2017年4月

パッセンジャー4/3109シネマズ木場シアター7監督/モルテン・ティルドゥム脚本/ジョン・スペイツ
原題は“Passengers”。allcinemaのあらすじは「近未来。豪華宇宙船アヴァロン号は5000人の乗客を乗せて地球を旅立ち、遠く離れた移住地に向かって航行していた。乗客は目的地に到着するまでの120年間を冬眠装置の中で安全に眠り続けるはずだった。ところが、航行中のアクシデントが原因で一つのポッドが不具合を起こし、エンジニアのジムだけが目覚めてしまう。ほどなく自分以外に誰も起きていないことに気づくジム。それもそのはず、地球を旅立ってまだ30年しか経っていなかった。つまり、ほかの乗客が目覚めるのは90年も先で、それはこの宇宙船の中でたった一人きりで残りの一生を過ごさなければならないことを意味していた。それから1年が過ぎ、孤独に押し潰されそうになっていたジムは、目覚めたばかりの美しい女性オーロラと出会うが…」
チラッと予告を見てしまっていたので、1人ではなく、女性と出会う、というのは分かっていた。こういうことは、知らないで見たほうがいいんだけどね。
で。SF映画によくある設定勝負の話で、たとえば『オデッセイ』とか『月に囚われた男』とか、その亜流かな、と思って見はじめた。
宇宙船が、隕石なんかをバリアで避けながら航行するのは興味深いんだが、巨大な隕石と遭遇し、システムに異常をきたした、という設定。それでも、ポッドの不具合はひとつで、ジムだけが目覚めてしまう。30年旅し、あと90年かかる、というところで・・・。で、地球にメールしようにも、届くのに19年で返事がくるまでに55年というから、これまたおいおい、な感じ。あと、乗客にも等級があって、食堂でも貧乏飯しか食べられないとか、メールにも莫大な費用がかかるとか、そういうところも面白い。
で、ジムは寂しさに耐えられず、ある女性のポッドを意図的に破壊し、起こしてしまう、という罪を犯す。しばらくはいい感じで過ごし、宇宙ランデブーをした後に求め合い、セックスするんだが・・・。
ここで重要な役割を果たすのがロボットのバーテンで。ジムは、自分が起こしたことをオーロラに言わないでくれ、といっていたんだけど、あるときバーテンが漏らしてしまうのだよ・・・。この辺り、昨今のAIの発達をみると、将来のロボットはあそこまでトンマじゃないと思うんだが。まあいい。
ジムは赦しを乞うためあれやこれやするんだけど、まあ、許してもらえないよなあ・・・。というところで、3人目が目覚めるんだけど、彼はスタッフで。ポッドの異常のせいか、臓器不全でさっさと亡くなってしまう。
と同時に、ときどき発生するちいさな異常、たとえばお掃除ロボットが勝手な方向に動き出すとか、を入れ込んでいるのが「あれ?」と思わせつつ、何かの予兆として描かれるのが上手い。まあ、この予兆は、最終的に駆動部の加熱(?)ということで、熱を放出しなければ飛行船は破壊されてしまう。そこでジムは排出口にもぐり、でも、熱を浴びて宇宙に放り出されてしまうんだけど、オーロラは宇宙服を来て助けに行くのだよね。
まあ、嫌ってはいるけれど、ジムが死んだら自分ひとりになってしまう、というのがあるだろう。あとは、自己犠牲の対応で、宇宙船を救い、他の多くの乗客を救ったから、というのもあると思う。すでに呼吸が止まり、医療システムも「死亡」を告げるんだけど、オーロラはすべての救命行為を医療システムに命じ、蘇生させることに成功する。おお。嘘みたいな展開だけど、なかなか熱い。
しかし、最初のランデブーで恋に落ちた2人が、2度目のランデブーで(といってもジムは気を失っているから知らないのだけれど)で元のサヤに収まるという展開も、さりげなく演出されているのがなかなか。
というわけで、ジムの犠牲的行為で宇宙船は危機を脱し、88年後。到着し、目覚めた乗客たちは、宇宙船内につくられた森や、そこで生活する動物たち、ジムとオーロラが住んだであろう家の痕跡を認めて驚く、というところで終わるんだが。SF映画といいながら、これは贖罪と赦しの物語なんだな。そういう意味で、たんなる科学サスペンスとも違って、なかなか深いような気がする。
もし自分がひとりだけ取り残されたら、どうするか? というようなことも感じさせてくれるし。
・その88年後はのシーンは、要るのかな? ていねいすぎる説明のような気がするんだけどな。
・木の家の周囲にいた動物(ニワトリだったか羊だったか・・・)は、あれも冬眠していたのを起こしたのかな。
・医療システムが、『エリジウム』にでてきたやつと似ているな。
・舞台となる時代の状況を、もう少し知りたい感じ。地球から定期的に移民が行われているらしいんだけど、それも120年もの冬眠を必要とするなんて・・・。その移民先は、どうやってみつけたのか? そもそも地球はどうなっているのか? 移民用の宇宙船に、これまでトラブルはないといっていたけど、移民を始めてからかなりの時間が経っているのか? その移民を行っている会社はどういうところ? 移民先の星は? とか、興味が湧いてくるし。 ・ジェニファー・ローレンスは、相変わらずタフ。見過ぎ姿も見せてくれるけど。なかなかよろしい。ははは。
手紙は憶えている4/5ギンレイホール監督/アトム・エゴヤン脚本/ベンジャミン・オーガスト
カナダ/ドイツ映画。原題は“Remember”。allcinemaのあらすじは「最愛の妻に先立たれ、認知症も日々悪化していく90歳の老人ゼヴ。ある日、友人のマックスから1通の手紙を託される。そこには、目覚めるたびに記憶を失ってしまうゼヴのために、彼が果たそうとしていたある使命が詳細に綴られていた。2人はアウシュヴィッツ収容所の生存者で、ともに家族を収容所の看守に殺されていた。しかも、その犯人は身分を偽り、今ものうのうと生き延びていたのだ。手がかりは“ルディ・コランダー”という名前で、容疑者は4人にまで絞り込まれている。そこで車椅子で体の自由が利かないマックスに代わり、手紙とかすかな記憶を頼りに、たった1人で復讐へと旅立つゼヴだったが…」
アウシュビッツ+ナチものである。またか。というか、まだやってるのか、な気もしなくはない。なんてことをいうと顰蹙を買いそうだけどね。とはいっても、ちょっと毛色が違って、登場人物は痴呆症の老人。それが、老人ホームにいるもうひとりの老人に操られるようにターゲットを訪ね歩くという趣向で、サスペンス&ミステリーの要素が濃くてとりあえずは飽きなかった。
どうやって4人のルディ・コランダーがリストアップされたのか、にも関心があるんだけど、そのあたりはざっくり、な感じ。で、ゼヴはよたよた出かけるんだけど・・・。まず思ったのは、なぜ痴呆症の老人が人を殺しに行かなくちゃならないのか? ということ。まあ、マックスは車椅子だからムリだけど、前日までのことも忘れてしまうゼヴに拳銃を買わせ、国境を越えさせ、殺させようとするのは、不安定要素が多すぎないか?
なので、思ったのは、ゼヴはもしかして、マックスの昔からの知り合いではないのではないか? ということ。たまたま老人ホームで知り合った痴呆症の老人を殺し屋に仕立てたんじゃなかろうか、とか思った。当たらずといえど、でも核心部分は外れているので、ラストのドンデンには「おお」と思ったけどね。
ここからはネタバレ。アウシュビッツの区長みたいな役職だったナチが、ユダヤ人を装って収容所を脱出し、アメリカに逃げ込んだ、と。でその当人が、マックスのいる老人ホームにやってきた。でも、当人は痴呆症で、自分をユダヤ人と思っている。でそのゼヴを操って、もうひとり、同じように逃げ出した元ナチを探して殺させようとする、という話だった。なるほど、そういうオチか。サスペンス&ミステリーとしては割りとありふれた手法でも、痴呆症やナチス+アウシュヴィッツと組み合わせると、効果を発揮するのだな。拍手。
それはいいんだけど、ゼヴは、昨日のことも忘れてしまうらしく、目が覚めると指示書である手紙を読むんだが。痴呆症になると、自分の過去、名前まで忘れてしまうのか? でも、ユダヤ人で、アウシュビッツにいたことは憶えてる、のだよな。違うのか? そのことは、マックスが刷り込んだこと。あるいは、手紙に書いてあるから、それを読んで、ゼヴは自分がユダヤでアウシュヴィッツ、と再確認するということか?
で、4人目の男に会って、相手から「お前はナチだった。一緒に逃げたんだ。腕の番号は、逃げるために彫ったんだ」といわれ、愕然とし、自死するというのは、あれは思い出した、ということだよな。違うか?
