この世界の片隅に | 12/5 | MOVIX亀有シアター5 | 監督/片渕須直 | 脚本/片渕須直 |
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allcinemaのあらすじは「1944年(昭和19年)2月。絵を描くことが好きな18歳のすずは、急に縁談話が持ち上がり、あれよあれよという間に広島市から海軍の街・呉に嫁にやってくる。彼女を待っていた夫・北條周作は海軍で働く文官で、幼い頃に出会ったすずのことが忘れられずにいたという一途で優しい人だった。こうして北條家に温かく迎えられたすずは、見知らぬ土地での生活に戸惑いつつも、健気に嫁としての仕事をこなしていく。戦況が悪化し、配給物資が次第に減っていく中でも、すずは様々な工夫を凝らして北條家の暮らしを懸命に守っていく。そんなある日、道に迷っていたところを助けられたのがきっかけで、遊女のリンと仲良くなっていくすずだったが…」 話題のアニメで、評判がどんどん上昇。ヨコハマ映画祭ではベストテンの1位で作品賞を受賞。2位は『湯を沸かすほどの熱い愛』で、興収が『ハウルの動く城』を抜いて歴代2位となった『君の名は。』は、ベストテン10位である。つまりまあ、内容も評価が高くて、一般客からの支持も得ている。さて、どんなもんかな、といささか緊張気味・・・。 見終えた印象は、しみじみと戦時下の日常をフツーに描いていて、ユーモアもあり、なるほどなあ、な感じ。泣けるような、あるいは胸のつまるような話もほとんどなく、フツーに見終えた。まあ、実兄が戦死したり、義理の姪が死んだり、本人か右腕を失ったり、あと、実母か実父は原爆で亡くなってるのかな。なことはあったけど、そういうようなことは当時は割りとあったことだから、そういう時代だったんだよな、という再確認というのかな。 実は思い込みで、すずさんは広島で亡くなるのかと思い込んでいた。なので、呉から実家に戻って・・・かなと思ったら、そういうことでもなく。そういえば「生きていれば91歳」とかいう文句も聞いたような・・・。ということは、始めから、すずさんは“死なない”ことが分かっていたのか。なーる。それと、少女の話かと思っていたんだが、なんと新妻の話だった。 で。とくにドラマらしいものはなく↑のあらすじのごとくに話は進む。嫁に来る前は短く、嫁入り後が大半で、終戦後1年目ぐらい(?)で話は終わってる。婚家での嫁としてのあれやこれやが大半で、出戻り小姑の径子がちょっと意地悪で、そのストレスでハゲができるぐらいだから、気は小さいのか。でも他は大半いい人で、戦争が始まっても特段の苦労もない毎日だったのが、次第に空襲や戦闘機の機銃掃射が始まり、呉港の空爆で市街は焼け野原。姪の晴美を死なせてしまったのは、あれは義父の見舞の帰りだったかな。防空壕から出て、ふと爆撃の穴を見ていて、時間差で爆発する爆弾がある、と気づいたときは遅く。自分も右手を失ってしまうが、とくに嘆くこともなく割合と自然に受け止めて生活していく。 ふと思うに、嫁入りしてからも子供子供していたすずさんだけど、水原が訪れた一夜(↓にあり)の後ぐらいからか、大人っぽくなっているのが、これは成長なのか? 感情を失い始めたからなのか。 で、何とはなしに玉音放送になるんだけど。聞き慣れたものと違うのは、声優によって演じられているからなんだろうか? これを聞いた後の、すずさんの激情ほとばしる様子が、それまでと違う感じで、ちょっと引いてしまう。だって、最後まで戦うっていったじゃないか、左手もある、右足も、左足もある。最後の最後まで戦うんじゃ亡いのか! みたいなことをいうんだぜ。あれは何から来るんだ? ひょっとして すずさんは、お国のためなら死んでもいい、と思っていたクチなのか? 思想性など持ち合わせていない、ごくフツーの当時の日本人の象徴として描いているのかね。とくに、ギャグマンガみたいにほとばしる大粒の涙に、少し違和感。 でも、そんな怒りもなかったかのように、呉にやってきた米兵に親切に道を教えてやり、お子供と間違えられたのか、礼としてチョコレートをもらった、とかいう話をしているようなところで、話は終わってしまう。戦時中に野草を食べて飢えをしのいだように、戦後も、目先の、生きていくことに精一杯、ということでもあるのだろうか。 失うものは多くあったけど、でも生き延びて、仕合わせに結構長生きしたのかもな、というような感じ。正直にいうと、ちょっと拍子抜けかも。 さて、ところで。この話は果たして真実なのか? 歴史的に、ということではなく、実際にあったこととしてストーリーをつくっているのか、ちょっと定かではないところがいくつかある。冒頭、海苔を売りに来て道に迷い、大男に拾われて、というか掠われて、背負子の中に入れられてしまうのだ。どーも すずさんは、おっとりし過ぎというか、少し知恵が足りない娘のようでもあって、よく道に迷ったりするし、婚家の住所や名字も頭に入っていなかったりする。まあ、だからこそ純真素朴で正直だともいえるんだが。そんな感じなので、大男に捉えられても「困ったのう」ぐらいしかいわないのだが、その背負子の中にはすでに旧制中学生ぐらい少年がすでに入っていて、こちらも「困った」ぐらいしかいわない。そこで すずさんは、手持ちの海苔で視界が暗くなる覗きからくりをつくり、それを大男に「見ろ」というのだが、覗いた大男は、夜かと思って寝てしまうのだ。大男が、「夜になる前に帰らにゃならん」とかいっていたのは、夜になると寝てしまうからなのか? それはいい。が、現実というより夢だ。あるいは、伝説や昔話の類かも知れない。で、後に結婚した周作は、一度会ったことがあるすずさんを探して、嫁に欲しい、といいにきたのだが、それでもう、周作が、あの背負い駕籠のなかにいた青年だと分かるわけだ。 さて、映画のラストは橋の上で。周作がすずさんに、むかし会ったことを話していると、その背後をあの大男がのっしのっしと歩いて行くという寸法で。では、すずさんと周作の結婚も、この話もすべてあの大男が仕組んだことなのか? というような気にさせる。さらに、戦死した意地悪な兄を、すずさんはあの大男そっくりに描いている場面があった。ということは、兄が仲介して2人を巡り合わせた、ということのメタファーなのか? はたまた、死んだ兄は大男の姿であの世を彷徨っていて、過去の すずさんを、周作と会わせるようにした、ということか。とか、いろいろ考えてしまう妙な仕掛けがされている。 妖怪じみたことでいうと、すずさんが、祖母の家で見た座敷童子もいる。座敷童子の存在は祖母も知っていて、「またスイカを食べに来る」とかいうようなことをいっていた。 もうひとつ。小姑の径子に「実家に帰れ」といわれて戻ったのはいいけど、爆睡し、目覚めると「いま夢を見ていた。私、お嫁にいっていて…」というので、「?」。もしかして、すべて一炊の夢みたいな話になって、ご破算で願いましては、な話になるのか? と思ったらそういうことでもなく。径子の「実家に帰れ」も、離縁ということではなく、ちょっと里帰りしてこい的なことだったのね、と分かるんだけど、どーも曖昧な感じがして、ふにゃふにゃしてる感じなのだ。もしかして、すべてはおとぎ話なのではないか? というような気分になってくる。 おとぎ話というと、すずさんが呉市内で道に迷い、遊郭に入り込んでしまうというのもあった。これなど、狐に化かされて出られなくさせられている感じだ。『千と千尋の神隠し』を連想させる。ここでひとりの娼婦と出会って親切に道を教えてもらうんだけど、↑のあらすじで「遊女のリンと仲良くなっていく」というようなエピソードは他には、たしかなくて、迷ったときだけだったと思うんだけど。これも端折ってるのかな。原作では、何度か会うのかな? この遊女との出会いもまた、不思議な力にそうさせられている、という案配で。すずさんの意志とは別に、仕向けられている気配がある。それが何かは分からないけど、狐狸妖怪の類なのかも。まあ、あのおっとりさ、幼児性は、そういうものが見えるような人種である、ともいえないことはないかも。 すずさんは、絵が上手。当時としては、ちょっと変わった特技かも。絵なんか描いてないで、縫い物や料理を覚えろ、と実家ではいわれなかったのか。よく分からんが。夢の中に住んでいるような少女だったのかもしれないね。まあ、彼女自身が、不思議な少女、のまま嫁さんになった、ってことなんだろうけど。 この映画、徹底して一般市民の目線で描かれている。なので、戦時中なのに、戦争なんてどこにあるの? な感じがある。まあ、食糧を始めとする物資がなくなってくることで、大変さはつたわるけど、それはそれなりに野草を楽しむようにして食べていたり。悲壮感か薄い。もっとも、空襲を受けるようになると違ってきて、死が直接描かれるようになる。これまた被害者の立場で、これはもう、戦闘員ではなく、何もできない一般市民の立場になってくる。