2015年12月

パレードへようこそ12/2ギンレイホール監督/マシュー・ウォーチャス脚本/スティーヴン・ベレスフォード
イギリス映画。原題は“Pride”。allcinemaのあらすじは「1984年、不況に揺れるサッチャー政権下の英国。20ヵ所もの炭坑の閉鎖が決まり、それに抗議する炭鉱夫のストライキは4ヵ月目に入ろうとしていた。ロンドンに暮らすゲイのマークは、そのニュースを見て彼らを支援しようと、仲間たちとゲイのパレードで募金活動を行い、合わせて“LGSM(炭坑夫支援レズビアン&ゲイ会)”という支援組織も立ち上げる。さっそく、集まった寄付金を送ろうと全国炭坑労働組合に連絡を取るも、ゲイというだけで門前払いを食らってしまう。そこでマークは炭坑に直接電話してみたところ、ウェールズの炭坑町ディライスが支援を受け入れてくれることに。こうして、まるで水と油の2つのグループの交流が思わぬ形で始まるのだったが」
『リトル・ダンサー』『ブラス!』と、炭鉱を舞台にした映画がよくつくられる。サッチャー憎しの思いは、なお残っているのかね。ほかにも『フルモンテイ』『キンキーブーツ』とか、ダメ産業が起死回生の大変身…みたいな映画がイギリスじゃよくつくられてる。その系譜につらなるような映画だ。
とはいえ、いろんなところが大アバウトで、いささか勢いでつくられてる感がなきにしもあらず。たとえば主人公のジョーがゲイであることも、よく分からないまま話は進んでいく。たまたまゲイのデモに闖入したからって、そうとも限らんものなあ。それと、ゲイの仲間が炭鉱夫を支援する、というのも突発的で。どこに共感して支援し始めるのか、なところの描写が弱い。やはり前提となる部分は丁寧に描かないと、なるほど、とストンと落ちないよ。
正真正銘のゲイの仲間に入ったジョーだけど、それでも「ゲイなの?」な感じで見ていた。だって、それらしいそぶりは見せないから。
ゲイの連中がワゴンで炭鉱に乗り付け、支援を表明するけど、しらーっ、なところから、次第に共感する連中が増えていくところは、なかなか見応えがある。きっかけは、警察に逮捕された炭鉱夫の拘束を解く智恵を授けたことで、でもゲイは頭が良くて炭鉱夫は無知、なこともバレてしまったわけで、そんなんでよいのかね。
あと、ダンスができる、ということが共感されたことのひとつなんだけど。炭鉱夫は伝統的にダンスはしないのか? ゲイのひとりが炭鉱夫のカミサンたちとダンスするのを見て、俺も俺もとよってたかってダンスを教えにもらいにくる、というのも、あまりにも炭鉱夫が素直なバカすぎて笑える。そんなにカミサンとダンスしたかったのか? ううむ。
ゲイの連中の中にも派閥みたいなのがあって、一緒に行動したり離れたり、でもいまいちその理由とか心の内が分からない。ゲイ仲間のリーダー的存在のマーク。彼も、ストが和解した時点で去って行き、でも、しばらくしたら戻ってくるんだけど、なんで去って行ったのか、よく分からなかった。あのあたり、人物をちゃんと掘り下げて描けば何でもないのに、なんか、大事な部分をカットされて大きな流れだけを見せる、ダイジェスト版を見ているような気になってしまう。
それでも、受け入れる炭鉱夫側の方は、結構、ちゃんと描かれている。とはいえ立場とか役職だとかはよく分からず、それぞれがどういう力をもっているか、とかも曖昧なまま。まあ、炭鉱夫の代表的な連中だろう、な感じでとらえるしかないのが残念なところ。ななかで目立ってたのが、おデブちゃんのシャン(ジェシカ・ガニング)だ。さえない炭鉱夫の妻だけど、ゲイを受け入れるかどうか困惑している委員会の連中に「受け入れるべきよ!」とか一喝するような積極さで。始めは否定的だった亭主も、あっという間にゲイの仲間たちと仲良くなってしまう。
ほかにも、古老のビル・ナイ、ゲイ連中との交渉役だったバディ・コンシダイン、肝っ玉母さん的なイメルダ・スタウトンとか役者がそろってる。
一方で、頑なにゲイを拒否するオバチャンがいて、その息子2人も右にならえ。まあ、映画的にはこういう設定が必要だとは思うんだけど、なぜに彼女はああも頑ななのか。その理由を知りたいところだ。それと、気になるのは、ストライキが和解したあと、ゲイのデモに炭鉱夫がバスで大挙してやってくるところなんだけど。あのシーンで、どーも頑なだった2人の息子はいたような気がするんだけど、母親はいなかった。それと、委員会の親玉みたいなオヤジはいたんだよな。
ゲイたちがロンドンで支援コンサートを開くということで、炭鉱からも何人かのメンバーが出かけた。その翌日、炭鉱では何かの委員会が開かれる予定で、午後3時からだったかな、それに間に合うように戻れば良かったんだけど。例の頑ななオバチャンとか反ゲイの連中が工作して、委員会の開催時刻を12時にしてしまった、という事件があった。そのときの委員会で、一番偉そうにしてたのが、件のオヤジで。え? ゲイに反対の立場じゃなかったの? な気がしてしまったりするのだよ。
この映画、中盤からかなりいい加減になっていって。たとえばスト和解あたりから、具体性がなくなっていって、なあなあな感じになっていくのだよ。たとえば、和解はどのようなものだったのか? 勝ったの? でも、Webで見るとサッチャーの勝ちで、組合は衰退していったように書かれている。だから曖昧にしているのかな。イギリスの様子を詳しく知らない日本人には、「?」なところが多すぎだ。
そして、頑ななオバチャンの息子たちとか、偉そうなオヤジとか、どのようにして反ゲイから親ゲイになったのか? そのあたりも、納得のいく説明が欲しいところではあるが、そうはいかない事情があるのかもね。
・ゲイ仲間の年長格ジョナサンは、スザンナ・ヨークを刺した男、として登場するので、「?」だったんだけど。ラストで、この話は事実に基づいてると分かって、そういうこともあったのかな、と。
・題名がよくないね。『パレードへようこそ』って、何の話かよく分からんだろ。原題の“Pride”の方が、まだマシなんじゃないのかね。 ・ブロムリーという地名とか、北ウェールズはどうのとか、現地人でないとよく分からない地名とか慣習がフツーに出てくるのは、それでいいのか? 分かりにくいよなあ。
ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲12/2ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/コルネル・ムンドルッツォ脚本/カタ・ヴェーベル、コルネル・ムンドルッツォ、ヴィクトリア・ペトラニー
ハンガリー/ドイツ/スウェーデン映画。原題は“Feh?r isten”。ハンガリー語で「白い神」のようだ。allcinemaのあらすじは「とある国のとある街。トランペットを習う13歳の少女リリは、両親が離婚し、母親のもとで暮らしていた。孤独な彼女にとって愛犬のハーゲンだけが心の支えだった。そんなある日、母親が仕事で長期間留守にするため、リリは父親ダニエルに預けられることに。しかしリリがハーゲンを連れて行くと、ダニエルはあからさまに不快感を示す。この国では、雑種犬の飼い主に重税を課す法律が出来たところだった。やがてハーゲンはダニエルによって遠く離れた場所に捨てられてしまう。以来、ハーゲンの行方を必死になって捜し続けるリリ。その頃、自力でリリのもとに帰ろうとしていたハーゲンには、次々と困難が立ちはだかる。生き抜くために野生の本能に目覚め、次第に獰猛さを増していくハーゲンだったが」
端的にいうと、ワガママな小娘とバカ犬の話だった。ドラマらしいドラマはなく、シチュエーションの連続。その結果どうなる、というドラマの展開はそっちのけで、勢いで突っ走って、最後はとんでもなくはじける。のであるけれど、そんな具合にはじけてどうするの? な、感じ。気の毒なのは犬で。あんな終わり方で、それからどうなるの? だよな。
ある意味、現代のおとぎ話。だけど、そういう味つけがなくリアルな描写なので、なんかじれったい。最初から寓話的なレトリックを、イメージにも話にも利用すればいいのに。なので、いつになったらまともな話になっていくんだ? と思っているのに、外されっぱなし。凶悪な闘犬として育てられた犬との邂逅も、ほったらかし。やっぱここは、その先まで見せてくれないとな。ラッパ吹いて、凶暴さが一瞬収まっても、次、どうなるか分からんではないか。やっぱ、犬は元の心をとりもどした、で終わって欲しいところではある。
むしろ、どうせならおとぎ話にでもすりゃあいいのに、あれこれ中途半端。まあ、それを救ったのは、主人公のハンパない美少女ぶりかも知れない。あの子、すごい美人になりそう。エロい美人ね。だってすでに大人の顔が見え隠れしてるんだもの。
冒頭は、自転車に乗って走っている少女。その背後から犬の一群が迫り、追い越していく…。で、時間が遡って、牛の解体→父親に預けられるシーンへ。
なんだけど、そもそも犬をつれて父親の元に行く、という設定自体が納得できない。ダニエルの元妻って、いい加減すぎだろ。ほかに娘を預ける先はなかったのか? ダニエルのところでは犬はムリ、ぐらい分かるだろうに。バカか、と思う。
ところでダニエルは元大学教授?で、いまは屠畜場で食肉検査をしている。で、どうも、大学でダニエルの職を継いだのは、元妻と一緒に出張する男、みたいな会話があったんだが。確かかな? で、そういう設定が正しいとしたら、どういうつもりでそうしたのかな? 話が進んでも、そういう背景はほとんど活かされていなかったぞ。
で、娘のリリも反抗的すぎて、バカか、としか思えない。父親のアパートじゃ犬はムリ、ぐらい分からんのか。さらに、学校…といってもあれは音楽学校? の授業に犬を連れていって、教師に叱られ、「じゃあいい」と退出してしまう。このひねくれ具合はなんなんだ? 性格なのか、もしかして母親譲りという設定か? しらんけど、こんなバカ娘はひっぱたくしかないんじゃないか?
てなわけで父親のダニエルは犬を捨ててしまう。まあ、もう少しましな処理の仕方はあったと思うんだけど、リリが「ぜったい離れるのは嫌」と言い張っているのだからしょうがないだろ。そんな頭のいい犬でもなさそうだし。ははは。
で、あれやこれやで野良犬の群れに交じってしまうんだけど、ハンガリー? は野良犬の天下なのか? 廃墟みたいな中庭に、野良犬がうじゃうじゃたむろってるって、いまどきあるのか? 単なる設定?
野良犬狩りからは逃れたけど、ホームレスに捕まり、ホームレスから犬売りに。そこにやってきた男に買われ、闘犬として仕込まれていく過程は結構すごいんだけど。頭が悪くてトロそうな犬をわざわざ選んで仕込む、からには見どころがあったんだろう。仕込めば野生が蘇り、相手を食い殺すようになる、ということを。
で、連想したのはイスラム国のテロリストで。西洋諸国で生まれ育っても、なにかのきっかけで原理主義にかぶれ、死をも賭さず襲撃して爆死するまでに洗脳されてしまうには、やはり素質がかんけいしてるんだろうな、と。それにしても、男が、ハーゲンの刃をヤスリで研ぐことで。そんなしてまで強くするのか…。いや。そのまえに、闘犬が一般的な国なのか、ハンガリーは。
で、満を持して登場すると、周囲の冷ややかな目とは裏腹に、ハーゲンは野性味溢れる戦いで勝利。なんだけど、この闘犬シーンがカットつなぎで誤魔化すとかじゃなくて、けっこう組み合って戦っている。まあ、じゃれ合ってるようにも見えるんだけど、それにしても、この犬はなかなか演技派だ。
リリは、反抗的になって家でしたのか? 学校の上級生のたまり場みたいなところにでかけ、上級生に煙草を迫ったりしてたけど。最初は相手にされなかったけど、次にはどっかのパーティだか店だかに連れていってもらって。気がついたら周囲に警官! どうやら麻薬とかやってる連中もいたようで、でもリリは陰性だったので父親に引き取られていくんだったよな。
てなわけで、ハーゲンを失い、家出も失敗し、父親に引き取られて大人しく学校に戻る、だったかな。で、本来のトランペットを吹くことになって、発表会に臨む、だったかな。
いっぽう、ハーゲンの勝利で浮かれる男は、他の仲間から「その犬を売れ」とかしつこく迫られていて。そんなに犬を欲しがるやつがいるのか? こいつらもみんな変だな。どうも男は以前に評判を落としていたらしく、これで名誉回復。これからハーゲンで勝ち続けて見返してやろう、な思いがあったのかも。それはさておき、突然、停電になって。そうやってハーゲンは誰かに奪われるのかと思いきや、まんまと脱走するんだが、話がテキトー過ぎ。
その後は、野良犬仲間だった小型犬と一緒になったんだっけ。それから、どういう経緯だったかな。犬の捕獲で捕まっちゃうんだっけか、どうだったんだっけ。捕まらずに保健所に行って、そこにいる野良犬たちを脱出させるんだっけ? よく覚えてないんだけど、その一連の経緯の中で、保健所の管理のオバサンをかみ殺し、かつて邪魔者扱いした肉屋の店員をかみ殺し、調教した男も食い殺すんだっけか。野犬が野放しになってる、って最中に、町から人気がなくなってるのに食堂で食べてたのは、調教男だったのか? まあいい。
てなわけで町に野良犬が数100匹? 解き放たれ、人はみな避難。…なんてする必要があるのか? たかがその程度の犬で。
檻から解き放たれたら、犬なんて散り散りバラバラに走ると思うんだが、どういうわけか群れて、目的があるかのように走るのはなぜなんだ。ハーゲンがリーダーになって野犬を解放し、どこかへ連れていく? なんか、突然すぎるだろ、それって。伏線も何もないし。
で、この事件を知ったリリは、コンサートも途中で中止になるんだっけか。トランペットを背負って、先輩の自転車を借りて犬を追う? のか? そこにハーゲンがいる、という確かな情報もないと思うんだが。それに、自転車を提供する先輩も先輩で。危険だろ!