あと、ゼヴが4人目の家に入り、4人目が現れる前、ピアノを弾くんだが。それがワーグナーで。現れた4人目が「アウシュヴィッツにいた人間がワーグナーなんて・・・」というのは、4人目は訪問者を誰だと思ったんだろう? もしユダヤ人だと察知したら、会わないよな。それと、娘が「アウシュヴィッツのことで会いたいという人が来る」とかいってたような気がするんだが、では、4人目は元ナチであることが周囲にバレているということか? で、4人目の「アウシュヴィッツにいた人間がワーグナーなんて・・・」というセリフは、訪問者がユダヤ人であることを感じていた、ということなのかな。加えて、ゼヴがユダヤ人であることをここで強調し、ミスリードさせようということか。でも、よく考えるとワーグナーを弾くというのはゼヴ自身がナチ、を示唆するわけだけど・・・。この辺りが、少し分からない。
というようなことが、痴呆と記憶に関して、疑問なんであるが。
最初に会うのは、まったくの他人で。2人目は病床で、同じアウシュビッツの囚人。3人目はすでに亡くなっていて、戦時中は未成年なので別人だけど、息子がナチ狂いの警官という設定で、息子はゼヴを父親の知人と思ってたんだけど、ユダヤ人と知って犬をけしかけてくるのが怖い。んだけど、ゼヴは躊躇なく犬を撃ち、息子の脳天を撃ち抜いてしまう。思えば、銃の使い方もロクに知らないヨボヨボの老人がいとも簡単に人を殺せるのは、複線でもあったんだな。なるほど。
・最初の方に、祖父母が1949年(だったかな?)に結婚した、というようなことを10歳ぐらいの女の子に話すシーンがあったけど、その女の子は孫というよりひ孫になるんじゃないのか?
ハードコア4/6ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/イリヤ・ナイシュラー脚本/イリヤ・ナイシュラー
ロシア/アメリカ映画。・・・最初に漢字がでてきていたけど、中国資本も入ってるのか? 原題は“Hardcore Henry”。ポルノのズバリ、ではなく「徹底した、筋金入りの」という意味かな。allcinemaのあらすじは「白衣を着た美女エステルに呼びかけられ、見知らぬ研究室で目を覚ました男ヘンリー。彼の妻だというエステルは、死にかけていた彼を蘇生し、失った手足にマシンを取り付けサイボーグとして復活させた。しかし超能力を持つ男エイカン率いる武装集団の襲撃に遭い、エステルが掠われてしまう。ジミーという謎の男に窮地を救われたヘンリーは、彼の協力を得てエステル救出へと向かうが…」
見始めてすぐ、ああ、あの一人称画面で進む話か、と気づいた。で、やな感じになる。もしかして、つまんねえかも、と。で、その通りになった。画面がガチャガチャ動いて、いろいろ危険にあって切り抜けて、なノンストップスプラッターバイオレンスアクションなんだけど、設定もキャラもよく分からんまま、他人がプレーするゲーム画面を延々と見せられる感じ。画面の面白さだけで楽しめる人ならストーリー関係なく楽しめるのかも知らんが、「なぜ?」あるいは、ときどき「なるほど」があるとか、興味を引っぱるドラマがないとダメな人なので当然のように睡魔に襲われ、半睡状態でなんとか保っては痛けれど、中盤ですこし意識を失った。
そもそも、誰を信じ、何のためにヘンリーはサバイバルしてるんだ? って話だよな。妻エステルのため? そんなの、なんで信じてるんだ、って話だよ。とぎれとぎれの記憶によると、エイカンとエステルは仲間(?)で、多くの兵士たちに、ヘンリーと同じような設定をインプットしてるらしいんだが、エイカンとエステルの目的は、なんなんだ? サイボーグを大量につくって、世界征服? 同じようにつくられたサイボーグでも、ヘンリーが圧倒的につよくて生き残るのは、なんでなの? とか、疑問はあるけど、なにせ半睡状態だったので、細かいところはもう記憶にない。
そういえば、エンドクレジットにティム・ロスとでてきて、あの、少年たちのいるシーンに登場した親父がそうなのか?! とびっくり。あのシーンも、正直いってよく分からんのだよな。3人の少年がいて、なにやら金属のかたまりを壁にぶつけるんだけど、あの金属はなんなんだ? ティム・ロスは、誰? とかね。Webを見ると、ティム・ロスはヘンリーの父親らしいんだが、気づかなかったよ。ってことは、3人の少年にいじめられた、あるいは、ケンカで負けた少年ヘンリーに何か言っているということか? 何でそんな記憶が、サバイバルするヘンリーに必要なんだ? わからんなあ。
・一度、どっかの屋上かで戦って、やられて気絶するとき。あれは、金属か鏡に写った顔は、ヘンリーの、かな?
チア☆ダン 〜女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話〜3/7109シネマズ木場シアター8監督/河合勇人脚本/林民夫
allcinemaのあらすじは「県立福井中央高校に入学した友永ひかり。サッカー部に入った中学時代からの憧れの同級生・山下孝介を応援したくてチアダンス部に入部する。しかし顧問・早乙女薫子のスパルタ指導に反発して先輩部員が全員退部してしまい、残ったのはひかりをはじめ新入生ばかりのほぼ全員素人集団。それでもチームメイトの彩乃と切磋琢磨しながら練習に打ち込むひかり。そんな中、ついに廃部かという時、校長たちの前で思わず“全米で優勝します”と啖呵を切り、どうにか廃部を免れたひかりだったが…」
ダメ生徒が奮起して頂点へ、てなサクセス物は結構多いわけで、『スウィングガールズ』でも役者が楽器を習って演奏するところが話題になった。この映画でも広瀬すずなんかががんばって習ったらしいけど、それはそれでご苦労さんなことだけど、見てても「おー!」てなことにはならず、なんかな、な感じ。
そもそもこの映画、県大会、彼氏の退部理由、県大会決勝の演技、世界大会予選・・・と、前後は見せるけど、肝心なところを見せないシナリオになってる。なので、どう上手くなったのかもあまり分からず、成長も感じられない。差が分かるほどダンスが上手くなれず、演技は最後の決勝のシーンだけに絞ったんだろうけど、フラストレーションがたまる。
キャッチフレーズの「ミラクルストーリー」も、「は?」な感じで。 人物も、主人公のひかり(広瀬すず)と盟友の彩乃(中条あやみ)、陰気な唯(山崎紘菜)、デブの(多恵子)、途中でやめていくバレエ好きな麗華(柳ゆり菜)までは分かるけど、他のメンバーはほとんど分からず。人物の掘り下げも甘くて、共感するところもほとんどなし。早い話が話づくりがヘタ。
ダンスも魅せない、人物もロクに描けていないから、個人の成長が見えない。壁や悩みも書き割りみたいに薄っぺらで、なんかなあ、な感じだな。
で、あとからWebでモデルとなった福井商業JETSの演技とかみたけど、悪いが、現実の彼女たちにはかなわないな。つまらん演出で映画化しても、たいして面白くない。むしろ、現実の方が何倍も興味深い。なんで福井? そんな地方の高校の生徒が、初めて数年で日本一から世界トップに? しかも、今年も優勝して世界5連覇! って、どこがどう評価されたのか、映画の演技だけではほとんどわからない。というか、そういう部分を映画は避けている感じだな。
そもそも、個々のメンバーがなぜチアダンス部に入ろうとしたのか? というところからちゃんと見せて欲しい感じ。『七人の侍』があるじゃないか。あんな感じ。笑えないようなくだらんギャグなんて要らんのだよな。
部の顧問教師・早乙女(天海祐希)も、なぜあの学校でチアダンスを? あんなに熱血に? もよく分からない。最後の方で、女コーチがひかりに話す場面はあるけど、説明のための説明すぎて、記憶にも残らない。
その他、ひかりの家庭が父子家庭だとか、教頭がご都合主義者で校長は優柔不断とか、キャラの設定もありふれすぎてちっとも面白くない。
・福井は参加チームが4校らしいけど、全国では何チームなんだ? とか気になるし。世界大会は何カ国から参加して、どういう仕組みで、どう評価されるのか、なんていうところも知りたいぞ。
・全米決勝を学校の体育館で住民が見てる場面があるんだけど、実際にリアルタイムで衛星orWeb中継したのか? してないと思うけどな。
・教師の早乙女が、部の顧問になって、自己啓発本をたくさん読んでるとか、馬鹿か? な感じ。
・ ・エンドクレジットは、モデルの福井商業の演技のオンパレードかと思いきや、最後の写真1枚だけ? おい。リスペクトが足りないだろ。
・クレジットに「新潟」の文字がたくさん。ロケは福井じゃなくて、大半、新潟なのか? なんかなー。
キングコング:髑髏島の巨神4/11MOVIX亀有シアター8監督/ジョーダン・ヴォート=ロバーツ脚本/ダン・ギルロイ、マックス・ボレンスタイン
ワーナー映画だけど、中国資本も入ってるみたい。原題は“Kong: Skull Island”。allcinemaのあらすじは「泥沼のベトナム戦争が終結を迎えつつある70年代前半。南太平洋上に未知の孤島が発見され、米国政府特務機関“モナーク”によって編成された調査隊が派遣される。リーダーを務めるのは、ジャングルでのサバイバルに精通した英国陸軍特殊空挺部隊の元兵士コンラッド。メンバーはほかに研究者にカメラマン、ベトナム帰りの米軍ヘリ部隊を率いるパッカード大佐といった面々。しかし調査のために爆破を繰り返す一行の前に突如、あまりにも巨大な生物キングコングが現われ、ヘリコプターを次々と破壊し始める。その圧倒的な破壊力に為す術もない人間たちは、この恐るべき生物から逃げ延び、一刻も早く島から脱出すべく決死のサバイバルを繰り広げるのだったが…」
1933年のはテレビで何度か。1976年のはジェシカ・ラングが話題だった。こちょこちょするんだよな。で、ジャック・ブラックとナオミ・ワッツのは2005年か、もう12年も前なのか。ふーん。なんか、ストーリーもイメージも憶えてないな。でも、調べたら1976年版も2005年版も1933年版と同じくニューヨークに運ばれている。で、2017年なんだが、趣向を凝らしていて、なんと舞台はベトナム戦争終了直後の1973年。アメリカが失意のどん底にあった時代だ。で、描かれるのは、なんと『地獄の黙示録』じゃねえか、これ。
ところがオープニングは太平洋戦争での日米戦闘機の戦いで、パイロットがともに島に不時着。殺し合っているところに、なんとコングが登場してしまうという大サービス。で、フラッシュバックで時代は過ぎて1973年。
まだ発見されていない島が衛星写真(ランドサットらしい。そんな説明あったっけ?)でみつかって・・・という設定はツッコミどころ満載だけど、まあいいとして。まず話を仕掛けたのはトンデモ学者(かと思ったら政府機関モナークの幹部らしい・・・)で、長年その手の島を探していたらしいけど、某議員に島探検の手筈を頼み込むんだけど、なぜ議員経由で許可を得たり、軍隊の派遣を依頼するのか、そのあたりがよく分からんのだけどね。このモナークについて、ちゃんと説明すべきだな、もっと。あと、ランダの両親だかがどうたらといっていたっけかな? 個人的な事情から、島を探していたのか?
