2015年11月

イマジン11/4ギンレイホール監督/アンジェイ・ヤキモフスキ脚本/アンジェイ・ヤキモフスキ
ポーランド/ポルトガル/フランス/イギリス映画。2012年製作、原題は“Imagine”と、まんま。allcinemaのあらすじは「リスボンにある視覚障害者のための診療所。そこでは、世界各国から集まった患者たちに、治療やトレーニングを行っている。盲目の男イアンは、診療所の子どもたちに“反響定位”という方法を教えるためにやって来たインストラクター。その方法をマスターすれば、視覚障害者用の白杖を使わなくても、自由に歩き回れることを実践してみせるイアン。しかし、時に子どもたちを危険に晒しかねないイアンの指導法に、診療所側は懸念を募らせていく。そんな中、自分の部屋に引きこもりがちだった女性エヴァが、イアンの話に興味を持ち、自分も白杖なしで外を歩けるようになりたいと思い始めるのだったが」
惹句に「リスボンの街で出会った盲目の男女は恋に落ちた」らしいけど、そうなのか? この映画。思ったのは、「考えるな、感じろ」ではなく「感じて、考えて、動け」な話だなということだ。ラブストーリーで売ってるようだけど、盲人を通して、生き方を示唆しているような気がした。とはいっても、それが正鵠を射ているかどうかは分からないけどね。
あらすじには、反響定位を教えにきた、とあるけど、院長は「定位は教えないでくれ」っていってなかったっけ? よく覚えてないんだが。まあとにかく、イアンは中庭に生徒を連れ出し、いろんな音を聞き、風を感じ、舌を鳴らしてその反響でモノがどのように配置されているか、とかいうようなことを思い浮かべる、というようなことを生徒たちに教えていく。最初のうち、生徒たちはイアンを信じず、廊下に物を置いたりして意地悪をする。杖を使わないイアンは、それらを巧みにかわすけれど、床近くに張った紐には引っかかってしまう。でも、そんなこんなを介しながら、次第に生徒の心を惹きつけていくようになる。
イアンの隣室の女性エヴァは、あれは生徒なのか? 結構な歳だと思うけど。彼女の気を惹くため小鳥の足音とかひまわりのタネの音とか、いろいろ工作し、とうとう一緒にドアの外に行くことに成功。交通の激しい道路を渡ったり、サクランボの実をとってくれたり、最後はカフェにまで連れ出し、ワインを堪能。これにすっかりやられてしまったエヴァ。それを見ていた生徒の一人も、外への興味を抱き始めるのだが…。
院長が、杖をつかなくても分かるなら見せてくれ、というので中庭の自転車の場所を特定。次はバイクのある場所を…といわれ、歩いていたら、石炭のシューターの穴に落ちてケガ。以降、「杖を使わずに院内を歩くな」と言われてしまう。のだけれど、それでも懲りずに出かけていくのは、あれは、なんだっけ? ある男子生徒に「近くに海があって、バイクのような音は船で、波止場もある」と言った手前、それを確かめに男子生徒と行くんだっけか。そのシーンは次第に思わせぶりになっていって、水がありそうでないような、でも最後は岩壁に出てそこから石を投げるんだが、その様子を通報されて警察に保護され、ついに院長から「出て行ってくれ」といわれるんだったか。
その前に、エヴァだったか男子生徒だったかが、カフェに居座る老人たちに「いちばん近くの波止場は?」と聞くんだけど、答は「バスに乗って…」とかいう話で、近くに海はないということだったんだよ。ところが、近くに波止場はあった? しかも、男子生徒(エヴァだっけ?)がひとりで外出し、波止場について椅子に座ると、その向こうを巨大な客船が通過するシーンもあるんだけど、果たしてあれは事実なのか? 男子生徒の心の目が見たイメージなのか? だって、カフェの爺さまたちがウソを言うわけはないだろ。
てなわけで、後半の、男子生徒と波止場に行く場面とか、生徒の眼前を客船が横切る映像は、事実かどうか、怪しい。まあ、そういう描き方をしているんだろうけど。
てなわけで、出ていくことになったイアン。その後を追って、エヴァも杖なしで、ひとりで出ていくんだが。見失いながらも、ちゃんとカフェにたどり着き、椅子に座る。と、その近くにイアンも座っているという寸法で。では、果たして、次はどうなるのか、よく分からない。
気になったのは、イアンが出ていった後に、診療所の用務員だったかがエヴァに「あの男が鳥の足音をさせたのは、これよ」とかいって針金を見せてたような記憶があるんだが。てことは、やっぱりイアンは詐欺師なのか? 詐欺師というか、本当は目が見えるのか? あと、一緒に出かけたとき、エヴァに木から獲って見せたサクランボも、実は果物売りの店頭のものだった、ってオチも明かしている。そういえば、男子生徒の前で義眼を取りだして見せていたけど、あれはトリック? いや、本当に盲人なのか? なんか、よく分からない。
てなわけで、どーもスッキリしない映画だった。感じて想像する、のは素晴らしいことだ。けれど、杖なしで歩けば、当然ながらトラブルを引き起こす。果たしてそれでよいのか? では、盲人が杖なしで歩いてもトラブルを引き起こさない街をつくるべきか? でも、そりゃ大変なことになる。では、いったいこの映画は、何を言おうとしているのか? ううむ。よく分からない。
感じてイメージしろ、というけれど。元は見えていて、見えなくなった人なら、世界の見え方を知っている。でも、生まれつきの盲人の場合、イメージしようにも具体的には難しいんじゃないかと思うんだが、どうなんだろう。
※左斜め前のおっさんが、ひっきりなしに首を左右にこきこき動かすヤツで、それが気になって映画に集中できなかったってのがある。何とか言ってやろうかとも思ったけど、本人はまったく気づいてないんだろうし、言われたこともないだろう。こんなんで面倒を起こしてもやだし。イライラをガマンして見たので、細部が見えてないのだ、くそ。
ザ・トライブ11/6キネカ大森1監督/ミロスラヴ・スラボシュピツキー脚本/ミロスラヴ・スラボシュピツキー
ウクライナ映画。原題は“Plemya”。Tribeとは、部族とか連中、という意味のようだ。allcinemaのあらすじは「ろうあ者の寄宿学校に入学したその少年は、そこで犯罪などに手を染める不良グループ(トライブ)の手荒い洗礼を受ける。しかし根性を認められ、厳然としたヒエラルキーが確立している組織の底辺に組み入れられる。その中で、様々な犯罪に加わり徐々に頭角を現わしていく。やがて、リーダーの愛人で売春をさせられている少女に心惹かれ、彼女とたびたび関係を持つようになるが」
ほとんど聾唖者だけが登場し、セリフはほとんどない。あるのは手話のみ。しかも字幕がないので、内容は想像するしかない。では、手話が分かる、といってもウクライナの、だけど、という人には、会話の内容が分かるのだから、内容も深く理解できるのだろうか? よく分からない。字幕があってもいいような気もするけど、まあ、ないならないで構わない。
あともうひとつ特徴的なのが、ほとんど全編が1シーン1カットの長回しでのつなぎ。まあ、こちらは観察者のような気分になるし、目を引くけど、話の内容とはあまり関係ない。というか、話は救いがないところが多くて、どうみてもいまいちありきたり。驚くような展開もない。まあ、悪いやつは悪いことに染まり、落ちていく、というようなことが描かれるだけだから、見ていて同情もできないし、とくに感動もない。やっぱ、人物の成長があるとか、救いが見えないと、楽しくないからね。
で、冒頭は、ひとりの少年がカバンを提げて建物にやってくるところ。中庭の風景は卒業式? 女性がみなすらりと背が高くきれいだという印象しかないんだけど。訪れたのは校長室? 女の校長に挨拶し、ある少年に部屋に連れて行かれるんだけど、もう怪しい。バンの荷台から何か荷物を受け取り、それをもって部屋まで行く途中に裏の方に行き、年長の少年…ボスみたいのに紹介され、煙草を吸うんだったかなんだったか。それから部屋に行っても、相部屋で、すでにいるルームメイト?に追い払われたり何だりと、話がよく分からない。それでも、どっかで寝られたのか、授業のシーンになるんだが、担当の女教師はきれいだけど足が太い、ということしか印象にない。
で、それ以降、授業のシーンは後半に技術家庭で木槌みたいのをつくっている場面があるだけで、校長も出てこなければ教師もでてこない。喧嘩したり、夜出かけて売春したり、なんだかんだあるんだけど、一切登場しない。なんだこの学校は。こんなルーズな学校はあるのか? というのが印象で、だから、リアリティを感じることができなかった。
みんなのいる前で殴り合いをして、その儀式を通過して、仲間になったようだ。けど、この学校は生徒がすべてチンピラなのか? そうじゃないフツーの生徒はいないのか? いるだろうけど出てこない。まるで悪の巣窟みたいな感じに描かれる。だから、とてもリアリティを感じることなんかできなかった。
で、ここの女生徒2人は夜ごとトラック中継所に出かけ、春を売っている、らしい。客を見つけるのは男子生徒。その彼が、バックするトラックにひかれ、少年は後釜を任されるようになる。のだけれど、片方の少女に惹かれたのか、最初は彼女を金で買う。嫌がっていた彼女も、嫌いではないような感じになるんだが、そもそも彼女はボスの彼女らしい。なのに、ある夜、少年は彼女に売春させるのを強引にやめさる。このおかげで部屋を追われ、ちょっと知恵遅れみたいな生徒と同室になるんだけど、報復はそれぐらい、というのがよく分からない。もっとボコボコにされるのかと思ったのに、仲間はずれにされるだけ。そんなもんなのか?
