2016年3月

光のノスタルジア3/4ギンレイホール監督/パトリシオ・グスマン脚本/パトリシオ・グスマン
フランス/ドイツ/チリ映画。監督はチリ出身。原題は“Nostalgia de la luz”。allcinemaの解説は「チリのアタカマ砂漠。乾燥し空気が澄んだこの地は天文観測に適し、世界中から天文学者が集まり、遥か彼方からやって来る何十億年も過去の光を捉えようとしている。一方でこの地には、ピノチェト独裁政権下で政治犯として捕らわれた人々の遺体も埋まっており、行方不明になった肉親の遺骨を探し続ける女性たちもいた」
朝10時からの回だったけど、すっかり寝てしまった。起きてるときも、ぼーっとしつつ見てた。まあ、ちょっと風邪の引き始めっぽかったけど、それにしても、である。
なんか、話が大雑把で漠然としていて、↑のあらすじにあるようなことは画面に映されていたけど、それ以上に掘り下げるとか突っ込んでいくとか、そういうのはなくて。きれいきれいな映像とぽわんぽわんというような音楽をまじえ、どちらかというと淡々と、山なし谷なしな感じで進んでいく。これじゃ、寝るわな。
宇宙に関しても、学者が出て来て何かいってたけど、これがなんかオカルトっぽいところもあって。そういうのが好きな向きにはいいんだろうけど、こっちそんなのバカか、と思っているクチだから。アホらしくもなるわな。アジェンデからピノチェトへ、そのドラマチックで激しい話でもあればまだしも、そういうのも、目が覚めているときはなかったし…。
映像も、なんか、変な感じ。最初の方で、天文台の映像を、雄大に見せるのかと思えば、そうではなくて。ムダにカット割りを多くして、がちゃがちゃつないでいる。しかも、ちょっとアングルを変えただけ、みたいな映像をつないでいく。意味ないだろ。
てなわけで、退屈、というより、よく眠れた映画であった。
セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター3/4ギンレイホール監督/ヴィム・ヴェンダース、ジュリアーノ・リベイロ・サルガド脚本/---
allcinemaの解説は「ブラジル出身の世界的報道写真家セバスチャン・サルガドの偉大な足跡と、新たなプロジェクト“GENESIS(ジェネシス)”に込めた彼の想いに迫るドキュメンタリー。共同監督はサルガドの長男ジュリアーノ・リベイロ・サルガド。世界各地を巡り、貧困や飢餓、紛争といった人間社会の闇に鋭く切り込む作品で数々の賞を受賞してきたサルガド。しかしルワンダ内戦で心に深い傷を負い、彼は故郷ブラジルに戻る。そして、建築家の妻レリアとともに破壊された森林を再生する環境保護活動を始める。やがて再び写真と向き合ったサルガドは、2004年から地球そのものをモチーフに、その原初の姿を捉えるプロジェクト“GENESIS(ジェネシス)”に取りかかる。本作は、そんなサルガドの人生と数々の作品群を、本人の解説とともに振り返っていく」
サルガドって、どんな写真の人だっけ? 調べずに行ったんだけど、最初に巨大なクレーターみたいな金鉱の、人が泥だらけになってる写真がでてきて、ああ、あの写真の人か、と分かった。以前に写美館で見てるよ。でも、見たのはその金鉱の写真だけで、以降の、海外放浪で撮られたもろもろの写真に関しては、ほとんど知らなかった。なるほど。そういう写真家だったのか、と。
というわけで、サルガドがブラジルの農場をでてから以後、フランスに行って奥さんと出会い(だっけか?)、経済学を学んだけど、写真家になって、長期に家を離れては放浪して写真を撮り、たまにもどってきては息子と接し…なことをつづけつつ、アフリカに向かったり、最後は環境問題に取り組んでいる姿が描かれるんだが。なんか、中途半端なところがあるのは何なんだろう? と思っていたんだけど、ハタと気づいた。ヴェンダースの視点になっていないからではないか、と。この映画には共同監督がいて、それはサルガドの息子ジュリアーノなんだけど、もしかしたら彼の見解が切れ味を悪くしているのかも知れないなあ、と。
この映画、途中から混乱するところがあって。それは、サルガド本人のメッセージと、ジュリアーノの声が入り混じって、「?」となることがあるからだ。サルガドの場合は、本人の顔が登場しているから、ああ、本人の声だなと分かるんだけど。ジュリアーノの場合、本人は登場せず、息子の声として登場する。声は、そりゃあ多少違うけど、あ、これはジュリアーノが語っているのだな、と咄嗟に理解できなかったりして、戸惑ってしまった。
あと、サルガドの父親も登場するんだけど、これは本人がでてくるからいいとして。さらに、ヴェンダースも映像に登場したりする。なので、誰の視点で話が進行していくのか、いささか分かりにくいところがある。主観、客観、いろいろとね。このあたりが整理されていれば、もう少し話がはっきりしたと思うんだけど。
最後に、サルガドは自然とか環境問題に関心の目を向けるようになる。具体的に、はげ山になった自身の農場に植林し、10年だか20年後に緑が戻るっている様子が映される。なんでも、私有地が国立公園になった、とか? そんなのあり得るのか? っていうか、個人でやらないで、国の政策としてやればいいのに、とか思ってしまう。・セイウチと白クマの場面で。小屋から白クマは撮れるんだけど、「アップは撮れるけど、写真として画面構成できない。背景が何もないから」とかいうようなことをいって、撮らない。さすがはそれなりの写真家だな。そうなんだよ。必要な要素がないと、写真にならないんだ。アップで撮れりゃいい、わけじゃないのだ。
その後、セイウチに接近して撮るとき、氷上をごろごろ転がって行くんだけど、そりゃヤラセじゃないのか? と、ちょっと思った。しかし、白クマが近くにいるのに、大胆だね。
・インドネシアの原住民を撮ってるところがあった。あの、ペニスケースをしてる原住民。いまでもいるんだな。文明と接しても、その生活スタイルを変えずに、いるのか…。凄い。いつまでつづくんだろう。そういえば、彼らの関心はナイフで、でも、政策的に文明の利器を与えてはならないと決まっているらしく。でも、子供がやってきて「飛行機から落としてくれ。拾いに行くから」といった、という話には、共感してしまった。
ルワンダの場面は、悲惨そのもの。どっちが先か問題はさておいて、加害者が被害者となり、戻れなくなってるとか、もう、なんかな、な感じ。ああいうファナティックなところは、よく分からない。写真に撮っても、なんの解決にもならんと思うんだが。
ピンクとグレー3/9ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/行定勲脚本/蓬莱竜太、行定勲
allcinemaのあらすじは「関西から埼玉に引っ越してきた小学生の河田大貴は、同級生の真吾とサリーと出会い友情を育んでいく。高校生となった大貴と真吾は芸能界の道へと進み、やがて真吾は新進俳優の白木蓮吾としてスター街道を突き進む。蓮吾との格差を痛感し、苛立ちを募らせる大貴。そんな中、蓮吾は突然、自殺してしまう。第一発見者となった大貴のもとには6通の遺書が残されていた。これを境に、大貴の運命も大きく変わっていくのだったが」
幼なじみの男の子2人と女の子がいて。男の子2人は高校生のときに一緒にスカウトされて芸能の道へ。でも、片方が売れて、もうひとりは売れないまま。亀裂が深まり、売れない方と女の子がくっついて…。なとき、売れてる方が突然自殺。なぜか売れなかった方が自殺した友人役で映画を撮ることになって、一躍スターに。でも、映画のなかで自分の役をやった先輩俳優と喧嘩になって、転落…という、手垢の付きすぎたような話であった。しかも、自殺の原因も陳腐過ぎて説得力はないし、最後もちっともスッキリしない。なんなんだ、この映画は。
自殺までの話が1時間ぐらいあって。なんだか設定だけあって、ドラマがない感じ。つまらない話をつまらなく撮ってるな、行定勲。で、驚いたのは、それまでの映像がすべて劇中劇で。事件をきっかけに大貴の存在に注目が集まり、売れなかった方が自殺した方を演じ、映画がつくられたという設定。なんか、ややこしい。
さて、その映画の中で、紗理(サリー)は真吾(ごっち)に気があるようだけど…。大貴(りばちゃん)とも仲よく高校まで。で、あるとき大貴はサリーにのしかかってサリーに嫌がられたりする。アホである。
サリーは高校のとき引っ越して。真吾と大貴は、進学せずに…ありゃ、なにやってたんだ? 芸能プロの女に声をかけられたときは、高校生だったのか? 真吾めあてでスカウトされた気配だけど、大貴もついでに芸能プロに所属して。…なとき、街で偶然サリーと邂逅。真吾と大貴は共同生活しつつエキストラ活動をつづけるけど、売れっ子になったのは真吾の方。真吾のバーターの仕事(って、どういうことなんだ?)を受けるのを拒みつづける大貴。って、スカウトの目当てはお前じゃないって気づけよ、ボケ、な話である。
真吾にあてがってもらったチャンスも活かせず、さらにどん底…。真吾は、大手プロダクションに金銭トレードされて人気者に。やるせなさをサリーにぶつけ、半ばむりやりなかたちで同棲生活…。真吾は都心に越して、以来、離れ離れ。が、高校の同窓会で再会し、痛飲。真吾に「有名にしてやる。約束を守ってくれ」といわれて真吾のマンションに戻ると、真吾は縊死していた…。
という映画の中の話は、それ以後の伏線にもなってない。こういう設定にする必然性があるかというと特になくて、要は、観客をちょっと驚かせよう的なトリッキーな構成にしたかっただけではないのか。
・それにしても、いまどき意味なくぱかぱかタバコを吸うシーンが多いのは、なんなんだ? 嫌煙ブームへの抵抗か?