で、ランダと助手の黒人は、バンコクでやり手の英国人コンラッド大尉を雇うんだけど、英国特殊部隊の隊員だったのか・・・と、公式HPの記述を見てなるほど、といってたりする。彼の紹介もいまいちで、頽廃した感じでビリヤードなんかをやってたりする。コンラッドもベトナムで疲弊したひとり、なのか。
援護部隊の隊長を命じられるのがパッカード大佐で、彼はベトナムからの撤退でがっくりきているところ。俺のやってきたことはなんだったんだ? たくさんの仲間を亡くして…というところに、またまた活躍の依頼がきてハイになってる。いるんだろうな、こういうやつ、米軍には。戦いに意義を見出し、勝つまでやりつづけるようなやつ。迷惑この上ない。
そして、反戦カメラマンのウィーバー。どうやってもぐり込んだかアバウトだけど、まあ、バランス的にはちょうどいいか。というところが主なメンツで。他に中国人女性はランダの部下? いざ出発というミーティングで、新しい顔がぞろぞろ登場して、正直いって、それぞれの関係があまり理解できないままだった。それでもまあ、モナークと米軍と、英国特殊部隊くずれのコンラッドに民間人ウィーバー、という構成かな。たぶん。
で、分からないのは、ランダが何をどこまで知っていて、島の探検に出向いたのか。島の存在はうすうす感づいていた? それとも、エンドロールのあとの映像によると、他の怪獣の存在も示唆されていて、ということは、そういうもののひとつがいるかも、と思って行ったのか? 島に到着して最初に爆弾を投下したのは、地質の調査ではなく、怪獣を目覚めさせるため、だったのか? では、そういう手法をどこで学んだんだろう? とか、疑問はあるんだけどね。
当時の時代背景をうまく利用しているな、と思った。正義の戦いが敗戦で終わり、やってきたことのすべてが否定されたパッカードとコンラッド。彼らは、何か目的というか生き甲斐を求めていた、んだろう。そこにやってきた冒険の世界。ほんとハッスルしちゃうんだよな。とくにパッカードは常軌を逸するはしゃぎようなのが、まさにアメリカ帝国主義を象徴している感じ。まあ、ヘリが破壊されたのはコングを怒らせたからだけど、部下を大半やられて怒り心頭に発する気持ちは分からないでもない。でも、いくら外部の人間から見て不条理な世界であっても、島内では秩序が保たれているわけで、そこに自分たちの見方、ルールをもちこむのは、これはもう西欧至上主義の傲慢としか言い切れない。
もちろん他のメンバーは、自分たちが秩序破りであることを自覚している。けれど、パッカードは、コングが島では人間の味方であり、神とまで崇められていることを聞かされてもなお、復讐に燃える。これなど、ブッシュのイラク戦争や、最近ではトランプのシリア攻撃にも通じる。もしかしたら、トランプは北朝鮮にもちょっかいを出すかも知れない、らしい。こうやって、他国に干渉しつづけることで世界の警察を自認してきたアメリカの、自分の都合に振りまわされるのは、彼の地に住んでいる市民なのに・・・。
生き延びた一行は、3グループに分かれる。コンラッドとウィーバーを中心とするグループ。パッカードを中心とする軍隊グループ。あと、山頂に取り残され数人の兵隊。パッカードは山頂の仲間を救出してから、北へと向かうらしい。北には、船舶が待ち受けている。コンラッドとウィーバーは、なんと原住民と遭遇する。なんとなんと、冒頭、1944年の米兵と日本兵のうち、生き残ったハンク・マーロウ大尉が28年間も島から出られず、原住民とともに暮らしていたんだと!
後に、原住民の村を舟で脱出する辺りも含め、この辺りモロに『地獄の黙示録』じゃん。まあ、マーロウ大尉はまったく狂気に犯されてはおらず、むしろひょうきんでまとも。狂気はパッカードが受け持っている感じ。
山頂に数人、米兵が取り残されていて。パッカードは、その救出後に、島の北部の、本意との合流地点を目指すんだが。すでに山頂の兵士は巨大トカゲにやられていて、無線でも連絡はつかず。なので、ウィーバーなんかは、「死んでいる」と救出を諦めるよう言うんだけど、耳を貸さないパッカード。1人を助けるために全員を犠牲にすることもいとわない、狂気の沙汰も極まった感じ。なので、二手に分かれよう、とか言うのかと思ったら、分かれないのが不思議なところ。フツーの感覚では、コンラッド+ウィーバーのグループ、パッカードの兵士たちで分かれてもいいと思うんだけど、そうならないのは、ちょっとムリがあるかな。まあ、コンラッドは高給で雇われたんだから、パッカードと合流してもいいかも知れないけど・・・。
山頂では巨大トカゲに襲われ、でも、ここはコングに助けられるんだっけか? 自力で逃げだすんだっけか。忘れた。記憶にあるのは、マーロウが刀を振りかざし、「不名誉より死!」とか日本語で叫び、怪獣に挑んでいくところかな。
でまあ、最終的には、巨大トカゲのボスみたいなのが地下から現れ、コングとの一騎打ち。鎖にしばられて・・・というお約束は、船の錨をつなぐ鎖が胸にからむ、ということでちゃんと表現。それと、手の中に美女も、あまり美女ともいえないけどコングはウィーバーに惚れたようだし。このあたりはちゃんとクリア。まあ、コングがウィーバーのどこにどう惚れたのか、は謎だけど。
あと、この手のアクションで欠かせないオッパイ強調のお約束も、タンクトップ姿のウィーバーでちゃんと守ってる。
楽しくて、ちょっと泣かせるのが、マーロウ大尉の帰国シーン。妻は、ずっと息子と待っていて。なんか、『幸福の黄色いハンカチ』みたいな気分になる。驚いて何も言えない息子・・・。いい場面だ。そして、家のソファーでビール飲みながらカブスの試合。あれは、劇的勝利なのか? 1973年。「叶わぬ夢が叶った」というテレビのアナウンスが、マーロウ大尉の人生とかぶって、なかなか。泣ける。
・エンドクレジットの後、コンラッドとウィーバーが、尋問を受けている? かと思ったら、現れたのは中国人女性ともうひとり。あれはモナークの入所試験なのか? まあ、2人は内助でだろうけど。で、聞かされるのは、まだまだ怪獣が支配する島(?)とか場所はいくらでもある。なので「ともに取り戻そう」と誘われる。そのシーンで現れるのが、洞窟(?)に描かれたゴジラ、モスラ、キングギドラっほい絵・・・。笑ってしまった。オタクだな、スタッフも。続編で、登場したりして?
・ランダとか、その他の重要そうに見える人物も、案外と簡単に食われたりつぶされたりして死んでいくのは、思い切りがよくてよろしい。まあ、コンラッドとウィーバー、マーロウ大尉が生き残るのは明白だし。
・マーロウ大尉と一緒だった日本兵が、何年か前に怪獣に食われて死んでしまった、というのは、ちょっとなあ。日本の観客としては、中年日本兵も見てみたかった感じ。
・ところで、ランダという名前は、魔女ランダと関係があるのかね。
ミス・シェパードをお手本に4/14キネカ大森1監督/ニコラス・ハイトナー脚本/アラン・ベネット
原題は“The Lady in the Van”。allcinemaのあらすじは「ロンドンのカムデン、グロスター・クレセント通り23番地。文化人が多く暮らすリベラルなこの地区に、壊れかけた一台のバンが停まっている。所有者はみすぼらしい身なりの老婦人、ミス・シェパード。ホームレスの彼女は、このバンで寝泊まりし、自由気ままに暮らしていた。プライドが高く、心配する近所の住人の親切にも、悪態で返す偏屈ぶり。ある日、ついに退去命令を受けて途方に暮れるミス・シェパード。劇作家のベネットは、そんな彼女に自宅の敷地を提供する。一時しのぎになればと軽い気持ちで提案したベネットだったが、まさかそのまま15年間も居座り続けるとは思いもしなかった。頑固で変わり者の彼女に振り回されつつも、決して互いに深入りすることのなく、一定の距離を保って奇妙な共同生活を送るベネット。それでも作家として、ミス・シェパードの謎めいた人生に興味を抱かずにはいられないベネットだったが…」
「英国の劇作家アラン・ベネットの驚きの実体験を、アラン・ベネット自らの脚本で映画化」だそーだ。公式HPの「人間関係のしがらみや物欲にとらわれないミス・シェパードの自由な生き方は、きっと私たちの心も豊かにしてくれます」というフレーズは、まやかしだ。家にしばられず生活し、親切にされても感謝の言葉のひとつも返さず、自分勝手で嫌みしか言わず、へそ曲がり・・・。こういうのを自由な生活というのか?