せっかく悪のグループで役割を得たのに、恋をしたおかげで、このハメに。
で。売春に行くのに、冒頭に出てきたバンの運転手が連れていくんだけど、その運転手のところに別の男がやってきて。少女2人のイタリア行きの話になるんだけど、これがまたよく分からない。あの男は誰なんだ? そしてまた、何のために彼女らはイタリアのパスポートを取りに行ったのだ? 買春ツアーか?
てなところで日陰暮らしに陥っていた少年が、そのパスポートを奪い、噛み千切るんだが。そういう抵抗をしてどうなるというのだ。バカか。そんなことより、パスポートが再発行されたのかどうか、気になって仕方がなかった。そんなことどうでもいいんだけど。ははは。
あと、たまげたのは技術家庭の授業で、教えていたのがあのバンの運転手で。げげ。あれ、教師なのか。教師が女生徒に売春させ、その上がりを掠めとっていた! なんと。しかし、それを最後の方で明かすって、ずるくないか? まあいいけど。で、少年は、技術家庭の時間につくった小槌をもってその技術家庭の教師の部屋を訪れ、頭をかち割るんだよ。まあ、組織の黒幕だから恨み骨髄なんだろうけど。でも、教師は独身らしく、寒い生活をしてるみたいに描かれておったけどな。それはさておき、少年も彼女のことがなかったら、まだチンピラやってたわけだよな。なんかな。
その後だったか先だったか。少年は、ボスたちの寝ている部屋に入り、サイドテーブルで2人の頭を叩きつぶすんだが。気がつかないものなのかね、いくら耳が聞こえないからって。雰囲気がつたわるような気がするんだけど。ところで、あのサイドテーブルは発泡かなんかででつくられてるのか? どうやって撮ったのかな。結構、がしがし当たってたけど、サイドテーブルが壊れる感じはなかった。なんてところを見てしまう。ははは。
そうして、走っていくような少年の表情で終わるんだっけかな。よく覚えてないけど。それで少年は、この先どうなるんだ? なんか、こんな終わり方でいいのかよ、なラストであった。ほんと救いがないまま終わるとはね。
で、思うに、なにを描きたかったんだろう。さっぱり分からない。結構な緊張感のある映像と、なかなか可愛い少女、そのヌードとか濃厚なセックスシーンがあったりして寝はしなかったけど。環境が悪いとこうなるから改善しようとかいうわけでもない。むしろ聾唖はヤバイ、な印象だけが残ってしまう。だいたい、少年を始めとする生徒の家族や家庭なんか、まったく登場しない。だから背景が分からない。さらに、学校や教師の様子も分からない。もしかして、学校ぐるみでヤバイから、どうにかせい、ということなのか?
・売春担当でバックするクルマに轢かれた少年の後始末はでてこないのな。あんなところで轢かれたら、不審に思って誰か調べるだろうに。はたまた、女生徒たちがパスポート取っても、学校は無関心なのか? 最初に出てきた女校長とか女教師とか、悪狸にはみえなかったんだがな。いますこし背景を描き込んで欲しいところである。
それにしても、彼の地の女の子は足が長くてスタイルがよろしいね。でも、30過ぎたらぶくぶく太ってくるのかも知らんけど。
ラブバトル11/6キネカ大森1監督/ジャック・ドワイヨン脚本/ジャック・ドワイヨン
原題は“Mes s?ances de lutte”。Google翻訳では「私の闘争セッション」とでたよ。allcinemaのあらすじは「父親の葬儀のため田舎に戻った“彼女”は、財産分与をめぐるトラブルに巻き込まれ、過去のトラウマに苦しめられてしまう。かつて恋心を抱いていた男性に再会した彼女は、現実逃避のため風変わりなセラピーに熱中する。しかしふたりのセラピーは、怒りを解放するために衝突を繰り返すという内容だった。やがては、口げんかから殴り合いにまでエスカレートするのだが」
見てから10日以上過ぎてるのか。なんか退屈な映画で30分ぐらい寝たと思う。若い女が男のもとを訪ねてきて、あーだこーだいうんだけど、知り合いらしい。でも、過去の経緯はよく分からない。なぜ別れたとか、そういうことも分からない。父が死んで、兄弟で揉めてるようなことを言ってるけど、彼女がこだわってるのはピアノで。「あれはパパが私にくれるっていってたの」とかなんとか、どーでもいい感じ。
男は、あれは管理人なのか? 家は彼のものじゃないよな。そこに女が訪ねてくるんだから、女の方が気があるんだろうけど。だったらさっさと行動に移せばいいのに、なんだかんだと観念的なことや相続の経緯や父親のことや、なにやかにやだらだらいうだけ。ぜんぜんドラマが始まらない。なわけで寝てしまったんだと思う。
目が覚めてからも同じような案配で。↑のあらすじにはセラピーとあるけど、覚えてないのは寝ている間のことだからか。なんか、求めつつ喧嘩して、男を挑発してセックスに持ち込んでは、蹴ったり逃げたりしてて、なんかよく分からない。セックスシーンは、山中で泥だらけになってたり、絡み合って女のパンツが丸見えになってたり、もあ勝手に自由にやらせてる感じで。エロいところもあったけど、だったらそういうAVにすりゃいいじゃねえか、な感じの内容で、というか、内容がまるでない。
そんな感じでだらだらと最後まで…だったのか。だいたい、ラストシーン覚えてないし。
それにしても、こんな映画、よく公開したな。
ボクは坊さん。11/9新宿武蔵野館2監督/真壁幸紀脚本/平田研也
allcinemaのあらすじは「愛媛県今治市の永福寺で生まれ育った青年、白方進。高野山大学を出て僧侶の資格は得たものの、お坊さんとなる決心がつかないまま、今は地元の本屋で書店員として働いていた。ところがある日、永福寺の住職である祖父が急死し、進は名を光円と改め、住職となって永福寺を継ぐ決意をする。しかし、知っているようでまるで知らなかったお寺の世界に戸惑うことばかり。そんな頼りない光円に長老の新居田はじめ檀家衆もあきれ顔。おまけに秘かに想いを寄せていた幼なじみの京子は、突然の結婚宣言。しかも、その式を永福寺で行いたいというのだった。こうして悩み多き日々を重ねながらも少しずつ住職としての経験を積んでいく光円だったが」
ドラマづくりの勘所を分かってない感じかな。シナリオもダメなら、演出はさらにダメ。感情移入させようと一所懸命にセリフや音楽に工夫を凝らしてるのは伺いしれるけど、まるで空振り。空虚なしらけ感が漂うばかりである。
幼なじみ(?)の京子が結婚する場面はおぼろに覚えてる。でも、睡魔に抗いきれずそのまま沈没。気がついたらあれは高野山なのか、進むが同級生の栗本ともう1人とひどく酔って、翌朝、3人で歩いている辺りだったかな。この間のことは分からない。ところで、このシーンは過去なのか? 濱田岳が長髪だったけど…。3人で高野山を再訪したのか? 分からない。
この映画、演出がたるい。ものすごく平板。感情がこもってないような口調、動きをする。画面の中もすかすかで、あまり情報がない。人物の掘り下げも甘くて、つながりとか考えとか、うすっぺら。
冒頭から、伊藤が坊さんになる経緯が説明されるんだけど、かなりアバウトで。祖父が亡くなったから、というだけ。惹句として「24歳。書店員だったボクは、ある日突然坊さんになった。」とあるけど、実は実家が寺で、しかも高野山大学を出ていて阿闍梨の位ももっている、すでに坊さんではないか。それがたまたま世俗の暮らしをしていて、祖父が亡くなったから坊主に、ということだ。なーんだ。キャッチフレーズと違うじゃないか、だよな。
描かなければならないのは、なぜ坊さんの学校に行ったのか。でも卒業しても坊主にならず書店員になったのか、だろ。さらに、不思議なのは父親が坊主ではないことだ。父親は何をしている人なのだ? 説明がなくちゃおかしいだろ。あと、松田美由紀の存在がよく分からなかった。姉? 事務員にしては夜もいるし…。誰なんだ? とずっと思ってて、HPを見たら母親だった。伊藤淳史の母親をやるような年齢なのか。ふーん。寝てる時に説明があったのかも知れないけど、両親の紹介ぐらい、冒頭の10分以内に済ませてくれ。
しかし、松田美由紀は、ものすごい下半身デブになってるな。腹に何か入れてデブを装ってるのかも知れないけど、ね。
あと、分かりづらいのが京子の存在か。進が書店で働いてると、同じ幼なじみの真治とからかいに来るんだけど、進と真治は京子に恋心を抱いているのか? というようなことも、ちゃんと描かれない。そのあたりはちゃんとオサエなきゃダメだよな。まあ、寝てる間に説明されたのかも知れんけど…。
坊主は変な奴がいる、とか、坊さんグッズの紹介はもう少し面白くできるだろ。でも、携帯の呼び出し音が般若心経なんて当たり前すぎる。野球チームに誘われて、対戦相手が百姓チームで、百姓チームが打ったボームがファールになるよう拝むところ、ぐらいかな、笑ったのは。どうも過剰な演出を避けるような、でも、抑えすぎて陰気になるような場面ばかりで、ちっとも楽しくない。次、どうなるのか、な期待も感じない。ひどい映画だ。
そういえば進も、住職になってから玄関にシロクマの像を置くとか、意味がわからない。あと、こちらが寝てる間に、なにやら建物も建てたらしいではないか。その利用法で檀家の長老からッッコミを入れられたりしていたが、建築費だってバカにならないものを、檀家衆が簡単に許すのか?
