駆込み女と駆出し男 | 7/1 | MOVIX亀有シアター9 | 監督/原田眞人 | 脚本/原田眞人 |
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allcinemaのあらすじは「時は天保十二年(1841年)、質素倹約令が発令され、庶民の暮らしに暗い影が差し始めた江戸時代後期。この時代、夫が妻と離縁することは容易だったが、妻のほうから離縁することはほぼ不可能だった。鎌倉の尼寺、東慶寺は、そんな妻たちの離縁を可能にする幕府公認の縁切寺。寺に駆け込み、2年を過ごせば離婚が成立した。駆け込み女たちはまず御用宿に預けられ、そこで身元の調査が行われる。戯作者に憧れる見習い医師の信次郎は、江戸を追われ、そんな御用宿のひとつ、柏屋に居候することに。そして、叔母である柏屋の主人、三代目源兵衛の離縁調停を手伝い始める。そんなある日、顔に火ぶくれを持つじょごと、足を怪我したお吟が、東慶寺に駆け込んでくるが…」 駆け込んできた女たちをめぐるエピソードは、なるほど、なんだけど。全体の流れがいまいち、こなれてなくて、いささかぎくしゃく。もうちょっとスムーズなつながりというか、腑に落ちる消化の仕方で展開していけば、かなりよくなったかも。構成とか脚本がまだ練られていないからではないかと思う。 その脚本だけど、セリフ廻しに難解なところが少なくない。ひょっとしたら原案・井上ひさしの言い回しをそのままもってきているのかも。江戸時代に使われていた用語や言い回しが生で使われていて、聞いただけでは分からないところが少なくない。どころか、文字で見えても説明がないと分からないようなのもある。時代背景や人物名の同様だ。しかも、セリフがすべてクリアに聞こえるわけでもない。江戸の雰囲気が伝わればいい、という思い切りもあるのかも知れない。人物名や説明の字幕をあえて入れていないのも、そういうことかも知れない。 ところが、セリフのところどころに現代的な言い回しが混じったりするので、なんだよ、な気分になるところもあったりする。さらに、看板の文字などが、現代かなの表記で、万葉仮名ではない。とくに、じょご が薬草園のデータを書き留めてある部分など、現在の小学生が筆で書いたような文字で。あれはないだろう。読めても読めなくても構わないのだから、下手なりに万葉仮名で見せればよいものをしていない。 江戸の空気感をだそうと試みているのかも知れないけど、あちこち杜撰でほころんでいて、いまいち安っぽい。あのあたりの加減をもうちょっと見る人がいると、きっと違った趣きになったんじゃにいのかな。とても惜しい。 駆け込みのシステムは、なんとなく分かった。ただし、駆け込んでからしばらくは柏屋にいなくてはならない、というのが「?」だよな。とくに、お吟とじょご は一緒に駆け込んだのに、お吟はさっさと寺の中に入ってしまう。金の力で寺内の格も買えてしまうのかよ。なんだかな。 でそのお吟の駆け込んだ理由は、妾としての縁を切りたいというもので。そんなのあるのかよ、と思っていたら最後に、死の病に犯された病気の自分の姿を旦那である堀切屋に見せたくなかったから、と分かるんだけど。そのために縁切り寺に駆け込む必要があるのか? ないと思う。それに、江戸と鎌倉。近いとはいえ、届けを出さないと行き来はできないと思うんだが…。 じょご の駆け込んだ理由は、亭主のDVなんだけど。これも、だったら逃げろよ、な感じ。で、亭主が酒乱で賭場が好きで暴力男。ときて、ダメな男かと思ったら、2年後にやってきたら改心して地道に鉄練り家業に邁進している…という変わりよう。心変わりしたのはなぜなんだ? なところに説得力が足りない。 よく分からなかったのが、吉原から身代わりでどうたらという女で。そのいきさつをセリフでだだだっと手短に話すので、理解する前に話がどんどん進んでしまい、え? え? え? だった。あれは分かりにくいよ。ただし、女の姉だか妹が、鯵売りとして近くから見守っていた、という種明かしはちょっと泣かせるものがある。それだけに、ちゃんと分かるように説明して欲しかった。 道場の娘の戸賀崎ゆうは、最初、内山理名とは分からず。途中から、あれ? 内山理名がいるけど、道場の娘はどこにいった? と思っていたら、なんだ、彼女が道場の娘役か。もっとぷっくりしてた印象だったのが、結構しまって凛々しかったので、誤解した。しかし、彼女の亭主との関係もなんかむりくりな感じで。あんな無茶な道場破りがいるものかね。藤岡屋日記なんかに事例があるのか? で、2年後も彼女に執心の亭主というのもよく分からない。あの酒乱の乱暴亭主は、道場の乗っ取りが目的ではなかったの? 彼女が目当て? だったら、そういう横恋慕の経緯もあるといいのに。あと、ゴロツキといえど道場主になったのなら、鎌倉くんだりまで出張して大道芸みたいに腕を披露しなくてもいいだろうに。というか、あそこでボコボコにされていた侍たちは、どこの侍なんだ? それと。2年後に繰り出してきた亭主を、最終的に仕留めたのは、たしかじょご だったような…。なぜ戸賀崎ゆうではないのか。納得がいかない。 あともうひとり、途中からでてきて、じょご と信次郎の仲に嫉妬し、想像妊娠する おゆき がいるけど、とってつけたような騒動で。信次郎が想像妊娠を治療(?)するシーンも、いまいち大がかりなわりに、「?」だったりした。 柏屋の存在は、まあなんとか理解したけど。警固というか管理してる武士=役人が1人だけ、というのはどうなんだ? 実際そうなのか? それと、もっとも肝心なのが、信次郎と三代目柏屋源兵衛との関係で。甥叔母の関係らしいけど、何の説明もないので、いまいち重みがない。そもそも信次郎は冒頭で、天明の奢侈禁止令をおちょくる戯れ歌を声高にして役人に追われる、という場面からいきなりの東慶寺である。題名とも関係するけど、駆出し男とは信次郎のことだと思うけれど、彼も駆け込んだわけではないのか。いったい何のために彼は東慶寺にやって来たのだ? だって、幼少の頃しか叔母に会ってなかったんだろ? いまいち分からない。では、信次郎はどこに駆けだして行ったのだ? 良く分からない。※駆け出しの戯作者、だそーである。ふーん。 さらについでにいえば、お吟とじょご が駆け込もうとしていたそのとき、追っ手と間違われて殴られる、というのが信次郎で。なぜにお吟は追っ手と思い込んだのか。よく分からない。 信次郎が馬琴のことをあれこれ言い、信奉しているのは理解した。が、彼が医学を身につけている、というのが突然でてきて。これも、えええ? な話で。やっぱり事前になにか振ってくれよ、と思う。 あとは…。お吟の男である堀切屋か。お吟は妾、ということは、堀切屋には正妻がいたのか? いないのか。では妾ではなく、女というわけだ。その関係を切る、というのも変な話で。やっぱ、よく分からない。さらに、表向きは豪商だけど、実は大泥棒だった、というオチもいまいち意外性が足りない。いや、堀切屋の描き方が薄っぺらというか、人間的に足りないのだよ。何をした人物か、というようなこともだけど。あと、冒頭近くで自宅で文人らしいのを集めて寿司をたべたりこっそり贅沢してるんだけど。そこに登場する でんでん が、エンドクレジットで為永春水と知るんだけど。見えないよ。というか、登場しているときに、戯作者だと分かるような描き方をしなくちゃダメだろ。 あと、気になったのは玉虫という両手首のない女で。なぜそうなったのか、は分からない。しかも、鳥居耀蔵の命令で東慶寺に潜入するんだが。そういう仕事をするようになった背景とか、うっすらとでも感じられるようにして欲しいものだ。ついでにいえば、鳥居耀蔵が東慶寺潰しにでた理由も、はっきりしているわけではない。どう都合がわるかったのか。そこらもないと、説得力に欠ける。さらに、東慶寺の住職?の尼さんの秘密を探ろうと隠し部屋に入ったら…そこにマリア像を発見。自分も隠れキリシタンの家に育ったからと、「この寺に置いてくれ…!」と簡単に寝返ってしまうのには呆れてものが言えなかった。こういうのは、ある程度仕込んでおいて、おお! と唸らせないとなあ。この映画でいうと鯵売りの一件みたいに。 で、後半も押し詰まって「水野と鳥居は落ちた」とセリフにあるのだけれど、実体としての絵がない。2人が失脚したのなら、東慶寺を潰す計画はどうなったのか? と、フツーは疑問に思う。なのに水野と鳥居の失脚は、最後の字幕で知らされるのみ。それって順序が逆だろ。 役者はそれぞれよくて、いい感じなんだけど。柏屋の利平・木場勝己、お勝・キムラ緑子、戸賀崎ゆうのゴロツキ亭主・松岡哲永あたりがいい。あと、東慶寺の尼僧たちの何人かは実際に頭を丸めているらしいのに好感。 それと。最後に曲亭馬琴とでてきて。あれ、滝沢馬琴じゃなかったっけ? と思ったんだが。Wikipediaを見たら「滝沢馬琴の名でも知られるが、これは明治以降に流布した表記である。現在確認できる限り本人は滝沢(瀧澤)馬琴という筆名は用いていない」とあった。なるほど。 | ||||
悪党に粛清を | 7/6 | 新宿武蔵野館3 | 監督/クリスチャン・レヴリング | 脚本/アナス・トマス・イェンセン、クリスチャン・レヴリング |
原題は“The Salvation”。デンマーク/イギリス/南アフリカ。allcinemaのあらすじは「1870年代アメリカ。デンマークから新天地を求めてアメリカへとやって来た元兵士のジョン。7年が経ち、事業もようやく軌道に乗ってきたところで、祖国から妻子を呼び寄せる。駅で感動の再会を果たした3人は、さっそく駅馬車で家へと向かう。ところが運悪く、その馬車には刑務所帰りのならず者2人が乗り合わせていた。ジョンは2人に突き落とされ、妻子を殺されてしまう。ジョンは必死に馬車の後を追い、2人を射殺し復讐を遂げる。しかし殺された犯人の兄が、辺り一帯を牛耳る大悪党、デラルー大佐だったことから、ジョンの行く手にはさらなる試練が待ち受けていた」 西部劇である。ところが製作はデンマーク/イギリス/南アフリカ。でも、マカロニウエスタンみたいな全編アクションじゃない。デンマークの役者を使って、デンマーク移民の話としてつくられている。中味は典型的な復讐劇。あちこちからの引用があるんだろう。オープニングのふらふらするカメラとか、つづく駅馬車の中の密室劇、さらに夜の静謐なブルーの感じとか、物語をじつくり語るようなところもあって、なかなか渋い。カメラワークも雰囲気も、かなり毛色の変わったウェスタンになっていた。とくに、息子と妻を殺され、立ち上がる部分などは、感情を押し殺したような重さに満ちている。アメリカ映画なら音楽が派手に鳴りまくり、テンションがあがるところだ。 でも中盤からはアメリカ映画的な西部のホコリっぽさとか、じりじり焼ける感じとか、見えてくるのは、これはロケだからか。マカロニウェスタンの影響もありそう。そして後半にかけての銃撃戦なんかになると、アメリカ製とあんまり変わらなくなる。 はっきり言って、オリジナリティはない。どれも、既存の、あちこちから引用したような設定・エピソードの集積。してい、オーソドックスな復讐劇。だけど製作がデンマーク・英・南アなので、主人公はデンマーク移民ということになっている。戦争で負けて国が疲弊し、それでアメリカにやって来た、とか言っていた。1860年頃にドイツと戦ったりしているのか、デンマークは。※調べたらシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争で、相手はプロイセン。領土をめぐる戦いのようだ。第一次(1848〜52)と第二次(1852)があり、最終的にプロイセンが勝利したようだ。 ジョンは、兄ピーターと渡米。7年後、ジョンは故国から妻と息子を呼び寄せる。が、乗り合わせた駅馬車に、出所したばかりのならず者2人が乗り合わせ、ジョンは放り出されてしまう。後を追う道すがら、息子の遺骸を見つけ、停止している駅馬車にたどり着いてみれば、御者も殺されている…。ジョンは御者のライフルで2人を撃ち殺すが、妻も変わり果てた姿に…。という冒頭は、見るからにそうなるだろう、という展開であまり気持ちのいいものではなかった。それと、仇を討ってしまって、これからどうやって悪党に粛清を加えるのかと思ったら…。 ジョンが殺した2人のうちのひとりは、地元の悪党、デラルーの弟で、このデラルー一家が弟の仇を討つ、という展開になる。…でね。↑のあらすじを見て、デラルーは“大佐”であると初めて知ったんだが。どういう大佐なんだ? 騎兵隊の大佐? いやだって、デラルー一家は、無法者悪党集団にしか見えなかったんだが…。 で。殺した弟の妻が、唖のマデリン(エヴァ・グリーン)で。どうやらインディアンに舌を切られたのを救って自分の女にしたらしい。 この映画のキモは、町の連中の不甲斐なさ、なんだろうと思う。デラルーが町にやって来て、「犯人を捕まえろ。