2016年1月

マイ・ファニー・レディ1/5ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/ピーター・ボグダノヴィッチ脚本/W・D・リクター、ピーター・ボグダノヴィッチ
原題は“She's Funny That Way”。allcinemaのあらすじは「ニューヨークのとあるバーでインタビューを受ける新進のハリウッド女優イザベラ・“イジー”・パターソン。コールガールからどうやって女優になったのか、との不躾な質問にも、顔色ひとつ変えることなく答えるイジー。それは、ある奇特なお客との出会いに始まる。紳士的な彼は“この仕事を辞めるなら、君に3万ドルをあげよう”と奇妙な申し出をする。これを受け入れ、コールガールを辞めたイジーは、夢だった女優の道を目指し、舞台のオーディションに挑む。ところが、その舞台の演出家アーノルドは、偶然にも彼女に3万ドルをプレゼントしてくれた例のお客だった。まさかの再会に動揺するアーノルドを尻目に、みごとな演技で役をつかみ取るイジーだったが」
これ、かなり面白かった。オープニングタイトルとか音楽とか役者とか話の内容とか構成とかテンポとか、もろもろウディ・アレンの映画にそっくりなつくりなんだけど、それを上回って話が面白くてウィットに富んでいて、しかもテンポがけたたましく早い。なので、人物の名前とか中途半端にしか入ってないと置いてきぼりになりそうなんだけど、かろうじて少し遅れたぐらいでなんとかついて行けた。
元娼婦で今人気映画俳優のイジーをめぐる男たち、そして、女たちの、しっちゃかめっちゃか右往左往が見事に交通整理されて、メリーゴーラウンドに乗っている感じ。いや、楽しかった。
イジーに首ったけの弁護士ジジイがいて、ジジイは探偵にイジーを見張らせている。イジーとジジイは同じ精神科の医師にカウンセリングを受けていて、でもその女医が休暇(?)だとかで、同じく医師の娘が対応する。
演出家のアーノルドは浮気性で、出先ではいつも娼婦を買い、「胡桃にリスを与える」のジョークを言うんだけど、そのジョークで目を開かされて人生が変わった女性がたくさんいる! という設定。それでイジーはあるオーディションを受けるんだけど、その芝居の演出家がアーノルド、っていうのは序の口で。脚本家は、先の探偵の息子で、先の若い女医とつきあっている。だけど演出家はイジーに惹かれ食事に誘うんだが、件のイタリア料理店に探偵、アーノルド、その妻、かつてその妻と関係のあった(ことについてはアーノルドは知らない)役者なんかが集まってきて。女医も、弁護士に食事に誘われてやってきたからもうたいへん。
というような感じで、ホテルの隣り合った部屋を舞台にした一件もあったりして、もうめまぐるしく話が展開し、追っかけたり逃げたり罵倒したり隠れたり。
まあ、イジーは功成り名を遂げてインタビューを受けていて、その話に合わせて過去のドラマが再現されるというつくりなので、イジーがどうなるという話ではないのだけれど、それでも、さあどうなるんだ、と引っ張り込まれる。
亭主が浮気性で、主役に抜擢されたイジーとも関係が会ったと知って逆上する妻も、いざ芝居の稽古になると私事は捨てて稽古場にやってくるとか。娘が娼婦と知って、買った男に復習にくるイジーの両親とか。エピソードや、サブの人物たちもみながみなキャラクターが濃く。しかも、見分けがつかないなんていうことがない。ご立派。めくるめくドラマを堪能させていただきました。
・イジーは自分を「私はミューズ」とインタビュアーに話す。性を売るのではなく、女神として迷える男たちを救っている、というようなことか。なかなかいい感じ。
・同じイタリア料理店に来るって、劇作家と演出家は、互いの夜の行動を知らなかったのか? という疑問がわずかにある。
・若い女医が息子と歩いていて、精神科医に再度かかってきた電話に対して、息子が「僕だよ」とかいうんだけど。実は父親だった(だっけ?)とかいう場面の経緯がよく分からなかった。女医には亭主がいたのか?
・イジーがインタビューのとき話していた「歌うモルモン教徒の映画」って、なんだ?
・アーノルドとイジー(だっけ?)を置いてきぼりにして逃げてしまうタクシーの運転手は、あれは探偵?
・セス(アーノルドの妻と関係があった、とかいう役者)と女医は、最後の方の劇場で初対面だっけ? そのあと仲良くなってしまうんだが…。ひと目惚れなのか?
・最後に、「胡桃にリスを与える」の元ネタの映画の、そのセリフの場面が紹介される。1946年の映画『小間使』らしいとWebで知るが、こんな映画知らんよ。まあ、誰も知らないような映画だから紹介されるんだろうけど。
・エンドクレジットの映像で、ジェーンの母親が帰国、と? 誰だっけ、ジェーンって? 後で調べたら、精神科女医で。ああ、本来の主治医か、と。
・イジーの母親が、なんとシビル・シェパード! かなり恰幅のよいオバチャンとして登場していた。ブルー・ムーンの頃がなつかしい。でも、こうなっちゃうのね。
・いまつき合ってる彼は、といって登場するのがクエンティン・タランティーノ!
ひつじ村の兄弟1/7新宿武蔵野館3監督/グリームル・ハゥコーナルソン脚本/グリームル・ハゥコーナルソン
アイスランド/デンマーク映画。原題は“Rams”。allcinemaのあらすじは「アイスランドの辺境の小さな村に暮らす老兄弟グミーとキディー。隣同士の2人は、お互いに先祖代々の優良な羊を受け継ぎ、どちらがより本流かを競うように大切に育ててきた。毎年行われる羊の品評会でも、常に2人で優勝を争ってきた。ところが彼らはなぜか絶縁状態で、全く口をきかない不仲な関係が40年間も続いていた。そんなある日、キディーの羊が疫病に感染していることが判明し、村の羊を全て殺処分しなければならない事態となる。このままでは、先祖から大切に受け継いできた優良な羊の血統が断たれてしまう。それだけはなんとしても避けたい兄弟だったが」
舞台はアイスランドの、羊の飼育で生計が成り立ってる人ばかりの村。そこに、↑のあらすじのような出来事が発生。兄キディは絶望感にうちひしがれ、飲んだくれの毎日。村や獣医の勧告も無視して、飼育場の清掃もせずほったらかし。一方の弟グミーは、なんと地下室で雄一頭と雌数頭を隠して飼いはじめ、種付けにも成功。なんだけど、あるとき役人に見つかり、いったんはグミーの家に隠すんだけど、隠し通せないと思ったのか。「火山の近くなら大丈夫」って、どっちが言ったんだっけかな。で、2人して羊たちを追いながら山を登るんだけど、トラクターが雪に車輪を取られ、吹雪で遭難。どっちだったかよく覚えてないんだけど、弟の方かな、が意識不明になってしまって。キディは雪穴を掘り、そこにグミーを押し込むと、裸になって暖を与えるのだ。しかも、弟の名前を延々と呼びながら…。肉がでぶでぶたぷたぷの、兄はハゲで顎髭、弟も似たようなもの、が抱き合ってんだぜ。うわ。もういいよ。テキトーでオシマイにしてくれ、と思ったんだけど、これが長くつづく。で、暗転して、翌日とか後日談になるかと思いきや、エンドクレジットがでてきたのにはおどろいた。え? これで終わり? 2人はどうなるんだ。いや、羊たちはどうなったんだ? 兄弟のしたことは、どう評価されるのだ? というような、それまでの評価軸が、完全にすっ飛ばされてしまった。こんな終わり方、あるのか? 話は尻切れトンボではないか。
というわけで、半ば過ぎまでの、さてどうなる? という展開は興味深かったんだけど、最後の投げやりみたいな終わり方で、がっかりな映画だった。
・兄弟の仲が悪い理由がよく分からない。なんでも父親が、遺産は弟にすべて譲ると決めたんだとか。それで弟は、兄から土地建物を借りて牧羊をしていた。だからなのか、羊コンテストで弟に勝ったことで大喜びしていた。でも、兄は社会性に欠け、村の住人ともあまり交流がない。だけど、後に弟が兄の家に入ったとき、棚に父、弟との写真があるのを見つけている。別に嫌っているわけではないのだろうけど、ではなぜ? そんな思いをしながら村に残った理由もよく分からない。Webには、神話とのアナロジーを指摘している向きもあったけれど、カインとアベルみたいなものか? よく知らないのでなんとも言えない。
・コンテストの審査員は女性獣医で、その彼女はキディの羊を1位にした。夜、グミーはその羊をちょいと見て、伝染病と気がつくんだけど、そんなんで分かるのか?
