2017年1月

聖杯たちの騎士1/6ヒューマントラストシネマ渋谷3監督/テレンス・マリック脚本/テレンス・マリック
原題は“Knight of Cups”。allcinemaのあらすじは「脚本家として成功し、セレブな世界で享楽的な日々を送るリック。しかし彼の家族はいまや崩壊寸前。ふと自らの人生を見つめ直した彼は、家族の絆を取り戻そうと奔走する一方、愛を求めて6人の美女と巡り会っていくのだったが…」
頭の部分を数分見ていない。遅れたので。最初に見たのは、宇宙の場面で、何をいっているのか記憶にない。そして、子供の場面、和服姿できゃぴきゃぴしてる日本の若い女性がでてきたり。ナレーションは、記憶にない。それが半裸の女性2人といちゃついたり・・・。以後は、女との別れと出会いなんだけど、順番なんてあまり覚えてない。なんとか寝なかったけど。ゴミみたいな環境ビデオだな、こりゃ。ドラマらしいドラマもほとんどなく、断片的なシーンがあったりしながら、↑のあらすじのような話を思わせる映像が連綿と流れるようにつづくので、ちっとも映画には入り込めない。
リックははたして何を考えているのか。深く考えているようにみえるところもあるけれど、享楽的に女性たちとからみあったりしているところもあるので、手がかりにならない。
ケイト・ブランシェットとは夫婦だったけど、破局した、ということか? ナタリー・ポートマンは、亭主ある身でリックと関係をもち、でも、妊娠しているのが分かって別離? 父親は、亭主? 他の4人の女性たちとのロマンスも、イメージビデオみたいで、だからなに? な感じだし。よく分からない。アントニオ・バンデラスなんて、パーティの客として数カットでてくるだけ。おいおい。『スラムドッグ$ミリオネア』のフリーダ・ピントはきれいになったねえ。とか。
ラスト近くの父親の悲しみ、弟の父に対する怒りは、何なんだ? 母親でも死んだのか? でも、母親は登場してきてたっけ?
そういえば、パール、という言葉が何度かでてくるけど、どういう意味を持たせているのかね。水のシーンも、なんか割りと多かったけど、よく分からない。
牧師だか神父が、神が苦悩を与えるのは、あなたのためである、とかいうのは、とんでもない詭弁だよなあ。とか思ったり。なんか、どうでもいい映画だよ。テレンス・マリックは、なに考えているのかね。分からない。
金持ちでハンサムがいい女を取っ替え引っ替え、何が苦悩だ、おい、な気分だな。
太陽を掴め1/6テアトル新宿監督/中村祐太郎脚本/中村祐太郎、木村暉
allcinemaのあらすじは「元子役の人気ミュージシャンのヤットとフォトグラファーのタクマ、タクマの元恋人のユミカは高校時代の同級生。ユミカに想いを寄せるヤットだったが、彼の人気はタクマに撮ってもらうかっこいい写真に負うところが大きかった。そのため、タクマに対して複雑な感情を抱いているヤットだったが…」
監督は26歳で期待の新人らしいけど、時代が現在なだけで話はひどく古くさい。だって、好きな女の子を自分のモノにしたい、ってだけの話で、そんなのいままでに腐るほどある。設定も、ミュージシャンって、これまたありきたり。そこに大麻をからめただけで、どこにも目新しくない。退屈。
もっと演出も古くさい。テアトル新宿の解説では、これまでの作風を「人間の本質を抉るような体当たりの演出、閉塞感に満ちた環境に対し優しく包み込むような視点と、圧倒的な画面構成」と賞賛し、本作については「待望の劇場デビュー作であり、「音楽」を題材に都会に生きる若者たちの群像にスポットを当てた、新境地というべき作品」「東京を疾走する、89分間の” 真っ赤な青春群像劇”」としているけれど、どこが? な感じ。惚れた腫れたとドラッグと、四畳半のゴミだめ部屋でゴロゴロとか喫茶店でだらだらとか、疾走感はほとんどない。勢いがあるのはライブハウスのステージシーンぐらいで、でも音域が狭い怒鳴りなのでテンションは上がらないし、撮り方もフツーなのでとくに驚くところもない。オーソドックスな撮り方とカット割りで、全体が古めかしく見えるんだよな。
で。キャラがよく見えないのも話に入り込めない原因で。ヤットはまあ、子役上がりで過去に一家離散は分かったけど、プロダクション(?)の女社長だかマネージャーとはどうやって知り合ったのか? そしていかにズブズブになったのか? あと、これはちょっと意外だったのが、ずっと友人だと思っていたタクマが、なんと女社長の息子なのね。では、友人関係が先で女社長に拾われたのか? ミュージシャンとして女社長の息子と知り合ったのか、そのあたりが分からないと、話の基本もするっと入ってこない。
そして、ヤットとタクマのアイドル的存在のユミカだけど、この女はなんなんだ? 実家は登場するけど、2人とどうやって知り合ったのか、位置づけがまったく分からない。他にも、タクマの友人なのか、声のでかい男とヘラヘラ女がいるんだけど、彼らも得たが知れない。みな成人しているようだけど、社会人なのか学生なのか、仕事をしているのかどうか、分からない。
ヤットは芸人だから月に何回かライブで収入があるのか。でもたいして多くはないだろ。女社長の慰み者で小遣いはもらってるけど、住んでいるのは木造アパートの四畳半。謎なのがタクマで、写真を獲っているらしいけど、それだけじゃ食っていけんだろ。母親の女社長からの仕送りもあるのか。もしかしてヤットのマネージャーみたいなこともしてるのか? なんか音楽業界のボス(こういう役、柳楽優弥は似合ってきたな)みたいなところへ挨拶に行ってたけど…。で、そのボスに、大麻やってるの見抜かれているのは、どういうルートなのか。
3人の関係だけど、以前にタクマとユミカはつき合っていた・・・みたいなセリフがあったので、そうなのかと思ったら、どーもそんな感じでもなく。タクマはいまもユミカに積極的にアプローチしてる。で、後から分かるのは、むかしからずっとヤットがユミカを好きだったこと。でも、告白したり振られたりはしてないみたいで、シャイなのか。で、当のユミカが2人をどう思っているのかは、最後まで分からない。というのも、大麻のせいでタクマとユミカはゆるゆるになり、寝てしまう(んだったよな、確か。ちがったっけ?)。でも、あるときヤットの部屋を訪ね、そこにいたヤットの兄にもっていた大麻をみつけられ、どうやら犯されてしまったらしい。この一件を契機に、なぜかユミカはヤットに接近し、結ばれる。ヤットも夢が叶ってバンザイ! という終わり方なんだけど、いい加減すぎるだろ。なんで急にユミカはヤットを受け入れるようになるんだよ。なんでタクマを切り離すんだ?
犯され、打ちひしがれたユミカとヤットが話すシーンがあるんだけど、そこでは、ヤットの兄のこと、大麻のことを、話したのか? 聞いたとして、ヤットは兄をぶちのめしに行かないのか? あるいはまた、汚れたユミカを愛おしく思う心を、どこに見せているのだ? もしかして、ユミカは経緯を話していないのか? うやむやすぎるだろ。男を翻弄するだけのユミカは、好きになれんな。
で、大麻だけど。まあ、芸能関係者だからタクマが手に入れていても不思議ではないけど。ほんらい手を出しそうなミュージシャンのヤットは毛嫌いしている。タクマの元に、声のでかい男とヘラヘラ女がやってきて、大麻を消費しているだけではないか。意味分からん。謎なのは、タクマが最初の方でユミカに、大麻入りのポーチを「預かっててくれ」と渡すこと。何のためなのだ? もしかして、ユミカが中味を見つけて勝手に吸うことで大麻仲間に引き込み、彼女を自分の支配下に置こうということか? それにしても、ユミカはポーチの中味を見ていなかったのか? で、そのポーチを「もってきて」といわれてタクマの部屋に行くと、声のでかい男とヘラヘラ女の2人が待ち受けていて、大麻パーティ。ユミカは拒否する態度を見せながらも、実は家で大麻をキメる・・・っていうのは、ポーチを返す前に大麻と吸引具をかすめてたということか? それとも、タクマの家で声のでかい男とヘラヘラ女の2人がラリってる間に盗んだのか。よく分からない。あと、ポーチを持ってこい、といいつつ本人が部屋におらず、あとから戻ってみれば2人の客が全部吸ってしまっていた、というのは何なんだ? で、そのときタクマは、大麻の袋を数えたということか。なんか、この辺りの経緯がアバウトだな。
結局、ユミカはタクマの大麻仲間になるんだけど、なぜタクマは大麻の入ったポーチをユミカに持たせるのか? そんな危険なこと。だいたいそのせいで、ユミカはヤットの部屋でヤットの兄に出会うわけで。まあ、そういう展開をむりやりつくるためにユミカにもたせたシナリオのように見えてしまう。陳腐過ぎ。
流れとしては、ユミカがヤットの兄に犯される事件と、タクマの大麻がバレてどうたら、というのが契機となって大きく展開するんだけど。前者に関しては↑で書いたように牽強付会で、はあ? な感じ。後者については、タクマがなんか電話でなにかを告げられ(よく聞き取れなかった)、あわてる感じだったんだけど、こちらも経緯がよく分からない。しばらく後に、家具をひっくり返され、家捜しされたみたいな自宅で呆然としている場面が映るんだけど、いったい何があったのか? 大麻のルートがヤクザにでもバレたとか、そんなことか? どーも、よく分からない。
で、最後は、タクマが電話で(だったかな)母親に「母さんにもっと優しくして欲しかったよ」とかいうんだけど、これまた安っぽくてたまらない。そもそもタクマと母親の関係というのがよく分からないので、同情もなにもできないではないか。いつから一緒に暮らしていないのか、幼少時はどうだったのか、父親は、とか、いくらでも要素はあるだろうに、テキトーに済ましている。
映画を見終えて、いちばん興味深いのはタクマだよな。ヤットなんて、子役で一家離散は過去のことだし、よくある話。むしろ、タクマのねじれた人生の方が面白そう。でも、監督はヤットのチンケで一途なユミカへの恋の方を「太陽」に見立てているんだろう。困ったもんだ。
しかし、ヤットとタクマ。2人とも本命はユミカで。でも、ヤットは女社長との肉体関係で性処理し、タクマはヘラヘラ女と関係をもってる。むかしなら、性処理は吉原、恋は町娘、という感じか。でもタクマは「子供ができたわよ。堕ろさない。生むわ」と迫られてオタオタしてる。うーむ。古くさい設定だよなあ。
で、ヤットの部屋の窓辺で、ユミカが「これがヤットの寂しさだったんだね」というんだが、これは何なんだ? 私がヤットの寂しさを埋めてあげる、私が太陽よ、とでもいうのか。おいおい。そんなテーマなのか?
