サバイバルファミリー | 3/2 | 109シネマズ木場シアター4 | 監督/矢口史靖 | 脚本/矢口史靖 |
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allcinemaのあらすじは「東京に暮らす鈴木家は、父と母と息子と娘の平凡な4人家族。仕事一筋の父親・義之はどこか頼りなく、家族の心はすっかりバラバラ。そんなある日、いきなり電気が消滅するという原因不明の異常事態に遭遇、電池も使用不能で、電化製品ばかりか電車や自動車に加え、ガスや水道といった全てのライフラインも止まってしまう。最初はしばらくすれば復旧するとタカを括っていた一家だったが、状況はいよいよ深刻の度を増していく。水も食料も容易には入手できず、義之は東京を離れることを決断する。そして一家は自転車で、祖父のいる鹿児島を目指して旅立つのだったが…」 この監督は設定勝負であとは勢いで撮ってく人なので、波がある。『WOOD JOB!』はよくできてたけど、『ハッピーフライト』なんかんはぐずぐずだ。『ウォーターボーイズ』『スウィングガールズ』もシナリオは不出来だけど、キャラとテーマの面白さでさらってしまった。で、この映画だけど、設定はいいけど、「そうなったら?」の場面に登場するエピソードが散漫かつ思いつきなものばかりで、因果関係とか理屈がぐずぐずすぎ。 電気が使えない。乾電池もダメ。いわゆる磁気嵐みたいなものか? ラストで、「太陽フレアの影響などが考えられたが、停電時の記録が一切残っていない」とかなんとかニュースでいっていたから、そんなもんだろ。それはいい。 要は、電気が使えないから生じる具体的な問題と、人知の対応の問題で。映画では、人間は手も足も出ず歩くか自転車。みな、「大阪は電気がある」という噂を信じて大移動している、という設定だ。けど。明治初期までは電気がなかった。でも、大阪の情報は1週間もあれば江戸にとどいていたのだよ。新聞も、活字印刷はムリでも、版画でかわら版ならできるはず。大阪に着くまで、関西や他の地域の情報が手に入らない、なんて、あり得ないだろ、と辟易してきた。 そういえば、一家は最初「飛行機で鹿児島へ行こう」と羽田をめざすんだけど、アホかと思った。飛行機だって電気を使ってるだろ。バカかと思う。 仕事人間の堅物父親。いやーん!と文句ばっかりいってる娘。この2人の類型的な反応が、最後までつづくのも、うんざり。息子は、スーパーで精製水をみつけて「飲める」と判断したりして、知恵を見せるのかと思ったら、以後は不発。なんか、みな、成長しないんだよ。そういうところがとっても物足りない。たとえば、途中、時任・紀香のサイクリング一家と出会い、地面から生えてるものはたいてい食べられる、と教えてもらうんだけど、それから小日向一家が葉っぱを食べている場面を見ていない。成長しろよ。 とはいえ、野草なら何を食べても大丈夫は言い過ぎだろ。あとから、腹下ししているサイクルご一行が描かれるのかと思いきや、そんなことはなかった。残念。 えんえんと自転車で西進する一家。ときどきスーパーとか入るんだけど、飲料水だのなんだの、結構、店に残っていたりするのが見えるのが、おいおい、な感じ。食べ物は一切なくなる、ではないのかね。 そうして、ほかの大多数の日本人、日本に暮らす外国人、日本以外の他国の状況は? 気になるけど、小日向一家の周囲にいる日本人以外、一切描かれない。なんだかな。もっと想像力を働かせてホンを書けよ。 で、岡山で養豚経営のおっさんと出会って、ブタを解体・・・で、やっとサバイバルを学ぶんだけど、もう70日目ぐらいじゃなかったっけ。なのに、ブタの解体に顔を背けるとか、いつまでナイーブなんだかな。 で、養豚経営のおっさんは、一緒に暮らしてくれてもいいよ、といってるのに、鹿児島の父親の実家をめざすのが、よく分からない。というか、あの手の田舎には、都市住人がもっと押し寄せるんじゃないのか? 実際は。あんなのんびりしてるのは、あり得ないと思うぞ。 で、小日向父親と、川で離れ離れになり、深津ママと子ども2人は線路の上を通って・・・ってところで、思う。おい、なんで蒸気機関車を走らせないんだ? トロッコだってあるだろうに。と思っていたら、登場した蒸気機関車。なーんだ、というか、おいおい、というか。監督は、蒸気機関車の登場で驚かせたかったのかも知れないけど、そうはならんだろ、フツー。 要は、本来はもっと情報の流通は活発に行われているのに、それを意図的に描かないのがいけないのだ。まあ、そうしたら映画が成立しない、とかいってたのかも知れないけど。いや、それでもちゃんと成立する話を考えるのが、映画監督の仕事だろ。 というわけで、ツッコミどころだらけの映画でありました。 ・自転車が盗まれる心配をしていたんだけど、そういうことはなかった。そういうことは、あるんじゃないのかなあ。 ・自衛隊は登場したけど、役人や警察はほとんど登場せず。医者もでてこない。刑務所とか、どうなったのかな。 ・途中から、自転車で高速に入っていくんだけど。ああ、そうだよな、クルマが動いてないんだから、とこっちも思った。 ・太陽フレアの影響だとして。HDDの中味は消失してなかったのかな。電子化以降の全データが消えた、とかいうことは、なかったのか? ・水族館の魚や錦鯉を食べるという発想。うーむ。そうか。そうなるだろうな。でも、水族館の職員は抵抗しなかったのか? ・小日向文世。ブタと格闘したり、川で筏と格闘したり。かなりハードな撮影があったようで、ご苦労さん。 ・エンドロールで、田中要次、ミッキー・カーチス、左時枝がでてきた。左時枝は、トンネルババアかな。前の2人は、気がつかず。どこにでてたのかなあ。 | ||||
みかんの丘 | 3/3 | キネカ大森1 | 監督/ザザ・ウルシャゼ | 脚本/ザザ・ウルシャゼ |
2013年。エストニア/ジョージア映画。原題は“Mandariinid”。英文タイトルは“Mandarinas”。allcinemaのあらすじは「ジョージアのアブハジア自治共和国でみかん栽培をするエストニア人の集落。折しもジョージアとアブハジアの間に紛争が勃発し、ほとんどのエストニア人がこの地を離れる中、イヴォとマルゴスはなおも残って収穫に精を出す。次第に戦況が悪化する中、イヴォは負傷した両軍の兵士2人を自宅で看護する。やがて2人は互いに敵兵の存在を知り、殺意を剥き出しにする。しかしイヴォが“私の家で殺し合いは認めない”と宣言、2人もこれに従うのだったが…」 グルジアである。エストニアとかコーカサスとかチェチェンとか、聞いたことはあるけど場所は定かに覚えていない地名がゾロゾロ登場する。もともとはソ連で、ロシアになるときに独立した、とか。何年か前にチェチェンの独立派がモスクワの劇場で軟禁事件を起こしたとか、グルジアがジョージアと呼称を変えたとか、そのぐらいは聞いていても、より詳しい歴史や地理、独立の経緯は知らない。ボスニア周辺もわけ分からんけど、この映画の背景も、いや、もう分からん。ほかにもロシア人、アブハジア人とか登場していて、あらすじにも「アブハジア」という地名が登場するけど、それがどういう意味を持つのか、よく分からないまま見た。 冒頭に、この土地にはエストニア人がたくさん住んでいたけれど、内戦が勃発して大半は帰国した。しかし、わずかに残っているエストニア人がいた。てな字幕が出るけど、それだけじゃ分からんものなあ。そもそも、なぜエストニア人が住んでいるのだ? むかしから住んでいるのか、季節労働者みたいに移動したりしているのか? で、↑のあらすじの如く、近所で戦闘があり、両軍兵士が相打ち。1人を助け、残りを埋めに行ったら息のあるのがいて、それを連れ帰る。最初の方の男はアハメドといい、チェチェン側らしいんだけど、自分のことをコーカサス人といったり、後半では、自分は傭兵(出自がどこでは分からないけど、コーカサス人でチェチェン側についた、ということかな)だと漏らしたりして、それを把握するだけで精一杯。もうひとりはジョージア人のニカ。こちらは頭を負傷して、回復は少し遅いんだが、互いに敵同士の兵士を家で看護するという設定である。まあ、こういう極限的な状況設定はむかしからよくあるけど、時代が現代で、場所があの辺り、ということで、なかなか興味深い。 兵士2人は、相手の存在を知ると、「殺してやる」とかいきり立つんだけど、背景が分からないから、いまいちつたわらないところはある。けれど、憎しみの深さはボスニア・ヘルツェゴビナみたいな、憎しみの増幅的なところもあるんだろうな、とか思いつつ。 まあ、いがみ合いながらも、たぶんそのうち、心がつながる? きっと、収穫が間に合わないというみかん狩りでも、一緒にするようになるのではないかと思っていたんだけど、半分は当たって、半分は外れた。 アハメドは、冒頭でイヴォの家を訪れ、食糧を挑発していくんだけど、その横柄な態度が、やなやつ的な雰囲気だったんだけど、根は結構いいやつで。イヴォが「この家での殺し合いは認めん。ジョージア人を殺すなら、まず、私を殺してからにしろ」というと「分かったよ。あいつが一歩外に出たら、窓から首を出したら、殺すことにする」と対応するなど、なかなか律儀な感じ。むしろ、ニカの方がアハメドを挑発する。そういう関係は、アハメドが契約で働く傭兵であることと関係があるのかも知れない。 問題は、近所に住んでるみかん農園主のマルゴスのところの収穫問題。はやく収穫しないと、みかんがダメになってしまう。らしいんだけど、この戦闘の中、どこが買ってくれるんだろう? とか、少し疑問ではあったけど。でも、とても1人では収穫しきれない。というので、ジョージア人を探しているという部隊、といっても、ゲリラみたいな感じの連中の隊長に、人手を貸してくれ、と頼んだらOK。あの連中は、いまから思うと、独立をめざすアブハジア人なのか? このシーンでは、ニカがしゃべるとジョージア人と分かるので、失語症になっているということにして、アハメドもニカもそれにしたがってやりすごすんだけど、だんだん、敵味方、民族を超えて一体化していく感じが面白い。 外で3人で食事、もできるようになったある日、突然、マルゴスの家が燃え上がる。戦闘で、マルゴスの家にロケット砲でも打ち込まれたのか。イヴォが「なんとかかんとかは壊滅した」とかいってたように思うんだが、壊滅したのは、ミカン摘みを頼んだ連中のことなのかな。よくわからん。なぜ、マルゴスの家が狙われたのか、分からない。 翌日、落ち込むマルゴスに、アハメドが「これを使ってエストニアに帰れ」と金を渡そうとする。「金のために戦っているだけだから」みたいなことをいうんだけど、そんなやさしさが、アハメドにあったのね。でも、マルゴスは要らない、と断るんだけど、あの心境はどういうものだったんだろう。 次にやってくるのは、これまたアブハジア側なのかな。威圧的な連中で、アハメドが対応するんだが「お前はどこだ?」「俺はチェチェンだ」と対応するのだけれど、相手の隊長はアハメドを信用せず、「だったらチェチェン語を喋ってみろ」「なんとかかんとか」「何?」「チェチェン語でバカヤロウだ」で、「撃て」で戦闘が始まる。この経緯も、ちょっと分からん。アハメドがしゃべったのはチェチェン語なのか? なら、相手隊長は分かるはず。分からないということは、アハメドはチェチェン語を知らないということになる。なんで、本当のところを知りたい感じ。 ※公式HPには、「数日後、アブハジアを事実上支援するロシアの小隊がやってきて‥」と書いてある。では、ロシア人でもチェチェン語を知らない連中なのか? ああ、複雑怪奇。 ここからが、いよいよ来ました、な展開で。銃を持たないアハメドに、ニカが銃を放り投げる。この間、マルゴスが撃たれ、イヴォはマルゴスを気づかいながら隠れている、だったかな。アハメドとニカがほぼ相手を制圧したかと思いきや、生存していた兵士がニカを撃つ。その兵士をアハメドが撃つ。という、それまでの静かな展開を打ち破る、一瞬の出来事。 アハメドの、味方兵士(アブハジア?)ではあるけれど、やり過ごそうと思うようになってきている。だけでなく、殺し合う人間への憎しみすら抱きはじめている。ニカとアハメドの、つい数日前まで憎しみ合っていた2人の連携。失意のもと、でも、エストニアに帰ろうとしていたマルゴスの一瞬の死。生き残った、イヴォとアハメド・・・。 2人はマルゴスを葬った後、別の場所にニカを埋めるんだが、そこにはもうひとつの墓標。それはイヴォの息子で、かつて戦いに自ら身を投じ、亡くなったのだという。たぶん、アブハジア側として戦ったんだろう。その敵であるジョージア人のニカを、息子の隣に葬る。アハメドがいう。「俺が死んでたら、ここに埋めたか」「ああ。もう少し離してな」。笑い合う二人。 残ったクルマに乗り、アハメドは故郷をめざすんだが、一抹の不安が・・・。『恐怖の報酬』みたいに、地雷でドカンとか、敵の襲撃があるんでは? と思ったら、なかったので、少しホッ。で、アハメドがかけるカセットテープが、ニカが大切に、はみ出たテープを巻き取って直していた、ニカの好きだという曲で。これは、アラブ風ではなく、西欧系の音楽。かつてイヴォの家で流れていた曲にニカが「こんな曲聞きたくない」といったとき、アハメドが「おれは好きだよ」と反応するなど、ちょっとした民族的な対立があったんだけど、ここで、民族を超える融和を描いていて、なかなかお見事。 最後の戦いの、誰が死んで誰が生き残るのか、という興味も映画的にうまく処理していて、素晴らしい出来。まあ、民族的背景をもう少し理解していれば、もっと興味深く見られたはずなんだが。それはしょうがない。 ほかにも公式HPから・・・。 「本作はグルジアとエストニアの初の共同製作である。エストニアのタリン映画祭でジョージア映画の特集上映が行われた際、エストニア映画人からの共同製作の提案にジョージアのザザ・ウルシャゼ監督が応え、構想を深めた。19世紀後半のロシア帝政時代に多くのエストニア人がアブハジアに移住し、開墾、集落を築いた。みかんはアブハジアの名産であり、日本の温州産に似ている。ソ連邦時代に、日本人の学者が中心になって、西グルジアの黒海沿岸の地方に多くの苗を植え、拡がっていったともいわれている」 「ニカが大切にしていたラストシーンで流れるカセットテープの曲は、グルジアを代表する詩人、作家、音楽家であるイラクリ・チャルクヴィアニ(1961-2006)が歌った「紙の船」という歌で、アブハジア戦争中にジョージアで大ヒットした曲。戦場に赴く若者の恋人への心情を語った内容だが、ジョージア人のアブハジアへの思いが重ねられている」 なるほど。ニカがイヴォの孫娘の写真をしつこく見ていたのは、故郷に残した恋人への思いがあった、ということか。いろいろ深い。 ※後半、静かなはずの森からねチェーンソーのような、ドリルのような音がたまにする。? と思っていたんだけど、終映後も続いている。そうか。キネカ大森が入っている西友のビルが、工事中だからか。それにしても、静寂を打ち破るノイズ。とりあえず係の兄ちゃんにいったけど、ほかにも怒っているおっさんがいて「子どもの使いじゃねえんだ。ちゃんと言ってこい。営業妨害だって!」とかいっていた。次の『とうもろこしの島』上映前に「工事中の音が入りますが、ご了承ください」と係が話していたが、ご了承じゃねえだろ、と思った。まあ、酷いノイズは入らなかったからよかったけど。 | ||||
とうもろこしの島 | 3/3 | キネカ大森1 | 監督/ゲオルギ・オヴァシュヴィリ(George Ovashvili) | 脚本/Roelof Jan Minneboo、George Ovashvili、Nugzar Shataidze |