・深刻な話かというとそうでもなくて、つまらんギャグとかムダなエピソードは結構あって。だからかも知れないけど、的が絞れてない感じ。こっちも、この映画をどう見てよいのか、戸惑ってしまう。
・あと、自死のシーンなんだけど、ロープが部屋の真ん中にぶら下がっていて。使ってるロープも絞首刑に使うような立派なロープなのがアホらしい。そもそも部屋の真ん中に、どうやってロープを吊すんだよ。
・さらに、最後で分かる自死の理由は、真吾と姉の近親相姦によるものって…。姉が死んだのと同じ年齢、同じ年月日に自分も縊死するというのは何なんだ? その日は、姉のバレエ公演中で、舞台の高みから飛んで自死するんだけど、その高さが3メートルぐらいなのか。確実に死ねるとも分からない中途半端な高さ。しかも、姉の自死の意味は分からない。その姉の死に殉じるのが、同年齢同時刻って、どういうことやら分からんぞ。
・そういえば、姉が踊っていた場面は、映画『ブラック・スワン』似なんだけど、関係はあるのか?
・真吾は姉の姿を日頃からビデオ撮りしていたようだけど、それは姉への性的欲求の表れだったのか? 7歳ぐらい離れてるはずだよな。25の女が17歳の弟と?
・で、その、真吾が撮った、姉の最後の姿が公演直前の相思相愛な感じの映像で。後々になって大貴が真吾の母親のところに行くと、母親は大貴に「本当のことを知って欲しいの」とかいって「見ろ」と渡すんだが。7年前に娘を亡くし、つい最近息子をも亡くした母親が、ニコニコしながら大貴を迎え、姉弟の近親相姦を示唆するビデオを渡す意味が分からない。
・で、そのビデオを見終わると、真吾の霊が現れて、あれやこれや説明するって、オカルトかよ。で、その話に納得して、真吾からもらったダンヒルのライター(同窓会で再会した夜、有名になったときもってたほうがいい、と真吾が大貴に与えたもの)を宙に捨てるって、有名にならなくてもいい、ということで芸能界との決別を意味しているのか? それにしては気がつくのが遅い。そもそも、大貴はその器ではなかったのだから。いくら映画の主演を果たしたからといって、次があろうはずがない。真吾のフンドシでとった相撲なんだから。
ザ・マスター3/10キネカ大森1監督/ポール・トーマス・アンダーソン脚本/ポール・トーマス・アンダーソン
allcinemaのあらすじは「第二次大戦終結後、軍病院のメンタルテストで問題を指摘され除隊した元海兵隊員のフレディ。アルコール依存を抜け出せず、トラブルを繰り返しては職場を転々とする日々を送っていた。そんなある日、いつものように酒に酔ったフレディは、港に停泊中の船にこっそり乗り込んでしまう。やがて船員に見つかり、“マスター”と呼ばれる男、ランカスター・ドッドの前に引き出される。“ザ・コーズ”という新興団体を率いるドッドだったが、意外にも彼はフレディを歓迎し、一方のフレディもドッドに自分を導いてくれる可能性を見出す。以来、2人は行動を共にするようになり、次第に強い絆で結ばれていくが」
結論からいうと、頭のおかしな人の話だった。
フレディは、情緒不安定でかっとしやすく、暴力的。そして、自分勝手。でも信頼を寄せた相手には従順で、まるで犬のよう。主人に敵対する相手には、警官であろうと向かって行く。特技は、カクテルづくり。
ドッドは、まあ、非科学的なオカルト野郎で、詐欺師ではなく心底それを信じている感じ。妄想癖なのか。カルト宗教っぽいけど、教祖というよりは指導者という感じかな。
フレディは終戦で除隊となり、行くあてもなくふらついて泥酔し、ある船に乗る。それは、翌日に娘の結婚式を予定していたドッドたちが乗っていた船で。ドッドはフレディの創るカクテルを気に入り、そのまま乗船を許すだけでなく、知人として結婚式にまで招待する。得体の知れない何かが引き寄せたんだろう。
以後、ドッドの腰巾着な感じで各地を転々。オカルト好きな田舎者には歓迎されるけど、ときには不審を抱く輩もいて、そういう手合いにてフレディが暴力で向かって行く。新刊の評判がよくない地区では、いちゃもんつけた相手をボコボコにしてしまう。はたまた、警察から嫌疑(何のだったかな?)でも、警官相手に大立ち回りして捕まってしまう。猪突猛進のアホである。
ドッドは、フレディのどこが気に入ったんだろう? よく分からない。異常者同士、相通ずるところがあったんだろうか? 面白そうな話ではあるけど、結局、面白くならなかった。ラストも、それで? な感じだし。
あれは、バイクでスピードを出し、遠くに行けるところまで、な遊びをしていたときだっけ。フレディは、「あの山まで行ってくる」といったまま、戻って来なくなった。そこが精神異常者なんだろうけど。それであるとき映画を見ていたら、電話がかかってきて。スタッフが客席まで電話をもってくるんだけど、あり得ないだろ。で、相手はドッドで。「会いたい。来てくれ。イギリスにいる」。フレディが「何でここが分かった?」っていうんだけど、観客だって同じだよ。その時だったか「お前の狂気が治るかも知れない」などと言っておった。ってことは、ドッドはフレディの異常さを認識しつつつき合っていた、ってことだよな。ふーん。
で、行ったら、歓迎されるのかと思いきや。「好きなように生きろ」とか突き放されるんだけど、なんで? わざわざ呼び出しておいて、理不尽すぎないか? 別れを惜しむかのように言うんだけど、そのとき「中国行きのスローボート」が流れるのは、なんでだ? 他にも、歌詞に意味がありそうな歌がたくさん流れるけど、意味がよく分からんぞ。
最後は、どっかの街で、娼婦の女性上位でセックスしている場面だっけ? あれも、よく分からんよな。
・フレディにはつき合ってた娘ドリスがいて。フレディの除隊が1945年として、そのときドリスは16歳。映画の中の現在が1950年。放浪後にドリスの家を訪ねたのは7年後だから1952年で、ドリスは23歳か。すでにドリスは結婚していて…いやそのまえに。フレディは何歳の設定なんだ? ホアキン・フェニックスは撮影当時、1974年生まれの30代後半だけど…。しかし、やっぱり異常者なんだろうな、フレディは。
・結婚したドッドの娘が、フレディに色目を使う場面があったように思うんだが、あれはどういう意味だ?
