フューリー | 12/1 | MOVIX亀有シアター6 | 監督/デヴィッド・エアー | 脚本/デヴィッド・エアー |
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原題は"Fury"。憤激,激怒の意味で、自分たちが乗り込んでいる戦車の
愛称。allcinemaのあらすじは「1945年4月。ドイツ軍が文字通りの総力戦で最後の徹底抗戦を繰り広げていたヨーロッパ戦線。戦況を優位に進める連合軍も、ドイツ軍の捨身の反転攻勢に苦しめられていた。そんな中、勇敢な3人の部下とともにシャーマン戦車“フューリー号”を駆る歴戦の猛者ウォーダディーのもとに、戦闘経験ゼロの新兵ノーマンが配属されてくる。ろくに訓練も受けていないノーマンは、戦場の極限状況にただただ圧倒されるばかり。ウォーダディーはひよっこノーマンを手荒く叱咤しながら、フューリーで敵陣深くへと進軍していく。やがてそんな彼らの前に、ドイツ軍が誇る世界最強のティーガー戦車がたちはだかる」 肉片が飛び散る足は千切れる頭は吹っ飛ぶ火だるまになってわめき立てる…。曳光弾なのか、対戦車砲や戦車の砲弾、そして銃弾が糸を引くように向かってくる。戦争のすさまじさ、怖さがまじまじと迫ってくる、超リアル(現実以上だろうという意味で…)な描写がもの凄い。思い出すのは『プライベート・ライアン』で、あのDデイの描写を戦車で見せるバージョン、ってな感じ。 物語は、明らかに『七人の侍』を借用している。こちらの人数は5人で、メンバー集めの部分はないけれど、人殺しのベテランの中に放り込まれた新兵ノーマンが、次第に殺しになれていく過程とか、そのノーマンがドイツ娘と戦場で結ばれるとか、これはネタバレになってしまうけどノーマンが生き残るとか、基本的な軸はまるっきり同じ。まあ、『七人の侍』ではリーダーである志村喬も生き残るんだが、こちらはそうはいかないというのが違いか。まあ、ドン軍曹(ウォーターディー:ブラッド・ピット)まで生き残ったら申し訳ないというところもあるかもね。 先日見た、シュワちゃん主演の『サボタージュ』の監督とは思えない緻密で、超リアルを追求した映画になっていたんだけど。話は単純で、こりゃもうダメだ、というような戦況の中をくぐり抜けつつ、最後は友軍を守るため4台(3台に減ってたっけ?)の戦車で十字路地点まで行き、敵を食い止める役を仰せつかるんだけど、仲間の戦車が敵の戦車(これがティーガーなのかな、タイガー戦車のことらしい)にやられてしまい、たった1台で十字路までいくんだけど、地雷を踏んでキャタピラが吹っ飛んでしまう。というところに敵軍が2 〜300名やってきて、たった1台で立ち向かう、という壮絶な話だ。別に実話ではなく、創作らしい。 ドン・コリアー(ウォーダディー)軍曹/ブラッド・ピット ボイド・スワン(バイブル)砲手/シャイア・ラブーフ トリニ・ガルシア(ゴルド)操縦手・メキシコ系?/マイケル・ペーニャ グレイディ・トラビス(クーンアス)装填手/ジョン・バーンサル というメンバーで戦ってきたけれど、レッドという副操縦手が戦死して、配属されたのが、 ノーマン・エリソン/新兵の副操縦手(マシン)/ローガン・ラーマン ノーマンは8週間前に入隊し、もともとはタイピストの技能をもつ青年。それが、どういうわけか戦車部隊の副操縦手! とまあ、昔からよくある典型的な新兵の成長物語だ。けど、戦闘シーンの凄まじさに加えてエピソードが豊富で話がよくできているから飽きない、というか、見てしまう。 ・弱々しい上官が小隊長として出撃したけど、ノーマンのヘマで銃撃され、火だるまに。自ら拳銃で頭を撃ち抜いて死んでしまうのには驚いた。(だよな、あの場面は。違うか?)。撃ってきたのは少年兵。SSによって民間人や少年少女まで銃をとるよう強いられ、拒否したものは路上に吊されていた。そんなことがあったのか…。こういうことがあったのは知らなかった。 ・釘付けにされた遊軍を助け、対戦車砲を破壊。ドンがノーマンに残った敵兵を「撃て」と命じ、拒否するけれど、むりやり拳銃を握らされるくだり…。戦場じゃ国際法とか関係ないんだよな、と思わされる場面。その後、街を解放。少年兵たちを解放後、戦うことを拒否した同朋を吊したSSを簡単に撃ち殺す場面も同様。戦勝国だから裁かれなかったまでで、同様のことは枢軸国だけじゃなくて連合国もやってた、と堂々と見せるところが潔い。 ・ノーマンは敬虔なキリスト教徒で、人は殺せない。自分を殺せ、といったりする。戦闘の最中に「もう嫌だ。降りる」とわめいたりもする。はたしてそんな兵士がいたかどうかは分からない。まあ、設定なんだろう。 ・街を解放されると、手のひらを返すように米兵に股を広げるドイツ女がいて、米兵も喜んだということも描く。 ・街を解放するとき、建物に潜む敵に砲弾をぶち込むんだけど、火傷を負った敵兵がヨロヨロと外に出てくる。ゴルドは、ほっておいても火傷で死ぬ、といっているのに、ノーマンは吹っ切れたように敵兵に銃弾を撃ち込む。これで、とりあえず仲間から1人前、と認められるんだけけどね。 その後、ちょっと出来過ぎな物語を挟む。ドンとノーマンが、ある部屋で女性2人を発見。1人は若い娘で、エマ。もう一人少し歳がいっててイルマ。2人は従妹といっていたけど、本当かどうか分からない。2人は暴力を振るわれるか犯されるかするのではないかとびくびくしているんだけど、とくにイルマがエマを気遣っている様子。さて、どうなるのかと思いきや…。ノーマンがピアノを弾くとエマが心を許し、側に来て歌う。ドンはイルマに卵を渡して料理するよう言う。そうだ。ドンはドイツ語が堪能という設定で、これが話の進行を効率的にしているのだった。ただし、なぜドイツ語が…は説明されていない。で。ここで簡単にエマがノーマンに身体も許してしまうのには驚いた。おいおい。いくらなんでも…。ノーマンがさっさとエマを別室に連れていってしまうのにも驚いた。おい。おまえ、敬虔なクリスチャンじゃなかったのか? 人を殺すのはためらわれても、戦勝国の兵士として制圧した国の若い女を犯してもいいのか? 映画では合意のように描かれているけど、身体を提供することで身の安全が保証されるという法則があるから、のことだろ。でなけりゃ、さっきまで知りもしない米国人にそう簡単に股を広げるはずはない。で、ドンはイルマに「互いに生き残ったんだから」とかいって納得させてしまい、イルマも抵抗しない…。かといってドンはイルマと寝ようとはしない。…というようなところが、なんかな。つくりもの臭くてやだな、と思ったのだった。 その後の展開もまた奇妙なもので。仲間3人が、ノーマンに女を抱かせようと入り込んでくるんだけど、すでにここでモノにしていることを知ってあれこれからかったり構ったりするんだけど。この場面は果たしてなんなんだろう? 一見するとムダに長いだけで、もやもやしてしまうんだよな。グレイディは「俺にもこの女とやらせろ」云々しつこく絡む。バイブルは聖書を引用したりするけど、態度はどうみてもドンに否定的な感じ。ゴルドは中間的なのかな、傍観している感じ。ドンはグレイディの態度にへきえきしつつ、でも黙々としているフリを装う。ちょっと足りない感じというかヤクザな感じのグレイディは、ちょっかいをやめない。イルマとエマは怯えきっている…。ここは、なにか宗教的な下敷きがあったりするのかね。なんだろう。よく分からない。 という不思議な食事時間が終わるのは、次の命令がとどいたから。エマはノーマンに「連絡先を」なんてやってるんだけど、グレイディは「次がある」とせっつく。というあたりは『七人の侍』の木村功が村の女に恋してしまうくだりの引用だよな。でも、出発しようとしたところに爆撃で、エマはあえなく死んでしまうという展開は、いくらなんでも都合がよすぎるだろ、な感じがしてしまう。話題を詰め込みすぎだよ。 てなわけで次のミッションが与えられ、例の十字路をめざすんだけど、このとき戦車は3台だっけ、4台だっけ。装甲の厚いティーガーに狙い撃ちされて、仲間の戦車はどんどんぶちこわされていく様子が凄まじい。いとも簡単に砲塔がが吹っ飛ばされる。あな恐ろしや。で、ドンたちの乗る1台だけが生き残り、ティーガーを撃破というシーンもなかなか。で、十字路についてキャタピラが壊れ、敵はやってくる。部下は逃げようというんだけど、ドンは任務の遂行を優先。部下には「逃げていいぞ」というんだけど、バイブル、ゴルド、ノーマンの順で戦車に乗り込み、グレイディも嫌々ながら従う。で、あとは死闘。 このシーンでだっけか。バイブルが聖書を引用すると、ドンが「それはなんとかなんとかの2章」とかいって、バイブルを驚かせるのは。簡単に敵兵を殺し、ノーマンにも殺しを強要する男が、実は聖書に詳しかった…。彼も敬虔なクリスチャンだった! という驚きと共感と。まあ、そういう人間でも、戦場では自分を棄ててかからないと、生き残れない、ということなのかも知れない。または、戦死が目前になって、本当の自分を知って欲しかった、というのがあったのかも。 で、最初にグレイディが…と思ったらその通りで。次はゴルドで、バイブルも。では、ドンとノーマンが生き残るのか? と思ったら、弾がなくなって小銃で戦うハメになり、ドンが狙撃される。そこに手榴弾が投げ込まれ、ドンはノーマンに避難口から逃げるよういう。で、タンクの下に隠れるんだけど、またまたドラマが。タンクの下を覗き、ノーマンに気づいたドイツの若い兵隊が、見逃して去って行くのだよ。もしかして彼もノーマンのように新兵で、殺し合いをしたくなかったのかも知れない。 ところで、思うのは。時間の経過が良く分からないということ。フツーに見てると同じ1日の出来事のようにも見えるんだけど。実際はどうなんだろう。数日以上の話をまとめているのかな? よく分からない。※どうやら1日の話でよいようだ。 ・バイブル役のシャイア・ラブーフは『トランスフォーマー』の子で、もう28歳なのか。もう、ベテランの兵隊を演じるようになったのね。貫禄があった。 | ||||
ラスト・デイズ・オン・マーズ | 12/3 | 新宿ミラノ3 | 監督/ルアリー・ロビンソン | 脚本/クライヴ・ドーソン |
原題は"The Last Days on Mars"。公式HPのあらすじは「2036年。人類は火星への有人調査飛行を実現させた。8人の乗組員を送り込んだ、この探査計画“オーロラ・プロジェクト”は、目立った成果を上げられないまま6カ月の月日が過ぎていた。そして迎えた任務最後の日。ひとりの隊員が発掘した化石から微小生命体の細胞分裂が確認された。世紀の発見に色めき立つ隊員たちは残されたわずかな時間の中で、この未知の生命体の解明に急ぐのだが…」 結論を言ってしまうと、ゾンビ映画だった。しかし、アメリカは手を変え品を変え、ゾンビ映画をこれでもかというほどつくってくる。そんなにゾンビ物が好きなのか、ある程度あたる、ということなのか。それにしても、ちょっとゲンナリ。隣のミラノ1では『インターステラー』やってて、宇宙モノ2つか、と思っていたんだけど…。 話は単純で。帰還まであと10数時間。メンバーは火星の調査を行っていて、キムはなにも発見できてないまま基地に戻るよう命令される。ライバルのマルコはバクテリアみたいなのの細胞分裂を見つけて、みんなには内緒にしていた。それで帰還前にその最新情報を得ようと、キムと入れ替わりに調査に行く。なんでマルコがこの時間になって行くんだ! と憤ったキムがマルコのPCを見ると…。これは! 抜け駆けしやがって。という科学者同士の熾烈な争いが背景にある。 マルコが調査してると地盤沈下で穴に落下。一緒にいたのは、あれは、アーウィンだっけ? 情けないやつ。で、リーダー格のヴィンセントたちが救出に向かうんだけど、ヴィンセントが穴を降りていく途中で幻覚を見る…。これ、穴からでてくる何かのせいかと思ったら、どーやら彼には以前になにか事故のトラウマがある、のかな? そんなシーンが何度かあったけど、その事故のことは具体的にはなにも説明されず。おい! 一行は基地に戻るんだけど、穴の近くに待機していた黒人女性隊員が、なんか、ふらふらして行ったので、こりゃ彼女も冒されたのか。