2014年6月

マンデラ 自由への長い道6/4シネマスクエアとうきゅう監督/ジャスティン・チャドウィック脚本/ウィリアム・ニコルソン
原題は"Mandela: Long Walk to Freedom"。イギリス、南アフリカの資本が入っている。ってことは、企画は南アで、スタッフを英国に頼んだということなのか? あらすじは「1918年、南アフリカに生まれたネルソン・マンデラ。青年期に大都会ヨハネスブルクで法律を学んだ彼は、黒人差別に疑問を抱き、反アパルトヘイトを掲げるアフリカ民族会議(ANC)に入党、政治活動に尽力していく。その一方で、最初の妻エヴリンとの結婚生活は破綻し、後に獄中のマンデラを力強く支えることになる2番目の妻ウィニーと再婚する。やがてマンデラはそれまでの非暴力主義に限界を感じ、過激な武装闘争に身を投じていく。各地でテロ行為を行い、ついに逮捕され、裁判で終身刑を言い渡されるマンデラだったが…」
この映画、最初から最後まで出来事が順番に並んでいるだけで、出来事の因果関係や結末、そしてどうなった…などのドラマはほとんど排除しちゃってる。だから、大河ドラマの総集編みたいにしか見えないのだよな。それと、大きな問題として「敵が見えない」というのがある。敵すなわちアパルトヘイトという制度、その制度を守りつづける白人支配階級がほとんど出てこないのだ。そんなことは既知のことなのかも知れないけど、物語には対立の要素が必要なわけで。それがないので、いまいち感情移入ができにくい。
マンデラの生い立ちも、冒頭からハイスピード。土人の儀式(成人の)から始まり、次はヨハネスブルグで弁護士になっている。えええっ! である。そんな資産家の息子だったか? 有能らしいけど、女好きで。なんかやりまくってる感じ。と思ったら、あっという間に結婚していてびっくり。相手は、店の裏で煙草を勧めた娘? あれは違う人なのかな。次の、クルマに乗せて出かける場面の娘が妻になる相手だったんだろう、たぶん。でも、仲間に反アパルトヘイト運動に誘われ、燃え上がってしまう。いるよな、そういうやつって。で、家に帰らず、女とやりまくり。闘士でリーダー格だと、モテるのね。
でもそれが妻に見つかって、別居。その後のことはくわしく描いてないけど、どうやら離婚したらしい。で、出会ったのがウィニーで、再婚。でも運動はつづけていて、ウィニーも承知の助。なんだけど、マンデラが始めた反アパルトヘイト運動って、みんなで白人専用車に押しかけるとか、今なら学生のジョークみたいなことだったんだな。まあ、それでも命がけではあるんだろうけど。そんな黒人に、容赦なく実弾を浴びせるシーンがあるんだけど、いまいちショッキングではないんだよなあ。やっぱ、敵が見えないからではないんだろうか。なぜにそこまでするのか、その主体が見えない。
ここは、白人側で大統領を支えるスタッフの一人で、のちにマンデラの部下になるような人物を脇役に据え、白人側の論理、全世界の反応に困惑する様子、そして、アパルトヘイトを辞めるに至る経緯を同時並行で描くべきではなかったのかな。そうすれば南アを支配する白人の愚かさと残忍さがより強調されたような気がするんだが。
で、とうとうマンデラは武力闘争を決意し、地下に潜る。Wikipediaでみたら、この期間は1年足らずだったんだな。そして、あの27年間の牢獄生活になるわけだ。しかし、やってたことはテロリズムだったわけで、後に「自分はテロリストではない」とか言ってるけど、言い訳だろ。ところで、なぜ逮捕されるに至ったのか、というようなことには一切触れていない。このテキトーさ。あと、爆弾作りを指導していたのは白人だったけど、あれはどんな人物だったんだ?
収監中の様子も、駆け足で。しかし、いきなり「インド人は長ズボン。お前らは半ズボンだ」といわれて凹む場面は、いったい何なんだ? 長ズボンにどんな意味があるのだ? 後に半ズボンを支給されると、仲間が「闘争勝利」なんて言うんだけど、そんなの、闘争した結果じゃないんじゃないのか? ところで、民族会議(ANC)にはインド人がいたのか。どういう絡みではいったんだろう。そして、最後はなんとなくいなくなっていた…。
妻ウィニーが逮捕された理由が、映画では分からない。あとから、どうやら彼女も闘争活動をしていたらしいけど、そういう場面は出てこない。ウィニーの闘争心が、後にマンデラとの意識のズレにつながってくるんだから、ここはちゃんと描かないとなあ。
で、27年間の獄中生活。重労働に過酷な環境…。『インビクタス』でも、過去の幽閉状態のひどさがイメージとして描かれていたけど、あれ? そんなひどくもないじゃん、とか途中から思うようになった。面会は、妻は月に1度OKだったかな。手紙は年に2回で、問題があるところは切り取られている。子どもが16歳以上にならないと接見禁止だとか、交通事故死(Wikipediaではエイズと書いてあったけどな)した最初の妻との間の息子の葬儀に行けないのも気の毒だが…。それでも拷問されているわけではない。法律通りやつているわけで、それほどひどい扱いじゃないじゃん。何年か後には島から出され、仲間との共同の大部屋暮らしになり…と、死刑もあり得たはずなのに、大きな変化だ。このまま島でのたれ死にするのか、というような思いは、だんだん薄れていったに違いない。そういう状況で、現役バリバリの若い反政府活動の闘士と刑務所の敷地内で声をかけられ、「いまは楽隠居で家庭菜園かよ」とか言われて、革命の炎がめらめらと燃えだしたのかな。
そののち、マンデラだけが刑務所に隣接する一軒家に暮らせるようになり、最後は解放される。まあ、このあたりはマンデラたちの刑務所内での反骨精神がどーのこーのではない。南アのアパルトヘイト政策に対する国際的非難が高まってきたからだ。
要するにマンデラは、シンボルのような存在だったんだろう。それは、南アの黒人たちにとっても、白人階級から見ても、スーパーヒーローだった。なんとなくスーチー女史と似てるかも。本人の実力や意思とは別に神格化され、それをマンデラも上手く利用。そこに時代の波=アパルトヘイト廃止が重なって権力を握った、というか、うまく転がり込んできた感じだ。
白人政府は、暴動の激化を、マンデラを使って抑え込もうとした。白人と黒人との共同統治という提案は、黒人にとってかなりよい条件ではなかったはず。で、白人政府側からその提案を受けたマンデラは、刑務所に住むかつての仲間に諮るんだけど、仲間はみな反対。全面勝利意外はない、という立場なんだよな。気持ちは分かるけど、命がけで白人側と戦い、逆に、何度も鎮圧され圧殺されても、"戦う"しかないというのは、どうなんだろう。やっぱ、政治力が欠如してるんだろうな。駆け引きなんかも理解できないんだろう。
他の仲間は、まだ闘争したがっていた。白人に復習したがっていた。それを回避するために、白人側からマンデラに持ちかけられた、な感じだな。マンデラは他の仲間の反対を無視して、「自分は正しいと思うことをする」と言って交渉のテーブルに着く。まあ、あれで昔の仲間とは決別したとみていいのかな。で、白人側では、すでに過激思想を捨てたマンデラを利用したって感じか。当のマンデラは、でも白人の言いなりにはならないぞ、な感じで様子を窺っているみたいな感じ。頭脳戦だな。
結局、マンデラはANCの代表として白人と交渉し、共同統治には同意しないけど、国民にたいしてテレビで平和を訴える。恨みによるリベンジはやめろ、と。これによって国家の安寧秩序は守られ、(いつから黒人も一票の権利を得たのか説明はなし)投票によって大統領に選出される。…って、なんか、うまくやったな、な感じ。若いときは血気盛んだったけど、老いて、交渉ごとが巧みになったのか、マンデラ。でも、27年間収監されたとはいえ、マンデラは家族が白人に殺害されたわけではないんだよな。怒りを抑えるのは、他の、家族を白人に殺された黒人たちより、やりやすかったんじゃなかろうか。などと思ったりして。
いっちゃなんだけど。世界的な反アパルトヘイト運動が湧き起こり、それにうまく乗ってしまった、のだろう。ただし、そういう描写はいくつかのニュースフィルムは挿入されるけれど、四面楚歌な白人政権のうろたえ状況などは描かれない。なので、最初に書いたように、白人政権の誰かを主役に準ずる役で描き込めばよかったんじゃないの? と思ったのだ。そうすればもっと心理が描けただろうし、図太さ、ハッタリの強さ、偶然が重なってマンデラのがヒーローになった様子が伝わったんじゃないかと思う。いっぽうで、白人政権側のビビリ具合とかも見えただろうに。マンデラだけ描いても、伝記にはなるだろうけど、映画にはならないよ。
しかし、白人側が共同統治を提案し、ほぼ権力を移行させると決定した後も、様々な争いがつづいたのはひどすぎる。とくに部族間闘争があったとは知らなかった。まるでルワンダのツチ族とブツ族の惨劇ではないか。ああいうのを見ると、やっぱアフリカ土人って自分たちの利益に執着して相手を抹殺するのだな、それって遺伝的なのか? なんて思ってしまう。
テロリストのリーダー格から全世界が賞賛する存在になったマンデラ。闘争をつづけたがった妻ウィニーとか、同じ刑務所に入っていたかつての仲間は、その後、どうしたんだろう。すごく気になる。
・大統領選に出る辺りから、マンデラの周辺に黒人SPが見えてくるようになる。あれ、いつのまに? だよな。どうやって育成したんだろう。 ・白人の高官たちは、マンデラが大統領になったら自分たちは殺されるかも知れない、と思っていたらしい。まあ、さんざんひどいことをしてきたんだから、いまさらな、な気もするけど。まあ、日本軍だって中国で同じような心境だったんだろう。
・部下が密会の写真みたいのをマンデラに見せてあたのは、妻ウィニーの浮気? でも、マンデラは、付き合ってる相手はいる、と知ってたんじゃなかったのか? その人物とは別なのか?
・最初の妻と早世した息子が不憫。マンデラの浮気が原因だものなあ。
・白人と戦い、妻とも戦い、仲間を切り捨ててノーベル賞まで授賞したマンデラ。彼自身が偉大かといわれると、そうでもないよな、と思える2時間30分だった。
K2〜初登頂の真実〜6/6ヒューマントラストシネマ有楽町1監督/ロバート・ドーンヘルム脚本/Mauro Graiani、Riccardo Irrera、Paolo Logli、Alessandro Pondi
2012年、イタリア製作。原題は"K2 - La montagna degli italiani"。IMDbを見たらTVムービーのようだ。allcinemaの解説は「1954年、イタリアの登山隊がこのK2の初登攀に成功する。しかし、その偉業の裏では、初登頂の栄誉をめぐるメンバー間のきな臭い軋轢が生じ、後に裁判沙汰にまで発展する。本作は、遠征隊に最年少で参加し、2004年になってようやく名誉を回復された登山家ワルテル・ボナッティと2人の頂上アタック・メンバーとの知られざる確執を軸に描いた実録山岳ドラマ」。
卑近に見た山岳映画って『アイガー北壁』かな(なんか、もうひとつあったような気がするけど、忘れた)。悲惨な映画だったけど、寒さ辛さがつたわってくる映画だった様な気がする。それに比べると、この映画の のほほんぶりは なんなんだろう。第6キャンプも第9キャンプも同じに見えるし、アルピニストは雪原を歩くだけ。クレバスに堕ちるシーンですら、誰がどう助けるのか位置関係の分からない映像とつなぎ。滑落を手で救うシーンも、ちゃち。第9キャンプ近くでビバークする場面も、ああ、そうですか、な感じ(あのパキスタン人はどうなったの?)。極めて単調で平板なシナリオと演出で、映画的センスに乏しすぎる。そもそも、映画づくりを知らないんじゃないのか? な、感じすらしてしまう。全体を通してみても盛り上がりがなく、おまけに人物の区別もつきにくい。終わり方もぶっきらぼう。途中で飽きてきてしまうのも仕方がないと思う。もうちょいと映画的なダイナミズム、ドラマを組み込めなかったのかな。低予算なテレビドラマだから?