その檀家の長老(イッセー尾形)も、めんどくせえジジイだよな。まるで生活が寺と一緒みたいに描いてるけど、いまどきそんなのないだろ。だいたいこの映画、昨今の寺事情を一切描いていない。檀家離れ、収入減、廃寺…。その辺りを描かず、どこにリアリティがあるというのだ。四国八十八ヵ所の札所になってるから、そんな心配がないって? アホか。高野山大学の学生生活や、坊さんにならなかった栗本(濱田岳)らとの生活に、そういう事情も組み込みつつホンにしなきゃしょうがないだろ。
そういえば、卒業して住職になった孝典は、あまり登場しなかったけど、寝てるときに活躍してたのか? むしろ、野球チームに誘ったデブの方が頻繁に登場してたな。で、そのデブだけど、彼はどの地域のどういう関係の寺なのか、が描かれていないのは困ったもの。先の長老が亡くなったとき、進の調子が悪くて代わりを頼むんだけど、そういう関係ならそうと描かなくちゃなあ。
で、この映画の大きなイベントが、京子の結婚・妊娠・出産なんだけど。呆気なくトラック運転手と結婚しちゃうという展開が、なんだそれ。それへの抵抗とか葛藤は、なかったのか、進に。まあいい。驚くのは、京子が産気づき、病院に行く途中で脳出血を起こすという話だ。子供は生んだけど、本人は植物人間。それで亭主は離婚を決意して…という展開のむりくりさが、なんか、浮いている。まあ、そういうケースもあるんだろう。けど、20歳そこそこで脳出血って、ありかよ、な感じ。
で、幼なじみの真治にひっぱられて、進も亭主のところに抗議に行くって、ありえんだろ、そんなの。バカか。他人の生活に介入するって、どんだけ図々しいんだよ。そんなことをいうなら、お前が植物人間の彼女と結婚して面倒を見ろ、と真治にいいたい。
なわけで、子どもはいつまでも病院に置いておけない。京子の父親はアル中…。といっても、その理由が、妻が早く亡くなって酒に逃れたという設定で、ありきたりすぎて笑ってしまう。なわけで、進は赤ん坊を自分が預かる、と言いだすんだけど。そこまでさせる理由が描かれないから、説得力がない。さらに、現実的にも、彼女の父娘の了解だとか、誰が主に面倒を見るのかとか、法律とか福祉の関係とかでクリアしなくちゃならないハードルがあるんじゃないのか? 母親代わりは、誰なのだ? そのあたりのリアリティも欠ける。
で、そんな様子を生きている時分の長老が見て、「空海とすることが似ている」とか、進の母親に、あたかも進が成長したかのようにいう件も、アホらしいこと限りなし。
だいすたいこの映画、仏教の教えみたいのもセリフとかつぶやきで語らせるんだけど、そんなの頭に入らないし心にもとどかない。映画なんだから、見せなくちゃダメだろ。
な、ところで、栗本が高野山の飲み屋の娘とお遍路でやってきて。「結婚する」と告げる件があり、さらに、京子の手が動いて、あれは奇跡的回復を示唆しているのか、もしそうだとしても、気がついたら旦那は去っていて、という現実に対面するわけで。進とといい関係になるなんていうのは、あり得るかどうかも分からない。いい加減すぎ。
・坊主になるのに、名前を変えなくちゃいけないの? 戸籍の名前も、変えるのか?
・伊藤と濱田岳は、ほんとうに頭を剃ったのか? そんな風に見えたんだけど。
・伊藤が過呼吸になるのは、なぜだっけ? 京子のことで、だったかな。忘れた。
※京子の結婚話、3人で高野山に行く件とか、公式HPのストーリーに多少あった。ふーん。
エール!11/16シネ・リーブル池袋シアター1監督/エリック・ラルティゴ脚本/ヴィクトリア・ベドス、スタニスラス・キャレ・ドゥ・マルベリ、エリック・ラルティゴ、トマ・ビデガン
フランス映画。原題は“La famille B?lier”。「ベリエ一家」とかいう意味かな。allcinemaのあらすじは「フランスの田舎町で酪農を営むベリエ家は、高校生のポーラ以外、両親も弟も全員耳が聴こえない。それでもポーラが通訳係をすることで、特段の不便も感じることなく、明るく楽しい家庭を築いていた。そんな中、ポーラは音楽教師に歌の才能を見出され、パリの音楽学校のオーディションを受けることを勧められる。歌手になることを夢みるポーラだったが、彼女の歌声を聴くことができない家族は、彼女なしでは日常生活もままならないと、動揺を隠せない。夢は諦めきれないが、家族のことを思うとどうしてもパリ行きを決断できないポーラだったが」
よくできた映画で、随所で笑わせてもらったし、最後は泣かせてもらった。設定とか展開とか、これまでにもよくあるパターンなんだけど、細かなカットつなぎでテンポよく、バカっぽい笑いに下品な下ネタもたっぷりで、なんといってもみなキャラが立っている。やっぱ、映画はセリフやなんかで説明するものではなく、見せるものだ、というのがよく分かる。
ちょいと分からないのがポーラの年齢で。15、6歳なのか? にしては豊満な肉体…というより、ちょっとぽっちゃり娘というべきか。しかも、劇中に初潮を迎える場面があって。それまで「高校生?」と思っていたのを、中学生ぐらいに置きかえて見ることになった。だって、セックスにまつわる話がごろごろしてるし、自身も恋する年頃だから。だから、17、8かと思っていたのだよ。しらべたらポーラ役のルアンヌ・エメラは撮影当時18歳だったようで、では18歳の役回り? でも、その年で初潮はないよな。
背景となるのは、聾唖の家庭にたったひとり聞こえる話せるのポーラがいて、酪農業を肉体的にサポート。街の市場で売るときや、いろいろ通訳もこなしている。弟もいるけど、これがスケベでやんちゃで、まだ子ども…と思っていたら、な展開もあったりして、おおおお。
学校に意中の彼ガブリエルがいるんだけど、別の女の子とつき合ってる模様。ポーラには、ひょろっとしたマチルダという親友がいて、彼女も学校につき合ってる彼氏がいるのかな? 彼氏とトイレで何かしてたな…というシーンがあるんだけど、あれはなんだ? とかいう友人関係の描写がいまいちで、このあたりの綾が描かれていると、もっとポーラとガブリエル、マチルダとポーラの弟との関係も面白くなったかも。もったいない。
で、ポーラは学校のコーラス隊に選抜されるんだけど、選抜の仕方が強引というか差別的というか。日本じゃあり得ない感じ。だって音楽教師のトマソンが、声の善し悪し、できるできないでバンバン決めていくんだぜ。あれで子どもは傷つかないのか。フランスとかイギリスとかは、中学生のころに進路が決まってしまうとかいうし、資産や階級で職業も決まるらしいから、ああいうランク分けも当たり前な感じなのかね。
で、トマソンがポーラの声に衝撃を受け、ガブリエルとデュオさせようとする。ガブリエルはどうも実家は都会らしく、たまたま田舎暮らししてる? な話だったけど、よく分からなかった。で、やっぱガブリエルの背景をもっと描くべきだったな。たんなる遊び人? それとも、お坊ちゃんだから女の子が寄ってくる? 見せびらかすようにキスしてたり、ポーラが生理になったことをガブリエルが彼女に告げ、彼女がポーラをからかうシーンがあったけど、そんなガブリエルを、なぜポーラも好きになったのか…。ポーラも都会の子に憧れたのか?
