2017年9月

関ヶ原9/1109シネマズ木場シアター1監督/原田眞人脚本/原田眞人
allcinemaのあらすじは「幼い頃より豊臣秀吉に仕え、常に秀吉に忠義を尽くしてきた石田三成。大名に取立てられた彼は、猛将と謳われた島左近を、自らの石高の半分を差し出し家来に迎え入れる。何よりも義を重んじる三成を慕い、伊賀の忍び・初芽も献身的に仕えていく。そんな中、秀吉の体調は悪化の一途を辿り、権謀術数に長けた徳川家康は、それに乗じて秀吉恩顧の武将たちを言葉巧みに取り込み、着々と勢力を拡大させていくのだったが…」
セリフが多くてテンポが早く説明的ではないと聞いていたが、その通りで。戦国好きならいざ知らず、途中からそれが誰でどっち側で、どう判断して、どっちに付くようになったのか、ということがよく分からなくなってくる。こっちは、家康と三成が戦った、ぐらいしか知らんのだから。さらに、秀吉の家来だった頃の、各武将の席次もよく分からない。実際に集まっているときは、三成は近くにいるので位が高く、家康は末席なので低いのかと思うと、発言力や実力は違うみたい。それが、関ヶ原になると、なぜにああなっちゃうの? とかね。
てなわけで、話がよく分からないまま見させられてる感じなんだけど、それでも150分寝なかったのは、伊賀者の初芽(有村架純)との純愛物語があったからなのかもって、ははは。いや、感情のこもった人間ドラマは、それぐらいしかなかったんだよ、ホントに。
戦国好きで、各武将の思惑まで知ってるような歴史好きなら、おうおう、そうそう、なんて楽しめるんだろうけどね。やっぱ、節目で各人の思惑や状況をナレーションで入れてくれたらよかったのに、って思う。まあ、そんなことをしたら流れや勢いを断ち切るからやなんだろうけど。でも、後半の、三成が七人衆に追われて家康の屋敷に逃げ込み、でもその直後に戦の準備が始まるといった経緯は、やっぱり、なんで? と思ってしまう。
・戦いにおいて西軍は大砲を使用する。使い手は朝鮮から連れてきた者だが、これが着弾すると爆発する。当時は鉄の玉ぐらいしか飛ばせなかったはずで、あんな嘘を描いてはいけない。
・火縄銃を手にした雑兵が、歩きながら撃つシーンもあったけれど、ああいうのは可能だったのか? 一発一発弾を込めて撃つものだから、ああいう使用法はされなかったと思うんだが。
・島左近は、自ら白兵戦に参加し、斬り合っている。大将クラスなのに、そんなことはあったのか?
・戦の最中、三成はあちこち動きまわって参戦を促したりしている。一方の家康は、遠くから眺めているだけ。そんな感じだったのか?
・初芽は、殺されるところを救われた伊賀者。そんな女を腹心のように近くに置いておくのは、当時は当たり前なのか? そもそも、初芽自身が言ってたけど、仕える殿様は皆死んだ、と。いくつもの殿様に転々と仕えてきている、というのは、そういうものなのか?