で、冒頭のシーンに戻って。犬に追い抜かれるリリは、えーと、父・ダニエルのいる屠畜場に逃げ込もうとするんだけど、ダニエルは鍵が見つからず…だったか、入れない。というところで、門の前で犬たちに追いつめられたリリ。おもむろにトランペットを吹くんだが、それはハーゲンを手なづけていたいたころのメロディで。ハーゲンの動きは止まるけれど、なつく様子もなく、リリは道路にうつぶせになる…というところで、終わり。
ん? これでいいのか? な終わり方。なんかよく分からない。最後、ハーゲンが昔のこころを取り戻した、という確証もない。さて、どうなる? で、終わってる。あのまま、野犬たちはどこかに逃げ切れるのか? まあ、それはあり得ないだろう。かといって、追っ手が迫っている気配もないし。父親との関係はどうなるのか? はたまた母親や、その彼氏(義父になるのか?)との関係は?
少女が大人になるために経るべき経緯や儀式を象徴しているようにも見えない、もろもろの出来事…。だって、翻弄されるのは彼女ではなく、ハーゲンの方だし。ううむ。よく分からん。
主人公のリリを演じるジョーフィア・プショッタがかなりの美形で。しかも、少女としてのかわいさではなく、大人になったらかなりの美人、しかも、色っぽい女性になるだろう、な美しさだった。
※雑種にだけ重税、という設定は、ハンガリーがそうというわけではなく、映画の設定のようだ。
※『Newsweek』のインタビューがあって、監督は“ホワイト・ゴッド”は「植民地化し、支配する白人」につながっている、と述べていた。ふーん。それと、犬にとっての人間は「神」のようなものである、ということもあるらしい。そして、犬の反乱は、大衆蜂起を象徴しているらしい。移民に不寛容なヨーロッパに「恥ずかしい」と語っている。…けど、よく分からんな。
とか思ったけど、よく考えるといろいろ符合するものもある。たとえば、人間を西洋諸国として、犬を中東諸国とする。かつては対立していたけれど、近現代には西洋列強が制圧。西欧諸国は文明を提供し、その管理下の元で中東諸国は石油を提供してきた。持ちつ持たれつだけれど、その背景には主従関係のようなものもあったわけで。西洋の都合によって疎外されたり切り離される中東民族もでてくるようになった(野良犬の誕生)。反抗的な国々もあったけれど、その多くは軍事的に管理されてきた(犬の保健所)。一部過激派も現れたけれど、米ソなどが後ろ盾となって互いに戦わせたりしてきた(闘犬)。でも、その枠を超えていく団体も登場し、欧米諸国にテロで刃向かい始めるものも現れた(ハーゲンの奪取と野良犬の自律支援)。たとえばイスラム国…。という文脈でとらえれば、現代の文明の衝突を描いている、といってもよいのかも知れないな。もう、人と犬は主従関係ではないのだよ、と。
海難189012/7MOVIX亀有シアター3監督/田中光敏脚本/小松江里子
日本/トルコ映画。allcinemaのあらすじは「1890年、明治天皇への謁見を終え帰途に就いたオスマン帝国の親善訪日使節団を乗せた軍艦“エルトゥールル号”が、和歌山県樫野崎沖で台風に遭遇し、難破してしまう。600名を超える乗組員たちが海に投げ出されるが、地元住民の懸命の救助活動と、医師・田村を中心とした医療関係者たちの尽力で奇跡的に69名の命が救われる。和歌山の人々のこの行動はトルコ国民に感銘を与え、後世まで語り継がれることで日本に対する好意的な感情の醸成に大きく貢献していく。それから90年以上も経た1985年、イランのテヘラン。イラン・イラク戦争の停戦合意が破棄され、イラクのサダム・フセインは、イラン上空の飛行機を無差に攻撃すると宣言する。この時、帰国の手段を断たれた200人以上のイラン在留邦人の窮地を救ったのが、90年以上も前の出来事に感謝の念を持ち続けていたトルコの人々だった」
話は知っていたので、どう描かれるのかに関心があった。でも、アウトラインをなぞりつつ、懸命に盛り上げようとしてるけど、空振りな感じ。緊迫感とか高揚感とか、そういうのが取って付けたような感じで、ぜんぜん伝わってこない。要は、自画自賛の自慢話になってる。主な原因はホンで、全編ただ淡々と進んでいって、ドラマらしい物がほとんどないからだ。書き手は、あえてドラマを排除したような気もしないでもない。だからって、必要もないシーンやセリフを積み重ねても意味がないだろうに。どうせなら人物に迫ればいいんだが、こちらも薄っぺら。役名はあってもほとんど機能していない。何のためにいるのか分からないような人物は要らないんだよ。まあ、こういう映画にいそうな人物を配しただけで、ぜんぜん生きていない。あと、トルコ人なんだけど、これがどれも同じような顔をしていて、最初のうちは誰がどれだか分からなかった。あれはヒゲがいかんのだな。もうちょい考えてキャスティングしなくちゃな。
一行はドイツの軍艦で帰っていく・・・と、突然1985年のテヘランになる。「?」だけど、要はトルコ側のお返しを見せたかったわけか。それにしても突然すぎる。要は映画の構成が間違っている。映画の冒頭を1985年のテヘランで逃げ惑う晴海と、トルコ大使館のムラトの出会いにする。そこから遡って1890年、晴海そっくりのハルが田村の医院で働いている…という、よくある構成にすりゃいいだけの話だ。
しっかし、1980年というと明治23年。だけど、島の住民の大半はボロボロの着物で、女たちも髷を結っている。すげえ貧乏で文化的に遅れている感じがして、なんか恥ずかしい感じがした。たまに洋服の人物も出てくるけど、なんかトーンが陰気だ。医師の田村に合致する人物がいたのかどうか知らんが、着物姿にしないで洋装にすりゃいいのに。ハルも、看護婦姿にすりゃいいのに。
・冒頭で青年漁師が3人ぐらい出てきて、娘ハルになんかいうのだが。このときハルの許嫁が事故死したことにふれている。ついでに青年漁師の1人が、彼女に思いがあるようなことがチラリとふれられるので、この青年たちはその後も活躍するのだろうと思っていたら、扱い的にはほとんどその他大勢な感じ。青年のうちの1人なのか、子供が生まれる場面があるんだけど、これもたんなるエピソード。このうちのどちらかが、遭難時に海に潜り、ムスタファを救出するんだけど、誰が救ったのかよく分からず。役者の顔が判別できないこちらのせいかね?
・そのハルだけど、医師田村の手伝いをしているという設定。しかし、両親とか兄弟はいないのか? まさか田村と同居してるのか? なことはないよな、と、要らぬ勘ぐりをしてしまう。そのあたり、1カット見せればいいことをしていない。
・ところで、あの島がどこにあるのか、なぜか地図で見せないのだよな。せめて串本からどの程度離れているのか、空から見せればいいのに。それがないから、島というより岬の一部みたいにしか見えない。
・医師の田村は、「こんな島だが好きだ」とか言いい、漁民から治療費も取らずに診ている。金はどうしてるんだ? 資産家なのか?
・田村と藤本はどういう関係なのだ? 藤本は「いまは事務方」とかいってるけど、同郷? 大学の同期…ってことはないよな。医師と軍人じゃ。それがなぜしょっちゅうやってくる? このあたりも、ちょっとしたセリフ、カットで補えるのに…。
・村長が、トルコの一団が天皇に謁見した、という新聞記事をわざわざ田村に見せるんだが。“わざわざ”見せる必要性は、話の中ではないよな。田村が気にしていた、とかなら別だけど、唐突すぎる。あれは、筋立てで、事故の後で「あのトルコの軍艦か!」と言わせるためだけのシーン。こういうホンを、よく書くよな、と思う。
・トルコ編で、大尉のムスタファが日本に行くことになった、と父親と話す場面があるんだが。その次の場面で、妻との別れのシーンがあるのだよ。ここ、すっかり同一人物だと思っていた。なので、軍艦のボイラーマンであるベキールに子供が生まれた、と喜ぶ場面が不思議だった。ムスタファも、もうすぐ子供が生まれる、と言っていた。で、ベキールにも子供が生まれるのか? 変な設定、と。でも、ずっと後になって、妻との別れの場面はベキールだったのか! とやっと分かった。いや、こちらがトルコ人の顔が区別できないだけだったんだが。いや、それでも何となく顔立ちは似てるし、ヒゲも同じような感じだから、間違ってもしょうがないよな。
・ベキールがムスタファを意識する理由はなんなんだ? 公認の格闘も、なぜなのか分からない。接点といえば、ムスタファがボイラー室に入ってきたときぐらいだけど、特別なことなんて、あったっけ?
・こんな島、といいつつ、もうひとり医師がいる。漁民しかないような島に、なぜ医師が2人もいる? しかも、遊郭もあるって、どれだけ栄えてるんだ? っていうか、その飲んだくれの医師は、この話にどういう関係がある? ほとんどない。
・事故の当日、爆発音で駆けつけると、崖下に人の山…って、どうやって逃げ出してきたんだ? 泳いできたのか? だれも動いていなかったよな、あのシーン。変だろ。翌日か、座礁し、大破した船体も映るんだけど、崖からすぐ近くで。なんだ、あんなところに座礁したのか。もっと遠いところかと思ってた、みたいな近さでかなり脱力。
・翌日かな、神戸から藤本が来るんだが。電報が入ったから来たって、情報はどうやってつたわったんだ? 串本から連絡が行ったのか? そんなに便がいいなら、食糧だの棺桶だの、さっさと手配してやればいいのに、とか思ってしまう。まあ、事実をシナリオに落とすときのぎくしゃくが、なんか目立ちすぎだな。
・部屋に入りきらない船員たち。身体が冷えてるからと、誰だったかが「身体で暖めろ!」とか怒鳴るのも強引すぎ。火でも炊けよ。家に入れてやれ。しかも、女にそれを強いるみたいなのは、アホだろ。ま、古女房たちが二の足を踏んでいると、ハルが率先して着物を脱ごうとしたら…芸者のお雪が「私に任せな」とかいうんだが、あざとすぎるというかムリ過ぎというか。だいいち、ハルは看護婦役なんだから、そんなことするより手当てだろ。芸者の数も、そんな多くない。ハルの思いやりとお雪の心意気を見せたいだけの、とってつけただけの場面で白ける。
・ハルは、ムスタファに恋心を抱いてる、みたいな展開になるんだが。彼女が彼を蘇生させた、ということ以外に何のつながりもないのに、それは無理筋だろ。日本女性が外国のイケメンに恋をする…という設定は、これは海外向けの設定なのか?