けど、揮発性の何かなのか? と思っていたんだけど、見ていくとどーも空気感染ではないような…。じゃあ、ゾンビ化したマルコに食われたのかな。具体的な説明はなし。 というわけで、みなさん基地に戻ったところにゾンビマルコがやって来て、1人が電気ドリルで殺されてしまう。のに、彼もゾンビ化しちゃうんだよ。噛まれなくてもゾンビ化するのか? そのあとは、基地の中、別の建屋の間を行ったりきたりしつつ、ひとりまたひとりとゾンビ化していく。 たとえばキムは、ゾンビに追われ逃げようとするんだけど、逃げ場所であるドアをアーウィンに閉められてしまう。彼は、キムを助けるよりゾンビがやってくる方が怖かったようだ。そのアーウィンは、ゾンビに肩をえぐられた隊長に首を絞められた、ということがあっただけだと思うんだけど、最後の最後にゾンビ化する。 女性隊員で、ヴィンセントといい仲みたいなレベッカは、誰だったかに太腿をナイフで刺され、後にゾンビ化する。 というわけで、一般的なゾンビみたいに「噛まれる」とゾンビ化するわけではないところが、なんか、曖昧すぎる。たとえば、ヴィンセントが地球への帰還船に乗り込んだら操縦席にゾンビ化したアーウィンがいて、戦ってやっつけはするんだけど。さっさとヴィンセントは宇宙服のヘルメットを脱いでしまうんだよ。ヴィンセントの顔の近くをアーウィンの血が浮遊してたりするんだけど、血液による感染を避けるのなら、ヘルメットは着用のままだろ。嘘くさい演出だ。 というわけで、基地にいた大半はゾンビ化し、予定通りやってきて帰還船の乗組員も噛まれてしまう。ひとり無事なヴィンセントが帰還船に乗り込むとアーウィンがいて、それもやっつけて地峡に向かうんだけど、彼は「自分も感染している可能性がある」とつぶやくところで映画は終わっている。ま、なんていうか、中途半端なB級プログラムピクチャーだった。 ・火星表面とか、どっかの砂漠で。しかも重力の軽さは無視してるから、そこらの砂漠を走りまくってる感じ。安っぽい。 ・宇宙服にヘルメットでの演技が多く、誰が誰やらよく分からないというのも、ううむな感じ。 ・ヴィンセント役はリーヴ・シュレイバーで、主演としては格落ちな感じ。B級では大物なんだろうけど。 ・レベッカ役のロモーラ・ガライは美人だけど特長のないフツーのお母さんな感じ。宇宙服を脱いだときの巨乳感がなかなかの見どころ。ってか、それがこの映画のいちばんの見どころだ! ・火星基地の乗り物に、ローバーと書いてある。これはイギリスのクルマメーカーか。 ・基地の建屋には溝田産業とあって、これは日本製なんだろうな、きっと。 ・移動車には米、中、英、日、独(あったかな?)、カナダ、国連、ロシアの旗が貼ってあったような。でも、登場するのは米、カナダ、イギリス人? ロシア人はいた? キムがよく分からんのだが。というわけで、プロジェクトに参加してても、日本人、中国人はでてこなかった。まあ、予算の都合かも知れないけど。 | ||||
複製された男 | 12/4 | キネカ大森2 | 監督/ドゥニ・ヴィルヌーヴ | 脚本/ハビエル・グヨン |
原題は"Enemy"。allcinemaのあらすじは「ある日、大学の歴史講師アダムは、同僚から薦められた映画を鑑賞していたとき、端役の中に自分と瓜二つの俳優を発見する。あまりに似すぎていることに驚愕し、取り憑かれたようにその俳優のことを調べ始めるアダム。やがてアンソニーという名前を突き止め、ついに2人は対面する。彼らは、後天的に出来た傷跡を含め、服装以外のすべてが一緒だった。まったく同じもう一人の自分の存在に気づいてしまったアダムとアンソニー。彼らの運命は、互いの恋人と妻をも巻き込み、思いも寄らぬ方向へと向かっていくが…」 『灼熱の魂』の監督なのか。へー。なんか、ぜんぜん違うな。 ストーリーは↑のあらすじのように進む。アダムは気が弱い感じ。メアリーという恋人がいて、ときどき泊まっていく。アンソニーには妊娠中の妻がいて、いささか喧嘩っ早い感じ。アンソニーは浮気癖があるのか、妻ヘレンに責められている。ヘレンはアンソニーの行動(アダムと電話していたりすること)に疑惑を持ち、アダムの存在に気づく。ネットで検索し、教師であることを知って大学まで行き、その存在を確かめる。同時にアンソニーに電話して、別人であることを確認しているから、初対面なんだろう。アダムは「会いたい」と言ってきていたが、アンソニーは会うのを嫌がっていた。けれど、結局、会うことにするんだが、こんどはアンソニーがアダムをストーカーし、メアリーの存在を知る。ある日、アダムはアンソニーの家に行く。アンソニーは不在。彼の衣服を着て在宅していると、ヘレンが戻ってくる。彼女は夫だと疑っていない…ようでもなく、気がついているような気配。アダムがヘレンと会ったことを知ったアンソニーは、自分がメアリーと過ごすことを要求。アンソニーはアダムの服を着てメアリーと会い、過ごす。メアリーが気づいたのはセックスの最中で、結婚指輪のあることに気づいたから。いっぽうでアダムも再びヘレンと会い、セックス…したんだと思う。怒りのメアリーをクルマで送っていく最中、諍いし、クルマが激突して2人は死んでしまう。そのニュースをアンソニーのマンションで聞いているアダム。ヘレンの様子を見に行くと、部屋から巨大な蜘蛛が…。 と書いてしまったけれど、メモ用だ。 双子? それは映画の中で否定されている。クローン? ドッペルゲンガー? 単純にそれでいいのか? 蜘蛛とは何か。最初の方の秘密のストリップで、蜘蛛が皿で供される。ストリッパーは、蜘蛛をハイヒールで踏みつぶした…のかな、描いてないけど。ここで登場するのは、たぶんアンソニーだろう。会員制ストリップの会員なのかな。マンションの受付の男を誘って行ったりして行ってるようだから、たいしたクラブじゃないと思うけど。もうひとつの蜘蛛は、巨大な足を持つ蜘蛛が、都市をのっしのっしと歩く場面があること。足はストレートで長く、アニメとかで、あんな場面があったかしら、な感じ。そして、事故った車の窓ガラスのヒビが、蜘蛛の巣。つまり、あの2人は網に捕まった、ということか。そして、最後に、彼女は巨大な蜘蛛に変身する。この映画は蜘蛛である。しかし、女王蜘蛛というのは生物学的にはいないんだろ? 蜂なら分かるんだけど。女王蜂がいて、奉仕する働き蜂がたくさんいて、同じようにもくもくと働く。という設定なら、働き蜂のクローンがいてもおかしくはない。女王蜂のヘレンが、使いづらいアンソニーを棄てて、アダムを創出して乗り換えた、で話の辻褄はある。でも、蜂ではなく、蜘蛛だ。それがひっかかって、首をひねっていた。あー、あと、カフカの『変身』も考えたけど、なんか違う気がした。 で、ひと晩寝て、巨大な足長蜘蛛はなんだろう? と考えていたら、あれは『宇宙戦争』の宇宙人ではないかと思いついた。そういえば、宇宙人が人間の心に入り込み、操作してしまうSFはたくさんあるよな、と思いついた。この映画ではそっくりさんが登場するけれど、いろいろ考えられる。宇宙人がヘレンに取り付き、アンソニーと交配する。でも、アンソニーが邪魔になったので、同様のクローンをつくって接触させ、入れ替えた…。まあ、手が込みすぎか。 ヘレンの様子は『ローズマリーの赤ちゃん』を連想させる。宇宙人がヘレンと交配し、子供を宿す。アンソニーは地球人で、邪魔になった。別の宇宙人は、アダムに乗り移っていた。アダムは宿主の宇宙人に導かれ、アンソニーと接触し、ヘレンとの生活を始める…うーん。これもピタリとこないな。そっくりさんの必要性というのが、説明できていない。 ヘレンは、アンソニーの浮気癖に疲れていた(ストリップの場面で、蜘蛛を踏みつぶすのがそれを象徴している)。そこで、複製をつくって交換することを思いついた。子孫を残すには必要なことだった。…といっても、相手がアンソニーのそっくりさんのアダムである必要性は説明できないなあ。 外見上はそっくりだけれど、それは意識がそう見ているだけで、実は別の外見をしている。ということもあり得るけれど、アンソニーの事務所の受付の男や、アンソニーのマンションの受付が、アダムをアンソニーと認めているからあてはまらないか…。 あるいは、宇宙人がヘレンと交わって、あるいは子宮に子供を産みつけ、世話役としてアンソニーをあてがった。けれどアンソニーは蜘蛛を殺すような男で浮気もする。役に立たない、とみて同じ外見のアダムを製造。ヘレンの世話をするようにしむけた。ラストの蜘蛛は、ヘレンの子宮から飛び出した宇宙人の子供… など、いろいろ読み込める。答はあるんだかないんだか。 ・ヘレンはアンソニーのストリップ鑑賞を知っているのか? いや、それ以前に、アンソニーは生活をどっから得ているのだ? ストリップの経営側にいるのか? ・毒蜘蛛がヘレン? でも彼女は自分が毒蜘蛛=宇宙人であるなんて、知らないんじゃないのか? しっているのか? ・セックスシーンで、メアリー役のメラニー・ロランのおっぱいまる見え! | ||||
私の、息子 | 12/9 | ギンレイホール | 監督/カリン・ペーター・ネッツァー | 脚本/ラズヴァン・ラドゥレスク、カリン・ペーター・ネッツァー |
原題は"Pozitia copilului"。Google翻訳だと「子供を置いて」だった。英文タイトルは"Child's Pose"で、これがラストシーンの後にぱっと出て、なんのこっちゃ? と思ったんだが、英語の題名だったのか。「胎児の態勢」とかいうように訳されていたっけかな。 allcinemaのあらすじは「ルーマニアの首都ブカレストに暮らすコルネリアは、社交界でも一目置かれるセレブリティ。そんな彼女の悩みの種は、30歳になっても自立しない一人息子バルブのこと。顔を合わせれば悪態をつき、恋人が子持ちというのも気にくわない。バルブの家に家政婦を送り込んで世話を焼くも、逆に彼の怒りを買ってしまう。そんなある日、バルブが交通事故を起こして少年を死なせてしまう。するとコルネリアは、何が何でも息子を守りたいと、お金とコネを利用して警察の捜査に介入するなど、なりふり構わぬ裏工作に奔走するのだったが…」 ↑のあらすじにも書かれているけれど、息子が事故を起こし、あれこれ工作する母親…という設定は興味深い。現地の警官も、最初は公平に、な感じだったのに、次第に丸め込まれていく…。これって国の恥部じゃないか。社会問題としても看過できんだろ。というわけで社会性のあるドラマかと思っていたら、思いっきりバカ母とバカ息子の話になっていっちゃって。要は子離れできないお節介で甘やかしな母親と、いつまでも自立できない子供っぽい息子の話である。そんな話を見せられたって、なにも得るところはない。気持ちよくもなれない。考えるところも少しもない。くだらん。 冒頭から、誰かに愚痴ってる母親。あれは妹だったのか? 次は友人たちとの食事会なんだけど、このシーンなど母親の環境を提示するのにうってつけなのに、あれこれ中途半端。医者や有名歌手、政治家だか官僚も登場したりするんだけど、うじゃうじゃしてるだけで誰がどれやらさっぱりわからん。あとから亭主が医者で、は分かるんだけど、食事会のときのどいつが亭主か分からん描き方。しかも、母親の職業が分かるのは中盤過ぎで、現地の警官が「うちの別荘を水辺に建てようとしてるんだが…」と便宜を図ってもらおうと話すときにやっと分かるというひどさである。 で、妹から事故の報を聞いて2人で現地へ向かうんだけど、そっからもう嫌なババア全開で、亭主との電話で高官と連絡して起訴されないようにとかなんとか工作を始めている。現地の警察でも、息子バルブの供述を変えさせたり、高官らしき人物とその場で電話したりと、特権を利用してなんとか息子が起訴を逃れることばかり考えている。撥ねられた子供への罪悪感など二の次さんの次。 そういう様子を見てる警官2人。権利ばかり主張する母親にウンザリ気味だけど、まったく無視するわけでもなく、そこそこ対応しているところがどうなんだい、なんだよね。で、後半になると証人のドライバーの連絡先を教えてくれたり、男性警官など「有名な建築らしいな。別荘を水辺に建てようとしたんだけど満潮時に海岸線との距離が問題で中断してるんだ。なんとかならないか?」などと条件のようなものをもちだしてくる。うわ。