・しかし、産業が羊しかない村で全頭処分なんて、すごいことだよな。鳥インフルでも、養鶏業者は同じような目に会っているんだろう。気の毒なことである。グミーの、それでも飼ってみる、っていうのも悪くはない方法だと思うんだけどな。10頭ぐらいずつ小分けにして飼育し、生き残った羊はそのまま飼う、とかできないものなのかね。まあ、病原菌が長期間潜伏する、とかいうなら難しいかも知れないけど。人間だって、家族の一人が発病したからって、村の全員を殺すなんてこと、しないだろうに。
・そういえば、冒頭、弟が牧場で死んだ羊を見つけているんだが、あれは病死だったのか? で、発見した次のシーンで、弟は羊を抱きかかえて兄のところ(実をいうと、このあたりでは、どっちが兄でどっちが弟かなんて気にせず見ていたので、区別がついていないんだけどね)に行くんだけど、抱えていたのは、生きた羊だったよな。抱えていたのは自分の羊で、「あそこで兄貴の羊が死んでたぞ」と指さして教えた、ということか?
・泥酔して外で寝てしまったキディを、グミーがショベルカーで病院に連れていくシーンがなかなか面白かった。
・山に登る前だったか、キディが「ローン、ありがとう」とグミーに言ったのは、どういうことだ? キディの借金をグミーが肩代わりした、なんて話はあったっけ?
・兄弟が意志を伝え合うとき、キディの犬が伝書犬となってメモなんかを咥えて行き来するのが、可愛らしい。
スター・ウォーズ/フォースの覚醒1/8MOVIX亀有シアター10監督/J.J.エイブラムス脚本/ローレンス・カスダン、J.J.エイブラムス、マイケル・アーント
allcinemaのあらすじは「「スター・ウォーズ エピソードVI/ジェダイの帰還」からおよそ30年後を舞台に、家族を待ち続ける孤独な女性レイと、戦うことに葛藤するストームトルーパーの脱走兵フィンとの出会いが導く壮大な冒険の始まりを描く」と短いのは、まだあらすじの公式発表がないからかもね。
SWは、エピソード4、6は映画館で見て、5はあとからテレビで見たはず。その後の1、2、3は劇場で順番に見てるんだけど、印象は4にとどまってる感じ。1、2、3は中味がほとんど記憶に残っていない。テンポものろいし人物も分からんし、ただただ長く退屈だったという記憶しかない。なので、6の次の話だといわれても、5、6の流れが頭に入ってない。そんなんで大丈夫かと、Web上で簡単なおさらいをしたんだけど、これがまた話が頭に入らない。まあいいや。な感じで見た。
ひとことでいうと、エピソード4のリメイクみたいな感じ。その部分は新たな登場人物とロボットのBB-8がカバーして、過去の継承はH・フォード他の過去の人物が担当。合わせ技でレトロ感をだしてるってとこか。そのレトロ感は笑っちゃうほどで、照準が70年代のパソコンレベルの単純な線だったり、最後のレジスタンス(共和国軍?)によるスターキラーの攻撃でパイロットたちの航空服がオレンジ色のだっさい昔風のだったり、登場する宇宙人がシリーズ4、5,6にでてきたタッチの着ぐるみ的なものが多いとか、こりゃかなり意図的。1、2、3で導入した最新のCGや表現はも、どっかに捨て去ってしまった。まあ、こうやって4、5,6とのつながりを濃くし、過去の人物たちとなじみやすくしてるんだろうけどね。
で、今回に若手の主人公は、得体の知れない少女レイと、帝国軍からの脱走兵のフィン。レイは最後まで正体が分からないけど、自覚してないのに操縦がうまいとか、どーもワケあり風。で、Webを見るとハンソロとレイア姫の間の娘だ、とあって。そういう小説はすでに出されているらしい。なーんだ。
興味深いのはフィンの方で。他の兵士のように人々を殺戮できず、帝国軍を脱走するという設定。都合のいいことに、たまたま捕まっていたレジスタンスのパイロットともに帝国軍の小型艇で逃げ出すんだけど、それはそれとして。さらに、後半で、フィンは幼いとき村から掠われて兵士にされた、と分かる。このあたり、アフリカの反乱軍とかが少年を誘拐して兵士に仕立てる話と似ている。フィンが黒人青年であるというのも、余計にそう思わせる仕組みかもね。
さらに、帝国軍の描写は、ナチそのもの。そして、後半で分かるんだけど、帝国軍の将軍のひとり(なのか?)のカイロ・エンは、なんとハン・ソロとレイア姫との息子であるという。その驚きよりも、本来なら自由のある共和国ではなく、悪の組織に惹かれてしまう青年という設定は、自由主義国家の青年たちがイスラム過激派、とくにISISに参加ている状況を映し出しているのかも知れない。このあたり、時代背景をさりげなく採り入れているのか。
とはいうものの、ルーク・スカイウォーカーとレイア姫が双子の兄妹で、このたびのエピソード7でも、どうもカイロ・エンとレイが、これまた兄妹であるようなのは、なんなんだ。親の因果が子に報い、なのかね。というか、スペース・オペラが、単なる家族の問題に収斂されているわけで、なんともはやな気分。
で。今回の話は単純で。あるジイさんがレジスタンスのパイロットにルーク・スカイウォーカーの居場所の地図を渡す→パイロットは地図をBB-8に託す→パイロットは帝国軍に捕まり、なんと拷問されて簡単に地図のありかをゲロする(マジかよ! なんだこの安直さ)→パイロットはフィンとともに帝国軍から脱出し、ジャグーへ。パイロットは死んだか行方不明→ジャグーで、廃品集めで食ってるレイがBB-8を発見(けど、最初に見つけて捕獲した宇宙人から強奪してるのは、どうなんだ?)→市場でレイ、フィン、BB-8が遭遇→パイロットからの情報で、帝国軍の小型艇が2機襲ってくるが、オンボロファルコンを見つけてそれで応酬→なんとかやっつけて宇宙空間へ逃亡→そこにより巨大な宇宙艇がやってきて捕獲されるが、登場したのはハン・ソロとチューバッカ…。というわけで、以後、地図を求めて帝国軍とレジスタンス、ハン・ソロたちとレイ+フィンがあれやこれや。要は、ルークの居場所をめぐって繰り広げられるドタバタ劇だ。
地図は全体の一部で、他の部分は帝国軍がもっていたんだが、そもそもなんで村のジイサマが地図をもっていたのか? 地図データはUSBみたいなメディアに収まってるんだけど、あんなのコピーするとか転送するとか記憶するとかできそうなものだけど、敢えてしないのは、そうすると話ができなくなっちゃうからだろうな。
てなわけで、そんなにルークの居場所が大事なのか? なんで? と考え始めると、話が成り立たなくなってしまうのだよな。なんでもルークは、レジスタンスの新人教育に失敗して隠遁したとかなんだとか。そんなダメな男を探し出してどーすんだ?
