2015年10月

顔のないヒトラーたち10/5ヒューマントラストシネマ有楽町監督/ジュリオ・リッチャレッリ脚本/ジュリオ・リッチャレッリ、エリザベト・バルテル
原題は“Im Labyrinth des Schweigens”。Google翻訳したら「沈黙の迷路で」と出た。なるほど。allcinemaのあらすじは「1958年、フランクフルト。西ドイツは経済復興に沸き、人々の頭からはナチスの蛮行の記憶は急速に薄れつつあった。そんな中、ジャーナリストのグニルカが元ナチス親衛隊員の男が小学校の教師をしている事実を突き止める。しかし検察庁に掛け合っても、誰もが見て見ぬふり。ただ一人、駆け出しの検事ヨハンだけが興味を示し、グニルカとともに調査を開始する。やがて、アウシュヴィッツで残虐な行為に関わっていた多くの元親衛隊員が、何ら罪に問われることなく平然と社会に溶け込み、ごく普通の一般市民として生活している驚き事実が浮かび上がってくる。しかしいまや、国民の多くはそのことを蒸し返したいとは思っていなかった。そんな“嘘と沈黙の迷宮”に真正面から手を付けようとするヨハンには、想像以上の抵抗と妨害が待っていた。それでも事実から目を背けることなく、収容所の実態を徹底的に調べ上げていくヨハンだったが」
驚いた。1958年当時のドイツ国民は、アウシュビッツでの出来事をほとんど知らなかったとは…。その事実を知った若き検事が、周囲の制止を振り切って、解明に立ち向かう。カッコイイ。
ドンパチもアクションもない。話は淡々と進んでいく。映像にはケレンがなく、カメラを振りまわすとか、妙な効果も加えていない。でも、ひたひたと迫る何かを不気味に感じさせる。実際は、記者トーマスの家に投げ込まれた石だけで、誰も危害は加えられないんだけど、いつかだれかが…という不気味な様子が感じられる。ただし、ロマンスとか、自分の行為が自分や他人を傷つけ、不幸にして行くことに悩んでアル中になるとか、後半にかなり脚色されていて、大向こうウケを狙いすぎなところもあったりする。このあたりは定番な設定・展開なので、ちょっと飽きるけど、まあいいか。
ちょいと登場人物を整理すると…。
主人公は1930年生まれのヨハン。20代後半で、アウシュビッツのことをまったく知らない。
検事総長のバウアーは、ちょっといかつい人物。最初は裏がありそうな人物に見えたけど(元ナチかと思ってた)、実はユダヤ人で、収容所にいた(?)のかな。ヨハンの調査を積極的に応援する。
検事正は、ヨハンのすることに反対。では、こいちが元ナチか? と思ったら、「いや、そうではない」と自ら明言。たとえ何かあったとしてもすでに時効だし、ニュルンベルグで裁いているのだから、寝た子を起こすな、な立場。それはそれで大事なことだけど、この映画では少し浮いている感じ。
ハラー検事は同僚というか、先輩検事。最初は、張り切りすぎだよ、ヨハン。みたいに冷ややかに見ていたけど、事実を知ってから、のめり込んでしまう、な…設定なんだけど。このハラー検事を本気にさせた、という側面と、彼の人間性をもう少し描いたら面白かったのに。もったいない。
事務のエリカおばちゃんが、いい。記録しつつ絶句してしまったり…。でも、彼女もアウシュビッツのことを知らないのだよな。結構な年でも、そうだったとは驚きだ。
アメリカ軍の資料管理者が出てくるけど、これも味がある。当時の西ドイツを占領・管理していて、ナチの資料もアメリカの管理下にある。そこに粘り強く交渉し、ヨハンはアウシュビッツにいたナチの名前なんかを調べ出す。資料は何と8000人分!
あと、若い警察官がいる。ヨハンは、元ナチの何人かに執着し、逮捕するよう言いに行くんだけど、話は聞いておく的な態度で追い返されてしまう。でも、彼は、心情的にはヨハンを支援するけど、立場上できない、ということを後から吐露するのだ。これもまた、当時の事情を物語っているといえる。
調査の過程で、ヨハンはアウシュビッツの医者メンゲレを知る。そして、その残虐行為に、なんとしても逮捕、な思いを抱くようになるんだが。警察やバウアーは、その存在や居所をすでに知っていながら、ヨハンに告げない。そこには大人の事情があるようなんだが、それは何なんだ? モサドとの関係? イスラエルもドイツ政府も警察も、アイヒマンやメンゲレのことは把握していて、処分を考えていた。そこに、ジャーナリストのトーマスが介入し、若い検事までが首を突っ込んできて、迷惑なところがあったのだろうか。それで、大物はいいから、殺人罪を適用できる小物を狙わせようとしたのかな、バウアーは。
で、次第に解明していくんだけど、その過程はドキドキしてしまうほど。とくに、被害者の証言の部分が、突き刺さってくる。泣ける。エリカおばちゃんも、ハッとしたり涙をぬぐいながら記録する。こうした被害者が、ごくフツーの人に見えるように、のちに逮捕され、追求される男たちも、ごくフツーに見えるのがおぞましい。戦争でなければ、アウシュビッツでなければ、いい人だったりするのだ。命令されたからやった…なのかも知れない。けど、命令されていなくても、人は他の民族に対して冷酷で傲慢になれる、ということを暴いていく。それがまた、オソロシイ。
最初のきっかけとなった学校の教師なども、学校ではいい人なんだろう。とはいえ、生徒に暴力的である、というような描写もあったにはあったけどね。でもまあ、それは、そう読ませたいからそうしてるだけだからな。所詮は映画だし。
見ていて、どうしても連想してしまうのが日本の戦後責任で。ドイツには、こういう具合に、自分たちの罪を自分たちで暴いていった、という側面がある。だから日本は、大陸における中国人や朝鮮人に対する罪を、責められつづけられるのかも知れない。もちろん、ナチの犯した罪の総量とレベルと、日本のそれとは違うかも知れない。かも知れないけど、「戦後処理で済んでる」「命令されてやったこと」という言い訳は、ドイツ人でもやってきたことなのだ。ドイツ人は、その先のことを、自ら実践した。そこの違いは、対外的には大きいのかも知れない。日本人は、自ら見ようとしない。調べようともしない。反省もしていない。正当化しつづけている。そう見えてしまうのだろうな。
ロマンスは、映画的脚色だろう。裁判があって、追求した検事がいた、ぐらいは事実だろうけど。でも、恋人マレーネとのエピソードはまるっきり創作かな。あと、父親がナチだったとか、マレーネの父親がアウシュビッツにいたかも知れないとか、追求すればするほど、自分や恋人が苦しむことになる…それで検事局をやめて弁護士事務所に勤めたけど、真実を追究するのとはかけ離れた仕事ばかりで、また検事局に舞い戻ってくるとかいう、いかにもな展開とか、も脚色だろ。ロマンスはまあいいとして。ヨハンの悩み、アル中への変化とか、ちょっと映画的ドラマチックを狙いすぎて、かえってわざとらしすぎる。実際、中だるみだったし、緊張感も薄れた。ヨハンの悩みはさらっと描く、でよかったんじゃなかろうか。それでも十分にサスペンスだと思うけどな。
ヒロインのマレーネは、いしだあゆみ、っぽい。ちょっと顔がしゃくれな感じ。彼女との関係の復活を、背広の破れの修復にかさねたりして、カッコつけた表現をしているね。
あと、熱血記者のトーマスがいた。アウシュビッツのことを広めるのに命をかけてる感じ。それはそれでいい。でも、そんなに書きたかったら、自分もアウシュビッツにいたんだから、その体験記を新聞に書けばいいじゃないか、と後から思えたりする。なにしろ17歳で少年兵として徴兵され、アウシュビッツにいたんだから。なぜそうしなかったのか。これも、脚色の一部だから、そうなっているのかね。そもそも出来過ぎな話だし。
残る登場人物は、絵描きのシモンか。彼が、元アウシュビッツの教師と出会うことから話が始まるんだが。逃げるとき、書類をいくつかテキトーに持ってきた、というくだりは少し出来すぎで、なんかなと思う。まあ、何しろその数枚の書類をきっかけに調査が始まるのだから、仕方ないと言えばそうなんだけど。現実では、何がきっかけになって、検事が調べ始めたのか、が気になるね。
・最初の方に、誰から贈られたか分からないカバンが登場する。もらったヨハンは、そのまま袖机の抽出にしまい込んでしまうんだけど。あれにずっと引っかかってた。秘書を通じてカバンを渡されたとき、ヨハンは「父親は戦死して、いない」と言っていながら、窓から見えたのは男女。もしかして元ナチからの脅しか? と気が気でなかったんだが。最後の方で、実母が出てきて、「いまつき合ってる相手と再婚する」と言ったので、わかった。あれは実母と恋人で、カバンはホントのプレゼントだったのね。あれは、ちょっと混乱するぞ。
・イスラエルの支援者とかなんとか言われて紹介されたのは、あれはモサドだったんだな。さりげなく、他のところで「モサド」という言葉がでてたけど。
・捕まってイスラエルに送られた、と連絡のきたアイヒマン。おお。アイヒマンといえば『ハンナ・アーレント』のテーマに関係する人物で、ハンナが「凡庸な男。命令されてやっただけ」と主張していたっけ。と、思い出した。映画は、微妙に絡み合っていくね。
野火10/6キネカ大森1監督/塚本晋也脚本/塚本晋也
allcinemaのあらすじは「日本軍の敗北が決定的なレイテ島。結核を患った田村一等兵は野戦病院行きを命じられ、部隊から追い出される。しかし病院でも追い返され、舞い戻った部隊でも入隊を拒否される。行き場を失い、激しい空腹に苦しみながら果てしない原野を彷徨い始めた田村だったが」
原作は読んでない。市川崑の映画も見ていない。その上で言うんだけど、なんかリアリティが感じられないのだよね。どうしようもなくせっぱ詰まった感が、あんまり伝わってこない。
場所がどこだか、始めは「?」だった。そのうちミンダナオとかでてきてフィリピンと分かるんだけど、いつの、どういう作戦で、どうなっているのか、も説明されない。部隊がどうなっているのか、指揮系統は? といったことも、漠然としたまま。とくに、「お前は肺病だから病院へいけ」と上官らしいのにいわれ、よろよろひとりで銃を担いで、どれぐらい離れてるのか知らないけど、なんか遠いところの掘っ立て小屋にいくんだけど。病院では、お前なんか見てられない、とか言われて追い返されて、行ったりきたりを何度も繰り返すんだが。使いものにならないような兵隊が銃や背嚢を背負って(たか? 省略してるのかな。ヘルメットは、あとでかぶってたけど)、なんどもジャングルを行き来できるなら、十分に戦えるんじゃないのか? という疑問が先ず湧く。しかし、なんで病院はあんな離れたところにポツンとあるんだ?
田村が所属する部隊が、どういう状況かがわからない。出てくるのは、「病院へいけ」という上官と、塹壕を掘る兵隊数人。どういう状況下で、どうしようとしているのか、まったく分からない。
たらい回しの末、あれは、病院に落ち着いたのか? 屋外に座っていると軍医(?)がやってきて、なんか言うんだけど、直後に戦闘機の機銃掃射で軍医の頭が吹っ飛ぶんだけど、その頭がいかにもなつくりもので萎える。
安田(リリー・フランキー)と部下の永松に出会うのはここでだっけ。煙草を売れ、とか安田がいってたんだっけか。以後、なにがどうしたかよく覚えて亡くて。なんか、ひとりでうろついていると現地人家があって、飯をいただこうとしたら、どうたらこうたら、忘れた。なんか、その現地人の家には日本人の首があったような…。さらに、愛を語らう現地人と出会い、でも教会の中で女を射殺してしまう。
このあたり、現地人がフツーに生活していたりするんだが。日本兵がせっぱ詰まって、食べ物もないのに、それはアリなのか? という疑問。また、現地人に殺されたらしい日本人の死骸が山になっていたりするんだが、それはどうやって殺されたんだ?