2014年。ジョージア/ドイツ/フランス/チェコ/カザフスタン/ハンガリーの資本が入っているらしい。原題は“Simindis kundzuli”。英文タイトルは“Corn Island”。allcinemaのあらすじは「ジョージアと、ジョージアからの独立を目指すアブハジアが激しい軍事衝突を繰り返す中、両者の間にあるエングリ川には、春の雪解けとともにコーカサス山脈から運ばれた肥沃な土が中洲を作り上げる。両岸では兵士がにらみ合い、銃弾も飛び交う中、アブハジア人の老人は孫娘を伴い、今年もこの中洲に小屋を建て、とうもろこしの栽培を始める。そんなある日、2人は負傷したジョージア兵を発見するが…」 この映画も舞台はグルジアあたり? でも、『みかんの丘』とは製作者も監督も直接のつながりはないのかな。でも、設定は似たようなところがあって。負傷したグルジア兵士をかくまう、という話だ。でも、こちらも地理と人間関係が、よく分からない。コーカサス近くの川らしいが、老人と孫娘は、何人なのだ? グルジア兵が「アブハズ語は分からない」といっていたような記憶があって、調べたら「ジョージア国内のアブハジア自治共和国で主にアブハズ人によって話されている言語」とあって、では、アブハジアの人なのかな。で、兵士が4組登場する。まいど、ボートで行ったり来たりしている連中。対岸で騒ぐ若い3人組。迷い込んできたグルジア兵。最後にやってくる、ボートの兵士。いつもやってきてた連中は、あれはアブハジア側なのかな。たしか、グルジア兵を探していたような気もするし。対岸の3バカも、アブハジア? 最後にやってきたのは、敵対する兵士だったような気もするんだけど、忘れてる・・・。10日も経つと、覚えてないものだ。ははは。 ↑のあらすじによると、両岸で兵士がにらみ合ってるらしいけど、そんな描写はなく、そういう状況ということは分からなかった。むしろ、老人と娘がどっちサイドなのか? ということが気になっていた。どちらサイドからも不干渉な立場、というのはあるのか? そもそも、ずっと中洲に住んでいるわけではなく、別にちゃんとした家があり(映ってないけど)、そこから通ってきてたんだろ? うーむ。よく分からない。 前半は、結構、退屈。老人がやってきて家を建てる経緯を淡々と、セリフもなく見せるだけ。『裸の島』かよ、な感じ。孫娘も手伝いなんだろうけど、これはなぜついてきているのか、これもよく分からず。まあ、後半で、両親は死んだ、らしいことが分かることは分かるんだが、もしかして、これも戦争のせい? それまでは分からない。 しかし、中洲でのとうもろこし作付けは伝統行事で、認められているのかね。しだいに育っていき、でもときに動物がやってきてたりして、なんか、怪しいところもあったりする。あの動物については説明がなかったけど、なんだっんだろう。 で、あるとき兵士が逃げ込んできて、老人は助ける。この若い兵士に、孫娘が色目を使うのが、なんともよくある映画的な展開だな。ちょっと前に、娘は初潮を迎えるんだけど、老人と暮らす娘が、女になっていく、という展開も、これまた昔からよくある。そのあたりが、安心できるけど、手垢が付いている感じがして、ちょっと物足りない。 というようなとき、アブハジアの兵士だったかな、がボートでやってきて、なんか飲ませろ、な話になって。兵士はとうもろこし畑に逃げ込むんだけど、見つかることはなく。で、兵士たちがいなくなって、小屋のなかを見ると、兵士もいなくなっている、と。まあ、潮時だったから、逃げ変えったんだろう。 で、もうすぐ収穫というとき、雨が強く降りはじめ、老人と娘はあわてて収穫を急ぐんだけど、それどころではない。中洲が崩れ、割れ、流されていく。とうもろこしをありったけボートに乗せて・・・。でも、はたして老人と孫娘が無事だったか? とうもろこしは、家まで運べたのか、は分からない。 で、ふたたび雄大に流れる川が映り、そこにひとりの男が降り立つ。そして、地面を掘ると、人形が出てくる。あの、孫娘の人形だ。その人形を、大事そうに・・・えーと、どうするんだっけかな。舟に乗せたんだっけかな、もう小屋ができてそこに飾ったんだっけか。忘れたけど、そうやって、地面から掘り出したものをお守り的に扱うのか。いや、冒頭で、老人も、掘り出したなにかキャップみたいなのを大事にポケットにしまっていたから、なんだろ? と思っていたのだよ。 要するに、また今年も同じように、とうもろこしの季節がやってきて、早いもの順で中洲を俺のもの、にする奴が現れた。周囲で戦争がつづいても、これだけはずって変わらない、というようなことを言おうとしているんだろう。 全体的に、よくある感じにも見えるし、流れもゆったり。流されていく中洲、新たな耕作者の登場辺りは、になかなかいい感じであったよ。 | ||||
マン・ダウン 戦士の約束 | 3/7 | 新宿武蔵野館2 | 監督/ディート・モンティエル | 脚本/アダム・G・サイモン、ディート・モンティエル |
原題は“Man Down”。allcinemaのあらすじは「愛する妻ナタリーと息子ジョナサンを故郷に残し、アフガニスタンでの任務へと旅立った米軍海兵隊の兵士ガブリエル・ドラマー。やがて死と隣り合わせの戦場で過酷な体験をすることに。その後、ようやく妻子の待つ故郷へと帰還した彼だったが、そこに待っていたのは、まるで終末世界を思わせる荒れ果てた街の姿だった。状況を飲み込めぬまま、姿を消した妻と息子を求めて荒廃した街を彷徨うガブリエルだったが…」 あごヒゲ伸ばして息子を救う話。アフガンの戦場。海兵隊に入隊した頃の話。大尉によるカウンセリング。この4つの話が平行して進むので、とっつきにくい。けれど、息子を救う話以外は、時制と場面を合理的に分割しているので、違和感はない。もんだいは息子を救う話で。場所は明らかにアフガンではない。色彩はモノクロに近くて、人気も少なく、なんだ? 未来? 脳内イメージ? ゲームの世界? とか思いつつ断片的な映像を追っていたんだけど、最後にやっと分かる。要は、ガブリエルの妄想世界だった。げ。またまたキチガイの話かよ。戦士の約束、というより、壊れた戦士、だな。 戦場帰りのPTSDの話は、昔にもあった。この映画は、半分マジメでけど、半分ミステリアスなサスペンスにしてる感じ。そのミステリアスな部分が、息子を救う話なんだけど。終わってみれば、そんな風になるのか?的な疑問の方が大きくて、こりゃ誇大なんじゃなかろうか、な印象。 幼なじみで戦友のデビンが登場するんだけど、こいつがガブリエルにPTSDプラスαな影響を与えている、という設定。デビンが腕をケガし、ともに入隊できず、「女房を頼む」とガブリエルがいうあたりから怪しくて。やっぱりな、な展開がアフガンで発生するというのが、プラスαな娯楽設定。 アフガンで、突然の敵の攻撃で建物に突撃。相手兵士はやっつけるけれど、床の穴から銃撃されてデビンが撃たれる。それに反応して、床を覆っている毛布の上からガブリエルが激射するんだけど、毛布の下にいたのは母親と幼い息子。ガブリエルは「民間人・・・」と、衝撃を隠せない。その後、デビンがもっていたチャットのパスワードでアクセスすると、画面の向こうには妻のナタリー。つまり、ナタリーはデビンと浮気し、ナタリーは「もう連絡しないで」な態度だけど、デビンは未練あり、な感じなのかな。とまあ、PTSDだけなら、あんな妄想は抱かないということかな? というツッコミを。 ラストに、「アフガン/イラン帰国兵士の5人に1人がPTSD。20万人がホームレス。1日に22人が自殺を図る」と字幕がでるんだけど、映画のような妄想を発現するのはいったい何人ぐらいあるのだ? ということを知りたいけど、まあ、そんなデータはないだろう。要は、映画でフィクションだし。こんなこともあるかもよ、戦争は大変なんだよ、ということなんだろう。 で、気になるのは、ガブリエルとデビンがいつごろからの友だちなのか? 妻ナタリーは、2人にとってどういう関係だったのか? とかいう過去の背景も、もうちょい描いてくれるとよかったかなあ、という感じ。高校の頃から友だちだった、とか。あるいは、ガブリエルがアフガンに行ったことで寂しさを感じ、ついデビンと・・・なところも、映像で感じさせてくれてもよかったんじゃないかな。 あと、気になるのは、彼らの社会的なレベルかな。アメリカはたしか志願制。海兵隊に入るのも、経済的な部分が大きいと聞いているし。はたしてガブリエルはどんな仕事に就いていたのか? 海兵隊も、ガブリエルかデビンか、どちらかが誘っての入隊だったはず。学歴も経済力もなく、軍隊に行けば稼ぎになる、ということでの海兵隊なのかね、やっぱり。そういう側面は、描かなくても当たり前、のことなのかなあ。 海兵隊の訓練の厳しさ、鬼軍曹(なんか、どの映画も黒人みたいな気がするのはなんで?)、とか面白い。『フルメタル・ジャケット』を思い出す。 | ||||
ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ | 3/9 | ギンレイホール | 監督/マイケル・グランデージ | 脚本/ジョン・ローガン |
原題は“Genius”。allcinemaのあらすじは「1929年、ニューヨーク。ある日、敏腕編集者マックス・パーキンズのもとに、出版社をたらい回しにされたという原稿が持ち込まれる。作者は無名の作家トマス・ウルフ。原稿を読んだパーキンズはその才能に惚れ込み出版を約束する。ただし、その条件として膨大な原稿の大幅な削除を要求、抵抗するトマスと激論を重ねながらの気の遠くなるような編集作業に取り組んでいく。2人の苦闘の末に完成した処女作『天使よ故郷を見よ』は評判を呼び、瞬く間にベストセラーとなるが…」 トーマス・ウルフ。名前は知っているけど読んだことないし、いまいちピンとこないままだった。「天才」という題名で映画がつくられるぐらいだから、アメリカ文学史に残る作家なんだろうけど、ううむ・・・。 え? と思ったのはフィッツジェラルドやヘミングウェイが登場することで、1930年代の話なのか! と。まあ、こちらの知識不足だけど、彼らと同時代人だったのね。というか、あの2人もマックスが見出し、育てた作家だったのか! へー。である。 その驚きの原因のひとつは、画面から1930年代らしさがあまり感じられなかったことになる。オンリー・イエスタデーな雰囲気、ファッション、なんかがあまりにじみ出てない。マックスがトーマスにつれられ、ジャズを聴きに行く場面があるけど、チャールストンじゃなくて、フリージャズっぽい。あの時代、ビバップはまだで、シカゴジャズがニューヨークに移り、エリントンとかスウィングジャズが盛んで、ビッグバンドが大流行の時代ではないのかな。なんか、いまいち、らしさ、がない。 街には当時のクルマがあふれているけど、女性のファッションも、30年代風に感じられず、アール・デコっぽい感じもないんだよなあ。大恐慌も、炊き出しに並ぶ失業者の列がちょっと映るだけ。マックスは淡々と変わらず生活し、豪邸もそのままで、家族は旅行に出かけたり。トーマスも、第1作を上梓するとヨーロッパに旅に出てしまったり。なんか、うーむ、な感じなんだよ。 で、話は。ニューヨークの大半の出版社から相手にされなかった作家トーマスがパトロンの口利きでマックスのところに原稿を持ち込み、これが認められて出版に。ただし、大幅な削除を求められるけれど、抵抗しながらも短縮化に知恵を使い、その結果、編集者マックスに惚れ込んでしまう。これに嫉妬したのが妻のアリーンで、これまで自分のモノだったトーマスが家に寄りつかず、なんでもかんでもマックスマックスになってしまったのに激怒。マックスに直談判して「トーマスは私のモノ」というんだけど、トーマスはアリーンから逃げる一方・・・という作家と妻と編集者の三角関係の話だった。なーんだ。 で、マックスとアリーンとの会話だったかで、「お子さんがいますよね」「ええ2人、息子と娘が」というセリフがあったので、トーマスとアリーンの間には子があり、ではなぜ同居していないのか? という疑問をいだきつつ見ていたんだけど、Wikipediaでトーマス・ウルフを見て、あらま、であった。 「トーマス・ウルフ(1900-1938)。1925年、アリーンと知り合い、5年間不倫関係に。アリーンは18最年長で、夫との間に2人の子があった。アリーンはウルフの執筆を励まし、金銭面でも支えた」というようなことが書いてあって、なーんだ、そうなのか。勘違いしてたよ、というか、映画の中でちゃんと説明されていたか? アリーンについても、演出家とは思わなかった。衣装デザイナーかなんかだと思っていた。マックスの妻、ルイーズは劇作家で、自作にアリーンが関わっているようなシーンもあったけど、なんか説明不足ではないのかな。そういえば、トーマスがマックスの家に食事に呼ばれ、その席で妻ルイーズが劇作家であることを知らされると、延々と戯曲は表現に乏しいとか、正面切って非難する場面があるんだけど、ああ、天才作家はこういうものか、とか思ったりしたけどね。それと同時に、トーマスの劇作家嫌いは、アリーンに対する感情でもあったのか、とか。 まあとにかく、1972年生まれのジュード・ロウがトーマスを演じ、1967年生まれのニコールキッドマンがアリーンを演じていることにも、原因があるんじゃなかろうか。だって映画では、処女作が売れたトマス29歳が、48歳のアリーンと同棲したたわけだろ。実物のAline BernsteinをWebで見るとそんな美人じゃないし、それなりの役者が演じれば、また見方が変わるかもな。 時間の流れも、なんか、さらっとし過ぎ。 『天使よ故郷を見よ』1929 『時と川について』1935 らしいけど、2作目まで6年もあったのか。映画では、数ヵ月で、大荷物の原稿をもってきたように描かれているので、以前に書いた没原稿をもってきたのかと思ったよ。で、処女作が売れると、何年も食えるほどの金が入るのか? それと、たしか2作目の献辞相手がマックスだったことに怒って、アリーンがマックスのもとを訪れたことになってたけど、もう別れていたのではないのかな? その後、トーマスはマックスと対立?して、編集者を変えた、のかな。対立の理由は、なんかよく覚えていない。でも、Wikipediaによるとトーマスが出版社の内幕を曝露した小説を書いたり、私小説作家としては結構な嫌われ者だった感じだな。まあ、映画では、フィッツジェラルドがトーマスに、「マックスを大事にしろ」といっている場面があったけどね。 そのフィッツジェラルドだけど、これまで見た、映画に描かれたフィッツジェラルドやギャッツビーイメージとはほど遠い、貧相な男に描かれている。このあたりも、なんか、イメージが違うなあ、な感じで。ゼルダも、ただの神経質なキチガイみたいな感じ。 ラストに向けても大雑把で、西海岸の海岸で突然倒れ、脳が結核だとか妙なことをいっていて、腫瘍がたくさんできていて、とかもいっていたけど。Wikipediaでは「肺炎の後に合併症をおこし、脳内の粟粒結核と診断された」とあるが、よく分からない。 病床で一瞬目覚め、書いた手紙がマックス宛。その手紙が、死後、病院からマックスのもとにとどく。その手紙を読みながら、映画の中ではじめて帽子を脱ぐ、というエンディングなんだけど、美化している感じが否めない。ほんとに、最初にマックス宛に手紙を書いたのか? なんか、よく分からない。 娘ばかりを授かったマックスは、トーマスを息子のように思い、トーマスもマックスを父のように慕った、とWikipediaにあるけど、そんな感じは映像からは見受けられず。なんか、全体に、ああそうですか、な印象しか受けなかったな。 ・最初に“a true story”とでるんだが、字幕は「事実に基づく物語」だったかな、「基づく」が入っていた。よく“based on a true story”は見かけて、こっちが「事実に基づく」で脚色が入っている感じ。でも、“based on”が入っているのに字幕は「真実の物語」とあったり、よくわからんにな。 マックスは、つねに帽子をかぶっている。トマスの死後、病院から、トマスが書いた手紙が届いて、それを読む段になってはじめて帽子を取った姿を見せるんだが、ほんとうにそういう人だったのか? Wikipediaでは、帽子の写真なんてでてこないけどな。 | ||||
ハドソン川の奇跡 | 3/9 | ギンレイホール | 監督/クリント・イーストウッド | 脚本/トッド・コマーニキ |