爆撃機や戦闘機を高射砲で迎撃するシーンが少しあっただけかな。兵士は登場していない。兵士となった水原も、休暇のようなときだけ。べつにそれでもいいとは思うけど。こういう描き方は、中国・韓国目線では、被害者面するな、という攻撃を受けるんじゃないのかなと、少し心配。まあ、そういわれたって構いはしないんだけど。 ・すずの、妊娠話があって。これは、そのうち生まれるんだろう・・・と思っていたら。そういうこともなく。どころか、幼なじみの水原が前線から戻り、北條家に宿泊に来た夜、夫の周作は気を利かして2人を納屋で寝かすんだが。おいおい。いくら2人が仲よさそうだからって・・・。水原が戦死する可能性もあるからって・・・。それに妊婦なのに・・・。と思ったんだが、いつまでたっても腹は膨らまず。なんだったんだ、あの妊娠騒ぎは。 ・夫・周作が3ヵ月間兵隊勤務? とかで軍服ででかけるのはいいんだけど、その後の寂しさとかとくに描かれてなくて、いつ戻ったのかも定かでなく、いつのまにかフツーに登場したりしていて。なんだこりゃ、な感じ。 ・呉爆撃があって。義父の円太郎が工場から戻らない・・・とか話しているのに、その後のフォローがなく、夫・周作なんかが登場したりして別のエピソードになって、しばらくしてから円太郎が入院している病院に姪・晴美をつれて見舞に行く、というようなことになって。なんかここも、端折られているのか、すんなりこない。 ・最後の方で、食卓を囲む人数が突然ふえて、見慣れない、メガネをかけた女性がいるのは何なんだ? と思っていたんだが、公式HPを見たら、仲人をした伯母らしい。とくに説明なくふえていたような気がするので、「?」だったんだけどね。そもそも、結婚式のところなんてよく覚えてないしなあ。 ・すずさんは、水原のことを「迎えに来て欲しかったのに」というほど好きだったのか? 最初の方の描写からは、そんな具合には見えなかったんだが。 ・義姉・径子の経緯が、よく把握できなかった。最初に戻ってきたのは、あれは単なる里帰り? で、いったん嫁ぎ先に戻るんだけど、しばらくしたら「離婚した」と戻ってくるんだが。嫁ぎ先の家が強制立ち退きで下関に行くというので、それは嫌なので離婚してきた、というようなことをいう。なんだそれ、な感じ。さらに、後から分かるんだけど、長男もいて、そちらは跡継ぎだからと元亭主が下関に連れていった、とかいうようなことをいっていた。防空壕に使った柱に、背の低い柱の傷があって。あれはもしかして、径子が2人の子供を連れて帰省したときの、子供たちの背丈? それとも、周作と径子の背丈か? わく分からなかったが。 ・広島に原爆が落ちたのが分かっても、すずさんは、両親や妹のことを心配しないのか、すぐに訪ねたりしないのな。それが不思議。広島に行ったのは終戦の翌年になってからだっけ? 妹だけがいて、経緯をさらさらと話したのは覚えてるんだけど、あまり頭に入らず。両親は亡くなったのか? よく分からん。しかし、地図で見ると10キロ余りだから、半日もあれば歩けるだろ。実際、被ばくした男性が歩いて来ていて、座ったまま亡くなっていた、というエピソードもあったし・・・。 ・能年玲奈の声は、わりと一本調子。音圧も他の声優より高めなのか、浮いて聞こえる。まあ、すずさんの、おっとりした調子はでているのかも知れないけど、すずさんよりも、能年玲奈が見えてきてしまって弱った。 ・方言や戦時中の単語もあえてそのままにしてるのか、セリフだけで言われても、分かりづらいところもあったりした。とくに、婚家の義父、夫の周作の仕事内容は、分からなかった。あとから公式HP見て、なるほどね、な感じ。 ・姪の晴美は、ジブリ映画の少女みたいな感じで描かれてたな。なんか。 ・最後の方で、水原らしき男が岸壁にいたのは、あれは亡霊なのか? ・そうそう。嫁に行ったから、初夜の晩に「傘をもってきましたか?」と尋ねられ、「さしましょう」とかいうというしきたりがあるらしいんだが。ちょっと嫌らしいあれですな。ははは。 ※北川景子が主演したテレビドラマ版『この世界の片隅に』をあとから見たんだが。アニメで省略されている部分がちゃんと描かれていたりして、両方あわせてみると、なるほど、なところがある。たとえば、夫の周作は意中の人がいて、それはなんと遊郭で働く白木リン。周作は遊郭にも通っていたのか? それは分からないけど、リンは周作がシャツを破いて書いてくれた手紙だったか、を持っていて、相思相愛の仲だったけれど、リンが遊女になったせいで別れることになったらしい。では、なぜ周作はすずさんを嫁にとやってきたのか? むかし、ともに鬼に掠われたから? この話のオチもテレビドラマ版にはあって。迷子になっていたすずさんを、周作が叔父さんの荷車で送った、ということらしい。なーんだ。でも、そんなことで すずさんのことを覚えていて、嫁にくれといいに来たのか? そもそも、ほとんど会ったこともない相手が「嫁に」ときて「はい」と差し出すのは、女が労働力として貰いもらわれていた時代の証左ではないか。しかも、すずさんの家も、すずさんも、それを承知で嫁にやる。好きでくっつき、いろいろあって別れた周作の姉と対照的な、当時の日本人の典型的な習俗ではないか。あと、なるほど、と思ったのは、テレビドラマ版には爆撃に会って記憶を失っていたという義父を見舞に行く場面がちゃんとあったこと。こうやって、両方を補っていくと、話の辻褄が合ってくる。なるほど。人さらいなんていなかったし、周作にもすずさんにも想い人はいたけど、ともにその相手とは一緒になることはできず、しかも、相手はともに死んでいる。そういう補完関係の構造だ。それと、アニメの絵と能年玲奈の声で、いささか知恵遅れ的な描き方をされているアニメとは違い、テレビドラマ版は当時のフツーの娘がフツーに貰われていく様子として描かれている。だから情緒に訴える部分も少なく、アニメのほうがいい、という話になりやすいんだろう。アニメのすずさんは、幼く、子供っぽいから、とくに共感されやすい気がする。まあ、テレビドラマ版も北川景子みたいなツンツンした女優でなく、能年玲奈でやったら、どうなったか分からないけどね。それにしても、アニメ版は、いささか神格化されすぎているような気もする。当時のフツーの生活環境を淡々と描いているだけで、とくに反戦思想もにじみでてないし。まあ、そういう思想が表面的に見えていないからいいんだ、というかも知れないけど、その視点でみると、すずさんもまた、リンと同じように、一般家庭に売られていったようなもんなんだよな。そのあたりに、なかなか言及する人がいないのが物足りない。 | ||||
グレート・ミュージアム ハプスブルク家からの招待状 | 12/6 | ヒューマントラストシネマ有楽町2 | 監督/ヨハネス・ホルツハウゼン | 脚本/ヨハネス・ホルツハウゼン |
オーストリア映画。原題は“Das gro?e Museum”。グーグル翻訳では「グレート博物館」。allcinemaの解説は「ハプスブルク家の歴代皇帝たちが蒐集した膨大な数の美術品を所蔵するウィーン美術史美術館。フェルメールやカラヴァッジオ、傑作『バベルの塔』をはじめとした世界最大を誇るブリューゲル・コレクションなど、数々の名画や美術工芸品が収蔵され、年間来場者数は135万人にものぼる。本作は、そんな美術史美術館が創立120年の節目に取り掛かった大規模な改装工事に2年以上にわたり密着し、美術館の舞台裏とそこで働く人々の姿を見つめたドキュメンタリー」 まず、ウィーン美術史美術館というのが、よく分からない。題名にもなってないし、冒頭からの流れでも、その存在や経緯、内容について、あらましの説明もとくにないので、漫然と見ていくだけ、な感じ。もちろん、美術に詳しく、ウィーンにも行ったことがある人なら、先刻ご承知かも知れないけど、こっちは他国の美術館についての知識もないので、あー、そうですか、とされるがまま、な感じだよ。まあ、もともとがオーストリア国民に見てもらうための映画だろうから、そんな説明は不要なんだろうけどね。日本で東博の映画をつくるとして、そもそも創立は・・・なんてやっていったら、館内PRビデオになっちゃうのと同じだ。だから、説明不足に感じるけど、説明過多よりはよいかな、このぐらいなら、な感じ。見てればアバウトに分かるから。 登場する担当スタッフや仕事内容についても、くどくど説明はない。並行して進む、↑の解説文にある「創立120年の節目に取り掛かった大規模な改装工事」についても、とくに説明がなく、なんか壊して新しくしてるな、な程度にしか分からない。分からないけど、まあいいか、なんだよな。 それと、これは根本的なことなんだけど、ハプスブルク家についても、すでに高校の世界史の知識も消えているので、本来ならば説明して欲しいところだけど、まあ、自分で勉強しろよ、というところだな。とにかく、ヨーロッパの凄い一族、だろ? 