青年の素性はいったいなんなんだ? 最後に、実は某国の御落胤…とかいう種明かしでもあるのかと思ったら、なかった。なんだよ。
・そういえば、エルサの戴冠式に招かれていた某国一行3人組。その長が「交易を」としきりに迫るんだけど、エルサがいなくなってから妙にエラそうな態度になる。他国の使節風情が、なんでそうなるの?
・トロールがクリストフと再開し、歌うシーン。トロールの合唱は、何を言っているのか、言葉がほとんど聞き取れず。
----- てなわけで。
いろいろ不思議で納得のいかないところの多いこの映画。ヒーローの出番は結局なくて、姉妹の間の愛が氷を溶かす、という趣向。じゃだったら、最初にアンの頭に魔法が当たったときも、あるいは心に当たったとしても、2人の愛があるなら、傷は自動的に 癒えるんじゃないのか? 自動的に。理屈ではそうなると思うんだが…。
さて、はたして女王エルサは何を象徴しているのだろうか。手に余るような才能あるが故に、身を隠さなければならないようなシチュエーションって、あるか? 考えたんだけど、思い浮かばない。なにかの教訓にでもなってるのかと考えても、よく分からない。そもそも、触れるものすべてを氷に変えてしまうからと、自ら閉じこもる理由もよく分からない。そもそも、国王夫妻は娘の力を知っていたんだから、どうすればコントロール出来るようになるか、トロールに相談するとかしなかったのか? その努力をなぜしない? はたまた娘に魔力があることは、なにか問題になるのか? 魔女狩りの時代でもなければ、思い切って公表してしまうのも手だろう。だって、簡単に神格化できるはずだし。そのあたりが、よく分からない。
あと気づいたのは、キャラクター造形とギャグが、日本の少女漫画化してる気がすること。たとえば、髪の毛でしか区別できない、瓜二つの顔の姉妹。ドジな妹アンのセリフや行動は、日本アニメの得意技にそっくりだ。
姉を探しに向かうアンに、クリストフ、トナカイ、雪だるまの家来が出来るのは、これはおとぎ話の定番なのか。桃太郎や『オズの魔法使い』と似てるよな。
★なんと入口に、ミラノが12月いっぱいで閉館、という貼り紙があった。再建築ではなく、解体後は未定らしい。げげ。
とらわれて夏5/16新宿武蔵野館2監督/ジェイソン・ライトマン脚本/ジェイソン・ライトマン
原題は"Labor Day"。勤労感謝の日、か。allcinemaのあらすじは「アメリカ東部の小さな町。レイバーデイを週末に控えた穏やかな9月初旬。夫に去られたシングルマザーのアデルは癒されぬ心の傷を抱えたまま、一人息子のヘンリーとともに静かな日々を送っていた。ある日、スーパーマーケットに買い出し行った2人は、ケガをしていて見るからに怪しげな男に声を掛けられ、自宅まで車で連れ帰るよう脅される。彼の正体はフランクという名の逃亡犯だった。恐怖から、言われるままに彼を匿うしかなかったアデル。しかしフランクは決して危害は加えないと約束し、男手がなく苦労していたアデルの家事を手伝い、一方でヘンリーにも優しく接して父親のような存在になっていく。根は優しいそんなフランクに、次第に心惹かれていくアデルだったが…」
不幸な男女が、真実の愛に出会う話で、何でも出来る理想の父親像、されを支える母親像を描こうとしている。いまどき古いけど、設定は1987年だっけかな。古き良きアメリカの家庭を懐かしく思うような話、なのかね。
でもよく考えて見れば、出会いとしては二流で、チンケで安っぽいと思う。だって、あんなの、簡単に逃げ出せるだろうに。スーパーマーケットなんだから、叫べばいい。それを簡単に受け入れたってことは、アデルの側にもザワザワした予感があってのことなんだろう。でないと、彼女の行動はアホに見える。ところが、そういうザワザワ感を出せていない。
愛する誰かを失い、満たされないままに毎日を過ごしている彼ら。そこから抜けだして、新しい何かを創り上げたいと思っている2人が出会った、という設定をもうちょっと強調しないとな。アデルの心の底にうごめく渇望感、フランクの空っぽの心が描き出せなくては、この映画、意味がないと思う。
要は見かけの設定だけで、シンパシーを押しつけているんだと思う。ある意味、姑息。たとえばフランクが家の修理をしたり料理をつくったり野球をしたり、こういう父性の押しつけがわざとらしくて押しつけがましく感じられる。もっと何気に描けなかったのかね。たしかアデルが誰かに「父性が必要」といわれ、激する場面があったような気がするんだけど、これなんかもテーマをセリフで言ってしまっている悪い例(…ええっと、これは別の映画だっけかな?)。
フランクも、「夜には出ていく」といいつつ、だらだら居つづける。アデルも「まだ傷口が」とか、引き留める。なぜさっさと逃げない。アホなんじゃないか? としか思えないんだけど、ではたかだか半日や1日でアデルとフランクが惹かれ合うとも思えないし。そういう設定なら、そうなる必然的なシーンをつくらないと説得力は薄い。
そもそも、あんないい奴=フランクが、なぜ脱獄するかね? 景気は18年とかいってたけど、保釈まであと何年か我慢すりゃいいだろうに。で、結局逮捕されて逃亡で10年(?)誘拐で15年(?)、とかよく覚えてないけど、全部合算するのか?20〜30年ぐらいになるのかい? それにしても、誤って妻を殺して18年は長いよな。それと、フランクの保釈はどう見ても10年そこそこ。そんなに早く出られるのか? アメリカの刑務所は。
でも、アデルは料理できないダメ女として描かれてるんだよな。あれは、子どもを何度も流産して、それでうつ状態なので何もできない、ということなのかな。それにしても、田舎の家庭料理であるパイまでフランクにつくらせ、アデルはそれを見てるだけ、って、どうなんだ?