という話と、父親村長選挙立候補という話題が並行して進むんだけど、現村長はショッピングセンターだか何かを誘致し、村を活性化させようとしている。つまりは農村からの脱却だ。それに反対し、父親は立候補を決めるんだけど、支援者もそこそこいるから不思議。そのなかに、映画の中ではちょこっちょこっとしかでてこないオッサンの障がい者がいるんだけど、彼はどういう障害をもっているのか、最後まで分からなかった…。
トマソンは、ポーラにラジオ局が主催する歌唱コンテストを受けることを勧める。どうやらそれで、歌手への道が開ける様子。いっぽうガブリエルは声変わりしてしまい、受験資格がなくなってしまう。カストラートみたいにはいかないやな。ははは。で、それまで一緒に練習していたけど、身勝手な行動を取るようになる。まあ、そうだろ。でも、声変わりなんて予想の範囲で、声変わりしないやつなんて、いるのか? そのあたり、よく分からず。また、一緒に練習したせいで、2人の関係が近づいた、というようなこともない。なんか、この辺りの描き方は下手くそで、もどかしい。
ポーラはトマソンの指導を受けていることを両親に内緒にしていて。それは、自分がいなくなったら酪農が上手くいかなくなるし、通訳もできなくなることを心配していたわけだ。でも、いつか言わなくちゃならない…というところまでは考えられなかった…ということになっている。で、指導を受けていることを両親に打ち明けると、母親の怒るの怒らないの。「この子が生まれたとき耳が聞こえるって分かって、私たちの気持ちが分からないような人間に育つんじゃないかと思ったんだけど、やっぱりそうなった」みたいなことを言うのには驚いた。ひとつは、耳が聞こえる子どもを歓迎していないような口調。それと、聾唖は遺伝である、ということを印象づけるようなセリフ。その可能性は高いようだけど、気になってしまう。
で、始めは物分かりの悪い両親だなと思っていたけど、要は子離れできないでいるんだな。しかも、自分の耳と口になってくれてたわけで、依存度は高いし。娘の未来より、一家はどうなるのよ、的な思いがわき上がるのもしょうがないかも。父親は父親で、まだ子どもみたいに可愛い愛娘に去られるショックでうろたえてしまう。まあ、子どもが両親と同居してる割合は、アメリカは少ないけど、ヨーロッパは結構多いというし、階級制度や資産による棲み分けのあるフランスでは、地元に残る子たちも多いんだろう。そういうことを勘案すると、両親に言い出せなかったポーラの心の内もわからんではない。
というとこら辺から、まあ、だいたいラストは見えてくるわな。いったんは「試験を受けない」とトマソンに言ったものの、心の中は晴れないポーラ。いよいよコーラスの発表で、なんとかガブリエルも翻意して、ポーラとデュオを。カメラは歌声も周囲の様子も聞こえないけど、なんだかみんな感動して泣いてるぞ? な顔の父親のものになって、音声も聾唖者のもののようにほとんど聞こえなくなる。ポーラの歌が、人を感動させている? 父親は、気づく。このあたりの演出が巧みである。もっとも、主観が強すぎる母親は気づいてないけど。
で、再度、トマソンはポーラの両親に試験を促すが、ポーラはちゃんと通訳しないから、意思疎通はできないまま別れる…。その夜、父親はポーラに歌わせ、手をポーラの喉に当てて、その振動に心を動かされた、のだろう。試験は明日10時。早朝、父親はポーラを起こすと、妻と息子を乗せてクルマで一路パリへ。って、4時間ぐらいで着く距離なのか。ふーん。
まあ、遅刻したけど試験は受けられて、審査員の前で歌うポーラ。途中から手話が入り、観客席の上段にいる家族に歌詞の意味を伝えようとする…。おお。このあたりで感動が頂点にきてしまった。まあ、計算してやってるんだろうけど、まさにピタリ。話の展開は分かっているのに涙が出てきてしまった。上手いなあ。
歌の歌詞も、両親と別れて旅立つ、とかいうようなもので、設定にどんぴしゃ。歌で両親にメッセージ。母親も、娘の気持ちを理解する…な感じで。感動的。※「青春の翼」というらしい。
でまあ、合格して彼女はパリへ、がラストシーンなんだが、村長選の結果は? エンドロールの中か後かな、と思ったらその通りで。写真で選挙勝利、トマソンと同僚女性教師?との蜜月、弟とマチルダの写真もあったかな、あとポーラとガブリエルのも? ちょっと見極めていない。
その写真関連でいうと、トマソンと女性教師の関係は突然すぎて、「?」なんだよね。学校でのコーラスの発表のとき、突然、おばちゃんがトマソンにキスして、なんだ? と思ってたんだけど。それ以前に、彼女はどこに登場してた? 記憶にないぞ。
弟とマチルダ。これは、ポーラの代わりに彼女が一家の手伝いをしようということになり、最初はポーラが手話を教えていたんだけど。途中から弟が「ボクが教える」と介入してきて。2人きりで教えてるうちに弟が彼女にボディタッチできるような単語を教え始め、なんと、彼女にのしかかってしまうという、おいおい、な場面があるんだよ。この弟、何歳だ? 姉の親友に手を出すって。しかも、突然ぶっ倒れてしまって、何かと思ったらアナフラキーショックとか。コンドームのアレルギーらしい。うわ。とか思いつつ、この弟のひょうひょうとした存在感がなかなかいいんだよ。何を考えてるか分からないけど、要所で下品に面白くしてくれるのだ。
音楽教師のトマソンは、なぜか知らんがかつては大物ミュージシャンと付き合いがあり、でもいまは田舎で冷飯ぐらいという設定で。これまた人生の悲哀をにじみ出している感じがいい。
父親は、いつまのに歌の受験が「翌日の10時」と知るようになったか分からないけど、愛する娘だからこそ、思い通りにしてやろうという気持ちになるわけで、これは大きな成長物語になっている。まあ、妻の方は、よく分からない人のままだけど。で、この夫婦が、40過ぎだとは思うけど、いまだにラブラブでしょっちゅうセックスしてる。その音が激しすぎて、マチルダが来てるときにもやり出して、ポーラが耳を塞ぐという始末。うーむ。よく分からないけど、結婚して子どもがだいぶ大きくなっても、セックスは女房が一番、という関係があるのか。そういえば、膣内の湿疹に薬を塗るならないで医師の説明を聞く場所に、なんとポーラが通訳としていたりするという。なんともはやな家庭事情ももの凄い。
もの凄いというと、トマソンが生徒たちに歌わせる曲が、ミシェル・サルドゥ『恋のやまい』だったかな。でもこれが愛の歌で、ベッドで髪の毛が重なり合うとかなんとか、結構な歌詞だったりして。フランスってところは、青少年のことをとくに考えない、素晴らしい国なのだな。ははは。
君が生きた証11/19ギンレイホール監督/ウィリアム・H・メイシー脚本/ケイシー・トゥエンター、ジェフ・ロビンソン、ウィリアム・H・メイシー
原題は“Rudderless”。allcinemaのあらすじは「やり手のエリート広告マン、サムは、大学で起きた銃乱射事件で息子ジョシュを失う。ショックから自暴自棄となり、隠遁生活を送るサム。2年後、そんな彼にもとに別れた妻が現われ、生前にジョシュが書きためていた自作曲のデモCDを手渡す。曲を聴き、自分が息子のことを何も知らなかったことを痛感するサム。そして自らギターを弾き、ジョシュの遺した曲を歌い始める。ある時、彼は場末のライブバーで飛び入りで弾き語りを披露する。すると、それを聴いていた青年クエンティンに熱心に口説かれ、2人でバンド“ラダーレス”を結成することに。クエンティンはサムが披露する曲を彼の自作と思い込み次々とバンドのレパートリーに加え、ラダーレスは次第に人気を獲得していくが」
息子が死んで、父親が音楽に…みたいな予告をチラと見ただけ。まあ、そういう映画だなと見ていたんだけど、中盤過ぎに思いもかけないことに…。なるほど、叙述トリックだったのか! なんと、映画の背景が180度変わって、なるほど、そうか…と少し考えてしまった。これ、知ってて見たら、つまんないだろうな。先入観なしで見たのはよかった。
息子の大学で乱射事件が起き、その犠牲に…。とはいえ、どうして売れっ子コピーライターだったサムが2年後だったか3年後に、ボート暮らしでペンキ屋のバイトしてるんだ? いくらなんでも…とは思った。けど、まあ、そういうのもありかも、と思ってた。
で、別れた女房から息子の遺品を受け取り、中にあった息子の吹き込んだCDを聞き、父親はそれを歌い出す。だけではなく、地元の飛び入り参加大歓迎のパブで歌ってしまう。その歌に感動したクエンティンが近寄ってきて、一緒にパブで歌うようになり、ついには4人編成のバンドで毎週ギャラをもらって歌うようになる…。が、息子の元カノが突然現れ、サムを罵倒する。
久しぶりに墓に言ってみると、元妻が墓に書かれた落書きを消していた。なんと、息子は乱射事件の被害者ではなく加害者だった。おお。
なるほど、ではあるんだけど。それにしても、日本ではあり得ない展開だよなあ。だって、息子は別れた元妻と暮らしていたんだろ。その元妻はたいしてプレッシャーを感じてる様子はなく、フツーな感じ。なのに、マスコミはサムをしつこく追っていた。まあ、それから逃れるために隠遁生活したのかと思いきや、なんと地元に近いところに住んでいるのだよ。さらに、地元のパブとはいえ公の場にのこのこ出ていって息子の書いた歌を歌うという行為は、ちょっと日本じゃ考えられない。もちろんサムもためらいつつだけど、和解メンバー人は「メジャーデビューだ!」とか意気込んでいるのぐらいことは分かりそうなものだ。