・部下が飯食ってるとこにムスタファがやってきて、「食ってんじゃねえよ。なんで仲間を助けられなかった!」的なことをする場面があるんだが、そりゃ無理筋な話だろ。その後、自分に当たるんだが、はじめからそうすればいいのに。気の毒な部下に当たるんじゃないよ、とか思ってしまった。
・日本編とテヘラン編のつなぎに、ちょっとしたギミックの映像を使ってるんだけど。意味ねえ。
・テヘラン編で晴海が「祖母が…」とつぶやいていたけど、1985年に仮に25歳として、母親が55歳なら1930年生まれ、その母親(祖母)はせいぜい1900年生まれってとこだろう。1890年に20歳ぐらいの娘が、どうやっても祖母にはならんだろ。
・テヘラン編で、大使館のムラトの説得に、トルコ人たちは飛行機を日本人に譲るんだが。1890年の海難事故で、日本人はとくにリスクは取っていない。救助活動をした、というだけの描き方になっている。実際は、のちのち義援金なんかも集まったらしいけど、テヘランでは飛行機を日本人に譲ったら、トルコ人はリスクを背負うわけで、間尺に合わないんじゃないのかな。とか思ってたら、なんと陸路クルマで2日かければトルコに着くとか言っていて。だったら日本人も陸路という選択があるじゃないか、と思った。とくに、父親の方が頑なな家族が登場し、「ここに残る」とか言い張ってたんだけど、アホだろ。というか、映画の都合上、ああいう人物を登場させた、のだろう。
・テヘランで、日本航空も自衛隊も飛行機を派遣できなかった、と言ってていた。自衛隊は、まあ、ムリだったろうけど。日航も冷たいね。トルコのパイロットは、志願を求めたら全員が挙手してたのに。そう。この挙手するシーンだけ、この映画ではよかったところだな。てなわけで、自衛隊が海外派兵できないと、イザというとき困りますよ、なことを言う、というのもこの映画の役目なのかな、と。
・最後に写った白い帆船は、ありゃなんの意味があるんだ? たんなるお飾りの帆船?
・エンドロールの最後、カメラは海に入っていく。きっと兜飾りを映すんだろうと思ったら、その通りだった。しかし、考えて見ればあの飾り物。トルコと同じような月と円があるから「縁起がいい」って、ボイラーマンのひとりが飾ったんだよな。でも、結果、台風で難破で本人は死んでるわけで、ちっとも縁起良くないよな。
・エンドロールの最後に、なんとトルコ大統領からのメッセージがくっついていた。あらららら。トルコ資本を入れたからかな。スタッフは大半日本人だけど、資金はトルコからも集めた、という呈なのかな、この映画。
グリーン・インフェルノ12/9新宿武蔵野館1監督/イーライ・ロス脚本/イーライ・ロス、ギジェルモ・アモエド、ニコラス・ロペス
アメリカ/チリ映画。原題は“The Green Inferno”。allcinemaのあらすじは「女子大生のジャスティンは、環境活動家グループのイケメン・カリスマ・リーダー、アレハンドロに好意を抱き、彼らが南米ペルーで行う抗議活動に参加することに。その内容は、未開のジャングルに暮らす先住民、ヤハ族を守るため、開発が進む工事現場に乗り込み、違法な森林伐採の様子を生中継で世界中に発信するというものだった。計画はみごとに成功し、大きな成果とともに帰途に就いた一行だったが、ほどなくしてセスナ機が墜落し、彼らはアマゾンの真っ只中に放り出されてしまう。かろうじて一命を取り留めたジャスティンたちだったが、生存者は全員、身体を真っ赤に染めたヤハ族に捕らえられ、彼らの集落へと運ばれる。そこでジャスティンたちを待っていたのは、世にもおぞましい人喰いの儀式だった」
まあ、こういう映画だから、細かいことを言ってもしょうがないとは思うが。大学生の一行が簡単に現地に飛び、雇った船でしばらく進と開発地にたどり着いて。しかも、その周辺に食人族がうじゃうじゃいるって設定がそもそもアホらしい。でももそこを言っちゃうとすべてがアホになる。まあ、映画自体がアホなので、そのアホを楽しめばいい話なんだが。でも、もうちょい人跡未踏の地にして欲しかった、というツッコミは入れておきたい。それにしても、アメリカとチリの映画らしいけど、こんな描き方をされてペルーは怒らないのか? が大きな疑問。
とはいいつつ、いまどき南米土人への偏見を助長させるような食人映画で、この手の映画では描写もなかなかハードな部類。小型機の墜落シーンなど、機の内部が逆さまになったり、座席ごとすっ飛んでいく仲間がいたり、おおっ、と思うぐらいリアル。さらに、ヤハ族に捕まり、最初に黒人デブが目玉をくりぬかれ、舌を切られ、両手両足を切られて調理されるところなど、かなりエグイ。
いっぽうで笑えるところも随分あって。ヤハ族に襲われ、アレハンドロの彼女の首に矢が刺さり、介抱しようとしたら脳天に矢が刺さる、なんてところは、コメディかよ、おい、と言いたいぐらい。
そもそもジャスティンが、活動家のアレハンドロに好意を抱いてペルーまででかける…というのは、アホすぎ。環境活動家には、この手の頭の軽いやつが結構いるのか。知らんけど。
開発を止めさせる手段が、ネット中継というのは、ふーん、ではあるけど、そこまで効果があるのかな、な感じ。そもそも、開発を進めているのは誰で、どういう利権がからんでいるのか、というのがよく分からない。開発会社を護衛しているのは軍隊のようだけど、国家ぐるみ? それで、ジャマするヤハ族を撃ち殺しまくってるのか? なんか、トンデモ設定だ。まあ、おもうに、この手の映画もつくりにくくなってるよなあ、きっと。だって、ツッコミを入れる人が少なくないだろうから。まあいいけど。
見てる限りでは、開発会社+軍隊は、そんなに悪者に見えない、というのも楽しい。かつてシーシェパードが日本の捕鯨船を攻撃したとき、その過程でシーシェパードのメンバーが海中に転落。シーシェパードからの遭難信号に件の捕鯨船が応じ、転落者を救ったことがあったけど、それを思い出してしまった。
わからないことというと、アレハンドロが「3日ぐらいたてば、別の開発会社がここにやってきて、救われる」という件。今回の反対劇は、開発を中止させるのではなく遅らせるためのものだ、というのだ。アレハンドロたちを呼び寄せた男がいて、ライバル会社から金がどうのでどうたらでこうたら、裏はあるとかなんとか言うんだが、よく分からなかった。あれか? 呼び寄せた男は別に開発に反対はしていなくて、ライバル会社から現在の開発会社を追い出して欲しい、と依頼され。アレハンドロもそれを知りつつノコノコやつてきた、ということなのか?
・雨の日に脱出した女性がいたけど、彼女はどうなったんだ? 逃げ切ったにしては、フォローがない。もしかして、ジャスティンとヒゲ男が墜落機のところまで逃げたとき、あの辺りに串刺しになっていた? 説明がなかったので判然とせず。
・黒人デブの肉を食事に出されたことに気づき、自ら首を切って自死する女がいた。その女の身体に大麻を仕込んでおけば、ヤハ族はラリってしまうから、そのスキに逃げよう、なんてアレハンドロが言うんだが。食道辺りにつっこまれた状態でこんがり焼かれて、しかも小袋程度のマリファナで、全住民がラリってしまうって、ありなのか?
・チャラい男は、住民がラリってる最中に逃げ出したけど、なんでもマリファナの空腹現象とかにぶちあたり、住民たちに生食されるという場面があったけど、せいぜいが首筋から食いちぎられたゴムの血管が引き伸ばされる程度。みんなの輪から、子供が足を持って走り出ていくところが、なかなか可愛い。
・すべての中からジャスティンが選ばれ、白塗りされて、クリトリスを切られそうになる? のだけれど、あれはどういう意味なのだ? 彼女はずっと活かされ、神のような扱いをされるようになったはず、ということなのか?
・ヤハ族のエリアには串刺しの人骨とかゴロゴロしてるんだけど、あれは敵の部族なのか、それとも迷い込んだペルー人のものなのか? あんなに食われてたら社会的事件で、やっつけても文句はいえないやな。儀式的なら、たまにひとり二人だろうけど、あんなに食ってるってことは貴重なタンパク源なのかね。ははは。
・で、ジャスティンは、ヤハ族の少年を首飾りの笛でなつかせ、最後は解放してもらうんだけど、これなんかもう適当すぎて困ってしまう。そんなんで食人族の少年が、仲間を裏切るのか? あり得んだろ。逃げ出した彼女は、すでに参画してるライバル会社?の労働者と軍隊がヤハ族を撃ち殺している(相手が銃なのに向かっていくヤハ族は、何も学習してないね)場面にでくわし、「いま、撮影ているわよ!」と白塗りの状態で叫びつつ介入し、結局はとらえられ、ていうか保護されて国に送り返される。なんだ。開発会社も軍隊も親切じゃん。
・帰国して、問われても食人のことを言わない。っていうジャスティンの態度はどこから来てるのかね。あんなにされてもヤハ族を守りたいから? 一緒に行った学生たちの家族からの問い合わせはないのか?
で、キャンパスに戻ったジャスティンが、声をかけられる。なんとアレハンドロで、彼が口を開くとその口が真っ赤で…というところで、ドキッとしたよ。これは夢だったらしいが、目覚めて外を見るとデモをやってて、フリー・なんとか! とシュプレヒコールしてたのは、ありゃなんなんだ? イラストの顔はアレハンドロだったよな?
で、エンドクレジットが流れ始めて、終わったかと思ったらクレジットが戻って音声が…。アレハンドロの妹からジャスティンに電話で、「Googleマップに兄が映ってるんだけど…」と。で、立ってるアレハンドロのイメージが映って、オシマイ。なんだけど、ラストの思わせぶりは、なんじゃらほい。よく分からない。
・クレジットに、食人映画の系譜がついておったな。ずいぶんつくられるのは久しぶりの様子。まあ、最近はなかなか食人映画がつくられなくなってきているのかな。
・クレジットに、ブラット・ピットがどうの、アカデミー賞がなんとか、という文字も見えたけど、よく分からなかった。そういえばジプニーの名前にブラット・ピットってのがあったけど、関係あるのか?
悪魔と十三12/13東京芸大・千住キャンパス・ラウンジ監督/?脚本/?
横文字のタイトルは“13 DU DIABLE”。HPのあらすじは「主人公Claudeはある日悪魔と出会い、彼が女性に抱く幻想を実現してくれると約束した。Claudeは突然、魔法を持ち、彼が選んだ女性は皆が彼に従うことになるか?」
東京藝術大学千住キャンパスで行われた「千住Art Path」という音楽のイベントで上映されていたものを見た。Macのクイックタイムムービーをビデオプロジェクターで壁に投射したもの。Macの画面ではセピアっぽい農茶のカラー画像だったけど、投射されたモノは黄土色にかすれ、味気ないものになっていた。部屋にいたのはたぶん音楽音響創造 張銘(修士1年)で、知り合いがフランスで撮影したショート映画(18分)に、彼女が音楽をつけたものと思われる。しかし、映像に関するデータがほとんどないのが困ったもの。
クローゼットにダッチワイフを隠し、エロ雑誌に浸っているほどモテない男が睡眠中に、異形な人形みたいなのがやってくる。夢? 次のシーンは街角のカフェで。そこに、フツーのおばさんの姿をした魔女がいて、男に話をもちかける。「気に入った女性をチェックしろ。夜の12時には、彼女たちを集めて船着き場にいるから。ただし、数は奇数でないとダメだよ」と。男はダッチワイフをゴミ箱に捨て、靴べらみたいので女性たちをチェックして回る。途中で魔女と会い、調子を聞かれると「5人チェックした」と応える男。「そのぐらいにしておけ」と言われたのに、欲望が優ったのか、次々とチェックしていく。で、船着き場に行くと、魔女に「13人目の女は、最初の女だった。だから12人。偶数だからダメ」といわれ、「じゃあ、あんたが13人目」って魔女をチェックすると…どうなったんだっけ。びりびり来てたとかだっけ? 忘れた。ですごすごと部屋に帰るとダッチワイフが椅子に座って男を待っていた、という話。
どこから夢なのか、よく分からない。すべて夢なのかも知れない。まあ、そういうことは、どうでもいいんだろうけど。そもそも、なぜ悪魔が男を選んだんだろう? ダッチワイフ生活だから? にしては、いい男すぎるんだけどね。
最初の女性が最後の女性、と分かるような撮り方をして欲しかったかも。1人目は、街角でしゃがんでる女性だったかな。13人目にはストーカーに間違えられる、だっけ? アパートに逃げ込まれていたけど、よく分からない。ちゃんとチェックしてたかな?