組織も、見てるうちになんとなく分かってきた。総館長やってるオバチャンと、財務担当のおっちゃんが2本柱みたい。で、絵画棟とか銃器棟とか、部門ごとにまた館長がいて・・・。最下層にお客様係と監視、さらに業者なのか、美術品を運搬する男たちがいる、と。修復師は、あまりにも美術館としては当たり前だから、あーそうですか、な感じ。フツーの学芸員は、どの人たちだったんだろ? これがよく分からない。 面白かったのは、最初の方で、年間通し券を29ユーロから35ユーロ、だったかな、に値上げする話をしてたこと。東博の年間パスポートも来年から大幅アップ&内容低下するんだけど、同じようなことしてるんだな、と。で、値上げ前の駆け込み需要を喚起させるためのデザイン案の検討とかしてたりする。なんか、金儲けは、独立行政法人の東博だけじゃないのだな、と。 あと、財務担当のおっちゃんだったかが、監視やお客様担当からの意見を吸い上げる場というのもあって、お客様担当のおばちゃんが不満を述べるのだ。「私たちは最下層だ。スタッフ合同のパーティがあって、そのとき、自分たちは別のスタッフに紹介されるのかなと思ったら、されなかった。みんな同じ職種で固まってて、ふれ合いがない。2020年には、他のスタッフに紹介されるのかしら?」と皮肉たっぷり。たぶん彼らは館が雇った専任スタッフなんだろう。だから不満も言えるんだと思う。ところが日本じゃ、いまや監視や案内はアウトソーシング。まあ、こうした外部スタッフと内部の人間との交流なんて、ほぼないだろうな。最下層どころじゃない。アウトカーストだ。意見など具申したら、うるさくない会社に変えますよ、と脅されてオシマイだ。きっと何も言えないはず。なので、この美術館の、未だ交流はないとはいえ、自由に発言できる環境は素晴らしい。映画にまでなっちゃってるんだから、すでに交流も始まっているに違いない、よね? 集客についても、いろいろ考えているのが興味深い。東博のように奇天烈なイベントを開いたりするのではなく、展示で応えようとしているのが感じられる。矜持だね。 他にも、デザインに対する目も鋭い。館名だったかに「帝室」(だったかな?)という言葉をつけるようにしたとか、サブ的説明をせず、名称だけのシンプルなフォントデザインにするとか、たんに担当者の好き勝手じゃなくて、総合的に考えて練られている感じもつたわってくる。スタッフみんなで美術館をつくってるんだ、というような自負と誇りも見えてくる。このあたり、日本の美術館・博物館の、企画担当の好き勝手といささか違うような気がするんだけど、どうなんでしょうね。 修復では、油絵を食べる虫の話とかが面白い。はたまた、素手で美術品をさわっていたり、展示台にのせるのもアバウトだったり、絵画を運んだり壁に飾ったりするのもアナログで、なかなか機械化は進まないのね、とか思ったり。 驚いたのは、天井にフレスコ画(?)がある部屋の床に、いきなりツルハシを打ち込むシーンで。展示室の改装らしいけど、ひどく大雑把にやるんだな、とか思ってしまった。天井にネットを張って防御態勢をとるとか、しないのね。ふーん。 あと、冒頭で、大統領執務室(?)にあった大きな油絵(マリア・テレジアが描かれているとかいってたっけか)がもちだされ、後半ではその絵が再び戻されるんだけど、あれは美術館に修復に出していた、ということなのね。ってことは、国立なのか? ウィーン美術史美術館って。大統領が訪れ、総館長が笑顔で迎え入れてるのは、予算をふやすため、あるいは、減らされないためなのかね。美術館も、政治家のご機嫌取りしなくちゃならんのは、どこも同じなのね。 あと、興味深かったのは、オークションへの参加かな。競り落としたいものはあったけど、予算内に収まらないので、すべて諦めていた。国立(?)といえど、大変なのね。しかし、ライバルだったのは、どこなんだろ? ブリューゲルの「バベルの塔」が登場してたね。来年4月に都美館にやってくるやつだ。でも、映画がつくられたのは2014年だから、べつに日本に来るからってわけじゃない。日本といえば、「ハプスブルク家展。グッゲンハイムでは失敗だったけど、日本じゃ大成功」みたいなことを言ってたなあ。みんな、分かって見にきていたのかどうか、知らんけどね。まあ、知らなくても構やしないんだけど。たいていの人は知らんだろうから。わしもだが。 | ||||
アズミ・ハルコは行方不明 | 12/7 | ヒューマントラストシネマ池袋1 | 監督/松居大悟 | 脚本/瀬戸山美咲 |
allcinemaのあらすじは「とある地方都市。実家で両親と祖母と暮らす27歳の安曇春子。家には義母を一人で介護する母のストレスが充満し、会社ではワンマン社長と専務のセクハラ発言に晒される毎日。そんなある日、彼女は女子高生のギャング団に暴行された幼なじみの曽我と再会する。一方、成人式の会場で中学時代の同級生、ユキオと出会った20歳の愛菜。その後2人は同じく同級生の学とも再会。ユキオと学は覆面アーティストのバンクシーに憧れ、チーム名“キルロイ”を名乗ってグラフィティ・アートを始めるのだったが…」 ハナからイメージが細切れパッチワーク状態で、時制も入り乱れている感じ。この状態が延々とつづくので、生理的に不愉快になってくる。とはいっても、だんだん、過去のある期間と、次のある期間の、2つの時間の流れをより合わせているのは分かる。では、いつ、その流れがつながるのだ? と思いつつ見ていても、なかなかつながらない。そして、最後までつながらない。ラストシーンは、ぽーん、と飛んで数年後になってしまう。なんじゃこれ。 その2つの期間がつながるのは「安曇春子が行方不明になった時点」のはずなんだけど、肝心のその「行方不明になった時点」が描かれていない・・・というと、いや、あの煙草を吸ってる時だよ、いわれそうだけど、あのシーンは象徴であって具体性はないわけで。安曇春子がなぜ、いつ、どのように行方不明になったのは分からないのだ。煙草の場面も、絶対にその瞬間、とも言い切れないわけだし・・・。というわけで、終わってなおイライラさせられる。なんだよ、これ。 いろいろ分からないだけでなく、話もたいして面白くない。要は北関東の地方都市(ロケは足利市らしい)にたむろっているマイルドヤンキーの話で、かといって地元に満足、というわけでもなく、都会にでて花開かせよう、というような欲もなく、ただ、だらーんと毎日を過ごしている20代後半の安曇春子と、成人式を済ませたばかりの愛菜を軸とした2つの話が繰り広げられるんだけど。では、出口がなく鬱屈した様子とか、出て行けないしがらみとか、そういう退廃的な様子はちっとも感じられない。みな淡々と、役割を演じている、って印象。だって、登場人物の背景なんか、たいして描かれないのだから。 たとえば安曇春子は27歳で、小さな会社で働いている。手取り13万円。と聞いた時点で、あんなクルマに乗れるのか? という疑問が湧いてきた。軽なら分かるけど・・・。で、彼女は田舎住まいでストレスたまってるのか? そんな風には全然見えない。これが蒼井優でなくもっとブスでデブでだらけた役者なら、そうかも、と思えるけど、蒼井優だからまったくそうは見えない。他の同級生たちも、とくに恵まれてないように見えない。スーパーで働く曽我は変わった奴だけど、あれは環境じゃなくて人格のせいだろ。フツーにスーパーに勤められるんだから引きこもりじゃないはずだし、でもあの家の中はなんなんだ? というより、隣に住んでるのに交流がずっとなかったのか? の方が異常。しかも、家には曽我ひとり。家族はどうしたんだ? 突然、交際が始まるのはなぜなんだ? 意味不明。しかも、夜、曽我が明かりを点滅させて春子を呼び・・・ってか、そんなんで隣家に行く春子も異常だろ・・・、大した話もせず、と思ったら春子の方から「セックスでもする?」ともちかけるのは何なんだ。田舎じゃ他にすることないとでも言いたいのか。まあ、蒼井優じゃなければ、あり得るかも、と思うかも知れないが。いくら春子に彼氏がいないからって、近場の変人で済ませるというのが変。だって田舎は人口的に女性の方が少ないはずだろ。で、この夜セックスしちゃうんだけど、どーも曽我は勃起しなかった様子で。では、その後の性交渉はどうだったのかは気になるところだけれど、2人はフツーにつきあい始めるのだ。変なの。なのに、この映画の後半で、曽我は突然、春子に悪態をついて、別れるようなことになってしまったようで・・・、その後に登場するのが、あの煙草の場面なのだ。ということは、春子は曽我に振られたから行方不明になった? なんだそれ。曽我が春子に悪態をつくシーンもあったけど、あれもよく分からないところ。 春子の家庭は両親と痴呆症の祖母と、あと、弟もいたっけ? でも、そんなのよくある家庭なわけで、鬱屈を表現するには当たり前すぎる。この家族、会話がなく、隣家の曽我家についてもなにも触れない。なんだこの家族。