ラストシーン。タクマの部屋で3人がフォトブックを見ているんだが、これは過去の話なのかな。フォトブックの最後に「塗り替えるのは俺たちの世代」とか殴り書きしているんだけど、これはヤットの言葉なのか? いったい何を塗り替えるんだよ。なにも、そんな、大きな夢も目的も、描かれていなかったぞ。何もめざしていないのに、塗り替えるもなにもないだろ。それらしい言葉をつけたしても、バカバカしく見えるだけだよ。
そういえばたまたま、映画を見た後、尾崎豊の『十七歳の地図』とチェッカーズの『ジュリアに傷心』をたまたま聞いたんだけど。尾崎の、あのパッションのひとかけらでも、この映画にあるか? あるのは、チェッカーズのチンケな恋心だよな、と。
上映終了後、監督とヤット役の吉村界人が右扉から入ってきて、簡単な挨拶。なんでも、これからサイン会を開く。テレビ取材が入っているので、映る可能性がある、とかいうこと。ロビーにでたら、けっこうな人がパンレットを買うのに並んでいた。ところで、監督の中村祐太郎は侏儒なんだな。ふーん。
・画像が汚い。とくにオープニングのライブのシーンは汚い。
・ユミカが着た切り雀でいつも同じコート、同じマフラーというのが気になるね。
・ヤットはムダに煙草を吸いすぎ。殴られて(だっけ? 違ったかな)道路に突っ伏して一服って、おいおい。
・大麻の扱いが正しくない。依存性がないとか、声のでかい男にいわせてはいるけど、ラリってヘロヘロな状態とか、性的にだらしなくなるとか、そういう印象を誇張しすぎだな。
・あと、タイトルだけど、漢字でなく『太陽をつかめ』でいいと思うんだが、それ以前に、話に合ってないよな。そもそもヤットの夢はユミカで、それ以外の目的は描かれていない。スターになるとか、芸能界の頂点をめざすとか、小さい世界を捨てて夢を追う話ならまだしも、なんか拍子抜けだ。
※もしかしたら、この映画のロケに遭遇してるかもしれない。2年ぐらい前かな。キネカ大森から駅に向かう途次、右手のロータリーの公園の中で撮影していて、何だろうと見ていたら、むさい兄ちゃんが寄ってきて「どいてくれ」というのだ。聞くと、公園内のロケ使用許可は取ってあるというが、いまいる歩道は関係ないわけで、「いやだ」といったら「もしかしたらあなたの顔が映るかも知れないが責任もてませんよ」とか脅されたのだった。大森駅東口の、アトレ方向からユミカが公園に向かって歩いてくるカットと、東口右手の歩道のカットが、そのときのものではないのかな。もちろん、こちらの顔が大写しなんてことはあるはずもない。ははは。
葛城事件1/10キネカ大森2監督/赤堀雅秋脚本/赤堀雅秋
allcinemaのあらすじは「親から引き継いだ金物屋を営む葛城清。美しい妻・伸子と2人の息子に恵まれ、東京の郊外に念願のマイホームを建てることもでき、思い描いてきた理想の家庭が完成したかに思われた。しかし清の理想への執着が、いつしか家族を抑圧的に支配してしまっていた。従順に育ってきた自慢の長男・保は会社からリストラされたことを誰にも言い出せず、デキの悪い次男・稔はバイトも長続きせず、“一発逆転”を夢みている。そして清に一方的に言われるがままで、耐え忍ぶことしかできなかった伸子は、ついに不満が爆発、稔を連れて家出してしまうが…」
事件のシーンから、荒川沖の無差別殺傷事件をもとにしているのかなと思ったのだけれど、Webで見たらもともと舞台版があり、それは附属池田小事件をモチーフにしているんだと。しかも、家族や周囲の人間関係は、かなり事実に即しているらしい。ただし、映画化に際しては荒川沖や秋葉原、池袋なんかの事件も参考にしたとのこと。
で。最初から最後までうんざりするほど陰湿で、生理的に不愉快な物語が展開されて、見ていて嫌になってくる。解釈も演出も薄っぺらだな、と思ったんだけど、これはWebにあったように、事実に即した情報を生のまま出してるだけだから、なのかも。むしろ、解釈していない、といっても良いかも知れない。とくに犯人の稔については、その引きこもり的で時に暴力的になる性格をそのまま淡々と描いているだけな感じで、少しも突っ込んで描かれていないし闇に迫ってもいない。監督には、何かを探ろうという意志がないかのようだ。
あたかも、同居人がこういう態度や行動をとるようになったら、殺人を犯す可能性があるので注意しましょう、といっているかのような感じ。そして、無差別殺傷事件の犯人の家族はみな少しずつ異常・・・のような描き方。こういうのは、とても不愉快。こういう描き方は偏見を助長するだけだ。なんていうことをいうと「事実だからしょうがないだろう」と切り返されそうな気がするんだけど、事実をそのまま並べればいいわけではない。なぜって、ドキュメンタリーじゃなくてフィクションなんだから。
そもそも精神障害者にも一定の割合で犯罪を犯す人もいるけれど、大半は人に危害は加えない。犯罪率も、一般の人の統計値と比べてとくに多いこともない。記憶が定かではないけれど、一般人より低かったんではないのかな。精神障害者だから危険、ということはないのだよ。にもかかわらず、この映画はそういうことは措いて、家族の異常さを見せていく。それは偏見だろう。
はじめは、マスコミ報道や周囲の目による犯罪者家族への迫害、という視点の話かと思って見ていた。でも、そうではなかった。父親の清は、中華屋の味が変わったというだけで、息子夫婦と、嫁の両親を招待した席で店員にねちねちクレームをつける粘着野郎に描かれている。長男の保はどうやら神経症かなんかでコミュ症なのか、営業成績が悪くてクビになり、妻子を残して自死。妻は、次男の稔かわいさで甘やかし、その稔の事故後はどうも精神に異常をきたした様子。亭主の清に「あんたなんか、始めから嫌いだったのよ」とセックスも拒む異様ぶりで、家出してしまった過去もある。という具合で、一家そろって変人だらけな設定だ。これが事実だったのかもしれない。でも、同じような環境にあっても、犯罪など犯さない人が大半なのだ。
稔が事件を起こした時点で、保はすでに亡い。両親がいるだけだったはず。では、事件の一報を聞いたとき、両親はどう反応したのか。これは一切描かれていない。なので、母親の精神がおかしくなったのはいつごろなのか、それは気になるところ。その後、周囲の目も厳しくなったんだろうけど、被害者でもない連中が家に落書きしたり脅しの電話をかけてくるのは、これはたんなる野次馬だ。そういうのにめげず、家に居つづける清の精神力はたまげたもの。死刑判決の時も傍聴席にいたし、事件後もスナックに出入りしている。スナックのママは理解ある人だね。スナックの客は「葛城さん、この街から出て行かないの?」と平然と言い放つけれど、ママが「もうこないで」といったのは、清が客と諍いを起こしてからのこと。しかも、「俺が何をした? やつたのは息子だ。その息子は国が裁く。俺も被害者だ」と、客仲間に土下座していってからのこと。がまん強いママだこと。
こういう映画を見るにつけ、自分が清の立場ならどうするか。あるいは、知り合いが清と同じ境遇になったらどう対応できるか。それを考える。たんに、異常者の家庭だ、遺伝だ、教育や躾が悪い、といっても始まらない。
稔の妻になりたいという、頭のおかしな女性・順子が登場する。こういう、博愛心を抱く連中も必ずいて、自分では宗教ではないというけれど、まあ。同じようなものだ。でも、順子の存在も通り一遍で、素性も背景もわからない。取って付けたような違和感ばかりが目立って、あんまり意味がない。最後、順子は稔の刑が執行されたことを告げに清を訪れるんだけど(刑の執行については、父親には連絡がなく、妻の順子にあるものなのか? そもそも順子は正式に稔と結婚しているのか? 稔も署名したのか? とか疑問が湧く)、そこで清にむりやりキスされようとする。そのときの、清の、「俺が人を殺して死刑囚になれば、あんたは俺の嫁さんになってくれるのか!」みたいなセリフは、矛盾を突いていて面白かったけど。
最後は、清が庭のみかんの木(?)で首をくくろうとして、でも枝が折れて思いを遂げられず、食べかけだったソバをずるずるいわせて食べる場面で終わった。その木は、家を新築したときに植えたものらしくて、30年近く経っているのかな。でも、家族の崩壊を象徴するものとしては、いまいちわけが分からんだろ。
・事件前のこと。妻は、清のことが生理的に耐えられなくなったらしく、家出してアパート暮らしする。その場所を保が発見するんだけど、まず父親に電話し、その足でアパートに入り込む。するとそこに稔もいて、一緒にスパゲティかなんか食べているんだけど、なんと保は「親父が来るから早く逃げろ」なんて言う。自分が告げ口したのに、変なの。
・その後、アパートに清が駆けつけ、そこにいた稔の首を絞めるんだが、母親は止めに入っても、兄の保は止めもしない。もちろん稔は「俺が死んで欲しかったんだろ」というけど、なんだかな。保の神経症の原因は、稔だった、とでもいいたいのかね。
・保が「家から出て独立する」と宣言したときって、結婚してたのか? そんな風には見えなかったんだが。で、すでに就職しいて、結婚もして、上の子は4〜5歳まで、フツーに見えるのに、どうしてその後、成績が悪いからクビ、と突然なるんだか分からない。まあ、その前後に神経症でも発症したのかもしれないけど、いまいち説得力がない。
・夜中、清がゴミ捨て場の火事に気づくところがあって。家を出ようとすると、稔が戻ってくる。質問すると「コンビニに行ってきた」というんだが、清はとくに詰問もせず、それでオシマイ。おいおい。火は消しに行かないのか?
・南果歩の母親は、なんだか知恵遅れに感じられるんだけど・・・。
・ところで順子役の田中麗奈のブラウスは、2つを使いまわし? スーツは同じもの? とか、気になったんだけど。
・田中麗奈がおばさんになってきている・・・。そうか。もう36歳なのか。
疾風スプリンター1/12新宿武蔵野館2監督/ダンテ・ラム脚本/ダンテ・ラム、ラム・フォン、シルヴァー
香港/中国映画。原題は“破風”。allcinemaのあらすじは「チョン・ジウォンがエースを務める自転車ロードレースチーム“レディエント”にアシストとして所属することになったチウ・ミンとティエン。2人の活躍でチョン・ジウォンは勝利を重ねていくが、やがてレディエントは資金難に陥り、3人は別のチームに移籍して、それぞれがエースとなって対決することになるのだったが…」
香港/中国映画なんだけど、舞台は台湾。たしか香港と韓国は登場するけど、大陸はでてこなかったような・・・。いろいろあるのかな。
自転車ロードレースもので、台湾では流行っているのか? 知らんけど。台湾ローカルのチームに参加した2人の若者が、トッププロをめざす話なんだが。もとからチームにいるシウォンという選手がいて、新人としてチウ・ミンとティエンが加入する・・・という流れなんだけど、公式HPを見たら、映画には描かれていない情報がゾロゾロでていて、なんだよこれ、な感じ。シウォンは韓国人選手なのか。ふーん。そういえば、最初の入団テストで競ったのはチウ・ミンとシウォン、なのか? テスト後、休んでいるチウ・ミンとティエンが挨拶して握手する場面があるので、ずっと、競ったのはこの2人かと思っていたんだが…。じゃ、ティエンが画面にでてきたのは、チウ・ミンと挨拶するシーンが最初? とか、人物の紹介がまともにされないまま話がどんどん進むので、何が何やら・・・。
まあ、雰囲気と勢いで見せようという演出・表現なのか、音楽にあわせてテンポよく、短いカット割りで話が進むんだけど、ちゃんとしたドラマがなくて、全体に上っ面をなでているような薄っぺらな印象の方が残ってしまう。もうちょっと人物を描いてほしいものである。
困るのは、ユニフォームを着ちゃうと誰が誰やら分からなくなること。国内の転戦の模様も、あらすじ紹介みたいに描かれるんだけど、これまた3人の役割と活躍がはっきりと分からないので、なかなか名前と顔と行動が一致しない。説明もほとんどないし。
で、ここにからむのがアマチュア女性選手のシーヤオで、チウ・ミンとティエンが彼女の関心を惹こうと恋のさや当てが始まるんだけど、お調子者的なチウ・ミンがまずはシーヤオとつきあい始める。けれど、別のチームに移籍し、そのチームで乱暴者扱いされるようになったチウ・ミンが酒に溺れ、外人女性と浮気したことがバレて、とりあえず破局。しかし、暴力選手だからマスコミに追われるのは分かるけど、浮気現場を撮ったカメラマンが、写真データをマスコミ掲載するのでなく、USBにして直接シーヤオに渡すというのは変だろ。そんなことして、何の得があるんだ?