冒頭は、ロシア戦線。狙撃されて1人が倒れ、もう1人が救う。で、戦後になって場面は変わり、どっかのジジイが首相にK2登攀によって、戦争で疲弊したイタリア国民に希望を与えられる、とか説得している。予算獲得か? しかし、説明が足らんだろ。だいたい、最初に登場する2人は、前半でさっさと消えてしまう。だったら、何のために冒頭にもってきたんだ。ジジイは登攀プランナーの、どっかの教授でデジオというらしい。しかし、もうちょい描きようがあったろうに。どこの誰兵衛か、わからんだろ。
教授デジオがK2登攀を政府に認めさせたんだろう。メンバーを募集して、セレクション。選ばれることになるメンバーの何人かの現状を紹介するんだけど、印象に残らないことおびただしい。人間に迫らない描き方なので、セレクションや山岳シーンで、誰が誰やら区別がつかない。他に、イタリアで尊敬されているらしいヒゲの登山家が登場するんだけど、どうやらこれが冒頭に登場したイタリア兵らしい。そして、募集に応じた中に、撃たれた方のイタリア兵がいたようだ。ところが、ヒゲの登山家は静脈瘤ができやすい体質だからとメンバーには選ばれない。さらに撃たれた方の男も早々に死んでしまう。以後、2人は出てこないんだよ。なのになんで冒頭に登場させるかな。アホか。
というわけで、あんまり意味のない、死んでしまうメンバーとパキスタン人の子どもとのエピソードを挟み、ますますメンバーが誰が誰やらわからなくなる。だいたい、最後に頂上を目指したときのリーダーって誰だったんだ? 農家の娘をいてこましてたやつか? 一緒に登攀したのは、たぶん、選ばれる前に女の子と婚約した男だよな。
で。公式HPを読んでみると、こんなことが書いてあった。「初登頂を果たしたのは、アキッレ・コンパニョーニ、リーノ・ラチェデッリの二人。本来であれば、その偉業を達成した二人は国を挙げて祝福されるはずだった。しかしイタリアは「登頂は隊全体の名誉」として、長い間その名前を公表しなかった。その陰で、50年以上に亘って初登頂をめぐりクライマー達の思惑、そして名誉を懸けた訴訟が繰り広げられていた。果たして1954年のイタリア隊によるK2初登頂の陰に何があったのか? 世界第2位の高峰初登頂の記録が公になるとともに、隠されていた事実は明らかになり、アキッレ・コンパニョーニ、リーノ・ラチェデッリの名前が世界に知れ渡ることとなる。結果的に54年のイタリア隊はK2初登頂に成功したが、頂上アタックにおけるメンバー間の齟齬はヴァルテル・ボナッティを精神的に傷つけることとなってしまう。デジオ教授による下山後の登山報告書や、登頂から10年後のマスコミの報道などで、K2初登頂におけるボナッティの役割が歪曲して記録、報道されたことが発端で、50年以上にわたりヴァルテル・ボナッティは裁判で争い、初登頂から54年後にようやくK2登頂における事実が認められた。2004年にはCAI(イタリア山岳会)の公式見解も訂正され、名誉回復がなされた」」…だと。そんなこと、画面からじゃまったく分からんぞ。
ボナッティの視点が一番重要なら、最初から彼を主人公に据えればいい。なのに彼の登場はたぶん、セレクションに集まったなかの、ひょうきんなやつ、っていうのが最初ではなかったのか。「最年少のボナッティ」とも書かれてるけど、画面からはこれも分からない。じゃ、あのナレーションはボナッティのものだったのか…。やれやれ。
で、ちょっとドラマが見えてきたのは、最後に頂上を目指すとき。デジオ教授はリーダーに、一緒に頂上をめざすメンバーを選んでいい、と言われる。もっとも技量があるのはボナッティ(?)だけど、人間として扱いにくい。なので、婚約男を指名して、2人で第9キャンプ設営地の赤い岩を目指す。ところがリーダーは、「ここは安全じゃない。もっと上にいこう」と婚約男に言い、上に向かう。あとからボナッティとパキスタン人が酸素ボンベをもってやってくるんだけど、あるべき所に第9キャンプがない。もう夕闇。リーダーは2人の存在を知りながら、自分たちの場所を教えなかった。婚約男が責めると、「上った者だけが記録に残る。そして賞賛される」と言い放つんだけど、そういうやつだった、という伏線はどっかにあったのかな? そもそもリーダーが誰だかよく分からんのだが…ははは。
ボナッティとパキスタン人はビバークし、かろうじて死なず下へ。リーダーたちは残された酸素ボンベを拾い、頂上へ…。というわけで、ボナッティは、ハメられた、という思いがあった、ということは分かるんだけど、↑のHPにあったような背景までは、分かるわけがない。酷い映画だ。
というわけで、脚本もひどいし演出もダメ。なんでこんな映画が、と思って調べたらテレビ映画だったというオチ。まあ、テレビ映画でも、このひどさはないよな。セリフなんか、くどすぎるほどくどい。でも、全体はよく分からない。
・第二次大戦後の、敗戦国の国民高揚政策の一環だったのね。K2登山。しかし、成功後、デジオとか他のメンバーが、K2はイタリアのものだ! とか叫ぶのはどうかと思った。やっぱ、アラブ人をバカにしているとしか思えなかった。
・途中、当時写された映像が挟まれたりするのは、リアリティがあってよいと思う。
ラスト・ベガス6/9新宿ミラノ2監督/ジョン・タートルトーブ脚本/ダン・フォーゲルマン
原題は"Last Vegas"。allcinemaのあらすじは「ビリー、パディ、アーチー、サムは悪ガキ時代からの大親友4人組。ある日、4人の中で唯一独身を貫いていたビリーが、若い恋人とついに結婚を決意、ラスベガスでバチェラー・パーティよろしく独身最後のバカ騒ぎをしようと他の3人に久々の招集をかける。パディは妻の葬儀にビリーが欠席したことを今も根に持っていたが、アーチーとサムに説得され渋々参加する。ところが、いざラスベガスに来てみるとホテルはどこも満室。すっかり予定が狂うも、アーチーがいきなりカジノで大勝ちし、ホテルの高級スイートに泊まれることに。そのまま景気よくクラブに繰り出し、若い娘をナンパしようと張り切る一行。最初はその輪にも加わらず、終始浮かぬ顔だったパディも、次第に穏やかな気持ちを取り戻していくが…」
仲間の一人が結婚するので、バチュラーパーティをラスベガスで、という設定は『ハングオーバー!』とまったく同じ。よくも恥ずかしげもなく、と思ったけれど、役者が超豪華。
ビリー(マイケル・ダグラス 1944生)
パディ(ロバート・デ・ニーロ 1943生)
アーチー(モーガン・フリーマン 1937生)
サム(ケヴィン・クライン 1947生)
マイケル・ダグラスとデ・ニーロは役とほぼ同じで、もう70歳になるのかよ。モーガン・フリーマンって77歳! それにしても、『エクスペンダブルズ』の例もあるけれど、近ごろは大物俳優を何人か揃えないと客は集まらないのか?
『ハングオーバー!』と少し違うのは、みな多かれ少なかれ病気もちであまり飲めないということ。というわりに、ちょこちょこ飲んでるんだけどね。でも、我を忘れるほど飲むことはない。薬も飲んでるし…。なんていうと、『スペース・カウボーイ』を思い出しちゃうな。あれもジジイたちの冒険譚だった。
結構よくできた脚本で、バカ騒ぎのおふざけも面白いけど、過去の恋物語に現在の恋物語が重なり、ちょっともの哀しい展開もあったりする。4人の性格もよく描き込まれていて、大人で計算づくのところがあるビリーと、いまだに子どもなバディの関係も面白い。でも、本筋はそれかも知れないけど、アーチーのはっちゃけぶり、サムのエロオヤジぶりも楽しい。
バディの妻はソフィ。実は4人組のアイドルで、ビリーとバディが争い、バディの妻となった…。その葬儀にビリーが来なかった、とバディは臍を曲げてるのだけれど、実は…というのがミソ。
で。ラスベガスでも似たようなことになる。クラブ歌手のダイアナ(メアリー・スティーンバージェン)にビリーとバディが一目惚れ。ビリーは2日後には30歳そこそこの娘と結婚するというのに! ここでビリーは考えた。「おれは本当に若い娘と結婚するべきなのか? 彼女を好きなのか? 身の程知らずではないのか。幅広くビジネスを展開している自分の、虚勢の部分はなくはないか?」と。そんなビリーにダイアナも惹かれるんだけど、猪突猛進のバディは「彼女は俺に惚れている」みたいにしか考えられない。…ということが過去にもあって、ソフィーもビリーが好きだったけど、ビリーは「君はバディに相応しい」と一歩引いて譲ったらしい。まあ、ビリーがそんな謙虚には見えないんだけど、まあいいか。
という事実を知り、妻が死んで1年、そろそろ彼女が欲しくなってきていたバディは打ちのめされるけど、でも、過去のこともあるし。まあ、また仲よくやろうや、なハッピーエンディング。
若い娘と一発やるんだ、と意気込んでいたサム。気の合った娘と寸前まで行ったんだけど、「これまで楽しいことはみな妻に話してきた。だから楽しかった。それができないなんて…」と、セックスしないんだよな。なんだよ、な話だけど、娘の方も「あなたみたいな男と結婚したい」って、まあ、美しい話にしちゃってるねえ。嘘こけ、だけど。そもそも妻がコンドームとバイアグラくれての公認のラスベガスだったのに!
アーチーのダンスがカッコよかった。「踊れるのがない。みんな同じ曲に聞こえる」とか文句言ってたのが、若い子に「踊りましょう」といわれ、フロアに出て昔風のダンスを。すると、いろんな女の子が代わる代わる相手して…の、大人びた対応が素敵だった。
その後、もちろんビリーとダイアナは結婚、か同棲か。バディは、あれは近所のおばちゃんに料理を習っているのかな。アーチーは相変わらずで(どうも心臓の病気の不安もあるらしい)。サムは、久々に妻とセックス! やれやれな感じだけど、年寄りは年寄りなりに身の程をわきまえ、マイペースで老後を過ごそうキャンペーンみたいな終わり方になっていた。まあいいけど。
・アーチーが出発するとき、二階の窓から飛び降りる? と思わせて実は一階…とか、古典的なギャグも笑えた。なにしろ、ダイアログがよくできていた。
・フィフティ歌手?は、有名なのか? まったく知らない。
・ビリーが若い婚約者に別れ話を告げるとき、アーチーとサム(バディもいたっけ?)が近くで見ているんだけど、一緒にいた女の子2人の名前がともにマディスンで、「じゃあマディスンズだ」とかいうんだけど、あれは『マディソン郡の橋』となにか関係があるのか、それとも別のマディスンなのか?