で、最後はレジスタンス軍が、エピソード4のときの数倍はあろうかという帝国軍の基地というか星だなありゃ、を攻撃するんだが、その様子は4の焼き直し。ちっとも興奮しない。そのスターキラーのシールドは、なんとも簡単に解除され(マジかよ! なんだこの安直さ)、どかどか攻撃されてドッカーン! と爆発。その後、地図が完全になり(帝国軍が持っていた地図は、どうやって手に入れたんだか…)、レイが訪れてみるとそこにはフードをかぶってヒゲを生やしたルークが…というところで終わる。けっ。なんか、見どころが少なく、並のSF大作って感じかな。
そもそも、いったんは敗北した帝国がどうやってスターキラーみたいなものをつくるまでに復活したのか、がよくわからない。あんなもん、すぐに発覚しちゃうだろ。それと、かつて共和国軍が勝利したのなら、その共和国はどこにあるんだ? 登場するのはほとんどがレジスタンスで、それって抵抗軍ってことだろ。ってことは、帝国軍が押している、ってことじゃないか。
多くの舞台となる砂漠の星(?)ジャグーも、見たところは無法地帯。まあ、西部劇を下敷きにしているんだろうけど、全体を俯瞰してみたとき、ムリやり存在させている感がぬぐえない。
とはいえ、ムリやり話をつないでいるんだろうから、ギクシャクとムリは承知ではあるけどね。
ハン・ソロは、レジスタンスの基地に行って、そこの将軍となってるレイア姫と再会するんだけど。2人の結婚、子供をつくって、いまは別れている、というのもよく知らんぞ。強引なことよ。まあ、そうやって話をむりくりつないで、映画をつくっていくんだろうけど。
ところで、帝国軍に捕獲されたレイが、環視していた帝国軍の兵士に命じて自分を拘束装置から解放させるんだけど、ありゃ催眠術か? あれフォース? よく分からん。ところで、その言われるがままパイロットを解き放つ兵士は、なんとダニエル・クレイグだったようだ。面を外さないから分からなかったけど、英国訛りで分かる、とWeb書いてあった。おお。
・ハン・ソロがレイ、ファンと出会ったとき、彼らは怪獣を捕獲して運んでいるところだったんだけど、まん丸い怪獣が逃げ出し、怪獣に追われる場面は、『インティジョーンズ』そのもの。意図的だろうけどね。
・そのハン・ソロ役のハリソン・フォードは、70過ぎてるけど若いし動けてる。いっぽうのレイア姫は、結構なお婆ちゃんになっちゃって、うむむむむ。
・ハリソン・フォードは顔見せ的な扱いかと思ったら、ほとんど主役並の活躍振りで、へー、な感じ。
・レイは、そんなに美形ではない。けれど、少女の面影を強く意図した起用なんだろう。姓別が故意に押し込められた感じで、気の強い様子がなかなかチャーミングに描かれている。笑うと、口元がキーラ・ナイトレイみたいだ。そのレイが、ルークに会いに行くところで、やっと胸の谷間をほんのチラッとだけ見せるようになる。これも、少女から娘への成長を見せようという演出かね。
・しかし、なぜにカイロ・エンは帝国の将軍みたいなのになり、レイは砂漠でゴミ拾いしているのか。ま、理由を聞いても仕方のないことではあるけどね。
・レイが食べていた、カルメ焼きみたいなインスタント食品がなんなのか、気になる。ははは。
・ハン・ソロが、息子であるカイロ・エンに呆気なくやられてしまうのは、どうなんだ? H・フォードが「もうでたくない」といったのか。それとも、次に実は死んでなかった、って復活してくるのか。しらんけど。
※「たまむすび」で町山智浩が、『スター・ウォーズ』にはルーカスの個人的な事情、家族関係が色濃く反映しているというようなことを言っていた。なるほどね。とはいっても、あまりにも露骨で生々しいことである。
エベレスト 3D1/12キネカ大森2監督/バルタザール・コルマウクル脚本/ウィリアム・ニコルソン、サイモン・ボーフォイ
原題は“Everest”。allcinemaのあらすじは「1996年、春。ニュージーランドの登山ガイド会社によって世界最高峰エベレストの登頂ツアーが企画され、医師で登山経験豊富なベックや前年の雪辱を期す郵便配達員のダグ、著名なジャーナリストのジョン・クラカワー、そして紅一点の日本人女性登山家・難波康子ら世界各国から8人のアマチュア登山家が参加した。彼らを率いるのはベテラン・ガイドのロブ・ホール。一行は標高5000m超のベースキャンプに滞在しながら、1ヵ月かけて身体を高度に順応させていく。その間、ベースキャンプは多くの商業登山隊でごった返し、様々なトラブルが発生していた。そんな中、ロブ・ホールは別の隊を率いるスコット・フィッシャーと協調体制を取ることで合意、互いに協力しながら山頂を目指すのだったが」
題名に「3D」とつけている意味か分からない。まあ、見たのは2Dだけどね、当然ながら。
いまでもそうなのか知らんけど。エベレスト登頂ほ観光ツアーみたいになっているのか。6万5千ドルっていってたけど、それだけ払えば登頂から下山まで安心してサポートいたします、と。ああいったツアーで頂上に到達しても、成功! と言われていたわけか。まあ、企画会社は大変だろうけど、儲かるシステムなのか。で、あの、2人のガイドというか社長は、ツアーのたびに登頂していたわけだよなあ。ご苦労なことで。
参加するメンバーは、まったくの素人ではないようだけど、知られたプロという訳でもないらしい。七大陸最高峰のうち六峰に登頂したと紹介されていた日本人・難波康子も、Wikipediaによると自力でというより知人などのガイドのサポートのもとでの登頂らしい。すでにプロによってルートが開発され、そこにロープも張られていて、あとは体調との勝負、というような人なら、登頂することはできなくはない、というようなことのようだ。そういうところでも、世界最高峰のエベレストなら記録には残る。だから、登りたいという人は後を絶たないんだろう。要は名誉欲だな。
ってことを思うと、日本人でもエベレストに登ったことがある、なんていうような人の大半は、この手のガイド付き登攀ということになるんだろうな。なーんだ、な気分だ。
悪天候の中の、たまたまよかった時間を狙った登攀で、2時には下山するはずなのが4時になってもまだ頂上にいたとか、別のツアーのリーダーのスコットが、気分の悪くなった客をいったん降ろしてまた上がってくるなどを繰り返していてへとへとだったとか、様々な悪要因が重なった末の出来事として描かれている。
なかに、すでに時間が過ぎているのに「ここまできたんだから頂上までいかせてくれ」という人がいて、ロブ・ホールはそれを断り切れていない。人がよすぎたのか、商売人だったのか。
べらんめいで偉そうなオッサンがいて、でも登攀中に目が悪くなって休んでいて、頂上に達することはできなかった。他のメンバーに支えられて下山したんだっけか。でも、後もう少しのところで他のメンバーがダメになって、彼らは死んでしまう。だけど、オッサンは奇跡的に生きていて、キャンプまで自力でたどりつく。でも、みんな疲れていて、そっから彼を地上に降ろせない、ということになってしまう。と、その奥さんがアメリカの自宅から、どういう手を使ったのか知らないけど、ヘリを飛ばさせるんだよ。その高度でヘリは危険だっていうのに、ムリやり。CNNに言うぞ、とか言ってたんだっけかな。アメリカ大使館にプレッシャーかけてたのか? 知らんけど。操縦士はネパール人? で、危ないなかなんとかオッサンを乗せて連れていくのに成功はしたんだけど。なんかな、な感じ。まあ、要するに他人の命を危険にさらしてまで登りたがったり降りたかったりする人の話だな、と思った。
てなわけで、頂上付近で、さらにキャンプの近くでも何人か死んで、日本人・難波康子もここで息絶える。七大陸最高峰制覇した当日の不幸だ。しかし、こういうのを見ると、もっと低い山でも天候によっては遭難するんだから、そりゃエベレストじゃ当然だろうよ、と思う。そんな過酷な場所を、なぜめざす? なんていう話も、前半にはあったなあ。
この映画の欠点は、名前と顔の区別がつきにくいことだ。ロブ・ホールのツアーのメンバーも、数人を除けばささっと簡単に紹介されるだけ。登山服になると顔が見にくいし、ヤッケの色にも限りがあるから、わけわからなくなってくる。さらに、スコット・フィッシャーのツアーも数人絡んでくるし、他にも南ア隊だの台湾隊も登場。加えてシェルパもぞろぞろでてくる。もう、誰がどれやらもう分からなくなって、途中で見分けることをあきらめた。
・固定ロープがなくなっていた場面があるんだけど、あれはなぜなくなっていたの? 以前に登山した人のが、たまたま経年変化かなんかでなくなったとか、そういうことか?
・南峰に置いたという酸素が、みな空になっていたけど、あればどうしてそうなったんだ?
・やたらTHE NORTH FACのグッズがでてくるんだけど、現実もそうだったのか。それともタイアップしてるからなのか?
