イレブン・ミニッツ | 9/1 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/イエジー・スコリモフスキ | 脚本/イエジー・スコリモフスキ |
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ポーランド/アイルランド映画。原題は“11 minut”。allcinemaのあらすじは「午後5時から5時11分までの限られた時間に焦点を絞り、様々な登場人物たちが繰り広げるありふれた日常の一コマ一コマが、やがて思いも寄らぬ結末へと収斂していくさまをモザイク状に描いた実験精神あふれる群像サスペンス。街に午後5時を告げる鐘が鳴る中、一人の男が慌てて家を飛び出し妻のもとへと向かう。その妻は女優で、優雅なホテルの一室で下心ミエミエの映画監督と一対一の面接に臨もうとしていたが…」 身も蓋も、とくに意味のあるストーリーも、オチもない話だった。『バンテージ・ポイント』みたいに、ひとつのしっかりした話があって、そこに関わる複数の人たちの、11分間の話かと思っていたのだ。ところが、各エピソードはほとんど絡み合うことはなく、あるひとつの事件に否応なく巻き込まれた、というだけの間柄。それぞれの11分間の描写もあるけど、そこに背景や人間の深掘り、なんていうものはほとんどなくて、単なるスナップ的な感じだけ。なので、終わってみれば肩すかしな感じ。 主となる事件を起こす監督と女優、女優の亭主の話が芯になってはいるんだろうけど、これにしても描かれている以外のなにも分からない。あらすじを見て、監督と女優・オーディションってはっきりしたけど、見ているだけでは、オーディションをカモフラージュにした売春みたいに見えなくもない、へんな展開だし。タイトル前の、女優のスマホビデオもあったけど、あれにもたいして意味はないはず。入替制でなければ冒頭だけでも見返して、なるほど、と言ってみたい所だけど、わざわざ金を出してもう一度、というほどの映画でもないしね。 しかし、最後の事件というのも、面接というかオーディション中の監督と女優がいる部屋に亭主が消火器をもって押し入り、でも途中で滑って転倒して、あおりを喰らって監督と女優は窓から転落。亭主が女優の手をつかむが監督は落下。直下にいた窓拭きゴンドラを直撃し、さらに下にいた救急車が発火爆発するのは、あれは消火器のせいなのか? 知らんけど。で、そこにやってきたバスが転倒・・・。ほかにもバイクに乗ってた親子とか犬連れの女とかいろいろいたけど、どうまきこまれたのか、あっという間だったのでよく分からんよ。みなさんお気の毒様。でも、もう一回見て確かめようとも思わない。ビデオならするだろうけど。 ムショからでたばかりのホットドッグ売り、その息子のバイク便青年はヤク中でどこかの奥さんと浮気してて明日どこかの誰かと結婚? そのホットドッグ売りにツバを吐きかける女、犬を連れたパンクな娘、老絵描き、コソ泥青年は入った先の質屋で主人が首をつってるのに遭遇、救急隊員とアパートの人々、低空飛行の旅客機、ポルノを見るカップルの相手は窓拭き清掃員で窓からゴンドラへ・・・! とかいう各エピソードは思わせぶりなだけで、じれったいだけだし。ううむ。 | ||||
後妻業の女 | 9/2 | 109シネマズ木場シアター7 | 監督/鶴橋康夫 | 脚本/鶴橋康夫 |
allcinemaのあらすじは「結婚相談所主催の婚活パーティで老人たちを虜にし、狙い通りに中瀬耕造と結婚した武内小夜子。2年後、耕造は脳梗塞で入院するとほどなく他界。葬儀の席で小夜子が耕造の2人の娘、朋美と尚子に突きつけたのは、全財産を小夜子に遺すと記された“遺言公正証書”だった。とうてい納得いかない朋美は同級生の弁護士に小夜子のことを調べてもらう。すると、小夜子が裕福な老人の後妻に入っては全財産を巻き上げるということを生業とする“後妻業の女”と判明。しかもそれを背後で操っていたのが結婚相談所の所長、柏木亨だったのだ。朋美は裏社会の探偵・本多芳則とともに2人を追及していく。そんな中、次なるターゲットとなる不動産王・舟山喜春に近づいていく武内小夜子だったが…」 2時間ドラマみたいなベタでくどい展開。ものすごく長く感じたんだが、128分だったのか・・・。ラストはちょっと「?」かな。 前半は小夜子と柏木の悪行と、これまでの犠牲者たちの紹介。メインになるのが、現在、脳梗塞で入院中の81歳中瀬耕造と、その2人の娘。耕造の死後、公正証書を見せられ、財産をすべて横取りされる・・・と気づいて、までが結構長くて、小夜子と柏木のやりたい放題を見せていくんだけど、つまらなくはないけどくどいというか、ああそうですかな感じ。で、妹・明美が知り合いの弁護士に相談し、元警察官の探偵・本多が乗り出してきて、ちょっとミステリーっぽくなるんだけど、まあ、基本のドタバタ喜劇は変わらない、かな。本多はいろいろ調べ、過去の配偶者たちの死因とか経緯を柏木・小夜子に突きつけるんだけど、このあたりで「?」となるのが、柏木・小夜子の悪の度合いなんだよね。当初は、死にかけの老人をだまし、病死にさせる・・・レベルかなと思っていたんだけど、耕造のときは点滴で空気を注入とか、直接的なことも小夜子はしてしまう。なーんだ。詐欺じゃなくて人殺しか、と思っていたら、前夫の武内というテレビ会社の元役員に至っては、柏木が力ずくで殴り、クルマを崖下に転落させているという・・・。なんだよ。そういう連中だったの? 前半の、結婚詐欺的なイメージが崩れて、でも、どーみても2人が極悪人に見えないから、変な感じ。 で、そういうことをつかみながら、本多は最後、訴えるとか警察に知らせるとかせず、自分の調査ノートを柏木に合計5千万だったかで売り飛ばすという行動にでたのが、意外といえば意外で。なーんだ。とくに世のためひとのためではないのね。でも、そんな極悪人に見えないんだけどね。だって耕造の娘たち、それから、同じように財産を取られている武内の娘のこともあるし。彼女たちへの同情もあると思ったし、中瀬の娘の知り合いの弁護士との関係もあるんだから、そんな自分だけガッポリ、ってのはできないんじゃないのか? と思ったんだが。 で、5千万の交換は、柏木の方が金額を誤魔化し、小夜子の息子に本多を殺させるという計画が失敗し、オジャン。というか、この計画もひどくいい加減すぎて説得力がない。さらに、そんなゴタゴタとは関係なく、耕造の娘たちが仏壇の奥から、耕造自筆の、公正証書より日付の新しい遺言が見つかって、すべて解決・・・って、おいおい、な感じ。 解決、はいい。でも、それは中瀬家の話であって、じゃあ武内の娘はどうなるの? 本多にとっても、中瀬姉妹の遺産問題は片付いたけど、柏木・小夜子の悪行に関しては、もう見逃しなのか? ずっとたかるのではなかったのか? なのに、中瀬娘の姉の方と、海岸でのんびり、よかったですね、なんて話してるけど、それでいいんかい? というように、柏木・小夜子は起訴も逮捕もされず、あいかわらず結婚相談所の熟年見合いパーティを主催している。まあ、後妻業はできないだろうけど、でも、相談所経営は安定路線ということかい? でも、後妻業がなかったら、濡れ手で粟とはいかんのじゃないのか? とかいう疑問も湧いてくるラスト。どーも、スッキリしない。 悪人vs無知な素人、っていう対立関係がはっきりし過ぎてて、小夜子の息子もただのバカだったり、柏木の女たちも金のためならなんでもするみたいなバカだったり、なんか、分かりやすすぎな感じだな。 ・小夜子の大竹しのぶは相変わらずの悪女を演じていて、明美の尾野真千子とも、取っ組み合いの喧嘩を披露してる。ご苦労さんなこったけど、女の喧嘩は見苦しい。 ・しっかし、柏木も小夜子も、これまでいくら稼いできたのか知らないけど、なんに使ってるんだ? それに、不動産は所有してると固定資産税もあるんだから、そんなにもっていてもしょうがないと思うんだがな。 ・中瀬の娘たち。とくに妹の明美がしっかりもの、といいつつ、公正証書をつくられてしまってるとか、遺留分について知らないとか、どこがしっかりしてるのか? な感じ。 | ||||
君の名は。 | 9/5 | 109シネマズ木場シアター8 | 監督/新海誠 | 脚本/新海誠 |
allcinemaのあらすじは「千年ぶりとなる彗星の接近を1ヵ月後に控えた日本。山深い田舎町で鬱屈した毎日を過ごし、都会の生活に憧れを抱く女子高生の三葉。ある日、夢の中で自分が東京の男子高校生になっていることに気づき、念願の都会生活を満喫する。一方、東京の男子高校生・瀧は、山奥の田舎町で女子高生になっている夢を見る。そんな奇妙な夢を繰り返し見るようになった2人は、やがて自分たちが入れ替わっていることに気がつく。戸惑いつつも、メモを残してやりとりしながら、少しずつ事実を受け止めていく瀧と三葉。ところが、互いに打ち解けてきた矢先、2人の入れ替わりは突然起こらなくなってしまう。そこで瀧は、夢の記憶を頼りに三葉に会いに行こうと決心するのだったが…」 大ヒット大評判のアニメで、タイトルも過去の名作と同じ。さらに、男女が入れ替わる・・・は大林宣彦の『転校生』ではないか? という話があり、でも、『転校生』→『時をかける少女』+『オーロラの彼方へ』だ、なんていう話も合ったりして・・・。どんなラブコメなんだ? と思っていたら、ラブコメという感じではなく、SF臭がわりと濃かった。マジだな、これ、とか思ってしまった。なにせ、隕石落下で村がひとつ消滅・・・という近過去の少女と、現在の少年の心が入れ替わり、交流が始まって、隕石落下を知り、食い止めようとする話なのだから。なので、男女の入れ替わりはきっかけに過ぎず、実際に2人は会うこともないので、『転校生』とはだいぶ違う。一時期の記憶を失ってしまい、現実の世界ですれ違い・・・というところは、『時をかける少女』。現在からのメッセージで過去を変える、というのは『オーロラの彼方へ』。まあ、いろんな映画のエッセンスがほどよく混じって、スリリングというのでもなく、ハードSFでもなく、ちょっとオカルトっぽい感じで過去と現在がつながって、最後はハッピーエンドなので、あれこれお腹一杯。これは女の子泣かせな話かも知れない。 面白いことは面白いんだけど、でも、よーく考えると「?」が結構あるのだよな。 ・三葉が選ばれるのは、分かる。千年前にも隕石が落下した村の神社の娘で、クレーターみたいな中にあるご神体にも行ったりしてるのだから。では、なぜ交信相手に瀧くんが選ばれたのだ? ・瀧は、交信の途絶えた三葉をさがしに飛騨へ行くんだけど。そのための手がかりが、展覧会で見た写真にインスパイアされて描いた自筆の風景画だけ、ってのは変だろ。だって瀧は三葉の身体に入って村に住み高校に行っていた。だったら地名・高校名ぐらい嫌でも目に入るだろ。それと、展覧会の写真にしたって、何となく展示してたわけじゃないだろ。隕石が落下して消えた村・・・的なタイトルか説明があったはず。さらに、大事件があった村の風景を、飛騨の人々が知らないというのも、変だろ。なので、村を見つけるのに苦労する話は、ううむ・・・だな。 ・さらに、互いに相手の身体で時を過ごせば、それが西暦何年の何月何日、ぐらいは嫌でも耳目にふれるわけで。3年のギャップがあるぐらいのことに、速攻気づけよ! ・飛騨への旅で、瀧は犠牲者名簿に三葉の名前を見つける。まだ記憶があるわけだ。翌日、友人を宿に残し、ふたたび山に登り、ご神体をめざすのは、祖母と妹と、口噛み酒を捧げに行ったときに入れ替わっていたから、記憶があったんだっけ? まあいい。それで、クレーターの縁で三葉と瀧はめぐり逢うんだけど、それはいいんだよ、オカルトでも。問題は、めぐり会った後に、なぜ互いの記憶を失っていくのか、なんだよな。 ・あれ? 落下の前日には、三葉の身体に瀧が入っていて、それで友人たちと、避難作戦をスタートさせるんだったよな。途絶えた交信が復活するんだっけか? ああ、もう忘れてる。てなわけで、ネタバレサイト見たら、口噛み酒飲んだときに入れ替わったらしい。ああ、そうか。変なイラストっぽいイメージのシーンだ。でも、いったん途絶えた交信が復活する理由は、よく分からんな。 ・交信が途絶えた後、隕石落下の前日、三葉はとつぜん東京に行く。あれは何の導きなんだ? なにげなくふらついて、四ツ谷駅で瀧を見つけ、話しかける。そうまでして会う運命の2人であるなら、やはり根拠が欲しいところだ。 ・三葉の友人たちは、変電所を爆破し、偽の避難放送をするけれど、バレて失敗。役場からは、「落ち着いて、家で待機」という放送を開始してしまう・・・。じゃ、隕石落下の被害は変えられないのか。と思っていたら、隕石のニュース。なんと、落下したけれど、その日ちょうど村では避難訓練をしていて、大半の住人は無事だった、というオチになるんだけど。おい。どういうこった、それ。三葉や友人たちの工作は、あれは役に立たなかったのか? で、別の時間(パラレルワールド的な時間の流れ)が起こって、その世界では避難訓練をして助かった、ってことなのか? うーむ。よく分からん。 というわけで、基本的なところでいくつか「?」があるんだよね。やはり、住人を救うため必然的に瀧が選ばれた、という話にした方がいいんじゃないのかな。説明くさくなるけど・・・。 隕石の落下は、地震につづく原発事故を連想させる感じ。 坂や階段が登場するのは、この手のタイムワープものではお約束。妖しいところは、坂にあり。ラスト。2人の再会も、神社の階段だった。四ッ谷の須賀神社。ここも聖地になるのかね。近くはむかしよく通ったけど、登ったことはないな、たぶん。 瀧くんは、四ッ谷に住んでるのか? 父親と2人暮らし? 三葉の父親の政治好きは、どういう意味があるんだ? ※追記(2017.04.15) 『ジブリ汗まみれ』で鈴木敏夫が「あの世の映画」というようなことを語っていた。で、少し考えたんだが。もしかしてラストシーンもあの世の可能性が、あるな。階段=坂は、この世とあの世の端境。階段の上には神社。三葉は霊で、瀧はその存在を感じた、とか? あるいは2人とも実は霊だったとか? いや、見終えて時間が経っているのと、後半の霊的な部分の理解が足りないので、間違いかも知らないけど。それによっては、実は隕石は落ちていなかった、やっぱり落ちていた、とかのズレも解消できる、のかな? もう一度見て確認しないと分からんけど。 | ||||
