ストックホルムでワルツを | 6/1 | ギンレイホール | 監督/ペール・フリー | 脚本/ペーター・ビッロ |
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原題は“Monica Z”。英語タイトルは“Waltz for Monica”。allcinemaのあらすじは「スウェーデンの田舎町に暮らすシングルマザーのモニカ。電話交換手の仕事をしながらも、ジャズ・シンガーとしての成功を夢見る日々。そんなある日、ジャズ・クラブのステージに立つ彼女の歌声を聞いた評論家から、ニューヨークで歌うチャンスをもらうモニカだったが…」 2度目。見たかったわけではなく、歯科衛生の後、時間があり。でもふらついて疲れては2時45分〜の『ジャージー・ボーイズ』で寝てしまうおそれもある。なので、昼食の後、入って寝よう、という魂胆。ロールパンを買って入り、ががっと食べて…なかなか眠れなかったんだけど、仲間に誘われてツアーに行く辺りで寝た。なので、詩集から歌詞を…の辺りは見てなくて、映画監督といい仲になる辺りから再び見始めた。すでに見てるので、あんまり真面目に見てない。 やな性格の女だな、ってのが感想。ま、音楽をやるとか、上を目指す人ならしょうがないんだろうけど。子供を置き去りにして自分の夢を追いかけるというのは、まあ、よくあるパターン。気になったのは、元夫の存在がほとんどないこと。別れたのか? それにしても、娘は父親にまったく未練はないの? さらに、映画監督と同棲し、別れて後チェンバーストかいうジャズマンと暮らし、結局は長年そばにいてモニカに思いを寄せていたストゥーレと結婚する。そのすべてに幼い娘がつき合わされているのだよ。次々と男を変える母親、飲んだくれてトイレで寝てしまう母親。こんな環境で、子供は歪まなかったのか? それが心配。 あと、ストゥーレは別の男と関係をもってばかりのモニカに惹かれつつ、自分のところにこないモニカに愛想を尽かし(?)、別の女性と婚約していたのに、チェンバースに浮気され、流産したモニカに訪問されると、簡単に彼女を受け入れてしまう。婚約者の彼女が気の毒すぎるだろ。モニカって、ほんと、自分勝手なワガママ女だな。 映画は、ビル・エヴァンスとの競演で頂点に上りつめた、みたいに描いているけれど、果たしてそうなのか? それ以後、どういう活躍をしたのだろう。世界的に活躍したのか? とくにアメリカで。それとも、結局は国内のトップスターのまま? その辺りが分からない。なので、どこか仕立てられた成功譚みたいに見えなくもない。 娘は幸せに育ったのか。ストゥーレとは最後までいい関係がつづいたのか? 最終的な活躍は、どんなだったのか。その辺りを知りたい気がする。 最初の、トミー・フラナガンとの競演から、ストゥーレとの競演まで、どのぐらいの時間が経っているのかね。なんかどーも、娘役はずっと同じだったような気がするんだけど。 ※公式HPによると「1964年、モダンジャズの巨匠ビル・エヴァンスと共作したアルバム『ワルツ・フォー・デビー』を発表。モニカ・ゼタールンドの名は世界中のジャズ・ファンが知るものとなる。これによってスウェーデンを代表するアーティストとなったモニカは、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのためにハリー・ベラフォンテとデュエットしたり、スウェーデンの首相ターゲ・エルランダーの遊説に同行したり、大作映画『移民者たち』(71・未)に出演したりと、多彩な活躍を見せる。1990年代に入ってからは脊柱側弯症の病が進み、公の場に姿を現す機会が減ったが、精力的にアルバムや自叙伝を発表。1995年にリリースしたCDボックス『Lingonris』も大ヒットした。2005年5月、ストックホルムの自宅アパートで起きた火災に巻き込まれて死去。享年は67歳だった」と、結構、悲惨な末路だったみたいだな。 ↑によるとモニカの生年は1937年。最初のアメリカ進出は1960年で、23歳。ビル・エヴァンスとの競演は27歳ということになる。すると4〜5年間の話ということか。国際スターというわけではなく、国内的な感じだな。 ・ユーロビジョンで点が入らなかったのは、何で? ・母国語でジャズが革新的、は日本では考えられないね。みんなさっさと日本語化して唄ってたくにだから。 | ||||
ジャージー・ボーイズ | 6/1 | ギンレイホール | 監督/クリント・イーストウッド | 脚本/マーシャル・ブリックマン、リック・エリス |
原題も“Jersey Boys”。allcinemaのあらすじは「ベルヴィル。そこは犯罪が日常茶飯事というニュージャージーの最貧地区。1951年、イタリア系移民が多く住むこの街で、しがないチンピラ暮らしをしているバンドマンのトミー・デヴィートは、美しいファルセットを響かせる少年フランキー・カステルチオ(のちのヴァリ)を自分のバンドに迎え入れる。フランキーの歌声は地元マフィアのボス、ジップ・デカルロも魅了し、サポートを約束する。最初は鳴かず飛ばずの彼らだったが、才能豊かなソングライター、ボブ・ゴーディオとの出会いによって大きな転機を迎える。ヴォーカルのフランキー、ギターのトミー、ベースのニックに、キーボードと作曲を担当する最年少のボブが加わり、バンド名を“フォー・シーズンズ”と改めた4人は、『シェリー』を皮切りに次々とヒットを連発、ついにスターダムへとのし上がるのだったが…」 フォー・シーズンズは、リアルに聞いていたはず。「シェリー」も懐かしいし、「君の瞳に恋してる」もヒット曲として知っている。でも、フォー・シーズンズの誕生から分裂…への経過は知らないし、まして現在には興味はない。で、このドラマがトニー賞受賞のブロードウェイ・ミュージカルとして知られていることも、感知しなかった。という側から見て、この映画はこの10年ぐらいの間に大量につくられた有名歌手・アーチストの伝記映画の1本という位置づけ以上ではない。見終えて、「ああ、そうですか」という感想だけ。音楽とともに時代が浮かんでくるわけでもない。なにか教訓が得られたわけでもない。他の多くのグループ同様に、金遣いの荒い奴としっかり者、才能のある奴とないやつが一緒にいることの居心地の悪さがほころび、対立していく様が「ああ、やっぱりな」と思えてくる、といった感じ。 フォー・シーズンズ以前の、街のチンピラ時代の話が面白いんだけど、メンバーの顔がよく記憶できていないうちに短いシーンのつなぎでやられるもんだから、誰と誰がどうして、がよく分からなかった、のが悔しい。盗みに関わって裁判になるけど、刑務所に入ったやつと入らなかったやつと。刑務所から出てきたやつと、入れ替わりに入るやつ。とかのなかで、メンバーがどう変遷したのか、こちらはほとんど置いてきぼり。まあ、メインの4人の顔も、次第に区別はつくけど、最初の方のチンピラの頃は、分からんよ。床屋のシーンとか、地元のボスとか、女の手ほどきしてる場面とか、あれよあれよな感じ。 区切りの部分で、メンバーがカメラに向かって説明する、という手法を使っている。ずっと同じ人物が説明役になるなら分かるんだけど、時々で違ってるというのが、なんかいまいちピンとこなかった。でもまあ、フツーにドラマを撮るより、こうやって本人の思いによる解説があるのも、面白いかもね。息抜きにもなるし。 クールなボブ・ゴーディオが加入した辺りから、4人セットが分かるようになってくる。それにしても、ボブ・ゴーディオは、あの『タモリ倶楽部』のテーマ、“Short Shirts”の作曲をしてた、と。おお。その他、フォー・シーズンズ時代、フランキー・ヴァリの「君の瞳に恋してる」も、ほとんどみなつくってるんだな。すごっ。 で、あとは一躍人気スターになって。でも、いつになってもチンピラのままのトミーが莫大な借金をつくり、でも意地を通してツッパリ続ける。それをフランキーは、地元のボスに肩代わりしてもらおうとするけど、やっぱり自分たちで返す、と宣言。で、存在感の薄いニックは、もう辞める、とグループを抜けて田舎に戻る。というわけで、フランキーとボブの2人であとをつづけていく…というお話し。 ほんと、よくある分裂劇。ニックは最後の方でやめた理由を「だって、この中でリンゴ・スターの役回りは…ふふ」とか言ってたけど、その通りで。映画の中でもたいして目立ってなかった。せいぜい、トミーの借金問題で皆が集まったとき、「この10年ツアーではトミーと部屋が一緒だったけど、やつのタオルの使い方と来たら…!」と怒りをバクハツさせるときぐらい。あれは笑える。 トミーも、自分が誰かに迷惑をかけているという自覚がまったくないのがもの凄い。「ベガスじゃ出入り禁止だよ」とか言ってた(1990年ぐらい?の復活コンサートの時の言葉かな)。 少し物足りないというと、男女関係についてか。フランキーの女房と、別居後の、記者との浮気話ぐらいしかない。他の3人の家庭はどうだったのか? とか、興味はあるんだけど。 あと、レコード会社のプロデューサーだっけ? オカマの。あの存在が、興味深い。誰かメンバーと関係を…? と思ったら、そういうのはなかったのね。ま、同性愛は表だって表明できなかった時代だろうから。 ラストは全員登場で、ステップを踊るミュージカル仕立て。まるでミュージカルだな、と思ったら、あとでトニー賞受賞のブロードウェイ・ミュージカルだったと知る。なるほど。 | ||||
チャッピー | 6/2 | シネ・リーブル池袋シアター2 | 監督/ニール・ブロムカンプ | 脚本/ニール・ブロムカンプ、テリー・タッチェル |
原題も“Chappie”。allcinemaのあらすじは「2016年。南アフリカの犯罪多発都市、ヨハネスブルグ。ディオンは警察用ロボットを開発する軍事企業テトラバール社に勤める才能溢れるエンジニア。彼は世界初となるAI搭載の戦闘用ロボットの製造を会社に提案するが、却下されてしまう。そこで、会社には内緒で独自にAIロボットを製作するが、あろうことかギャングに誘拐されてしまう。ギャングたちは、“チャッピー”と名付けたそのロボットに強盗を手伝わせようと目論んでいた。そんなギャングたちが与える知識を、スポンジが水を吸うように吸収し、急速に成長し始めるチャッピー。そんな中、ディオンの同僚で彼に激しい敵意を抱くヴィンセントがチャッピーの存在に気づき、ある奸計をめぐらすが…」 雰囲気というか、話の流れも、『第9地区』に似ていて、主役もエビ星人→ロボット警官と、似てる。ラストも、『第9地区』ではひとり孤独にゴミ山を漁っていたけど、こっちでは2体で励まし合いながら逃亡生活? てな感じで似てる。まあ、ある意味では本領発揮なんだろう。『エリジウム』の、テイストは残しながら娯楽作品です、とはちょっと違ってた。 冒頭の、ギャングのやりとり→ロボット警官登場でがつんがつん! は迫力十分。しかも、お披露目的なエピソードでなく、ギャングたちはその後も、最後まで話に絡んでくるから、話に入りやすい。 冒頭のドンパチから逃げたのは、ニンジャ、アメリカ、ヨーランディの3人組。なんかよく分からんのだけど、ブツかなんかを運んでいてしくじって、相手から大金を要求されてしまい、銀行強盗でもしようか…となっているところ。 いっぽうのプログラマー、ディオンだけど、彼は警官ロボットの開発者として社内で高く評価されている。同僚のヴィンセントは、より大型の、頭脳を持たない(人間がベッドギアをかぶって脳波で操縦する)大型のロボットを開発したんだけど、警察に売れずに悔しい思いをしている…という分かりやすい構図で。これがこの話の大きな対立構造になっている。 けれど、自分の発明が評価されないのでディオンを恨み、はてはディオンが開発した警官ロボットのデータを更新?消去?して動かなくして世間に暴動を発生させ、その間に自分のロボットで暴動を鎮圧し、認められよう…という考えは小さくないか? なので、ヴィンセントの妬みによる話の展開はかなりムリがあるし、説得力がない。 舞台がヨハネスブルグで、ギャングが横行して危険地帯、というのはまあいい。けど、そこにロボットを供給する会社も南アにあり、そこで開発してるというのは、どうなんだ? あんまリアリティないよな。 で、肝心のチャッピーだけど。