で、結局、息子がなぜ乱射したか、についてはまったく触れられず。せいぜい母親の「あの子は変だったのよ(だつたかな?)」とかなんとかいうようなセリフだけ。それじゃ片手落ちだろ。世間と同じく、なぜ乱射したのか、に興味津々なんだが…。
もちろん、加害者の家族、という設定は興味深いし意味もある。けど、最後まで情緒的なレベルでの視点しかなくて、物足りない。たとえば、加害者の親の立場で、被害者の家族に会うシーンがあってもおかしくしない。母親だって、マスコミに追われていたら、あんな平穏な様子でいられるはずはないのだ。そういうところのツッコミが甘い、という他はない。
息子の元カノが、バンド仲間のクエンティンたちに真相を明かし、バンドは消滅。サムは、どうするんだったかな。よく覚えてないや。クエンテインが欲しがっていたギターを買ってやり、クエンティンは別の仲間を呼び入れて、バンド再開、は覚えてるけど。
なんか、いろいろ歯がゆい感じが残ったままの終わり方だったような記憶が…。
・事実を知って、クエンティンが蒼白。サムを殴るんだけど、理由がよく分からない。クエンティンは乱射事件の被害者と関係があるのか? そんな説明、あったっけ? サムが大学に行き、被害者の名前の彫られた銘板の横で泣き崩れるシーンはあるけど、あのとき映る名前に関係あるのか? よく分からない。
・そういえば息子の葬式が隔離されたところで行われていたよな、と思い返す。がしかし、知り合いとか、たくさん来ていて、加害者の葬式にあんなに人が来るか? 元カノまで来てたけど、あり得るか? と思ったりした。まあ、叙述トリックには必要だったのかも知れないけどね。そういう描写が。
セッション11/19ギンレイホール監督/デイミアン・チャゼル脚本/デイミアン・チャゼル
原題も“Sesshon”。allcinemaのあらすじは「偉大なジャズドラマーを夢見て全米屈指の名門、シェイファー音楽院に入学したニーマン。ある日、フレッチャー教授の目に止まり、彼のバンドにスカウトされる。そこで成功すれば、偉大な音楽家になるという夢は叶ったも同然。自信と期待を胸に練習に参加したニーマンだったが、そんな彼を待っていたのは、わずかなテンポのずれも許さないフレッチャーの狂気のレッスンだった。それでも頂点を目指すためと、罵声や理不尽な仕打ちに耐え、フレッチャーのイジメのごとき指導に必死で食らいついていくニーマンだったが」
シェイファー音楽院ってホントにあるのか? 調べたら架空で、ジュリアード音楽院あたりを想定しているみたい。がしかし、この映画のような肉を切らせて骨を断つような教授がいるかどうかは知らない。まあ、いないだろ。
まず、冒頭のシーンがよく分からない。ニーマンがドラムを叩いているところに教授がやってきて「バンドのメンバーを探しているのに、なぜやめた?」とかなんとかいうんだけど。まず時制が分からない。ある場面を先に写し、時間をさかのぼって、その場面にたどり着くのかと思ったら、そうでもない。では、あれはスタート地点なのか? まあ、無視しよう。
教授は毎年、これはという生徒をピックアップしてバンドを組み、コンテストに参加。優勝するのがデフォルトな教え方をしてるらしい。ニーマンも、クラスでは従奏者だったけど、主奏者を押しのけて選ばれ、バンドに参加する。けど、教え方がハンパなくて、わずかな音程やテンポの狂いを指摘し、烈火の如く叱りつけ、モノを投げつけたりする。揚げ句は、才能がない、でていけ、となる。それでも文句のひとつもいわず、黙々と従っているところがオソロシイ。
ニーマンも変なヤツで。映画館の女の子に声をかけ、デートに誘ってつき合うようななったのにもかかわらず、途中から考え方が変わってしまう。曰く「僕は君とつき合ってる余裕はない。自分が成長するためには、つき合うのをやめるしかない」とかなんとか、おまえアホか? な感じ。そんな禁欲的になってもストレスたまるだけだろ。
従兄家族と食事する場面で、従兄の両親が「うちの子はこないだ試合でタッチダウン!」とか喜んでて、ニーマンに「おまえの音楽はモノになるのか?」と聞かれると「シェイファーは全米一の学校だ。プロもたくさん育ってる。教授にも認められてる。だいたい、おまえ(従兄)のチームは3部だろ。スカウトなんかこやしない。おまえはスポーツでは生きられない。でも、俺は音楽に生きる」とかいうんだよ。従兄の父親のチャーリー・パーカーに対する「酒浸りのヤク中で30半ばで死んでる。あんなのがいいのか?」にも「バードは天才だ。僕も、あんな風に生きたい」みたいなことを言う。なんかちょっと、おかしいやつだよな。
だいたい、音楽をやってる連中に、ニーマンみたいな考えのやつって、存在するのか? いたとしても少ないんじゃないのか? あの手のことを公言し、音楽道に邁進する人なんて、いるのかね。バードにしても、そもそも天才なんだと思うんだよな。この映画のように、手のひらから血が吹き飛ぶほどドラムを叩きつける奏者なんて、そうはいないだろ。…と、思うんだが、いたりするのかね。よく分からん。
ニーマンが主奏者になったのは、ちょっとした事件がきっかけで。それは、ある大会で主奏者が楽譜をニーマンに預けた。その楽譜をニーマンが椅子の上に放り投げ、はっ、と気づいたらなくなっていた。主奏者はスコアを暗記していないから叩けない、という。そこてニーマンは「僕は記憶している。叩けます」といって代役でこなし、主奏者の地位を得るんだけど、他の仲間はニーマンをうさん臭そうにみていた。そりゃそうだよな。この話だって、もしかしたらニーマンが故意に楽譜を隠した、って読めないこともないわけで。なんか、地位をめぐる争いはどこか見苦しい。
フレッチャー教授がこれまたしたたか者で。おだてたと思ったら地獄にたたき落とすように罵倒したりする。これが、あとから分かるんだけど、駆け引きで。すでに主奏者となっていたニーマンと、いまは従奏者だけどかつての主奏者、あとから連れてきた奏者の3人で、連打の競争をさせるんだが、のちのち言うには、「彼(かつての主奏者)は音楽に見切りをつけて医学に進んだ。あいつ(後から連れてきた奏者)は当て馬だ」という。ということは、ニーマンのやる気を引き出すため、他の2人の人生を利用したわけで、なんてこったい。
ある日、教授が1枚のCDをもってきて。「君らの先輩のショーンが交通事故で亡くなった。ウィントン・マルサリスのグループにいて・・・。それを聞こう」とという。ところがショーンの死因が後から自死と分かり、どうやら教授のプレッシャーによるモノだったとかいう話もあった。けど、経緯がよく分からなかったけど。ショーンは先輩ではなく同級生で…とかもいってたような。じゃ、マルサリスのどうたらというのは虚偽か? それともマルサリスのグループにいたのは事実で、でも、すでに教授のイジメは蒙ってないのに、なぜに自死を? よく分からない。
で、ある演奏会の日、バスが遅れて間に合いそうもなくなり、レンタカーで急いだら途中でスティックだか楽譜だかをレンタカーに忘れ、取りに行ってもどるとき、もう時間がない状態で、携帯で通話しながら運転してたらぶつけられ。血まみれになりながら会場にたどり着き、そのままドラムの前に座るが、スティックが落ちてしまう…。結局、その事故で学校を辞めることになったのかな。
ということよりも、大切な演奏なのに、ニーマンの「やりたい」のまま、叩かせるって、なんじゃらほい。血だらけで登壇するだけで異常じゃん。教授の考えがよく分からない。
その後、音楽院の内部調査が入り、ニーマンにヒアリングするんだけど、どういうことを言ったかは分からない。で、ある日、ニーマンはフレッチャーがビアノを弾くという看板を見かけて店に入ると、なんともやさしい演奏をしている。ここでフレッチャーはニーマンに気付き、「家族の誰かが告発して音楽院は辞めた」とかいってるんだけど、真相は分からない。さらに「うちのバンドに入らないか」と誘われ、OKしちゃうところが、やっぱりドラム叩き。
で、当日。ステージに上がると、フレッチャーから言われていない曲がはじまり、ニーマンはしどろもどろ。周囲の演奏者も「なんだ、こいつ」な表情。客席も戸惑いのぱらぱら拍手。すると指揮していたフレッチャーが寄ってきて「おまえが告発したことは分かってるんだ」とかいうところあたりから、がぜん面白くなってきた。で、次の曲を「バラードで」とかフレッチャーが紹介するのを無視してニーマンが激しくキャラバンをたたき出すんだったかな。「?」の周囲に「合図するから」とかいってリードして、一曲フィナーレ、と思いきや、そのままドラムソロに入り、やめない。あせる周囲。うろたえるフレッチャーも、しかたなくニーマンに追随して指揮を…の部分がハイライトかな。そのソロが終わって、フレッチャーが、ニーマンを「認めた」みたいな笑みを浮かべるんだっけか。それでエンドなんだけど。それでいいのか感は残って。だいたい、そこまで戦う必要なんてないだろ。過去の偉大な演奏家たちは、そこまでして自分を高めたのか?