原題は“Sully”で機長の名前。allcinemaのあらすじは「2009年1月15日。乗員乗客155人を乗せた旅客機が、ニューヨークのラガーディア空港を離陸した直後に鳥が原因のエンジン故障に見舞われ、全エンジンの機能を失ってしまう。機体が急速に高度を下げる中、管制塔からは近くの空港に着陸するよう指示を受けるが、空港までもたないと判断したチェズレイ・“サリー”・サレンバーガー機長は、ハドソン川への不時着を決断する。そしてみごと機体を水面に着水させ、全員の命を守ることに成功する。この偉業は“ハドソン川の奇跡”と讃えられ、サリーは英雄として人々に迎えられた。ところがその後、サリーの決断は本当に正しかったのか、その判断に疑義が生じ、英雄から一転、事故調査委員会の厳しい追及に晒されるサリーだったが…」 話題作であり、世界的ニュースになった事件を扱った映画。機長が裁判にかけられた(?)みたいなことは聞いていて、さてどんなことでなのかな? と思いつつ見始めたのだけれど、どーも前半が盛り上がらない。ちょっと寝そうになってしまった。 こちらの勝手な思い込みで、事故の前日あるいは当日から始まり、乗客も紹介されつつフライトし、事故。その後に問題発生か? 的な流れかと思ったんだけど、そうではなく。すでに事故の後。サリー機長はホテルに缶詰で、飛行機が市街地に激突する、という悪夢を見る、という場面から始まるのだ。その後は、サリーと副機長のジェフが会議室に呼ばれてあれこれ聞かれる場面。サリーと、その妻ローリーとの電話でのやりとり。サリーとジェフがマスコミを逃れて飲みに行ったり、テレビに出たりというような、なんかいまひとつ日本人にはピンとこない展開なのだ。 最初に登場した、会議室でのやりとりは、あれは、誰が誰に対して何を目的に聞き取りをしてたんだ? 飛行機会社内なのか? 外部の聞き取り? 目的は、サリーとジェフの会話に「保険」という言葉があったような記憶があるんだが・・・。空港に引き返す、あるいは別の空港に着陸すれば、機体を失わなくて済んだ。機体を破壊したのは、機長の責任、という可能性の追求か? では、そうなった場合、保険がおりないとか? なので、そうなった場合会社はサリーを解雇し、サリーは機長生命が失われる・・・ということか? でも、あんな自己の責任を、個人にとらせるの? とか、いろいろ考えたけれど、よく分からない。弱るのは、4文字あるいは3文字の短縮名称がたくさん登場し、いちどは日本語で名称は出てたんだろうけど、覚えきれないような組織がたくさん登場すること。そもそも、その組織がどちらサイドのどういう団体なのかも、よく分からない。映画の最後に、大勢が集まって聞き取りが行われる場面があるんだけど、あれは公聴会だったかな。でも、日本に同じようなシステムはないと思うので、それが政府レベルなのか、第三者レベルなのか、そういったこともよく分からないので、見ていても緊張感や切迫感がいまいち伝わってこない。 前半の半ば辺りか、やっと事故当日の搭乗客の様子、サリーとジェフの様子、事故の顛末が描かれ、目が覚めた。でもまた、サリーの家庭のことなんかになったりして、なんか、盛り上がらない。後半で、事故の顛末がもう一度描かれて、これは念押しのような感じかな。やっぱ、この手の話は、アクション性が多少ないと、テンション盛り上がらんよな。 で、最後の公聴会で、それまでも言葉が登場していたシミュレーションが行われるんだけど、そのシミュレーションでは、事故直後に引き返していれば、無事、空港に戻れた、ということが証明される。ここでサリーがちょっと待った! 「シミュレーションを行ったパイロットは、何回練習したのか?」と問い、返ってきた答は「練習は17回やった」というもの。サリーは「パイロットはゲームじゃない。そもそも人為的要素を加味していない」と反論し、公聴会の議長は「じゃあ、ジェットエンジンが壊れてから35秒の猶予を加味する」ということで再度シミュレーションすると、2台のシミュレーションで、飛行機は市街地に墜落。サリー側は、そーれみろ、な感じ。さらに、左のジェットエンジンは、完全にストップしていなかった、ということを委員会でなんども言われていたけど、川から引き上げた推進器を調べたところ、完全に壊れていた、という報告書もきている、ということで、サリーの判断は間違っていなかった、と証明され、めでたしめでたし、で終わるのであるが・・・。なんか、すっきりしないんだよなあ。 だって、公聴会当日、左エンジンは完全に死んでいた、というレポートが来ているなら、シミュレーションの前に伝えればいいのに、どうしてシミュレーションの後に、オマケのように伝えるのだ? というか、シミュレーションで「無事着陸できた」が証明されてしまった場合は、エンジンの件はどうなるんだ? というか、シミュレーションは、左エンジンが生きていた、という設定で行われたのか? それとも、死んでいたと仮定してのものなのか? そのあたりが曖昧なんだよな。 それとやっぱり、あの公聴会は誰が仕切っていて、誰の思惑でシミュレーションが行われたのか、知りたい。17回も練習して、慣れた感じで空港へ引き返す手順を仕組んだのは、あの委員会の連中なのか? 保険会社がバックにいて、その思惑が反映しての委員会・公聴会なのか? でも、具体的にそういう、サリーの前に立ちはだかる敵は描かれない。描かれていれば、もっとサスペンスは盛り上がっただろうに。 エンドクレジットで、事故何周年かで集まった当時の乗客と、サリー、奥さんのローリー本人が映る。まあ、監督のイーストウッドは、サリーをヒーロー視しているんだろうけど、映画もそういう感じの出来上がりになっている。でも、知りたいのは、サリーに立ちはだかった敵であり、その正体をもっとよく知りたかった。 ・副機長のジェフが出るという番組の話になって、「レターマンの番組?」なんて会話があるんだけど、調べたらそういう番組があるようだ。でも、観客には分からんよな。その番組がどういうスタンスで報道するか、というのも含めて使っているんだろうけど、日本人には分からんよ。 ・クレジットに「Himself」「Herself」という表記があったけど、本人も結構出てるのか? 名前まではちゃんと見なかったけど。 ・『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』との2本立てだったんだが、共通点は、ローラ・リニーが主人公の奥さん、ってことか? ・4文字短縮の組織、国家運輸安全委員会(NTSB)の思惑は、なんなんだ? ・人為的要因として、35秒は、どういう根拠で、あの場で決定したのだ? なんかテキトー過ぎないか? | ||||
スプリング、ハズ、カム | 3/14 | 新宿武蔵野館2 | 監督/吉野竜平 | 脚本/吉野竜平、本田誠人 |
allcinemaのあらすじは「広島でタクシー運転手をしながら一人娘の璃子を男手一つで育て上げた時田肇。ある日、東京の大学への進学が決まり、ひとり暮らしを始める娘の部屋探しを2人ですることに。一緒に部屋を探して東京の街を歩き回る中で、互いに今日という一日がかけがえのない思い出となることを実感していく父と娘。いつしか肇は、璃子に彼女が生まれて間もなく他界した妻との思い出を語り始めるのだったが…」 とくに事件の起きない何気ない日常、というわけではなく、ちょっとした珍しいことが連続して起きる。でも、映画としては、たいしてドラマチックではない。というような意味で、何気ない日常なんだろうけど。その間に語られる父親から娘への決別宣言が、なかなかよい。こういう、じわりといい話をゆるく見せるんだけど、結構ディテールがしっかり計算されていて、画面の隅々まで目が行きとどいている。こういう気配りがあるから、映画を自然な流れでみせているんだろう。主演のキョンキョン(柳家喬太郎)も、噺家にありがちな、おれがおれが感もなく、いい感じ。 ・引っ越し当日の、引っ越し業者との会話。「俺もいわきから出て来て」云々で、がんばって、と去って行く男のえり首に、桜の花びら。それを見つけて、取ってやる璃子。「花びらも旅をしてきたんだろう」みたいなセリフが、アナロジーになっている。「広島の女の子。越してきたのね」と、引っ越し業者に話しかける老婆。なんなんだ? でも、ちゃんと後からわかるけど。「はい。飴ちゃん」と、飴をあげる老婆の気持ちも、おいおい分かってくる。引っ越し屋の2人組。若い方がインド人のカレー屋に行こうというが、年かさの方が「午後もあるんだから牛丼」という。そのインド人のカレー屋は、2月に父娘がまぎれ込んだカレー屋だな、きっと。で、引っ越し完了のサインの時、年かさの方がだしたボールペンが2本ともインク切れ。なので、璃子は父がくれた万年筆でサインするんだが。まあ、万が一の時は、父親がちゃんと助けますよ、という暗示かな。s ・新宿で、嫁の妹(娘には叔母になる)と会って食事の場面は、時田家の家族構成や、肇の結婚、妻の死、などを、いわゆる説明ゼリフで伝えるのではない場面になっていて。肇役の柳家喬太郎も、噺家によくある演技しすぎ、もなく、とても自然。もしかして、肇と叔母との恋愛関係に・・・とかも思ったけど、そんなこともなく。デパートの化粧品売り場で働くという叔母が、上司との不倫を璃子にそっと教えるぐらい。でも、それははたして本当なのか? そんなことを、姪に言うか? という疑問もあるけど、まあいいか。このとき、璃子の衿に糸くずがついたままで。なんじゃ? まさか、気づかずに撮りつづけた? そんなことないよな、と思って見ていたら、最後に、叔母がさらっと取り去ってくれて。そうだよな、意図的につけたんだよな。まあ、東京生活、ちゃんと叔母が見守っていて、なにかのときは助けてあげるよ、というような意味合いを込めてか。さらに、支払いを「俺が払う」と意気込む肇が、「水が1杯500円? うっそー」と会計でやりとりするあたりは、芸人な感じだけど、やり過ぎてなくて、ほのぼのだね。 祖師ヶ谷大蔵の不動産屋。ラサール石井とケバイ女のカップルが、なんじゃらほい、なんだけど。これが部屋探し2件目でちゃんとつながってくる。なるほど。 部屋探し1件目。左となりのベランダにオカマ。右隣のベランダからは、軟派なアプローチ。肇は「ダメだダメだこんなとこ」っていうのは、ちょっと落語っぽい感じかな。定番だけど、安心して見てられる。 部屋探し2件目。へー、こんな部屋がいまどき6万円台であるの、と思いつつ見てたけど、不動産屋にいた歳の差カップルが現場を見ずにこの部屋を決めた、という連絡が不動産屋の営業マンに入り、先を越されるというオチ。この、部屋探しでも、肇は、最近買ったというカメラであれこれ撮ってるんだけど、営業マンが「僕も撮るんですよ」といいつつカメラの蘊蓄をはじめたり、「あー、絞り開きすぎ」とか茶々入れたりと、こういう、本筋に関係ない会話にリアリティがあって楽しい。 部屋探し3件目。昔風の木造アパートだけど、どういうわけか大家が部屋にいて、これが冒頭で登場した老婆。これが話し好き。このときだったか、璃子の大学が分かるんだけど、これが成城、中堅どころな感じだけど、一般にはお金持ちの子弟が行くような学校なので、微妙といえば微妙かな。なんか、お父さん(肇)、ちょっと背伸びしたかな、な感じも受け取れたりして。隣に成城の女子大生も(引っ越し当日に不動産屋がすれ違う。背中だけ見える)いるとかいう話になって、ここに決めることに。 璃子が「あたりを散歩したい」ということで、不動産屋と別れるんだけど、このときの不動産屋のクルマのナンバーが、たしか「世田谷500 2103」だったかな。世田谷ナンバーは、実際に3年ぐらい前から始まっているのか。ふーん。じゃ、実際のナンバーなのか。意味があるわけでもない、のかな。で、大家のバアサンと公園へ。途中、ノラ猫(?)をなでる璃子に、大家が露骨に嫌悪感を示すのが、おもしろい。アパート経営に猫は天敵。大嫌い! と。そういえば、アパートのなかで、不動産屋の営業マンと、1階のだれそれがペットを飼ってるみたいなのよ、とこぼしていたけど、あれとつながっている。なるほど。大家のバアサンも、たんにいい人、ではないのだ。ははは。 ベンチの肇と大家。心を開いた肇が、亡き妻のこととかあれこれ。「娘さんが東京にでてきて、寂しいでしょ?」「そうだけれど。反抗期もなく、いい子だった。でも、私を心配して、広島の短大に行こうとした。でも、東京の大学にやることにした。娘を追い出すんです。そうしないと、いつまでも変わらない」とか話す内容は、なかなかにリアリティ。『もらとりあむタマ子』でも、似たような父親の思いが出てきていたけど、ううむ。2人の視線の先には、自転車を練習する父と幼い娘。その会話まで拾っていて、大勢に影響はないんだけど、妙にリアリティ。 公園で撮影があり、エキストラ出演・・・のくだりは、出来過ぎてて、ちょっとなんですが。まあ、いいか。むしろ、たまたま母親役で一緒になる女性の、画面に現れてからの妙にソワソワして、背後で動きまわってる演技が気になって気になって。もしかして、撮影スタッフ? と思ったら、そうではなかった。て、世間話になって、小さな子供がいる、という話をしていたけれど、一緒にいるわけでもなく。昼日中に公園をうろうろしている中年女性の、その背景に興味。ま、なにも解き明かされないけど、でも、時田家の、母親が欠落した家庭に臨時的に彼女が埋め、祖母の役も大家が担当するという、擬似的な家庭の団らんを見せているわけだ。 大家と別れ、商店街でお茶・散策。ここでは、璃子とふと目が合う、看板を出すバーの女が印象的で。そこまでフィーチャーする必要はあるのか? あとから意味が見えてくるのか、と思ったんだけど、そんなこともなく。目と目で挨拶を交わす地元の人々、という視線が温かい。駅近くでは迷子になったインド人夫婦を手伝って、駅の反対側のインド屋へ。インド屋の娘が結婚式で、と、誘われてパーティに参加。ここは、娘を送り出す父親、というのとオーバーラップ、かな。店を出るとき、不用意に道に出て、走ってきた自転車の男に「あぶねえじゃねえか!」と言われるのも、なくてもいいんだけど、そのムダなリアリティまで演出するしつこさに興味。さらっと、表面的な演出では終わらないぞ、とでもいうことか。いつだってリスクはあるんだ、とでもいうようなことを見せているのかな。 で、肇はここで、娘を「おぶってやるよ」と、誘うんだけど、肇は嫌がっていた娘も父の背中に。で、妻となる女と出会ったとき、なんだったか、その女性の行為(なんだったか忘れたけど)に感激し「この人と結婚しようと思った」と娘に告げると、背中の娘がトントンと肇の背中を叩きはじめる。はじめは肩たたき? いや、子どもへの別離宣言を最後のおんぶで実行している父親への、バカバカバカ! というメッセージだな、あれは。 ・・・という流れの中に、引っ越し当日の様子も、ときどきインサートされて。隣人(成城の女子大生で、音楽をやってる)への、引っ越しの挨拶の練習とか、それも、璃子の人となりが見える。で、その夜、12時近く、家に電話しようとして、でもやめて寝る、というところで映画は終わる。携帯を頭の近くに置いたまま寝るというのは、ちょっと気にかかったけどね。 広島からほとんど出たこともなく。新婚旅行は海外、といっていた妻と仙台に行き、でも、妻が「寄っていこう」というから東京にもちょっと寄っただけ、という肇。広島から東京はそんなに遠いか? しかし、タクシー運転手だけで、娘を東京の大学にやるのは経済的にたいへんだろうな。でも、カメラを買うゆとりもあるんだから、給料もまずまずになってきたのかな。とか、考える。でも、2月のアパート選びも、夜行バスで上京だったらしい。前日もアパート探しした、といっていたから、一泊したのかな。どんなところに泊まったのか、ちょっと気になった。 入るとき本物の飴をくれた。大家のバアサンの「飴ちゃん」と同じ飴だったんだろう。見ながら舐めた。 | ||||
ナイスガイズ! | 3/16 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3 | 監督/シェーン・ブラック | 脚本/シェーン・ブラック、アンソニー・バガロッツィ |