そもそもこれは、狂人の話だ。もちろん狂人の方がまし、という見方はある。たとえば『まぼろしの市街戦』なんかはその典型。だからといって狂人がいいというわけではないはず。そもそも原題には「手本」なんていう意味は入っていない。クルマに住むレディ、でしかない。
小説や映画には狂人がよく登場する。浮世離れした行動をしたり、周囲への配慮なく生きるとか、まあ、フツーの人間ではできないようなことをするからかも知れない。そもそも神がかる人は狂人で、異世界につながる人でもあるからだろう。
ミス・シェパードは自分のバンを運転し(つまり免許をもち、クルマも所有している)、ロンドンの高級住宅街(なのか?)の一角に停めて、そこで生活している。なので、まったくのホームレスというわけではない。移動する家に住んでいるというわけだ。へー、と思うのは、これが違法駐車とはならず、堂々と停めて生活していること。住宅地では有名人で、今度はどこに停めるのか、と持ちきりだったりする。しかも、役所の保健局の女性が定期的にやってきて、衣服を支給してくれたり、ときには医者まで連れてきてくれる。追い出そう、なんていう気配はまるでない。先日見た『わたしは、ダニエル・ブレイク』に登場する役人とは大きな違いだ。むかしはおおらかだったのかね。
その反面で、彼女の生い立ちや過去は、謎である。まるで肝心なことをはぐらかすような描き方だ。かつて修道院にいたが、ビアノを弾いたせいで追い出された。バリに音楽の勉強に行っていた。フランス語も堪能。兄だか弟がいて、たまに会いに行っている。多少の支援はしているが、「彼女は変わっている。精神病院に入ったこともある」という。定期的にやってきて、金をせびるオヤジがいる・・・。そして、過去にひき逃げをしていて、それを悔いている? ・なんだこの暗黒面は。修道院とバリ留学は、どっちが先なのか? ピアノを弾いて「神を信じない女」とかいわれたらしいから、留学が先か。でも、華々しくピアニストとして活躍したこともある彼女が、なぜ修道院に? その後、大きく飛んで、事故はいつの時なのか。分からないけれど、だいぶたって、もう娘ではない頃みたい。
本人はひき逃げをした、と思っているらしい。それでパトカーに追尾され、逃げた。事故はともかく、逃げるような女性である、ということだ。おそらく、クルマでの生活は、その後の逃亡生活と重なるんじゃなかろうか。彼女が家を持たないのは、おそらく世間から身を隠すつもりだからだ。といいつつ、多くの人に顔を知られ、近所では有名人で、役所にも動向は把握されている。このあたりのギャップは、やはり狂気のなせる技なのではないかと思う。あれで彼女は。隠れているつもりなのだ。
事故については、たびたび教会で懺悔しているらしく、神父は内容も把握している模様。でも、警察には言わない? いや、言わなくてもよい、と分かっているから、なのか?
で、歩道側にラインが引かれ、それに触れての駐車は不可、になるのかな。新たにクルマを停める場所を模索しているところに、アランが「うちにどうぞ」というのは、ミス・シェパードが「母親をネタに本を書いて。次は私?」というように、ネタのつもりだったんだろう。まあ、それが15年もつづき、ほとんど老人介護になってしまったのは誤算だろうけど、見上げた行動だ。まあ、独り身だから(同性愛者か?)できたんだろうけど。
アランは、作家としてのアランと、日常生活者としてのアランが分裂して登場し、語り合う。いっけん面白そうな表現だとも思うけれど、正直いってうっとうしい。だいたい、セリフが中途半端に哲学っぽく、思わせぶりな表現も多いので、ぱっと字幕を見ても、何をいってるのか分からないようなこともたびたびで。だから、アランの心の声など、ほとんど憶えていない。まあ、吹き替えであっても、頭に残らない可能性はあるけれど。
で、次第にミス・シェパードも衰え、最後は車椅子で、ある日、保健局の女性がやってきて、バンのなかで亡くなっているのを発見する。15年。着たきりで臭く、ウンコもあちこち飛び散らかし、悪態しかつかないような老女相手に、ご苦労なことである。
葬儀にはアランと近所の人、保健局の女性、せびり男もやってくる。兄弟はきてたかな? で、せびり男がいうには「私は警官」と。ミス・シェパードのひき逃げは、彼女の罪ではない。四つ角で停まっていたら、バイク青年が勝手に突っ込んできてバンに激突。ミス・シェパードは動揺し、警察に告げずにその場を離れた。その彼女を追尾した警官なのかな? では、ミス・シェパードがくだんの警官に渡していた札は、なんなのだ? 警官は、彼女が悪くないと知りつつ脅し、金をせびっていたのか? でも、そんなんで葬儀にやってくるか? 分からない。
ミス・シェパードは、なかなかの金持ちだ。せびり男にも札を渡している。最初のバンが古くなると、どこからか似たようなバンを調達し、運転してきて、アランの庭に停車した。どこで手に入れた? クルマは、もう一台。住まい用とは別に軽自動車も運転していた。日々の生活費、もろもろ。いくらかは兄弟に頼ったかも知れないけれど、金に不自由していないのは、なぜなのだ? すべて兄弟の支援? もしそうなら、なぜ兄弟はそうまでして支援しつつ、施設に入れない? ミス・シェパードが施設嫌いだから? 分からない。
というわけで、たぶんアランは彼女が狂人であることを知りつつ、人間として興味をもち、庭に住まわせたのかも。その成果は書籍になるんだけど、できあがってきた本が薄っぺらなのは、あれは戯曲だからなのか?
でまあ、彼女が「手本」ということについてだけど、とくに手本にはなってないと思う。まあ、最後の方に、ベネットが「学んだ」というようなことをチラッと述懐(何を言ったかはまったく憶えていない)していたようなところがあったような気がするけど、それは周囲に気を使わない狂人の生活を少しうらやましく思ったのではないのかな。
で、ラストで、ラスト。自分がはねたと思っていた若者と手を組んで、お花畑。空には神が・・・。誤解も解けて、これでのびのび天国暮らし? やっと平穏が訪れた、な感じなのかな。というか、アランが、彼女に、そうあって欲しい、と願っているというようなところだろう。それにしても、具体的なかたちで神が登場するのは、なんか、やだな。オカルトみたいな感じになる。
・ミス・シェパードは最初のバンも軽自動車も、2台目のバンも黄色に塗るんだけど、あれは狂人の行為かな。黄色・・・。
・アランが、ミス・シェパードがいた修道院にいく場面があるんだけど、相手をした女性はすぐにミス・シェパードのことを思いだしていた。現在のことも知っているようで、有名人なのかね。あと、その修道院は、アランの住まいからそう離れていないところ、みたいに思えたんだが。となると、ミス・シェパードはずっとあのあたりで暮らしつづけていた、ということなのか?