アスファルト | 9/6 | シネ・リーブル池袋シアター2 | 監督/サミュエル・ベンシェトリ | 脚本/サミュエル・ベンシェトリ |
フランス映画。原題も“Asphalte”。allcinemaのあらすじは「フランス郊外にあるオンボロ団地。故障中のエレベーターを住民が費用を負担して修理することに。しかし2階に住む自称写真家のスタンコヴィッチは断固拒否。結局、彼だけは金を出さない代わりにエレベーターを使用しないことで決着する。ところがその直後、彼は足を怪我して車椅子生活に。誰にも見つからないよう深夜に食料調達に向かうが、そんな時間に買えるところは病院の自動販売機だけ。するとそこで、何やらワケありの夜勤の看護師と出会い、心惹かれるスタンコヴィッチだったが…。母親がいつも留守にしている10代の少年シャルリ。ある日、となりに中年女性が引っ越してくる。この団地に不釣り合いな彼女の正体は、すっかり落ちぶれてしまった女優ジャンヌだったが…。ある日、NASAの宇宙飛行士ジョン・マッケンジーを乗せたカプセルが団地の屋上に不時着する。これを秘密にしたいNASAからの要望で、最上階に住むアルジェリア系移民のマダム・ハミダが彼を2日間かくまうことになるのだが…」 しみじみと、地味に、おかしく、切なく、温かい話であった。話は↑のあらすじでほぼ尽くされている。 冒頭のエレベーター修理問題は、笑った。自分は2階だから修理費用は払わない、エレベーターも使わない、と言ったそばから事故で車椅子生活! その事故も、マンションの理事長(?)宅にあった室内サイクルマシンを買ったせいで、ペダルを自動回転モードにしたら止まらなくなって肉体的にギブアップ! みたいになったんだが。でも、そんなもの買うっていうのは、銭がないわけでもないということか。で、人が利用しない11時過ぎから早朝5時ぐらいまでの間に使うんだけど、街に開いている店がないんだな、フランスは。電話注文でもってきてくれるところも、ないのか? で、病院に入り込んで自販機でスナックを買ったら、ひとつ引っかかって落ちてこなくて・・・。マンガかよ。笑った。で、寂しい中年看護婦と知り合いになり、すけべ心から接近して「僕は写真家で、世界中を旅していろんな人や物を写してるんだ」なんてウソついて。翌晩から、母の古いポラロイドカメラとフィルムカメラを提げて会いに行くって、どんなオッサンなんだ? (Web情報で。そうか。テレビで見ていた『マディソン郡の橋』にインスパイアされて、自分はカメラマン、にしたのか。なるほど) 「君の写真を撮りたい」とか約束したはいいけど、当日の夜、エレベーターに閉じ込められてしまって。エイヤで立ち上がって扉を開け、よろよろ夜明けまでかかって歩いて行き、告白しちゃうという、なんというか、ほのぼの。しかし、あんなオッサンでも、独身の、寂しい中年看護婦からはモテるのか・・・。うらやましい。 ところでエレベーターの交換なんだけど、理事会が払わないので住民で払う、というのはどういうことなんだろ。修繕積み立て費がないので払えない、なので出し合う、ということなのかね。で、代金が一戸500ユーロ弱だったんだが。1ユーロ=120円として6万円。あそこにいた住人はせいぜい30人。で、200万円弱で修理? 安すぎないか? シャルリが美少年で。なんとジャン=ルイ・トランティニァンの孫なんだと。で、同じ部屋に越してきた中年のジャンヌに親切にしてあげたせいで知り合いになるんだが、部屋の鍵を開けてやるのに窓から下の友人に「鍵を開けてくれ!」と怒鳴ると来てくれるって、なんなんだ!? で、ジャンヌは女優で、見せてくれたのは1985年の『腕のない女』(Web情報によれば、実は『レースを編む女』(1977)らしい)。最初は白黒画面をバカにしていたけれど、見終えて感動してしまったみたい。かつての人気女優も落ちぶれて場末のアパートに越してきた、という設定。ジャンヌが、かつて演じた芝居が再上演されるからと演出家に会いに行ったけど、会うこともできず。(★の辺りで、ババアがジジイをつれに入ってきたので、字幕に集中できなかった) 荒れたジャンヌに、ビデオでオーディションに応募。それも、15歳の少女役ではなく、90歳の老婆役で応募しろ、とアドバイスするくだりがなかなかいい。しっかし、一度頂点を味わった役者は、いつまでも自分は若く、なんでもできる、と思い込んじゃうのかね。 シャルリの2人の悪友がいい味を出していて。この2人が屋上にいたら、なんとNASAの飛行艇が落下してくるという、あり得ない展開が大笑い。そっからでてきた若い宇宙飛行士は、アルジェリア生まれのフランス女性の家を訪れ、NASAに電話。お前の身代わりを宇宙に上げ、無事救出した、ということにするためには2日ほどやっかいになる必要がある、とかいわれてしまうという、これまたマンガ。女性の息子は、あれは刑務所か? に入っていて、同じ年頃の宇宙飛行士にシンパシー。英語とフランス語の、意味不明コミュニケーションも上手くいって、無事送り返すまでの話なんだが。屋上に、飛行艇が置いてきぼり、はいいのか? などと突っ込みたくなってしまった。 ずっと触れられるのが、聞こえてくる謎のきしみ音。あれこれ言われていたけど、結局なんだかよくわからず。人間関係のきしみ、なのかな? ★途中で、老人が背後から入ってきて、俺の前の席に座ろうとする。俺は後ろから2列目、右端から2つ目に座っていた。前の席の左右には人がいて、間に挟まれたその席に「わかんなくなっちゃった」とかつぶやきつつ、入り込んで座ってしまった。そしてずっと見てる。小用に立って、席がわからなくなったのか? この老人の座高が高く、首をふらふらするのが気になって、左へひとつずれた。 30分ぐらいしただろうか。後方で光がうろうろ。しばらくして老婆が、「おとうさん、違うじゃない。こっちじゃないわよ」と、老人に声をかける。光は、スタッフのライトだったようだ。老人の「あ? 終わったのか?」に「何いってんのよ」とか言われ、老人は席から立ち上がり去っていった。 隣のハコで見ていて、小用に立ち、もどるとき、こちらに間違って入ってきて、同じような席に座り、違う映画を見つづけていた、らしい。気がつかなかったのか? 気がついても、そのままいつづけたのか。「終わったのか?」なんていったところをみると、妻が隣で別の(元の)映画を観ているのかなとは感づいていたのかな。分からんけど。その、隣でやっていたのは、どうやら『シング・ストリート』だったようだ。奥さんに連れられてやってきたのな。しんし、こんなアルツなジジイも『シング・ストリート』見るのか。いや、見てたかどうかあやしいけど。 | ||||
キャロル | 9/7 | ギンレイホール | 監督/トッド・ヘインズ | 脚本/フィリス・ナジー |
イギリス/アメリカ/フランスの資本が入ってる。原題も“Carol”。allcinemaのあらすじは「1952年、クリスマス目前の活気あふれるニューヨーク。高級百貨店のおもちゃ売り場でアルバイトをしているテレーズ。フォトグラファーという夢を持ち、恋人のリチャードからは結婚を迫られるなど、一見充実しているかに思えて、どこか満たされない日々を送っていた。そんなある日、ゴージャスな毛皮のコートを着た女性キャロルが、娘のクリスマスプレゼントを探しに彼女の売り場へやって来る。その美しく優雅な佇まいに一瞬で目を奪われ、強い憧れを抱くテレーズ。後日、ふとした成り行きからキャロルにランチに誘われ、彼女が夫ハージとの愛のない結婚生活に苦しんできたこと、そしてついに離婚を決意したことを知るが…」 建て前は言わない。LGBTについては否定はしないが、支援は特にしない立場なので、ああそうですか、な感じ。というのも、LGBTが嗜好の多様性であるならば、SMも幼児性愛もスカトロも、ありとあらゆる性癖を多様性として認めなくてはおかしいからだ。もちろん、相手が嫌がるものを強いて行うことを認めるものではない。がしかし、法律の定めるところも時代とともに変化する。禁酒法も大まじめに考えられていた時代もあったけれど、いまじゃ多くの国で大麻が合法化されている。大麻より危険なアルコールを制限しないのはおかしい、という時代がまたこないとも限らない。幼児性愛だって、相手が認めればOKということになるかもしれない。当然ながら、幼児にまだ人権はないから、じゃあ何歳からならいいのか? という話になってくるんだろうけど、日本と西欧ではまた違ってくる。児童ポルノは所持も犯罪な西欧に比べて、日本は児童ポルノの氾濫、といわれつつ、児童虐待などの犯罪は世界的に見れば少ないわけで。だからいい、というわけではないけれど、差異は差異として認めるべきだし、西欧の基準を日本にあてはめるのもおかしい。話が逸れすぎた。 LGBTだって、過去に迫害されたぶん、現在は広く認められるようになっている。日本など、古い昔から戦国武将が稚児を寵愛したり、仏教の世界でも大っぴらに行われてきた。西鶴の『好色一代男』の世之介など、7歳で女を知り、生涯に「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」という設定になっている。男女の営みも、10代の初めは当たり前で、赤とんぼでも「15でねえやは嫁に行き」と歌われていて、それは数えだろうから13歳かもしれない。そういうこともあったし、そう歌われても違和感のない世の中が、大正時代にはあった。江戸時代には陰間茶屋というものがあって、そこでは男色が公に行われていた。日本では、男色や幼児趣味は、そういうこともある、という性癖や習慣であり、公言するほどのこともないけれど、決してタブーではなかったのだ。それが変わったのは、おそらく第二次大戦後だろう。西欧の価値観が流入し、大人と子どもの区別を明確にするようになって、女性は16歳、男性は18歳からの結婚となった。戦前は女性は15歳、男性は17歳だった。いまじゃ犯罪だ。価値観はかように変化する。変化した結果の現在が最善というわけでもない。今後も価値観や科学の進化に従って変化するだろうし、どうなるかは分からない。 ハクスリーの『すばらしき新世界』(1932)では、幼少期からセックスするというような描写もあった。そんな未来は来ない、とも言い切れない。どうなるかは分からない。 日本は、異端に対する許容は、結構ゆるやかだったのだ。LGBTへの偏見は戦後流入されたものだろうから、それが解き放たれるのも割りと容易だったんだと思う。タレントも、丸山明宏とかカルーセル麻紀とかピーターとか昔からいたし、おすぎ&ピーコみたいな文化人もいる、マツコ・デラックスみたいな大スターも登場した。このゆるさは何なんだ。 もちろん、ブラウン管の向こうの芸人だから、ってのもあるだろう。もし、自分の子どもが、家族が、となったら、ちょっと違うかも知れない。かも知れないけれど、いまじゃ、そういう多様性が誕生する確率は、むかしより多いわけで。うつ病とか統合失調とかダウン症とか知恵遅れとか、その他の肉体的障がい者も合わせれば、かなりの数の異端者が存在し、それに対して、多少の嫌悪感や恐怖心を抱かれつつも、同じ社会のレイヤーの上で生活している現実がある。このあたりは、キリスト教的倫理観にしばられた、同性愛者は悪、という西欧的思想とは別物だろうなと思ったりする。 もちろんそれでも、やっぱり、あちら側の人として存在するなら構わないけど、こちら側に来てもらうのはちょっと、というのが本音であって。それを賞賛する、というところまではいかないというのが、個人的なスタンスなんだよね。 そういえば、変態自撮り写真をFacebookにアップして話題になってる裁判官がいるけど、そういう趣味があることは、それはそれで尊重する必要があるわけだけど、では、LGBTを肯定・支援する方々は、その裁判官の行為も肯定・支援するのかな。そして、何の偏見もなく接することができるのかね。 | ||||