さもなければ代わりに町の何人かを差し出せ」的なことをいい、市長を困らせるんだけど、逮捕するのはムリと早々に言ってしまい、身代わりを差し出すことになるのは、戦争映画のドイツ物とかによくある話だ。こういう無理難題をふっかけ、人を殺したいだけの男がいたかどうか知らないけど、いかにも映画的。この手の二者択一難題は、バットマンでもあったな。 で、デラルーはあっさりと町の老婆と歩けない男を殺し、こんなんじゃ1人分にもならんと、近くにいた壮年男子も殺してしまう。こうやって絵に描いたような悪党が描かれるんだけど、そもそもデラルーはあとから分かるけどビジネスマンで。動物のように弱い者をいたぶり殺す必要なんかないのにな、とか思ったりするんだが。 で、牧師で保安官の男、棺桶屋で不動産屋で市長の男なんか、まるっきりデラルーに反論できず、言いなりになってる。なので、経緯は感づいていながら、一同みんなでジョンとピーターを逮捕し、ジョンをデラルーに差し出してしまう。すでに町のボディガード料を払っていながら、この体たらくは、世相を反映して面白い。悪徳警官、悪徳市長がギャングとつるんでいて、私利私欲のため市民を犠牲にする、って話だ。そこに、スーパーヒーローが現れるのだから、バットマンの世界だぜ。 で。デラルーに捕まってたジョンをピーターが救い出すけど、すぐに発見され、ピーターが殺され、ジョンは何日かの癒しの日々を過ごす…あたりは、これはもう『用心棒』だ。役割は違うけど棺桶屋が出てくるのも、似てる。あとは、夫をデラルー殺された夫人に助けられ、回復したジョンがデラルーのアジトに潜入し、ほぼ1人で相手を皆殺しにするというのが後半のハイライト。ま、老婆を殺された雑貨屋の孫も一枚噛むんだけど、早々に殺されてしまうというのは気の毒。なんとか彼も生きながらえさせてやりたい気がするけれど、まあ、しょうがない。 唖のマデリンはデラルーの女にさせられるんだけど、本心では兄弟ともに大嫌い。でも、刃向かえなかったんだろう。最後はジョンとともにマデリン退治に加わって、一緒に西に向かう、という終わり方だった。数日前に妻と息子を殺された男が、仇の女とともに西に旅立つ、というのはどうかと思うんだけど。すべてを失った男と、解放された女が結ばれるというのは西部劇の定型だから、しょうがない。 で、背景として描かれているのが、油田開発なのだ。デラルーとマデリンが、どっかの紳士に土地の権利書を売ってる場面で、そうだろうなと分かったけれど、やっぱりそうだった。市長が近在の土地を買い上げ、それをデラルー経由で石油会社が買い上げていた、ということらしい。デラルーが強気で悪事を働いていたのも、土地所有者を怖じけさせ、売って別の土地に行かせるためだったんだろう。でも、そのあたりのカラクリが、うまく描かれていたとは思わない。 とくに、ラストでカメラが引いていくと、そこは油田基地だったというオチなんだけど、井戸の櫓を見れば誰だって「なんだ?」「油田か」と思うだろう。そうすれば、いくら無知な町の人でも、デラルーの思惑は分かったと思うんだが。あの、保安官と市長は、知らずにデラルーの金儲けを手伝っていたんだろうか。それとも、分かっていながら、いやいや手伝っていた? ううむ。よく分からん。 | ||||
天の茶助 | 7/8 | ヒューマンとラストシネマ渋谷シアター3 | 監督/SABU | 脚本/SABU |
allcinemaのあらすじは「天界では、数え切れないほど多くの脚本家が下界の人間一人ひとりの“人生のシナリオ”を書いていた。下界の人々はそのシナリオ通りに人生を送っていたのだった。茶助は、そんな脚本家たちに茶を配る天界の茶番頭。ある日、茶助が気に掛けていた口のきけない可憐な女性・新城ユリが、彼の不用意な発言が原因で交通事故死する運命に陥ってしまう。そこで自ら下界に舞い降り、ユリを助けてしまおうと大胆不敵な行動に出る茶助だったが」 最近見たうちでは『脳内ポイズンベリー』が似たような設定で。あれはそこそこ面白かったんだけど、こっちは人間ドラマが薄っぺらなので、つまらなかった。退屈で、途中、数分寝てしまった。ボーッとしてた時間も長い。だからあまりよく覚えていない。 冒頭の、天界でシナリオを書いている現場は、中国の僧坊みたいな感じで古くさい。で、ここで、地上の人間の運命をあれこれ話している場面はほとんど落語の世界にあって、似たような小咄は多い。で、地上の何人かを紹介しつつ、茶助がユリを助けに地上に落ちるんだが。簡単過ぎるだろ。フツー、そういうのは許されないけれど、そこまで入れ込む何があったのか? が描けてないから感情移入できないし、説得力がない。 第一、茶助は、哀しい運命の人間なんかつくりたくない、と思っているはず。なのに、天界の何人かの脚本家は、哀しい運命を描いているわけで。その矛盾について心を痛めたことは亡いのか? 後に下界で茶助は、難病で苦しむ人を助けるのだけれど、それを下界でせずに、天界ですりゃあいいだろうに。なぜしない? と思うと、もう話がつまらなくなってくる。 で、茶助が下界に落ちたところが、沖縄?の商店街の祭?のまっただ中で。茶助が右往左往するんだけど、このシーンがムダに長い。だいたい、ボロボロの服を着た男が演舞のただ中に迷い込んできたら、フツー人はどういう反応するよ? ボーッと見てるか? ところがこの映画は見てるんだよな。アホか。 なぜ茶助はユリにぞっこんなのか? なぜ場所は沖縄なのか? が分からない。もしかしてあの天界は、沖縄のある一角だけを担当する部署なのか? とか思っちゃうよな。 でまあ種田(大杉漣)に救われたのは、種田のシナリオを書いている仲間の差し金らしいが。こうしてユリの知り合いである彦村(伊勢谷友介)とも知り合って、ユリが事故死する直前にいたカラオケ屋に行くんだが満室で。そこで彦村が旧知の男に絡まれ、さらに白塗りの警官が登場して茶助を撃ったりしている間にユリを轢いた男が出て行ってしまう…という。しかし、白塗り警官に撃たれた男はどうなったんだ? 騒ぎにはならんのか? ユリを轢いた男…あの男の行く末はどうなったか、描かれてなかったよな。たぶん…。あと、男と一緒にいた彼女の行く末も…。このあたりが杜撰。 慌てて走る茶助。3分でたどり着く、とかいってたけど。まあ、この走る場面はSABUの専売特許だからまあいいとして。道路にいたユリを突き飛ばした、けど、立ち上がったところを一緒にはねられて…2人とも病院送り。なんだけど、その運転していた男の行く末は、どうなったんだ? というか、ユリの運命を変えようとして、変えられなかった、ということか。では、はねた男の運命はどうなったんだ? とかいう疑問には応えてくれないのだよな。 さて。茶助の心電図は動いてなかったような気がするんだけど、でも立ち上がり。あれはどこへ行ったんだっけ。記憶がぼんやり。 彦村がチンピラをボコボコにしたり、茶助がボクシングジムに行ってヤクザのボス(寺島進)の指を切り落としたり…というか、念力でボスの力をコントロールし、自分で切り落とすようにしたんだが。え? 茶助はたんなる茶坊主ではなく、パワーが使えるのか? とかなんとかやってて。どういう経緯だったか忘れたけど、しばらくたって、ユリが生きている、ということを知るのだよ。ということは、それまで、ユリは死んでしまった、と思い込んでいたわけだ。なんだかな。 ところが。茶助はなぜか人道主義的な心があって、たまたま見かけた車椅子の少年に手かざしして歩けるようにしてしまう。これが一般に知られることになり、種田の家の前は長い行列が。…なんだけど、一介の茶坊主にそういうパワーがなぜあるのか、よく分からない。で、回復したユリもそこで手伝いを始めるんだが、パワーを使うとゲロを吐くというよくあるパターンで疲労困憊の茶助だけど、それで命が短くなるとかの設定がないので、なんか緊迫感がない。 さて、この辺りで茶助とユリの恋物語がはじけるかと思いきや、せいぜいが近くにいるユリに気をとられる、ぐらいが関の山であまり盛り上がらない。 この後のテレビ出演。司会者チャーリー・ポン(田口浩正)との出会いもありきたり。まあなぜって、種田や彦村、ポンたちの哀しい生い立ちは簡単なイメージで紹介されるか言葉で繰り返される程度で、迫ってこないんだよね。ドラマがない。 ドラマがない代わりに、つまらない表面的な技巧で見せようとしたりする。スローモーション、ガタガタと動く画像、ざらざらと荒れた画質…。ぜんぜんスタイリッシュでも美しくもない。つまらん。飽きる。 あー。あと。茶助が身を削って手かざししてるのに、並んでる人から「いつになるのか」「早くしろ」と罵声を浴びるというのは、これもよくある展開で、いまいち、だからどうした、な話。ほんと、手垢の付いた話とかエピソードばかりなんだよな。 で、さいごは。ヤクザのボスがメンツでやとったスナイパーと、白塗り男、白塗り警官に襲われ、ユリと茶助が撃たれるんだった。誰が誰を撃ったのかとか、よく覚えてないけど、まあいい。 しかし、ヤクザのボスの執拗さはなんなんだ? 意味があるのか? あと、白塗りの2人は、天界から派遣された連中? いやその。茶助が下界でしたい放題で、天界は大混乱、だと思うんだけど、その混乱ぶりがまったく描かれないのだよ。で、あの白塗りは、誰が何の目的で送り込んだのか? 天界の脚本家が、怒って茶助を暗殺に? それは上長の指示なのか? それとも個人的に脚本をいじられた恨み? てなことも分からない。さらに、ひとつ運命を変えると他に波及して大混乱、ということは言葉で表されていても、具体的には描かれていない。そのあたりも隔靴掻痒。 で、実は茶助はかつて一度死んだ人間だった、ということが明らかになるんだけど、そういう元ヤクザの死人がなぜに天界で茶坊主になれるのか、ということも「はてな」なまま。しかも、自分も撃たれながら、同じように撃たれたユリを再び生き返らせる。死んだ? と思ったユリは、出なかった声を絞り出して茶助を呼ぶんだけど、これはいったい何なんだ? ユリの思いが声を出させ、茶助を生き返らせた? てかさ、茶助の手かざしのパワーで、ユリの声を出させることはできなかったのかよ。まあ、茶助が生き返ったのはユリの思いじゃなくて、きっと致命傷ではなかった、ってことなんだろうけど。なんていうスーパーマンぶり! なんか、ご都合主義で貫かれた話で、あくびがでてしょうがなかったよ。 最後は、茶助は天界に戻らず、地上で生きて死ぬ運命を選んだ、とかいうことで、ラストはにこやかにユリとてをつないで歩いているって…おいおい。 ・茶助とユリが運ばれたのは、サマリア人病院…。気の毒な人、とでもいうことか。 ・そういえば全体に宗教臭が強かったが、原因はなんだろう。教祖誕生? 背中に羽根、というのもよくあるパターンだけど、あえて西洋の天使スタイルを貫く理由はなんなのかね。たんなるシンボル=記号なのか? ・彦村の生い立ちは、ホームレス女の息子で、父親は多すぎて誰なのか分からんらしい。で、サッカー少年(『少林サッカー』か? 次はボクシング『あしたのジョー』、彼女ができたら『ゴースト』のろくろ回し、船旅に出たら『タイタニック』ごっこ…。 ・ポンの母親はスリで、映画館で殺された? その母親の恰好が『恋する惑星』の前半みたいな金髪。でも、映画『グロリア』を意識していたとかいっていたけど。…てな小ネタは苦笑してしまうが、それだけなんだよな。最後までは続かない。 ・茶助の妹で、高知弁を話す妹がちょっとでてきた。玉城ティナというらしい。濃い顔だけど、可愛かった。でも、エピソードの回収はなく、一場面だけ。…ってな感じのシーンが多いな、この映画。 ・伊勢谷友介が「出生」を「しゅっせい」と2回ぐらい言っていたのが気になってしまった。 | ||||
ストレイヤーズ・クロニクル | 7/10 | シネ・リーブル池袋2 | 監督/瀬々敬久 | 脚本/喜安浩平、瀬々敬久 |