で、田村は銃を捨ててしまうんだけど、あれは「殺すのはもう嫌だ」ということなんだろうか? よく分からない。分からないといえば、ときどき田村は独り言をいい、それで心境が分かったりするんだけど、とても不自然。むしろ、心の声として、もっと自由に心中を語らせればいいのに。その方が、つたわると思う。
で、ひとりで歩いていると、伍長とその仲間に出会い、同一行動を。どうも撤退命令が出ていて、どこそこまで行けば船に乗れる、とかなんとかで、そこまで行くらしい。そっからの道中は、周囲は死屍累々。でも、話やエピソードで見せるというより、無残な遺体とか生きながら蛆のわいた兵隊とか、気色悪いものを造形し、絵で見せ絵で説明しようという感じ=押しつけがましさが感じられて、どーもスッキリしない。
途中、田村は安田たちと再会し、猿の肉をもらったりするんだけど、それは実は人肉で…という話になっていくんだが、その前だか後だか忘れたけど、敵の射撃を通り抜けないと進めないという場所に出くわし、ここは夜、通り抜けようとするんだけど、当然ながら投光器が当てられ、死屍累々。ここも、もぎれた手足とか剥がれた顔面の肉とか、そういうのを、これでもか、と延々見せる。このあたりが日本映画のショボイところで。つくりもの感ミエミエのブツを見せられても、いまいち驚かない。このあたり、リアルにつくったものでも、さらりと一瞬で済ませるハリウッドとの大きな違いだな。
なんとかかんとか、でも、危機を切り抜けて、広場の向こう側へ。伍長や安田たちも、どういうわけかちゃんと通り抜けている。まあいい。
死なない、といっていた伍長は、どうやって死んだんだっけ? なんか、放心して座り込んでたのを覚えてるけど、その後の死に様はなんだっけ? 忘れた。
安田と永松もよく分からん関係で。あれは、上官と部下か? なぜ永松が、足の悪いという安田の世話をしているのか。よく分からない。2人は持ちつ持たれつかと思いきや、永松が猿=現地人や日本兵を殺し、干し肉にしていたのか? にしては、最後、永松が安田を殺し、生で食らいついていたのも、よく分からない。フツー、焼くなりなんなり、処理するだろ。原作にあるのかどうか知らないけど、生肉は体に毒だと思うがな。まだマッチもあるだろうに。
で、そんな永松を、田村は殺してしまうんだっけ? よく覚えてないよ。
最後は、日本に戻ってきて、書斎で物を書いている田村。妻が持って来たなにかを、体を揺らしながら食するんだけど、あれはなんの象徴だ? 人肉食の記憶が体から抜けない、ということかも知れないが、まあ、戦後何年もたっているとも思えないから当然だろう。
というわけで、話の輪郭がよく分からないまま終始して、何が言いたいのかよく分からなかった。
評価したがってる向きがあるようだけど、反戦思想と残酷描写があればよい映画というわけじゃない。追いつめられていく狂気の描写に、いまいち説得力がない。戦争に対する見方を押しつけられている嫌らしさもある。
食べ物がないようだけど、フツーにイモが野生で生育してるところがあったりするし、そもそも現地人が生活しているんだから、食べ物がないことはないだろ。どっかにはある。それと、ロケ地のジャングルが鮮やかな緑で。あんだけ緑なら、食べられる植物ぐらい、あるんじゃないの? と思ってしまうようなところもある。まあ、実際はないのかもしれないけど、その“食べ物がない”感を、映像で見せてもらいたいのだよ。
・人肉を食べるヤツもいる。しかし、人を食べないと自分が死ぬ、という追いつめられた感が、でていない。だって、田村という主人公は、たまたま干物は気づかず食べたかも知れないけど、自ら積極的には食べなかったし、人肉を食べずに生きて帰った人の方が多いわけなんだろ?
・田村は一度、投降しようとした。しかし、米軍のジープに乗っていた女性が別の投降者を撃つのを見て、やめる。映像では、米兵は女性を制しようとしている。もっと、相手を見極めて投降すりゃよかったのに、と思ったりする。まあ、その場にいたらできないかも知れないけど、あの映画の中でならできるような気がする。 ・塚本晋也もリリー・フランキーも50過ぎ。肉付きよすぎて、死に損ないの敗残兵に見えないところがつらい。 ・田村は、手榴弾をもっているんだけど、それって価値があるのか? あと、現地人から奪った塩ももっていた。塩を持っているせいで、他の日本人に狙われるのかなと思ったら、そういうことは特にないのね。じゃ、塩の存在なんて、とくに描かなくてもいいんじゃないのか?
・戦闘シーンでは、カメラぶん回し。CGに頼る資金がないからか、残酷シーンは、ちゃちいつくりもの。なんか、昔から変わらない。いつまでも『鉄男』を超えられない感じだね。
ピクセル10/8109シネマズ木場シアター4監督/クリス・コロンバス脚本/ティム・ハーリヒー、ティモシー・ダウリング
原題も“Pixels”。allcinemaのあらすじは「1982年。NASAは宇宙に向けて友好のメッセージを送った。その中には、当時大流行していたゲームの映像も含まれていた。やがてメッセージを受け取ったエイリアンは、それを宣戦布告と誤解し、地球侵略に乗り出した。彼らは“ギャラガ”でグアムの空軍基地を襲撃し、“アルカノイド”がインドのタージ・マハルを崩壊させる。そんなゲームキャラ型の謎の兵器に軍隊はまるで歯が立たない。そこで元ゲームオタク少年で現・米国大統領ウィル・クーパーは、サムやラドローらかつてのゲーム仲間を集めて“アーケーダーズ”を結成し、この恐るべき破壊力のゲームキャラたちに果敢に闘いを挑むのだったが」
アーケードゲームはほとんどやったことない。せいぜいインベーダーゲームぐらい。しかもファミコンもやってない。なので、ゲームやゲームキャラを十分に理解できてないと思うけど、でも面白かった。ストーリーは子供向けで、奇想天外。でも発想が面白くて、敵を倒す様子は『ゴースト・バスターズ』みたい。それと、カメオ出演の派手さも楽しい。なのにIMDbでは5.6と低評価。なんでかね。理解できない。
宇宙に向けたゲームのビデオを見て、そのゲームのスタイルを踏襲して地球を攻撃する理由は、分からない。というか、それを突っ込んだらオシマイだな。そういう設定なのだから、それでよい。
他にも、敵のキャラが地上のモノや人間を襲うと、みなピクセル状にバラバラになる理屈も分からない。これも、そういう設定だ。それに、バラバラになっても実は死んでなくて、ちゃんともとに戻るという、子供向けならではの設定もされていて安心。
で、そのピクセル状の敵に当てると相手がバラバラになる光線銃を開発! って、数日で開発できちゃういい加減さ。ううむ。ここはもう少し、合理的な知恵で攻撃用武器を生み出して欲しかった感じ。たとえば当時の4ビットチップ(?)が発信するなんとかが効果的とか、そういうのが欲しかった感じ。
で、笑っちゃうのが、1982年のゲームオタクたちのなれの果てで。大会で1位になったエディは刑務所。2位の、主人公でもあるサムは電気屋。サムの親友のウィルが、なんと大統領! それにゲーム仲間のラドローが、いまだに童貞オタクで陰謀信奉者という設定がおかしい。ウィルに「MITに行け」といわれてたサムが、どうしてこうなっちゃってんのか。ウィルがなぜ大統領になれたのか。こっちの方が大きな謎である。
で、攻撃してきた宇宙人に対抗できるのは、昔の仲間だけ、という発想もテキトー過ぎで。大会はその年以外にもあったろうし、参加者もたくさんいたはず。まあ、単にウィルが友だちだけを引っ張り込んだ、という、子供向けらしい分かりやすい話にしてる、ってだけなんだろうな。まあいいけど。
サムがホワイトハウスに呼ばれ、その会議で他の参加者からのけ者扱いされ、退出するときの捨て台詞が面白かった。銀髪の女生とメガネ青年がいたので、「ガンダルフとハリー・ポッターが並んで一緒に坐ってる」とかいうんだけど。こないだ『ロード・オブ・ザ・リング』をビデオで見たからガンダルフが分かったけど、そうしゃなかったら「?」だったかも。やっぱ、映画的知識は必要だよなあ。
そういえば、大統領を交えた会議で、軍人が「敵は?」「イラン(イラクだっけ?)が攻撃してきたか?」とか言ってるのが時代だなと。むかしならロシアだけど、いまやイスラム国が仮想敵国なのだな。
サムが、たまたま訪問したお客だった美女のヴァイオレット中佐と減らず口を叩き合いながら仲良くなっていく、っていう流れは定番中の定番で、もちろん最後はハッピーエンド。しかし、ヴァイオレットを捨てて20歳(19歳だったか?)の若い娘に走ってしまった亭主の顔が見てみたかったが…)。 最初の、ロンドンでの対決が、面白かった。まるで天空が画面で、上から降ってくるインベーダーたちをやっつける感じ。でも、その後のパックマンの登場と攻撃は、いまいち。なんか迫力が足りない。ゲームを想起させるなら、俯瞰のシーンにしなくちゃな。少しだけあったにはあったけど・・・。パックマンとの戦いの前に、開発者の岩谷徹が登場(日系俳優が演じているらしい)し、一緒に戦う! てな流れになるんだけど、岩谷は呆気なく手を囓られてリタイヤ…。ううむ、わざわざ岩谷を登場させてトリビュートする必要はなかったんじゃないのかね。日本企業ソニー・コロンビアの配慮? ううむ…。
グァム、インドでは負け、ロンドンでの戦いはものにするんだけど、それでも1勝2敗。しかも、エディがズルをしたからと、試合は無効。最後の決戦はニューヨークということで、ここではゲームキャラ総登場でのバトルが繰り広げられる…のだけど、ちょっと食傷気味。ってのも、知ってるゲームがあんまりないから。ゲームキャラを見ようとしてたりしても、どんどん画面が変わっていく。テトリスも一瞬だったし…。で、最後はドンキーコングとの戦いで、これに勝利してめでたしめでたし。
でも、最後はいきなり「宇宙人と和平協定を結んだ」という結末! テキトーすぎ! どんな宇宙人だったのか、その姿ぐらい見たいよな。
まあ、予定調和だけど、楽しかった。これでゲームの知識と、あと、1980年代からのアメリカの文化、音楽とかの知識がありゃ、もっと楽しめただろうな。残念。
・エディはチートコードでインチキした? チートコードって、なに? どうやって改造するんだ? 調べたら画面上からとか書いて。アーケードゲームで、どうやって書き換えたんだ? テキトーすぎ! しかし、チートコードなんて言われても分からんよ。で、この手法で1982年にも大会で1位になった、とかいう話で。あのときの実質的な1位はサムだった、という、これも典型的なオチがついてくる。
・このエディが、戦闘に参加するにあたって、島をくれとかヘリをくれとか税金をタダにしろとかあれこれ言うんだけど。セリーナ・ウィリアムズとマーサ・スチュアートを呼べ、というのも要求に入っていて。どちらも聞いたことあるけど、誰だっけ? 登場したセリーナは美人じゃない。帰って調べたら、あ、テニスの。ああ、なるほど。最後は、マーサ・スチュアートも? でも、フツーなオバサンだったが…。マーサって? 調べたら、カリスマ主婦だった。ああ、そういえば。な、程度の知識だからな、こっちは。しかし、この2人の選択は、どういう意味があるんだろ。深読みしたいもんだ。ちなみに、エディは小人なんだけど、関係あるのかな?
・まるで日本のオタクと同じ! なオタクのラドロー。彼が本気で恋する相手は、ゲームキャラの女性! 金髪美人のレディ・リサ? 知らんけど、どうも、架空のゲームのキャラらしい。分かるはずがない。このレディ・リサ。ラドローが告白すると、呆気なく受け入れて、人間側として戦う都合良さ。でも、宇宙人側がゲームでの攻撃をやめると、彼女も消滅。ところが、捕虜的な存在だったQバートが変態してレディ・リサとなり、なんとラドローと結婚した! という設定。エンドクレジットの最後に、家に戻ったラドローの声があり、ベビーベッドに数匹のQバートがいる! …なんだけど、Qバートはなぜ消滅しなかったんだ? という根本的な疑問。それと、まあ、いいっこなしではあるんだが、どうやって子をつくったのか…ということで。ラドローの細胞が混じってれば、別の姿形もあるんじゃないのかと、ちょっと、ううむ…。ところで、あのQバートって、なんのキャラだ? そういうゲームがあったとか、知らんのだよな。ううむ。
・宇宙人からのメッセージが、テレビの画面に突然でた来たりするんだが。マドンナとかホール&オーツとか、ぱっと見すぐ分からなかったのがちょっとつらい。ははは。
主人公サムの声を、柳沢慎吾がアテてるんだけど。ヘタすぎ。合ってないので違和感ありまくり。
・ニューヨーク決戦でヴァイオレットが最初に撃ち殺し「内緒ね」とかいってた小人みたいなキャラは、あれは? 調べたら、スマーフ。ふーん。ディズニーのキャラではないのか。よく知らなかった。そのスマーフもゲームキャラなのか。ううむ…。 ・最初にでてくるSONYマークがでかすぎないか?