ディオンが上司に「AIプログラムが完成したので、ロボットにインストールしてみたい」といったら「そんなロボットは求められていない」と却下されるのも解せない。警官以外に女中とかウェイターとかなんだかんだ、人の心を理解して使役されるロボットは必要になるだろう。ソフトを他社に供給してもビジネスにはなるはず。なので、どーもなっとく行かない。 結局ディオンは独断で、廃棄寸前の22号ロボットにインストールすることを決断するんだけど、科学者なら当然だよな。というか、自前でロボットを開発してるんだろ、部屋にもいたし。だったら警官ロボと同等のロボットぐらいなんとかして、それにインストールすりゃいいじゃないか。 で、分からないのがガードキーとかいうUSBみたいなチップで。あれはどういう役割なんだ? 22号にインストールするときは本体の頭脳に挿して、それでプログラムを書き換えていた。その後、ヴィンセントが街中の警官ロボのプログラムを更新?消去?するときは、管理用パソコンに挿していた。最後に22号ことチャッピーが、ヴィンセントの意識を警官ロボットにインストールするときは、ノートPCに挿していた。インストール時に必要になるのか? ではなぜディオンは、最初に22号にAIプログラムをインストールした後、22号からガードキーを外し、会社に戻さなかったんだ? 戻しておけば会社から不審がられることはなかったんじゃないのか? そのガードキーの扱い・管理も杜撰すぎ。ディオンは個人の判断で会社から持ち出せるし、返却しなくても、明日までに戻せ、と警告を受けるだけ。ヴィンセントも、ガードキーを奪うと会社の管理用パソコンに挿し、市内で稼働している警官ロボすべてを動作不能にしていた。それってセキュリティが甘すぎだろ。 チンピラギャングのニンジャ、アメリカ、ヨーランディの凸凹3人組がおかしい。おかしいけど、なんかやさしいところがあって。「ロボットを停止させるリモコンがあるはずだ」って単純発想でディオンを誘拐し、そんなものないと分かると、積んでいた22号にAIプログラムをインストールさせ「帰れ」って放しちゃう。フツー、そんなことしないだろ。拘束しておくか、殺しちゃうだろ。でもしない。やっぱ、チンピラなんだな。 幼児から大人へ。成長が甚だしいチャッピーだけど、成長の過程にリアリティがあるかというと、そんなことはなくて。ご都合主義的に成長する。善悪の判断とかもテキトー。ディオンに「僕は君の創造主」といわれると素直に信じちゃうし、ニンジャに「これで人間は眠る」とナイフや手裏剣を渡されると、それも信じちゃう。あほか。 あと、アメリカから言葉を教わったので、まるっきり黒人ラッパーみたいなしゃべり方になってる。まあ、このあたりは話の都合上しょうがないかもしれないけどね。 てなわけで最後は市中反乱が激しくて、上司もヴィンセントのロボットに出動命令を出す…のだけれど、ヴィンセントは会社にいてヘッドギアを被り、ロボットを操縦する。向かうのは、チャッピーのいるところ。ん? 騒動を鎮めて手柄を立てるのではなく、ディオンやチャッピー、3人組を倒すのが目的? みたいになってしまって、なんかよく分からない感じ。この辺りの戦いは、『第9地区』のロボット同士の戦いと酷似してた。 で、この戦いでヨーランディが死に…えーと、アメリカはどうなったんだっけ? 足を撃たれたニンジャは生きながらえ、ヴィンセントのロボットを破壊するんだっけか。それにしても、どうやってやったんだ? 理解不能。 おっとその前に。自分がバッテリーの少ないロボットにインストールされ、余命幾ばくもない、と悟ったチャッピー。これが、生に執着するんだよね。生き残るために別のボディが欲しい。結局その願いは満たされず…の過程で、チャッピーは自分の意識をデータ化できることに気づいて。撃たれたディオンをつれて工場へ。そこで、本来は自分の意識を転送しようと思っていたロボットに、ディオンの意識をインストール。さらに、自分の意識データを、ネット経由でいちばん近いところにいるロボットにインストール。ディオンの肉体は死んだけど、意識はロボットのボディを持つ存在として生存する。チャッピーも同じ。ヨーランディを埋葬する2体とニンジャ。チャッピーはどうもいたずらでヨーランディの意識をデータ化したらしく、そのメモリをニンジャが握ってる…。 次のシーンで、2体はネット経由でどこかのロボット工場にアクセスし、そこにヨーランディの意識をインストールし、顔も似せたものをつけて生産していた。おお。 近頃話題の、AIが意識をもつようになると人間を滅ぼす、というホーキング博士の論なんかも踏まえてるんだろう。けど、いつのまにか意識をもつようになっちゃった感じで、ロボットの“目覚め”みたいなのが表現されているとはいえないのが残念。また、その意識をデータ化できるというのも唐突というか安易で。大型ロボット操縦用のヘッドギアがそのまま転用できてしまうのも、おいおい、な感じ。まあ、それは映画のマジックだとしても、だったらすべての人間の意識もデータ化してロボットにインストールスりゃ、自分と同じ考えをもつロボットを誕生させることができる、ということにもなるよなあ。げげげ。 ボディがないから困った…とかいっていたのも、ネット経由でインストールできるなら、自分の意識をすべての警官ロボットに転送すりゃいいのに、とか思ったり。いや待て。ヴィンセントがやったみたいに、すべての警官ロボットのプログラムを更新?消去?できるなら、後々誰かが管理用パソコンから新しいプログラムをネット経由でインストールするようなことになったら、新チャッピーも、ロボットディオンも、別の人格になっちゃうんじゃないのか? それとも、AI化したロボットは、もう、機械的なプログラムを受けつけないとかいうことなのか? なんか、あれこれ杜撰でスキのある話だった。 けど、展開が早く、勢いで見せてしまうので、そういうヤボなつっこみも、まあいいか、と笑えて許せる感じではあるけどね。最後は、ヨーランディのチャッピーへの愛、ニンジャのヨーランディへの愛とか垣間見えて、地味にしみじみさせてくれる。 ・ニンジャって名前のチンピラは、ニンジャという名前のラッパーらしい。で、ヨーランディは実際の女房らしい。で、ニンジャのズボンに、最後の方で「テンション」とカタカナで描かれているのは、なんなんだ? 日本好き? | ||||
ジャージー・ボーイズ | 6/4 | ギンレイホール | 監督/クリント・イーストウッド | 脚本/マーシャル・ブリックマン、リック・エリス |
2度目。冒頭の部分を再確認しようと思って。 一度見て、おさらいしてるから、分かりやすかった。メンバーの区別もつくし。最初はトミー、ニック、トミーの兄? のトリオ? トミー、ニック、フランキーが窃盗事件を起こし、トミーは6ヵ月の刑、ニックは執行猶予、フランキーは釈放。ニック、フランキー、フランキーの彼女が教会に無断侵入し、ニックがムショへ。入れ替わりでトミーが出てきて。トミーとフランキーが、助っ人と一緒にバンドを組んで活動してた。そのうちニックが戻ってきて、3人+助っ人? で、その助っ人の代わりにボブが加入、という流れだったかな。 地元のボスとの関係も、なるほど。フランキーの職業が床屋、ってのも再確認。てなわけで、テンポ良く流れるように話が進むので、2度目というのにちゃんと見てしまった。最初のときより楽しくね。 ・イーストウッドが登場するテレビ番組、あれは『ローハイド』? しかし、なんで自身の番組を? ・レコード会社のパーティでだったか、会社内だったかに、ウォーホルのキャンベル缶がかかってたのに気づいた。あと、もう一枚は誰のだろう? ・いまさら気づいたんだけど、4人とも楽譜が読めるんだな。チンピラ生活してたのに、どうやって覚えたのか。 ・後半の方で、フランキーの元を去って行ったのは、あれはジャーナリストの女性だったのね。前回は妻かと思ってた。なんで妻が出張? と思ってたんだけど、氷解。 ・トミーはジョー・ペシのマネージャー?だっけか。 ・4人が再会したのは、復活コンサートじゃなくて、ロックの殿堂入りでだった。25年ぶりといってたけど。1965年に分裂したのか。 ・4人での活躍は数年?なのか? 5年ぐらい? ・レコード会社にアポを取って売り込みに行くと、相手は黒人グループと思い込んでて、断られてしまう。と思ったら、同じフロアでフランキーが旧知の男に会う。これがレコード会社のプロデューサーをしてる…って、そんな話があるのか? どういう知り合いで、でもなぜ相手がレコード会社にいるって知らなかったんだ? 知ってりゃ、最初から頼って行けたのに。で、バックコーラスを1年やる条件で契約。けど、すでに実績のあるボブも新人扱いというのが、よく分からない。で、プロデューサーは3千ドルだしたらレコードだしてやる、というんだけど、個人的な金? 賄賂? 実費? よく分からない。 ・後半でフランキーの娘が死んで。ボブが作った曲をレコード会社に持っていくと、断られる。でも相手は旧知のオカマプロデューサーじゃないんだけど。なぜなんだ? しかし、トムとニックがいなくなって後は、どん底だったのか? ドサ回りみたいなシーンもあったけど。そんなものなの? で、オカマプロデューサーが、地方のラジオ局を接待する方法を教えてくれるんだけど、そんなこと言われるまでもないと思うんだが。というか、そもそも彼らにマネージャーはいなかったのか? ・画面に向かって登場人物が説明するのは、トミー >> ボブ >> ニック >> の順だった。フランキーもちょっとだけカメラに向かってしゃべってたかな。それぞれの事情を語らせつつ、それぞれのパートをフィーチャーしながら進行する、ということなのかな。 | ||||
脳内ポイズンベリー | 6/4 | 109シネマズ木場シアター6 | 監督/佐藤祐市 | 脚本/相沢友子 |
allcinemaのあらすじは「ケータイ小説のライターをしているアラサー女子の櫻井いちこ。飲み会で知り合った7つ年下のアート系イケメン男子・早乙女と偶然遭遇。さっそくいちこの脳内では、話しかけるかどうかで議論が紛糾。“理性”を司る議長の多数決の提案に対し、“ポジティブ”の石橋と“衝動”のハトコが真っ先に賛成する一方、“ネガティブ”の池田は当然のように反対。“記憶”の岸さんは記録係に徹して議論には加わらず、結果、勇気を振り絞って話しかけたいちこ。そして紆余曲折を経て、めでたく交際へと至るのだったが…」 脳内のドタバタが人間の行動を決定する…みたいな話だとは、予告をチラ見で知っていた。けど、果たしてそれで面白くなるのか? 疑問だったけど、要するに真木よう子見たさ。だったけど、話は意外と面白くて、行動心理の分析や、ちょっと哲学っぽい言い回しの言葉もあったりして、ただのドラマだけでは味わえない不思議な面白さを感じ取れた。 脳内の5人がどういう位置づけなのか…。少女のハトコは感情で、記録係の岸は記憶…で、議長の吉田は判断・決定力? あとの2人は何だろ? と思ってて、Web見たらすでに明らかになってるのね。知らなかった。映画の中で、その説明ってあったっけか? で。 ・議長の吉田は理性 ・女性の池田はネガティブ…そういえば、そんなところもあったか。 ・青年の石橋はポジティブ…ふーん、そうだっけ? ・少女のハトコが衝動…なるほど。演じる桜田ひよりが可愛くて上手い。 ・老いた岸は記憶 なーんだ。これ、最初から知ってりゃ、話が分かりすぎてつまんなかったかも。 29歳の いちこ。かつて結婚寸前までいった相手がいた。ところが直前になってパートナーのところに、「妊娠してるの」と押しかけてきた女がいて。パートナーは、その元カノを選び、自分は捨てられた暗黒歴史あり…なんだけど、この話は途中まで伏せられている。しかし、パートナーが いちこを選ばなかった理由が、いまいち説得力がない。「彼女は泣いたりわめいたり感情的になってたけど、君は感情をださずしれっとしていた」からだという。アホか。泣きわめく女を選ぶ男がどれだけいるってんだ。 で、現在。ケータイ小説で売り出し中らしい。なんか、いきなり飛びすぎな気がするが。業界関係の食事会で知り合った(ネックレスの輪が転がって、それを早乙女が拾う)早乙女に一目惚れし、再会した駅のホームで告白。家まで押しかけて、セックスまでしちゃう。