最初は非難めいた視線で見ていたのに、利害関係で証言の変更もうやむやにしちゃうってことか。ルーマニア。ホントなのか? で、母親。証人のドライバーと会って、証人が110キロで走っていて、息子は160キロぐらいで追い越そうとして事故った、って証言を変えてくれと頼むんだけど、これが露骨。証人の男は、「あんたの息子がボクの車の後ろにピタリとついて、追い抜きを楽しむような感じだった」とかいう言葉を聞いても申し訳ない表情ひとつ浮かべない。息子のことになると、なにも見えなくなっちゃうんだな。そてこのとき、証人は8〜10万ユーロを要求するんだけど、母親がそれはムリというと、一気に100ユーロでいいよ、てなことを言うのはどういうわけなのだ? はじめっから賄賂なんて要らないよ、ということなのか? よく分からない。 その亭主、つまり、バルブの父親は医者のようだけど、妻のいいなり。なにも言い返せない。そのことを息子に言われても返す言葉がない。なんだお前ら夫婦。で、こういうのが何かの影響でそうなってるとかあるならまだしも、それはなにも示唆されない。ということは、単なるお節介オバサンと軟弱オヤジということだ。それじゃ映画にならんだろ。 母親が可愛がる息子はどんなかと思ったら、これがなんとマルチェロ・マストロヤンニ似の大男で。かなりのオッサン。何歳かよく分からずで40ぐらい? と思ったら博士論文がとかいってて、じゃあ26、7? 老けてるなと思ったら、↑のあらすじで30歳となっていた。説明はなかったよなあ。実年齢は2013年当時36歳らしい。しかし、どういう甘やかされ方をしたのか分からんけど、学校に行かせてもらって部屋も与えてもらって、でも家には入るなとかこぶ付きの女と同棲したり、わけ分からんやつで。母親は「将来がある」とかいってたけど、これじゃオタクみたいなもんだろ。ルーマニアって、こんなやつでも上流階級というか知的家庭に生まれるとだらだら生活できちゃうのか? 個体の問題だと思うんだけどなあ。 そのバルブの同棲相手がかなりのオバサンで。実年齢は44歳の模様。設定が何歳か知れないけど、もうちょっとそれなりの女優はおらんのか、な感じ。 中盤からは始めの頃にあった賄賂とかコネとかの社会性のある問題は消えてしまい、母親はバカまっしぐら。そして、息子の同棲相手カルメンとの関係が明かされていく。母親が彼女を嫌っている理由は、よく分からない。こぶ付きがいけないのか、それとも生まれ育ちとかもあるのか? 「バルブとの子供はつくらないのか?」と問われてカルメンの答が成る程だった。セックスはするけど子供は欲しくないので、外出ししていた。いちどコンドームが外れたときがあって、そのときは念入りに洗え、と命じた、と。大人になることを拒否していると言うことだな。 そういえば、彼女とつき合うときだったかどうか忘れたけど、バルブはカルメンに血液検査を命じたらしい。もちろん自分はしない。そういえば、事故後の採血時も、看護婦が「変えた」といってるのに「新しい注射器にしてくれ」とごねた。こりゃ神経症だ。潔癖症なのかなんなのか分からないけどね。でも、これが母親の過干渉のせいとは言えないわけで。これも個体の問題だよな。というわけで、カルメンはバルブと一緒に暮らすことをあきらめ、別れるつもりらしい。敵を失って唖然な母親の態度がちょっとおかしかった。 で、最後は母親とカルメン、バルブと3人で被害者宅を訪れる場面。日本なら速効で土下座なんだけど、彼の地はそうではない。真っ向向かい合って説得というか、話すのだ。母親は相手の亭主に向かって、息子がいかに才能があり将来ある若者であるか云々と話しつづける。凄いな。まず誤るのが先じゃないかと思うのは、日本人の感覚なのかも知れない。相手は、「なにをされても息子はもどってこない。息子に高速を渡るなと言っていたけど、徹底できなかった自分がうらめしい」みたいなことを言うわけだ。そこで母親は葬儀代なのかプラスαもあるのかも知れないけど現金を渡すんだが、これは警察とか周囲からもそうした方がいいと言われたからなんだろうけど、相手は「要らない」という。それに対して、「うちはひとり息子。ひとりしかいない。お宅は弟さんがいるじゃない。弟さんに見聞させたり学ばせたりするにもお金が要るはずよ」とかいうのには少し驚いた。日本でそんなこと言ったら殴られるんじゃなかろうか。かように彼我の感覚の違いには差があるのね。 その対話のとき、息子は「殴られるからやだ」ったのかどうか。クルマから降りず、相手に会っていない。母親とカルメンが向かい合ってるって言うのに…。カルメンは中座して戻ったので、なにか言ったのかも知れない。母親が戻ると、「クルマから出してくれ」と、降りていって、門の前で相手の父親と向かい合うんだけど。殴られるのかなと思ったら、なんとバルブと相手の父親は握手して終わるのだよ。何を言ったのかは分からない。金のことでも言ったのか? ちょっと唖然。そして、暗転して終わり。そこに、"Child's Pose"のがわけ分からず違和感だったのだが。 それにしても、涙ながらにクルマに戻ってきた母親は、あれは、相手に対する同情や謝罪のこころを意味しているのだろうか。そんなことないよな。あれは、息子思いの結果の涙だよなあ。あれじゃ、母親と息子の関係は変わらんだろ。カルメンも出て行っちゃうし、きっとバルブは家に閉じこもってしまうんじゃなかろうか。孫の顔を見ることなく死んじゃうのかもな。 それにしても、あれこれ話題をとっ散らかして、そのまま、な感じの終わり方。どこにも成長のドラマはないし、反省もない。なんかな。陰気になるだけだ。 ・手持ちのカメラでぐらぐら寄ったり引いたり振りまわしたり、イラつく映像であった。 | ||||
ストックホルムでワルツを | 12/11 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/ペール・フリー | 脚本/ペーター・ビッロ |
スウェーデン映画。原題は"Monica Z"。英文タイトルは"Waltz for Monica"。allcinemaのあらすじは「スウェーデンの田舎町に暮らすシングルマザーのモニカ。電話交換手の仕事をしながらも、ジャズ・シンガーとしての成功を夢見る日々。そんなある日、ジャズ・クラブのステージに立つ彼女の歌声を聞いた評論家から、ニューヨークで歌うチャンスをもらうモニカだったが…」 この10年ぐらい、アメリカでは伝記映画流行だったけど、その影響なのかな。実はモニカ・ゼタールンドというジャズボーカリストは知らなくて、ビル・エヴァンスと競演していたとは…。題名と、清廉なイメージのポスターから、明るくほのぼのとしたサクセスストーリー、かと思って見始めた。スウェーデンの田舎で電話交換手をしながらストックホルム(?)のクラブで歌っていたモニカ。その様子をプロモーターが見て「ニューヨークで歌わないか?」と誘ってくる。娘(10歳ぐらい?)を両親に預けていた彼女。チャンスを求めてニューヨークへ行く。待ち受けていたのはトミー・フラナガントリオ。おお。この辺り、わくわくした。さて、ボーカリストとしてステージに上がるが、客がぞろぞろ席を立ってしまう。あわてた支配人はプロモーターに「モニカをステージから降ろせ。あんな白いとは思わなかった」とかいうんだけど、ありゃどういうことなのだ? 当時はまだ白人と黒人が同じステージに上がることはタブーだったのか? 男同士はよかったけど、黒人グループに白人ボーカリストという組み合わせはいけなかったのか? その辺り、説明がないのでよく分からない。 さらに、バーで偶然エラ・フィッツジェラルドに会い、その場で歌を聴いてもらうんだけど、「詞が分かっていない」と一蹴されてしまう。失意のまま帰国したモニカは、もう歌うのをやめよう、と思うものの仲間の誘いに我慢できず、ツアーに出かけてしまう。 とまあ、この辺りまでのモニカは歌に真摯で清々しいイメージ。クリスマスなのにニューヨークに行ってしまったり、娘を両親に預けてツアーに行ったり、少し娘をほったらかしなところはあるけれど、それだけ歌に一途な感じがでていた。のだけれど、以降はどんどんモニカの暗部というか悪モニカが噴出し始める。 ベーシストのストゥーレは、どうやらモニカに気があるらしいんだけど、奥手で。自分からは言いださない。ストゥーレをモニカは「タイプじゃない」と相手にしないところが悪だ! なのに、あるパーティで見かけた映画監督のヴィルゴット・シェーマン(『私は好奇心の強い女』1967)には友人に「落としてみせる」と宣言し、その晩のうちに素っ裸になって猛アタックって、この女、何なんだ? ぜんぜん清廉でも清楚でもないじゃん。尻軽だろ。 Wikipediaによるとモニカの歴史は↓のようだ。 ・アメリカ進出 1960 ・ユーロビジョンコンテスト 1963 ・ビル・エヴァンスと「ワルツ・フォー・デビィ」を録音 1964 この映画について「半生を描く」なんて書いているところが多いけど、ストゥーレと結婚したのが何年なのか分からないけど、せいぜい4〜5年のことだろう。娘の年齢も、ほとんど変わっていないような描き方をしている。 で。モニカはストゥーレの「スウェーデン語でジャズを歌ったら」の助言に従って歌ってみたら、これが大うけ。レコード会社(フィリップスだったかな?)と契約して、あっという間に売れっ子に。豪邸を買ってヴィルゴット、娘の3人で住み始めるんだけど、お定まりの転落人生となる。夜ごとのパーティ。まだ売れる前の監督ヴィルゴットとの不和。酒浸りのモニカ。ストゥーレが若い娘と婚約したことへの嫉妬。ロックの隆盛でジャズが売れなくなってきた現実。本意ではなくユーロビジョンへの出演をレコード会社から強要される…が、一票も入らず最下位。迎えにきたストゥーレとクルマでキスしてみたりして…。それを目撃されてヴィルゴットとは別離。コメディ仕立てのショーへの出演。流産。アルコール依存。娘を両親に連れ去られ、失意の日々。なんか『ビヨンド the シー 夢見るように歌えば』を思わせる堕ちようだ。 以降、なんか駆け足になっちゃってて、いまいち厚みに欠けるんだよなあ。たとえば、いつのまにかスティーヴ・チェンバースという男性と同棲していて、どうやって知り合ったんだ? 英語しかしゃべれないようだったけど、どういう男なんだ? 説明もなく登場していて、娘と3人で楽しそうにくらしていると思ったら、チェンバースが女を連れ込んでまぐわっているのを見てしまう…というどうしようもない有り様。で、病院に入ってアルコールを抜いたのかな? というところで、モニカは自分の歌唱を録音してビル・エヴァンスに送ったらしい。なんと無謀な。でもそれに返事が来て、「録音しよう」ということになるという、不思議な展開。今回は娘を連れての渡米で、クラブにはエラ・フィッツジェラルドとかマイルスなんかも聴きに来ていたらしいが、どうもその経緯がいまいちよく分からない。 要は、公式HPのモニカの実話とかWikipediaの説明とかと映画の描くところがずれてるから。たとえば公式HPでは「1960年にアメリカへ進出。クラブのステージに立ち、レコーディングも行ったが、望んでいた収穫は得られなかった」と書いてあるけど、映画でのアメリカでの様子はこの説明とはかなり違う。「1964年、モダンジャズの巨匠ビル・エヴァンスと共作したアルバム『ワルツ・フォー・デビー』を発表。モニカ・ゼタールンドの名は世界中のジャズ・ファンが知るものとなる」というのも、映画では録音ではなくクラブでの歌唱だけ。レコードが売れたとかいう話はなかった。あと。ビル・エヴァンスとの録音はスウェーデン語でのもので、国内のヒットなんじゃないのか? 世界的にはどれぐらい売れたのか、その点については、どこも正確には書いていない。しかも、映画は帰国後、ストゥーレと結婚するところで終わっている。公式HPのいうところの、ビル・エヴァンスと共作以降「スウェーデンを代表するアーティストとなったモニカは、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのためにハリー・ベラフォンテとデュエットしたり、スウェーデンの首相ターゲ・エルランダーの遊説に同行したり、大作映画『移民者たち』(71・未)に出演したりと、多彩な活躍を見せる」という部分に関してはまったく描かれていない。