というところで、今度はティエンがシーヤオに接近し、くっつく・・・って、おいおい。シーヤオも節操がないな。けど、シーヤオは移籍先のチームでいい成績を挙げられずドーピングに頼り、それがバレて追放されたのか逃げたのか、韓国で競輪選手になったのかな。
シーヤオはもともとケガで(だったかな?)休んでいて、復帰したんだけど、またまたケガして骨折と腱を断裂し。でも、自身の腱を移植できないというので、内緒でチウ・ミンが自分の腱を提供するんだったか。しかし、免疫反応がでるだろうに、テキトー過ぎ。
このことを知って、シーヤオとチウ・ミンは再度くっつくんだけど、なんか知らんが、競輪の一種みたいなレースがあり、チウ・ミンが韓国にいるティエンを呼び戻して参加させ、あとシウォンもでるんだったかな。出る必要もない上級クラスの選手なのに。これで、シウォンが負けるんだよな。確か。で、チウ・ミンとティエンは世界レベルのチームに参加する、とかいうところで終わるんだったか。よく覚えてないけど。ははは。
てなわけで、類型的な登場人物、ありきたりの恋のさや当てと、選手としての挫折、復活劇を、いいテンポの雰囲気で見せてくれるんだけど、記憶にも心にも、なにも残らないのだった。 ・チウ・ミン役のエディ・ポンはモテそうな顔立ち。ティエン役の役者とシウォン役の役者は、感じが似ていて、よく区別がつかず。地味過ぎな感じ。3人ともフツーの役者なのに、自転車を習ったのか、停止したまま立ってる場面とか、自分たちでやってるみたい。でも、もしかして支え棒があって、それをCGで消していたりして・・・?
・シーヤオ役のワン・ルオダンは、清楚な感じでなかなかカワイイ。ところで、最初の方だったか、何かの授賞式みたいな場面で、シウォンに(なのか? 定かできない)の手を、隣にいた女の子が背後から握り、それに気づいた別の女の子が彼女の手を突っつくシーンがあるんだけど、あの女性たちは誰なんだ? それと、何度かカメラマンの女性が写るんだけど、話に関係あるのかと思いきや、ないみたいなんだよな・・・。あと、最初に加入したチーム・レディエントの監督の娘がいるんだけど、ちょっと気の強そうな感じで気になっていたのに、誰ともつき合うような気配がない。なんかもったいないよな。
・チーム・レディエントは資金難で解散し、選手たちは散り散りになるんだけど、最後の方でまたあの監督がチームを再結成してたよな。資金はどっからでたんだ? あ、ところで、あのチームが世界レベルのチームになるんじゃなかったよな。どうなんだっけ。もう、ほとんど忘れているよ。
ガール・オン・ザ・トレイン1/13シネ・リーブル池袋2監督/テイト・テイラー脚本/エリン・クレシダ・ウィルソン
原題は“The Girl on the Train”。allcinemaのあらすじは「愛する夫トムと離婚し、友人の家に居候しているレイチェル。未だに心の傷は癒えず、アルコールが手放せない彼女は、通勤電車から見える一軒の家に住む“理想の夫婦”の姿に慰めを見出していた。その家の近くには、かつて彼女がトムと暮らしていた家もあった。今はそこに、トムは新たな妻アナと生まれたばかりの娘と住んでいた。そんなある日、いつものように車窓から“理想の夫婦”を眺めようとしたレイチェルは、思いがけず妻の不倫現場を目撃してしまう。激しいショックで混乱するレイチェルは、思わずその家へと向かう。ところが、途中から記憶を失い、気づいたときには自分の部屋で血を流して倒れていた。その後、彼女が理想の妻と思っていた女性メガンが行方不明になったことを知るレイチェルだったが…」
タイトルから神秘的な物語を想像していたのだった。アート系、単館系の、深い感じの物語・・・。ところが、要は殺人事件の犯人捜しで、背景はアルコール依存と安っぽい男女関係のもつれ。サスペンス性も薄く、ミステリーとしてはありきたりだし、人物も記号的でドラマとしてもいまいちだった。ちとがっかり。
最初は、意味ありげ。でも、しだいにレイチェルのアルコール依存が明らかになり、それで離婚? しかも、通勤(?)に使っていた列車から見る他人の家の様子は、実は、かつての自分の家と隣家(?)であり、かつての自分の家には元夫と、不倫の末に妻の座に座った女が住んでいることが分かる。なるほど、だけど、うじうじした話だな、と。
レイチェルのアルコール依存で元亭主に迷惑をかけたとかいう話がでてきて、でもこれはミスリードさせるための演出なので、ちょっとずるい。それと、ジョギングするメガンを追っていった後の、殴られて血だらけ・・・の部分は手ぶれ画面でイメージが錯綜するような撮り方つなぎ方で、これまた曖昧でミステリアスにしているけれど、最後には、実は・・・と分かるので、そうなると、なんだかな、な映像に見えてくる。かっちり、かっちり、ドラマを見せつつ真相に迫っていくというより、あやしいよ、あやしいよ、と誘導しながら韜晦していく手法で、要するに安っぽいのだ。
というせいなのか、犯人捜しはあまり興味が湧かなかった。だって、メガンの旦那のスコット、精神科医のカマル、元亭主のトム、トムの現在の妻アナ、あと、列車に乗り合わせていた乗客の男しかいないわけで。カマルと乗客はハナから“怪しい”という描き方をされていたので除外、スコットも同様。ってことは、本命はトムかアナしかいない。アナの嫉妬・・・なんていう動機もありそうだけど、子連れの女が山中を走るのはムリだろうし。ということは・・・。とはいえ、実は見ているときに犯人捜しはしてなくて。あとから思ったことなんだけどね。なぜって、誰が犯人でも構わないと思ったし、レイチェル自身が妄想にとりつかれていた・・・という筋も残っていたからね。この手の展開は、近頃、多いし。
なので、後半明らかにされるいくつかの事実にも、とくに驚くことはなく。そうきましたか、ふーん、なるほどね、的な感想をもちながら見ておった。とはいえ、実をいうとメガン役のヘイリー・ベネットが気になって、彼女ばかり見ていたのだよ。ほとほほどにバカっぽい顔でカワイイ。ちょっとつり目で東洋人風で、淡泊な感じが『ハンガー・ゲーム』のジェニファー・ローレンス似で、でもこっちの方がちょっと肉付きがよくて色っぽい。結論は、彼女がいちばんミステリアス!
かと思いきや、ラストで判明するすべての原因は、なんと、色事師トムの浮気三昧やりまくり、だってんだから、口あんぐり。レイチェルが、トムの会社の上司のパーティで不躾なことをしたというのも、トムによる刷り込みで、実は酒の飲み過ぎで意識不明になってひっくり返っただけ、というオチ。トムが会社をクビになったのはレイチェルのせいではなく、トムが会社の女性に次々と手を出していたから・・・って。この事実を知ってトムって酷いやつ、と思ったかというと、そんなことはない。なんでそんなにモテるんだ、フツーのおっさんじゃないか。うらやましい・・・の方だった。もしかして巨根? とか思っちゃうよな。で、なんとご近所のメガンともそういう仲になっていて。森で子供ができた、産む、と告げられ、突き飛ばしたら当たり所が悪くて死んでしまった、という話。なんだよ。メガンも、たいしてミステリアスじゃねえな。たんなる尻軽女じゃないか。というわけで、ズッコケたのであった。
てなわけで、事実を知ったレイチェルはトムを刺し、こちらも事実を知った妻アナもトムのトドメを刺し、ともに逮捕されるのだけれど、正当防衛ですぐでてきた感じ。でも、アナの行為は正当防衛とはいえないだろ。
結構、残虐、という場面があって。トムは、息のあるメガンの顔を石で滅多打ちにするんだよ。これ異常すぎだろ。そんなに憎いか? 殺すにしても、首をしめるぐらいじゃないのか、こういう場合。元々トムは、暴力性が高かった、という様子もなかったぞ。
アナも、浮気された程度で亭主の首にトドメを刺すかよ。そもそも自分だってトムと浮気して、当時の妻レイチェルを追い出し、家具なんかはレイチェルがそろえたままの家でトムと夫婦生活していたんだろ。子供だってトムが父親だ。ああまでするかよ。
まあ、気の毒なのはレイチェルだけど。それにしても、トムはセックス依存症だとしても、なぜレイチェルやアンとは結婚したんだろ。結婚なんてせず、女漁りをしていればよかったのに。
・で、レイチェルがアル中になったのは、なぜなの? 亭主に相手にされなくなったから? そんな場面はなかったと思うんだが。
・で、精神科医のカマルは、メガンの家まで行って、そのベランダで抱き合っていた、、ってことか?