ブリッジ・オブ・スパイ1/13109シネマズ木場シアター5監督/スティーヴン・スピルバーグ脚本/マット・シャルマン、イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン
原題は“Bridge of Spies”。allcinemaのあらすじは「米ソ冷戦下の1957年、ニューヨーク。ルドルフ・アベルという男がスパイ容疑で逮捕される。国選弁護人として彼の弁護を引き受けたのは、保険を専門に扱う弁護士ジェームズ・ドノヴァン。ソ連のスパイを弁護したことでアメリカ国民の非難を一身に浴びるドノヴァンだったが、弁護士としての職責をまっとうし、死刑を回避することに成功する。5年後、アメリカの偵察機がソ連領空で撃墜され、アメリカ人パイロットのパワーズがスパイとして拘束されてしまう。アメリカ政府はパワーズを救い出すためにアベルとの交換を計画、その大事な交渉役として白羽の矢を立てたのは、軍人でも政治家でもない一民間人のドノヴァンだった。交渉場所は、まさに壁が築かれようとしていた敵地の東ベルリン。身の安全は誰にも保証してもらえない極秘任務に戸惑いつつも、腹をくくって危険な交渉へと臨むドノヴァンだったが」
なーるほど。人質交換の裏側には、こんなドラマがあったのね、なお話し。淡々と進み、丁寧すぎていささか退屈なところもあるんだけど、最後の最後で感動させてくれた。男は黙って…だね、父ちゃんエライ! な感じ。
他に連想したことというと、オウム裁判およびオウム信者への一般市民の対応。それと、アメリカにもカミカゼ特攻隊と似たような発想もあって、「生きて虜囚の辱を受けず」なのには驚いた。いまなら「救う」ということになるんだろうけど、U2の敵国侵入撮影はスパイ行為だから、そうもいかなかったのかな。というようなこと。
弁護士ドノヴァンは、所属する弁護士事務所の上司からアベルの弁護をするよう言われるんだけど、ソ連のスパイを弁護するというだけで新聞には叩かれるし家に発砲される。現場にやってきた警官に警固を依頼すると、警官の一人がドノヴァンに食ってかかってくる。非国民、てなことだろう。どこの国にもいるのだよな、こういう手合いが。では。ひるがえってオウム事件の弁護士に対する態度はどうだったろう? さらに、元オウムのアレフ信者の住民票を受け取らない決議だの、出ていけ運動だの、ああいうのに対して誰も擁護しなかった、していない経緯があるわけだ。宗教学者の島田裕巳など、学際的にオウムを語った人物も完全に干された。擁護するまでいかずとも、法律的な視点からオウムに正統な権利がある、などと発言しようものなら、どうなったか。だから、進歩派の文化人も、誰もオウムにふれなくなってしまった。保身である。この映画におけるドノヴァンの態度を褒め称えるひとは、オウムに関する一連の事柄について、どう語るのだろうか。まあ、語らんだろうな。
U2の写真撮影なんて、いまじゃGoogleマップで誰でも簡単に見られるレベル。それに命を賭けた時代が50年ぐらい前にあったわけだ。しかし、発見されたらU2を爆破せよ、万一捕まっても毒で死ね、という命令があったとは知らなかった。日本のカミカゼを狂気とは呼べんだろ、アメリカは。
裁判も、出来レース。いくら法例を示しても却下され、アベルは有罪になる。というところで、ドノヴァンは裁判長に「死刑にせず生かしておけば、万一、米国のスパイが捕虜になったとき交換材料となりますよ」とアドバイスして、判決は無罪だけど死刑は免れるという展開だ。しかし、その直後にU2が撃墜されてパイロットが捕虜になるって、タイミングよすぎ。実際もそうだったのかな。
てなわけで、ソ連のスパイを弁護中に米軍のパイロットが捕虜になる。時は東西の壁がつくられている最中。そこにさらにベルリン留学中の学生が東側に入り込んででられなくなる。そこでドノヴァンに白羽の矢が立ち、交渉を依頼される…って、どこまで事実でどこから脚色か知らないけど、上手く話をつくったもんだ。
あとは、その交渉の過程が淡々と描かれていく。
で、ミッションが終了。ドノヴァンは妻に、イギリスで仕事、とかいってて。奥さんは、どこどこのマーマレード買ってきて、なんていってた。でも、渡されたのは近所の店のマーマレード。呆れかえっていると、テレビの画面にこのたびの交渉のことが映って。しかも、亭主も登場。子供たちは「あ、父ちゃん!」奥さんも「あら!」てな感じで。そっと寝室にいってみると、ドノヴァンは突っ伏して寝ていた…という場面は、それまでの淡々とした調子を一気に吹っ飛ばすような高揚感があった。
・冒頭、アベルが逮捕される場面。暗号の紙はパレットを拭くふりをして処分してたけど、紙が入っていたコインは見つかっちゃうんじゃないのかね。そもそも、どういう嫌疑で起訴されたのか、その辺りがよく分からなかった。 ・次に、ドノヴァンの紹介の場面。保険の交渉で、1人の運転手が何人轢いても事件は1つ、というような話を開陳していて。もともとは保険専門で屁理屈をこね回す弁護士かと思っていたら、話の根幹の部分でアベル対パワーズ&プライヤーの1対2の交渉になるに及んで、あれも伏線だったのね、と。ふーん。
・最終的に、1対2の交換で行く、と勝手に決断して事を進めたのは、賭けだよな。上手くいったからいいようなものの。その緊迫感は、あまり出てなかったな。CIAは、やれやれ、困ったな、な感じだった。
・裁判中、ドノヴァンが事務所に戻り、ボスに挨拶しようとしたら秘書がドアを閉めてしまうシーンがあったけど。あれは、あくまで戦う姿勢を見せたドノヴァンにたいする風当たりの強さ、ということか? その後のフォローがなかったよな。
・捕虜交換で、アベルは「自分を信頼し、同朋と認めたら抱き合う。そうじゃなければ、後部座席にそのまま座らせる」とドノヴァンに言うんだが、さっさと後部座席に座らされてた。その後の運命を示唆する場面だ。けれど、最後の字幕には妻子と会って云々とあったから、死刑にはならなかったということか。それにしても、共産国はそういう仕草も記号になっているのだね。
・U2のパワーズは、帰国しても非難囂々で肩身の狭い軍隊生活か、軍隊を辞めたのかと思いきや、さにあらず。捕虜勲章みたいのをもらってた。その後に、なんでもヘリの事故で亡くなったらしいが…。
・西ベルリンと東ベルリンの行き来は列車なんだが。車窓の風景が丁寧に映される。ひと仕事終えて西側に戻るとき、ドノヴァンは壁を超えようとして射殺される市民をも目撃する。で、NYに戻っての車内からの風景も描かれていて。なかに鉄柵を登って越える子供たちの姿もあるのは、アナロジーとしてベタで、分かりやすすぎる比喩。
・車内風景も、最初は新聞に「スパイ側の弁護士」と紹介され非難の眼差しを浴びる様子が。ラストでは、新聞に「交渉で活躍した弁護士」とあって、勝算の眼差しを受けるドノヴァンという具合で、これまたベタな対比。
・ところで、留学してた青年の、東ドイツの恋人(?)とその父親の教授は、その後どうなったのか気になる。
・でもやっぱり、スピルバーグにはあんな教科書的でマジメな話ではなく、奇想天外で楽しい映画を撮ってもらいたいものである。
ヘリオス 赤い諜報戦1/15新宿武蔵野館1監督/リョン・ロクマン、サニー・ルク脚本/リョン・ロクマン、サニー・ルク
中国映画。…香港かな。原題は「赤道」。allcinemaのあらすじは「韓国が開発した超小型核兵器“DC-8”を搭載していた飛行機が墜落し、犯罪組織“ヘリオス”の手に渡ってしまう。ヘリオスが香港で武器密輸組織とDC-8の取引を行うとの情報が入り、香港警察はリー隊長を中心に対策に乗り出す。これを受け、韓国政府も関係者をすぐに香港へと送り、香港警察とともに取引現場へと急行、激しい銃撃戦の末に、かろうじてDC-8の奪還に成功するが」
アクションを見せるための映画なのか、話がテキトーすぎ。似たような顔の男女がぞろぞろでてくるのも、やっかい。そして、ヘリオスとは何で、目的はなんなのか、よく分からない。たんに武器を売って儲けようということか? じゃ、どういう連中がどうつながつているのか? そこが話のキモなのに、描かない。韓国、香港、中国大陸からメンバーが集まって右往左往してるけど、それぞれの立場や役割も芒洋としているから話に入り込めない。もやもやしたまま表面的な話はどんどん進み、でも核心にとどかない。これじゃ、いくらアクションが派手でも退屈するしかない。
・最初の飛行機事故は、ありゃなんなんだ? やってきた女って、大陸側の女なのか? ↑のあらすじには核兵器が盗まれたとあるけど、盗んだのはその後の、韓国の研究所みたいなところでの出来事かと思ってたよ。
・消えた乗務員がどうたらといっていたけど、なんなんだ? 後半にもその言葉がでてきたけど、どういう関係があるのだ? その乗務員がヘリオスのメンバーだったとか? だいたい、核兵器盗むのにどうして飛行機を墜落させる必要があるんだ? 衝撃に弱いとかいってたようにも思うが。
・韓国が核兵器? その背景も描いて欲しいところだ。北への対抗策とか。しかし、そんな核兵器を開発する力はあるのかいな。それにしても、簡単に盗まれすぎ。
・韓国スタッフが子供の誕生祝いを開いてるところに、ズカズカと迎えにくるってなんだよ。アホみたいな演出だ。
・香港の大学教授が実は…と後半分かるんだけど、そういう立場になるには数10年かかるわけで。べつに、このたびの核兵器売買を見越してもぐり込んだ、というわけでもないだろう。ってことは、フツーの大学教授がある日目覚めて悪の道に入ったのか?