田舎だから、って理由は、どこにも感じられないぞ。 愛菜の方も、ヤンキーな男友だち2人と落書きごっこに夢中になり、そのうちに現在行方不明の安曇春子の顔をステンシルにしてあちこち描いていく。で、ああ、この話は2つの時間軸を織りなしながら描いているのか、と分かるんだけど、それがなに? だよね。落書きは犯罪、と知ると、男2人の片割れは腰がひけてやめてしまい、もうひとりは落書きアートの地元スターに祭りあげられてしまう、という話も、だからなに? な感じ。そんな派生的な話より、安曇春子がいつ、なぜ行方不明になったのか、が知りたい。いつ、行方不明になったんだ? 冒頭の、クルマを降りて煙草を吸ったあと? でも、同じシーンはたしか3回あって、最初はカメラが外れて戻ると座席に誰もいない。2回目だったか3回目かは、カメラが戻ると春子が一瞬映るのだった。それで、何を言いたいんだ? あともうひとつ、とはいいづらい話が、女子校生たちがおっさんたちを集団で殴る蹴るする一団だけど、あれも得体が知れない。なんか、この分かりづらさは、もしかして、脚本を解体再構築とかしてないか? それを断片的につないで、独自の表現、とか悦に入ってやしないかと思うんだが。いかがなものなんだろう。 安曇春子の同級生の女性とか、愛菜がもと勤めてた(ファッションヘルスだっけ? クラブだっけ?)ときの先輩女性とかでてくるけど、あれも意味不明。存在が分かりやすいのは、春子の勤め先の社長と専務? あと、外人と結婚するという、ちょっと見はダサイ先輩女性は面白い。 で、ラストシーンは、数年後なのか。安曇春子が赤ちゃんを抱いているんだけど、これまたどうつながるのか分からない。想像しろってか? あれは曽我の子供? だったら、なんだっていうのだ? なんか、勢いで撮ってテキトーにつないで一丁上がり、な感じがしてしょうがない。と思ったら『自分の事ばかりで情けなくなるよ』『私たちのハァハァ』の監督か。じゃ、やっぱり、勢いで撮ってるな、きっと。 それにしても、セリフが聞き取りづらいのは、困りもの。 | ||||
エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に | 12/15 | 新宿武蔵野館3 | 監督/リチャード・リンクレイター | 脚本/リチャード・リンクレイター |
原題は“Everybody Wants Some!!”。allcinemaのあらすじは「1980年9月。野球推薦で大学に入学する新入生のジェイクは、期待と不安を胸に野球部の寮へとやって来た。すると、さっそく先輩たちの手荒い歓迎が待っていた。彼らは揃いも揃って野球エリートとは思えない変人ばかりで、すっかり圧倒されるジェイク。そんな中、面倒見の良いフィネガンのガイドで女子寮へと女の子の品定めに向い、同じ新入生のビバリーに一目惚れするジェイクだったが…」 クルマでやってくる新入生というのが、なんかもう日本とは違ってて。やってきたのは一戸建ての屋敷で、どうやらこれが野球部の寮? でも、生意気で偉そうなやつからフツーなのからいろいろで、でも、偉そうなのが上級生というわけでもなく、というか、誰が上級生で誰が新入生のなのか、最後まで正確には分からなかった。で、入学式の数日前からの日々を描いていくんだけど、これがなんとも、どこが強豪野球部の選手たちなんだ? てな感じの連中&行動で、酒は飲むパーティで女とやりまくるな毎日というのは、こりゃなんなんだ? コーチらしい人も、寮の2階には女は連れ込むな、っていう程度で。だから、1階の部屋を「セックス部屋」にして、そこではやり放題って、なんじゃらほい。セックスの相手は知り合いとか同級生でもなく、上級生とかその夜に出会った相手ばかりで、アメリカの大学って、18、9からこういうことなのか? そういえば、先輩らしい男が「田舎に残してきた恋人のことは忘れろ」とかいってたけど、これじゃ勝手に忘れるよな。 はいいんだけど、そういう描写がだらだらと、寮の面々を紹介しつつつづくだけで、いつになってもドラマが始まらないので、ちょっと飽きてくる。なんっていっても困るのは、人物がよく分からないこと。こいつは新入生? 上級生? しかも、同じようなヒゲを生やしてるのが何人も登場するから、ますます得体が知れない。これが、一人ひとりがちゃんと見分けがついて、キャラが理解できてりゃまだしも、そうじゃないので話にのれない。 しかも、ジェイクが主人公といいつつ、あまり彼が中心で話が回るわけではなく、集団の一員的な描き方がされているから、彼の思いもよく分からない、というのが辛いところ。 そんなジェイクが、あるとき、仲間とクルマに乗っていて。前の座席の先輩だかが軟派しようとしたら、相手の女の子が、「後部座席の真ん中の子がいい」とかいって、それを間にうけて、彼女の部屋に花を持っていったりしてつきあうことになり・・・。って、話が上手すぎだろ。というか、パーティとか街の店で引っかけてヤル女と、つき合う女は別、という態度がありありなのが、いかにも80年代なのかもな、とか思った次第。こう露骨にやられると、「いいのか?」という気になってしまうけど、そういうもんだったんだよな、昔は。まあ、現在の学生をこんな風に描いたら問題だろうけど、80年代の野球部の男なんて、こんなもんだぜ、なら許せるのかも。 だらだらと盛り上がりのない展開が、やっと面白くなるのはジェイクがビバリーとつきあい始める頃からで、前置きが長すぎる気がしないでもない。でそのビバリーは演劇部だっけ。で、演劇部のパーティに行く行かないで仲間が揉めるというかごねるあたりは、ちょっと面白い。「どーせ俺たち、野球バカだし。演劇部のパーティいってもちんぷんかんぷんで、浮きまくるだけだよな」とかいいつつ、でも本音は行きたい、って感じがなかなか笑える。 ジェイクは、野球で大学に入ったけど、詩人のことを知っていたりして、教養のあるところを見せたりして。まあ、そういう設定にしないと、話が面白くないからかも知れないけど、じゃあ、野球しかできないやつはどうすんだ、だけど。なかにひとり、「俺は超大学球だ!」と意気込んでるやつがいて、でも、練習が始まって全然ダメなことがわかってヘコんだり。あるいは、他校から転部してきた上級生で、マリファナだか水煙草だかやってるのがいて、それが30歳と分かって退部させられたりと、なかなかの猛者というか変人もいたりして、ふーん、な感じ。とか、だんだん不思議に面白くなってくる後半。 最後は、どんな感じで終わったんだっけ? 入学式当日で終わったんだっけ? なんか、記憶にないけど、まあ、そういう、記憶に残らないようなだらだら映画でもあった、というわけだ。 しかし、ビバリーは、ジェイクのどこが気に入ったのか。たまたま「後部座席の真ん中の・・・」といっただけなのか。はたまた、そういわれたからって、ジェイクはビバリーのどこが好きになったのか。よく分からない学生生活のスタートだった。では、ああいうのがうらやましいかというと、なんか、1年生から下半身の話ばかりで、女子も男子も、やりたくてやりたくてしょうがない、な感じは、どーもなあ。な、感じ。 | ||||
帰ってきたヒトラー | 12/21 | ギンレイホール | 監督/ダーヴィト・ヴネント | 脚本/ダーヴィト・ヴネント、ミッツィ・マイヤー |
ドイツ映画。原題は“Er ist wieder da”で、「彼が帰ってきた」という意味らしい。allcinemaのあらすじは「1945年に自殺したはずのアドルフ・ヒトラーが、なぜか2014年のベルリンにタイムスリップして甦る。やがて彼をモノマネ芸人と勘違いしたディレクターにスカウトされ、テレビ番組に出演することに。すると、ヒトラーが生きていたらいかにも言いそうな言葉で現代のドイツを斬りまくると、その“芸”の完成度が評判を呼び、彼はたちまち大ブレイク。しかも言っている内容も意外に真理を突いていると迷える現代人の心を捉え、いつしか再び大衆の支持を集め始めてしまうヒトラーだったが…」 うーむ。なんか、想像と違って、わりと薄っぺらな感じの映画だった。あらすじ↑の通りで、現代にウケるヒトラー、への皮肉や危険性をコミカルに描いているのは分かるんだけど、それが分かりすぎるからつまらないってところかな。しみじみ、も、じわり、もない。 テレビ局をリストラされたディレクター(?)が、タイムスリップしてきたヒトラーを発見。これを元の会社の上司に売り込んで、自分も会社に戻ろう、と思い立つ。それがまんまと成功するんだけど、手柄は上司に横取りされそうになり、でも、なんとか会議の末席にすべりこむ・・・な感じ。 ヒトラーの存在や言説がウケる理由が、よく分からない、というところがある。というのも、ドイツ国内の政治状況、政党の関係とか、あとはネオナチの台東とか、そういうことが分かっていないと、素直に笑ったり、なるほど、と思ったりできないような感じなのだ。