・で、レイチェルは離婚後、友人宅に2年も居候していて、収入はどうしていたんだ? 仕事もないのに朝夕電車に乗っていたのは、かつての自分の家を監視するため? トムに慰謝料貰ったのか? そういえば、友人から「出ていって」といわれていたけど、転居したんだっけか。引っ越し費用はどうしたんだろ。
・アン役のレベッカ・ファーガソンも、造形的に美しい顔立ちではあったけど。『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』にでてたのね。ふーん。とくに記憶になし。
・レイチェル役のエミリー・ブラントは、濃いね、この人・・・。
本能寺ホテル1/16109シネマズ木場シアター3監督/鈴木雅之脚本/相沢友子
allcinemaのあらすじは「勤めていた会社が倒産してしまい、流されるままに恋人のプロポーズを受け入れ、京都へとやって来た天真爛漫な女性、倉本繭子。ふとした手違いから路地裏にあるレトロなたたずまいの“本能寺ホテル”にチェックインすることに。するとなんと、ホテルのエレベーターは1582年の本能寺に繋がっていた。やがて織田信長と出会った繭子は、ふたりで京都の町を見物するなどして彼の意外な人柄に惹かれていくのだったが…」
監督の鈴木雅之は『プリンセス トヨトミ』の人で、あれにも綾瀬はるか、堤真一、宇梶剛士、中井貴一がでてるんだな。あちらの原作は万城目学で脚色は相沢友子。こちらには原作はないようで、相沢友子のオリジナルなのか。宮部みゆきの『蒲生邸事件』を思わせる設定と、『プリンセス トヨトミ』を連想させる雰囲気・・・。もちょっと違うものをつくるという欲はないのかね。
とはいえ前半は天然綾瀬はるかの巨乳と、タイムスリップで楽しめた。タイムスリップは、レベルはどうあれ興味が湧く。だからかなのか、近頃はどれもこれもタイムワープ、タイムスリップの大流行なんだが・・・。でも、そういう興味も中盤からずるずると失われていく。なぜ繭子なのか、なぜ本能寺なのか、なぜタイムワープするのか、といったあれやこれやの必然性が示唆されないので、話に奥行きがないのだよ。繭子の結婚話、失職、したい仕事がない・・・などもつけたしな感じで、主人公の成長話にもなっていない。もうちょいホンが緻密じゃないと、なるほど、な映画にはならんぞ。
現在の本能寺は、変が起こったときとは違う場所にあるはず。で、登場する本能寺ホテルは、変の当時の場所にある、という設定なのか? そういう説明はなかったと思うんだが。で、繭子がタイムワープするのは、ひとつには店で買い求めた金平糖をかじったとき、ホテルのロビーにある時計(?)が動いたとき、エレベーターに乗ったとき、の3つの条件がそろったとき、になる。で、戻ってくるのは、フロントのベルが押されたとき、になる。でも、いわくありげなのは、信長の時代に宣教師がもっていた(だっけ? 信長がもっていたかもしれない、だっけ?)時計だけで、金平糖は、たんに信長が好きだった、というだけのこと。エレベーターには曰くはなくて、建っているのが本能寺跡(なのかわからない)であるとか、名称に本能寺がついている、ということぐらい。必然性がほとんどない。なぜ繭子がだったのか。また、ホテルの支配人が「壊れている」といっていた時計が、たまたま繭子がネジを巻いたら動き出した理由はなんなんだ? というあたりの、それらしい曰く因縁をにじませないと、話にならんと思う。その因縁は、繭子と信長の関係にもあてはまるわけで、繭子の祖先が前世で信長となにかあったとか、そういうのがないと、テキトーな話にしか見えない。薄っぺらすぎる。
信長についていうと、信長がほんとは優しくて、皆が楽しく暮らせる世界をつくりたかった、という話は無理がありすぎ。そのために他国の武将や侍たちを無残に殺すことになるのだから。それに、商人から茶壺を強引に取り上げたり、料理がまずいと料理人を傷付けたり、森蘭丸自身も「冷酷で無慈悲な方」とか言っていたろ。それが繭子と会って突然にこやかになり、繭子と京の町に繰り出して着物を買ってやったり、配下の連中と遊戯をしたり、激変しすぎ。だいたい配下もつれず一人で京の町をうろうろって、ないだろ。信長の幼いときの想い出とか青年時代のイメージもあったけど、あんなんと違うんじゃないのか。もともと戦国武将のお坊ちゃんだったはずだ。なにが、庶民が楽しく平等に、だか。テキトー過ぎ。
繭子の綾部はるかは、前半に着てた上衣だと、巨乳ぶりがお見事で飽きなかったんだが。中盤に着物姿になり、さらに洋服に着替えてからは、見るところがなくなって退屈。 その繭子が京都に来たのは、婚約者・吉岡の両親の金婚式に出席のため。なんだけど、吉岡は京都で建築関係の仕事中・・・。ってことは、東京から出張してきているのか? で、昼は料亭で食事の予定らしいんだが、繭子が「よく予約がとれたね」というような有名店らしい。で、店で落ち合って食事してると、店のオヤジが挨拶に来て、でも吉岡は馴れ馴れしい口調で親父と話し出す。なんと、実の父親で、店は吉岡の実家だという。・・・はいいんだけど。つくあって6ヶ月で結婚を決めた、のだから、相手の親が何してるかぐらい聞くだろ。
で、その食事中、吉岡は電話で呼び出されていくんだけど、あれは「仕事で」と言ってなかったか? なのに、次に吉岡が登場するのは、友人3人を紹介する場面だったか、友人の宝石店だったか。いずれにしても、仕事で呼ばれたんじゃなかったのか? しかし、友人と会うなら彼女も連れていけばいいのに。というか、実家で食事中に彼女をひとり置いて出て行くか? もしあれが仕事で呼び出されてたとしたら、用事が済んで友人たちと合流、なのか? いずれにしても変な感じ。
繭子が吉岡の両親の金婚式に出席すると、そこには吉岡の父親と、母親の写真が・・・。母親は1年前に他界していたんだと。しかし、これから結婚しようという相手の母親が亡くなっていることを、繭子がその金婚式の場で知る、というのは、ないだろ。
繭子は、吉岡との結婚に、すこし懐疑的だったらしいことが分かってくる。勤めていた会社が倒産して失業。次の仕事も見つからない。教師の資格がある、とハローワークでいっても、「近頃は競争が激しい」とにべもない。さらに、本人には、何かしたい、こんな仕事に就きたい、という意欲がないらしい。いまどきめずらしい性格だ。それを吉岡の父にも話し、なにかいわれていたようだけど、忘れた。
そういう状態で、つきあって6ヶ月の吉岡に結婚話をもちかけられ、OKした。吉岡も、弱みにつけ込んでのプロポーズ、みたいな感じだったようだ・・・って、吉岡にとって繭子は難攻不落の高嶺の花だったのか? でもつきあっていたんだろ? 繭子は、仕事をしてれば「まだ結婚なんて・・・」というような女性だったのか? だって、仕事に意欲なんてない人なんだろ? いろいろ矛盾がありすぎ。
という不安定な状況が、信長との出会いと、信長の人となりによって変わった、らしい。けど、信長が「庶民の楽しい生活を望んで天下統一をめざした」ということぐらいで、変われるものかいな。嘘っぽすぎ。
本能寺の変の現場から現代に戻った繭子に、吉岡(といっても繭子がタイムワープしてることは知らないが)は、結婚話はなかったことにしよう、と切り出すんだけど。なんで? そうする必要性は、どこにあるんだ? せいぜい、失業中の繭子につけこんだ、ぐらいのことだろ? 意味分かんない。
そうして繭子は、自信を身につけたかのように、あれはハローワークに電話したのか? 「どの教科でもいいっていいましたけど、歴史にしてください」と晴れ晴れした顔でいうんだが、それで仕事の件は解決なのか? 教員免許はもってても、都道府県の採用試験に合格しないと採用されないんじゃないのか? 私立? それに、やりたい仕事が教師、というのも取って付けたような感じ。彼氏の父親が、料亭をやめて大衆食堂を始める、といったことにインスパイアされたとか? 意味分からん。
・しかし、なんども過去に行きながら、行けたときの自分の行動に無頓着で、最後に自分から「行きたい」という時になって、支配人に「どうすれば行けるの?」と聞いたりするあのテキトーさは、綾瀬はるか本人の天然さからの演出なのか。さらに、燃えさかる本能寺から「どうすれば帰れるの?」と悩んだり。すべては運命のなすままというか、テキトー過ぎ。
・繭子のタイムワープに伴って、確か、靴2足、上衣とスカートは天正10年に置いてきたはず。あと、ポーチも置いてきたんじゃないのか? と見えた場面もあったんだけど、その後、ポーチは現代の場面で登場していた。うーむ。なんかもやもやするな。あと、信長に買ってもらったオレンジ色の着物は、現代にあるはずだよな。こういう道具を再登場させて、うまく利用することもできるだろうに。なぜしないんだろう。 ・信長の自害の前に、杯に蝶々がとまる。ラストで、現代の土手に座る繭子の隣に信長が座るんだが、そこに蝶々がやってくる・・・。では、その蝶々になにか意味があるのか? とてもそうは思えんのだが。たんなる思いつきか?
・燃える本能寺。信長が懐にしまったはずの、冒頭で繭子がもらった縁結びのチラシが、床に落ちて燃えようとしているんだが、どうやって懐から飛び出したんだ?
・本能寺ホテルは古色蒼然とした設定だけど、結構、一般客に利用されているのな。そんなんじゃなくて、たまたまある時間、ある場所にだけ出現し、話が終わったら消えてなくなっていた・・・とか、支配人もロビーの装飾も別物になっていた、とか、少しは工夫すればいいのに。なんか深みがないんだよなあ。
・ラストの、支配人が繭子にもらった金平糖とエレベーターで過去へ・・・というのは、やるだろうと思っていたよ。でも、食べかけの金平糖を人にやるか? 天然の繭子ならやりかねない、ってか。はいはい。
トランボ ハリウッドに最も嫌われた男1/18ギンレイホール監督/ジェイ・ローチ脚本/ジョン・マクナマラ
原題は“Trumbo”。allcinemaのあらすじは「第二次世界大戦が終結し、米ソ冷戦体制が始まるとともに、アメリカでは赤狩りが猛威をふるう。共産主義的思想は徹底的に排除され、その糾弾の矛先はハリウッドにも向けられる。売れっ子脚本家だったダルトン・トランボは、公聴会での証言を拒んだために議会侮辱罪で収監され、最愛の家族とも離ればなれとなってしまう。1年後、ようやく出所したトランボだったが、ハリウッドのブラックリストに載った彼に仕事の依頼が来ることはなかった。そんな中、家族を養っていくためにB級映画専門のキングス・ブラザース社から格安の仕事を請け負い、偽名で脚本を書きまくるトランボだったが…」
映画はよく見ている方なんだけど、スターやスタッフの系譜や履歴、出来事、なんやかんやにそれほど興味がなくて、だから裏側を描く本もあまり読んでいない。最近もそうで、監督や脚本家で映画を選ぶということも、ないことはないけど、いつもそうということではない。見終えてからこうして感想文を書くときにちょっと過去の作品をみて、ああ、この映画の監督か、この役者はこの映画に出てたんだ…と、なるほど状態だったりすることが多いのだ。あまり覚える気がないのもそうだけど、近頃は覚えてもすぐ忘れるので、だから覚えようとしないというのもあるんだけどね。という有り様なので、この映画は驚きの連続で、へーそうだったのかと目からウロコのまま最後まで楽しめた。
もちろんハリウッドの赤狩りのこともハリウッド・テンのことも、名前だけは知っている。けれど、それがどういう状況下でいかに行われ、終息したかについては具体的に知らなかった。それをこの映画は、人物が具体的に登場することでまざまざと見せてくれる。しかし、あの時代に最後まで共産主義的思想を捨てず、刑務所に入りながらも抵抗をつづけ、さらには偽名で脚本を量産し、あまつさえアカデミー脚本賞を2度も受賞してしまうなんて、凄いとしかいいようがない。素晴らしい。痛快そのもの。あの才能とエネルギーがうらやましい。
映画はテンポが早く、登場人物も多い。共産主義の脅威が背景にあるのは分かるんだけど、知らない団体名がぞろぞろでてくるので、理解できないところも結構ある。けれど、まあ、それはそれで、アバウトに理解すればよいのかな。知りたければ探して勉強すればいい。そんな感じかな。
分からない最大は、ヘッダ・ホッパーっていうオバサンかな。どっかの団体の長? と、よく分からないまま見ていたけど、あとから調べると元女優のコラムニストだとか。なんであんなに強権なんだ? ジョン・ウェインが右派なのは知ってたけど、それ以外の、圧力をかける方のイメージがよくつかめなかった。
公式HPの人物関係図を見て分かったことも結構ある。ハリウッド・テンを呼び出して偉そうに宣告しつつ、でも自分も脱税で収監されてしまう小物理の男、彼など政府の役人かと思っていたら、「アメリカの理想を守るための映画同盟」の委員なんだな。その同盟に、サム・ウッドって監督も紹介されてるけど、どんな役回りででてきてたか、記憶にないよ。ははは。あと、かつての仲間で、でも裏切って、映画を何本もつくるけど失敗ばかりというバディ・ロスの位置づけもよく分からない。最初はどんなつきあいなんだっけ? と、IMDbで検索したら、どーも創作された人物のようだなあ。
ほかにも、マイケル・ダグラスみたいな顔をした男は、たしか『ローマの休日』の脚本家ということになつた仲間の脚本家だけど、そういう役回りでしか登場しない。ルイスという、ガチガチの共産主義者は、割りとよく分かるんだけど。
あと、ヘッダ・ホッパーが圧力をかける相手の、MGMのルイス・B・メイヤー。メイヤーだから、創業者のひとりなんだよな。でも、そんな人に向かってオバサンが「あんたがユダヤ人だってことを広めるわよ」とかいわれて怖じ気づくような関係と時代だったのか・・・とかも、ふーん、な感じ。
というような感じなので、敵味方も含めて、最初にもう少し丁寧な人物紹介、そして、団体の説明をうまくやってくれたらよかったんだがな、と思ったりする部分も少しある。
とてもいい印象の人物もたくさんいるんだよ。B級映画会社のフランク・キング、皮肉たっぷりに、でもたどたどしい英語を話すオットー・プレミンジャー、いやー、こんな人だったのか! と惚れ惚れするカークダグラス! 素晴らしい。
家族も、妻役のダイアン・レインが可愛いこと美しいこと。娘役のエル・ファニングも印象的。いや、素晴らしい家族に描かれている。まあ、途中で長男が子供から突然青年みたいに成長して登場するのは唐突だったけど。はは。
トランボのキテレツ振りも面白い。人差し指だけで圧倒的なスピードでタイプする。それを切った貼ったしてる様子を見ると、あれはカット&ペーストそのものじゃないか! なんともはやなのは、風呂につかりがら原稿を書いていて、風呂場にずっと閉じこもっていること。なんてやつ。でも、ひとりになってじっくり考えられるのは、大邸宅を追われてからは、そこしかなかったのかな。眠気防止にアンフェタミンをウィスキーで流し込み、B級映画の脚本を、自作や、仲間の書いたものの直しも含めて、不眠不休で叩きつづける。凄い!