思うに、この映画、少年の視点に徹してもよかったんじゃないのかな。ヘンリーの性への目覚めも含んで、転校してきた少女、近所の障害のある少年も含め、子どもの視点から大人の不条理を見るようにした方が、共感が得られるような気がするんだけどな。アデル主観の流産と情緒不安定の話、フランクの視点から描かれる妻と殺人イメージが、中途半端に描き過ぎな様な気がする。視点が複数あるというのも、実は落ち着かないしな。
で。フランクが居たのは2日? 3日? 一週間ぐらいいたのか? よく覚えてないんだけど、互いに好意を抱きあい、一緒にカナダへ逃げようという計画を立てる。って、それって現実的なのか? 国境を越えれば、逃げおおせるのか? で、出発の当日、することといったら、ヘンリーは実父の家に手紙を投函しに行く。バカか。帰る途中にパトロール中の警官に見つかり、一人で歩いているのを不審がられ、クルマで送られる…。警官は荷物の積んであるクルマ、空っぽの室内を見て、疑惑の表情。それからアデルとヘンリーが2人で銀行へ行き、大金を引き出す。アホか、な感じ。しかし、あちらの銀行は譬え知人でも大金を下ろす場合は疑り深いんだな。ひとりで家にいると、障がい者の息子がいる近所の奥さんが、ノックもせず入ってくる。これがこの辺りの常識らしい。で、結局、最後は警察がサイレン鳴らしてやってくるんだけど、通報したのは実父なのか? 近所の奥さん?
とまあ、ツッコミどころだらけだけど、障害者の息子を預かってくれ、と頼まれて。アデルは嫌々承知するんだけど。その彼を、フランクが「ちょうどサードベースを待っていたところなんだ」と、受け入れるところは、ちょっと感動的。アデルの元夫でヘンリーの実父も、最後の方でヘンリーに妻への思いを話す。いいやつじゃん、彼も。よほどのヒステリーあるいはうつ状態で、堪えられなかったんだろう、と想像。
で、何年か10何年か後、ヘンリーは独立してどこかの街でパイ屋を営んでいる。妻も居る。そこに「今度保釈になるが…、もうアデルは再婚したろうな」とのフランクからの手紙に「いまも同じ家に住んでいるよ」と返事を書くところなんざ、「幸せの黄色いハンカチ」そのものですな。まさに定番。やれやれ。たった数日の交流で、そこまでいくかい。まあ、映画だからな。
・ぎいいいい…というノイズ混じりの音楽が、不安を掻き立てる。効果? ありやなしや。
・ヘンリーがスーパーへ買い出しに行くシーン。自転車で行くんだけど、カゴも荷台もない。あれじゃ、持ち帰ったような荷物は載せられないだろ。
・トビー・マグワイアは、後日談として、長じたヘンリー役でちょっとだけ登場する。意味ねえ…。
アメイジング・スパイダーマン25/19新宿ミラノ3監督/マーク・ウェブ脚本/アレックス・カーツマン、ロベルト・オーチー、ジェフ・ピンクナー
原題は"The Amazing Spider-Man 2"。allcinemaのあらすじは「普通の青年として恋人グウェンとの愛を育む一方、スパイダーマンとしてニューヨーク市民の安全と平和に貢献する充実した日々を送るピーター・パーカー。そんなある日、ピーターの幼なじみで巨大企業オズコープ社の御曹司ハリー・オズボーンがNYに舞い戻り、2人は10年ぶりの再会を果たす。やがてピーターは、ハリーからオズコープ社がピーターを幼い頃から監視しているという衝撃の事実を知らされ、考えもしなかったオズコープ社との恐るべき因縁に混乱していく。そんな中、事故に巻き込まれたオズコープ社の電気技師マックスが、電気を自在に操る怒れる魔人エレクトロとなってスパイダーマンの前に現われるのだったが…」
前作「1」は、この手の映画としては奥が深い感じだったので、ちょっと期待した。けど、奥が深そうに見えるけど、そうでもない。たとえば、ヒーローとして活躍するスパイダーマンの意義を自問する、あるいは市民の意見がどーのこーのというのが最初の方にあるけれど、これは「ダークナイト」ですでにやってること。あるいは「キック・アス」「スーパー!」みたいなのでもやられてる。いまさら…な感じ。
もしくは、ピーターがグウェンの父親に「娘に近づくな」と言われたことの葛藤というのもあるのかも知れないけれど、ヒーロー止めますか、彼女をとりますか、まではいってない。いまいち弱いので、底が浅い。戦うなら、巨悪に挑め、とも思うし。