原題は“The Nice Guys”。allcinemaのあらすじは「酒浸りの日々を送るシングルファーザーの冴えない私立探偵マーチ。ある日、死んだはずのポルノ女優の捜索依頼を受け、アメリアという若い娘の存在に辿り着く。しかしマーチは、自分を探られたくないアメリアから依頼を受けた腕力専門の示談屋ヒーリーにボコボコにされ、あっさり手を引くことに。ところが今度は、ヒーリー自身がアメリアを捜す別の男たちの襲撃を受けてしまう。そこで自ら事件の解明に乗り出したヒーリーは、嫌がるマーチを無理やり相棒にして失踪したアメリア捜しを開始する。そこにマーチの一人娘でおませな13歳ホリーも加わり、ダメ男2人としっかり者の少女が始めた人捜しは、やがて思いも寄らぬ事件へと発展していくのだったが…」 監督は『リーサル・ウェポン』『ロボコップ』『アイアンマン』なんかに関わった人なのか。なーるほど。 エルモア・レナード風な展開で、探偵たちがあちこちヒントに翻弄されつつあちこちでかけ、やっかいごとにでくわしてドタバタあって、真相に迫る、というような話。コメディタッチ満開で、トンマな探偵マーチと、その娘で13歳ながらしっかりもので賢いホリー、加うるに肉体派のヒーリー(示談屋と書いてあるけど、そういう説明はあったかね? 何でも屋みたいに見えたけど)がからんで、凸凹コンビ、プラス1で話が進む。でも、ほとんどの流れはご都合主義で、だから謎解きにはほとんど重きが置かれてなくて。凸凹3人組のあれやこれやを楽しむ映画。コメディとはいえ、無慈悲なぐらい人がどんどん死んでいくのが、ちょっとなんですが・・・。 全体的に面白いんだけど、事件に入り込んでいく過程が、いまいち分かりづらかった。まずヒーリーが、未成年とつき合っている男をボコる。次は、クルマに乗っている女性から何か頼まれ、二つ折りのメモを見せられる、か渡される、か。同時並行で、マーチは「亭主がいなくなった」と主張する婆さんの家に行き、ふとみると棚かなんかに骨壺が見える・・・。そんな婆さんの依頼を受けて仕事をしているらしい。もう1人の婆さんは、「姪が死んだと言われたけど、2日後(だったかな)に、私見かけたのよ」といいはる(このとき婆さんは、姪が「アメリア」という名前だということを、いってたんだっけ?)。というような後に、ヒーリーがマーチの家を訪れ、「アメリアのことを聞き回ってるようだけど・・・」といって、マーチをボコって腕をへし折る・・・。というような流れだったんだけど、ヒーリーがなぜ「アメリア」の名前を出したのか、どうやってマーチが「アメリア」を探しているのを知ったか、なんかがスッと頭に入らず、導入部分が曖昧なまま見ているのが、ちょっと辛かった。 まあ、たぶん、クルマに乗っていた女が「アメリア」で、ここで彼女は「自分を聞き回るやつをなんとかしてくれ」とヒーリーに頼んだ、のかも知れない。もういちど見れば分かると思うんだけど、そうするつもりも気力もないので、そのままにしておくけど。 テンポがいいのは結構なんだけど、こういう、話の根幹に関わる部分は、ちゃんと句読点をはっきり描いて欲しいんだよな。でないと、フラストレーションがたまったまま見つづけなくちゃならんのだ。まあ、いい。 というわけで、凸凹3人が場所をあちこちうろつき、人に出会いながらヒントを得て、危機に遭いながら「アメリア」を発見し、でも、呆気なく「アメリア」は殺されてしまい、ラスボスを突き止めて迫っていく・・・という、でも、ほとんどオトボケ&ズッコケ3人組みたいなお話しで、ツッコミを入れずに出来事だけをへらへら見ている分には十分に楽しい。なかでも、マーチの娘ホーリーは可愛いし、頭もいいので、人気をさらっていく勢い。彼女がいなかったら、ただのへっぽこコンビだけどね。 ・ヒーリーが家(クラブの上階にあるらしいが、はじめ、どこかを訪ねたのかと思ったよ)に戻ると顔の青い男(この後で青くなるんだけど)と黒人男がヒーリーを襲ってくるんだけど、この2人はジョン・ボーイの手下なのか、あるいは、アメリアの母で司法省長官のジュディスに直接雇われたのか知らんけど、ヒーリーがアメリアを探している、という情報をどうやってつかんだんだ? ・冒頭の、エロ雑誌を見てたら、クルマが飛び込んできて驚く少年。2人が「アメリア」の彼氏の家の焼け跡に行った時、情報をくれて、俺のチンコデカイ、と言ってた自転車の少年なのか? 違うのかな。よく分からない。 ・パーティ会場から逃げる「アメリア」とホーリー。ホーリーはなんと青い顔の男のクルマに乗せられてしまうんだけど、なんとか逃げた。そのあとにマーチがやってきて、走り去ったクルマを見る。と、近くにいた男が「娘がクルマに!」っていうんだけど、男はホーリーがマーチの子だと知ってるわけもなく、なぜそんなことをマーチに教えたのか。御都合主義もいいところ。 ・その顔の青い男はたまたま走ってきたバンに跳ねられるんだけど、最後に「ジョン・ボーイが来る」と、余計なことをヒーリーに言う。でも、自分たちの雇い主(?)のことを、彼らにとって敵側にいうなんて、アホじゃない? ・司法省長官ジュディスの秘書タリーがマーチに電話して、10万ドル(だったかな?)を運ばせるのは、あれは何のため? ジョン・ボーイをマーチの家に向かわせ、殺害するため? でも、マーチはかかってきた電話に出て、そこで電話の主のタリーに「アメリアはここにいる」って教えたんじゃなかったっけ。ほかに意味があるのか? それと、そんなことのために、わざわざ10万ドルを、紙の偽札にしておく必要はないよなあ。居眠り運転と、事故で紙がヒラヒラ、を撮りたかっただけだろ。 ・青い顔の男のメモに「ELT」という文字があり、それをヒーリーは「空港」と解釈し、でもマーチは「フラット」と解釈。で、その所番地へ行くがアパートは取り壊されてて、じゃあ空港か、ってことになってクルマで走ってたらホテルを見つけ、「ここだ!」って入っていくんだけど、何でホテルだってわかったの? ・そのホテルのバーのバーテンは簡単にべらべら喋る。アホかと思った。で、ペントハウスにいるらしいことが分かり、上がっていくと何やら激しい銃撃戦で。でも、誰と誰が撃ち合っていたのだ? それはともかく、2人はこれはまずいと引き返し、クルマに戻ると、そこに「アメリア」が突然降ってきて、車内の2人に銃弾を撃ち込む・・・って、おいおい、な展開。じゃ、ペントハウスでの銃撃は、「アメリア」対ジョン・ボーイとその仲間なのか? そういえば、「アメリア」は黒人男にさらわれてたんだっけ? ・このあたりで、司法省長官のジュディスが黒幕と言うことが分かる。大気汚染はクルマのせいとか、環境問題に走る娘「アメリア」。母親は、アメリカの自動車産業を支えるビッグ3を守る! という立場で対立。ジュディスに不利な情報をポルノ映画として完成させたけれど、母親はそのフィルムを誰かに依頼して焼き捨てた。それで、「アメリア」の彼氏の家が火事になったんだな。ポルノ女優が殺された理由は、なんだっけ? 彼女は、環境問題は関係なかったよな。あったっけ? まあいい。で、そんな娘がジャマになり、ジュディスは「アメリア」殺害をジョン・ボーイに依頼し、その配下の、青い顔の男と黒人男が「アメリア」を探してうろついていた、という次第らしい。たぶん。 でも、フィルムは隠してあって(だったかな?)、ポルノ女優が死んだあとに、上映したのか? そのポルノ女優の家で。たしか「姪が死んだ2日後に名を見た」というのはバアサンの間違いで、映された映画の中の姪を見た、というオチだったよな。フィルムの件に関しては、なんか曖昧・・・。 ・で、クルマの発表会に合わせて、「アメリア」たちは会場でポルノ映画の上映を企むんだけど、それを阻止しようとするジョン・ボーイと黒人男。もぐり込んだ凸凹3人組。タリーも交えて、ドタバタとフィルムの争奪戦・・・だったかな。ホリーの活躍でフィルムは高層の窓からコロコロ。で、マーチ、ラッセル、ジョン・ボーイがそのフィルムを巡って撃ち合うんだけど、でも、観客はそれが探してるフィルムであると分かってるけど、連中には確かめる術がないはずだよなあ・・・。 ・あれ? 「アメリア」はいつジョン・ボーイに殺されちゃうんだっけ? ・ジョン・ボーイがマーチの家にやってきて、激しい銃撃戦になるのは、いつだっけ? ニセ札を運べと言われたときだっけ? ・ジョン・ボーイは、警察に逮捕されたんだっけ? ・ジュディスは、どうなったんだっけ? ・というわけで、話の経緯も、なんかぐちゃぐちゃしてて、よく覚えてないよ。まったく。困ったもんだ。もう一回見れば、整理がつくのかも知れないけど、反対に矛盾点もゴマンと見つけそうなので、まあいいか。 ・ところで、やっぱり気になるのは、ビッグ3のために自分の娘まで殺すかね? ということなんだけどなあ。 ・老眼のラッセルが、メモを読むとき遠ざけて見るリアリティがいいね。 ・マーチは一度、ジュディスに雇われる。そのとき、ジュディスが先に小切手の額面を書くんだが、額は「1万ドル」。その、書いている姿を見つつ(額面は当然見えない)、父親が「最低でも5000ドルはもらわないと」と偉そうにいうのがおかしい。 | ||||
未来を花束にして | 3/17 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2 | 監督/セーラ・ガヴロン | 脚本/アビ・モーガン |
原題は“Suffragette”で、「闘争的女性参政権活動家」だと。この直接的なタイトルにくらべ、邦題のなんとロマンチックなことよ。allcinemaのあらすじは「1912年、ロンドン。夫と同じ洗濯工場で働く24歳の女性モード。幼い息子を抱え、劣悪な環境の中、男性よりも安い賃金でより長時間の労働を強いられる過酷な仕事にもかかわらず、この職場しか知らない彼女にとっては、それが当たり前のことだった。そんなある日、街で女性の参政権を求めるWSPU(女性社会政治同盟)の過激な抗議活動に遭遇する。この“サフラジェット”との出会いが、のちに自分の運命を大きく変えることになるとは、この時はまだ思いもしなかったモードだったが…」 前半の、モードの生活を中心とした部分は、登場人物の紹介や、次第に活動家になっていく様子を描いていて、そこそこドラマがあるんだけど。後半になって、どっぷり闘争に明け暮れ、亭主や子どもも省みず突っ走るようになってからの話は、モロにプロパガンダ的で、どうにも興味がもてない。モードの葛藤も多少は描かれているけれど、大半が息子に関するもので、それが自分のせいだ、ということを分かっていながら、夫にあたったりする。しかも、夫や息子との関係改善より、活動を優先する。だったら葛藤もなにもありはしない。もっとハードで冷酷な活動家になっていく様子を描いてくれた方が、よほど興味がもてる。 監督が、あまり人間に興味がないのは、人物の描き方で分かる。 パンクハースト夫人 理論的指導者 ホートン夫人 議員の妻で、支援者? イーディス 薬剤師にして、実働部隊隊長? エミリー 実働部隊の下士官? ヴァイオレット 実働部隊の兵隊 モード 実働部隊の新兵 ってところかな。でも、それぞれの家庭や生活はほとんど描かれない。せいぜい、ホートン夫人の旦那が、逮捕された夫人の保釈金を払うのに登場したのと、ヴァイオレットの娘が同じ洗濯工場で勤め始めたこと、イーディスの店と亭主を描く程度。パンクハーストにいたっては、メリル・ストリープが演じているせいもあって、演説と、終わるとさっさと逃げていくシーンしか登場しない。いったいパンクハーストはどういう背景をもつ人物なのだ? ホートン夫人にしても、夫が議員というなら、女性の自立に関心があるはず。夫は、妻の活動を支援していないのか? ヴァイオレットは後半で妊娠するけれど、夫は登場しない。エミリーは武闘派のようだけど、どんな人生を送ってきたのだ? とか、描いてくれないと感情移入もできない。 たとえば、最後に競馬場で直訴のようなカタチで飛び出し、馬にぶつかって死ぬエミリーなど、Wikipediaで見るとオックスフォードや卒の個人教師で、ロンドン大学にも行っているみたい。そんなインテリが兵隊やってるのか? とか、いろいろ疑問がたくさんでてくる。そういうところも含めてもう少し人物を掘り下げれば、映画として面白くなったろうに。 人間の交流という点では、モードとアーサー警部の関係があるんだけど、その関係は描かれている時間に比べて中味がスカスカすぎ。具体的な心の交流など、結局、なにもないのに、なんとなく警部がモードの人生を思っているかのような描き方をしているだけ。本来なら、粛々と法に従う警部なだけの存在を、温かみのあるかのような人物に描くことにムリがあるだろう。描くなら、嘘でもいいから具体的なエピソードも交えないとな。逮捕せず、家に送り返して、女房の行状について「亭主に決めさせよう」という程度では、なにもつたわらないよ。 しかし、思ったのは、古今東西いずこもテロだらけ、ってこと。イギリスはガイ・ホークスの議事堂爆破計画が有名だけど、IRAなんかも考えるに、伝統的にあるのかね。それと、いつの時代も兵隊は使い捨てされ、指導者は匿われて生き延びる、ということも。そのことは映画のなかでアーサー警部がモードに言っていたけど、リベラルな人からすると「官憲が使う手だ」ということになるんだろう。「亭主に決めさせよう」というのも同様だ。でも、パンクハーストなど、Wikipediaで見ると70歳まで生きていて、英国における婦人参政権の達成も目撃しているようだ。まあ、何度か逮捕もされているようだけと、英国の刑は軽いのかね。たしかイーディスやエミリーは爆弾テロで逮捕されていて、さっさと出てきたように描かれているけど。本当は数年、なのか? よく分からない。そういえば、モードも、デモで捕まったとき、初犯で1週間だっけ? これはこれで、そんなに拘留するのか? と思った。そしてさらに、警察に逮捕されても、洗濯工場から解雇されないのにも、驚いた。結構、工場は寛容なんだな、と。 しかし、洗濯工場というシステム自体が、なんか凄まじい。モードが証言する場面があって、そこで出自を話すんだけど、たしか24歳ぐらいで。洗濯工場で生まれ、育った、とか。母親はやけどが原因だっけ(?)か、モードが4歳の時に亡くなっている。父親は分からない、という。で、亭主も洗濯工場で働いていて、職場というか地域内での結婚で、息子がひとり。 あとから分かるんだけど、洗濯工場の上司なのか工場長なのか社長なのか知らないけど、若い娘に手を出して慰み者にしているらしい。なんと、モードもかつては関係を強制された、らしい。ということは、モード自身も、前任者と母親との間に生まれた、のかも知れない。そう、映画はほのめかしている。 とはいっても、何度も逮捕されてとうとうモードも解雇され、活動に集中するようになるんだけど。生活費はどうするんだ? なんか、宿や食費は団体が出すようなことをいってたけど、そういう資金はどうやって集めていたんだろう。ホートン夫人のような、でも、正体を隠している支援者が少なからずいた、ということか? なら、そういうことも見せないとな。 あとは、息子の存在かな。家は工場外にあって、そこでの3人家族。でも、モードが運動に没入し、逮捕されることで亭主の肩身も狭くなり、仲違い。亭主モードを追い出してしまい、モードは息子と会うこともままならなくなる。このあたりは難しいところだ。当時の時代背景を考えると、資本家が冨を握り、下層階級は死ぬまで貧乏、は仕方がない感じ。とはいえ、人権を意識し、これはおかしい、と考えるような人も登場し、それはエミリーのような学のある人たちだけでなく、労働者階級にまで及んできた、という時代の過渡期、なんだろう。黙っていることは現状を受け入れる、ということに等しい。声を挙げなければ、立場も状況も変わらない。でも、そうすると職を失い、家族を失うことになる。それでも戦う、と立ち上がった勇気ある少数の人々のおかげで、人権は次第に勝ち取られていったのだから。 それは分かるんだけど、夫が息子を養子に出さざるを得ない、というのも同情できる話で。亭主を恨んでもしょうがないんだよな。 で、ダービーの日。モードとエミリーは競馬場に侵入して何かする気らしいけど、何かはよく分からない。横断幕でも広げようというのか? 国王がどうとかいっていて、まさか国王がレースにでるわけじゃないよな。とか思っていたんだけど、映画ではよく分からず。Wikipediaで見ると「はジョージ5世が所有する馬アンマーの走路で両手をあげて立ちはだかった。王の馬は猛スピードでデイヴィソンに衝突した。デイヴィソンは激しく空中に投げ出され、意識不明で地面に打ち付けられた。騎手のハーバート・ジョーンズはアンマーがつまづいた時に投げ出された」とある。あれは国王の馬だったわけね。で、その目的についても、Wikipediaは、分からない、としている。だからなのだろう。観客には、バカみたいな自殺行為にしか見えないのだから。それだからこそ、次の場面で、エミリーの葬儀に何千人だか何万人だか集まるので、宣伝効果は大きい、みたいな話をしている活動家たちの会話が空しいというか、エミリーの死に説得力が感じられない。身を挺して、何をしようとしたのだ? エミリーは。 婦人参政権のために立ち上がった女性たちは、世界中で少なくなく、自らの家庭や生命を犠牲にしてまで戦ったわけだ。それを立派、ということもできるけれど、もうちょっとうまく立ち回ることはできなかったのかな、と思わないこともない。つまりまあ、法に則った活動、ということなんだけど。まあ、そんなことをいうと、「それは甘い」とかいわれるんだろう。でも、イスラム国だのなんだの、世界中で活動しているテロリストも、結局は同じような心境にあるわけで。その行為の正当性など、時代が決めるわけだから、過去が間違っていて現在が正しいとか、将来はさらに平等でより正しくなる、ということもない。将来、価値観がすっかり変わって、時代に逆行するような社会環境になることだって十分に考えられる。何が正しいかなんて、実際のところ、分からないのだ。みんな、自分のテロは正しい、と思っているのだから。という見方も、一方ではできてしまうところが辛い。 ・めあてのキャリー・マリガンも、もう30歳・・・。前半はまだドラマがあるけど、後半はモロにプロパガンダ。ううむ・・・な感じ。 ・最後に女性参政権が確立した年をテロップで流すんだけど、中国はあったけど、日本がないのはなんでなの? あと、女性の親権が確立した年もでていたな。 | ||||