それと、この映画、結構ドキュメンタリー的な部分があるようで、ヒトラー役の役者をそのまんま街に連れだして、市民の反応を撮っていたりするみたいで、顔がぼやかしてあったりする。もちろん演出の部分もあるんだろうけど、なかなか危ういところが感じられて、でも、どこがどのぐらい危険なのかが肌身で感じられないので、イライラ感がつのり、デイレクター氏と2人であちこちクルマで移動しはじめた頃に沈没し、気がついたら、ヒトラーが犬を撃つちょっと前に目覚めたという次第。 テレビ局内の昇進争いも背景にあって。番組をヒットさせないと地位が危うい。幹部の男性は、自分がチーフになるものと思っていたら、女性が選ばれてしまって、それで彼はかつての部下であり、首を切ったディレクターがつれてきたヒトラーを起用する。それで番組は大ヒット。で、手柄は女性チーフがもっていく。のだけれど、あるときヒトラーが犬を撃つ映像が発覚し、女性チーフは飛ばされ、幹部の男性がチーフに昇格するんだけど、なにをやっても番組がうまくいかず、人は去り売上も下がる一方。で、やっぱりヒトラーだ! ってな感じでまたまた引っ張り出すんだよね。 なごたごたが、半ばコミカルに描かれるんだけど。映画の中でも語られていたけど、ヒトラーがドイツを支配したんじゃない、大衆がヒトラーを選んだんだ、というようなこと。でも、これは昔からよくいわれていることであって、どこにも目新しさや発見がない。だから、改めて、そうなんだよね、とはならんわけで。いまいちインパクトはない。 むしろ、現在のドイツで、ヒトラーの恰好をして街を歩いても、ヒトラーと分からない人もいるし、分かる人の中にも握手を求めたり、一緒に写真を撮ろうとする人だったりと、そういうレベルなのかい? ということに驚いた。まあ、ほんとは嫌悪感を抱いて殴りかかってくるようなのもいて、でもそれはカッとしているとか、もしかしたらあるかも知れないけどね。まあ、どちらにしても、現在のドイツでは、諸外国が反ナチの思想をもちつづけ、反ナチ映画をつくりつづけているようなこととは裏腹に、もう忘れ去られようとしているのかもしれない。そういうことに対する警鐘としてつくられたのか、な? 知らんけど。 な感じで、いまいちドキリもしないし、感じるところも少ない映画だった。 あと、軽薄な感じを受けるのは『モンティ・パイソン』みたいなコラージュ動画とか、やってる本人は面白がってるのかも知れないけど、見てる方からすると、なんだよ、な感じのする部分も結構あったから、かも知れない。 | ||||
リトル・ボーイ 小さなボクと戦争 | 12/21 | ギンレイホール | 監督/アレハンドロ・モンテベルデ | 脚本/アレハンドロ・モンテベルデ、ペペ・ポルティージョ |
メキシコ/アメリカ映画。原題は“Little Boy”。allcinemaのあらすじは「第二次世界大戦下のカリフォルニア州の小さな漁村。8歳の少年ペッパー・バズビーは、身体が小さいせいで“リトル・ボーイ”とからかわれ、イジメに遭うこともしばしば。そんな彼にとって、自分のことを“相棒”と呼んでくれる優しい父と奇術師ベン・イーグルがヒーローだった。ある日、兄のロンドンが徴兵検査で引っかかり、代わりに父が戦争に駆り出されてしまう。以来ペッパーは、父を呼び戻すために戦場へ向けて念を送るようになる。そんな中、町のはずれには米国への忠誠が認められて収容所から釈放された日系人のハシモトが住んでいて、周囲から冷たい視線を浴びていた。ペッパーも他の人々と同様にハシモトに敵意を剥き出しにする。すると見かねた教会の司祭から、すべてを達成できたら願いが叶うと、あるリストを渡される。さっそく一つひとつリストをこなしていくペッパー。そしてそこには、ハシモトに親切にという項目が加えられていたのだが…」 メキシコ人の監督が、アメリカ役者と日本の役者を使って、こんな映画を撮るというのが面白い。まあ、アメリカ人だったら、こんな映画をつくろうとは思わないかも知れないけど。 この映画でいちばん驚いたのは、忠誠心が認められると収容所からだされる、ということで。そういうことはあったのか? 他の多くは忠誠心が認められなかった? どういうことをしたら、忠誠心が認められたのか? というようなことだった。 それはさておき。話は↑のとおりで。でも、はたしてペッパーがハシモトに対して好意を抱くまでになっていたかというと、疑問な感じかな。だって、牧師からムリやり「ハシモトに親切に」と言われたわけで、本心ではないはず。しかも、最初はハシモトも拒否するし、会ってからも、なにかしてくれるわけでもなし。むしろ、自分が日系人とつき合っていることで家族に申し訳ないし、自分も肩身が狭い、な感じしか感じられない。 そんなペッパーが心奪われるのが、ハシモトから教えられたマサオ・クメという日本の武将の話で。小柄でみそっかすだったけど、来襲した蒙古人をやっつけて日本を救った、とかいう伝説の絵巻をみせられ、シンパシーを抱く、という展開なる。さらには、この話と、ハシモトに授けられた知恵で、いじめっ子をのしてしまい、それからイジメはなくなって、万々歳。さらに、魔術師の舞台に上げてもらったことがあり、そこで、物体を引き寄せる力がある、と信じ込んでしまったせいで、自分には念力パワーがあると思い込んでしまう。それを街中で披露している最中に大地震が起き、周囲も「変な子」扱い。さらに、自分父親を救うんだと、海に向かって念力を発し続けたら、広島に原爆投下のニュースで、ペッパーは一躍町のスター扱い。おいおい、な感じだけど、それでも、父親を思う気持ちはびしばし伝わってきて、なかなかよろしい。 戦死した、という情報がつたわって墓もつくるんだけど、実は生きていたというラストもなかなかいい感じで。嫌な気持ちが、原爆投下で狂喜乱舞する米国市民の様子以外に湧かないのも、いい。 とはいえ、日系人に対する「殺してやる」的な憎しみは、なんなんだろうなと思ったりもした。とくに、ペッパーの兄貴と、町にいる日系人憎しのオヤジの2人は、ちょっと異常なんじゃなかろうか、と思ったぐらいだ。近くにいる日系人を殺したり迫害しても、戦争にいい影響が出るはずもない。 とはいえ、日本でだって、開戦以降に住んでいた欧米人は敵性外国人として迫害されたりしたんだから、どこの国でも同じだよな、とか思う反面、でもなー、という気持ちもある。だって、日系人たちは昨日今日の移民ではなく、はるか以前に米国に移住し、働いていたのだから。それと、同じ三国同盟で敵国となったドイツ系、イタリア系の移民に対する対応はどうだったんだろう? という疑問も湧いてくる。たしか、隔離されたのは日系人だけなんだよな。※で、ちょっと調べたら、ドイツ系、イタリア系も、一時的には隔離されたらしい。 映画は、老人になったペッパーのナレーションで進行するんだけど、その当の本人の老人姿が登場しないのが残念。はたしてペッパーは小さいままだったのか。それともちゃんと人並みの背丈になったのか。どっちだろ。 そういえば、映画の中にも、ドイツ系、という人物がでてきたような記憶もあるんだけど、もう忘れている。ははは。 ・マサオ・クメの逸話は、どーもでっち上げ的な話のようだ。戦国期以降の武士みたいなのに、蒙古来襲を追い払ったとか、蒙古勢は上陸して攻めてきていたとか、おいおい、なんだそれ、な話なんだもん。もうちょい、史実とのバランスを考えてくれよ。 ・父親はフィリピンで日本軍の捕虜になり、終戦直前、捕縛された基地が友軍の爆撃にさらされた、という設定。父親は被弾したのか、いったん倒れる。そのとき、はいていた靴を戦友がはぎ取り、でもその戦友が死んだ。戦死者の氏名を確認するとき、靴の名前によった、ということらしい。なかなか粋な展開で、念力では父親は無事戻せなかったのか、と思わせておいて、おやおや、父親まで念力が通じたのか、と驚かせてくれる。 ・しかし、なんといっても、広島原爆投下で大喜びする米国市民は、みていてやになった。リトル・ボーイは、原爆の名前でもある。じゃあ、ペッパーは原爆か? けれど、すぐあとに、ペッパー真っ黒焦げの被災現場をひとり歩くシーンがあって、お、ちゃんと配慮してる、と見直してしまった。こういうバランス感覚は大事だよな、と。 ・いちばん気になったのは、周囲がハシモトに冷淡な中で、牧師だけがハシモトと親しくつき合っている理由かな。牧師はハシモトを信頼しているし、偏見もない。それはなぜなのか。そして、他に同じような心で接するアメリカ人はいないのか? ということが気になってしまった。 ・母親役のエミリー・ワトソンがなかなかいい。 | ||||
風に濡れた女 | 12/27 | 新宿武蔵野館2 | 監督/塩田明彦 | 脚本/塩田明彦 |