なので、モニカって、スウェーデン国内の人なんではないの? という思いが払拭できない。 母国語でジャズというと、日本ならさしずめ江利チエミか。戦後、他にも多くが日本語でジャズを歌った。それは必然的であって、最初からそうだった。ところが、スウェーデンではそうではなかったようだ。まず英語で歌うのが常識だった。でもそれじゃ歌詞の意味が表現できてない、とエラ・フィッツジェラルドに言われ、それで知り合いの詩人の詩をもとに歌詞をつくったわけだ。それが画期的と言われても、日本じゃぜんぜんフツーだからなあ。なんともいいようがありません。 モニカを演ずるエッダ・マグナソンは美人。YouTubeで見たけど、実際のモニカともなんとなく似ている。実際はジャズ歌手らしいけど、本編中で乳だし丸裸になっている。すごいなあ。日本じゃ、そこまでする人はおらんだろ。 モニカの父は言う。「おまえは、いつもてっぺんに登りたがった。他の子は危険を感じて途中で止めても、おまえは止めない。もう、やめる時期じゃないか?」というようなことを。そういうがむしゃらさは感じなかったので、そうなのか、と思ったんだけどね。まあ、売れないうちは夢を追い、売れたら我がままになる。私生活も無茶苦茶になる。芸人って言うのは、なんでまたこう、そろいもそろって似たような人生を送るのかね。 それにしても気の毒なのは娘とストゥーレの婚約者だよ。娘なんか、実の父親のことは知っているのか知らないのか。映画ではまったく言及されていなかった。思春期前に男が3人も入れ替わり立ち替わりで、アイデンティティが崩壊してないのか心配。実際の娘は、まっとうな大人になったのかね。ストゥーレの婚約者も、トンビに油揚さらわれた感じで。こんなのありかよ、な感じだろう。モニカとストゥーレがその後どうなったか、Wikipediaでも分からないけど、うまくいったかのかね。なんだか、いってないような予感がするんだけどなあ。 | ||||
インターステラー | 12/17 | 新宿ミラノ1 | 監督/クリストファー・ノーラン | 脚本/ジョナサン・ノーラン、クリストファー・ノーラン |
原題は"Interstellar"。「星の間の、恒星間の」という意味らしい。allcinemaのあらすじは「近未来の地球。環境は加速度的に悪化し、植物の激減と食糧難で人類滅亡の時は確実なものとして迫っていた。そこで人類は、居住可能な新たな惑星を求めて宇宙の彼方に調査隊を送り込むことに。この過酷なミッションに選ばれたのは、元テストパイロットのクーパーや生物学者のアメリアらわずかなクルーのみ。しかしシングルファーザーのクーパーには、15歳の息子トムとまだ幼い娘マーフがいた。このミッションに参加すれば、もはや再会は叶わないだろう。それでも、泣きじゃくるマーフに“必ず帰ってくる”と約束するクーパーだったが…」 宇宙ものであること。相対性理論やウラシマ効果が背景にあることなどは知っていた。でも、それ以外は知らなかった。『ダークナイト』のクリストファー・ノーランなので、たわいもないことを思わせぶりに重厚感漂わせて描くのだろうと思っていたら、まあ、そうだった。でも、ラストは脳天気なほどハッピーエンドで、ハリウッド映画になっていた。 話自体は単純なんだけど、SF用語というか科学用語を生のままセリフに持ち込んで観客を幻惑させる手口はいつもの通り。こうやって難解かつ高尚な話のように仕立て上げているけど、凡百のSF映画と、その描いているところは違わない。話や宇宙のイメージはなんとなく『2001年宇宙の旅』に似てるし、『スター・ウォーズ』や『スタートレック』その他のSF映画の影響は著しく、それを超える表現弥メッセージはなかった。宇宙船内の無重力状態の表現は圧倒的に『ゼロ・グラビティ』に負けている。 瀕死の地球、他の惑星への移住計画、移住先を見つける旅、ワープ航法、荒涼たる惑星、仲間の裏切り、ブラックホールにおける未知の何かとの遭遇、そして帰還…。みんな、これまでどっかで見てきた話ばかり。のなかに、アメリア(アン・ハサウェイ)の「論理より、感じること。愛よ。それは確かなこと」とかいうような物言いが混ざってきて。否定はされるんだけど、この映画では最終的にその「愛」を信じた予想の方が当たっていた、というオチがついている。そして、親子の愛情というのもまた、過剰に表現されているんだけど、この辺りが、この映画について語られるテーマなのかも知れないけど、たいした話ではない。そもそも、人類すべての存在を左右する物事と、一個人の愛や絆を等価として対立させてもほとんど意味はないし、つまらない。 背景となる世界の現在がアバウトすぎてよく分からん。飢饉のせいで常識が変わったのか? 世界から軍隊がなくなり、MRIなどの科学も否定され、人間が月に行ったこともウソだ、といわれるような社会とは、どんななのだ? 登場するのはアメリカの農村だけど、都会はどうなってるのか? 経済を支える石油や電力、水はどうなってるのだ? わずかに風力発電が見えたけど、砂嵐の毎日じゃ使いものにならんだろ。どういう会社が何をつくっているのか、メディアは? など問い詰めていったらいくらでもボロがでる。 で、あるときマーフィーが家の中に異変を感じ、「幽霊だ」という。父のクーパーが調べていくと、なにやらメッセージが? その示すところに行ったら、なんと政府によってNASAが復活されていた…。しかし、クルマで数時間走ったところにNASAの秘密基地があって、そこからすでに何発ものロケットが打ち上げられていた、っていうのはあり得ないだろ。 で、得体の知れないサインなんだが、「本が落ちる」「床にたまった砂の模様」で、どうも重力の異変が原因らしい。クーパーは「モールスではなくバイナリ」と言っていたけど、2進法のことね。でもさ。ラスト近くでクーパーが時計を通じて送っていたのは、モールス信号だよな。じゃ、床のサインは2進法で、ブラックホールの量子データ(?)はモールスで送ったってことかい? なんでそんなことをしたのかね。時計の針の動きでは、モールスしか送れない? よく分からん。 ・あー。で。得体の知れないサインの原因について誰もずっと触れない、あるいは追求しない違和感がずっとあった。誰が送って来たのだ? それは最後の方になって明かされるんだけど、「もしかしてウラシマ効果で歳をとった父親が送ってるのでは?」と思っていた通りの答だった。なーんだ。やっぱりか。な感じで意外性はなし。 という、NASAに行く辺りまでの地上の話はまあまあ面白かった。マーフ役のエレン・バースティンが可愛かったってこともあるし。彼女、みんなから「マーフィ」って呼ばれてて、マーフィの法則、といわれるのが嫌いらしい、ってのが可愛いんだけど。そのマーフィの法則は、なんか意味があったのか? ないよな。 なんでも、土星の近くにワームホールという穴があって、そこを通じて別の銀河に行ける。そこに、人間の移住できる星を求めての旅らしい。って、昔から言われているワープだろ。ぜんぜん目新しくない。 で、向かう先には、3つの可能性のある星があって、すでにその星には人間がたどり着いている、という設定。くだんのワームホールをくぐりぬけられた先人がいて、信号を送ってきている、ということだ。っていっても、その先人たちは数年前に飛び立ったってことなんだろうが。 最初に行ったのは、海の星? でも、その星の1時間は地球の7年に相当するらしい。先人の遺骸はみつからず、大津波に襲われほうほうの体で脱出するが、ここで仲間をひとり失う。というのも、アメリアが宇宙船のブラックボックスにこだわったからなんだけど、そんなもの必要なのか? と思わせる話ではある。死んだ仲間が可哀想。しかも、アメリアは大して反省してない…。 ところで危機を救ったのは、箱形ロボットなんだけど、かたちは『2001年』のモノリスを連想させる。どうみても動作は緩慢と思うんだけど、いざとなるとちょこまか走るので笑ってしまった。キャラとしては、R2-D2みたいで、忠義なところがある。 宇宙船に戻ってみると、待機していた黒人の仲間ロミリーは白髪になっていた。23年たっていた、という。ブラックホールが近くにあるから、時間の長さが違うらしいけど、なんかよく分からん話だ。さて次に、どの惑星に行くか。アメリアとクーパーが割れるんだけど、どうもアメリアの主張する星には、彼女の恋人がたどり着いた、らしい。可能性としてはクーパーの主張する星の方が可能性が高いんだけど、アメリアは「そうよ。でも、愛の力にも信憑性があるのよ」みたいな、なんか、無茶苦茶なことをいうので、この女アホかと思ってしまう。 で、クーパーとアメリアが次に行ったのは、雲も凍る星。基地で眠っていたマン博士(マット・デイモン)を起こしてみると、「ここは可能性がある」とかいうんだけど、なんとマン博士はクーパーを殺そうとする。どうも彼はこの星に可能性がないことを知りつつ「可能性がある」と信号を送っていたらしい。それでマン博士は飛行艇を奪って宇宙船とドッキングを試みるんだけどできず、なんでか忘れたけど飛行艇は爆発しちゃうんだったかな。それで宇宙船も破壊され、でも何とか宇宙船と飛行艇の回転をシンクロさせ、クーパーとアメリアは宇宙船内にもどれる。のだけれど、この星のエピソードにはたくさん「?」がある。 ・マン博士が自分の命大事さにウソの信号を送った、はいい。でも、やってきた仲間を殺してひとり宇宙船に乗り込み、その後、どうするつもりだったんだろう。地球に戻る? そりゃムリだろ。他の、移住できそうな星を探す? それもなあ。というわけで、マン博士のご乱心は、説得力に乏しい。 ・ロミリーがいた基地が爆発したのはなぜなんだ? マン博士がセットした、とWikipediaにあるけど、なんのため? クーパーたちを殺すため? ・クーパーとアメリアが乗った飛行艇は、あれは何なんだ? マン博士があの星に着陸したときのものか? そんなもんがまだ駆動するのか? ・マン博士の飛行艇はなぜ宇宙船とドッキングできなかったんだ? とか、あれやこれや。 で、残ったのはクーパーとアメリアの2人。もう燃料も少ない。が、ブラックホールの近くにある星に行くことにする。アメリアの恋人のいる星だ。こっから先の話もよく分からない。 宇宙船と飛行艇をドッキングさせたままブラックホールの方に向かうんだけど、途中からなんたらして星の方に行くとかなんとか行ってたな。で、あと、「ブラックホールの量子データが地球を救う」とかなんとかも言っていた。っていうのも、これは地上のNASAの話とも関係してくるんだけど、NASAのブランド教授(アメリアの父親)は、移住に関して2つのプランがあるといっていた。Aプランは、宇宙船に乗ってワームホールを通過する案。Bプランは、冷凍卵子を持っていって、それを該当する星で育て、人間を生きながらえさせる、という案。で、Aプランをめざしているとか言っていたけど、どうも、「計算の答がでていなかった」とかいうことらしくて、Aプランは不可能、とかいうことが途中で分かるのだ。けど、その計算ってなんだよ? な話だ。その計算の答が、なんでブラックホールの量子データで分かるのか、意味不明。 とにかく、ブラックホールに突っ込んでいくんだけど、途中で宇宙船と飛行艇を切り離し、自分はブラックホールの中に入って行く…んだよな。よく分からんけど。で、それでアメリアはちゃんと次の星に行けたのかどうかは最後で分かるけど、なんかご都合主義な感じ。 でそのブラックホールの中が、なんだかよく分かんないんだけど、5次元の世界とか言ってたな。3次元の世界に時間と時空が加わるのかな? それでクーパーは過去のマーフに会えた。といっても一方的だったけどね。でも、重力を歪めて過去の地球にメッセージを送ったりできたわけだ。というわけで、映画の冒頭でメッセージを送ってきたのは父・クーパーだった、わけだけど、ああやっぱり、な感じ。 その5次元の世界を3次元で表現するんだからチャチいものになるのはしょうがないが。図書館の裏側というか、あるいは『天空の城ラピュタ』みたいな感じというか。そこからマーフにメッセージを送っていた。