リリーのすべて | 9/7 | ギンレイホール | 監督/トム・フーパー | 脚本/ルシンダ・コクソン |
イギリス/ドイツ/アメリカの資本が入ってる。原題は素っ気なく“The Danish Girl”だ。allcinemaのあらすじは「1926年、デンマークのコペンハーゲン。風景画家のアイナー・ヴェイナーは結婚して6年目になる肖像画家の妻ゲルダと仲睦まじい日々を送っていた。ある日、ゲルダに頼まれて女性モデルの代役を引き受けたのがきっかけとなり、自分の中に潜んでいた女性の存在を自覚するようになる。最初は遊びのつもりでアイナーに女装をさせ、“リリー”として外に連れ出し楽しんでいたゲルダも、次第にアイナーが本気だと気づき激しく動揺するが…」 『キャロル』と『リリーのすべて』。合わせ鏡のような設定だけど、前者はキャロルが気の毒になるような話にして、リリーではゲルダが気の毒になるような話にしている。身勝手なのは、男、ということになっているのも似ている。前者では同性愛を美化し、後者では、同性愛者の夫をもつ妻の献身的な行動を美化している。ともに女性を描く映画であって、男性を描く映画ではないのだよな。後者の同性愛亭主は、どちらかというとフリーク扱いだし。 『キャロル』・・・。ある日、女房が幼なじみの女性アビーと恋仲になって、亭主をないがしろにするようになった話。具体的には描かれていないけれど、亭主からのセックス要求も、拒否したんじゃないのかな。アビーとの仲は亭主の知るところとなり、別離を要求されたんだろう。夫婦仲は冷え、離婚直前。それまで、娘に対しては共同親権ということで合意していたけれど、突然、亭主が「自分1人で親権を」と主張することになり、調停が行われている…というところで、キャロルは若いテレーズと知り合う・・・という流れ。これ、どうみても女房キャロルの浮気が原因だろ。だいたい、亭主はまだ妻に未練があって、一緒に住みたがっている。もちろん、世間体や実家へに対する顔向け、もあるだろうけど、亭主が浮気しているわけではない。なのに、この映画で亭主は、キャロルの自由な性癖をジャマする了見の狭い男に描かれる。親権問題にしても、1950年代なら、当時の社会的認識としていたしかたのないところではないのか。たとえば『噂の二人』は1934年の作で、映画化は1936年と1961年で、ヘプバーンのでているのは1961年の方。『キャロル』より後の時代で、それでも偏見が凄かったんだから、50年代なら尚更だ。女房の同性愛を懐深く許容する亭主なんて、ほとんどいなかったに違いない。むしろ、あの時代に、同性愛者として烙印を押されたキャロルとアビーが、地域社会でどのような視線で見られていたか、に興味がある。とくに、キャロルの家には家政婦もいるわけで、そこからの視点などどんなものなのか、と。 『リリーのすべて』・・・。ある日、亭主アイナーが幼少期からの同性愛に目覚め、女装に力を注ぐようになる。最初、女房ゲルダもゲームのつもりで一緒に楽しんでいたけど、本気、と分かって・・・。でも、アイナー変じてリリーとなった亭主をモデルに描いた絵が画商に評価されて、立場がゆれる。アイナー描きつづけるゲルダ。どんどん女性化願望が強まるアイナー。精神的な治療はしつくして、最後に頼った医師が男根切断と膣形成を推奨。トランスジェンダーなのだろうアイナーはペニス切断に意欲的で、本来の自分=女性になりたい、と手術を決意。ゲルダも、おそるおそる支援する・・・という、どーも、素直に納得できない展開だ。だいたい、ちょっと前まで「子どもをつくろう」なんてセックスに励んでいたのに、アイナーはセックスを拒否。それでもゲルダがアイナーを支援するのは、自分の絵のモデルとして必要だったからだろ? 性的満足は、アイナーの幼友達で、画商のハンスで間に合わせていたのか? ゲルダは、身勝手なアイナーに振りまわされつつ、献身的というには打算的すぎる支援を受けていたのではないのか? と思ってしまう。 『キャロル』・・・。パトリシア・ハイスミスの自伝的小説が原作らしい。デパートの店員と、富豪の奥様。しかし、呼ばれるままに食事をしたり家を訪れたりって、この時点でテレーズはキャロルに惚れたのか? 1950年代だぜ。背徳感はなかったのか? フツーなら、これはいけないこと、とかいって苦悩すると思うんだが。そんなものを描いてはいまどきのニーズに応える映画にならないから、ざっくり省いてるのかね。しかし、キャロル奥様の「旅行に行きましょう」に素直に従い、ついにはモーテルで事に及び、事が探偵に録音されていたと知るや、テレーズを置いて帰ってしまうキャロルってなんなんだ? 結局は、若い娘の心を弄んだに過ぎないだろ。もう忘れろ、といったって、じゃあハナから誘うなよ、な話だ。しかも、調停(裁判沙汰にしたら噂になる。だから、面接権だけは与えろ、というキャロルの最後通告)が上手くいったのか、亭主と一緒に暮らしていて、娘ともふれ合えているという。で、そのうち家をでて一人住まいをし、どこかで働く、とか言っていたが、それは正式離婚して、面接権を有してのことだろう。「だから、一緒に住もう」とテレーズに言うというのは、度胸だね。いったんは断るテレーズだけど、未練は断ち切れないのか、テーブルで会食中のキャロルに会いに行く。そのときの、テレーズを見るキャロルの、勝ち誇ったような表情が、怖すぎる。 『キャロル』・・・。親権問題にからむんだけど。LBGTの人が保護者としていることは、はたして子どもにどういう影響を及ぼすんだろう。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という考えの人は、影響がある、と思っているわけだよな。はたまた、あれは遺伝だ、という考え人は、たいして影響はない、と考えるんだろうか。その辺りのことを知りたい気もする。個人的には、キャロルから親権を剥奪するというのは、やりすぎだと思う。ただし、それは現在の価値基準を過去にあてはめているわけで、当時の通念では、とんでもないこと、となるんではないだろうか。 『リリーのすべて』・・・。実話だそうだが。死の危険より、一刻も早く膣形成して女になりたい、が勝るというのはブキミな気がしてしまう。もう少し体力をつけてからでもよかったのに、なんで? な感じ。それほど自分の身体に違和感がある、ってことかね。アイナーの「画家より女になりたい」に対して、ゲルダは「女で画家もいるわ」という。なんか、この手の人たちって、性転換することが目的で、その後の社会的役割とか生き甲斐は二の次、に思えてしまうんだけど、そうなのかね。 『キャロル』・・・。しかし、アビーはなぜキャロルを応援しているのだ? すでに関係は終わっているのに、しかも、テレーズに触手を伸ばしているのを知りつつ、キャロルの世話を焼く。それが心の満足なのか? なんか、やりきれんな。なんてワガママ >> キャロル。 『リリーのすべて』・・・。夫婦ともに絵描きで、絵画教室の教師だったアイナーと生徒だったゲルダが結婚した・・・んだっけかな。しかし、アイナーは男性でいることの違和感を抑え込んでいたのか? いやいやムリに結婚し、セックスもしていたのか? 冒頭の描写では、まったくそんな風には見えないんだけどな。たまたま女性の衣装を身につけて、それで眠っていた女性性が目覚めた? なんか、良く分からんな。 『キャロル』・・・。何もできない奥様のキャロルに対して、テレーズは働く娘。鉄道模型が好きで、写真家志望、というから男の子っぽいところがあるんだろ。それでキャロルも惹かれたのかな。テレーズがキャロルに惹かれた理由は分からんけど。 ・『キャロル』のキャロル、『リリーのすべて』のアイナー。ともに生活力がないのはなぜなんだ? 同性愛者は働かなくても生活できるのか? とくにアイナーは、女房のアシスタントで満足するようになるとは、芸術家とも思えない体たらく。 ・『キャロル』『リリーのすべて』ともに、長すぎる。まあ、『キャロル』は『エデンより彼方に』のトッド・ヘインズだから、ゆったりとした流れは分からんでもないけど。両者とも、同じような話をくどくどと繰り返したりして、ドラマが少ない。意外な展開、思わぬ事件、もなく、だらだらと進む。とくに『リリー』はタルイので、途中で眠くなった。 ・キャロルの亭主と娘、アイナーの妻ゲルダは、被害者だよな。キャロルもアイナーも、ともに異性と結婚せず、独り身を通せば、パートナーに被害を与えなくて済んだのに。まあ、そうせざるを得なかった時代背景もあるんだろうけどね。でも、相手に対する申し訳なさがほとんど感じられないのが、なんだかな、な感じ。 ・同性愛者は、ハッテン場とかゲイバーとか、つねに相手を求め、取っ替え引っ替えな印象があって、いまいち平和な感じがしない。『ミルク』とか『アデル、ブルーは熱い色』の影響が強いのかな。ははは。 ★見ている最中に地震があった。震度3だったようだ。結構長くて、どうなるのかな、とか思いつつ見てた。 | ||||
ロブスター | 9/8 | キネカ大森シアター2 | 監督/ヨルゴス・ランティモス | 脚本/ヨルゴス・ランティモス、エフティミス・フィリップ |
アイルランド/イギリス/ギリシャ/フランス/オランダ/アメリカの資本が入っている。原題は“The Lobster”。allcinemaのあらすじは「突然妻に去られ、独身となってしまったデヴィッド。兄である犬とともにとあるホテルに送られる。彼はそこで45日以内にパートナーを見つけなければ、事前に希望した動物へと姿を変えられてしまうのだった。ちなみにデヴィッドの希望はロブスター。こうしてデヴィッドのパートナー探しは始まるが、まるで思うようにいかず、ついにはホテルを脱走し、森へと逃げ込む。その森には独身者たちが隠れ住んでおり、女性リーダーを中心に強固なコミュニティが築かれていた。そこではホテルとは逆に、カップルになることは固く禁じられていた。そんな中、皮肉にも一人の女性と恋に落ちてしまうデヴィッドだったが…」 つまらなかった。20分ぐらいしてうとうと・・・。10分ぐらい寝たかな。気が付いたら、冷酷な女性とお付き合いを始めているところだった。 ↑のような話なんだけど、そういう具体的な説明があるのではなく、何だかそんな感じ、という具合に想像する未来(?)世界な感じ。その前提として、なぜ配偶者がいないといけないのか、どうして動物に変えられてしまうのか? パートナーを見つけるシステムはあれしかないのか? 45日という滞在期間を延ばすために行われる狩りは、どういうものなのか? あれ、『ハンガー・ゲーム』みたいに、仲間を麻酔銃で撃つ、のか? 敵あるいは獲物となる人物がいるのか? 簡単に脱出して独身グループに参加できてしまうのか? っていうか、国家とか政治体制とかはどうなっておるのか? 問題ありの単身者は、あんなホテルで収容できるような数じゃないだろ、とか、突っ込みだしていくと数限りない「?」がある。だからまあ、リアリティを追求しちゃいかんのは分かるが、あまりにもテキトーなのもねえ・・・。 結婚主義は体制的で、独身主義者は反体制的なゲリラ部隊なのか? そういう体制とかグループ、国家情勢のパロディ? それにしちゃ、近所でままごとやってるみたいだけど。しかし、独身グループでは恋愛禁止。キスしたらリンチ。ダンスもみんなで、ではなく各自CDプレーヤーをイアフォンで聞きつつ踊る、というのもバカすぎ。どこに皮肉があるのか分からない。 で、デヴィッドは近視の女と相思相愛になる。独身グループのリーダーは女性で、両親は街に暮らしており、ときおり仲間数人で買い出しついでに両親の家に寄る・・・って、平和だね。で、2人の恋はリーダーの知るところとなり、近視の女は強制的に失明させられる。逃げる2人。2人は街の食堂に入るが、デヴィッドは給仕にステーキナイフをもらい、それをもってトイレへ。彼も目を潰そうというのだ・・・。それを待つ、失明した近視の女、でエンド。なんだかな、この終わり方も。『春琴抄』か? デヴィッドに、コリン・ファレル。近視の女は、レイチェル・ワイズ。ホテル仲間の滑舌の悪い男にジョン・C・ライリー。女性リーダーは、『アデル、ブルーは熱い色』のブス女、レア・セドゥ・・・という豪華キャスト。でも、話はつまらない。どういう暗喩があるんだろ。さっぱり分からない。 ・リーダーと一緒にデヴィッド、近視の女らがリーダーの両親のところに行ったとき、デヴィッドと近視の女が大っぴらにキスしたりする場面が笑えた。両親の前では、仲のよい男女を装わなくてはならないからだけど、やりすぎて、のことなんだが。笑えたのはそれぐらいかな。 ・「生まれ変わったらロブスターになりたい。100年生きるから」って、それだけかい。 ・冒頭の、ラバみたいなのを女(あれは誰だ? デヴィッドの妻?)が撃ち殺すのは、ありゃどういう意味があるんだ? | ||||