・実行犯の若い男女も、どっからリクルートしてきたんだ? あんなスーパーマンとスーパーレディ…。まるでマンガ。
・で、ヘリオスは3人なの?
・で、核兵器を売り渡す先は、あのアラブ人みたいな連中? ってことは、イスラムのテロ集団? にしてはマッチョな連中が派手にうろうろしてたけど。現実味ないなあ。
・香港組の、あの可愛らしい女性スタッフは、警察? じゃないよな。なんなんだ? それと、彼女だっけ、が、インド人っぽい情報屋と接触すると、ヘリオスの取り引き日時を教えてくれたりするんだけど、なんでその情報屋が知ってるのだ? いろいろ杜撰すぎるだろ、ヘリオスとか取引相手とか。
とかなんとか、集中して見てられなかったので、もう詳細は忘れてしまったよ。最後は、黒幕が大学教授であることが分かり、香港の警官は殺されて。韓国組は警護担当が銃撃戦で死に、上司(?)はかろうじて生きて戻るという…。大陸組はどうなったんだっけ? あのきつそうな顔の女性は、死んだんだっけ? 忘れた。
で、最後に日本が舞台となり、大陸組のボスみたいのが、電車に乗ってた教授(ヒゲを剃ってたけど、彼だよな?)と対面して…どうなるんだっけ。忘れた。あれも、取り引きなんだっけか? あ、それで、ヘリオスが盗んだ核兵器はどうなったんだっけ? 忘れてた。
なんか、話がとっちらかりすぎて、なんだかよく分からなかったよ。さすが中国映画。
アリスのままで1/18ギンレイホール監督/リチャード・グラツァー脚本/リチャード・グラツァー、ワッシュ・ウェストモアランド
原題は“Still Alice”。allcinemaのあらすじは「夫にも3人の子どもたちにも恵まれ、充実した日々を送る50歳の大学教授、アリス。ところがある日、講演中に普通の単語が出てこなくなったり、ジョギング中に道に迷ってしまったりといった物忘れが頻繁に起こるようになる。やがて診断の結果、若年性アルツハイマー病と宣告されてしまう。しかも遺伝性で、子どもたちにも発症のリスクがあると分かる。子どもたちにも動揺が広がる中、病気は徐々に進行し、ついには大学も辞めざるを得なくなるアリスだったが」
評価は高いようだけど、そうかあ? な感じ。
若年性アルツハイマーが大変なのは分かる。では、何を言いたいのか? その辺りが分からない。この病気のことは知られているし、広く知らしめたい、ということでもないだろう。では、関心を高め、悩む家族をサポートしましょうか。違うだろうな。だって、アリスの家庭はインテリで高収入。本人は大学教授。しかも夫や息子は医者。経済的な不安とは無縁だろう。では、個人の不安と病気の恐怖?
というわけで、前半からの興味は、いかにアリスが物事を忘れていくかにあって、見ている方は、ここでドジを踏むのかな、次はどんな戸惑いをするのかな、に注目な感じ。医師の診断・検査を受け、夫に告白するあたりまでが話のキモなんだろう。
あらー、大変ね、お気の毒。あんななったら困るわよね。てな感じで同情し、映画館をでたらすっかりそういう現実は忘れ去り、日常を過ごすわけだ。まあ、当然だろうけど。
それから以後は、どんどん症状が重くなっていくんだけど。時間の経過も、長女の妊娠と出産があるから1年以上は経っているんだろうぐらいは分かるけど、細かな経緯は分からず。どうやって大学を辞めたのか、海辺の別荘みたいなところにいるけど、あれは自宅なのかどうなのか、なんかよく分からない。分からないまま、だいたい同じような話がつづくので、少し退屈してくる。
とはいうもののヤマ場はひとつあって。それはアリスが同じような病を持つ人々の前で講演する場面。まあ、あそこは少しは感動したけど、それは講演内容にであって、それ以上のものでもない。話している途中で原稿を落としてしまうんだけど、あそこでドラマが発生か? と思った。なぜなら、彼女はどこまで読んだかも分からなくなるので、話ながら原稿を黄色の蛍光ペンでチェックしているのだ。でも、ら何事もなく発表が終わってしまった。なんなんだあの原稿を落とすという演出は。
この講演内容についてもうひとつ。アリスは、Skypeかなんかで次女リディアに講演内容を事前に聞いてもらうんだけど、そのときリディアは「内容が専門的すぎるから、もっとお母さんが感じている身近なことにしたら?」といっていて、でも、アリスは「4時間(4日だっけ?)もかけて書いたのよ!」とかいって拒否していたのだ。で、あの発表内容は、当初のままなのか? 多少は書き直したのか? 当初のままなら、リディアの見解はどうなるんだ?
もうひとつのヤマ場というか出来事は、↑のあらすじにもあるけれど、病気が遺伝性で、遺伝の確率は50%で、キャリア(陽性)なら100%発病するというとだ。長女アナは出産間近で自らの陽性を知る。長男は陰性。次女は検査を拒否…。これは、うわ! な話だよ。なんだけど、この話をまったく引きずらないんだよ。最後までアリスの変化を追うだけなのだ。そりゃないだろう。アナと亭主は、まったく動揺しているようには見えない。生まれた双子にも、手放しの喜びよう。でも、その双子もいずれかは陽性かも知れない…。そう考えたら、足が震えるんじゃないのか?