ピーターにとっての父の影。これも、いまいち薄っぺら。どうやって手に入れたか知らないが、押し入れには父親の鞄がある。でも、興味なし。それがある日(グウェンと別れたときだっけ?)、突然、興味をもつんだが、なぜ興味をもったか、よく分からない。で、「ルーズベルト」というキーワードからトークンを発見して、父親が地下鉄で通勤していたことを思いつき、いまは廃駅のルーズベルト駅にたどりつく。という謎解きも簡単過ぎ。で、そこで隠された車両をみつけるんだけど、あんなものが10年以上隠されていたって、どういうこっちゃ。誰が細工して車両を研究室(?)にしたんだ? さて、そこでピーターが見つけたのは、父親の告白ビデオで、そこでオズコープ社が研究を軍事使用している(だっけ?)ことを知ったということを話している。映画冒頭の、父親が研究していたクモを殺して逃げることの説明になっているわけね。はいいんだけど、他に何らかのデータとか機密はないのかよ。
じゃああの、冒頭で、父親が国外逃亡しようという飛行機内(誰があんな自家用ジェットを手配したんだ?)で襲ってきた男は誰なんだ? オズコーブ社の手下? 目的は? 父親が転送しようとしていたデータ? そんなものあったか? 転送してたのは、告白ビデオなのか? それにしてもPCを奪い合ってたけど、父はデータをルーズベルトに転送したら安心してPCを手放した…。いいのか? 父親の鞄は改修されてピーターの元に戻っているんだから、PCだって回収されるだろうに。
そういえば、自宅で父親がビデオ告白してると、子ども(かつてのピーター)の声が聞こえ、行くと部屋が荒らされている。荒らしたのはオズコープ社の配下だろうけど、なにを探していたんだ? 父親が、クモを殺した以外に、何かデータを持ち出したことが発覚していた? それにしても、部屋を荒らすだけで帰っていくとは、アホな連中だ。
というところに、オズコープ社で技師として働くマックスに悲劇が。誕生日だっていうのに残業で、同僚たちもいい加減。ってか、あんな管理体制では事故るのも当然だけど、電気魚?の水槽に落下してお陀仏。でも復活して怪物エレクトロとなって復活。スパイダーマンとは心を通わせるけど、警官が発砲したため「裏切った」と思い込み、反発。以降、この反発心だけでスパイダーマンに刃向かうという一直線。もともとスパイダーマンが好きで、朝方、助けられたこともあって、可愛さ余って憎さ百倍というわけか。てなわけで、しがない下級従業員のマックスが気の毒としかいいようがない。
ところでグウェンは、スパイダーマンとエレクトロとの対決の後(だっけ?)、自分のPCからマックスを検索する。それを上司(?)が察知して、追われるように逃げる訳なんだけど、次に登場するときはオックスフォードの最終面接。おいおい。追及の手は、もう伸びないのかよ。な、テキトーさ。
もうひとつの敵は、ハリーで、オズコープ社の御曹司。父が死んで跡を継ぐのだけれど、どうやら遺伝病で、父からその事実を知らされる。で、彼の目的は病気治療で、スパイダーマン誕生のきっかけとなったサンプルを欲しがっている模様。会社がなにやってるか、ってなことにはほとんど無関心で、そのサンプルがないと知ると、スパイダーマンの血液を欲する…。という、なんか、話が単純すぎだろ。そもそも父親はかなりの年まで生きたんだから、ハリーもそのぐらいは生きる、がフツーの感覚じゃないのかい? でも映画では、もう、即刻、死にそうな感じなんだよな。死から逃れたいという欲望から、あんなことまでするかよ、なことも盛りだくさん。
そもそもピーターの父親は、自分の遺伝子を引いた者にしかワクチン効果がないよう設計したらしい。それって、なんで? 危険の拡散を防ぐため? それとも、自分の一族だけに利益を…だったりして? まあいい。それを知らない、あるいは無視したハリーは、スパイダーマンの血液を注射して、怪物になってしまう…のだけれど、パワーはプラスされ、しかも、生きながらえつづける。おい。じゃあ、一族以外にもこうかがあるってこっちゃないか?
で、なんかよく分からないメカっぽいスーツを着用してスパイダーマンと対決するんだけど、このころになるとバトルの連続で飽きてきて、少し眠くなった。なんかよく覚えてないけど、一緒についてきていたグウェンが、あれはなんなんだ、塔かビルから落とされ、地上にぶつかる寸前にスパイダーマンが助けるんだけど、なんと死んでいたという驚きの展開。で、ハリーはどなったんだっけ?