ゴーストバスターズ | 9/8 | 109シネマズ木場シアター8 | 監督/ポール・フェイグ | 脚本/ケイティ・ディポルド、ポール・フェイグ |
原題は“Ghostbusters”と、まんま。allcinemaのあらすじは「ニューヨーク。名門大学で真面目に教鞭をとる物理学教授のエリン。ところが、彼女がかつて書いた心霊現象に関する本がネットに出回り、それがバレて最終的に大学を追われるハメに。原因はエリンの昔なじみで女性科学者のアビー。今も天才で変人の女性エンジニア、ジリアンをアシスタントに心霊研究を続けていた。そんな3人はたまたま調査に向かった屋敷でついに本物の幽霊と遭遇、それがきっかけで幽霊退治専門の会社“ゴーストバスターズ”を立ち上げることに。そこへニューヨークの街を知り尽くす地下鉄職員のパティと、受付係としてボンクラだけどイケメンのケヴィンを加え、いよいよ本格的な幽霊退治に乗り出すゴーストバスターズだったが…」 リブート版らしい。意味は・・・「シリーズにおける連続性を捨て、新たに一から仕切り直すこと」らしい。それでタイトルが第1作と同じなのか。で、話の概略も同じ。メンバーが男性から女性になった、と。 で、4人のキャラクターは面白いんだけど、話がつまらないな、っていうのが感想。落ちこぼれ大学教員+αがお化けを退治する、っていうだけで、それ以上がない。 正直にいうと、最初のエピソード。最古の住宅にいる幽霊を退治するところは、オーソドックスだけどわくわくするし、ちょっとゾクッともする。ああいう雰囲気づくりが、その後の展開にはないのだよ。幽霊をおびき寄せる装置をつくった犯人が市中を徘徊し、なにやら×印の交点に幽霊を大量におびき寄せるようなこと(なのか?)を計画していて。いったんはその犯人は自死し、一件落着、になるんだが、霊が生き延びて受付係のケヴィンに憑依・・・。ニューヨークは幽霊だらけになるが、4人の活躍でなんとか解決・・・。な話で、ひねりがない。 そもそも犯人は、どういう人物なんだ? どうやって幽霊を呼び寄せるような装置をつくったんだ? わざわざホテルの従業員に身を隠していたのは、なぜ? なにが目的だったのだ? えーと、そういうのって、描かれてたか? いや、後半の、お化けうじゃうじゃのころは飽きちゃって、寝落ちしそうになってたから、よく見てないんだよ。バカバカしすぎて。 キャラクターは面白いんだけどね。ちょっと間抜けだけど美人キャラのエリンは、でも馬面だな。信念まっしぐら、なアビーは、こういうのいるよな、なおデブちゃん。一番気になったのが天才発明家のホルツマンで、あまりちゃんと顔が見えない。エキセントリックな変人ぶりをコメディ路線でやってるけど、実は美人なんじゃないのか?(あとで調べたら美人っぽいけど何かいかついところもあるのね。目立つのは、立派な歯だった) 残る一人は元地下鉄職員で逞しいパティ。・・・なんだけど、彼女が黒人であるというのが、なんか、ううむ。グループを表現するとき白人だけじゃまずいというのがあるんだろうけど、なんか、つけ足し的と、知的レベルが彼女だけ一般人、ってのが気になってしまう。4人が雇った電話番は、白人イケメンだけど、脳みそが足りない、っていう、まあ、その手の男への皮肉みたいな感じなんだけど、ちょっとバカバカしいし、くどい感じがして、ううむ・・・。 のようにキャラはユニークなんだけど、その威力を発揮せず、後半からクライマックスは、CG中心で進んでいくので、よけいにつまらない。自分は霊にまでなりながら、バケモノをニューヨークに集めて一杯にする目的とか、その背景とか、そういう人物とかなんかの背景を描いてくれたら、まだ興味が保てたんだろうけど。その他のアクションものと同じで、退屈で眠くなっちまったのだ・・・。だって、最初は4人がかりで幽霊ひとりを退治するのがたいへん・・・な感じだったのに、クライマックスでは、一人が銃で簡単に幽霊を始末しちゃってる。なんだこのいい加減さ。この手の話は、やっぱ、ダメだ。 ・幽霊進入禁止のトレードマークが、駅のスプレーのいたずら書きから生まれた、って話はなるほどね、な感じ。 ・中華屋の出前持ちとワンタンの話は笑える。 ・吹き飛ばされたアンチ幽霊学者=ビル・マーレーはどうなったんだ? ・ダン・エイクロイドはタクシー運転手だったらしいが、気が付かなかった。 ・ロックスターは、オジー・オズボーンだったのね。 ・ラストの怪しい声は「ズール」って、なに? 次回作への引っぱりか? | ||||
セトウツミ | 9/12 | テアトル新宿 | 監督/大森立嗣 | 脚本/宮崎大、大森立嗣 |
allcinemaのあらすじは「高校2年生の内海想と瀬戸小吉。塾に通うクールなメガネ男子の内海に対し、瀬戸は元サッカー部の少々熱血なお調子者。そんなまるで対照的な2人だが、放課後はいつも一緒に河原で時間を潰す。これといった目的もなく、ダラダラと無駄話を続ける瀬戸と内海だったが…」 会話中心ということなので、2時間もそれやられたらかなわんと敬遠していたんだけど、1時間チョイらしい(実際は75分)ので大丈夫かなと。でも、終わってみれば、2人のしゃべり中心の前半が、不思議感もあるし、抑制の効いた漫才風で楽しい。で、マドンナの樫村さんが登場したり、下校シーンがあったり、夏休みの私服での花火とか、いろいろ要素や色が入ってきて、フツーの映画みたいな部分がふえてくるに従って、だんだんつまらなくなっていった。どうせなら全編川岸の階段で撮って、樫村さんはチラッと存在だけ、人物として対峙するのはヤンキーの鳴山ぐらい、にとどめて置いた方がよかったかも知れない。バルーンアーチストとか、要らんだろ。あと、瀬戸の母親はいいけど、父親とか祖父とか出さないで、話だけでいいと思う。生っぽくなりすぎだ。 ・第1話:セトとウツミ ・第2話:アメとムチ ・第3話:イカクとギタイ ・第0話:内海想の出会い ・第4話:先祖と子孫 ・第5話:瀬戸小吉の憂鬱 ・第6話:出会いと別れ ・エピローグ:樫村一期の想い のタイトルがつけられているけど、第0話の「出会い」は、要らんな。座っている内海に瀬戸が一方的に話しかけるという流れで、いかにもむりやりな感じ。接点のないように見える2人が互いに心の奥底では信頼し、親近感をもっている・・・という説明にもなっていない。まあ、それを描くのはムリだろ。要は、その出会いには何の意味もないわけで、それを描かれても、困るだけだ。 下校の時、内海に話しかけてくる同級生がいるんだけど。なぜ彼は陰気な内海に話しかける必然性があるんだ? ない。だから、説得力がなくなる。それと、もっとひどいことがある。この、話しかけてくる同級生のセリフが、いくら歩きながらだとはいえ、まったく聞き取れないというのは、どうなっているのだ? 樫村さんというお寺の少女だけど。これがあまり美形ではないので、ちょっと萎える。まあいい。それにしても、瀬戸>>樫村>>内海という恋愛関係が、これまた説得力がない。瀬戸が樫村さんを一方的に好き、は構わないけど、なぜに樫村さんが内海を? その納得できる説明がないと、笑えも、楽しめもしない。あ、あと、瀬戸が部活をやめた理由もな。 第1話のヤンキー鳴山とその父親は、意外性があったし、どこかシュールでもあるので面白い。瀬戸の母親が買い物帰りに通過するのもいい。でも、酔った生徒の父親を、母親が介護する様子を、河原での同じフレームに入れなくてもいいだろ。それにそもそも、あれは現実なのかイメージなのか。現実であれば、互いに気づくのに、素知らぬ顔で隣のベンチに座っている違和感。 ・背景の家屋、緑の繁り具合枯れ具合、通行人や走り抜けるクルマが自然すぎて気になってしまった。なので、ついついそっちを見てしまう。同じクルマは何度か登場するか、同じエキストラが歩くかな、とか。 | ||||
最高の花婿 | 9/14 | ギンレイホール | 監督/フィリップ・ドゥ・ショーヴロン | 脚本/フィリップ・ドゥ・ショーヴロン、ギィ・ローラン |
フランス映画。原題は“Qu'est-ce qu'on a fait au Bon Dieu?”。英文タイトルは、“Serial (Bad) Weddings”。「私たちがいったい神様に何をしたというの?(何も悪いことなんてしてないのに)」。フランス映画祭で公開されたときの題名は『ヴェルヌイユ家の結婚狂騒曲』。allcinemaのあらすじは「フランスのロワール地方に暮らすクロードとマリーのヴェルヌイユ夫妻。敬虔なカトリック教徒の2人は、三女の結婚式にもどこか浮かぬ顔。というのも、長女と次女の花婿がアラブ人とユダヤ人で、今度は中国人。決して差別主義者ではないものの、娘の結婚式をカトリックの教会で挙げるというマリーの夢もいまだ叶わぬまま。そんな夫妻にとって、いまや最後の砦となった末娘ロールがついに結婚することに。彼女によると相手はなんとカトリック教徒。それを聞いた夫妻は大喜び。ところがいざ挨拶にやってきた婚約者シャルルは、コートジボワール生まれの黒人だった。これにはクロードばかりか3人の婿たちまでが猛反対するのだったが…」 フランスを舞台にした『招かれざる客』ってところか。でも、娘4人に婿4人とスケールアップ。さらに、人種問題だけじゃなく、昨今の社会情勢を反映してアラブ人(アルジェリア)、ユダヤ人(イスラエル)、中国人、そして、黒人(コートジボアール)とバラエティ豊というか、いや、これが現実問題なんだろうな。人種だの宗教は、マジにやると、たいへんなことになる。なわけでコメディなんだけど、いくら笑えても実は深刻な問題には変わりない。 両親は、結果的にアラブ→ユダヤ→中国と、心ならずも許してきた。でも、末娘はカトリックのフランス人、と願っていた。ところがどっこい、ロールが選んだのはアフリカ人。それを知った姉3人と婿3人はどうしたか。自分たちのことは棚に上げ、結婚を阻止しようとするのだ。それはないだろ。でも、そこら辺が複雑な事情を反映しているんだろうな。 婿3人とも移民、なんだろうけど、フランス人として生きている、みたいな感じで。フランス国家に忠誠を示し、サッカーはフランスを応援する、という立場。ではあるけれど、宗教や自国のルーツは棄ててはいない。ある意味では、アイデンティティが分裂している、あるいは、上手く使い分けている、というところなのか。ユダヤとイスラムがともに割礼の儀式を守るのは、その象徴的なんだろうな。 婿3人が、陰では相手のことを、ジャッキー・チェン or ブルース・リー、カダフィ or アラファト、シャイロックと呼んでいるのが面白い。世界的な中国悪人、ってのはいないのかな。カンフースターになっちゃってる。一方でアラブといえば、こいつら、な感じか。フセインは入らないんだな。ユダヤ人も、具体的な実在上の悪人はいないのか。ユダヤ人総のイメージになってる。このあたり、面白い。日本国内なら、どんな感じだろ・・・。具体的に書くと問題ありそうだからやめとこう。 ほかにも、同じアラブでも「モロッコは許せない」とか、ユダヤ人でも「俺はイスラエル」といったり、内部にもいろいろ差はあるのだな。詳しくは知らんけど。 で、見ていくうちに、この話はとても一般大衆のものではないな、と分かってくる。だってヴェルヌイユ家は広大な庭をもつ大邸宅で、かつては大地主とか貴族だったんじゃないのか? で、娘たちも上から弁護士、歯科医、画家、テレビ局員。その夫(候補)たちは、弁護士(アラブ人)、実業家(ユダヤ人)、中国人(銀行家)、役者。