ヒューマン・シネマ・フェスタ(短編) プログラムB10/10東京国際フォーラム・ホールD7監督/---脚本/---
東京都主催の「ヒューマンライツ・フェスタ東京2015」(10月9日〜11日)の一環として上映された短編映画。
●『泥棒』
南アフリカ/2012/監督:Greg Rom
チラシのあらすじ「不可思議な装いの強盗が銀行に押し掛けるが、彼らが取り出したのは武器ではなく、巧みな“計画”であった・・・。現実とイマジネーションの境目が分からなくなる、驚きのストーリー」約11分
強盗はパントマイムで事を進める。周囲の人物は、実際にモノ(拳銃とか)だすけど、指の拳銃に撃たれたり、飛んだりする。最後は、隣のビルへロープを渡し、トンズラ。なんか、その経緯がバットマン『ダークナイト』を連想させる。で、話は、だからなに? 的な感じ。とくに教訓もオチもないし。
●『カンバセーションピース』
イギリス/2009/監督:Joe Tunmer
チラシのあらすじ「ある日曜日の朝、大事な花瓶が欠けていることに気づいたジーンは、夫のマウリスにあの手この手で白状させようとする。コルネットの音色に、夫婦のセリフをテンポよく乗せたユニークな作品」約7分
あのレコードは実在するのか? それとも、映画に合わせて演奏したのか。どっちなんだろ。話は、最後、亭主が接着剤で破片をくっつけるシーンで終わってたけど、破片が残ってたのね、というのが感想。
●『パパ』
ノルウェー/2005監督:Hisham Zaman
チラシのあらすじ「父と息子はもう長いこと逃亡を続けている。目的地を目の前にして、父は、息子の未来がかかった苦渋の選択を迫られる」約16分
子供は「もう逃げ回るのはやだ」という。父は「子供なら入国できる」といい、トラックの下に隠れていずこかの国へ。どーも旧ソ連のどっかの国みたいだけど特定していない。あとから製作がノルウェーと知って、つまりは象徴的な話なのだな、と思った。でも、見てるときは、事実に基づく話かと思ってるから、どこの国の話だろう? 地続きで国外に脱出できるのは? なんと思って見てた。脱出先の国で、父親は警察を探す。どーも、自分は出頭して送り返されるつもりなのか? でも、子供はどうやって? とかいってるうち地下鉄で離れ離れになり、どっかの収容所に送られる。送還される父親を発見した子供が「パパ!」とかいってくるけど、無視して送り返される、という話。まあ、自分を犠牲にして子供を自由な国へ…ということなんだろうけど、話がアバウトすぎていまいち緊迫感がない。たとえば、父親は駅で人に道を訊いてるんだけど、会話が成立してた。なのに、収容所では警官に「言葉が通じない」と言われている。このあたりの辻褄がアバウトすぎ。あと、重大事というのに子供が飲み物を飲み過ぎてトラック下で小便まみれになったり、ジダンの写真にこだわってダダをこねたり、離れないで…と父親に言ってるくせに勝手に地下鉄車両に乗り込んだり、車内で地元の少女とおしゃべりしたり…と、毎度ながらこの手の映画では、バカな子供がミッション遂行のジャマをする。まあ、子供ならではのジャマと失敗でドラマをつくろうとしてるんだろうけど、これはもう単なるバカな子供だ。フツーの子供は、こんなバカをするものではない。まあ、圧政や難民を象徴的に描いて、メッセージとしてるんだろうけど、全体的にクサイというのか、描写がすべてありふれすぎてる。
●『信号機とおまわりさん』
ドイツ/2009/監督:Giulio Ricciarelli
チラシのあらすじ「ヒーローを夢見る小さな町のおまわりさん。しかし平和なその町ではヒーローになれる事件など起こる訳がない。そこで彼が考えたのは...、町の橋に信号機を立てること」約15分
いい感じのテイスト。街の人たち、といっても橋まで運転して来る、という設定の人たちだけど、これがまたいい。チャーミングだけど気の強そうなトラック運転レディ、腕っ節の強そうな男性、その男性にいつも脅されてる感じの男、すぐ居眠りしちゃう婆ちゃん…。信号機のおかげで橋での譲る譲らないの対立がなくなって、スムーズに行くかと思いきや…なんと信号無視がふえた。だって、向こうに誰もいないのに待つしかないのだから。で、警官は取り締まりを強化し、それまで事件なんてほとんどなかった村のなかでの自分を権威づけようとした。その結果、みな信号を守るようになったけれど、人や周囲を見なくなった。そして…信号の青だけ信じて発車したトラックレデイに撥ねられて死んでしまう! なかなか皮肉が効いている。オープニングの葬列は、ここにつながるのね。それにしても、ルールが曖昧だったときは、多少のいざこざはあっても人は人を見ていた。けれど、ルールを強化することで、人は人を見なくなる。平和すぎる世界では、権力者はなんらかの事件を欲し、その事件を制圧して誇りたい、という欲求が生まれる、とか。ほのぼのとしたタッチの中に、なかなか鋭い視線が込められている。
●『サッカー・ストーリー』
日本/2014/監督:Liliana Sulzbach
チラシのあらすじ「都内の子供サッカーチームが試合の為に神津島 (東京都)へ向かう。そして試合中、島チームの選手、カズが自分のチームを相手に試合に出ることに。果たして、島の大勢が見守る中、カズはどんなプレーをするのか?」約13分
都会の子が早朝、モノレールで波止場までひとりで行き、船に乗る…というオープニング。その少年の話かと思いきや、主人公は島のチームの補欠の子であった。サッカーといってもビーチサッカーで、冒頭の少年の顔にボールが当たり、歯が抜ける。…犬歯みたいだったけど、あれは歯の抜け替わり? だとしたら、根っこが長いのは変だろ。はたまた大人の歯だとしたら、これはこれで大問題だよな。その辺りがいい加減。で、レフェリーをしてるラモス瑠偉が、補欠の子に「チャンスだよ、都会のチームの選手として出ないか?」と誘う。結果、彼が決勝ゴール?を決めて、都会チームの勝利。すると、観客席はしらー…。まあ、敵のチームが勝った、しかも、島の子がゴールを決めたから、盛り下がった、と表現したいんだろう。そこで、ラモスが「みんな、拍手してやって!」とかいうと、観客は我にかえったように笑顔になり、拍手して讃える…という、わざとらしい展開だった。敵が勝ったからって、あんなに白けないぞ、日本人は。なんかステレオタイプに描きすぎ。あと、サッカーの試合の描写がヘタすぎて、経緯が分からない。得点の推移もね。
ヒューマン・シネマ・フェスタ(短編) プログラムA10/10東京国際フォーラム・ホールD7監督/---脚本/---
●『5m 80cm』
フランス/2013/アニメ/監督:Nicolas Deveaux
チラシのあらすじ「キリンの一団が次々とアクロバティックな高飛び込みを披露!」約6分
キリンが飛び込みをするだけの話。どこが人権なのか、まったく分からない。
●『バイクレディー』
韓国/2014/監督:Yoonchul Chung
チラシのあらすじ「ナショナル障害者ハンドサイクルの韓国人女性アスリートが、ハンドサイクリングとの出会いによって変わった彼女の人生を語るドキュメンタリー」約20分
障がい者がいかにしてイキイキと生きるようになったか、な典型的なドキュメンタリー。練習や試合の映像の間に、彼女のインタビューが入る形式。ああ、そうですか、な感じで、するすると入ってくるけど、大して残らない。いい話しばかりなのも、引っかかりがなさ過ぎるかも。PRみたいだし。で、彼女はアジア大会の2位で、世界ではどのレベルなんだろう? そういうライバルの様子とか、めざすものは、とか、挫折の体験とかもみてみたい感じ。
●『D.I.Y』
シンガポール/2005/監督:Royston Tan
チラシのあらすじ「いろんな人々の、それぞれのなんてことない日々の生活風景― 実は、全てがつながっていた。汚れた食器のぶつかり合う音、シーフードレストランの水槽をはじく指、貨物用エレベーターから聞こえるタップ・・・人間たちが奏でるちょっと不思議な音楽」約6分
登場するのはアジア系の人が多かったかな。病院の男女はベンチに座ってるだけで、音は出さなかったけど。あと、タイプライターのおばちゃんは、どんな音を出してたっけ? 大半が自然な動作からの音なのに、洗い場の兄ちゃんだけがお皿まわしてDJ気分で、あれは不自然だよな。とはいえ、よく描かれる設定ではあるので、たいした驚きもない。
●『キミのモノ』
イラン/2014/監督:Reza Fahimi
チラシのあらすじ「ある小さな街で、2人の少年が手に入ることのない物たちを、自分だけのものだと言い張っていたが、やがて、あらゆる手の届かないものを分かち合うこととなる」約19分
イランなのか。あの2人は同級生なのか? 背の高い方が「あれはボクのだ」といいはり、校長とか鐘とか鳥とか、なんでもかんでも自分のだ、と主張する。腰巾着みたいな子が、でも自分のモノも欲しくて。そしたら用務員のババアはお前やるよといわれて喜ぶんだけど、そのババアに叱られて「用務員なんていらない」とかいうのがアホ。延々「あれはボクのモノ」とやってるので、かなり退屈。で、家に帰り…、腰巾着が、家から泣いて飛び出してくる。で、ノッポは、腰巾着の家を訪ねてたんだっけかな? で、落ち葉をちゃんとしなかったから飛んでしまった、と父親に叱られた、という。そしたらノッポが、みんなお前にやるよ。校長も鳥もみんなお前のモノだ、とか慰めると、腰巾着も少し笑顔になる、というだけの話。これはあれか? ふだんは偉そうにしてても、なにかあったら人にやさしくしてあげなさい、とかいう教えかなんかなのか? あまりにも内容がない、にもかかわらず、尺が長いのでうんざり。
●『上海ラブ・マーケット』
中国/2011/監督:Craig Rosenthal
チラシのあらすじ「上海のとある公園では、毎週、我が子の結婚相手を探す親が、「お見合いマーケット」を開いている。完璧なまでに仕組まれたお見合いは、果たしてうまくいくのか?」約9分
実際の出来事に基づいている、とクレジットがあった。中国では、親が子供の結婚相手を募集し、面接し、それで決めたりするのか…。日本の見合いより、親がでしゃばるんだな。で、息子の相手を探す夫婦。奥さんの方が熱心すぎて、あれもダメ、これもダメ、とダメ出しをつづける。…の結果、9ヵ月後、だったかな。部屋の6の数字が外れて9になるって描写は面白かった、で、息子は結婚するんだけど、最初に見合いした相手ではないか。しかも、同時に父親も結婚。ん? 結婚式を挙げなかったから、両親も式を? と思ったら、父親の相手は、息子の嫁の母親! そういえば、この母親は離婚したと言っていたけど、そういうことにも奥さんは注文を付けておったな。で、この奥さん自身が、亭主募集のポスターをだしている! というオチで。なかなか気が利いている。まあ、結婚のシステムがどうとかいう話ではなく、あれこれ注文のうるさい親、なかでも母親への皮肉だな。
アントマン10/14109シネマズ木場シアター4監督/ペイトン・リード脚本/エドガー・ライト、ジョー・コーニッシュ、アダム・マッケイ、ポール・ラッド
allcinemaのあらすじは「バツイチ、無職のスコット・ラング。養育費も払えず、このままでは最愛の娘キャシーにも会えなくなってしまう。人生まさに崖っぷちのスコットは、ひょんな成り行きから天才科学者ハンク・ピム博士に頼まれ、彼が開発した特殊なスーツを着て、1.5cmのヒーロー“アントマン”になることに。こうして、ハンクとその娘ホープ・ヴァン・ダインの厳しい指導の下、正義のヒーローになるための猛特訓を開始するスコットだったが」
見てから10日たってるんだな。もう記憶が薄れてる。
見始めて、そういえばMARVELが原作なんだっけ、と気がついて。それでも、この映画は小さなヒーローだから、ガチガチのアクションシーンも少なくて、コミカルなところが多いだろう、だから寝ないだろう、と思ったんだけど。鍵穴を通り抜ける訓練あたりで、ふっ、と寝てしまった。気がついたら、ハンクが妻の思い出=いかにして死んだ、あるいは、無限に小さくなる状態になったか、を説明しているところだった。
その大きな要因は、敵がしょぼい、ってことだと思う。もうあまりよく覚えてないんだけど。ハンク博士は、細胞を圧縮するような発明をしたけど、それを隠してたんだよな。ハンク博士は会社の創業者で、でも会社を追われたか引退してたけど、跡を継いだ元部下のダレンがその圧縮技術に挑んでいて、でもまだ未完成で…。なところで、ハンク博士は、コソ泥のスコットに目を付け、アントマンに仕立てる。で、ハンクと娘のホープは、スコットを一人前のアントマンへと訓練するんだけど…な感じだったか。でも、この経緯がなんかアバウトで、どーも頭に入らなかった。
Wikipediaに「潜入技術に長けた人材を求めていたピム(ハンク博士)は、実はわざと屋敷を空けて侵入者の来訪を待っていたのだ。スコットの手腕を見込んだピムは、彼に「アントマン」になってほしいと依頼する。実はピムは、かつて平和維持組織S.H.I.E.L.D.に所属し、自ら開発した身体縮小スーツをまとって「アントマン」となり、エージェントとして数々の極秘任務をこなしてきた。彼は物体縮小技術の悪用を恐れ、長年その理論を秘匿にしてきたのだが、近年になり、彼の弟子だったダレン・クロスが遂に縮小技術を解き明かしたという。ダレンは身体縮小スーツを軍事に転用し売りさばく計画を立てており、あろうことか犯罪組織ヒドラを取引相手に挙げていた。もしこれが実現すれば、世界規模の混乱が巻き起こることは必至。阻止するには、警戒厳重なダレンの本拠に潜入し、試作スーツを奪取した上で全てのデータを破壊しなければならない。出来る者はアントマンだけだ」というあらすじが載っていて、へー、なんだけど。ちょうど寝てたときに説明があったのかな。分からんけど。
というわけで、アントマンの敵は元部下のダレンで、つまりはフツーの人間であり、科学者なんだよ。異次元からの来訪者でも、極悪非道のワイルド野郎でもない。しかも、娘のホープは、いまだ父親がつくった会社にいて、ダレンの仲間の一人として働きつつ、実はダレンの企てを失敗させようとしている、という、なんかよく分からない設定で。敵ダレンの内情は、ホープを通じて筒抜けなのだ。そんなことに気づかないダレンって、アホじゃないのか?
