2014年10月

海を感じる時10/06シネ・リーブル池袋2監督/安藤尋脚本/荒井晴彦
allcinemaのあらすじは「高校1年生の恵美子は授業をさぼって新聞部の部室にいたとき、突然入ってきた先輩の3年生・洋にキスを迫られる。ところが洋は、“君が好きなわけじゃない、女の人の体に興味があっただけ”と悪びれるでもなく告白する。父を早くに亡くし、厳格な母親の下で愛を知らずに育った恵美子は、そんな洋に心奪われてしまうが、洋は決して恵美子の愛を受け入れようとはしなかった。以来、洋にどんなに冷たくされても、体だけの関係でもかまわないからと、彼を追いかけずにはいられない恵美子だったが…」
中沢けいの原作は読んでいない。端的にいってつまらない。セリフも話も観念的で、どこにも説得力がない。画面はアップばかりで、全身映る場面は極端に少ない。街の風景もでてこない。家族や同級生、友達もでてこない。たとえば洋と恵美子の所属する新聞部の、他の部員や教師もでてこない。どころか、部室の中だけで、学校そのものが登場しない。洋は一人暮らし? 家族と暮らしてて、どこでセックスするんだよ? とか疑問だらけ。あと、音楽がないのも異様。ラスト近く、恵美子が母親のいない実家にもどり、ピアノを弾く。おお。やっと音楽か。エンディングテーマは下田逸郎(だっけ?)、あと劇中歌に荒井由美の名ががあったが、どこで鳴っていた記憶にない。
役者の顔が分かりづらい。洋はずっと花屋の娘と同級生と、二股かけてると思ってた。恵美子を演じる市川由衣を知らないのがいかんのかもしれないが、それにしてもひと目見て違いが分かるぐらいの撮り方をしてくれないとな。同級生は髪の毛が長くて、花屋の娘でいまつき合ってる相手は髪の毛が長い、だけが判別材料で見ていたんだけど、別人かと思ってた。
というより、時制が分かりにくいのだよ。これは現在、これは過去、と分からないようにつないでる。無神経すぎる。
花屋の同僚が「おねえさん」と呼ぶので、ふたりは姉妹かと思ったら違って。このときは、バイトで使われる方の女かと思ってた。で、その2人で居酒屋に入って、ふたりの関係が分かってくるって、下手な演出。しかし、女二人で、しかも二十歳そこそこで、居酒屋に入るか? だれに教わったんだよ。しかものむのが日本酒で、なんと店主が2合徳利2本「はいよ」って出す。おいおい、飲みすぎだろ。
映画の最初は、男女カップルが道を歩いていて、子連れの家族とすれ違うんだっけか。その後、裸のままうずくまった姿が正面から捉えられるんだけど。女の方が、胸がえぐれてるんじゃないか、って見えるような姿勢なのだ。乳首を隠すためか? まったく美しくない。そのごセックスシーンがあって、乳房が登場する。かなりな貧乳。なんだ、乳首が問題ないなら、あんな妙な体育座りを裸でさせるなよ。
それにしても、セックスシーンか多いけど、意味ないようなのばっか。前戯もしないでさっさと入れてさっさと果てる。高校生だからか? と思っていたんだけど、それは現在のふたりであって、23、4になってるのだよな。環境や時間の経過が見えないんだけど、彼はまだ大学生なのか? とはいいつつ、まだ高校生だと思って見てたんだけどね、実は。ははは。
どうやら恵美子は先輩の洋が好きで、抱かれてもいいと思っているらしい。そういう態度を示したら、洋は「僕は君が好きじゃない。でも女性には興味がある」とかいって胸を揉み、ついには部室でセックスしてします。しかし、なに気取ってやがんだこのヤローだよな、洋って。そういう男に「それでもいいから」ってカラダを許すバカ女。高校生だろ、それも1年か2年。アホか。どこがいいんだ。意味がわからない。
この辺りだったかな。もしかして、同じ女か? と気づき始めたのは。
で、妊娠した、って男に迫る。バカか。コンドーム使えよ。しかも、「産む」という。アホか。しかも、洋に伝えてすぐ生理がくる。クルクルパーだな、この女。
母親が女に見せた手紙はなんなんだ? と、ずっと思っていた。男が、送られてきた手紙を女の家に送り返した? それを母親が勝手に開けて読んだ? あたりから、やっとわかってきたよ、ふたりは同じ女で、過去と現在の時制を交互に見せているのが。やれやれ。市川由衣なんて知らないし、顔も分からんよ。ところでこのとき、恵美子は高校生なのか? 洋はすでに上京し、そこに手紙を送っていたんだろうけど。よく分からない。
とまあ、ずっと見てきて。なかなかドラマが転がらない。結局のところ、バカな女の話なのか? 母親に自分の書いた手紙を「読め」といわれ、淡々と読んでるんじゃないよ。泣け! 感情を出せ。とか思ってしまった。
しかし、このシーンで母親が娘の恵美子に向かっていう罵り言葉が「乳繰り合って」「春(はる)売り!」って、前時代的だろ。本が出た当時はこんなものだったか? しかも、恵美子が洋のところへいってセックスし、帰ってきて「ハラヘッタ」。これにむかついて準備した夕食を捨てる母親。それに対して、茶箪笥から煎餅取り出して齧る女。なんて家だ。あ、まてよ。じゃあ、この時点で洋はまだ高校生? それとも、恵美子が東京に行ったんだっけかな? よく分からない。
女が彼のアパートに行くと不在で、斜向かいの女が「パチンコじゃない」とかいうシーン。これをみて、ああ、これが過去と現在をつなぐようなシーンなのかも、と思った。すでにこのときは恵美子も上京していたのかな。最初の、仲のよいふたり、に合流するのだろう。まあ、細かい時間の流れは描かれてないから分からないんだけど。
どういういさかいがあったかは覚えてないんだけど。恵美子が洋に物を投げるシーンがあって。これを見て、恵美子の母親が娘にモノを投げるシーンを思い出した。モノを投げる女になってしまうのは、母からの遺伝かね。
それにしても分からないのは、恵美子が上京して二人がつき合うようになってしまったこと。洋ははっきりと「好きじゃない」といっていたのに、それが洋の方から「一緒に暮らそう」なんて言うようになったのは、何がきっかけなのだ? そういう心の変化を描かないんじゃ、映画じゃないだろ。
そういえば、付き合いを断るために(だっけかな?)に、洋が姉に頼んで恵美子に会ってもらい、断らせるという場面があった。情けない手を使うね、洋も。ていうか、女に不自由してなかったということか。じゃあなんで恵美子と? しかも、姉と恵美子は乳首の話かよ。乳首の黒いのは、やりまくってるから、とか、あほか。てか、このエピソードは現在?
恵美子の母親が上京してくるという日にわざわざ洋が来たのは、現在のエピソードだよな。で恵美子は学生なのか? 洋に「あんな大学落ちるなんて」とか言われてたけど、なんで上京したんだ?
恵美子は何で荒れたんだっけ。覚えてないや。それで(行きつけの? そんなのがある時点で異常な娘)居酒屋にひとりで行って、荒れて、たまたま一緒に追い出された男と気が合って? あれはおっさんの部屋なのか? 乳繰り合って手首縛られてのセックスには何の意味があるんだ?
その後だっけ。恵美子が風呂屋でひとり。ぺったん座りしてるんだけど、マンコが床につくだろう。病気になるぞ。で、鏡に映るシャワーのホースが首つりのひもに見えるんですけど。それにしても、他に客のいない風呂屋って、あり得ないだろう。
ときどき映る、恵美子のシュミーズが時代を感じさせるね。ってことは、時代設定は原作のままということか。それにこだわる理由は何だろう?
恵美子に「他の男と寝た」といわれ、洋が怒るのが変。そんなに洋は恵美子に執心するようになったのか? しかも、ケンカしながらバックでセックス。なんか、五木の「内灘夫人」を連想してしまったよ。男は、嫌いな相手にも勃起してセックスできる、というようなところがね。
あ、風呂屋のシーンはこのあとだっけ?