でもなんか、いまいち衝撃がない。それに、ここでクーパーは過去の自分に、NASAに行け、と指示しているわけだ。ところが、途中で気が変わったのか「stay」というメッセージを送るようになる。この変化はなんなんだ? 地球はどうなってもよくて、マーフと一緒にいてやりたい、ということなのか? よく分からない。あと、ワームホールの位置を知らせた、というのは、これもクーパーなのか? それとも、この5次元の世界に住む何か…神?…なのか? それもよく分からない。 時空を超えて親子が会話し、助けるという設定は『オーロラの彼方へ』があったよな。あれは息子が過去の父親に呼びかける話だったけど。同じような設定の話は、探せば他にもあるんじゃないのかな。だから、珍しくない。 で、ここで言ってるのは、宇宙と人間の心はひとつにつながっている、というようなことなんだろう。って考えると、これまさに仏教思想で、複数の銀河が広い世界に展開されているというのは、仏陀を中心とした世界があちこちにある、という話とつながってくる。 ではキリスト教的な一神教の考えはどこにいってしまったんだろう。5次元の世界に神はいたのか? 分からない。たぶん、どこかで神を否定しようという心根が監督にはあるんじゃないかと察するんだが、いかに。 ああ、それから。ブラックホールの中に突っ込んで、その間に量子データを収集して地球に送る役目は、箱形ロボットがするんだけど、これが犠牲的精神で突入したらしい。ここで同情が湧かないよう、あんな箱型にしたのかね。 で、目が覚めるとクーパーはベッドの上にいて、助かってる。おい。どうやってブラックホールから抜け出たんだよ。な話なんだが、そこには量子データのおかげで宇宙船を建造し、ワームホールを抜けて(なのか?)近くにやって来ていて、巨大な宇宙ステーションで暮らす人間世界がある、という未来につながってたという話だ。けど、宇宙船を建造できたのなら、銀河系にいてもよかったんじゃないのか? 巨大な宇宙船で、どうやってワームホールを通り抜けたんだ? いやその前に、どういう基準で宇宙ステーションに乗れる人を選択したのだ? というような、これまでの映画にもあった課題をどうクリアしたか、が気になる。 クーパーは高齢で、でもまだ生きている娘のマーフと面会する。しかも、マーフの膨大な子孫にも囲まれる。なんというハッピーエンド。ハリウッドだな。暗さは一気に払拭された。さらに、なんと第3の星に行ったアメリアが生きていることを知り、そこに向かう。という、わずかなロマンスもつけ足しである。ここで、疑問。アメリアが星をほ離れ、クーパーのいる宇宙ステーションにやってきたら、それは何10年後かの宇宙ステーションに到着し、クーパーは死んでいるのか? はたまた、すでにクーパーのいる宇宙ステーションもブラックホールの影響を受けていて、時間の違いはそんなにないのか? よく分からない。 あと、アメリアの最後のイメージでは、恋人だったエドマンズの名前のある銘板が写るんだけど、彼はすでに死んでしまっているということなのか? その星で、アメリアは顔を外気に晒しているんだけど、つまり空気があるということだよな。それに、いくつかのハウスが点在していて、電気もついていたような…。ということは、他に誰かいるのか? 冷凍卵子から、人間が生まれた? ううむ。よく分からない。 でも、その星が移住に適しているとするなら、愛を信じたアメリアの選択が正しかったわけで。クーパーが氷の星を選択したしたせいで、ロミリーは爆死するし、マン博士も醜態を晒しつつ死ぬことになったわけだ。クーパーは、アメリアと再会し、なんと言うのだろう。 アメリアが最後の星にいることを、あの宇宙ステーションの人は知って、いなかった? だからクーパーはアメリアを探しに出かけた? なんか、誰かに「行け」といわれていたような記憶があるんだが…。めざした3つの惑星のことは、宇宙ステーションの人は知っているだろうに、どうして探索に行かなかったんだろう? 疑問。 ・最初にでてくるインド軍のドローンは話には関係ないのね。 ・第1の水の星からもどると、23年後。年老いたブランド教授とメッセージが交換されるんだが(電波もワームホールを経由するのか…?)、23年間、他のロケットを打ち上げていないのはどういう理由なんだろう? もっと発射すりゃいいのに。なに? 量子データがなくて計算ができていなかったから? だったらクーパーたちを宇宙に送る意味もないだろ。 ・ブラックホールの地平線? なんだそれ。 ・ブラックホールの量子データが分かると、人類が救えるって、具体的にはどういうことなんだ? Aプランの宇宙ステーションに人間を乗せて宇宙に飛び出せる、なんだろうけど、そのためにブラックホールの量子データの何が大事だったのだ? 分からない。 ・箱形ロボットのセリフなんだけど、ロボットが言っているのか人間がしゃべってるのか分からんところが多々あったぞ。 ・箱形ロボットの名前とか、すでに星にたどり着いている連中の名前とか、そういうのがポンポンでてくるのは、分かりにくかった。 ・詩が引用されてるけど、これなんか幻惑の手口の最たるものだよな。 ・毎度、フツーの話を曰くありげに見せるクリストファー・ノーラン。今回もそんな感じ。話に目新しさはなく、『2001年』を下敷きに、SF映画のいいとこ取りをしてる感じ。あと、音楽で盛り上げる。繰り返すけど、親子の愛とか、ささいなことだからな。 | ||||
ローマ環状線、めぐりゆく人生たち | 12/19 | キネカ大森2 | 監督/ジャンフランコ・ロージ | 脚本/--- |
原題は"Sacro GRA"。allcinemaの解説は「ローマを取り巻くように走る環状高速道路“GRA”に焦点を当て、大都市の辺縁に暮らす人々の悲喜こもごもの人生を見つめたドキュメンタリー。木の中の“音”を聞き害虫から木を守ろうと研究に勤しむ植物学者、不釣り合いなモダンな建物で一日中しゃべりたおす老紳士とその娘、自宅のお城を映画の撮影や多目的ホールとして貸し出す没落貴族、あるいは“GRA”の巡回や人命救助の合間に年老いた母の面倒を見る救急隊員など、日々を懸命に生きる人々の少々風変わりな日常と愛おしき人生を美しく詩的な映像で切り取っていく」で、ヴェネチアの金獅子賞らしい。信じられない。 正直にいって、つまらない。↑のあらすじにあるような人々の様子を、断片的につなげているだけ。ドラマらしいドラマは、ほとんど、というか、まったくない。淡々と、人々を描いていくだけ。たとえば老人と娘の場合、カメラはフィックス。他にも、同じ建物らしい部屋も、同様にフィックスで描かれる。だから、娘がブスなのかきれいなのか、まったく分からない。他にも、ウナギ採りの漁師とか、古くなった棺桶から死骸を取り出すような場面もあったけど…って、これは『グレート・ビューティー/追憶のローマ』のシーンだったかな、いや、こっちだよな、な感じで、芒洋とした感じもある。 で、見終えて↑のあらすじを見たら、ドキュメンタリーとある。ウソだろ。どこがドキュメンタリーなんだ? プライバシーに迫るには、あまりにも杜撰すぎないか? あんな会話、ほんとうに演技していなくてできるのか? やらせの度合いが高いんじゃなのか? と思わせるような場面が大半を占めているんだが。 それにしても、話がみんな中途半端で。なにがどうなって、どうなるのか、さっぱり分からない。あんな中途半端な映像を見せられたら、寝るしかないよな。というわけで、始まって数10分でカクッと寝てしまい、5〜10分ぐらい気を失っていた。目覚めてからはなんとか見通せたけど、分からないのは、相変わらずだった。久々に、つまらない映画を見た。 | ||||
グレート・ビューティー/追憶のローマ | 12/19 | キネカ大森2 | 監督/パオロ・ソレンティーノ | 脚本/パオロ・ソレンティーノ、ウンベルト・コンタレッロ |
原題は"La grande bellezza"。Google翻訳したら「偉大な美しさ」となった。allcinemaのあらすじは「イタリア、ローマ。初老のジャーナリスト、ジェップはセレブリティたちの間でも一目置かれる存在。若いときに書いた唯一の小説が大ベストセラーとなり、以来優雅な印税生活を送り、今でも夜な夜な華やかなパーティを渡り歩く日々。そんな享楽的な人生を謳歌してきたジェップだったが、さすがに寄る年波を意識せずにはいられない。そこに舞い込んで来たのは、彼が決して忘れることのなかった初恋の女性エリーザの訃報。大きな喪失感に見舞われ、何かを求めてローマの街をあてどなく彷徨い歩くジェップだったが…」で、アカデミー賞外国語映画賞だと。信じられない。 なんか、わけ分からないパーティの場面が冒頭からしばらくつづくんだけど。なんの意味があるのか分からない。『ローマ環状線』がせ芒洋とした話だったので、まさかこっちは…と思っていたら、『ローマ環状線』に負けず劣らずと言うより、よりひどい映画であることが分かってきて、耐えきれず寝てしまった。どのぐらい寝たろう。2〜30分かな。どの辺りで寝たか、どこら辺で気がついたか、それも説明の仕様がないほどテキトーな話だった。 手短に言うと、最近書けなくなっている国民的巨匠の作家が、友人知人などと交流しながら、再び書くことを決意する、という話のようだ。だけど、中味が全然つまらない。もうよく覚えていないんだけど、むかしからの作家仲間たちと飲んで話し合って、偽善的な女性作家を罵倒してみたり。友人の娘で、ダンサーをしてる女性としばらくつき合ってみたり。と言っても、肉体関係はなかったようだけど。とか、なんかよく分からない私生活を、これまた断片的にだらだらと描いている映画で。正直いって、目覚めてからも見るのが苦痛だった。 話としてはフェリーニの『甘い生活』とか、アラン・レネのいくつかの映画を連想したりするんだけど、それらにはそれなりの表出があって、エピソードのつながりというか、因果関係があったと思う。ところがこの映画では現象だけを散漫に分割配置している感じがあって、総体としてなにを言おうとしているのか、よく分からない。なので、比較対象にはならない。 たとえば、クラブを営業している旧知を訪ね、ダンサーとして出演している娘と出会う話。その後、あちこちにその娘とともに出かけたりするんだけど、なぜそうなったのか分からない。旧友は「結婚相手を探さなくては」とかいっていたけど、その旧友自体はたしか以後、登場しないのだよな。しかも、その娘(といっても、いい歳のようだけど)も、いつのまにかいなくなっている。直後のシーンで「死んだ」かいって泣いている婆さんが写ったけど、娘が死んだのか? どうやって? よく分からない。 といつたようなわけで、場面もロクに覚えていないし、感想もなにもない。なんだこれは、な感じ。結構、ロングランしてたけど、いったいこれ見て、よかったとか素晴らしいとか、そんなことをいってるやつは、ほんとうにいるのか? いたら、その真意を尋ねたいところである。 | ||||
マップ・トゥ・ザ・スターズ | 12/22 | 新宿武蔵野館3 | 監督/デヴィッド・クローネンバーグ | 脚本/ブルース・ワグナー |