・ドッドの息子が登場するんだけど、ほとんど機能してなくて。『ジェシー・プレモンス』のジェシー・プレモンスなんだけど、もったいない感じ。
・ドッドの、次の本の原稿が砂漠に埋めてある、というのが「はてな」な感じ。ドッドは、原稿が奪われる? なくす? のを恐れてるのか? 被害妄想かな、それって。
・田舎の町で、ドッドを囲むパーティーのシーンで、女性が全裸になる場面があるんだけど、あれは現実なのか幻影なのか。だって、その手の裸シーンはそれだけだったんだよな。よわく分からん。
インヒアレント・ヴァイス3/10キネカ大森1監督/ポール・トーマス・アンダーソン脚本/ポール・トーマス・アンダーソン
allcinemaのあらすじは「ロサンジェルスに住むヒッピーのなれの果ての私立探偵ドック。ある日、そんな彼の前に今も忘れられない元カノ、シャスタが現われる。彼女はなんと、不動産王として知られる大富豪ミッキー・ウルフマンの愛人に収まっていた。彼女の相談事というのは、ミッキーの妻とその浮気相手が、自分とミッキーを罠にはめようと企んでいるというものだった。普通なら絶対関わりたくない案件だが、他ならぬシャスタの頼みとあっては断ることもできず、渋々ながら調査に乗り出すドックだったが」
探偵ものだというから、まあ飽きないかも、と思っていた。始まっても、人づてに情報を得て、さらに情報をたぐり寄せて行くような構成だったので、『チャイナタウン』みたいなハードボイルドな感じかな、と思って見ていたんだけど。なんか、どーも、あちこち横道にそれるし、それがまた、よく話が分からなかったりする。さらに、固有名詞や名前が会話にたくさん登場するという、洋画によくある現実に挫折して、早々に寝てしまった。いったん起きてまた寝て…を繰り返し、後半の1時間ぐらいはちゃんと見たんだけど、時すでに遅しで、話が何のことやらよく分からない。
たとえば歯科医を訪ねていく場面も、アシスタントが呼びに来たので医師が診察室に行くんだけど、あれは、なにかいやらしいことをしにいくのか? なんか、よく分からんな、とか思って見ていたんだけど。次の場面では、件の医師がどこかで殺された、ということが会話であっさり片づけられていて、なんなんだ、この省略のひどさは、とか思ったのだった。
というわけで、半分ぐらい寝てしまったので、ほとんど語ることができない。それでも、この映画はいい、といっている人もいたりするわけで。それはたんにポール・トーマス・アンダーソンという名前に幻惑されているだけではないのかと思うんだが、まあ、それはそれでいい。とにかく、話は分かりにくい。
ヤクザな探偵の雰囲気はいいけど、合理的な筋立てではないので、とてもついていけなかった。いくら雰囲気で見る映画だ、といわれても、やっぱり腑に落ちない映画はダメだ。
・あの警部補は、悪党なのか? そうでもないのか? よく分からない。で、彼が贔屓にしている日本料理屋で、大声を上げて「おかわり!」とかいうのは、なんなんだ? 流れている「上を向いて歩こう」が、アホみたいに聞こえたよ。
・ベネチオ・デル・トロとかリース・ウィザースプーンなんか、何のために登場しているのかわからんぐらい、どーでもいい役だよな。オーウェン・ウィルソンももったいない使い方。
「知らない路地の映画祭」3/11千住庁舎会議室(旧ミリオン座)監督/---脚本/---
千住・縁レジデンスが選んだアーチストによるイベントらしいが、Webでもチラシでも書いてあることが曖昧すぎて何だかよく分からない。友政麻理子という人が選ばれたらしいが、何をしたのか、よく分からない。映画祭を企画して実行した、ということなのか? ↓見ると、スタッフには名を連ねてないし。まあ、どうでもいいけど。
上映されたのは以下の6本と、5本の予告編。
・『ジローノウタ』上映前にエンドレスでかかっていた、路地のネコの映像。
・その後、予告編があって。
・『見上げる女』監督:杉浦啓之、脚本:阿倍吉光、音楽:川嶋陽子/小日山拓也
 空を見上げる中年女がいて。人々もつられて見上げるが、ただの空。そのうち中年女がクシャミをする。クシャミがしたくて顔を上げていてだけ、というオチのつまらない話。中年女が韓国人で、あちこち写真を撮っているのだけれど、そこに自身の子供の頃の顔が映るのは、どういう意味だ?
・『帰り道』監督・脚本:松岡亮一、音楽:川嶋陽子
 中年男が路地から抜け出せずうろうろするだけの話で退屈極まりない。中味はからっぽ。
・『誤差路』監督:Jax、脚本:阿倍吉光/シビル・レジョリ
 若い女が道に迷っていると、子連れの中年女が現れ「私はあなたの未来。この子はあなたの子」といい、悩まなくても大丈夫と諭す話。変な仮面をかぶった女はなんなんだ?
・『Letter & Bread』監督・脚本:平岩史行、撮影:新木庸平、杉浦啓之
 突然、妻がいなくなった亭主。妻の「あなたは私のことを何も知らなかった」とか置き手紙があって。熱帯魚の餌をもらいにいったり、いつも食べていたパンを買いに行ったりして、いろいろ話を聞いたりする。しばらくして妻から手紙があり、最初に出会った場所が云々という内容で、亭主はそこに駆けつける。たぶん再会したんだろう。結婚したら、そういう想い出は忘れてしまう亭主への苦言みたいなものだけど、忘れるのは男に限らないだろ。それに、妻に逃げられてニコニコしてる亭主もアホかと思う。気になったのは、妻の手紙を亭主のナレーションで紹介すること。それって変だろ。妻のナレーションであるべきだよな。あと、家の部分は新潟で撮影し、ご近所の部分は千住で撮った模様。
・『小日山拓也の世界』監督・音楽・撮影:岡野勇仁
 他の映画の音楽を担当したりしている小日山拓也という人物のドキュメンタリー。本人の様子や友人知人の証言など。プロに近い編集構成で、なかなか面白かった。ビルの塗装を生業としつつ、タイに演奏に行ったり、千住の音楽祭にスタッフとして参加していたり、千住のコミュニティラジオに出演していたり、頼まれて店のシャッターに絵を描いたり、自分たちのバンドで演奏したり…でも、独身なのかな、よく分からんけど。多能な人だけど、一般人、というところがキモかも。ミリオン商店街の魚三のオヤジや柳原の上岡精肉店のオバチャンがちょっと登場していた。ははは。
シェル・コレクター3/18テアトル新宿監督/坪田義史脚本/澤井香織、坪田義史
allcinemaのあらすじは「沖縄のとある小さな孤島。貝に魅せられた盲目の貝類学者が独り静かに暮らしていた。ある日、山岡いづみという女が島に流れ着く。いづみは世界中で蔓延している治療法も見つからない奇病を発症していた。ところが偶然にも、貝類学者が採取したイモガイの猛毒がいづみの病気を治してしまう。やがていづみは島を去り、噂を聞きつけた人々が貝類学者のもとに大挙押し寄せてくる。その中には、島の有力者で娘・嶌子が奇病に冒されてしまった弓場や、環境活動家となった貝類学者の息子・光の姿もあった。こうして貝類学者の静かな日常は、文字通り音をたてて崩れていくのだが」
貝は女性の象徴。なので、貝を具現化した女いずみが突然、浜に打ち上げられて。彼女に学者が食われるような怪談か、と思ったらさにあらず。いずみは元気になると早々に島を出て行ってしまい、二度と登場しなかった。
そのあと、どこかの島の長のような男が部下を引き連れて訪れ、「娘を治してくれ」というのだが、実をいうと、なんでなの? と思ってた。娘嶌子のアップで、首筋にケロイド状のものが見えて。ああ、そういえば、いずみにも同じ物があったな、と思い出し。ついでに、最初の方でラジオが「原因不明の奇病が流行」といっていたのを思い出した。そうか。あのイモ貝の毒が奇病に効いたのか。いずみも奇病にかかっていたのか。と結びついた。でもさ、そもそも いずみ が奇病にかかっていた、という気配はなかったよな。いずみのどこが治ったのかよく分からず、回復しつつある女の手の傷も、まだ残っていたし…。そもそも、女が奇病にかかっていたとして、症状はケロイドだけ? でも、次に「娘を」とやってくる島の長みたいなのの娘は意識不明で寝てたろ。人によって症状は違うのか?
で、嶌子を治したことが知れたのか、患者が押し寄せる…って程の数でもないのがしょぼい。テントを張って周囲に住みつくんだけど、要は貝に刺されるだけなんだから、自分たちで探せばいいだけじゃないのか? とか思ったり。
白人ジャーナリストも来るけど、老船頭が流暢に英語をしゃべる違和感。そんなに世界的に知れ渡ってるなら、もっと騒ぎになってもいいんじゃないのか?