その後、恵美子はひとりで実家に行く。母親は、どっかの寮に住み込みで働きにでてたはず。翌朝、恵美子は裸足のまま家から浜辺にでて海に向かう。こんなことまでして、やっと自分がバカだって気づいたのか? 遅すぎるだろ。
ずっと、どどどどどと…低音が聞こえていたんだけど、この映画のものなのかな? それとも隣の映画館の響きなのか? 不明だ。
猿の惑星:新世紀(ライジング)10/06新宿ミラノ1監督/マット・リーヴス脚本/リック・ジャッファ、アマンダ・シルヴァー、マーク・ボンバック
原題は"Dawn of the Planet of the Apes"。allcinemaのあらすじは「高度な知能を獲得した猿のシーザーが自由を求めて立ち上がり、仲間たちを率いて人類への反乱を起こしてから10年。猿たちは進化を加速させ、森の奥に文明的なコミュニティを築いて平和に暮らしていた。一方人類は、蔓延したウイルスによっておよそ90%が死滅し、わずかな生存者グループは、荒れ果てた都市の一角で身を潜めるように暮らしていた。そんなある日、電力が底をつきかけた人間たちは、ダムの水力発電を利用しようと猿のテリトリーに足を踏み入れてしまい、一触即発の危機を招く。最悪の事態だけは避けたい平和主義のマルコムは、猿のリーダー、シーザーと接触し、次第に信頼関係を築いていく。やがて2人は猿対人類の全面戦争を回避すべく仲間たちの説得に力を尽くすのだったが…」
前作は、アバウトにしか覚えていない。シーザーが人間に調教され、暮らしていたけど、ちょっとしたことで危険視され、檻に入れられてしまう…だっけかな。そのあと、エイプの大逆襲があって、で、みんなで山に逃げ込む、で終わったんだっけか。テキトーだな。
今回の映画では、猿ウィルスが蔓延してどーたら、という話があったけど、前回にもあったっけ? よく覚えてない。そして、そのときから10年。エイプたちはシーザーを首長に抱き、山の中で暮らしつづけてきた。手話と片言の言語がしゃべれる様子。ずっと人間とは遭遇しなかったけれど、ある日、数人の人間が侵入しているところに遭遇。人間は、エイプが言葉をしゃべることに驚き、一方で人間のひとりはエイプに発砲してケガを負わせる。エイプは、数の威力で「二度とくるな」と追い返すが、簡単に引き下がれない理由が人間にはあった。それは、ダム発電。なんと、エネルギー問題をもってきた。なるほど、さすが。かなりの骨太な内容である。
エイプには、シーザーに忠誠は誓うが本音では「人間に甘い」と不満たらたらなコバという実力者、モーリスというオランウータンの知恵者、シーザーの息子で反抗期のブルーアイズなんかも登場する。一方、人間側にはエイプに敬意を抱くマルコム、リーダーのドレイファス、エイプに疑いの目を向けるカーバー。いやもう定番というかステレオタイプというか、これからドラマを動かしそうな役割を担った連中ばかり。具体的には、カーバーが銃を隠していてトラブル発生、シーザーの妻の病気を人間が治す、シーザーは死んでいなくて、甦る…なんていうエピソードは露骨に事前に分かるんだけど、それこそ作り手の思うつぼで。観客は、第1作目(猿が支配し、人間狩りする社会)へと徐々に近づいていってることをひしひしと感じながら見ることになるわけで、意外な展開はなくてもいいのだ。観客は、予想通りの展開に、満足するのだ。そういうつくりになっている。
エイプとしては、人間にきてもらっては困る。人間は電気が欲しい。ドレイファスは「戦う」というが、マルコムは説得を主張。再度、シーザーに会い、ダム設備の再開は了承する。でも、人間側にはカーバーというトラブルメーカーがいて、持ち込んではならない銃を隠しているのが見つかって話はオジャン。コバは人間不信から人間の基地に偵察に行き、そこで重火器を試射している連中と遭遇。そのことをシーザーに伝えようとするが無視され、再度偵察に行って人間を射殺してしまう。
人間が猿を撃つ→カーバーの嘘→コバの人間射殺…ときて、バランスは取れてるのかな。いくぶんエイプの方が過激に見えるんだが。
で、コバはさらにエスカレートして、シーザーを射殺し、それが人間のせいであるかのように喧伝し、エイプの一団を人間基地に向かわせる。大戦争だ。
このあたり、いろいろに読める。エイプの進化は、人類の進化の再現のようだ。みずから銃を製造できないエイプが、銃器を手にして人間に立ち向かう姿は、アフリカやアラブ諸国の人々が白人に反抗する姿にダブる。コバのシーザーへの反は、権力闘争。それまで「猿は猿を殺さない」という定めできたものが一気に崩れる姿は、人間の歴史を見るようだ。こうした含みのある展開に、先が読めるも読めないもない。圧倒的だ。
で、予想通りシーザーは生きていて、マルコムたちに助けられる。コバの偽りを知ったブルーアイズも改心。シーザーとコバの肉弾戦で、塔から落下しかけたコバが「猿は猿を殺さない、だよな」というと、シーザーが「お前はエイプじゃない」と冷たく突き放す。しびれるね。こうやって人間の憎悪や愛情は育まれてきたに違いない。
アホなのがドレイファスで、エイプたちが上って集合している塔を爆破しようとする。それをマルコムが阻止しようとするのだけれど、自ら犠牲となって爆死(したんだと思う)する。このあたり、ムダなことに名誉と勇気をもちだす連中にそっくり。それは、洋の東西を問わないけど、イスラムの自爆テロを連想してしまうよな。
どうやら人間グループは他にもいて、ドレイファスは得た電力で無線機を使い、応援を頼んだ、らしい。でも、話はここで終わっているので、次にどうなるのかは分からないけれど、次回は大戦争になってエイプ軍の勝利になるのかね。
思い出のマーニー10/07キネカ大森3監督/米林宏昌脚本/丹羽圭子、安藤雅司、米林宏昌
allcinemaのあらすじは「北海道の札幌に暮らす中学1年生の杏奈。辛い生い立ちから心を閉ざし、誰とも打ち解けることなく孤独な日々を送っていた。そんな中、持病の喘息が悪化し、転地療養のために海辺の村でひと夏を過ごすことに。そこで杏奈は、入江に建つ誰も住んでいない古い屋敷を目にする。地元の人が湿っ地(しめっち)屋敷と呼ぶその建物に、なぜか懐かしさを覚え惹かれていく杏奈。その屋敷は杏奈の夢の中にも現われるようになり、必ずそこには金髪の少女の姿があった。ところがある晩、湿っ地屋敷へとやって来た杏奈の前に、夢で見た金髪の少女が現われる。少女はマーニーと名乗り、“わたしはちのことは2人だけの秘密よ”と語る。そんなマーニーにだけは心を開き、いつしかかけがえのない友情を育んでいく杏奈だったが…」
ずっと陰気な話がつづく。杏奈にだけ見える、屋敷の少女マーニー。その彼女に惹かれて毎日のように通う。まるで「牡丹灯籠」じゃないか。まあ、生気を抜かれはしなかったけど、不吉な感じがしてしまう。それと、説明ゼリフが多い。
でその杏奈という娘が、やな娘なのだ。喘息で、母親(義母らしい)の姉(?)の家にひとりやってきて、ひと夏を過ごすんだけど。そもそも義母のことを"おばさん"と呼ぶ。田舎でも交流を避け、ひとりでスケッチブックをもってふらふらする。伯母の家に出入りする家の娘と七夕かなんかに行くんだけど、その娘を"太っちょデブ"とか呼んでしまう。なんて神経の持ち主だ。それ以外にも行方不明になって道で行き倒れたりなんだかんだ、心配させっぱなし。なにをひねてるのかと思ったら、最後の方でつけ足しのようにネタバラシがあって。実はマーニーは杏奈の実の祖母で、かつて湿っ地屋敷に住んでいた。思う人と結ばれ、娘を授かったけれど、夫と死に別れ。自分も病気で娘には辛い思いをさせた。その娘が結婚してできた子供が杏奈で、でも両親は交通事故死。それで現在の義母に引き取られて暮らしていた…ということが、説明ときに語られる。あー、そーですか。な感じで深みはさらさらない。
そもそも杏奈がひねている理由が、義母が役所からお金をもらっていることにあるらしい。そのお金は孤児を引き取った家庭に与えられるものらしいけれど、そんなシステムがあるのかどうかはよく知らない。でも、たかがそんなことで、なぜひねくれる。意味が分からない。義母の方も申し訳なさそうに「いつか言おうと思っていたんだけど…」なんて言い訳する。あほか。堂々ともらえばいい。