・大事なことをいうときは、アイコンタクトが大切、なのね。
・メアリー・スティーンバージェンの歌うスタンダードが、いい感じのアレンジになっているんだけと。あの歌は、彼女が本当に歌っているのかな?
鑑定士と顔のない依頼人2/4ギンレイシネマ監督/ジュゼッペ・トルナトーレ脚本/ジュゼッペ・トルナトーレ
原題は"La migliore offerta"、英文タイトルは"The Best Offer"。2度目。イタリア映画だったのね。
ひょっとしたら、二度見て「なるほど」な場面があるのかなと思ったけれど、それはとくになかった。なので、途中から寝てしまって、後半はちゃんと見た。でも、1回目のときのような緊張感はなかった。
最後のパート。一回目のときは時制が曖昧だ、と思ったんだけど、今回は納得できた。ショックでやつれ、病院に入った ヴァージル。そこに、秘書が手紙の束をもってくる。そこからは、回復のためのトレーニングの様子と、クレアとの情事のイメージが交錯する。そして、凜とした姿でウィーンにたどり着く。そうか。あの手紙の中には、クレアからのものがあったのだ。そして、ウィーンで再会しよう、と書かれていた。だからヴァージルは、体力をつけた。再会して、セックスしてもいいように。だから、情事の妄想が渦巻いた。そして、堂々とウィーンにやってきた。待ちあわせの店に到着し、席に着くと、「連れが来る」といったのは、クレアが来るからだ。店が時計で満たされているのは、ヴァージルの時計が巻き戻されたから、なのではないかな、と。
メイジーの瞳6/18ギンレイシネマ監督/スコット・マクギー、デヴィッド・シーゲル脚本/ナンシー・ドイン、キャロル・カートライト
原題は"What Maisie Knew"。allcinemaのあらすじは「ロック・シンガーの母スザンナと美術商の父ビールが離婚し、6歳のメイジーはそれぞれの家を10日ごとに行き来することに。そんな中、父は元々ベビーシッターだったマーゴと再婚。メイジーにとっても優しいマーゴの存在は安らぎをもたらしてくれた。すると、母も対抗するようにバーテンダーのリンカーンと再婚。格好良くて優しいリンカーンにメイジーもまんざらでもない様子。いつしか本当の両親は自分たちのことにかまけて、メイジーの面倒はもっぱらマーゴとリンカーンが見るようになるが…」
思うに、母親がひどすぎる。あんないい加減な母親いるのかね。子供が嫌いだからほったらかし、はいるだろう。でも、自分のものにしたくて元夫と争いながら、なのにほったらかしにするような母親って、なんなんだ。って話だから、母親の設定をロッカーにしたのか。ロックやってる連中はいいかげんなやつばかり、という根拠なきステレオタイプから生まれたのかね、この設定は。
そもそも画商のビールとロッカーのスザンナが知り合って結婚した経緯が分からない。子供までつくったんだから、しばらくはうまくいってたんだろう。それが、すれ違いになった、と。にしても、裁判でも不利な状態にいるんだから、やっぱりスザンナはダメ母だろう。
スザンナに比べてまともかな、と思っていたビール。こちらも途中からテキトーさを発揮しだす。子守のマーゴと再婚してその新婚旅行から、予定通り帰ってこない。そのせいで、スザンナの新しい夫が世話することになったりする。スザンナもビールも、自分が世話できなかったら誰かがやるだろう、みたいなところがあって、どう考えても変。
まあ、そういう設定にしないと、取り残された少女の孤独な様子が描けない、のかも知れないけれど。そうなのか? 離婚した両親をもつ子供たちは世の中にたくさんあるんだから、もっとフツーに近い状態で、でも、親から邪魔者扱いされる、というような設定の方が納得しやすい気がする。この映画みたいに、両親に溺愛されながら、両親がいい加減、というのは、どうも素直に受けとりがたい。
最初は離婚していなくて、いやにキレイな子守が家の中にいるな、という違和感があったんだけど。途中からマーゴがその存在感をフルに発揮し出す。なんと、離婚後のビールと結婚! まあ、すでに出来ていた、というのは思いっきり納得だけど。いっぽうのスザンナも、ミュージシャン仲間なのか? それとも単なるバーテンダーなのか、よく分からないけど、リンカーンという若い男と再婚する。のだけれど、女は離婚後、半年は結婚できないのは日本の法律だけれど、彼の地にはそういう法律はないのだろうか。どうも、さっさと再婚しているようなんだけど。
スザンナは、ツアーに行くからと、メイジーを邪魔者扱い。そして、ひとりでリンカーンの店に行かせる。って、ひどい母親だ。でもリンカーンは休みで、つかまらない。同僚の誰かの家に泊まって…翌日、リンカーンがやってくるんだっけかな。忘れた。
そんなこんなで両親が世話をしないから、マーゴとリンカーンが世話をするようになり、彼ら2人も話をするようになる。そのうち気が合うようになって、マーゴは実家(といっても姉の家? しかも、売りに出しているところの家)にメイジーを連れていき、そこでしばらく過ごすようになる。そこにリンカーンもやってきて。まるで新しい両親の元で幸せに暮らすメイジー、てな雰囲気になってくるんだけど。そこに、ツアー途中のスザンナがやってくるんだけれど、メイジーはスザンナのところに行こうとしない。実の母親より、マーゴとリンカーンとの生活を選択したというわけだ。
以降は、ちょっとイメージビデオみたいな感じになるんだけど、まあ、このまま新しい家族ができる、みたいな雰囲気ではあった。ラストをよく覚えていないんだけど、曖昧なまま終わるんだっけかな。実際、メイジーを引き取るとしたら法的な手続も必要だろうし。いったい、どうなったんだろうか。と、少し心配な気もする。なので、ちゃんとケジメのつくような終わりかたにして欲しかった、んだけどね。
・迎えに来るシーンで、スザンナかビールか、どっちが本来迎えに来るべきだったのに、来なくて、それで争ってるような場面があったんだが。説明が足りないのか、どっちが来るべきだったのか、よく分からないシーンがあった。
・リンカーンが急な仕事でバーにいかなくちゃならなくなって。思い立ってマーゴの所に預けに行ったら、彼女も締め出し食ってる場面があった。部屋の所有者として登録されていないので合鍵で入れてくれない、とかいう話だったと思うんだが、意味がよく分からなかった。あの部屋はビールとの新居なんだろ? なのになぜ入れない? ああいうのは一般的なことなのか。あのアパート特有のことなのか? よく分からない。
・ビールはイギリス出身の画商らしい。そのせいか、イギリスに行ったりすることが多くなり、メイジーを連れて移住する算段だったようだ。けれど、どうもうまく行かず、マーゴにまかせっきり。なんなんだ、おい、父親失格だろ。
ノア 約束の舟6/19新宿ミラノ2監督/ダーレン・アロノフスキー脚本/ダーレン・アロノフスキー、アリ・ハンデル
原題は"Noah"。allcinemaのあらすじは「ある夜、ノアは恐ろしい夢を見た。それは、堕落した人間たちを一掃するため、地上を大洪水が飲み込むというものだった。これを神の啓示と悟ったノアは、妻と3人の息子たち、それに蛮族に襲われ負傷しているところをノアに助けられ養女となったイラと共に、人間以外の生き物たちを守る箱舟の建設を開始する。やがて舟の完成が近づくと、どこからともなく現われた生き物たちが次々と舟に乗り込んでくる。そんな中、かつてノアの父を殺した宿敵トバル・カインが、舟を奪うべく群衆を率いて現われるが…」
なんか、ノアの方舟の話にしてはスケールが小さいし、迫力もなかった。まあ、ミラノ2のスクリーンだったせいかも知れない。もっと前の方で見れば、洪水のシーンも圧倒的な迫力だっのかも知れない。
冒頭で、アダムとイヴ以来の系譜が知らされ、ノアの父親レメクがトバル・カインに殺されるのだけれど。見ていて不思議に思ったのは、そのカイン一族ももともとはアダムとイヴの子孫であって、血族じゃないか。要は、同族同士の殺し合い、いさかいは、はるか昔からあったということなのね。というわけで、聖書はよく知らないのだよ。ははは。
ノア一族は、他に仲間がいないのか、的な状況で暮らしている。一家族だけなのか? そして、動物も殺さず、植物にも慈しみを感じながら暮らしている。じゃ、お前ら、何を食って生きているんだ? カイン一族は、飢え死にしそうなほど食糧が欲しいから、ノアと対立している、とも言える。なのに、ノアは何を食っているんだよ!