…という展開は、あり得んだろ…だけど、まあ許す。 ところで、早乙女はどういう関係であの食事会に同席していたんだ? それがよく分からんのだが。 で。つき合うことになってすぐ30歳になった いちこ と、美大出23歳の早乙女。そこに、出版社の担当編集者の越智が絡んでくる。越智なら仕事も収入も、人間的にも結婚向き。でも、思いは早乙女。でも、早乙女に歳を訊かれ「30」といったら「うそ、ごめん、ないわ」と返されたのにショックを受けて険悪な仲になって。脳内でも、その解釈をめぐってあーだこーだいうのが笑える。あれこれあって。電話の返事もずっとないので いちこ は早乙女と別れることにして。越智とつき合おうか、と決心したところに早乙女からTEL.で心が揺れて…。なんと、同棲を始めてしまう。 さて、上手くいくのかと思ったら。また難題が。かつて、越智が好きになった女性がいて、人妻だからあきらめたのに、横から早乙女が手を出して。その女性が離婚した、という前歴があることが発覚! なんだけど、いささかとってつけたようなエピソード。だいたい23歳でそんな過去って、早乙女いくつの時の話だよ。加えて、自著が30万部の売上で。そのうえ、映画化の話が来ていることを早乙女に言わなかったことから、またまた軋轢。さて、いちこは、どう決断するか。で、そのしこりのせいで、ずっと冷静だった越智が早乙女をいまさらながらに殴ったりして。なかなか話の振れが大きくて面白い。 さてさて。いちこがパニックというか混乱すると会議に介入してくるハイヒールのボンデージ女性(演じているのは真木よう子?)がいるんだけど。あれは、どういう役回りなんだ? 彼女が登場すると会議のメンバーは失神し、いつの間にか話が進んでしまっている。あれは、エス? スーパーエゴ? 無意識? 潜在意識? 本能? とか考えたりしてたんだけど。よく分からん。彼女の何度目かの登場で、会議室の窓から見える別の城みたいなのが崩れたりしていたけど、自分たちの会議室のある城は無事だったのか? では、崩れていったのは、ありゃなんなんだ? 別の脳細胞? ポジティブの石橋が倒れて眠り続けるんだけど、石橋が眠っている間に、上手くいっていたかにみえた いちこ、早乙女の関係が崩れるんだったっけ。で、大雨が降って石橋が目覚めるんだっけ。で、ハイヒール女がやってくるけど、今度は言葉で説得して押し返す…。それを受けて、いちこは「私は早乙女君が好き。でも、一緒にいる自分が嫌い。だから別れる」とかいうようなセリフを早乙女に言って決別する。 で、彼女はとりあえずひとりで生きていく。しばらくして、書店で第2作目を手にとる越智がいて。同次元か別次元か分からないんだけど、いちこ のネックレスから輪が転がり落ち、それが誰かの足もとに…という、次の恋の可能性を示唆して終わるんだけど。それが越智であるようにも思えるし、誰か別な人、にも解釈できる終わり方だった。 脳内のセットが陳腐で、レースのカーテンも安っぽい。CGもちゃち。なところはある。けど、話としては、なかなか深読みができるので楽しかった。ただし、含蓄がありすぎて(?)か、小難しいセリフになっていたり、理解する前に話がどんどん進んでしまうところもあって、いまいち、スッキリしたとはいえない感じ。もうちょい話を単純化してくれた方がよかったかな。あるいは、理性、ポジティブ、ネガティブ、衝動を色分けするとか文字にするとかして、分かりやすくしてほしかった、かな、やっぱり。予告編見たら、ちゃんと役割が説明されてたけど、ちゃんと見てないんだよね、予告編。 いちこ は、結婚まで行きかけたにしては、子供っぽいキャラで。なんでまた23歳に惚れるか? というところも基本的にはある。でも、実年齢でも近い(32歳らしいが)真木よう子が可愛いから許す。もっとも、ニット帽はわざとらしくてムリしてるっぽく感じられたし、つけまつげが異様に目立ちすぎだとは思うんだが…。 | ||||
ANNIE/アニー | 6/9 | ギンレイホール | 監督/ウィル・グラック | 脚本/ウィル・グラック、アライン・ブロッシュ・マッケンナ |
allcinemaのあらすじは「ニューヨークのマンハッタン。携帯電話会社のCEOで市長選当選を目指してキャンペーン中のスタックスは、車にはねられそうになった10歳の少女アニーを偶然助ける。彼女は、4歳の頃にレストランで両親に置き去りにされてしまい、今は養育費目当ての強欲な里親ハニガンが営む施設で暮らしていた。そして金曜日の夜には、レストランの前でいつかきっと迎えに来てくれると信じて両親を待ち続けていた。元来が子ども嫌いのスタックスだったが、そんなアニーを利用すればイメージアップにつながると考え、彼女を引き取ることに。一方しっかり者のアニーも、有名になれば両親が見つかるかも知れないと、スタックスの姑息な計画に便乗し、選挙キャンペーンに協力するのだったが…」 ミュージカルは苦手。もちろんオリジナルも舞台も見てない。予定調和な美談だろうと思っていたら、その通りで。話の内容は知らなかったけれど、なにせ人物がみなステレオタイプでつまらない。さいごまで集中できず。 話に誇張が多いのは、もともとが舞台のせいなのかな。スタックスによる携帯を配ったりの露骨な選挙運動や、市民やマスコミの前での本音の吐露とか、フツーじゃ有り得ん。もうちょっと映画らしい脚色はできなかったのかね。里親ハニガンも、ぺらぺらな人物造形。かつてスターだったけどいまは落ちぶれて養育費目当ての里親生活って、いまどきないだろ? ※と思っていたら、骨格は同じでも、舞台とは設定やディテールがずいぶん変わっているらしい。おやおや スタックスの秘書グレースや部下のガイとか、の関係も、そうなの? な感じ。グレースは社員で、スタックスを慕ってるらしい。白人女性が黒人の社長に好感をもっても構わんけど、あんな人でなしで潔癖症のスタックに対して、どういう好意なのか意味不明。ガイの場合は選挙参謀らしいので、金でつながってるのだから、まあいいか。 選挙の支持率アップのためならなんでもやる、というのは、まあいい。たまたまアニーを救ったら高感度がアップしたので、一時的な里親になる、ってのも、まあいい。けど、それに応えてひとりだけいい生活に移ってしまうアニーは、どうなんだ? ハニガンのところには、同じ境遇の娘が4人残ってるのに、抜け駆けでもかまわんのか…というのが気になった。 さらに、支援活動パーティにも参加し、歌まで披露してしまう。なんだこの節操のなさは。利用されていることに対する自覚はないのかよ。 てなわけで、そのパーティで、プロンプターの文字が読めなくて。最初は、そんな嘘くさいセリフは読めないよ、かと思ったら実は文盲で。それを恥じて読まなかった、ということだったんだけど、アホかな感じ。舞台の初演が1977年らしいんだが、その時代にニューヨークで? ハニガンのせいなのか? でも、学校に行ってたぞ、アニーは。里親仲間もいたし、なんか、有り得ん話だな。しかも、ラストで識字センターを設立しちゃうとかいう話になってて。これまたアホか、な感じ。 だから、スタックスがアニーの文盲を知った後に彼女に親身になり、正式な里親になろうと決め、最後は選挙戦から降りてしまうことに、違和感がありすぎ。支配欲が強く、選挙に勝つためなら不正もいとわない男が、変われるものか? 支援者との握手に嫌悪し、除菌液で消毒しっぱなしの男が、赤の他人を里親にできるわけないだろ。できるなら、それなりの説得力ある描き方をしてくれないとな。 ハニガンも、自分勝手な強欲だったのが、最後に心変わりして、ガイがでっちあげたアニーの両親がニセモノであることを暴いたりするんだけど、そこまでさせる力がアニーにあったのか? てなわけで、最後まで共感などできず、ぼーっと見てた。 アニーの頭がチリチリで。ちかごろはストレートが多い黒人にしては珍しい。これは、あえて黒人少女を目立たせる戦略か? ハニガン役のキャメロン・ディアスは、メイクもあるだろうけど、ずいぶんオバサンになった。42か…。彼女がグレース役でも良かったんじゃないかと思ったりしたけど、ああいう悪役がやりたかったのかな。 スタックスのライバルで現職の市長がマイケル・J・フォックスを支援者にしている映像が映った。 アニー、スタック、グレースが見に行く映画に、ミラ・クニス? 調べたらリアーナとアシュトン・カッチャーも出ていたらしい。気がつかなかった。 他の里子4人について、もうちょいと個性を出して描いて欲しかったかな。もったいない感じ。 | ||||
天才スピヴェット | 6/9 | ギンレイホール | 監督/ジャン=ピエール・ジュネ | 脚本/ジャン=ピエール・ジュネ、ギョーム・ローラン |
フランス/カナダ映画。原題は“The Young and Prodigious T.S. Spivet”。「驚異的な少年スピヴェット」てな感じ? フランス語のタイトルは“L'extravagant voyage du jeune et prodigieux T.S. Spivet”。『驚異的なるスピヴェット少年の華麗なる旅』とか? allcinemaのあらすじは「10歳の天才少年T・S・スピヴェットの家族はみな変わり者。モンタナの田舎で広大な牧場を営む父テカムセは身も心もカウボーイ。小さな生きものに恋する昆虫博士の母クレアに、本気でアイドルを目指す姉のグレーシー。そして二卵性双生児の弟レイトンは、頭脳派のスピヴェットとは対照的に、活発で運動や銃の扱いに長けた父親自慢の息子。ところが、その弟がスピヴェットと遊んでいるときに銃の事故で亡くなってしまう。以来、家族は悲嘆に暮れ、スピヴェットは自分を責める続けていた。そんな時、スミソニアン博物館からスピヴェットの発明が栄えあるベアード賞を受賞したとの知らせが届く。一度は授賞式への招待を辞退するスピヴェットだったが、家にも学校にも居場所のない彼は、博物館の次長ジブセンの熱心な誘いを受けることに。こうして家族に置き手紙だけを残し、たった一人で遥かスミソニアン博物館めざして旅立ったスピヴェットだったが…」 意味不明で不思議な話だった。少年がネクタイしてるポスター写真しか知らなくて、マジシャンみたいな世界が繰り広げられるのかなと思っていたら、あにはからんや。10歳の少年がモンタナから1人で大陸横断してワシントンDCに行く話だった。IMDbを見ると彼の地のポスターは普段着の少年が荷車を引き、明け方に家出しようとしている場面を採用している。しかも、置き手紙付き。つまり、少年のひとり旅の話であることがはっきり分かる。日本版とはエライ違いだ。タイトルも、フランス語のものには「旅」とはっきり書かれている。日本では、「天才」と「蝶ネクタイ」を強調して売ろうとしたのだろう。 調べたら原作があって http://mine-sc.aki.gs/mine/syohyou/htm/ts.htm ← を読むと結構忠実なようだ。 監督は『デリカテッセン』『アメリ』『ロング・エンゲージメント』のジャン=ピエール・ジュネ。ふた癖どころではない不思議なファンタジーがお得意な人だ。しかも、3Dで撮られているらしい。もっとも、あまり3Dっぽいアングルや画面は感じられなかったと思うんだが…。 で、つらつら思うに、いろんなメタファーが盛り込まれているのかなと。 家族の住まいはモンタナで、ロッキー山脈上にあるのか、分水嶺といっていた。アメリカを東西に分けるということか。そういえば『モンタナの西』という映画があって。東部から見たら、モンタナの西は、あっち側なんだろう。というわけで、東部的な部分と西部的な部分の境界線あるいは混じり合う場所、だ。 異なる2つが混じり合うという設定は他にもあって、父テカムセは西部的なものに憧れ、その気骨は双子の兄弟であるレイトンに引き継がれた。いっぽう母クレアは科学者で、おそらく東部の大学をでているのだろう。その素養はスピヴェットが受け継いだ。ついでにいうと、大衆的な部分は、姉のグレーシーが受け持っている。父親と母親はあまり言葉を交わさず、相容れないようだけれど、深いところではつながっている。ラストでは、いつのまにか母親のお腹が大きくなっていて、おやおや、そんなに仲がよかったの? だったりする。 さて、スピヴェットが受賞したのは、磁気を応用した永久機関だ。