2014年7月

ホーリー・マウンテン7/3キネカ大森1監督/アレハンドロ・ホドロフスキー脚本/アレハンドロ・ホドロフスキー
1973年の製作。原題は"The Holy Mountain"。Yahoo!映画の解説とあらすじは「「不死を求め、聖なる山の頂点へと向かう男女9人の狂気と美に満ちた旅が展開する。ホドロフスキー監督自身が、登場人物たちを聖なる山へと導く錬金術師を熱演」「とある砂漠ではりつけにされ、裸の子どもたちに石を投げつけられているキリストに似た風ぼうの盗賊(ホラシオ・サリナス)。自力で十字架から降り立った彼は、居合わせた男と共に町へ向かう。町ではキリスト像を売る太った男たちに捕らえられ、鏡の部屋に閉じ込められてしまう盗賊だったが、何とか部屋から脱出し…」
↑のあらすじと解説を読んで、ふーん、そういう映画だったのか、といまさら思う。なぜって30分過ぎぐらいから眠くなって、途中何度も目覚めてはまた沈没し…を繰り返し、最後は砂漠で食事中。カメラが引くと撮影スタッフが丸映り…END、という案配で、後半、半分以上寝ていたから、たぶん、弟子3人目ぐらいの紹介の途中だったかな。でもまあ、どうでもいいや。もういちど見たいとは思わなかったから。
キリストの復活から山に登るところまで、という話の中にエログロ刺激的な映像をテキトーに脈絡なくつないで、いかにも深そうにしているだけのこけおどし…という解釈なんだけど、間違っていても構わないよ。どうもこの手の、イメージは豊富だけど物語性がなく、しかもこの映画、セリフがほとんどない。なんだか分からないよ。気の毒なのはカエルとか鳥とか、その他色々な動物で、結構な数が殺されたり皮を剥がれたりしている。まあ、1973年の映画だからいまみたいに問題にならなかったんだろうけど。いまなら、とんでもないことになってるだろうな。
この手のサイケな感じは、他にもいろいろあったよな。まあ、サイケなだけで、こんなグロではなかつたと思うけど。いろんな映像、オブジェ、あれやこれやが奇妙奇天烈なのはその通り。キンタマのコレクションとかウンコの化学変化とか、意図的に変なことをやってるだけで、大して意味はないと思う。他も同じだろう。奇を衒っているだけだ。この映画が突出しているとも思われず。子供のままで大きくなった変態オヤジのいたずら三昧、という気がしてしまう。
で、カットつなぎとかモンタージュとか、時代を感じさせてくれるんだよな。昨今のキビキビしてスタイリッシュなつなぎなら、もうちょっとカッコよくなるだろうに。長いショットをだらだら見せる感じなので、うっとうしい。CGはない。しかし、どこか素人くさく、芋っぽく見えるのは、時代とメキシコのせいだろうかね。
・何人かの使徒のペニスは見えてる場面があるんだけど、あれは人形なのか?
・キリストの話なのに、日本の念仏? ・カエルが大量に爆死してた。ほかにも皮を剥がれた生物がたくさんいた模様。
エル・トポ7/3キネカ大森1監督/アレハンドロ・ホドロフスキー脚本/アレハンドロ・ホドロフスキー
原題は"El topo"。allcinemaのあらすじは「山賊を始め、哲学者、自然主義者、聖人などを次々に撃ち殺していく、エル・トポ(もぐら)と呼ばれる一人の男。荒野を血で染めぬいた挙げ句、命を落としたエル・トポだったが、やがて彼は僧侶として再生し、地底生活を余儀なくされているフリークスを眼にする…」
『ホーリー・マウンテン』にくらべりゃストーリーはあるけど、なんだこりゃ、な話だ。
砂漠。ガンマンが5歳ぐらいの少年に「お前も大人になった」といわせ、母親の遺物を砂に埋めさせる→殺戮にあった村。死に損ないの村人が「殺してくれ」といっている。エル・トポは少年に撃ち殺させる→悪漢3人を片づけ、ボスである大佐のいる町へ→ここでも悪漢を一網打尽→大佐の女とともに、砂漠へ。少年は修道院に預ける…。
あれっ。メキシコ版の子連れ狼じゃないのか。さて。女は「砂漠にはお前より強い男が4人いる。みんなやっつければお前がNO.1だ」といわれ、その気になる。あほか。
最初の相手は盲人。それを落とし穴作戦でやっつける。汚い手だ。次は母と息子で、息子がガンマン。撃ち合いで負けるが生かされ…ガラスの破片を母に踏ませ、ひるんだ隙に息子を撃つ。そして、書物を読む男。これは相手が心臓を狙うと読んで鉄板を入れておいた…って、『用心棒』かよ。しかし、兔が大量に死んでいたけど、ありゃ本物か? 最後は迷走する老人で、「命など惜しくない」と自殺してしまう。かなり拍子抜け。
最初の相手のときに、女ガンマンが登場するんだけど、周囲をうろつくだけ。これが元大佐の女に近づき、レズ関係に。女ガンマンに「男か、私か、どっちをとる?」と問われ、元大佐の女はエル・トポを撃つ。あらら…。
その亡骸を、フリークスの一団が拾っていくのだけれど…。ふっと気づくと、エル・トポは洞窟の中。なんでも長い間眠っていたらしい。なんだそれ。侏儒の女が世話してくれるんだが、ここは町とは隔絶された穴の中。近親相関が過ぎて畸形がたくさん生まれているという。それを聞いたエル・トポは「そうだ。洞窟を掘ろう。そうすれば町と交流がはじまる」と侏儒の女とともに掘り始める。ダイナマイトを買うため、町で大道芸をしながら…。2人は結婚することにして教会に行くと、かつての少年が成長して牧師になっている。牧師はエル・トポを殺そうとするが、トンネルができるまで待てと言われ、結局、手伝うハメに。そして、トンネル開通。洞窟の住人は町を目指すが、町民たちに皆殺し。怒ったエル・トポが、銃弾を何発も喰らいながら町民を殺していく。すべてが終わり、エル・トポはガソリン(?)をかぶって焼身自殺する。牧師と、赤子をつれた侏儒の妻は馬で去って行く。って、それがどうした。
というハチャメチャな話。意味するところが何なのか、さっぱり分からない。まあ、最後は宗教的なことをいっていたので、これもキリスト的なことなのか。もちろんキリスト教賛美じゃなくて、反対だけど。
・少年をずっとエル・トポの息子だと思っていた。でも再開して、いざ殺すと言うとき「師を殺せない」とかいうんだよ。え? 親子じゃなくて師匠と弟子なのか? で、Webで調べると、息子とある。なんかよく分からんな。
・その少年のチンポがボカシあるんだよ。なんでえ?
・女ガンマンは最初の盲人との戦いのとき、何気で登場してたけど、誰なんだ? そして、女ガンマンは男声なんだけど、なぜなんだ?
・エル・トポは「トンネルを作って町と交流を」というけど、彼が女に捨てられたとき、救ったのは洞窟の畸形たちなわけで。けっこう自由に出入りできるんじゃないのか? トンネルが貫通したらぞろぞろとまるでゾンビみたいに町へ向かうんだが…。その畸形たちを町人はなぜ問答無用で撃ち殺す?
・町にフリーメーソンみたいな△に目玉みたいなマークが貼ってあるんだけど、どういう意味だ? プロビデンスの目? 神の全能の目? よく分からん。
・エル・トポの墓は蜜蜂の巣なんだよな。そういえば、砂漠の相手のひとりの死骸の横にも蜂蜜があって、エル・トポがそれに食らいついていたけど。はてな?