アリスは、子供たちに「ごめんなさい」と誤っていたけれど、アナはそんな簡単に自分の発病の可能性を受容できるのか? 仮にアナが30歳ぐらいとして、あと20年しかフツーに生きられないんだぜ。それを知って生きる人生は、アリスと同じぐらいドラマなのに、それに触れないのはないだろう。
家族のサポートという面でも、はたしてアリスは恵まれているのかどうか。夫は条件のいい病院へとひとり旅立ってしまう。後を見るのは次女リディアで、彼女はロスで役者になろうと突っ張っていたけど母の介護のために戻ってきた。役者への夢はあきらめてはいないけれど、どーもそんな才能がありそうな終わり方をしていない。長女は子供が誕生し、亭主は何やってるのか知らないけど、自分の家庭で精一杯。どんどん自分を失っていくアリスの行く末は、発病直後に見学にいった施設の老人たちと同じようなものになるのではないのかな。リディアだって、役者にならないまでもいずれは結婚するだろうし。講演会での発表内容とは裏腹に、暗い余韻だけが残る終わり方だ。まったく自分が分からなくなり、でも肉体は元気いっぱいのアリスに振りまわされる家族…。そのうちアナも発病し…とかいう展開もないわけじゃない。
そういえば、アリスは自分が分からなくなったら自死しようとパソコンにビデオを録画していて、そこで、将来の自分に睡眠薬を飲むよう指示していたんだけど。その指示すら分からなくなって、訪問してきた女中の音に驚いて薬をこぼしてしまう。はたして、死ななかったことがよいことだったのか否か。自分が分からないような存在は生きていても無意味との判断だろうし、家族の負担にならないようにという思いもあったろう。ここも大きなところなのに、あっさり片づけてしまう。このあたりも、ずるい気がした。
というわけで、お話し的にはいまいち深みがなくて、きれいごとに過ぎ、アリス個人への“お気の毒様”感がいっぱいの映画になってしまっている。残念。
しかし、この手の映画の家族って、いつも高学歴・高収入・インテリなんだよなあ。もっとフツーの家庭とか、片親とか貧乏人とか、失業者とかだって同じような確率で若年性アルツハイマーにはなるわけで。映画の家族のように恵まれた条件ではないはずだ。そうして、そういう人の方が圧倒的に多い。だいたい、なんだあの家族は。亭主が医者で妻が大学教授。息子は医者。次女はやさぐれているけど、その、社会性の欠如したリディアが最後はアリスの面倒を見るのだよ、というような終わり方は、観客も納得しやすいのかね。ううむ。
完全なるチェックメイト1/19ヒューマントラストシネマ渋谷監督/エドワード・ズウィック脚本/スティーヴン・ナイト
原題は“Pawn Sacrifice”。allcinemaのあらすじは「1972年、アイスランドのレイキャビクでチェスの世界王者決定戦が開催された。冷戦下にある米ソの直接対決となったこの一戦は、両国の威信を懸けた代理戦争として大きな注目を集めた。ソ連はこのタイトルを24年間も保持し続けていた。現チャンピオンのボリス・スパスキーも冷静沈着で完全無欠な絶対王者。対する挑戦者のアメリカ代表は、IQ187の天才にして我が道を突き進む自信家のボビー・フィッシャー。常人の理解を超えた突飛な思考で数々の奇行を繰り返し、周囲を困惑させることもしばしばだった。そんな中、世界中が注目する世紀の一戦が幕を開けるのだったが」
ボビー・フィッシャーの名前ぐらいは知っていたけど、詳しい経緯とか背景までは知らなかった。で、映画はボビーの生い立ちから始まり、スパスキーとの対決・勝利までを描いているんだけど、大半がボビーの奇行というか分裂病的な行動を描いていて、要は気違いを描いたものといってもいい。
あと、よく分からなかったのが家族のことで。最初の方で、母親たちが誰かに監視されている云々の話をしていて「ガス室に送られたわけじゃないのに。ははは」とかいったり。その後で、ボビーがソ連のスパイとしてリストアップされていたらしいというシーンが挟まったり、あるいはボビーが母親に「ソ連に帰れ(だったかな?)」と言ったり、後々にはイスラエルやユダヤ教の悪口を言ったり。ん? 母親はロシア移民なのか? じゃ、ボビーもロシア系? でも、彼らはユダヤ人なんだよな。なのにユダヤ教やイスラエルの悪口ってのはなんなんだ?
あと、ボビーが母親に、「僕の父親はどこにいる!」と怒鳴ったりして。父親を知らずに育ったのか? などなど、家庭環境がよく分からず混乱したまま話が進んでいってしまった。あのあたりは、ボビーの精神状態にも影響を与える事実ではないかと思うんだが、いまいち断片的にしか語られない。なぜだ?
幼いときのボビーは天才少年的に描かれるんだけど、10代半ばで国際大会に出場したとき、それはソ連でだと思ったけど、周囲の音に異常に敏感になって。次に当たるのがスパスキー? とかいう表示板もでるんだけど、「ソ連チームがドローを狙っている!」と叫んで競技を抜けだしてしまう。あのあたりも、雰囲気は分かるけど、経緯の具体的なところが分からない。あの大会でスパスキーと接近したけど、実際には戦っていない、ということなのかね。
あと、ボビーをサポートしつづける弁護士と神父は、ありゃなんなんだ? 弁護士は、米国政府から派遣されてる? どういうことだ? 神父は、チェス協会のトップ? の割りには、それ以外のサポートが全然登場しない。あまりに話を単純化しすぎなような…。
…というような感じで、とてもボビーに感情移入できない。ヒロインも、ボビーの童貞を奪った(ははは)娼婦しか登場しない。ボビーはチェスにしか興味がなかったのかね。
スパンスキーとの公開対決がヤマ場で。でも、大きな劇場のステージで試合するのね。あんなところで、よくできるよな。それでもカメラの音や咳が気になるからとボビーは第2戦をボイコットし、卓球室でなら試合をしてもいい、と宣言。そのワガママにスパンスキーも応え、無音のカメラの映像を公開するという、なんじゃこりゃな展開で。卓球室では実力発揮でスパンスキーに勝利、ドローで、ふたたび劇場で相対するんだけど。スパンスキーが不利な状態になると、こんどはスパンスキーが「変な周波数がする」と椅子のレントゲンを撮らせるという異常事態。
いや、それまでスパンスキーはほぼ無敗な感じの人物で、ふんぞり返ってるから神経の細かさとは無縁かなと思っていたら、そうじゃないのね、で、笑ってしまった。欲をいうなら、このスパンスキーをもっとフィーチャーして、人物を描くとよかったような気もしなくはない。
手順とか、駒の動きとか、最初の方に少しでたぐらいで、あとはほとんど説明なし。つまりは、チェス映画というより、変人奇人映画の類だな。でも、たんにそれだけじゃ話にならないので、冷戦当時の代理戦争としてマスコミに取り上げられ、米国内でチェスが大流行。ボビーもマスコミに登場した、とかいうエピソードを背景にして、なんとなく政治色で厚みを増そうとしている程度かな。
結局、家族の話は添えもの程度で、後半はほとんどなし。最後に、その後のボビーが現実のフィルムで紹介されるけど、浮浪者で逮捕されたりなんだかんだ。最後はアイスランドで死んだとある。髪はぼさぼさ。やっぱ、変だ。
で、Wikipediaとかで確認すると、映画では描かれなかったあれこれが分かって、なるほどね、とは思ったものの。なんか、映画としてのボビーの背景の描き方は、中途半端な気がしないでもなかった。だって、モロに気違い扱いしている。現実は、奇行はあるし、盗聴されてる不安はあったようだけど、フツーに社会生活を送っていた時期もあったような書き方だし。まあ、真実は知らんけどね。
の・ようなもの のようなもの1/20MOVIX亀有シアター8監督/杉山泰一脚本/堀口正樹
allcinemaのあらすじは「東京、谷中。30歳で脱サラして落語家となった出船亭志ん田。いまだ前座で、師匠・志ん米の自宅に住み込み修行中。師匠の娘、夕美に秘かな想いを寄せる志ん田だったが、彼の生真面目すぎる落語を夕美は“小学生が国語の教科書を読んでいるよう”と一刀両断。そんな中、志ん米の師匠・志ん扇の十三回忌に開かれる追善の一門会で、大事なスポンサーである斉藤後援会長のご機嫌をとるため、彼女のお気に入りである志ん魚の復帰が計画される。そこで師匠から、落語家を辞め行方知れずの兄弟子・志ん魚を捜し出し、連れ戻すよう命じられる志ん田だったが」
『の・ようなもの』から35年後。前作を踏襲してる部分が面白いのは『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』と同じだね。冒頭のベンチのシーンとか、エビ天蕎麦が何度もでてきたり、彼女(今回は北川景子だけど)に「下手くそ」といわれる場面とか、前作を知ってる向きには「ああ、あれだ」と喜ばれるはずだ。
今回は志ん田が主役で、兄弟弟子は年下の兄弟子がひとり絡んでくるだけ。女の弟弟子もいるようだけど、セリフなし。これは、いかがなものか。他に噺家は、志ん米の弟弟子が2人だけで、松ケンと北川景子に頼り切った感じ。前作のような青春群像劇になっていないのが残念。主役は新人で、脇を固めるやり方の方がよかったんじゃないのかね。森田芳光の“すかし”や映画的ギミックまでは継承できていないし、落語世界の描き込みも物足りない。けれど、フツーに映画にはなってた。まあ、映画自体も、森田芳光の・ようなもの、ってところかね。
師匠・志ん扇が没すると同時に、志ん魚は失踪した…という設定なんだけど。説得力がないよね。20年経っても真打ちになれず、だから、なのか? 志ん扇に殉じる必要は、どこにある? と考えると、ムリやり過ぎる。実は落語への情熱は持ちつづけてきた、ということなのだから、それなりの背景をつくって欲しいところだ。
志ん田のプロフィールも、物足りない。30歳で脱サラと↑あらすじにあるけど、本編では説明なかったよな。彼の背景は重要だろうに、なぜ描かない? 彼の家族や、いたとしたら元カノとかかつての同僚とか。年下の兄弟子も、ほとんど描けていない。そして女流の弟弟子も。
師匠の志ん米の経緯も少しは描けや。お内儀さんは亡くなっているようだけど、誰なんだ? 仏壇のあの写真…。そして、大真打ちになっているのなら、名前も変わっていて当然。さらに、師匠の名跡を継ぐとかいう話もでてきて、よかったんじゃないのか?