400年は動くけれど、そのときになったら磁石を交換する必要がある、という中途半端なもので。完全なる永久機関ではない。そんなものに賞が? とは思うけれど、まあいい。さて、永久機関は実現不可能であるから山師的な発明で、さこには、うさん臭さというか、有り得ないファンタジーさが宿っているのも事実で。「これはおとぎ話ですよ」という注釈であるのかも知れない。 スピヴェットの旅は、貨物列車へのただ乗りとトラックのヒッチハイクで、まさにこれは『北国の帝王』で描かれた1930年代のホーボーの旅そのもので、ホーボー仲間のジイさんまで登場する。さらに鉄道員や警官に追いかけられるのも、『北国の帝王』のまんま。 そうやってたどり着くワシントンDCでは、発明者は大人だと思い込んでいたので大慌て。スミソニアンの次長(?)とかいうジブセン女史は大興奮して保護者としてあれやこれやと活躍する。ま、自分が目立ちたいからなんだけど。それと、スピヴェット自身が「両親は死んだ」と話していたのをそのまま信じ込んだせいもあるのだけれど…。 なわけで、西部からやって来た天才少年が東部に至って、これまた西部と東部の融合だ。 こうした設定を考えると、アメリカという国には古き良き時代をいまだに愛する人々も残っているし、いっぽうで、最先端の科学をリードする人もいるという、層の厚みを感じてしまうわけで、そうしたことのメタファーとしてあれやこれやが置かれているのではないとか深読みしたくなる。ただし、原作はアメリカ、製作はフランスとカナダ、監督はフランス人なので、読みが当たっているかどうかは分からない。 弟のレイトンは、つい最近、銃の暴発で死んでしまった。これは兄弟が一緒になって、弾丸の速さを解析しようとしていた(?)ときに起こった不幸な出来事で。これまた西部的なものと東部的なものの協働で、でも西部的なものが力なく退出していった、ということの象徴にも読める。先端科学と過去への郷愁は相容れない? とはいっても、郷愁が役立たないわけではない。だからこそ、旅の途中でレイトンのイメージが現れ、スピヴェットの心の支えとなって一緒に旅をするのだろう。科学だけじゃダメだ、過去の伝統も大切なのだ、ということを示唆しているような気がするのだが。 だからこそスピヴェットは、スミソニアンでの演説でレイトンの事故のことに触れたのだろう。 その後、スピヴェットはテレビ局の対談番組に引っ張り出されるんだけれど、いつのまにか両親に連絡が行っていて。番組に母クレアが登場する。一般ウケする話題に振ったり、お涙ちょうだいを無理矢理演出しようとする司会の男は、上っ面だけの理解で面白おかしく話をつくりあげるマスコミへの批判のようなものなのかもしれない。番組の最後で、スピヴェットはクレアにしがみつき、彼女に抱かれてスタジオを後にするが、司会の男は「対談時間がまだ残ってる」と2人を追いかけるのだが、この辺りも、中味より枠の方が大事、みたいな業界人の軽薄さ、薄っぺらさを皮肉っているのかな。 その司会の男は、通路で待ち受けていた父テカムセに一発くらい、するとカメラは司会の男を映し出す。マスコミは、事件の方が大切なのだ。 父の背中におんぶされたスピヴェットは、父親の帽子をとって自らかぶる。弟レイトンが父親にテンガロンハットをかぶせてもらった=男として認められた、に対して引け目を持っていたスピヴェットが、自ら西部的なものを自分の中に採り入れ、融和しようとした、ということか。まあ、そもそも父親によってレイトンのように認められる(西部の男として)ことはないだろうけど、でも、レイトン同様に自分をも大切に思われていることを感じ取ったのだろう。 そういえば、スピヴェットが家出しようと荷車を引いていたら、横を父のトラックが通過したんだけど、声もかけられなかった、ということがしこりになっていたようだ。それで訊くと、なんとそのとき父親は、運転席の下の方に手を突っ込んでいて、窓の外を見ていなかった、ということが分かって、一件落着。無視されていなかったのだ、ということが分かって、ほっとひと安心。 あと、スピヴェットのミドルネームはスパロウで、スズメである。なぜそうなったか、の話も最後に解き明かしされている。それまで聞いていたのと違っていて。スピヴェットが生まれたとき、家に飛び込んできたスズメが死んだ、とかなんとかだったかな。よく覚えてないんだが。そのスズメの生まれ変わりだから、スパロウになった、とかなんとか。でも、変な習慣だ。 さて、この映画には何度もトースターが登場して。ショートして火花を散らせるトースターに、母クレアがよく水をかけていた。で。ラストに近いところで、クレアが妊娠しているのが分かった後にも、またまたトースターがお陀仏する。すると、姉だったかな、が、「今度の子供のミドルネームはトースターだ」とかなんとかいうのだが、これにつながるのね。とはいっても、引っぱって引っぱってこれじゃ、ちと肩すかしだけど。 ・ところで、母クレアが熱心に調べているのが昆虫かなんからしくて。日本からも虫を輸入して研究しているらしい。さて、この虫は何のメタファーなんだろう? よく分からない。 | ||||
追憶と、踊りながら | 6/11 | 新宿武蔵野館3 | 監督/ホン・カウ | 脚本/ホン・カウ |
イギリス映画。原題は“Lilting”。中国語では「軽軽瑶晃」。意味は「〈声・歌など〉軽快な(リズムのある)、浮き浮きした」とあった。allcinemaのあらすじは「夫に先立たれ、ロンドンの介護ホームに一人で暮らすカンボジア系中国人のジュン。英語もできず孤独と不安を抱える彼女にとって、息子のカイとの面会が唯一の楽しみ。一方のカイは、自分がゲイで恋人のリチャードを深く愛していることを母に告白できずに悩んでいた。そんなある日、カイは交通事故で突然この世を去ってしまう。自らも深い悲しみに暮れるリチャードは、ジュンのことを気にかけ、カイの“友人”を装ったまま、彼女の面倒を見ようとするのだが…」 つまらなかった。一瞬、眠りかけたけど、眠らなかったのがよくなかった。その後、一日中、眠かった。 人間の掘り下げが浅いし、時代的なあれやこれやも希薄。たとえばカンボジア系中国人のジュンが亭主と出会ったのはプノンペンとかいっていた。それはいつで、どうしてプノンペンなのだ? 中国系カンボジア人じゃないんだよな。イギリスに移住したというのは、ポルポトとかクメール・ルージュと関係があるのか? たしか亭主はフランス人とか言ってたような気がするんだが…。カイは純粋な中国人面をしてなかったしなあ。だとしたら、なぜフランスではなくイギリスに移住したのだ? さらに、ジュノは北京語・広東語・上海語・カンボジア語とか6カ国語が操れるのに、英語がまったく話せないというのはなぜなんだ? 意欲や知性がないわけではないだろう。なぜなんだ? お。監督インタビューというのが見つかった。そこのストーリーは「カンボジアの華僑だったジュン。29年前に夫と一人息子のカイと共にカンボジアを離れ、ロンドンに移住。夫を亡くし、女手ひとつで息子を育ててきたが、今はロンドンの介護ホームでひとり暮らし。英語があまり出来ないジュンにとって、時折訪ねてくる息子のカイだけが頼りだ。友達のリチャードと暮らしているカイに、ある日、「私をこんなホームに入れるなんて」と不満をぶつけると、「明日のディナーに来て」と何か言いたげなカイ。リチャードと愛し合っていることを母親に思い切って打ち明ける決心をしたのだ。でも、そのディナーが実現することはなかった。後日、リチャードが訪ねてきて、カイが交通事故で亡くなったことを伝える。カイを深く愛していたリチャードにとっても悲しい別れだったが、カイの友人を装ったままジュンを支えようと訪ねてきたのだ。リチャードは、ジュンに言い寄っている初老の男性アランのことを知って、言葉の通じない二人のために、中国女性ヴァンに通訳を頼み、二人の交際を取り持とうとする・・・ 」 なるほど。華僑なのか。なんか、まとめる人が違うと、いろいろストーリーにも違いがでてくるな。 しかし、29年もイギリスにいて、夫が死んで息子を育てているのに、ひと言も英語ができないって、ありえんだろ。さらに、70前というより60過ぎぐらいの歳なのに、なぜに介護施設に入る必要があるのだ? 持病があるとか、ボケが始まってるとかあるのか? 映画の中で痴呆がどうとか触れていたところはあったような気がするけど、でも、ジュンにはそんな所は見られなかったぞ。 で、要は、息子のカイは、同性愛の相手と暮らしたかったから、母親を施設に入れた、のか? いや、そもそもジュンとカイはどんな家に住んでいたのだろう。持ち家を売って施設の入居費用をつくった? 息子のいうがままなのか? 母親を施設に入れてから、カイはリチャードと暮らしはじめたのか? 映画の中では、2人が暮らしていた家について「一度きたことがある」といっていたけど、カイは家をでてリチャードと暮らしはじめていて、一人暮らしはせつなかろうと母親を施設に入れたのか? …とかいう背景が分からないと、この映画について言及するのは難しい。でも、そういうことについて触れていないのは、なぜなんだろう。たんに監督が未熟だからなのかね。 で、そういう背景を無視するとして。残るのは、カイが母親に「僕はゲイだ」とカミングアウトできないまま死んでしまった。という一点になる。さてはたして、そんなことが重石になる時代なのか? だいたい、ジュンはイギリスに暮らしてるんだろ? 現地の友人も、中国人の友人もいなさそうだったけど。でも、カンボジアや中国よりは開けてるだろう。ゲイごときでショックを受けるのか? 施設に入れられた方がショックだろ。 というわけで、それ以外の部分はほとんど意味がない。たとえばジュンと、介護施設仲間のアランとの恋物語など、こんなものが必要なのか? という話だけど、かなりのウェイトが割かれている。なにせ、リチャードが中国人の通訳を斡旋してやったりする、ということにつながるからだ。でも、ジュンとアランの話など、ほとんど意味がない、ように思える。だから、中国人の通訳の女性も、ほとんど意味がない。だって、アランも通訳女性もなんのドラマも起こさず、なんとなく消えていってしまうからだ。そう。この映画にはほとんどドラマがない。なので、つまらない。 リチャードがジュンに「あなたの息子はゲイでした」と告げて、そこに何の意味があるのだろう。そんなことがテーマになんてなりはしない。せいぜいエピソード程度だろう。 密室劇とかならいざしらず。大半が部屋の中の会話というのも、つまらない。ドラマには、人の移動がつきものだ。この映画では、介護施設の庭と、あとリチャードと通訳女性がどっかを歩く場面ぐらいしかない。ほんと、学芸会レベルの映画であった。 ・「夜来香」ともう一曲、ジュンがCDを欲しいと言っていた曲には、どういう意味があるのだ? たいしてないよな。 ・日本に関係することが2つでてくる。ひとつは、ジュンがイギリス人について「日本人と中国人の区別もつかない。中国人は目がくりくりしてて…」というとカイが「日本人にもくりくりしてる人はいるよ」という場面。もうひとつは、通訳女性が、えー、誰に対してだっけか、「富士山に登った?」ということをいう。これは、なにか大きな事をしでかした、というような意味なのだろうか? わからない。 ・そういえば、冒頭の、カイがジュンを訪ねてくるシーンは、あれは幻想なんだよな。交通事故に巻き込まれず、そのままジュンのところにやってきたら、あんな会話が交わされただろう…、ということだよな。映画の途中で繰り返されるけど、なんか、意味ありげで、意味がないように思う。 ・IMDbの★は7.1だった。評価が高いのは、ゲイのカップルを扱っているから、という理由に違いない。ははは。 | ||||
フィツカラルド | 6/15 | 東京芸術センター シネマ ブルースタジオ | 監督/ヴェルナー・ヘルツォーク | 脚本/ヴェルナー・ヘルツォーク |