てなわけで、アントマンも小さいけど、話のスケールも小さかった。
以下、眠気をこらえていた、あるいは、寝ていたせいで、よく分からなかったところ。
イエローのなんとかを取りに行くとか、なんだそれ? と思ったら、最後の方でダレンが身につけるスーツとは分かるんだけど。そんなの開発してたのか? あれって、誰が開発したんだ? ← Wikipediaのあらすじに、説明があった。「過去のある事件を機にピムとホープの仲は険悪となっており、事ある毎に衝突しているのだった。スコット達が揉めている間にも、ダレンは軍事用スーツ「イエロージャケット」の開発を着々と進めている。果たしてアントマンはミッションに間に合うのか」とね。これも、寝てる間に説明されていたのかも。しかし、なんか、ザックリとした映画だったから、どうだかね。
どっかに空から侵入し、羽根を持った監視人と遭遇する場面は、ありゃなんだったんだ? 想定していたのと違う建物でどうたら、いってたよな。で、羽根男は、侵入してきた事実を「報告しないでおこう」とかいうの、ありゃなんだ? あのときだっけ? それでも、何らかの液体はせしめてきていたの。あの液体はなんだ? ←まあ、というか、もういい。
ホープ役のエヴァンジェリン・リリーが結構なオバサン顔で。どうみても娘とかヒロインには似合わないんだよなあ。調べたら1979年生まれで、35、6歳。ううむ。やっぱおばちゃんだ。
ピエロがお前を嘲笑う10/16新宿武蔵野館3監督/バラン・ボー・オダー脚本/バラン・ボー・オダー、マックス・ヴィーデマン
allcinemaのあらすじは「ある日、殺人事件への関与を疑われ国際指名手配されていた天才ハッカー、ベンヤミンが自ら警察に出頭してきた。その自白によれば、きっかけは、想いを寄せる女性マリのために試験問題を入手しようとしたことだった。その後、野心家のマックスと出会い、2人を中心にハッカー集団“CLAY(クレイ)”が結成される。遊び半分に手当たり次第にハッキングを繰り返し、世間の注目が高まっていくことでいつしか有頂天に。やがて不用意なハッキングがもとで殺人事件が起こってしまったというものだったが」
謳い文句は「106分間、あなたが目にしたものは、果たして真実か?」「まさかの結末に《100%見破れない!》《騙された》という観客が続出」「驚愕の<マインドファック>ムービー」とかなので、トリックがあるのだろうことは分かる。でも、ラスト近くで明かされるトリックは、患者が多重人格である、ということ。なんだ、また精神疾患ネタかよ。『アイデンティティー』と同じじゃないか。しかも、多重人格は遺伝する、とはっきり言ってるぞ、おい。と思っていたら、もうひとつ二段構えでトリックがあって、多重人格はウソで、死んだと思わせた仲間も生きていた、というもの。ええ? 驚くより、なんだよこれ、ひどいじゃん。という印象。『アイデンティティー』のエンディングの後ろに、それはウソでしたあ〜、というトリックを付けたような感じで、かえって拍子抜けした。っていうのも、仲間たちがあっさり死にすぎで、しかも、遺体はチラリとしかでてこない。もちろん、動画では描かれず、ベンヤミンの自白のなかで語られた、という呈をとっているから、なんか薄っぺらくて。「え? 殺されちゃったの?」と半信半疑だったから、実は生きていて、すべては仕掛けだったんだ、といわれても、やっぱりな、と思えてしまうのだと思う。
ベンヤミンを取り調べていたのはユーロポール(欧州刑事警察機構)のおばちゃん刑事で、あともうひとり、彼女の同僚みたいな男性がいたけど、彼の位置づけがよくわからなかったんだよな。まあ、それはいいとして。裏付けも取らず、ベンヤミンの自白をすべて信じてしまう、っていうのは、アホだろ。そして、なんかよく知らんけど、最後にベンヤミンに逃げるチャンスを与えるのだよ。ええ? なんで? 自白を聞いて気の毒になって、それで個人的に釈放した? バカじゃないのか? まあ、最後の最後で、ベンヤミンも「実は彼女は真相を知っていたはず…」とかいっているけど、知っていたら、もっと別の面から切り込むはずだし、そうでなきゃユーロポールで働けないだろ。
なわけで、ユーロポールのおばちゃんのリアリティのなさに、がっかり。あれじゃ、驚きも何もないだろ。
ラストの船上。ベンヤミンは、それまでの素朴な青年ではなく、洗練された切れ者の兄ちゃん風な恰好になって登場。仲間の3人と、あと、思いを寄せるマリもいる。ん? ハッカー仲間の3人は分かるけど、なんでマリがいるのだ? 彼女はベンヤミンを何とも思ってないし、一緒に行動するほどの仲じゃないだろ? もしかして、ベンヤミンの自白に登場したマリは作り話のなかの人物で、実際はベンヤミンの恋人だったりするのか? よく分からん。
そもそもベンヤミンが自首したのは、ハッカー界の神的な存在のMRXとそのフレンズに狙われたから、っていう話だったよな。フレンズのなかに、権力に通じているのがいて、それが殺害され、さらに、ベンヤミンも正体がバレ、フレンズに追われた。そして、3人の仲間はフレンズに殺されたので自ら出頭した、という筋書きだった。その多くがもしウソだったとしても、内通者が殺されたのは事実だったはず。なぜって、ユーロポールのおばちゃんも遺体をしてたから。では、虚実入り混じっているのか? でも、どれが事実で、どれがベンヤミンの作り話か、見分ける手立ては観客にはないだろ。それとも、よく見れば分かるようになってるのか?
さらに思うのは、ベンヤミンの話の多くが作り話だとして、彼が出頭し、ユーロポールのおばちゃんにあれこれ話す目的はなんなんだろう? それまでCLAYがやってきたような、大会社や役所に潜入・ハッキングしてひと泡吹かせる、というのとは話のレベルが違うよな。そしてその、ベンヤミンが自白した、それまでのCLAYの兇状は、事実でなければおかしい。なぜって、ユーロポールはCLAYの犯してきた出来事ぐらい知ってるはずだから、発生しなかった事件はユーロポールのおばちゃんには言えない。
まあ、フレンズに殺された男も、じつは単なる行き倒れで、フレンズではなかった、なんていう解釈もなくはないんだろうけど。そこまでいくと、もう、何が何だかさっぱり分からなくなりすぎだ。
まあ、考えても、なにも分からないと思う。描いてないことが多すぎるし、描かないことで過剰に神秘的にし・混乱させようって魂胆なんだろうから。深く考えるだけ、労力のムダってものかも知れない。
ところでベンヤミンがぞっこんの同級生マリは、極めてフツー程度の外見で、なんであんなに夢中になるのか、さっぱり見当がつかなかった。どうせなら、もうちょっと可愛い娘を登場させて欲しかったな。 ・ネット空間でMRXとフレンズ、ベンヤミンなんかが出会うシーンは、電車の中という設定で描いているのは興味深いけど。すでに『マトリックス』があるからなあ…。とくに目新しさはないんだよな。
・それにしても、MRXが18ぐらいの学生、っていうのは、実際のことなのか? なんか、ウソっぽい。彼がフレンズに命じ、裏切り者を殺害した、とは思えないものなあ。じゃ、あの遺体は無関係なのか? ううむ。
ショートショート フィルムフェスティバル & アジア(SSFF & ASIA)/アート ショートフィルム プログラム10/17東京都美術館 講堂監督/---脚本/---
HPには「シネマミュージアム -秋の特別上映会概要:ショートショート フィルムフェスティバル & アジア(SSFF & ASIA)は、ショートフィルムの魅力を広めることと若手映像作家の育成を目的に、東京国際映画祭の提携企画として、毎年秋にイベントを開催しています」とあるけど、何だかよく分からない。まあいい。13時50分〜の回を見た。
●『ジョン・バルデッサリのすべて』
アメリカ/2012/監督:Ariel Schulman & Henry Joost
HPのあらすじ「コンセプチュアルアートを牽引してきたジョン・バルデッサリ。半世紀以上もの間アートの世界に身を投じてきた彼の頭の中とは? ロック界の重鎮アーティスト、トム・ウェイツがジョン自身のラブコールを受け、ナレーションを務める。」5分54秒
少しだけ頭が欠けたけど、ほぼ見てる感じ。ジョン・バルデッサリをほとんど知らないので、ああそうですか、な感じ。つくりも、細かなカットをポップにつなが感じで、珍しくないし。
●『家具の一生』
アメリカ/2013/監督:Tony Donoghue
HPのあらすじ「アイルランドの田舎、家具を修復しては何世代にもわたって大事に使う風習を描いたストップアニメーション」8分21秒
話はあらすじの通り。それを、現物の家具のコマ撮りアニメで見せていく。古いけれど大切に使えば味もでるし、塗り替えれば気持ちも変わる、というような感じ。
●『モンパルナスのキキ』
フランス/2013/監督:Amelie Harrault
HPのあらすじ「20世紀初頭に名だたる前衛美術家の創造の女神として君臨した「モンパルナスのキキ」。きらびやかなパリ・モンパルナス地区で、彼女は一介のモデルから画家、作家、キャバレー歌手へと夜の女王として開花する」14分
アニメ。キキの存在は知ってたけど、簡単とはいえ生涯を通して見たのは初めて、だったかも知れない。知られざる貧乏時代とか、雑誌編集長の彼氏がいたとか、ふーん、だった。フジタは、ほとんどどの場面にもいるぐらいの関係だったのね。
●『半分ノ世界』
日本/2014/監督:齊藤工
HPのあらすじ「全日制高校に通う女子高生と、定時制高校に通う青年との、机の落書きを介した心の交流。単純な男女の恋愛ではなく、精神的な深い繋がりを描く今までにないラブストーリー」15分
描いた絵を、母に見てもらうことが生き甲斐だった女子校生。母を病気で失って、生き甲斐を失い、描かなくなってしまった。そして、眼帯をするようになった。「嫌な世界の半分を見なくていいから」とかいう理由だったかな。そんな彼女の机に、ある日、灯台のエンピツ絵が。アンサーで描き加えていくことで会話が始まり、相手が定時制の生徒で、彼も半分を失っているという。どんな生徒か見に行くと、車椅子の青年(井浦新)だった。絵での会話はつづき、以前は彼のバイクで世界一周したけど、今度は「私の運転で」とクルマを登場させる。そして、ついに彼女は眼帯を撮って、両目で見るようになる…という話なんだけど、設定がむりくり過ぎ。
母が死んだせいで暗くなり眼帯するって、どんなバカだよ。机に絵を描いていて、クラスメートや教師から何か言われないのかよ。いやそれより、青年は、どうやって、昼間部の女子生徒の様子を知ったんだ? 眼帯まで、どうやって知った? ストーカーか?