原題も"Maps to the Stars"。星への道? 最後に2人とも星になるから? よく分からん。allcinemaのあらすじは「ハリウッドのセレブ一家、ワイス家。父スタッフォードはTV番組も持つ有名なセラピスト。13歳の息子ベンジーも子役としてブレイク中で、典型的なステージママのクリスティーナはマネージャーとして息子の売り出しに余念がない。そんな中、スタッフォードのセラピーを受けている落ち目の女優ハヴァナが、顔に火傷の痕がある少女アガサを個人秘書として雇い入れる。しかし、彼女こそはワイス家が7年前に封印した存在、一家の長女だった。彼女の出現をきっかけに、ワイス家の忌まわしき過去が少しずつ明らかになるとともに、順風に見えた家族の歯車が急速に狂い始め…」 クローネンバーグは、そんな見てないけど。『イースタン・プロミス』のあと『コズモポリス』見て、なんだ? と思ったよ。それ以前の『ヒストリー・オブ・バイオレンス』とか『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』なんかはちゃんとした骨格がある映画だったし、ずっと以前に見た『クラッシュ』も、妖しい雰囲気で、なんとなく覚えていたりするもん。でも、この映画はすぐ忘れそう。『コズモポリス』も、ロバート・パティンソンの顔の映ってるポスターしか覚えてないw てな案配で、この映画もなんかぐだぐだ。で、結局、何が言いたいの? な感じなのだ。 単純にまとめると、両親が兄妹であることを知った娘アガサが、かつて家に火を放った。たぶん家族すべてを抹消したかったんだろう。自身は火傷を負い、精神病院に入れられた。それから7年…弟ベンジーはハリウッドスターとなり、両親もセレブの仲間入りしていた。そこにアガサが現れ…最終的にはベンジーと婚姻し(肉体関係はない)、心中するという話。これはなにかい? キリスト教の原罪とか、近親相姦の呪いだとか、そういう神話的世界の話を原罪にもってきた、って話なのか? なんか、散漫。イミフながら何かありそうなエピソードとか小ネタをあちこちにばらまいて煙に巻いている感じかな。きっと、みな思わせぶりなだけで、たいして意味はないと思う。もう見てから10日も経ってしまったんで、記憶が薄いんだが…(2015.01.02につづきを書いている)、だからどうしたな話である。 ハヴァナには、いろんなモデルがいるんだろう。ハリウッドで仕事がなくなり、干されることの辛さ、でも、プライドは…な役者は少なくないはず。でも、じゃあ彼らの現実を描いてどうなるの? な感じがする。しかも、その元大スターだけに焦点を当てるならまだしも、彼女の存在や境遇は、この映画ではメインストリームになってはいない。結局は、ああそうですか、大変ですね、て終わってしまう。 むしろメインストリームは、アガサの物語である。精神病院に追いやられ、忘れられていた娘が、なぜハリウッドに? 両親や家族への仕返し? よく分からない。まあ、アガサの素性はおいおい分かってくるので、最初は「なんかだろな?」な感じだったんだが。 というわけで、大成功している、でもこまっしゃくれた子役のベンジーがアガサの弟である、というのはずっと知らない状態で観客はみているわけだ。そのベンジーは、極端ななで肩で、ひ弱な感じ。だけど、生意気で、周囲の大人まで見下している。パーティでは「俺のウンコを買ったやつがいる」とかいうネタを何度もいったり、従をいじっていて友人の犬を撃ち殺したり。どうやらすでにヤク中になっていて、いま脱しかけているところらしいようなことも言っていた。その関連で、「ドリュー・バリモアも子役でヤク中だった」なんてセリフもでてきたりするんだが、ドリュー・バリモアにはいい迷惑だろうな。てなわけで子役としての限界もうすうす感じているのか、年下の子役がウケていることにイラついている。 ベンジーが最初、少女のところへ見舞に行ったのは、ありゃ仕事のひとつだったのだろうか? 病名を取り違えたことでマネージャーに当たり散らすんだけど、見舞った少女は後に死んでしまったことが分かる。でも、見舞ったおかげで、死んでしまった少女がベンジーのところに幽霊として登場する。でも、ベンジーは極端に驚いたりしない、のがちょっと不自然。それから、ハヴァナの知り合いの女優の息子でプールで溺れ死にした少年も、幽霊ででてくるのは、どういう因果関係があるのかよくわからず。とにかく、幽霊を見るようになって、ベンジーは自分のライバルになりそうな子役の子の首を絞め、あわや殺しかけるということなんだが、まさか幽霊を見せているのはアガサだったりするのか? よく分からない。 売れない女優ハヴァナは、俳優二世。母親を扱った映画の主役に拘泥するが、監督は別の女優を選ぶ。ハヴァナはもう精神的にボロボロで、あれは誰とだっけ、3Pをしてたりするし(ボカシする意味はあるのかね)、身体ももうぶよぶよ。そんなハヴァナも母親の幽霊を見るんだけど、その意味はよく分からない。落ち目になると、幽霊を見るのか? で、主役に選ばれた女優の息子がプールで溺れ、ハヴァナに代役が回ってくるんだけど、会った監督の歯切れの悪いこと。という展開は、分からんでもないけど、意味はよく分からない。 で、中心となるアガサなんだけど。ハヴァナの秘書として雇われてあれこれ世話をしつつ、知り合ったタクシー運転手とつき合ったりしているんだけど、その運転手とハヴァナがクルマでセックスしているのを見て(?)なのか、急に激情して彼女を何かで殴り殺してしまうのは、それは、あれかい? 両親が兄妹なのに結婚して子供をつくった、からかい? でも、両親は互いに血のつながりを知らず、たまたま大学だったかで知り合って結婚し、後にわかった、のだろ。そんな両親に反発するアガサの様子は、表面的には、アガサ=分裂病は危険、というようなことになっていて、いささか不満だな。そういうほのめかしは無い方がいいと思う。誤解を生むし。 てなわけで、だからどうした、何がどうしてこうなった? な、散漫な映画であった。 俳優・脚本家志望の運転手。こういうの、LAにはいっぱいいそう。 ハヴァナに仕事の情報を持ってくるオバサンは、エージェント? | ||||
ハネムーン | 12/24 | 新宿ミラノ3 | 監督/リー・ジャニアク | 脚本/フィル・グラツィアデイ、リー・ジャニアク |
原題も"Honeymoon"。allcinemaのあらすじは「美しく気だての良い女性ビーと結婚し、幸せいっぱいの青年ポール。人里離れた別荘を訪れ、2人きりのロマンティックなハネムーンを満喫するはずだった。ところが、ビーは真夜中に寝室を抜け出し、森の中を全裸で彷徨っているところをようやくポールに発見される。これを境に、ビーは別人のように不可解な行動を取り始め、やがて想像を絶する恐怖に見舞われるポールだったが…」 「全米驚愕の<新感覚>ショッキング・ホラー」「戦慄の恐怖を描くサスペンス・ホラー」とか惹句が書かれているけど、ちっとも怖くない。怪しいことといえば、まずはレストランをやってるビーの旧知のウィルとその妻アニー。どうやら妻が異常な状態らしい。そして、寝室に入り込む夜中のライト。さらにビーの深夜の彷徨と、その後の記憶の減退ぐらい。でもって、夢遊病以来、ビーがセックスをこばむようになった、という時点で、こりゃ悪魔か宇宙人に孕まされたんだろうと予想がついた。 しかし、その後も魚釣りに行ったりあっち行ったりこっち行ったり、遊んでいるだけで、たまにビーに異常が生じる程度。大きなドラマもなく、まあ、よくいえばじわじわ変化が起こってくるんだけど、たいして怖くない。 ポールは妻がつい数日前の記憶もなくなって、自分が誰だかノートに書いているのを見て怪しがり、別人になったのではないか? と疑う…。内股に妙な痕もできてるし。 最初、ポールは妻が森で会ったのは、彼女の旧友のウィル? と思い、訪ねるけど不在。家に入って監視カメラの映像を再生すると、ビーが出入りしている映像が映る。さらに、ウィルの妻もビーと同じように、「私はアニー」とノートに書いていたことを発見。その後、ポールは旧友の奥さんと船着き場で会うんだけど、彼女の内股にも痕ができている。さらに旧友の帽子が血濡れて浮かんでいるのを発見。というわけで、ポールが感づいたかどうかは分からないけど、観客には「旧友は妻に殺された」とインプットされる。 ホールは、ビーが鏡に向かってセリフの稽古をしているのを目撃。そのセリフはポールに向かって言う会話となるもので、つまり、練習しないと会話できない、という 状態らしい。それでポールは妻が別人になってしまった、と思い、追求する。でも、 「お前は誰だ?」 「わたしはビー」 「ほんとうは誰だ?」 「ビーよ」 てな感じで禅問答みたいなセリフが延々つづいて、ああもう退屈。じれったい。いつまでたっても怖くならない。おどろおどろしいのは音楽だけじゃないか。 さらにビーが下半身から出血したり、下半身に手を突っ込んだりしているのを目撃。なんだかんだあって、ポールはビーの股から長いサラミみたいなのをひっぱりだす。一瞬、ビクッと動いたから生物なんだろう。でも、ポールはそれには一向に関心を示さないのが変。しかもビーは「言おうと思ったの。周囲が光るやつらが体の中に入ってきて。言おうとしたけど、できなかったの」とかいうけど、そうなのか? すでに操られてるんだろ? 記憶も薄れてるし。とか思ってたら、強く咎めるポールを鈍器で殴って気絶させ湖に沈めてしまうのだけれど、まったくドラマチックがない。意外性のカケラもない。 最後、ビーとアニーは顔が変わってしまうほど変容してして、ビーが森で会ったという光の輪郭をもつ存在と会う、というシーンでジ・エンド。ってか、なんだよこれ。ひでえな。古くは『ローズマリーの赤ちゃん』とか、宇宙人に懐妊させられる話はいくらでもあって。まったく珍しくない。しかも、つまらないし、怖くも何ともない。その宇宙人もでてこないし、生まれたサラミもどうなったのか分からない。こんな手垢のついた話を新鮮味なくよく映画にするよなあ、と思う。こんな話、15分ぐらいの短編でいいじゃん。 ・ビーは1987年生まれの設定らしいが、えらく老けている。で、演じたローズ・レスリーを調べたら、正真正銘の1987年生まれだったよ。劣化が激しすぎだな。 | ||||
あと1センチの恋 | 12/25 | 新宿武蔵野館1 | 監督/クリスティアン・ディッター | 脚本/ジュリエット・トウィディ |
原題は"Love, Rosie"。allcinemaのあらすじは「英国の小さな田舎町に暮らすロージーとアレックスは幼なじみの大親友。青春時代をずっと一緒に過ごしてきた2人は、どんなに恥ずかしいことでも遠慮なく言い合える関係。ところが、好きという言葉だけはどうしても言えなかった。そんな2人の夢は、米国ボストンの大学に一緒に進学すること。そして2人ともみごと合格し、夢に大きく前進した矢先、ロージーはクラスの人気者との一度のセックスで妊娠してしまう。進学を諦め、地元に残って子育てをする決断をしたロージーと、ひとりボストンへと旅立つアレックス。再会を誓い合い、離ればなれになっても連絡だけは取り合う2人だったが…」 幼なじみの男女が、惹かれ合いながらも互いに言いだしかねて、相手を尊重するようなかたちで互いの恋愛を認め合い…つつも本音では嫉妬したり悔しく思いつつ成長し、あれやこれやのあとにめでたく結ばれる、という、よくある感じな話。互いに別の相手とはやり放題なところがあって、なんか『ビバリーヒルズ青春白書』みたいだな、と思っていたら、ロージー役のリリー・コリンズって『新ビバリーヒルズ青春白書』ようだ。ま、直接関係あるわけじゃないだろうけど。 最初、アメリカ映画かと思ってみていた。そしたら「ボストンの大学へ行く。国外だ」とかいうセリフがあって「?」。イギリス? でも、らしくないね。あの、漢方薬局の姉ちゃんの英語の訛りは、さすがにイギリスと察せられたけど。 互いに最初に出会う相手が、やなやつ、で。間を挟んで最初の相手と再び結ばれ、でも結局別れて、その結果として自分に正直になって結ばれるんだが、話が同じというかシンメトリーになってる。まあ、分かりやすいっちゃそうなんだが、パターン化されすぎかも。 ロージーが早漏男にバージンを提供し、コンドームを置き忘れられて妊娠、はまあいい。子供は里子にだして、ボストン大学に…が、子供の顔を見たら気が変わって育てることにして、大学はあきらめる、という選択は同意できるのだろうか、みなさん。だいたい、家族の存在が薄っぺらすぎないか? こういう展開なら、まず両親が怒る→子供は私たちが育てよう→ロージーは大学へ…で解決だろ。それを自身が育てるとなるには、それなりの説得力がないとなあ。あまりにももったいない。 それはそうと、ボストン大学なら学費も年間数百万だろうに、ホテルの古参ドアボーイで払い切れたんだろうか? ローン? 以後は、ロージーはパトロール中の警官を引っ張り込んで朝を迎えたところを、幼稚園児(?)になった娘に見られたり、いい加減なことこの上ない。 アレックスは、パーティで知り合った気位の高そうな女性と同棲。そのことは、ロージーにも知らせたりと、2人は昔からの恋人未満の友だち関係を貫き通す…というのは、どこかでも見たことのあるような展開だ。アレックスの同性相手は妊娠したけど、どうも波長が合わない。さらに、彼女のお腹の子も、別の男のタネと判明。まあ、話の都合上、むりやり理由をつけて別れさせているような感じでもある。 そうして、つきあい始めるのが、彼が童貞を棄てた相手である同級生なんだけど、彼女は一流モデルになっている、という設定。これもむりくりだよなあ。で、時を同じくしてロージーも、バージンを提供した早漏男とよりを戻して結婚してしまう。なんか、話がショボイというか、どうしてそうなるの? な感じ。でもまあ、これも話の都合上そうしている、かのような感じである。 まあ、当然ながら早漏男はダメ亭主で、ロージーの父親の葬儀でも、だらしのないヤクザっぽい感じで登場する。 さて、ロージーには夢があった。小さいけれど、満足のいくようなホテルを経営する、という。で、そのパートナーとなるのが、女友達なんだけど、彼女ってロージーが生理不順だからって最初に行った漢方薬局の姉ちゃんだよな。でその彼女、いつしかホテルみたいなところでロージーと一緒に働いていたりするんだけど、あれはどういうことなんだ? あの姉ちゃんがホテルに移ったのか? それとも、漢方薬局が成長し、そこにロージーが? ってことはないよな。あと、その姉ちゃんに、会った途端にプロポーズする男、あれって、アレックスの元カノの兄貴か? なんか、その辺りの登場のさせ方と説明がいい加減すぎて、なんかよく分からない。 で、念願のホテルのオープニングに、アレックスがやってきて。女とは別れた、という。ロージーの方も、離婚したらしい。このあたりの展開も、まったくもってご都合主義。まあ、都合が先にあって、そこにエピソードをひっつけていった、な感じの映画なんだろうけどね。 ロージー役のリリー・コリンズは可愛い、けどね。 | ||||