ラ・ラ・ランド | 3/21 | MOVIX亀有シアター7 | 監督/デイミアン・チャゼル | 脚本/デイミアン・チャゼル |
原題は“La La Land”。allcinemaのあらすじは「夢を追う人々が集う街、ロサンゼルス。女優志望のミアは映画スタジオのカフェで働きながら、いくつものオーディションを受ける日々。なかなか役がもらえず意気消沈する彼女は、場末のバーから流れてくるピアノの音色に心惹かれる。弾いていたのは、以前フリーウェイで最悪な出会いをした相手セブだった。彼も自分の店を持って思う存分ジャズを演奏したいという夢を持ちながらも、厳しい現実に打ちのめされていた。そんな2人はいつしか恋に落ち、互いに励まし合いながらそれぞれの夢に向かって奮闘していくのだったが…」 冒頭。高速道路でいきなり踊りだす。うわー。モロにミュージカルかよ、と思ったら、それ以後はフツーの映画で、要所でかつてのミュージカルを下敷きにしたシーンが挟まる。かつてのミュージカル映画のスタイルを踏襲したり、名作にオマージュを捧げつつ、集団シーンは別として、とくに美男美女でもない2人の役者が、ことさら美声でもない歌声で映画のところどころでたまに唄い踊る。あとはフツーの会話なので、ミュージカルは苦手なんだけど大丈夫だった。 話は昔からよくある感じで、売れない2人が出会って恋に落ち、でも片方が売れて・・・。5年後。大女優になった女はさっさと別の男と結婚し、子供もつくってリッチな生活。男も、大出世とは言えないまでも好きなモダンジャズが演奏できる店を持って。そんな2人の、ちょっとした遭遇と回顧が最後にあるという、いわゆるほろ苦い終わり方。ほんとうに女ってやつは・・・ってな顛末も含めて、お決まりな物語。『シェルブールの雨傘』もこんな感じじゃなかったかな。冒頭と、最後の、大女優がカフェにやってくるくだりの繰り返しは、『イヴの総て』の、大女優と新人のすれ違いを連想させる。ジャズの描き方もひどく初歩的で玄人受けする渋さはまるでなく、分かりやすすぎ。それも含めてとくに目新しいところはなく、映画的神話を効果的に盛り込んで、うまくつなげて万人受けする入門編をつくってる感じ。色彩も豊かで、でも『アメリ』『パンズ・ラビリンス』みたいな神秘的な感じはなく、彩度も明度も高いカラフルな仕上げ。かつての、総天然色映画の時代を思わせる。すべての記号化がいい感じにできてるけど、どこか表面的な感じがする。 過去の映画へのオマージュ、映画的神話を盛り込んだ映画はいくらでもあって。では、なぜそれが高く評価されるんだろう? なぜアカデミー賞なのか。よく分からない。そういえば、5年ぐらい前にもサイレント映画としてつくられた『アーティスト』がアカデミー賞をさらっていったけれど、あれと同じような感じがする。映画の内容ではなく、スタイルで評価されてしまう。過去への思いを現代にうまく仕上げると、評価されるのか? なんか違うような気がするんだけどな。 ・ミアとセブの遭遇は、最初は高速道路。次は、セブがピアノを弾く店で遭遇なんだけど、フツー顔なんか覚えてないだろ、隣のクルマの男なんて。セブはこのとき、店の上司に、自身の好きな曲を演奏したいというけれど却下され、つまらない曲だけを演奏するんだけど、最後に言いつけを守らず好きな曲を演奏し、クビになる。この上司を演ずるのが『セッション』のJ・K・シモンズなのがおかしい。なんであんなダサイ選曲を? ここでも、店の好きな曲、客の好きな曲、セブの好きな曲、が記号化されている。 ・その曲はMia&Sebastian's Themeというらしい。ところで、この曲はどういう位置づけなのだろう? ミアが彼氏と食事しているときスピーカーから流れてきて、それで我に帰って映画の約束に急ぐんだけど、ということはセブの作曲ではなく、スタンダードな曲という扱いなんだろうか? ・ミアは、田舎からロスにやってきて、女優志願の仲間と4人でハウスシェアしているのか? 洋服も結構もっているみたいで、クルマ(プリウスせしい!)ももってる。スタジオのカフェの仕事だけで、そんな生活なんかできんだろ。と、思うけど、映画だからな。 ・ミアとセブが次に会うのが何かのパーティで。安月給で、よくこんなパーティに、と思う。同居(?)の女の子たち出かけたんだけど、どういうパーティなんだ? 誰でも参加できるパーティなの? 会費制なのかな? 気になる。ところで、他の3人の女の子たち。なにか役回りがあるかと思ったら、何もなしでやんの。で、ここで楽団の1人としてキーボードを叩いているセブと再々会。ハデな曲をリクエストしての嫌がらせ? で、パーティは4人で来たはずなのに帰りは1人? というところでセブと出くわして、クルマの鍵を受け取るんだけど、クルマがない? で、2人で坂をふらふら歩いて降りてくるんだが、4人で歩いて出かけたから、ミアのクルマ、とも思えなくて。途中から乗せて来てもらっていて、でもセブに見栄を張って、誰かのクルマの鍵を受け取ったのかと思ったら、そうじゃないのね。その後に自分のクルマを見つけるところをみると。もうひとつは、セブは自分のクルマで来たんじゃないのか? なら、乗ってけば? と誘えばいいのに、という疑問。ミアにつきあって歩く理由が分からない。 ・で、ここで古典的なミュージカルを一発。ここはロケみたいに見えるけど、スタジオとの合成かな、と思ったけど、メイキングをみたらロケみたい。歌は、とくに美声でもなく、ミアのエマ・ストーンは少しハスキー。ライアン・ゴズリングも、フツーな感じ。こういうところが、好ましく感じられるのかな。ライアン・ゴズリングは、ビアノも本物? というぐらい指の動きも見せていたけど、メイキングなんかによると、練習したらしい。ところどころ外しかげんなところも、なかなか好ましいと思っていたけど、そういうことか。 ・このあたりの、身の上話や夢を語りあうところで、ふたりの距離が縮まった、というところなのかな。 ・ミアは、学園もののオーディションがある、とか話して、じゃあ『理由なき反抗』やってるから研究のために一緒に行こう、となるんなだっけかな。忘れた。 ・ミアは、同居人たちからだったか、脚本の才能がある、とかいわれて。あるいは、それ以前からだったか、一人芝居を上演したいと計画していた模様で。カフェもやめて、脚本書きに集中するんだけど、生活費はどうしてるんだ? という疑問・・・。 ・学園もののオーディションは見事にダメ。映画は見たのかな? とか思っていたんだけど・・・。 ・ミアに男から電話? なになに。ミアには付き合ってる彼氏がいたのか? なんか唐突。その彼氏と彼氏の兄兄弟と食事していたら、店のスピーカーからMia&Sebastian's Themeが流れて来て。ハッとしたように「ごめん」と席を外して映画館へいくんだけど、なになに。オーディションの前に映画は見てなかったのか? なんか変なの。 ・で、映画を見つつ、手を握って、キス・・・というとき映画のフィルムが途中で焼けるんだが、いまどきそんなフィルムで上映しているところはないだろ。ここも、懐古趣味か。で、それがたまたま星空のシーンで。じゃあ、ってことで行った先が天文台。夜中に開いてる訳もないのに入ってプラネタリウムで歌って踊る。ま、映画だからな。ここの吊りのシーンは、なかなかよかった。最後の、ちゃんと椅子に収まるところは、逆回しかな。ところで『理由なき反抗』に星空の場面があったっけか? ・この時点でミアは彼氏を乗り換えて、セブと付き合うことになったわけだな。 ・セブは、ミアにモダンジャズがいかに素晴らしいか話すんだけど、ミアはあまり関心がない感じ。まあ、チャーリー・パーカーがバードって呼ばれてる、とか聞いてもなんのことやらだよな。そんなとき、セブは友人に、自分のグループに入るよう誘われる。なんと都合のいいことよ。でも、セブがやりたいのはオーソドックスなモダンジャズ。コルトレーンとかビル・エバンスの写真もでてくるし。セブがホーギー・カーマイケルの椅子をもっていたり、シドニー・ベシェの名前も出て来てたかな。でも、友人はいう。「ジャズを救う? お前の目指してるジャズを誰が聞く? 未来を見ろ」と。 ・セブは、自分の店を持つことが夢。店の名前も、チャーリー・パーカーにちなんでCHICKEN ON A STICK決めている。でもミアは「それダサい。SEB'Sにしな」とか言っているけど、どっちもダサイだろ、それ。で、店を開くなら、稼がないと、なんて話になって、セブは友人のグループに加入することに。そのステージを見に来たミアの、なにこの音楽、あなたのやりたい音楽と違うじゃない、な顔なんだけど、演奏されている曲は、それはそれで軽いノリで受けそうな感じ。友人のキースを演じるジョン・レジェンドは、知らなかったけど、グラミー賞も受賞しているソウル歌手で、そういう本職に、セブにとって理想とは違う曲を演奏する現実的なミュージシャンを演じさせていたのね。ふーん、な感じ。 ・そのミアは、先日閉館した、かつてふたりで行った映画館で芝居を上演するらしい。このあたりも、懐古趣味がにじみ出ていて、受けるところなのかな。でも当日は10人ほどしか客が入らず、おまけねセブも撮影が入って上演中には間に合わない始末。なんだけど、ここらへんも「?」な話。そんなにミアは友だちがいなかったっけ? 客集めとか真面目にやってねえんだろ。というか、客が来ない、という話にむりやりしている感じ。さて、絶望したミアは田舎に帰ってしまうんだけど、置き忘れた(って話があるか? フツー)ミアの携帯に、有名キャスティングディレクターから電話が入り、芝居を見たけどオーディションを受けてくれ、というもの。なんだけど、あんな芝居の情報をどこで入手したんだ? あの客席にいたのか、本当に? 的な疑問がついて離れない。 ・セブは車を飛ばしてミアの田舎に伝えに行く。その田舎は、WikipediaによるとBoulder Cityで、Nevadaにあるらしい。ロスからは結構離れているから、大変だ。でも、ミアは「もう落ちるのはこりごり」とオーディションを受けないつもり。でもセブは「明朝6時過ぎに迎えにくる」って去って行くんだけど、どこかのモーテルにでも泊まったのか? なぜミアの家に泊まらない? ・翌朝、迎えに行くと、行かないといっていたミアは心を決めた様子。オーディションで、ミアは、オバサンが川に飛び込んだとかいう歌を歌うんだったかな。忘れた。 ・で、5年後。と、簡単に切り替わって。スタジオの、かつて働いていたカフェが映るんだけど、それだけでもう解る。大女優になったミアの後ろ姿。冒頭に近いところで、このカフェでミアが働いてるところに大女優がやって来て店員がささやく、というのを受けての場面で、よくある感じ。こういう構成もよくある感じ。まあいいけど。分かりやすいし。ミアは、外で待っているスタジオ内を走るためのカートに乗るんだけど、そこには男が・・・。子どもも、ここに映ってたっけかな? というわけで、子どもは2〜3歳だから、ミアはオーディションに受かってパリへ撮影に行き、その後すぐに現夫とめぐり会ってさっさと結婚して子どもをつくったという感じ。なんだ、この尻軽女は。 で、ある夜、亭主と食事して、街を歩いていてジャズバーを見つけ、入るとそこにSEB'Sという店名があり、ジャズを演奏している。そのちょっと前に、店にいるセブに出入り業者か何かが声をかけて、「繁昌してるね」とかいう場面があったんだけれど、まあ、セブとしては念願の店をもち(※かつての名店を再開させた、が正解だった)、成功させているということなんだろう。だからこそ思うんだけど、セブの友人の「ジャズを救う」とか「未来を見ろ」という言葉が嘘くさく見えてしまう。ちゃんと客はいるじゃないか。まあ、実際にジャズ店を開いて成功するかどうかは知らんけど。セブは「情熱があれば客は来る」とかいってたように思うけど、ははは、だな。 それにしても、ミアと亭主が最前列に座るという無神経さで。おいおい、な感じ。ここで、演奏中のグループを紹介するように、セブが登場し、ミアに気づく。で、演奏するのがMia&Sebastian's Theme。 ・ここで、たらればイメージが・・・。もし、再会のときセブがミアを無視しなかったら。二人は結婚し、つましいながらも家庭を持って幸せに・・・。まあ、どちらが思っているのか知れないけど、書き割りのイメージが出たりして、冒頭の高速道路につづく、過去のミュージカル表現へのオマージュ、ということになるのかね。 一曲だけ聴いて、2人は店を出る。振り返るミア。ちょっとおどおど? セブが、少し口角をあげて微笑む。安心したように、ミアもかすかに微笑む。で、終わりなんだけど、ほろ苦いとか切ないとか、アホだろ、という感じ。たんに、目先の、いい映画にだしてくれる男あるいは金持ち男あるいは絶倫男に乗り換えて、過去の男を捨てた、というだけの話。だから女ってやつは。それしかないね、結論は。まあ、こういう、女の裏切りは過去も描かれた定番の設定だから、現実的に女がどうこうというつもりはないけれど。なんかな、な感じだった。 ・2人が惹かれ会うのも、夢見る同士である以外に特にない、というのがいささか辛いところかな。結局のところ、互いに傷をなめ合うような関係でしかなかった、と。うーむ。 ・最初の高速道路の場面は、ドローンか? それともステディカムと合成かしら。埠頭の場面も、ふつーに考えればカメラ1人しかいない感じだけど、合成?(※簡単に人物などは消せるらしい) 他にも、最初の坂道の場面とか、ロケに見えるけど、セットで合成? とか、いろいろ考えてしまう。 ・冒頭の高速道路の場面。ミアの視点からは、中指を挙げたのはセブ。セブの視点の映像では、中指を挙げたのはミア、ということになっていた。あれは、互いに、悪いのは相手、と思っている、ということことを表現したものか? | ||||