allcinemaのあらすじは「1990年代初め、ある極秘機関による実験によって進化した特殊能力を持つ子どもたちが誕生した。彼らはその特殊能力の代償として若くして死んでしまう宿命にあった。成長した彼らは“超視覚”を持つ昂をリーダーとするチームを組み、互いに強い絆で結ばれていた。ある日、そんな彼らの前に、“アゲハ”と名乗る別の特殊能力者チームが現われる。学をリーダーとする彼らは、自らの宿命に絶望し、全てを破壊しようと目論んでいた。未来への希望を持ち続ける昂たちは、アゲハを阻止すべく立ち上がるが…」 思わせぶりな冒頭の葬式シーン→どこかの令嬢の救出→アゲハとの接触…あたりまでは、まあなんとか耐えた。そのうち面白くなるんだろう、と。しかし、以降も淡々と静かにあーだこーだつぶやいているだけで、いまいち盛り上がらない。最大の要因は、対立軸がない、というか、曖昧すぎるからだ。Wikipediaのあらすじに倣っていうと、スバルチームとアゲハの対立かと思いきや、どーもアゲハの意図が分かりかねる。目が合えば殺し合うというわけでもなく、なあなあでやりとりしていたりする。では、スバルの目指すところはなんなのだ? が、これまた良く分からない。いろいろ良く分からないままスバルとアゲハが殺し合ったりしているところも、なんかもやもやするだけで、一向にテンションが上がらない。なんなんだ、このシナリオは。 そもそも1990年代だっけかに、妊婦(?)に刺戟を与えたグループと、遺伝子操作によって生まれたグループがいて・・・っていう説明が簡単すぎてよく分からん。それって、誰がどういう目的でやったわけ? そういう倫理的に許されないことを、誰が如何にして行い得たのか、というところに、すでに説得力がない。さらに、彼らが20歳前後になって、スバルは渡?の管理下にあるみたいだけど、アゲハは自立しているという。しかも、渡?は誘拐された娘の救出にスバルを利用している。実験結果である彼らを危険にさらしたり放置したりって、在り得んだろ。アホか。 そういえば、映画では渡?は官僚になっていて(と思うんだが)、老政治家・大曽根の配下となって動いていたようなんだが。Wikipediaでは渡?は野党の若手政治家となってる。少し変えてあるのか。でも、あんまり関係ない。なぜって、映画の中の渡?の思惑とか、大曽根の狙いとか、さっぱり分からないから。 てな感じで延々、アゲハとスバルの対立構造のようなもので話が進んでいくんだけど、この2チームが対立する必然性がどこにも見当たらない。なぜアゲハが突然スバルと接触してきたのか? いや、その前に。アゲハは殺人事件を頻繁に行い、アゲハチョウのカードなんかばらまいているのか? その背景や意図が分からないと、対立構造にはならないんだよな、実は。 だから、中盤にアゲハとスバルが戦い、いがみ合って、死んでいくことへの同情もない。というか、そもそも感情移入できる人物がどこにもないんだから困ったものである。 そんなこんなの隔靴掻痒。ラストに近づくに従ってアゲハのメンバーはどんどん脱落というか死んでいって。ここにきてやっとスバルの対立軸が渡?であることが分かるんだが。その根拠がまたテキトー過ぎるというかなんというか。なんなんだ。 どうやら渡?は過去に幼い子供を失っていて、さらに妻に自殺されているという。それとどういう関係があるのか知らないが、渡?はアゲハのリーダー学の感染力に期待したらしい。学が死ぬと、なんか知らん感染が起こり、8割の人間が死ぬ。残り2割は新たな人類として生き残る。その2割に期待をかけるといっているのだけれど、なんでなの? 意図的にある種の感染に耐性のある人類を残し、人類の未来を託すという意味が分からない。そもそも自分が2割に入るかどうか分からない。っていうか、そんな試練を与える必要性がどこにある? どこにもない。 さらに不思議なのは、SWATみたいな部隊が渡?の言いなりになり、アゲハを殲滅することだ。彼らの狙いは、学の死? ところで、その結果もたらされることは、知らされているのか? SWATみたいな部隊の隊長もいたけど、分かっとんのか、こら!? だよな。 で。なんと、感染を防ぐには生きたまま焼却しなくてはならないという、わけの分からん条件がついていて。重傷を負った学は自ら指示し、ガソリンをかけて死ぬことになるんだが。生体のまま焼かないと感染するとかいうへんなルールは、どこに説得力があるんだい? やれやれ。 重傷で死ぬ、という条件下での出来事だったけど。いずれ学も寿命がきて死ぬ運命だったんだろ。死期を早め、そのせいで感染の危機を回避できた、というわけだな。 てな次第で、話自体がつまらなくて、説得力もないものだから、ずううっと退屈だった。もうちょいと映画として見られる話に練り上げろよ。という話である。 ・講演会乗っ取りテロの犯人は、単なる反原発テロ? それにしても、あんな講演会をねらうかね。 ・アゲハは自立して生きてきた? どうゃって金を稼いできたんだ? 戸籍は? 家族は? どうやってやってきたんだ! ・講演会に登場したガイジン研究者がアゲハ発想の元か? このガイジンをアゲハが殺す理由は何なんだ? 意味不明。では、スバルの方の発想、というか研究者は誰なんだ? ・まあ、中高生が役者めあてに見に行くような映画だな。あほらし。 | ||||
ターミネーター:新起動/ジェニシス | 7/14 | 109シネマズ木場シアター1 | 監督/アラン・テイラー | 脚本/レータ・カログリディス、パトリック・ルシエ |
原題は“Terminator Genisys”。Genisysはgenesisのもじりで、創世記のことだとさ。allcinemaのあらすじは「2029年、機械軍との壮絶な戦いを繰り広げていた人類は、抵抗軍のリーダー、ジョン・コナーの活躍により劣勢を挽回、ついに勝利を手にしようとしていた。追い詰められた機械軍は、ジョンが存在した事実そのものを消し去るため、殺人サイボーグ、ターミネーターを1984年に送り込み、ジョンの母サラ・コナーの抹殺を図る。これを阻止するため、抵抗軍側はジョン・コナーの右腕カイル・リースが自ら志願して過去へ向う。ところが1984年に辿り着いたカイルは、いきなり新型ターミネーターT-1000に襲われる。その窮地を救ったのは、タフな女戦士サラ・コナーと敵のはずのターミネーターT-800だった。実はこの世界は、既にカイルの知る過去とは別のタイムラインを進んでいたのだった」 ううむ。最初の方は、おさらいみたいな感じ。その後の、タイムワープ後のあれやこれやも、なんか全体に同じような話。なので、なんかデジャヴな感じ。どこが新しいんだ? 二番煎じじゃん。変わったところといえば… ・若いシュワルツェネッガーのターミネーターが登場すること。顔をCGで合成してるんだろうけど。 ・なんと、息子のジョン・コナーが敵になるという仰天の展開だけど、“衝撃の”感がさっぱりなくて、さらりとあっさり過ぎていってしまうという不思議感。「ええええ?」より「ん?」な戸惑いしなかった。 ・元々のターミネーター=シュワルツェネッガーの皮膚が老化するというトンデモ設定で。68歳のシュワちゃんがそのまま活躍するという強引な設定! ・そのシュワちゃん。現在、笑いを自己特訓中という設定で、笑わせてくれる。 ・新サラ・コナーは黒髪で、胸はでかそうだけど、むしろ小太りぽっちゃりさん。ミシェル・ロドリゲスの毒気を抜いたような感じ。イモ姉ちゃんだな。 ・アクションは、この手の映画では当然のCGの連続で、つまらない。とくにヤマ場のCGアクションは退屈で、寝おちしかけた。なので、後半のストーリーは、よく覚えてないところがある。 カイルが1984年に送られた直後、ジョン・コナーが襲われたみたいな映像は、ありゃなんなんだ? よく分からん。 さて。カイルが1984年に行くと、すでに過去は変わっていて、サラ・コナーと旧型ターミネーターのシュワちゃんが待ち受けていた。で、とくにターミネーターのファンでもないので、T-800とかT-1000とか言われてもよく分からんのだよな。ははは。最初は若いシュワちゃん(T-800)が出てきて、老人シュワちゃんと戦うんだけど、この経緯がよく分からない。シリーズをちゃんと見て覚えてれば分かるのかね。次に、液体化するT-1000(イ・ピョンホン)に襲われ、あれやこれやして。T-1000は、サラとT-800が仕掛けておいた薬液にやられて溶けてしまう、だったかな。 このあとだっけか。サラは1994年に行こうとするんだけど、カイルが「2重の記憶が…」とか主張して、2017年に行くことになるのがよく分からない。なにが2重の記憶、なんだ? カイルの少年の日の想い出に、そんなにあったっけ? で、サラとカイルは素っ裸で2017年に行くんだけど。このシーン、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を思わせるね。なんか。で、高速道路に転送されて、警官に捕まってしまう。そこで出会うのが、なんとジョン・コナーで。2人を逃がしてくれるんだけど、なんと、細胞レベルでどうたらされてターミネーターになってしまった、とかいうんだけど。セリフだけで経過がよく分からない。しかも、なぜ2017年にいるのだ? どうも、この時代はスカイネットがあらゆるものをスカイネットOSで動けるようにした元年らしく、ジョンはそのスカイネット社の重要人物でもあるらしい。 笑っちゃうのは、MRIが登場したことで。ジョンはその磁力で身体が細胞レベルでバラバラになったりすることなんだよな。それでも死なないけど。 ふるサイトに「ジョンはカイルを送り届けたときにスカイネットに襲われ、人体感染型ナノマシン製のターミネーターに作り替えられてしまっていた」と書いているんだけど、たしかこれセリフでぱぱぱっと説明されただけで、こちらは何のことやら呆気。「?」だった。これはこの映画の最重要ポイントなんだから、もっとちゃんと説得力のある見せ方をしてくれないとなあ。 その後は、この新型ターミネーター、ジョン・コナーと、T-800シュワちゃんとのおっ駆けっこというか攻防戦で。CG満載なので飽きてしまって眠くなり、よく覚えていない。最後は、シュワちゃんとジョン・コナーがタイムマシンに乗り、転送される直前にシュワちゃんが逃げ出し、ジョン・コナーは転送しきれず分解されたとかいう話ではなかったかな。 正直に行って、半分以下しか理解できていないかも知れない。T1、T2の経緯もあまり覚えてないし、そこに時制の問題があり、カイルの記憶やサラ・コナーの思いでも混じって、混乱の極み。でも、まあいいや。 ・カイルの幼い日の記憶では、「ジェネシスはスカイネット」という言葉が印象に残っていて、それは2017年に成人したカイルが少年カイルにつたえた言葉なんだけど。2017年の時点でサラ・コナーは生き延び、これから青年カイルと恋に落ちてジョン・コナーが生まれるんだとしたら、問題はないわけで。「ジェネシスはスカイネット」と教え込む必要はないんじゃないのか? というか、この時点でジェニシスを崩壊させた(のだよな?)のであれば、サラ・コナーがジョン・コナーを生む必要もなくなるんじゃないのか? ・ジェニシスがスカイネットにならないのだとしたら(そうなのか?)、では、この後に誕生するジョン・コナーは、何になるんだ? ただの凡人? ・まあ、ラストに赤いタマが光っていて、ジェニシスは叩きつぶされてはいない、生きながらえている、というイメージがあるんだけど。でも、それは結果論で。そのことをカイルもサラ・コナーも知らないのだよな? ・とはいえ、最近は、AIの進化が話題になっていて。いつ、人間をを超えるのか、なんて話もでている。そういう意味では、AIの進化を先取りしてたのだろうけど。 ・しかし、ジョン・コナーまで敵になってしまって、なんか、わけが分からん。 ・そういえば、少女のサラ・コナーを救い、以後、彼女の父親代わりとなってきたT-800シュワちゃんは、T1に登場して、後にプログラムを変えて善人になったT-800とは違う個体なのか? よく分からない。 ・しかし、「過去を変えて何とかしよう」というなら、ある特定の時代でドタバタしないで、もっと大量に、いろんな時代に刺客を送り込んでいけば何とかなるよなあ。なんか、映画の話の都合でむりくりやってるようにしか思えんのだがなあ。 | ||||
0.5ミリ | 7/15 | ギンレイホール | 監督/安藤桃子 | 脚本/安藤桃子 |