なにこれ、超インテリ家族集団じゃん。 難点は、カップルが瞬時に理解できないこと。4女と黒人はすぐ頭に入る。3女と中国人もまあ、わかる。困るのは、長女とアラブ人、次女とユダヤ人で、最後まで曖昧な感じのまま終わってしまった。っていうのも、アラブ人とユダヤ人の区別がつきにくくて。アラブ人はハゲなんだけど、ユダヤ人も中東顔してるので、嫁はどれだっけ? と、追従するのがたいへんだったよ。 しかし、近頃のフランス女は、配偶者として自国民を選ばず、好きな人を選ぶ傾向があるのか。そういえばフランスは正式に籍を入れない事実婚が多いと聞いたけど、そういう背景もあるのかね。こういう傾向は、将来の日本にもあてはまるんだろうか。どんどんやってくる外国人。彼らと結婚する日本女性・・・。までも、日本女性は白人至上主義だから、アジア、中東はそんなにふえないかもな。その代わり、日本男性がアジア、ロシア人を嫁にして、そっちの混血はふえるかも。とか、テキトーにいってるけど。 他にも、4女の彼氏はコートジボアールで。アフリカといってもフランスの植民地だよな、たしか。父親はフランス軍にいて、でも将軍になれなかったのは差別のせいだ、とか思ってる。ある意味、愛憎半ばする立場かも知れない。 面白いのは、4姉妹の父親はド・ゴール主義を自認する保守派で。4女の彼氏の父親も、同じド・ゴール主義みたい。フランス軍にいたせいかね。最初のうち、アラブ、ユダヤ、中国人を婿にしているヴェルヌイユ家、および、子供たちに対して「コミュニストめ」とか非難めいたことをつぶやくんだけど、4姉妹の父親と一緒に魚釣りにいってから意気投合し、結局、互いに子供たちの結婚を許すようになるんだよな。まあ、このあたりは映画的な展開だけど。まあいい。 ほかに面白かったのは、4女の彼氏の黒人が父親に会いに来て、自分が黒人だと両親が知らない、と気づいた後にいったひと言。「娘がもうひとりいたら、次の相手はロマだな」。このジョークで父親が凍りつくんだけど。アラブ人、ユダヤ人、中国人、黒人、ジプシーは世界の5大嫌われ者ってことか。 てな、現在の社会情勢を反映した男女関係が4組というのが、ユニークで面白かった。まあ、コメディ映画だからできることだよな。しかも、上流階級の富裕層だから、いろんな問題にも触れずに済んでいるし。 しかし、人種、宗教による差別・区別は根強い。移民がふえれば、もっと軋轢は高まるに違いない。日本なんか、将来、どうなっちゃうんだろ。東南アジアや中国、朝鮮半島からも流入してくるだろうし。やれやれだな。 ・次女の亭主のユダヤ人は、コーシャ(?)を売ろうと企んで銀行に相談するけど断られる。でも、最終的には中国人の銀行家の協力を得て、ハラルの自然食のビジネスを始めるんだが。コーシャってなんだ? で、調べたら、ユダヤ教の食事規定で、「すべての食品に対して厳格なルールに適合したものだけが、口にできる」というものらしい。ハラルと似てるね。ラビが認証するので安心感が高く、ユダヤ教徒だけでなく米国でも人気なんだと。へー。 ・両親の不和(離婚の危機、と娘と婿たちは思い込む)を阻止する、だっけかな。そんな内容の会話のところで「フクシマ」という語が聞き取れたんだけど。Webで見たら、絶体絶命の危機、を表すために使っているらしいが、字幕にはなかった。あえて訳さなかったのか。いいのかね、それで。 ・他にも、聞き取れなかったり、字幕にない単語はたくさん使われているらしいけど、まあ、しょうがない。分かる範囲で分かるしかない。 | ||||
さざなみ | 9/14 | ギンレイホール | 監督/アンドリュー・ヘイ | 脚本/アンドリュー・ヘイ |
イギリス映画。原題は“45 Years”。allcinemaのあらすじは「イギリスの片田舎で穏やかな毎日を送る老夫婦のジェフとケイト。5日後に結婚45周年の記念パーティを控える中、スイスの警察から1通の手紙が届く。それは、50年前にジェフと登山中にクレパスに転落して亡くなった当時の恋人カチャの遺体が、昔のままの状態で発見されたことを知らせるものだった。以来、ジェフはカチャへの愛の記憶に浸っていく。最初は自分と出会う前の話と平静を装っていたケイトも、“彼女と結婚するつもりだった”と悪びれることなく口にする夫に次第に不信感を募らせ、いつしかそれはこれまで積み重ねてきた45年間の結婚生活にも向けられていくのだったが…」 つまらんことにこだわって。バカじゃね? ってのが感想。そもそも欧米じゃ結婚前に相手を取っ替え引っ替えして、じゃあ結婚するか、な流れな想いがあるので、愛してくれたのはこのひとだけ、という幻想の元に結婚生活を送ってきた、っていうケイトの立場に理解も共感も感じなかった。英国じゃ、元カレ・元カノに対する猜疑心とか嫉妬とか、強いのかね。それとも、この監督の個人的な考えなのか? だいたい、その歳で嫉妬もないだろ。だいたい、ケイトは結婚前につきあってた彼氏は、いなかったのか? てなわけで、寝不足も手伝ってか、そうそうに退屈モードに入り、いつの間にか瞼が閉じていた。気が付いたら2人でダンスかんなか踊っていて、次のシーンはベッドインだったかな。うわ! まずその歳。バアさん(1946年生まれのシャーロット・ランプリング)と、ジイさん(1937年生まれのトム・コートネイ)が、するか? しかも不信感を抱いてるんだろ? ああいうのは、彼の地では半ば義務なんだろうか? 本音と建前は日本の専売特許みたいにいわれてるけど、あちらもかなり建て前で生きているところがあるような気がするぞ。 結婚45周年のバーティってのも、つらいものを感じるな。なんであんなことしなくちゃならんのよ。この夫婦もそうだけど、円満に現在に至る、なんてのは少数派なんじゃないのか? 驚くのは招待客の多さで。あんなに友人知人がいるのか。ふだんの生活では、ジェフの元職場の同僚の奥さんしかでてこないけど…。で思ったのは、招待客たちもいい歳なわけで。ということは、誰かの30周年とか40周年パーティが毎年のように開かれている・・・ってことにもになるよな。彼らの日常は、そういうつきあいで忙しいのか? 建て前だけ仕合わせそうにつくろう夫婦関係のオンパレードだな。こりゃ。 2人が踊るのは、結婚式でも踊ったプラターズの「煙が目にしみる」。うーん。一般大衆なんだな、この2人。まあ、亭主は工場労働者で、妻は教師らしいけど、田舎じゃインテリでもたかが知れているということか。ところで、ジェフは、カチャの事故以来、登山はやめてしまったのかな。 で。踊りが終わって、2人は手をつないだまま万歳みたいなのをするんだけど、挙げた手を、半ば振り払うように離すケイトの態度が、なんともはや。50年前に死んだ昔の恋人に恋々としている(かどうか、定かではないけど)ジェフと、そんなことに嫉妬の炎を燃え上がらせるケイト。バカじゃねえの? ・「カチャが死んでいなければ、イタリア旅行に行かなかったら、カチャと結婚した?」とケイトが聞くと、「ああ」とジェフは応えるんだが。べつにいいじゃないか。ジェフは正直に応えてると思うし、ケイトが二番手だったというわけでもないのだから。 ・でその、イタリア旅行って、なんだ? 寝てる間に説明されていたのかな。まあいいけど。 ・カチャのスライド写真に、お腹が膨らんでいるようなのがあったけど。妊娠していて登山なんかにいくものか? ・ジェフは工場のOB会にでたくないと思っているらしいけど、なんでかね。かつての同僚の、ポルトガルに行ってるだの、孫とゴルフしてるとか、ウクレレに熱中・・・とかいう様子を、嫌悪するようにケイトに話す。どこが気にいらんのかね。では、ジェフは毎日何をしているかというと、とくに何もしていない。そんな威張れる立場でもないだろ。ジェフも変人だな。 ・ところでこの夫婦には子どもはおらんのか? | ||||
オン・ザ・ロード | 9/16 | キネカ大森2 | 監督/ウォルター・サレス | 脚本/ホセ・リベーラ |
allcinemaのあらすじは「ニューヨークに暮らす若い作家サル・パラダイス。父親を亡くして喪失感に苛まれていた彼の日常は、西部からやって来た風変わりな若者ディーン・モリアーティとの出会いによって一変する。少年院上がりの彼はセックスとドラッグにまみれ、おまけに美しい妻メリールウはまだ16歳の少女。常識に囚われない刹那的で型破りな生き方にサルは心を奪われる。その後、故郷のデンヴァーに戻ったディーンの誘いを受け、ヒッチハイクでデンヴァーを目指すサル。やがて天衣無縫なディーンとともに広大なアメリカ大陸を放浪する彼は、かけがえのない出会いや経験を重ねていくのだが…」 さらにまた、ほぼすべてにモデルがいて、allcinemaによれば↓の如し。 サム・ライリー / サル・パラダイス(ジャック・ケルアック) ギャレット・ヘドランド / ディーン・モリアーティ(ニール・キャサディ) クリステン・スチュワート / メリールウ(ルアンヌ・ヘンダーソン) エイミー・アダムス / ジェーン(ジョーン・フォルマー) トム・スターリッジ / カーロ・マルクス(アレン・ギンズバーグ) キルステン・ダンスト / カミール(キャロリン・キャサディ) ヴィゴ・モーテンセン / オールド・ブル・リー(ウィリアム・バロウズ) ギンズバーグやバロウズは、名前は知ってるけど具体的にはよく知らん人々である。 で、監督は『セントラル・ステーション』『モーターサイクル・ダイアリーズ』の人。なるほど。似たようなタッチだ。ハリウッドメジャーじゃないのにクリステン・スチュワートだのキルステン・ダンストまででてきたのは、監督のせいだったのね。さらに、エンドクレジットでエイミー・アダムスがでてきて、どこにいた? だったり。ははは。かように脇役は豪華で、クリステン・スチュワートなんかオッパイ見せまでしてるけど、話の方はというと「分かった、で?」な感じなんだよな。いまいちつたわってこない。 背景とかよく分からんままのスケッチ風な展開で。なにやら作家をめざしているサルには同類の仲間が何人かいて、その仲間を通じてディーンを知った。で、以後、その仲間たちとか別の知り合いとか、彼らを訪ねてデンバーに行ったりカリフォルニアに行ったりニューヨークに戻ったり、大陸を行ったりきたり。ディーンのそばにはいつも女がいて、メリールウなんか「彼は私を棄てる。そしたら、婚約者のところに戻る」なんていうんだけど、なんだそれ、な感じ。結局、ディーンはカミールと結婚するんだけど、子供ができても放浪癖はやまず、家を追い出されてしまう。最後、ニューヨークで久しぶりにディーンから声をかけられるんだけど、サルは「仲間と芝居を見に行くから、悪いが・・・」なんて断ってしまう。なにこれ、な感じ。あのとき一緒にいた仲間は、誰なんだ? で、その直後、思い立って、これまでの乱痴気をタイプし始める=小説『路上』を描き始める、ってところで映画は終わるんだが。何かスッキリしない終わり方だ。だって、あんなにつかず離れず一緒に乱痴気・放浪していたディーンにあんな別れ方をするのはなぜなんだ? というか、ディーンがカミールに家を追い出されたときは一緒にいて。その後、ディーンとメキシコに行くんだっけ? それから手紙がきてカリフォルニアにいるとか、だったかな、の直後の場面が、声をかけられる場面なんだよ。この間、ディーンに何があったんだ? だれだって疑問に思うんじゃないのかな。 女ばかり追っかけてたディーンだけど。金のためなら男にケツを掘らせるし。それをサルは不快、というより、嫉妬するように見るところがある。あ、こいつら、ホモだ。それ以前にも、ディーンはサルに、メリールウとセックスするよう勧め、それを見たがるというシーンがあった。これまた、ディーンとサルは仲のよすぎる兄弟みたいな感じじゃないか。 そんな関係だった2人が、なぜに最後は離れ離れになってしまったのか。でもって、落ちぶれたディーンを見て、なぜに突然、ディーンとの日々を小説にしようとしたのか。ディーンに対する思いや同情は、もうないのかよ。なんか、最後の展開は納得がいかないな。 てなわけで、この映画の主人公はディーンで。彼に惹かれ、追いつづけるサム、という話なんだけど。たんにそれだけで、サムの成長がどこにも見えない。いろんなエピソードは満載なんだけど、それぞれが有機的につながって何かを伝えてくるということもない。「ああ、そうですか」でしかないのだよ。だから、どうなるんだろう、という興味も湧かないし、共感も感情移入もない。シーンごとの表現がユニークで面白そうでも、これでは心に残らないし、記憶にも刻まれない。そんな映画だった。 ・1947〜52ぐらいの話だったかな。ってことは、サルは25歳ぐらい? ディーンとカーロは21歳? メリールウは16歳で、カミールが・・・何歳だ? 24歳? ジョーン・フォルマー24歳。みな若い。で、撮影時サム・ライリーは33歳、ギャレット・ヘドランドは29歳、クリステン・スチュワート23歳、キルステン・ダンスト31歳だ。エイミー・アダムスに至っては39歳。若く退廃的なビート・ジェネレーションも、演じているのはオッサンとオバサンではないか。そうだよな、見ていて無軌道、破天荒、好き勝手放題な感じはあまり受けなかった。成熟した男女の性愛みたいな感じになってた。 ・ケルアックは1969年に47歳で、ニール・キャサディは1968年に42歳でのたれ死にしてる。ギンズバーグは71歳没か。でも、バロウズは1951年に「ウィリアム・テルごっこをして誤って妻(ジョーン・フォルマー28歳没)を射殺」とか、ひどいもんだ。映画の中でも、オールド・ブル・リーは拳銃を喜楽に撃ってたな、そういえば。やっぱ、この映画は、ビート・ジェネレーションの作家や仲間たち、逸話を知らないと、楽しめないのかも。っていうか、それ以上の何かがないのかもな。 ・よくリップスティックみたいなケースを割って、何かを舐めたりしているけど、あれは何? 麻薬? ケース入りなのか? | ||||