エイミー、エイミー、エイミー! こじらせシングルライフの抜け出し方 | 3/21 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3 | 監督/ジャド・アパトー | 脚本/エイミー・シューマー |
原題は“Trainwreck”。「大惨事 大失敗 めちゃめちゃな状態・酷い状態」のスラングらしい。allcinemaのあらすじは「幼い頃に離婚した父から一夫一婦制を否定されたのがトラウマとなり、男性とは一夜限りの関係しか持てないエイミー。奔放な男性遍歴でシングルライフを謳歌しながらも、本気の恋には決して踏み込むことができずにいた。そんなある日、仕事で著名なスポーツ外科医アーロンを取材することになったエイミー。すぐに意気投合し、勢いで一夜を共にしたところ、アーロンがすっかり本気モードに。そんなアーロンに戸惑いつつも、これまでの自分のルールを捨て、真剣な交際に踏み出してみようとするエイミーだったが…」 ゴシップ雑誌の記者をやってるぐらいだから、知的な女性なエイミー。でも、みかけはぽっちゃりブス。でも、男に不自由しない、という設定は、どうなのかな、とも思うけど。世の中は美男美女ばかりじゃないし、現実を見ればそこそこのカップルはいくらでもいるわけで。させてあげる、という女性がいて、後腐れがなさそうなら、ひと晩のお付き合い、はいくらでもあるはず。と思うと、なかなかにリアリティがある話だよな。ロマコメとしては、絶対的にブスなエイミー・シューマーだけど、森三中の3人よりは整っている感じだし、ははは。 で、セックスはするけど泊まらない。結婚も考えない。というのが、父親のトラウマ、だとは↑のあらすじをよんで分かった。なにせ妹はこぶ付き男と結婚している。同じ話は妹も聞いているはずだけれど、幼すぎて理解できなかった、ということか。まあいい。 そんな、男は使い捨て、30オーバーな女性の、初めての真面目な恋物語。といっても、相手の整形外科医アーロンも、どちらかといったらモテる感じはしない。それがなぜ、という感じは多少あるんだけど、そこは、まあいいか、な感じかな。取材していて、なんとなく気が合って、いつも通りセックスしたけど、なんとなく気になる存在になってしまった、ということか。まあいい。 てな感じでつきあい始めて、でも、アーロンが主役のあるパーティで、胸の谷間の空いたドレスを着込み、さらにはアーロンがスピーチしている最中に携帯がなって会場から出たことがきっかけて口論になり。その夜、これまで抑えていたあれやこれや(クンニのやり方がのずい、こうしろああしろ、とか)夜通しやられて。アーロンは寝不足のまま手術にのぞむことになるんだけど、患者のレブロン・ジェームズ(?)が怖じ気づいて手術が中止になってしまう。そんなこんなで関係が悪化して・・・。仲を仲裁しようとアーロンを呼びつける3人、だったか4人のオッサンたちは、あれは現実のスポーツ選手とテレビの解説者なのかな。ああいうところは、ネイティブじゃないと分からないよな。くやしい。 で、意気消沈のエイミー、会社に来ていたインターシップの高校生に手を出して、それが発覚して会社を首に。とはいえ、16歳の少年と姦淫の直前、なんていうネタをよく映画にしちまうよな。日本だったら、速攻でアウトだろ。てなわけで踏んだり蹴ったりのボロボロ状態になり、最後は下手に出てアーロンのご機嫌をとる作戦。大事な試合の後、チアリーディングと一緒に、太い足を、上がらないのに精一杯振り上げたり、揚げ句はジャンプでスローインに挑戦して、マットに真っ逆さま! 速攻で見に行くアーロン! という、このチアリーディングのときのエイミーは健気で可愛い。泣きそうになった。で、エンド。 ホームパーティで。女性たちが告白話をし始めて。エイミーが「コンドームが膣の奥に残っちゃって。指を鍵にして取りだした」という話をしてみなしかめ面をして。次に、年かさの女性が何を言うかと思ったら「私、3Pをしたことがある」と。この手の下ネタ満載の下品さ、ドタバタしまくりの演技、本筋に関係ないけど、ときどきつぶやかれるセリフ・・・。まあ、このセリフは、アメリカの映画のこと、音楽のこと、テレビのこと、スポーツのことなんかを知らないと、本当に笑ったり楽しんだりできないんだろう。タイムリーな時事ネタも突っ込んであるみたいだし。 あと、忘れてならないのが、黒人差別とゲイ差別を露骨に出してくること。たとえば、父親の葬儀で、出席していた白人女性が前に座っている黒人男性に「私、黒人とつき合った(だったかな?)ことがあるの」と、不躾にいうと、黒人男性は困ったな、な顔。その後には、くだんの白人女性の隣の女性が、「私の亭主は遺体も見つかってないの」とかいったり。なんじゃこれ、な会話というかセリフが結構ある。 でも、お上品な映画みたいに、建て前や正論はそっちのけ。人々の本音は、これだ、なところをズバズバとセリフでしゃべらせる。もちろんジョークだけど、でも、避けて通ってもしょうがないよな。きれいごとでは、問題は片付かない。べつに差別を煽るとか奨励するわけでもなく、そういうものだ、という感じで埋め込んでいる。 たとえば、父親の葬式のとき、エイミーのスピーチで、「父にけなされたことのある人」というとたくさんの手が上がるけれど、「それでも父が好きだった方」というと、これまたたくさんの手が上がる。そう。ものごとは一面だけでは判断できない。そういうものなのだ、と主張しているように思う。 いろいろ有名人が登場しているようだけど、劇中映画に登場するダニエル・ラドクリフぐらいしか分からなかった。スポーツ選手は、まったく分からない。ほかにも、テレビの解説者とか、分からんよな。もしかして、雑誌社の人も、本物がいるのか? 分からないけど。 その有名人ネタでは、アーロンが、ホームパーティで。「有名人を担当してるって?」と問われ、「レブロン・ジェームズ(だったかな?)」というと、男たちが、おー、と驚く。ほかには? ほかには? と応えるアメフトの選手は、よくわからない。「テニスではフェデラー」「おー」「A・ロッド」というと、一同が「うえー!」ってゲンナリした顔になるのは、なんでなの? A・ロッドがヤンキースの選手で、メッツのライバル球団だから? えーと。調べたらA・ロッドの引退は2016年で、この映画の製作年は2015年だ。 ・父親はメッツ好き、というところが、話のベースになっているのかな。 ・アーロンは、手術するときビリー・ジョエルのUptown Girl をかけるんだけど、どういう意味があるのかな? よく分からない。歌詞を読めば笑えるのか? ・妹はフツーに、こぶ付きと、だけど結婚してうまくいってるんだよなあ。 ・しかし、雑誌社にいる連中って、東洋人男性以外、みな頭悪そうなんだけど、これもギャグか。 | ||||
沈黙 -サイレンス- | 3/23 | キネカ大森3 | 監督/マーティン・スコセッシ | 脚本/ジェイ・コックス、マーティン・スコセッシ |
原題は“Silence”。allcinemaのあらすじは「17世紀、江戸初期。日本で布教活動を行っていた高名なポルトガル人宣教師フェレイラが、キリシタン弾圧を進める幕府の拷問に屈して棄教したとの知らせがローマに届く。さっそく弟子のロドリゴとガルペが真相を確かめるべく日本へと向かい、マカオで出会った日本人キチジローの手引きで長崎の隠れキリシタンの村に潜入する。そして村人たちに匿われ、信仰を通じて彼らと心を通わせていく。やがてロドリゴたちの存在は、狡猾にして冷酷な手段を駆使して隠れキリシタンをあぶり出しては、彼らに“転び(棄教)”を迫る長崎奉行・井上筑後守の知るところとなり…」 原作は読んでいない。篠田版『沈黙』も見ていない。なので、物語の内容も知らない。浅野忠信、窪塚洋介、イッセー尾形、塚本晋也が出演してるのは知っていた。小松菜奈の姿を見つけて、ああ、そういえば、と思い出した。渡辺哲、片桐はいり、高山善廣は、見ていて分かった。けれど、伊佐山ひろ子、洞口依子、加瀬亮、中村嘉葎雄は気がつかず。PANTA、SABU、AKIRAは、そもそもよく顔を知らないので、気づきもせず。 162分の長丁場なので、朝はみそ汁だけでお茶は飲まず。な準備をしても心配だったけど、まあ、苦もなく乗り切った。あと1時間ぐらいは大丈夫な感じ。ははは。 で、興味深く見たけど、あまり面白くはない。とくに、2/3ぐらいを占める、宣教師2人の日本における隠れながらの布教→捕まってからの牢獄生活が長すぎて、少し飽きる。転ぶまでのなかで異彩を放つのが奉行井上役のイッセー尾形で、これはもう別格な感じだった。ただし、字幕翻訳されて上映されたら、あのニュアンスはアメリカ人につたわらないだろうなあ、という気もしないでもない。もちろん彼の英語セリフも多く、発音は明瞭で好感度も高いんだけど、日本語で出しているおかしさは、はたして出ているんだろうか、あやしい。 で、後半も押しつまって棄教したフェレイラが登場。さらにロドリゴも棄教し、幕府のために働くようになってからは、スケッチのようにさらさらとあらすじ紹介になってしまう。これが物足りない。いやじつは、棄教して日本人化したポルトガル宣教師がいたことを恥ずかしながら知らなかったので、とても興味をもったのだ。なんとフェレイラ(ポルトガル人らしい)も実在の人だったらしいではないか。へー、である。ロドリゴのモデル(ジュゼッペ・キアラ:イタリア人らしい)も存在していて、原作自体が事実をベースにして書かれているようだ。でもまあ、『沈黙』を読みたいとは思わないが、史実としての沢野忠庵(フェレイラの日本名)や岡本三衛門(ジュゼッペ・キアラの日本名)のことは知りたいと思う。 それはさておき、描かれる話自体は、アホか、な話としか思えないので、どうにも興味が湧かない。ああ、そうですか、な感じ。っていうのは、イエズス会とか東インド会社とかって、要は、ヨーロッパ人による世界征服の先兵みたいなもんだろ。・・・と、詳しくは知らないながら、大雑把にそう思っている。奇しくもこの映画の中で、奉行井上も、そのようなことをロドリゴに話している。ついでにいうと、「お前らは日本に長くいても日本語を覚えず、いつまでも自分たちの言葉で話す」ということも言っている。そーなんだよ。西洋人は自分たちの住む地域以外を野蛮な国とみなし、そこにキリスト教を根づかせ改心させ、西洋文明の恩寵を与えて手なずけようとしていた。まあ、そういうのになびいたのは九州の一部の地域だけで、結局、キリスト教は日本に根づかなかった。映画でも言っているけれど、日本は沼みたいなもので、そこにはなにも根づかない、と。 でも人は言うかも知れない。当時、キリスト教が認められていたら、様相は違っていたよ、とかね。でも、現在のように信仰の自由のある社会になっても、国内でのキリスト教信者はせいぜい100万人で、それ以上には増えていない、らしい。まあ、日本には一神教のようなものは根づきにくいんだと思う。 日本の宗教戦争というと一向一揆、なかでも三河一向一揆は戦国大名入り乱れての戦いで、家康の配下も反乱したらしい。そういうのがあってのキリシタン弾圧なのかな。その後というと島原の乱か。で、調べたら、この話の設定は、島原の乱の直後らしい。そりゃあ弾圧も厳しくなるなるわな。Wikipediaによると「乱のきっかけは圧政・重税であったが、乱勃発後にはキリスト教が一揆のよりどころとされた。鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった」とあるが、要は圧政→大衆の貧困→宗教がより所→反乱(一揆)という流れは、いつの時代も変わらない。 で、見終えて改めて驚くのは、宗教のために死ねる人が日本にいた、ということだな。長い歴史を見ても、宗教のために一般人が死を選択するなんて、そうはないと思う。島原、五島の漁師・百姓たちは、キリスト教の何を知り、どこまで理解していたんだろう。映画でも「パライソ」(天国)という言葉が頻出していたけれど、貧乏よりも死んで天国に行って安楽な暮らし、を信じたんだろうか。なんか、イスラム過激派の自爆テロの青少年が、死んで天国に行けば酒池肉林、と教えられ、信じ込んでいるのと同じだな。たまたま九州だったのは中国から近く、キリスト教とふれ合う機会が多かったから? もしかして、日本のどこでも、同じような状況であれば、同じようなことになったのかな。でも、現代においてもキリスト教は100万人を超えない。まあ、その代わり、いろいろと新興宗教がさかんで、それを信じている現世利益な人々は数多くいるけど。そういうのを勘案すれば、宗教かぶれはいつの時代もいる、ということか。日本は、沼じゃないのかな。よくわからない。 というようなわけで、原作者の遠藤周作は、自信がキリスト教信者であるところから、禁令によって信仰の自由を奪われ、拷問の果てに棄教した日本人はもちろん、本来は信仰の篤いイエズス会の宣教師までもが拷問の果てにあっさりと信仰を捨て、禁令する側にまわってしまった現実を問うような小説を書いたのかもしれない。どうすりゃよかったの的な話だけれど、そういうことよりも、鉄の信仰心をもっていたと思ったイエズス会のパリバリ宣教師をも、あっさりと棄教させてしまった日本幕府の政策と拷問手腕に、すごいな、と思ってしまった。 映画では、フェレイラは穴吊りの刑(Wikipedia:過酷な苦痛をもたらすが事前になかなか死なないように処置)でちょっと刻みの生き地獄を味あわされたとある。ほかにも何人かの宣教師が同じ刑に処せられ、他はすべて殉教したがフェレイラのみが棄教したらしい。映画では、なかなかの高僧のようだけれど、棄教後はキリスト教を否定する書物を書いたり、幕府の言いなりだったみたい。いっぽうのロドリゴは、映画では、日本人信徒が穴吊りの刑に処せられているのを見せられ、「お前が転べば彼らが助かる」といわれ、やむなく棄教するというのだが、Wikipediaでは「想像を絶する拷問を受け、キリスト教の信仰を棄るに至った」とある。 宗教弾圧を現在の基準で判断するのは誤りだと思うので、いちがいに幕府は悪、と断じられないと思う、そもそもキリスト教が禁止されている日本にやってきて、見つかれば死も覚悟、ということを自覚して事を行っているのだから。そもそも、幕府成立直後は政局安定のために宗教統制は致し方ないことで、仏教だって幕府の管理下にあった、んだろ。寺社奉行なんていうのがあったんだから。まして異国の宗教にかぶれ、反幕府の狼煙を上げられたらたまっものではない。幕府のキリシタン禁止令は、いたしかたないことだったと思う。だって島原の乱が起こっているのだから。 というわけで、遠藤周作の問いかけとか、信仰についてとか、そういうことは、あまり心に訴えかけては来なかったのであるよ。繰り返すけれど、転んでしまった後のフェレイラやロドリゴについて知りたい。日本人妻をめとって、夫婦の営みはあったのか。子をつくったのか。フェレイラは天文学や医学を教えたらしいけれど、どういうかたちで、誰につたわったのか。あるいは、日本人の友人知人はいたのか。などなど、そちらの興味は尽きないが、ほとんど語られない。 で、「沈黙」という言葉だけど、神が何も語らないのは当たり前だ。だって、神など存在しないのだから。で、話は終わってしまう。だって宗教なんだから。ははは。 そんななかで目立つのが、信仰心がありながら気が弱く、いつも踏み絵を踏んでしまうキチジローが興味深い。ロドリゴは軽蔑しながらも見守っていくんだけど、最後、ロドリゴはキチジローと同じ立場に落ちてしまう。いっぽうのキチジローは、定期的に行われる踏み絵のときに、衣服に縫い付けていた(?)十字架を発見されて、牢に?がれてしまう・・・のかな。きっと責め苦を味わって・・・。 そのキチジロー以外、日本の信徒たちは記号的にしか描かれておらず、人間がほとんど描かれない。奉行井上は人間味たっぷりだけれど、通辞(浅野忠信)も、どちらかというと存在は記号的。ほかは推して知るべし。ドラマも、ほとんどない。台湾で撮影されたという土着の漁師村と住人たちは泥だらけでうじゃうじゃうごめいているだけで、存在の区別もつかないし。うーむ、な感じだな。 あと、決定的なのが、言葉。アメリカ映画だから仕方がないけれど、大半が英語なのだ。祈りの部分は、あれはよく分からないけど、イタリア語かポルトガル語なのかな? よく分からない。実際のところ、異国の宣教師たちは何語で話していたんだ? それと、日本人が、漁師までもが英語を解し話すのも、あり得ないだろう、と思うんだけどな。奉行井上はかなりの英語使いに描かれているけど、そうなの? フェレイラは日本語使い、とWikipediaにあったけど、登場する宣教師たちは英語(自国語?)しか話してなかったぞ。 ・ロドリゴが亡くなり、仏教の作法に則って火葬された、とあるけど、仏教がいつも火葬とは限らないよなあ。とか思いつつ・・・。しかし、日本人妻の心境はどうだったんだろう? これまた興味深い。周囲からどう見られたのか、とか。連れ子もいたけど、どうだったんだろう。で、火葬されるロドリゴの手に、むかし日本人信徒から渡された十字架が・・・という場面で終わるんだけど、ってことは、日本人妻が持たせた、ってことだよな。ずっと隠しおおせた、日本人妻はロドリゴをかばった、ってことなのか。うーむ。意味深というより、そんなことできたのか? な疑問の方が強い。 ・岩場に柱を立て、潮の干満で信徒を拷問する場面があるんだけど、なかなかにリアル。役者もたいへんだね。というか、欧米の役者に、あんなことはせんだろ、スタント使うだろ、と思ってしまう。まあいい。ところで、現代はともかく、昔は、あんな海中に潜って荒波を受けても倒れないような柱は、とうやって立てたんだ? と疑問。 | ||||