・あと、修道院ではミス・シェパードの音楽をムリやり制止し、追い出したような説明があったけれど。終わりの方では、それ以上頭がおかしくならないようピアノを制止した、ととれるような描写もあったような気がするんだよな。であるなら、ミス・シェパードは若くして狂気に取り憑かれ、修道院に入れられたけれど、そこでも奔放なことをして追い出された? のかな。とはいえ、以後の何10年か、どのように生活していたのかは謎であるが。
・アランの家に出入りする役者のなかに、ドミニク・クーパーがいた。重要な役回り? と思ったら、そこだけだった。他の、出入りする演劇関係者にも、有名どころがいるのかね。知らんけど。
それにしても、マギー・スミス81歳で映画だけではない。舞台もこなしている? セリフがよくいえるなあ。凄い。
マダム・フローレンス! 夢見るふたり4/17ギンレイホール監督/スティーヴン・フリアーズ脚本/ニコラス・マーティン
イギリス映画。原題は“Florence Foster Jenkins”。allcinemaのあらすじは「1944年、ニューヨーク。社交界の大物マダム・フローレンスは、持病を抱えながらも音楽を愛し、莫大な遺産を音楽家のために惜しみなく使ってきた。そんな彼女がある時、ソプラノ歌手になるというかつての夢を再び取り戻し、レッスンを再開することに。ところが彼女は自分では気づいていないが、歌唱力に致命的な欠陥を抱えていた。それでも愛する妻から夢を奪いたくないと、夫のシンクレアはすぐにレッスンの手配を進める。しかし伴奏者として雇われたピアニストのコズメは、フローレンスの歌声に呆然としてしまう。シンクレアはそんな周囲の否定的な反応を懸命に封じ込め、フローレンスが気持ちよく歌える環境を整えるべく奔走する。おかげでますます自信を深めていくフローレンスだったが…」
落語の『寝床』みたいな話で、自分の音痴に気づかないオバチャンがコンサートを開き、聴衆を悩ませるお話。といっても、なぜか亭主が妻思いで、観客に金を包んだりあれこれして、本人に音痴を気づかせないようにする。なので、本人は鼻高々なんだが、自分の音痴が分からない人もいるのか。・・・調べたら脳が原因がある音痴は、自分の音痴に気づかないらしい。ふーん。
それにしても、全体に表面的な話がつづいて、大きなドラマがあまりない。それと、背景も分かりにくい。
たとえばフローレンスは18歳で初婚。相手の医師に梅毒を伝染され、命に別状がなかったものの左手が少し不自由に(1902年に離婚)。以来、50年。梅毒でそんな生きるのは珍しいと映画に登場する医者がいっていたけれど・・・。舞台は1940年。ということは、逆算すると生まれは1872年頃?(Wikipediaによると、実際はフローレンス(1868 - 1944)、夫のシンクレア(1875 - 1967)だと)。7歳年上の女房なのか。で、亡くなるまでの話なので、1940年〜44年まで。フローレンスは72歳から、シンクレアは65歳から、ということになる。というようなことも、こうして調べないと分からんのだ。
フローレンスは資産家で、親の遺産があるらしい。音楽関係のパトロンもやっていて、トスカニーニにも支援している。なので、彼女のレッスンは結構な音楽家がやってるんだけど、音痴のおの字もいわずに褒めちぎる。まあ、金のためだからな。しかし、彼女の出自は? 結婚後の暮らしは? シンクレアとの出会いは1919年(フローレンス51歳、シンクレア44歳)と軽く触れられているけど、詳細は分からない。さらに、シンクレアの職業が皆目分からない。かつては役者志望だったらしいけれど叶わず・・・。フローレンスのヒモ? だから妻を持ち上げているのか? と思っていたら、梅毒なのでセックスはなし、の関係らしい。それで住まいは別宅で、そこに愛人と暮らしている? シンクレアはゴメスに「フローレンスも承知」といっていたけど、ある朝、フローレンスが別宅にやってきたとき、愛人のキャサリンを隠すのに大わらわだったけど、愛人は公認なのか? 秘密なのか? よく分からない。
ぐらいしか、フローレンスとシンクレアについて分からない。なので隔靴掻痒。もっと人物とその背景に迫らないと、物語も薄っぺらにしかならんだろ。
Wikipediaを読むとフローレンスはピアノ教師をしていたことがある、と。おお。で、遺産相続後にクラブを設立して歌のレッスンを受けるようになり、1912年に初リサイタル、とある。この経緯は映画ではバッサリ。冒頭の、クラブでの発表会みたいなのはシンクレアが司会で、たぶんこれが1940年のものなんだろう。で、この後に、ホールを借りてのリサイタル、となり、これが人前での最初の披露みたいに思える。でも、違うみたいだな。まあ、映画だからしょうがないけど、どんなピアノ教師だったのか、興味あるな。そういうのを描いていけば、フローレンスも厚みのある人格になったろうに。
シンクレアも同じで、Wikipediaによるとブロードウェイにも出ていたようで、ちゃんと役者をしていたようなことを書いている。しかし、出会いはどうだったのか。なぜセックスのない結婚をしたのか? など、疑問だらけである。
さらに、ピアノ伴奏者として選ばれるコズメ・マクムーンだけど、なぜ面接なんかをしたのだ? それまでも伴奏者はいただろうに、あの時点(1940年)の面接は、どういうこと? たとえば、前任者があきれ果ててやめてしまったから、とかあるのなら、そういうエピソードを描けばいいのに。
というわけで、冒頭から最初のコンサートまでは、背景が芒洋とし過ぎていて、なかなか話に入れず。というか、話が薄い。
さて。ひどい音痴というから吐きそうになるほどかと思ったら、そんなこともなかった。Webにも音源がいくつか上がっていて、外れはするし、高音が途切れ途切れになったり、伸びがないとかあるけれど、おおむね音程に追従している。なんだ、こんなんじゃ十分にガマンできるだろうに。大笑いするほどのこともないぞ、と思った。まあ、人前で歌って聞かせるのはどうかと思うけど、拷問というほどではない。もっとひどい人はいくらでもいる。
なわけで、1944年なのかな。に、カーネギーホールでのコンサートを終えるまで、フローレンスは自分が音痴であるとの自覚がなかった、かのように描いているが、Wikipediaや公式HPの年譜とは違っている。いつごろからか分からないけれど、批判は承知。カーネギーの前にもあちこちで唄っているらしい。海軍のために唄ったのはカーネギーのずっと前、1922年頃と年譜にある。また、コズメを雇ったのは1930年で、この頃は毎週ホテルで唄っていたらしい。それどころか1938年・69歳のときには毎週ラジオに出演して唄っていたという。そして、1944年のカーネギーは有料コンサートで、チケットも2時間で完売、とある。映画と全然違うじゃないか。
まあ、ちょっとグッと来たところというと、カーネギーで歌い始めたとき、以前のコンサートでは笑い転げて追い出された、ちゃらちゃらした、知人の若い後妻が「一生懸命やってるんだから笑うな!」という感じで兵隊たちを怒鳴りつけたところくらいかな。あ、あと、別宅でのパーティで、その若い後妻を相手に「シング・シング・シング」を踊るヒュー・グラントが、とても格好よかった。
なわけで、カーネギーの後、息を引き取るフローレンス、で映画は終わってしまって。とくに、印象深いところもあるわけでもなく、なんか肩すかしな感じだった。
・梅毒のせいなのか、フローレンスは頭髪が生えないらしい。あれは、本当に剃ったのか? CGかな。
・伴奏ピアノのコズメ・マクムーンは、1901-1980年で、エンドロールでボディビルを始めた、とか紹介されておった。メキシコ人なのか。1940年には39歳で、とくに若いとはいえないよな。
・カーネギーにやってくるコール・ポーター。単なる添え物的な扱いじゃん。
・唯一、カーネギーの批判記事を書いた「N.Y.ポスト」の一面に「JAPAN'S SEA POWER XXXX」(※調べたらXXXXは、BROKENらしい)という文字があるのが気になってしまった。太平洋戦争の最中だったんだな。この出来事。
・Wikipediaには、シンクレアはピアノ教師のKathleen Weatherleyと結婚した、とある。映画では同棲中の愛人として描かれていて、フローレンスを嘲笑した酔客を諫めに行ったシンクレアにあきれ果て、シンクレアを捨ててしまう女性として描かれているんだが。これも創作ということか。
・ヒュー・グラント。撮影時は55、6歳なのに、劣化がかなり激しい。『コードネーム U.N.C.L.E.』では気がつかなかったもんな。
ゴースト・イン・ザ・シェル4/18109シネマズ木場シアター7監督/ルパート・サンダーズ脚本/ジェイミー・モス、ウィリアム・ウィーラー、 アーレン・クルーガー
原題は“Ghost in the Shell”。見たのは日本語吹き替え版。字幕版、あまりやってないんだよ、困ったことに。中国資本が入っているのか? allcinemaのあらすじは「電脳ネットワークと肉体の義体化が高度に発達した近未来。世界最強の捜査官、少佐。悲惨な事故から生還した彼女の体は、脳の一部を除いて全身が義体化されていた。少佐はタフで有能な精鋭メンバーを擁する公安9課を率いて、凶悪なサイバーテロ犯罪に立ち向かっていた。ある時、ハンカ・ロボティックス社の関係者が何者かに襲われる事件が発生。捜査を進める少佐の前に、クゼという凄腕のハッカーの存在が浮かび上がってくる。事件の真相を追ってクゼに迫っていく中、いつしか自分の脳に残るわずかな記憶に疑念を抱くようになっていく少佐だったが…」
そういえばアニメの『攻殻機動隊』はビデオで何年か前に見たけれど、ほとんど話は憶えていない。それ以外、『攻殻機動隊』については知らない。そんな感じ。
で、冒頭で説明されるのは、何かの事故で運ばれて、脳だけを生かして再生されたのか。少佐がいて。でも、なんで少佐なんだか良く分からない。そもそも数年でどれだけの経験と実績を積んだんだ? とかツッコミを入れたくなってしまう。まあ、それはいい。よく分からないのは、最初の、宴会での攻防で。あそこで何が行われていて、少佐は何のために突入したりか? 頭に銃を突きつけられていた男は、だれ? その他の、芸者ロボットとか黒人とか、あれはなんなの? 説明あった?