ヴィクトリア | 9/16 | キネカ大森 | 監督/ゼバスチャン・シッパー | 脚本/ゼバスチャン・シッパー、オリヴィア・ニーアガート=ホルム、アイケ・フレデリク・シュルツ |
allcinemaのあらすじは「3ヵ月前にスペインから単身でベルリンにやって来た女性ヴィクトリア。クラブで踊り疲れて帰路についた彼女は、路上で若者4人組に声を掛けられる。ドイツ語のしゃべれない彼女だったが、英語でなんとか言葉を交わしていくうちに意気投合、楽しいひとときを過ごす。異国で孤独を感じていたこともあり、いつしかリーダー格のゾンネと心を通わせていく。そんな中、ゾンネたちに何か大きなトラブルが発生したらしく、よく分からないままに運転手役として彼らを手助けするハメになるヴィクトリアだったが…」 公式HPによると「全編140分ワンカット」「視覚効果などによる“見せかけ”のトリックに一切頼ることなく、スタッフ&キャストがベルリンの街を駆けずり回り、完全リアルタイムの撮影を成し遂げた」。その他のWeb情報では「脚本はわずか12ページ足らず」とかあるので、会話はアドリブも多いんだろう。 その全編140分をワンカット、が最大のウリみたい。でも、見終わってみれば、そんなつまらんことにこだわらず、フツーにカット割りして100分ぐらいで仕上げりゃ、まだマシになっただろと思う。とくに、出会いからヴィクトリアの働くカフェへ行くまでがムダに長すぎて、ひどく退屈。屋上に上がったあたりで少し寝てしまった。ワンカットだから緊張感が感じられる、なんてのはウソだ。クライムムービーに、あんなだらだらシーンは要らん。 では、クライムムービーとしてみたらどうか。いやどうも、登場するやつみんなバカすぎて、全然話に入り込めないし、どこにも共感するところがない。だいたい若い娘が明け方4時までクラブで踊り、帰りがけに何だか強い酒を一杯ひっかけ、自転車で帰るって・・・。しかも、5時ぐらいには働く店を開けなくちゃならんのだろ。どういう生活をしとるんだ。 だいたい、クラブで入店拒否されてるようなバカ4人組に声をかけられ、そのままついていっちゃうって、ヴィクトリアもバカ娘。4人は、他人の車を「俺たちの」といったり、酒屋から酒をくすねたり(ヴィクトリアもしてるけど)、共同住宅の屋上に不法侵入したり・・・と、どうみてもワルなのに、どこに惹かれたんだヴィクトリア? たとえ彼女が、打ち込んできたピアニストへの道を断たれ、失意のもとにスペインからドイツへ(なんでドイツなんだ?)やってきて、時給6ユーロでカフェで働いているとしても、それは関係のない話で、理解不能。 で、仲間のひとりのボクサーのところに電話がかかってきて、誰かに呼ばれているらしい。でも、1人が吐くほど酔ってしまって、代わりに運転手としてヴィクトリアが行くことになるって・・・おいおい。どっかでフツーは断るとか逃げるとかするだろ。どんな義理があるってんだ。 で、いったら、ボクサーが服役中に世話になったというヤクザみたいのがいて、銃で武装してる。どうやらボクサーが1万ユーロ借金していて、その借りを返すために銀行だかなんだかを襲えといわれ、拳銃も渡され、ヴィクトリアはそれに怖じ気もせず一緒にやっちゃうんだからこれまた場当たりテキトー過ぎてバカバカしい。だいたい、そんなテキトー無計画で銀行強盗なんてできんだろ、いまどき。 こうやってどんどん深みにはまっていくんだけど、ヴィクトリアは世間知らずなのか度胸者なのか知らんが、ぜんぜんビビらずに3人とミッションを遂行。5万だか6万ユーロを手にいれるんだが。6〜700万円だろ、日本円にして。そんな程度で、銀行強盗するかね、命がけで。 で、犯行はあっさりバレて警察に追われ銃撃戦。おい。この時点で降伏しろよ。なのに、1人撃ち殺され1人は病院行き。ゾンネとヴィクトリアは集合住宅の、ある部屋に逃げ込み、そこの家の赤ん坊を借りて外部に逃げ出すんだけど。このあたり、ヴィクトリアの度胸が据わりすぎでゾンネに指示を出すようにまでなってて、なんだこの女。まあ、重合住宅を取り囲んでいるのに、2人をそのまま逃がしてしまう警察もアホだけど、これは映画の都合だろう。実際は、こんな簡単に逃げられはしまい。 そのままタクシーに乗ってホテルに行って部屋をとるんだけど、ホテルではあんな豪華な部屋をチンピラ男女が抑えることに疑問はもたんのか。いくら現金を見せられたからって・・・。しかも、この時点でやっとゾンネが実は撃たれていた、という発表がありまして。ヴィクトリアは部屋から救急車を呼ぶんだけど、あえなくゾンネは「金を持って逃げろ」と言い残して死んでしまう。なかなかこない救急車。手に付いた血が気になるんだけど、手も洗わずそのまま明け方の街に出て、どこかに消えるヴィクトリア・・・って、おいおい。 ヴィクトリアと4人はあちこちで目撃されてるし、集合住宅やタクシー、ホテルではバッチリだ。ホテルでは監視カメラにも残ってるだろう。ヤクザ連中も顔を見てる。つかまらんはずがない。そう判断していいのかな? それとも、1人、彼女だけスペインに逃げ帰る、なのか? 500万程度あったって、数年でなくなっちゃうぞ。 ・酔った仲間がカフェでゲロはいたんだけど、あの始末はどうしたのか、ずっと気になって気になって・・・。 ・もともとこの日は、ヤクザに4人で来い、って呼ばれてたんだろ。なのに1人が泥酔しちゃうとはなんだかな。チンピラもバカすぎて話にならん。 ・ゾンネも20代らしいが、どーも見ても40ぐらいのオッサンにしか見えないんだけど・・・。 ヴィクトリアのライア・コスタは1985年生まれなので30歳。やっぱな。でも、田舎っぽくてカワイイことはカワイイけど。 ゾンネのフレデリック・ラウが、ええっ? 1989年生まれなの? 24歳かよ。信じられん。30過ぎのオッサンに見えるぞ。 | ||||
オーバー・フェンス | 9/20 | テアトル新宿 | 監督/山下敦弘 | 脚本/高田亮 |
allcinemaのあらすじは「妻子と別れ、故郷の函館に戻り、職業訓練校に通いながら失業保険で暮らす男、白岩。訓練校とアパートを往復するだけの毎日で、すっかり生きる意味を見失っていた。そんなある日、同じ訓練校に通う代島に連れて行かれたキャバクラで、聡という男みたいな名前のホステスと出会う。昼間は寂れた遊園地でバイトし、鳥の動きを真似て踊るこの風変わりなホステスに急速に惹かれていく白岩だったが…」 「佐藤泰志の小説を、大阪芸術大学出身の気鋭監督で映画化する『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』に続く“函館三部作”最終章」らしいが、そんなプロジェクトがあったのか? ↑では『海炭市叙景』は見てる。叙情的で哀しい物語であったので、これもまた・・・と思ったら、そんな話は複雑ではなく、というか、シンプルすぎて拍子抜け。 で、端的に入ってしまうと、精神的におかしな人は、怖いよ、というような内容だった。人によっては蒼井優演ずる田村聡をエキセントリックで可愛い、なんていうかも知れないが、いわゆるメンヘラな病気もちなだけだ。他にもメンヘラはでてくる。職業訓練校の同期の森君(満島真之介も、かなりイカレてる。それから、主人公・白岩義男の元妻洋子(優香)も、かつて育児ノイローゼ。こういう人たちに囲まれて、フツーに近いけれど、それでも、いろいろ変な連中が職業訓練校で大工のクラスで学んでいる、という話。 東京から函館に戻ってきた40男の白岩が職業訓練校に入ったのは、失業保険の期間が延びるから、という理由らしい。で、同期の代島に紹介されたホステスの聡と知り合いになり、次第に惹かれ合っていく・・・というだけの話なんだけど、映画がはじまってもなかなか話が転がって行かないので、少しいらいら。聡の異常さがだんだん目立ってはくるんだけど、それにめげず白岩が聡を気にする・・・のが、よく分からない。その他、いろんなところの説得力がほどほどに欠けているので、どーも素直に話に入り込めなかった。 そもそも、白岩はモーレツ社員で家庭を顧みなかった。それで妻・洋子は育児ノイローゼ? ある日、幼児の顔に枕を押さえつけていた・・・。で、その後、離婚して妻と子どもは実家へ。実家の父親は、白岩に「二度と娘に会うな」と手紙をよこす・・・って、いろいろ筋違いじゃないのか? 子どもを殺そうとしたのに子どもを引き取った? ひょっとして事件は内々で片づけて、ということか? 洋子は入院したのか? その間、子どもはどうしてたんだ? 離婚はどっちの意志だ? 洋子の実家は函館の近く? そもそも知り合ったのはどこ? とかね。しかし、亭主の帰りが遅いとか、構ってくれないとか、そんなことで頭がおかしくなるのは、亭主にもある程度は責任があるかも知れないけど、洋子のもともとの素質も大きいだろ。夫がいなくても子供の何人か育ててしまうような女の人なんて、ごろごろしてるんだし。なので、白岩=加害者、妻・洋子=被害者という単純な結論はなっとくできんな。 それにしても、ワーカホリックだった白岩が、なぜ会社を辞めて函館に戻り、だらだら生活に突入したんだろ。分からない。そういえば最初と最後の方にでてくる、義理の弟。白岩の妹の亭主らしいけど。話を聞いていると、白岩の実家は、なんか相当の家のようにも感じられるんだけど、これまたはっきりとは紹介されない。このあたり、イラつく。だって、ぜんぜん「なるほど」感がないんだもん。 同期の代島が水商売に熱心で。新しく店を出したいが、パートナーになってくれ、と白岩に頼む。そのからみである店に行き、そこで働く聡と出会う(といっても、一度路上ですれ違ってはいるんだけど)んだけど。その日のうちに聡が白岩をクルマでアパートまで送り、ビール買いに行く? と誘うんだけど、白岩は断り。様子を見て白岩は自転車でビールを・・・と思ったら、なんと聡はクルマを停めて待っていた・・・って、なんじゃこれ。代島は聡のことを「すぐやれる。ヤリマン」といっていたけど、そういわれても聡は平気の平左。・・・ってあたりも、なぜ聡は白岩に惹かれたか、が描かれていないので、いまいち説得力がない。 そういえば、クルマでドラッグストアまでビールを買いに行き、そこで白岩が「ダチョウの求愛ってどうやるんだっけ?」と聞いたら、そのマネをやり始め、他の客が見てるからと止めようとしたら、それにムカついたかのように「帰りはタクシー拾って」とさっさと帰ってしまって、その日のうちのセックスはなしなんだけど。激しい気分屋なんだよね。 その後、代島から「聡は公園でバイトしてる。白岩さんに会いたがってる」といわれ、その気になって会いに行く白岩も白岩で。公園の遊園地でバイトしてはいるんだけど、子どもにぶっきらぼうの愛想なしで。でも、その夜に聡は自分家に白岩を連れていって、実家ではあるけれど離れ、という別棟でセックスするんだが。ここでも、台所で身体を洗い、「こうしないと身体が腐ってく感じがするんだよね」というのは、あれは潔癖症かなんかか? さらに、しつこく白岩の元妻についてあれこれ尋ね、口ごもっていると大声で怒鳴り、窓にモノを投げつけて割ってしまうという・・・。嫉妬? 思ったことを態度に示さないと気が済まない性格? それに相手が応えないと、ヒステリックになる? というビョーキで。夜中に白岩を追い返してしまう。ああ、こんな感情の起伏が激しくて、何するか分からんような女はやっかい。振りまわされるだけ。