人間の値打ち | 3/28 | ギンレイホール | 監督/パオロ・ヴィルズィ | 脚本/フランチェスコ・ブルーニ、フランチェスコ・ピッコロ、パオロ・ヴィルズィ |
イタリア/フランス映画。原題は“Il capitale umano”。邦題と同じらしい。allcinemaのあらすじは「ある日、小さな不動産屋を営むディーノは、娘のセレーナを富豪のボーイフレンド、マッシの家まで送ってあげるのを口実に、その家の当主ジョヴァンニに近づく。そして銀行から無理な借金をしてまで、ジョヴァンニが手がける高利回りのファンドに参加する。何不自由ない生活を送りながらも満たされない思いを募らせていたジョヴァンニの妻カルラは、老朽化した劇場の再建に情熱を注いでいく。ディーノの娘セレーナは、マッシとの愛に疑問を持ち始めていた時、心療内科医である継母ロベルタの病院でひとりの少年と出会い、心惹かれていく。そんな中、マッシの車がひき逃げ事故を起こしてしまうのだったが…」 開始早々、嫌な感じ。だってオッサンのディーノが投資会社のジョヴァンニに媚びへつらうように接近し、自分も投資仲間に入れてくれ、とおだてまくったりしているから。ディーノの娘セレーナとジョヴァンニの息子マッシミリアーノがつき合っていて、それで接点があったようだけど、こんなオヤジを見ていたら、娘はやんなるわなあ。で、自宅を担保に借金して投資仲間に参加するんだけど、先の展開は読めてる。投資失敗で一文無しで、という話か? やだなー。胸くそが悪くなった。 と思っていたら、マッシミリアーノのひき逃げ疑惑と、それを隠すセレーナの話に移り、おやおや、な感じ。さらに、金はあるけど夫に相手にされないジョヴァンニの妻カルラが、潰れかけた町の劇場の再生プロジェクトを立ち上げて生き甲斐を見つけようとする話がからみ、流れが重層的に。ディーノの破産も、問題のひとつになってきて、不快感は薄れてきた。 しかも、前半は物語の一面で、後半になると物語の反面というか、実際のところはこうなのだ、というようなことになってくる。たとえばセレーナとマッシミリアーノはつき合っていてラブラブと思っていたら、実はもう冷めていて、セレーナは別の青年とつき合っていた、とか。このあたり、なかなか上手い。他にも、あるいは、夫ジョヴァンニの金をアテにしたカルラの劇場再建プロジェクトも投資失敗で挫折するとか、話の転がり方、波及が他の人物に影響を与え、人生が変わっていくことが見えてくる。 ひき逃げについてはマッシミリアーノの仕業とミスリードしつつ、でも後半で別の人物つまりセレーナの新たな恋人ルカを登場させるのは、いささか反則気味。しかも、両親がいないんだっけか、で叔父と暮らしていて、叔父との間にもあれこれあって、かつて逮捕歴があるんだったか、なルカに、ひき逃げの罪を押しつけてしまう話の展開は、ちと強引というか、ルカが気の毒。精神分析医にもかかっているし、高校も行っているのかいないのか。社会的地位も資産もないわけなので、ルカに同情、だな。 カルラと舞台演出家との浮気は、その後の展開へのため、みたいなところがあって。まあ、夫からも相手にされず、たまたま出来心、的なことなんだろう。こちらは、金も時間もあるけれど、心が満たされない女の象徴か。この浮気をネタに(だったかな?)、ディーノがカルラをゆすり、投資した70万ユーロに40%の利率をかけた98万ユーロを要求し、ついでにディープキスもさせろ、というのは下品この上ない >> ディーノ。こんな男が精神科の女医と再婚できていることが疑問なんだよな。お国柄? ついでに書いておくと、ディーノは90万ユーロ(だったかな?)の値打ちのある自宅を担保に、70万ユーロを銀行から借りて、投資失敗。10%しか戻らないとジョヴァンニに言われていた。そこで、70万ユーロに40%の利率をかけた98万ユーロを要求したんだが、利率は余計だろ、まったく。 気になるのは、ルカがひき逃げをした原因だけど、あまりそのことには触れていない。酔っ払ったマッシミリアーノをセレーナが自分のクルマで送り、マッシミリアーノのクルマをルカが運転して、セレーナのクルマの後をついていった、んだったか。そんなひどい運転をしていたようにも思えなかったんだが。前科があるので逃げた? のか。精神的不安定さとは何か関係あるのか。そのあたり、もう少し触れてもよかったかも。最後に、ドライブレコーダーで、ルカの過失が少ないことが証明された・・・とかあるかと思ったら、それはなかった。過失ということで翌年秋(だったかな)まで収監されて釈放となっていたけど、そんな軽いのか。ずっとセレーナが面会にいっていたようで、関係は変わらずみたい。 で、ひき逃げされた男は21万8千余ユーロをもらったんだっけか。これは、生きていたら・・・を勘案したもので、これが「人間の値打ち」だ、と最後に出てきて、なるほど、な感じ。だって、登場する人々の行為などを含む人間性を「人間の値打ち」と称しているのかな、と思っていたから。 ジョヴァンニの投資失敗は、ある程度カバーできたんだったかな。でないとカルラはディーノに要求された額を支払えないだろうし。もしかして、自分の資産があったのか? 忘れた。 ドタバタした割りに、もうけたのはディーノか。可愛い妻は後妻らしいけど、この関係はそのまま、だったっけ? 捨てられるとか、あったかな? もう憶えてない。けど、ディーノみたいなお調子者が、最後はしめしめ、というのは気分よくないかな。 ・ルカは、学校には行ってないのか? 家庭環境で分析医に? ・途中で分かるんだけど、ディーノの妊娠した奥さんは後妻だったのね。正妻は、ディーノの浮気で家を出た、とかいってたかな。いまの奥さんは、そのときの浮気相手? で、その時、元妻は娘セレーナを連れていかなかったのか。そんなもんなの? ・しかし、セレーナはヤリマンの女子校生だなあ。好きになったら速攻でベッドインかよ。イタリアは平均的にそうなのか? な感じ。 ・ところで、クルマの保険って、クルマの所有者でない人物が乗っていて起こしても、支払われるのか? ・ディーノが投資仲間に入る契約をするとき、秘書に出される水の名前に「フジ」というのがあって、びっくり。そんな有名ブランドなの? | ||||
エル・クラン | 3/28 | ギンレイホール | 監督/パブロ・トラペロ | 脚本/パブロ・トラペロ、フリアン・ロヨラ |
アルゼンチン映画。原題は“El Clan”。「一族」という意味らしい。allcinemaのあらすじは「軍政から民政への移行期にあった1980年代のアルゼンチン。裕福でご近所の評判も申し分ないプッチオ家は、父アルキメデスを中心に平和で幸せな暮らしを送っていた。しかしマルビナス戦争(フォークランド紛争)の敗戦が引き金となり、軍事政権内で働いていたアルキメデスは職を失ってしまう。ある日、アルキメデスは長男アレハンドロの友人を誘拐し、自宅に特設した専用の部屋に監禁する。誘拐事件に街がざわつく中、プッチオ家ではいつもと変わらない穏やかな時間が流れていくのだったが…」 冒頭は、家に武装集団が突入する場面で。これが、なんだかよく分からない。後半になって、アルキメデスのアジトというか自宅に警官が踏み込んだところ、と分かるんだけど。どっちがどっちやら、見当がつかず。 つづいて、アルゼンチンの国内情勢が簡単に紹介されはするんだが、正直いってその経緯など頭にない。軍事独裁? と思って調べたら、どーもチリと混同していた。アルゼンチンの方はペロン→クーデターでペロン亡命。軍事独裁政権に(1955)→ペロンの復帰とかあれこれあって→フォークランド戦争→さらにあれこれ・・・てな具合で複雑怪奇。分からん。それを、冒頭のちょろっとした映像で分かれ、というのはムリがありすぎだ。だいたい、フォークランド戦争をマルビナス戦争と言われても分からんだろ。アホかと思う。 と、書いていて、突入シーンが先だったか、時代背景紹介が先立ったか、よく憶えていないことに気づいた。まあいいけど。 その冒頭で、権力者たちの集まりみたいなシーンがあったけど、ずっと意味か分からず。見ている途中で、「あそこに登場していたのは、アルキメデスだったのか?」とか思ったりして。よく分からんままに見ていたのだった。 まあ、要するに、アルキメデスというオッサンの一家が、かつての仲間とつるんで身代金狙いの誘拐事件を連発し、ほとんどの場合、人質をいとも簡単に殺害してしまう、という悪事を繰り返していた、という話だ。背景を理解していないままなので、↑のあらすじのように、「軍事政権内で働いていたアルキメデスは職を失ってしまう」というのは、理解せずに見ていた。大佐とは、どういう関係なんだ? とかね。こういうの、ちゃんと分からせるのは大切なんだがね。 で、事件としては『冷たい熱帯魚』とか『白昼堂々』を連想する感じなんだけど、前者の犯人は夫婦2人。後者は、残虐な犯罪ではない。ところが、このケースでは、家族全員と、アルキメデスの仲間たちが大勢関わっていて、長男アレハンドロも、最初は知らなかったけど途中から参加し、同様の誘拐に参画しているというところが異常。つまり、人殺しや誘拐を嫌悪し、逃げたりするやつが・・・あー、ひとりいたか、次男だったか。でも、帰国すると彼も誘拐に参加するんだから(たしかそうだった)、嫌がる奴がだれもいない、という状態。変だろ、これ。 でこの、長男のアレハンドロって、サッカー のアルゼンチン代表選手らしいんだけど、ぜんぜん稼ぎには関係ないみたい。というのも、時代なのか。好きでやってる人ばかりだったのか。よく分からない。 しかし、失職したから誘拐、という発想が、なんなんだ? 日本なら江戸時代じゃないのか。というか、人の命なんてそのぐらい、な時代を経験したからとか? 軍事独裁政権で情報局にいたから、アルキメデスは人の命なんて屁とも思っていないのか。なんか、凄い感じ。 あと、誘拐が白昼堂々されているのがビックリ。人質の殺害も、そこら辺で行なわれて、そこら辺に簡単に捨てられる。このあたりの感覚も、なんかどーも、凄い! ではなく、なんて杜撰な、としか思えない。そんなことやってたら、すぐバレるだろ、と。なので、アルゼンチンの情報局のレベルが推し量れるな、などと思ってしまった。 しかし、アレハンドロは、なんであんなんな簡単に誘拐犯に加わってしまうのだ? あるいは、ずっと以前に国外に逃げてしまった次男(だよな)が戻ってきて、これまた誘拐犯に参加する、その理由がよく分からない。事実がそうだったから、ではなく、そうなれた真相を知りたいと思う。 そういう意味で、この映画の脚本は、現在(警官の突入)から始まって過去に遡り、突入を描いて、その後どうなったかを見せるんだが。そんなことをせず、アルキメデスの失職、無収入の困惑、かつての仲間との密談、最初の誘拐・・・。人質の負荷、人質の殺害・・・。これに味をしめての、次の誘拐・・・と、時間軸に沿った流れで描いた方がよいような気がする。そのほうが、じわじわ感が増すのではないのかな。 逮捕された、だったかな、アレハンドロが、建物の内部で、上階から階下へ身を投げる場面があるんだが。あれは、どこをどう合成したのかな。なかなかリアルで、ちょっとドキッとした。 ・アルキメデスの妻は、当然、知ってたよな。娘たちは、どうなんだろう。だって、自宅に人質を軟禁していたんだから・・・。 ・アルキメデスが、国家情報局のIDカードを見せて収監された仲間に会いに行くシーンがある。でも↑あらすじでは、すでに失職してたんだろ。インチキして入ったのか? 相手が気づかなかったのか? ・ちゃんとした邦題をつければいいのにな。原題そのままで。面白くもなんともない。 | ||||
レジェンド 狂気の美学 | 3/29 | キネカ大森3 | 監督/ブライアン・ヘルゲランド | 脚本/ブライアン・ヘルゲランド |
イギリス/フランス映画。原題は“Legend”。allcinemaのあらすじは「1960年代初頭のロンドン。華やかで活気にあふれたこの街で、裏社会を支配していたのが双子のギャング、レジナルド・クレイ(レジー)とロナルド・クレイ(ロン)。強い絆で結ばれたクレイ兄弟だったが、その性格は対照的。理知的で商才にも長けた兄レジーに対し、弟ロンはひたすら凶暴で、すぐにキレて手がつけられなくなってしまう。そんな中、部下の妹フランシスと恋に落ちたレジーは、彼女のために犯罪から距離を置くようになり、ナイトクラブの経営に注力していく。それが気にくわないロンは破滅的な行動でたびたびトラブルを招き、次第に兄弟の間に大きな溝が生じてしまうのだったが…」 ラストで分かるんだけど、実話なんだそうな。 大きなドラマもなく小ネタの積み重ねでクロニクル的に双子のギャングを描くんだけど、ねじれた兄弟話がわりと面白かった。直前にパンをかじったので一気に寝るかと思ったんだけどそんなこともなく。 と、Twitterに感想を書いてからすでに2週間以上。最近、感想文が追いつかないというか、書くのがおっくうになってきた。まあ、細かく書きすぎるからなんだけど。短くしようと思っても、なかなかそういかないところもあったり。困ったものである。 で、2週間もたって、記憶だけで感想文を書こうとするとどうなるか。 なんだけど、↑のあらすじで十分だな、という気持ちになってしまった。付け加えるなら、弟ロンは少し頭がおかしい、あるいは、知恵も足りず嫉妬深く自分勝手、という感じかな。いちど、レジーがムショに入って、出てきてみればナイトクラブから客が離れていて、質が悪く下品な芸しかやっていない。というか、ロンが舞台に立って勝手なことをやっている。それでキレて大げんか。レジーがロンをのしてしまうんだけれど、諍いはそこまで。レジーはそれ以上できない。まあ、双子の絆は強いのだろうけど、なぜそうなのか、というところを描いていないので、物足りない。 いや、そもそも、クレイ兄弟がなぜ地域のギャングとしてあそこまで大きくなれたのか? ということが描かれていないというのもある。たとえばあるとき、ロンが身体を張ってレジーを助けた、とか。そういう過去があって、だから弟を見捨てられない、というのでもあれば別なんだけどね。 だったりするもんだから、「大きなドラマもなく小ネタの積み重ねでクロニクル的に双子のギャングを描く」という感想になってしまって、それ以上の言葉が出てこない、のだ。実話をベースにしているらしいけど、ドラマになりきれていない、というところが限界かな。 ラストは、どうなったのか、よく憶えていない。調べたら2人とも30年の実刑を食らい、弟ロンは服役中に亡くなり、レジーも出獄後すぐに亡くなったようだ。そういえば、いろいろ誤魔化したり、ちょろちょろとジャマをするチンピラがいたけど、彼を殺しての実刑? さっぱり憶えていない。まあ、その程度の映画だ。 トム・ハーディがレジーとロンの二役らしい。双子、というから、そうかな、と思い見ていたんだけど、もしかして別人? とも思えるような顔もあったりして、半信半疑だった。とくに、兄弟げんかのところなど、あとから顔を合成したのか知らんけど、分からんよな。 | ||||