ヴィオレッタ7/4キネカ大森監督/エヴァ・イオネスコ脚本/エヴァ・イオネスコ、マルク・ショロデンコ、フィリップ・ル・ゲ
原題は"My Little Princess"。フランス映画。allcinemaのあらすじは「12歳の少女ヴィオレッタの母アンナは自分勝手で、娘の面倒をほとんど曾祖母に任せっきり。そんなアンナが、突然ヴィオレッタを被写体に写真を撮り始める。最初はきれいなドレスを着て、芸術的なセットを背景にポーズを取ることを楽しんでいたヴィオレッタだったが、次第にアンナの要求はエスカレートしていく。やがてその写真は評判を呼びアンナは新進アーティストとしてもてはやされる一方、普通の女の子に戻りたいと願うヴィオレッタはそんな母親に反発を強めていくが…」
シド・ヴィシャスが出てきたりして、実話か? と思ったら、allcinemaに「幼い頃から写真家である母親のモデルを務め、1977年に発表されたスキャンダラスなヌード写真集が世界的センセーションを巻き起こした往年のロリータ・スター、エヴァ・イオネスコが自ら監督・脚本を務め、当時の実体験をもとに娘と母の葛藤を描いた禁断の問題作」と書いてあった。なるほど。本人が監督か。ねじれてる。
最初の頃に、アンナが「娘を…しなさいよ」とバアバに言うのが意味不明で。じゃ、アンナはバアバの娘じゃないのか? 他人? でも、ヴィオレッタの母なんだよな。で、もやもやしてた。その辻褄があったのは終盤で、アンナが裁判所?に提出するため録音したテープをヴィオレッタが見つけ、再生したとき。「ママは父親にレイプされたの。望まれて生まれたわけじゃない」という音声に、ヴィオレッタが「じゃあおじいちゃんは、お父さんでもあるの?」という。んんん? この一瞬のセリフだけしか説明がないと言うのが、いかにもフランス映画。でも、とっさに分からず考えた。
アンナがレイプされて…じゃないよな。ん? アンナの母親がレイプされた? じゃ祖父が息子の嫁を? いや。「娘は15歳で出ていった」とかいってたよな。始めの方で。ってことはバアバはアンナの祖母で、祖父は自分の娘を犯してアンナが生まれた! だから、おばあちゃん、ではなく、バアバと呼んでいたのか。と分かったときは、映画が終わっていたよ。複雑な因果関係を簡単に済ますなよ。まったく。
で。これは、ちょっと頭のおかしい母親の話。『メイジーの瞳』の母親みたいに、自分のことしか考えないくせに、娘を「愛している」といいつづける。変な母親。
それまでなにをしてあたのか。いつ結婚してヴィオレッタを産み、相手がどうしたのか、は分からない。男と寝ることはしない(母親のレイプのせいか)が、芸術家とは親交のあるアンナ。エルンストという画家にカメラをもらい、家の近くにアトリエを借りてしまったらしい。
たまたまヴィオレッタの写真を撮ったら、エルンストが画商に紹介し、幼児ヌードで売れてしまう。個展、写真集、マスコミ…。ヴィオレッタもその気になって、学校へ着ていく服も派手になる。もとからアートに興味があって絵は描いていたみたいだけど、エルンストは評価していなかった。ってことは、素人レベルだったのかな。が、一躍、注目のアーチストに。これはいける、と日銭を稼ぐようにプリントを売り、また娘をモデルにエロい写真を取り出す。最初のうちは調子に乗っていたヴィオレッタ。大人みたいなポーズや衣装も好んでいたけど…。
反転するのはシド・ヴィシャスの撮影のときだ。股を広げろと言われ、切れるヴィオレッタ。あれは、ノーパンでということか。それはともかく、前夜、マリファナやって芝生で寝た後で、何もなかった、んだよな? ヴィオレッタはアンナの要求に逆らって飛びだして行ってしまうんだけど、イギリスに来てたはずだから、その後どうしたのか知らないけど、ここで決定的な断絶が生まれる。
アンナは「サンローランの服だよ」とか言ってヴィオレッタを釣るんだけど、うまくいかない。でも、なぜか知らんが母のアトリエを尋ねたら成人女性を撮っていて、切れたりする。ポルノは撮って欲しくないけど、写真は撮って欲しい、なアンビバレンツな心かな。母親には愛されたいけど、モデルはしたくない。もう、裸を晒すのはいやだ、と。まあ、当然だわな。
では、ヴィオレッタはフツーの少女に戻ったかというと、そうではないのが哀しい。すっかり慣れてしまったど派手な衣装で学校へいくんだけど、教師たちは何も言わない。これも哀しい。本人が演出しているのだから、本当にそうだったんだろうな。
アンナのモデルがエルンストと出来て「結婚する」といいだすと、アンナは落ち込む。かといってアンナはエルンストと男女関係があるわけでもなさそう。自分が、祖父のレイプで生まれた娘であることに関係しているのか。でも、アンナはヴィオレッタを生んでいるのだから、男嫌いでもなさそうだし…。よくわからん。
教師が、触れたものについて感想文を書け、といったら、学校の上級生に触れて…なになに、キスしちゃうのか? と思ったら違ったけど、あのシーンなど、説明が足りなくて危うい感じもなきにしもあらず、だな。
てなわけで、最後はヴィオレッタが母を訴えて、写真の公開を制限させるんだっけか? それでもアンナは写真を編集者あたりに売りつけたりしているのは、あれは違法ではないのかね。なんて感じで、最後のシーンはもう忘れてしまったよ。クレジットが出て、アンナやエルンストの現在、がでたんだっけかな? 覚えてないよ。ははは。
ヴィオレッタのアナマリア・ヴァルトロメイは1999年生まれらしい。ということは2011年の公開時は12歳。ううむ。基本は可愛いんだけど、でかい。妖しい魅力は、ときどき醸すけれど、存在自体が魔性な感じはしなかった。
一方で、母親役のイザベル・ユペールが60近いのはどうなんだ。せいぜい実年齢40歳未満の役者に演じさせるのが筋だろ。
ザ・バッグマン 闇を運ぶ男7/8新宿ミラノ3監督/デヴィッド・グロヴィック脚本/デヴィッド・グロヴィック、ポール・コンウェイ
原題は"The Bag Man"。allcinemaのあらすじは「殺し屋のジャックは、ボスのドラグナからある鞄を指定のモーテルまで運び、ドラグナの到着を待てとの指令を受ける。ただし、鞄の中身は決して見てはいけないとのこと。こうして道中での刺客をかわし、モーテルへとやって来たジャック。すると、レブカと名乗る娼婦に助けを求められ、かくまうハメに。そんな2人の前に、次々と刺客が現われるが…」
いったいこりゃ、どういう話なんだ? すっきり着地できなくて違和感ありありなんだけど、でも、モーテルの13号室をめぐる膠着状態がエンドレスのようにつづく中盤は、コメディじゃないのかと思うぐらいバカバカしくて意味不明でおかしかった。すっきりしないまま↑のあらすじを読めば、ジャックは殺し屋なのね。でも、映画は冒頭からジャックと親分のドラグナの話し合いのシーンで、しかも飯を食べながらの仕事の話はものすごく説得力が薄い。「カバンを受けとって俺のところにもってこい。そうすれば金を払う」という当たり前のことのために、あんなシーンは要らないだろ。でも、あえて描くバカバカしさ。
で、以降のドタバタ劇は、とてもジャックが有能な殺し屋とは思えないんだけど…。まず、カバンを受けとるとき、ジャックはドラグナの手下に右手を撃たれてしまう。そのまま指定されたモーテルの13号室へ。車椅子の怪しい管理人。侏儒のロシア人(実はサラエボ?のジプシー)と、黒人。一緒にいたエロい女性レブカ。FBIの2人、さらに警官数人が絡んで、何が何だか分からない。「ツイン・ピークス」みたい。
ジャックはカバンをベッドの下に隠す。FBIに絡まれ、逆に2人をやっつけてしまう。彼らがもっていたスーツケースの中に、なんとカバンの写真が? ロシア人と黒人から身を隠してる、と逃げ込んでくるレブカ。以後、2人はつかず離れずの妙な関係になるのが、よく分からない。
レブカと逃げようとして、トランクに入った死体(ドラグナの手下で、ジャックの手を撃ったやつ)を見られてしまうとか、ドジがつづくのは笑ってしまう。さらには、ロシア人と黒人も、カーアクションで見せつつ殺してしまう。警官に逮捕され、拷問されようとするんだけど、レブカが助けに来て、隠し銃で3人始末する。さらに、カバンを埋めるところを見られたので、管理人(実は歩けるw)も始末する。…てな具合に、接触してくる連中をどんどん抹殺していく。いったい、なんなんだ?