フレッチャーがバードの逸話を語っていた。あまりにラッパがひどいので、ジョー・ジョーンズがシンバルを投げつけた。それが悔しくてバードは練習して、相手をうならせた、とかなんとか。それと同じことを、フレッチャーはニーマンに行い、ニーマンのやる気を引き出したってことか? いまどきアホらし。
だいたい、当日の演奏会で、やってきた客をないがしろにして若造のドラム叩きと対決してどうするんだ? バーで再開したときフレッチャーは「Good Job という2Wordをなくしたい…」ということを言っていた。最近「褒めておだてる教育」ではなく「貶し誹り罵倒」することで人間は、それを超えようとする。そこにこそ、至高の高まりがある、という考え方か。途中で耐えられなくなって落ちこぼれたり、時には自死する連中があっても、知ったこっちゃないわけで、それを映画にしてどうする、な感じがしてしまう。
・映画館の彼女が、自分のことを「フォーダム大学だし…」とか卑下していうけど、調べたら結構名門じゃん。
・学院の生徒、主な演奏者しか人格を与えられてないけど、もう少し他の生徒を描くべきではなかったのかな。その方が、ニーマンの、音楽院やバンドの中での位置が分かると思うんだが。
・「72小節から」とかいうと、みんなちゃんとそこから始められるのだね。すごいね。と、音楽を知らないので驚いてしまう。
・事故に遭い、すべてを失ったニーマンは、映画館の彼女に電話するんだけど、遅いだろ、そんなの。
・世の中、こんな上昇志向の連中ばかりだったら、息苦しくてたまらんよ。
コードネーム U.N.C.L.E.11/20109シネマズ木場シアター7監督/ガイ・リッチー脚本/ガイ・リッチー、ライオネル・ウィグラム
原題は“The Man from U.N.C.L.E.”。イギリス映画。allcinemaのあらすじは「東西冷戦真っ只中の1960年代前半。アメリカCIAの敏腕エージェント、ナポレオン・ソロがベルリンへ向かう。目的は東ベルリンの自動車整備工場で働く女整備士ギャビーを確保すること。彼女の父親は失踪した天才科学者ウド・テラー博士で、核兵器を巡る国際的陰謀に巻き込まれている可能性が高かった。やがて世界の危機を前にアメリカとロシアは協力を余儀なくされ、ソロはKGBのエリート・スパイ、イリヤ・クリヤキンと手を組まされるハメに。しかし2人は考え方もやり方もまるで水と油。それでもギャビーを守り、テラー博士の奪還と大規模テロの阻止というミッションのために、渋々ながらも力を合わせるソロとクリヤキンだったが」
『0011 ナポレオン・ソロ』といえばロバート・ボーンとデヴィッド・マッカラムで、にやけたソロと、金髪青年イリアのおとぼけコンビのコミカルスパイ物という印象しかない。なんだけど、この映画のイリアは両親が暗い過去を背負ったスパイで、背が高く筋肉隆々。クルマのトランクの扉を手で引き千切ってしまうほどの怪力の持ち主。ソロは、兵隊時代に古物窃盗に手を染め、以来、泥棒生活してたのを捕まって、でも腕を見込まれてスパイになったという、うさん臭さ満載のハンサムガイ。なんかイメージが違いすぎる。
とはいえ、多少のコミカルタッチあり。リアリティは、さほど重視しない。前半は、カリカチュアされたような類型化された動きで。まるでマンガみたいな感じ。次第にリアルな感じも少し出てくるんだけど、人を殺しても血が出るわけではなく、どこか記号的。時代背景が東西冷戦だから当たり前だけど60年代風俗が登場して、これもなかなかオシャレ。まあ、CGは多用してるんだろうけど、街並みやファッション、クルマ、あれこれアナログな感じがにじみ出てて、いい感じ。
で、話は、ソロが東ベルリンに潜入し、ギャビーを連れ出す作戦へ。それを阻止するKGBの怪力男がイリアで。ソロは何とかギャビーを連れ出すんだけど、どういうわけか知らないが、アメリカとソ連が組んで、テラー博士の行方を追うことになる。なんでも、ギャビーの叔父がイタリアのなんとかいう会社に勤めていて、その会社が原爆を開発しているらしい。つまり、テラー博士はそこにいて、開発に携わっている。てなわけで、会社のオーナーと、その夫人であるヴィクトリアと接触するために、みなで一路イタリアへ…。
イタリアに飛び、まんまとパーティ潜り込む。このとき、ソロがぶつかって招待状を盗んだ相手がヒュー・グラントとは気づかなかった! 当夜に工場の金庫に潜り込み、見つかって撃ち合いになるあたりのいい加減さは、テレビ的かな。だって、行き当たりばったりすぎるだろ。で、その後、ボートで逃げるときソロは投げ出されて川へ。陸に上がって、そこらのトラックに入り込み、置いてあった夜食のサンドイッチ囓りつつワインを飲むソロの背後で、敵に追われて火だるまになり、川に沈んでいくイアン…のシーンはなかなか楽しい。もちろんソロはイアンを助けに行くけどね。
えっちらホテルに戻ると、迎えるギャビーの態度が変。「エサに食いついた」と304号室に電話する相手は、だれ? と思っていたら、あとから黒幕のヴィクトリアと分かるんだが。つまりこれは、ギャビーが寝返ってヴィクトリアについて、ソロとイリアを売った、ということになるのかな。この経緯がいまいちよく分からん。ギャビーが寝返ることで、ヴィクトリアに何の得があるのか? ヴィクトリアも簡単にギャビーを信じてしまって、いいのか? とツッコミを入れたくなるところ。
このあと、ヴィクトリアがソロの部屋にやってくるんだっけか? で、あれは一夜を共にした、でいいんだよな。よく分からんけど。その後のことはちょいと忘れてるんだけど。ソロがヴィクトリアの元を訪ね。酒をすすめられて飲んだら、すべての酒に睡眠薬が入れられてて昏睡。気がついたら拷問椅子に縛り付けられてて…という展開だったか。それはイリアに助けられるんだけど、それまでイリアは何してたんだっけ。まあいいけど。
で、ヴィクトリアは核弾頭を元ナチの一派に売ることが分かって、それを阻止するためどっかの島へ行くんだけど。これを米ソとイギリスが追う。どっからイギリスが…と思ったら、メガネのボスがヒュー・グラントで、実はヴィクトリアのパーティにいたのが彼だった、と膝を打つはずが打てなかったのだ。ははは。
米ソ英軍は島に乗り込んで撃ち合い…まあ、なんとなく見ちゃうけど、よーく考えると敵は一企業なんだよね。ヴィクトリアの亭主が親ナチで、ナチの残党に原爆を売りつけようとしている…という会社に潜入すると、そこにいる社員はことごとく機関銃をもってて、がんがん撃ってくる。最後はアメリカ、ソ連、イギリス軍が束になって襲撃するんだけど、それでも音を上げないという。なんじゃこれ、な世界。でも、そんなことを突っ込んじゃいけないんだよな、きっと。ははは。
ヒュー・グラントに気づいたの、島に行くヘリだか飛行機の場面で。はじめは「?」と思ったんだけど、なんか面影が…。なぜって、むくんだジイさんになってるんだもん。で、このあたりで、ギャビーがイギリスのスパイだって分かるんだっけかな。しっかし、博士の娘が、いつ、どうやってスパイになったんだ!?
ところが核弾頭は持ち出された後で、ソロはバギー、イリアはバイクで逃げるクルマを追うんだけど。捕まえてみれば運転してたのはヴィクトリアの亭主で、運んでいたのは疑似核弾頭。本物は、ヴィクトリアが別の方法で運び出していた…って、おいおい。2つつくっておいて、亭主は疑似の方を、夫人は本物の核弾頭を漁船に積んで…と、分ける必要がどこにあるのか分からない。亭主は囮なのか?
その後の、疑似核弾頭を核弾頭とシンクロさせてどーのこーので、ミサイルを撃ったからどうーのこーの…の件がよく分からず。なんか、よく分からんけど、ヴィクトリアの乗った漁船にミサイルが命中して、核弾頭が元ナチの手に渡るのは防いだようだけど。核弾頭は爆発、したんだよな? ちがうのか?
あと、テラー博士が記録した原爆のつくり方が納められてるディスクが…とかいってたけど、あれ、ディスクじゃなくて磁気テープだろ? しかし、60年代にあんな記録媒体があったのかね。で、それはソロが手にしたんだけど、もうひとつテープがあったはずだけど、それはどうしたんだっけか?
で、このたびのミッションが終了したので、イリアはKGBの上司からテープを奪え、と言われていたんだが。ソロは、そのテープを焼いてしまう。でもそれはニセモノで…ということは、なかった。
ソロ、イリア、ギャビーがテープを焼いているところに英国のボス、ヒュー・グラントが登場し、新たなミッションがあるから、君らは一緒に、アンクルになる、てなことで新たなグループが発足する、というところで、ジ・エンド。次もあるのかな。
なんだけど、米ソのトップスパイを引き抜いて、英国が主導を握るって…。敵は米ソでもなく、一企業とか、一悪玉、とかいうことになるのか。ところで、ソロとイリアの出会いとUNCLE発足の経緯は、TVでもああなのか? それとも映画オリジナル?