百円の恋 | 12/29 | テアトル新宿 | 監督/武正晴 | 脚本/足立紳 |
allcinemaのあらすじは「実家にひきこもり、自堕落な毎日を送る32歳の一子。ある日、離婚して子連れで出戻ってきた妹と衝突して家を飛び出し、一人暮らしをするハメに。仕方なく、100円ショップで深夜のバイトを始めた一子は、そこで同じように社会からこぼれ落ちた不器用な人間たちと出会っていく。そんな中、近所のボクシングジムでストイックに練習を続ける引退間近の中年ボクサー・狩野と付き合い始めた一子は、やがて自分もボクシングのトレーニングを始めるようになるのだったが…」 ボクシングの映画だとは聞いていたが、そのボクシングの描写に入るまでが長すぎる。2/3ぐらいたって、ようやく一子がジムの門を叩く。そこから20分ぐらいは、若干の高揚感あれど、試合になったら途端に萎える。どうせ勝つはずがない、と思いつつ、ひょっとしてここから大逆転? あしたのジョーにもあったからなあ。でもまさか。と思っていたら入った左ボディと右ストレート。相手がダウン!? と思わせて、一子にもパンチがきてダウン。で、なんとか立ち上がる一子。ひょっとして両者ダウンで、一子の勝利? と思わせて、やっぱり負けだった。まあ、いいけど。しかし、その後が情けない。自分を棄てた狩野と仲直りして、会場を去るとは…。なんだよ。この終わり方。 そもそも一子がボクシングを始めたのは、百円コンビニの店員仲間の、おしゃべり野郎に殴られてホテルに連れ込まれやられちゃったから、だろ? で、ぜひとも試合にでたい、と思うようになったのは、狩野に新しい女ができて棄てられたから、だろ? だったら、狩野と簡単にくっついちゃいかんだろ。狩野に一発かましてやらなくちゃ話にならん。さらに、エンドクレジットでの映像でもいいから、おしゃべり野郎にパンチを入れて鼻血だせなくちゃカタストロフィーないだろ。廃棄弁当をババアに与えることにうるさい100円コンビニ社員を殴ってもしょうがないだろ。それまで会った出来事=伏線を、回収しろよ。 人物の登場のさせ方もそうなのだ。たとえば、最初の方で登場させた一子の母、妹、甥などは、最後の試合会場まで登場しない。もうちょいと途中で絡ませろよ。あと、最初の方でチラと一瞬登場した男がいたんだけど、誰かと思ったら、後半で一子のアパートを訪問して「家を手伝ってくれ」という。誰かと思ったら、あのときの? 兄? と思ったら父親だったようだ。ケンカしているのは姉か妹か、分からなかったけど、妹のようだ。この辺りの登場のさせ方とか説明とかヘタすぎ。 他にもいろいろ人物がいるんだけど、意味不明な扱いばかり。たとえば、冒頭近くで、一子がコンビニに行くとき、ある男の自転車を拝借しちゃうんだけど、あの男なんて、なんか使えそう。後半、工事現場で遭遇した狩野に、女と別れたことを告げられるんだけど、そのとき背後で小芝居している浮浪者みたいのが写る。あれだって、なにかに利用できるだろうに。コンビニの店員に関していうと、店長が途中から消えてしまうんだけど、うつ病だ、というだけで真相は不明。なんで、うつ病になったんだ? という伏線がない。その後に入ってきた青年に関しては、いつのまにかいて、説明がない。あの、おしゃべり野郎だけがムダに出番が長すぎる。もちろん味があって面白いけど、全体のバランスを考えたら、出番はもっと短くていい。あの、弁当をもらっていくババアも同じ。存在の意味を臭わす描写がほとんどなく、何度も同じような感じで弁当をもらいに来るだけ。意味がない。 おしゃべり野郎に関していうと、働いているコンビニのレジから金を奪い、その足で一子とともに狩野の試合を見に行き、終わった後で3人で飲みに行き、一子をむりやりホテルに連れ込み強姦。その後一子は警察に「いま寝てます」と連絡するんだけど、捕まったのか? でも、その後に一子がコンビニに行って、レジから金を盗むシーンを監視カメラのビデオで見るんだったよな。じゃ、捕まってないのか? 意味不明。それにしても、妻はいなくても子供ががいるんじゃなかったか、あのおしゃべり野郎。 ババアの方は、かつての店員で、何かの新興宗教にはまっているのか? 怪しいことばかり行っている。何の意味があるんだ? しかも、こっちも最後は包丁で店員を脅し、現金を強奪していく。そんなのすぐ捕まると思うけど、意味不明。面白い展開だとは思うけど、それなりに伏線と回収がされてないと、たんに風呂敷を広げただけになってしまうだろ。 この映画の難点は、そもそも、が無いことだ。一子はなぜ30過ぎて実家でゴロゴロしているのか。なぜまだバージンなのか。なぜボクシングに興味をもったのか。あるいは、ジムの前にいた狩野に興味をもったのかも知れないけど。そういうのががないから、その後の展開にまったく説得力がない。見りゃわかるだろって? 単にブスならいくらでもいる。近ごろの若い者は、でも説明はつかない。やっぱり、それなりの原因を臭わせないと、成長物語にはならないと思う。 そしてまた、狩野がなぜボクシングにしがみついていたのか。37歳だっけ? 最後の歳に試合をして、負けて引退をする思いとか、そういうのもまったく感じられない。 この映画は、狩野が挑戦をやめて落ちぶれていくのと反比例して、一子が変貌を遂げていくという構図になっている。だったら、やはりその背景に踏み込まないとダメだろう。 一子の成長物語に、なってるか? なってない。なぜボクシングを始めたか。いまの自分がダメである、という自覚もない。たんに妹とケンカして「出ていく」といったからのひとり暮らしで、しかも住居費は親がかり。コンビニ生活で出会う連中からも、どこからもインスパイアされていない。どこにも一子の目覚めがない。それじゃ成長物語にならない。 ボクシングを始めて、上手くなりたい、強くなりたい、と思うようになったのは、おしゃべり野郎と狩野の存在なんだろ? 復讐心だ。で、それでボクシングが上達して、どうして家の手伝いまでするようになるのだ? これ単なるご都合主義。『マダム・イン・ニューヨーク』の、英語を上達したい、という思い、挑戦する心、亭主に見返すほどの上達…あの脚本の上手さを見習えよ。 とはいえ、面白いシチュエーションは多少ある。狩野の個人的性癖なんだろうけど、前戯で「ちくびつまんで」というところ、ボクシングジムの会長がょっちゅうカップヌードル食べてて、あるときカップヌードル食べ終えてから「よし、めし行こう」というところとか。狩野がバナナを買って、でも、いつも持ってかえるのを忘れるとか。しかし、場当たり的なくすぐりで、意味がないんだよな。ほったらかし。それじゃしょうがない。 まあ、ましなのは、ジムの風景で、会長とトレーナーの描写は、ムダなくできていた。あんなもんでいい。 あとは、たぶん世間が評価する一子の身体が締まっていく様子、ボクシングシーンのリアリティだけど、まあ、あんなもんだろ、フツー。ぶよぶよで尻をかく場面は吹き替えだろうし、もともと身体は締まっているんだろう。ボクシングシーンがリアルなのは敬服するけど、役者がOKしたんだから、あのぐらいやってもらわなきゃ困る。むしろ、最後のダウンシーンをカット割りせず、1シーンで見せるぐらいにして欲しかった。贅沢? しっかし、聞き取りにくいセリフがたくさんありすぎなのには、困ったね。 | ||||
青いパパイヤの香り | 12/30 | 新宿ミラノ1 | 監督/トラン・アン・ユン | 脚本/トラン・アン・ユン |
『新宿ミラノ座より愛をこめて〜LAST SHOW〜』の1本として上映。開始前に支配人が登場し、シネマスクエアとうきゅうでのロードショーだったことを紹介。上映前、上映後も、かすかに拍手。 フランス/ベトナム映画。1993年製作。原題は"M?i du du xanh"。フランス語では"L'odeur de la papaye verte"。英語は"The Scent of Green Papaya"。allcinemaのあらすじは「サイゴンのある資産家の家に、10歳の少女ムイが奉公人として雇われて来た。その家には優しい女主人と根無し草の旦那、三人の息子たち、そして孫娘を失って以来二階にこもりっきりのお婆さんがいた。ムイは先輩女中に教えられ、一家の雑事を懸命にこなしていく。そして彼女は、ある日長男が連れてきた友人クェンに恋心を抱く…」 女の一念岩をも通すで、一目惚れのクェンを自分のモノにしてしまう女中・ムイの話。淡々としたタッチでセリフも少なく、流れるように見せるから情緒的な話と思っていると、あに図らんや。男の心を操るオソロシイ女の話だった。 というのも、ムイは青いパパイヤを効果的に利用し(つまり、クェンに食べさせて)、クェンを自分のモノにしてしまったからだ。 ムイがクェンに目をつけたのは、最初の家に奉公してきてすぐ。10歳のときだから、結構早熟。その最初の家が没落し、クェンのところの下女として差し出されるのだけれど、クェンは20歳のムイにまったく無関心。つき合っている恋人もいるし、女性には不自由していない。あとは作曲に没頭の日々だ。といっても、20歳のムイは存在自体がエロいんだけどね。 そんな環境下でムイはクェンに愁眉を送ることもなく、独楽鼠のように忙しなく仕事をこなしていた。恋人も、ムイを女としては見ていない。だから、彼氏が若い娘と一緒に住んでいても、まったく気にしていない様子。でもムイは、青いパパイヤを食事に出すのだよ。するとクェンは突然のようにムイの存在に気付く。それに応えるかのように、ムイもとっておきのドレスを着込む。これはもう、クェンを捉えるための罠だよな。ドレスは、前の家で、幼くして死んだトーのために奥さんがつくっておいたもので、それをもらっていたのだ。そして、クェンの彼女がベッドに忘れていった口紅をさす。そのとき、ムイはクェンの恋人がクェンに送った壺を斃しそうになるのだ。ここですでに、バトルが始まっている。 赤いドレスを身にまとったムイに、クェンはあっという間に惚れてしまう。おお。やっぱり青いパパイヤは浮気薬だな。 クェンの恋人は壺を含むあれこれをたたき割り、決別。いっぽう、クェンはムイに字を教え、教養を仕込み、孕ませる。その、大きくなった腹をさするムイの、勝ち誇ったような姿で映画は終わる。計画通り「やったね」な感じの終わり方。カッコウが別の鳥の巣に卵を産み付け、孵化すると本来の卵を地上に落とし、自分だけが生き残る托卵も連想した。あるいは、宇宙人が人間に寄生するような感じも…。