机の落書きがアニメになって動くのはユニークだけど、それ以外が、ううむ…だな。
●『Hokusai - スケッチブック - 』
イギリス/1978/監督:Tony White
HPのあらすじ「今もなお、全世界のアーティストに多大な影響を与えている葛飾北斎のスケッチブックにインスパイアされたイギリス人監督によるアニメーション」5分13秒
北斎の原画をアニメのようにしたりして動かしている。コマ撮りアニメかな。北斎好きは海外にもいるのね。
●『オベイ・ザ・ジャイアント』
アメリカ/2013/監督:Julian Marshall
HPのあらすじ「アメリカを代表するストリートアーティスト、シェパード・フェアリー。ロードアイランド造形大学の学生だった彼は、当時市長再選を狙う政治家のビルボードを見て、ある行動に出る…。日本でも絶大な人気を誇る「オベイ・ジャイアント」の誕生を描いた作品」20分
女房を寝取った男に暴力を振るう男…。彼は市長で、市長を辞める代わりに5年だか6年の観察処分になった。その彼のシールをつくり、街中に貼ってる青年がいた。シールは、ヒール役のアンドレ・ザ・ジャイアントの顔を模したもの(でいいのか?)で、貼ってるのがばれた彼は、あやうく退学になるところを免れた。でもシール作りはやめず、巨大な選挙ポスターの顔までシール顔にしてしまった! その後、男はいくつかの暴力事件で有罪になった。青年はアーティストになった、ってことか? なんか、いまいち歯切れが悪く、分かりづらいものであった。
冒頭のエピソードを見て、女房寝取られて殴る蹴るは当然だろ、と思ってしまっているのに、その男に対して中傷のシールとはこれいかに?しかも、顔だけのシールで、どういう意味があるのかずっとよく分からず。中盤以降に、ふたたび市長になろうとしている男に対するゲリラ攻撃? と分かるんだけど、それでもなお、よく分からない。やはり、背景や状況をちゃんと語らない映画は、すんなり感情移入もできない。最後の、でかいポスターの顔をイラスト顔に変えた、という行為にどういう意味があるのかもよく分からないし。なんでえ? な感じ。
ショートショート フィルムフェスティバル & アジア(SSFF & ASIA)/審査員が選んだショートフィルムプログラム10/17東京都美術館 講堂監督/---脚本/---
15時30分〜の回を見た。
●『父親』
チュニジア・フランス/2014/監督:Lotfi Achour
HPのあらすじ「チュニスでタクシードライバーをしているエディは、ある夜、産気づいた妊婦を病院まで乗せる。このつかの間の出会いが予想外の悲劇を生み出し、2人にとって人生を一変させてしまう」18分
産気づいた妊婦を乗せて病院に送った、その何日か後。彼は裁判所から召喚される。「女はお前が父親だと言っている。さっさと認めてしまえ」と。もちろん認められるはずはなく、検査をすることに。もちろん結果は潔白。なのだけれど、思わぬことを告げられる。無精子病だ、と。でも彼には妻と子供2人がいる。げ! ウソをいった女に追求するが、事情がある様子。他人のこといえど、これまで育ててきた娘は可愛い…。でも、意を決して、妻に告白する。「8年前に住んでいた隣家に夫婦者がいた。亭主はいい男だったよな。あの妻と、俺はなんどか不倫した」と。おお、無精子病であることを告白するのでもなく、妻を責めるのではなく、自分の浮気をしゃべるのか?! そして、亭主が最後にいったのは「俺は、あの子を育てる。他人の子でも、十分に愛することができる」と。妻は、まだ怒りが収まってない感じ。自分の不倫を知られた、と思ったのかどうか、定かではないけど、さてどうなるんだ? と思ったけれど、ここで話は終わってしまった。おや。なんか、唐突な終わり方だな。日本人的な考え方だと、妻には「俺は無精子だった。お前は浮気した。子供たちは俺の子ではない。罪を償え」的な論理で責めたくなるんだけど、そうはしないのか。少しいらだつけど、いいのか、あんた、と思ってしまう。自分の子ではない子供を妻に育てさせることで、同じ苦労・思いをさせようという復讐なのかな。これからの夫婦の生活は、荒み放題なような気がするんだけどな。怖っ。
●『こころ、おどる -Kerama Blue-』
日本/2015/監督:岸本司
HPのあらすじ「座間味村の民宿に外国人夫妻がやってきた。言葉を理解しなくても次第に民宿の人と仲良くなる妻に対し、宿にも島の環境にも馴染めず不機嫌な夫。固く閉ざした彼の心は海の中で、ある事に気づかされる」19分58秒
ちょっと強引なところとか、不自然なところはあるけど、面白かった。ユーモアもたっぷり。
亭主は、ちょっと落ち目のカメラマン。「撮りたいから来たんじゃない。依頼されたから来ただけ。サンゴなんか撮りたくない」と妻にいう。妻の母親は、実はこの島の出身で、彼女は海外の生まれ。母の郷里は、聞かされただけで、でも関心があった。たまたま亭主の仕事先が母の郷里なので、くっついてきた、というような背景がある。
亭主は、宿が気に入らない。「ホテルなのにベッドがないのか?」「日本食なんて食えるか」「泡盛? 俺はウィスキーだ」。妻は「ここはホテルではない。畳に布団を敷いて寝るのだ」といっても、亭主はプリプリしてる。
宿の兄ちゃん、お婆は英語がさっぱり。なので、会話はまるでトンチンカン。そのズレ具合がとても面白い。
ところが、いやいや海に潜り、魚やサンゴを見ていたら、なんとシャッターを押すのを忘れてしまった、という亭主。会話のすれ違いから少し対立してた宿の兄ちゃんとも気が合って、日本食も食べる気になってきた。いっぽうの妻は、実は妊娠していた。でも、亭主は以前から「子供は要らない」といっていた。言えば別れが待っている。そのつらさをお婆にいうも、お婆は便秘していると勘違いしてる。
次の撮影には、妻も付いていった。亭主がもぐる。その後に、妻はそのまま海に飛び込む。振り返る亭主に、浮かぶ妻の姿が見える。というこの場面は、かなりの感動モノ。…亭主は妻の妊娠に感づいていて、一緒に家庭をつくるつもりであることを妻に告げる。短い滞在が終わって、2人は帰っていく・・・。
コンパクトに、上手くまとまってる。行きも帰りも、ワーゲンのバンが故障して押していく…というシーンがあったり、勘違いから亭主が兄ちゃんにパンチを入れ、そのお返しを後でしたり、そして会話のズレの絶妙さも楽しい。
もっとも、いまどき日本の畳の生活を知らないカメラマンがいるか? 日本食が嫌い? 遅れてるだろ、それって。とか、ツッコミどころはあるし、ツンツンしてた亭主が、海の生物に触れただけで心が変わってしまうというご都合主義もあるけど、まあいい。
●『ベンディート・マシン V ? 引金を引け!』
スペイン/2014/監督:Jossie Malis
HPのあらすじ「紛争に巻き込まれてしまった異邦人は、嵐が過ぎ去るまで辛抱強く待つべきだったのだ」11分54秒
影絵のようなアニメ。古代の地球に宇宙人がやってきた。戦乱の世で、以後も延々と戦争が繰り返される。その間に母船はどこかに行ってしまい、宇宙人も地下に埋もれて時がたってしまった。現代になって、母船がやってきた。母船は宇宙人を発見すると、ほじくり出して救助し、帰ろうとするのだが、そこに別のエイリアンの攻撃が…という場面は、ゲームのスペースインベーダーで表される。そして、さらに、宇宙人同士の戦いも繰り広げられていた…という感じで、地球だけでなく、宇宙どこでも戦いがあるものだ、ということをいっているのかな。
●『キミのモノ』
イラン/2014/監督:Reza Fahimi
HPのあらすじ「ある小さな街で、2人の少年が手に入ることのない物たちを、自分だけのものだと言い張っていたが、やがて、あらゆる手の届かないものを分かち合うこととなる」18分04秒
これは、このあいだ、東京フォーラムで見た。なので、感想はなし。
Mommy/マミー10/19ギンレイホール監督/グザヴィエ・ドラン脚本/グザヴィエ・ドラン
カナダ映画。原題は“Mommy”。allcinemaのあらすじは「とある架空の世界のカナダ。そこでは新政権が誕生し、新たな法案が可決され物議を醸す。それは、発達障がいの子どもを持つ親が、法的手続きを経ることなく養育を放棄して、施設に入院させることができるという法律。この法律が、やがて一組の母子の運命を大きく左右していく??。15歳になるADHD(多動性障害)の息子スティーヴを抱えるシングルマザーのダイアン。矯正施設から退所したばかりのスティーヴは、常に情緒不安定で、一度スイッチが入ってしまうと、まるで手に負えなくなってしまう。そんなスティーヴとの2人暮らしにすっかり疲弊してしまうダイアン。そんな中、ひょんなことから母子は隣に住む女性カイラと親しくなっていく。彼女との交流を重ねることで、母子の張り詰めた日常は、少しずつ落ち着きを取り戻していくかに思われたが」
ADHDの子を持つシングルマザーっていう難しい素材を扱って、映画的にはよくできていると思う。けど、映画が訴えようとしていることには素直に賛成できないんだよな。障害時をもった母親のダイアンは気の毒だ。だけれども、楽天的で傲慢で自分の主張ばかりする態度を見てると、なかなか彼女に同情できないところもある。法律による入院は、あらすじにあるような強制的なものではなく、扶養者の同意の下で行われているし、そもそも、スティーヴは何かの施設に入っていて、食堂に放火。施設に入っていた仲間に大けがをさせていて、あとから25万ドルだか2万5千ドルだかの請求書がとどいてるぐらいだ。このとき、役所からはさらなる施設への入所を勧められている。けれど、ダイアンはそれを拒否。いままで通り施設で見てもらいたいと要求している。でも、それは叶わない。かといって、「生活保護はゴメンだ」と言い放っている。でも、あれこれあって、でも最終的には入院の道を選択している。ながいながい遠回りをしたわけだ。もっと手段はなかったのか? 役所としては、あの選択ししかない? 弁護士は、ひとり登場したけど、関係を台なしにしてしまった。台なしにならなかったら、どうなったんだ? いやそれより、ダイアンに、家族はいないのか?