見張り番人というのが出てくる。カイン一族と一緒に戦っているところも出てきたけれど、どうも、人間にいい感情はもっていないようだ。なのに、結果的にはノアの手助けをして方舟作りに労力で参加する。って、どういうこっちゃ、だよな。まあ、仲間が少ないノアだから、見張り番の手を借りなくては方舟も作れない、だったのかも知れないが。
しかし、あんなでかい船をつくっているのに、カイン一族はずっと気がついていなかったのね。不思議。
ノアには息子が2人いて、兄は結婚相手がいた。かつて、傷ついた少女を助けたことがあって、彼女が妻になった。でも、子宮を傷つけているので、子孫がつくれない、という設定。弟は、セックスの相手もいないので、欲求不満になっている。カイン一族の支配する集落に行き、追われて死体置き場に捨てられていた少女と知り合いになり、彼女を救って嫁にしようとしたんだけど、逃げるときに彼女がワナにかかって動けなくなる。ノアは、弟を助けるけれど、少女は見殺しにした。そのせいで、弟の方は父ノアをずっと恨む。…という、下半身に関する話は、ちょっと笑えて面白かった。やっぱ、やりたいサカリに女がいないと困るわけだ。せっかくやれる相手を見つけたってのに! 「兄ちゃんにはイラがいる。父ちゃんには母ちゃんがいる。おれには、やる相手がない!」というのは切実な問題だ。ははは。
あとは…ええと、動物たちにはどうやって連絡したのかとか、動物の中でひとつがいはどうやって決定したのかとか、魚は数多く生き残るから他の生きものと違ってフェアじゃないなとか、鳥だってたくさん生き残るんじゃないかとか、かなりたくさんの動物がやってきていて、ひとつがいだけじゃなくて、複数乗り込んだ動物もいるんじゃないのか? とか、邪推いろいろしてしまった。
で、洪水と嵐は、ミラノ2の画面では迫力がいまいち。穴から乗り込んだカインを弟が助ける件では、やっぱ、セックスできない恨みは深いな、と思った。
で、なんとノアは、人間を助ける遺志はなくて、諸悪の根源たる人間を根絶やしにするつもりであったことを告白する。へー。それは新解釈? 以前にもあったのか? 知らないけど。つまり、ノア夫婦はそのまま死んでいく。兄の妻は子供が産めない。弟には女がいない。というわけで、嵐が去って水が引いたら、自分たち人間も死に絶える覚悟だったという。って、身勝手すぎるだろ。そういう覚悟なら、さっさと自分から死ねよ、な気分。
ところが、イラの子宮は回復して(これは、ノアの祖父の力だったっけかな? 忘れた)、なんとご懐妊。それを知ったノアは、生まれてきた赤ん坊を殺せ、と命じる。ご無体な。だったらお前が先に死ね。と思って見ていた。
まあ、結局、生まれ落ちた孫を殺すことができずに、人間を生きながらえさせるのだけれど、なんだい、そんな勝手なことがあるかよ、だよな。だって、洪水が始まって、いくらでも助けられる人間がいたのに、みな見殺しにした。なのに、自分の孫は助ける。理屈が通じないだろ。おい。ノア。何とか言って見ろ。な気分。
で、途中からつくづく感じたのが、これは宗教映画だっていうことだ。日本でも宗教団体がつくったアニメとかなんだとか、いくつもある。他にも、「日本誕生」とかヤマトタケルが登場する神話の映像化があるけど、あの類だな、と思ったら、萎えた、というか、冷めた。他には、そうだなあ。丹波哲郎の「大霊界」とか、そういうのとも似ている。やっぱ、そういうのは、映画としてはどうしても二流になるね。モチーフをノアの方舟にとり、現実味を加えたアクションに仕立て直すとかしないと、不特定多数を対象にした映画にはならないのかも。
で、兄とイラの間には、双子が生まれた。それで、子供を産むことができる女は、数少ない。いったい、ノアの孫は、だれとセックスするんだろう? 生き残った人間はノア夫婦、子供2人、イラ、その子供2人しかいないんだから、これから後は近親相姦だ。どういう関係で子供が生まれ、増えていくんだろう、と興味が湧いた。それにしても、ひとり旅だった弟は、どっかで女をみつけることができるのか? 理屈では、他に人間はいないはずなんだけどね。
オー! ファーザー6/20ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/藤井道人脚本/藤井道人
WB配給らしい。なんで? だけど。あと、吉本興業の製作だった。げ。allcinemaのあらすじは「知事選で盛り上がるとある地方都市。一見普通の高校生・由紀夫には一つだけ大きな悩みがあった。それは、母親が4股していたせいで父親が4人いるということ。しかも4人全員といまも同居しており、みんなで協力して和気藹々と母が不在がちな家を守っていた。そんなある日、由紀夫はサラリーマン風の男のカバンがすり替えられるところを目撃してしまう。これをきっかけに、由紀夫の周囲で不可解な出来事がいくつも発生し、やがて由紀夫の身にも危険が迫ってしまうのだったが…」
1週間ぐらいしか経っていないのに、もう記憶が薄れてきているよ。困ったもんである。
分かりにくいようで単純で、でも、なんかスッキリしない終わり方だったような気がする。それと、いろいろ偶発的なことが多く、その偶発を契機として話が始まったり展開したりするので、理詰めという感じもしない。ラストも、え? それで終わっちゃっていいの? な収束の仕方で、それって問題は解決してないじゃないか、な話になっている。もやもやが残る話だ。
設定として、父親が4人いるというのは、話にとってまったく重要性はない。たんに設定を面白くしようとしているだけの話。ということは、話自体は大したことがない、ということなんだけど。
でそのカバンは知事候補の番頭か何かのもので、その番頭をゲーセンで色仕掛け下した女と、カバンを持ち去った男はグルで、のちに死体(心中事件として)となって発見される。カバンの中味は、何だっけ。金だっけ。それはさておき、由起夫たちがたまたま行ったゲーセンで、たまたま見かけたその瞬間、が発端になっているわけだ。そのゲーセンの経営者は富田林さん(柄本明)で、地元のヤクザっぽい。…という話と、由起夫の同級生が不登校になって、彼を訪ねて学校からの連絡を持って行く、というのが平衡して進んでいく。でこの訪問も、同級生の多恵子が依頼されたもので、彼女が由起夫に「一緒に行ってくれ」と頼み込んでの同行。これも偶然。あと、同級生にだらしないやつがいて、そいつが富田林から頼まれた荷物運びを、遅刻してしくじり、富田林の手下に痛めつけられそうになる、のを助けるんだけど。ちょうどそのときパトカーがやってきて、近くで死体(カバンを持ち去った男)が見つかった、と。それで手下ともめ事にならずに済んだんだけど、これも偶然だ。
で、もうひとつ、富田林が引っかかったというおれおれ詐欺があって、その犯人を見つける約束で、だらしない同級生の許しを請うことになる、という複雑な絡みをつくっているんだけど、本質とはほとんど関係ない。
由起夫と4人の父親は、それぞれの能力や人間関係を活かして、それぞれを解決しようとする。そして、由起夫は、4人の父親からの教えを守って、解決まで進んでいく。まあ、ここら辺がキモなんだろうけど、だからどうした、な話。
要は、知事候補に恨みのある男女が知事を殺そうと企んだ事件で。男はスナイパー他を雇い、チャンスを狙っていた。男女は同級生の家に立て籠もり、それで同級生は登校できなくなっていた。そこに由起夫がやってきて、「すべて知っている」なんてハッタリをかましたせいで、由起夫も同室に囚われの身となる。さて、どうするか。4人の父親の誰だったか忘れたけれど、由起夫が囚われていることを推理→4人のうち大学教授がクイズ生番組に出演→番組内で、4人が手旗信号で質問を発する→同時刻に由起夫に電話して、その背景に番組の音声が聞こえるかどうかで、番組を見ているかどうかを確認→電話口では、犯人に分からないような質問の仕方で、犯人の数、銃の有無などを応えさせる→翌日、4人が部屋に入って由起夫たちを救出…という流れ。ドアを開けられたのは、隣家の主婦と父親の1人が知り合いになれていたから。というのも、数日前に女性がクルマから蹴出されていて、その女性を救ったんだけれど、彼女はたまたま同級生の隣室だった、という偶然!で、彼女に醤油を借りたり返させたりして調べていた、という。
で、突入して犯人は捕まったんだけど、犯人の男女の恨みは晴らせなかった分けだ。…えーと。どういう恨みだったか忘れてしまっている。内容的には知事候補が悪いような気がした。でも、その知事候補は、悪い奴ほどよく眠る、のままで生きながらえた。犯人は、事件を起こしたのは悪だけれど、恨みは果たせていない。だから、その恨みを最後に果たすのかなと思ったら、しないのだよ。おい。それじゃスカッとしないだろ。それでいいのかよ。というわけだ。
あー、そうそう。富田林さんの仕事を寝坊してしくじった件は、チャラになった。なぜなら、富田林は、スナイパーに銃を届ける、という仕事を依頼され、同級生のだらしないやつに依頼した。でも、寝坊したせいで仕事にならず、でもそのせいで、銃の供給先として警察から追求されることがなくなって、結果オーライ。ということだ。
というわけで、いまいちピリッとしない話で。見終わってもすぐに話の展開を忘れそうになってしまっても、致し方ないかな、な感じ。
・カバンを盗んだ男女は、犯人に雇われたんだっけか? で、殺される必要はあったのかな。
・富田林さんの手下の男が、妙に不思議な味を出していた。
・男4人に愛されている由起夫の母親は、後ろ姿しかでない。でも、前半で額に入った写真で登場していたのだった。ちらっとしか見えなかったけど
美しい絵の崩壊6/23新宿武蔵野館2監督/アンヌ・フォンテーヌ脚本/クリストファー・ハンプトン
原題は"Adore"。敬愛する、崇敬する、〜が大好き、あがめる、なんていう意味だ。ふーん。allcinemaのあらすじは「オーストラリア東海岸のビーチ・タウン。美しい入江に建つ2つの家。暮らしているのは幼い頃から強い絆で結ばれ、同じように年を重ねた大親友のロズとリル、そしてそれぞれの同い年の息子トムとイアン。息子たちもまた、母親たちと同じように強い友情を築き、長年にわたって家族ぐるみの付き合いが続いていた。いまや息子たちはたくましく、そして美しい青年へと成長し、そんな彼らをロズとリルも誇らしく見守るのだった。ところがイアンは、親友の母親ロズに対して知らず知らずのうちに強い恋心を抱くようになっていた。そしてある夜、気持ちを抑えきれなくなったイアンと、彼の純粋な想いを拒絶しきれなかったロズは、ついに結ばれてしまうのだったが…」
いやあ。この映画、でてくるやつらはみんな異常者だな。近親婚ではないから禁断の恋ではないかも知れないけど。それで互いに了解しつつ過ごせるなんて、かなり異様。そんな関係が成立するのが、どうも納得いかない。
最初は、イアンがロズ(ロビン・ライト/1966生)に惚れた。トムは仕返しにリル(ナオミ・ワッツ/1968生)を誘った。…ということだよな。けれど、亭主がいるロズが色狂いになる理由が、よく分からない。欲求不満になっていた訳ではないだろうに。むしろ、亭主が事故死して以来、男関係がなかった風なリルがつい若い男に…なら分かるんだけど。というわけで、2人とも互いに相手の息子と関係していることを知りつつ、喧嘩になったり侮蔑したりすることなく、良好な関係をつづけていく。この神経。共感なんかできっこない。
ロズの夫は演劇が専門で、シドニー大学に教職を得て移住するつもり。息子トムも大学に入れるつもり。だけど、ロズは転居を拒否。生ぬるい関係をつづけたいからに他ならない。そのうちロズは離婚され、夫はシドニーで妻をめとり、子供も生まれる。という状況でトムがシドニーに行って、父親に演出を学ぶのだから、トムは大学には行ってないんだよな。違うか? で、この頃から、その関係はやめよう、ということになったようだ。けれど、実は不定期にトムとリルはつづけていた、と後から分かる。
まあ、細かいいきさつはよく覚えてないけど、トムはシドニーで役者志望の娘と関係をもち、結婚することになった。イアンも、なにかのパーティで知り合いになった、いかにも田舎っぽいダサイ娘と結婚する。孫もできて、両家族で仲よく海岸へ水浴びに行くんだけど、トムがリルと関係をつづけていたことを知って、イアンがロズに怒りをぶつける、んだっけかな。なんで俺たちはしちゃいけないんだ! みたいなことを。それを、トムの妻に聞こえるように怒鳴り、イアンの妻も知るところとなって、2人の妻は子供を連れて去って行くんだったよな。トムの妻は嫌悪を露わにしつつ、だけど、イアンの妻は現状が把握できず戸惑いつつ、というのが少しおかしかった。イアンの妻は、ほんと田舎者という設定なんだな。
なわけで、またしても4人だけの生活になり、ゆるく淫らな関係をつづけていく…という終わり方。にしても、毎度、4人で海岸をうろうろしていて。息子が互いの家に泊まり合っているのに妙な噂がたたないのが不思議。そういえば、昔からいつも集合するのはロズの家で、イアンもロズの家に泊まってばかり、という関係だったのはなぜなんだろ。リルの孤独が一層強調されるような気がするんだが。意味あるのかな。
欲をいえば、淫らさと気怠さが漂っていれば、もうちょいと魅力的だったかも知れない。かといってナオミ・ワッツが乳だしする筈もなく、エロさはかなり削がれてしまうのだけれど。ということは、もっと見た目がエロい女優が演じた方がよかったのかな。
・イアンとトムは、大学はいかなかったのかな。リルは、設計事務所みたいなのに勤めているのか? いいよってくるハゲ親父は社長か? 事業のパートナーなのかな。イアンがのちに入社してて、他の社員から「さん」づけされていたけど、リルはやっぱり経営に参画しているのかな。トムの方は、大学に行ってないようなのに、いきなりシドニーで演出ができちゃうんだ? 父親の七光りか。
・ロズ役のロビン・ライトの方が、ナオミ ワッツより年上なんだな。でも、身体はきれい。顔のシワも少ない。ナオミ・ワッツは相変わらず美しい輪郭をしているけど、頬が少し垂れていたり、シワも多い。老けメイクなのか。リアルに型崩れしているのかな。ともにスタイルは素晴らしいけど。
・イアンが結婚する相手がフツーな娘なのに驚いた。地元にまともな女の子はおらんのか。あと、彼女が「妊娠したの」と告白するのはミエミエの展開。
・トムが若い娘に手をだし、結婚までしてしまう展開はいささか強引すぎ。ラストてああなるなら、結婚なんかしなきゃよかったのに。トムが、結婚したいと思ったのは、もしかして偽装なのか?