そんなこんなでも、ジャックはドラグナとの約束を守ってモーテルに戻ってくるというのが、摩訶不思議。まあ、約束の金をもらわなけりゃ合わない、からなのかも知れないけど。なぜかは知らんが、ジャックは14号室に潜りこみ、レブカとドラグナを待つ。やってきたドラグナは自分の信条みたいなことを延々と演説するんだけど、ちゃんと聞いてなかったよ。うっとーしーから。
で、ジャックはカバンをドラグナに渡し、一緒にクルマでモーテルをでるんだっけかな。その前に、レブカから「あたし、カバンの中味を見たの」と告げられるんだけど、なんとジャックは「この女がカバンの中を見た」とわざわざドラグナにいうんだよな。なんで。黙ってりゃいいじゃん。あと、よく覚えてないんだけど、ドラグナはモーテルを遠隔装置で爆破。死んだかと思ったレブカが登場してドラグナを射殺、だっけかな。
この過程で、ジャックもカバンの中味を知りたがり、開けて見たら…元恋人の生首? なのか? ここんとこ、よく分からなかったんだけど。ドラグナが「胴体も見つかってなかった」とかなんとか、そんなようなことを言うんだけど、ジャックの恋人が殺されたとかいう話は、最初にでてたっけ? 覚えてないや。
というわけで、なんかよく分からない展開の話であった。
と、そこで終わるのかと思ったら、実はレブカはドラグナに雇われた、あれは、職業はなんなのだ? で、始めからドラグナが計算していたとかいう話になって、また混乱。「ジャックがいい殺し屋かどうか見極める」とか言ってるんだけど、そのためにジャックの恋人を殺してその生首を入れたカバンを受け渡しさせたり、その場にレブカを絡ませたり、意味あるのか? 他の、殺されていった連中も仕込みなのか? よく分からない。かといって、もう1回見に行く気分にはなれない。ビデオが相当かも。
と思っていたら、まだまだ話はつづいて。レブカはドラグナの弁護士みたいなのに会いに行き、ジャックの手間賃500万ドル+金塊をいただいてクルマに戻ると、そこにジャックが。ううむ。2人の関係もよく分からない。以前から知っていた訳じゃないよな。あああ。よく分からない。けど、この大雑把すぎて中途半端な不思議な世界は、かなり魅力的。
とはいいつつ、ジャックがジョン・キューザック。ドラグナのロバート・デ・ニーロは、お前、出る映画、選ばないのか? と聞いてみたい。レブカのレベッカ・ダ・コスタは、毒気を抜いたスカーレット・ヨハンソンみたいな感じで、ちょっといい。
旅人は夢を奏でる7/15ギンレイホール監督/ミカ・カウリスマキ脚本/サミ・ケスキ=ヴァハラ、ミカ・カウリスマキ
フィンランド映画。原題は"Tie pohjoiseen"。英文タイトルは"Road North"。ともに「北への道」。邦題とえらい違いだ。allcinemaのあらすじは「ピアニストとしては成功したものの、ピアノに没頭するあまり妻子に出て行かれてしまった男、ティモ。ある日コンサートから帰ってくると、玄関の前に怪しげな男が寝転がっていた。目を覚ました男は馴れ馴れしく話しかけ、ティモが3歳の時に別れて以来、一度も再会したことのない実の父親レオだと告白する。翌日、レオはティモを強引にドライブに誘い出すと、ティモの運転で車を北へと走らせる。その最初の目的地は、ティモが存在すら知らなかった母親違いの姉ミンナの家だった」
公式ページには「ユーモアあふれる人間讃歌」なんて書いてあるけど、違うだろ。泥棒の親父に振りまわされる話じゃないか。それも、必然性などなく。突然現れた父親にウンザリしながら、なぜティモは父親と一緒に旅に出てしまう。その理由も分からない。邦題の「夢を奏でる」にしても、どこがどう夢なんだとツッコミを入れたい。
まず、父親が突然現れる理由が分からない。何が目的だったのか? ティモは、妻子に去られた、というけれど、その理由がはっきりしていない。さらに、妻子が去ったせいで、ローンが払えなくなり、家を売ろうとしているらしい。ん? 妻子と収入とどういう関係があるんだ? ぼーっと見てたこちらが悪いのか。ちゃんと説明してたか? さらに、父親がティモをクルマでの旅に誘うのだけれど、この意味が分からない。渋っているティモに「お前には腹違いの姉がいる。行くぞ」と言われ、気が変わってクルマに乗り込むんだけど、動機としては弱すぎるだろ。
姉の家ではそこそこの歓迎を受け…という辺りで眠くなって、30分ぐらい寝たのかな。気がついたらホテルで親子がビリヤードをしていた。
擁するにこの映画。先が分からな過ぎるので、興味を惹かないのだよな。何かの目的でどこかへ行く、という話なら、そのために幾多の困難を乗り越え、横道に逸れても元の道に戻るだろう、と思える。けど、ただ何となく旅に出る、じゃヒキが弱すぎる。
ホテルでは父親が歌を披露し、エロい母娘と気が合ってそれぞれベッドイン。がしかし、絶頂時に父親が糖尿病で痙攣? エロ母がティモのところにやってくるんだけど、戻ると父親は平気な顔をしている。インシュリンを打ったのかな。というわけで、父親もティモも糖尿病でインシュリンを打つ生活なんだけど、なんの伏線にもなっとらんのよね、これが。
ホッとして、部屋で煙草を吸ったら警報が鳴って。父親とティモは「やば。罰金を取られる」と逃げ出すんだけど。ガソリンスタンドにたどりついたら、あの母娘に財布が盗まれていた、というのは何なんだ。ほとんど意味がない。
そのあと、どこへ行ったんだっけ。もうよく覚えてない。
えーと。去って行った妻子の元に行くんだっけか。娘は父親に懐いていて、どこに妻子が去って行った原因があるのかよく分からない。ティモは凧揚げをしたりあれこれしてご機嫌を取り、妻とも仲直りという、なんかご都合主義まるだしな感じ。だって、具体的になぜ不仲になり、なぜ和解できたか、が描かれてないのだから。
で、次は父親の古い知り合いの家だったかな。「実母に合わせてやる」とかいうんだけど、亡くなった母親というのは、実母ではなかったのか。ふーん。てか、寝てる間に説明があったのかな。まあいい。さらに、なんかよく分からない会話になって。どうも30年以上前に父親は仲間何人かと強盗をして、当時つき合っていた女性と別れることになった、とか。父親が指名手配でテレビに出たとか。実母は7年間ムショに入り、その彼女を当時の仲間の男が妻にした、らしい。のだけれど、会話が断片的なので、実態がよく把握できなかった。これも、寝てる間になにか説明があったのか?