のっけから「?」で、それに対する答えも出てこないので、いつまでも話に入れず、とうとう寝てしまった。気づいたら、クゼという敵と話をしていて、その正体が分かった、というようなところ。どーもクゼは、なにかの被害者で、それでロボティックス社を攻撃しているらしい。予告編を見ると、革新的なところを見逃して要るみたい。ははは。まあいいか。のだけれど、以後も、ロボティックス社と公安9課の関係とか、見えてこない政府との関係が分からない。
この世界は、ロボティックス社が支配している、のか? そもそものところが曖昧だから、どーも話に入れない。
で、事故にあった人間を再生しているのではなく、人間狩りをして生身のパーツを集め、それで義体化(サイボーグ化)してた、のか? それで怒ったクゼが、ロボティックス社にテロ攻撃? にしても、クゼとその一味は、どうやってあんな機動部隊を? どっからメンバーを調達したんだろ。とかね。そんな案配なので、ストーリーとしてはいまいち乗れなかった感じ。
ビートたけしが公安9課の荒巻大輔を演じてるんだけど、セリフ棒読みで恥ずかしい感じ。もともと演技が下手な人なのに、なぜこのキャスティング? で、吹き替え版だから日本語のセリフ、ではなく、オリジナルでも周囲が英語なのに、たけしは日本語で通しているらしい。自動翻訳機でもあるって設定なのか? 変なの。
少佐の脳は草薙素子のもので、ロボティックス社の何かかチンピラ狩りかなんかして捕まえたもの、なのか? よく分からんが。しかし、得体の知れない娘の脳を、最新のサイボーグに搭載する、ということ自体がよく理解できない。もうちょっとマシな脳はいくらでもありそうなもんだが・・・。
それと、少佐のように脳だけ人間、というサイボーグは初めて、みたいなことが言われていたけど、じゃあ他のサイボーグはどうなっているのだ? 人間率何%とか、サイボーグ率何%とか、あるのかね。まあ、そのあたりはテキトーということなのか。
で、少佐は敵陣に乗り込むときとかバトルするとき、裸、のようになるんだけど、どうみても裸に見えるスーツを着ているようにしか見えないんだが。アニメでは裸だったっけ? それとも、裸スーツ? でも、なんで裸になる必要があるんだ? よく分からない。
まあ、要するに、この時代背景がよく分からないというのが大きな欠点。それと、ロボティックス社が公安9課というんだから国の組織なんだろうけど、そこにサイボーグを送り込んでいる、という話なんだろ? では、ロボティックス社と国家のつながりは、どれだけダークなのだ? いや、そんなことまでして公安9課を維持するのはなんでなの? とか、突っ込みたくなってしまうんだよなあ。
・自分探し、という意味では、こないだ見た『セルフレス/覚醒した記憶』と同じだな。あっちは、合成した人体に脳の記憶を移す、という触れ込みだったけど、実は生身の人間を調達してきていた、という話だった。まあ、人工の身体と生身の身体の違いはあるけど。あれも『攻殻機動隊』の影響だろう。そういえば『マトリックス』も、『攻殻』の真似がある、とかいわれてたような・・・。
・客の入りは悪かった。スカーレット・ヨハンソンが草薙素子をやっても、誰も見に来ないということか。ビートたけしは逆効果? あと、草薙素子の母親を桃井かおりなんだけど、どれもうーむ、な感じ。
・舞台となる未来は、どーみても中国風なんだよな。桃井かおりが住んでいる家も、まるで中国のアパートみたいな感じ。これは、中国資本が入っているせいなんだろうか?
台湾アイデンティティー4/19キネカ大森2監督/酒井充子脚本/---
allcinemaの解説は「台湾は1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの半世紀、日本の統治下にあり、日本語で教育を受けた“日本語世代”といわれる老人たちが現在も数多く暮らしている。本作は、「台湾人生」の酒井充子監督が再びそんな“日本語世代”の老人たちを訪ねて回り、敗戦で日本が去ったあとの彼らの苦難の道のりをカメラに収めたドキュメンタリー」
見てから2週間も経ってしまった。やれやれ。あらかた忘れてるな。それはさておき、これは日本人監督が、日本統治下を体験した台湾人にインタビューした映画。総じて受けた印象は、日本LOVEな台湾人、という感じ。いや、そんな単純ではないと突っ込まれそうだけど、老人たちの多くは日本語をしゃべり、日本の歌をうたい、日本人監督にも開けっぴろげで応えている。憤り、被害を訴え、要求を突き立てる老人はいなかった。統治下の生活や、日本がもたらしたインフラ整備についても、おおむね肯定的で、日本のおかげで台湾は経済的に発展し、人々の規律もよくなった、という感じ。そして、皆が声をそろえていうのが国民党への憎しみだった。2.28事件。そういえば、数年前の芸大陳列館で台湾人留学生の絵画の展示があり、帰国した人々の残酷な末路が解説してあった。それと、2.28事件は『悲情城市』で描かれているのは知っていて、ビデオで見たような気がするんだけど(見てないかな? 分からない)、暗い内容で、あまりよく分からなかったんだよな、実は。全部みなかったのかな? 分からない。というわけで、台湾人にとっての2.28事件について、印象に残った映画だった。
「いままでは日本、今度は国民党」と、翻弄された台湾人。それまでの皇国教育から180度変わって、インテリが弾劾され、逮捕・監禁・殺害されていった時代・・・。旅行代理店の社長だったかが、「時代が悪かった」と漏らしたのが印象的だった。そして、酔うに連れ国民党への口調は厳しくなり、「国民党を非難しない連中は台湾人じゃない」というようなことまで語っていた。当人も逮捕された経験をもつからの言葉だろう。あの当時の本省人は、みな思っていたかも。
高一生という人の娘で、歌手をしていたという老婆が出てくる。父親の思い出を懐かしく語り、いまは資料館かなんかになっている旧宅に行くんだけど・・・。その高一生は高砂族のひとつのある部族の出身で、教育を受けて役人かなんかになるんだけど、後に国民党によって銃殺されられたという。牢獄から娘に宛てた日本語の手紙が、なんともいいがたい。部族出身で高等教育を受け、地域で慕われる存在だったんだから、頭脳明晰だったんだろう。それが、大陸からやってきた無知な連中に、簡単に殺されてしまう。
ここで思うのは、日本統治下では、現地人も能力によって抜擢され、組織のリーダとして育てられたのだな、ということだ。こうした体系化が、全台湾人に及んでいたんだろう。台湾は、日本化した。とはいえそれは日本化の強制でもあり、知識や教養、公共心なんかとひきかえに、民族としての歴史や習慣を捨てさせられることだ。どちらがよかったか、などと言うことは出来ないけれど、占領政策としては全世界的にはるか昔から行われてきたことで、だから日本人は極悪非道、ともいえないわけで。日本の帝国主義を正当化するつもりはないけれど、多くの日本人にとっては、占領した新領土台湾に住む人々を野蛮な暮らしから解放し、文化的な生活をさせようとしたことでもあるのかも知れない。台湾を統治するトップや上層部は日本人でも、その下の幹部クラスは台湾人に任せようとした政策なんだろう。そういえば『セデック・バレ』にも、部族出身の警官が登場していた。日本人が植え付けた教養やモラルがなければ、外省人と同じような感覚でものごとを見られた、のか? 高砂族のような少数民族は、野蛮人、といわれて疎外させられるようなことになったのか、分からない。いやほんとうに、どうだったらよかったのか、という答はでそうにない。
あのまま日本統治が行われていればよかったのか? しかし、台湾は中国のものになって、それまで日本人として教育されてきた台湾人は、突如、中国人となった。でも、外省人からみると、昨日まで自分たちと対立していた敵だ。日本には捨てられ、中国には蹂躙される。台湾人のアイデンティティは、どこにあるのか? というような展開で、現在もつづく中国大陸との敵対関係、ひとつの中国を認めない台湾人の矜持のようなものも感じられる。香港だって、中国に返還されたけれど、2.28事件と似たようなことは、規模は小さいけれど起こっているわけで。もし、台湾が中国になったら、2.28事件の悪夢が・・・という気持ちはよく分かる。
・他にも、台湾から日本にやってきて、山梨で生活しているうちに当地の女性と恋仲になって結婚し、その妻とともに台湾に戻ったという人もいた。こまのエピソードは『湾生回家』だったかな。忘れた。いや、それぐらい、日本人も台湾人男性を高く評価していたということではないのかな、当時としては。日本人の大半が台湾人を下に見ていた、わけではないんだろう。
・高一生の娘が、後に本人も国民党に引っぱられ、最後は「自首證を書いた」っていってたけど、自首證がどういうもので、どういう重みがあるものなのか説明がないと分かりにくいよな。
湾生回家4/19キネカ大森2監督/ホァン・ミンチェン脚本/---
allcinemaの解説は「“湾生”とは日本統治下の台湾で生まれ育った約20万人の日本人をさす言葉。日本の敗戦後、彼らは日本本土に強制送還された。本作は、そんな歴史に翻弄された湾生の人々を訪ね、日本にいても故郷・台湾によせる望郷の念を抱き続ける彼らの物語を通して日本と台湾の絆を見つめたドキュメンタリー」
これは台湾人監督が、日本統治下を体験した日本人にインタビューした映画。総じて受けた印象は、台湾LOVEな日本人、というもので、台湾生まれだからそうなんだろうけど。『台湾アイデンティティー』とつづけて見て、互いに同胞意識をもっていたらしいのが感じられる。たとえばあるオバサンが母校の女学校を訪れる場面では、台湾人の同級生に話が及ぶんだけど「自分は差別していた意識はなかったけれど、あっちはそうとうがんばっていただろうし、日本人に気をつかっていたはず」と漏らす。まあ、そんな感じなんだろう。日本人が一方的に同胞意識をもっていた、のがホントのところかも。表面的には区別はしないけれど、実質的には超えられない壁がある。でもまあ、それはしょうがないような気がする。いまだって、日本人と在日朝鮮人とのあいだには、制度的にはほとんどないようになってはいるけれど、感情的には壁がある。海外だって、その国の人と移民とでは区別がある。そんなもんだろう。