蒼井優が演じてるから可愛く見えないこともないけれど、こんな女が近くにいたら、それこそ地獄だぞ。あの求愛の儀式に、いつもマジに応えなくちゃならんなんて、たまらんぞ。 職業訓練校での困ったちゃん森は、奥手なのか、ぶきっちょなのか、でもそれを何とも思わずへらへらできるタイプではなく、ちょっと注意されても気に病み、引っ込み思案になり、内にこもるタイプ。あるとき、えーと、教官にモノを投げつけたんだっけ。それで同期の島田が殴りかかり、でもやり過ぎだからと白岩が止めたら、今度はノミを持って襲いかかろうとした・・・という顛末があって。でも事件化はせずに退学しただけで済んだらしい。これまた、いい歳をして心を抑えられない・・・。これも、素質なんだろうな。 このときノミをもつ島田を止めたのは北村で、これがなかなかいいキャラだったりする。ちょっと大人な感じで、白岩を酒に誘い、自宅に泊めたりするんだけど、この女房が何があっても平気な感じの人柄で、息子もまた陽気すぎるほど。朝、白岩を起こし、ついでに「おさかな、見る?」っていうから水槽の熱帯魚? と思ったら父親である北村のシャツを背中側からめくる・・・と、なんと刺青が。これには笑った。どうやら若いときに任侠の世界に入り、そこから脱出したらしい。そのせいか、忍耐強く、人柄もいいキャラに描かれている。感情を爆発させず、うまく抑えながら、人を立て、要所で締める。こういう人には、憧れてしまう。 そのあとの展開はよく覚えてないな。聡が白岩に会いにくるんだっけ? 「このあいだはゴメン」とか。違ったかな。それで、えーと、もういちど公園の動物園の場面があって。そこで聡は檻を開け放っていろんな動物を外に出しちゃうんだけど。白頭鷲だけは、扉を開けても逃げ出さない・・・というシーンがあって。ええと・・・。次はソフトボール大会か。 訓練校内の大会なんだけど、生徒はみんな家族を呼ぶんだよ。へんなの。そういうもんか? 白岩も聡を呼んでいて、同期の仲間にも話している様子。でも、なかなか来ない。大量リードされている5回だったか。ランナー2人を置いて、バッターボックス。はるか彼方に聡の姿。はしゃいでる。思い切って振ったバットに打球が当たり、オーバー・フェンス・・・って、おいおい、な幕切れ。2人の関係はとても上手くいくとは思えないけどな。あんなハッピーな終わり方でいいのかよ。うーむ。 ・いまどき建築関係の教育受けても、仕事なんてあるのか? ・蒼井優が、あれは函館訛りなのかよく知らんが、蓮っ葉でゲスな言葉遣い。エキセントリックな可愛さとは、でてない。ショットによっては、年相応に(1985生)老けたな、と思った。醜く映ってるところもあったし。そういう本質を描きたかったのかね。 ・同期の勝間田さんがいいキャラクター。還暦過ぎて職業訓練校に通ってる。そんなことできるのか? ソフト大会には、まなんと孫をつれてくる。 ・最初に白岩が公園に行ったとき、羽毛が降ってくる。白頭鷲が白岩の部屋の窓にいる。という2つの幻想シーンがある。なんか、とってつけたような感じかな。 ・クレジットに塚本晋也とあったんだけど、どこにでてた? 後からTwitterで本人が「声の出演」といっていた。元妻・洋子の父親か。そういえば、白岩は洋子と再会するんだけど、洋子の方から「また連絡を取りあいましょう」なんていわれていて。しかも、絶対に会わさない、といっていた父親も歳のせいか、そんな固いことをいっていないようで。こっちの方が再び上手く行ったりするんじゃないの? とか思ってしまった。 ・しかし、元妻、現恋人と、つきあう女がみんなメンヘラというのも、たいへんなモノだよ。 | ||||
裸足の季節 | 9/21 | キネカ大森3 | 監督/デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン | 脚本/デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン、アリス・ウィンクール |
フランス/トルコ/ドイツ。舞台はトルコ。原題は“Mustang”で「野生の馬」。“Belleza salvaje”というのもあって、これは「野生の美しさ」allcinemaのあらすじは「イスタンブールから1000km離れた黒海沿岸の小さな村。13歳のラーレは、美しい5人姉妹の末っ子。10年前に両親を事故で亡くし、以来、姉妹たちは祖母と叔父が暮らす家に身を寄せていた。ある日、姉妹たちは学校帰りに男子生徒と海で騎馬戦をして無邪気に遊ぶ。しかし帰宅後、近所の噂を耳にした祖母に、ふしだらと激しく叱責される。古い慣習や封建的な思想が根強く残るこの地では、祖母や叔父にとって結婚前の女は純潔であることが最も大事なことだった。そのため姉妹たちは、学校ばかりか外出そのものを禁じられ、家の中に軟禁されて、退屈な花嫁修業を強いられる。そして次々と見ず知らずの男たちとの見合いをさせられ、結婚話が進んでいく。そんな姉たちの姿を目の当たりにして、ラーレはある決意を固めるが…」 もの凄くいい部分がある反面で、脚本&演出が中途半端なせい(なのか、表現の制約でもあるのか)で理解しづらいところが結構ある。とてももったいない感じ。 イスラム圏だけど、中高の生徒や教師は、スカーフしていない。長い髪をなびかせ、きゃぴきゃぴしてる。で、その信頼できる教師が転任で、別れを惜しむラーレがいて・・・。以下、五人姉妹の年齢が分からなかったんだけど、↑のあらすじでやっと分かったという・・・。ちゃんと説明しろよ。で、その学校帰りに男子生徒と海岸で(淡水?)制服のまま水に浸かり、男子生徒の肩車で5人が騎馬戦を・・・という場面で、おいおい、思春期の女の子のマンコが男子の首にくっついてるぞ、いいのか? と思っていたら、そのことをズバリ祖母に指摘され、叱られるんだが、反抗することおびただしい五人姉妹。いったいどういう育て方をしたんだ? リンゴ園(?)でリンゴを食べて銃を向けられても「ちょっと食べただけじゃい!」と言い返す。なんてバカ姉妹。というような奔放すぎる姉妹で、トルコのいまどきの女の子はこうなのか? と、いささかビックリ。 かと思うと、窓から脱出し、彼氏と夜中までデート。長女か次女か分かんないけど、「バックでやってるから、まだ処女よ」なんていってたり。おいおい。そんな進んでるのか? そういえば、叔父に連れられて町に行ったとき、あれは長女と次女が嫁に行った後か? に、叔父がクルマを離れた隙に男の子をクルマに連れ込み、4女とラーレを追い出し、カーセックスしてたのは、あれは3女か。なんてやつ。自由に生きるとかいうレベルではなく、日本でもズベ公だろ、それって。なんか、この映画、自由とみだらを混同している気もしないではないんだが。 あと、サッカー見学があったな。サッカー見に行きたい、ってラーレが叔父にいったら、「こないだも場内に観客がなだれ込んでた。だからダメだ」っていってたんだけど、ニュースでは、「男子は入場禁止。女子のみの入場で試合する」となったのだから、その時点で再度頼み込めばいいだろうに、許可が下りていないという、不思議な展開で。当日は4人で脱出して、応援バスに乗って会場でも大騒ぎ。の場面がテレビに映ってしまって。なので祖母はブレーカーを壊し、男たちが「他の家では電気が点いている」というので、電柱の上のトランスに石を投げて村中停電させてしまうという・・・。これは笑った。 てな具合にお転婆すぎるので、叔父は玄関柵を頑丈にし、窓にも柵をつけたり、でられないようにしてしまう。って、季節は夏休みか? で、茶色い伝統的な衣装を着るようにいわれ、反抗するけど従わざるをえず・・・の辺りから、それまでの、溌剌のびのびな姉妹のシーンはなくなって、ナイフで切ったように暗い話になっていく。それまでは、家の中でビキニ姿だったり、短パンで姉妹がじゃれ合ってたりと、なかなかセクシーな場面もあったんだけど。 で、そんなある日、姉妹全員をつれて街まで行き、ある一角に並ばせるんだけど、これはお披露目らしい。はっきり説明はないけど、婿募集中のアピールなんだろうな。 長女、次女の婚姻が成立。なんだけど、もうこの段階では2人とも覚悟を決めたみたいに大人しくなってしまっている。もう反抗はしないのか。初めての男との初夜も、とくに拒まずなし遂げている様子で、切り替えが早いのかな。トルコの女性は。 ・初夜に出血しなくて、ウェディングドレスのまま病院に行って検査して貰ってたのは、あれは長女だっけ? いやどうも、長女から4女まで、区別がつかないような撮り方をしているので、もう混乱の極見てござるよ。 ・好きな相手と結婚できたのは、次女? 内緒でつき合ってる彼氏がいて。交際を禁じられたら、道路に「彼女は俺のモノ。」とか落書きした相手、だよな。次女も、結婚相手を押しつけられそうになって、「いやだ。好きな人がいる」と言ったら、祖母にだったか、「だったらプロポーズして貰え」と言われて、それで上手くいった、でいいのか? ・長女、次女につづいて3女にも結婚話が起きていたように思うんだけどな。なので、3人一緒に結婚したのか? と思ったら、結婚式は長女と次女だけ。3女の話は、どうなっていたんだ? 別の日取りになっていたとか? 説明がないというか、3女についてはほったらかし状態で、よく分からない。 3女の自死。4女と叔父の関係・・・。なんていう暗い話になっていくんだが・・・。 ・3女は自殺? 長女と次女が嫁に行ったあと、ラーレの「少しおかしくなった」というようなナレーションはあったけれど。突然、パン! という音がして叔父があわてて。次は叔父がクルマに乗っているのだけれど、救急車とすれ違い・・・。??? のあと、埋葬シーン。と、これだけしかないのだけれど、3女の自殺を表現するにしてはあまりにも情報不足。なぜ3女は変調をきたしたのか? どうやって自殺したのか? 拳銃? 救急車はなんなんだ? で、その後のシーンで3女に触れることもなく、哀しくしている場面もない。演出が下手なのかね。 ・叔父は4女と性的関係にあったようだけど。それはいつからなのだ? それを臭わす二度目のシーンでは、祖母つまり叔父の母親が「そんなことをしてはいけない」とか警めていたのだけれど、その程度の問題なのか? 性的関係も表面的で、性交していない程度だったのか? だって、処女の出血が重要視される世界なのだから、4女の結婚では問題になるはず。はたして真相はどうなんだ? ・4女の結婚話も持ち上がって。上から2人が嫁に行って、3女が自殺して、それも間もないのに、4女待で嫁に出すのか? いったい4女は何歳なんだ? そもそも映画の中では年齢は触れられておらず、でも、5人ともまだ生徒である、というのは分かっている。借りに長女が18、次女が17、3女が16、4女が15、ラーレが13、というような感じに想定しないと、収まらないよな。4女は14か15歳。そんなんで、まだ就学期年齢なのに、嫁に出しちゃうのか? ・いったい嫁に出すことにどういうメリットがあるんだか分からない。もしかして婿側から高額持参金でももらえるのか? フツーは、嫁に出すのは忍びない、側におきたい、って思うような気もするんだが、それは現代の考え方なのかね。15歳にもなれば適齢期で、嫁に出すのが常識なのか? ・ところであの叔父は、結婚してないようだけど、なんでなの? 結婚してないから姪に手がでたりするんだろ。もしかして、4女だけでなく、他の姪にも手を出していたりするのか? 分からんけど。 てなわけで。落ち込む4女に、ラーレが「結婚したくないんでしょ。だったら逃げよう」って、婿が迎えにきた当日反抗にでて。家をロックアウトして叔父や祖母、婿たちを閉め出し、籠城。やり過ごして脱出し、叔父のクルマで逃走し、さらに、旧知のトラック運転手にバス停まで乗せてもらい、そっから4女とラーレはイスタンブールへ。どこへ行くのかと思ったら、冒頭で転勤していった恩師(若い女性)の家へ行って・・・と、そこでオシマイなんだけど、おい、それじゃダメだろ、な終わり方。恩師が理性的な人物なら、家に帰れ、というはず。まさか、2人の面倒を見るとも思えない。だって亭主と2人でのアパート暮らし。13歳と14、5歳の女の子を、どうするというのだ? 働き口をみつけてやる? 雇う方だって素性を気にするだろう。とても不安でいい加減な終わり方だ。最近見た『ストリート・オーケストラ』よりもひどいと思う。 とはいえ、トルコの田舎の結婚事情とか、まだまだ昔風なのが残っているのね、ということを知るには興味深い。どの世代から自由な考え方になってきているのか、とか。いまの10代が親になる頃には、あの手の、公開婿選びで親が結婚相手を決める、というようなことがなくなるのだろうか? イスラム教徒でも、スカーフや地味な服装はなくなる、のだろうか、というようなことも気になる。ISISなど、原理主義的なグループは、そういう風潮に、どういう態度で対応するのだろうか、とか、いろいろ考えてしまうよね。 | ||||