突然やってくる息子の目的が何なのかさっぱり分からず。どーも環境運動かなんかにかぶれてるようだけど、父親に「患者を治してやれ」ともいわない。もちろん学者は治そうともしない。そのうち息子は自らイモ貝を握って…あれは、死んだのか? なんでそんなことをするのだ? 意味不明。さらに、今度は、自分も刺された、のか? うつ伏せに倒れてたけど、あれじゃ死ぬだろ、と思ってたら生きていて。誰か助けた、という設定なのか。嶌子がいつのまにか来ていて。さらに、近くの火山が爆発して津波が来たのかな。家は流され、水は引いたが、とくに被害があったように見えず。学者と嶌子が海岸を歩いていて、砂浜で、花びらみたいな貝を見つける…って、おいおい。なぜか知らんが、学者と娘は仲好しになってるんだが、意味不明。な感じで終わったけど、なんだかよく分からん話だった。監督自身、わけが分かってないんだろう。
・学者はいつ、どうやって盲目になったのか? 5、6年前から島に住むようになった、とか言ってたかな。それまでは学校に勤めていた? 妻とは離婚? 離婚した妻が再婚? 息子の手紙を読まなかった理由は? 女のセックスを拒んだ理由は? とか、不可思議なことばかりで、説明も足らないし、意味不明。・学者が海底で椅子に座っているシーンがたびたび出てくるんだけど、なんだありゃ? リリー・フランキーが息苦しそうな表情をしてるんだが…。わけ分からん。
マジカル・ガール3/22ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/カルロス・ベルムト脚本/カルロス・ベルムト
スペイン映画。原題は“Magical Girl”。allcinemaのあらすじは「白血病で余命わずかな12歳の少女アリシア。彼女の願いは、大好きな日本のアニメ「魔法少女ユキコ」のコスチュームを着て踊ること。父のルイスは、さっそくネットでコスチュームを見つけるが、高すぎて失業中の彼には手が出せない。思い詰めた末に、高級宝石店に強盗に入ろうとするが、ひょんな成り行きから、心に闇を抱える人妻バルバラの自宅へと足を踏み入れることに。一方、刑期を終えたばかりの元数学教師ダミアン。因縁浅からぬバルバラとの再会が怖いと出所をためらう。やがて彼らの皮肉な運命は、思いもよらぬ形で交錯していくのだったが」
冒頭で、少女が教師を手品で翻弄する。この場面、よく見ておかなかったせいで、後半の理解にズレが生じてしまった。なぜって、冒頭の少女を、次の場面に出てくる日本アニメ大好きアリシアかと思い込んでしまっていたから。少女で判別はつきにくいけど、教師なら区別がついたかも。でも、あくまでも、かも、であって、たとえば日本の有名俳優がやってたりしたら、すぐ分かっただろう。スペイン人で、初めて見るような役者の顔なんて、分からんからな。
で。アリシアが日本アニメファンという設定で、自分にも友人にも、サクラとか愛称をつけているのだよ。笑ってしまう。けど、日本人でチャーリーとかジョンとかマークとか、呼んでたり呼ばれてたりする人もいるわけで。傍から見ると、こういうアホくさな感じにに見えるのか、と。
アリシアは日本語の歌に合わせて踊ったりしてるんだけど、最近のアニメのテーマかと思ったら、長山洋子のアイドル時代のデビュー曲「春はSA・RA・SA・RA」なんだと。「魔法少女ユキコ」というのは、創作で、そのテーマを「春はSA・RA・SA・RA」(1985)に設定しているということか? アニメに不案内なのでよく分からない。しかし、1985年の歌が、アニメのテーマ曲? よく分からん判断だ。けど、不自然さは感じなかったけどね。
で、↑のあらすじ通り、ルイスはコスチュームを買ってやろうとするんだけど、なんと90万円(7000ユーロ)! でも金がない。宝石店のショーウィンドウを石で割ろうと振りかぶった瞬間、ルイスに向かって上からゲロが落ちてくる! 笑っちゃう。
さて、話は変わって、な感じで。ベッドに座る男の前で、妻バルバラが跪いているのは、なんなんだ? バルバラがフェラでもしてたのか? 亭主は彼女にペンダントを贈るぐらいだから、愛情は失せていないのだろう。この亭主が嶋田久作そっくりで。どこがいいのがよく分からない。
バルバラと亭主、友人夫婦との語らいで、バルバラは友人の赤ん坊をあやしつつ笑うんだが、友人の夫にその理由を問われて「窓から放り投げたらみんなどういう顔をするかと想像して」と言って閉口させる。亭主は呆れかえっていて、帰宅してから安定剤か睡眠薬を飲ませてるけど、バルバラには心の病があると見てよいのかな。
わからないのがバルバラの心理で。彼女は亭主を愛しているようなんだけど、亭主はバルバラを病人扱いし、睡眠薬を飲ませたりしている。で、目覚めるとクロゼットが空で、これは亭主が家出したのかな? と思ったんだけど。というか、はっきりと夫婦であると説明されてもいなかったので、同棲中の相手が出ていった? とも思ったんだけど。で、それが原因か、たんなる精神状態の不安定からなのか、睡眠薬を大量に酒で流し込み、どっかのジイさんのところに電話するんだけど、このジイさんは誰だ? と思ってずっと見ていた。まあ、このジイさんが冒頭の教師だったわけで、恩師なのね。でも、ジイさんは電話を切っちゃうんだっけか? 忘れた。まあ、その、バルバラは吐き気で窓からゲロを落下させてしまう。そのゲロが、最初の話のゲロにつながるという…。なるほど。
あわてて謝りに行って、部屋に連れてきてシャワーを浴びさせ、なんだかんだでセックスしてしまうという展開はかなりムリがあると思うんだけどな。うだつの上がらないルイスと、亭主に嫌われていると思い込んでいるバルバラ。どうしてこの2人が? だよな。
で、出ていったのかと思った亭主が、翌日は家に戻っていて、食事してるって、おいおい。ルイスが早朝出ていったとき、出くわさなかったのはラッキーだったのかな。
というわけで、ルイスはバルバラを脅し、金を出さないと亭主にバラす、という低次元の脅しをし、バルバラは旧知の女性を頼って秘密クラブのようなところで仕事をするんだけど、ここがすべて曖昧。どうもバルバラは過去に高級娼婦のようなことをしていて、でも単にセックスだけではなくその他の苦しいこととかもするようなもので、その足を洗って結婚して今にいたる、のようだ。身体には無数の傷があるんだけど、そのようなことなのか? しかし、亭主は精神科医で、どうやって知り合って結婚したのか、ということも不明。もしかしたら、堕ちた状態から救ってくれた、というようなことがあるのかな。それで、むかしの仕事を、でも「挿入はなし」ということで1日だけ受けて7000ユーロを稼ぎ出す。
ルイスはアリシアにドレスを買ってやる。けど、アリシアは浮かない顔。Webで調べたらステッキがないとそろわなくて、その値が2万ユーロ。またまたバルバラにせびり、彼女は「トカゲの間」での仕事を申し出るんだけど、彼女自身もそこで行われることはよく知らない状態で。出てきたときには半死半生。ダミアンの家の前でうずくまっているところを助けられ、病院へ。顔は包帯だらけで、身体も動かせないような状態で、そんな思いまでして浮気を亭主に知られたくない、というのがよく分からない。いくら出張中だからって、バレるだろ、そんなの。
このあたりだったかな。冒頭の2人は、バルバラとダミアンだ、って分かったのは。バルバラは「男に犯された」とか言うんだけど、これは復習してくれ、という頼みだろ。そういえば、ダミアンは長い刑務所生活を送っていて、出所するとき係に「出たくない。なんとか居させてもらえないか。ここに居るために、看守を襲おうと思ったけれど、それはなんなので、頼んでいるんだ」とかいっていて、ずっと刑務所にいたいという意志を表明しているのだけれど、これはバルバラに会いたくない、会ったら大変なことになる、という予感だったのかね。
さて、とにかく、傷ついたバルバラを見てしまったダミアンは復習を決意。銃をテーブルの下から取り出し、えーと、それをもって病室に行くんだっけか? 手の中の拳銃が消えてしまうのは、冒頭の、バルバラがメモを手のひらから消してしまったことと同じ所作で。でも、拳銃はたしか、ダミアンが消して見せたんだっけか。忘れたよ。
ダミアンはルイスをつけ、店に入って同席し、「バルバラを強姦したのはお前か」と凄むんだけど、ダミアンは「脅しただけだよ。セックスは合意の上」というんだけど、それで逆上して撃ち殺してしまうのは、そうか、ダミアンはバルバラと恋仲だったのか…。いや、バルバラとの関係の一端みたいのをルイスにちょっと漏らすんだよな。それで、2人の関係が想像されるのだけれど、これも曖昧で。肉体関係があったのか否か。なぜダミアンは刑務所に入ったのか。バルバラのためであるなら、それは何が原因でそうなったのか? といったことは説明されない。だからこそ観客のイライラは高じ、想像もふくらんでくるんだけど。
ダミアンは、たまたま居合わせた客と店主も殺害。さらに、房事の様子を録音した、という携帯をとりにルイスの家に行き、そこにいたアリシアも(たぶん)無慈悲に射殺する。なんてこった。ルイスはまだしも、アリシアまで殺しちゃうとは、なんで? 顔を見られたから?
そもそもダミアンは刑務所生活に戻りたかったんだろ? 始めはルイスに自分を殺させ、ルイスを刑務所に送る、という計画だった。だけど、バルバラがルイスと寝たことで逆上したんだな。愛するバルバラがこんなちんけな男と…という憤りか。それはいい。けれど、店員と客も殺すことはなかっただろ。ましてアリシアを殺す必然性はないと思うんだけどね。店員と客は、目撃者だから。でも、捕まっても問題ないんじゃないのか? いや、バルバラのことを見守っていかなくては、て思ったのかも知らんが。でも、バルバラは亭主にバレるのが嫌で身体を売ったわけだから、これからも亭主に尽くしていくつもりなんだろう。ダミアンの思いがバルバラに届くはずもない。まあ、バルバラは、それを知ってダミアンを利用し、翻弄=再び刑務所送り込んでるんだろうけど。なんか嫌な女だ。
というような話で、日本アニメは単なる道具立てのひとつで、テーマではなかった。むしろ、バルバラに対する老人ダミアンの恋の話であった。なのに、アニメがあんなに大きな比重なのは、どうしてなのかね。監督の単なる趣味か?
・ルイスがバルバラの亭主の携帯に電話をかけてくるんだけど、その番号はどうやって知ったんだ? 家用の携帯? 事の後で起きたとき、調べたのか?
・ルイスは「電話会社のもの」と偽って電話をかけ、夫からバルバラに携帯を回させる。そこで用件をいい、バルバラの携帯番号を聞き出すんだけど。それって亭主もテーブルに着いている朝食の場で、だ。だいたい電話会社が携帯番号を知りたがる理由が分からない。しかも、その後でバルバラは、すでに切られた電話に向かって「結構です」と電話会社からの用件を断るような芝居をしている。そのすべてが不自然。それに亭主が気づかないのは、おかしいだろ。
・ドレスが90万(7000ユーロ)で、杖が2万ユーロだから、250万円ぐらいか。げ。いくらデザイナーの一点ものだからって、そんなの買うかよ。っていうか、12歳の娘なんだから、そんなのオヤジが買ってくれたら、異常! って思えよ、な話だろ。
・父親が教師だったのに失業というのは、スペインに及んだ経済不況のせいなのかね。
・バルバラがむかしの知り合い=仕事を斡旋してくる女性のところに行くと、客で(?)きてる女が「あなた女優?」とか聞いてきて「私、女優」なんていうんだけど、その手の女性が変態男相手に性的サービスを提供しているということなのかね。バルバラが会ったのは中年女で。「久しぶり。私、結婚したのよ」とか言われるんだけど、バルバラは過去とサヨナラせず、連絡先をちゃんとメモしておいたのか?