だいたい、養子とか継子とか、そういうものがよくないことのように描かれることに違和感がある。いまどきの外国映画を見てみろ。養子を取ってるような家はザラだぞ。
それにしても、亡くなった両親の出自を調べれば、そのルーツが件の田舎にあることはすぐわかること。もらいッ子するんだから、義母としてはそれぐらい調べるだろ。そんなこともしないのか? それとも、義母も伯母も知っていた? そんなことないよな。
まあ、偶然に引き寄せられた関係、とでもいうんだろうけど。まったくスッキリしない。マーニーとの関係が分かったことで、杏奈が急にいい子になるのも変。おばさん、から、お母さんに言い換えたり。だいたい、育ててくれる人に対しての配慮がなさ過ぎだ。この杏奈は。
で、杏奈とマーニーとの関係は先述した、絵描きのおばさんの話ですべて分かるんだけど、そこでは盛り上がらせずに、その後に義母が迎えに来るところ(だったっけかな?)で音楽も盛り上がったりするのは、ズレてるだろ。もう観客はみんな知ってるよ、てなもんだよ。
・湿っ地屋敷に行くのに、なんで船で行ったり水が引いた湿地を通らなきゃいけないんだ? 後半で、屋敷が改装されて人が住むようになる場面があって、ちゃんと正面も登場するのだから。べつにジャングルになってたわけじゃないだろうに。変なの。
・海岸(?)で見かける、絵を描いてるおばさん。最初の登場シーンが、セザンヌの絵に似てる、というより『風立ちぬ』のヒロイン菜穂子と同じだろ。
・ボートの舳先で、杏奈が『タイタニック』のケイト・ウィンスレット真似するのは何なんだ。
・伯母さん夫婦は、楽天家だね。なにやって食ってるんだか。
NO10/14ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/パブロ・ラライン脚本/ペドロ・ペイラノ
原題も"No"。allcinemaのあらすじは「1988年、ピノチェト独裁政権下のチリ。ピノチェト大統領の続投に対して、信任(YES)か不信任(NO)かを問う国民投票が行われようとしていた。そんな時、敏腕広告マン、レネ・サアベドラのもとに友人で“NO”陣営の中心人物でもあるウルティアがCM制作の依頼にやってくる。投票までの27日間、両陣営に対し1日15分間のテレビ放送枠が許されたためだが、選挙自体が独裁への批判をそらすための出来レースと冷めた見方のレネは気乗りしない。それでも引き受けることを決意したレネは、プロのプライドを懸けてCMづくりに奮闘する。しかし出来上がったCMは、そのあまにも能天気な内容にNO陣営の幹部は眉をひそめるばかりだったが」で、他に解説で「力による弾圧を続けるピノチェト独裁政権の恐怖政治に対し、意外にもユーモアで対抗した若きエリート広告マンが展開した大胆にして命がけの選挙キャンペーンの全貌」と描いてあるんだけど、疑問だな。
チリのピノチェト独裁についてはほとんど知らなかった。もちろん、映画のモチーフになっている広告についても。惹句が「CMは世界を変えられるのか!? 若き広告マンが恐怖政治に挑む命がけのキャンペーン! これは実話を基にした真実の物語」とあるので、どんな一発ネタで勝負したのか? と興味をもったんだけど、実は「27日間、両陣営に対し1日15分間のテレビ放送枠」というので萎えた。それって広告じゃないだろ。しかも毎日だ。一行の力も、デザインの威力も何もない。ときには相手陣営への意趣返しというか揚げ足取りだったりして、いまいちピリッとしない。1988年なのに、チリの広告手法は前時代的なんだな、というのが感想。
登場する人物がよく分からないのが難点。NO陣営の偉い奴らが、まずその筆頭。どういう連中で、どういう経緯でレネに広告依頼してきたのか。だって、レネの勤める会社の社長はYES派で、レネが広告を受けるのをジャマしようとしていたんだぜ。でまあ、最初の方で、過去の暴力映像を編集したのをレネが見せられるんだけど、その映像をつくったのは誰なのよ。NO派の関係者? なのに、なんでレネに依頼がきたんだ? つながりのある人物が登場はしていたけど、いまいち説得力がない。
レネはその暴力映像を否定して、楽しくインパクトのあるもの、という。それでNO派の何人かは激怒して席を立ったりするんだけど、でも、結局レネに発注されるのだよな。NO派の実権を握ってるのは誰なのさ。
で、一発目の15分を編集して試写したら、NO派の幹部の何人かは「お話にならない」とか、席を立つんだけど。でもやっぱり広告はレネが手がける。なんで?
で、そのレネがつくった広告が、イモか、というようなものなのでガッカリ。若い男女が踊ったりしているだけで、感情に訴えもせず、インパクトもない。冒頭近くで流れたコカ・コーラの脳天気なCMと似たり寄ったりなんだよな。で、「人は楽しいものに反応する」といったようなことをいうんだけど、お前それって視聴者をバカにしてるんじゃないのか? としか思えんのだよな。結果的にNO派が選挙で勝ったのは、はたしてCMのせいなのか? たんに機が熟していたところに出くわしただけで、広告効果は関係なかったんじゃないのか? と思ってしまう。
せいぜい面白かったのは、女の舌にNOと書いてあったり、亭主がベッドの中でYES? に、奥さんがNO!っていうとかの、ゲバゲバ90分みたいなノリのやつぐらいかな。最後の頃には、リチャード・ドレイファス、クリストファー・リーブス、ジェーン・フォンダなんかを引っ張り出してきてていたけど、当たり前の手法というか、メッセージというより有名人頼みではないか。なんか、つくられたコンテンツに「おお!」とのけぞるところはなかった。
だからきっと、広告効果がどうとかいうのはつけ足しで、そういうことにした方が面白いので、この映画ができた、ではないかと思うんだけどね。
とはいいつつ、YES派の圧力とかはなかなかで、レネの家のまわりを取り囲んだり、電話で「子供に注意しろ」とか、家族をまきこむ脅しだったりして、コワイ。とはいうものの、実際に暴力を振るわれたわけではないので、そしてそれは、すでに暴力で独裁の時代ではなくなっていた、ということを示しているのかも知れないけどね。
それでも当時の映像をみると警察とかは、NO派を監視したりしていたわけで。その緊張感は、軽々しく否定できるものではないだろう。
そんななかで、翌日オンエアのビデオを1人が放送局にもっていこうとして、外に出たら監視のクルマだらけ。ではというんで、仲間が一斉にでてきて別々の方向へ。本物のビデオはレネがもってでた…というシーンがあったんだけど。レネは無事に放送局へテープを届けた。では、他のメンバーは監視の連中に何かされたのか。それとも、ただの脅しだけだったのか。そのあたりも知りたかったりした。
あと気になったのは、広告への出演者だ。スタッフが「匿名で」とかいってビクついているのに、出演者はモロ顔出し。彼らは広告出演に恐怖は感じなかったのだろうか?
てなわけで、選挙はNO派の勝利。開票速報でもインチキは少しあったけど、票を隠したりとかはしなかったのか。けっこう真面目じゃないか。独裁国家っていうからインチキがはびこってるのかと思いきや、意外。しかも、負けても居座るのかと思ったら、軍がピノチェトを見限ったとかで、穏健的に政権が委譲された。あらら。妨害活動はしたけど、あっさり権力の座を渡すのかよ。結構、民主的じゃん、とか思ってしまった。世界が見てるから派手な妨害もできなかったのかな。
画面か汚い。まるでYouTubeレベル。とくに始め頃は、いかにもコピーしたビデオみたいに荒かった。のだけれど、気がついたら画質がだんだんきめ細かくなってきて、エンドロールの撮影風景(NG集ではないと思う)は、すごく綺麗になっていた。これは意図してなんだろうと思うんだけど、どういうことなのかね。チリの政治形態が、始めはぼんやりと怪しいけれど、国民のおかげ、あるいは広告マンであるレネのおかげで曇りが晴れた、ということなのか?
レネは離婚してて。子供は自分が育てている、と。で、時々やってくるのは、恋人? どこかで「妻だ」とかいってたけど、どうなんだろ。
レネが楽しむスケボーには意味があるのだろうか?