まあ、欲望が過ぎるとすべてはおシャカ、とかいう教訓なのかね。
現場で渡されたシートに、ナボコフの『A Nursery Tale』(邦題:おとぎ話)からの改作、と書いてあった。また、『監督は男性の方で、男性の視点から、「色々な女性を選んだが、やはり一人目の女性は本気で愛している方です。」「男性は、機会があればかならず誘惑に負けます。だから、誘惑から離れたほうが良いです。」という価値観を色々と映画を通して、述べていますが…』とか書いている。また、音楽担当としては、『私は、音楽の作曲者として、初めて映画を見たとき、まずビックリでした…。こんなの本当ですか? と、最初は、信じられない思いでしたが、後に、よく映画を見て考えると、女性としての視点を見つけました。それは、「美しいものや人に憧れを持つことは良いが、他人を傷付けるほど悪いことならダメ」ということ。この映画音楽を通して、作曲者の私が言いたいことです』と書いている。ふーん。日本語勉強中ですな。
調べたら、悪魔と13というのは、知られた話で、これをモチーフにした話はいくらでもあるみたい。ふーん。
黄金のアデーレ 名画の帰還12/14シネ・リーブル池袋2監督/サイモン・カーティス脚本/アレクシ・ケイ・キャンベル
アメリカ/イギリス映画。原題は“Woman in Gold”。allcinemaのあらすじは「ユダヤ人女性のマリア・アルトマンは、ナチスに占領された祖国オーストリアを捨て、夫フリッツとともにアメリカへの亡命を果たす。1998年、82歳となったマリアは亡くなった姉ルイーゼがオーストリア政府に対してクリムトの名画“黄金のアデーレ”の返還を求めていたことを知る。それはマリアの伯母アデーレの肖像画で、第二次世界大戦中にナチスに略奪されたものだった。マリアは姉の思いを受け継ぐことを決め、駆け出しの弁護士ランディに協力を仰ぐ。しかし、その名画は“オーストリアのモナリザ”と称される至宝。オーストリア政府にこれを手放す気は毛頭なく、マリアとランディの闘いは困難かつ長い道のりとなっていく」
えーと。見てから6日もたつといろいろ忘れてしまうんだよなあ。ははは。
クリムトのあの絵について、あんな裏話があったとは知らなかったので、へー、ではあったんだけど。では映画が心躍るほど面白かったかというとそんなことはなくて。法廷劇としてはかなり物足りなくて、拍子抜け。そこが肝心なところだろうに! と思うんだけど、どうしてなのかね。たとえば、証拠を見つけるのだとかいってイギリスの公文書館なのか資料館なのか知らんが、に行って腕まくり。膨大な資料でどうすんだと思ったら、あっさりと伯母が書いた、絵を美術館に寄贈する、という遺言書を見つけてしまう。おやおや。寄贈する、としているけれど、当時の所有者は伯父で、だから伯母の遺言は無効、とランディは言う。その線で訴えようとしたら、オーストラリア国内での訴訟は、その絵画の時価総額と同じ価格の数億円(?)かかるとかで、こりゃダメだ、といったんはあきらめる。けれど、いったん帰国して、ランディが見つけたのは、件の美術館の出版物が米国内で売られている、という事実。なんでも、外国で事業をしている組織に対しては、アメリカ国内での訴訟が成立する、という。それで米国内での法廷闘争が繰り広げられる…かと思いきや、これが大幅に短縮されて、途中で示談という話もでるんだけどオーストリアがこれを拒否し、最高裁になるんだったかな。いや、でも最終判断はオーストラリア国内で、国民代表の意見で決まったんだよな。でも、この辺りのシステムについては、正直いってよく分からないし、だからかなり隔靴掻痒。あの示談では、金の支払いで解決する、というようなことだったと思うんだけど、それをオーストリアは断ったんだよな。で、どうして米国内の裁判で結着せず、オーストリアでの判断という具合になったのか、これまたよく分からなくて。しかも、判断材料は、最初の法廷のときと同じで、伯母の遺言書の正当性についてしか取り上げられてない。でも、何度も裁判を繰り返したんだろうし、そこでの議論もだったはずだし、しかも、オーストリアは連戦連敗だった、ということだよな。なのに、どうしてオーストリアの弁護団は最高裁(?)で、あんな自信ありげな表情をしているんだ? なんだよな。で、最後、オーストリア国民の代表(?)の判決で、あの絵はマリアに返還されることになるんだけど、そうなった原因は何だろう? と考えるに、具体的には描かれていない。雰囲気的には、オーストリアは、ナチス統治下でユダヤ人に申し訳ないことをした、ということだけで、ちっとも説得力がない。あまりにもアバウトすぎて、ぜんぜんスッキリしないであるよ。
人物とか場所とかも、かなりテキトーなところがあって。たとえば裁判所で何とかいう男とすれ違って言葉を交わす場面があるんだけど、その男の正体は分からなかったんだよな。あと、上でもふれたけど、伯母の遺言書を見つけた場所はどこだったんだ? それと、オーストリアで何気に近づいてきて、マリアとランディを手助けする新聞記者がいるんだけど、彼の存在も唐突すぎて違和感ありすぎ。もっと描き込まないと、彼のリアリティもつたわらないよなあ。
な反面、マリアの周辺の人物はごっそりカットされている。マリアの姉に遺産相続人がいなかったから、姉の遺品がマリアにまとるて渡されたんだろうけど。マリアも独身で、身よりはなかったのか? なあたりも、知りたいところだよ。
あと、気になったのは、クリムト以外の絵画や宝石の行方で。まあ、アデーレの首飾りは消えたのかも知れないけど、元は伯父・伯母の所有だった絵画のリストもあったんだろ? それは、最初から、裁判せずにマリアのもとに戻される、ということになったのか? それと、黄金のアデーレ以外のクリムトの絵画はどうなんだ? もし、「黄金のアデーレ」以外の絵画が戻されたなら、それだけでもひと財産だろ。そのあたりを、ちゃんと知りたいよな。
というわけで、論理的に詰めていく話ではなく、雰囲気でもっていく感じかな。
もやもやしたのは、回想場面で。マリアが、調査や、最後の判定のためにオーストリアに行かなくてはならなくなり、そのたびに昔の記憶が蘇るんだが。そこでのナチと、同調者となったオーストリア人の仕打ちがじわじわ来た。とくに、マリアが夫とともに幽閉されていた自室から逃げ出す場面は、サスペンスいっぱい。まあ、オーストリア国民も、ナチに制圧されて、それでもユダヤ人を救えというのは気の毒なような気もする。本意ではなくユダヤ人を差別したこともあっただろう。だから、それはまあ、そういうものだ、という気がする。けれど、オーストリアにとっての「モナリザ」になっているから、梃子でも「黄金のアデーレ」は渡さない、というオーストリア政府(?)あるいは美術館の態度は、どうなのだろう。過去を反省するなら、さっさと返せばいいのに、とは思う。なことをいうと、日韓併合時代に、朝鮮人から安く買い上げたあれやこれやも、反省するなら返してやれよ、という話になってしまうのだよな。よく考えると設定が類似しているので、ここら辺が難しいところ。暴力的にまきあげたのと、些少なりとも金銭を支払っているのとの違いもあるだろうし。ううむ…。
ここで思い出すのが、こないだ見た『顔のないヒトラーたち』で。あの映画でも、過去をほじくり返すな、という人がでてきたけど。この映画でも、オーストリアの裁判所かなんかで、絵画が返還の対象となった人たちが大勢の前でスピーチする場面があり、マリアは昔のことをひとくさり言うんだけど。その会合(?)が終わった後、近づいてきて「昔のことをくどくどいうな」と捨て台詞を言って去って行く男がいた。まあ、どこでもそうなんだろう。忘れたい人にとって、ほじくる人は迷惑なだけなんだろうて。
ところで、最後、「黄金のアデーレ」はマリアのものになるんだが。美術館の連中が近づいてきて、国内に置いてくれるよう依願するが「話し合いをしましょうといったのに、断ったのはあなたがたよ」と一蹴するのはなかなか気持ちが良い。そういっておいて、絵はオーストリアの美術館に寄託するのかと思ったら、そのまま持ってかえってアメリカの画廊だか美術館に預けたんだと。ふーん。で、マリアが死んだ後かどうか知らないけど、その画廊(?)に売ってしまってるのな。なんかな。そういうところで、もともとの所有者の系統から離れて行くのは、哀しいものがある。税金なのか、なんだか知らんけど。
雪の轍12/16ギンレイホール監督/ヌリ・ビルゲ・ジェイラン脚本/ヌリ・ビルゲ・ジェイラン、エブル・ジェイラン
トルコ/フランス/ドイツ映画。allcinemaのあらすじは「トルコの世界遺産カッパドキア。元舞台俳優のアイドゥンは、親から膨大な遺産を受け継ぎ、ホテルのオーナーとして悠々自適な生活を送っていた。しかし、慈善活動に入れ上げる若い妻ニハルと出戻りの妹ネジラとの関係は良好とはいえず、アイドゥンの悩みの種。そこへきて、家を貸しているイスマイル一家の家賃未納問題がこじれて、思わぬ恨みを買ってしまう事態に。すべてを丸く収めたいアイドゥンの願いとは裏腹に、冬の到来とともにその混迷はますます深まるばかりで」
重量感のある映画かと思っていたら、粘着インテリ爺がくどくどくどくど泣き言をいう話だった。最初のうちは、結構な重みをもった人物かと思っていたんだけど、次第に化けの皮がはがれてくる。若い妻の募金活動への茶々など、だらだらくどくど粘着丸出しで、やめてくれ! とうんざりするぐらい。要は、田舎のインテリなんだろうな。そこに、人生負け組の妹、世間知らずの若い女房、屈折した貧乏人なんかが脇を固めて3時間16分、トイレに行かずに見終えたよ。まだ、あと映画の1本ぐらいは大丈夫なぐらい、トイレのことは心配しないで済んだ。
トルコなんだな、舞台は。で、最初のうちは細部から話が入るので、設定とか分からないような仕組みになっている。次第に輪郭がはっきりしてくるのは、だいぶたってから。3時間16分の映画だから、れはそれで悪くはない。
あらすじにあるように、「親から膨大な遺産を受け継ぎ、ホテルのオーナーとして悠々自適な生活を送っていた」ということが分かるかというと、そういうことはなくて。そういわれると、そうなのかな、という感じ。ホテルのオーナーといつても概ね従業員に任せ、自分は文化的活動=執筆をしてる感じ。
あと、ニハルの存在なんだけど。一体彼女は何者か、しばらく分からなかった。娘か、姪とか、親戚か? とか思っていたら、妻だというので、げげ、と思った。アイドゥンが50年輩なら、ニハルは20代半ばみたいなんだもの。そういう結婚の形態なのかも知れないけど、背景については知りたい気がした。ちなみに、アイドゥン役のハルク・ビルギナーは1954年生まれで、撮影時は60歳だ! いっぽうニハル役のメリッサ・スーゼンは1985年生まれの29歳。げげ。
さて。アイドゥンのところに知らない人からメールが来て、あなたは資産家なのでなにがしかに寄付してくれ、といわれたらしい。そのことについて、地元の新聞の編集者(?)と話しているとき、アイドゥンは「ニハルにも聞いてもらおう」と呼びつけるんだが、ここでニハルは「怪しいからやめておけば」という。それに対してアイドゥンは「普段から募金活動に熱心なおまえが、どうして否定的なことを…」なんて話になるんだけど、これもゆるやかな伏線だったようだ。
金はある。ホテル、といってもカッパドキアだから交通の便は悪いけど、世界遺産だから客は絶えない。というわけで、こちらは順調。むかし役者だったけど、大成はしなくて戻ってきた、というコンプレックスはある。でも田舎じゃインテリで。地元紙に辛辣なエッセイなど書いている文化人もどき。金も地位もあって妻は若い、なアイドゥンに、あれこれ面倒がもちあがる。先ずは家主としての問題で、ある家の住人が家賃滞納。そこの家の息子が、アイドゥンと使用人の乗ったクルマに石を投げつけ、窓ガラスが割れる、という出来事が…。
で、このエピソードは結構、面白かった。その家は、まさにカッパドキアで、なかば岩の家。いい家に住んでるじゃないか。そこに、刑務所を出所して間もない兄夫婦と息子、独身でイスラム教の導師をしてる弟が住んでいる…。家賃滞納は兄に仕事がないせいなんだけど、その経緯も結構おもしろい。どっかの若者が兄の妻の下着を盗んで。その若者たちを殴ったか刺したかして、兄は刑務所にという下世話な感じで、田舎だなと思ったりした。兄は出所しても仕事がなく金がない。導師の弟はどうかというと、これが卑屈を絵に描いたような男で。へらへら笑いでアイドゥンに腰を低く対するけれど、いなくなると「クソ野郎」とかぼやく。まあ、人間だからしょうがないだろうけど、でも、おまえ導師なんだろ? とツッコミを入れたくなる。
この手の、家賃収入とかは使用人に任せているんだけど、この導師の弟がやたらアイドゥンに会いに来て。石を投げた兄の息子を連れて謝罪に来るんだけど、その息子に謝らせようとしたら、息子が白目をむいて倒れてしまうのは、ありゃなんなんだ? なんとか肺炎とかいってたように思うけど、見てる側からすると、意に沿わない謝罪がしたくなくてヒステリーで倒れた、にしか見えなかったぞ。
アイドゥンには妹がいて。ロンドン辺りに住んでいたこともあるインテリだ。でも離婚して実家に戻って一人暮らし。という設定なんだけど、よなよなアイドゥンの部屋にやってきて、あれこれ話している。仲のいい兄妹だな、と思っていたら、あるとき言い争いになって…という辺りで、実は少し寝てしまった。なので、口論の経緯は記憶にない。でも。以降、妹が登場しなくなったので、かなりのやりとりだったんだろうな。どーでももけど。
そういえばアイドゥンは、妹+妻のニハルと論争になったことがあって。悪を許す、という女性連合に手こずっていた。まあ、こちらからすると、許せない悪もあるだろうに、なんだけど、2人は悪に寛容だった。そういうことの延長の話だったのかな。しかし、この手の抽象的な対論は、映画にはジャマだ。あれこれ話されても頭にさっぱり入らない。映画は絵で見せなくちゃだめだよな。
で、この辺りまでのアイドゥンはそこそこ威厳を保っていたし、人物にも見えたんだけど、妹との口論の後は、これがもう粘着男へと急降下するのだ。きっかけはニハルが企画した会合で、それは地元の学校に寄付を募るとかいうグループのもの。アイドゥンは知らなかったらしく、何気なくパーティに首を突っ込むんだけど、ニハルに呼ばれ「あなたには同席して欲しくない」と言われてしまう。ニハルは「会合のことは話している」アイドゥンは「聞いてない」といいはるんだけど、とりあえず退散。で、その夜、アイドゥンは、「なんだあの態度は。おまえのやってる募金なんて怪しいもんだ。募金社のリストはあるか? 帳面を見せてみろ・・・etc」とねちねちねちねちねち絡むもんだからニハルは「私にはこれしかないの。好きにやらせて!」と泣いてしまうという出来事が。
幼くして嫁に来て、奥様として何もすることがないのが退屈だったんだろう。地元の教師なんかと知り合い、慈善活動に生き甲斐を見出していたところだったらしい。すべて夫まかせで、自分では何もしたことがない。そんなニハルの自立への第一歩だった。だからこそ、アイドゥンには口を出して欲しくなかった、というところか。ああ、世間知らずの幼妻、ってところかな。でも、高齢で金持ちが若い娘と結婚するのは、きっとイスラムの正しい行いなんだろうな。ニハルも「結婚したことを後悔はしていない」といっていたから。厳格なイスラム教徒には、跳ね上がりの妻に見えるのではないだろうか。たぶん海外経験もあるだろうし、都会で演劇なんぞをやっていたアイドゥンにしても、女性の権利と自立を認めることはできない世界、ということなのかもね。とはいえ、あの粘着ねちねちには、うんざりした。
ニハルの件も含めて、あれこれ面倒から逃げるためか、アイドゥンはイスタンブールにしばらく出かけることにした。執筆のためと言っていたけど、真実は分からない。その夜、アイドゥンは「おまえの慈善活動にはもう何もいわない。実は、私も募金したかったんだ」とかいって、大金を寄付すると申し出るんだけど、突然なんなんだ?