葬式があり・・・。死んだと見せかけて実は死んでいなかった、なのかと思ったら、実際に死んでしまったようだ。父親も前作で死んでるんだろ。よく覚えてないけど。この家も不幸だねえ。
落ち込んでたスパイダーマン。ここに登場するのが、ハリーで。どこでどうしていたのか知らないけど、人間が入って操縦するロボットを開発してて(どうやって?)、冒頭に登場していた極悪人(ポール・ジアマッティとは分からなかった。下ぶくれではなくなったのね)で、まあこれは簡単に仕留められちゃうんだが。このロボットはオズコープ社が総力を挙げて開発したものだとして。そもそも、オズコープ社の誰とだれ、どの辺りまでが悪人で、どっから下は何も知らない一般人なんだろう。
スパイダーマンvsエレクトロ、スパイダーマンvsハリー、後日談としてスパイダーマンvs受刑者 と、最後はバトルの3連発。飽きる。
いじめられていた少年が、スパイダーマンの恰好でロボット犀に向かおうとするとか、冒頭の人物が後半で活躍したりするんだけど、伏線の回収としてはたいして面白くない。
歯車(時計)で始まり、(後日談を除き)歯車(塔の中の歯車?)で終わる? 意味があるのかな?
ハリーって「1」にでていたんだっけ?
バチカンで逢いましょう5/23新宿武蔵野館1監督/トミー・ヴィガント脚本/ジェーン・エインスコー、ガブリエラ・シュパール
ドイツ映画。原題は"Omamamia"。allcinemaのあらすじは「ドイツのバイエルン州からカナダに移住したマルガレーテは、長年連れ添った夫に先立たれたのを機に、長女のマリーにドイツに呼び戻される。ところがマリーが老人ホームを勧めるのにショックを受け、ある朝、置き手紙を残して単身ローマに旅立ってしまう。実は、敬虔なカトリックのマルガレーテには、どうしてもローマ法王の前で懺悔したいことがあったのだが…」
allcinemaのあらすじに「え? そうだったの!」という部分があった。原野の一軒はカナダだと分かっていたけど、転居先はドイツだったのか。カナダの市街地へ越したのかと思ってたよ。というのが象徴的だけど、いろいろとヌケが散見されて、辻褄が合わない、あるいは、よく分からない、がたくさんある映画。なので、最初の頃は設定のユニークさに見ていられたけど、途中から集中力が切れていった。※と思ったら、公式HPには「長女マリーは母が遠く離れた一軒家で一人暮らしをするのが心配で、両親の家を売却し、自分たちの住む都市部のホワイトホースへ呼び寄せることにした」とある。じゃカナダ国内なのか? 一体全体…。
形としては典型的なドタバタ喜劇で、1960年代に東宝がこの手の喜劇をたくさんつくっていた。それでも、目的や経緯、展開は大雑把にしても見えていた。ところが、この映画では「なぜ?」が多すぎる。なので、やっぱ、イマイチな印象だな。
そもそもマルガレーテがなぜバチカンに行きたいのか、ずっとわからないまま。その理由は最後の方でチラッと明かされるけど、なんでそのためのバチカンへ? な感じ。それに、最初の方では、家族で観光がてらバチカンへ、てな雰囲気だったし。で、突然、マルガレーテはひとりでバチカンに出かけてしまうのだけれど(チケットは孫がWebで取ったらしい)、なんとローマには孫娘マルティナがいたという。え。そんな話でてたっけ? しかもマルティナは大学に入るために留学中なのにロックおやじシルヴィオと同棲中でバーで働いているという設定。ってことは20歳未満? 両親はどういうつもりで娘をイタリアに送り出したんだろう? 意味不明だ。で、そこ(マルティナの彼氏の部屋)に転がり込むと、室内はチンコマンコおっぱいの絵だらけ…。カソリックのマルガレーテはびっくり! な展開はまあいい。
翌日、さっそくバチカンに行って列に並ぶんだけど、なんの列なのかよく分からず。法王に会えるのか? でも、その後の話とは結びつかないのだよな。それはさておき、盲人男性がやってきて順番を譲り、自分は外へ出る。…というところが、また「?」で、なんで並び直さないのか? そんな簡単にあきらめていいのか? で、街を歩いていたら故郷バイエルン料理の店があって、流行ってないけど入ってみたらまずい。なので自分が料理をつくってしまう。ありがちな展開。
マルガレーテが帰ったあと、店にやってきたのが、バチカンで盲人だったはずのロレンツォ。店主ディノとは血縁関係らしいけど、よく分からない。親子ではないみたいだけど、なんなんだ(これも、後半になってやっと叔父甥の関係と分かる)。で、母親から受け継いだ店だけど客は入らない。ロレンツォも金に困っているらしい。でも、よく分からない。