とにかく思うのは、世界情勢の雰囲気だけで仮想敵国を妄想的につくりあげ、さらには内部にスパイがいる、と煽り立ててるやり方。特高に目をつけられ、逮捕・拷問に合い、家族は「アカ」と周囲から冷たい目で見られるようなことが、かつての日本にもあった。いまだって、昔ほど露骨ではないにしろ、似たようなことは少なからず起こっている。こういうプロパガンダに煽られて暴徒化する大衆も、これまた少なくないわけで。そういうのを利用して、権力者は自分たちに都合のいいような支配をつづけようとするわけだ。それを監視するのが司法の役割なのに、この映画の中の裁判所も、はたまた日本の裁判所も、司法の独立とはかけ離れたことをする。自分たちの安心を獲得するために権力に阿った判断を下す。やだね。ほんとに。
理念だけの市民運動・リベラルもうざったいけど、リベラルの発言を圧殺しようとする右派も困ったもの。いいたいことがいえる社会であることが、いちばんいいのだ。というようなことも、ついでに再認識させてくれるのであった。「アメリカの理想を守るための映画同盟」みたいな団体が、復活しませんように。
・後から思うに、トランボの名前を知ったのは『ジョニーは戦場へ行った』かも知れない。でも、忘れてたけど・・・。『ローマの休日』『黒い牡牛』(未見)『スパルタカス』(見たかな?)『栄光への脱出』と、脚本を担当した作品名がゾロゾロ登場して、その才能の豊かさにひれ伏しそうになる。
・トランボがムショに入り、黒人の囚人、なにか管理してる係の囚人のところにいき、タイプでがががっって打って見せたら「俺が読めないと思って」どうたらいわれる場面の意味がよく分からなかったな。
・ルシル・ボールとグレゴリー・ペックが中立的な意見をいってたんだっけかな。そういう人もいたんだ・・・。
・カーク・ダグラスが『スパルタカス』の撮影中にブラックリスト(?)を手渡され、19人だか21人だったかで、それに対して「みんなジャーナリストじゃないか・・・」という場面の意味がよく分からなかった。
・主演のブライアン・クランストン。ほとんど知らない人だった。
・それにしても、E.G.ロビンソンって、そういう人(裏切り者)だったのか・・・。知らなかったよ。というか、ここまで悪人扱いされて、お気の毒な感じ。
疑惑のチャンピオン1/18ギンレイホール監督/スティーヴン・フリアーズ脚本/ジョン・ホッジ
イギリス映画。原題は“The Program”。allcinemaの解説は「ガンから奇跡の復活を果たし、自転車レースの最高峰“ツール・ド・フランス”で前人未踏の7連覇という偉業を成し遂げ、自転車界のみならずスポーツ界のスーパースターに登り詰めたアメリカ人アスリート、ランス・アームストロング。長年、疑惑の目を向けられながらも、決して尻尾を掴まれることのなかった彼だったが、現役引退後の2012年、ついに米国アンチ・ドーピング機関“USADA”によって進められた調査によってドーピング違反が認定され、7連覇を含む全タイトルを剥奪された。本作は、そんなアームストロングのドーピング疑惑を長年追い続けたジャーナリスト、デヴィッド・ウォルシュのノンフィクションを基に、アームストロングが行ったドーピング・プログラムの実態とその隠蔽工作の数々を明らかにしていく実録ドラマ。」
『疾風スプリンター』につづいての自転車レース映画なんだけど、なんかテイストが似ている。もしかして中国のは、こっちを真似たのか? と思って調べたら、いずれも製作年は2015年。ってことは、同時並行か。うーむ。
そもそもツール・ド・フランスに興味がないのでランス・アームストロングの7連覇など知らない。なのにこの映画は、冒頭でひどく簡単にツール・ド・フランスの仕組みを説明するだけなので、映画中の試合の模様が、なにがどうなってなんなのか、ほとんど分からない。分からなくてもいい話かというと、どーもそうでもないような感じで。なので、イライラがすぎると、途端に興味がなくなった。
そもそも、あんなにがんがんドーピングしてて見つからない、ということが不可思議。チェックする側のトンマさもあるんじゃないのかね。あらすじを解説しているHPには、エポによる赤血球増加とか、血液ドーピングとか書かれているんだけど、そこまでちゃんと分かりやすく映画の中で説明していたか? してなかったように思うんだけどね。
で、似てるといったテイストなんだけど。つまりは、話が流れるようにさらさらと過ぎていくこと。人間を掘り下げないこと。ドラマがあまりないこと。なので、話として上っ面をなでる感じで、とても薄っぺらなんだよね。
描かれたようなことに類することはあったんだろう。けど、テンポの良さばかり意識していて、人間が描かれないのでは、とても話に入り込めない。でてくる人物も、ちょっとずつしか出てこなかったり、登場時間が長くてもあまり得体が知れなかったりと、どーも厚みがないのだ。たとえば結婚する相手がでてくるんだけど、出会いの場面と結婚式と、2シーンしかなかったんじゃないのかな。家庭生活など描かれず、ずっとあとになって「子供が」どうたらというセリフがでてくる。あれ? ランスは玉を取ったんじゃなかったのか? なんて思ったり。
後半に登場するフロイドにしても、伝統的な宗教を信じる一族に生まれている、は分かるんだけど、それ以上の話がないので、彼の苦悩がどーも逼迫して感じられない。すべてがそんな感じで、登場人物たちはみな書き割りの記号のよう。突然、ダスティン・ホフマンが出てきたりするんだけど、あれは保険会社の人物なのか。でも、賞金がどうとかいわれても、なんかいきなりすぎて、はあ? な感じだったりする。
なんか、あれかね。雰囲気で見ればいいような話なのかね。
記者で原作者のウォルシュが記事(本みたいなことをいっていたけど、記事なんだろ?)で暴くけど、証拠がない、と辛くも逃げ切り。でも、フロイドが、良心の呵責に耐えきれずすべて告白する、という流れで。その後、ランスが絶壁から川(池?)に飛び込む場面があるので、入水したのか? と思ったらそういうことでもないらしく。まったく紛らわしい演出だ。
ところで、精巣がんで手術後、医師だか看護師だかに、どんな薬を飲んでいたか訊かれているんだけど、もしかして、ドーピングのために飲んだドラッグのせいで精巣がんになった可能性もある、ってことなのか?
アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男1/20ヒューマントラストシネマ有楽町監督/ラース・クラウメ脚本/ラース・クラウメ、オリヴィエ・ゲーズ
ドイツ映画。原題は“Der Staat gegen Fritz Bauer”。「国家vsフリッツ・バウアー」とか言う意味みたい。allcinemaのあらすじは「1950年代後半、西ドイツのフランクフルト。経済復興が進む一方、戦争の記憶が風化しようとしていく中、ナチス戦犯の告発に執念を燃やしていた検事長のフリッツ・バウアー。ある日、彼にもとにアイヒマンが偽名でアルゼンチンに潜伏しているとの密告状が届く。さっそく部下のカール検事とともに、証拠固めと潜伏場所の特定に奔走するが、周囲にはナチスの残党が目を光らせており、激しい妨害や圧力にさらされる。そこで国家反逆罪に問われかねない危険を冒し、極秘情報とともにモサドへの接触を図るバウアーだったが…」
ナチ映画も手が込んできて外濠を埋めてくる。アイヒマン。allcinemaでアイヒマンを検索したら7本もでてきた。そういえば、この映画で描かれる当時の社会背景は『顔のないヒトラーたち』に詳しく描かれていた。また、逮捕後の裁判については、『ハンナ・アーレント』に描かれていた。もっと他の、アイヒマンについて描かれた映画を見れば、もっと詳しくなれるかも知れない。
ナチやホロコーストについて詳しくないので、アイヒマンのこともよく知らない。『ハンナ・アーレント』では、淡々とユダヤ人を収容所に送り込んでいた事務方、のイメージかな。という程度なので、実をいうとこの映画、ついていくのがかなり難しかった。まず、ドイツ国内の法制度、検事長の位置づけ、州首相や警察(?)などとの関係・・・。さらに、人名や組織名、イスラエルとの関係(なぜ国家反逆罪になるのかとか)なども含めて、知っていればきっと、もっと面白く見られたであろう情報についての知識が欠けているので、いまいちわくわくできなかった。
話は、検事長のフリッツ・バウアーを切り口として描かれる。のだけれど、彼は国の検事長ではなくて、州の検事長なのね。そのフリッツ・バウアーが、睡眠薬と酒で気絶し、風呂で溺れ死にそうになるところを運転手によって発見されて一命を取り留める、という導入なんだけど。この件については、なんか意味があるのか? ないだろ。
で、バウアーがヒーローみたいに描かれているんだけど、はたしてどうなのか、よく分からない。まあ、周囲にジャマするやつらが何人もいるなかで、アイヒマンを捕まえる、ということに執念深かったのは分かるんだけど、それはなぜなの? 州の首相がたびたび登場していたけど、そういう役回りを課されていたのか? あるいは、バウアー自身がユダヤ人だったから? にしても、仕事もあるわけだから、個人的な志向だけでアイヒマンを追っていた、わけではないだろうし。そのあたりが、いまいちカチリとはまらないのだよな。
でもまあ、自分の部屋にナチ関連の資料を集めて、何かをしようとしていたことは確かなんだろう。それにしても、そのナチ関係の資料がたびたび消える、とかいっていたけど、そういうことも気になるのに、とくに追求はしていなかったな。まあ、検事局にも、元ナチとかナチ擁護派がいたということか。
で、話はアルゼンチンである。だれかがアイヒマンにインタビューしていて、結構、本音をしゃべっている? で、このインタビューアーなのか誰なのか、がバウアーに手紙をだして、アイヒマンの存在を示唆するんだけど、手紙を出したやつはいったい誰なのだ? インタビューは誰が何のために行ったものなのだ? なぜバウアー宛てに手紙をだしたのだ? というあたりがアバウトなので、どーもスッキリしない。
アルゼンチンの民家のシーンも断片的で分かりにくい。娘の帰りが遅いと怒る父親がいて、ちゃらちゃらするカップル、娘が戻ってきて・・・。の前に、そういえばメガネの男がいたけど、あれ、アイヒマンだったのか? あとから分かるんだけど、若い男はアイヒマンの息子らしいが、こういうときDVDだとすぐ確かめられるんだけどな。
この手紙で「お!」と思ったバウアーは、さっそく単独でイスラエルのモサドに行くんだけど、そういうパイプがあるのはなんでなの? で、そのとき、モサドのトップが「アルゼンチンのことも知っている」といい「でも、決め手が・・・」というんだけど、情報はモサドにもいっていたのか。それはさておき、人物名とかなんだとかかんだとか、セリフの中でいわれても、よく頭に入らない。すでに登場している人物でも、頭によく入っていない状態でささっといわれるので、ついていけず。
その後、国内に戻って、その名前(2人)を思い出して、ドイツ国内のメルセデスベンツに出向いて問うのだけれど、その相手も元親衛隊だったりするんだが。そういう方々でも、戦後はフツーに社会にもどってフツーの生活をしていたのね。日本では東京裁判で多くが罪に問われたけど、ドイツはどうだっのかと、少し疑問に思ったりしたのであったが、2人の片割れがアルゼンチンのメルセデスベンツに働いている、とかいうのを決め手にして再びモサドに行くんだけど、なにがどう決定的な決め手なのか、よく分からんのだよ。ついていけない私がアホなのか。
あと、当時の首相のアデナウアーが起用しているグロプケとかいう人物についてもよく分からなかった。Wikipediaには、アデナウアーは「ニュルンベルク法制定に関わった人物(ハンス・グロプケ)を激しい批判にも関わらず連邦首相府長官として重用し続けるなど、その姿勢は批判を受けた」と書かれているが、そんなこと知るか、だよなあ。
というわけで、モサドが動き、アルゼンチンでアイヒマンを確保。そのアイヒマンは無条件でドイツに引き渡す、とモサドと確約したのにそうはならず、アイヒマンはイスラエルで裁かれることに。というわけで、これ以降は『ハンナ・アーレント』を参照ということかね。
あと、検事局になんとかいう上級検事がいて、これが、よく存在が知れない上司(?)とともにバウアーの足を引っぱるんだけど、この上級検事とその上司も、よく分からない。はじめの方で、バウアーの部屋から資料がなくなった、というので呼ばれた中に、この上級検事はいなかったし・・・。でも、部下のカールはいたんだよ。それで、「資料を持っていったのは自分。もっと詳しく調査したくて・・・」といったことから、バウアーの信頼を得るんだけどね。
フリッツ・バウアーが男色家で、それで仕事をしくじった(?)ことが何度かある、とかいうのがさらっと話に出るんだけど。たいへんなことをあっさりいわれてもなあ・・・。当時は同性愛が犯罪みたいに描かれていたけど、逮捕はされなかったのか? それでどうして検事長にまでなれたの? また、現在は奥さんと別居中というのは、男色が原因?