翌日、いったんは駅まで行くんだけど、心変わりして編集者(?)の家に行ってしまうのはなぜ何だかよく分からない。ところで、この駅で、ベンチの真ん中に座っている男がいて。アイドゥンは使用人と並んで座るために「つめてくれ」というんだけど、「すきま風が気になるから嫌だ」と断る男が出てくる。これは何なんだろう。アイドゥンの傲慢さを象徴しているんだろうか、それとも、世の中には思い通りにいかないことがよくある、というようなことを示唆しているのかな。どうなんだろう。
で、向かった先にはニハルの知人の教師がいて、明日は猟に出るという。なわけで飲んで大騒ぎ。この教師が面白いやつで、「給料は郷里の母に送金しているから、40近くになっても結婚できない・・・」とこぼす。そんなものなのかねえと思うけど、エロビも売春宿もないだろうから、欲求不満になるだろうなあ、などと思った。で、どういういきさつだか忘れたけど、「良心」がどうのという話になり、教師が「シェークスピアの言葉から…良心は強者にいう言葉」とかいうことを言うんだが、アイドゥンは「今日も1日無為に過ごす」みたいに返すんだが、どこなんか変な展開だ。
な夜、ニハルは導師の家に行って、アイドゥンが寄付した大金を導師に手渡し、「使ってくれ」というんだけど、この浅はか女は何を考えてるんだ。上から目線で貧乏人に金を恵んで、それで喜ばれるとでも思ってるのか? 思ってるんだろうなあ。だから募金活動なんてのもやってるんだろう。でも、アホだな。というか、世間知らずとしかいいようがない。帰ってきた元囚人の兄は、その金を火にくべてしまう…。おうおう、やってくれるねえ。でも、物語りのつくりが古典的すぎて、古くさく見えてしょうがない。まあ、トルコはこのあたりの経済成長で、民主化もこの程度ということなんだろうけど。日本映画でいまどきこんなことをしたら、クサくてしょうがないぞ。
翌日は、アイドゥンも猟に行き、野ウサギを一匹仕留める。それをもって家に帰るんだが、庭から見上げると窓にニハルがいて…。アイドゥンは、「おまえとは離れたくない。ずっとそばにいてくれ」的な、ニハルにすがるようなことを言うんだけど、あれはつぶやきだったっけかな。それとも直接言ってたんだっけか。忘れたけど、どうやらアイドゥンはニハルに未練たらたらで、頼むから家にいてくれ、という態度のようだ。なんだかなあ。そんなもんなのか、トルコの文化人は。ううむ。
というわけで、長いし粘着ねちねちくどくどはあるし、結局アイドゥンは妻に腰砕けだし。なんかなあ。何が言いたいんだ? 的な感想しかでてこんよ。 ・アイドゥンの書斎には、仮面がたくさん飾ってあるんだけど、彼自身が仮面をかぶっていて、自分をださないようにしている、というようなことを意味しているのだろうか。
サイの季節12/16ギンレイホール監督/バフマン・ゴバディ脚本/バフマン・ゴバディ
イラク/トルコ映画。英文タイトルは“Rhino Season”。allcinemaのあらすじは「イランで成功を収めた詩人サヘル。愛する妻ミナと幸せな日々を送っていた。一方、運転手のアクバルは、叶うはずもないミナへの恋心に囚われていく。ところがやがてイラン革命が起き、アクバルは新政府で実力者となる。そしてその立場を利用してサヘルを30年の刑に処し、獄中送りにすると、悲しみに暮れるミナへと近づいていく」
『ペルシャ猫を誰も知らない』の監督とは思えない、観念の先走りすぎた愚作。60年代ならいざしらず、いまどきこんな幻想の入り混じった、何だかわけの分からん映画を「難解だ」と有り難がるやつはおらんだろ。難解そうに見せかけてるだけで、要は中味が空っぽ。まあ、監督本人の思いや意図があったとしても、それを観客に伝えないと意味がない。なのに、主人公たちはほとんどしゃべらない、時制を入り組ませる。2人は実際に会っているんだか否か分からない。だって1フレームに複数が収まらない場面がたくさんあるのだから。そして、説明が足りない。妙な幻想イメージがある。亀が降ってきたり馬がクルマの中に首を突っ込んできたりサイをひき殺したり運転手とともにクルマで海中にダイブしたり、わけ分からん。
話が断片的すぎて、つながりがよく分からない。まあ、意図的にそうしているんだろうけど。行間は見る者が補えってか? 無理だよ、そりゃ。ほのめかしも少なくて、わけが分からない。
そもそも、人物のアウトラインもよく分からない。サヘルがどういう人物で、ミナとはどこで知り合ったのか? たしかミナの父親は軍人だったと思うけど、その娘がどうしてサヘルと? どういう詩を書いていたんだ? いや、そういえば全編に語られていたのはサヘルの詩か。でも、ああいう観念的な詩は頭に入らんよ。映画なのに、語るな、と思ってしまう。とくに政治的なことを語っていたわけでもないんだろ? なのに、なぜ30年の刑なんだ? 運転手の陰謀? じゃその、運転手の熱情はどこから生じたものなんだ? 主人の娘に言い寄ったりして、たんなる変人だろ。そんな変人がどうして革命で威力を発揮するんだ? あ、そういえば、ホメイニとパーレビは知ってても、イラン革命の趣旨もよく知らないのだった。ははは。原理主義が強まったんだっけ? Wikipediaでちょっとお勉強!
なるほど。
しかし、そういう政治的なこととは別にして、この映画、ミナにつきまとうストーカー運転手の話だよなあ、どうみても。でも、運転手の悪だくみも、はっきりそうだ、という描かれ方をしていないので…といっても、途中で少し寝てしまったから、そこで描かれていたのかも知れないけど…よく分からないところが多すぎる。
時間の経過もアバウトで、なんかすんなり納得できず。そもそも、サヘルがなぜ釈放されたかも分からない。で、釈放されたサヘルは、探偵事務所(?)みたいなところに行って(他に待ってる連中がいるのに優先的に部屋に入れてもらえてるのはなんでだ?)たら、あるはずのないミナのファイルがあって、誰かがつくった、とか言ってたけど、つくったのは運転手ということかな。で、サヘルはミナの居場所を知るんだけど、ミナには「サヘルは死んだ」と告げられているようなことも知ったんだっけかな。死んだことにしたのは運転手なんだろうけど、それはたぶん、ミナにサヘルのことをあきらめさせるため、かな。
サヘルは30年で、ミナも何年か収監されたのは、なんでなんだ? 旧体制の人物だったからか? で、最後のお別れにとかで、ミナはサヘルへの面会が許されて。でも、互いに顔に袋をかぶせられての面会で。でもベッドが用意されてるという、そういう中途半端に粋な計らいがイランにはあるのかと思いきや、どーやら運転手の企みだったらしく。途中でサヘルは引きはがされ、別の男が…。って、これたぶん運転手で、その後、ミナは刑務所で双子を産んでいる。サヘルはこのとき射精したのかしなかったのか? それは分からない。運転手はきっとしてる。という前提がありながら、あまりその子供のことは描かれず…。ううむ。
で、ミナの居場所をつきとめ、クルマで近くまで来ているものの、尋ねることをしないサヘルってなんなんだ? まったく分からない。で、青年と一緒に出かけたりしている様子は追っかけてたんだっけか。
時を同じくして、たまたま雨が降ってきて、「乗せて!」という若い女性2人と知り合いになり…の直後に、うとうとしたんだったなあ。なので、彼女たちを目的の場所に送って…。こちらが起きてからも、サヘルが2人と交流があり、クルマに乗せてたりしたのは、どういうつながりができたのかな、と疑問だったんだが。まあいい。
で、なんでかしらんが2人は売春婦で、どうやら国外に行く資金を貯めているとか言っていた。その1人とサヘルはセックス…したんだよな、あれは。ところが、その娘がじつはミナの娘であるということを、娘の話で知るのだよな。で、ここでサヘルに自覚があれば「俺の子かも知れない」と思うかも知れないけど、最後の別れで射精していないのであれば、妻の子か、で終わるわけだけど、その辺りが曖昧模糊。それにしても、妻の娘と遭遇してセックスするなんて、偶然にしてもできすぎだろ。
で、いつもミナと一緒にいる坊主頭の青年は、あれは、ミナの息子? するってーと、あの双子は二卵性で男女なのか? とか、もやもやしながら見ていた。
よく分からないのが。ミナは、サヘルが死んだと知らされ、その後もしつこくアタックしてくる運転手と一緒になったのか? ということ。そんな風には見えなかったんだけど、定かではない。
その後、サヘルが運転手を助手席に乗せたまま(だっけ?)クルマで水中にダイブする場面があるんだけど、あれは現実なのか? 直後に、クレーンで引き上げられるクルマが写されるんだけど、あれが妄想ならそんなシーンはインサートしないよなあ。というか、サヘルは運転手とどういう経緯で出会ったんだ? ああもう、このあたりになると、さっぱり分からない。イメージ先行で、こちらを翻弄するだけ。イラつくし、アタマにくる。なんだ、この映画は!