allcinemaのあらすじは「天涯孤独な介護ヘルパー山岸サワは、派遣先の家で思わぬトラブルに巻き込まれ仕事をクビになってしまう。いきなり住むところを失い、おまけに一文無しで途方に暮れるサワ。しかし、カラオケ店の受付でまごつく老人を見つけるや、強引に同室となって楽しく一夜を過ごす。その次に出会ったのは、駐輪場の自転車を次々とパンクさせている老人、茂。サワは優しく声を掛けつつ無理やり家に上がり込むと、得意のヘルパー仕事で世話を焼き始める。最初は警戒していた茂もプロの技に癒され、いつしか心を開いていく。その後も行く先々で老人の弱みを握っては、生きるために“おしかけヘルパー”をしていくサワだったが…」 つまらなくはない。おおむね5つのエピソードの、4つはひょうひょう、ゆったり、のんびりしつつ、ユーモアもあって笑える。けど、芯が足りない。そもそも、主人公の得体が分からなさすぎる。介護士として相当のキャリアがあり、料理もアジをさばいて味醂干しにできるぐらい長けている。知恵も働く。ある種の、正義感もある。なのに、同世代・同性の友だちがひとりもいない。しかも、家族や血縁がまるでない。 事件を起こして介護士の職をクビになり、寮も追い出される。で、考えたのが、老人、しかも、ジジイの弱点につけこみ、同居するだけという、極めて悪質性の低いサギまがいの行為。ジジイの遺産やなんかは、ハナから関心がない。同居する以外は、とても真面目で親身な介護士。いったいこの女、何者? 不思議なのが、ターゲットがババアでなくジジイだということ。なぜなんだ? たぶん、映画的に面白いから、という理由だけではないかな。 こういう基本的なところがすっぽり抜け落ちているから、話にリアリティがない。つまり、説得力がない。困ったものである。 舞台は高知。一昨年行った、ひろめ市場や市電が出てきて、すぐ分かった。 第1話/某家の奥さん(木内みどり)からサワが、「おじいちゃん(織本順吉)と添い寝してやって」と頼まれるが、夜中、ジイさんに襲われストーブの火が…。階下に逃げると奥さん(木内みどり)は首をつってて、それを息子マコトが無言で見てる…。の結果、サワはクビになり路頭に迷う。 これ、第5話とつながる話なんだけど、話は面白くてもツメが甘い。まず、翌日、警察から解放されたようなんだけど、この時点で警察が「クビになっちゃったね」とかいってる。サワは警察からカート一つで出てくるんだけど、そうはいかんだろ。寮の荷物はどう整理したんだ? それとも、あれこれ整理して尋問されて、数日後、のことなのか? そこが曖昧。あとは、この家の奥さんの自死と息子のことだけど、これは第5話で言及するかね。 第2話/第1話のつづきでもいいんだけど。カラオケ屋に泊まろうと店員と押し問答してるジイさんを利用して、一緒に部屋へ。女性同伴が安いのを利用して一泊なんとかする話。このジジイやってる井上達夫がしみじみ良かった。のだけど、警察を出てすぐ、サワはATMから数万円引き出してるんだよな。金はないわけではない。ならば、ATMのシーンなど要らんだろ。で、このジイさんは、家では子供たちが遺産相続でやりあってるので、それを見たくないので出てきた、という設定。とんでもなく不幸というわけでもないのかな。よくある感じだよな。こんな話は。 第3話/高知郊外? 公園で体操し、街をうろつき、自転車を盗んだりしてる、元自動車整備工のジイさん=坂田利夫との話。坂田がタイヤをパンクさせてるところを目撃し、「警察に言う」と脅し、住みつくんだけど。坂田は一人暮らし。家は、戸建てで整備スペースもあるんだけど、借りてるのか自分のものか。自分の土地なら資産家だし、賃貸なら家賃が不安なはず。なのに働かないのはなぜなんだ? まだ十分働けるだろうに。自転車泥棒やパンクは、癖なのか? 何かの仕返し? 金も1千万ため込んで、クルマも1台もってる。不満なんてないだろうに、なぜだ? いろいろ、まったく意味不明。 そんな坂田に、透視サギのベンガルが接近。2倍、3倍にしてやる、というのを信じ込んでる。それを阻止し、ベンガルの背後にヤクザがいることを分からせるんだが。この話もいろいろ「?」。「友だちがいない自分を大切にしてくれるのは、彼だけ」というんだけど、オレオレ詐欺の類に引っかかるようには見えないんだよな、この坂田。「彼だけが友だち」というなら、以前はどういう付き合いがあったのか? そんなことないだろ。つい最近、どっかで知り合ったんだろ? 温泉ランドとかいってたっけ。友だちがいないから? いくらでもいそうな感じに見えるが、いないのは本人のせいだろ。 さらに、1千万で老後は安心、なことはない。これに国民年金足しても、年に300万使ったら少なすぎるほどだ。1千万が2千万になっても足りんだろ。で、サワが連絡先に電話すると、ヤクザまがいに対応されるって、おいおい。そんなマヌケな詐欺があるかよ。さらに、詐欺と分かって直後、坂田の運転するクルマでどこかへたどり着くんだが。実は、坂田はどっかの大金持ちで…というオチかと思ったら、なんと老人ホームに入所するという話だった。おいおい。1千万で入れるようなところは、ないぞ。話のつくりが杜撰すぎ。 サワは、坂田が盗んだ自転車を返させたり、正義感ぶりを発揮するんだが。エピソードとしては面白いところもあるけど、ほとんど意味がないよな。というか、10台以上も、どこで盗んだのかよく覚えているな。と、そこに感心してしまった。 第4話/サワは坂田にクルマをもらって、また高知周辺。ショッピングモールで、エロ本を万引きしようとする津川雅彦を脅し、家に上がり込む。津川には寝たきりの老妻・草笛光子がいて、週3日やってくるヘルパー角替和枝がいる。このパートがいちばん長いけど、長いわりに大して中味がない。要は、どこかで教えていると称してちょくちょく外出し、そこらで時間を潰して帰ってくる、元教師という設定だ。資産家で土地もあるけど、子供はいないらしい。あとは日常的なあれこれを描いて、それはそれで面白いところはあるけど、たんにエピソード。 この話、最後の方で妙な具合になってくるのは、いまひとつ納得がいかない。突然、清掃反対みたいなことをぶつぶつ言いだして、ここで「0.5ミリ」が出てくるんだけど、反対する力というのは、個人個人のわずかな力の集合で、それは0.5ミリぐらいのなんたらかんたら…とかいう話だった。でその話が同じ所をぐるぐると回り出すのは、ああそうか、痴呆症だったのか、と分かるんだけど。それまでまったく兆候が描かれないので、突然すぎる。まあ、ヘルパー角替えが「ご自分の病気が」とか言ってたけど、分かるわけがない。 さらに、突然に姪・浅田美代子がやってきて、叔父と住むという。角替えが「愛人にのっとられる」と連絡して、のことらしいが。それはそれで正しいとは思うけれど、姪の浅田は、強引にサワを追い出す風でもないのが違和感ありまくり。本心はどうなんだ。ズケズケ言ってくれた方が、腑に落ちるよなあ。 あと、分からんのが草笛の症状で。両手は動くから脳梗塞とかではないんだろう。声もでる。老衰? 津川は従軍していたという設定だから、90歳以上ということで、草笛は80〜85という感じ? どうも、なんのために寝たきり老妻を登場させたのか、意味不明。だって、老妻の世話で疲れ果てて、とかいうことではないんだろ? 第5話/というわけで、追われるように津川の屋敷をでて…見たような少年がいるのに気づく。第1話の家の息子が、駄菓子屋で万引き食いしている。接近してクルマに乗せ、家に連れていけ、と着いたところは実父の家。なるほど。あの奥さんは離婚して実父と息子との3人住まいだったのか。え? あんな立派な一戸建てに? では、妻の家に暮らしていたけど、出ていった、ということか。それにしても、専業主婦みたいな感じだったけど、木内奥さん。 父親・柄本明は、息子が生まれる前に出て行った、だから息子とは会ったことがなかった、という。仕事は、廃品回収で、明け方でかけ、帰ってくると酒を飲んで寝る、の毎日。マコトはあいかわらず口をきかず、でも個室はないから2階でごろ寝。その一角にサワも布団を与えられ、おさんどんの毎日…。ある日、柄本とマコトが取っ組み合い。「根性を入れ直してやる」とかいって暴力的に押さえつけて髪を切るんだけど、意味不明。柄本は、マコトにどういう子供になって欲しいのか? よく分からない。 そのうちマコトが「女?」なメイクに変わっていて、サワが埠頭で経血を認める。ふーん。な話だけど。ではその裏に何があるのか、これもよく分からない。というか、思わせぶりなだけで、何もないような気がする。柄本が「お前には片岡の血しか流れてない」とか言ってたところをみると…。柄本は片岡家に婿養子に入った。けど、すぐに家をでていった。片岡老人(織本)と娘(木内)は実の父娘で関係をもち、マコトが生まれた。どういう理由か、木内はマコトを途中から男として育てた。それを柄本は知っていた。 …ということなんだろうけど、子供ができた時点で堕ろせよ。だいたい柄本のような男と木内が結婚した理由が分からない。柄本が出ていったのは、木内と織本の奇妙な関係を感じ取ったからなのか? マコトはその事実を知っていた…可能性は低いと思う。が、なぜ木内はマコトを男として育てたのか? マコトが織本の関心の対象になるのを懼れたから? あるいは、自分のライバルになるのを回避するため? 木内が織本を慕っていたのなら、織本の余命はわずかだからと、サワに添い寝を頼むのは不自然。このところ織本に冷たくされ、織本がサワを求めたので、それに従った? かし、その夜に自死したのはなぜなんだ? 織本が他の女と寝ていることが許せなかったから? よく分からない。 木内は、サワに「母の形見なの」と赤いネグリジェ(?)だかワンピースだかを着せる。それは、かつては白だったけれど、母親が亡くなった後木内が染めたものだ。あのネグリジェは、織本の“女”が代々着るものだった…ということか。色を染めたのは、代替わりした、という主張? そのワンピースを、整理ナプキンや化粧品とともにマコトに与え、着せる。これはどういうことの象徴なんだろう。読めない。 で、つまりは最後に、サワはマコトをクルマに乗せ、柄本のところを去って行くところで終わるんだが。柄本はマコトの頭をなでて送り出す…ぐらいなら、少しはやさしくしてやればいいのに。というか、柄本はマコトが女だ、って知ってたのか? 取っ組み合ってりゃ、分かるはずだよな。知らなかったとしたら、アホ。 で、ラストになっても別になにも解決していないし、ほとんど何も変わっていないわけで。老人問題の、しかも、男にとっての高齢化の問題をだらだら面白おかしく描いていてるだけで、他人事としてしか見ていないように感じられる。でも別に、メッセージ映画にしろ、といっているわけではないよ。だから、なに? 的な感じというのかね。ちっとも心には響いてこなかった、ということだ。 最初の話から、次の井上達夫の話辺りまで、間延びした演出がイラついた。要らないシーンが多いし、カット尻も長い。けれど、坂田利夫の中盤ぐらいからあまり気にならなくなった。とはいえ、振り返ってみると要らないシーンは多くて、ガツン、というドラマもほとんどない。これを2時間余りに切れない監督は、潔くない。だいたい観客は、このペースや尺を期待してないし。45分ドラマ×4回のテレビ化の方がよかったような気もしないでもない。それにしても196分はムダに長すぎるだろ。 | ||||
うまれる ずっと、いっしょ。 | 7/18 | 谷中防災コミュニティセンター・多目的ホール | 監督/豪田トモ | 撮影/豪田トモ |
allcinemaの解説は「出産にまつわる様々なドラマを見つめた「うまれる」の豪田トモ監督が、今度は家族をめぐる生と死の物語を、それぞれに事情を抱えた3組の家族を通して描いたドキュメンタリー」 端的にいうと、きれいごとを並べただけ、な、計算されたドキュメンタリーな感じ。この程度で感動できるのか? 泣けるのか? 作為的であざといつくりに、わざとらしい嘘くささしか感じなかった。 もちろん、登場する3組の夫婦は本物で、起こっていることも事実だろう。でも、事実の一部だけをつないで、すべてを肯定的にとらえるようなやり方に、疑問を感じてしまう。これは撮る側について、であるが、撮られる側にもなんか違和感を覚えてしまった。なんか、セリフでも読んでるみたいな会話、つぶやき。いつもニコニコと元気に、何の問題もないみたいに強く生きています的な姿に、ほんとかなあ? と首を傾げてしまわざるを得なかった。本音を隠してはいないいか? 立派な自分を演じようとはしていないか? というような勘ぐりをしてしまう。素直な観客ではないが、致し方ない。そう感じてしまったのだから。 3組の夫婦が登場する。 ひとつは、妻の連れ子との関係に悩む父親。息子は自分を実父と思っている。彼の心を傷つけたくない。でも、黙っていて、あとで知られると、もっと傷つく。いつ打ち明けようか…と。って、そんなの大して悩むようなこっちゃないだろ。ありふれてるし。だいいち件の父親の母親も離婚していて、再婚相手は外国人。最初のうちは反発したけど、いまは仲がいい…らしい。だったらなおさら、さらっといえばいい。なのに、わざわざ日を選んだり手紙を書いて読んだりなんだのかんだの。アホかと思う。 この父親が、心に思っていることを大きな声で、またセリフみたいに言うのがわざとらしくて、嘘くさい。ほんとに悩んでるように見えないんだよな。 それと。いま子供は5歳ぐらいだからベタベタしてるけど、あと数年したら手も握らなくなるし、一緒に遊ぶこともなくなる。そうなったときの父親の思いとか、子供の気持ちの方が興味がある。実父への興味も湧いてくるわけで、もしかしたら義父である父親に反発してるかも知れない。そのあたりを想像すると、果たして…と思うのだよね。 父親は、フラダンスでウクレレを弾いて稼いでいるのか? 奥さんは年上で、働いているのかいないのか。もうひとり子供が欲しいからと不妊治療をし、体外受精が成功する。そして、生むのが帝王切開と、さらりと紹介されたところにギョッとした。アメリカでは多いというけれど、どうもそれは効率的だからのようだ。日本では進んでする人は少ないと思う。必要があってそうしたのか、彼女の意志なのか、そのあたりに興味がある。その方が楽だから? 知りたい。 この母親が、浅黒くエキゾチックな顔立ちで、ちょっと服部マコみたいな印象。