allcinemaのあらすじは「人里離れた山小屋で俗世の喧騒とは無縁に静かに暮らしていた男が、ある日突然、目の前に欲望剥き出しの野性的な女が現われたことで、図らずも自身も欲望の渦に呑み込まれていくさまを描く」 塩田明彦のロマンポルノで、そこそこ面白い。とはいえかつてのロマンポルノは資金、時間、表現という制約が厳然と存在していたわけで、それを仮想的に現在にもちこんでもあまり意味がないのではないのだろうか。そういうことより、現在ならではの、映画館におけるポルノ表現の壁をどうかわすか、が見えて欲しかった。でも、そういうこともなく。Webでボカシなしの本番AVが氾濫している中で、70年代と同じようなレベルでのセックス表現は古めかしく見えて、いまいち盛り上がらないのだった。 物語の方も、これまた神代辰巳とか、当時の映像表現の最先端をいっていた監督なんかのものとたいして違いはしない、というか、あえて似せているみたいな気はするのだけれど、それはそれで興味深いところが結構あって、楽しめた。でも、この手の映画でよくあるように、最後はあれこれとっ散らかして、後は勝手に考えてね、みたいなところは定席か。 たとえばリアカー、自転車、椅子、コーヒー、食べること、劇団、イヌ、虎、サーファー、叙情詩、指輪、うんこ、テント、種類の違うクルマ・・・など、意味ありげな要素が満載で、でもたぶん深い意味はないんだろうなと思いながら、読みにふける人もいるのかな、とか想像したり。でもまあ、そういうことにはかかずりあわず、80分弱、あり得ないおとぎ話に身を任せるだけでよいのかも。 だって、主人公の柏木自身が、まとわりついてくる汐里にむかって「お前は何でここにやってくるんだ。何が目的なんだ」とかいう言葉を投げかけていたけど、まさにそれはこの映画の核心部分で、それを主人公柏木も「?」と思い、監督自身も「知らんよ、そんなこと」と言ってるような気がするのだよね。まあ、そういう程度の内容だ。だからまあ、そこそこ面白い、ということだね。でもまあ、ストーリーを書き起こしておこうか。 朝の電車が少し遅れて、予告も2分とか言ってたかな。なので、トイレに行って入ったらすでに始まっていて、岸壁のシーンだったかな。本を読んでいる男の前で、自転車に乗った女が、そのまま海に飛び込んでいく、というところから見た。 リヤカーを引く柏木の背後から肩車姿勢になり「住まわせてくれ」とからんみ、「お金を払うのはあんたよ」と、身体で払う、と臭わせる。ついてきた汐里を、どっかへ行け、と追い出す。翌日、電気屋(?)の兄ちゃんがバッテリーをもってくる。電気が引かれていないらしい。柏木は、兄ちゃんのクルマに乗せてもらい、喫茶店へコーヒーを買い行くんだが、車中、柏木は、自分と喫茶店の亭主は、大学の同級生(?)で、その女房も同じ大学の後輩にあたる、とか説明するんだけど「文学部英文学科」なんてことまで説明するのがとても不自然。正面から運転する兄ちゃんと助手席の柏木を映すというのも、とても奇妙な映像で、不思議に古くさい。狙っているのかね。 喫茶店で、働く汐里と再会。けど、汐里していねいな言葉遣いになっていて、別人みたいで、何なんだ。柏木と兄ちゃん、お茶する。兄ちゃん、日頃から詩を書いていて、ときどき柏木に聞かせているらしい。本日も、詩の朗読。「君は僕の前に現れる」とかいうやつ。 その日だったか、翌日だったか。柏木が家に戻ると、汐里がサーファーを連れ込んで盛んにやってるところ。悪びれない2人。でてきたサーファーに、コーヒーを振る舞う柏木。 このあとか? 柏木が「うそ」「ほんと」の2つのセリフと、行動で演技をしてみろ、と汐里にいうのは。なかなか面白い。元演劇をやっていた、っていうことを見せたいのかな。それにしても、汐里は完璧に演技をこなしすぎ。まあ、柏木の汐里の精神的距離感と、肉体的距離感を見せようとしているのかな。 あっちへいけ、と追い払っても、まとわりついてくる汐里。汐里の目的は何なんだ? でも、目的なんかないんだよな、ポルノ映画だから。そういう関係性をつくるための設定なんだから。考えてもムダ。意味がない。そういうもの、として受け止めないと。 茶店の亭主がやってきて「汐里に手を出すな。俺の女房にも手をだしたろ」と柏木を責めた後だったかな。柏木がその気になって汐里に襲いかかるのは。こでも汐里は抵抗し、やらせない。それはなぜなんだ? たんにじらし? 逃げるとき、何かを柏木の口に入れたのか、柏木が吐き出す。 電気屋の兄ちゃんが、やってくるんだったか、どうだったか。茶店の店主が、汐里のことでサーファー連中に文句をつけ、返り討ちにあって入院とか。で、2人で見舞に行くんだが、まず包帯ぐるぐる巻の患者が映り、これが? と思わせておいて、実はそれは同室の他人、というのが笑えた。茶店の店主はすっかり大人しくなっていて、もう妻のことでも柏木を疑っていない。で、汐里とのいきさつを話し、店主のだか店主の妻のだかの結婚指輪を飲み込んだ。けど、「ウンコまみれででてくるだろう」というのを聞いてえずく柏木。汐里が柏木に食わせたのは、ウンコまみれの指輪か・・・。洗ってあったのかな。うわわわわ。えずく柏木に、店主は「食いものが悪いんだろう。店の2階に住んでいい、店にあるものを食べて元気だせ」とかいう。 このあとだっけ。柏木の家にバンがやってくるのは。乗っていたのは柏木の元彼女で劇団を率いている女と、男の劇団員4人、事務みたいな女の子。汐里のことを「こいつは野良犬みたいなもの」という説明は、柏木が、劇団を率いる女性(柏木の元彼女)にいったんだっけか。 この劇団女だったっけか。「私は愛の狩人」とかいったのは。そういう題名の映画があったな。でも、ここは、ラストの「ベンガル虎」との関係で登場しているのかな。その狩人の劇団女を、虎が襲うんだぞ、と・・・。 劇団女が劇団員に稽古をつけていて、それを見ていた柏木が、「俺の台本じゃないか」とかいうのは、柏木に才能があるということか、それとも、劇団女の柏木への愛の表現か。知らんけど。稽古を見ていた汐里が、劇団女に茶々をいれると、劇団女が汐里に、ある設定で芝居をしろという。最初は「やだね」といっていたのに、「やるよ」と居直り、劇団女を犯すかのような芝居をするんだが、まさにあれはベンガル虎? 夜、劇団女が、柏木に迫る。そこに汐里も混ざってきて、3Pかと思ったら汐里は劇団女とレズを始め、汐里に迫る柏木を足蹴にする。3人でからんでるときの、ウォーターベッドの音がきいきい。足蹴にされて追い出された柏木は、外にいた劇団の女の子に手をだして・・・。そこに、腰に毛布を巻いた汐里がでてきて、テントから劇団員の男をつれだし、バンのなかへ連れ込んでぎしぎし。それを見て、隣のテントから、残りの3人の劇団員もでてきて、バンの前に整然と並ぶ・・・。まるで慰安婦の順番を待つ兵隊みたい。それを見ながら、柏木は劇団女の子を犯す。いっぽう、劇団女は放心状態で横たわっている(風呂だったかな?)。汐里にイカされたのか。汐里の体力がすごいね、って話だな。 翌朝、柏木が起きると、劇団女の子がコーヒーをもってくる。劇団女に、柏木の世話をしろ、といわれたから、らしい。劇団女と劇団員は、すでに立った後。柏木は「初めてじゃなかったんだ。誰とやった。何人とやった」とか、女の子に詰問するのが、なんか、キモイ感じ。女のは、ひとりだけ、といい、それは高校の教師というんだけど、なんの意味があるんだ、このくだり。その後、柏木は女の子を、敷地から追い出してしまう。 そこに汐里がくるんだっけか? よく覚えてない。でもって柏木は汐里を抱きかかえたりして、とうとう汐里と荒々しくまぐわうんだけど、汐里は青いパンティはいたまま騎乗位・・・というのが、ううむな感じ。脱げよ、全部。と思う。で、そのセックスは勢い余って? 家が倒れるという、あり得ない展開も、まあいいか、と見過ごせる。屋根か壁か、張ってあった布が破られ、汐里の頭が見えて、まだ騎乗位でまぐわってる様子。そういうセックスになるから、じらしまくっていたのか。 という場面と並行して、劇団女がクルマを止め、「くやしぃ!」と叫びながらひとりの劇団員をクルマから連れだして、青カンを始める。悔しいのは、汐里とのレズでイカされてしまったからなのか。柏木と汐里がまぐわっているのを感じたのか。さてはて。 一方、劇団女の子が山道を歩いていると、電気屋の兄ちゃんが立ち小便しているのと遭遇。兄ちゃんが振り向いて見た途端、啓示! 兄ちゃんが「君は僕の前に現れる」とか、詩に書いていた通りの展開で、そのままクルマでセックス。女の子もまんざらではなく、相思相愛な感じで・・・。セックスが終わって、女の子がはめていた指輪は、喫茶店店主(か、奥さん)のもので、汐里の体内を通過して柏木がくわえたやつか? よく分からんけど。まあ、これであの詩も、ちゃんと辻褄が合った。 その後のシーンは喫茶店内で、ここでも、弁当の恰好でまぐわったまま、柏木と汐里の2人は食べて飲みをつづける。の後、目覚めると汐里がいない。テレビでは「ベンガルトラが逃げた」というニュース。柏木が倒壊した元の家屋に行くと、椅子に「イヌはどっちだ」と書いてある。そして、虎の鳴き声がして、エンド。 というわけで、汐里は野良犬どころかベンガル虎だったかも知れない、という話。ベンガル虎に見込まれた柏木も、せいぜいイヌレベルだったのね。 ・音楽はなかなか良かったような記憶があるよ。 | ||||