てなわけで、何だかよく分からないまま終わったのであるが。こんな映画のどこがいいんだか、ギンレイでかけるほどの映画なのか、疑問だね。
雪の舞い散るシーンはちらちらして汚い。デジタル画質で目立つのか、意図的に銀残し風にしているのか知らんけど、あんまり意味がないと思うぞ。
ベテラン12/8ヒューマントラストシネマ有楽町2監督/リュ・スンワン脚本/リュ・スンワン
allcinemaのあらすじは「広域捜査隊を率いるソ・ドチョルは、正義感に溢れた熱血刑事。ある日ドチョルは、かつて世話になったトラック運転手のペが、シンジン物産を訪れた直後に自殺を図り重体になったとの知らせを受ける。彼の息子から話を聞きいたドチョルは事件の臭いを嗅ぎとり、独自に調査を始める。やがて巨大財閥シンジン・グループの御曹司チョ・テオが事件に深く関わっていると確信するドチョルだったが」
テンポのいいアクションコメディ。とくに、最初のクルマの窃盗団とのエピソードは小気味よい。なかでもミス・ボンという女性刑事が、ブス顔なのにスタイルが良くて、することも粋。目立ってる。ところが、本論に入ると、どーもスッキリしない。その始まりは、御曹司チョ・テオとの出会いなんだけど、そのパーティの席でのチョの傍若無人ぶりは異常すぎ。それを、立場上にやにや見ていて、最後に「法だけは犯すな」というのが、ある意味での宣戦布告?
実際のきっかけは、ドチョルの会社の給料不払い&解雇で、その運転手が、親会社であるシンジン・グループの本社に一人で抗議に行ったことに始まる。ここで、ドチョルの会社の社長に殴られ、はした金はもらったけど納得できず、ふたたび社長室に行くと(という時点で、セキュリティはないのか、この企業、ということになるんだが…)、またまたボコボコにされたらしい。ただし所轄には、投身自殺で意識不明、と連絡されたんだが。
このきっかけ話、あまりにもローカルすぎないか? この程度のことで財閥の本拠に運転手が乗り込めてしまうテキトーさ。こんなの部下のまた部下に処理させればいいのに、わざわざ御曹司がでてくるって…。そこからして、話がしょぼい。しかも、この映画でドチョルが相手にするのは御曹司のテオのみで、財閥の総帥にして疑惑の主として検察がターゲットにしている父親の方はほとんど無視。真の巨悪は見逃すのか?
てなわけで、ドチョルの上司や所轄刑事、その他、登場してくるんだけど、20分過ぎぐらいから、椅子が揺れ出した。拍動のリズムで、のっしのっし、な感じ。気になって仕方がない。右隣の男か? と思ったけど、よく分からない。しばらく我慢してたけど、どうにもたまらず、20分ぐらいして前の方の席に移動した。前から2番目。まあ、その辺りしか空いていなかったからなんだが。それにしても、東京テアトル系列の座席は、同列の他人の動きに弱すぎる。まあ、動くやつも動くやつなんだが。てなわけで、揺れてる間は集中力が切れてしまった。ああ、くやしい。この憤りは、館の人間に言っても納得してもらえないだろうし、かといって席を立ってしまえばせっかくの時間がだいなしになる。そんな揺れなんて気にならないぞ、なんていう人もなかにはいるだろうし、難しいところ。
てなわけで話に没入できず。中盤のあれこれが頭に入っていないので、いまいち消化不良的にしか見られていない。残念。くそっ。
最終的に、テオの不正は発覚し、いったん殴られた運転手が再度、御曹司の部屋に乗り込み、↑で書いたような経緯で再びボコボコにされるんだけど、きっかけをつくったのはテオで、彼の行為で運転手が頭を打って意識不明となり、それじゃあというので周囲がかついで階段下に突き落とした、ということが分かる。のだけれど、やっぱ、セキュリティのこととか考えるとあり得ない話で。ほとんど説得力はない。だいたい、そんな御曹司が、下請けの下請けの運転手なんか、相手にしないだろ。
興味深いのは、韓国映画が自国の財閥を悪とする映画をつくった、ということか。ロッテのごたごた、飛行機で事件を起こしたナッツ姫、その他その他、たくさん事件はあるけど、ほとんどターゲットにされてこなかった。まあ、映画にも参入してたりするから取り上げにくかったのかも知れないけど、やっと、というところか。
あと、テオの従兄というのがテオの幹部となって働いている、というのが面白い。テオは非嫡出子で妾の子らしいけれど、息子は息子。従兄というからには、父親の弟の息子だろう。その従兄関係で、そんなに扱いが違うものなのか? というのが驚き。だって、テオの代わりに罪をかぶって監獄に入るんだから…。そして、一族からそれを強要されるという…。これは、儒教思想の強い韓国だからかも知れない。
あと、テオの姉がいたけど、あれは実の姉なのか、嫡出子なのか、その辺りはよく分からない。まあ、よく分からないのは、韓国の、一族における上下関係かな。なんか、闇な気がする。
最後は、派手なカーアクション。繁華街の真ん中で、血だらけになりながら、それでも周囲を気にせずドチョルに向かってくるテオというのは、よく分からない。幼いときから御曹司で育てられると、そうなるものなのだろうか。
てなわけで、ドチョルは、「法を守れよ」といったにも関わらず守らなかったテオを逮捕するんだけど。でも、その父親をなんとかしなくちゃ、なにも解決はしないよなあ。というのがラストの感想。もしかして続編があり、そっちで大ボスに挑むのか? 知らんけど。
・ミス・ボンのチャン・ユンジュが印象的で、調べたらトップモデルだと。あんなブスが…。でも、チャーミングで可愛いブスだな。
・ドチョルは運転手のことをよく知ってるはずだ。「何かあったら電話しろ」ともいっていすた。なので、運転手は最初に殴られたあと、ドチョルに電話する。ドチョルはそのとき、テオのパーティに呼ばれていて、部屋に行く手前で携帯をとる。そして「知らない番号だな」というんだが、それはないだろ。クルマ窃盗団を逮捕するとき、彼は運転手にフォークリフトを借りる算段をしたりしていたはず。だから、番号を知らないというのは不自然すぎる。
007 スペクター12/22109シネマズ木場シアター7監督/サム・メンデス脚本/ ジョン・ローガン、 ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、ジェズ・バターワース
イギリス/アメリカ映画。原題は“Spectre”。allcinemaのあらすじは「“死者の日”の祭りでにぎわうメキシコシティで、凶悪犯スキアラと大立ち回りを演じたジェームズ・ボンド。後日、MI6の本部に呼び出され、Mから職務停止を言い渡されてしまう。折しもロンドンでは、スパイ不要論を掲げるマックス・デンビが国家安全保障局の新トップとなり、MI6をMI5に吸収しようと画策していた。表立って活動することができなくなったボンドだったが、マネーペニーやQの協力でローマへと飛び、そこでスキアラの未亡人ルチアと接触、強大な悪の組織の存在を突き止めるが」
スペクターっていったら、昔の007が戦ってた、得体の知れない世界征服グルーブだったよな。
さて、メキシコの死者の祭とかいう雑踏からカップルがホテルへ→ボンドが部屋を抜けだし屋根伝いに走る…どうやって撮ったんだ? きっとスタジオのセットと合成だろうな…で、ビルの窓からターゲットを狙う…あたりまでの長回しにしびれた。その後、ボンドの狙撃にビル倒壊、雑踏のなかの追跡、ヘリの飛来、ボンドも飛び乗って、ヘリ内での戦い…。ターゲットを蹴落として、ミッション成功、辺りまでの流れは、すばらしい。
のだけれど、以後の本題が、いまいちピンとこないし、過去作品を熟知しないと十分に楽しめないという欠点がある。もちろん見てるけど、ほとんど記憶にない。ジュディ・デンチのMがいつどうやって死んだかなんて、すっかり忘れてる。それに、あとの話は、関係者が名前や地名をポロポロ小出しにしていき、それをたどっていくという設定で。その名前がなんだったか、どういう経緯ででたか、ともすると覚えてなかったりするので、おお、なるほど感はないのだよ。むしろ、「それだけの手がかりで、どうやって見つけんだよ!」と思いたいぐらいのことばかり。
最初は、えーと、ヘリから蹴落としたスキアラか。ボンドがなぜ彼を殺したかというと、ジュディ・デンチのMから、死後送られてきたテープによる。そこでMは「スキアラを殺せ。そして葬儀に出席しろ」といっていた、だから殺した、とボンドがマネーペニーに説明するんだが。後から分かるんだけど、スキアラはスペクターの一味ではあるけれど、単なる殺し屋で。ボスではない。なのに、なぜMが「スキアラを殺せ」というのか、よく分からない。スキアラまでは把握していたけど、スペクターの全容は知らなかったから? 葬儀に出れば、ヒントがあるとでも? ではなぜ、ボンドはスキアラの指輪からスペクターの存在を想像できたのか? よく分からない。
で、ボンドはイタリアに行くんだけど。行きがけの駄賃に、Qが009のためにつくったクルマをもらっていくんだが。それをどうやってイタリアまで運んだのか、かなりの疑問…。
スキアラ夫人はモニカ・ベルッチで。葬式の日から命を狙われている様子なんだけど、それはなぜなんだ? まあいい。で、ボンドは未亡人とナニして、スキアラがスペクターの一味で、その集まりがローマ市内で開かれることを知り、潜入する。どうも世の中のあちこちにスペクターははびこっていて、裏であれこれ政治的・経済的に、自分たちに都合のいいようなことをしているらしいのは、昔の007の荒唐無稽さよりはちょっとはましかも。
ここでスペクターのボスがオーベルハウザーとかいう男と知るんだけど、顔は見えない。で、なんか名乗り出た男が筋骨隆々殺し屋に潰されるのは、あれはスキアラの後継を名乗り出たのか? よく分からなかった。で、2階から遠巻きで見てたのに、オーベルハウザーはボンドに気づいて、ボンドはあわてて逃げ出す…その車中でマネーペニーに連絡して人物名とか聞いていたのは、あれもよく分からず。どうも、過去作品の人物とか、経緯が下敷きになっているので、それが頭に入ってないと、すぐにピンとこない感じ。いや、見てるんだよ。見てるけど、頭に入ってないから、ぜんぜんピンとこないという…。
で、次にボンドは山小屋みたいなところに行って、死に損ないみたいなおっさんと会うんだけど、これが誰だかよく分からない。このおっさんから娘マドレーヌのことを託され、会いに行ったのが、どこかしらんが雪山にある高級な病院で、患者として行って身元をばらすんだが、相手にされない。と思っていたら、そこにQが現れ、さらに筋骨隆々殺し屋が現れてマドレーヌを誘拐する理由がよく分からない。山小屋に監視カメラがあることはボンドも気づいていたはずなのに、なぜそのままにしたのか、よく分からない。のちのち、オーベルハウザーはマドレーヌの父親が自死する場面を彼女に見せようとするんだが、それもボンドが監視カメラを壊しておけば防げたものなのに…。
で、なんとかマドレーヌは救いだし、彼女がむかし父親と行ったというアメリカンというホテルに行くんだけど、なんか、この映画のつくりがバカバカしくなってくる。だってわずかな人のつながり、残した一言二言をたよりに次の場所に行き、さらに同じようなことのくり返しで、最後はオーベルハウザーにたどり着く、という寸法だからだ。
件のアメリカンというホテルでは、なんと壁の向こうに隠し部屋があって、そこに無線機が…。そこでマドレーヌの父親はオーベルハウザーの居所を環視していたらしい。なんじゃこれ。年に1度宿泊するホテルの部屋に、いくらいつもその部屋を使っていたからって、4畳半ぐらいの部屋をどうやって都合するんだよ! しかも、出入り口がない! おい、この映画つくったやつ、でてこい! だな。
で、そこの衛星探知機みたいので、探っていた場所がサハラのどこかにあると分かって…って、おい! サハラに基地だなんて、Googleマップでどこかのお宅がすでに見つけて、じわりと観察してるだろ。そんな衆人環視の場所に、スペクターの秘密基地? バカらしくなってきたよ。
しかも、ボンドとマドレーヌはそこへは電車で行くんだけど、ここで筋骨隆々殺し屋が登場して車両を壊すほどの格闘。殺し屋は電車から落ちたんだけど、どうみても死んでるはずはない。だから、映画がいったん終わったように見せかけて、ぬわあ! と登場するのかと思っていたら、出てこなかった。おいおい。
で、砂漠の無人駅に降りたら、そこにロールスロイスが迎えに来るって…。筋骨隆々殺し屋につけられていたのも、サハラの基地にやってくるのも、お見通し? でも、どうやって? あの監視カメラから、ずっとつけられていた? ボンドもマヌケだね。
で、基地に迎え入れられ、オーベルハウザーに束縛されて歯医者椅子みたいのに拘束され、こめかみとかあちこちに細いドリルで穴を開けられるって…、ドジ以外の何物でもないよな。ここでどうやって逃げ出すかというと、腕時計が爆弾で、それを何とか外してマドレーヌに渡し、それを爆発させると拘束していたロックが都合よく外れて自由に。オーベルハウザーには、顔なんかに甚大の被害を与えるんだけど、死にはしない。
のあと辺りから記憶が…なんだけど。こっからロンドンに戻るんだっけか?