・ロズの亭主も、妻がシドニーに来てくれないとなると、さっさと離婚して再婚して子供まで作っちゃう。どういう倫理? セックスの相手が欲しかっただけだな。
・しかし、やっぱり思うのは年の差だな。母親たちが23で子供を生んだとして、息子が18歳ぐらいで関係したわけだ。相手は40前半のオバサン。さらに、ラストシーンでは、母親たちは50過ぎになってるはず。そこまでの魅力が、オバサンたちのどこにあったのか、分からない。イアンもトムも、老け専ということなのか。
・イアンとトムが浜辺で喧嘩して噛みつくシーンがあったけど、あれは理由は何だっんだ? 大勢に影響がないようなことなのかな。
・ナオミ・ワッツは豪映画にも出るのか。と思ったら、イギリス生まれのオーストラリア育ちだったのね。
サード・パーソン6/23新宿武蔵野館3監督/ポール・ハギス脚本/ポール・ハギス
原題通りの"Third Person"。allcinemaのあらすじは「パリの一流ホテル。スイートルームに泊まるピュリッツァー賞作家のマイケル。新作の執筆に追われながらも、別の部屋に泊まる作家志望の女性アンナとの不倫を楽しんでいた。ローマのとあるバー。いかがわしいアメリカ人ビジネスマンのスコットは、エキゾチックな美女モニカに目を奪われる。ひょんな成り行きから、彼女が誘拐された娘の身代金を紛失したと知り、手をさしのべようとする。ニューヨーク。元女優のジュリアは、息子の親権を巡って別れた夫リックと係争中。多額の裁判費用を工面するため、高級ホテルで客室係として働き始めるジュリアだったが…」
主に3つのカップルをめぐる話で、それ以外にもいろいろつながりはあったりして、『ラブ・アクチュアリー』のシリアスバージョンみたいな感じ。3つの都市とあとから言われて、ああ、そういえば、な感じだった。イタリアは分かったんだけど、他の2つがパリとニューヨークとは別に思ってなかった。みんなイタリアかなと思ってた。はははは。
人物の背景や物語の経緯がよく分からないまま、数日間の話が進んでいく。曖昧なまま始まって、はぐらかしたり、ほのめかしたりしながら、最後は余韻で終わっていくみたいな感じ。圧倒的な衝撃はないけど、じわりとくる感じかな。
パリ。マイケル(リーアム・ニーソン)とアンナ(オリヴィア・ワイルド)の話が、いちばん分かりにくい。だって、最初に登場したとき、2人は初対面みたいな雰囲気だから。そしたらそうでもなくて、ずいぶん長い関係みたい。アンナは編集者で、でも小説家になりたくて、マイケルに文章を見てもらっている、な関係。アンナは本当にマイケルが好きなのか、それとも、マイケルを利用しているのか? さんざんエロいこと、悪ふざけ(裸のアンナを廊下に閉め出してしまうとか)をしながら、でも、なんのドラマもないなと思っていたら、途中でアンナが別の男のところに行くことになってしまい、2人は険悪に…。でも、なんか、相手は父親なんだろうと思っていたら、それは当たっていたんだけど、どうやらその父親と性的な関係があるような雰囲気で。もどってきたアンナは蒼白…。そんなアンナの部屋に赦しの花を贈るマイケル。
という話とパラレルに進むのが、書けなくなったマイケルの苦悩。旧知の編集者に言わせると、「1作目はよかった。以降は自分の言い訳ばかり。だんだん悪くなってきている」というんだけど、ピュリッツァー賞作家なんだろ? じゃ、一作目で獲ったのか? で、奮起して書き始めるのが、どうやらアンナとの関係を赤裸々に描く物語で、どうやらアンナの近親相姦も書かれているのかな・・・。最後は、アンナに睨まれて終わるんだったよな。
という話とつながってくるのが、マイケルと、米国にいる妻との冷めた関係で。これがなんと、マイケルがアンナと電話している最中に、幼い子供がプールで溺死した、ような話なんだが。このあたりは、ひどく曖昧になってくる。…というような背徳的なマイケルにおける文学とは、私小説だったのか。うーむ。
それにしても、アドバイスする黒人の編集者の存在感がありすぎ。
ローマ。ファンタジー的要素が多くて、とても楽しい。ひねりも効いてる。で。スコットはファッションのデザインをパクって、それを米国の業者に売りつけるような仕事をしているみたい。たまたま入ったバーで、胸の谷間を見せつけるような、怪しい女モニカと近づきになる。モニカはジプシーらしい。女がバーを出て行くとき、カバンを忘れていった。それを近くにいた男に預け、しばらくして戻ると女が「カバンには中に5千ユーロあった!」と騒いでいる。「東欧のどっかから息子が船でやってくるが、引き取るにはあの金が要る。どうしてくれる!」と。金はスコットが工面して、2人で子供を引き取りに行くが、相手はもっと金を出せ、という。あれやこれやで数万ユーロ要求され、なんとか払うんだけど、スコットがふと思い出す。バーにも、ホテルにも、子供の受け取り場所にも、同じバイクがいた…。ってことは、モニカは見張られていたのか? と。であま、いろいろ分かってくるんだけど。モニカは詐欺グループの一員で、始めからスコットをハメるつもりでアプローチした。スコットがモニカに貸した5千ユーロは、もともとモニカのもっていたもので、それをスコットが盗んだ(モニカが電話番号をメモった札が証拠)。のっぴきならぬ状況に追い込んで、スコットが有り金全部むしりとられた、ということのようだ。
これでオシマイか。と思ったら、モニカがやってきて、「もしあんたが私を信頼するなら、一緒に行こう」みたいなことをいう。スコットは「金を返せ」とも言わず、「本当に子供はいたのか?」とも問わず、これからの人生をモニカと一緒に過ごす覚悟でクルマに乗り込む…んだけれど、ここでモニカが後部座席を見るんだよ。走り去っていく後部座席には、人影が…。ってことは、モニカの子供が一緒に乗っているのか? と思わせぶり。嘘から出たマコトみたいなハッピーエンディング。ではあるんだけど、スコットがモニカにやさしくした理由がほのめかされる。実は、スコットが仕事の電話に夢中になっている隙に、幼い子供がプールで溺死したらしい…って、なんだ、マイケルのところと同じなのか?
ここで、プールの場面にこだわろう。というのも、2人の女性がプールに飛び込むからなんだけど、ひとりはマイケルの妻、もう一人はスコットの妻(?)だと思うんだけど、弁護士のテレサ(マリア・ベロ)なんだよ、多分。違うかな? このテレサはニューヨーク編でジュリア(ミラ・クニス)の弁護をしてる。で、2人の女性が、亭主が電話中に子供を失っていて、そのトラウマでプールに入れない状態だったんだけど、最後に飛び込めるようになった、ということが表されている、んだよな、きっと。このつなぎが入り組んでいて、最初は女性が一人かと思っていたら、どーも違う。っていうのも、マイケルの妻も金髪で、雰囲気がテレサに似てるんだよ。まあ、でも、この辺りはもう一度見ないと正確には分からないんだけど。
ニューヨーク。ジュリア(ミラ・クニス)は、息子を殺しかけた、と元夫のリック(ジェームズ・フランコ)に言われていて、親権を奪われている。それで弁護士のジュリア(ミラ・クニス)に頼んで交渉しているんだけど、ひどいズボラで待ちあわせ時間にやってこなかったり、信頼されていない。というか、ちょっと分裂症気味な扱いをされている。どうも彼女は、子供がクリーニング袋で遊んでいるうち、窒息でもしかけたのか。騒動になったみたい。で、リックに離婚され、子供も取り上げられた。リックは、すでに新たなパートナーと暮らしていて、息子もそこそこなついている様子。何度も「会わせろ」としつこいジュリアに、リックが「本当のことを言ったら会わせてやる。お前は殺そうとしたんだろ」と詰めより、会いたさに認めると「会わせない」というのは、検察の尋問みたいでやな奴だな、と思ってしまうのだよな。
リックは芸術家で、絵を描いているらしい。ジュリアはリックに「あなたはいつも不在で、クリーニング袋で遊んじゃいけない、という人がいなかった」とかいう。だけど、元亭主のいまは、いつも家の中にいて絵を描いている。しかも立派なところに住んでいる。昔とは行動が変わったのか。ジュリアと別れてから売れる作家になって、在宅率が多くなったのか?
一瞬のスキを盗んで息子を抱きかかえ、エレベータで逃げるジュリア。追うリック。1階のエレベータの中には、ひとり息子だけが残されていた。その後、息子がリックにやさしくなる。なぜだと問うと「ママが、パパの面倒をちゃんと見てね」と言ったから、と。その言葉にほだされて、リックは、息子をジュリアに会わせてもいいかな、と思い始める・・・なエンディング。
なんではあるが、ここでジュリアのホテルでの働きぶりに注目。なぜって、パリの2人と関係があるからなんだよ。ジュリアは弁護士立ち会いのもと、リックおよびパートナーと会って話し合うことになっていた。会う相手は裁判官なのかな。よく分からない。で、その時間が変わったからと連絡を受けようとして、プリペイド携帯の料金が切れているのに気づき、てんやわんや。なんとか弁護士から連絡をうけ、訪問先の電話番号をメモったのは、ホテルのある部屋を掃除中のことで、たまたまテーブルの上にあった紙にメモする。んだけど、突然、部屋の主が戻ってきて、メモを忘れてしまう。そのメモの裏に、アンナが別の電話番号をメモするんだけど、不要になって引き出しの中に入れてしまい、そのあとゴミ箱にいくんだっけかな。この件の順番とか状況とかうろ覚え。なんだけど、この過程を見ていたせいで、ジュリアたちとマイケル&アンナは同じ時空間にいると思ってしまったわけだ。後から思うと、というか、場所が違っていると言うことを認識していたら、この時点で頭がくらくらしたんだろうけど、そんなことにはならなかった。ただし、ジュリアが部屋にいるとき、その主が戻っても、その主の姿を写さないようなボケになっていたのは覚えている。つまり、同じようなホテルの一室がパリとニューヨークに存在し、同じようにメモが転々とし、同じように白い花を贈られた女性がいた、ということなんだろう。幻惑的すぎて、分かりにくいよな。まあ、それがこの映画の妙の部分ではあるんだけど。
ローマ編。一筋縄ではいかないジプシー女のモニカは、とんでもない美人ではないけど、妙に魅力的。スコットとひとつベッドで夜を明かすことになったときも「あんたを襲ったりしないから心配しないで」とかいいつつ、スコットに足を愛撫されるとその気になって一夜を過ごすという、不思議に蠱惑的なシーンがある。なかなかいい。
パリ編。マイケルは、背後から"watch me"と呼びかけられる。子供のプールでの事故を思えば、それは死んだ子供の叫びなのかもね。そういえば、スコットだったか、他の誰かも"watch me"と呼びかけられていたよな。誰だっけ?