あと、オマケみたいなエピソードがあって、それはカールが、たまたま入った店の女性に夢中になり、でも彼女は実は男で、そのオカマにしゃぶられてるところを写真に撮られ、親ナチ連中だったかな、に脅されるんだけど、逮捕覚悟で信念を貫くというのが、ほんとかよ、な感じ。映画ではカールは娘が生まれたばかりみたいな設定で、女房とも上手くいっている。それがなぜ? まあ、カールは想像上の人物かも知れないしな。ジャマする上級検事だって、映画の都合上、登場しているキャラかもしれんし。
それにしても、この映画の最大の難点は、肝心なところを端折ってるところだ。パウアーは、アルゼンチンからの手紙が示す男はアイヒマン、という確証を得るため情報屋みたいなのを使うんだけど、そのいちばん活躍してるはずの情報屋の動きがまったく描かれないのだ。次に登場する情報屋は、なんとアイヒマンの録音テープの1本をもってきて、それをバウアーに渡すのだ。スゲー情報じゃないか。そんな情報を、どうやって手に入れたのだ? そっちの方が知りたいぜ。
・バウアーが州首相に呼ばれて行くと、首相の部屋にローザ・ルクセンブルクの写真(絵?)。あれは、どういう意味なのかね。社会主義者だということか? アイヒマン逮捕後だったかにまた行くと、その写真がないんだが、それはどういう意味なのだ? ドイツ人ならすぐ分かるのかね。
奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ1/23ギンレイホール監督/マリー=カスティーユ・マンシヨン=シャール脚本/アハメッド・ドゥラメ、マリー=カスティーユ・マンシヨン=シャール
フランス映画。原題は“Les h?ritiers”。Google翻訳では「相続人」なので、“受け継ぐもの”ということなんだろう。allcinemaのあらすじは「貧困層が暮らすパリ郊外の公立高校レオン・ブルム。ここに赴任してきた厳格なベテラン歴史教師アンヌ・ゲゲンが受け持つのは、様々な人種の生徒が集められた落ちこぼれクラス。“退屈な授業はしない”と自信を見せる情熱的な彼女だったが、生徒たちにはほとんど響かず、相も変わらず問題を起こしてばかり。そこでゲゲン先生は、彼らに全国歴史コンクールへの参加を提案する。そもそも参加する意味が見出せず、“アウシュヴィッツ”という重いテーマにも反発する生徒たち。最初は何をどう調べればいいかも分からず、おまけに自分たちとは無縁の昔の出来事と決めつけ、まるでやる気のない彼らだったが…」
ダメ生徒が集まるクラスを変えるというのは、よくある設定。そこにホロコースト・・・。うーん。よくあるの二乗か。とはいえ、この手の話は露骨な成長物語だから、ワクワクしてしまう。とくに前半部の、ホロコーストを調べ始めてもトンチンカンなことをいっている辺りから、囚人番号の刺青について発見したり、当時のポスターに着目するあたりまでは惹きつけられた。
のだけど、生徒たちが自主的にどんどん学び始め、博物館に行って事実を突きつけられ、どんどん真面目になっていくあたりから、少し退屈してきた。これはなぜだろう。こちらがあらましを知っていて、そこに生の情報が説明的に登場してきたからかも知れない。それまでの生き生きとした登場人物個人のドラマではなく、教訓じみてきたからかもね。ホロコーストの生存者の話も、よくあるし。
で、その退屈が解消されたのは、最終選考に残った、という手紙が来たところかな。まあ、最後は授賞式が盛り上がって、感動的に終わる。そして、新たな生徒たちを迎える・・・。というわけで、「受け継ぐ者たち」というサブタイトル(これが原題)につながるのだろう。
つくりはドキュメンタリータッチで、『パリ20区、僕たちのクラス』と似ている。生徒たちの集団的な描写、淡々と、テンポよく見せていくスタイルは、なかなか。なんだけど、生徒たちのプロフィールがよく分からないところが少しある。たとえばヒロイン的存在の女生徒だけど、同じような顔立ちの娘が2人いるのな。ずっと同じ娘かと思ってたよ。同一フレームに入らないので、区別がつきにくい。ほかにも、顎髭の男子と似たデブがいたりする。いちおう描き分けられているのは7、8人の生徒だと思うけど、もうちょい掘り下げたらよかったのに、と思ったりする。
たとえば、無口な男子、あまり美人じゃないけどよく顔が映る娘とか。
あと、よく分からないのが学校の仕組みで。二カ国語クラスを志望したけど入れなかった・・・というのは、どちらかというと真面目で勉強もそこそこできるけど貧乏人、ということなのかね。はたまた、学力わけされて、その最低レベルのクラス? できる生徒のいるクラスも、あの高校にはあるのか? とか。それと、大半が勉強嫌いな感じで、だったら就職してもいいと思うんだけど、それでも高校ぐらいは・・・っていうのは、日本と同じなのかね。そのあたりも知りたいところ。
生徒を落第させるかどうかの会議に生徒代表も出席するのは『パリ20区、僕たちのクラス』で知ってたけど、生徒の母親も会議に参加していた。あんな会議、日本じゃ成立しないだろうな、と改めて思った。まあ、個人主義が確立しているからできるんだろうな。うらやましくもあり、怖ろしくもあり。
最初はフツーの授業だけど、ゲゲン先生のは、すぐ答を教えるのではなく考えさせる授業をしようとしているのが面白い。キリスト教の教会の絵で、地獄にマホメットがいる、というので怒り出す生徒がいて、でもちゃんと説明する辺り、面白い。というか、立場の違いでああなる、ということも理解できていない子供たちなのだなあ、と。それにしても、このあたり、日本のいわゆる暗記=詰め込みとはちがうアプローチ。
とはいえ、フランスも移民大国で、もともとの白人が少なくて、クラスの半分以上はイスラム教徒らしいのが凄いというかオソロシイ感じ。とくに、冒頭の、イスラム教徒の母子と教師の対立が興味深い。学期が終わって修了証書(?)かなんかをもらいに来た女生徒と母親がいて、2人ともヒジャブをしている。それに対して、女教師は「ヒジャブを取りなさい」というのだけれど、「もう学校は終わっているから」と反論する。それにたいして教師は「まだ登録上は在籍しているのだから、取りなさい」というんだけど引き下がらない。そして「あんたには信仰心が分からないのよ」と捨て台詞を吐いてでていくんだけど、日本人からみるとアホくさにしかみえない。決まりなんだから従えばいい。それが嫌なら別の国に行けばいい。
だいたいイスラム教徒は自分の行くところ、どこでもイスラムの教義に従って行動しようとする。では逆の立場ではどうなるか。自由主義諸国の人間がイスラム世界に行ったとして、彼らはイスラムの流儀を押しつけられる。女性は肌を見せるな、ヒジャブをしろ、と要求される。それって不平等だよな、と単純に思う。
という感想しか持たないような、本筋とは関係のないエピソードを冒頭にもってきたのは、どういう意図なんだろう。学校の厳格さを見せつけるためなのか。はたまた、フランスにはイララム教徒が多いので大変ですよ、ということを知らせたいのか。どうなんだろう。
興味深かったのは、ホロコーストの生き残りの老人が最後に「私は無神論者」といったこと。冒頭のイスラム教信者の母子と教師との言い争いを思い出してしまった。
そういえばゲゲン先生は「29(28だったかな)の民族をまとめるのは大変」とか、上司にいわれてたような気がするんだけど。生徒数は27人じゃなかったっけ? コンテストに参加しない生徒は引いているのか? でも、27人中21人は優秀な成績で卒業した、と書いてあったよな。そのあたりの整合性に「?」なんだが。でもその、クラスにいる28か9の民族を知りたいもんである。
ところで、コンテストって、会場でプレゼンするのかと思いきや、違うのな。完成したのか、コピーをとって製本し、めいめいに配って。じゃ明日7時に、とかいってたから、バスで会場に行くのかと思ったら、なんかベルギーの街を観光旅行? あれ、途中で「やめる」って抜けた顎髭もいるけど、復活したのか? と思ったら、そうでもないらしい。あれは、もしかして、学年最後の修学旅行みたいなものか?