M16がなくなって、Cがリーダーとなって、情報を掌握する部門がつくられるんだけど、あんな部門をつくるのを、イギリスの誰が承認したんだか。大臣とか首相とか、でてこなかったよな。なのに、でかいビルで、あんなのありかよ。で、9ヵ国の情報部門の担当があつまってどーたらという話が並行して進むんだけど。これもまた、よく分からん話で。これはあれか? 各国の情報部門にスペクターの息のかかったのが潜入していて、管理下に置かれつつある、というようなことなのか? 以前の会合では、9ヵ国のうち南アが反対して合意できなかったのが、今度は大丈夫、みたいなことを言っていたけど、じゃあ南アにはスペクターの影響力が入り込めてないってことか? なんで? というより、主要9ヵ国に南アが入ってるという時点でうさん臭いんだけど。
なんかよく分からんけど、Cは悪事が発覚し、それでも抵抗するかと思いきや、簡単に割れてしまったガラスのビルから転落死してオシマイ。なんと呆気ない。いっぽう、ひねくれもののマドレーヌはボンドと別れ、当然のようにオーベルハウザーに捕まってしまう。ボンドが旧M16のビルに行ってみれば、オーベルハウザーが「爆弾を仕掛けた。あと3分」と言い残しで去って行く。というわけで、3分でマドレーヌを発見し、救いだし、ボートで逃げおおせるボンド…という、ご都合主義も甚だしい感じ。
オーベルハウザーはヘリで逃げるが、ボンドはそのヘリを狙い撃ちし、橋の上に墜落させる。ずりずり逃げだすオーベルハウザー。ボンドは銃を向けるが、撃たない。近くに寄ってくるのはM、という中途半端に甘い結末で、なーんだ、な感じ。
しかし、ボスキャラであるオーベルハウザーは、を倒しても、ほとんど何の解決にもなってないよなあ。殺し屋のスキアラだって、代わりはいくらでもいる、ような存在なわけで。オーベルハウザーが死んでも、その代わりはいるだろうに。それに、イギリス代表のCが死んでも、他国にはまだスペクターの配下はいるだろうし。Cの代わりだって、いるだろう。根本的な解決にならないと思うけどな。
で、このスペクターで連想するのが秘密結社のフリーメーソンだな。全世界に会員がいて、裏で悪だくみしてるグループといったら、これだろ。
んで、しばらくしてQのところに現れたボンドは、修理中だったクルマを手に入れ、助手席にマドレーヌを乗せて去って行くという、なんともあっさりした終わり方。ドンデンのドンデンなど、まるでなかった。おいおい。
ところで、マドレーヌ役が『アデル、ブルーは熱い色』のレア・セドゥなんだよ。う゛ぇ゛ぇ…。あの貧相不細工がボンドガール? しかも、ボンドが助手席に乗せて連れていく最後の女性になるのか! おい、なんだよ、これは。キルスティン・ダンストとかレネー・ゼルウィガーとか、どうみても、おい! な女優が優遇される欧米の審美眼・価値観がよく分からない。
で、やたらタコのイメージが出てくるのは、なんなんだ? スペクターのマークは、なぜタコなんだ?
ボンドの育ての親のエピソード。オーベルハウザーは一緒に育ったけど、その育ての親を殺した云々の、取って付けたようなエピソードは、ありゃなんなんだ?
独裁者と小さな孫12/29新宿武蔵野館1監督/モフセン・マフマルバフ脚本/モフセン・マフマルバフ、マルズィエ・メシュキニ
原題は“The President”。ジョージア/フランス/イギリス/ドイツ映画、だと。言葉がロシア語っぽいから、なんとかスタンな国かと思ったら、旧グルジアあたりが舞台か。でも、監督はイラン人らしい。allcinemaのあらすじは「冷酷な大統領が支配する独裁国家でクーデターが勃発する。大統領の家族たちがいち早く国外へ避難する中、幼い孫だけは駄々をこねて大統領のもとに残ってしまう。やがて政権は完全に崩壊し、大統領は小さな孫を抱え、素性を隠しての過酷な逃避行を余儀なくされるが」
この話を「寓話」と表現している人が多いんだけど、違うんじゃないのか? 「寓話」じゃなくて、リアルだろ、と思うんだが。
話は↑の通りで、あれこれ国内を逃げ回り、大統領は国外に逃亡のつもり。最後に海岸に着くも、見破られ、反大統領の連中に撃たれようとする。が、「火あぶりにしろ」の声が高まる。が、息子を殺されたという母親が「大統領の見ている前で孫を殺し、それから大統領を!」ということになる。(火あぶりが後だったかな?) と、そこで、刑務所から一緒だった男で、途中でも、「自分は大統領に復習しない。復習は負の連鎖になる」といっていた男が立ちはだかり、「大統領を殺すなら、俺を殺してからにしろ。負の連鎖を断ち切るんだ!」と、というところで終わる。でも、それじゃアイロニーとして物足らず、ファンタジーにもなりきれず。オチも、よくある「負の連鎖を断ち切れ」の念仏で、しかも、それをセリフでしゃべっちゃってる。それはあんまりだ。ひねりなさすぎだろ、な映画だった。
・孫相手に独裁者のわがまま(電話一本で街の電気をオンオフ)してたら、電気が点かなくなって。銃撃の音…。テロ? その翌日に、優雅に外遊? ってことは、すでにテロは日常茶飯事であった、ということなのか。
・で、空港に向かうリムジンの女性3人は、娘と孫娘2人? 何しにどこへ行くんだ? よく分からせない。大統領が行かないことになるのは、孫が「マリアに会いたい」といったから? それとも、見越しても亡命だったのか? いろいろアバウトで、当時の状況がよく分からない。
・宮殿に戻ろうとしたら街は騒乱で、空港へとって返すが、さっきは従順に送り出してくれた兵士たちが一斉に反乱。運転手、護衛とともにクルマで逃げ出すんだが、護衛は殺され運転手は逃亡し、孫と2人連れ。田舎の床屋で衣服を調達し、よれよれの2人旅に…。孫が勝手にふらふらいなくなって予定が狂う、とかいうよくあるパターンで、いまいちワクワクしない。
・の、後は、わりと退屈で。どっかのクルマに乗せてもらって移動したり、あれやこれやで、国内を移動するんだが。わからないのが、・娼婦マリアの部屋のシーン。待ってたデブが大統領に気付き「一緒に遊んだことがある」という。終わった青年が出てきて、デブが部屋へ。青年が大統領を見て銃を撃つ。デブが慌ててでてきて、パンツ上げながらドアの外へ。マリアは下半身血だらけで…。デブと青年は大統領に気づいたのか? マリアは「ひどいことをする!」とか泣き叫んでいたから、下半身を傷付けられた? と思っていたら、「生理」という。なんなんだ? さらに、「大統領とも寝た」云々言うけど、もともとどういう関係だったのか分からない。だって、ずっとマリアは大統領に気づかないんだぜ。なので大統領はカツラを外して気づかせ、「孫を預かってくれ」というけど、結局、拒否されたのか。ってことは、大した関係でもない。なのに、なぜ娼婦マリアのところに逃げ込んだんだ? 分からない。
・そのあとは、なんだっけ。元政治犯の一行とよろよろ旅をするんだっけか。しかし、元政治犯が大統領の顔が分からないという設定が、そりゃ変だろ。それと、政治犯のひとりが5年振りに家に戻ってみれば妻は別の男の子をなしていた、とかいう手垢の付きまくった設定で、頼むからそういうのはやめてくれ。
・全国土が革命軍に支配された…のかと思いきや、途中のラジオだったかでは、国土を二分する戦いが、みたいなことを言っていた。じゃ、正規軍と反乱軍の戦いの真っ最中か。だったら大統領は正規軍の方に行きゃあいいだろうに。なぜにそうしなかったのかね。不思議。
・政治犯と別れ、よろよろ歩いていたら、田圃に入り込み、近くを列車が通過するからと2人は案山子の真似をするんだが、野良仕事をしていた男が、チラッと見ただけで大統領と気づいて仲間を連れてきて、最後の海岸のシーンになるんだが、政治犯が延々一緒にいて気づかないのに、百姓一瞬で見分ける不思議を誰か説明してくれ。
きみはいい子12/30ギンレイホール監督/呉美保脚本/高田亮
allcinemaのあらすじは「桜ヶ丘小学校4年2組の新任教師、岡野。まじめだが優柔不断で、生徒とうまく信頼関係を築けないばかりか、モンスターペアレントにも悩まされる日々。夫が海外に単身赴任中の雅美は3歳の娘・あやねとふたり暮らし。ママ友とはソツなく付き合い、良いママを演じていたが、自宅であやねとふたりきになると、つい手を上げてしまう。独居老人のあきこは、スーパーでお金を払わず店を出てきたところを店員の櫻井に呼び止められ、認知症への恐怖に襲われていく。それぞれに悩みや不安を抱えたとある町の住人たち。やがて人と人とのつながりが生まれたとき、ささやかな希望が芽生え始める」
世の中の幼児虐待とか学校のイジメ、貧困とか障害児に関する問題提起なんだけど、話が生(なま)すぎて気分が暗くなってくる。まあ、このようなことはあるだろう。けれど、ひとつの学校でこんなに、あれやこれや、まとまってあるわけがない。もちろん、話を都合よく進めるために凝縮したんだろう。けど、それが違和感ありすぎで、効いてこない。むしろ、人工的につくった感が強すぎる。たとえば、認知症のバアサンがスーパーで万引き扱いされるんだけど、それを見つけた店員が、バアサンのところに上がり込んでしまう障害児の母親だった、な展開など、いかにもつくった感がし過ぎて、不自然すぎて引いてしまう。
話が先にありきというより、そういう役割のキャラを並べて話を構成した、みたいな感じがしてしまうのだよな。とはいえ原作があるから、こういう話なのかも知れないけど、それぞれのエピソード=パーツが、ムリやり噛みあわさせられてる感じというのかな。しかも、その背景にまでは迫っていない。
たとえば夜尿症の少年がいて、授業中に漏らしてしまう。あわてる新米教師。クレームをつける母親。対策を講じる先輩教師…。学校のなかのシステムは分かった。でも、夜尿症の原因とか、母親や家庭状況とか、そういうのは一切ふれない。↑のあらすじでは、母親をモンスターペアレント扱いしている。そりゃちょいと違うんじゃないか?
授業が終わっても、校庭の隅で時間をつぶしている少年がいる。新米教師が理由を尋ねると、義父が「5時まで帰ってくるな」といっているという。ある雨の日、少年を送っていくと、義父が迷惑そうな顔をして、しかも、部屋の中で少年を虐待している可能性も…。それで先輩教師に話し、保健担当が尋問するんだけど、少年は応えない。じゃあと、新米教師が服を脱がせようとすると、先輩教師がやめさせる。「学校はそこまでできない」と。だいたい、5時まで帰るな、といわれている時点で動けよ、と思ってしまう。少年への尋問も、大人の教師3人にも囲まれては、子供が話せないだろ。いや、それが学校のシステムだ、というなら、もっと突っ込んで描けよ。でも、そうはしていない。少年の実母は登場しない。義父との関係も曖昧。最後、少年は登校しなくなり、新米教師が訪ねてみると、新聞がささったまま…。ここで映画が終わってる。だいたい、学校を休んだ日に様子を探りに行かない方がおかしいだろ。おかしいんだから、映画としては、そこで事件(実際に虐待されてたとか)を発生させて、学校のシステムには不備がある、と告発しろよ。じゃなきゃ、なんかおかしいですね〜 って提言しているだけに過ぎないだろ。
そう。この映画は、学校もがんばってます、なんだよ。システムがおかしい、なんて声高に言わないのだ。それでいいのか?