で、父親はムショに入らず、逃亡していたのか? 仲間の男が急に銃をとりだして、「お前に分け前を渡すもんか」とかいいつつ、逃げる2人に発砲。弾が父親の脇腹に当たり…。それでも父親はまだ行くところがある、とあばら屋へ。「ここでお前が生まれたんだ」とかいいつつ、最後はなんと『不射之射』の名人の話をしはじめるんだが、その話が終わると絶命って、おいおい、だよな。
で、ラストはコンサートのシーンで。会場には妻子と実母が来ている。え? 実母と行っても、父親を撃ち殺した男の連れ合いだぜ。どの面さげてやってきたんだ? だいたい父親の遺体はどう処理したんだよ。
で、父親がティモのいろんな課題を解消して、円満な家庭を取り戻してくれたような話になっているけれど。でも、それは予定外のことが起きたからだろ。計算してできた筈はない。いったい父親は、なんのためにティモを訪問したんだろう。もし自分が死ななかったら、どうするつもりだったんだろう?
・盗んだクルマで旅行、コンビニであれこれ強奪、ガソリンも勝手にいただき…と、泥棒旅行だなと思っていたら、なんだ、本当の泥棒だったのか。それにしても、むかしの強盗は、どんな内容だったのだ? 分け前は幾らのはず? 少し気になる。
革命の子どもたち7/15テアトル新宿監督/シェーン・オサリヴァン脚本/-
イギリス映画。原題は"Children of the Revolution"。allcinemaの解説は「60年代後半の学生運動から派生した2つの武装組織、日本赤軍とドイツ赤軍(RAF)。本作は、それぞれを率いて活動した女性革命家、重信房子とウルリケ・マインホフの娘たち、重信メイとベティーナ・ロールに焦点を当て、娘の視点から母親の人生をたどるとともに、波乱の幼年期を過ごした娘の苦悩と母への複雑な思いを明らかにしていくドキュメンタリー。監督はロンドンを拠点に活躍するアイルランド人監督、シェーン・オサリヴァン」
日本赤軍とドイツ赤軍。存在は知っているけど詳しくはない。なにせ、バーダー・マインホフという呼び方から、バーダーが名前でマインホフが名字かと思ってたくらいだから。日本赤軍にしても、体系的には知らない。という立場で見て、とても分かりにくい。というのも、重信房子とウルリケ・マインホフという人物に迫るのではなく、社会的経緯のなかでの彼女たちを歴史的に見せようとしているから。でも、それには尺がとても足りない。さらに、字幕を追うのに精一杯。この字幕が、頭に入ってこないのにはまいった。何を言っているのか、じっくり読んでいると次ぎに行ってしまう。もちろん映像も…。内容が難しく、それを短く要約するのが困難だったんだろう。なので、なにも知らない人が見たら、まるっきり分からないだろうと思う。その時代を生きた人間ですら分かりにくいのだから。というわけで、予習しないとダメな映画のひとつだね。
ウルリケは41歳で、獄中で縊死。ベティーナは両親の離婚後、父親に育てられたみたいだから、あまり接触がなかったんだろう。いっぽう重信房子は2000年に逮捕されていて、このとき55歳。現在は獄中で68歳。娘のメイは幼い頃5年ほど一緒に暮らしたというから、触れあいがあった。この違いだろうか。ベティーナが母親を他人事のように語るのに比べ、メイは母親を尊敬し、いまも慕っているようだ。しかも、思想的にも大きく影響を受けている。
ウルリケと重信房子。ともに組織のリーダーで、思想的にも重要な役割を果たしてきた。でも、実際に自分では人を殺したりはしていないようだ。具体的にはよく分からなかったけれど、ウルリケはバーダーの奪還作戦に関与し、重信房子は作戦参謀のようなことをしていた、のかな。だから、ともに殺人罪では起訴されていない、のかな?
とはいっても、無差別テロとかハイジャックとかあれやこれややっているわけで、直接的ではないとは言え、人を殺していることには変わりはない。革命には暴力が必要である、というようなことをいっているようだけど、そのマルクス主義的な考え方が、いまから振り返れば異様だ。いや、当時だって正しかったわけではない。ご都合主義の方便に過ぎない。
だいたい、ハイジャックして人質取ったり大企業を爆破したり空港で乱射したりして、それで戦いに勝てるわけはないじゃないか。武器を持ったこどもが騒いでいるだけだ。現在も行われているテロの源泉は、彼らがつくったんじゃないのか? テロによって国家や大多数を人質に取り、自分たちの主張を通したとしても、大半はその主張に反対しているのだから、それは独裁と変わらない。でも、大衆は盲目だとかなんだとか言うんだろ。そりゃ傲慢だ。
重信房子も、テロは過去の手段。現在は使わない。というようなことを言っているようだけど、その主張にしたって一方の側の主張を暴力的に通そうとしているだけのこと。対する側が同じことをしたら、ただのつぶし合いになる。
どちらの主張が正しいか。それは、重信メイが映画の中で言っていたけれど、どこまで遡るかによって変わって来る。原因を探っていけば、きっかけは確かにあるだろう。でも、そのきっかけのもっと以前まで遡っていけば、また違うきっかけが見えるはず。重信メイは、「パレスチナ側が先に手を出した(砲撃した)といわれているが、少年への暴行事件(だったっけかな)が以前にあった」というようなことをニュースの中で言っていたけれど、では、じゃあパレスチナは、少年ひとりの暴行にロケット砲で仕返しをする国なのか、と問うこともできる。さらに、少年の暴行の以前に起こったであろう出来事も調べれば調べられると思う。重信メイのあのコメントは、意図的に「原因はイスラエルにある」といっているようなもので、露骨に主義主張を反映してしまっている。
重信メイとベティーナ。ともに世界的テロリストの親分を母親にもったという気の毒な子供だった。でもメイは母親を尊敬し、誇り高く思っている。まあそれは、メイが幼いときからパレスチナで育ち、友人知人も多く、父親がまた革命戦士だからなんだろう。ヤクザの息子が父親を尊敬してしまうのと似ているんじゃないのかな。
岡本公三らのテルアビブの無差別乱射事件なんて、昨今頻発しているアメリカの高校や大学での乱射事件とやってることは何ら変わりがない。やってるやつらがアホなら、それを英雄視するのもアホである。ああいうのを崇める風潮があった時代があった、というのもオソロシイが。それをいまだに信じている連中がいるというのもオソロシイ。
思想的にはそういう感想なので、映画として見ても、さほど説得力のあるものには見えなかった。つまり、新しい部分は何もない。キモとなるのはそれぞれの娘のいま、ということになるんだけど、母親たちのやってきたことを客観的にみているかというと、そんなこともなくて。メイは感化されつくしている。ベティーナはどうなんだろうな。いずれにしても、2人とも立派であるとか素晴らしいとかいう気にはなれなかった。なぜって、多くの犠牲者に対する反省の色がひとつもないんだもん。でもまあ、しょうがないけど。