・バルバラの身体は傷だらけ。ルイスは、彼女を抱いたとき、それを異常に感じなかったのか?
・ダミアンがルイスと接触し、カフェで同席。話し合うとき、12歳の少女との過去をさらっと語るんだけど。ダミアンとバルバラの関係を示唆するものはそれだけだ。うっかりしてアバウトにしか聞いてないんだけど、そのシーンで、冒頭の少女がバルバラで、教師がダミアンだった、と分かった。いや、冒頭の教師の顔をちゃんと把握できていれば、バルバラが睡眠薬を酒で流し込んだとき電話した相手がダミアン、って分かったはずだけど、ぼーっと見てるから、冒頭の少女はアリシアかとずっと思いこんでいたよ。やれやれ。
・テンポというか間の取り方がクローネンバーグっぽい感じで、ムダに長かったりするのが少しじれったい。けど、それがこの監督のやりかたなんだろう。じらしの後に、「おお…」がやってくるし。
ヘイトフル・エイト3/23109シネマズ木場シアター5監督/クエンティン・タランティーノ脚本/クエンティン・タランティーノ
原題は“The Hateful Eight”。allcinemaのあらすじは「南北戦争後のワイオミング。雪の中を走る1台の駅馬車。乗っているのは賞金稼ぎのジョン・ルースと手錠をはめられた賞金首の女デイジー・ドメルグ。そこへ、馬が倒れて立ち往生していた元騎兵隊の賞金稼ぎマーキス・ウォーレンが、お尋ね者3人の死体と共に乗り込んでくる。共にレッドロックを目指す一行は猛吹雪を避け、道中にあるミニーの紳士洋品店に立ち寄ることに。そしてその途中でもう一人、レッドロックの新任保安官だというクリス・マニックスを拾う。ようやく辿り着いたミニーの店にミニーの姿はなく、見知らぬメキシコ人のボブが店番をしていた。そんな店には他に、絞首刑執行人のオズワルド・モブレー、カウボーイのジョー・ゲージ、南軍の元将軍サンディ・スミザーズという3人の先客がいた。一見、まるで無関係な8人は、ひょんな成り行きから、この店で一晩を一緒に過ごすハメになるのだったが」
2時間48分で、長すぎ。小水は問題なかったけど、中盤がダレる。冒頭の駅馬車の出会いはいいとして、ミニーの店に着いてから毒入りコーヒーまでは半分以下でいいだろ。人が出たり入ったりあーでもないこーでもないと、たいして意味のないやりとりが延々とつづいて、1時間を過ぎたあたりでこちらは退屈してきて、眠るかと思った。だいたいタランティーノにしてはこの映画、無駄口がつまらない。というか、『レザボア』『パルプ』で披露されるような無駄口はほとんどなくて、関係のありそうな探りや穿ちが大半なんだけど、冗漫すぎるのだよ。もちろん、もしかしたら深い意味が画されているのかも知れないし、タランティーノならではの過去の映画へのオマージュがざっくざくなのかも知れない。けど、こっちはそんなことは知ったこっちゃないわけで。表面的に見える物語で楽しもうとしているのに、あれじゃ間延びといわれてもしょうがない。
昨今は省略の美学な映画が多いけど、これは逆で、過剰な説明とムダ話…なんだけど、ムダ話は『レザボア』『パルプ』ほど炸裂してなくて、どっちかというとだらだら話が多くて飽きる。
もちろん、毒入りコーヒーでジョン・ルースが吐血し、もう一人(誰だっけ?)も吐血して、『レザボア』並の撃ち合いになってからは、タランティーノならではの無慈悲な暴力シーンの連続で目が覚めるんだけど。だけど、それまでがタルイので緊張もしてなくて、だから、誰が誰をどうしてああなって、でこうなって…に追いつけず、覚えきれてない。あの、壁に並ばせて以降の撃ち合いは、もういちど確認したいほどだ。入替制じゃなかったら、つづけて見るのになあ・・・。
で、最後に時間を遡って、先にミニーの店にやってきた4人の話が描かれ、最初の時制と重なって理解するような仕組みになっているんだけど。でも、意外な事実が明かされるかと思いきやそんなことはなくて、強盗団のボスが、囚われた姉を救いに来た、という初めにいわれていた話のままで、それを裏切る驚きは皆無。中味がないので拍子抜け。なーんだ、な感じ。あと、ここで突然、ト書きを読むみたいなナレーションが入ってくるのが異常に不自然だよな。なんだあれは? と思う。
まあ、重要なキャラなんだろう、と思っているような人物が呆気なく撃たれ、話から脱落していくといういつものタランティーノは相変わらずで、しかも、顔や脳天が爆発するみたいに吹っ飛び、デイジー・ドメルグはますます血潮を浴びて真っ赤っか、強盗団の4人がミニーの店に入って、店の連中を情け容赦なく殺すというのも、それだけの話で。それ以上の話はない。終わってみれば、それで? というような終焉で、マーキスとクリスが生き残ったからどうだ、というようなことも、ないよなあ。
というわけで、再編集して2時間欠けるぐらいにしたら、暴力血しぶき殺人映画としてはサイコー! な映画になるかも知れないけど、やっぱ2時間48分は長すぎ。
・リンカーンの手紙という話も、なーんだ、な感じで。当時のリンカーン人気は、そうなのか、と思うけれど。そんなのに引っかかるやつはアホだろ、としか思えない。
・ジョン・フォードの『駅馬車』が、下敷きのひとつになっているんだろう。他の多くは、よく分からない。西部劇はそんな見てないし、見てても忘れてるから。
・8人というタイトルなのに、登場するのは10人いる。御者と将軍は外すのか? と思ったら、ポスターには将軍がいて、弟(チャニング・テイタム)がいない。御者のO.B.は、無関係ということか。弟は、まあ、隠しておかないとネタバレするからか。ううむ。変なの。
・黒人差別表現が頻出するのが小気味よすぎ。南軍の将軍が北軍のマーキスを露骨にののしり、マーキスは将軍を挑発。銃を持たせて、正当防衛で撃ち殺すとか、決まり切った手順で話が進む。この意外性のなさが、いいような悪いような。
・駅馬車に乗り合わせた4人+御者の利害関係が人種や戦争であるのに対して、すでにミニーの店にいた5人は、将軍を除いてみな強盗団だから、よーく考えて見ると個性はない。もちろん絞首刑執行人がいたりするけど、ウソだし。なので、噺の複雑さという点では、いまいちな感じもしないでもない。
・ティム・ロスは、強盗団の一味なのに、絞首刑執行人に扮するとはこれ如何に? 最初からそういう手筈だったのか?