裁かれるは善人のみ11/24ギンレイホール監督/アンドレイ・ズビャギンツェフ脚本/●
原題は“Leviafan”。巨大な海獣のことらしい。ロシア映画。allcinemaのあらすじは「モスクワから遠く離れた静かな入江の町。この地に暮らし、祖父の代から続く小さな自動車修理工場を営むコーリャ。若くて美しい妻リリアと前妻との息子ロマと3人で、慎ましくも満ち足りた生活を送っていた。そんなある日、町に開発計画が持ち上がり、彼の土地を市が収用することに。到底納得のいかないコーリャは、市を相手に訴訟を起こす。市長ヴァディムの権力を笠に着た横暴に対抗すべく、モスクワから親友の弁護士ディーマを呼び寄せ、徹底抗戦の構えを見せるコーリャだったが」
内容とか監督とか製作国の知識はなしで見たんだけど。いささかの救いもない話で、しかも、やな方向に話がいくぞいくぞ的な描き方もたっぷり。ミスリードも含めて、見ていて気分が悪くなりそうな話の流れ。ひょっとして最後になにか一筋の光明でもと思ったけど、それすらない。主人公は叩かれ落とされどん底に。悪いやつほどよく生きながらえる話だった。
『父、帰る』の監督なのね。っても、もう、よく覚えてないけど。しかし、日本語題名はよくない。だって、あらすじを語っているのも同然ではないか。
悪徳市長がいて。あらすじのようなことがあったのか、詳しくは説明されてなかったと思うけど、とにかくコーリャは土地を市に収容されることになり、控訴は棄却される。かつての戦友で弁護士のディーマは、市長の過去を調べまくり、それをネタに取り引きしようとする。63万ルーブルしか支払わない、というところ、350万ルーブルで手を打って、それでめでたしとなるかと思いきや、市長はディーマを連れだし、部下にボコボコにさせる。最後は銃を向け、殺す、と脅す。…という話が半ばまで、重苦しい雰囲気のなか、じわーりじわーり、というスローペースで進んでいく。市長はディーマを殺すんじゃないか、コーリャがぶち切れて市長に暴力を振るうんじゃないか、妻のリリアが掠われたりするのではないか、と不安げになるような進行具合に、気分も滅入ってくる。
この話と並行して、ディーマの話が進んでいく。リリアやロマも慕っているらしく、モスクワから来た英雄、という見方をされている。がしかし、なんと実はディーマとリリアはデキていた…。これがバレるのが、仲間と行ったキャンプで。警官で大佐とかいってた男の誕生祝いで、他に警官とその女房。こちらはコーリャ、リリアとも親しくしていてるんだけど、そういう連中と行ったキャンプで、何事かしでかしたらしい。けど、具体的には語らず、殴られたディーマと、リリアが映し出されていく。いったい何があったんだ? で、コーリャの家で警官とその女房が話していて、どうやらディーマとリリアの関係がバレたらしく。「リリアはでていくだろう」みたいなことを言ってるところにリリアが戻ってきて。でも、大騒ぎにはならず。警官とその女房が帰ったあと、リリアはコーリャに「子どもが欲しくない?」とかいってベッドに誘い、セックスしたようなんだよ。よくわからん。で、翌日、リリアが早朝に出かけるから、こりゃやっぱり…と思ってたら、なんと魚工場で。警官の女房もここに働いていて声をかけてくるんだけど無視…。ううむ。
で、翌朝だかいつだかわからんけど、リリアはバスに乗らず海岸に行くんだが、そこで見るのはクジラか? 原題にある海獣か? で、そのまま行方不明になり、友人の警官が「見つかった」とやってきて海岸に行くと、どうやら土左衛門らしい。ううむ。リリアはなぜ入水する必要があったんだ? はて、この時点でディーマは市長にボコボコにされ、画面から消えていたんだっけ? 同じぐらいのタイミングだったかなあ。ディーマから、別れの言葉があったのか? よくわからん。
映画の冒頭から、やたら色っぽい女房がいるな、とは思っていたんだけど。こういう展開かよ。だいたい、酒浸りのコーリャみたいなところに、しかも、こぶ付きのところに嫁に来るって、このことからして不自然ではないのか? リリアにぞっこんのコーリャ。その亭主に隠れ、ディーマと関係をもっていたリリア。どういう女なんだ? 幼なじみだった、みたいなセリフもあったから、地元からでたことはないんだろ? それが、モスクワとか弁護士にあこがれた? ディーマは、都会の雰囲気で田舎の女をたぶらかした? よくわからん。
後から分かるんだけど、ディーマとコーリャはキャンプでセックスしていて。それをコーリャの息子に見られた? かなんかでコーリャがディーマに殴りかかり…とかなのかな。まあ、そんなところで事に及ぶって、馬鹿か。節操のない。
踏んだり蹴ったりだけど、さらに悪いことが重なるもので。リリアに打撲傷があったことから、コーリャの殺人が疑われて逮捕されてしまう。これに市長の指図があったのかどうか知らないけど、懲役15年だったかの刑が決まってしまう。ひとり残される息子のことを気遣うコーリャに「大丈夫だ、役所が面倒見る」と拘置所の人間はいうけど、実はほったらかし。その息子のところへ、警官とその女房がやってきて、「家に来なさい」というのがわずかな救いか。あと、なにも救いはない。悪いヤツ=市長とその仲間は高笑い、という話で、見ていてもう、嫌になる。
フツーは、こういう状況からスーパーすぐれた探偵とか弁護士とかが現れ、市長の悪行をあばき、コーリャを救う、という展開になるはずだけど、そうはならない。これはひどすぎる。
そして、この映画には、考えさせる何もない。たんに、ロシアという国が悪い。ロシア人はひどいやつら。という思いしか残らない。それでよいのかね。ってか、これは現政権告発の映画なのか? キャンプで射撃の的にするのは過去の大統領や書記長の顔写真だし、悪徳市長の執務室にはプーチンの肖像写真もあるし…。
神の救いもないことが描かれていて、悪徳市長と上位聖職者は結託している。地元の教会の司祭も、なんの助けにもならない。その司祭の言葉だったかな、海獣の存在が示唆されるけど、キリスト教には疎いのでよく分からない。その海獣のイメージはかなり登場していて、息子が向かう海岸の巨大な骨などは、ポスターになっているほどだ。ほかに、朽ちた船の残骸も海獣の骨に見えないことはない。だけれど、それがどういう意味なのかは、教養のなさが理解を妨げているのかほとんど分からない。単なるペダンティックなのか、宗教的なものなのか? リリアの死と海獣は、どう関係するのだ?
・キャンプで、息子が警官の息子と断崖のそばで遊ぶシーンがあって。警官の息子の方が落ちたりするのか? と不安にさせるような場面があった。ああいうミスリードは、やだな。嫌い。
・女性裁判官の、早口で淡々と語る判決文朗読が、最初の土地の件と、最後の殺人の件で聞けるのが、なかなかユニークであった。
さようなら11/26新宿武蔵野館2監督/深田晃司脚本/深田晃司
allcinemaのあらすじは「放射能に侵された近未来の日本。国民は政府が各国と協議の上策定した避難計画によって海外への移住を余儀なくされる。やがて人々が次々と日本を後にしていく中、元々外国人の難民のため避難優先順位が下位のターニャには、なかなか順番が回ってこない。幼い頃から病弱の彼女には、生活全般をサポートしてくれるアンドロイドのレオナが付き添っていた。次第に人々が減っていく日本で、レオナとともに静かに日々を送るターニャだったが」
原作は、平田オリザ。近未来に人間が死に絶え、ロボットだけが動いてる、な設定はよくある話。まあこの映画では人類は滅亡していなくて、最後に主人が死んでしまい、ロボットが残されるというだけではあるが、似ているといえば似ている。なので新しさはない。さらにうんざりさせるのは、原発の火事で日本が汚染され、他国に難民として移住しなくてはならない状況である、という設定。これなど、3.11からの発想だろ。露骨すぎてアホかと思う。
で、話は、どうしようもなく、つまらない。
外国人女性がいて、ときどき友人女性が訪ねてくる。どうやら難民としての受け入れ先が決まると発表があるらしく、それを見に行くんだという。でも、Webでも見られるものを、わざわざ見に行く必要性はあるのか? 外気は汚染されているのだから、でない方がいいだろうに。もう、汚染されまくりだから構わないのか?
とか考えると、疑問点がぞろぞろでてくる。
・電力はどうしてるんだ? 後に友人とクルマに乗るシーンがあり、ヒッチハイクのカップルを乗せる場面があるんだけど、港に街頭が輝いてたぞ。
・クルマ…。彼氏もバイクでやってくるけど、ガソリンは簡単に手に入るのか?
・汚染しまくりの日本人を、どの国が受け入れてくれるのだ? ないだろ、そんな国。
・ロボットは街に買い物に行ったりするんだけど、品物はどっから運ばれてくるのだ?
・彼氏は会社を辞めた、とかいってたけど、会社があって機能しているのか?
・ラジオは放送してるらしい。郵便も届く。
・汚染はどこまで? 日本全土が汚染?
・政府とか役所とか、どうなっているのだ?