というなかで面白かったのが、ウルリケは頭痛もちで、脳の手術の後に性格が変わって粗暴になったらしいということ。脳に金属片を埋められたらしい。ってことは、手術のせいであんなことになった、のか。というわけからだろう。自死したウルリケの遺体から脳が抜き出され、研究されていたという。遺族はそれを知らなかったらしいんだけど、映画はそれをひどいことのように描く。でもまあ、原因と考えられる事実があったんだから、仕方がないことではないだろうか。まあ、家族の了解を取らなかったことはまずいと思うけどね。
ラストの方で、「ニュースの真相」にでてコメントしてる重信メイがでてくるんだけど。となりに上杉隆がいるのが笑えた。その番組の中で、パレスチナのイスラエルへの砲撃について、遡って考えよう、みたいなことをいうんだが。いま現在(2014年7月)も、同じようなことが原因で砲撃が行われている。まあ、困ったもんである。重信メイは、これまた、イスラエルが最初に手を出した、という話にするんだろうか。
・『旅人は夢を奏でる』で寝たので大丈夫かと思ったんだけど、台南担仔麺で昼を食べたせいか、映画がつまらなかったせいか、こちらでも10分ほど寝てしまったよ。
マレフィセント7/18シネマスクエアとうきゅう監督/ロバート・ストロンバーグ脚本/リンダ・ウールヴァートン
原題は"Maleficent"。吹き替え版。allcinemaのあらすじは「とある王国で、待望のロイヤル・ベビー、オーロラ姫が誕生し、盛大なお祝いのパーティが開かれる。招待客が見守る中、3人の妖精たちがオーロラ姫に幸運の魔法をかけていく。ところが3人目が魔法を授けようとしたその時、“魔女”と恐れられる邪悪な妖精マレフィセントが現われ、“16歳の誕生日の日没までに、姫は永遠の眠りに落ちるだろう。そして、それを解くことができるのは真実の愛のキスだけ”と恐ろしい呪いをかけてしまう。やがてオーロラ姫は、呪いを恐れた王によって3人の妖精に託され、森の奥で身分を隠して育てられる。それでも美しく成長し、幸せな少女時代を送るオーロラ姫。そんな彼女の姿を、マレフィセントは秘かに、しかもなぜか温かな眼差しで見守っていた。なぜ彼女はオーロラ姫にあのような恐ろしい呪いをかけたのか。その謎を解く鍵は、マレフィセント自身の封印された過去にあったのだが…」
けっこう面白かった。男は強欲なアホで、真実の愛は女性のものである、というメッセージが強烈。きっと女性に指示される映画というのは、こういうものになっていくんだろう。
『眠れる森の美女』は、たぶん知らないかも。
それは、オーロラにかかった魔法をとく鍵に関係してくるんだけど、後半、互いに惹かれ合っているフィリップ王子がキスしても無反応。で、マレフィセントが「オーロラを愛す」とつぶやいた途端、オーロラが目覚めたのには、呆気なさ過ぎて驚いた。またしても王子のキスではなく、女性の愛が鍵だった(キスしてたっけ?)。それにしても、『アナと雪の女王』も同じパターンだった。もう、いつか王子さまがやってくる、というのは幻想になってしまったのか。
自分がかけた呪いなのに、自分では解けないというダブルバインド的な状況に落ち込むマレフィセント。オーロラを近くで見ているうちに、自分の子でもないのに、憎い仇の子であるにもかかわらず、愛おしさが募っていく経緯が面白い。あの、マレフィセントがオーロラに注ぐ愛情は、なんなんだろう? かつて愛した男の子だから、なのか? でも、いまじゃステファンは憎いやつ。血縁を越えた、養子などへの愛情は、濃い、ということなのか。よく分からない。
いっぽうのステファン。少年の頃は純真で、マレフィセントと愛のキスまで交わしながら、立身出世の強欲に支配され、王になるためマレフィセントを殺そうかとまで思うようになったのはなんなんだ? まあ、このとき翼を切り取るだけだっのは、まだ残忍さが熟成されていなかったのか。王になってから、ステファンの強欲は高まり、妖精国を支配したい欲望に駆られていく。このあたりは、人間の、とくに男の強欲ということか。限りない支配欲は、世界の中の米国、米国企業にもよく見られることではあるけどね。
オーロラを救うためカラスのディアヴァルと城に乗り込み(簡単に人間国の城に入っていける不思議。番兵はいないのか?)、城兵と戦い、さらにステファンとの戦いとなるんだけど、かつて奪われた翼が息を吹き返し(ケースをひっくりかえしたのはオーロラだっけ? フィリップだっけ? 忘れた)、マレフィセントの背中に戻る。というわけで、ステファンが墜落死してマレフィセントの勝ち。ラスト。国はひとつになってめでたしめでたし…とナレーションが入るんだけど、周囲にいるのは妖精ばかり。かろうじて人間はフィリップ王子だけ。国がひとつになった、って、人間国と妖精国がひとつになった、というなら、もっと人間も参加してていいんではないの?
マレフィセントに実父を殺されているのに、オーロラはにこにこしている。実父の悪行は伝わっているのかいないのか知らないけど、実父よりも継母の方が信頼に足ると言うことか。
・一介の貧乏人が国王にまで上りつめる立身出世物語にも興味はあるんだけど、ほとんど説明はなし。まあ、おとぎ話だからしょうがないか。
・大人になったステファンが、冴えないおっさん面なので驚いた。童貞男のスティーヴ・カレルみたいだなと思ったら、『第9地区』のシャールト・コプリー。あれも冴えない役だった。
・3人の妖精は、どっち側なのだ? 人間国から妖精国へ招待状が出て、あの3人が選ばれた? それとも無断でやってきた? よく分からない。
・3人の妖精がオーロラ姫を育てていたのは、あれは、人間国のどこかなのか? そこにマレフィセントは気軽に入っていける不思議。でも、徒歩だよな。さらに、マレフィセントがオーロラに会っているのを、3人の妖精は知らないみたい。これも不思議。で、そんな隠れ家みたいなところに、どっかの国の王子フィリップスが迷い込んでくる不思議な偶然。いや、その前に、フィリップスはどこの国の人間なんだ? 人間国以外の、どっか別の国? 人間国の中のどっかの小国?
・マレフィセントとディアヴァルがフィリップ王子を城につれて急ぐのは、あれは、オーロラにキスさせるつもりだったのかね。でも、魔法は誰にもとけない、ってマレフィセントは分かっていたはず。あえて一縷の望みにかけた?
・羽根は切断されても死んではいなかった、と。では、なぜ自由意志でケースから抜け出ようとしなかったんだろうか? マレフィセントが一定の範囲に近づき、ガラスが割られないと動けない?