投票後、YES派だった(ゴマすり男ってことね)レネの上司は、揉み手でレネにヨイショするようになった。まあ、ああいう人はどこにでもいるけど。でも、国民に暴力を振るっていた警官や監視男たちは、その態度が変わったのだろうか? 興味がある。
マダム・イン・ニューヨーク10/16キネカ大森3監督/ガウリ・シンデー脚本/ガウリ・シンデー
原題は"English Vinglish"。Vinglishには、とくに意味はないようだ。allcinemaのあらすじは「料理上手のインド人専業主婦シャシは、2人の子どもと忙しいビジネスマンの夫サティシュに尽くす日々。しかし得意のお菓子作り以外では誰からも承認されないばかりか、家族の中で自分だけ英語が出来ないことをバカされる始末。そんなある日、ニューヨークに暮らす姉から姪の結婚式の手伝いを頼まれ、家族より一足先にニューヨークへと向かう。ところが英語ができないことでたびたびトラブルを招き、心はすっかりブルーに。そんな時、“4週間で英語が話せる”という広告を目にした彼女は、家族や姉たちにも内緒で、その英会話学校に通い始める。やがて、世界中から集まった英語が話せない生徒たちとの交流を重ね、英語が少しずつ身についていく中で彼女の心境にも意外な変化が生まれ始めるが…」
英語ベタな主婦が語学学校に行ってしゃべれるようになる、というだけの話である。がしかし、インド映画ならではの大らかさ、楽しさに満ちているばかりでなく、成長物語として非常に上手くできている。しかも、ロマンス付きだ。娯楽映画として映画として必要な要素を備えで、感動がひしひしとつたわってくる。素晴らしい。上出来の映画だ。
実をいうと冒頭からのインド国内の話は、いささか退屈である。これでホントに大丈夫なのか? と思うぐらい糞丁寧にシャシの日常生活をベタに映していく。ところが一人で先に渡米する、ということになってからのテンポの切り替わりが素晴らしい。空港でのカウンター越しのやりとり、飛行機で隣り合わせになった男性の親切さ大らかさ、到着の翌日のマンハッタン見学!! この見学の様子が景気のいい音楽とともに描かれるんだけど、その歌詞がすこぶるいい。たとえばブランド名の連呼だったりするんだけど、ズバリその様子を開設する感じで、でもちっともくどくない。というか、シンプルに特徴が伝わってくるのだよ。やっぱ、このあたりはインド映画だよな。
でも、カフェで注文が上手くできなくて、というか、意地悪だよな、あの店員、という感じに感情移入させるのがさすがな感じ。話には聞くけど、英語を話さない人間に対して、なんて冷徹なんだ! とはいうものの、親切なアメリカ人もたくさん登場はするんだけどね。
カフェで失敗して泣いていたところへ、男性が「あなたが注文したコーヒーだよ」ともってきてくれる男性。てっきり米国人だとばっかり思っていたら、なんと厨房で働くフランス人で、のちに語学学校で゜一緒になるとは! でも、英語、ちゃんとしゃべってたじゃん、なんだが…。
4週間で英語がしゃべれる、という語学学校。といっても、まったくしゃべれない人はいないのね。片言は分かるけど、すらすらしゃべれない、聞きこなせない、読めない人という感じかな。すでに働いている人も多くて、日常的に英語には接している。でももっと上手くなりたい、な感じの生徒ばかり。でも、こういうのがあったら行きたいな、と思えるような教室。英語以外は禁止で、なんとか絞り出して英語でしゃべろうとする。そういうのがいいのかね。しかも、シャシも含めて7人全員が個性的で見分けがつくし、平等に描いているのが素晴らしい。
まあ、少しは疑問も湧く。姪が結婚するからと、夫や子供たちより4週間も先に、一人で行く必要はあったのか? 英語学校は午後からなのかよく分からないけど、いくらなんでも毎日出かけていて気がつかれないのはおかしい、とか。結婚式の手伝いはいつ、何をしていたんだ? とか、ある。でも、いいんだよ、そんなことは。
この映画、インドがまだ男尊女卑が強いから成立しているわけだよな。それでもシャシは働きたい、という思いはあったんだろう。インドでは、ラドゥという菓子(サフランライスを丸めたオニギリみたいに見えたんだが…)を家でつくり、配達して稼いでもいたようだ。あとでWebで調べたら「インドで結婚式やヒンドゥー教の行事といったお祝いの席に出される菓子で、ベサン(ヒヨコ豆の粉)に砂糖やギー(澄ましバター)等を練り込み団子状にして揚げたもの」らしい。夫は天下一品と褒めるけれど、「売るのは止めろ」といったりしていて、快くは思っていないらしい。俺が食わせているのに、という思いもあるんだろう。でも、シャシは、社会に出たいという思いがあったと思われる。
にしては英語ができないね。渡米して姉との会話に、「学校ではヒンドゥーだけで英語は禁止だったわね」と話すシーンがあったけど、外で働く機会を得ぬまま嫁に行ってしまって、英語を覚える必要性がなかったのかも。インドは大概が英語を話せる、と思っていたんだけど。
毎日のように英会話学校に行き、新たな発見・知識を得るシャシ。その成長物語が楽しい。「なぜUSAにはtheがついて、インドにはつかないのか?」なんていう質問も素晴らしい。家に帰ればテレビで英語の勉強。結婚しない方の下の姪が、シャシの英会話学校通いに気づいて応援してくれるのもうれしい。
でもって、英会話学校の卒業試験と、姪の結婚式が重なって。でも何とか午前中に試験を受けて、蜻蛉返りすれば間に合う。というところで、当日の朝、遅れてやって来た息子のイタズラで、せっかくつくったラドゥが台無しに。…いやまさに、定番の展開というか、一難去ってまた一難のシナリオが上手い。悩むけれど、英語より家庭。夫への献身も含む家庭人として、ラドゥの作り直しをするシャシが素晴らしい。フェミニストには受け入れがたいだろうけれど、女性の役割というのもあるのだよな。と、思わせる。
でもって、結婚式。下の姪が英会話学校の先生、生徒を招待していた。もう、こっから先はミエミエだけれど、それでいいのだ。シャシがうながされて、祝いの言葉を話そうとする。夫は、アメリカ人が多いところでヒンディ語は…と止めさせようとするけれど、シャシは話し始める。英語で。おお、感動的。成長の証が、こういうカタチで描かれるなんて、なんて素晴らしい。うるうるきてしまったよ。もちろん。このスピーチが卒業試験代わりになったのは、言うまでもない。
あんな英会話学校があるなら、ぜひにでも学んでみたい。もしかして、俺だってしゃべれるようになるかも。なんてね。元気になっちゃう映画でもある。
・シャシの、マイケル・ジャクソンの真似「フォー!」が可愛い。
・英語の先生は、蝶ネクタイでピーウィーハーマンみたい。でもってゲイ。英会話のポスターは昔の徴兵ポスターのアンクル・サム。このあたり、典型的なアメリカをだそうとしているのかしらね。
・シャシがテレビ映画で分からなかった単語。「judgmental=決めつけ」が、最後のスピーチで活かされる。けっこう、この映画、伏線が楽しかったりするのだよね。
・姪の彼氏は白人だったのに、インド式で結婚式をしたのね。
・シャシ役の女優は、元は子役で、久しぶりの映画出演らしい。なんか、桜井淳子に似てて、可愛いという感じではないんだけど。実年齢は50歳ぐらいらしい。そうは見えない。設定は40歳前後かね。それにしても、こんなオバサンに惚れるフランス人って…。
レッド・ファミリー10/21新宿武蔵野館1監督/イ・ジュヒョン脚本/キム・ギドク
原題は「赤い家族」。"Red Family"は英文タイトル。allcinemaのあらすじは「郊外の住宅地に暮らす仲睦まじい4人家族。ところが、その正体は妻役のベクを班長とする北朝鮮のスパイ・グループだった。彼らは表では理想の家族を演じつつ、裏では祖国の指示に従い、偵察や脱北者の暗殺という任務を忠実に遂行していた。そんなベクたちの隣には、ケンカの絶えない韓国のダメ家族が住んでいた。彼らを腐敗した資本主義の象徴とバカにするベクたちだったが、図らずもそんな彼らとの交流が深まっていく。するとベクたちの心にも、祖国に残るそれぞれの本当の家族への想いが募っていくのだったが…」
隣家にスパイ。という設定の映画は、アメリカ映画でもあったような気がするんだけどな。まあいい。驚いたのは製作総指揮と脚本がキム・ギドクだってこと。暗くて変な映画を撮る監督が、この手の映画をね。でも、見終わって感じる中途半端さは、そのせいかもしれんな。っていうのも、allcinemaでは「サスペンス/コメディ」に分類されてるんだけど、ちっともはらはらしないし、まったく笑えないから。画面の中では実際に殺しがどんどん行われるんだけど、リアリティはない。かといってコメディにもなりきれていないのだ。
みていて気づくのは、大きな串がないってこと。ずっとエピソードの集積で、あれやこれやが起こって、班長が先走ってミスを犯し、自分たちの首を絞めることになり…というだけで、彼らに確としたミッションがないのだよ。ここは、ソウルで大爆発を起こすとか、ある大物を暗殺するとか、そういう核となる話がないと、いまいちだらけるね。