・他にロボットが登場しない不思議。
とか、基本的な部分が曖昧でテキトー過ぎるから、なんか話に入り込めない。それに、延々とだらだら描写がつづくだけで、ドラマがまったくない。これが最悪。そこに、ランボーだの谷川俊太郎だの若山牧水だのの詩がつぶやかれ、だからどうした! じれったい! という気分になってくる。
で、映画の売り物は、実際のアンドロイドが競演してることらしいけど、これがラブドールにも劣る木偶の坊で、足が壊れたという設定でずっと車椅子に座ったまま。その車椅子で街まで買い物に行ったりしてるようだけど、坂や凸凹、障害物を超えることもできなくて、ムリだろ、とツッコミをいれつつ見てた。
少し話が展開するのが、新井浩文の彼氏がやってきてからなんだけど、そもそも2人が恋人同士でありながら、彼氏だけが静岡に戻っていったのは、家族がいるからというだけのことか? で、彼女は「結婚して」と突然言いだし、彼氏はOKするんだけど、なんでそうなるの? な感じ。
会話でわかってくるのは、新井浩文は在日朝鮮人だということ。さらに、彼女は「私は南アの難民」と告白する。ついでに彼女は「黒人も差別する」とか言うんだけど、被差別状態から解放された黒人が、支配階級だった白人に暴力を振るい、彼女の父親だかも黒人に殺されたらしい。その話を聞いて新井がギョッとした表情になるのが、ううむ。もしかして、解放された朝鮮人も日本人に暴力を振るっただろ、とでも言われたかの如くなんだけど、深読みし過ぎかね。
彼女も新井も、互いに自分には避難優先順位がなかなか回ってこないだろう、と思い込んでいる。あと、友人女性も、かつて堕胎した経験があるから、回ってくるのが遅いと思っている。
話は戻って、そのうち新井浩文が「帰る」といって去って行くんだけど、戻って来ない。そして、あとからメールだったかな、で「避難先が決まった。いつかまた」と連絡がくるんだが。在日だからって差別されてないと言うことか。いや、その前に、結婚してもいいよ、と返事したのはなんなんだ?
友人が彼女を車に乗せて出かけたとき、ヒッチハイクのカップルを乗せたんだけど。2人は役所に婚姻届を出しに行くところだった。結婚してると名前が連番になり、避難の順番も一緒になれるから、とかいってた。ってことは、新井にはそのつもりがなくての空返事だったというわけで。なんでそんなことをする必要があったのかわからない。たんに、女を捨てた、ということなのか。
そもそも彼女は、放射能で身体が弱ってるんじゃなくて、少女時期から何かの病気だったんだろ。それで両親が、日本でロボットを買ってくれた。その彼女がなぜ新井と恋人同士になったんだ? 故郷なき放浪者である在日の新井にシンパシーを感じ、それで惹かれた? でも、自分は難民であることを隠していた。それが新井の気に触ったのか? それとも、彼女の寿命が長くないことを感じて、去って行ったのか?  はたまた、彼女はなぜ結婚したがったのか? 寿命を知って、結婚生活をしてみたかった? よくわからん。
その後、彼女がロボットと原っぱみたいなところにでかけるシーンがあったんだけど、その辺りで寝てしまった。10〜15分ぐらいかな。顔が歪んでいるのを記憶している…。
そのあと、友人女性が自殺するんだけど、意味不明。かつて堕胎していて、難民の順番が遅くなるから? 彼女は離婚していて、息子は父親と暮らしているんだけど、別れるのがつらいから? わからん。それより、離婚して子供を引き取らなかったのは、なぜなんだ? と思ってしまう。
で、次第に体力が衰えていく彼女は窓辺で息絶え(窓の外で焚き火してた男は誰?)、干からび、白骨化していく。そのそばで、なすすべのないロボット…。なぜかロボットはひとり外に出て、山の方に向かうんだが、その先に花が咲いているんだろうと思ったら、その通りだった。分かりやすすぎ。
しかし、いくら太陽発電で動くといっても、そうそうパワーももたないだろうし。メカニカルな部分でどんどんガタがくるんじゃないのかね。よく動いてるもんだ。まあ、そういう設定の映画だから、なんだろうけど。
・日本人は、寂しくない生活を求める。ドイツ人は幸せを求める。だからなんなんだ。
サンドラの週末11/30ギンレイホール監督/ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ脚本/ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
ベルギー/フランス/イタリア映画。原題は“Deux jours, une nuit”。Google翻訳では「2日、1晩」とでたよ。なるほど。allcinemaのあらすじは「夫と共働きで2人の小さな子どもを育てる工場労働者のサンドラ。体調不良による休職から復帰しようとした矢先、会社から解雇を言い渡されてしまう。アジア勢に押され、経営の苦しい会社としては、社員にボーナスを支給するためにはやむを得ない措置だという。それを撤回してほしければ、同僚16人のうち過半数がボーナスを諦めることに賛成する必要があるという。投票が行われるのは月曜日。サンドラに残された時間はこの週末だけ。“自分のためにボーナスを諦めてほしい”と頼むことがどんなに厚かましいお願いかは百も承知ながら、もはや他に選択の余地がないサンドラは、悲壮な思いで同僚への説得行脚を開始するが」
『息子のまなざし』『少年と自転車』『ある子供』の監督らしいから、社会派だな。そんな内容の映画だった。
↑のあらすじのように、切ない話ではある。しかも会社が全面的に悪いとも言えないところもある。なにしろ、サンドラが休職中に16人で回していたら、それで十分まかなえることが分かってしまった。プラス1人は要らない。社長も「やめてくれ」とは切り出しにくく、社員の投票に委ねたというわけだ。
こういうとき、日本ならどうするだろう。昔の労働組合なら徹底抗戦とかいってけんか腰で団体交渉したんだろうけど、そんなことをすれば会社の経営が危うくなる。資本家は我慢しろ、なんていまどき通用しない。自分が雇用されることで、他の社員=仲間のボーナスがなくなるとしたら、これは心苦しい。そんな状態で気持ちよく働くことができるだろうか。これは、日本でもフランスでも同じだろう。でもサンドラは、生活のために自分の雇用を優先し、「自分に投票してくれ」と仲間を一人ひとりたずねて頼み込む。ううむ。日本人ならできないし、しないだろうな。自ら身を引くんじゃなかろうか。そんな気がした。
ま、そういう意味で、西洋人は自分を押し出すパワーがあるんだろうなと、再認識。もっとも、映画ではサンドラは うつ病で療養していた様子。日本でも問題になっているけど、彼の地でも心の病は少なくないのか。しかし、ケガとかだったら復帰も容易だろうけど、うつ病では経営者も「困ったな」だろうな。いつまた再発するか分からないし、気分が悪いからと休みがちになったり、経営者としては計算がしづらくなる。そういうこともあって、できれば排除したい、という気持ちも分からなくはない。
とくに、サンドラがしょっちゅう安定剤か抗不安剤かなんかを飲みまくっていて。すぐに「もうだめ」とか落ち込んだり泣いたりしている様子を見ると、こいつまだ完治してないだろ、と思ったりしたのも事実で。ついには薬を大量に飲んで自死を図る? というとんでもない場面もあるのに、病院で胃洗浄をしてもらったのかどうか知らんけど、「お腹が空いた」などと漏らし、数時間後にはまた仲間の説得に歩きまわるという描写は、そりゃないんじゃないの? と思ったりした。
もちろん、そうした疾患をもつ患者や障がい者も、できうる限りサポートできれば越したことはないけど、そうもいかない台所事情。従業員も命がけだけど、経営者も崖っぷちなところが、なかなか考えさせるところではある。
映画は、16人の過半数である9人の支援を取り付けようと奔走するサンドラを描く。一人ひとり訪ねていく様子は、実をいうと同じことのくり返しになりがちで、むりくり変化をつけているところもあって、いささか苦しい。各人の反応も予想の範囲で、せいぜいが亭主と意見が合わず、同僚女性が離婚を決意するというのが目立つ程度か。しかし、そんな人はいるのかよ。ちょっと設定としてもやり過ぎじゃないのか? でもところで、「私が仕事をつづけるため、1000ユーロ(12〜14万か?)のボーナスを我慢してくれ」と言われるのも、なかなか辛いものがあるよなあ。自分だったら、どう反応するだろうか。まあ、経済状況によるだろうけど。
そういえば冒頭の方で、「また公営住宅に戻るか」という亭主に「いやよ、あんなところ」とかいうセリフがあるんだけど。安いところに移れば暮らせるのか…と思ってしまうところもあって。さらに、貧乏しているようで、結構な家に住み、モノも豊富で、夫婦とも携帯をもち、クルマもあり、アイスを食べたり外食したり、日本人の貧乏と比べたら、なかなか消費活動も旺盛なんだよな。ちったあ節約したら? とか思いつつ見ていたところも、なきにしもあらず、なんだよな。
てなわけで、翻意しそうな仲間を訪ね歩き、翌朝も何人かに声をかけ、投票の結果は8対8。過半数とれなかったので、サンドラは敗北。なんだけど社長に呼ばれ、「よく賛同者を集めた。いまいる契約社員の契約が数ヵ月後に切れる。そしたら働いてもらいたい」と、高く評価されることに。でも、その契約社員(黒人青年)は、自分に票を入れてくれた。自分が会社に戻れば、彼が首を切られることになる、それはできない、という矜持を示して、会社を去って行く、というところで映画は終わる。この終わらせ方は、なかなか微妙が利いている。
サンドラは負けもしなかったし、勝ってすらいた。でも、仕事は得られなかった。そんなサンドラは、これからどうするのか。観客も、考える部分がたっぷりあって、なかなか迫ってくる。もっとも、前半部の従業員の訪問行脚は、ちと退屈だったが。
・M.コティヤールは可愛いけど、いつのまにかオバサン化していた。もう40歳だからなあ。
・M.コティヤールは意味なくタンクトップ姿で、わずかな谷間とブラのヒモ見せまくり。そっちに目がいっちゃうんだよな。
・最初のうちは、訪問相手に誰が支持してるのか名前を挙げて言っていたのに、途中から(息子に殴られたオヤジのときからだったかな)、「無記名投票だから言えない」と言うようになった。あれは、ずるくないか?

 
 

|back|

|ホームページへ戻る|