志ん米の弟弟子2人の志ん水(でんでん)、志ん麦(野村宏伸)がやたらでてくるけど。フツー、あの年の真打ちになると、ああまで兄弟弟子でつるんでることはないだろ。志ん水や志ん麦にも弟子はいて当然だし、すでに一家の主だ。あの描き方は変だ。
で、志ん麦(野村宏伸)って『の・ようなもの』にはでてないよな、たしか。
かつての志ん扇の弟子で金属的な落語の彼は、ITで起業して社長! とは。ううむ。なるほど、な感じはするが。
志ん田は志ん魚を探しに日光へ。そこで買った刀型の傘で、師匠の志ん米が志ん田を斬るフリをする。だったら、「斬ったつもり」「切られたつもり」と、『だくだく』をやって然るべきではないのかね。
で、志ん魚はこれから噺家でやっていくのか?
谷中がたくさん登場していた みかどパン屋とか、都せんべいとか。
セリフが聞こえにくいところが多々あった。最初の方の、でんでん なんか、かなりひどかった。なんとかせいよ。
ビューティー・インサイド1/25ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/ベク脚本/キム・ソンジュン、パク・ジョンイ
韓国映画。allcinemaのあらすじは「家具デザイナーのウジンは18歳の時以来、目覚めると必ず容姿がまったく別人になってしまう不思議な現象に取りつかれていた。そのことを知っているのは母親と親友のサンベクだけ。ある日、アンティーク家具店を訪れたウジンは、そこで働く女性イスに一目惚れ。以来、初めての客のフリをして毎日店に通うウジン。そして、ついにイケメンの姿になった彼は思い切ってイスに告白、首尾よくデートに誘うことに成功する。姿が変わらないよう3日間徹夜して、イスとのロマンティックな時間を過ごすウジンだったが」
ファンタジーとして上出来…と思いつつ見ていたんだけど。途中から、なんか話がつまらなくなってしまった。それはどこからかというと、2人が別れる云々という話になったころかな。それまでウキウキだった関係が急に冷めてしまう。で、その原因がいまいち切実に迫ってこなかった、ってこともあると思う。
イスがストレスで悩むようになったのは、毎日容姿が変わるウジンを受け入れることができなかったから。というか、受け入れるまでに時間がかかり、受け入れたと思ったらまた別の容姿になっている…という日々に耐えられなくなったから、のようだ。分からなくもないけど、言葉で説明されても、映画としては弱い。
そのきっかけとなったのは、待ちあわせをして、ウジンが「どこにいるか当ててごらん」といい、戸惑ってるイスの手を急に握ったときから、のようだ。それでウジンは腹を立て、実は…と悩みを打ち明けた、というわけだ。同時に、ウジンは、イスが安定剤or睡眠剤を多量に服用していて、ストレスでまいっていることを知った。それで、別れることになった…。
それがまた復縁したのは、とくに大きな出来事があったから、ではない。ある日、Webに気になる家具ブランドを発見し、サンペグのもとを訪れると、そこに「チェコ」と書かれた材木があり、それでチェコを訪ねて再会。ウジンは正体を明かそうとしなかったけれど、イスは「新たなブランド契約を結びたいから」とかなんとかいい、復縁を迫った、というようなことで。まったくもってイスの身勝手なふるまい。自分から逃げておいて、でもやっぱり、と接近しただけのことだ。これじゃ、素直に、なるほどそうだよな、とは言い難い。
しかも、最後になって、ウジンの母親は「お前の父親も、お前と同じように毎日容姿が変わる体質だった」と告白するんだけど、だからなんだ、だよな。こちらの場合は、父親の方が家を出ていったけれど、でも近くで見守っていた、というような後日談がついていて。でも、それがどうした、だよな。
というわけで、後半はファンタジー色が薄まって、くらーい感じになってしまっている。2人は復縁して結婚し、子供もつくるんだろうけど、はたして仕合わせな関係がいつまでつづくのか、不安な終わり方でもある。前半の、ファンタジー色の強い、そして、コメディタッチの様相が一転してしまうので、なんか、残念。もっと、こころに迫る事件とリカバリーは創出できなかったのかね。もったいない。
・サンペグが、好きな日本女優として蒼井そらを挙げていた。おお。中国だけじゃなくて、韓国でも人気なのか。
・韓国のイケメンの区別がつかないんだが。中盤の、3日間のロマンスに登場した役者と、僕がどこにいるか探してみなといって突然手を握ってきた役者は、別人なのかな。だよな。似てるような気がしたけど。
・イスに事実を告げようとした研修生の女の子(としてのウジンだけど)が、いじらしくて可愛かった。
・個人的には、ハゲの汚いオッサン(キム・サンホ)とのラブシーンが見たい! あるいは、最初の方にでてきたデブでもいいけど。ああいう顔の方が圧倒的に多いわけだから、イスはああいうのに慣れないとダメなんだよ。
・ウジンが最初に心を許す相手は、上野樹里が演じていた。日本語しか話せないけど、韓国語は理解できる、という都合のいい設定。でも、イスの話す日本語は、理解できないというのは、なんでだ? まあいいけど。
・ウジンの母親役のムン・スクという女優が、美しかった。若いときは、どれほどだっのか、気になる。
・あり得ない設定なので、おおむねファンタジーとしてムリは受け止めるけど。海外に出かけるにはパスポートが必要なわけで、どういう顔になるのか分からない状態では、パスポートはつくれないだろ、ということに関してだけ突っ込んでおこうかね。
杉原千畝 スギハラチウネ1/29キネカ大森3監督/チェリン・グラック脚本/鎌田哲郎、松尾浩道
allcinemaのあらすじは「1934年、満州。満洲国外交部で働く杉原千畝は、類い希な語学力や調査能力を発揮して、北満鉄道譲渡に関わるソ連との交渉を有利に進めることに大きく貢献した。しかし関東軍との間にトラブルを抱え失意のうちに帰国する。帰国後は外務省で働き、友人の妹・幸子と結婚する。やがて在モスクワ日本大使館への赴任が決まるが、北満鉄道譲渡交渉で見せた千畝の働きに警戒感を抱いたソ連から入国を拒否されてしまう。1939年、千畝はリトアニアの在カウナス領事館に赴任する。そんな中、第二次世界大戦が勃発、ナチスの迫害を逃れたユダヤ難民が助けを求めてカウナスの日本領事館に押し寄せてくるのだったが」
杉原千畝については“東洋のシンドラー”程度の認識しかなかった。まあ、そこにスポットを当てた、日本人礼賛お涙ちょうだい映画かと思ったらあにはからんや。なんと、カーチェイスや銃撃戦もあるスパイアクションだった。むかしの大使館員は、スパイ活動も仕事だったのか…。って、いまもなのかも知れないけど、そういう人だったのね、と目からウロコの驚き人生だった。さらに、字幕で、日本の参戦を防ごうと努力した男の話であるとかいうような言葉が最初にでてきて。ああ、“東洋のシンドラー”の話ではないのだな、と思った次第。
物語りとしては話も荒っぽくて、大雑把なところも多い。それでも飽きずに2時間19分見られるのは、事実がベースになっているからかもね。もちろん脚色は大いにされているとしても。
監督名が横文字だったんで「?」だったんだけど、『サイドウェイズ』の人か。そういえば、いたな、そういう人、な感じ。
列車内の攻防→関東軍将校との会話→鉄道車両がどうのこうのの話…が冒頭にあるんだけど、ここがかなり分かりづらい。アバウトには分かるけど、あのパートで千畝と仲間たち、ソ連、関東軍の関係をもうちょい描き込んでおけば、以降の展開がもっと興味津々になったんではないか。