リアリティはなくてもいいんだけど、だったらあんな風に人をたやすく殺さないことだ。最後、ファミリーは娘役を残してみな死んでしまう。悲しんでいいのか笑っていいのか、どうしたらよいのか、よく分からなくなってくる。彼らに共感したとしても、誰に矛先を向ければいいのかも、よく分からない。たとえば韓国人なら、北の体制に対して憤りをぶつければいいのか? 違うんじゃないのかな。笑い飛ばすぐらいの方がいいのに、あっけらかん、としたところもないので、どーも距離をおいて見てしまう。
映画だからしょうがないといえばそうなんだけど。20年も韓国に潜入して殺しまくってきた祖父役が、いくら末期ガンで余命わずかだからと行って、隣家のせいで考えが変わるはずがないだろ。と思ってしまうと、まったくバカバカしい。いいんだよ、バカバカしくても。でも、それならちゃんと、バカバカしさを一貫してくれないと困る。たとえば、ラストで偽装一家の3人が死んでしまうような終わり方はして欲しくない。むしろ、北の監視3人を殺してしまい、偽装夫婦は本当の夫婦になるべきだ。映画では、娘役だけが生き残り(監視が見逃してやったってことなんだろうけど)、隣家のダメ息子チャンスと上手くやっていけそうな雰囲気だけど。でも、その娘役は、なんと、幼児を絞め殺したりしてるわけで。そういうことができる工作員、として描いちゃダメなんだよな。
この映画では、忠実な班長のもと、老練な祖父役、ちょっと気の弱い夫役、しれっとやることやっちゃうドライな娘役、という、完璧な北の工作員を描いている。でも、はたしてそれでよかったのか? もっとおちゃらけててもよかったんじゃないのかね。たとえば、これまでの班長がドジって飛ばされ、新しい班長がやってきた。メンバー3人は資本主義に染まってやる気がない…。監視員ともなーなーで、厳しい班長を邪魔者扱いする…とかね。ダメかね、そういうの。
この映画で重要な役割を果たすのが隣家なんだけど。ひでえ家族だ。とくにサラ金地獄のバカ奥さん。なにが「ケンカしててもうらやましいほどの家族」なんかじゃないだろ。バカ一家だ。どこがうらやましいってんだ。アホか。
てなわけで、いまいちピンとこない。うすっぺらな話で感情移入もできず、笑いも起きず、な映画だった。
・旋盤工の工作員元締めは、監視役とはどう違うんだろう。監視役より、旋盤工の方が上なのかな。で、彼自身が、近所の年増と関係してて、子供ができたから結婚して! なんていわれてて、それはいいのか? 最後、彼女にむりやり連れられて、彼女の父親に挨拶に行ったみたいだけど、その結果はどうなったんだ? ラスト、ぶらさがりで、父親に挨拶する神妙な工作員、という映像が入っててもいいんじゃないのかな。
・明日引っ越すから一緒に旅行に行こう。島へ。明日行こう。といわれて、ニコニコ行ってしまう隣家の一家って、ヒマだな。
・島に向かい、夫役、祖父役、娘役の3人が、監視3人をあっという間にやっつけ、縛り上げてしまうって。どんだけ強いんだよ。あり得ないだろ。
・SEで、トントントン…というノイズみたいなのがあって、少しイライラしたところがあったな。
・娘役のパク・シヨンが、成海璃子からむくみを取って可愛くした感じ。なかなかよかった。
超高速!参勤交代10/27ギンレイホール監督/本木克英脚本/土橋章宏
allcinemaのあらすじは「享保二十年、八代将軍・徳川吉宗の治世。磐城国。現在の福島県いわき市にある湯長谷藩では、藩主の内藤政醇はじめ藩士たちが1年の江戸詰めを終えて帰郷し、のんびりと開放感に浸っていた。そこに舞い込んだ再度の“参勤交代”の下命。参勤交代は金も人手もない小藩にとってはただでさえ大きな負担。しかも今回の期限は、なんと5日以内。通常は8日かかる道のりを実質4日で踏破するというあまりにも非現実的な日程だった。それは、藩の金山に目を付けた幕府老中・松平信祝によるお取り潰しを狙ったあからさまな陰謀だった。そこで政醇は、知恵者の家老・相馬兼嗣とともに、5日で江戸に参勤すべく、一大作戦を決行するのだったが…」
一件落着した後の、抜け忍の雲隠段蔵(伊原剛志)が背中をみせ、遠くに立ち去っていく姿を見て、「あ、これは『用心棒』と『椿三十郎』だ」と気づいた。天井に隠れていた段蔵が密談を聞き、助っ人になる。金に汚い。とりあえずの仕事(牛久宿近くまで案内すること)が終了すると、松平信祝(陣内孝則)の手の隠密に「後は知らん。勝手にやってくれ」と宣言してしまう。と見せかけで、肝心なところで再登場して 内藤政醇(佐々木蔵之介)を救う。そのシーンでの内藤政醇と隠密のボスとの一瞬の勝負は『椿三十郎』そのもの! さらに、押し入れに隠れるとか、符合するところが多い。なるほど。『用心棒』『椿三十郎』の骨格に、参勤交代を絡ませた、ということか。
しかし、説明ゼリフが満載で、冒頭からウンザリ、な脚本だった。次に見た『WOOD JOB!』の出来がよすぎたので、よけいに気になってしまった。見せ方としては下の下。あれこれくどく、だからキレが悪い。面白さのツボも外すことになるし、だいいちつまらない。映画の見せ方を勉強し直して欲しい、なホンと演出だった。
江戸時代も半ばになると、普請事業などで各大名も財政難。商人に借金しまくりで、参勤交代もテキトーにやっていたことは知られている。たとえば、この映画にあるように、多くの藩は出府するときと、江戸の手前からだけ人足を雇って外見をつくろっていた。だから、その様子を面白おかしく描くのかと思いきや、超高速の部分に時間を割いていた。まあ、題名にもあるようにそれがキモなのかも知れないけど、見終わってみれば全然「超高速」ではない。というより、あんなルートにしない方がいいんじゃないか? という疑問も湧いてくる。だって、平野を通らず、加波山や筑波山を越えるようなルートではないか。どうしても取手を経なければならない、としても、加波山・筑波の裏を抜ければよいわけで、あんな山中をさまよう必要はない。というか、途中で登場する吊り橋はなんだよ。関東平野にあんなのないだろ。川に飛び込むシーンもあるけど、牛久の手前にあんな切り立った崖もない。しかも、崖下に流れるのはせせらぎ! みんな死んじまうだろ。
いやまて。山を抜けた後、1人は手配のために取手に急ぎ向かい、殿様は馬を借りて先に行くことになるんだけど、藩の人間は総勢5、6人なんだから、全員が馬に乗って牛久まで行けばいいじゃないか。そのぐらいの金はあるだろう。と考えると、この映画の根本が揺らぐ。
キーマンとなる抜け忍の雲隠段蔵。彼の存在がアバウトすぎ。何を目的に湯長谷藩邸に侵入していたのだ? しかも天井裏に潜んでいるのを簡単に殿様に見破られ、「俺じゃない。奴らだ」と隠密どもの方が危険だ、と話をすり替える。殿様他は、その話に納得して、しかも、江戸までの案内を頼むことになるという、どこまでお人好しなのだ? と思ってしまう。
それと、各個人のキャラが立ってない。顔が分かる西村雅彦と六角精児、柄本時生、寺脇康文は当の本人で見分けがつくけど、他の2人は区別がつかない。それぞれのエピソードもないから、柄本時生も寺脇康文も立っていない。人間味が多少ともつたわってくるのは、殿様の佐々木蔵之介とせいぜい大声でわめく西村雅彦ぐらいなものだ。
宿場女郎のお咲とのロマンスもとってつけたような感じで、いまいち盛り上がらない。いくらなんでも藩主が、ねえ。生まれ育ちに同情しての恋心? というか、それまで殿様はひとりだったのか? それとも、正室はいるけど側室のひとりになったんだっけ? お咲役は深田恭子なんだけど、彼女とは思わず見ていた。かなり細面になっていたから、最初のうちは分からなかった。声が似ているなあと途中で気づいて、ひょっとして? と思ったら、クレジットで本人であることを確認。
で。ラストで、あんぐり。とにかく何とか時間内に到着して、湯長谷藩は安泰。老中・松平信祝の陰謀はバレてしまうのだけれど、その後がひどすぎる。なんと、将軍は老中・松平信祝の陰謀を知っていて、わざと泳がせておき、この参勤交代も遠くから監視していたんだと。湯長谷藩の面々は大変なことになって、命からがら。ひとりは老中の刺客に斬られてるんだぞ。それに、泳がせて監視していたとしても、結局、なにひとつ手助けなしだったではないか。何の意味があったのか、さっぱり分からない。たとえば雲隠段蔵は将軍が差し向けた人物で、彼があれこれ手配したおかげで上手くいったんだよ、とか。親藩の殿様が通りかかり、上手く利用できたのも将軍の指図だったとか。そういういうオチも、ついてなかったよな、確か。
・西村雅彦が雲隠段蔵に差し出した手間賃、あの泥にまみれた昔の金、ってどういう意味なんだ? 使えないということか? どっかで掘り出した金? それとも、山歩きして汚れた?
・江戸市中に足を入れてから、だよな、ラストの斬り合いは。あんなことが、市中でできるわけがなかろうが。あったとしても、すぐに役人が飛んでくるに違いない。それに、湯長谷藩士がここでズタズタに斬られるんだけど、あんだけ切られて死なないのか! その斬られた奴が、殿様の妹といい仲、になるんだっけ? そのエピソードも薄すぎ。
・殿様が最後、ひとりで江戸に向かうシーン。馬がないのでうろうろしてたら、ちょうどつないである馬が…。で、あの馬は泥棒したのか?