ダイアンの楽天性、傲慢は、ありゃ社会の迷惑じゃないのか? スティーヴの放火でケガした相手に、同情の言葉ひとつ出さない。周囲のあらゆる連中は「敵」な態度。近所の弁護士も、色仕掛けで安く働かせようとしたけど、スティーヴのおかげで失敗。
そんななか、隣家の主婦カイラと出会い、心を交流させていくんだけど。交流できるにはそれだけの理由があって、カイラもいまのところ障がい者だったりするのだ。元教師だったけれど、言葉が上手くでない。はっきり説明はされてないが、もしかして子供の自死と関係あるのかな? と。後半に、スティーヴがカイラの部屋を覗く場面があるんだけど、そのとき、少年の写真があったような…。一瞬だったので定かではない。それと、後半にスティーヴがスーパーマーケットで手首を切る場面があるんだけど、それに遭遇して、出るようになっていた越がでなくなっていた。まあ、よく分からんが、何かあったには違いない。
異様なのがカイラの家族で。亭主はIT関係で、小学生ぐらいの娘もいる。でも、みな暗いんだよ。それに、カイラがダイアンの家に入り浸りになったり、スティーヴの家庭教師を始めても、亭主はなにも言わない。フツーそれはないだろ。そこまで妻を放し飼いにしてるというのは、腫れ物に触るような何かがあるからだろう。たぶん。
てなわけで、自宅に引き取ったはいいけど、仕事はない。スティーヴは突然激情に駆られて反抗的になったり、モノを壊したり、あまつさえダイアンの首を絞めたりする。それでもあきらめず、自宅で育てようとするダイアン。それを助けるカイラ。…ううむ。どこが美しいんだ? そりゃあ、母と子は一緒に暮らした方がいいに決まっている。でも、それによってリスクを抱え込み、他人に危害を加える可能性もあるとしたら、どうなんだ?
これを日本に置きかえてみたらどうか。まあ、世間様に申し訳ないとコソコソ隠れるような生活をする一家、になるんだろう。それのいい悪いではなく、そこが日本らしいところ。この映画のように自分を主張するのは、極めて西洋的。そんな思いがしてしまう。
要は、もっと開放的で、低所得者層にもやさしい施設があればいいのに、という話なんだよな。でも、ダイアンの抵抗や、スティーヴのやるせない現実を見せた方がドラマになるからな。そうしてるんだと思うんだが、もう少しなんとかならなかったのかね。
と、基本的なところで引っかかってしまって、引き起こされるあれやこれやの出来事も、いまひとつ素直に受け止められなかった。こっちから見てると、スティーヴはちつとも可愛くない。怖い存在なんだもの。また何かやらかすか。カイラに危害を加えるんじゃないのか? なんて、ずっと心配しつつ見ておったのだよ。
ま、最後はダイアンもどうしようもなくなって、役所の手を借りて強制的な入院をさせるのだけれど、あんなだまし討ちの必要はあったのかね。寝込みを襲うとか、やりようはあったろうに。
その直後か、それまで真四角だった画面がいつのまにかワイドに切り替わっていて、スティーヴが高校を卒業し、ジュリアードに合格、そして結婚式…という映像が映るんだけど、そんな回復するのか? と見ていたら、すーっと両サイドから縮まっていって、真四角に戻った。たら、れば、の場面だったのね。
てなわけで、カイラはまたまた引っ越しで、別れをいいに来る。暗いカイラに戻ってて、スティーヴの存在がカイラを明るくしていた、というような描き方をしている。まあいいけど。当のスティーヴは、病院で拘束衣を着させられているんだけど、何かで拘束衣を解かれたスキに逃げ出して、扉の方へ…というシーンで終わってる。でも、現実的に考えて逃げられるはずはない。まあ、願望、あるいは、製作者側の理想が込められているんだろうけどね。
まあ、いろいろもやもやが残る映画だ。やなもの見ちゃったな、な気分もある。困ったものである。
・高校にいってるらしいが、その描写がひとつもないのはいかがなものか。学校でいじめられるとか、トラブルになるとか、そういうことも描くべきではなかったのか。
・スティーヴが黒人のタクシー運転手に罵詈雑言の場面があるんだけど、とても興味深い。あれは、タブーだろ。でも、たぶんあれはスティーヴの考えではなく、大人たちが影でああいっているのを真似ている、ということなんだろう。そういう差別が、いまだにあるということだ。
・知り合いの編集者に借りた金は返せたの? スティーヴを騙して連れ出したときに使ったクルマは、買ったの? 借りただけ?
・延々と、小さい四角い画面で描かれる。ワイドになるのは、たぶん、たら・れば、のところだけ。そうする理由はよく分からないが、画面が小さいからどーのという感じはまったくなかった。四角くても十分に話は伝つたわった。
真夜中のゆりかご10/19ギンレイホール監督/スサンネ・ビア脚本/アナス・トマス・イェンセン
デンマーク映画。原題は“En chance til”。「〜へのチャンス」とかいう意味らしいが…。allcinemaのあらすじは「真面目な刑事アンドレアスは、美しい妻アナと乳児の息子とともに幸せな日々を送っていた。そんなある日、通報を受け駆けつけたアパートの一室で、薬物依存の男女に育児放棄された乳児が、クローゼットの中に糞尿まみれで放置されている現場に遭遇する。衝撃を受けながらも、法律の壁に阻まれ、乳児を保護することができず無力感に苛まれるアンドレアス。そんな中、思いも寄らぬ悲劇に見舞われるアンドレアスとアナだったが」
ギンレイのHPに「スリリングに描いたサスペンスドラマ」とあったので(末尾の文章がチラッと目に入っただけ。それ以外の文字=内容説明は読んでない)、犯人が現れて奥さんと乳児が人質にでもなって…と思っていたんだけど、そういう気配がない。どころか、アンドレアスの子供が突然死んでしまい、あろうことか彼はジャンキー部屋に行き、彼らの子供と死んだ自分の子供をすり替え、連れてくるのだよ。なんだこの映画? どこに共感し、どこに感情移入すればいいんだ? できるところ、ないだろ。
妻アナの異常さは、子供が死んだときに発揮される。アンドレアスが救急車を呼ぼうとすると、「病院には連れていくな、連れていかないで」と絶叫。なんじゃこりゃ? なんだけど、後から思うに、これはこれで伏線になっていたのね。
で、妻の言う通り、救急車は呼ばない。けれど、子供の死骸をクルマに乗せ、かつて突入したジャンキーの部屋にいく…っていう件に、どれだけ説得力がある? ないよ。妻が求めれば、法を犯して誘拐魔でしちゃうのか? そもそも別の子供なんだから、すぐ分かるだろうに。と思っていたら、アンドレアスは、呆気なく、誘拐してきたことを妻にいっちまう。そこで妻に拒絶されたらどうなると思ってるんだ? 思慮が浅はかすぎて、バカバカしくなってくる。
いっぽうジャンキーのトリスタンは、子供が死んだ、なんてことになると刑務所行きなので、遺体は山に埋め、子供が誘拐された、という狂言に走る。これも浅はかすぎてバカらしい。こんな具合に、むりくりな状況・展開をつくりだして、サスペンス? アホか。
こんな状況で、アンドレアスはジャンキーのトリスタンを尋問し、子供を殺しただろう! と詰めより、どこに埋めた、と追求する。なんで? 穏便に済ました方が、自分のところに返ってこないだろうに。何で? さらに、同僚のシモンがいるところで、赤ん坊の名前を自分の子の名前と取り違えたり、アホかと思う。というか、シナリオが杜撰すぎ。
なことしてると、ある夜、アナが誘拐した子をつれて夜のお散歩にいくんだが、この夫婦、夜泣きすると子供を外へ連れ出すんだよな。そういう習慣、デンマークにはあるのか? 危なくてしょうがないだろ。話は戻って、アナは橋の上でトラックを停めて運転手に赤ん坊を託し、入水してしまう。
おやおや。やっぱりアナはちょっと頭がおかしいんだな。子供を連れていくな、と激情したり、いきなり自殺したり…。やれやれ。またもや原因は精神の病か…と思っていたんだが。アンドレアが山に埋めたことを自白し、探し出してCTやレントゲンを撮ったところ、なんと、脳内に打撲による出血、さらに何ヵ所も骨折が…。そうか。アナが救急車を呼ばないで、といったのは、幼児虐待してたからか。なるほど。まあ、それはいい。がしかし、なんでアナはそんなことを? の答はどこにもない。
育児ノイローゼ? そんなの、一緒に暮らしてればアンドレアスに分かるだろ。分からなかったら刑事としてアホだ。では、やはり狂気があったのか? ではなぜ自死する必要があったのか? もう謎だらけ。っていうか、話を広げて回収せず、ほったらかし、な感じ。
後日談があって。警察を辞めてDIY店で働いていると、トリスタンの妻だったサネを見かける。後ろには4歳ぐらいの幼児が…。あのときの、自分が誘拐した子だ…。という場面だけで、アンドレアスとサネがどうとかなるということはないのが、なんか物足りない感じ。なんたって、アンドレアスが可哀想過ぎる話だしなあ。明るく終わらせてやればいいのに。
・夜中、バーから電話で「シモンが暴れてる」と呼び出される場面があるんだけど、シモンって誰? とずっと思ってた。そしたら同僚で。ああ、最初にジャンキーの部屋に踏み込んだとき、一緒だったのか…と思い至った。分かりづらいよ。
・トリスタンは刑務所へ。サネもヤク中だったはず。同僚のシモンは、子供は「保護施設が何とかする」とかっていってたよな。サネは、子供が養えるぐらいに社会復帰したのか? どうやって?