西ドイツ映画。原題は“Fitzcarraldo”。allcinemaのあらすじは「19世紀末の南米ペルー。オペラハウス建設を夢見るブライアン・スウィーニー・フィッツジェラルドは、資金繰りのために無尽蔵のゴムの木を有するアマゾン河上流の未開地へ挑む……」 カルト映画の部類に入るようだ。調べると手放しの賞賛が多い。でも、初めて見たのだよね。 船が山に登ってる写真は知ってた。でも、それは幻想なのかと思っていた。ところがどっこい、実際に川と川の間の山地に船を持ち上げ、山越えしてしまう話だった。荒唐無稽というか、アホ映画である。でもネタ元はあって、ほんとうに同じようなことをした前例があるらしい。でも、船を分解して山越えしたので、この映画のように船のまま引っ張り上げたわけではないようだ。 航海に出る前も結構長いんだけど。実際に船を持ち上げる段になると、それはもう環境破壊を伴う土木工事のドキュメンタリーそのものだった。話としても壮大なバカ映画。じっさいに撮影したこともアホそのもの。呆れはしたけど、そもそものところが理解できないのでとくに共感はできない。だいたい、オペラにそんな意味があるのか? 山師のフィッツジェラルド(クラウス・キンスキー)。ペルーの奥地に鉄道を通して一発当てようとして頓挫。6年後、今度はゴムで当てようと企む。動機は、この地にオペラハウスを建てて、一流の音楽家を招聘し、コンサートがしたいから…という時点で、価値観が違いすぎる。映画の冒頭は、フィッツジェラルドが、愛人(?)のモリー(クラウディア・カルディナーレ)と船を漕いでオペラ公演に駆けつける場面なんだけど。どっからどこへ、なんだ? よく分からん。Web上のあらすじを見ると、ペルーから、ブラジル・マナウスのオペラハウスにやって来たらしい。ふーん。ちゃんと説明してくれなきゃ分からんよな。 というほど2人はオペラに思い入れがあるらしいんだが、こっちは関心もないから冷ややかに見てしまう。そこが理解できないと、この映画のバカさ加減は、無条件で楽しめないんだろうなと思う。 で。フィッツジェラルドはゴム成金に金を借りようとするんだけど、軽くあしらわれてしまう。しかし、このゴム成金。札を魚に食べさせるとか、いかにもな類型的な表現が映画の古さを感じさせる。それで結局、モリーに金を借りて上流の土地を自分のものにするんだったかな。船を買う資金はどうしたんだっけ。これも彼女におんぶに抱っこだったっけ? ここで「?」だったのは、土地の取得方法で。ペルーでは、その土地を利用してビジネスを始め、一定の成果がでることになれば、荒れ地なんかを安い値段で手に入れることができる、状態だったのかね。西洋人の開発は歓迎だった? もっとも、フィッツジェラルドが手にした土地は、ゴム成金も見放すほどの土地で、たどり着くにはアマゾンの支流(?)を遡るしかないが、途中に急流があり不可能。しかも野蛮な原住民がいっぱい、の土地だった。さて、フィッツジェラルドはどうしたか。 なんと、むかし敷いた鉄道のレールをひっぺがし、それを積んで別の川を遡り始めるんだが、現地人の元社員が鉄道の制服を着てフィッツジェラルドを出迎えるシーンがたまらない。彼は、汽車が動くと今でも信じているのだ! そして、「汽車は整備してある。いつでも動かせる!」と嬉しそうにいう。フィッツジェラルドが手を引いてから6年間、鉄道が動くことを夢見て山奥で暮らしていたのだ! アホというなかれ。そんな元社員に嘘をついてレールを剥がすなんて…。な、いい加減なやつなんだよな、フィッツジェラルドって。 で、取得した土地の近くを流れている川と、その別の川は並走していて、あるところで接近している。その場所で、船を陸に揚げ、山を越そうというのだから完全にバカ。そもそもレールを積んだ時点で、山越えは予定してたのか? では、誰が木を伐採し、ロープをかけ、引き上げるつもりだったのか? 野蛮な原住民が手伝ってくれることになったんだけど、それは想定に入れていたのか? 偶然? そのあたりがテキトー過ぎ。 川を遡っていく場面は『地獄の黙示録』(1979)を思わせる。『フィツカラルド』は1982年製作だから、影響されているのかね。原住民の威嚇もあるんだけど、積極的に殺しにはこない。それでも一部の乗組員が逃げてしまい、船長、機関士、料理番、フィッツジェラルドの4人になってしまう。それにしても、逃げた乗組員たちは、どうしたのかな。描かれてないけど、原住民に殺されたのか、逃げおおせたのか? 原住民の脅威から救ったのは、フィッツジェラルドが鳴らしたオペラのレコードなんだけど。それ聞いて原住民がほだされたとでもいうのか? 興味をもった? それで、乗り込んできた原住民たちを迎え入れ、恐怖におののきつつ接し、でも料理番が言葉が通じたので、船を陸に揚げることをつたえたら、なんと快く了解し、しかも、原住民全員が過酷な労働に参加してくれることになった…って、ご都合主義もはなはだしい。まったく。 で、以後しばらくは、土木工事映画となるんだが。役者自身がスタント付けずに結構なところを歩いたり、いろいろしたりしていて、よくこんな映画に出演したな、な感じ。引っ張り上げるときに事故って原住民が数人死ぬんだけど、こんな事故、実際になかったのかね、と思うほどだ。 大量の原住民でもムリなところを、料理番がアイディアをだして。それは、船のエンジンを動かして、ロープを巻き上げるというもので。それは大したアイディアだとは思うんだけど。そんなに燃料を積んでいたのか? とかね。思ってしまう。ほかにも、レールを大量に積んだら、船底が川底をこするんじゃないのか? どれぐらい積んだか知らんが、動かないんじゃないのか? とか。でも、積んだはずのレールは、工事のところで登場しなかったよな、とか。いろいろ考えてしまう。他にもスクリューは無事なのかとか。船体がへし折れるんじゃないかとか。思ってしまう。 でまあ、なんとか山越えし、向こう側の川に浮かんだので、フィッツジェラルドは大喜びで泥酔。ところが気づいたら、船は錨を外され、川を下ってる。このまま行ったら急流で大破! なんと、原住民が船の山越えを手伝ったのは、川の怨霊を退治するため、だったらしい。のだけれど、原住民が怨霊に苦しめられていたとか、船を山越えさせれば効果があるとか、そういうことは出ていたっけ? がつんがつん岩場にぶつかりながら、魔の急流もなぜか乗り越え、沈没することなくアンデス川までたどり着いて。原住民はニコニコ顔。いくらか破損した船は、元の持ち主のゴム成金が「業務拡大につき船が必要」と買い戻してくれて。大枚を手にしたフィッツジェラルドは船長に金を渡し、たまたま近くに演奏に来ていたオペラの一団を呼び寄せる。で、船を渡す前に、その船にオペラの一団とフィッツジェラルドが乗り込み、そこで上演する! というシーンで終わるんだが。船上のオペラは、クストリッツァの『黒猫・白猫』だったかな、を連想したよ。 まあ、西洋人の土人の蔑視とか、あった時代の話だから。工事の最中に現地人が死んでも、フィッツジェラルドは申し訳ないとかいう顔もしない。ヨーロッパで食いつめたか、新天地を求めて流れてきて成金になった連中と。なれずに借金まみれのフィッツジェラルドと。売春宿の経営でうまくいってるモリーと。なんか、世紀末のどろどろした部分はさておいて、オペラ信仰が前に出て、身勝手なファンタジーになっちまってる。 そんなにオペラは素晴らしいかい。借金して、蕩尽して、それでもオペラが聴きたいという心理が分からんので、その点ではちっとも理解できないよ。 それにしても、船上のオペラは、みていてハラハラ。あんなところに楽団員が乗って大丈夫か? フィッツジェラルドのクラウス・キンスキーも、一番上の屋根にのって凛々しく立っている。おっかないだろうに。おっかないといえば、船で山越えする前、船長らを頂上に連れていき、木の上につくった物見から両方の川を眺めるシーンがあって。みな平気でいるけど、ほんとはかなり怖いはず。 C・カルディナーレはこのとき44歳か。ふくよかだった頃の可愛らしさはなくなっていたけど、まあ、面影はちゃんとある。しかし、彼女はなんでフィッツジェラルドが好きなのかね。意味不明。 フィッツジェラルドが、現地の子供に人気があるというのも、よく分からないところ。レコードを聴かせている場面があったけど、オペラには、現地の子供にも効いたのか? ブルースタジオは、スクリーンが相変わらずシワだらけ。人が歩くと椅子がぎしぎし揺れる。観客は7〜8人であった。 | ||||
ロスト・リバー | 6/19 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3 | 監督/ライアン・ゴズリング | 脚本/ライアン・ゴズリング |
原題は、そのまま“Lost River”。allcinemaのあらすじは「経済破綻とともに住人が次々と去っていったとあるゴーストタウン。この街に取り残され、2人の息子を抱え極貧生活にあえぐシングルマザーのビリーも、自宅に住み続けられるかの瀬戸際に追い込まれていた。そんな中、10代の息子ボーンズは、近所に住む少女ラットと知り合い、次第に心通わせるようになる。ある日ラットは、貯水池の底に沈んだ街の一部“ロスト・リバー”には、この街を衰退に追い込んだ呪いの秘密が隠されていると語る。そこで、自らロスト・リバーの秘密を探ろうとするビリーだったが…」 死ぬほど退屈でつまらなかった。時代設定とか、どういう状況なのか、そもそも背景が曖昧で、よく分からない。そんななかで、よく分からない話が断片的にというか、パラパラとばらまかれている感じで、ドラマらしい展開がない。誰が何のためにどうしたとか、対立関係が何によるものでどう展開し、どう解決するか…とかいう期待感もないから、まったく引き込まれない。 ダークなファンタジーだとか、映像が美しいとかいう意見もあるようだけど、たいしたことはない。こけおどしで底が浅い。耽美的であるとか退廃的であるというレベルには達しておらず、そこらへんは予算の関係なのか、場のつくり込みまでいってなくて、せいぜいが役者のメイクとかいうレベル。ちっともそそられない。とくにチャチなのが、街のボスのブリーで、椅子のついたオープンカーに乗ってうろうろするだけ。子分は運転手ひとりしか、たぶん出てこなかった。学芸会かよ。 ダムをつくって理想の生活? それで町が廃墟になった? 意味不明だ。なのに町にはバーがあり、客が群がっている。そこでは怪しいショーが毎夜繰り広げられているけれど、お客はどうやって生活しているのだ? 電気・ガス・水道などのインフラはどうなってる? 学校や行政は? 銀行員が登場するけど、なんだありゃ。と考えていくと、おかしなことばかり。 町を支配するのはギャング? でもブリーはチンピラ過ぎ。ボーンズが銅を集めようとするのは、価値があるから? どういう価値だよ。 ボーンズは、母ビリーと幼い弟との3人家族。だけど、年が離れすぎた弟だな。父親はどうした? ローンが払えず、ビリーは銀行員からバーで働くよう進められるんだが、最初は売春でもしろといわれたのかと思ってた。あんな仕事を世話してくれるとは、銀行も気が利いてるじゃないか。 で、ボーンズは近所の女の子ラットと仲よくしてて。2人でコンビニみたいなところにいるとブリーがやってきて。ラットはボーンズを逃がすため、ブリーのクルマで自宅まで送ってもらう…って、アホかね、ラットは。自宅が分かっちゃうじゃないか。 ラットは、祖母(?)と暮らしていて。祖母の亭主は、町を沈めてダム化するとき、なんか関わりがあったみたい。で、町の頽廃に責任があるのかなんなのか、ずっと、ダム化発表時の映像ばかり見てる。なんか知らんが、呪われていて、それを解くにはダムの湖底に沈んだなにかをもってこなきゃいけないらしい。それであるときボーンズは湖底に潜り、むかしあった恐竜博物館から恐竜の頭をもってくる。 でもそのときすでにブリーの手下がラットの家に火をつけ、祖母はそのなかに取り残され…たんだよな、きっと。違うか? で、その恐竜の頭をブリーのクルマに放り投げると、事故って火だるまに。でも、それで何か解決したのか? てなところで終わるんだけど、恐竜の頭でも呪いは解かれなかった、ということか? なんか、さっぱり分からん、つまんねえだけの、ひとりよがりの映画だった。ライアン・ゴズリングは映画をつくろうなんて思わず、寡黙な役で映画に出ていた方がいいよ。つまらん野望は捨てなさい。 ・ボーンズが最初の頃に見た火事は、なんなんだ? ・ビリーが「家を壊しやがって」とかブーたれていたので、自分の家かと思ったら、違うのね。だれの家だったんだ? ・ビリーが怪しいバーに働きに行くまでに時間があったけど、そんな大英断なのか? それにしても、仕事場へいくのに毎度タクシーを使うんだが、金もないのになんで? その方が安心だからとか? ・バーのショーは大したことはない。ビリーの顔の皮を剥ぐパフォーマンスは、少し面白かった。 | ||||