で、翌日なのかなんなのかよく分からないんだけど、マルガレーテが黒人の司祭と面接していて、法王には一対一では会えない、とかなんとか説明されている。これは、前日と同じ列に並んでの結果なのか? なんかよく分からない。で、この日なのか次の日なのかよく覚えてないんだけど、集団で法王に対面できる場にもぐり込むことができて。座っていたら例の盲人がやって来て、最前列に座ってしまう。怒り心頭のマルガレーテは、そそそと隣に近寄り(この時点で警備に注意されないのかね)、「嘘つき」と催涙スプレーをかけたら、それが法王にかかって彼女は逮捕。全世界に報道され、マルガレーテの娘マリーは大慌て。でも、ロレンツォも逃げずに説明したおかげで釈放と相成り、店へ。ロレンツォに「なぜ盲人のフリを」と責められ、彼が言うには「賭博が」どうのこうのなんだけど、この理由がよく分からない。博打で金をすったから、実は神など信じていないのにバチカンへ行って法王にお願いした? 意味不明。
さらに、マルガレーテとロレンツォが意気投合してしまうのも、よく分からないので、この辺りから本気で集中力が切れてきた。
さてさて。店ではマルガレーテが料理をつくり、ディノが呼び込みと給仕をして大成功。わずかずつでも借金が返せる(?)メドがみえてきた、って、どういうことなんだか。
んでもって、マルガレーテとロレンツォが偽装結婚してどーのこーの、の件はいったいなんだったんだ? 合同結婚式に出ると、法王に接近できるから? でも、その結婚式にマルガレーテは遅刻するわ、やっぱり嫌だと途中で退席してしまうは、なんだかよく分からない展開がつづいていく。ちゃんと見てれば辻褄はあってたのかな?
てな間に、ロックおやじのシルヴィオは、マルティナの熱意にほだされて結婚する決意を固める。本音は、そういう縛りは嫌、だったようだけど。というのに、なんと、ファンとセックスしているところをマルティナに目撃されてしまう。「俺はロックスターだ。こういうのも必要」みたいなことを言ってたような気がするんだけど、まあ、そんなもんだよな。でもマルティナはどっかにカソリックの血が流れていたのか、悲嘆にくれてしまう。
というところにマルガレーテの娘マリーがやってきて。事件を起こした母親が心配でやってきたらしいけど。娘マルティナの状態に驚き、母マルガレーテにも手を焼く感じなんだけど、いまいちローマでは活躍するところがなかったね。自分の家での、亭主とのあれやこれやの方が生き生きしてたかも。ローンで新居を建て、母親は呼び戻したけど、老人ホームに入れるつもり。亭主はセックスしたいのに、疲れてるからとかなんとか言って拒絶してる。凄い娘だなと思うんだけど、そこそこキレイな顔をしていたりするから、悪人に見えないのが困ったところ?
あ、そーだ。なにがきっかけなのか分からないんだけど、マルガレーテがバチカンの為に料理を500人分? 50人分? つくることになるんだよな。あれはなんでだっけ? ロレンツォがバチカンの司祭の一人(あれは知り合いだったのか?)に何かを頼んで(だっけ?)、代わりにベスパを与える場面があったけど、その取り引き条件だっけかな? よく覚えてない。で、その料理をつくっているところにマリーとマルティナもやってきて、親子三代でドイツ料理作り、という展開は、関係の再構築にはいいエピソードだけれど、だからといって、マルガレーテとマリーの関係が改善するようにも思えないんだけどね。
ローマ最後の夜、マルガレーテがマリーに打ち明けたのは、マリーの出生のこと。マルガレーテは、亡き夫を愛していた。けれど、一度だけロックコンサートに行って、スターと過ちを…。って、おいおい。カソリックじゃなかったのか。って、それがローマ法王に直接懺悔したかったことなのか? でも、なんでローマ法王じゃなければならないのか。そして、セリフにあったけれど、「ベネディクトが即位したから、やっとバチカンに行ける」なんだろうか。意味がよくわからない。
まあ、これで喧嘩になることもなく。「私には父さんの血は流れていなかったのね。マルティナには、その血が流れているのね」で終わってしまう。そんな終わり方でいいのかいね。というか、これでマルガレーテの老人ホーム行きはなくなったのか? は、描かず。
それはそうと、マリーの弟が最初の方で彼女を連れて登場するけれど、マルガレーテは連れてきているのが以前の彼女と変わっていることに気づかない。ってことは、真面目な父親の血統を受け継いでいても、遊び人だってことだよな。