怒り | 9/27 | 109シネマズ木場シアター8 | 監督/李相日 | 脚本/李相日 |
allcinemaのあらすじは「八王子で残忍な夫婦殺人事件が起こるが、犯人の行方は杳として知れず、整形して日本のどこかで一般の市民に紛れて逃亡生活を送っていると見られていた。事件から1年後、千葉・東京・沖縄に素性の知れない3人の青年が現われる。歌舞伎町の風俗店で働いているところを発見され、千葉の漁港で働く父・洋平に連れ戻された愛子。漁港にふらりと現われ働き始めた青年・田代と恋に落ちるが…。東京の大手通信会社に勤めるゲイの優馬は、クラブで出会った直人を気に入り家に連れ帰るが…。母に連れられ、東京から沖縄の離島に引っ越してきた高校生の泉は、無人島に1人で住みついている謎めいたバックパッカー田中に心惹かれていくが…。そんな中、TVでは1年前の事件に関して逃亡中の犯人の情報を求める公開捜査番組が放送されていたのだが…」 三つの話+警察の捜査の話が並行して進行するのだが、それぞれがいつになっても交わらず、ダラダラと進んでいく。伏線らしいものの端緒もつかめない。それぞれの話が面白ければなんとかなるんだけれど、これがとくにドラマチックでもなく、わりと単調でなかなか入り込めない。 ひとつは、ゲイの青年の話。もうひとつは、流れ者と知的障害があると思われる娘の恋愛にうろたえる父親。最後は、沖縄の離れ小島に住む怪しい青年と少女の話。話に奥行きがなく、なんのために、耕しているのかわからない。冒頭の殺人事件を追う刑事のパートも、各話につながってこない。正直いって退屈だった。 このうち、なんとか展開に興味をもたせてくれたのがゲイの青年の話で、藤田優馬が、ゲイの交流場所?で、大西直人という若い男と出会い、共同生活を始める。でも、この話もなかなか転がらない。大西直人に不思議なところはとくにないし、事件とかドラマも起きない。なので、だんだん飽きくる。 千葉の漁師町の流れ者の話になると、上っ面を撫でたような話だ。槙洋平の娘・愛子は知的障害なんだろう。歌舞伎町のヘルス?で働いていて、でも、それは数ヵ月の家出で・・・という経緯もよく分からんが、まともに働ける対応力がないんだろう。田舎に連れ戻されると、たまたま槙のところに居着いていたバイトの30男、田代と仲良くなっていく。父親は、ちょっと足りない娘が心配。まともなところには嫁にやれない、けれど得体の知れない男も不安、という男親の気持ちは分からんでもない。愛子自身も、私に合うのは田代さんぐらい、と自覚してたりする・・・というような話で、それ以上の事件もドラマもない。そんな話を、みんな力んでやってる。とくに父親・洋平役の渡辺謙はムダに力が入りすぎでで、重々しく演じているだけにアホに見える。なにをあたふたしてるんだ、な感じ。 そして、沖縄の話。このパートには事件がある。内地から島に引っ越してきた泉が、離れ小島に住みついている田中、と称する男と出会う。という時点で、話の底の浅さが見えてくる。だって、田中は地元の漁師船かなんかでつれてきてもらったんだろ? その時点で、その不審さは地元の噂にになるだろ。 泉には地元で知り合った高校生で・辰哉という友だちがいる。辰哉に連れられて島にきて、田中に会うんだけど、泉と辰哉の関係もよくわからん。フツー、ああいう間柄で友だちにはならんだろうし、まして2人で無人島に行くなんて、これまた不用心だろ。 でまあ、泉と辰哉があるとき沖縄本島へ映画を見に行き、たまたま田中と出会い、飲み屋に入るというのも、なんだそれ? 辰哉はしたたか酔って、田中と別れてから泉と帰ろうとするんだけど、繁華街でいなくなってしまう。という展開が、なんだそれ? なんで場所を離れたのだ? 荷物も持たずに。吐きに行った? でも、その後、泉が暴行されるシーンを目撃しているって、どういう行動してるんだよ? 行動が異常すぎ。 で、泉はひとり、米兵がたむろってる飲食街に迷い込み、米兵2人に拉致されて公園で犯されるんだけど、なんかなあ、な展開。そういう話は確かにあるけれど、ここのパートだけ政治的に突出したメッセージが強すぎて、素直に受け入れられない気がするんだよ。ああいう事件がないと、原作小説もこの映画も成り立たないか? そんなことはないと思うんだが…。さて、田中もまた泉たちを追って、公園の出来事を見ていたという。これまた異常な感じで、どーもスッキリしない。 で、話が転がり始めるのは、冒頭の殺人犯が整形してる、という話になってから。ああ、そういえば、白人女性を殺した犯人が整形し、飯場を転々とした末に捕まった事件があったけど、あれがベースか。で、素性の分からない、各エピソードの男が、周囲から疑われる、と。なるほど。それにしては、助走が長すぎるし、つまらない。 しかも、各エピソードに登場する青年たちが、正体不明でブキミ・・・というような話はなかっただろ。いちばん変なのは沖縄の田中で、殺人犯はこいつかな? と思っていたら、そうだった。にしても、離島に一人で行くなんて、話が杜撰すぎな気もしないではない。 そもそも得体が知れないからといっても、悪い人間であるわけではない。それぞれに事情がある。では、得体が知れないやつにも、本当に危険な人間もいる、ということをいっているのか? そんなの当たり前だろ。 ところで、ゲイの大西直人の事情とは、なんだ? 彼はなぜ正体を隠す必要があったのだ? ないだろ。彼にあったのは、孤児院出身で持病があった、ということぐらい。それであんなに陰気に悩むような表情をすることはない。ムリに、大西の苦悩をつくりあげている感じ。藤田優馬の母親が死の床に就いている、というのも、振り返れば大西自身も詞に怯えていたから、という読みはできるだろうけど、そんなひとはいくらでもいるわけで、むりやりくさい。 漁師町の田代についても、不審だからといって異常な感じはしないんだよね。後から槙が調べて、親の借金があってその件でヤクザに追われているとかいってたけど。警察に行っても無視された、とかもいっていた。でも、法律相談所あたりにいくとか、手立てはあると思うんだけどね。 むしろ、沖縄の、働いているホテルでの、田代の感情を抑えられない様子は、どうみても精神異常。でも、それは「怒り」なのか? 最初の住宅街での殺人も、派遣会社に間違った住所をいわれ、さんざん酷暑に歩きまわって、たまたま親切に冷たいものを振る舞ってくれた奥さんを殺しているんだけど、これなんか理解不能。たんなる精神異常だろ。感情をコントロールできない体質からの発露を「怒り」だとかいわれても、そーですか、とはならんだろ。 決定的になるのが、田中が無人島の廃墟に書いていた「怒」という文字で。おいおい。そんな証拠になるようなものを残していいのか? さらに「米兵に女がやられている。うける」とか書いているけど、そんなことをフツー書くかね。まあ、窃視症なのか知らんが。異常者の心理だろ。他の2人の正体不明者に失礼な感じだな。 そんな田中を、辰哉は刺殺してしまうんだけど、これは正しい「怒り」なんだろう。けどその前に、公園で、泉が米兵にいたずらされているのをみて声が出なくなってしまった自分にも「怒り」を感じて欲しいものである、とか思ってしまったよ。 ・3つのエピソードを並列的に見せていくという、ミスリードさせる構造、なんだけど。各エピソードが弱いから、話がひとつにまとまるまでが弱い。てなことを考えると、3話とも、真犯人とは無関係、という終わりかたにしてくれた方が、よかったかも。そうすれば、私たちの、得体が知れない人物に対する偏見を、あぶりだすことができたような気がするんだが。 ・犯人は精神異常者、というオチは、もうつまらなすぎる。 ・そもそも、題名の「怒り」に込められた思いがよくつたわってこない。3つのエピソード、すべてに、誰の誰に対するどういう怒りなのかピンとこない、ってのがあるんだよな。 | ||||
真田十勇士 | 9/28 | シネ・リーブル池袋シアター1 | 監督/堤幸彦 | 脚本/マキノノゾミ、鈴木哲也 |
allcinemaのあらすじは「関ヶ原の戦いから14年。天下統一を目前にした徳川家康と、秀吉の側室・淀殿が秀頼を立てて復権を狙う豊臣家の対立がいよいよ深まっていた。そんな中、名将と謳われた真田幸村と抜け忍の猿飛佐助が運命的な出会いを果たす。ところがこの幸村、これまでの武功はたまたま勝ちに恵まれてきただけで、その本性はただの腰抜け男だった。すると佐助は“アンタを本物の英雄にしてあげる”と宣言、さっそく同じ抜け忍の霧隠才蔵を筆頭に、一癖も二癖もある男たちを集め、“真田十勇士”を誕生させる。そして巧みな情報操作で、十勇士の武勇伝を巷に流布していく。やがて淀殿からお声が掛かり、意気揚々と大坂城入りする幸村と佐助たちだったが…」 NHK大河の『真田丸』にあやかり企画? 堤幸彦演出で舞台もあるらしいから、こちらが先? いずれにしても、真田幸村に関する話は量産されとるからな。この映画の方は、勢いでやっつけたような大雑把な書き割りドラマで、人間がほとんど見えない。というか三勇士ぐらいまでかな、活躍が区別できたのは。その他の勇士は、存在は分かるけど役割とか存在価値とかほとんどなくて、物足りない。とくに、十勇士を集める冒頭のアニメも、人物紹介の役割があるのだから、実写の方がよかったと思う。 猿飛佐助や霧隠才蔵、三好清海入道なんて名前は子供の頃から刷り込まれてるんだけど、それが真田十勇士のメンバーだというのは、ずっと知らなかったかも。そもそも原点ともいえる立川文庫なんて読んでないし。派生する小説も読んでない。さらにいうと、『真田十勇士』自体がそんなにポピュラーではなくなっていた。せいぜいNHK人形劇の『真田十勇士』ぐらいで、でもこれは見ていなかったし。加えていうと歴史好きでもないので、真実の真田幸村についてもほとんど知らない。なので、この映画で、最後に幸村が家康本陣に迫る場面があって、ほんとうなのか? と調べたら、本当だったというので、へー、な感じ。ま、基本的な情報が不足していたかも知れない。そんな状態で見たので、いろいろピンとこなかった。というか、真実の真田幸村の物語と、立川文庫あたりで確立されたそもそもの『真田十勇士』、その後に改変された部分とか、の違いがまったく分からないので、そういう見方はできなかった。という見方からすると、人物をちゃんと描こうとしていないこの映画には、いまいち入り込めなかった、というところかな。 まず、大阪の陣についても、よく知らんし。誰がどっち側とか、淀君がどっち側で、秀頼の母なのか。てなレベルだからね。ははは。なので、大竹しのぶの淀君関連の話も、よく分からない。というか、淀君と幸村が相思相愛とか、どういう話なんだ? あと、猿飛佐助と霧隠才蔵が抜け忍で、久々津一族から狙われている、というのも、取って付けたようなエピソードで。久々津一族が徳川方、というのも最初からはっきり描かれてないので、いまひとつ噛みあわない感じ。久々津の娘、火垂が才蔵にツンデレというのもよくある設定で、でも、以前の様子がどうなのか分からないので、感情移入はできないし。 まあ、真田幸村がホントは意気地なしの無能で、それを佐助がコンサルティングして名将に仕立てる、という切り口はユニークだけど、あんまり活かされてない感じ。そもそも幸村自身がそんな目立たないし。 てなわけで、真田丸を築城し終わった辺りで睡魔に襲われ、気づいたら、その真田丸に徳川方が襲いかかってくる、というようなところだった。 仕方ないのかも知れないけど、猿飛佐助と霧隠才蔵の出番がムダに多くて。だったらその分、他の勇士のエピソードも描けばよいのに、な感じもする。だって、十勇士、なんとか区別はつくけど、キャラが見えないんだもん。 まあね。監督が堤幸彦だからしょうがないところはあるんだろうけど。ここまでコメディ路線でもなく、腰を据えた演出をしてくれた方が、好みの映画になったかも。 ・十勇士の中に裏切り者がいる、という話になって。あっさりと筧十蔵が判明し、でも、裏切った理由が「金のため」というのはいくらなんでもアホだろ。戦国の世に、そんな理由で裏切るやつはおらんだろ。 ・猿飛佐助の中村勘九郎は、口調がお父さんそっくりだね。 ・家康役の松平健は、たいして演技しないんだけど、存在感だけで見せてしまうところがなかなか。 ・佐藤二朗は、豊臣方の重臣らしいけど、後藤又兵衛という武将らしい。けど、会議の席で話すぐらいで、なんかもったいない使い方。 |