パリ編。だと思うんだけど、ジャージ姿っぽい女性がタクシーの中で下着姿になり、着替えするんだけど、あれはアンナ、なんだろな、きっと。違うのか? 確か顔は見えなかったと思うんだけど。
この映画、つなぎが絶妙すぎて、戸惑うことばかり。たとえば上着を脱ぐシーンで、途中でカットして別の都市での、別の人物が上着を脱ぐような場面につないでいたりするので、一瞬、同じ人が? と思ったりする。あるいは、カメラがパンすると、いるべき人がいなくなっていたり。テンポはいいけど、困惑度は高い。ホントに、もう一度、確かめたいところだらけ。
で。最後はマイケルの執筆する様子なんだけど、もしかしてイタリア編もニューヨーク編もパリ編も、すべてはマイケルが書いているフィクションなのではないか? なんて推測するのも面白いかも。
小さいおうち6/25ギンレイホール監督/山田洋次脚本/山田洋次、平松恵美子
allcinemaのあらすじは「大学生の健史は、亡くなった大伯母・布宮タキから彼女が遺した自叙伝を託される。そこには、健史が知らない戦前の人々の暮らしと若かりしタキが女中として働いた家族の小さな秘密が綴られていた??。昭和初期、山形から東京へと女中奉公に出たタキは、小説家の屋敷に1年仕えた後、東京郊外の平井家に奉公することに。その家は、赤い三角屋根が目を引く小さくもモダンな文化住宅。そこに、玩具会社の重役・雅樹とその若い妻・時子、そして幼い一人息子の恭一が暮らしていた。3人ともタキに良くしてくれ、タキはそんな平井家のためにと女中仕事に精を出し、とりわけ美しくお洒落な時子に尽くすことに喜びを感じていく。ある年の正月。平井家に集った雅樹の部下たちの中に、周囲から浮いた存在の青年・板倉正治がいた。美術学校出身の心優しい板倉に恭一がすぐに懐き、時子も妙にウマが合って急速に距離を縮めていくが…」
だからどうした、な、さほど面白くもない話だった。それよりも、古色蒼然とするキャストに戸惑いつつ見ておった。なぜって、ミスキャストばっかりなんだもの。
タキの黒木華はいい。問題はそれ以外。たとえば現在のタキに倍賞千恵子はない。どんくさい山形の娘が、あり得ないだろう。時子の松たか子は、年を追うにつれ不細工で品のない顔になっていく。「HERO」ぐらいまでかな、凜とした趣があったのは。亭主の平井・片岡孝太郎のセリフ廻しが映画ではない。わざとらしくて浮いている。やっぱ歌舞伎役者だ。平井の部下で時子が恋する板倉の吉岡秀隆は、まるっきり「ALWAYS3丁目の夕日」の茶川じゃないか。それ以外にも、ちょい役ででてくる役者のすごいこと。すごすぎてムダに目立って、話のコクを薄めている感じ。役者で勝負なのか? この映画は。
物語は↑のあらすじ通り。物語は、タキが書いた自叙伝をもとに進んでいく。さて、時子と板倉は情を通じる。丙種合格の板倉にも召集令状が来て、数日後に本籍地に向かうという板倉に、ひと目会いたい。タキは板倉の下宿を目指さうとする時子を遮り「出入りの米屋(だっけかな?)に見られている。奥様が板倉を訪ねるのはいけない。板倉がこの家を訪れるのは問題ない。手紙を書いてくれれば、私が板倉のところまでもっていく」と説得。時子は、会いに来てくれるよう手紙を書いて、タキに託す。…が、その手紙が、タキの死後、遺品として見つかる。封は閉じられたままで、板倉に渡さなかったことが分かる、というのがこの映画のキモなんだけど、よくあるパターンでたいして面白くもないんだよな。
戦争が激しくなって、タキは暇を出される。戦後、平井家を訪ねると家は焼失してなく、平井と時子が防空壕で抱き合ったまま死んでいたのが発見されたと聞かされる。なんと呆気ないこと! 息子の恭一は行方不明…。板倉の安否は不明なままだた。
さてと。平成の現代。板倉は戦死することなく帰国し、画家となって大成していた。そのことをたまたま偶然に健史が知るんだけど、この健史というのはタキの兄弟姉妹のどれかの孫のようだ。いや、この映画の人間関係はよく分からないところが数多くあって、室井滋は平井の姉みたいなんだけど、はっきりとはしていない。他にも、橋爪功と吉行和子の小中先生夫婦は、平井とどういう関係なのか、よく分からなかった。それに、健史は祖父母の妹と親密にしている設定なんだけど、フツーそんな遠いと会ったりもしないぞ。せいぜい健史の両親ぐらいまでだろ。いろいろ不自然なんだよな。
で、板倉の存在を知った健史は美術館かどこかに行くんだけど。そこで、板倉と時子の子・恭一との交流を知り、住所を教えてもらうんだけど。いま、そんな簡単に教えてくれないぞ。個人情報保護法が立ちはだかっている。それと、板倉はすでに亡くなっている、ということはちゃんと説明されていたっけ?
で、現在の、失明して車椅子状態の恭一に、タキが残した手紙がある、と告げる。封されたままだが…といって、そこで封を切って読み上げると、それは時子が板倉に書いた手紙で、タキが出さなかったことが分かる。聞いていた恭一は「目の前で母親の不倫の証拠を読まれるとは」と笑うんだけど、まあ、これがどういう手紙かは想像がつくわけで。アホらしいシーンだとしか思えなかった。
というわけで、ドラマとしては、これ一点だけ。タキは手紙を出さずにいた。…でも、ぜんぜんミステリアスでもないし、時子思いの女中というわけでもないよな。いまいちフツー過ぎてつまらない。
そもそも時子は板倉の何に憧れ、惚れたのだ? 芸術家肌? なんか底が浅い。そもそも時子はどういう出自なのだ? あんなゲージツカ気取りにくらっとするアホな女なのか? なんか薄っぺらな女だ。その程度の印象しかない。田舎出のタキが板倉に惚れる、なら分かるんだけどね。でも、憧れはあっても、はたして惚れていたのかどうか、怪しい。
この映画、タイトル通り小さな家かと思ったら違った。大田区雪が谷の高台に聳える赤い屋根の瀟洒な洋館なのだ。決して小さな家なんかじゃない。それはいまの感覚で、昔のエリートとしてはは小さかった、というのかな? 昔は、どこもかしこも、あれより小さな家だらけだったと思うんだが。
・時子が書いた手紙の文字が、とっさにはよめない。もうちょっと大きく、長く映せ。
・現在の恭一(米倉斉加年)を海岸に連れ出し、車椅子で砂浜を歩くバカらしさ。車輪が砂にとられて、進まないだろう。
・音楽が、ジブリの、どれかの音楽とそっくりなんだけど、クレームはつかなかったのかね。
・家はセットだった。全体ではなく、玄関と屋根の一部かな。炎上するところは、ちゃちいミニチュアだった。
・家の中の静的な場面は小津映画そのものな構図で、なんだよ、な感じ。
そして父になる6/25ギンレイホール監督/是枝裕和脚本/是枝裕和
allcinemaのあらすじは「これまで順調に勝ち組人生を歩んできた大手建設会社のエリート社員、野々宮良多。妻みどりと6歳になる息子・慶多との3人で何不自由ない生活を送っていた。しかしこの頃、慶多の優しい性格に漠然とした違和感を覚え、不満を感じ始める。そんなある日、病院から連絡があり、その慶多が赤ん坊の時に取り違えられた他人の子だと告げられる。相手は群馬で小さな電器店を営む貧乏でがさつな夫婦、斎木雄大とゆかりの息子、琉晴。両夫婦は戸惑いつつも顔を合わせ、今後について話し合うことに。病院側の説明では、過去の取り違え事件では必ず血のつながりを優先していたという。みどりや斎木夫婦はためらいを見せるも、早ければ早いほうがいいという良多の意見により、両家族はお互いの息子を交換する方向で動き出すのだが…」
子供の取り違えでは『もうひとりの息子』というのがあった。これは2012年。こちらは2013年。こちらが、あちらを真似たとは思わないけれど、似たような映画がつづくな、と思ったのは事実。
『もうひとりの息子』は18歳の青年。こちらは6歳か? 本人の自覚が大きな差になるけど、基本は同じだよな。あちらの設定は、イスラエルとパレスチナでの取り違えで、政治的な話が赤い。こちらは両家族の設定で変化をつけている。最初はさほど不自然じゃ無かったんだけど、途中から野々宮良多がとても嫌なやつ、に見えてくるようになる。たんなるエリート社員じゃなくて、人間性がなく、デキの悪いやつや貧乏人を心から蔑んでいる、という設定だ。後から野々宮の両親も登場するんだけど、これがなんとアパート住まい。自分は高級マンションに住まいながら、なんだ。という気になるんだけど、なんか設定が絵に描いたようなステレオタイプで、リアリティに欠けるんだよな。いまどきこんなエゴ野郎はそんなにいないだろ。ちょっと誇張しすぎだろう。
いっぽうの斎木家は、雄大(リリー・フランキー)とゆかり(真木よう子)は、大雑把な性格で貧乏だけど、人間味あふれる家族に描かれている。音を立てて茶をすするとか、生理的にやなとこもあるけど、野々宮良多がとつてもなく冷酷で人非人に見えてくる仕組み。では、こういう描き方がいいんだろうか? どーもこのあたり、野々宮タイプの人間に対する否定の視線が強くなりすぎて、説教臭くなってくる。つまりまあ、こういう対照的な家族に設定しないと、映画は成立しないのだろうか? ってな疑問がわいてくるんだよな。もっとフツーな家庭同士での、取り違えに対する反応、をみたい気がするんだよ。
取り違えた病院との訴訟も興味のあるところ。なんだけど、これが何と、途中で個人的な問題に矮小化されてしまうのには拍子抜けした。なんと、病院のシステムの問題=落ち度ではなく、野々宮家の金持ちエリートぶりに嫉妬した看護婦が、故意に入れ替えた、んだと。おいおい。なんだよその展開。最初は、病院が責任逃れのために看護婦にそう言わせているのかと思ったらさにあらず。げ。一気に萎えた。しかも、時効だからと看護師を処罰に問えないというのもまたまた拍子抜け。でも、そういうところには突っ込んでいかないのがつまらない。
野々宮が友人の弁護士に頼み、起こした訴訟は"勝利"らしい。では、どういう内容で解決したのか。それも出てこない。野々宮、斉木ともに、いくらもらったのか。それぐらい教えてくれよ。
野々宮の解決策は、慶多はそのまま家で育て、斉木家の琉晴(実子)も自分のところでそだてよう、というもの。まあこれは斉木家から呆気なく否定されてしまうけれど、なかには「手に余るから、それでよい」と言ってくる家もあるだろうな、と思った。決して野々宮の傲慢だけではないと思う。もちろん、斉木たちは、貧乏無関係に家族そろって楽しく生きていく、だから、それはそれでいい。
ただし、問題は、将来だよな。斉木の家で育った琉晴が、経済的な理由で進学できないとかなったら、琉晴は斉木を恨むかも知れないよな。などと思ったりした。
映画の中にもでてきたけど、昔は養子だの里子は茶飯事で、慣れればあっという間、というのは本当だと思う。いま、同じように簡単に済むかどうかは判らないけど、まあ、個体差もあるんじゃなかろうか。
短期間ずつ子供を互いに交換しつつ、数ヵ月後に完全に取り替えた。けれど、琉晴が逃げ帰ったことで話が振り出しに戻ってしまう。フツーなら張り倒して引きずって家に戻すんだろうけど。緊張して過ごさないといけない野々宮家は、子供には居づらいんだろう。気持ちは分かる。けど、それも個体差が大きいんだろうなと思う。