・殿様の閉所恐怖症もとってつけたかのような話。あんなんで、江戸城に参内したときなんか、どうしてんだよ。
WOOD JOB!(ウッジョブ)〜神去なあなあ日常〜10/27ギンレイホール監督/矢口史靖脚本/矢口史靖
allcinemaのあらすじは「能天気な高校生活を送ったばかりに、気づけば大学受験には失敗し、彼女にも去られ、全てを失って卒業するハメになった平野勇気。そんな時、ふと目にしたのはパンフレットの表紙でほほえむ美女。彼女に会いたいがために、勇気は1年間の“林業研修プログラム”に参加することに。こうして向かった先は、ケータイの電波も届かぬ山奥にある神去(かむさり)村。しかし、そこに待っていたのは表紙の美女ではなく、ワイルドで凶暴な先輩・飯田ヨキとあまりにも過酷な林業の現場。たまらず逃げ出そうとする勇気だったが…」
いまどき林業で生計をたてている家はどれだけあるんだ? しかも、山奥の村にあんな人口が? 若い女もたくさん…。あり得ない。というツッコミは置いといて。大学受験に失敗した青年がパンフレットのモデル女優に憧れて林業研修に向かう、という無邪気な設定からして単純すぎて好感がもててしまう。その無邪気な青年・平野勇気(染谷将太)が、心根の軟弱さにも関わらず1ヵ月研修に耐え、さらには1年研修にももちこたえ、立派な林業の男の入口にまでたどりつく物語は、コメディタッチで面白おかしく、しかも、感動的なぐらいうまく仕上がっている。
『ウォーターボーイズ』では男子のシンクロ、『スウィングガールズ』は高校生のビッグバンド、『ハッピーフライト』は航空業界、『ロボジー』はロボコン…と、ユニークな設定を探し出してきた矢口史靖。その設定の面白さには敬服するけれど、演出の方は勢いでやってきた、という印象があるんだけど、今回の作品は脚本も練れているし小ネタもふんだんにあって、しかも笑えるようなものばかり。伏線にも役立っている。そして、もっとも評価したいのが、ひとつのネタで笑わせたら、あっさりと次へとどんどん進んでいくこと。この、くどくないというのがこの映画にスピード感・爽快感をもたらしている。
たとえば直紀(長澤まさみ)とのロマンスも、適度な距離感をもって描かれているのがいい。これが、べったり描かれていたらうっとうしいんだけど、ひとつのエピソードとして存在するのがいい。抑制が効いているのだ。他にも、村の長老に柄本明をもってきているんだけど、柄本に臭い芝居をさせなかったのが、いい。柄本はいつもやりすぎなんだよな。
この映画のいいところは、分かりやすさと映画的面白さが一体になっていること。すなわち、素人の青年が研修を経ていろいろ学びながら成長する様子を、具体的に見せていることだ。斧で指を切ってしまったりのドジ、間伐の意味を説明しつつ笑わせたり、木を切る方法の説明も楽しく学べる。最初の現場では崖からずり落ちたり(なかなかリアルで大変だったと思うけど、体当たりの演技は気持ちがいい。ところで、あのシーンは雨で土砂崩れで出かけた、ということなのか?)、助けられた勇気の尻にヒル、寝ていた顔にイモリ(?)が這っていたり、杉のタネ(?)を取ったり、揚げ句はマムシに耳を噛まれたり…と、林業の人には当たり前のことすらドラマになっていく。素晴らしい。
定番の困難もいくつか用意されていて、気むずかしい村の長老の存在もそのひとつ。挨拶もロクにできない、と最初は嫌われるけれど、森で迷子になった長老の孫(?)を見つけたせいで、村祭りにも正式に参加できるようになる。その、孫を見つけるに当たっては、あるとき水汲みに行って、そこでみかけた石地蔵(?)におむすびを半分あげたことが縁になっている、というのも伏線がうまく効いているところ。しかも、その種明かしは、勇気の手に残されていた飯粒数粒を見せるだけで済ましている。このあっさり感がいい。くどくどセリフで説明したりしない潔さ。お見事。
クライマックス。大木を切り倒したり大木を滑降させたりはCGだとしても。木の上に登っている様子はCG合成なのかな。リアルに登ってるようにも見えたんだけど。
1年研修が終わって東京に帰るのだけれど、都会のペースに合わない勇気。ものの数時間で村に戻る列車に乗り込む、という終わり方も清々しくていい。セリフでくどくど説明せず、ムダな映像をたれ流さず、要所を締めながら必要最低限の映像で見せていく手腕は、さすが。
1年間世話になる先輩の飯田ヨキ(伊藤英明)がいい。伊藤英明は大根だと思っていたけど、仕事はちゃんとするけど女たらしのバカ男がはまっている。そのバカ亭主の嫁が、ひょっとして…と思ったら、ホントに優香だった。天然で抜けてる感じがなくて、引き締まった顔立ちになっていて驚いた。その他脇役もみな個性がたっている。村の路上で麻雀してる4人のババアたちなんて、ほんと存在感がある。
いや、面白かった。
まほろ駅前狂騒曲10/28シネ・リーブル池袋2監督/大森立嗣脚本/大森立嗣、黒住光
allcinemaのあらすじは「東京の郊外まほろ市で便利屋を営む多田啓介のもとに、同級生の行天春彦が転がり込んできてから3年。2人で行う便利屋仕事もすっかり板についてきたある日、多田はある難題を抱え込んでしまう。行天に内緒で、彼の実の娘はるの子守りを引き受けてしまったのだ。多田は子ども嫌いの行天にちゃんと伝えられず四苦八苦。そんな中、いつもアブない依頼を持ち込む裏社会の男・星良一に頼まれ、無農薬野菜の栽培&販売をする“家庭と健康食品協会(HHFA)”という団体の調査を始めた多田と行天だったが…」
殺人的につまらなかった。フツーの監督なら省くはずのムダな部分を延々と描いて退屈。もっと話を転がせ!とイラついた。他にもいろいろテキトー過ぎるところありすぎで、よくこんな映画を公開させたな、という気分。
娘"はる"の子守を1ヶ月半することになった話と、HHFA(元・天の声教団)の実状を探るという2つの話が大きな串になっているんだけど、有機的に絡み合っていない。というより、どちらも話が単純過ぎというか、あまり語られない。むしろ、2つの話にまつわるエピソードがだらだらとまき散らされ、ほったらかしにされる感じ。
ところで、このシリーズは映画としては第2作で、その間にテレビシリーズもあった。で、行天には生物学的関係の娘がいるとか、多田はかつて幼い息子を生後5ヵ月(だっけかな)で失い、それがもとで離婚したとか、多田にはいま好きな女性・柏木さん、がいるとか、地元のヤクザに知り合いがいるとか、そういう話は映画の前作からあったんだっけか? で、調べたら、あったみたいだな。でも、もうすっかり忘れてるよ。ははは。ああ、そうか。前作にでてたから今作でも出さなくちゃならず、ついでのように登場したのが刑事の早坂(岸部一徳)とかシンちゃん(松尾スズキ)、老人の岡( 麿赤兒)、山田さん(大森南朋)なのか。そーかそーか。
もうちょい三峯凪子(本上まなみ)との関係を説明してくれないと、この映画を最初にみた客や、前作を忘れてしまった人には不親切。たんに精子の提供だけだったのか、ひと夜を共にしたのか、分からんよ。ヤクザの星(高良健吾)との関係もそう。なにもダラダラ説明しろってんじゃない。さらっと二つ三つセリフを足せばいいだけの話。そうすれば話に厚みが出るし、なるほど感もでる。そういう手間を惜しむから、すべてが"いきなり"な感じだし、知らない客は置いてきぼりになってしまうのだ。※前作の感想文を読み直したら、いろいろ説明はされていたようだ。けど、曖昧なままの部分は多い。それをそのまま引き継いでいるみたい。前作をちゃんと覚えてないと、この映画は分かりにくいみたい。
それでも、この映画はムダが多い。いま書いたような背景としての設定を提示しないまま、心理的な描写をする。たとえば行天は子供が嫌いで、すぐ暴力を振るうとか。行天は子供の頃、親に愛されなかったらしい、とか。多田の、子供を失った哀しみとか。そういうことからくる感情の乱れをだらだらと描き見せるのだけれど、つたわんないよ、それじゃ。
行天は子供が嫌い、とセリフで説明しつつ、病院で子供をぶつ母親に「子供は殴るな。トラウマになったらどうする」なんて心やさしく咎めたりする。だから、ああやっぱり行天は心がやさしい、と思ってしまう。でも、その舌の根も乾かないうちに、子供は嫌い、といわせる。描き方が下手だ。
さらに、この映画の基本路線としての脱力系の描写がだらだらとつづく。この映画の見せ所は、脱力系、とでもいわんばかりに延々とつづく。うんざり。もっと話を転がせ。
というわけで、HHFAの件は行天とHHFAのリーダー小林がハイジャックされたバスに乗り合わせたというだけで簡単に問題解決してしまう。解決しないのは、星に対抗する舎弟・飯島(新井浩文)の反乱がどうなったのか、ぐらいかな。ところで、ヤクザの密談で、卸しを3%だ5%安くしろ、というのが何を意味しているのかよく分からなかったぞ。
てなわけで、脱力系と暗い過去をしんみり描こうとしたのかも知れないけど、それを直接的に撮ったらダメだろ。ドラマを転がして、絵で見せて行かないとな。ほんと、イラつく映画だった。
まあ、撃たれた行天が、血まみれの手で少年・由良と、実の娘"はる"を両脇に抱えるシーンがあるんだけど、そこでやっと子供に心を許す、というか、子供嫌いが少し解消されたことを示しているのかもしれんが、伝わらんよ、そんなもの。
・HHFAが有機と言いつつ農薬を使っている決定的写真を撮るため、畑に寝そべって監視するって、あり得ないだろ。
・バスの間引き運転に抗議してバスジャックする老人って、あり得ないだろ。そもそも老人はバスに乗るのか?