アデライン、100年目の恋10/20シネリーブル池袋シアター1監督/リー・トランド・クリーガー脚本/J・ミルズ・グッドロー、サルヴァドール・パスコヴィッツ
原題は“The Age of Adaline”。allcinemaのあらすじは「1908年に生まれ、21歳で結婚し、娘フレミングをもうけたアデライン・ボウマン。結婚8年目に夫が亡くなり、その冬には、今度はアデラインが自動車事故に遭い、川に転落。低体温症で一度は心臓が止まるも、突然の雷に打たれ、奇跡的に息を吹き返す。すると不思議なことに、彼女の肉体は29歳のまま衰えなくなる。やがて中年になると、周囲からも怪しまれるようになり、身の危険を感じ始めた彼女は、10年ごとに名前と住居を変えるようになり、それは今日まで続いていた。その秘密を知るのは、娘のフレミングだけだった。そんなある日、パーティで知り合ったハンサムな青年エリス・ジョーンズから熱烈なアプローチを受けるアデラインだったが」
あらすじの通りのストーリーで、SF+ロマンス+ファンタジーな感じ。はじめのうち、エリスと深い関係になるのを避けていたけれど、次第に受け入れるようになり、ベッドイン。の後、エリスの家に招待されるが…というあたりまでは、結構ミステリアスな部分とかもあって面白かったんだが。エリスの実家で待っている父親ウィリアムがハリソン・フォードと分かっているので、もう展開は読めてしまう。かつての恋人で、結婚まで考えたけれど、結局はウィリアムを捨てて転居。再開でウィリアムは興奮、アデラインは衝撃を受けつつも、「アデラインは母親です」と逃げる。けれど、ウィリアムが治療した手の傷がきっかけで、事実を告白することに。ウィリアムは「息子のために、居てくれ」というのだけれど、またしてもアデラインは疾走。その途中で事故に遭い、ここでまた低体温症になって、雷の代わりにAEDで息を吹き返す…と。まあ、そうなるんだろうな、という筋書き通りだ。もちろん、これで再び、アデラインが歳を取り始めるだろうことも、その通りに話が進んだ。なので、ウィリアムと邂逅してからは、ちょっとタルい。意外な方向へのひねりがあってもいいと思うし、はたまたここは予定調和なストレート勝負でもいいのかな、と。アデライン役のブレイク・ライヴリーがかなり気品のある美人だったので、彼女を見ているだけでもオーケーなところもあるしね。
ほんと、この映画、ブレイク・ライヴリーの美しさでもってるようなもんだ。あと、ウィリアム役のハリソン・フォードのあたふたする演技もなかなか。ウィリアムの妻役のキャシー・ベイカーと、アデラインの娘役のエレン・バースティンもいい演技をしてる。そう、年寄りがいいんだよ。反対に、エリス役のミキール・ハースマンはちゃらちゃらして軽い感じだし、ウィリアムの青年時代役を演じた青年なんか、ちっとも魅力的じゃない。これじゃ、アデラインは安っぽい男に恋をする女、ってイメージじゃないか。何とかして欲しい。
まあ、冷凍された人間が時間を超えて蘇る『フォーエヴァー・ヤング』っていうのはある。『ベンジャミン・バトン』は、次第に若くなっていく、だっけ。歳を取らない、ってのは、あると思うけど、思いつかないな。どんなのがあったっけ。で、その、不老長寿がいかにつらく哀しいかを見せるわけだが、それはそれで描けているのだけれど。
ただし、細かいことになるとテキトーに誤魔化してるのが、まあ、仕方ないかな。40過ぎのときに、免許のことで警察に呼び出されたのがきっかけで、自分が歳を取らないことを調べ始めた、とか。で、そのとき、アデラインは召喚に応じなかったのか? では、そこから放浪の旅に? 娘はすでに20歳過ぎているから、働いていたのか結婚していたのか。でも、自分を隠し、他人になるのって、そんな簡単じゃないと思うがな。お金だって必要だし、仕事を見つけるにも自分を証明するモノが必要なはず。
銀行マンみたいなのがでてきたけど、あれは、何を託していたのかな。もし資金があったして、数10年後の自分に、どうやってお金を移動させるんだろう? 証明書なんかは、冒頭に出てきた偽造パスポート屋みたいなのに頼って生きてきたのかね。それもまた高くつきそう。な割りに、いいところに住んでいるし、質素とも言えない。
あと、FBIだかCIAだかに拉致されそうになったのは、どっからの情報なんだろう。ここまで目を付けられていながら、L..A.に長く住んでいられるのは、相手が死んじゃってるから? ううむ。映画だから、で済ませばいい話なんだろうけど、気になる。
ところで、フツーに老化するようになったアデラインだけど、将来、病気になったりして、歳を取るようになったことを悔やむ、ということはないのかな、と少し思ったりした。
・エリスとつきあうようになったのは、エリスが披露したテッド・ウィリアムスと馬のジョークがきっかけ。でも、馬がピッチャーになったら云々で笑ったんだけど、どこが面白いのかさっぱり分からず。だれか教えてくれ。
・ポルトガル語がぺらぺらなのは、かつて逃亡生活してるとき、暮らしたことがあるからか? 1908年生まれの107歳だと、いろいろ経験できるということか。
・エリスの実家でやってたクイズ付きのゲームなんだが、あれ、毎年やってるなら、クイズの内容ぐらい家族全員覚えてるんじゃないのか? と思ったりしたんだが。
・娘のフレミングは独身? 結婚してたら、子すなわちアデラインの孫がいると思うんだが、いるなら登場しててもいいんじゃないのかね。
バクマン。10/27109シネマズ木場シアター6監督/大根仁脚本/大根仁
allcinemaのあらすじは「かつて週刊少年ジャンプに連載していた今は亡き叔父で漫画家の川口たろうを尊敬し、一時は自身も漫画家を目指していたが、今は夢も持たず漫然と日々を過ごしていた高校生の真城最高。ある日、ひょんなことからその高い画力に目をつけられ、秀才のクラスメイト高木秋人に“俺と組んで漫画家になろう”と誘われる。最初は渋っていた最高だったが、声優を目指す片想いのクラスメイト亜豆美保と“お互いの夢が叶ったら結婚する”という約束を交わすことに成功し、漫画家の道へ進むことを決意する。こうして秋人が原作、最高が作画を担当して漫画家コンビを結成した2人は、日本一売れている漫画雑誌・週刊少年ジャンプの連載目指して悪戦苦闘の日々へと身を投じていくのだったが」
見てから10日以上たってしまった。今日は11月7日。面白かった記憶はあるんだけど、だんだん薄れていくな。まあいいけど。
漫画家の話というと、苦節何10年、下積み時代がどうとかこうとか、描きたい漫画が描けずに志がくじけるとか、そんなような話ばかりだけど。これはもうエリート中のエリートという設定で。叔父は漫画家だったけど、自分はその意志がない最高と、ストーリーづくりは任せろな秋人がコンビを組み、夏休みだったかな、に1作仕上げてジャンプ編集部に持ち込んだら手直しを要求され、直して持っていったら「手塚賞に応募してみない?」といわれるという、何じゃこれ、な話である。そんなん共感できるわけないだろ、と思ったらそうでもなく。手塚賞・赤塚賞の入賞・佳作の悲哀とか、念願かなって掲載なった後の読者投票システムの過酷さとか、そういうのが生にドキュメンタリーっぽく描かれて、とても面白い。才能のないやつの苦労や悲しみもさることながら、才能のあるひとでも大変なのだな、と。
最高と秋人の2人は1発で佳作入選するんだったかな。それでも、同し高校生漫画家でデビューが決まった新妻エイジの出現で、喜びがない、というのもすごい話で。欲張りすぎだろ、とか思うんだが、まあそれはそれ。2人は、はやくデビューしたいと切磋琢磨するけれど、応募作は編集部に却下されてしまう。
でも、同じようにデビューを狙う仲間が何人もいて、こちらがいわゆる悲哀を受け持っている感じ。アシスタント歴15年とかデザイナーからの転身組、パチンコ屋でバイトしながらのやつとかがライバルなんだが、彼らも次々にデビューが決定。焦った2人は応募作とは違う話を考えて、これでみごと連載を獲得! とかいう話なんだが、そんなに新人がデビューしたら、いま連載してる先輩漫画家はみな首ではないか? と思ったりしたんだけど、どうなのかね。
まあそんなわけで、連載は持ったけど授業もでなくちゃならないで、だんだん人気投票も下がり気味。最高がトイレで倒れて、編集長は休載を決めるんだけど、ライバル仲間が結集して助けるという、よくあるパターンの友情物語。アシ15年でデビューしたけど速攻首で田舎に帰ってたデブも呼び戻されたりしてね。そんなわけで、病院抜けだしてなんとか書き上げるんだけど、その前後の状況はかなりアバウト。
最高が血尿でGOT値が異常で、って、肝炎? それは治ったのか? 連載は最後まで中断せず? というようなことは説明なし。なんか、テキトーだな。
で、ぱぱっ、と時が過ぎて。結局、連載は中断し、学校にもどった2人は受験生? でも、ひそかに次回作を練っている、というところでエンド。ってことは、まだまだ挑戦はつづくということか。それはいいけど、アシスタントもつけず、授業に出ながら連載を持つ、ということの方が異常だったんだじゃないのか? むしろ知りたいのは、自称天才の不敵な新妻エイジは、学校に通っていたのか否か、だな。同じ境遇なら、なるほどすごい、だけど。そうじゃないとしたら、2人が敗退したのもまあ仕方がないだろ。
ところで、いきなり手塚賞に絡むだけじゃなくて、なんと最高は学園一の美少女と相思相愛になり、結婚まで約束しちゃうって、そりゃなんだよ。やり過ぎだろ。まあ、彼女、声優希望で、彼女もデビュー決まって、学校も辞めてしまって離れ離れとなり、さらには恋愛禁止で別れることにはなるんだが、こいつ >> 真城最高 って、恵まれすぎだろ。世の中、才能がなく平凡でつまらなくてモテない男だらけなのに、ここまで何でもできちゃうような主人公を設定してはいかんだろ。どこか弱点をだせ、と強く言いたい。
しかし、絵が上手いのは血統なのかね。そこそこの大学には入れるとかいっていたから、頭も悪くないんだろうし。なんか、現実にこんなやつがいたら、やだな。
ファニーゲーム10/29キネカ大森監督/ミヒャエル・ハネケ脚本/ミヒャエル・ハネケ
1997年製作、2001年日本公開。オーストリア映画。原題は“Funny Games”。allcinemaのあらすじは「穏やかな夏の午後。バカンスのため湖のほとりの別荘へと向かうショーバー一家。車に乗っているのはゲオルグと妻アナ、息子のショルシ、それに愛犬のロルフィー。別荘に着いた一家は明日のボート・セーリングの準備を始める。そこへペーターと名乗る見知らぬ若者がやって来る。はじめ礼儀正しい態度を見せていたペーターだったが、もう一人パウルが姿を現す頃にはその態度は豹変し横柄で不愉快なものとなっていた。やがて、2人はゲオルグの膝をゴルフクラブで打ち砕くと、突然一家の皆殺しを宣言、一家はパウルとペーターによる“ファニーゲーム”の参加者にされてしまう」
ハネケの旧作だ。入ったとき始まっていて、何かを引っぱっていくクルマを俯瞰で撮っていた。その後も席に着いたり、いろいろあって、デブが携帯を水に落とすところまでもう一度見た。なるほどな感じ。入替がないから、こういうことができる。
映画にもモラルがあって、主人公は死なないとか、勧善懲悪で最後に正義は勝つとか、重要でない人物から殺されていくとか、ハッピーエンドとか、見る人に気分よく映画館を出て行ってもらうための工夫だ。もちろん主人公が死んでしまう映画だってゴマンとあるけど、そこには考えさせる何かがあり、それを表現するための手法だったりする。この映画は、そういうモラルや常識は無視して、道行が別れていたら最悪な方ばかりを選択して話を進め、人が不幸になろうが何だろうが、そこに残念な思いも教訓も感じさせず、淡々と描くというやり方に徹している。
さらにブキミなのは、理由を描かないことだ。そもそも人が殺人を犯すのには、たいてい理由がある。自分が生き残るため、金のため、考え方の違い、宗教的なもの、恨み…。そのどれにも当てはまらない。意味不明な虐待と殺人の話である。それに向かって「なんで?」といっても意味がない。意味がないから、不安になる。そんな映画で、こういう映画をつくったら客は入らないだろうし、非難されるに決まってる。でも、不条理というオチもなく、なんだかわけが分からない。そんな映画。
最初、隣家の主人とともにパウルがやってきて、ボートを湖に降ろす手伝いをするんだけど、その様子は描かない。次に、大人しそうな様子でデブのペーターが、隣家の奥さんから卵を貰ってくるよういわれた、とやってくる。そういえば、到着したときクルマを停め、隣家の人間と話していたけど、遠距離だったからよく分からなかった。けど、頭の部分だけだけど2度見して、なるほど、なところがたくさんあった。まあいい。
ペーターはもらった卵を落として割る、携帯電話を水に落とす。ドジなやつ…。そこにパウルがやってきて、亭主のゴルフクラブを見つけると、ちょっと振らしてくれ、なんていう。嫌なやつ。ペーターは「犬に追いかけられたから」とまた卵を割り、12個パックだからまだあるだろ、とさらなる卵を要求する…。やな感じ。
アナも不審顔。ペーターは「ボクのどこが悪いのか?」と、オタクっぽい感じで訴える。この後、順番は正確に覚えてないんだけど、パウルはゴルフクラブで犬を殺し、それをアナに発見させる。怒った亭主ゲオルグがパウルに平手打ちするんだけど、逆に、ゴルフクラブで足を殴られおそらく骨折。さらに、子どものショルシにも暴力…。
こいつら単なるドジじゃない。いったい何なんだ?