・しかし、フツーに見て魔法の使える妖精と人間が戦って、妖精の方が圧倒的に有利だと思うけどな。
・オーロラのエル・ファニングはますますぶた鼻になってきた。可愛いけど。
・歌。大竹しのぶとは驚いた。平原綾香? と思ってしまったよ。
怪しい彼女7/22新宿武蔵野館2監督/ファン・ドンヒョク脚本/シン・ドンイク、ホン・ユンジョン、ドン・ヒスン
韓国映画。原題は「??? ??」。Google翻訳したら「受賞した彼女」どでたよ。意味分からない。英語タイトルは"Miss Granny"。allcinemaのあらすじは「口が悪くて頑固な70歳のおばあさん、オ・マルスン。トラブルが絶えず、周囲にとっては煙たい厄介者。そんな彼女の自慢は、女手一つで大学教授にまで育て上げた一人息子のヒョンチョル。しかし当の息子は嫁姑問題に頭を悩ませる日々。ある日、ふらりと写真館に入ったマルスンは、いつのまにか20歳の頃の容姿に若返ってしまう。そのまま家に帰ることなく、憧れの女優にあやかり“オ・ドゥリ”と名乗って別人として生き始める。やがて孫のジハに頼まれ、彼のバンドでボーカルを務めることに。するとその歌声が人々の心を捉えていく。そんな中、どう見ても20歳とは思えない彼女の怪し過ぎる言動のせいで、次第にその正体がバレ始めてしまうマルスンだったが…」
最初のうちは、人間の紹介が下手くそだな、などと思っていた。マルスンの家族とか、マルスンが働く老人ホーム(?)の食堂のパク氏の位置づけとか、かちっ、と決まらない。でもまあ、次第に分かっては来るのだけれど。
しかし、それにしても耳障りだったのが老人たちの朝鮮語。がーっぺっ、とか、濁りがひどいし怒り口調なので、正直いって汚らしく聞こえる。ただでさえ汚らしい言語が、よけいに汚らわしく聞こえた。映画にまでしているんだから、たとえ誇張しているとはいえ、韓国の女性は中年を過ぎるとみなああいう口調、態度になるのかね。映画でもでてくるけど、儒教思想のせいで目上、年上には言葉が違うし、態度も違ってくるらしく、年を聞いただけで手のひらを返すような態度に豹変するのも珍しくないみたい。まあ、そういう文化的な背景があるから、若いマルスンが70歳のバアサン的な態度が笑えるわけだが。
おっ。ちょっと面白くなってきたな、と思ったのは、電車の中でむずかる赤ん坊に手を焼いている母親にちょっかいを出した当たりから。その後も、TVプロデューサーのハンをパトカーに乗せてしまうとか、あの辺りの暴走がおかしい。まあ、若返ったらそこまでしないだろ、と思いつつも、でも韓国のババアならするんだろうな、と妙に納得してしまう。
映画の成功は、マルスン=オ・ドゥリを演じるシム・ウンギョンの怪演にあるといっていいと思う。フツーにしてれば、まあ、気立てのいいお嬢さん顔。ブスとは言わないけど、十人並み以上の顔立ち。なのに唇を歪め、顔をしかめて罵声を浴びせる。しかも、ちょっと猫背で。だから、どうやっても不細工に見える。まあ、もともと可愛い系列ではないと思うけどね。でも、たまに、ふっと可愛く見えるからオカシイ。
で、前半はたんなるドタバタだったんだけど、中盤からは歌手になるという道筋が見えてきて、そっちのサクセスストーリーでひっぱりつつ、ハンとのロマンスが絡んでくる。一方で、パク氏が若返ったお嬢さんに発情するといったネタもあって、なかなか笑わせる。
下半身ネタで面白かったのは、マルスン=オ・ドゥリが乳母車の赤ちゃんのちんちんをつまんで食べる真似をするところ。そういう風習があるのか。バアサンがやると許されるけど(?)、それを20歳の若い娘がやってしまい、顰蹙…というのもおかしい。
テレビの新人スター紹介番組にでたときだっけか。哀しげな歌の背景に、マルスンが乳飲み子を抱えて苦労する場面が重なるんだけど、それはなかなか泣かせどころ。これで評価が高まったんだけど、でもだったら、かつてマルスンが、奉公先のどじょう屋のタレを盗み、そのどじょう屋より繁昌させて、奉公先のどじょう屋が潰れて悲惨なことに…というエピソードは要らなかったんじゃないのかね。
プールで出血し、そこから老化が始まるということになっているんだけど。どんどん老化が広がるのかと思ったらそうでもなく、これがラストへのなかなか泣かせる伏線になっているのは渋い。つまり、一緒にバンドをやってる孫が事故に遭い、輸血が必要…。合う血液がマルスン=オ・ドゥリしかいない…というので、輸血を決意するのだ。若さをとるか、孫を取るか。まあ、孫だわな。
それはいい。それはいいんだけど、この過程で息子がオ・ドゥリはマルスンだ、と気づいてお涙ちょうだいの長ゼリフをいいだすんだけど、あれは要らないだろ。だって、フツーそんなことあり得ないんだから。だから、あそこは(ひょっとして?)という疑念ぐらいにしておけばよかった。
で、手術室に入っていくオ・ドゥリ。ハンとの恋物語も捨てる覚悟なんだけど、これも哀しい。は、いい。なんと、次は1年後、コンサートで、メインボーカルは孫娘になっている。おいおい。そんな才能がどこにあった? いや、それより。輸血の過程でオ・ドゥリがどんどんしぼんでいってマルスンになっていく…という現象は起きなかったのか? いや、それはちゃんと描くべきだろ。手術室の中から、きゃーっ、という声が聞こえるとか。それぐらいしてもいいと思う。
で。老人に戻ったマルスン。ところが今度は、パク氏が青春写真館に迷い込んでしまう。これは冒頭で、マルスンが迷い込み、若返った場所。バス停にいるマルスンのところに、バイクの美青年。これが、若返ったパク氏で、お嬢さん=マルスンと一緒にバイクで消えていく、というオチも楽しかった。
・パク氏はマルスンを「お嬢様」と呼んでいるけど、その後、マルスンの家は没落したのかね。夫がドイツで客死し、幼い息子と苦労を重ねる訳なんだけど、その辺りの経緯がよく分からない。
・息子の嫁が、これがひどい不細工で。なんでこんな嫁をもらったんだ? というような有り様なのがおかしい。
・その嫁は、マルスンの罵声がストレスとなって心臓病を引き起こすんだけど、ラストでは、言われるがままではなく、言い返す術を学んでいた。そうだ。年長者の言いなりになることはないのだ! ということなのかね。
オール・ユー・ニード・イズ・キル7/24ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/ダグ・ライマン脚本/クリストファー・マッカリー、ジェズ・バターワース、ジョン=ヘンリー・バターワース
原題は"Edge of Tomorrow"。桜坂洋の『オール・ユー・ニード・イズ・キル』が原作。のallcinemaのあらすじは「謎の侵略者“ギタイ”の攻撃によって、人類は滅亡寸前にまで追い込まれていた。そんな中、軍の広報担当だったケイジ少佐は、ある時司令官の怒りを買い、一兵卒として最前線へと送られてしまう。しかし戦闘スキルゼロの彼は強大な敵を前にあっけなく命を落とす。ところが次の瞬間、彼は出撃前日へと戻り目を覚ます。そして再び出撃しては戦死する同じ一日を何度も繰り返す。そんな過酷なループの中で徐々に戦闘力が磨かれていくケイジ。やがて彼はカリスマ的女戦士リタと巡り会う。彼のループ能力がギタイを倒す鍵になると確信したリタによって、最強の“兵器”となるべく容赦ない特訓を繰り返し課されるケイジだったが…」
『アバター』以来の3D。2Dでよかったんだけど、時間が合わずに仕方なく。しかし小さな画面で立体効果もいまいちだし、メガネのせいで画面は暗くなるしで、あんまり意味がなかった。
話はシンプルで、ギタイという宇宙人が地球を侵略していて、最後の生命線はヨーロッパ。後がない、という戦線にケイジ少佐が送られる。といってもケイジは広告屋で、でもなんで会社が潰れて(だっけ?)、兵士募集の公告をつくっていた。それがいきなり前線に送られそうになり、抵抗したら階級剥奪で一兵卒で荒くれ小隊に放り込まれる。その後は戦線で死ぬたびに生き返り、でも起こることは一緒なのであれこれ身体で覚え込み、どんどんステージを進んでいく。最後はフランスまででかけていって、宇宙人のボスをやっつける、という話。
そもそもなぜケイジは再生能力を身に付けたのか。宇宙人の体液を浴びたからとかいってたけど、なんで? 他の人間だって同じようななることはあるだろうに? なんかあれかね。宇宙人にも女王蜂と働き蟻がいて、女王蜂とはめったに遭遇しないから? ってなことなのか? ご都合主義。
で、こうやって再生するのは自分だけかと思っていたら、戦場で出会ったリタという女性兵士が同類で「こんど生き返ったら私に声をかけて」というので早速。というわけで、次からは戦場に行く前日譚がなんどもリプレイされる、という具合。
途中、リタがヘリに乗るとき、ケイジが「乗ると死ぬ」とかというんだけど、でも、結局それもリプレイなんだから、問題なかったじゃないか。大騒ぎする理由が分からない。
何度もリプレイしてるから勝手知ったるなんだろうけど、カフェに行ったかと思うとリタに会い、さらには別の町に行き、なんと最後はヘリに乗ってパリまで行ってしまう。前日が何時間あるんだか知らないけど、そんな余裕があるのかよ。
死ぬか殺されないかしないとリプレイできないらしい。で、ついに死ぬことなく救出され、輸血されてしまう。それで荒くれ小隊の面々を説得して、ヘリをかっぱらってパリへ行くんだけど。そっから先は行き当たりばったりのご都合主義。ボスがどこにいるかもテキトーで、どうやってやっつければいいかも不明なまま突撃し、なんとかボスをやっつける。もちろんケイジも爆死するんだけど、なんと、またまた生き返ってしまう。これはきっと、最後に爆死したときまたボスの体液をかぶったからなんだろう。まあ、いいけど。
しかし、生き返るタイミング=時間というのは、どうやって決まるのだ?