ある意味SF的でもある。 そもそも最初に奉公した家の主人には放浪癖があった。7年前に家をでた際、娘が病気で死んでしまった。主人はそれを自分のせいだと反省し、放浪の虫は収まっていたのだが、ムイがやってきてしばらくすると、またぞろ家を出て行ってしまったのだ。主人は奥さんが生地屋で稼いだ稼ぎとネックレスなども持っていってしまった。主人の母=義母は「女をつくっている。それはお前のせいだ」と奥さんをなじる。お金がないから米もロクに変えず、青いパパイヤの実を食べたりして糊口をしのぐことになった…のだが、そのパパイヤのつくり方は先輩女中が見せてくれた。おそらく、それまでも食卓に上ったことがあるのだろう。おそらく、ムイは「青いパパイヤには男に浮気をさせる力がある」ことに感づいていたんだろう。 媚薬のような青いパパイヤだけど、カタチは瓜で、割ると中に虫のような種が詰まっている。これは繁殖=性的な象徴。カタチも瓜で、ペニスを連想する。そういう、やらしいコノテーションがある。 そういう、何かを象徴するような事柄やモノがこの映画にはたくさん登場する。たとえば壺。これは女性器の象徴として昔から登場するが、最初の家の奥さんのコレクションとしてたくさんでてくる。その壺に、小学生らしい三男は小便をしたりする。ムイが誤って、といっても三男がなかにトカゲを仕込んでおいてムイを驚かせて、割ったりしている。さらに、主人が亡くなって後、奥さんは金に困って骨董品屋に売り払ってしまう。女性として、母親として、しだいに力を失っていく奥さんの象徴になっている。 いっぽう、次の奉公先、つまり、ムイの焦がれている音楽家のクェンの家では、彼の恋人がクェンにプレゼントしたりしている。そのプレゼントした壺を、ムイは誤って割りかけている。こちらでも、恋人との関係性の象徴として登場している。 他にも、次男はアリに蝋をかけて動かなくしたりつぶして殺すんだけど、ムイは食糧を運ぶアリを興味深く、あるいは、応援するかのように眺めるシーンがある。ほかにも、三男が再三、ムイへの意地悪に使うトカゲ。ムイがいとおしく見守るコオロギやカエルなど、小動物がいくつも登場する。「かえるの王さま」という寓話もあることだし、ひょっとしたらムイは、自分がカエルにされてしまった女王だと思い込んでいたのかも知れない。 ・次男が蟻を殺し、三男がトカゲを殺したり、ムイに意地悪ばかりするのは、父性の不在の反動なのか? 長男はあまり登場しない。次男と歳が開いているようで、あまり家にいない。何をやっているのだ? いつも食卓には、次男と三男ばかり。父親=主人の放浪癖が遺伝しているのかね。 ・それにしても、女房は生地屋で働かせて、亭主は二胡をひいてくつろぎ、外に女をつくる。義母に言わせりゃ「お前が悪い」とは、男の天国だな、ベトナムって。 ・出ていった亭主が戻ってきて、また金を盗もうとして倒れてしまったらしいんだが、手には金とネックレスを握っていた。奥さんは、またネックレスを買ったのか? それとも、前にもって行ったネックレスを持ってかえってきたのか? ・1951年に、ムイは10歳。次男は少し上か。奥さんは40代半ばとして、10年後に50半ば。まあ、せいぜい60歳。それで2階の仏壇の間に篭って隠居生活って、なんか早すぎないか。でもまあ、時代は1961年だからそんなもんか? ・しかし、10年の間に都合よく義母は亡くなり、下女もムイ一人だけになっている。生地屋の商売もいまいちみたいで、長男の嫁(だらしなく意地悪そうなのが笑える。まあ、こうやって世代は入れ替わっていくんだろうが)はインコこ小屋を作ろうなんて言ってるのは、繁殖させて売るのか? その長男の嫁が「ムイを作曲家の所へやろう」なんて言っているのは、下女を置いておく余裕はないということだろうが、そもそも生地屋程度でも下女を置いているのだな、というのが正直な感想。とはいえ日本も戦前は、フツーのサラリーマンでも下女を置くような生活スタイルだったようだけどね。でも、年頃のムイを、独身男の家に住まわせる、というのは倫理的に問題はないのかね? いやきっと、問題はあったはずだぞ。 | ||||
めぐり逢わせのお弁当 | 12/31 | ギンレイシネマ | 監督/リテーシュ・バトラ | 脚本/リテーシュ・バトラ |
原題は"Dabba"。映画に登場する金属を重ねた弁当箱のことらしい。英文題名は"The Lunchbox"。allcinemaのあらすじは「ムンバイに暮らす主婦のイラ。すっかり冷めてしまった夫の愛情を取り戻そうと、お弁当作りに精を出す。ところが、その丹精を込めた4段重ねのお弁当が、なぜか早期退職を控えた男やもめ、サージャンのもとに届いてしまう。その日、お弁当箱は、きれいに空っぽになって帰ってきた。それを見て喜ぶイラだったが、ほどなく夫が食べたのではないと気づく。そこで次のお弁当には、きれいに食べてくれた見知らぬ誰かへのお礼の手紙を忍ばせるイラだったが…」 allcinemaの解説によると「インドの大都会ムンバイでは、家庭でつくった“できたて”のお弁当をオフィスに届ける配達サービスが充実していて、1日20万個のお弁当箱がダッバーワーラーと呼ばれる配達人5千人によって家庭とオフィスを正確に往き来している」らしい。冒頭でその模様が写るんだけど、へー、な感じ。途中でなくしたり、泥棒したりすることはないのかな、とか思ってしまうのは偏見? 案外と民衆は正直なのだな。それと、専門の弁当屋があって、契約しとくと配達してくれるらしい。日本みたいにトラックではなく汽車に乗せて運んでいた。弁当のデリバリーは一大産業だな。 話の方は単純だけれど、背景にインドの日常がそのまま描き出されているのが興味深い。イラの家は集合住宅の何階か。そんなに広くなさそう。亭主は何してるのか知らないけど、事務職。小学校低学年らしい娘がひとり。制服を着てて、いい学校に通ってそう。実家に両親はいるが、父親は寝たきりで、母親が介護付けの生活。介護費用にも苦しんでいるようだけど、「嫁に出した娘には頼らない」といっていたり、大家族が稼ぎのある人に頼る、というイメージとは違うので驚いた。イラには弟がいたけれど、どうやら自殺したらしい。おお。インドで自殺するほどの悩みがなんだか分からないけど、そういう問題もあるのか。なんかインドじゃないみたい。 まちがって弁当が届いた先のサージャンは、何歳なのだろう。60前というところか。保険会社かなんかの事務職かな。いや。こういう 会社もちゃんとあって、機能しているのか、という驚き。いや、そんなの当たり前かも知れないけど、フツー紹介されたりするインドの姿とは違うじゃないか。どの程度の収入で、インド全体の何%ぐらいの地位にあるのかとか気になるね。で、かなり前に妻を亡くして一人暮らし。こちらは一戸建てなのか? 一戸建ての一部に住んでいるのか、よく分からないけど、結構な家に住んでいる。昼は弁当で、夜もどこかで調理されたカレーを買って帰って食べてるみたい。 サージャンが毎日乗っている電車はかなり混んでいるけど、でも一等車らしい。サージャンもイラも、フツーにタクシーに乗る。中産階級でもいいほうの部類かな。 意外だったのは、介護や自殺が大きく取り上げられていたこと。イラは、階上に住んでいるオバサンとツーカーで、窓を通して会話しているんだけど、そのオバサンは亭主の介護でつきっきりみたい。それでも元気はつらつでイラに料理のアドバイスや、間違って届いた先であるサージャンからの手紙への返信についても相談にのっている。このオバサン、最後まで声でしか登場しないんだけど、助演女優賞をあげたいくらいだ。 自殺については、ラジオのニュースで母親と娘が投身自殺というのをやっていて、それをタクシーで聞いたサージャンが、もしかしたらイラのところ? と心配したりしている。なぜなら、イラは亭主の浮気で落ち込んでいて、なんとかこちらを向かせたくて弁当に力を入れていたからだ。そんな弁当を食べてしまったから、サージャンも驚くわけだ。弁当屋の、決まり切った中味ではないのだから。 イラと亭主のすれ違いは長いみたい。感づいたのは最近で、洗濯前の衣服を嗅いで確かめているのが、なんか、怖い。ずっと疑っていたんだろう。娘も、ハネムーンベイビーと言うから、それ以後、亭主の心は離れてしまったのかも知れない。原因は分からないけどね。そんな遊び人、女好きな亭主には見えなかったけど。 というような状況で、自分のつくった弁当がどこか別のところにとどき、食べられてる、ということをすぐに問題にせず、イラの方から簡単な手紙を忍ばせて、弁当を出しつづける。サージャンの方も、それに答えるカタチで文通が始まり、互いに家庭の事情なども少しづつ書くようになり…。まあ、イメージの肥大化だな。イラの方から「会うべきだと思う」と時間を指定してきて、サージャンも乗り気になるんだけど…。ヒゲを剃っていて、自分の臭いが祖父のそれと同じであることに衝撃を受け、自分のような年寄りは会うべきではない、と身を引くのだけれど、でも会わないわけで、待ちあわせ場所で待ち続けるイラを見に行っているところがなんとも理性的すぎて哀しい。 その後の展開がいまいちよく分からなくて。イラの父親が亡くなる→サージャンは早期退職を取り下げた→イラが弁当運び人に「間違ってる」と告げる→弁当運び人に住所を聞き出してサージャンの会社を訪問→サージャンは退職して後輩のシャイクがデスクに→サージャンは列車でなんとかいうところへ→イラは離婚を決意? 娘を置いてブータンへ行くつもりか?→やっぱり自宅へ戻ってきてしまったサージャン…が再び列車に乗って…というような最後だった。なんかしっくりよく分からない。 ブータンは理想の国、ってどっちが言いだしたんだっけかね。イラだっけ。それでブータンをめざすのか。サージャンには、後を追ってきて欲しい、ということか? 思いの通り、サージャンはブータンをめざした? だから会えるだろう? そんなことでいいのかね。 早期退職を取り下げると言っていたのに、やっぱり辞めてしまったサージャン。仕事のいい加減なシャイクに、ちゃんと引き継げたのか? なんかよく分からない。いっぽうのイラは、いつまで弁当の配達を頼んでいたんだ? サージャンが会社を辞めていたなら、空の弁当箱は戻って来なかったはず。父の葬儀や週末とかで、途切れていた? それで週があけて、弁当屋に「間違ってる」といったのか? の、時制的なつながりが、不自然ではないか。 サージャンがいったんは向かった場所は、なんだっけ。退職してから住むつもりの場所だっけ? 田舎だっけ? なんか、説明はしていたような気がするけど、忘れてしまった。 最後にサージャンが乗った列車の、白い服を着た男たちが歌っているのか祈っているのか、あれは、ブータン行き? なぜ分かる? といった案配で、最後にかけてぐずぐずな感じになってしまって、評価が落ちた。それと、イラが娘を棄てていく、かのような感じに思えたのは、どうなんだ? サージャンの同僚のシャイクは孤児で、仕事もロクにできないのにハッタリで入社してきた男。『きっと、うまくいく』のアーミル・カーンかと思ったら別人なのか。しかし、列車の中で野菜を切り刻むって、どういう神経をしてるんだ。 ・弁当が届くたび、手紙が気になるサージャン。その様子を不審げに見る隣の席の同僚がなかなかよかった。 ・イラが弁当運び人に「間違って配達されてる」といったら、運び人は「そんなことはない。ハーバードの先生が太鼓判を押したシステム」とかって抗弁するのが笑えた。 ・イラの亭主の浮気はどうなったのか、それも気にはなる。 ・イラみたいに魅力的な女性がいながら、どうしたら浮気するかね。亭主がイラに関心がなくなった理由が気になる。 | ||||
マダム・イン・ニューヨーク | 12/31 | ギンレイシネマ | 監督/ガウリ・シンデー | 脚本/ガウリ・シンデー |
2度目。睡眠不足で、最初の、機内でのところで少し寝てしまった。あとはちゃんと見た。一番気になっていたのは、コーヒーショップで、フランス人はどこにいたのか。それは、ちゃんと確認した。「お先に」と列を譲り、うしろに並んでいたのね。そして、ここだけはもう一度見たかった、結婚式でのスピーチ。やっぱり感動的で、うるうるしてしまったよ。 |