セルフレス/覚醒した記憶 | 3/29 | キネカ大森3 | 監督/ターセム・シン | 脚本/アレックス・パストール、 ダビ・パストール |
原題は“Self/less”。allcinemaのあらすじは「“NYを創った男”と称えられる建築家で大富豪のダミアンだったが、老いと病には勝てず、ガンで余命半年と宣告されてしまう。そんな彼のもとに謎の研究所を運営する科学者のオルブライトが現われ、最先端クローン技術で作り出した若い肉体にダミアンの頭脳だけを転送することができると話を持ちかける。その提案を受け入れたダミアンは、自らの肉体の死と引き換えに、身寄りのない若い男エドワードの肉体を得て、新たな人生を謳歌し始める。ところがやがて、その新たな肉体がクローンなどではなく、マデリーンという妻と幼い娘のいる特殊部隊兵士マークという男のものであることを突き止めるダミアン。秘密を知ってしまったことでオルブライトの組織から命を狙われるダミアンだったが…」 『ザ・セル』『落下の王国』の監督らしい。泥臭くないところは、らしいけど、得意の目くらましはあまり感じない。話は、簡単にいってしまうと、組織に追われる男女と子ども・・・。よくある展開。それに生命科学SFの味つけ。まあ、失われていた自分を探し出す、記憶喪失ものと似てるかな。 ただし、思うのは、科学者であり経営者であるオルブライトの権力と、その部下の機動力・戦闘力がハンパなく凄いので、なんだこりゃ、な感じがしてしまうのだよね。007シリーズみたいにマンガ的な設定ならいざ知らず、現実的な雰囲気をだしている映画なのに、拳銃や機関銃は撃ち放題で、火炎放射器だのなんだの、人も殺し放題で、軍隊でもなけりゃそんなことできんだろ、な描写がつつくと、嘘くさくてやんなってくるのだよな。同様の施術は多くの人に施されているようだけど、その売上げや規模はどうなんだ? それによって政府の要人や軍部も傘下に収めている、とかいうなら話は別だけど。でも、学会でも半端物扱いされていたんだろ、オルブライトは。 ダミアンの自分探しは、フラッシュバックとして浮かぶイメージが手がかりで、どっかの給水塔だったかな。その給水塔はWebで簡単に見つかり、近くの家に行ったらどんぴしゃり。自分の新しい肉体の写真が、飾ってある。なんだこの苦労のなさは。 でも、ダミアンは組織につけられていたようで、さっそく殺しに来るというのは、なんなんだ? そういえば組織は「肉体はつくったもの」といっていたので、死体から再生したもの、という事実を隠したかったのかな。でも、イキのいい死体(なのか、死にそうな肉体なのか、よく分からんけど)を効率よく仕入れたりするには、そうとうの組織力・資金力がないといかんのではないのか? とか思ったりして。 で、それからは、肉体の元妻(むっちり小太りなナタリー・マルティネスなんだけど、もうちょい美女にして欲しい感じ)と娘との凸凹トリオで逃亡しつつ、そもそもの理論を考えついた学者の妻のところに行って、毎日飲まなければならない薬を調達したり、そんなことをしつつ、追っ手をやりすごしていく、という案配。その追っ手も、ときどき肉体を乗り換えて襲ってきたりするところは面白いんだけど、こいつ、以前はどいつだったっけ? なんて思うところもあったりして、やれやれ。 あとは、ダミアンの盟友がいて、彼の助けを借りようとしたら、彼の息子の顔が違っていて。実は、その盟友も子どもを失いかけていて、ダミアン同様にオルブライトの提案する施術を受け、他の子どもの肉体に自分の子どもの心を入れていたという、まあなんとも、金があれば誰でもできる施術なのね、とか思ってしまう。しかし、他人の心が入った自分の子どもの肉体と、他人の肉体のなかに自分の子どもの心が入った状態とで、どっちがよいかといわれたら、うーむ、悩むな。外見が他人だと、抱きしめたくなくなるかな。難しいけど。 で、最後、ダミアンは薬を飲むのをやめて、元の肉体の記憶が肉体を支配するに任せる、だったかな。どっか南の島に避難した元妻と娘のところに、ダミアン=いまはマークが行く、というような・・・。よく憶えてないけど。まあ、妥当な選択かな。 というわけで、わりとありふれた展開だし、ヒロインもいまいちなので、思い入れもなくすっ飛ばして見た感じかな。 | ||||
わたしは、ダニエル・ブレイク | 3/30 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/ケン・ローチ | 脚本/ポール・ラヴァーティ |
イギリス/フランス/ベルギー映画。原題は“I, Daniel Blake”。allcinemaのあらすじは「イギリス北東部ニューカッスル。59歳のダニエル・ブレイクは、長年大工として働き、妻に先立たれた後も、一人できちんとした生活を送り、真っ当な人生を歩んでいた。ところがある日、心臓病を患い、医者から仕事を止められる。仕方なく国の援助を受けるべく手続きをしようとすると、頑迷なお役所仕事に次々と阻まれ、ひたすら右往左往するハメに。すっかり途方に暮れてしまうダニエルだったが、そんな時、助けを求める若い女性に対する職員の心ない対応を目の当たりにして、ついに彼の堪忍袋の緒が切れる。彼女は、幼い2人の子どもを抱えたシングルマザーのケイティ。これをきっかけに、ケイティ親子との思いがけない交流が始まるダニエルだったが…」 ケン・ローチにしてはメッセージが先走ってなくて、人間も描けていて上出来な感じ。問い合わせ電話がなかなかつながらないとか、コールセンターだから分からないとか、申請はネットにしろとか、役所のあるあるてんこもりだ。 えーと。個人的に役人が嫌い。なぜなら彼らは自分で考えない。決められたことをルール通りに遂行するだけで、気が利かない。というか、例外を認めない。「決まりですから」というのみ。まあ、そうするのが仕事であるのは分かる。しかし、そういう仕事に疑問をもたないのか? 自分たちにも生活がある、というかも知れない。でも、それはある種の利権で、規模は小さくても、自分の生活のために住民をないがしろにしていることに他ならない。それができる人間が役人だ。だから役人が嫌い。 映画の背景には、財政赤字削減の公約を実行するための、キャメロン政権による福祉予算などの大幅削減があるらしい。でも、イギリスの役人も、貧困層の声を知りつつ、私情を挟むことなく業務を淡々と遂行するしかない、みたい。なかには同情して相談に乗ろうとする役人もいるけど、上司から注意を受けてしまう。不平をいったり抗議すると、速攻で警備が呼ばれ、連れ出される。そういうことをしても心が痛まないのが役人だ、と描いている。まあ、その通りなんだけど。 しかし「医師から仕事はするな」といわれているのに、役所の判断では「仕事は可能」となって、仕事を探す行為をしつづけないと保証金(?)が支払われない、などというのは、日本でも失業保険と同じだ。仕事を探すフリをすればいい、なんてことは市民も役人も百も承知なのに、上からの通達だからそれにしたがっているという茶番劇。そういうバカをするのが行政であって役人だ、ということを露骨に見せられる。ほんと、役人に対する敵意がどんどん醸成される。でも、この映画、文部科学省特別選定作品なんだよな。笑っちゃう。 病院とは別に役所で問診が行われるんだけど、担当するのは外部委託の連中で、これまた何も考えていない。だって、考え、疑問を呈すれば、外部委託されなくなるだろうから、何も言わない。当たり前だ。しかも、この手の問診って、現実とは関係なく、机上でつくられるから、実際とはかけ離れていることが多いらしい。日本でも、介護保険認定の等級なんかを決めるときに行われるらしいけど、自分で着替えられるか、とか、バカみたいな質問があって、それにたいして場合場合によって異なるとか事情を訴えても、そういうのは無視。とにかく問いに応えろ、となるようだ。でも、物事、とくに肉体の状況なんて、イエス/ノーだけで応えられないよなあ。でも、それがまかり通っている。なんでも数値化すればいいってもんじゃないだろうに。 他にも受付がコールセンターで、質問しても「分からない」というばかり。そのうち電話が行くから、電話が来たらそこでいってくれ、とか。日本でも外部委託が図書館をはじめとしてあちこちで外部委託が進んでいる。地下鉄も、ホームにいるのは警備員で、駅員はいなくなった。あらゆるところで、事情を分からない人たちが働いている。こんなんで、万が一のときどうなるのか、って思うぐらいだ。 驚いたのは、いろんな申請をするのが、ほとんどすべてWeb経由になっていること。コンピュータをもっていないと、申請もできない。扱いに慣れない人は、ネットカフェに行かなくちゃならない。なんなんだ、それ。日本はまだそこまでいってないと思う。 とまあ、こういう社会状況下で、心臓が悪いから仕事をとめられ、でも保証手当てはもらえない。家はかろうじてあるけれど、生活資金や医療費は減っていくばかり。どうする? なオッサンの話である。 妻はおらず、ひとりの生活。子どもはいないんだっけか? 忘れた。ところで、あの住居は自家所有なのかな。賃貸? 59歳だから、まだ年金は貰えてないのかな。というような案配で、生活費にも事欠く始末。映画の途中で、家財を売り払う様子も描かれている。へー、と思ったのは、結構な値段で売れてるみたいなところ。日本なら、モノの価格はほとんど評価されない時代になってるけどな。もって行ってもらうだけで有り難い、みたいな。イギリスはまだそうはなっていないということか。 で、このブレイクがシングルマザーのケイティと出会い、援助したりするという、底辺のもたれ合いを描いている。 このケイティに関する背景があまり描けていないのが、ちょっと食いたいないところ。年は23、4だったはずだから、十代で子どもを産んでいる。しかも二人。それが子どもを連れてロンドンへ・・・。実家はあるらしいけど、帰らない理由は何なんだろう? 大学に入るか戻るかして、就職に有利にしようともしているらしいけど、現実にはなっていない。なわけで援助を申し込むんだけど、どーもうまくいってないみたい。というような、アバウトな感じで、あまり具体性がない。まあ、映画としてその方が都合がいいのかも知れないけど。それにしても、仕事をしようという意欲があるんだかないんだか、よく分からない。郵便受けにチラシを撒いて、なんでもやります的なことはやっているけれど、どっかで働くという気持ちはないみたいで、そこんところは「?」だった。 2人が慈善団体の施設に行き、食糧などを分けてもらっているとき、ケイティが空腹に耐えきれず缶詰をあけて口にするところなど、痛々しい。でも、そこまでになる前に、何かできることはなかったのか? ケイティは、万引きした店の警備員に紹介され、風俗で働くことになるんだけど、それ以前に企業や店で働けないこともないだろうに。子どもの世話なら、また別のところに申し込むとか、いっそ実家の母親に見てもらうとか、手段はあると思うんだけれど・・・。 というわけで、この辺りは弱い。けれど、そういうツッコミはさておいて、ブレイクの状態とも相まって、気の毒さが先に感じられるようにつくられているので、突っ込んじゃ悪いかな、という気分になったり・・・とか、ははは。 最大の盛り上がりは、ブレイクが役所の壁に「I, Daniel Blake」とペンキで描くところ。周囲の人たちも拍手喝采。もちろんブレイクは警備員に拉致され、警察に。まあ、仕方がない。けれど、そうさせてしまう役所という組織、なんの罪悪感もなく、「こんなことするなんて」「信じられない」とつぶやく役人には、嫌悪感を抱いてしまう。まあ、映画だからそういう演出なんだけど、そう思わせてしまうのがなかなか。 とかなんとかやってるうちにブレイクが倒れ、そのまま帰らぬ人に。葬儀で、ケイティはブレイクの手紙というかメッセージを読み上げるんだけど、内容はもうよく憶えていない。強い抵抗というより、静かな批判みたいなものだったかな。 なにも解決はしていない。実際、ブレイクやケイティのような人たちはイギリスにたくさんいるのだろう。根本的な解決を講じず、目先の対処しかしない政府。犠牲になるのは、貧困層だ。日本だって、これは似ている。年金問題や医療保険、いくらだってある。でも、公共投資は減らないし、赤字国債は増えていく。役人は減らないし、国家の力だけ強くなっていく。揚げ句は戦争で景気を浮揚させる、なんていうことになりませんように。 | ||||
ロングブランチ | 3/31 | 東京国立博物館大講堂 | 監督/Dane Clark、Linsey Stewart | 脚本/Dane Clark、Linsey Stewart |
カナダ映画。2011年製作の短編(14分)。原題は“Long Branch”。ショートショートフィルムHPの解説は「ある寒い冬の夜、それは二人にとっての一夜限りの夜はずだった。女は男の家に行こうと誘うが、男は家は街はずれ。長い道のりの中、二人は少しずつお互いを知ることになる」 路地裏でキスしている2人。女が、一発やろう、家は? と尋ねてきて「ロングランチ」と応える青年。青年が何か尋ねると「ブー!」と。プライバシーには触れたくない、やりたいだけ、らしい。がしかし、電車に乗って、バスを乗り継いで、降りたら雪で、しかも自転車・・・。女は、ここまできたら仕方ない感じでついていくんだけど、もう、早朝ジョギングのおっさんもいたりする。で、家に入って、女がむしゃぶりつこうとすると「ここは叔父叔母の家だから静かにして。部屋は地下」といわれ、またまた醒めてしまう。青年は「何もしないから、寝よう」といい、横たわるんだけど、女が少しその気になり、でも青年はもういいや、な感じで。でも、こんどは女が質問してきて、それに対して青年が「ブー!」で笑い合う。まあ、最後は、女も単にやりたいだけということもなく、青年の人柄に関心を持ち始め、心の交流が・・・なところでEND。 まあ、短編としてはまとまってるけど、ほんとうにあんな、たんに一発やって、そのあとはサヨナラ的な女がいたりするのか? の方に興味があるな。 ・東博などが開催するフライデーナイトミュージアムの企画の一環。大講堂で7時15分からの上映。客は少ない。 ・Blu-rayの上映らしいんだけど、操作画面がスクリーンに映ったり、上映が始まってもしばらく操作アイコンが映っていたり、まあ、運営が素人だよ。 | ||||
僕はうまく話せない | 3/31 | 東京国立博物館大講堂 | 監督/Benjamin Cleary | 脚本/Benjamin Cleary |
イギリス映画。2015年製作の短編(12分)原題は“Stutterer”。ショートショートフィルムHPの解説は「孤独な活版職人にとって、ネット恋愛は自分が言葉をスムーズに話せないと知られずに人と繋がりを持てる好都合な関係だった。しかし相手の女性から直接会おうと持ちかけられ、自分の本当の姿をさらけ出すことになる」 2016年の、アカデミー賞最優秀短編賞を受賞しているらしい。 どもりの青年。父親と二人暮らし。ネットでは、顔出しで、若い女性とチャットしているらしい。なかなか文学的なこともいうみたい。そんな彼女が「ロンドンに来ているから会わない?」と。困ってしまって、返事か遅れるが、結局、会うことに。で、待っている女性(結構な馬面)と目が合って微笑む、というところでEND。 ひょっとして、会いに行ったらろね彼女が車椅子に乗ってるとか、実は彼女は唖で・・・とかの展開を想像したけど、そういうわけでもなかった。はたして二人の会話は、おつはあいはどうなるの? な不安を残しているけどね。 青年の心の声はナレーションで滞りなく語られる。 ・これも東博などが開催するフライデーナイトミュージアムの企画の一環で、『ロングブランチ』の後に上映された。 |