なことがあって、連れ戻しに行くんだけど、ここで野々宮と琉晴が別々の道を歩きつつ、最後は道の合流地点で一緒になる、というシーンはなかなかうまいけど、よくある手法と言えばそうなんだけど。で、いったん引き取って戻った野々宮は、厳格で几帳面な自分をかなぐり捨て、バカオヤジを演じるわけだ。そうして琉晴の方に歩み寄って、仲良くなるんだけど、それでいいのかね。野々宮の考え方が間違ってる、という見え方が果たしていいのかどうか、ギモンだな。
野々宮は、慶多が撮った写真(野々宮の寝姿などを撮っていた)を見て、急に慶多が愛おしくなり、斉木の家に行くんだけど。結論ははっきり言ってないけど、なんか、流れでは子供は元のままの家庭に戻り、でも互いに交流はつづけて、将来の子供の選択に任せる…みたいなことになるのかな、と想像できた。まあ、そういう解決法もあるだろう。けれど、映画で描かれるようなドタバタを経ないと分からないところがたくさんある、ということなんだろう。なんとなく分かるけど、でも、それが全てのケースにあてはまるわけでもないだろうと思う。
問題は、野々宮の性格なんだけど。これがよく分からない。野々宮は両親を、とくに父親を毛嫌いしているんだけど、なぜなのかはよく分からない。兄がいて、こちらはそれほどの軋轢はないみたい。とはいいつつ両親がアパートぐらしで、それで平気な兄弟というのも不思議な気がする。あと、野々宮が最後の方で「俺も母親のところへ逃げると、よく髪をなでてもらった。どうせ親父のところへ引っ張りもどされるんだけど」とかいうセリフがあったんだけど。どういう意味だ? むかし、両親は別居でもしていたのか? 分からない。
野々宮が転た寝していて、ソファの隙間から見つけたのは、あれは慶多がつくった花の茎か? で、どういう意味があるのかわく分からない。
野々宮の妻が、最後の方で、「あなた、最初になんて言った?」と問うたとき、速攻で「やっぱり」だろ、と思った。映画の中では「分からなかったのか?」というセリフがあったんだけど、「やっぱり」とは言ってなかった。けれど、実際には最初の反応として「やっばりそうか」といったということになっていた。まあ、フツーな反応のような気がするんだけど。うすうす感じていても、不思議ではない。いっぽうで、生んだ母親なんだから「分からなかったのか?」という言い方は、裁判の時に病院側の弁護士も言っていたけれど、そんなもの分かるわけないよな。そんなこといったら、全国の病院で「これ、うちの子じゃないんじゃないの? DNA鑑定してくれ」の声が高まるんじゃないのかね。
西川美和と砂田麻美が協力者でクレジットされていた。
インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌6/27新宿武蔵野館1監督/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン脚本/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
原題は"Inside Llewyn Davis"。allcinemaのあらすじは「1961年、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ。音楽に対してだけは頑固で、それ以外のことにはまるで無頓着なしがないフォーク・シンガーのルーウィン・デイヴィス。金も家もなく、知人の家を転々とするその日暮らしの日々を送っていた。そんなある日、泊めてもらった家の飼い猫が逃げ出してしまい、成り行きから猫を抱えたまま行動するハメに。おまけに、手を出した友人の彼女からは妊娠したと責められる始末。たまらず、ギターと猫を抱えてニューヨークから逃げ出すルーウィンだったが…」。
allcinemaには「60年代にボブ・ディランらとともにニューヨーク・グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・シーンで活躍したデイヴ・ヴァン・ロンクをモデルに描く」なんだと。ふーん。
主人公にはほとんど共感できなかった。キャリー・マリガンの登場と猫のエピソードがなかったら、暗くて悲惨な映画になってたはず。まあ、暗くならないようになのか、ユーモラスなシーンがたくさんあるのも、配慮なんだろう。だいたい、こんなやつとは友だちになりたくないし、家族にこんなのがいたら憂鬱になるに違いない、ってことだ。「だらしないけど憎めない」なんて言ってる人もいるようだけど、そりゃ自分と無関係なところにいるからだ。利害関係があったら、そうは思うまい。
別にいいんだよ。自分の歌が最高で、評価されるべきであり、周囲もそれを支えるべきだ、ぐらいの傲慢さをもつのは。大半の有名人、功成り名を遂げた人は、そういう人だから。ある意味で、社会的不適応者たちだ。社会のルールを守り、倫理観があって、他人を思いやるような人は、成功しない。
とはいっても、こういう変人のすべてが成功するわけではない。多くは何も残せないまま社会の底辺で澱のように淀んで暮らすことになるんだろう。「世が世なら俺だって」とか愚痴をいいながらね。
そういう人たちと比べたら、モデルとなったデイヴ・ヴァン・ロンクは21枚のアルバムを出しているらしいし、大成功とは言わないまでも、名も残しているし歌も残っている。だから、決して「名もなき男」ではないし、哀しい話でもない。
もうちょいとうまく立ち回れば金銭的にもうるおっただろうし、友人知人も増えたはず。でも、妥協を許さず、自分を貫きたかったんだろう。だから、ちっとも気の毒ではないし、それこそ自分の望んだ音楽人生=一生だったんだろうと思う。
ただし、妥協を許さぬ自分の音楽は決して多くの人に理解されるわけでもなく、自分勝手な思い込みであることが多い、ということではあるんだが。
・歌い手仲間の男女ペアの片割れに、キャリー・マリガン。相変わらず可愛い。可愛すぎて、下半身にだらしない歌手のイメージとはかけ離れすぎ。まあ、そういうイメージで映画は多少救われているんだろうけど。
・当時のフォークソングをめぐる環境が見えて面白かった男女ペアは、ヒットした「500マイル」をカバーする。でも、ルーウィン・デイヴィスはもっと暗くて、皮肉のこもった楽曲にこだわってる。ルーウィンを支援するのは大学教授だったりして、インテリが多い…とかね。
・船員組合とか、インディーズレーベルの契約がどーのとか、わからない部分が結構ある。シアトルへ行くという車中で、太った大男ローランド・ターナー(ジョン・グッドマン)と交わす会話にも、かなり知らない言葉が登場して「?」であった。知識がないと分からない部分が多いと思う。
・そのローランド・ターナーはどういう役回りなのかよく分からなかった。そもそも、録音メンバが足りないから来てくれといわれ、その時一緒だった音楽家のアルが情報をくれたんだったよな。当日やってきたのは陰気な付き人と、太ったローランド。ローランドは誰で、何しにシアトルへ? と思いつつ見てたんだけど、あの件は退屈だった。で、オフィシャルページで見たら、ローランドはジャズミュージシャンだと。ふーん。でも、どこが? な感じ。しかし、なんでローランドは寝てばかりなんだ? ヤク中だからか? 最後は警官に職質され、付き人だけがパトカーで連れていかれるんだけど、ルーウィンはローランドと猫を置いてきぼりにして、ヒッチハイクでニューヨークに戻る。いったい何なんだ、なエピソード。ヒッチハイクしたクルマの主に「寝たいから運転してくれ」といわれたり、途中でキツネみたいのを撥ねたり…。
・猫とのエピソードが抜群に面白い。猫とキャリー・マリガンでもってるようなもんだな、この映画。しかし、猫は家につくので、いくら慣れているといっても、そのまま連れ出して歩いたりはフツーできないはず。すぐ逃げ出すよ。だからあの話はほとんどすべて嘘だ。
・ライブハウスで、ルーウィンの後に出たのは、ボブ・ディランなのか?
・ライブハウスで、オバサンが登場してハープみたいので弾き語ると、ルーウィンがヤジを飛ばす。後日、その亭主がやってきてルーウィンは殴られるんだけど、当然だな。まあ、本人は気にしてなかったようだけど。傲慢なやつなんだからしょうがない。殴られるもの承知のうえ、なんだろう。
ザ・ホスト 美しき侵略者6/29シネマスクエアとうきゅう監督/アンドリュー・ニコル脚本/アンドリュー・ニコル
原題は"The Host"。allcinemaのあらすじは「近未来。地球は宇宙を彷徨う謎の知的生命体“ソウル”の侵略を受けていた。ソウルは人間に寄生すると、意識を支配し体を乗っ取ってしまう。いまだソウルに乗っ取られずにいる人類はごくわずかとなり、彼らは逆襲の機会を窺い、潜伏生活を続けていた。その中の一人で、弟や愛するジャレドと共に逃亡を続ける女性メラニーは、ついにソウルに捕まり寄生されてしまう。ところがメラニーの強靱な精神力がソウルであるワンダラーの支配に必死に抵抗したため、一つの体に2つの魂が存在することに。やがてワンダラーはメラニーに共鳴し、ソウルの施設から逃亡を図ると、ジャレドたちが身を潜める隠れ家を目指すのだったが…」
宇宙人に寄生されてる話である。この手の話は、なぜか定期的につくられてる。アメリカにはそういう被害妄想があるんだろうか。彼の国は多民族国家なので、ひっとしてあの人はロシアの手先、アラブのテロリスト? …という疑念を持ちつづけているからなのかな。などと思ったりして。
数少ない人間として生きながらえてきたメラニーと弟ジェイミー。あるとき、同じく人間のジャレドと遭遇して、叔父たちと砂漠の隠れ家で暮らすようになる。あるときメラニーが食糧を漁っているとシーカー(人間を追う役目)に見つかり、高所から飛び落ちる。これは、寄生されるより、死を。のようだ。ところが骨も折れていないし、臓器に損傷もないので、1000年ぐらい寄生して生き続けてきたワンダラーというソウルが移植される。ソウルがメラニーの記憶を呼び覚まし、人間の残党の隠れ家を突き止めようと言うわけだ。
・(ソウルというのは、キラキラ光る足のたくさんあるクモみたいなやつで、宿主に寄生することで生きながらえるみたい。でその、宿主の意識を、ホストという)
ところが、メラニーの意識、つまり、ホストが強く、メラニーの身体の中でホストとソウルが争うようになる。ここでソウルがホストの存在をシーカーたちに告げず、体内の葛藤にとどめてしまうのは、まあ、この話の都合によるものだろう。映画では、ホストの力は結構強く、ソウルの思うようにならない。というより、ホストの指示にしたがってしまうソウルがいる。長年寄生しつづけてきたソウル=ワンダラーが、人間のホストにたじたじなのが意味不明だが、そういう筋なのでしょうがない。
なわけで寄生されてしまったメラニー。そのホストの声とソウルの声と、どっちがどっちだか区別がつかないまま話が進んでいくのがやっかいだった。もうちょいと声質が変わるとかすればいいのに。
で、なんかしらん、ホストの「逃げろ」コールにワンダラーが従って、監禁されている部屋からプールに飛び込んで逃走。クルマも盗んで逃走。なんでも寄生された身体は、みんな人がよくなって、お願いされたら快く従うのが信条らしく、「クルマを貸して」とオッサンに言うと、「あいよ」てなもんで貸してくれたのだ。でも、砂漠地帯でソウルとワンダラーが対立して車が大破。歩いていると、メラニーの叔父たちに発見される。一緒に暮らす青年やジャレドたちは、メラニーを殺そうとする。けれど、叔父のジェブはメラニーを行かしておくことにする。なぜなら、姪だから。なんて単純な理由なんだ!