で、最後に生き返ったケイジは、大佐のままで階級剥奪されていない。どういう経緯があったのか分からないけどね。でも、ちらっとテレビ画面が映り、大洪水で人間側有利、とかどうたらこうたらといっていて、ではケイジたちがやったことの効果がでたということなのか? でも、蘇った時間は以前と同じで、決戦の前日だよな。だって、リタとであうのも以前と同じなのだから。では、これから決戦に臨むと云うことなのか? こんどは勝ち戦? でも、そうすると初めての体験ということになるんだよな。ってことは、今後もまた同じこどの繰り返しなのか? 戦に勝って生きながらえたら、そのままの時間が進んでいく? なんかよく分からない。
けど、なんとなくハッピーエンドにしているようなのは分かったけど。
しかし、リプレイ能力はもともとギタイがもっていたものだよな。あの能力を駆使すれば、圧倒的に宇宙人有利だろ。そうしか見えない。
●で。数日後にムービープラスで『ミッション:8ミニッツ』というのを見たんだけど。なんと、同じ過去を繰り返して真実に迫るという話で、なんだよ、同じような話ではないか。こちらは2011年の映画。ってことは、こっちが早い。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』がパクリ? とはいえ、何度も過去をやり直すという話はいくらでもあるからなあ。むしろ『ミッション:8ミニッツ』は『インセプション』っぽい感じとかあったりして、話としては深いような気もするんだが。
パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト7/29新宿武蔵野館1監督/バーナード・ローズ脚本/バーナード・ローズ
原題は"The Devil's Violinist"。ドイツ映画なんだと。allcinemaのあらすじは「1830年、イタリア。不世出の才能に恵まれながらもスポットライトを浴びることなく不遇の日々を送っていた天才ヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニ。ある日、その才能に目を付けたウルバーニと名乗る男が現われ、“君を世紀のヴァイオリニストにしてあげる”と宣言し、マネージャーを買って出る。そして巧みなイメージ戦略で、瞬く間に彼をヨーロッパ随一のヴァイオリニストへと導いていく。しかし富と名声を手にしたパガニーニは、酒と女とギャンブルの放蕩三昧に明け暮れる。そんな中、噂を聞きつけたイギリスの指揮者ジョン・ワトソンに招かれ、ロンドンへとやって来たパガニーニ。彼はそこで、歌手を目指すワトソンの娘シャーロットと出会い、その歌声に思いがけず心打たれるのだったが…」
冒頭に子供時代に技巧を駆使してバイオリンを弾き、父親だか教師に叱られるシーン。次は、成人後。舞台の合間に登場して技巧を凝らして弾きこなすけど、相手にされずバカにされるという場面。次は、それを見たウルバーニという男が「お前を売り出してやる」と接近してくる。もうひとつ、イギリスの指揮者で呼び屋もやってる(?)ワトソンという男の話が絡んできて…という流れなんだが。話がブツ切れで接続詞が足りない。大河ドラマの総集編みたいで、大雑把な流れは分かるけど人間の掘り下げはほとんどなく、うわっつらの描き方。なので、こちらも、あーそーですか、と見ているだけみたいな感じ。
そもそもパガニーニは何を考えて生きていたのか。イタリアではどう受け止められていたのか。よく分からない。舞台の合間にちょっとでるだけで生活費は得られていたのか? の割りに放蕩三昧で、女はとっかえひっかえ。博打は大切なバイオリンを賭けるまでになっている。いったいこの男、バカか。
という男に接近してきたウルバーニはどういう人物なのか、さっぱり分からない。国内でコンサートを重ね、名声を…というシーンもないのに、イギリスではパガニーニに注目するワトソンがいる、というのもよく分からない。で、ワトソンから「イギリスで興行したいが…」ともちかけ、支度金とかなんだとかどんどん送らせ、でもパガニーニはまったく行く気がない。って、どーなのよ。ウルバーニはそれで仕事を達成していることになるのか?