以後、家族3人を軟禁していじめ抜き、果ては息子のショルシを射殺。でも、どういう経緯かは分からず。まあ、フツーは子どもは殺さないわけで、あえて逆なでしてるんだろうけど。その後、夫婦をしばったままどこかへ出かけてしまう。その間に、アナは手足のガムテープを外して外へ。別荘地で人はあまりおらず、でも警戒して最初のクルマは見送ったんだけど、次のクルマを止めたら…。まあ、読めるわな、この展開は。しかし、どうして2人を置いたまま外に出ていったのか、理解不能。もっと慎重になっていいと思うんだが。
で、アナを連れて戻ってきパウルとペーター。次に殺害するのは亭主のゲオルグ。ただし、その前にちょっとしたギミックがあって。なんと、アナ(だったよな?)がペーターを射殺してしまうのだ。おお、意外な展開! と思っていたらパウルが「リモコン、リモコン、どこいった?」なんて探してボタンを押すとシーンが逆回転。「こういう展開はない」とかいって撃たれる前の状況に戻ってしまう。なんとなんと。いや、その前にも、パウルは観客に向かってモノを言うシーンがあって、フツーの映画からちょっと逸脱するのだよ。
まあきっと、こういうことだろう。フツーの映画なら、最後は正義が勝って悪が負ける。だから、この辺りで、息子は殺されたとはいえ、窮地に追い込まれた方が悪人に復讐して終わる。そういうカタストロフィがある…のだろうが、この映画はそういうのとはわけが違うんだよ。そうはならないことになっているのだ、と強調したい、のではないだろうか。
そして、明け方。2人はアナをヨットに乗せ、対岸の別荘に来ている一家の知り合い宅をめざすんだが、その途次、ひょいっとアナをヨットから突き落としてしまう。おお。なんと呆気ない。このあたりも、フツーの映画みたいに、じりじり時間をかけたりはしないよ、ということなんだろう。
そして、2人は新たな獲物を求めて、家に入っていく。「対岸の家の人からいわれて。昨日、ちょっとお会いしましたよね。卵をもらってきてくれ、って言われたもんで…」といいながら。そのうち対岸の家を訪ねるとは思っていたけど、最後のオチだったのね。
そりゃあスッキリ楽しめる映画ではないけど。途中でやになるほどでもなかった。なるほど、こういう、得体の知れない悪に徹するつくり方もありなのだな、と。でも、救いのない話を見たがる人はいないわけで。なにかしら光明を見いだせるような部分を残すものだけど、それすらないという徹底ぶり。潔いといえばそうなんだけど、やっぱ、理由が分からないことぐらい不気味なものはないよな。
あの2人は、社会に戻れば学生で、フツーの生活をしているのかも知れない。でも、バカンスをかねて人をいじめたり殺しにやってくる。見直して分かるのは、最初に隣家の前でクルマを停めたとき、隣家のパウルとペーターもいて、そこの家の人間となにやら話をしていたことだ。もしかしたら、子どもが家の中で人質になっていて、余計なことをいうと殺す、とでも言われていたんだろう。その後の、卵と携帯の件は絶妙で、この手口で他人の生活にずけずけと入り込んでいたのだな。まあ、現実的に考えたら、こういう殺しはそう上手くいくとはいえないと思うんだけどね。いくら手袋をしていたとしても。
炎62810/29キネカ大森監督/エレム・クリモフ脚本/アルシ・アダーモヴィチ、エレム・クリモフ
1985年製作、1987年日本公開。ソ連映画。原題は“Idi i smotri”。Google翻訳では「是非、ご覧ください」と変換されたぞ。英文タイトルは“Come and See”。「目を開けてよく見ろ!」的な感じかな。キネカ大森のあらすじは「1943年、ナチス・ドイツ軍占領下の白ロシアの村。砂山でライフル銃を拾い、パルチザン部隊に加わった少年フリョーラは、戦闘に行けず、森の宿営地で知り合った少女と行動を共にする。空爆を逃れて二人で家に帰り着くと、そこに母と妹の姿はなく、村は死体の山となっていた。少年が銃を拾った姿を目撃され、報復として村ごと滅ぼされたのだ。少年は自責の念に襲われ、生き残った村人のために食糧を集めようとパルチザンに同行するが、狙撃され、仲間は次々と命を落とす。一人逃げ込んで匿われた別の村では、ナチス親衛隊特別行動隊が村人たちを集め、狭い教会に閉じ込めて火を放つなど残虐の限りを尽くす。恐怖の極限に置かれた少年の顔は、老人のように変わり果てる」
あまり上映されないけど、戦争映画として知る人ぞ知る、であることは後から知った。なわけで、戦争映画だな…という感じで見ていったんだけど、ドンパチがあるわけでもない。冒頭の、遺骸を埋められてる場所から銃を掘り出して持ち去ったり、パルチザンに入るシーンなんかは、音楽と陽気さを差し引いたクストリッツァみたいな感じだな、と見てた。フリョーラはパルチザンの陣地で少女グラーシャと出会うんだけど、彼女は一種ニンフ的に描かれてるけど、実際はわからない。敵に捕らわれていたのを助けられたと言っていたので、性的凌辱を受けていたのかも知れないけど、そういう雰囲気は見せていない。
パルチザンの部隊が戦闘に行くんだけど、ある兵士に靴を提供することになって、さらに、まだ少年だからか、残れといわれ、森をさまよううち、グラーシャと再会。名前を「女みたい」とからかわれたり、グラーシャがカバンの上でステップを踏んで踊るシーンとか、この辺りはファンタジーみたいな描写で、いったいどうなっていくんだ? と思っていたら、パルチザンの陣地に空爆で、施設がどんどん吹っ飛んでいくんだけど、いまどきのCGと違って爆薬を使ってるから、怖いぐらいの迫力。
これで怯えたのかなんなのか分からないけど、フリョーラはグラーシャをつれて家に戻るんだが、村には人気がない。母親と妹2人もおらず、フリョーラは「きっと島にいる」といって駆け出すんだけど、追っていったグラーシャがふと振り向くと、どこかの家の背後に遺体が山積みに…というシーンが、最初の予兆かな。
泥沼に浸かりながら島に向かう場面は、なんでこんなシーンが必要なのか分からないんだけど、固まった藻をかき分け全身泥だらけで、でも、グラーシャは村人が殺されていたことを告げないのはなぜ? とか見てたんだが。実録的なフリをしつつ、この映画はあれこれと象徴的な描き方をしてるんだよな、きっと。だって、その島には生き残った村人とかいるんだけど、泥だらけじゃないし。まあいい。
で、銃を掘り出したからどーとか、と村人が言ってるのが聞こえてきた。ってことは、フリョーラがパルチザンに入るために掘り出した銃が原因で村がドイツ兵に襲われた? なんか、それも話が遠い気がしたけど、この辺りからこちらの気も遠くなってきて、睡眠。ふと気づいたら銃をもって男たちと同行していて、ひとりが地雷原で爆死…、なところで場内が明るくなって5分間の休憩。おお。なんだこれ。うけつけで「5分間の…」とかいってたのは、このことか。しかし、143分の映画でインターバル? なんだ? な感じ。
寝てた部分については、あるサイトに「少年が銃を拾った姿を目撃され、反乱軍として村ごと滅ぼされてしまったのだ。そのことを生き残りの村の人に聞き絶望する少年。周囲は「あなたのせいじゃない」と慰めるが少年は自責の念に駆られパルチザンとなってせめて村の人のためになるように食料集めに奔走する。しかしその途中で仲間は地雷を踏んだりドイツ軍に狙撃されたりして次々倒れていく」と書いていた。しかし、グラーシャとはどういう別れだったのか、それが気になるんだけどな。まあいい。
後半。フリョーラと仲間1人が農家に行き、でてきた男を銃で脅し、牛を連れ去る。どうもその農夫はドイツ協力者で、ドイツ兵を接待していたようだ。しばらく歩いていると、その農家から機銃掃射をうけるんだけど、これ、ホントに撃ってるな。銃弾の曳光が実戦のと似てるし。牛の腹に数発の銃弾が当たって足ががくっとくずれるのは、ホントに撃ってる。近くにフリョーラもいたと思うけど、オソロシイ撮影だ。で、この銃撃で同行の男は死んでしまい、フリョーラは死んだ牛に寄りかかって夜を明かすんだが、ドイツ兵はなぜ確かめにこなかったのかね。
夜が明けて、霧が立ちこめている。フリョーラは「牛を運ぶ」という名目で農夫から荷車を奪おうとするんだけど、あれは食糧を持ち帰ろうとしたのか? よく分からん。でも、ドイツ兵が遠方に湧いてきたので、農夫に服や銃を隠すようにいわれ、農夫の家に連れていってもらう。どうも村にドイツ軍がやってきたようで、惨劇はここから始まることになる。
ドイツの親衛隊が村人を集め、集会所みたいなところに押し込める。髪をつかんで引きずり回される女性は、ありゃ、ほんとに髪だけで引っぱられてるんじゃないか? 「子どもはダメだけど、出てきてもいいぞ」なんてドイツ兵が言うので、何人か窓からでてくるなかにフリョーラもいて。ひと段落すると建物に火が放たれ、機関銃も…。このシーンは、こないだ見た『進撃の巨人』の前編で、建物に逃げ込む住人を彷彿とさせた。住人の殺戮を、ドイツ兵は酒を飲みながら意気揚々と笑いながら遂行していく。幾人か耐えられず戻してるのもいたけど、あれはドイツ兵なのか村人なのか、よく分からない。ひととおり村の建物に火を放ち、殺戮もすると、ドイツ兵はクルマで去っていくんだけど、ひとり少女が幌付きのトラックに引っ張り込まれるのは慰み者か。立ち去る寸前、将校らしいのがフリョーラの頭に拳銃を向けて記念撮影。もちろん、撮影が終わると放り出されるんだが…。
ここで描かれていることが実際にあったかどうかはよく分からない。白ロシア=現在のベルラーシにナチ親衛隊が訪れ、628の村が焼き討ち、虐殺されたという歴史的事実はあったようだけれど、ドイツ兵のすべてが笑いながら銃を乱射したかどうかは知らない。映画的演出もあるとは思うけど、ものすごく一方的な描き方をしているな、と思ったのも事実で。ドイツ軍の行動については、ステレオタイプだな、と。それと、監督が被害者ソ連をことさらに強調しているのも、なんだかな、と思いつつ見ていた。なぜなら、ソ連軍がポーランドや日本、その他に対して行なった傍若無人も歴史的には知られているわけで。この映画で、ドイツ親衛隊はユダヤ人への差別を露骨に口に出しているけれど、ソ連もまたユダヤ人への迫害はかなりひどいわけなので、お前が言うかよ、な部分も感じてしまった。1985年当時に、カチンの森事件も知られていたんだろ?
もちろんだからといってドイツ親衛隊の行為が相殺されるわけではない。むしろ思ったのは、原爆とか大空襲とかソ連軍の進行とかシベリア抑留とか、日本が被害者となっている映画をつくって世界に公開したりすると、何をいってるんだお前ら、パールハーバーや南京、重慶でなにをした、朝鮮併合や従軍慰安婦問題をさておいて被害者面するな、と思われるんだろうということ。要は、被害者であることだけを強調する、あるいは、加害者を憎悪するような表現は、相手側からも「てめえのことを棚に上げるんじゃないよ」っていわれるだろうな、ってことだ。
「そんなことはない。戦争の悲惨さを訴えているのだ」と言ったとしても、特定の国の特定の行為を描いていれば、どうしたって観客は感情移入させられる。この映画なら、ドイツ人は残虐で鬼、善良な白ロシア人は被害者、ってことか。でも、時と場所によっては立場が逆転することもある。さて、どうするか?
さて、悪いことはつづかない? ドイツ親衛隊はパルチザンの襲撃で壊滅、といっても、その描写はないけど。親衛隊の隊長や将校が拿捕される。隊長は、「我々は戦う意志はない。友好的だ」とか助命を請うんだけど、部下の将校は「すべての根源は子ども、子どもを絶やす。共産主義は許さない」みたいなことをいうんだよ。それで、建物から子どもをださなかったのか。そうはいっても、出てこない大人もたくさんいたわけで。惨劇で助かったフリョーラと、殺された村人の違いは何なんだ? たんなるドイツ軍の気分の問題か? そんなの生かしておいたら証言者になるんだから、ありえんだろ、とか思いつつ見てた。
フリョーラはガソリンをもってくるんだけど、その前にパルチザンだったか被害者の村人が親衛隊とその仲間、部下以外にも白ロシアの協力者もいたようだけど、は機関銃で殺されてしまう。それでも焼くのかと思ったら、焼かないのな。で、そこらに落ちていたヒトラーの肖像画に向け、フリョーラは銃を発射するんだが。そのヒトラーの過去が走馬燈のように描かれ、ヒトラーの母親や幼児のヒトラーが見えてくる。するとフリョーラは、引き金を引けなくなって…。パルチザンの部隊に合流する…というラスト。なんだけど、いまでもよくある設定に、タイムマシンがあったとして、子どものヒトラーに会ったら、殺しますか? ってのがあるけど、そのことかね。子どもは殺せない? では、生まれながらではなく、後の感化や教育によるものだから、それを変えろということか? よく分からない。
・ときどき映される双胴の飛行機は、どういう意味があるのだろう? あれは、ドイツ軍の戦闘機?
・ドイツ軍のクルマの、ベンツのマークが異様に強調されるのは、ベンツへの敵意かね。
・巻き込まれ、翻弄されるに従って、次第に少年の顔から老人のような顔になっていくフリョーラ。精神的な疲弊を表しているのか? それとも、虐殺の場で、子どもではないことを見せれば、殺されないと思ったから? でも、窓から出てきたとき「子どもが代表で出てきた」とか、ドイツ軍に言われていたよなあ。
・虐殺シーンは、村のセットの建物に火がつけられている。燃え尽きる前に撮ったんだろうけど、結構ハードな撮影だったろうな。 ※調べたら、ドイツのアインザッツグルッペン(移動虐殺部隊)という組織の話らしい。紹介するホームページがあった。これもホロコーストの一部で、最初はユダヤ人が対象だったけれど、しだいに共産主義者、そして、だれかれ構わず殺害していくようになったとか。殺害も、麻痺してくると、制止しようがなくなるのか。快楽殺人的なところもあったみたいだな。

 
 

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