恐怖分子 | 6/23 | キネカ大森3 | 監督/エドワード・ヤン | 脚本/エドワード・ヤン、 シァオ・イエ、チェン・クォフー |
香港/台湾。1986年製作、1996年日本公開、2015年リバイバル公開。原題は『恐怖〓(人偏に子)』、英文タイトルは“Terrorizers”。オフィシャルHPのあらすじは「銃声が響き渡る朝。警察の手入れから逃げだした混血の少女シューアン。その姿を偶然カメラでとらえたシャオチェン。上司の突然の死に出世のチャンスを見出す医師のリーチョンと、執筆に行き詰まる小説家の妻イーフェン。何の接点もなかった彼らだが、シューアンがかけた一本のいたずら電話が奇妙な連鎖反応をもたらし、やがて悪夢のような悲劇が起こる」 90年代の台湾ニューシネマの代表作らしい。allcinemaには「現代感覚溢れる問題作」とかあるけど、左程でもない。傑作とかエレガントとかいったら、もう、持ち上げすぎだろ。技術的には稚拙なところが多いし、低予算で誤魔化しながらのところも多い。それと、話が浮気とか嫉妬とか昇進とかチンピラとかいう小市民的なレベルなので、いまひとつ時代を切り裂くシャープさに欠けるような気がする。まあ、当時は切れ味が鋭かった、といわれると、そうかなあ、なんだけど。1986年だろ。なんかなあ。 冒頭の出入りは、賭場だったのね。でも、たかが賭場に警官が突入し、銃撃戦になるのか。道路に倒れていたのは警官、なのかね。で、ビルから発砲するのは、チンピラたち? 長髪男は逮捕されるけど、女は逃げる。たまたま居合わせたカメラマン(志望?)の青年が彼女を写し、倒れた彼女を救うために病院に連絡した、らしい(後からそう説明していた)。でこの不良少女がひとつの鍵になるんだけど、いいところのお嬢さん(?)で、母親はちゃんとしてるみたい。なのに、なんでチンピラ連中の、しかも、人殺しまでするような男の女になってて、ズボンにナイフを隠してて、殺し寸前のことまでやっちゃうわけだけど、60年代日活ニューアクションみたいな感じ。つまり、現実的ではなく、誇張されてる感じで、共感もなにも、感情移入できない。で、その彼女の姿をたまたま写したカメラマン青年が彼女の虜になり、プリントを部屋に飾ったりする心理がよく分からない。だって彼には同棲相手がいるんだぜ。なのに心ここにあらずになって、家をでてしまうなんて、なんて勝手なアホなんだ、としか思えんよな。…という話がひとつあって。 もうひとつは、病理医とその妻の小説家の話がある。小説家妻は以前に働いていたときの恋人がいて、でも彼とは結ばれずに病理医と一緒になった。ということ自体が不可解。なんでこんな夫を選んだんだ? で、病理医の関心事は、院内での昇進で、心臓病で急死した後釜に、誰がなるか、という。おいおい。そんな話でどこが現代感覚、エレガントなんだか。 しかもこの病理医、同時に入局した同僚の足を引っぱるようなことを上司に告げ口したりと、やってることが地味に暗い。というところで、スランプに陥ってる小説家妻が「仕事に就こうと思う」といいだして。それは昔の恋人から誘われたからでもあるのだけれど、どういう風の吹き回しな感じがするわけで。書けなくなったから会社勤め…といっても、あれは編集かなんかの仕事なのか? よく分からんけど、をするという女の心理が理解できない。作家やった人間が、会社勤めに戻れるもんか? まあ、心が亭主から離れた、というなら。それなりの理由を描かないとな。それいぜんに、面白みのなさそうな病理医と結婚した理由もな。 で、カメラマン青年は、冒頭で出入りのあった部屋が貸家になっていたので入居し、そこを暗室にして、不良少女の写真を壁に貼りまくる。それはあれか。そこにいれば、いつか彼女がもどってくる、と網を張ったということか? フツーそんなこと有り得ないだろ。だけど、この映画では有り得てしまうから、強引。 不良少女は松葉杖をつきながら自宅に戻る。しばらく謹慎? で、病理医の名前を電話帳から探し、といっても同姓同名が多いんだけど。電話して、受話器に出た小説家妻に「話があるから来て欲しい」と、賭場部屋を指定する。そこにノコノコやってくる小説家妻。でも、ドアを開けて、驚いた顔をしてさっさと帰ってしまうんだけど、なんなんだ? でたのはカメラマン青年だよな。不良少女の目的は、なんなんだ? さらに、自分でも賭場部屋に行き、カメラマン青年と会う。彼女は自分の写真と対面するんだけど、そんなことにはお構いなし。カメラマン青年が寝てる間にカメラをごっそりもちだし、売って旅費にしようとする。なんでも、賭場事件のとき逃げたチンピラのボスである彼氏の居所が見つかって、そこに行く費用にするためらしい。けどカメラは売れない? よく分からんけど、結局売らずに賭場部屋の玄関に置いて、チンピラボスのバイクの後部に乗って、2人して去って行く。おいおい。だったら始めからそうすりゃいいのに。 不良少女は、チンピラボスと美人局をやったりするんだけど。一度などバレて、でも、隠し持ったるナイフで相手男を刺して逃げたりしてる。なんて度胸。てか、相手は死んでない、のだよな、たぶん。その後のことは描かれてないけど…。つぎの美人局で、警察に捕まってしまうんだっけかな。いや、あれは妄想の中の出来事の方だったけ? 忘れた。 さてと。不良少女は、再度、病理医宅に電話する。すでに小説家妻は家をでていて、元恋人と生活していたようで、病理医は一人暮らし。その病理医をも賭場部屋に呼び寄せるんだけど、彼は誰に会ったんだっけ? それは絵がいてなかったんだっけ? 覚えてないが。どうも病理医はうろたえていたような気がする。 病理医が賭場部屋に呼ばれる前だったか後だったか。覚えてないけど。彼が病院に行くと「課長には○○がなった」と告げられて呆然。その課長になったのは、同時入局の同僚だっけか? とにかく、ささいな野望が潰え、彼は警察の部長をしてる友人を訪れ、「課長になった」とウソを言うんだけど。なんか、もう気の毒な感じ。 ところで、この警察の部長さん。冒頭の突入時には指揮をしていて、でもその刺繍入りのシャツが派手派手でる笑っちゃうぐらいのおっさんなんだよな。こういうの、台湾映画とか香港映画にたまに出てくるよな。 で、夜明け、部長の拳銃を手にしてでていく病理医。元妻の恋人の家を訪れ、元恋人を射殺。ベッドにいた小説家妻に銃口を向けるが、外して撃った。…で、そのあとどうするんだっけか。忘れた。 おやおや、と思っていたら。警察部長が目覚め、風呂場に行くと病理医が自分の頭を撃って自死していた、と。がばっ、と目覚める小説家妻。となりに、元恋人。…殺しは、病理医の妄想の世界の話か。あるいは、小説家妻の夢で、怖ろしくなって目覚めたのか? よく分からない。 カメラマン青年は、元の恋人の部屋に戻り、彼女にやさしく迎え入れられる…という終わり方。なんか、よく分からんテキトーな感じ。 そもそも、電話呼び出しは不良少女の仕掛けなんだけど。彼女が病理医を選んだのは、なぜなんだ? 偶然なのか? それとも、病理医は不良少女の客で登場していたりしたっけ? 記憶にないんだけど。ほかに、病理医とさの妻を狙って呼び出し、脅すような要素はあったかな。まったく分からない。小説家妻は、カメラマン青年と会って何を知ったのか? そういえば、小説のネタにさせてもらったとかなんとか、最後の方で賞を受賞したインタビューで言っていたけど。彼女が書いた小説は、病理医と別れて後の新作だったのか? 時間の経緯がよく分からなかった。 はたまた、病理医は、賭場部屋にやって来て、何を見た、知ったのか? よく分からない話であった。 そういえば、アクションとか見せずに、結果をそっけなく見せてしまう手法は、北野武の表現に似ているなあ、と思ったのであった。 | ||||
カフェ・ド・フロール | 6/24 | ギンレイホール | 監督/ジャン=マルク・ヴァレ | 脚本/ジャン=マルク・ヴァレ |
カナダ/フランス映画。原題は“Caf? de Flore”なんだけど、そんな行きつけのカフェなんて登場してたっけ? allcinemaのあらすじは「1969年、パリ。美容師のジャクリーヌは、ダウン症の息子ローランを女手一つで献身的に育てていた。できるだけ健常者と同じように育てようと、様々な習い事をさせ、普通学校に通わせていた。ある日、ローランのクラスに同じダウン症の女の子ヴェラが転入してくると、2人は一瞬で惹かれ合い、片時も離れたがらず、次第に学校で問題となっていく…。2011年のモントリオール。人気DJのアントワーヌは、2人の娘とセクシーな恋人ローズと幸せな日々を送っていた。しかし、運命の相手だと確信していた元妻キャロルとの別れには釈然としない気持ちを抱えていた。一方のキャロルにいたっては、アントワーヌと別れて2年も経つというのに、未だに立ち直れずに夢遊病のような状態で不思議な幻覚に苦しんでいたが…」 なんだあ、この映画は。1969年にはダウン症の子供なんか登場させ、2011年では家庭を崩壊させた浮気男がでてくる。思わせぶりで始まって。でも、2つの話の混ざり合いで、おお、なるほど、と面白い展開になるかと思いきやいつまでたっても交差しない。最後にちらっと2つの話の登場人物を同一画面に入れ込んでるけれど、ほのめかしだけ。なんなんだ? 2時間が苦痛だった。 で、言ってることはおおむね、こんなこと >> 男の浮気は生まれつきの病気である。本当に愛しているなら、愛されることを期待せず、無私の愛を注がなくてはならない。母親のように見守らなくてはいけない。それが家庭円満の策である。って、なんなんだ? 2011の浮気男と相手の女の恋を肯定し、捨てられた妻は我慢せい、ということかい? そんな間尺に合わない話をいまどき。アホかと思う。どこが「究極の愛」なんだか。 さて。1969年と2011年には明らかなアナロジーがある。 1969。パリ。ジャクリーヌはダウン症の男児ローランを生む。施設に預けろという亭主に反して、自分で育てることを決意。長じて、普通の学校に入学させるがいじめられ、でも、同じダウン症のヴェラと知り合い、互いに好きになり離れようとしない。ジャクリーヌは最後には怒りを爆発させるけれど…。 2011。モントリオール。アントワーヌは40歳(HPには40代とあるけど、映画ではどうだったかな?)。少年の頃からつき合っていた妻と別れ、若いローズと再婚(同居?)している。前妻キャロルは1人暮らし。2人の娘はアントワーヌと同居しつつ(なのか?)、毎週交代でやってくる。でも、アントワーヌ恋しさに夢遊病になったりもしてる。キャロルはローズに会っても激情に駆られることなく、静かに接したりしている。 ジャクリーヌは、キャロル。ローランはアントワーヌ。ヴェラはローズ。息子を若い少女に奪われ、孤独感を味わいつつ、でも息子の幸せを願うジャクリーヌ。この煩悶は分からんでもない。でも、それを、若い女に亭主を奪われ、失意のもとにあるキャロルと重ね合わせるのは、ムリがありすぎだろ。2011でいえば、アントワーヌが全面的に悪いし、ローズは雌犬だ。それを、1969の母親ジャクリーヌが息子を見守るように、亭主と浮気相手の女を見守れ、というのはひどすぎる。キャロルが気の毒すぎるだろ。 で、映画の経緯としては、2つの時代がときどき入れ替わりつつ進行するんだけど、ときどきフラッシュバックで過去映像が混じり合ったり、はっきりいってうっとうしいしうんざりする。 で、↑のような構造であることは分かったけど、いつか1969の誰それが2011に痕跡を見せて、あれがこれでああなって…となるかと思ったら、とくにそうはならず。むしろ、妙な具合になって行く。オカルトだ。 たとえば、失意のなかにあるキャロルが運転するクルマの後部座席で、ローラントヴェラが声もなく叫んだりして、不気味。いつか事故るのではないかと思っていたら、そういうシーンがあったけど、あれは誰が乗っていたクルマだったっけ。はっきりいって、もう後半になるとうんざりもひどくなっていて、真面目に画面も見ていなかったし。