驚いたのは、彼女、帝王切開の手術室内で、つけまつげをしていたことだな。あれは、すっぴんを見せたくない、ということではないか。勘ぐってしまう。 そういえば、父親の義父(外国人)は登場するけど、実母が出てこない。たとえば本人が出たくないといったとか、別の理由があるとか…。意図的に出さないのであれば、その理由に関心が向いてしまうのだが…。 あと、気になったのは、最初の妊娠は流産だったのか、その遺灰が家のなかに、雑貨なんかと一緒のカゴに入っていて、名前もつけているのだけれど、戒名などはついていないようだ。いまどきのスタイルなのかも知れないけど、なんか、気になってしまった。 次は、妻(65歳没)を失った夫の話。なのであるが、なんと亡くなる前日のシーンが最初にあったりして。ええっ? なのだ。しかも、病気が分かったのは1年前…ってことは、そういう方を選んで、そういう時期に撮り始めたわけで。でも、はるか昔に撮られた8mmフィルムとか写真いがいに、元気に動いている姿はないというのは、告知されてから密着するようになった、わけだ。そしたら、すぐ亡くなった…。なんかな。 妻は、そのシーンで、これまで生きられたことに感謝し、もうすぐ生まれそうな孫のことも思いつつ、笑顔でしか写っていない。もちろん、なくなるシーンやその直後の場面はない。次は葬儀である。 このパートは、夫婦、というより、夫に焦点が当たっていて、妻への思いが溢れている、ということを訴えようとしているの。たとえば部屋には妻の写真があって、食事するときもテーブルに持ってきて遺影と向かい合って食べている…。うわ! そんな人、いるのか! 本心か? 演技じゃないの? と勘ぐってしまう。いや、本当に妻を愛し、互いに尊敬し合っていたのかも知れない。けれど、もしかしたらスタッフと話しているうちに、なんとなく持ち上げられ、焚きつけられ、その気になってしまった…ということはないのだろうか? と。 不思議なことがある。この夫。葬儀のときはどうだったかはっきり覚えてないんだけど、妻が亡くなると突然、顎髭を伸ばしはじめ、ちゃんと手入れして、ヒゲを蓄えるようになっているのだ。これは心境の変化なのか? もしそれが妻への思いの結果であるなら言及があるべきだけれど、ない。もしかして、妻から解放されて自由になったから、とか、ないんだろうか? もうひとつ。亡くなって1年たってからだったか、その前か。これまたバイクに乗り始めるのだ。昔から乗っていたらしいけど、60過ぎて…年は分からないけど、妻より上なら65以上ということになるが…で、老人ライダー。それ自体はいい。不思議なのは、妻生前は後ろに乗せて一緒に走っていたらしいんだが、まず、その写真がでてこない。あと、新たにハーレーを買うシーンが出てくること。あれま。今までのバイクはどうしたんだ? あるけど、ハーレーを買ったのか?それとも、いったんは売り払ってバイク乗りはやめたけど、またぞろ乗り出したってことか? しかし、ハーレーかよ。車種にもよるけど、200万ぐらいするんだろ。それが買える身分って、どういう蓄え、あるいは年金、あるいは資産家なんだよ。まあ、それはいいけど。このバイクもまた、もしかして、妻から解放された自由さが現れていないか? と勘ぐってしまうのだよなあ。 娘が2人のようで、孫も何人かいる様子。娘2人と亭主たちと孫、その他の人が集まってる場面もあるんだけど、外孫だからなあ。そんなにしょっちゅう構ってもらえないんじゃないのか? ふだんはひとりで、どうやって時間をつぶしているのか知らないけど、スクリーンの中の姿みたいに張り切ってない、かも知れないよなあ。とか、思ってしまった。 最後は、18トリソミーという不治の病の息子をもつ夫婦。この病気では、1年育たない可能性が高いという。それでも生んだ夫婦の話だ。それを偉いというか、素晴らしいというか、なんとも言えない。映画では、息子の虎ちゃんは笑顔も見せてくれて、そのシーンは感動的だけれど、それ以外の場面での母親の元気さが異常で、疲れないのか? 本心か? と思ってしまう。 もし18トリソミーの子ができた、と告げられたらどうするか。たぶん、生まない。本人にとっても、自分たちにとっても、周囲にとっても、それがいちばん負担が重くないだろうから。で、そう判断することは、それほど間違っていないと思う。もちろん、生む、という判断も、個人の自由なので、それも間違いではない。が、しかし。あっけなく死んでしまうであろう命を育てることに、はたしてどれほどの意味と価値があるのか。ある、という人もいるだろうけど、それはその人の価値基準。そうすればいい。というわけで、この夫婦はそうしたのだろう。 映画は、虎ちゃんが危篤状態に陥ったけど回復したり、鼻から以外に口から食事をし始める様子、反応して笑顔を見せるシーンなど、肯定的な場面が並び、一見、感動的だけど。おそらく、そういうのは長い経過時間の中でも、わずかな期間であって、それを集めるとこの映画のようになる、のではないだろうか。元気はつらつな態度で楽天的にすら見える妻には、疲れ果て、絶望的で投げやりになるようなことはなかったのか? そういうこともありながら、その中から光明を見出すように、信じて育てている、というようなつくりになっていれば、まだ感想は違っていたかも知れない。 虎ちゃんは、自力では両手両足は動かせない。たいていは、妻が抱いて世話をしている。24時間らしい。下世話な話だけれど、この手の難病に、どれぐらいの補助がつくのだろうか。あるいは、旦那さんの職業は何だろうか。どうやって生計を立て、治療費に充てているのだろうか、と、考えてしまう。 虎ちゃんは、なんと5歳の誕生日を迎える。でも、様子はかつてと同じ。笑顔を見せるとこは多くなっていて、手で信号を送ることもできるようだ。だからこそ知りたいのは、彼はどんなことを思っているのか、ということだ。両親の言葉の意味が分かっているのか? もししゃべれれば、原語で思いを伝えることはできるのだろうか? それがかなうならば、いのま気持ちを聞いてみたい。 そしてもうひとつ。この夫婦は、第2子をつくってはいない。これはどういうことなのだろう。もしかして、当初は1年ぐらいで虎ちゃんが亡くなり、その後で考えよう、というようなことだったのだろうか。もしそうだとしたら、計画が狂っている、というようなことはないのだろうか。そうではなく、2人は育てられない、ということなのだろうか。はたまた、次子の発生率が高いから? とか、18トリソミーについて知らないので、あれこれ考えてしまった。 まあ、18トリソミーの子供をもつ方にとっては失礼な、不遜なことを書いているけれど、正直なところなので仕方がない。手放しで、凄い、とか、がんばってる、とかは言えないのだよね。 まあ、この手の子供を授かったら、負けまい、と強気で生きることが大切なんだろうけど。それにつぶされないように、これからも生きていって欲しいものである。虎ちゃんの笑顔は、ほんとうに感動的だったから、そう思う。 | ||||
海のふた | 7/23 | 新宿武蔵野館3 | 監督/豊島圭介 | 脚本/黒沢久子 |
allcinemaのあらすじは「西伊豆の小さな町に久々に帰郷したまり。彼女は偶然再会した元カレに、寂れてしまったこの町でかき氷屋を始めると宣言する。さっそく準備に取りかかるまり。そんなある日、母親が大学時代の友人の娘“はじめちゃん”を預かることになり、しばらくの間いっしょに暮らすことに。彼女は顔に火傷の痕が残り、大切な人を亡くしたばかりで、心にも傷を抱えていた。一方、開店準備が進むかき氷屋だったが、メニューはなんと、糖蜜、みかん水、エスプレッソだけ。自分が本当にいいと思えるものだけしか出したくないというこだわりを貫いた結果だった。そしていよいよ、念願のかき氷屋をオープンさせるまりだったが…」 『かもめ食堂』の類似商品のような話ではあるが、とくに脱力系ではない。出てくるのは落ちこぼればかり。都会になじめなず帰郷してロハス志向なかき氷屋を始めるマリ、祖母が亡くなり、でも兄弟が遺産の分割を求めたので家を売ることになって心を痛めているらしいハジメちゃん、田舎で酒屋をつづけていたけど借金苦でどうにもならず夜逃げするオサム。この3人が同年代で、あとはマリの両親がでてくるぐらい。夢がありそうで、でも実は絶望ばかりの、おとぎ話だった。あんなかき氷屋で、大丈夫なわけないだろ。アホか。 まず、舞台がどこか、で「?」。マリは船で帰っていく。じゃ島か? ハジメちゃんも船でゃって来る。島か。が、オサム一家は、クルマで夜逃げする。島のどこへ? 半島の先の、かろうじて道路はあるけど、公共交通がなくて、船でしか行けないようなところなのか? そういえば、島とは思えない内陸風の、山に囲まれた田園風景なんかも登場してたなあ…。では、観光客はバスで来る? 船で来る? と思っていたら、ハジメちゃんが去って行く船に「沼津港発1周30分クルーズ」とか書いてあるではないか?! なに、そこは沼津? じゃなくて沼津からやってくる船の帰港地? 大島か? いや、伊豆半島の反対側だよな、沼津は。よくわかんねえ。…と思ったら、↑のあらすじに「「西伊豆の小さな町」とか書いている。ああ。わかんねえ。いや、舞台の設定がこんな曖昧じゃ、ダメだと思うよ、基本的に。そこに気が行ってしまう。それじゃダメだろ。 あ、西伊豆といえば、つい最近起こった「動物よけの電気柵付近で7人が感電し、男性2人が死亡した事故」の現場ではないか…。おお。 マリは、舞台美術の会社を辞めて帰郷。なぜ、かき氷屋を始めようと決めたのは、分からない。たぶん、原作がそうだからで、近ごろ、かき氷がブームだから、だけだろう。すでにもう、説得力がない。空き家を見つけ、舞台美術での経験を活かして図面を引いたりノコギリとげんのうを駆使し、ひとりで店を開いてしまう。舞台美術のどこが肌に合わなかったのか、意味不明…。 フツーなら、地元にいる同級生とか、たとえばオサムとかが手伝うようなことがあってもいいと思うんだが、彼女にはオサム以外にひとりも友人がいないみたい。そんな田舎によく戻ってくるよな。 サトウキビから糖蜜、オレンジ(?)からミカン味のシロップをつくり、開店するけど閑古鳥。ってPRもなにもしないんだから当たり前だろ。そもそも、どうやってシロップ作りを習ったんだ? シロップ作りは念入りに絵で見せるのに、氷については蘊蓄がまったくないのは、なぜなんだ? ていうか、どこから仕入れてるんだ? 海路で? 陸路で? 疑問だらけ。※監修は「埜庵」でたので調べたら、かき氷では有名店らしい。谷中にも、ひみつ堂という行列のできる、かき氷屋があるけど、それより古いようだ。ふーん。かき氷ブームに乗っかっただけみたいな映画だな。 そんなマリに絡んでくるのがハジメちゃんで。この存在もいまいちよく分からない。彼女は幼いときの火事のせいで左頬と胸辺りに痣があるんだけど、それを気にしているようには見えない。たとえば客の青年が痣をからかっても平気でいる。では、どうして心が折られ、マリの母親が預かることになったのか? どうも年老いた祖母をマリの両親が世話していたが、祖母が亡くなり、叔父叔母などが平等の遺産相続を要求。家を売ることになった、という話だけで、それ以上のことは分からない。まあ、よくある相続のトラブルで、そんなことでハジメちゃんの心が折れるはずがないと思うんだが…。もうひとつ、ハジメちゃんにはつき合っていた人がいて、でも彼は動物の仕事の関係(?)でアフリカに行ってしまった…。ということがあるようだけど、捨てられたとか、痣のせいで、とかいうことはまったく言われていない。しかも、最後には「アフリカに行って見ようと思う」とマリに告げて帰っていくのだから、それなりの覚悟も意志もあるわけで。いったい、なにをくよくよしていたのか、さっぱり分からない。 ハジメちゃんが好きな曲、というのがでてきて、そこに「海のふた」という言葉も出て来ていたと思うけど、歌詞なんてちゃんと聞いてないから、よく分からんよ。歌詞を聴いて、あと、ハジメちゃんのセリフを反芻すれば、分かるのかいな? あとは、オサムか。 郷里の街並みを見て「観光客がいなくなった」「むかしは栄えていたのに」とこぼすマリに、オサムは「そんなことを言うな。お前がいたころから傾いていた。観光客だって、上の方にはいる。お前のオヤジのホテルは満員で賑わっている」と反論する。これ、とても重要なんだけど、あまり深入りしないのが残念だよな。要は、港側にある昔風の旅館や民宿は寂れたけれど、台地側(?)にある近代的なリゾート地帯は客がきている、ということなんだろう。すると、港側は船での行き来、台地側は道路が開通して交通の便がいい、のかも知れない。幹線道路から台地側へは人が来るけれど、旧繁華街だった港側まで、人は足を伸ばさなくなった。そういう状況は10年以上前からあった。…ということなのだろう。 マリの父親は、その台地にあるホテルで働いているのか。