あるオッサンが、かつての家の近くを訪れる場面では、誰々は死んだ、誰それも死んだ、などといわれて残念そうな顔になるが、何人か、当時の遊び友だちに会えて懐かしそうにしている。もっとも、相手はそれほど感動していなさそうで、というより幾分戸惑ったような感じで、もしかしたら相手にとっては、このオッサンは懐かしがる相手ではないのかも知れないな、とも思った。とはいえ、拒絶感を示しているわけでもなく、迷惑がっているのわけでもなく「ああ、〇〇かあ・・・」と思い出しているからには、一緒に遊んだのは事実なんだろう。オッサンとしては、これから昔なじみに会いに行くシーンを撮るのだから、という意気込みがあるはずだから、なんか自分から演出しちゃってるのかもしれない。相手の台湾人にとっては、まったく突然の訪問だから、まあ、そりゃあ呆気にとられるところもあるだろうよ。そんな感じかな。
多少違和感を抱きつつ見たのは、病床の女性の家族が、実母をもとめて日本へ何度もやってくるというエピソード。幼いときに母親に捨てられ、その後、台湾で暮らし、いまは子供も孫もいる。そんななかで、なぜ母親は自分を捨てたのだ、と思っているらしい。で、何度かの訪問で、実母の田舎が岡山、だったかな、と分かり、墓も見つけた。のだけれど、その実母の家族はまったく登場しない。さらに、大阪だったかどこだったか、実母が住んでいたアパートも見つけ出すんだけど、その実母を知っているという人は取材拒否とかで、それ以外の人への、隔靴掻痒な質問がつづく。これ、もう、その実母の実体を暗示しているではないか。揚げ句は区役所に行って戸籍を閲覧し、娘として記載があるのを見て「娘と認めていたわよ!」と泣いて喜ぶ。この経緯を見ていて、暗澹たる気分になった。生んだ子供を戸籍に残すのは当たり前のことで、その後に捨てたこととは関係ない。あまりにも残酷すぎるだろ。
『台湾アイデンティティー』『湾生回家』とつづけて見て、話がごっちゃになってるんだけど。それはまあ仕方がないとして。一番思ったのは、朝鮮・満州・中国なんかと、どこがどう違うんだろう、ということ。台湾人にとっては、2.28事件が大きかったんだな。戦後やってきた国民党と、外省人。そのひどさがあるから、日本時代の方がまだまし、ということなのかね。
他にも、日本は支配下においた台湾と朝鮮とで、やったことは違うのか? ほとんど同じようなことをしたのか? それでも、あの結果なのかな。このあたりは、国の洗脳教育とか宣伝なんかかね。ほかに国民性もあるのかしら。うーむ。
・男性が「霧社事件なんかもあったわけで・・・」と話すシーンがあるんだけど、さらりと流しすぎだろ。こちらは『セデック・バレ』も見てるし、他の情報も見たりしてるから分かるけど、知らない人には、さっぱりだ。やっぱり、簡単にでも解説をつけるべきだと親もうぞ。
スウィート17モンスター4/24ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/ケリー・フレモン・クレイグ脚本/ケリー・フレモン・クレイグ
原題は“The Edge of Seventeen”。allcinemaのあらすじは「イケメンでモテモテの兄ダリアンとは対照的に、まだキスの経験すらないイケてない自分に自己嫌悪の日々を送る17歳の女子高生、ネイディーン。最大の理解者だった父を幼い頃に亡くして以来、家庭でも学校でも居場所を見つけられないまま。たったひとりの親友クリスタだけがネイディーンの心の支えだった。ところがある日、そのクリスタが、よりによって兄ダリアンと付き合い出したことを知ってしまう。唯一の心の友にまで裏切られたと世の中を恨み、孤独と絶望に打ちひしがれるネイディーンだったが…」
いわゆる、こじらせ女子の話かと思ったんだが、たんなる自己中な、それもブスの女の子の話だった。ネイディーンは、世間知らずでワガママで自分勝手で整理整頓もできないブスな女の子である。それにしても、ああなってしまった原因はなんだろう? 幼いときからそうだったらしいから、生まれつき持って生まれた性格・体質なのかもね。小学生のとき、いじめられた、らしい。でもだからって、友だちができない、という理由にもならない。オタクはオタク同士つるむんだから。まあ、気位が高いのかね。
女子校生仲好し2人組がどうのこうのというのは、『ゴーストワールド』を連想した。調べたら、あちらは卒業後、社会適応できない2人組の話だったっけ。それにひきかえネイディーンは、イーニドほどニヒルではなく、他人をさほどバカにしていなくて、むしろ他人を気にしすぎている、わりち明るく、積極的なところもある感じ。
・ネイディーンが教師のブルーナーにあれこれいうと、ブルーナーが「君は嫌われっ子だね」と。それにショックのネイディーンだけど、まあ、ズバリ指摘されてムッとした、ってところか。おかしい。
・教室に旭日旗が掲げられているんだけど、なんなんだ? ブルーナーは歴史の教師らしいけど、あんなもの要るのか? 他にもソ連のポスターみたいのとかチラチラ見えたんだが・・・。
・母親に「天国のお父さんが失望する」といわれ、我を失い、母親の車をかっ飛ばすネイディーンなんだが。免許は落ちた、といっていたから、運転はなんとかできるのか。でも、無免許・・・。それにしても、ファザコンなんだな。自分を理解してくれるのは、お父さんだけ、という思い込み?
・いくら好きでも、イケメン上級生(なのか?)のニックに、倉庫でファックしようとかなんとかエロメールを送ってしまうのは、アホだろ。で、この一件があって冒頭の、教師ブルーナーのところに行って「自殺する」宣言になるわけね。なるほど。でも ・これでニックから返事がきて「会おう」といわれて舞い上がるのは、バカとしかいいようがないわけで。ニックは、やれる、と思ってやってくるのは明白なのに、ネイディーンは家中とっちらかして化粧してオシャレして出かけ、いざ股間をまさぐられると抵抗する。まあ、男との距離感が判断できないんだろう。つきあいの経験がないから。「セックスの前に、お互いを知るためにお話しを」とかいって、ニックをあきれさせるアホぶり。というか、こんな娘がアメリカにもいるのか、と思ってしまう。
・これで荒れて教師ブルーナーのところに駆け込み(ほんと、駆け込み寺みたいなブルーナー)、家に行ったら、冴えない独身中年と思っていたブルーナーに幼い子どもと奥さんがいるのを知って、愕然・・・。さらに、迎えにきた兄貴が、クリスタと一緒なので、これまた心が容認できず、「私のことなんか考えてないくせに。いつも自分のことばかりじゃない」と罵ったら、兄貴に「・・・ああ、そうさ。お前の言う通り、迎えにきたのもお前のためじゃなくて自分のためだよ。そのせいで遠くの大学をあきらめた。妹の友人とつきあって、妹を不幸にした。みんな自分のためだよ。先生、妹を送ってください」とかいうようなことをいって帰って行ってしまうんだが。このくだりがキーポイントなのかもな。兄ダリアンのセリフはアバウトなんだけど・・・。で、どーも、兄貴のこの発言で、兄貴は自分のことばっかり考えてて私のことはないがしろ、と思っていたのが、実は違っていた、と悟った、のかな。ダリアンの話し方は、正直な告白ではなく、嫌みというか皮肉を込めて言ってたような感じなんだけど。
・兄ダリアンに嫌みっぽい説教された翌朝、ネイディーンが階下に行くと、ダリアンとクリスタがいるんだが・・・。ってことは、クリスタはネイディーンの家に泊まった、ってことか・・・? クリスタは17歳だろ? 親の許可がでるのかいね? それとも、早朝、自宅からやってきた?
・ネイディーンにも、話しかけてくる相手がいる。東洋人(韓国人という設定か?)のアーウィンだ。なのに、彼女からは積極的に交際しようとはしない。まあ、片思いのイケメン・ニックがいるからだろうけど、話しもしたことがない相手との交際を夢見る、という幼さは何なんだ? FBで返事をもらえず、ニックのバイト先でもほとんど無視される。それでも好き。他の男が目に入らない? 釣り合いのとれた相手、というのが、分からないということか。お姫様じゃあるまいし。自分でも、友だちがいない、いなくてもいい、クリスタがいればいい、と思ってるんだろ? この辺りの感覚が、どーも分からない。
・一緒に遊園地に行ったり、アーウィンの家に行ったりするんだけど、つき合うまでにはならない。でもこれ、アーウィンが東洋人、というのが露骨な感じ。人種差別だろ。そういう心がある、と読める。ラストで、あれこれ吹っ切った感じのネイディーンが、アーウィンが製作したアニメの発表会に行くのは、まあ、自分を自覚できるようになった=友人の相場が分かるようになった=妥協した、ということだと思うよ。
・この映画も中国資本が入ってるみたいだな。
PARKS パークス4/28テアトル新宿監督/瀬田なつき脚本/瀬田なつき
allcinemaのあらすじは「井の頭公園のそばに住む大学生の純。恋人にフラれ、大学からは留年通知が届き途方に暮れていたとき、自宅アパートに見知らぬ女子高生ハルが押しかけてくる。亡き父・晋平の昔の恋人・佐知子の消息を求めて、彼女の住んでいた住所にやって来たというのだ。ゼミのレポートの題材になればと、佐知子探しを手伝うことにした純。やがて2人は佐知子の孫トキオに辿り着き、佐知子の遺品の中にオープンリール・テープを発見する。それを再生してみると、若い頃の晋平と佐知子の歌声が入っていた。興奮した3人は、途中で切れているその曲を完成させようと盛り上がるが…」
話はあらすじの通りなんだが。フツーの青春ドラマの体をとりつつ、タイムトラベルの味わいも残したファンタジーではないかと思う。
まず、誰もが「?」に思うのは、晋平とハルの年齢差。ハルは晋平を父というが、そうだとしたら先年亡くなったという晋平は70代半ばということになる。それで娘が10代? 変だろ。でも、ここで「変だ」と気づかせることで、いったいハルは誰なんだ? と観客が想像をめぐらせるよう仕掛けているんではないのかな。実際、映画の中でも、純が「あんた何者?」と直接、訊くシーンがある。そう。この映画は、ハルはいったい何者か、をめぐる物語でもあると思う。
まずは基本構成。純は恋人に振られ、卒論も未提出で半年前(3か月前だったかな?)に督促状が来ているのを卒業の春に発見。なんとかせねば! とアパートのベランダにいるところに、ハルがやってきた。
では50年前。佐和子は晋平の音楽観についていけず、別れたらしい。そして、卒業後に別の男性と結婚し、井の頭公園の近くに住んで、数カ月前になくなった。孫が、トキオ。
なんとなく、卒業間際の様子が似ている。もしかしてアナロジー?