いろんなカットがぐじゃぐじゃにでてくるので、覚えてもられんのよね。 でも、キャロルが事故で病院に入ってるような映像はなかったし。あの、クルマの衝突はイメージ、妄想みたいなものなのか? とか思ったりしていたんだが。そもそも1969でジャクリーヌは運転していない…してなかったよな、確か。クルマを持つほど金もなかったように思うんだけど。そんなシーンあったっけ? 覚えてない。というわけで、というかなんというか、1969で、幼い(小学生?)ローランとヴェラが死んだ、というようなはっきりした映像はなかったように思うんだが。記憶はすでに曖昧。 話は前後するけど。1969は、ジャクリーヌにローランが生まれ、苦労して育てたけど、息子の関心をヴェラに奪われてしまう。という、それだけの話で。ダウン症に関するなんたらかんたらはほとんどない。2011では、家庭内では長女が反抗的になるのと、アントワーヌの両親がいまでもキャロルのことを思っている、という設定があるくらいかな。あとは、ほとんどドラマがない。なので、どちらも退屈。 そのタガが外れるのは、キャロルの異常行動で、でも夢遊病が関の山。いまでもかつての少年アントワーヌを思いつつ、捨てられた自分に納得できてない、というところ。なんだけど、アントワーヌの一方的な浮気なのに、出て行ってるのはキャロルらしいのが不思議なところ。慰謝料請求すれば、出ていくのはアントワーヌではないの? はたまた、子供の面倒はキャロルが見るのが筋ではないのか? そのキャロルの友だちは、ヨガかなんかやってるんだっけ。それと、アントワーヌは精神分析医のカウンセリングを受けてたけど、キャロルは霊媒師に前世を占ってもらっていたんだけど、あれは友人の紹介だったのか? よく覚えていない。で、その霊媒師に何か告げられるんだけど、内容は明らかになっていない。で、キャロルはその後、ローズに寛容になる。あとから友人が霊媒師に会って、内容を聞くんだったかな? そんなシーンがあったような。 で、交通事故の話があって・・・。アントワーヌとローズの再婚には、アントワーヌの父親も大反対していたのだけれど、ラストでは、皆を呼んで和気藹々にパーティをしてる。そこにキャロルもやって来て、アントワーヌの両親とともに、アントワーヌとローズの幸せそうな様子を微笑ましく見守る…って、なんだよ、それって。理解できんぞ、この映画。こんなんが許されるのか。浮気男の天国じゃん、な終わり方だったのだ。 最後。かつて愛し合っていた少年と少女だった頃のアントワーヌとキャロルの写真が大写しになる。背後に大邸宅。あれはヴェラの家だったか。1969(?)にジャクリーヌとが、前日、宿泊したローランを迎えに行ったときの場面か? どういうこじつけだよ。っていうか、あれはレコードジャケット? ポスター? なんなんだ? 因果関係があった? どういう? で。Webで見たら、「生まれ変わり」説があった。ああ。なるほど。なんだけど。では、どういう因果関係で結ばれていて、なぜ彼らとして生まれ変わったのだ? ダウン症児である必要性はどこにあるのだ? そこらへんが釈然としない。 あと、突飛だけど、ローランがアントワーヌになった? ダウン症が癒えてそうなった、とかいう話はあるのか? とかも一瞬思った。でも、1969に10歳だとしたら、ローランは1959年生まれ。2011に40歳(40代?)のアントワーヌは、1971年生まれ? 40代としても1961年にしか遡れない。で、もしローランが1969年に亡くなっていたとして。アントワーヌが40歳としたら、3年後に生まれていることになるのか。いやまて。1969は、ローランが生まれた年じゃなかったっけ? だとすると、ローランが生まれて3年後にアントワーヌが誕生したことになる。同時代を生きている計算だ。40代だとしたら、ローランより前に誕生していることになる。これでは、生まれ変わりという解釈は成り立つのか? それにしてもオカルトかよ。 枝葉末節省いて、30分ぐらいの短編にするのが似合ってるかも。 ・ところで、1969で、ヴェラは両親に引き取られてどっか施設に行ったんだよな。で、ジャクリーヌとローランは、実際はどうなったんだ? 事故死した、という設定なのか? それとも、ローランとヴェラが2人でクルマの後部座席に乗って、事故死した、なんて経緯はあったっけ? (ジャクリーヌが2人を乗せて心中したと書いているサイトがあった。映画でははっきりそう描かれていたっけ?)もう、うろ覚えだよ。もういちど確かめに、ギンレイに行く気力もない。 | ||||
虎影 | 6/26 | 新宿武蔵野館1 | 監督/西村喜廣 | 脚本/西村喜廣 |
MovieWalkerのあらすじは「かつて最強と恐れられた忍者・虎影。6年前に忍びの世界から足を洗い、今は妻子とともに穏やかな日々を送っていた。しかし、とある財宝の在処を示す巻物を狙う忍者集団の女頭領が、息子を人質に取り、虎影に2日以内に巻物を手に入れてくるよう迫る。こうして財宝を巡る争奪戦に巻き込まれていく虎影だったが…」 バカ映画だった。低予算。ちゃちな合成。ムダなエロ。脱力するギャグ。意味のないストーリー。下手なアクション…。ハナからバカ路線を目論んでいるのはミエミエで、でも、それがちょっとあざとすぎか。 話は単純で、某藩の財宝の在りかを記した巻物2本をめぐるあれやこれや。なんだけど、いろいろ話が変。 時代は、天下分け目の戦いが近い、と言っていたので、関ヶ原の直前か? 藩の財宝を隠したのは藩主あるいはその先祖。でも、わざわざ絵図面にする必要があるのか? しかも2本に分け、揃わないと分からない、という仕掛けも必要ない。だいたい、隠し場所ぐらい知ってるだろ、フツー。 で、その財宝を、忍者軍団が狙う。組織の維持と強化が目的らしいが。資金なんて必要か? だいたい忍者はどこかの藩中に属しているはずで、藩の財宝を狙ってもしょうがないだろ。それともあの忍者軍団は、独立系なのか? 天下を取る野望がある、とかいうなら話は別だけど。 で、1本は奪った。でも、もう1本は奪えなかった。そこで忍者軍団のボス・東雲幻斎が虎影に参加を求めるんだが、拒否。それで虎影の息子孤月を人質に。やむなく虎影と妻・月影が藩の倉に忍び込むんだが…。かつて放逐した忍者に仕事を依頼するという発想が分からない。アホか。さらに、東雲幻斎が単なるエロい熟女というのも、あんまり意味がない。そうするなら必然性を加えないとなあ…。 城への途中、賽の河原のようなところを通過すると髑髏の近くでオヤジが出現し、「呪怨が来る」と呟く…。虎影が「呪怨の監督だ」と説明する…というバカなギャグ。あれ、清水崇? 城内には簡単に潜入。潜入時に番兵1人を殺すんだけど、その死骸を別の番兵が見つけ、「曲者じゃ、であえであえ」と叫ぶのかと思ったら、「ざまあみろ」と、刀でつつく。「いじめやがって」と。金をせびられたりしたらしい。このあたりのズラシのギャグは面白いけど、以降はどんどん少なくなって、つまらなくなっていく。 巻物は奪うが、雇われ忍者に捕まってしまう。この雇われ忍者の鬼卍、鬼十字、目なしの3人組が、多と比べて異様にカッコいい。とくに目なしの造形は素晴らしい。でも、ほとんど物語に活かされていないのが残念。もうすこし使いようがあったろうに。 このときのバトルはちゃちすぎるCGで、これも狙ってるんだろうけど、バカバカしさを十二分に発揮。人柱の板のスケボーとか、どんだけ坂を下ってるんだよ、だったり。笑いとかおかしいより、飽き飽きしてきたよ。 で、今度は藩主に、「オレは忍者軍団に義理があるわけじゃないから、あっちにある巻物を奪い返してくる」といって、藩の蔵から奪った巻物を返すんだがこれがニセモノで、これに最後まで藩主が気づかないというバカな展開があるんだが、それはさておき。今度は月影を人質に残して忍者軍団の郷を目指す。 ところで、あれはやはり藩主だったのか。顔に蜘蛛みたいな刺青をした津田寛治。「?」と思いつつ見ていたんだけど、他に武士らしい武士も登場せず、後に教祖少女(?)が、「父親だった教祖の後を襲って…」とかいってたから、たんに新教祖になった男かと思っていたんだけど…。いや、この辺りは大分飽きて眠くなり、頭が働いてなかったんだよな。ははは。藩主、なんだろう。ははは。そう書いているサイトもあるし。あと、人柱も何のためにやってるのか覚えてなくて。あとからWebで「藩主の館は水害の土地にあり、新しいダムを建設するため、月影は人柱として」という文章を見つけた。そうだったのか。ふーん。でも、そうやたら人柱なんてするもんじゃないだろ。だいたい、石垣の下は地面で、ダム工事の現場なんて、でてたか? 石垣がすでにダムだった? よく分からん。 途次、雇われ忍者と戦ったときに救った家族と出会い、その父親が発明狂で、あった竹のパワードスーツを着用して忍者軍団の郷に乗り込むんだけど。ううむ。バカバカしい。 この辺りから怒濤の対決シーンへと向かうんだけど、こちらは話もつまらないので半分寝てるようなありさまで。あの場所は、ダム予定地なのか? 巻物を求めて東雲幻斎が忍者軍団を引き連れてやってくる。藩の雇われ忍者たちがやってくる。なんか、もうよく覚えておらん。雇われ忍者は虎影に味方するようになり、藩主の人質だった月影が東雲幻斎の人質になってたかな…いつのまにか。それで、月影を人質にされてたじろぐ虎影と息子。すると地面にある仮面が目に入る。その仮面にパチンコ玉みたいのが少しずつ吸い付いてくる。なんだこりゃ? と思っていたら、その仮面をつかって東雲幻斎をやっつけるんだっけかな。仮面を東雲幻斎に投げつけたらパチンコ玉が猛烈に吸い付いて、東雲幻斎は跡形もなし…だったかな。あれ、やっつけたのは雇われ忍者の鬼卍だっけ? 記憶もヨロヨロだ。なんか、東雲幻斎をやっつけてから、鬼卍と「対決だ」とかあったような気がする。 しかし、あの仮面は何だったんだ? あんなの、それまで出てたっけ? 磁石? パチンコ玉は? ああ、不可解。それとも、湖底にある財宝とは、あの仮面のことだったのか? そう言えば良く分からないのが、藩主に操られていた教祖娘で。ミッキーマウスに見えなくもない衣装を着ている。彼女が人柱を命じているようなかたちだったのかな。でも、藩主に麻薬中毒かなんかにされて、自分の意志ではなかった、のかな? それとも、あの教祖娘は旧藩主の子で、現藩主に領地を奪われ、彼女は利用されていた、という話だったのかな。よく分からない。半睡だったし。ははは。 で、ラストは、えええ。鬼卍、鬼十字、目なしの3人組はどうなったんだっけかな。記憶にない。虎影、月影、孤月の3人は一緒に暮らしつつ、世の中の悪と戦ってる、みたいな感じだったかな。そこに、板尾創路が謎な感じで登場し、次回につながる…的な終わり方だったけど、はたして次回作はあるのか、よく分からない。 しかし、もともと藩主が2本の巻物をもっていたなら、さっさとそれを見て財宝を探し出しておかしくない。なのに、1本盗まれたからといって「取り返す」といきり立つ必要はどこにもない。つまり、巻物を争う必要はどこにもない。なのに、巻物争奪戦にしていることが大間違い。 巻物も、変。巻物を金と銀に分ける意味は? 2つを重ねると×が見えるから? それだけ!? アホか。あと、最後に分かるけど、巻物に忍者文字が書かれているって・・・どういうことだ? 巻物作成には忍者が関わっていた? なんなんだ? ・やたらウンコがでてくる下品さ。まあ、悪くはないけど。 ・意味なく胸の谷間のクロースアップ。これも、いいんだけど。 ・くノ一2人の人間手裏剣とか、竹のパワードスーツとか、バカバカしいけど、案外つまらないのがなあ…。 ・藩主の部屋に、樽に入れられ歌う女の首がいくつか登場するんだけど。藩主が異常者というのを、もっと説明する必要があったんじゃないのかね。 ・狂言回しとしての語り部が登場し、ときどき説明するんだけど。後半からあまり登場しなくなる。もっと頻繁に登場させた方が良かったし、飽きなかったんじゃないのかな。 ・目なしのスーツは格好いいけど、宙に浮かんで戦ってる場面の貧乏なCGはなんとかしろよな世界。 まあ、あれだな。要素にいくつか面白いモノがあっても、基本的な物語がちゃちで、展開も奥がなく薄っぺらだと、映画全体もつならない、という典型例だな。要素だけで面白くするには、あまりにも低予算過ぎるしな。 ※予告編見たら「やげんの隠し財宝。かつてその指導者たちは財宝をいずこかに持ち去り、隠し場所を2本の巻物に記した」といっておった。やげんは、薬研? なんだっけ? あるHPに「以前所属していた忍者集団の女頭領が、悪徳領主「やげん」が隠している財宝を手に入れようと、財宝の隠し場所が記されている金と銀の巻物を盗み出そうとしますが、他にも財宝を狙っている者がいて、銀の巻物しか手に入れる事が出来ませんでした。そこで女頭領は虎影を呼び出します。もう忍びの世界とは関係ないと言う虎影ですが、1人息子を人質として取られた事で、月影と共に金の巻物を手に入れる為に「やげん」城に向かいます。しかし、城では虎影の宿敵、鬼卍が雇われていました。さらに、「やげん」城の根本は、水をあがめる「やげん教」であり、毎日人柱として、農民を生贄に捧げている場所でした。果たして虎影は、この城から金の巻物を盗み出し、息子を助ける事が出来るのか?そして、宿敵・鬼卍、生贄を捧げる城主、女頭領との戦いはどんな結末を迎えるのか?この「やげん」城に隠された真実とは一体何なのか?」という文章があった。そういえば、なんでもかんでも「やげん」だったな。でこの「やげん」とは何なんだ? の答って、でてたっけ? あと、予告を見て、藩主は鬼卍に首を斬られ、周囲が血の海になるんだった、というのを思い出した。その後の虎影と鬼卍との戦いの結末は、忘れてるけど。 | ||||