・最後は、死んだジョン・ルースに敬意を表してデイジー・ドメルグを室内で絞首刑なんだが。あのロープを、手傷を負ったマーキスとクリスが天井にどうやってかけた問題というのも気になるところ。
ヴィンセントが教えてくれたこと3/24ギンレイホール監督/セオドア・メルフィ脚本/セオドア・メルフィ
原題は“St. Vincent”。allcinemaのあらすじは「酒とギャンブルにまみれた初老の独身男ヴィンセントは、偏屈で頑固な近所の嫌われ者。ある日、その隣にシングルマザーのマギーと小学生の息子オリバーが引っ越してくる。仕事で忙しいマギーは、なかなか息子の面倒を見ることができない。そんなマギーから子守りを頼まれ、すかさず報酬を要求するヴィンセント。どうにか金額も折り合い、子守りを引き受けたものの、小学生のオリバーを酒場や競馬場にも平気で連れ回し、彼がいじめられていると知るや、相手の鼻をへし折る過激な撃退法を伝授する始末。それでもまるで対照的ながら2人は妙にウマが合い、いつしかオリバーは周囲の嫌われ者の意外な素顔を垣間見ていくのだったが」
家を抵当に借金してて、でももう一銭も借りられないという状況。預金口座もマイナス。にっちもさっちもいかないのに、酒浸りのぐうたらで。一発当てようと競馬場通い。こっちにも、裏社会にかなりの借金がある…てなヴィンセント。はじめのうちは、なんで働かないんだ? という疑問がわいて、とても共感することはできなかったんだけど、あるときオリバーをつれて病院に行き、痴呆症の女性の前で医者のような振る舞いをするところで「?」となって。そんなバイトをしているのか? でも稼ぎにはなってないようだし、洗濯物を持ってかえるだけではないか…。いや、もしかして彼女は? でも、そういう年齢なのか? 女房が痴呆になるには、若すぎないか? とかもやもやしていたんだけど、やっぱりそうで。その世話を欠かさず行っていたせいで、働けなかったのかも知れない、と思うようになった。
いや、洗濯物なんて数日に一度行けばいいんだから、あとは働け、とか思いもしたんだけど。妻が突然痴呆になり、でも質の高い介護を受けさせたいと医療費の高い施設に入れたせいだろう。こちらの施設からも、滞納で別の施設への移転を求められている。もう、どうしようもない状態。というところに、隣に母子家庭が引っ越してきて。息子を預かってくれ、というところに、シッターはやってやるけど銭をよこせ、という主張も、ひねくれているとは思うけれど、背に腹は替えられず、なんだろう。そのどうしようもなさを、あんな具合にしか表現できないところに、ヴィンセントの、本来の生真面目さが見えてくる。
そもそもベトナムでは勲章をもらったぐらいだから、勇敢で忠誠心もあるはず。なのに愛する妻が病気になり、でも国は何もしてくれない。そんな憤りを社会活動として表出できるわけもなく、不器用に生きる。それが精一杯、というところか。だから、マギーとオリバーに対してドライに対峙したりするのも、いたしかたのないところかも。悪気で向かっているところは、これっぽっちもないのだから。
な感じでオリバーを預かってあれこれドタバタ。金銭的問題がまったく解決しないうちに、ヴィンセント自身が脳卒中を患って入院・リハビリ。という彼を支えるのが、ロシア訛り(なのかな?)のある年増のストリッパーのダカで、これをなんとナオミ・ワッツが演じていてとても違和感。だって、理知的で妖しい美女が相当だと思うから。なのにこの汚れ役は、冒険だろうな。それにしても、妻は愛している。でも、セックスの処理は、若い…といっても40過ぎの移民女、というヴィンセントの本音の生き方は、共感できる。
で、家に戻ってみれば、施設からの留守録がたまっていて、実は、妻が亡くなってしまっていたのだった。さびしさに落ち込むヴィンセントだったけど、本人の気持ちはどうだったろう。月々の費用からの解放があった、と考えるのは穿った見方かな。まあ、映画的にも、ちょうどいい話の転換点というところか。ヴィンセントの解放と、ダカとの次の生活のスタート、になるのだから。
この、ヴィンセントとダカの関係も不思議で。たしかヴィンセントも父か祖父の時代の、アイルランドからの移民で。おそらくダカもロシアあたりからの移民で。WASPではないけどアメリカ国民である、ということが強調されているのかも知れない。
オリバーにはケンカの仕方を教え、競馬に連れていくとか、男の子としての生き方ノウハウを教えるとか、このあたりも特別ではなく、ヴィンセントの常識の範囲内なんだろう。ま、要するに、ヴィンセントはとくに秀でた才能もなく、妻を愛しているけど女も買いにいくし、酒も飲む、かなりフツーの男なんだと思う。まあ、少し怠惰で、心の赴くまま、嫌なやつには悪態をつき、ストレスを溜めない生き方を至上主義としているのだろう。そうやって、生きてきた。なんの問題もなかった。妻が病気になるまでは…。なのに、自分も病気になるなんて、踏んだり蹴ったり。でも、“It is what it is.”=「仕方ないさ」。まだまだ不良でいてやるぞ。な生き方なんだろうな。
オリバーは、いじめっ子との関係改善で仲好しになって。マギーは、浮気して出ていった亭主との裁判で、親権を半分しか確保できず、その結果、オリバーは父親と母親の間を行ったり来たり、ということになって。ダカは、誰の子か分からない赤ちゃんを産み落とし、多分これからヴィンセントと一緒に生きていく。…ラストは、まあまあ感じで締めるんだけど、よく考えて見ると、ヴィンセントの経済状況は何も解決していないんだよな。妻の介護からは解放されたけれど、施設への払いは残っているはず。家はもう銀行に取り上げられる寸前だろうし。ヤクザからの借金も返していない。なのに、あの終わり方でよいのかな。ちょっと心配。
・オリバーと競馬に行って、オリバーのいう通りに買ったら大当たり。でも、自分の取り分でまたまた賭けるのはいいけど、オリバーの取り分に手を出してすべてすってしまうのはマズイよな。
・マギーの元亭主は、弁護士とか言ってなかったか。それにしては、マギーはデブすぎ。あんなんじゃ亭主に浮気されてもしょうがないんじゃないのかね。・エンドソングは、Bob Dylanの“Shelter from the storm”であった。
コンビニ夢物語3/28シネ・リーブル池袋シアター2監督/松生秀二脚本/折原悠
Yahoo! JAPAN 映画のあらすじは「兵庫県美方郡香美町の小さな商店街で、酒屋を営む坂上幸造(石倉三郎)。8年前に妻を失くし、折り合いの悪かった息子の幸一(篤海)とも彼が東京へ出て行ったきり連絡を取っていない。幸一の幼なじみである美香(文音)に手伝ってもらいながら店を切り盛りしていたが、心臓発作で倒れて病院に搬送されてしまう。美香から連絡を受けて、幸一は数年ぶりに帰郷。美香に町に残って店を続けてほしいと請われるが、彼は酒屋からコンビニに変えようとする。それを知って憤慨する幸造を尻目に、着々と準備を進めていく幸一だが」
コンビニを舞台にした映画というと『銀のエンゼル』があって、あのような、いささかコメディタッチで、ちょっとしっとりさせるような青春映画の類かと思ったら、あにはからんや。いわゆる良心的映画に類するしめっぽい話で、舞台は山陰なのか日本海に面した過疎の田舎町。基本的には手垢の付いたベタな展開で、亡くなった母親、飲んだくれの父親、家出した青年…。父親が心臓病で倒れ、いやいや戻ると、「酒屋をコンビニに」と切り出して怒鳴られ、でも、同棲相手がコンビニ会社の営業かなんかで、それに押されて出店へ…。田舎には、昔の相思相愛の娘が、いまも青年を思い、酒屋で働いていて…というような設定とお話しで。ラストも概ね予定調和で退屈だった。ただし、佐藤二朗がでた場面だけは、あのペースで、はっちゃけてた。
しかし、もうちょっとひねった設定にできないもんかね。100年前の話だろ、これ。コンビニのない田舎町の商店街に、地元の出戻り息子が出店する…。でも、寺で話し合いが軽くもたれただけで、あとはスルー。和尚は概ね賛成で、反対しているのは少数派。タバコ屋のバアサンは、歳だしそろそろやめようと思ってた、とかいうだけ。書店主も、売る本が違うから、と容認。おいおい。それ以前に、街の書店はAmazonのせいで壊滅状態だろ。など、ツッコミどころ満載。そもそも酒屋だって、個人店が商売をやってけるような環境じゃあるまい。ロードサイドショップやアウトレット、ショッピングモールが幅を効かせて、街から商店なんてなくなってるはずだぞ。
幸一が、中学生ぐらいの娘のいる女と同棲している、という設定が、げげげ。亭主に逃げられた40凸凹の女の京子とたまたま寝たからって、それで「子供ができた」っていわれたからって、結婚します、と正直にいうアホがどこにいる。だいたい、京子もひどい女だ。亭主に逃げられ、娘に父親をあてがいたい、というだけで、10幾つも年下の青年を色仕掛けかよ。なんて女だ。まあ、あとから妊娠はウソ、と告白し、悪かった、と娘と街を去って行くんだけど、その正直さがあったら、男を騙したりしないだろ。
あと、この映画の根幹となる父子の対立だけど。いつも酔っ払って店をないがしろにし、母親の死に目に間に合わなかった父親への反感が原因ということになっている。これが解消するのは、地元の商店街の仲間の話を、美香が聞いて幸一につたえたからなんだが。これも、アホか、な話。なんでも父親は、酒の販売先を接待して毎日飲み歩いていた、とかいうことになっているんだが、そんなことがあるはずがない。そんな営業なんて、あるものか。たとえあったとしても、母親が息子の幸一に、「お父さんが飲んでいるのはね」と話せばいいだけのことだ。そして、死に目に間に合わなかったのは、幸造の心臓病が原因で、途中で倒れそうになっていたから、らしいが。そんなに悪いのに、その後10年、よく平気で生きてこられたものだ。これも、あり得ない話だ。
そらに、いくら中学生の頃から相思相愛だと行っても、ついこのあいだまで年増のオバサンと結婚しようかといっていた青年にいまも恋心を抱き、ついには結婚するなんて、ご都合主義もいいところだろ。いまどきの若い娘が、そこまで純粋…というより、アホなわけがない。
そして、開店当初は客がきていたけれど、次第に閑散とし、さてどうなることやら、なコンビニも。店頭に椅子を設けたら、地元の連中が集まって歓談し、繁昌! なんて夢みたいなことをよくも描くよ。あ、あり得ない夢だから、コンビニ夢物語、なのか?
コンビニに反対していた幸造が、簡単に折れてしまうのが、おいおいな話で。店を売って街の外れの土地を買い、でも、自分はアパート暮らし。でも、商売はつづけている、って、どういう商売形態をつづけているのだ? 店舗レスで、問屋から直に得意先に酒を販売する? まあ、それがどれだけつづいたのか知らんが、ラストでは、幸一がコンビニにシュルイコーナー設け、その担当になっていたけど、相談に乗るような酒なんて、コンビニには置いてないだろ。特殊な店にしたのか?