収入には困らない、のかな。母親も働いているようだけど、これも観光関連? ある意味では、開発側のしもべになって、生活している、ということだ。そんななかで、オサムの家は昔からの酒屋で、旧市街の人たちを相手に商売をしているから、売上は減る一方。借金もかさんで、夜逃げするしかなくなった、ということなのかも知れない。 夜逃げしようとするオサムを引き留め「行くな。ダメだ。がんばれ」と叫ぶんだけど、振り切られてしまう。って、この場面は、あまりにもマリの勝手が目立ちすぎで、お前なあ、な気分になったんだが。よく考えれば、マリの両親は開発側に尻尾を振って稼ぎを得ているけれど、オサムのところはそういう恩恵にも預かれていない。ということがマリに分かっていれば、引き留めるなんていうことはできないだろう。世間知らずの、子供じみた、たんなる身勝手。もしマリが、ロハスな店を自力で、と思うなら、まず実家を出ないと説得力はないよな。 いまいち物足りないのは、最初の客が誰だったのかとか、次に来たのは誰で、どういう具合に見せの評判が広がっていったか…というのが描かれていないところ。親子連れが来たけど、イチゴがないからと帰ってしまったり、オサムの知り合いのオッサンが何人か入ったのと、そんぐらい? 最後は、イチゴシロップを開発して、ちょっと黒っぽいけどイチゴ味もできた、というシーンで。店にいるのは子供たちが4、5人。ってことは、地元の連中だけってことか。観光客は来ていない。 氷が1杯500円で、20人来たって1万円の売上。経費が半分として、周に24日開けても、月に12万の純利益だ。人の少ない田舎町で冬にかき氷は有り得ないから、まあ、開店休業だろう。こんなんで、田舎で、かき氷屋なんで、、成立せんだろ。 そういえば、開店してしばらくして、「チェーン展開をしないか」と男がやってくるんだが。まだ客も大してきていないのに、「シロップが話題で、ぜひチェーン化を…」と提案してくるんだけど。大繁盛して人手が間に合わない、とかいうならまだしも、あんなんでチェーン店もないだろ。アホか。 かき氷。話題の店に入ったこともないし、まして冬に食べたこともない。自然なシロップがいいともとくに思わない。登場してきた少女の、赤いイチゴがいい、というのは支持できる感想だな。自然なモノからつくったものがいい、とも限らない。たとえイチゴのエキスが一滴も入っていなくて、それがケミカルであっても、イチゴの赤とメロンの緑が日本の正しい夏な感じがしてしまう。 | ||||
フレンチアルプスで起きたこと | 7/24 | ヒューマンとラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/リューベン・オストルンド | 脚本/リューベン・オストルンド |
スウェーデン/デンマーク/フランス/ノルウェー映画。原題は“Force Majeure”。「不可抗力」というような意味らしい。allcinemaのあらすじは「フレンチアルプスの高級リゾートにスキー・バカンスにやって来たスウェーデンの一家4人。いつも仕事で忙しい父親のトマスは、ここぞとばかりに家族サービスに精を出す。ところが2日目、テラスレストランで昼食をとっていた一家を不測の事態が襲う。スキー場が起こした人工雪崩が、予想を超えた規模に成長しながらテラスへ向かってきたのだ。幸い大事には至らなかったが、その時トマスは、妻と2人の子どもを置き去りにして、自分だけで逃げ出してしまったのだ。何事もなかったかのように、その場を取り繕うトマスだったが、妻のエバはおろか子どもたちの目もごまかすことはできなかった。以来、家族の中には不穏な空気が漂い、楽しいはずのバカンスが一転して息詰まる修羅場の様相を見せ始め、次第に追い詰められていくトマスだったが…」 何語か分からなかったけど、どうやらスウェーデン語みたい。そんなことも知らずに見に行くなって? いいんだよ。 突然のことに仰天し、家族をほったらかしで逃げちゃった…。落語にでてくるのは、この手のいい加減なオヤジばっかりだよ。それ見て子供は「父ちゃんの意気地なし」って蔑み、女房は「役立たずだよ、うちの宿六は」ってバカにして、亭主は恥ずかしげに薄ら笑い。しっかり女房が屋台骨を支える、な笑い話になるようなことが、彼の地では夫婦関係にキズが入り、家庭も陥るとはね。彼の地の男の役割って、大変だねえ。 男たるもの家族のリーダーとして外敵に立ち向かい、弱い妻や子供を捨て身になって助けなくてはならない…。っていう思想が、一般家庭にも当たり前のようにあるのだね。一方では男女平等とかいってるのに、リスク管理の責務は男が負わなくてはならない。なんか、それって不平等だろ、とか思ってしまった。 日頃から偉そうにしていて、「男たるもの」と蘊蓄を重ねていた、というようなオヤジがああなった、ならなんとなく分かる。でも、この亭主は、仕事中毒なフツーのオッサンだ。スキーもやるけど、でも、たぶん文化系。体力に自信があるようにも見えない。気が弱くて臆病な男なんかいくらでもいるわけで、一律に「男は」っていわれてもなあ、な気がしちゃうのだよね。 女房も「こんな男だったのね」で、家庭内バランスを調整して対処すればいい話しで。なのに、スキー場で知り合ったカップルを招待し、宴たけなわなところで、「聞いてくれる。うちの亭主がね、雪崩のときに自分から先に逃げちゃったのよね」って、大して知りもしない他人に実状を打ち明けるというのも、なんだかな。ここまでしつこいか。そういえば、その前には、同じくスキー場で知り合った女性にも同じようなことを打ち明けていた。なんか、他人の評価を聞いて、自分の力にしようとしているようで、やな感じ。 まあ、亭主の方も、さっさと「いやー、悪かった。父ちゃん、慌てちゃって。逃げちゃって悪かった」ってゴメンしちゃえばよかったのに。それができない。彼の地は、たとえ自分が間違っていても正当化=言い訳する、という文化だからなあ。 よく日本が「建て前」の文化だと言われるけど、彼の地の方が、「建て前」を並べることが多いよなあ、むしろ。でもって、簡単に「本音」を吐露して、なあなあで誤魔化しちゃう。日本の家庭は女房がいちばん強くて、亭主はアゴで使われている、というような類型化もよく言われるけど、そういう傾向は、確かにあるんだろうと思う。その意味で、日本は「建て前」の家父長制、亭主関白はあるけれど、内実=「本音」では、カカア天下なんだろうなあ。それで日本の家庭とか夫婦関係は上手くいってんだろう。その意味では、男に対するプレッシャーは少ないわけで、男が暮らしやすいのかな。 映画は、↑の事件しか起きないので、単純といえば単純そのもの。大半はスキー場の風景とかホテルの中とか、知り合った人との会話とか。なかで、リフトとか人口雪崩のための爆発音とか、淡々とでも、たんなる風景としてでなく、不思議な感覚で撮られ、インサートされる映像が面白かった。 女房エバが知り合ったある女性は、亭主や子供はいるけど1人でリゾートにやってきて、男を引っかけて楽しんでいて、これにはエバもムキになって批判めいたことを言うんだけど、軽くいなされてしまう。ってことは、エバの考えは彼の地でも保守的、伝統的な考えってことなんだろうか。 もうひと組は、ヒゲの中年男性と20歳ぐらいの女の子で、男には離婚した(?)妻と子があるみたい。このカップルもラジカルに見えるけど、ひょっとしたらスウェーデンでは一般的な部類なのかも知れない。彼女におちょくられ、ムキになって論理的に説得したりするところを見ると、大学の先生と教え子みたいな関係か? さて。父親が逃げたことは2人の子供も敏感に感じ取って、いっきに軽蔑されたみたい。でも、あまりに母親が父親をねちねち責めるのを見て、幼い少年は「別れないで」と父親に言うところなんかは、不破をも感じ取ってるわけで。きっと周囲には両親が離婚した例がゴマンとあるんだろう。 最後は、女房の絶対にあきらめない攻撃に亭主も降参。「俺は意気地無しなんだ。そういう性格なんだ。そういう自分自身も嫌いだ!」と号泣することになるんだが、翌日の少し吹雪いているゲレンデでの女房の遭難、そして、亭主が救い出すというエピソードは、まあ、ヤラセだろう。女房が遭難したフリをして、亭主がその話にのった、のか。あるいは前夜に女房が提案し、亭主がむりやり従わされたのか、どちらか分からないけど、そうやって子供たちの前で「父親」の権威と頼りがいのあるところをカタチとして見せなくては、家庭も維持できなかった、のだろう。ああ、めんどくせえ。 で、帰路のバス。くねくね道を、運転手がうまくコントロール出来ず、よたよた運転。あまりのことにエバが「降りる」と言いだすと、1人を除いて全員が降車し、歩いて下っていくことになるんだが、一様にみな表情が暗い。亭主は息子のを手を握っている。エバは、疲れた娘をヒゲ男に託すんだが、なぜ亭主ではなくヒゲ男に? な疑問。心の中では、頼りにならない、と思っているということなんだろうか。 ところで、降りなかった1人は、エバが知り合った浮気女で。たぶん彼女は危険な人生を選択し、おそらく無事に下山したんだろう。いっぽうの他の面々は、リスクは避けたけど、果たしてそれで良かったのか? 「あのまま乗ってても、大丈夫じゃなかったのか?」と、悶々としながら歩いているという感じ。 | ||||
ビッグ・アイズ | 7/28 | ギンレイホール | 監督/ティム・バートン | 脚本/スコット・アレクサンダー、ラリー・カラゼウスキー |
原題も“Big Eyes”。allcinemaのあらすじは「1958年。離婚を決意したマーガレットは、幼い娘ジェーンを連れて家を飛び出す。女手一つで娘を育てるため、サンフランシスコのノースビーチで似顔絵描きを始めたマーガレット。彼女はそこで口が上手く社交的な男性ウォルター・キーンと出会い、結婚する。ある日、マーガレットの描く瞳の大きな子どもの絵が、ひょんなことから世間の注目を集めるようになる。するとウォルターは、その“ビッグ・アイズ”を自分の絵と偽り売りまくる。それを知り抗議するマーガレットだったが、口八丁手八丁のウォルターにまんまと言いくるめられてしまう。以来、世間にもてはやされるウォルターの陰で、黙々と絵を描き続けるマーガレットだったが…」 オープニングの、芝生の広がる、同じような家が並ぶ住宅地のショットなんて、『シザーハンズ』そのまま。変わらんねえ。 まあ、つまらなくはないけど、意外性とか驚きのようなものは感じなかった。なぜかっていうと、マーガレットがバカすぎるから。そもそもウォルターみたいな口八丁な野郎と出会って恋に落ち、結婚しちゃうことからして、アホだろ。あとから分かるけど、ウォルターは“絵描き”と称していたけど、実はまったく描けない人間だった。他人の絵に自分のサインを水彩で上書きし、それをノミの市で売ってたりしたわけだ。底が浅すぎだろ。フツーなら「どういう絵を描くの」とかいう話になるだろうし、一緒に暮らしてるのに、自称絵描きの亭主が絵を描いている姿を見ない、ということに疑問を抱かない、ということからしてマーガレットはアホ。 さらに。自分の絵をキーンという亭主名義で売られるようになっても、不満は抱きつつも了承し、影の作者として絵を量産しつつけるのが、アホなんじゃないか? 始めは「金のため」「我慢してくれ」とかいわれ、でも不満を口に出すと威圧的な態度に豹変するウォルター。なんでその威圧に耐えているのか理解不能。だって、マーガレットが描かなければ商売はあがったりなんだから、力関係ではマーガレットの方が強いはずではないか。なのに、どうしてマーガレットは強気に出ないのか? ほんと分からない。 映画的な演出なのかも知れないけど、こういったことが気にかかってしまって、少しイライラした。だって、ウォルターと再婚後、絵を描いている姿を実娘にも見せない生活なんて、有り得ないだろう? 思うにマーガレットは、ダメ男に惹かれるタイプの女性なんだろう。最初の亭主もDVで、それが嫌で娘と逃げ出してきたわけだし。次に会ったのがウォルターで、簡単に手玉に取られてる。まあ、ダメ男に虐げられる生活を潜在意識で望んでいるような性格。だれかを支配するより、支配されることを望んでいる…。それが、この映画のようなお話になってしまったんだな、きっと。そういう性格心理って、実際にあるみたいだしな。 まあ、虚言癖の御調子野郎ウォルターにとって、マーガレットはいいカモだった、と。で、やっぱりマーガレットは耐えきれず、またまた娘と逃亡のシーンは最初のシーンと同じような映像になってるんだけど、こういうくり返しは監督のお好みなんだろう。娘曰く「着替えもないのに」というぐらいの突然なんだけど、どういうわけかハワイに行けたのは、誰が資金をもっていたんだ? 友人にでも借りたのか? 彼の地での生活の基盤も、どっから資金が? という疑問は残るんだよな。 で、どうやらマーガレットから離婚要求を出したらしく、1年ぐらいしてウォルターから返事の電話が来て。