マッドマックス 怒りのデス・ロード | 6/29 | MOVIX亀有シアター6 | 監督/ジョージ・ミラー | 脚本/ジョージ・ミラー、ブレンダン・マッカーシー、ニコ・ラソウリス |
豪映画…なのか。原題は“Mad Max: Fury Road”。allcinemaのあらすじは「石油も水も尽きかけ荒廃した世界。愛する家族を守れなかったトラウマを抱え、本能だけで生き長らえている元警官、マックス。ある日、資源を独占し、一帯を支配する独裁者イモータン・ジョー率いるカルト的戦闘軍団に捕まり、彼らの“輸血袋”として利用される。そんな中、ジョーの右腕だった女戦士フュリオサが反旗を翻し、ジョーに囚われていた5人の妻を助け出すと、彼女たちを引き連れ逃亡を企てたのだった。裏切りに怒り狂うジョーは、大量の車両と武器を従え、容赦ない追跡を開始する。いまだ囚われの身のマックスもまた、この狂気の追跡劇に否応なく巻き込まれていくのだったが…」 前3作はたぶん見てる。テレビでかも知れないけど。1作目はフツーな家族や街も出てたけど、あとの2作は荒廃しきった世界だったよな。で、今回。マックスはしきりに子供のイメージに苛まれるんだが、殺されたんだっけ?(調べたらそうだった) で、そのトラウマだけがマックスの記憶で、あとはほとんど動物的に生きてる男、という感じ。 で。物語は、ほとんどそのまんま『駅馬車』だった。砦を抜けだして緑の地を目指すフュリオサと女たち。あれこれあって、乗り合わせることになったマックス。追うジョーの一団は、まんまインディアン。矢も飛んでくる場面もうるぞ。さらに、心を入れかえて味方になったニュークスや、フュリオサの同郷の老婆たちも乗り合わせて、という人物設定も似てる。 冒頭からマックスの後ろ姿で、踵で小さなトカゲを踏み殺すと、それを丸かじりする…。おお。食糧も手に入らない時代か。でも、クルマで走り出したら、速攻でどっかの一団に捕らえられてしまう。まぬけ。でその世界ではジョーという醜く太った男が王のように崇められていて、水やガソリン、女を支配しているらしい。美女だけ選んでハーレム化し、子供を量産(?)してるみたい。というところで、幹部のフュリオサがどこかへ出撃するんだけど(本来の目的はなんだったんだ?)、途中で進路を変更。部下たちは戸惑いながらついていく。 それに砦の兵士が気付き、追撃。部下のひとりがマックスを輸血パックの代わりにクルマの先端にくくりつけていく。そこに、ジョーと敵対する(?)ハリネズミ車の一団が絡んできて、これは撃退。でも、大砂荒らしがやってきて、そこに突撃…。一夜明けて、気づくマックス。鉄の仮面をつけられ、鎖でニュークスと結ばれている。しかたなく気絶したニュークスをかついで、フュリオサのトラックに近づくと…。半裸の美女が5人水浴びをしてる! あー、いや。実をいうと、ハリネズミ車の途中から、ちょっと飽きてきていた。冒頭からの連続アクションで、しかも、似たようなカーチェイス。これが延々つづくのか? 女性はイガグリ頭のフュリオサ(シャーリーズ・セロン)だもんなあ…と。ところが、何と、透け乳首見せの美女5人で目が覚めたよ。 この映画、背景や設定に関してはバッサリで、深く描いていない。まあ、前3作につづく続編あつかいだからな。分かれ、ということだろう。でも、なんとなく、分かるようにできてるのよ。ジョーは教祖的な人物で、部下に崇拝されていること。だから反乱も起きず、かしずかれているのだろう。たまに水を恵んでやれば、下層民もついてくる…と。そして、美女を囲って子供を産ませ、ファミリーを形成している。巨乳の母親たちが搾乳機で母乳を集められていたけど、あれが子供たちに与えられるのか。あるいは聖水のような扱いをされるのかな、とか。はたまた、あの母親たちもかつてはジョーの妻たちだったのかも…。なんていうことが、だいたい分かるようになっている。よくセリフや字幕で説明されてしまうのがあるけど、ああいうのではなく、感じて分からせる脚本が上手い。 どうもフュリオサは、かねがねジョーのやり方、とくに、女性を性奴隷化しているのが気に入らなかったようだ。それで、満を持して、妻5人をタンクローリーに隠して脱出した。目指すは緑の土地。それはかつて幼いときに母親とともに連れ去られた故郷…。ということは、7000日前、ジョーの一団に母親とともに略奪され、砦に連れてこられた。長じて腕を見込まれ、幹部となった。…けれど、もしかしたらジョーの妻だった、のかも知れない。それで、現在の妻たちの気持ちも分かる、のかも知れない。フュリオサは、左腕の肘から先がない。これは戦いで失ったんだろう。そうまでしてジョーに忠誠を誓っているふうを装い、今が時だ、と一団からの脱出を決行した、というわけだ。そこに、マックスがまぎれ込んでしまった。 というわけで、目的を失って放浪しているマックスに対して、フュリオサには明確な意志と目的があり、その後も、彼女の意志で話が進んでいく。マックスは、ついていくだけ、に近い。詰まりこの映画の主人公はフュリオサであり、女が立ち上がり、反旗を翻す物語だ。マックスは、サバイバル力の強い脇役だな。 えーと。美女5人の水浴びに近づいていくマックス。銃で脅され手がでないフュリオサ。いつの間にか気づいたニュークス。この三つ巴な関係がしだいに強調・連携していく過程もいい。しだいにマックスとフュリオサとの間には信頼関係が築かれるんだが、ごく自然な感じ。ニュークスは、ジョーにいいところを見せようとして失敗。5人の美女の中でもジョーのお気に入りの女性と、お腹の子供の子の死を招いてしまって心を入れかえるので、ご都合主義もいいところだけれど、宗教的な呪縛が解けると、根は悪い奴じゃない的な青年になってしまうのがおかしい。 ジョーへの崇拝も含め、原始的な宗教、って感じなのが興味深くて。民主主義や社会性なんかが失われると、強者や畸形が祀りあげられるんだよな、ということをちゃんと踏まえて描いてる。ジョーはなんかよく分からんが身体をカプセルで包んでる。息子のひとりは小人で足が退化したみたいな感じ。あと、ジョーと一緒に戦う仲間? も、足が象皮病みたいなやつだったりして。たんに強いだけじゃゅなくて、異形性も必要になるのだな、と。 次にタンクローリーを待ち受けるのはバイク軍団で、フュリオサはすでに話を通していたらしい。最後尾に付けていた丸いのがオイルで、それを渡す代わりに崖を破壊し、道を閉ざしてくれ、ということだったのかな。岩に囲まれた道にさしかかり、フュリオサが話しかけるが、攻撃されてしまう。それはマックスの姿が見えたから? バイク軍団には「1人だけ」といっていたので、それを怪しまれて? でも、バイク軍団は通過するタンクローリーに攻撃を仕掛け、さらに、後続のジョーの一団を通れなくするために、爆破していた。バイク軍団、やってることがよく分からない。オイルを受け取って、岩場を破壊してやればよかったのに。 ジョーの一団には、仲間なのか部下なのか、よく分からんボス格のが2人いて。霧だかホコリだか知らんが、の中でその1人に追いつかれそうになるんだけど。このときマックスはひとりで後方に出かけ、もどってきたら血だらけで。どうやらひとりで相手を倒した模様。って、ここだけノーアクションで結果だけ見せているのも、なかなか渋い。 で、フュリオサの故郷にたどり着いてみれば、かつての緑の土地は汚染され、どろどろに。残党の女というよりババアたちは数人で、バイクで移動し、暮らしていた。絶望…。で、マックスを除く一行は、160日だかかけて(水か燃料のつづく限り?)未知の土地を目指してバイクにまたがるが…。ここでマックスが啓示を受ける。いま、砦にはジョーがいない。砦には水がある(地下から汲み上げているらしい)。目指すのは、砦。一団より早くたどり着き、乗っ取ろう! と。一行もこの提案に乗って、一路引き返す。 こっからは、『駅馬車』再び。逃げるタンクローリー。(…あ、いちばん後ろのオイルタンクはいつどこで外したんだっけ? 忘れた) 襲うジョーの一団はインディアンだな。もう、展開が早すぎるので、何がどうなって…は、ほとんど覚えてない、というか見ていても分からないぐらい。カーチェイス、クルマに飛び乗ったり落ちたり挟まれたり…。あるクルマの先頭にはギタリストが乗ってて、ギターから炎がほとばしる。戦争しながら音楽というのも、昔はあったことで。驚くにはあたらない。かっこいい。 追いつかれそうなマックスたち。来るときにバイク軍団とひともんちゃくした谷間にさしかかるんだが、爆破した瓦礫はきれいさっぱりなくなってる。ジョーの部下が、一団を通すために取り除いたんだな。 ニュークスは5人の美女のひとりと心を通じるようになっていて。でも、最後は、その谷間で道を防ぐために自爆するという、カッコいい死に方。当初は「ジョーのために死ぬ覚悟はできてる」的なことを言ってたけど、彼女のために死ぬという結末。なかなか迫るものがある。 ジョーが死ぬ場面が、あれあれあれ、な感じで。あれは、マックスとの戦いではなく、フュリオサとだったかな。いきなり身体が裂けて血肉が…な感じで。まあ、わざとそうしているんだろうけど。どうなったのか、一瞬よく分からなかった。まあ、分かれ、ということなのだろう。 砦にたどり着き、ジョーの死骸を見せると、それまでジョーを崇めていた部下たちが大歓声。新たな指導者として一同を迎え入れる。でも、マックスだけはそっと抜けだし、いずこかへ去って行くのだった、オシマイ。 というわけで、アクションの連続なのではあるが、女性の映画なのだった。女性が男に反旗を翻し、立ち上がる。いったんは逃げるが、逃げても問題は解決しないので、立ち向かっていき、やっつけ、世界を支配する話だ。だから、この映画の主人公はフュリオサであって、マックスではない。フュリオサには意志があるけれど、マックスにはない。マックスは、家族を助けられなかったという負い目に苛まれ、子供の幻影から逃避することだけの人生になっている。そのせいか、マックスのセリフはほとんどない。 ・美女5人のうち、1人は砦に戻りたがってたな。後半でも、追われる最中に、ジョーの一団の体格のいい筋肉男に、自ら手を伸ばしていた。でも、結局はフュリオサたちと砦に戻ったようだけど。かの立ち位置は、もう少しなんとかした方がいいかも、ちょっと隔靴掻痒。 ・人力のエレベーターとか、そそるものがあるな。 ・ところで、世界が壊滅してから何年後の世界、を想定してるのかね。10数年前の街の面影や残骸もないの? フュリオサの故郷に鉄塔があったぐらいだよなあ。そもそもガソリンはどこで誰がつくってるんだ? クルマのプラグとか、どうなってるんだ? その他の電気関係は? テレビはないようだけど。とか、突っ込んでいくといろいろ「?」はでてくるんだけど。まあ、そういうのはヤボということだな。 |