というのも、次のシーンで先生が生徒たちの前に登場したとき封筒をもってきていて。生徒たちはその封筒を開けろ! と迫り、じらしながらも先生は生徒のひとりに開けさせると、なかに「最終選考に残ったのでご招待」とかいう文面。で、みんなでバスに乗って会場に行くんだけど、バスの外にいる顎髭に黒人少年だったかが手を振って。じゃやっぱり顎髭は抜けたままなのか。
で、会場。出席者はすごく少なくて、200人もいないんじゃないのか? ほぼ関係者。3位、2位と呼ばれ、1位になるんだけど。これはまあそうだろうと思っているから期待通りで、でも、なかなか感動的ではある。
ホロコーストに関する研究コンテストが毎年行われているようだけど、そのコンテストの選考システムや提出形態、最終選考に何組残るとか、そういうのをまったく説明しないから、なんだなんだ・・・という間に優勝してしまって、ちょっと拍子抜け。日本映画なら、ここでタメをつくって、どかーん! とやるところなんだけどね。
ラストシーンは、ゲゲン先生が新たな生徒たちを迎え入れ、件の教室で最初に述べたような挨拶をするところで終わるんだけど、まあこれは定番のパターンだな。
建て前は、自由・平等・博愛といいつつ、いろんな現実も示される。バスで。ヒジャブの娘が白人の老人に席を譲ろうと声をかけたけど、老人がすーっと離れていくのは、あれはイスラム嫌いの白人ということか? 女の子か黒人生徒と家の近くに来ると、窓から父親に呼び止められる場面。あれも、黒人嫌いの白人ということか。歳を取った大人たちはいまでもそうなんだろう。でも、黒人の生徒が、近所(?)のユダヤ人のバアサン家のポストに書かれているいたずら書きを消したりと、コンテストに参加して学んだことは多い、ということが示されているのは好ましい演出。

・よく分からないのは、女子生徒を「なんだその恰好は」とかいって迫ってくる男たち、それから、ゲゲン教師の喉を絞めて襲う男が登場し、それを男子生徒たちがやめさせる場面。あの男たちは生徒じゃなくてチンピラか? それまで登場していたっけ? チンピラだとしたら、どうして校内をうろついているのだ? 上級生?
・シモーヌ・ヴェイユが登場する。あれ? まだ生きてるのか? まさか・・・と思ったら、同姓同名の政治家がいるのね。でも、なぜ登場したのかはよく分からず。
・ホロコーストの犠牲者の名前を書いた風船を飛ばすのは、環境破壊だろ、とツッコミを・・・。
グッバイ、サマー1/23ギンレイホール監督/ミシェル・ゴンドリー脚本/ミシェル・ゴンドリー
フランス映画。原題は“Microbe et Gasoil”。Google翻訳では「微生物と軽油」となるんだが・・・。allcinemaのあらすじは「中学生になっても女の子のような容姿で、クラスメイトからミクロ(チビ)と呼ばれてバカにされているダニエル。憧れのローラには相手にされず、家でも過干渉な母や暴力的な兄への不満は募るばかり。そんなある日、自分で改造した自転車を乗り回し、ガソリンの匂いを漂わせている変わり者の少年テオが転校してくる。クラスに馴染めない2人は思いがけず意気投合し、親友に。2人は夏休みにこの街を抜け出そうとある計画を立てると、さっそくスクラップでログハウス型の車を自作し、大冒険と旅立つのだったが…」
見終えて一週間たっての感想文だけど、あまりよく覚えてない。なにせ途中で少し寝ちゃっていて、気づいたら少年二人がクルマを改造して走らせているところ。その後、ボディを家にして家出するんだけど、とんでもない人物に会うとか意外な展開があるわけでもなく、冒険話にしてはショボイ。話はあまりよく分からなかった。家庭環境や家族、友人、その他の人々にしても、人物が掘り下げられているわけでもない。エピソードも、とくに記憶に残るようなものがあるわけでもなく、なんかみな大雑把でテキトーな感じ。惹きつけられないのだよな。
・そもそもチビで女の子みたいな容姿というのは何を示唆しているんだ? たんにそういう設定だけ?
・いじめっ子みたいなのがいるけど、とくに陰湿なわけでもなく、イジメ映画としてもいまいちだな。
・図体がでかく、ちょっと大人っぽい娘が出てくるけど、あれがローラか。そういえばパーティでダンスしようと接近し、ちょっと踊ったけど「あんたとはいやだ」みたいな感じで逃げられてたな。要は、彼女にとって魅力がなかったということだけ? というか、ローラはもっと逞しく男らしい男が好みなのか?
・あれ? と思ったのは兄弟なんだけど、同室で寝てた同年齢ぐらいの少年がいて、そのあとに自室で音楽やってた年長の兄貴がいたけど、兄は2人? ひとり? スマホ持たせてくれたのは、音楽兄貴? よく分からない。
・あれ? と思ったのは母親で、もしかしてオドレイ・トトゥ? なんか鼻眼鏡なんかしちゃって・・・と思ったら、そうだった。数年前の『ムード・インディゴ うたかたの日々』じゃウブな年増娘やってた様な気がするんだけど、一気にお母さんかよ。
・で、転校生のテオが、なぜダニエルと仲良くなるのかよく分からない。映画のつごうかね。
・車の改造のくだりは寝てたからよく分からん。
・あれは、夏休みになって、2人で何かやろうということだったのか? まあいい。家をのっければ、警察にバレない、とかいったのはテオだったかな。で、実際に、田舎道でパトカーとすれ違い、でも警官が降りてきて、何かいわれるかと思ったら警官が家を背景に自撮り・・・という、おい、このお巡りバカか? というようなシーンがあったりして、まあいい加減。
・ところで、最初、どこにいこう、としてたんだ? そのあたり、よく分からないまま見ていたよ。だから余計に話に入れず、退屈だった。
・歯科医の庭に止めたら気づかれ、家に泊めてもらうことになるんだけど、夜中に逃げ出してた。あれ、なんで逃げたんだっけ? 別に歯科医に他意はなかったよな。でも、子供が2人なら、最初に家に連絡する、がフツーの対応だよな。
・ダニエルがウンコしたくなって、掘った穴の中に兄貴が「もっていけ」と渡してくれたスマホをウンコの穴に落とすんだけど、あれは意図的なのか? よく分からなかった。
・チンピラ兄ちゃんたちとであうのは、どこでだっけ? なにされたんだっけ? 金を巻き上げられたんだっけか? どっかの店でだっけ? 覚えてない。はは。記憶から飛んでるな。
※予告編見て思いだした。床屋にいこうとしたら韓国の性風俗店みたいなとこで、でも女の子は日本語をしゃべってて、妙な案配にバリカン入れられて、それで逃げたらチンピラたちに追われ、金を取られたんだった。
・で、2人はローラのいる避暑地にいくんだけど、あれは、ダニエルが知ってのことなんだよな。ストーカーか? テオは「会いに行け」というけど、ダニエルは「いいよ」とかいうんだけど・・・。あのあたりも、ダニエルの思いがよく分からない。わざわざ進路を変えてまで(?)ローラのもとにきたのに、覗くだけ? 分かんねーな。
※もしかして、風俗床屋のバリカンのせいでヘアスタイルが変だったからか?
・その避暑地にジプシーの集落があって、そこが火事になり、近くに停めていた2人のクルマも燃えちゃうんだけど、あの火事は住民の「出ていけ!」という意図の放火なのか?
・で、途中でラグビーだかアメフトだかやってる連中がいて、飛んできたボールを返そうか、と思ったら相手はチンピラ兄ちゃんたちで、ボールをもって逃げるんだけど、ここで焼けたはずのクルマが登場し、これに乗って逃げるんだけど追いつかれ、あわやというところでクルマは谷底へ。2人はボールを川に投げるぞ、と脅しつつ逃げて、ボールは返すからもう追ってくるなよ、とチンピラたちと妙な和解がよく分からない。あんなボールだけのために、なんでチンピラたちはむきになる? ボール1個しかないのか?
・で、田舎町で12歳までの子供お絵かきコンテストで14歳をごまかして挑戦。1位の無線飛行機はゲットできなかったけど、2等のパリ往復航空券が当たり・・・って、2等の方がいい賞品だろ、それって。てなわけで、往復を片道2枚にしてもらって、オケラ状態だったけどなんとかバリに戻り・・・のあと、列車に乗るシーンがあるんだけど、あれはなんなんだ?
・なんとか家にたどり着き・・・のあたりはほとんど覚えておらず。両親や兄の対応は記憶になし。
・覚えているのは、ダニエルが例のいじめっ子の耳に囁くフリをして首を抱きかかえ、顔にパンチを入れて鼻血を出させてしまうところ。この戦術は確かテオが兄貴に教わった、とかいってたんだっけか? で、意気揚々と去って行く2人。ローラが声をかけるんだけど、それを無視してどんどん歩いて行くダニエル・・・というところかな。これは、ローラはダニエルの男らしさに惚れたけど、ひと夏の冒険でたくましく成長したダニエルは、もうローラのことなんてどうでもよくなった、ということか? そうかあ? そんな大人になってるとは思わないけどな、ダニエル。
というわけで、いまいちズドンと響いてこないのであった。
ビハインド・ザ・コーヴ 〜捕鯨問題の謎に迫る〜1/24シンフォニーヒルズ・モーツァルトホール監督/八木景子撮影・編集/八木景子
allcinemaの解説は「和歌山県太地町のイルカ漁にスポットを当ててアカデミー賞に輝いたドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」の一方的な描き方に疑問を抱き、そのカウンターとして撮り上げたドキュメンタリー。太地町での取材に加え、「ザ・コーヴ」の監督や出演者にもカメラを向けるとともに、反捕鯨を掲げて過激な活動をする人々の実態にも迫るなど、国際的な捕鯨論争の実相を多角的に捉えていく」
隔靴掻痒、もどかしい映画だった。なぜって、その反論が中途半端すぎるのだ。後半に、反捕鯨の流れはアメリカ政府がつくった、とか言う話になるんだけど、なかなかその意図を明かさない。で、最後にチラッと言及したのは「ベトナム戦争への非難回避のためクジラ問題をとりあげた」なんていう話なんだけど、それじゃ謎に迫ってもないだろ。だいたい、ベトナム戦争は何年前の話だよ。ニクソンの時代に、そういうことがあったにしても、それから時代は移っている。大統領も替わっている。ベトナムだって、社会主義国といっても、自由化は進んでる、んだろ? 結構。そういう時代にあって、なぜいまだに反捕鯨団体が堂々と活動し、主に日本をやり玉に挙げているのか?