「離婚してやってもいいが、すべての絵の権利をよこせ。それと、ビッグ・アイズの絵を●(数は忘れた)枚描け」と言われ、それにしたがうというのが、これまた理解不能。「やだ」っていえばいいのに…。 てなところで、たまたまやってきたエホバの証人の信者になったらしく。それによって自意識が目覚め、ウォルターと対決しようと決断するに至った、みたいな感じなんだけど。宗教にはそういう力もあるのかいな。変なの。で、ハワイで裁判することになって。これはマーガレットが訴えたのかな。なんかドタバタしていて、よく分からんのだが。何を争ったんだ? ウォルターの弁護士が、裁判官から早々に退席を求められてしまう過程もよく分からなかった。マーガレットが、あの作品はウォルターのもの、と証言したという記事を大量に提出したようだけど、「虚偽」だかなんかで認められなかったんだよな。よく分からん。 この辺りで、もう、イラつくのは、描かせれば分かるだろ、ということだった。ところがウォルターが弁護士と証人をひとり芝居したりするバカなシーンがあったり、なんかな…。でも、結局は最後に裁判官が法廷内で1時間以内に絵を描くように要求し、当然ながらウォルターはまったく描けず、マーガレットの勝利。とはいえ、どういう勝利なのか、よく分からず。 というような話で。エンドロールで、ウォルターは一文無しになって2000年に死去、いっぽうのマーガレットは健在で現在も絵を描いている、と分かる。 あとからWebで調べたら、この映画がきっかけなのか、現在のマーガレットや、1970年代のハワイでの映像がいくつかでてきて、なるほど。でも、ビッグ・アイズの絵がどういう評価なのかは、よく分からず。映画に登場した評論家は「ゴミ。通信教育で学んだイラストレベル」とかいうような評価だったけど。まあ、ファッションアートの類であることは間違いないと思うんだが。 でも、冒頭で、ウォーホルが、一定の評価を示していたけどな。あと、ウォルターも、「ウォーホルより先にやった」とかなんとか言ってる場面もあったけど、あれは何を指して現代アートの先駆けと言っているんだろう。よく分からない。 興味深かったのは、原画を買えない客のために複製ポスターを制作し、それを商売にした嚆矢だったということ。このことかな、ウォーホルよりも先、というのは。 ときどき入るナレーション…。誰? と思っていたら、記者だったみたい。もしかして原作者ということなのか? なんか中途半端な使い方だな。 | ||||
はじまりのうた | 7/28 | ギンレイホール | 監督/ジョン・カーニー | 脚本/ジョン・カーニー |
原題は“Begin Again”。allcinemaのあらすじは「音楽プロデューサーのダン。かつては人気ミュージシャンを次々と発掘し、ヒットを飛ばしてきた彼だったが、すっかり時代に取り残され、ついには自分が設立したレコード会社をクビになってしまう。失意のまま飲み明かし、酔いつぶれて辿り着いたバーで、ふと耳に飛び込んできた女性の歌声に心を奪われる。小さなステージで歌を披露していたのは、シンガー・ソングライターのグレタ。ブレイクしたミュージシャンの恋人デイヴに裏切られて別れたばかりで、今も失意のどん底。そんなグレタに一緒にアルバムを作ろうと提案するダン。お金のない2人がスタジオに選んだのは、なんとニューヨークの街の中。ストリート・ミュージシャンたちに参加してもらい、大胆にも路上でゲリラ・レコーディングを敢行してしまう2人だったが…」 音楽を愛する、でもいまは底辺にいる人間が心をつなぎ、工夫してヒットを生み出して…という流れが『ONCE ダブリンの街角で』と似てると思ったら、同じ監督だったのね。なるほど。この間、B級映画しか演出してなかったみたいだけど、お得意のモチーフ、テーマだと威力を発揮するのか。心を揺さぶる佳作になっている。 イントロからの人物紹介がいい。グレタとダンがそこで出会うことになったのか、まずは客観的視点(昔なじみのスティーヴの視点といってもいいかも)で、次はダンの視点で、そして、グレタの視点から描く。これでもう、役者はそろった。人物の掘り下げも完璧。 スティーヴがグレタをステージにあげて歌わせても、聴衆は耳を貸さず私語が多くなっていく…。でも、ダンの視点はまったく違って、まるで天啓を受けたかのように冴えわたる。シンバルが鳴り、チェロ、バイオリンが入り、ドラムがリズムを刻み出す。ストリングスの応援を得て、グレタの生ギターの声が煌めきを増す場面は、おお! な感じ。のちにダンは「勝手にアレンジが始まる」みたいなことを言っていたけど、プロってのはそういうものかな、と納得してしまった。 さっそくダンは説得に当たるけど、自分の歌を自分なりに歌いたいというグレタとは波長が合わない。というなかで、ランディ・ニューマンに対する評価が互いに高い。でも、ランディ・ニューマン知らないし…。あとで調べたけど、映画音楽とかが主体の人なのかな。 それでも、ちょっとは未練があったのかグレタはダンに連絡。でも、会社をクビになったばっかりのダンには資金がない。なので、元の会社に行くけど、「うちはデモを聞くけれど、デモをつくったりはしない」と素っ気ない。このあたりの、ともに会社を立ち上げたけど昔流の手法でビジネスライクにコトを進める社長のサウルと、ダンとの考え方の違いがみえて面白い。 そういえば、娘を連れて飲んだくれて会議に行き、そこでダンは「これからは音楽なんてタダの時代がやってくる」みたいなことも言っていて、これが実はラストへの伏線にもなっているんだけど、なかなか話の展開上も上手く織り込まれてる。 なわけで、演奏はしたいけど仕事がないクラシックのヴァイオリニストやチェロ奏者、バレエ教室のピアノ弾き(声をかけたらレッスンの途中で「辞めます」とでていってしまう!)、昔の音楽仲間に頼んだドラムとベース…なんてところを揃えていく過程はちょっとした『七人の侍』で、路地で録音すれば近所の少年たちをコーラスに仕立ててしまったり。録音はスティーヴの手持ちマイクとMacという手作り感覚。この、音楽がつくられていく過程は、心が躍る。街角で、駅のホームで(警官から逃げ)、学校の屋上(?)で、と、ゲリラ的な録音がつづくんだけど、いや、ワクワク高揚感。 この芯となる話に加え、グレタの失恋話、ダンと妻ミリアム(キャサリン・キーナーがいい感じ)、そして娘バイオレットとの関係もきめ細かに描かれる。いやもう、話の豊穣さに、すっかり虜になってしまったよ。 まあ、お話は予定調和で、つくったデモCDは社長サウルのお気に入りとなり、デビュー決定。でも、印税が10%なことにグレタが注文を付ける。「制作費がかかってないのに、それはないでしょ」と。さらに、ダンの復職も要求。帰路、ダンは、「契約するなら、折り合うことも知らないとな」というんだけど…。 グレタは、反省したデイヴがコンサートで、グレタの楽曲をロック風ではなくアコースティックで歌うのを確認して、イキイキ、爽やかに夜のニューヨークを自転車で走るグレタ…でエンドなんだけど…。 エンドクレジットに、その後、の映像が映って。グレタはその日のうちに心変わり。ダンとともにネット販売に1ドルでアップしたら、翌日には1万ダウンロード。これがもとで、ダンは再びクビに! 別居していたダンは家に戻り、バイオレットはおとなしめの服装に…な現実が分かって、これまた楽しい。 かつての栄光もなく落ちぶれた業界人のダン。その彼をクビにするビジネスライクなサウル。元は心が通じていたけど、有名になって変わっていくデイヴ…。その他その他。類型的な設定ではあるんだけど、それをあまり感じさせないのがお見事。 ・素朴だったデイヴが、有名になるにつれ、どんどん業界慣れしていくのが面白い。ところで、久しぶりに戻ったデイヴの新曲を聴いていたグレタの表情が変わり、いきなり殴って家を飛び出す…というシーンがよく分からなかった。あれは、グレタがデイヴに捧げた曲を、デイヴが浮気相手のキムに捧げている…と感じたから、なのか? メロディが似てたよな、とは思ったけど、詞までは…と思ったら、そのシーンがHPにあって。でも、それを見ても、よく分からなかった。真実は何なのだ? ・キーラ・ナイトレイが可愛い。もう30歳なんだけど。 ・ダグとグレタが、互いに、かつてデートで聞いた音源のプレイリストを聴き合うシーン。シナトラとか、ははは。最後は『カサブランカ』の「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」だったりして! 街をさまよい歩いて、最後はグレタの部屋、といっても、スティーヴの部屋にやっかいになっているんだが、へ送ってくる。なんか、妖しい雰囲気。キスするなよ、そういう展開にはするなよ、と思っていたら、かろうじて2人には何もない、という話になって、よかったよかった。 ・「オーバーダブ」ってのがでてきたけど、「?」で。「オーバーダビング」のことらしい。「多重録音を行なう時のテクニックのひとつ。先に録音した演奏を再生しながら、新たに別のトラックに先に録音した音楽に合わせ別の演奏をプラスして録音すること」とWebにあった。「オーバーダブ」じゃ分からんよな。 ・「スプリッター」…って、分配器だろ。 ・屋上で収録…ってときにグレタにデイヴから留守電で、それを確認するために録音を少し延ばすシーンがあるんだが。録音シーンをああいう話で断ち切って欲しくなかったかも。 | ||||
人生スイッチ | 7/30 | ヒューマンとラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/ダミアン・ジフロン | 脚本/ダミアン・ジフロン |
アルゼンチン/スペイン映画。舞台はアルゼンチン。原題は“Relatos salvajes”。グーグール翻訳では「野生の物語」とでるんだが…。些細なことから大事件に…というような、しかも密度の濃い話を6話オムニバスなんだけど。ストンと落ちてない話もあったりして…。なかでは1話目の飛行機の話と、最後の結婚式の話がよかったかな。 『おかえし』公式HPのあらすじは「仕事の依頼を受けて、指定された飛行機に乗ったファッションモデル。話しかけてきた隣の席の男が、彼女の元カレを知っていた。ところが、元カレの名前を口にした途端、「小学校の教え子だった」「同級生だ」「元部下だ」と乗客全員が彼と関わりがあることが判明。しかも、みんな彼にひどい仕打ちをしていた。息をのみ顔を見合わせる乗客たち。そのとき、CAが発した一言に機内は凍りつく」 一発ネタで、最後のシーンは、庭でくつろぐ老夫婦めがけて飛行機が墜落するもの。なにげない接点から徐々に関係が見えてきて、げげげ! という話としては最適。とくに、映画のオープニングとしてはうってつけ。 『おもてなし』公式HPのあらすじは「郊外のレストランでウェイトレスとして働く女。客が誰もいない雨の日、父親を自殺に追いやり、母親を誘惑してきた高利貸しの男が店に現れる。調理担当の女に打ち明けると、彼女は「猫いらずを入れな」と物騒な提案を。一度は止めたものの、男の傲慢な態度に恨みが激しく再燃し、猫いらず入りと知りつつポテトフライを出してしまう。ところが男は、バクバク食べてピンピンしている。そこへ男の息子が来店、目を疑う行動に出る」 意外な相手と、意外な出会い。さてどうなる…は面白いんだけど、ラストがいまいちな感じ。というのも、男は猫いらずにピンピンしているのに、息子は数口で顔色が…。もう食べさせまいと女がテーブルに行き、テーブルをひっくり返す。怒った男が…というところで、調理担当女が包丁で男の背中をブスブスブス…。男は死に、調理担当女はパトカーで連行される、というもので、いまいちスッキリしない。いくら、調理担当女が「刑務所は慣れてる」といっても、そこまでするか。あと気になるのは、父親を目の前で刺殺された息子だな。 『エンスト』公式HPのあらすじは「雄大な山に囲まれた一本道を新車で走り抜ける男。前方を走るポンコツ車がノロノロ運転のくせに追い越しを邪魔する。ようやく抜き去る時に、「トロいんだよ、田舎者!」と捨て台詞を吐く男。ところが、程なくしてまさかのパンク。タイヤを取り換えていると、例のポンコツ車が追いついてくる。男は車に逃げ込むが、降りてきた運転手はスパナで新車をボコボコに。満足して立ち去ろうとする運転手に、男はあり得ない逆襲に出る」 スピルバーグの『激突!』の相手を顔出しにして、生っぽく戦わせたような話。運転手がフロントグラスにウンコ、小便するシーンは笑えた。男は運転手のトラックを押して崖から落とし、でも運転手は死なずに逆襲してきて、男は運転手をひき殺そうとするんだけど、上手くいかず自身も川へ…。車内で消火器とスパナでボコボコ殴り合い、男がシートベルトに首を絞められるような感じでぶら下がったところで、運転手はガソリンタンクに火をつけるんだけど、男はまだ生きていて…。