・小学生の子供が拳銃をもって人に向けるって、あり得ないだろ。しかも、バスの揺れで引き金を引いてしまって行天に当たるって…。安全装置をいつ外したんだよ。っていうか、弾を込めて持ち歩かないだろ、フツー。
・行天がでていくことを、多田はなぜ恐れるのか。行天の生物学的子供である"はる"を仕方なく預かるとして、それがもとで行天がでていってもいいじゃないか。だって、この映画ではバスジャック事件解決の後、行天はふらりといなくなったんだろ? 2月ぐらいいなくなっても平気なら、"はる"を預かっている間、どっかにいっててくれ、で解決するじゃないか。
・多田は、"はる"を預かるにあたって、別の名で呼ぼうとするが、当の"はる"は「私の名前は、はるだもん」と言い返す。当たり前だろ。バカか、多田は。
・バスジャック後、車内にいるHHFAのリーダー小林(永瀬正敏)を故意に写さない。でも、見えてるだろ、みんなに。なのに、見えてないかのように描くのはムリがありすぎだろ。
・小林と行天はかつて天の声教団にいたことがあって、知り合い。小林がバスの中で行天に気づき、言い合いになるんだけど、その後の展開がムリすぎ。小林が行天に斬りつけ、小指を切り落とす。由良という子供がシンちゃんのもっていた拳銃を発見して、誤って行天を撃ってしまう。その行天が小林に「俺たちは教団で一緒だった。けど、俺たちは遊びに行きたかった…」とかなんとか、子供心の思いを語るんだけど、その言葉で小林は信仰心を棄てて反省してしまうのだ。そんなに信仰心は薄いのか? アホか。
・バスの車内で発砲したぐらいで、警察に通報なんていかないだろ。
・小林が両手をポケットに入れたままバスからでてくるって、なんだよあの設定は。さらに、両手を頭の上に組んだのに、その背後から刑事が撃つって、なんだよ。あり得ないだろ。
・腹を打たれた行天を誰も助けないって、なんだよ、あれは。ひどすぎる演出。
・しばらくの間、永瀬正敏とは気がつかなかった。名も知れぬオッサン役者かと思っていたんだけど、車中で「あれ? もしかして…」と気づいた。病気の老婆も、最初は気づかなかった。屋上の車椅子姿に、もしかして奈良岡朋子? と。おお。みなさん歳を取っている。
・多田も行天もがんがん煙草を吸うのは、気持ちがいいくらいだ。
・どーんどーんと鳴るのは隣の劇場のサウンドか…。いらつく。
沈黙のSHINGEKI/進撃10/30シネマスクエアとうきゅう監督/ジャスティン・スティール脚本/ジェリー・ラップ
原題は"Gutshot Straight"。「Gutshot」はポーカー用語らしい。「gut=本来の意味は、「腸」ですが、この場合は「腹」「腹を撃たれた」。実際に腹を拳銃で撃たれたのではなく、ポーカーの用語です。ポーカーの手でストレートというのがあります。「5,6,7,8,9」の様にと5つ続いた番号の手です。まだストレートが出来ていない状態で、「5,7,8,9」の様に、両サイドの5又は9以外の真ん中の数字3つの内の一つが抜けている状態を"gut shot straight"=「腹を撃ちぬかれたストレート」と言います」という説明がWebにあった。allcinemaのあらすじは「ラスヴェガスに暮らすプロのポーカープレイヤー、ジャック。いまは妻子とも別れ、借金まみれの日々を送っていた。そんなある日、カジノで知り合った謎めいた富豪ダフィーから儲け話を持ちかけられ、彼の豪邸に招かれるが、そこで思わぬトラブルに巻き込まれる。窮地に陥ったジャックは、裏社会にも通じる彼の借金の貸し主ポーラインに泣きつくが…」
相変わらずのセガール・沈黙シリーズ、かと思いきや。なんと3シーンぐらいしか登場しないんだよ、この男。最初のシーン、中盤でちょいと、ラスト近くで冒頭と同じシーン、そして、最後に銃をぶっ放すシーン。あれあれ。主人公じゃないし、アクションもない。ゲストみたいな扱い。なのに日本のポスターはまるでセガールが大活躍みたいになってる。詐欺だろ。
冒頭で、借金が返せないジャックがポーライン(セガール)に頼みに行くが、銃を渡され…。で、次のシーンでカジノなんだよ。なので、ジャックは誰を殺るのだ? と見ていたのだけれど、そういう展開にならない。あれよあれよで終盤、ジャックがポーラインの事務所に行くんだけれど…あ、これ冒頭のシーンじゃないか。てことは、冒頭のシーンから過去に遡ってたのか。いや、分かりにくい。
で、話は↑のあらすじにある通りで、それ以上の深さがない。それが大きな欠点で、設定とか展開は面白くなりそうな可能性があるのに、何の衒いもなく、空気感や背景の妖しさのそぶりすらなく、ベタで撮っていく。かなりの拍子抜け。もうちょっと思わせぶりがあってもいいんじゃないか。あれば、奇妙な不思議感も醸し出せただろうに。たとえばこのプロットをクローネンバーグが撮ったら、不思議に怪しい映画に仕上がったんじゃないかと思ったりするんだが。
そもそも、ジャックはなぜ借金まみれなのか。賭け事のアディクション? 妻子がいて、どうやって食べてるんだ? で、そのジャックに目をつけたダフィーとは何ものなのだ? なぜジャックに? 妻がいるといいつつ、家にいるのは若いメイで、ジャックとセックスさせ、それを見たいという。それがなぜ賭け事になるのか?(ダフィーは5万ドル用意した) ダフィーは「金をもらっても嫌だ」というジャックを殴って昏睡させるんだけど、目覚めるのを待っていたのはメイで、ダフィーはすでに寝た、という。というわけでラブラブになるんだけれど、そこにダフィー登場。ってことは、メイはダフィーの命令に従っていただけなのか? というわけで、怒り心頭のジャックとダフィーが格闘している最中、ダフィーの頭部が植木鉢(?)にあたってあえなく死亡! 「実は私、軟禁されていたの」というメイが主導で死骸をクルマのトランクに入れ、始末しておくから、とジャックを送り出す。ジャックはこういうことに慣れていないのか、げーげー吐きまくり。…って、穴が多すぎる展開だ。
もうどこにも借金できなくなってジャック。でも忘れものを思い出してダフィー邸にもどると、そこにダフィーの弟を名乗るルイスが登場して邸内に誘う。ルイスは兄が死んだことを知っているのか? というか、なんでまだメイがいるんだ?(死骸は始末した、ジャックに言うんだが…) なんか、そのあとよく覚えてないな。飽きてきちゃったのかも知れない。ジャックとメイは一夜をともにし(ダフィーを殺した夜だっけ? 違ったかな。どっちだろ)、メイは「ルイスも始末しよう」というんだっけか。そういえば、ルイスがジャックの娘の名前を挙げて「調べれば分かるんだよ」とか脅すんだっけかな。
んなわけでジャックは再びポーラインのところに行くんだけど。金はできてない。でもできそう。ついては拳銃を…とか頼み込むんだけど、銃なんてどこでも買えるんじゃないの? ラスベガスじゃ銃の売買・携帯はできないのか? てなわけで銃を渡される。というのが、冒頭部分だったのだ。
で、ダフィー邸に行き、ルイスを撃とうとするんだけど上手くいかず、落とした銃をメイが拾ってルイスに向けて撃つと後方に暴発してメイは死亡。あらららら。というところにポーラインが手下とともに突如登場してルイスを始末する。でもジャックは助けてやる。「恩に着ろよ」てな案配だ。
さてと。流しの下(?)に隠しておいた5万ドルをもって家に行き、玄関において去って行く…という終わり方なんだけど、いろんなところでツボを外しまくりな感じ。生活感のないオヤジ、そのオヤジを待つ律儀な母子、カジノで網を張る妖しい変態老兄弟、その変態ジジイたちに操られている美女…。すき間を埋めるような描き方をすれば、多少は不思議な世界が描けたはずなんだけど、もったいない。
ところで5万ドル(たしか、そうだった)って、500万円だろ? そんな程度でボストンバッグ一杯になるのかい? というか、家族が不自由なく暮らすとしても、1年だろ。
セガールは金に細かい裏の金貸し、という役なので、まったく妖しくない。格闘シーンもないし、ただのオッサンでしかなかった。
蜩ノ記(ひぐらしのき)10/31109シネマズ木場シアター4監督/小泉堯史脚本/小泉堯史、吉田求