反捕鯨は金になる、という話もチラッとでていたけど、これについてもツッコミ不足。だれが資金援助し、どこに金が流れ、どういう連中が反捕鯨運動をしているのか、ということを薄皮を剥がすように明らかにしてもらいたかったのに、そういうことはそっちのけ。よくいわれるような、日本人は文化として捕鯨を行ってきた、アメリカの捕鯨は油をとるだけで大半捨てていた、日本人は鯨のすべてを利用した、とか・・・。そんなの知ってるよ。
なぜ米国はいまだに日本の捕鯨に口をだすのか、もっと積極的に口出ししてるのはオーストラリアだけど、それはなぜ? 活動家や取り巻き連中のメリットは? 日本にまでやってきて反捕鯨活動をしている人たちの正体は、なんなのだ? 米国での彼らの生活は、どういうものなの? 資金はどこから集まるのか? 資金提供しているのはどんな人で、その目的は? 反捕鯨ガイジンの通訳をしていた日本人っぽい女性がいたけど、彼女の正体は? とか、いくらでも追求すべきターゲットはあったろうに。イライラのしっぱなしだよ。
北欧の国々も捕鯨寮を行っているのに、なぜ日本に? というところで、たしか、誰かが、「彼らは白人至上主義」云々の話をしていたけど、単純にそういう話をもってきてもしょうがない。彼らが非白人を蔑視している事実をみつけ、それを映像として見せないとしょうがない。立ち入り禁止の場所に立ち入って写真を撮ってる、ぐらいの話じゃ、彼らは屁とも思わないだろう。
『クジラ戦争』の監督で和歌山大学の教師をやってる外国人と、カナダの大学の先生だったかは、わりと中立的で科学的に話していたようだけど、反捕鯨主義者からすれば「あいつら日本びいき」で終わってしまうはず。クジラはファッション、金が集まる・・・。だから活動家が集まる? そのあたりを、もっと突っ込んで欲しかった。
監督の方か学者だったか忘れたけど、「ニワトリやウシは自由もなく飼育されて食われる。いっぽうクジラは自由に生活できて、殺されて食べられる。これは仕合わせなこと」といっていたけど、そういう論理もシーシェパードには通用しないだろ。彼らはある意味でクジラ教の教徒なんだから、土俵が違うのだ。その異常さ、奇妙さを表に出すような話にしてくれなけりゃ、ほとんど意味がない。反捕鯨のガイジンが、太地町での討論会で「日本人は明治維新でサムライをやめた。だから、今度はクジラ漁をやめるべきだ」という、論理にもなってないことをいう場面がある。あの程度なんだよ、連中は。だから、そういうアホである、ということを見せていけばいいのに、食文化がどうのとやっている。意味ない。
『ザ・コーヴ』に対する反論も、多く出てくる。でも、町民の不満とか、言葉で「あんなの嘘」というだけで、見てるこっちは「どこが嘘なんだ?」と思うばかり。たとえば『ザ・コーヴ』の映像を一部使うとかできないのか。そうして、実際はこう、と見せられないのか? そうやって、「映画は演出されるもの。いわんや、ドキュメンタリーにおいてをや」ということを明らかにするようなことをして欲しかった。
・大地町の人々の話も大半が情緒的。さらに、ガイジンに怒鳴る日本人もでてきて、品が悪いったらありゃしない。
・最初の10分は映像と肩書きと字幕とがパッパパッパと変わるので追いつけない。見終えて、何をいっていたかほとんど記憶にない。あんなフラッシュパックみたいな手を使わず、丁寧に描いた方がよっぽど効果的だろ。
・なんといつても字幕がヘタ。言葉をもっと読みやすく短く縮めないと、短時間では読めない。もちろん改行も気を利かさないと。
・日本人が何いってるか分からない。日本人にも字幕をつけてくれ。
・幕末の志士の集合写真(ではないけど、ホントは)、と曰く付きのフルベツキの写真を使っていたり。浅はかな感じ。
・後ピンで見づらい個所が山のよう。インタビューされてる人の背後にピンがきてるんだもの・・・。
ふきげんな過去1/25キネカ大森2監督/前田司郎脚本/前田司郎
allcinemaのあらすじは「北品川で小さな食堂“蓮月庵”を営む家族と暮らす女子高生・果子。いつも不機嫌な顔をして、死ぬほど退屈な毎日をやり過ごしている。そんなある夏の日、18年前に死んだはずの伯母・未来子が突然帰ってきた。涙の再会を演じる家族の姿を、いとこの小学生カナと冷めた目で見つめる果子。未来子は果子が赤ん坊の頃に爆弾事件を起こした前科持ちで、今は戸籍もないという。それなのに、そのほうが都合がいいと、死んだままにしているらしい。しばらく匿ってほしいという未来子は、けっきょく果子の部屋に居候することに。思いがけない同居人の出現に、ますます苛立ちを募らせる果子だったが…」
2度目。その理由のひとつは、橋の上の諍いとその後のシーンを確認するため。これは、橋の上でのクルマの事故→男同士の殴り合い→男が女をつれて逃走・・・で、男は康則(高良健吾)で、女は 未来子(小泉今日子)であることを確認した。
この映画については、見ている途中は「?」だったけど、見終えて考えているうちに「なるほど」と解釈が氷解し、その過程はすでに前回書いた。つまりこの映画は、夏、死んだはずの実母の未来子が生き返って現れることから、一家が冥界をさまよう話だ。なので今回は、最初から此岸と彼岸、あの世の人とこの世の人を意識しながら見てみた。そうすると、なるほどな、な感じのセリフが多かった。
果子「私は未来が見える」未来子「あんたは過去でしょ」、祖母サチ「なんで生き返ってきたのよ」「いついなくなるんだよ」、果子「いなくなったと思ったのに」…とか、正確ではないけれど、そんなようなやりとりがあった。それを聞いていると、未来子の妹サトエや祖母サチ、果子すら、未来子が死人であることを知っていて接しているのだな、と分かってくる。彼岸と此岸のあいだにはまり込んでしまったという設定を意識したセリフが満載である。
とはいえ驚くような発見はなかったのも事実で。中盤は少し退屈したし、設定にこだわりすぎて妖しさがいまいちな感じもなきにしもあらず、な印象だった。
商店街に白い顔をした男が突っ立ってるのは最初見たときも気づいていたけど、喫茶店で振り向く男というのも、なんか怪しい。もうちょいこの手の不思議を埋め込んでおいてくれると、読みが深くなったんじゃないのかな、とか思ったりして。
というなかで、ひとつ解釈が増えた。それは、果子が康則の家で未来子を発見して傘で刺す場面なんだが。あの傘は、海苔の本田の奥さんのもつ銛と同じなのだな。果子は、この世に未練を残して去ろうとしない死んだ母を、成仏させたんだろう。これにつながるのがラストシーンの巨大ワニの捕縛で。あの辺りの水路は則ち彼岸やお盆には三途の川に変貌し、人を引きずり込むのだが、その張本人=未来子が成仏したことで、その現実的な象徴物である巨大ワニも捕まった、ということなんだろう。海苔の本田の子供を冥界に連れていったのは成仏できなかった未来子なのかも知れない。
同じような時期に、康則も誘拐犯によって殺され、未来子と同じように成仏できず、彼岸と此岸のあいだに浮遊するようになっていた。その2人が、この夏に此岸にやってきたのは、この世の未練を断ち切るため、だったのかも知れないけれど、上手くいかなかった。それを感じた果子が、トドメを刺したという感じかな。
・ケンカ中という果子の友人の存在は、よく分からない。なんだろう?
マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ1/31ヒューマントラストシネマ有楽町2監督/レベッカ・ミラー脚本/レベッカ・ミラー
原題は“Maggie's Plan”。allcinemaのあらすじは「ニューヨークの大学で働くアラサー女性、マギー。子どもは欲しいけど恋愛下手な彼女は結婚に見切りをつけ、人工授精でシングルマザーになることを決意する。そんな矢先、文化人類学者のジョンと出会い、彼が執筆中の小説に心を奪われる。妻子持ちのジョンだったが、大学教授としての仕事を優先し家庭を顧みない悪妻ジョーゼットとの結婚生活に疲れ果てていた。ほどなくジョンはジョーゼットと別れ、マギーと再婚する。3年後、かわいい娘も授かり幸せな結婚生活を送っているかに思われたマギーは、理想と現実のギャップに直面していた。そんな中、いつしかジョーゼットと親しくなり、思いがけず彼女の人間性に惹かれていく。そして、やはりジョンとジョーゼットこそ、一番お似合いの夫婦と確信するようになり…」
いい加減な女たちとしょうもない男の話であった。
最初の方の、大学時代の同級生? のトニーとの会話で「49」という数字がでてたような気がして、マギーはそんな歳なのか? とずっと思って見ていた。でも、解説とか見たらアラサーで、演じるグレタ・ガーウィグは1983年生まれなので、33歳? だよな。まあいい。
マギーは男とつき合っても長続きしない女らしい。トニーともつき合ったことがあって、でも半年だったかな、長い方だとか。とはいえ、33ぐらいで結婚しない&子供つくる宣言というのが、どーも「?」だな。まだ分からない、って考えるのがフツーじゃないのか? で、精子提供者に、大学時代の知り合いで数学科をでて、現在はピクルス屋してるガイを指名して、医者を通さず直接精子をもらう・・・って、おいおい、な感じ。
というところで、たまたま講師で小説家志望のジョンと出会い、つきあい始め、なんと結婚してしまうのだ。ジョンには大学教授で学部長に指名されるほどの女房ジョーゼット(ジュリアン・ムーア)と子供2人がいて。つまりマギーはジョンを強奪したカタチなんだけど、ジョン(イーサン・ホーク)はそんなにいい男に見えたのか? あんな消極的で、男とは続かない…といってた女がよくやるよ。話としても、説得力がまったくない。そりゃないだろ、な感じ。
ところで、イーサン・ホーク1970年生まれ、ジュリアン・ムーア1960年生まれ。46歳の亭主と56歳の女房だったら、そりゃ若い子になびくよな、と思うんだが、ことはそう簡単ではなかった。なんと、強奪婚したマギーは、やっぱり男に飽きてしまい、、ジョンとジョーゼットの復活婚をたくらむという、おいおい、な展開。なんて身勝手。↑のあらすじでは、マギーは「ジョーゼットと親しくなり、思いがけず彼女の人間性に惹かれていく。そして、やはりジョンとジョーゼットこそ、一番お似合いの夫婦と確信」ということになってるけど、飽きたんだろ、要は。
で、ジョーゼットがカナダだったかの学会に出席するっていう情報をジョンに知らせ、行くようにけしかけるんだけど、なんだかね。ジョンとマギーだって、うまくいかなくなった、といってる割りに一緒に中華屋で裏賭博したり、ついでにセックスしたりしてて、なんかよくわからん。ジョンも、ひさしぶりにジョーゼットと“やりたい”って思った程度じゃないかと思うんだが、自分の研究分野の発表も兼ねて学会にでかけ、「やあ、久しぶり」なんて接近して、結局やっちゃうってんだから、なんだかな。そもそも、一度「やだ」と思った女房とまた「一緒に暮らしたい、セックスしたい」って、思うか? 大半は思わんと思うぞ。だいたいジュリアン・ムーア56歳とセックスしたいか? 口の周りなんてシワだらけだったぞ。
だけどその後、ジョーゼットが、すべてはマギーの仕組んだことと知って怒ったりするんだけど、でも、なんとなくジョンとジョーゼットは元のサヤに収まり、マギーも娘と楽しい生活。しかも、両家の交流はつづいていて・・・という不可思議な関係も、なんだかな。
でもって、そのマギーの娘が数字に異常に興味があることが最後に示されて。娘は実はジョンの子ではなく、ピクルス屋のガイの種だ、と分かるところでオシマイなんだけど。ガイの精子をシリンジで膣内に押し込んで子宝誕生? まあ、映画だからなあ。まあ、個人的には、生身のガイも悪い奴ではなさそうだし、マギーとガイが結婚するのもいいんじゃないの? とか思った。まあ、マギーの方がすぐ飽きるんだろうけど。
・しかし30過ぎで結婚をあきらめ、子種を貰って子どもを育てたい、って思う女の人って、珍しいんじゃないのか? まあ、日本じゃシングルマザーに対する支援もないから、たんに苦労するだけ、って感じだけど。アメリカじゃ、大学の事務に勤めてれば余裕でOKな感じなのか? それに、父なし子で、父親は誰かは知らせない、という設定は、生まれてくる子供にも気の毒な気がしてしまうのは日本人の発想かね。
・しかし、アメリカ映画って、登場人物が大学教授、とかいう設定が結構多い。マギーだって大学の事務方だろ、たぶん。そんな連中ばっかり登場しても、リアリティも親近感もない。そのあたりからして嘘だろ、と思ってしまうのだよな。
※となりの男が、数分おきに後頭部を背もたれにぶつけるので、衝撃が走る状態でイライラ・・・。わずかな衝撃でも、こういうのは集中力をなくす。なので、少し前屈みになって、背もたれからの衝撃をすくなくしていたせいで、身体が変になったよ。それにこの男、姿勢を頻繁に変えたり、腕をしょっちゅう動かしたりと、落ち着きのない奴だった。いおうかなと思ったけど、この手の人って、自分のしてることが人に迷惑かかってると意識してないし、小声で話すのも面倒なので諦めた。席を立とうか、とも思ったぐらいで。昨今の指定席制はやんなる。といってもほぼ満席だったので、別の席にも移れなかったけど・・・。さめざめ。

 
 

|back|

|ホームページへ戻る|