そのマルガレーテは司祭からベスパの鍵をこっそり取り返し、自分で運転してロレンツォのところへ。2人乗りして「ミュンヘンへ!」行くらしいけど、この意味もよく分からず。なぜミュンヘンなんだ? いままて、ロレンツォの借金問題は解決したのか? なところがアバウトすぎだろ。ところで、ラストシーンはそのベスパがアッピア街道(かな?)みたいなところを走っていく絵なんだけど、周囲には墓があったような気がするんだけど、なんか意味があるのかね。
というわけで、マルガレーテとロレンツォは、第2の人生? マリーは母マルガレーテと娘マルティナに少し寛容になり、亭主の気持ちにも応えられるようになって、のか? よく分からない。マルティナは、懺悔するように近寄ってくるロックおやじのシルヴィオを、どーやら許してしまいそうな気配だけど、いずれまた浮気するに決まってる。な、アバウトすぎる収束の仕方で、いまいちスッキリしないんだよな。
しかし、あの一家はよくわからないな。マルガレーテがドイツからカナダに移住。カナダはフランス人が多いと有名だけど、ドイツ移民もいるのか? 亭主はカナダ人? 生まれた娘はなぜかドイツに戻って結婚する。夫のジョーはドイツ人? しかし、マルガレーテはドイツ語を話してなかったか? ローマに到着してタクシーに乗ると、運転手は英語。バチカンなどではイタリア語…。なんかよく分からない。※HPには「40年前に夫とドイツ南東部の州バイエルンからカナダの広大なビッグベア・クリークに移住し、自然に囲まれた住み慣れた我が家で幸せに暮らしていた」とあった。ふーん。映画じゃ説明してなかったように思うがね。
あと、驚いたのは、カナダの平原にある一軒家をでるとき。マルガレーテは石を積み重ねただけの塀から石を2つ3つどかし、骨壺を取り出すんだよ。そして、遺灰をロケットに移すんだけど、あんな大雑把なのかい? それと、家をでるときはトラックがいたけど、あれを船便かなんかでドイツまで送ったのか? 知りたい。
ハンナ・アーレント5/27ギンレイホール監督/マルガレーテ・フォン・トロッタ脚本/パム・カッツ、マルガレーテ・フォン・トロッタ
製作国はドイツ/ルクセンブルク/フランス。原題は"Hannah Arendt"。allcinemaのあらすじは「ホロコーストを生き延びたユダヤ人哲学者ハンナ・アーレント。1960年代初頭、彼女は何百万人ものユダヤ人の収容所移送を指揮したナチスの重要戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判に立ち会い、その傍聴記を発表する。しかしアイヒマンを、思考することを放棄して命令に従っただけの凡庸な小役人と評し、さらにユダヤ人自治組織の指導者がアイヒマンに協力していたことにも言及したレポート『イェルサレムのアイヒマン』は、ユダヤ人社会からの激しいバッシングに晒される」
ハンナの存在は、まったく知らなかった。日本ではこの映画で有名になったのかな。中公新書も最近出ていたような。師匠のハイデガーは知っていた。読んでないけど。哲学書は敬遠していたからね。そういえば、ナチを支持していたんだっけか。アイヒマンの名前は知っていた。捕まったのも知ったいたけど、その後の経緯については知らなかった。そんな程度なので、難解すぎて分かんなかったりするのかな、とビビリながら見始めたけど、後半のハンナの主張とユダヤ人社会の対立はあまりにもレベルが低いので、バカじゃねえの? とか思いながら見てしまった。ナチもユダヤも同じようにファナティック。どちらも全体主義じゃないか。というのが感想。
ハンナの「全体主義の起原」は、当然ながら知らない。映画の中でも、絶対的な悪がどーとか言っていて、ナチの行為はその絶対的な悪にはあてはまらないとかなんとかいっていたよーな気がする。哲学者なので言い方がひねくれていて分かりにくいのが玉にきずというか、一般的に哲学者は文章や表現が下手くそなので、アホかと思うんだけど。要は悪意があるかどうか、みたいなことなのかもしれない。というように単純化してはいけないのかも知れないが。
でまあ。捕縛された、というより、いきなり誘拐されたみたいなシーンが冒頭にあって、それがアイヒマンの逮捕なんだろう。その裁判を傍聴し、記事にしてくれ、という依頼が「ニューヨーカー」からきた。ここで、へえー、な感じ。あの「ニューヨーカー」が掲載していたんだ!