最初の頃は、ウルバーニが悪魔で、彼にすべてを任せたパガニーニ、ということなのかと思ってた。でも、そーでもなさそう。って、ウルバーニは割りとフツーっぽいし。たんなるやり手のプロモーターなのか? な感じ。
何度も無心して、とうとうワトソンは家財を抵当に入れられ、破産状態、ってアホか。それじゃ、パガニーニが渡英してコンサートを開いても、合わないんじゃないのか? でもまあ、そんな状態のところにやっとパガニーニがやってきて。娘のシャーロットを召使いとして働かせたら、パガニーニがめざとく燃えてアプローチって、おいおいな感じ。
ロンドンにもパガニーニの不良ぶりは聞こえていたらしく。女性向上なんとか団体というのがデモ行進して、宿泊するべきホテルを追い出され、ワトソン邸にやってくるんだけど。この女性団体が面白い。もっと描き込めばいいのに、もったいない。
国王から、宮廷で演奏するよう依頼状が来るんだけど、それは無視。ワトソンは「チケットも売れてないし、国王の前で演奏するのはPRになる」っていうのに、「国王を劇場に招待すればいい」なんていうんだからな。でもその代わり、やり手の女性記者と夜のパブに行って超絶技巧を疲労すると大騒ぎ。このおかげ(?)で劇場は満席になったらしいが、なんたって話がブツ切れだからなあ。
で。イギリスでのパガニーニは割りと真面目で、練習もすれば、先に触れたように夜のパブで無料演奏したりとプロモーション活動をする。切替がうまいのかね。イタリアにいたときのダラダラぶりとは大違いじゃないか。別人みたい。
で、コンサートは大盛況。国主もやって来て拍手喝采。若い娘たちが出待ちしてて大騒ぎ…という様子を見ると、まさに現在のアイドルと同じではないか。この時代、クラシックが市民の人気の的だったのか。へー。これは面白かった。
最初は毛嫌いしていたシャーロットも、演奏を聴いたら心もメロメロになってしまって…。早速結婚話まで進むんだからおかしい。女はバカだね、としか思えない。で、2人はどんな経緯をたどったんだっけ。もう詳しくは忘れてるよ。えーと。ウルバーニが泥酔したパガニーニにシャーロットに似た娼婦をあてがい、パガニーニは夢うつつでまぐわって…というところにシャーロットがやってきて現場を目撃…で、破談、てな感じだっけ。これは、ウルバーニの策略だったのか。でもどんな? よく分からない。
イギリスでのコンサートが何回あったのか知らないけど、パガニーニはさっさと別の国へツアーに出かけ…な感じで、時間の経緯とか大雑把すぎてなんだかよく分からない。パガニーニはコンサートの売上も大半せしめる魂胆らしかったけど、ワトソンは負債をリカバリできたんだろうか。ちょっと心配。
パガニーニはシャーロットには手紙を書いたりしてたけど、無視されて。と思っていたら、なんとシャーロットは別の男と出会って結婚し解任中…って、話を端折りすぎだろ。
そのうちなんでかウルバーニはパガニーニのもとを去り、病床の様子が描かれるんだけど。あそこには誰が来ていたんだっけ。もう忘れてる。というか、後半の時間の流れがざっくりしすぎて印象に残らない。
Wikipediaによると「パガニーニの演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」といわれたらしいけど、そのあたりがほとんど描かれていない。最初から上手いんじゃ、だからどーした、な感じだ。ウルバーニが「私は悪魔じゃない。悪魔に心を捧げている。そして私はあなたの召使だ」とかいう場面があったかと思うんだが。じゃあ、パガニーニが悪魔? タイトルは「悪魔のバイオリニスト」だが、そのあたりがまったく伝わってこない。
「ケン・ラッセルに捧ぐ」と字幕が出ていたけど、どういう意味なんだろ。
ジゴロ・イン・ニューヨーク7/29新宿武蔵野館1監督/ジョン・タートゥーロ脚本/ジョン・タートゥーロ
原題は"Fading Gigolo"。allcinemaのあらすじは「ニューヨークのブルックリンで、3代続いた本屋を自分の代で潰してしまったマレー。失業で途方に暮れていた彼はふとしたきっかけから、花屋でバイトする友人のフィオラヴァンテをジゴロに仕立てると、2人で愛に飢えた女性相手のいかがわしいビジネスに乗り出す。すると意外にもフィオラヴァンテの優しいジゴロぶりが評判となり、マレーの巧みな営業活動と相まって商売は思いのほか大繁盛。調子に乗ったマレーは、新規顧客としてユダヤ教の中でも厳格な宗派に属しているラビの未亡人アヴィガルを言葉巧みに勧誘する。しかしフィオラヴァンテとアヴィガルは互いに惹かれ合い、秘密の逢瀬を重ねるようになってしまう。それは、ジゴロにとってもユダヤ教徒にとっても決して許されることのない禁断の恋だったのだが…」
十分に理解できたとはとても言い難い。というのも、言葉足らずの表現があることもそうなんだけど、背景に色濃くユダ教徒の生活風習が描かれていて、どういう意味なのかよく分からないところがあるからだ。たとえば最初は四つ角での事故で、そこにユダヤ教徒の恰好の警官がやってきて仲裁するんだけど、いったい何の意味があってこんな場面を描いているのか分からない。他にも、最後の方にはラビによる審問会(?)みたいなのが開かれ、そこで弁明したりするんだけど、これもよく分からない。ウディ・アレンの映画には"ユダヤ人"がよく登場するけれど、こっちは"ユダヤ教徒"の世界の中での話なのだ。どう分かれというのか。でも、きっと何か意味があるに違いない、と思ってはいるのだが…。
マレーの主治医パーカーが「私たちレズなんだけど、3Pの相手に誰かいいひといない?」と聞くというのが、まずあり得ない。マレーはフィオラヴァンテがちょうどいい、と思い、彼を説得する。が、なぜ彼を思い浮かべたか、分からない。そもそもフィオラヴァンテがどういう人物か、よく分からない。いやだといいつつ、でも、結局その気になって男娼となる理由も分からない。でもまあいい。ファンタジーなんだろうから。
フィオラヴァンテがどういう心持ちでいるのか、分からない。まあ1回に20万も稼ぐのだから、金なのかもしれない。にしては、淡々としすぎ。
で、結局のところこの映画、キモはフィオラヴァンテとアヴィガルの純愛なんだから、パーカー医師(シャロン・ストーン)とレズ相手のセリマ(ソフィア・ベルガラ)は、なんか中途半端な存在感だな。もったいない気もしてしまう。
まあいい。で、敬虔なユダヤ教徒の寡婦との関係が、実はあまりよく分からない。最初はマレーが、子供たちのシラミ取りに連れていく。ユダヤ人の寡婦は、そういうのが得意なのか? なうち、マレーはアヴィガルにフィオラヴァンテをあてがうのだけれど、どういう魂胆だったのかよく分からない。そもそもアヴィガルがお金を持っているとも思えない。男に不自由している…のはあるだろうけど、すでに子供を6人生んでいる母親だ。いくらヴァネッサ・パラディ(すきっ歯だけど、可愛い)が演じたとしても不自然さはぬぐえない。しかも、最初は背中のマッサージ…って、どういう話のつけ方をしたんだ?(公式HPではセラピーとなっていた) セックスの相手ではなく、マッサージ? でも、素肌の背中へのマッサージで彼女は涙する。本心はそんなに男に飢えていた? リアリティないね。
その後も逢瀬は重ねるが、性的関係があるようには見えない。だけど、寡婦は外で髪を見せてはならない、という教えに背いてフィオラヴァンテに見せるというのは、交わっているということなのか? 分からない。
ど、なぜかフィオラヴァンテとアヴィガルは、本当に愛し合ってしまう。とはいっても、ユダヤ教徒の寡婦が男娼に恋をしたといえるのかどうか、分からない。だって、2人は買う・買われる関係にあったのかどうか分からないからだ。まあ、どっかでそれが読み取れる場面があったのかも知れないけど、分からなかったんだからしょうがない。
というわけで、パーカーとセリマに呼ばれ、いざ3Pというとき、出来なくなってしまう。パーカーは「恋をしてるね」と見抜くのだけれど、そんな冷静でいいのかよ、先生。
その後の展開もよく分からない。アヴィガルはラビに審問会議(?)に呼び出され、もう会わない、と宣言するのはなんで? 恋よりも教義? そんなにユダヤ教はしばりが強いのか? というわけでアヴィガルはフィオラヴァンテに会って「さようなら」をいう。でも、再婚という選択肢はないのかい? それとも、相手が男娼ではダメなのか?
というところで気になるのが、ユダヤ教徒の警官。彼は必死にアヴィガルにアプローチし、降られまくっている。でも、アプローチするということは恋人になりたい、結婚したい、という気持ちがあるからじゃないのか? なんとなく、ラストは、アヴィガルがその警官と将来的に結婚しそうな感じだったんだけど、さて、どうなるのかね。
というわけで、いろいろ分からないところだらけであった。
・マレーは黒人女性と暮らしている。子供もたくさんいる。けれど、みな黒人。ってことは、奥さんの連れ子? なんであんなに養子にしてしまうのか、よく分からない。というか、ホントに夫婦かどうかもよく分からないよ。
・マレーの子供たちとアヴィガルの子供たちで野球する場面があるんだけど。どういうチーム分けにするかで揉めて、最初は宗教で分け、次は人種で分けよう、とかいって、それはダメだとかなるのだが、ややこしいアメリカの人種、宗教の現状を見せようとしているのかな。

 
 

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