allcinemaのあらすじは「ある日、城内で刃傷沙汰を起こした檀野庄三郎は、家老の中根兵右衛門によって罪を免じられ、代わりに幽閉中の戸田秋谷を監視せよと命じられる。秋谷はかつて、郡奉行の身でありながら側室と不義密通した上、小姓まで斬り捨てるという前代未聞の事件を起こし、10年後の切腹とそれまでの間、藩の歴史である“家譜”の編纂に従事せよと命じられていた。いま、その切腹の日は3年後にまで迫っていた。こうして秋谷やその家族と一緒に暮らし始めた庄三郎は、ひたむきに淡々と家譜づくりに勤しむ秋谷の姿にいつしか感銘を覚え始める。やがて7年前の事件に疑問を抱き、監視の立場を超えて真相を探り始める庄三郎だったが…」
退屈だった。なぜなら話がよく分からないから。とくに、悪の存在が曖昧で、誰でも分かる明瞭な善vs悪の対立になってないのだ。
いや。アバウトには構図は分かる。だけど、悪はそんなに悪そうに見えないし、善の立場も「なんでそうなっちゃったの?」的な感じで、スッキリしないのだよ。
そもそもあれだろ、藩内は正室派と側室派に別れていた。大殿・兼道は側室の子に入れ込んで、こちらを世継ぎにしようとした。あわてたのが正室派で、側室の子を殺して正室の子を世継ぎにした。正室派のボスは家老の中根で、悪徳商人の播磨屋と関係があった。…というのが骨格だよな。でも、いろいろ「?」が多いんだよな。
決定的証拠として登場するのが、大殿が書いた(?)という正室の由緒書きで、ではそこに明らかな事実が書かれていたかというとそうではなくて、その由緒書きからある博多の某藩士の名前が導き出され、その正体は? なんだけど、たしか正室は播磨屋の娘だか縁者であった、というような話だったような。てことは、播磨屋が家老・中根に取り入り、そのようなことをしたのか? なんで?中根も播磨屋に借金があっで首根っこを押さえつけられていたのか? そんなことはいってなかったよな。てなわけで、大元の悪が誰で、何の目的で、が分からない。
でね。大殿は、正室の素性を知っていたのか、その由緒書きを側室の松吟尼(お由の方)に託したらしい。それが戸田秋谷の手に渡り、博多の調査の結果、真相が分かった。それを知った家老・中根は由緒書きをよこせ、と戸田に迫る…というながれでいいんだよな。
でも、博多まで行って調べてくるのが冒頭で檀野が斬りつけた相手・水上信吾で、水上は家老・中根の甥なのだよ。だからセリフでも「このことは叔父に告げなくてはならぬ」などという、どっちつかずの存在。なに、こいつ。どういう立場なんだよ。
水上信吾といえば。冒頭の立ち回りで檀野は水上を殺害してしまったのかと思っていた。甥を殺された家老・中根が、殺した檀野を切腹させず、戸田の監視役として送り込むのは、なんで? と、ずっと思っていたんだけど、中盤過ぎに水上が登場してきて「あ、死んでなかったんだ」とびっくり。そうか。家老・中根は檀野の命を救った代わり、俺の言うことをきけ、ということで監視役に命じたのね。分かりにくいなあ。
最後の方。大殿が戸田に家譜編纂を依頼する場面。あれは、事件が起こる前なのだよな。多分。でも、そのとき大殿は余命わずかだったのかな。でも、藩内が二分して、それが幕府に知れると取りつぶしになるかも知れない、といっていた。ということは、すでに真相は知っていたのだろう。でも、その真相も含めて家譜にしたいのなら、正室の素性をこのとき戸田に知らせるのが筋だろうに。あと、事件が起こったのは、大殿の没後なのかどうか、も大事なんだけど、触れられていなかったような…。
さらに、家老・中根は財政立て直しに尽力していたようで、私腹を肥やしているようには見えなかった。自分で足袋のほつれをつくろったり、結構、マメな爺さんに描いている。この男が側室の子を殺せと命じ、民に重い年貢を課していたのか? どーもイメージが合致しない。というか、悪家老には見えないのだ。
民といえば、かなりな不満分子もいたようで。稲刈りを早くしたいという村人に、取れ高が悪くなるので遅くしろ、といっていたのに。戸田が、同じような条件で自害した代官がいたことを告げると、そさくさと逃げ帰ってしまった。のだけれど、その後を追って代官を殴り殺し、川に沈めた村人がいたんだが、なんだよあれ。村人の方がよっぽど無法者じゃん。どういう展開なんだよ、あれは。というか、役人がやってきて村人たちを調べ上げたりしなかったのか? それに、いくらなんでも代官がひとりで村までやってくることはないと思うがね。ひでえ脚本だ。
というわけで、話は、一揆の首謀者狩りという展開になって。祭りのときのいざこざも絡んで、某百姓が役人に目をつけられる。引っぱられたら殺される、と百姓は村を逃げていくんだけど、役人は当たり前のようにやって来て10歳ぐらいの息子を引っぱっていく。そして、死骸で戻ってくる。これに怒ったのが戸田の息子の郁太郎で、ひとり家老・中根宅に乗り込もうとするところを、檀野が加勢して目通りを許される。…という公明なことをする中根には、どうしてもダークな存在に見えないのだよな。郁太郎は不満をいうが、相手にされない。郁太郎が刀に手をかけると、中根の家来が飛び出す。が、檀野が家来を制止し、郁太郎は刀の柄を抜くようにして柄頭を中根の腹にお見舞いする。これで百姓の息子の仇は討った。あとはなんとでも…という檀野と郁太郎は牢に入れられる。
2人を助けたくば、正室の由緒書き渡せ。戸田の自害も免除するぞ。という使者を、水上が務めるのだからよく分からない。戸田はそれを聞いても由緒書きは渡さず、自分が行く、と幽閉中にも関わらず馬を飛ばす。そして、自らの手で中根に由緒書きを渡す。まあ、そのかわり、中根に一発お見舞いするんだけど。というわけで、自害の件はそのまま。…というのも、よく分からないこと。結局渡してしまうのだから、使者に渡せばいいのに、なんで? だよな。
てなわけで、凜とした武士の姿を描く、のつもりなんだろうけど、いまいち穴が多すぎてつまらない、というか退屈。やっぱ、あの由緒書きのどこで「おお」とと驚いていいのか分からないと、話としては辛いのではないだろうか。あとは、事件当時の関係者の薄っぺらさはなんとかならんかね。そもそも藩士なんて数100人単位でしかいないわけで。戸田が、側室の子を襲った正室派の武士を6、7人斬り捨てているんだけど、あんなのどの家の武士が斬られたかすぐ分かってしまうはず。そうなれば、戸田を陥れる作り話も、できないはずだ。それにそもそも、戸田を幽閉蟄居させてどういう利点があるのだろう。そんなことをするより、正室派は、戸田の家譜作成を止めさせるべきだろう。
ところで、家譜作成なんて、1人じゃできないだろ。あんな村はずれで、資料集めもままならないだろうに。どうやってるんだ。という疑問もある。そうそう。正室の由緒書きは、結局、老中・中根に渡すのだけれど、それは由緒書きの内容は家譜に転記したから、らしい。正室派は、家譜の内容をチェックしないのかよ。おい。
・檀野に尋ねられると、戸田の一件についての風評をあれこれ告げるおしゃべり和尚って、なんだよ。
※Wikipediaに以下の記述があった。「秋谷が郡奉行だった時分に、生産を奨励した〈豊後の青筵〉と呼ばれる七島筵が庶民の畳表として用いられるようになり、特産品として藩の財政と農民の暮らしを潤した。藩では、藺草(い草)の栽培には課税せず百姓に通常の年貢だけを課し、藺草を加工して作った筵を買い取り大坂に売る商人から運上銀を納めさせていた。しかし、秋谷が郡奉行を退き江戸詰めになってから、筵の運上銀を村方からも取り立てるようになった。藺草を植えた田は稲田としても年貢を課されるため、二重に納税しなければならない農民は重税にあえぐようになる。さらに、博多の商人である播磨屋が、その年の筵の生産量に拘わらず藩に一定額の運上銀を納めることで、七島筵を一手に買い付けることを認められた。これによって藩の収入は安定したが、播磨屋から筵を安く買い叩かれることになった百姓が他の商人に筵を売り、抜け売りをしたとして咎められ牢に入れられるなどし、播磨屋だけが儲かる仕組みに百姓の不満は蓄積していった」
なるほど。軽くは触れられていたけど、そういうことなのか。と、少し納得。でも、では、あの播磨屋の扱いはどうなったのかな。家老・中根は「民にも恩返しを(とかいう感じだったかな?)」とかいってニコニコ笑っていたけど、悪家老が郁太郎と戸田に殴られたぐらいで真っ正直になるものかよ。と思う。

 
 

|back|

|ホームページへ戻る|