で、ハルのことを考えよう。彼女は、父親の元カノの手紙と写真をもとに、純のアパートをみつけ、経緯を話し、なんと転がり込んでしまう。どーも1ヵ月以上、純と一緒に住んでいるらしい。・・・これって、フツーあり得るか? あり得ないだろ。ハルは、純を佐和子の家に連れだし、トキオと引き合わせるかのようなことをする。これはもしかして・・・? 最初からそれが目的? さらに、佐和子が残した音楽テープをトキオに発見させ、消えた部分を補う作業へと駆り立てる。このとき、ハルは音楽には関わらず、もっぱら「父のことを小説に書く」といっているのだけれど、その小説には純も登場し、後には、純の未来の行動までもが書かれている。さらに、ハルは50年前の佐和子、晋平、その友人である寺田のなかに入り込み、なんの不自然もなく会話したりする。これは単なるファンタジーか? いや、それ以上の仕掛けがあるに違いない、と思わせてくれる。
最初、ハルは、佐和子の霊が現れたのかな、と思った。でも、何のために? と考えると、どーも間尺に合わない、かも。あるいは、夫と死別し、別の男性と再婚するという、ハルの母親が娘の姿で現れたのか、とも思った。これまた、どーもしっくり来ない。で、最終的にたどり着いたのが、ハルは純とトキオの娘説である。理由は、2人を結びつけるため。あの、ハルのトリックスター的な登場とあちらこちらをうろちょろしつつ、人と人とを結びつけていく様子は、そう思えてくる。ラストシーンで、数年後なのか、純とハルが公園でいるところを、高架の井の頭線の車内からのシーンは、それ以外考えられないという場面だ。これで、ハルの任務は終了。
冒頭のプロローグ。春なのに、公園の桜は灰色だ。純の失恋、卒論の未提出・・・。暗いことばかり、を象徴しているのかも。そして、最後の方にも登場する、もうひとつのプロローグ。こちらでは、桜はピンク色に満開だ。これは、ハルのミッションが成功し、純の未来が約束された証、ではないのか、と。
ハルは、純の行動も予測した小説を書いていた。つまり、純のことを知っていた、ということだと思う。母親である純に、昔語りで聞かされていた。その母親・純が、卒論と恋の行方でピンチ! なので、純の元に現れ、あれこれ働いた。あの小説記は、2人を結びつけるためのシナリオだ。
もちろん、その存在は、生身の人間として描かれてはいるけれど、実は存在しない妖精のようなもので、純が創り上げたイメージ、であるともいえる。でも映画は、そのあたりを曖昧にしている。まあ、それでいいと思う。純たちとステージには上がらず、客席で見守る存在。
なので、音楽はまあ、添え物的な感じかも。もちろん、音楽を主体に、話を後付けで考えたのかも知れないけどね。
その音楽だけど、現実に聞かされてしまうと、ううむ・・・な感じで。思いを込めてつくられた青春の曲が、こんなもの? な感じ。純(橋本愛)の歌声もとくに響かず・・・。これは、幻のままにして置いた方がよかないか?
その、未完成の曲を完成させようという立場でも、トキオはラップ、純はドラムやベース、トランペット、キーボードを入れてリズム感のあるものにしようとする。これに違和感を感じるハル、というのは、やっぱり・・・というところで、ん? オリジナルを全部聞いていたとしたら、それは純とトキオの子供ではなく、佐和子と晋平の血縁か? とも思ったりもする。はたまた、寺田の係累だったりして・・・と、「?」は相変わらず出てくるんだけどね。
そう。佐和子、晋平、寺田たちのなかにスッと入り込めているのは、かれらの系譜を思わせるのだよ。純とトキオの流れではない、かも。でも、実はトキオが、祖母の鼻歌を聴いていて、それが耳の奥に残っていた・・・なんていう屁理屈もなくはない。あるいはまた、ハルは純とトキオの娘であり、佐和子の娘でもあり、晋平の娘でもある、と感が得ることもできる。要は、先人の様々なこころを受け継いだトリックスターである、と。まあ、ムリくりだけど。
そういえば最後の方で、佐和子、晋平、寺田が、録音されていなかった部分を演奏するんだけど、あの場にいたのはハルだっけ? 純だったか。忘れた。
まあ、↑のような整理の上で、もう一度見ると、その場に誰がいて、誰と誰がどうつながっていて、なんてことも分かるんじゃないかと思うんだが、それを確認するために見ようとまでは思わないよ。
あとは、そうね。食中毒でフェスでの歌唱は台なし、ってくだりは、意味が良く分からず。なぜそういう展開にしたんだろ。現実では失敗し、でも、ファンタジーの世界では佐和子、晋平、寺田らとともに、原曲を歌う? それで満足ということか? いや実は、前半の細かなカット割りでテンポ良く、コミカルで楽しい流れは気に入っていたんだけど、中盤からなぜか話も映像も暗い感じになってきて。話も観念的=ファンタジー色が強くなっていったので、集中力がとぎれてよく見てないのだよ。ははは。
そういえば、あのフェスの主催者はガイジンと、純の友人がやってるみたいなんだけど、彼らの素性も良く分からないので、なぜに純とトキオが出演できるようになったのかも、具体的にはよく分からず。また、食中毒で他のメンバーとトキオがダウンして、純とトキオがステージに上がったけどトキオも途中でダウン。純は、客席のハルを見て、果たしてむこのアレンジでいいのか的な自問自答に入ってしまって唄えず・・・。という結果になって、では、彼らをフェスに誘った外人と純の友人は、怒らない(失望しない)のか? とかも気になるところ。
というか、純とトキオのアレンジが気に入らない、と2人から距離をおいたハルの心境は? オリジナルに近いアコースティックでやって欲しい、ということか。もしかして、純とトキオのアレンジで唄わせないために、ハルが一服盛ったとか、あるのかな? そういえば、井の頭公園で、ギターだけで歌うオッサンが、二度出てくるんだが、それは、ハルの思い=願いにつながっているとか?
の割りに、最後の方で、井の頭公園にたくさん人が集まって来て、インド映画よろしく踊りながら唄うんだけど。あれは現代風アレンジだったんじゃなかったか?
あと、最後まで怪しい寺田なんだが。純とハルが佐和子のことで不動産屋に行ったら、不動産屋の男がすぐに寺田を紹介してくれ、寺田から佐和子の居所を聞き出せる、というご都合主義的な展開はまあ許すとして。寺田はあのアパートのオーナーで、かつては両親なのかな、がオーナーで、そこに佐和子は住んでいた、と。で、佐和子と晋平は恋仲で、そこに寺田も交えて音楽をやっていた? まあ、3人の音楽活動も、対外的に何をしていたのか、ほとんど紹介されないのでよく分からないんだが。この関係も意味深だ。寺田は、現在、ひとり暮らし? 彼は、佐和子を思っていた、のではないのか? それよりも、佐和子が、大学を卒業するとすぐに誰かと結婚してしまった、ということの方が不自然。音楽性の違いだけで、別れるのか?
はたして、晋平は存在したのか? などと勘ぐってしまう。
さらにまた、同じ吉祥寺近辺に住んでいるなら、寺田は佐和子の死を知っていたはず・・・。ではなぜ、純とハルにそのことを言わなかったのか? 寺田はも、まだなにか隠しているような気がするんだが。
とにかくまあ、いろいろ考えていくと、謎の多い物語である。
あ、あと。卒論は、音楽を完成させてOKが貰えたのか? フェスは5月で、ということは、音楽に夢中な間に卒業していて、では就職はどうなったんだ? 純は、就職はもう決まっているといっていたし、友人には「どんな会社に決まったかは親に言ってない」と話していたけど、どういう会社に決まっていたんだ? とか、ツッコミどころも。
他にも、エピローグだっけ、か。話は「2013年」と一瞬聞こえたような気がするんだけど・・・。「2017年」の間違えか? でも、「数年前の話」とも言っていたような。ってことは、現在の時間軸は、2020年ぐらい? いや、やはり2017年? よく分からないラストのナレーション。
最後の最後に、本を閉じる場面があって、あれは誰がでてたんだっけ。ハルだっけ? 誰だか忘れたけど、あれは未来だろう。これまた意味深。
しかし、純は大学4年で就職方面はしっかり活動し、彼氏ともこれから同棲?というようなところまでいっていながら卒論はほったらかしで督促状(今どきの大学はそんなものを学生にだすのか?)も忘れてしまうほどズボラなところがあるって、どういう性格なんだか。こんな女はゴメンだな。個人的には。
・橋本愛は主演の顔をしていないので、いまいちインパクトが、ねえ。一方で、ハルの永野芽郁がとても魅力的。トリックスター的な愛くるしさが、なんともいえない。

 
 

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