あと、分かりづらいのは、リトアニア領事館以降の遍歴も、時代的地理的に、なんかもわっとしてる。ドイツ→ルーマニアだっけ? もっとあったような気がするけど、忘れたよ。パーティとか、ほら、妻と踊ったときのなんかは、時代や国家間の様子がどうなのかとか、かなり分かりづらい。というか、説明せずに勢いで見せようとしてる感じかな。
Wikipediaを見ると、千畝は大陸で白系ロシア人と結婚していて、後離婚、とか。ソ連に拒否された後の最初の赴任地はフィンランドであるとか書いてあって、それなりにつぎはぎしてるのだな。まあしょうがないけど。
でまあ、リトアニアでのビザ発行の場面は、なかなか感動的なところもあるけど、もともと正義感に燃えていたかどうかとなると怪しい感じもした。他の領事館では通過ビザが発行されないので、徐々に集まってくるユダヤ人たち。千畝も当初は、いくぶん迷惑そう。現地採用の職員も「放っておきましょう」と進言するんだが、イザというときになって千畝は発行を決断する。なにが後押ししたか? 映画では、千畝の母校であるハルピン学院の教義のようなものをだしてきていた。字幕でなく言葉なので忘れてしまったけど、そんなもので人は動くのか? な気がしないでもない。でもまあ、製作者もなにかより所を探したかったんだろうな、と。その程度な感じ。
で、このビザの一件もよくわからなくて。なんで他国の領事館は発行できなくて、日本領事館だけが最後の望みだったんだろう? また、通過ビザの説明もないので、いまいち「おお!」とならないのが残念なところ。
背景としては、ソ連軍がリトアニアへ侵攻してきていることがあるんだろうけど、その侵攻の程度もよくわからない。たとえば、アメリカ大使館(?)はもぬけの空で、ソ連兵士が自国の旗を掲げているのを千畝らがみているシーンがあった。アメリカはさっさと逃げだし、でも日本は最後までがんばった? その違いは何なんだ? とかね。
その後も千畝はドイツ軍の動向をスパイして日本のドイツ大使に報告したりとか、なんだかんだやってんだね。そんなこともしたのかよ、大使館員ってのは。そんなこんなで、あとはざざっと軌跡を追う感じかな。
リトアニアでの現地採用職員はドイツ系で、あと、ポーランドの兵士で情報屋みたいのを運転手に雇うんだけど、この2人は重要な役割を果たしているんだけど、わりとあっさりな描き方なのは残念。経緯を詰め込みすぎるより、エピソードを深く描いた方が、ドラマとしては重厚になったのではないのかなあと思ったりしなくもない。
そして終戦。冒頭の、「センポなんて知らない」という場面につながるのかと思ったらそんなこともなくて。ソ連の広場をヨボヨボ歩いている千畝に近づく男がいて、それが件の千畝を探していた男なのかな。それにしても、広場で再会するというのは話が出来すぎていてリアリティがない。もっとフツーでいいんじゃないのかな。で、さらにまた、冒頭で、戦後すぐの日本・外務省に外国人が訪れ、千畝の消息を訪ねるんだが、担当(滝藤賢一)は知らない分からないの一点張り。その理由はなぜなのか、がはっきりと描かれないのも隔靴掻痒なんだが、その訪れた男性が、たぶんビザ発給のとき一番映った男性ではないかと思うんだけど、記憶に残らないので、とくに人間が描かれているわけではないので、「ああ、あの人が」って感慨も少ないのだよな。
興味深かったのは、エンドクレジットに映し出された本物の千畝と奥さんの写真かな。あれは、クレジットの文字も読みたいし、写真も見たいしなので、別にちゃんと映してくれた方がありがたかったよ。
しかし、戦後も長い間、外務省も問題視するような人物だったのが、シンドラーがヒーロー扱いされると、日本にもこんな人がいた、と喧伝され、外務省も名誉回復するようになるとは、とういうことかね。時代や価値観によって、判断基準は変わる、ということなんだろうな。
・千畝のスパイ活動の仲間として登場するイリーナというのは、どういう存在なのか、これまたよく分からない。関東軍に殺されてしまう仲間の男性もいるんだけど、彼もまた立ち位置が分からない。イリーナは、想像上の人物なのか? あるいは、千畝が結婚していた白系ロシア人を下敷きにしているのかな。
そのイリーナが、ずいぶんしてから千畝に接近してきて。偽装結婚した相手を脱出させたいからビザの発行を…と頼みにくる場面があって。そのときイリーナが「昔は優秀な大使館員だったのに、いまじゃただのお人好しね」というと千畝がイリーナに耳打ち。そのあとイリーナは「おわったの」とかいうんだったかな。さらに、「昔のまま、変わらないわね」とか言ったような…。あれは、どういう意味だ? あと、戦後の場面でイリーナが「逃がしたのは科学者で、アメリカに渡って武器の発明に協力させられた…とかいうのは、あれは原爆のことか?
・塚本高史が分する関東軍将校の衿の部分が、無造作に鋏で断ちきったみたいになっていたのは、興ざめ。
・千畝がゲシュタポに追われ、カーチェイスするシーンがあるんだけど。あれ、追われる必然性はあったのか? アクションのためなんじゃないのかな。
・あんなに本国に無断でビザを発行した千畝に、上司からたいしてお咎めもないことが不思議。
・待ち受けている千畝の奥さんの姿が、セザンヌの日傘と同じなのは笑った。あと、太平洋戦争が終わったとき、有名な戦勝のキスの写真と同じシーンが再現されているのにも笑ったぞ。
・終戦後、千畝の家族は収容所にいるんだけど。あの収容所は、ソ連のだったかな。最後に千畝はどこにいて、どういう経緯で収容所に入ったのか。その経緯も、知りたいところ。それと、他に収容されていたのは、だれになんだ? あと、立場上、待遇はよかったんだろうけど、妻(小雪)がネックレスとイアリングしてるのが凄く違和感あった。
・あの難民を救ったのは、杉原千畝だけの力ではない、というのも新しい視点だった。そもそも、フィリップス社の社長だかなんだかエライ人がリトアニアの大使になっていて、彼がオランダ領への入国許可をユダヤ人に与えた。しかし、逃げるにはソ連領を通過する必要があった。そこで日本通過ビザが必要になった…ん? ソ連の通過ビザは、必要ないのか? 資料を読むとアメリカは入国ビザは発行しなかったとか。ううむ。この辺りも、正確なことを知りたいね。
あと、ウラジオの日本領事(?)も英断だったのね。日本国は「そんな多くのユダヤ人を入国させるわけに行かない」と言っていたらしいけど、それを無視して乗船させたようだ。つまりは、何人かの連係プレーで実現した“東洋のシンドラー”なんだな。
それにしても難民って、金がないとダメなのね。日本に入国して生活できるだけの資金と、あとパスポートも必要だったとか。当時もいまも、難民は資産家だけができる技なんだなあ。
・映画のタイトルには“Persona non grata”という言葉がついていて、劇中でも触れられるんだけど、いまいち印象が弱い。それに、邦題にはついてなくて、名前のカタカナ読みになってる不思議。読みをつけるなら、劇中で何度もでてくる「センポ」の方がいいんじゃないのか? いやむしろ、“Persona non grata”の意味である「歓迎されざる人物」をサブにりゃいいじゃん。
でまあ、思ったこと。それは、杉原千畝の行動に賞賛を送る人も、いざ自分が決断しなくちゃならなくなったときは、杓子定規になるんだろうなあ、ということだ。そうだよな、きっと。

 
 

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