で、ハンナは「アイヒマンは役人的で機械的に仕事をしただけ」「これは絶対的な悪とは違う。凡庸な犯罪」「ユダヤ人の中にもリーダーがいて、彼らがナチの手先として機能した。彼らがいなかったら犠牲者は減ったはず」みたいなことを「ニューヨーカー」に書いて、とくにユダヤ人のリーダーの部分が、ユダヤ人社会から反発を食らう。大学(どこの?)からは「辞めてくれ」といわれ、脅しの手紙も山のよう。旧友も去って行く…。でも自説は曲げない。という話で、ユダヤ人社会の閉塞性を指弾したかたちになっている。まあ、ナチは指弾、ユダヤは擁護というのはワンセットになっていて、ある意味ではアンタッチャブルな分野。本質を見極めようとする過程でナチ誕生における時代の必然性などを論じる際に、ナチを否定しない論調は「擁護」とみなされてしまう。さらに、ユダヤ人にもまずい部分はあった、と指摘するのはタブーになってしまっている。というレベルの低い感情論を超えたかたちで、ハンナは本質を究めようとした。けれど、それが反発を食らった、ということだ。
けどさ。そんなのホントはみんな知ってるけど、言いづらい環境にあるから、あえて言わない、ということだよな。同じようなことは日本軍の従軍慰安婦とか朝鮮併合、第二次大戦開戦にもある。要は、右でもなく左でもなく、本質を見よう、ということなんだけど、いろんな分野でそれを避けている。映画界も、いまだにドイツ軍=悪の権化、みたいな話が毎年のように繰り返しつくられているけれど、それでいいのか? みたいな提言があるのではなかろうか。これは、興味深いことではある。
とはいえ、別にナチを擁護しているわけでもなく、真実を追究しようとする研究者に、あんな態度で接するのか? ユダヤ人およびユダヤ人社会は傲慢すぎるし、話のレベルが低すぎる。だから、後半のハンナに対するユダヤ人の反応が、バカバカしくて拍子抜けしてしまった。まあ、映画化のために話を単純化しているというのはあるのかも知れない。けれど、あんなレベルで思想とか哲学とかいってるのか? な感じ。
そもそも社会全体がひとつの考えで走り始めてしまうと、それに抗うのはなかなか難しくなる。異を唱えれば逮捕され、死刑になるかも知れない。ナチの中にも日本軍部の中にも、暴走だ、と思っていた人はいたわけで。というか、大半はヤバイと思いつつも、止めようがなかった、ということがあったわけで。これは社会学とか心理学の問題になるのかも知れないけど、ユダヤ人協力者の場合も同じだよな。「あの状況では、どうしようもなかった」ということでは、みな同じだろう。…というような考え方を認めないユダヤ人社会は、薄気味悪いぐらいに変だ。
・ハンナの亭主はハインリッヒというらしいけど。高卒なのに大学で教えている、以外の情報がない。出会いとかなんだとか、ほとんど分からない。どういう人なんだろう? ※公式HPによると「ローザ・ルクセンブルク率いるスパルタクス団(のちのドイツ共産党)に参加。独学でマルクス主義やシェイクスピアを学ぶ」だと。ふーん。
・シャルロットって、誰? ハインリッヒにお熱な感じの女性のようだけど、後半、ちょっと顔を出していたよな。ハンナはシャルロットに嫉妬したりしなかったの?
・ハイデガーとハンナが森を歩くシーン。ハイデガーが学長に就任したとか言ってたけど、何年のことなのかわからない? というか、あのシーンはどういう意味があるのだ? そもそも、ハンナは学生時代からハイデガーに信奉し、愛人になってしまった…らしいが、そのハイデガーとの関係が映画の中でしめる位置がよく分からない。たとえばハイデガーの戦後はどういう扱いでどういう末路をたどったのか。描いてもよかったんじゃないのかな。
イスラエルのおっさん、クルトとかいう人、あれは誰なの? ハンナは「家族も同然」といってたけど。「激論を交わしても、終わったら友だち」といかいってたのに、ハンナの記事に怒って絶縁したまま死んでしまうって…。ユダヤ人は、結局自分の利益に反する主張は無視する、耳に入らないのかもな。
過去シーンで、大学時代の同級生が映るんだけど、特に特定できる誰でもないのかね。
長身の友人(メアリー・マッカーシー)がいたけど、彼女はなんなんだ? ※Wikipediaで見たら、作家・批評家となっていた。 彼女もユダヤ? 彼女の、記事への反応がなかったような…。
ハンナがやたらと煙草を吸うシーンが印象的。講義中も吸ってたな。ははは。
渋い役者ばかりで、しかも、似たような顔のがつぎつぎと登場するので、ときどき混乱…。
偽りなき者5/27ギンレイホール監督/トマス・ヴィンターベア脚本/トマス・ヴィンターベア、トビアス・リンホルム
デンマーク映画。原題は"Jagten"。allcinemaのあらすじは「デンマークの小さな町で幼稚園の教師として働くルーカス。離婚の悲しみを乗り越え、仲間たちと狩猟を楽しむ穏やかな日々を送っていた。そんなある日、彼にプレゼントを受け取ってもらえなかった園児クララが、軽い仕返しのつもりで発した嘘が彼の人生を狂わせてしまう。“ルーカスにいたずらされた”というクララの証言を町の大人たちは鵜呑みにし、潔白を訴える彼の言葉に耳を貸すものは誰もいなくなる。町中から白眼視され、様々な嫌がらせや暴力にさらされながらも、己の矜持を貫き静かに耐え忍ぶルーカスだったが…」