あらせって火を消そうとする運転手…。そこに、男が頼んだレスキュー会社がやってくるんだが、そこでぼわん! とクルマが爆発。警察の消火隊がきていうには「無理心中か?」。車内に、焼け焦げた2人が抱き合ってるみたいに見える…という、ちょっとグロな話。まあ、オチは想定内というか定番な感じで意外性はない。 『ヒーローになるために』公式HPのあらすじは「ほんの数分で見事にビルを爆破する解体職人の男。仕事を終えて娘の誕生会のケーキを買っていると、駐車禁止区域じゃないのに車をレッカー移動されてしまう。翌日、陸運局の窓口で訴えるが無視され、大暴れしてしまう男。その姿がハデに報道され会社はクビに。日頃から家庭を顧みない夫に腹を立てていた妻からは離婚を言い渡される。職探しで停めていた車を再びレッカー移動された男は、イチかバチかの計画を思いつく」 偉そうにする小役人への反逆、というのは面白いんだけど。レッカー移動後にクルマを爆破するってのは、どこも安全じゃないだろ。もうちょい気の利いた仕返しを考えて欲しいところだな。あと、本当に「駐車禁止区域」じゃないなら、それを証明する手立てはあったろうに、窓口で文句をいうだけ、ってのもいまいちスッキリしない。それと、刑務所に入ると囚人仲間からヒーローあつかいされ、さらに、対立していた妻までも慕ってやってくる…というラストは、そりゃないだろ、な終わり方だ。 『愚息』公式HPのあらすじは「瀟洒な屋敷に暮らす裕福な男。ある朝、息子が酒を飲んだ帰りに人を轢いてしまう。テレビをつけると、既に悪質なひき逃げ事件だと報道。顧問弁護士に相談し、使用人に50万ドルで身代わりになってもらうことに。ところが、検察官にすぐにバレ、100万ドルで買収することに。交渉役の弁護士は50万ドル、使用人は追加でマンションを、検察官は必要経費を上乗せろと要求。息子に「自首しろ」とキレた男と、金の亡者たちのとんでもない交渉が始まる」 まあ、バカ息子にバカ親は、どこにでもいるということか。しかも、検察も警察も、使用人ですら金で動くというのは、先進国では設定がちょっとムリかも。あまりに金がかかりすぎるので、途中で父親は、「いままでの話はなしだ」とちゃぶ台返し。すると周囲は、なんだかんだでディスカウントし、結局、使用人を身代わりにすることになって家を出たとたん、暴漢(あれは亡くなった妊婦の亭主?)が使用人の頭を瓶で乱打! というところでオシマイなんだけど、使用人は大けがなのか死んじゃったのか、そのあたりは分からない。なんか、イマイチなラストだったな。 『HAPPY WEDDING』公式HPのあらすじは「盛大な結婚式の最中に、花婿が招待した同僚が浮気相手だと気付く花嫁。ショックのあまり泣きながら屋上に出るが、休憩していたシェフに慰められ、コトに及んでいるところへ花婿が捜しに来る。開き直った花嫁は「全財産はぎ取ってやる!」と恫喝して会場へ。帰ろうとする浮気相手を引きとめ、一緒に踊り始めた花嫁は、彼女に恐るべき復讐を果たす。だが、花嫁が断固としてやり通した式の終わりには、まさかの結末が待っていた」 いくら結婚式場に浮気相手を認めたからって、あの騒ぎはないと思うんだが。とくに、見ず知らずの料理人とセックスしちゃうって…。その後も、罵声の投げかけと罪のなすり合い。でも、最後は結局元のサヤに収まるんだろ、と思っていたらその通りになった。まあ、よくある展開だけど、最後の話としては、オチがついてよかったかも。気の毒なのは亭主の浮気相手の女性で、鏡に叩きつけられて全身傷だらけ血だらけってのもなあ…。けっこうキレイだったけど…。 ・オリジナルにはないタイトルを挿入しちゃっているのは、いかがなものか。オリジナルには、終わりと始まりを曖昧にする意図もあったんじゃないのかね。 | ||||
奇跡の2000マイル | 7/31 | 新宿武蔵野館2 | 監督/ジョン・カラン | 脚本/マリオン・ネルソン |
オーストラリア映画。原題は“Tracks”。allcinemaのあらすじは「オーストラリア中央部の町アリス・スプリングス。人生に煮詰まり、居場所を失った24歳の女性ロビン・デヴィッドソンがこの地にやって来る。目的は、ここから西に広がる広大な砂漠地帯を、たった一人で踏破するという過酷な冒険の旅を始めるため。そのために、まずは牧場でラクダの調教を学ぶロビン。そして8ヵ月後、ナショナル・ジオグラフィック誌との契約を取り付け、ようやく準備を整えた彼女は、4頭のラクダと愛犬を引き連れ、荒涼とした大地へとその一歩を踏み出していくが」 詳細は知らなかったけど、まあ、女ひとりで砂漠を横断、だろうとは思っていた。けど、いつまでたっても冒険が始まらない。やっとスタートしても、観光客がいそうな車道をたらたら歩いてて、緊迫感は無し。アボリジニのガイドを得ても、それは女が通れない聖地を突っ切るためだけのこと。そのガイドと別れ、砂漠に入っても、イメージしてた“サハラ”並の、見渡す限り砂だらけ、という感じではなく。砂嵐にも見舞われず。ただ1度、コンパスを無くして、愛犬のおかげで見つかった、ぐらいが大きな事件。その後、愛犬が毒(ストリキニーネ)を飲んで死んでしまうのが、もうひとつの事件らしい事件か。思ったら、いつのまにか砂漠を抜けていたのか? 砂漠の中なのか? 白人老夫婦の家にやっかいになるんだけど、ありゃなんだ? で、やっと砂だらけの砂漠に突入したか、と思ったら、そこはもう海岸の砂浜で、すぐ近くに海が…という、なんか、盛り上がりに欠けるというかなんというか。お気楽ふらふら旅日記みたいな感じで、苛烈さとか必死さとか、ドラマチックがほとんど描かれないんでやんの。「奇跡」とか「感動」とかって言葉が、浮つくぜ、と思った。 あらすじには「人生に煮詰まり、居場所を失った」とあるけど、そんな風には見えないロビン。ひとりでやってきて、レストランでバイトして、つぎは牧場で働き、でもラクダをくれるという約束は果たされず、結局ただ働き。次に出会ったのがアフガニスタン人のラクダ屋で、野生のラクダをつかまえて、どっかに売ってるジイさん。これと仲良くなって、手伝いながら調教を覚え、ラクダを一頭もらう。と、ただ働きさせられた牧場が売られたというので、「ラクダをくれ」と新しい牧場主にかけあいに行く、っていうのも、なんかな。それでも、その牧場主がラクダに慣れていなくて、少し手伝ったら、なのか2頭のラクダをせしめ、計3頭。最初のラクダが子を生んだので、合計4頭のラクダを引き連れて旅立つことになる。のだけど、何が目的なのか、よく分からないスタートだよな。だいたい、計画がアバウトすぎ。金を貯めてラクダを買って、装備もそろえて、イザ行くぞ、じゃなくて。完全に、行き当たりばったり。なんだこのいい加減さは。そういえば、父親も昔、砂漠を横断したとかなんとか言ってたけど、冒険家ではなかったみたいだし。 ↑の途中で友人たちが訪れたことがあって、なかにカメラマンがいて。「金がないなら雑誌社に支援を仰げばいい」といわれたのに、乗り気ではないロビン。だったのに、結局、スタート前にナショナル・ジオグラフィックスに手紙を送ったらOKが出て、条件としてカメラマンを派遣すると言われ、やってきたのは、かつてアドバイスしてくれたリックがやってくるという…。この件でも、どうして拒んでいた支援を受けるようになったのか、が分からない。さらに、写真を撮られることへの拒絶反応がどこから来ているのか、も分からない。 リックが来るたびに嫌な顔ばかりしていたロビンなのに。あるとき砂嵐にあって。でもまだそれは砂漠地帯に突入するずっと前だったんだけど。早くも心が折れたのか、自分からリックにキスし、抱かれてしまうという…。でもって、「何のために砂漠を横断しようとしているのか分からない」とかぬかしてなかったか? おいおい。なんだよ、この女。なところもあったりして、よく分からん女である。 アボリジニの住んでる地域で働いてる白人のところに寄って。ロビンはアボリジニの老女たちと親交を深めるのだけれど、数週間おきにやってくるリックが、アボリジニの秘儀を写真に撮ったから、と、聖地のガイドを断られ。数100キロの遠回りをしなくてはならなくなるんだけど、その直後だっけ。野生のラクダが近づいてくるのを、射殺。というのは、アフガニスタン人にそうしろ、と言われていたからで。でも、ロビンは出立のとき、銃を持たずに出かけようとしたのを、誰だったか、父親か姉か、アフガニスタン人だったかに「もってけ」と強いられたからもってきいたたわけで。あれ、銃がなくなってたら、ラクダを失ってたかも知れんわけで。なんか、やってることがトンマ。 なところで、親切な老人たちが「ひとりで行かせちゃって、大丈夫だったかな」な感じで様子見にやってきて。気の毒がって、ひとりがガイドを買ってでる。というわけで、凸凹2人の珍道中。そこに、ときどきリックがやってきたりして。なんか、ぜんぜん「女ひとり」じゃないじゃん。しかも、ロビンの旅はニュースでも取り上げられているのか、観光客みたいのがカメラもって追いかけてきたり。なんだよ。そういうころを旅してるのか? な感じ。 で、いよいよ砂漠へ。というとき、たしかロビンはリックに、「ガイドのアボリジニは一緒に来てくれるかな…」と話していたような…。どーも往生際が悪いというか、芯が座っていないまま、の突入のようだ。で、このとき、確かリックは「水をとどけるよ」とかいうのをロビンは断り、でもリックが「どこそこに置いておくから」と約束し、結局、それがあって大助かりするという。なんか、やることなすこと、自分の決断は間違ってばかり、なロビンなんだよなあ。 父親からもらったコンパスをなくしたのは、砂漠エリアに突入してすぐだったか。早く気づいて見つけはするんだけど、ラクダの場所が分からなくなって。ついてきていた愛犬に「戻れ」とかけしかけて、事なきを得るんだが。なんか、これもトンマな話。 あと、愛犬がストリキニーネを飲んだせいらしい。缶があった。つてことは、そんなところに毒を置いてった人間がいるってことだが。どういうことなんだ? Wikipediaで見ると「主に齧歯類(げっしるい)のような小動物を殺すのに用いられる」とあるが、そんなものを砂漠に仕掛ける人間がいるというのか? よく分からん話だ。 実はこの映画。過去の記憶が時々インサートされ、それは、幼いときロビンの母親が亡くなり(?)、叔母だったかの家に引き取られるんだけど、飼っていた犬を連れて行けず、毒殺処分されたという話なんだが。まあ、その話と、砂漠での愛犬の死を重ねてお涙ちょうだい、のつもりだったら、泣けねえよ。 なことがあって、たどり着いたのは、一軒家で。老夫婦が住んでいたんだけど。砂漠は通過し追えたのか? 実は、この映画、ルートが地図上で表示されるというような手法をとっていないので、いまどの辺り、あとどのぐらい、というのがさっぱり分からない。分かるのは、出立から何日目、だけなんだよな。題名が2000マイルなら、いま何マイル目、としてくれりゃ、多少は分かりやすいんだけどね。で、あの老夫婦は、なんであんなところに住んでいるんだ? 牧場やってるようには見えなかったが。街も見えないし。 と思ったら、今度は道に迷ったんだっけ。迷ってから老夫婦、だっけ。忘れた。まあいい。で、あれは引きこもりか? 素っ裸になって歩いていたり。頭がおかしくなったのか。1週間ぐらい行方不明だっていうんで、マスコミが殺到。それに気づくと、身を隠すロビン…って、ありゃ何なんだ? そっとリックが接触してきて、マスコミを追い払って、またまたひとり旅。雄大な砂だらけの砂漠へ突入、かと思ったら、海岸近くで。ラクダに水浴びさせて、それで終了。なんだかな。 ロビンは何を求め、何を得たのか。ちっとも分からない。そんな中途半端な映画であった。クレジットとともに、実際のロビンの写真が写るんだけど、それは実際のリックが撮ったものなのか。映画のシーンと結構シンクロする。で、驚くことに、かなりな美人で。演じたミア・ワシコウスカよりも魅力的なんだよな。驚いた。 ・出立のとき、父親と姉が送りに来ているんだが。ロビンは貰われていってから、どういう人生を過ごしたのか。それが分からないので、評価のしようがない。姉は父親と生活したのか、いつ再会したのか。最近までは、一緒に暮らしていたのか。とか、まったく手がかりがなさすぎ。 ・食糧とか水を、どう運んだのか。補給はどうしたのか。というような、男の子なら当然、興味をもつようなことを省いているのがつまらない。市川崑の『太平洋ひとりぼっち』なんかは、ヨットの製作過程、予定表、積み荷、水の問題…とか、こまめに描いていて、あれがリアルに面白いんだけど、ああいうのがまったくないのが残念。 ・ロビンはラジカセも持って行ってて。それで「スターダスト」ばかり聞いてるんだけど、作曲者であるホーギー・カーマイケル自身の歌うものなのには、何か理由があるのだろうか。 |