14の夜 | 12/27 | テアトル新宿 | 監督/足立紳 | 脚本/足立紳 |
allcinemaのあらすじは「1987年の田舎町。一日中おっぱいのことばかり考えて悶々とした日々を送る男子中学生のタカシ。ずっと家にいてうじうじしている父にイライラさせられ、幼なじみのメグミには巨乳にばかり目が行ってしまう。そんなある日、町に一軒だけあるレンタルビデオ屋でAV女優のよくしまる今日子がサイン会を開くという噂を耳にし、仲間たちとともにソワソワするタカシだったが…」 妄想中学生の話である。性的にもやもやし、仲間とあれこれいたずらして大騒ぎ、な映画は結構あって、これもその系譜か。学校の部活かなんかでくだくだだらだらしている4人組が、エロ雑誌見ながら、町にやってくるという噂の よくしまる今日子のサイン会に向けて突入していく…かと思いきや、なんか途中から失速気味で。スコーンとあっけらかんに終わらないところが、いまいちストレス。 出だし快調で、セリフもとなかなか気が利いていて面白い。監督の足立紳は『百円の恋』の脚本家で、『アオグラ AOGRA』も書いているのか。なるほど。なんだけど、脚本家であることが仇になって、削ぎ落とすべき部分が落とされていないような気がだんだんしてくる。面白いのは、4人組が廃車置き場でだらだら話しているとこいらあたりまでかな。すでにこのシーンで冗長さがめだっていて、ぱぱっとテンポ良く切り上げればいいのに、と、少しいらついたほどだった。 4人組のまま最後まで行くのかと思ったら、口ばっかりの竹内が早々と消えて。いまいち存在がアバウトなサトシはどこにいった・・・で。バシリのミツルも、最後はあんなでいなくなってしまう。なんだよ。テンポや間合いが膠着しだして、ついには陰気になっていく・・・。当初からの、おっぱい揉みてー!4人組のスタンドバイミー+アメグラに徹底すればいいのに。なんか、話をムダに広げすぎじゃないのか。 教師である父親の酒酔い運転事故と謹慎処分、婚約者をつれて帰省する姉、いらいらしっぱなしの母親、隣家の娘、学校のチンピラ集団、暴走族・・・。からむところが多すぎる。まあ、ビデオ屋とか、深夜のハンバーガー屋とかはいいんだよ、ああいうのは。家庭のことなんて、さらっとでいいんだよ、ほんとは。なのにじっくり描き込みすぎだと思う。 ラストも、チンピラ+暴走族+隣家の娘な図式で、ボコボコにされたタカシがチンピラのボスと仲良くなって。早朝のご帰還。やるせない感じで終わる。ちつともスカッと晴れ晴れしくならんのは、うーむ、な感じだな。 ・4人の中ではいちばん個性も顔も際立つ竹内が早々にいなくなるのはもったいない。バシリのミツルが、実はホモという設定はおもしろいけど、なんか、それだけで終わってしまっている。ミツルの父親はトラック運転手で、事故で(だっけ?)車椅子生活。毎日パチンコかと思いきや、キチガイ女と夜会っていたという話(だったよな、たぶん)は面白いけど有機的に結ばれないので、なんか放り投げっぱなしな感じ。あの場面を、息子のミツルは見ていたんだよな 。違ったっけ? 記憶がかすかだけど、それにしてもどっかで回収してやれよ。存在の薄いサトシは、もうちょっと描き込まないとな。 ・4人は柔道部らしいが、映画撮ってる連中とか、他の同級生を「充実してる」とかうらやましがっているのはなぜなんだ? 自分たちだって運動部なんだろ? いくら担当教師が映画の方に肩入れしてるといっても・・・。柔道部が、いまいち、な理由を挙げないとなあ。他に上級生とかいるだろうし、存在をだせば、話は違ってくると思うぞ。 ・隣家の巨乳娘は高校生か社会人なんだろ? と思っていたら、タカシの幼なじみで、保育園のときの遠足で、巨乳娘がウンコ漏らしで、そのパンツをタカシが洗ったとかいう話になるんだが。えええ? だよな。年齢が合わんだろ。 ・ビデオ屋は、なかなかいい感じ。旦那も女房も、いいキャラしてる。で、結局、よくしまる今日子は当然来ないわけだけど、女房がビデオにサインしてくれた よくしまる今日子ビデオを1本もらうんだけど。これがあまり機能していないのがもったいない。だって、その後はチンピラ集団に絡まれ、さらに暴走族に絡まれ、小便漏らし、暴走族の頭の彼女になってる隣家の巨乳娘に「揉ませろ!」と迫ってボコボコにされる展開で。なんなんだ、これは、だよな。どこにも辻褄合ってないだろ。巨乳娘のいう「あのとき(ウンコパンツを洗ってくれたとき)のタカシはカッコよかったけど、いまは全然カッコよくない」という言葉も、なんじゃそれ、な感じ。巨乳娘は、タカシに好意を抱いていた、といいたいのか? なんだかな。 ・タカシの父親のバカさ加減もしつこく何度も描かれてうんざり。それからタカシ所有のエロビデオの件。父親が見ていたんだけど、デッキから取り出さないままになっていて、姉の婚約者がきている最中に流れだす・・・というのもミエミエで。いつそうなるんだ、と見ているこちらは気が気じゃなくなる。もっとさりげなくやれないものか。 ・あとは、まちをうろつくキチガイ女。これはむかしからよくある設定で、めずらしくも何ともない。むしろ、彼女の家とか家族の存在が見えないのがつまらない。 | ||||
ノーマ東京 世界一のレストランが日本にやって来た | 12/29 | ヒューマントラストシネマ有楽町2 | 監督/モーリス・デッカーズ | 脚本/--- |
オランダ映画。原題は“Ants on a Shrimp”。allcinemaの解説は「英国のレストラン誌が選ぶ“世界ベストレストラン50”で4度も第1位を獲得したデンマーク・コペンハーゲンのレストラン“noma(ノーマ)”。2015年、カリスマシェフ、レネ・レゼピがデンマークの本店を休業し、総勢77名のスタッフを引き連れ、東京に期間限定で出店することに。本作は、日本の食材にこだわり、常に革新的なメニューを模索するレネ・レゼピと、彼の高い要求に応えるべく悪戦苦闘するレシピ開発チームの若き料理人たちの挑戦に密着し、その妥協のない食材選びとメニュー作りを通して、“noma(ノーマ)”の魅力の真髄に迫るグルメ・ドキュメンタリー」 『幸せなひとりぼっち』を見に行ったつもりがやってなくて。あとから調べたら上映しているのはHTC渋谷で、HTC有楽町ではなかったという、単純なミス。で、上映開始までの時間が一番短かったから、この映画を見た、という次第。そもそもノーマの存在も知らないし、世界一ということも知らない。料理にもたいして興味はない。ドキュメンタリーだしな。というわけで、あまり期待はしなかったんだけど、観客は結構入っていた。といっても、100人欠ける小屋だけど。 期間限定で日本でオープン。そんなこと知らん。で、そのオープンまでの記録がこの映画。コペンハーゲンでの様子、東京入りしてからの様子、そして、店長のレゼピが乗り込んできてダメ出しをし、日本の食材選びを再度始め、その後は調理場でレゼピに文句をつけられながら、スタッフが悪戦苦闘し、さてオープン、というところで終わってしまう。 数名のスタッフが軸になって話は進むんだけど、彼らが店でどういう役割なのかは、よく分からない。どーも、日本の店では料理を分担して開発しているようだけど・・・。 日本国内での食材選びは面白かった。築地へ行く場面では、なぜか山本益博がいたけど、どういうツテなのか、は説明されない。その他、白いイチゴとか、樹木の枝を折ったり(香りづけみたい)、エビがでてきたり、アリまで食べるとは・・・うげ、な感じ。さんざん登場したスッポンは、なんか諦めたみたい。スッポン鍋の体験が出てくるかと思ったら、なかった。彼らの反応が見たかったけどな。 このあたりまでは、なんとか興味を惹かれたけど、以後の、調理場でのレゼピのダメ出しは、よくあるレストランの厨房ドキュメンタリーと似たり寄ったりで、あまり惹かれなかった。そして、いよいよオープン当日。でも、最初の客を見迎えて、しばらくして映画は終わってしまう。おいおい。評判とか成果は見せないのか。なんかラストは尻つぼみ。 試行錯誤の結果、出すことになった皿の紹介は最後にあるんだけど、それまでの映像でたいして紹介されてない素材の料理が多かったりして、あれがこうなった感がいまいち、おお、という驚きとともに伝わってくることがないのが残念な感じ。それと、それっておいしいのか? な感じの仕上がりも少なくない感じ。原題にもなってる、生のエビにアリを乗っけたやつなんて、どこが工夫なんだ、な感じだし。なんか、凄い感が伝わってこなかったな。 あと、思ったのは、食材のゴミが多そうなレストランだな、ということ。柑橘系の皮のむき方とか、あれこれ、ざっくり剥くから、もったいない気がしてならなかった。 しかし、たかが期間限定の日本店をだすだけで、ここまでナイーブになるのか、というところも少なからず。スタッフの中には調子をくずしてしまう人もいたりして、そんな精神的にプレッシャーなのかな。日本人は、なんでも「おいしい」っていって食べてくれるぞ、と思ったんだが。 というなかで、いちばん注目したのは、ロシオ・サンチェスっていうのか、刺青のある女性スタッフ。彼女、横顔がかなりな美人。でも、正面を向くと、すこし太めでごついんだけどね。でもま、見るべきキャラは彼女だけ、な感じであった。太めだけど。ははは。 | ||||
ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー | 12/29 | 109シネマズ木場シアター7 | 監督/ギャレス・エドワーズ | 脚本/クリス・ワイツ、トニー・ギルロイ |
原題は“Rogue One”。allcinemaのあらすじは「ダース・ベイダー擁する帝国軍の究極兵器“デス・スター”がついに完成しようとしていた。その圧倒的な破壊力の前に、銀河全体が恐怖に支配されようとしていた。有名な科学者ゲイレン・アーソを父に持ちながらも、家族と離れ離れとなり、たった一人で生き抜いてきたタフな女アウトロー、ジン・アーソ。ある日、彼女は反乱軍の将校キャシアン・アンドーから、父ゲイレンがデス・スターの設計に関わっていた可能性があると知らされる。そこで真相を突き止めるべく、ならず者ばかりで構成された反乱軍の極秘チーム“ローグ・ワン”の一員となり、デス・スターの設計図を盗み出すという過酷なミッションに身を投じていくジンだったが…」 『ノーマ東京』の後、昼飯を食べて・・・なので寝るかなと思っていたんだけど、やっぱりね。アンドーと一緒にでかけるちょっとあと辺りで沈没。気づいたら中東みたいな場所で戦っていて、ドニー・イェンのイムウェが登場するちょっと手前。そもそも前の方の席で、映像と字幕に目がついていかない。カメラに動きかある場面では浮遊感を覚えたり、まあ、すでに身体は“寝たい”と思ってた感じ。そっからは、まあ、睡眠の後なので、目も少し慣れたし、ちゃんと見てはいるんだけど、ラストに向かう戦いあたりからまた睡魔が・・・。人間ドラマがなくアクションとかCG主体になると頭つかわんので、どうしてもそうなっちゃうんだよな。 で、相手陣地に乗り込んでどうたらという場面になって、ああ、これは決死隊の話なのか、と気がついた。いや、もっとなにか複雑で内容のある話かと思っていたんだよ。でも、なかなかそういう具合にならず。要は、ジンの父親が送ってきたホログラムのメッセージがあり、そこで父のゲイレンは、デス・スターを開発する過程で致命的な弱点を仕込んでいて、その場所を知るには設計図が要る、ということを言っていて。その設計図を奪いに敵陣に少数精鋭で乗り込んでいく、というだけの話だった。 映画の冒頭は、どっかの星で親子3人くらしているところに帝国軍の男がやってきて、ゲイレンの妻を殺し、ゲイレンを連行する。幼いジンは隠れていて助かり、ソウ・ゲレラに助けられて育つんだけど、途中で捨てられたのか? それと、帝国軍から逃れてきたパイロットとか、帝国軍のロボットだけど改良されて反乱軍の仲間になってるK-2SOとか、こちらが寝てた頃にも話は進んでいたんだろうけど、よく分からん。そもそも、ソウ・ゲレラとか、これまでのシリーズにでてたのかどうかも覚えてないし。あれか? ゲイレンのホログラムメッセージは、逃げてきたパイロットがもってきたのかな。それ以前に、ジンがなぜ刑務所に入っていたのかとか、あの刑務所は帝国軍のものなのか? ジンは、なぜ護送車から解放されたのだ? そもそも、反乱軍はジンの行方を知っていたということか? とか、寝てるときに説明があったのかも知れないが。さらにいうと、シリーズをちゃんと見ていれば分かることなのかも知れないけど、そんなオタクではないので、知らんよそんなシリーズの経緯の細かいことまで、なのだ。 なのでまあ、軟禁されていたジンが、なんか知らんが育ての親のソウ・ゲレラと再会し、父ゲイレンのホログラムメッセージを見、敵陣にいる父親と再会。でも、父親は死んでしまう。そのときの父親の言葉を信じて(だったかな。なにかメッセージ、もらったんだっけ? 忘れたよ)、設計図を奪うよう反乱軍を説得するけど無視されて。アンドーたちダークな面々と敵陣に乗り込んで設計図を奪う、という単純この上ない話なのだった。けど、なんか分からないことがたくさんあるのは、やっぱり、シリーズの用語を知らなかったり、経緯が頭に入ってないからなんだろうな。ま、しょうがない。 あ、ところで、アンドーは、ゲイレンを救出せず、殺せ、と命じられていたんだけど、結局、そうはしなかったんだよな。あのあたりの逡巡は、表面的すぎてなんの感慨も湧かず。あと、敵陣に乗り込むのを反乱軍幹部に反対されたとき、アンドーが、自分は反乱軍として汚い手段を使ってきた、と、同じような仕事をしてきた連中を連れてジンと行動をともにするよ、と宣言するところは格好いいけど、よくある展開だしな、ああいうの。 で、最初にジンが父親に再会する場所、最後に乗り込む敵陣とか、それがどこなのか、よく分からないまま見ていたよ。最後の敵陣は、あれは宇宙母艦みたいなところなのか? あと、ジェダ、ってなんだ? ジェダイじゃないのか。とか。それから、デス・スターからの威力なのか、地上が破壊される場面が最初の方と最後の2回あったけど、ありゃ、だれがどっからどういうパワーで何を狙ってどうしたんだ? とかも、よく理解できてないんだよな。 そういうことは無視して、流れに身を任せることができない主義なのでね。気になっちゃうと、どうしようもないのだ。 で、なんとか設計図を見つけ、奪い、ダースベーダーの追撃も振り切って設計図データをレイア姫に手渡す、というところまで。この途中、ジンとアンドーは、デス・スターからの破壊光線(?)で焼け死んじゃうんだろうな、あれでは。というか、あの星はどこなの? 地球じゃないんだよな、きっと。よく分からない。分からないことだらけだよ。話は単純なのに。 ・あらすじに「家族と離れ離れとなり、たった一人で生き抜いてきたタフな女アウトロー、ジン・アーソ」とあるけど、そういう描写はたしかなかった。 ・イムウェなんかが登場する場面は、中東あたりの戦闘場面を連想させるのだよね。で。最後の、敵陣に乗り込むところだったか、たしか水辺から上陸してなかったか? あれ、ノルマンディ上陸を連想したんだが。意識しているのではなかろうか。 ・最後、デス・スターの設計図を渡す相手は、レイア姫。これがキャリー・フィッシャーそのものなのでCGだろ、と思ったら、どうやら違うらしく、イングヴィルド・デイラという女優らしいのだけど、素顔はちっとも似ていないのだよね。メイク? うーむ。よく分からない。 ・しかし、最初の、ゲイレンのホログラムの受け渡し、設計図データの受け渡しとかってパッケージで手渡しなんだよな。現在ですらネットでCloud、という世界なのに、あんな弁当箱みたいなでかいメディアに保存して、アナログ的に伝達するっていうのが、もうバカみたい。あと、設計図を保管してある場所がさっさと分かってさっさとゲットできるとか、おいおい、な感じで。ダースベーダーが設計図データを追ってくる過程で、ドアが閉まるとか閉まらないとか、あれ、バカだろ。データを吸い取って転送するとか、できる時代なんじゃないの? イラっとくる。 ・ヒロインのジンを演ずるフェリシティ・ジョーンズは、33歳。もう立派なオバサンだ。なので少年少女キャラなし。ロボットのK-2SOは、ナウシカの巨神兵みたいで、ボケるところなし。さらに、シリーズにつきものの奇妙な生物も少ないので、笑いどころもない。 ・ジンは、設計図の存在と、デス・スターの弱点がある、ということを信じているからいいようなものの。証拠があるわけではないから周囲は半信半疑。そんな状態で、アンドーとその仲間は決死隊に加わりましょう、とはせ参ずるんだけど、なことあり得るか? な話だ。もしジンの妄想だったら無駄死にじゃないか。最初は参加しなかった反乱軍も途中から戦闘に加わるけど、あれだって確かな根拠があってのことじゃないわけで。なんか、素直にがんばれ、といえないところがあると思うんだがな。 ・ラストのレイア姫のくだりも、シリーズ最初の話(エピソード4になるのか)も経緯を忘れているので、あの、設計図のデータがどう使われるのか覚えてないし。感動がつたわらんのだよ。やれやれ。 ・ま、この手の映画はどーも体質に合わないというか。いくら話が単純でも、SWの世界を知らない観客にも「なるほど」と肯けるところがないと、つまらない。分からないことが多いと、どうしても寝てしまうんだよ。まあ、ファンなら大喜びなんだろうけどね。 |