以降の隠れ家での話は動きがなくて退屈。
たぶん、メラニーの意識が強いから、ソウルもメラニーの身体を思うがままに操れないんだろう。メラニーが投身自殺しようとしたのに、骨も折れず内臓も損傷していないというのは、それを象徴しているのだろう。
てなわけで、メラニーの身体の中でホストとソウルが対話しつつ話が進んでいく。それほど対立することもなく、ソウルが寛容で、ホストの意見を尊重するカタチで進んでいく。この二重人格的な表現に意味があるのかどうかは、分からない。
中盤は、隠れ家での疑心暗鬼がつづくんだけど、何人もいる青年たちの区別がつかない。あと、ババアとかも。だから、見ていてつまらない。もう少し個を描けばいいのに。とくにイアンは重要なのに、なんとなく登場してくるんだよなあ。もったいない。
もともとメラニーを好きだったジャレドがメラニー=ワンダラーに敵意剥き出しな理由は、よく分からない。シナリオの都合なのかも知れない。いっぽうで、イアンはメラニー=ワンダラーに好意をもつようになる。メラニー=ワンダラーもイアンに好意を持つ。それはいい。疑問なのは、ワンダラーは人間の容姿に惚れたのか? ということ。そもそもワンダラーは光るヒトデみたいな姿。それが、自分たちとは異なる姿形=人間に惚れるものなのか? はたまたイアンはメラニーの容姿に惚れたのか、ワンダラーの心に惚れたのか、どっちなんだ?
そういえば、隠れ家の連中はソウル狩りをして、人間の体内からソウルを取り出していたようだ。ただし、人間も死んでしまうようだけど。というなかで、シーカーのダイアン・クルーガーのソウルは取り出され、カプセルで宇宙へと飛ばされる。ここでは、ダイアン・クルーガーは人間に戻るようなんだけど、施術によるのかね。それにしても、あの手のカプセルが街中の病院の入口に無造作に置かれているのは、どうして? ソウルが気軽に宇宙に戻れるように、なのかね。
最後に。メラニーに寄生したソウル=ワンダラーは、自ら命を絶つことでメラニーを生かそうとする。1000年も生きてきたから、もういい、らしい。もしかして、次に寄生する身体がないと死んでしまうのかな。という覚悟で施術をするんだけど、ワンダラーは別の身体を得て再生する。その身体は、叔父たちがソウル狩りをして、でも死なずに意識が戻らなかったものなんだけど、生き返ったその女性がかなりのブスなので驚いた。で、そのブスに、イアンは恋をしつづけるのだから摩訶不思議。まあ、メラニーの身体ではなく、ワンダラーに恋をした、ということなのかも知れないけどね。人間ではあり得ないような気がするんだが…。
そして、数ヵ月後。メラニー、ジャレド、ブス娘、イアンたちが街中でシーカーに制止される。…あー、メラニーからソウルが取り出された時点で、メラニーとジャレドの関係は復活したのかのかな。まあいい。で、外に出され、人間かどうかチェックされるんだけど、当然ながらブス娘以外は人間。さて。と思ったら、相手が、「ここにも人間がいたか」みたいな反応を示して、終わり、なんだよね。なんかよく分からんのだが…。シーカーたちの中にも、人間と共存するような個体が登場しつつある、ということでいいのか? でも、なんかいまいち未来への展望や期待が抱きにくい終わり方なんだけどな。
・ダイアン・クルーガーらのシーカーが、みな白装束というステレオタイプ。なんでこの手の映画は、そうなるんだろう。クルマも銀ピカだったな。
・隠れ家を照らす電気はどこから供給されてるんだ? という、つまらないツッコミも入れておこうかな。
パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間6/30ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ピーター・ランデズマン脚本/ピーター・ランデズマン
原題は"Parkland"。allcinemaのあらすじは「1963年11月22日、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディが、ジャクリーン夫人とともにダラスの地に降り立つ。昼過ぎ、パレードを撮影しようと待ち構えていた8mmカメラ愛好家のザプルーダーは、大統領を乗せたリムジンを視界に捉える。その時、3発の銃弾が鳴り響き、一帯はパニックに陥る。やがて、市内のパークランド病院に瀕死の大統領が運び込まれてくるが…」なんだけど、あらすじはまったく意味をなさない内容。
そのとき、バックヤードで存在を発揮した人たちがいた。その様子を極めてテンポよく、スリリングに交錯させながら、淡々と、でも、緊張感に満ちた映像でつないでいく。圧倒的な迫力で、見てしまう。
・たまたまその瞬間を8ミリて撮ってしまった男。速攻で帽子の老人(最後にシークレットサービスのボスと紹介されるけど、FBIかと思ってた)が接触し、そのフィルムを提供するよう説得する。強引に取り上げるのではなく、説得して了解させ、提供させる。しかも、「フイルムの権利はあなたにある」というところが、さすがアメリカ。男は40年前に家族とロシアからやってきて、アメリカンライフを満喫していた。それが、暗殺で、未来は暗いとまで言わせる。当時は敵対していたソ連からの移民。さすがケネディの存在感。マスコミ各社も接触してくるけど、結局、LIFE社と契約する。「その瞬間も使うのか?」「人間の尊厳としてそれは…」とためらいつつ、自分の身の安全のためにも、と、それ相当の対価を要求する。そうか。あの映像は、こういう男が撮影したのか。…そういえば、男は1本を誰か、クルマで会った男に渡すんだけど、あれは誰だ?
・ケネディが運ばれたのは、ダラス市の病院。たまたま当直だった若い医師が一人のところに、警固の人たちとともに怒濤のようにやってくる。すでにシークレットサービスは「ケネディはダメだ。ジョンソンを守れ」と、次をみて行動するんだが、冷酷だけど的確な判断も描かれる。頭を抱えられながら移動するジョンソン副大統領とか、呆然とするジャッキーとか、ドキュメンタリータッチで迫ってくる。思わず『ER』と比べてしまった。年長の看護婦が、若い医師の尻を叩きながら仕事をさせる様子も、リアリティたっぷり。
・FBIは、上司と部下の対立が描かれる。なんとオズワルド本人がFBIにやってきて、なんかよく分からんけど、話をしてた、とか。それが2週間前? なのに見抜けなかったのか! と上司はいうけど、同じような連中からの意見は山ほどある、と部下。部下が正しい。でも上司はオズワルドの資料を始末しろ、と命じるんだよ。こういう保身は、洋を問わずだな。でも、その事実が描かれるということは、内部告発したのかね。
・オズワルドの兄が、事件を会社のテレビ?で知るというのも凄い。でも、同僚が責めるわけでもないのは、日本との違いか。彼が警察に行ったのは、自分からのようだ。警察にはすでに母親がいたから、それで行ったのかも。市警の警官は「俺なら名前を変えて遠くへ行く。女房や子供の将来を考えて見ろ」と言う。映画の最後で兄は、結局、地元で生活することを選択したという。うわ。日本じゃ考えられないよな。本人はもちろんだけど、家族、とくに子供たちは迫害に遭わなかったんだろうかと気にかかる。兄役のジェームズ・バッジ・デールがいい。ほとんど何も演技していないようにみえる、でも、その存在感が素晴らしい。 ・変なのがオズワルドの母親で、こちらはキ印そのもの。オズワルドも同じ妄想癖を受け継いだのか。「息子は政府から依頼されて仕事をしていた」みたいなことをいう。頭おかしい。ところで、オズワルドが直前に殺害したという警官とは、何があったのだろう。その点については、触れられて異な勝田のが残念。
・ジャッキーは、似てない。ちょっと幼く、可愛い顔立ちの役者だ。オペ室で、夫の頭蓋の破片をシークレットサービスのひとり?に渡すとか、リアル。クルマでジャッキーが集めていたのは脳の破片と聞いたけど、頭蓋なのか?
若い医師は人工呼吸をつづけるが、空しい。近くで牧師と呼べ、と言ってたのは誰だっけ。棺桶も手配され、看護婦が十字架をもってくる。運ばれたときは呼吸も脈もあったようだけど、みな分かっていたんだろうな。それでも、なんとかしようとする医師たちの姿も描かれる。呼ばれて、後からやって来た年長の医師たちの絶望的な表情、何も考えず人工呼吸をつづける若い医師…。
シークレットサービスの混乱具合も興味深い。死亡が決定的になると「これからはジョンソン守ることになる。ジャッキーは誰が守る?」なんてことを話したりしている。シークレットサービスが組織されて初めての暗殺事件で、どう対応するか、そのマニュアルもみな頭の中に入っていなかったみたい。シークレットサービスは、死亡宣告され納棺が済むと、すぐさま遺体をワシントンに運ぼうとする。そこに市の監察医がやってきて「これは殺人事件だ。遺体を持ち出すな。州法違反だ」と宣言するのが、これまたアメリカだな。なあなあで丸め込んだり丸め込まれたりしない。法に則り、主張する。まあ、それでもシークレットサービスには無視されるんだけど。ここは監察医が正しいよな。
いっぽうでジョンソンはさっさとワシントンへ移動し、大統領に就任する。こちらも淡々と、法に則って進んでいく。
棺桶が飛行機に運ばれる。でも、機内に棺桶を置く場所がない。と慌てて座席を外すシークレットサービス。棺桶は、ひょっとしたら落ちるんじゃないのか、ぐらいの危なっかしい運ばれ方。タラップをあがると、棺桶が入口を曲がりきれなくて、ひっかかる部分をノコギリで切り始めたのには驚いた。
国葬?らしいケネディの葬儀が行われている。同じ日に、オズワルドの葬儀も行われた。ひどいことに各地の教会から埋葬を拒否されたようだ。どの教会が許可したのか知らないけれど、参列者は家族だけ。そこにマスコミが何人か。棺を霊柩車から出そうにも手が足りないので、マスコミに「手を貸してくれ」と頼むという哀しさ。
最後に、現実の本人が写真で紹介され、その後も知らされる。8mmの男は、以後、映写機を手にしなかったとか。トラウマになったらしい。世紀の瞬間だから、それもそうかも知れない。
この映画、尺がわずか93分なんだよな。それでも、とくに短いとは感じなかった。むしろ、ムダがなくて切れ味が鋭すぎ。凡百の日本映画も見習うべきだな。

 
 

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