あと、幸一は友人の父親の金貸しから1千万借りて出店したんだが、その金貸しが亡くなって、その金貸しに金を貸していたやつから、金を返せ、と凄まれるんだが。これを、なんと京子が肩代わりって、おいおい。都合がよすぎるだろ。子連れのシングルオバサンが、いくらなんでも、幸一なんかに1千万も貸さんだろ。
さらに、幸一が出店した土地が、実は、父親である幸造が店を売った金で買った土地だった、というオチがついているんだが。じゃ、幸一はそれまで、父親に土地の利用料を払っていたということか? なんかな、アホみたいな話だな。
・美香役の娘が、ちょっとエロっぽい感じのいい娘で、足がスラリと伸びてスタイルがいいなと思っていたんだが。なんと、長渕剛と志穂美悦子の娘なんだと。へー。
・幸造の女房が仁科亜希子というのは、どう考えても不釣り合いだろ。
・クレーマー役の佐藤二朗は、キャラでもっていっちゃった感じで、でもまあコンビニと関係はある話ではあるが、旅館の女将の藤吉久美子なんか、なんのためにでてきたのか分からんような役回りだな。まあ、本筋とは関係ないところで、面白い芝居はいくつかあったけど、映画本体にはあまり関係ないものなあ。もったいない。
・坂上家の墓石に52歳と、他に45歳の「…姉」と、もうひとり49歳の戒名が彫ってあったが、52歳は奥さんだろう。45歳は幸造の母親? 45歳は父親? それにしても早死にの家系だな。
恋人たち3/30ギンレイホール監督/橋口亮輔脚本/橋口亮輔
allcinemaのあらすじは「橋梁のコンクリートをハンマーで叩き破損の有無をチェックする橋梁点検の仕事をしながら裁判のために奔走するアツシ。数年前、最愛の妻を通り魔殺人事件で失い、今なおその喪失感と犯人への憎しみから立ち直れずにいる。自分に関心を持たない夫と、ソリが合わない姑と3人暮らしの退屈な毎日を送る主婦、瞳子。ある日、ひとりの中年男とひょんなことから親しくなっていく。同性愛者で、完璧主義のエリート弁護士、四ノ宮。一緒に暮らす恋人がいながらも、秘かに学生時代からの男友だちを想い続けていた。そんな不器用ながらも懸命に日々を生きている3人だったが」
キネ旬1位他高い評価を得ている映画だけれど、それ程のものか? というのが正直なところ。なんかどーも牽強付会というか、強引にある方向に引きずり込もうとしていて、やな感じがした。いろいろ作為的というのかな、話がウソっぽく見えるんだよ。たとえば、通り魔殺人で妻を失ったアツシにしても、さあ気の毒でしょ、大変なんだよ、同情しろよ、するのが人間ってもんだろ、みたいな圧力がミエミエで感じられて、とてもうっとうしい。
そりゃあ、突然、愛する人を奪われたら哀しいだろう。東日本大震災で家族を失った人たちの象徴として描かれているのかも知れない。けれど。昨今ではパリやブリュッセル、パキスタンやジャカルタでも自爆テロが横行し、突然、親しい人を奪われる事件は頻発している。では、残された人すべてが何年も苦悩にもだえ、仕事もロクにこなせず、孤独に沈んでいるとかいったら、そういうことでもないはずだ。
ウソだ、と思ったのは、アツシの友人が離れていった、という話にもある。さらに、妻の姉も登場するんだけど、事件後、彼女の婚約者が去って行った、なんていう話もしていた。事件の被害者から、友人知人は離れていくものなのか? ウソだろ、それ。そんなこと、あるのか? あるのならデータを見せて欲しい。
さらに、相談料5万の弁護士5人に相談したけど「仕方がない」で済まされたとか愚痴っていたけど、なにをどう相談したんだか分からんよな。弁護士の初回の相談料は、30分1万円ぐらいじゃないのか? さらに、映画にも登場する弁護士の四ノ宮に「損害賠償ぐらいなら請求できるかも知れない、って言ったじゃないか」と迫るのも、筋違いのような気がする。すでに判決で、心身耗弱(?)で罪に問えないと言っているのだから、それは司法が問題であって、弁護士にはどうしようもないではないか。それと、「殺したいけど殺せない」と言っているけど、殺せばいいだろ。自分が罪に問われるのが嫌なのか? 恨みを晴らしたいなら、犯人を捜し出し、殺して、自分も罪に問われればいいではないか。なのに手首を切って死のうとしたり、あるいは損害賠償裁判を起こすとか、なんなんだろう。相手から相応の損害賠償を引き出せば、それで心が晴れるとでもいうのだろうか。見ていて、とても歯がゆい感じがした。
健康保険料を滞納していて、役所に行ったら「払え」といわれ、逆上し、「妻が通り魔に殺されて、何もできない状態なんだよ!」と、声高にフツー、言うか? でも、橋梁点検会社に勤めていて、30過ぎなら年収500万ぐらい得てるだろ。それを前借りしたり、健康保険料を滞納したり、いったい何に使ってるんだ? 弁護士への相談料は25万だろ? 他に、何に使ってるんだ? 心がつらくて休みがちで給料がまともにもらえない? あるいは、病気? であるなら生活保護を申請するか? でも、勤めてるんだからできないよな。
そうそう。病院で腹部CTの写真があったけど、内臓の病気とか腫瘍とかで医療費が大変とかいう話になるのかと思ったら、以後、病気の話はでてこない。なんだよ。じゃ、役人が言ったように、1週間使える健康保険証でいいじゃないか?
というような案配で、このアツシのパートは、見ていて少しうんざりした。ちっとも説得力がない。変人が主人公の話でしかない。
もしアツシは心が壊れかけているのであれば、それは精神科の問題でもあるはずだ。そっちからの追求、解決法を探った方が早いと思う。あと、気になったのは、アツシ役の篠原篤が結構太っていて、お前、食い過ぎだろ、と思えること。さらに、金もないのに煙草なんか吸うなよ、とツッコミを入れたくなる。冒頭で、妻が煙草嫌いだけどバレて云々ということをいっていたけど、ねえ…。
もうひついうと、通り魔殺人の被害者家族の苦悩はあるだろうが、加害者の家族の悲惨な現実もあるに違いないと思うのだよね。たとえば住まいを追われ一家離散かもしれない。この話ではないようだけれど、被害者家族への損害賠償であるとか、経済的にもとんでもないことになっているやも知れぬ。被害者家族の苦しみは当然として、そちらにも少しは視線を向けて欲しい気がするのだよね。
主婦、瞳子のエピソードは、まあ、そこそこ面白く見られた。この話だけで90分ぐらいの映画にしたら、それはそれで成立するのではないのだろうか。とはいえ、教養のない皇室好きでアニメや小説とか、ファンタジーに逃げ込む中年女、という設定は、人を見下しているような気もしないでもない。あらすじには「自分に関心を持たない夫と、ソリが合わない姑と3人暮らしの退屈な毎日」と書いてるけど、そんなのフツーだろ。というか、なぜ夫は彼女に関心をもたなくなったのか、が重要だろ。夫は飲んべえでもなく、怠惰でもなく、賭け事もしてないようだ。いささかマザコン気味だけど、だったらハナから結婚しなければよろしい。それに、関心がないといいつつ、たびたびセックスはしていて、肌の触れあいがあるだけマシだろ、な気もする。夫は読書もするようで、では何か文化的なことに興味があるのか? その辺りを掘り下げたらどうなんだ? 姑は、惣菜のラップを再利用しているけど、あんなことする人はいるのか? しかも、台所の壁に貼り付けてるって、そんなの聞いたことがない。それほど夫の給与は少ないのか?