こういう映画は心が不快になるので好きじゃない。けれど、だからこそ見てしまうし、憂鬱になりながらも、いろいろ考えてしまう。噂の怖さは『噂の二人』、被害者の話だけで逮捕される怖さは『それでもボクはやってない』、容疑者家族への迫害は『手紙』…。他にも似たような映画は多いだろうけど、この映画の特長は容疑者にされてしまった人物と、それまで親しくつき合っていた仲間たちの嫌悪の目、というところにターゲットしていて、司法や警察はほとんどでてこないころにある。これは功を奏しているような気がする。
両親にあまり構ってもらえないクララ。そのクララに優しく接するルーカス。クララは、ルーカスにキス(口に)したことを、咎められる。さらにルーカスへのプレゼントも断られる。これらは、幼稚園の教師としては正しいことだ。けれど、クララは傷ついた。悪いことに、クララは家で、兄にポルノ映像を見せられた。勃起した性器で、それが頭に残っていた。それで、園長に「ルーカスのちんちんが、固くなって立ってた」てなことを言ってしまう…。
そもそもみんな、悪気があってしたわけじゃない。だけど、些細なことの歯車が噛みあって、幼児の嫉妬心を刺戟し、とんでもない言葉を発せさせることになったりする。というわけで、園長が疑い、それが教師や父兄に拡がり、町に拡がり、ルーカスはクビになり、スーパーで買い物ができなくなり、逮捕され、容疑が晴れても家に石が投げ込まれ、クララが「こんなことになるとは思わなかったの…」と正直にいって和解したと思ったのに、銃弾で脅されるという、とんでもない話。
そもそも「子どもは嘘をつかない」という思い込みだけで話を大きくした園長がいて、その話を鵜呑みにした園の従業員・父兄・町の人々がいる訳だ。日本のチカンも、客観的証拠がなくても被害者の証言だけで容疑者が拘束されてしまうけれど、これと同じ。だれも冷静になれていない。園長は「他にも何かされた子がいるかも」と聴き取りをしたらしく、その様子はでてこないけれど、何人かが症状(熱が出るとかなんとかかんとか、誰にでもあるようなこと)を訴え、このせいでルーカスは逮捕されてしまう。ところが。子供たちの幾人かが「地下室に連れていかれた」と言っていることが、ルーカスを信頼する数少ない友人ブルーンによって知らされる。でも、ルーカスの家には地下室がない。これで無罪放免となるんだけど、警察が認定しても住人たちは認めないのだよな。相変わらずスーパーではモノを売らないどころか、暴力で追い出す。ひどいな。
デンマークって、わりと田舎なのだな。日本と似てるのかな。これがアメリカだったりすると、犯罪者も堂々としていて、家族も不敵だったりするんだけど。
しかし、いったん押された烙印は、簡単には取り去れない。心のなかのわだかまりは、生涯とれないだろう。地下室の件で釈放され、家に戻ってほっとしていたら、石が投げ込まれる。愛犬は殺される。相変わらずスーパーは「来るな」という。そして、クララが告白した翌年、息子マルクスの成人(?)の会が開催され、代々つづく家宝の猟銃を渡される儀式と、猟があった。集まったなかにはルーカスを迫害した連中もたくさんいるはず。なのに、ルーカスはにこやかに対応している。そんな簡単に納得し合えるのか? ルーカスも、ひどいことをした連中を許せるのか? なんて思っていたら、ひとりで歩いているルーカスの頭近くに、銃弾が…。げっ。根深いな。というラストシーンであった。
まあ、頭の中では「ルーカスは無実」と理解できても、「ひょっとして…」お思ったり、あるいは、無実のルーカスにしでかした迫害や暴力を忘れたい、と思っているはず。もう、ルーカスは、本当ならあの町では生きていけないんだよな。
個人的には、いろいろ解決したあと、カメラがルーカスの家に行き、裏に回ると、地下室への秘密の入口が隠されていた…なんていうのもアリだよな、と思ったんだけど。そういえば題名が『偽りなき者』だから、それはないのだよな。残念w
しかし、あれだけやられたら、日本なら転居するよな。いくら自分が正しくても、そうせざるを得ないところがある。そんなことではいけないはずなんだけど、疑惑のまなざしは生涯向けられつづけるはず。そんなところで住み続けたくないよな。そういえば、去年だったか、どこかの山村で村八分にされ続けていた老人が、何人かを殺して山中に逃亡…という事件が起きていた。もう転居できないという状況だと、行くところまで行っちゃうんだろうな。でも、映画の町からなら、容易に逃げ出せそうだ。
それにしても、こういう話が一般的になってくると、もう、子どもが街角で難儀していても、助けたりしない方がいい、と思えてきちゃうよな。要らぬ嫌疑をかけられるくらいなら、不親切なやつ、でいた方がいいや。
・友人ブルーンはなにをやってる人なのかよく分からないけど、ルーカスの息子マルクスの名付け親であることなどから、ルーカスを信じる派になっている。ブルーンに対する迫害は描かれてないけど、ないわけはないよな。
・ルーカスは、幼稚園に戻れたのか? でも、戻ったら、未だ不信感をもつ父兄が、子どもを預けなくなるだろうな。それと、最初に話を大きくした園長は、どう謝ったんだろう。

 
 

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