幼女を虐待する母親がいて。その母親もまた、過去に虐待されていた、という話はよくある臨床例だけど。単にそれだけで終わらせていいのかよ、な気がするわけだ。実際、その虐待母のことを見抜き、「子供を抱きしめてあげな」と諭すママ友もいて、でも彼女もまた過去に虐待されていたという身だったりするわけだ。同じように虐待されながらも、それを受け継ぐ母親もいれば、受け継がない母親もいる。だったら、虐待母親の私生活とか何だかんだに迫れよ。映画では、亭主が海外に出張がちだから、みたいに描いているけど、亭主が出張してると奥さんのストレスが高まる、というわけでもなかろうに。要は個体の問題も大きいのだ。しかし、虐待母親は、手首に煙草の火傷で、見破った母親は額に煙草の火傷と、ともに煙草という設定が、あまりにもバカすぎだろ。
病名は分からないけど、あれこれ確認したり、物事に敏感な少年が登場する。これは↑でふれたスーパーの店員の息子なんだけど、彼の演技がなかなかリアルで。もしかして、本当の患者がでてるのか? と思ってしまったぐらい。彼は、↑のように認知症気味のバアサンと知り合いになり、家にまで上がってしまう。バアサンの方は子供もなく、他に身寄りがないから心が和らぐ程なんだけど、母親の方は他人様に迷惑をかけてばかりなので、恐縮している(母親が、どうやって息子が上がり込んだ家を探し出したのか、が描かれていないのが変だな)、というようなステレオタイプな描き方。もうちょっと気が利いた話にならんかね。老婆のところで大人しいのもたまたまだろうし、むしろ、老婆のところでパニックになった状態で話をつくって欲しいぐらいだ。
で、この少年が通っているクラスも、新米教師が教えている学校にあるんだけど、それを最後になるまで言わないのは、意図的だとしても見え透いたひねくれだ。ラスト近く、新米教師は、5時まで少年の家を訪問しようとして、特殊学級の前を通る。そこには、イキイキとした教師、子供たち、見守るスーパーの店員と認知症っぽいバアサンがいる。それを見て感動しているようなんだけど、おい、おまえは赴任してからこのクラスのことを知らなかったのか! と強く問いたいぐらいだ。監督的には、ここで感動を盛り上げようっていう寸法なんだろうけど、そうは問屋が卸さんぞ。わざとらしすぎて、開いた口がふさがらん、だよ。
ところで、そのスーパーの店員のところは、母子家庭なのか? そのあたり、分からないのも困りもの。息子のせいで離婚しているとか、あるなら、描かないと説得力はないと思うぞ。
というわけで、新米教師も、つきあってる彼女が他の男に取られそうな雰囲気をかもしつつ、なんか、よく分からんまま話は終わってしまう。あまりにも中途半端すぎて、しかも、話が暗い上に、ほとんどがほったらかしなので、落ち込んだ気分になる。
・虐待母親のママ友、彼女の亭主は教師、といっていたけど、あの特殊学級の教師とははっきり言ってなかったよなあ。でも、HPで役名を見ると、確かなようだ。そういうつながりも、ちゃんと見せてくれよ、な気分。
海街diary12/30ギンレイホール監督/是枝裕和脚本/是枝裕和
allcinemaのあらすじは「鎌倉の古い家に暮らす幸、佳乃、千佳の香田三姉妹。父は不倫の末に15年前に家を出て行き、その後、母も再婚してしまい、今この家に住むのは3人だけ。ある日、その父の訃報が3人のもとに届く。父の不倫相手も既に他界しており、今は3人目の結婚相手と山形で暮らしていた。葬儀に参加した三姉妹は、そこで腹違いの妹すずと出会う。父が亡くなった今、中学生のすずにとってこの山形で身寄りと呼べるのは血のつながりのない義母だけ。気丈に振る舞うすずだったが、肩身の狭い思いをしているのははた目にも明らか。すずの今後を心配した幸は、別れ際に“鎌倉で一緒に暮らさない?”と提案する。こうして鎌倉へとやって来たすずだったが、最初は自分の母が幸たちの父を奪ったことへの負い目を拭えずにいた。それでも、異母姉たちと毎日の食卓を囲み、日常を重ねていく中で、少しずつ凝り固まった心が解きほぐされていく。また、入部した地元のサッカーチームでも仲間に恵まれ、中学生らしい元気さも取り戻していくすずだったが」
徹頭徹尾、松竹大船調だった。ホームドラマ、ゆったりとしたテンポ、色調まで、当時の松竹映画そのもの。さらに、ローアングルの居間、縁側の向こうは庭、廊下、その先の突き当たりから階段が…、海岸の堤防に腰掛ける2人…とか、もう、小津映画そのもの。これはもう、意図的に、この話を小津が撮ったらこんな具合、をやっちゃってるんだな。きっと。
話は、ほとんど日常的なもの。もちろん多少の複雑さとか面倒はあっても、大きな不幸や紆余曲折はない。女だけの、なんとなくほのぼの、収まるところに収まるような話。なので、居心地の良さがある。だから、見ていても気持ちいい。
もちろん、だらしない父親とか、ダメな彼氏とか、登場する男のたいがいは、存在感が希薄。悪い女もいるにいるが、画面にはほとんど登場しない。悪意はほとんど闇に隠されて、おおむね善意の積み重ねで話がつくられている。だから、突っ込めば、かなり嘘くさい。でも、その嘘くささを感じさせない上手さがあるのだよな。ほんと、上出来の松竹大船調だ。
話は、かつて女をつくって出奔した父親の死から始まる。山形で葬儀があるからと、幸、佳乃、千佳の3姉妹が赴く。その父には、すず、という娘がいて、それは始めに出奔したときの女の子で、でもその女は死んだのか、父親は3度目の結婚をして山形へ。そこで死んだから、そこに残るのは3番目の女房と、その連れ子、そして、すず、ということになる。3番目の女房にとって、すずは赤の他人で、だから居心地の悪さを感じていたんだろう。それを察して、幸が「鎌倉においで」と誘うところは、なかなか泣かせる。
この映画、シナリオが練り込まれていて、とくにセリフにムダがなく、余計なことをいわせない。最低限のセリフと絵で分からせる。昨今の、あーだこーだ説明ゼリフをしゃべらせたり、意味なくわめかせたりがまったくない。絵も、余計なインサートもなく、場面転換もさっくり済ませる。もう、それは気持ちいいほど。こういう映画を見せられると、ツッコミはいいや、この快感に身を委ねてしまえばいい、と思えてしまうから困ったもんである。
だらしない父親をもちながら、では娘たちは立派かというと、そうでもなくて。長女の幸は看護婦で、でも妻ある同僚医師と不倫中。次女の佳乃は信用金庫かなんかに勤めていて、つき合う男がいつもダメ男。それを伝えるのは、彼が馬付きで口座を解約にくる、という1シーンなんだけど、そのシーンだけで分からせてしまう。あとから説明したり引きずったりしない。この潔さはすばらしい。で、3女の千佳はスポーツ用具店に勤めていて、でも男っ気がないところはまともなのか。店長とどうにかなるのかな…? と思わせるシーンはあるけど、でも、店長役は池田貴史だからなあ。あり得ないよなあ。たぶん。
まともな男もいるにはいるけど、そういう男たちは、そろいもそろって男臭くない。佳乃の上司の係長、千佳の働く店の店長、すずの同級生、喫茶店・山猫亭の店主…。みな、エロさがない。まあ、山猫亭の店主は、海猫食堂の店主とつき合っといてたようだけど、でも、性的臭いはしないんだよな。そういう、性的な部分をそぎ落とした感じが蔓延しているから、妙な爽やかさを感じてしまうのかも知れない。
ダメ女も当然登場していて、これはすべて、ダメな父親の関係した女ばかり。3姉妹の実母(大竹しのぶ)も登場するんだけど、彼女はいま北海道にいるんだっけか。でも、亭主が女と出奔後、どうして子供たちを捨てて出ていったのか、それは分からない。なので、それが最も気になるところ。彼女も男をつくって出ていった? ひでえ母親ではないか。でも、そんな風に描かないところが、この映画。だって、祖母の7回忌に平気でやってくるんだもの。しかも、大叔母からいびられることもない。どういうことが過去にあったんだろう? と思うのも不思議ではないだろ。…なこともあるのか、ダメな母親とは描いても、ひどいとは思わせない。これが大船調か。
ついでに気になるのは、3姉妹の大叔母(樹木希林)で、これが口が悪い。けれど、人は悪くないように描いている。まあ、それはいいんだけど、3姉妹の血統がどうなっているのか、が気になるところ。つまり、あの家の持ち主は、祖父なのか。それとも祖母なのか。母親は、あの家の娘で、駆け落ちした父親は婿なのか? どうなんだろうか。そのあたりが説明されないのは意図的だと思うんだけど、どーも女系な感じがしてしまうのだよな。
悪いと言えば、駆け落ちした父親の3番目の女房で、すずの母親だ。冒頭の葬儀のシーンで、幸は彼女が夫(3姉妹の父親)をロクに見舞っていないことを見破ってしまう。まあ、それがあって、気の毒なすずを鎌倉に迎え入れようと思ったんだろうけど。でも、どういう経緯で3度目の結婚をしたのかよく分からないけど、でも、結婚間もなく病気になって死んでしまい、15歳の血のつながりのない娘を残されたのでは、これは気の毒かも知れない。だから、3番目の女房も、そんなに悪い人ではないんだろうけど、悪い女のように描かれているところが、これまた大船調か。
登場人物のすべてに、いい人、悪い人のレッテルが貼られている安心感。それが、この映画にはある。
いい人と言えば、海猫食堂の女店主で。彼女は、女手ひとつで食堂を切り盛りしている。過去は、よく分からないけど、祖母の店といっていた。だからここも女系なんだろう。その彼女のところに、ずいぶん以前に出ていった弟から連絡があり、財産分与しろと言ってきた。店をうる訳にはいかないし、預金も少ない。ととうところに彼女の末期がんが発覚し。融資しようとしていた佳乃と上司は、遺言を書くよう勧めるのだった。まあ、それで女店主の葬式代はでた、ということか。でも、余った分は、ダメ弟のところに行ってしまうのかね。まあ、このあたりはうやむやだけど。
遺産分与と言えば、北海道の実母が、祖母の7回忌に久々にやってきて、鎌倉の家を売りたいと言いはじめるから、ひと悶着かと思いきや、そんなことにはならなかった。これが、海猫食堂みたいな感じになったら、いったい3姉妹はどうしたんだろう? まあ、ここで威力を発揮したのが大叔母で、彼女が実母を諫めたという、これまた善意の話になってしまっていて。これじゃあ、見ていて気分が悪くなることはないよなあ、と思ったりしたのだった。
しかし、いちばんの気がかりは、3姉妹が腹違いの妹を引き取る、というこの一点で。なんとなれば、そこに発生する経済的負担だ。3人とも高卒程度で、高給取りでもないはず。実年齢でいうと、幸の綾瀬はるか30歳、佳乃の長澤まさみ28歳、千佳の夏帆24歳、すずの広瀬すず17歳だけど15歳の役。ということで、えーと。すずが高校をでるまで4年間、3姉妹が面倒みられるのか問題というのが発生するわけで。それについては大叔母の樹木希林もいってはいたけど。大問題だろ。そもそも、鎌倉のあの大豪邸、何坪あるのか知らんけど、固定資産税とかバカにならんぞ。庭の手入れも、自分たちでやっても大変だろ。あれ、相続したら、税金すごいぞ。とか、思ってしまうのは、いけないことなんだろうけどね。ははは。
というわけで、ダメな男女を排除した、善意に満ちた人々ばかりで話をつくりあげると、まあ、こういう話ができあがるんだな。原作とどう違うか知らないけど、これはもう松竹大船の話であり、善意に満ちた人々による善意の話でしかない。同じ話を、悪意で切り取ることもできるわけで、そうしたらまったく別の話ができるに違いない。たとえば『きみはいい子』などは、出来事を悪意で切り取った話だといっても、間違いではないはずだ。
・幸は、山形で死んだ実父の遺産分与を断ったらしい。ところで、実父は、最初に着いたあの旅館の主人になっていたのか? というか、旅館の娘と結婚した、ということなのか? であれば、よそ者に、代々の遺産を取られる、と見られるような立場だった訳だけど。そのあたりも、説明が欲しいところだけど、あえてふれなかったのかも知れないな。
・堤真一の女房は、うつ病か? 心の病だから、離婚できない、とかいってたけど。病気が先か不倫が先か知らんけど、幸も悪女よのう。
・冒頭の、彼の部屋で抱き合って寝ているところから起きて家に帰る佳乃の長澤まさみの、すらりとした手足に魅せられた。その後も、スラリと伸びた細い足とか、スタイルがいいね。そんな風に思ってなかったよ。
・山形からやってきた すずが、すんなり学校や友人に溶け込んでいくのも、『きみはいい子』とは大違い。まあ、こっちは善意だけを見て、あっちは悪意だけを拾って構成しているんだろうけどね。

 
 

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