瞳子が、ちょっと軽口(姑が死ぬかも知れないとかいうようなネタ)を叩いたら、速攻で夫がビンタ。姑は「おじいさんが生きていたら、そんなんじゃ済まない」とかいうんだけど、なんなんだこの家は、だ。けど、そういう家庭がいやなら出ていく=離婚すればいいではないか。それと、後半で夫がセックスを要求し、またまたスキンを買いに行こうとする場面があるんだけど、じゃあ、あの夜以降、何回交わってるんだよ。ん? 肉屋の藤田と交わった分も消費してる? いや、あの夫のことだ、数を勘定していて、「まだ残ってるだろ」ぐらいいうと思うぞ。それはさておき、夫は「子供ができたっていいじゃないか」というんだけど、それまでどういう主義で子供をつくらなかったのだ? というところに大きな疑問が湧く。なぜなら、あえて子供をつくらないのは、子供が要らない、自分たちの生活を楽しみたい、という関係が優先するからだと思う。子供ができないから姑にいじめられる、というなら分かるんだけど、いまいち関係性がつたわってこない。このあたり、掘り下げてもらいたい気がするぞ。
このパートで一番興味津々なのが、瞳子のバイト先の惣菜屋で、主人夫婦の女房の方のキリキリとのべつ喧嘩を売りまくる性格はなんなんだ? と思って、さてどうなるかと思っていたら、以後登場しないんでやんの。まんだ、つまんねえ。
で、さて、その惣菜屋に出入りする肉屋の従業員(?)の藤田といい仲になって。といっても、昼日中に瞳子の家を覗き、瞳子も迎え入れ、そのまま事におよんでしまうというのは、なんなんだ? 姑はゲートボールか? いくらなんでも不用心すぎるだろ。それに、パートはどうしたんだ? パートは最初の方だけで、藤田とつき合うようになって、働きにでなくなったのか? そんなことしたら、夫や姑になんか言われるだろ、ぜったい。
この映画、本筋に関係ない仕草や演技で笑えるところが結構あったりして。瞳子と藤田のセックスシーンはなくて、事が終わった後の様子が描かれてるんだけど、そこに人間くささがでてたりする。オッパイ丸出しでビールを運んできて、藤田はビール飲みつつ瞳子の乳首を手指の先でこすったりして、そのあたりにリアリティはでてるんだけど、残念ながら、本筋に関係ないのだよな。ほかにも、そういう、ささいな仕草や行動に笑えるところがあったりするんだよな。
あと、瞳子のだらしない恰好、容姿、肉体がこれでもか、と見せられるのは、かなりエグイ。あれは、リアリティありすぎ。
藤田は東北から流れてきて、肉屋の従業員になって、マジメなやつかと思ったら結構なワル、というより、変人だな、ありゃ。生来の詐欺師・晴美と一緒になって美人水なんてインチキ商売をしてる。のだけれど、藤田と晴美の関係はどういうものか、よく分からない。そもそも晴美もスナックを経営していたりして、じゃあ、まともに商売しようとしていたのか? それがあの年になって詐欺に目覚めたのか? よく分からない。藤田は養鶏場を経営したいという夢があるようで、瞳子をつれて見に行ったりするのだが、要は資金を出してくれ、な話らしい。でも、本当に養鶏場がやりたいのかどうかは分からんな。
で、瞳子は家出を決意して、藤田のところに行くんだけど、彼はシャブを打とうと四苦八苦してる。そこに晴美がやってきて、「養鶏場に連れていかれたでしょう」云々の話をするのは、晴美もその手でだまされたのかもね。では、晴美をインチキ商売に引き込んだのは藤田なのか? 美人水は、どっちの発想だったのか、気になるところである。
藤田の真実(?)を見て、瞳子はどう思ったのか、よく分からん。自転車に乗って晴れ晴れと走ってたような気もするけど、結局、現実からは抜けられず、か。あのままセックスをつづけ、40過ぎで子供を産み、育てるのか? よく分からん。
最後に、晴美は宮家をよそおったパーティの詐欺でニュースになるんだけど、モデルとなる事件が何年か前にあった。ちょっと発想がイージーかな。だいたい、宮家を思いつくのは、瞳子の雅子様ファン心理を知ってからで、じゃあ食らいつく連中がいる、と踏んだからだろう。あんな、美人水詐欺も上手くいかないなかで、パーティ詐欺の資金はどう工面したのだろう。それに、一緒に詐欺を働いた仲間は、あれはいったいどこの誰なんだ?
で、もうひとつ、弁護士・四ノ宮のパートであるが、いまいち気味が悪かったりする。おそらく趣旨としては、同性愛者への偏見なのかもしれないけど、なんかな。で、個人的な見解をいうなら、同性愛者への偏見はある。それに、男女間の問題などを同性愛者が判断して弁護するような場合は、きっと不安もある、と思う。そういうのはさておいても、四ノ宮は自分が同性愛者であることを公言しているようだし、現実に同居人もいる。それは構わない。
四ノ宮が異常じゃないのか、と思ったのは、友人の不動産屋・聡との車の中での会話だ。四ノ宮は、自分の祖父だか祖母が亡くなったということを聡の妻に伝え、でもそのとき「あ、そう」とだけ反応され、お悔やみの言葉ひとつもないことにしつこくこだわり、延々と聡にそのことを話しつづけていた。なんでそんなことにこだわるの? 常識がズレて矢やしないか? 一方の聡は四ノ宮に、半蔵門まで送れ、といわれていたから、カーナビを操作しているのだけれど、上の空で聞いている。よくもまあ四ノ宮に反論しないもんだ、と思いつつ見ていた。
あとから分かるんだけど、四ノ宮はむかしから聡に気があり、振り向いてくれないかな、と思いつづけていた、ということなんだけど。この2人の関係は、どういうことなのか、説明がないのでよく分からない。高校生の頃から、聡は四ノ宮の同性愛に気づいていたのか、知ったときはどう反応したのか、以後、どういう付き合いをしてきたのか、とかいうことに関心がある。
問題は、四ノ宮が入院したとき、聡の幼子の耳が聡そっくりだ、といっていじくりまわしたことにあって、それに聡の妻が危機を感じた、ということらしい。その病室のシーンでは、もしかして聡の妻が子供を虐待しているとか、そういうことがあって、聡がビクビクしていたのかなと思ったんだけど。なにしろ、それまで四ノ宮が同性愛とは説明されてなくて、病室に四ノ宮の知り合いが来て「同居人」と説明するのに「?」と思い、その後、退院後に同性愛者の集まるカフェに行った場面で、なるほど、と思ったぐらいだから。
なので、クルマの中のシーンでも、聡は妻の四ノ宮への不信感をはっきりと言わなかった、ということなんだろうけど。なんか隔靴掻痒。というか、四ノ宮への気の毒さとか同情心はまったく感じられず、聡の心の広さの方が目立ってしまっている。
それと、四ノ宮が聡に会うのは、独立するから事務所物件を、という話だったんだけど。なんで突然、独立話が? それとも、それは口実で、変わらず思いつづける聡を見るためなのか? そんなの、聡も気づくんじゃないのかね。
四ノ宮は。アツシの相談を受ける弁護士としても登場するんだけど、いまいちピンとこない。大きな弁護士事務所らしいのに畑違いの相談を受けているし、そもそもアツシがそういう弁護士に相も変わらず相談に行く、というのも「?」だ。かつて相談し、損害賠償の道もある、といったとかいう前段階はあったらしいけど、でも、すでに判決が出てるんだから、相談に乗るも何もないと思うんだが。
あと、四ノ宮は、成田離婚しようかという女子アナの相談を受ける、ということもしているんだけど、これが意味不明で。最初は、実はビンボーなのに自分の名声を利用したからと、亭主を訴えようとしていた。それが、最後には、夫を愛しています、とかいってのろけたりしている。意味が分からん。これは、あれか、同じ状態でも、視点を変えて臨めば、嫌なものもよく見えてくるとかいう喩えなのか?
最後、アツシの家の仏間となっていた奥の座敷は、きれいに清掃され、花まで飾ってあった。ん? あんなにひねていたアツシは、どうやって正気を取り戻し、現実を生きるようになったのだ? そうなる出来事、きっかけは描かれていたか? なかったよな。ひどく唐突。いや、個人的には、死んだ妻の姉と心と肉体が結ばれる…とかいう展開、あるいは、彼に好意を持っているような同僚の女性社員と懇ろになるとか、そういうことで生気を取り戻すのかな、と思っていたのだけれど、そうではないような…。でも、あの部屋の飾りようは、とてもアツシのものではなく、女性が関わっているような、でも分からない。
というわけで、社会の弱者、負け組を描いているから評価が高いのか。それにしては過剰で押しつけがましいし、同情圧力がひどくて、いまいち感情移入はできなかった。なんか、頭の中でつくっている感じがして、ううむ、な感じだな。
・アツシ役の篠原篤は。セリフ廻しが素人っぽくて、いまいちな感じがしたんだが。新人賞とか取ってるのな。ふーん。
・アツシの会社の上司だか社長だか、片腕のない男の存在が、なかなかよかった。つねに笑顔で包容力があり、受け入れる。ああいう人にはなれないな、と思って見ていた。元過激派らしいが、ロケット弾を皇居に撃ち込もうとして失敗、腕をなくした、なんて、軽々しく人にいうかね。あと気になるのは、そういう人物が高速道路の橋梁を点検する会社にいたら、公安はずっと監視つづけるんじゃないのか? なんだこの、のんびりさ加減は。
・橋梁点検会社の若い社員が、美人水を買ってしまったというエピソードがあるんだけど、きれいな女の人から買った、といっていて。ではそれは、晴美から買ったということだよな。晴美役は安藤玉恵40歳だけど…。うーん。・アツシへの安っぽいズームがあったけど、素人かよ。なんだ、あれ。
・四ノ宮を階段で突き落としたのは、一緒にいた女性の同僚ではないのか? まちがってそうなった、に見えたけど、違うのか? じゃあ、誰? 同性愛者に偏見をもつ誰か? でも、そんなこと、偏見だけではしないだろ。もしそうなら、それ「同性愛者に対して反感を持つ人はうしろから突き飛ばす」という話を信じるという偏見でないのか? で、その女性の同僚だけど、最初にエレベーターで乗り合わせて、彼女もキーパーソンかと思えば、階段手落ちるところ以降、出てこなくなってしまうという人の使い方というのは、よく理解できない。

 
 

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