・初芽、蛇白、赤耳は同じ伊賀者なんだが、それぞれ仕える相手が異なる、あるいは変える、ということをしている。ああいう関係は、伊賀者の中では当たり前なのかどうか。よく分からない。
・その初芽は赤耳に襲われ、でもその赤耳は後に三成の西軍につく。よく分からん。初芽が死なないのは、赤目が手加減したからか? その初芽は人買いに捕まり、何かの集団に売られるんだが、あの集団はなんなのだ? 戦の予想なんかして、みんなで戦場に行ったりする。落ち武者狩りでもしようという算段だったのか? いや、それ以前に、初芽は逃げられただろうにそうしない理由がよく分からない。
・そういえば、初芽の姉は傷は負ったが助けられたはずだけど、姉=蛇白ではないんだよな? 分からない。
とかまあ、もやもやのままなんだけど。ここは一丁、関ヶ原に関する新書でもさっと読んでみようかな、という気持ちにはなってきた。いいことなんだか、悪いことなんだか。
新感染 ファイナル・エクスプレス9/4MOVIX亀有シアター4監督/ヨン・サンホ脚本/パク・ジュスク
原題は“???”。「釜山行」らしい。英文タイトルは“Train to Busan”。allcinemaのあらすじは「韓国の各地で謎のパンデミックが発生し、凶暴化した感染者が次々と増殖蔓延し始めていた。そんな大惨事がすぐそこまで迫っているとは知りもしないやり手ファンドマネージャーのソグ。娘のスアンを別居中の妻に会わせるため、ソウル発プサン行きのKTXに乗り込む。同じ列車には、身重の若い女性とその夫、高校球児とその恋人といった人々が乗り合わせていた。そんな乗客たちの中に、感染者の女が紛れ込んでしまう。そして出発して間もなく、その女が暴れ出し、密室と化した列車内はたちまちパニックに。湧き出るように増殖していく感染者の襲撃から愛する娘を守るべく、他の乗客たちとともに必死の抵抗を続けるソグだったが…」
韓国製ゾンビ映画。ある企業の廃液かなんかが原因で感染し、国中に広がっているという感じなのかな。とはいえ、感染始めから蔓延まで半日ぐらいというスピードで、列車に乗った人々がそれに気づいていない、というのは不自然なんだけど、まあ大目に見ましょうか。
“列車内”という状況設定が目新しいようで、その他はとくに新しいところはまるでない。“列車内”も、とくに新発見ということもないと思うんだけど、閉鎖空間=一幕もの的な設定は、効果的だったかな。見かけも『新幹線大爆破』みたいな感じ。逃げられない空間、列車内の移動が大変、というハードルも容易に設定でき、面をクリアするように進むところが、ゲーム的でもあるのかも。
登場人物も、手垢の付いた感じ。主人公は離婚調停中で、誕生日だからと別居して釜山に住む母親に会いたい、という娘を連れて列車に乗る。他に、ごっついけど人情に厚いデブ男の夫婦がいて、奥さんは妊娠中。大学なのかな、の野球チーム。老姉妹。ホームレス風のオヤジ。そこに、自分のことしか考えないオッサンが絡んでジャマする。とまあ、キャラ設定は定番だな。
流れは、感染した女性が発車直前に乗り込んできて、彼女から乗務員の女性に感染し、あとは一気に拡散。逃げる一団は後方か前方か知らんが、離れて待機。運転手に、軍から連絡があり、途中駅で降りてもらうことに・・・。でも、一行が降りると、迎える兵隊たちもほとんど感染者で、押っ取り刀で列車に逃げ込む。これは、ここで乗客を皆殺しにして感染を食い止めようとしたけど、逆に兵士たちが感染してしまった、ということなのかな。
で、再出発。再び列車に乗り込む過程でかなりの人数が減った。けれど、生き残りが乗り込んだ車輌が分散していて、合流するためにゾンビで一杯の車輌を、力任せ、知恵比べ、網棚伝いに移動したりと、なかなか引っぱる。とはいえ、乗客が合流する必要はあるのかな、とも。まあ、トイレに閉じ込められた妊婦の妻を救出する、という目的は設定されてたような気がするけど。
この間にもどんどん仲間は脱落し、合流しようとしたら、老姉妹の片割れが、「もう逃げるのはいい」とばかりに自ら食われる(このあたりの心境がよく分からんのだが・・・)。さらに、デブ男も、食い止める過程で食われしまう。そんな一行に、自分のことしか考えないオッサンが「感染してるかも知れない、出ていけ!」と、やってきた一行に言う。この意見に周囲の連中も同意する・・・というところは、差別の発生の構造が見えてとても興味深い。よく見て考えれば、やってきた一行が感染していないのは分かると思うんだけど、恐怖が先に立つんだろう。とはいえ、自分たちだって相手から見れば、感染者として疑われてもしょうがない、という視点が抜けてしまうんだな、きっと。
で、主人公たちは連結部分に移動するんだが、ここで生き残った老姉妹の片割れが、ふらふらとドアを開けてゾンビを呼び込んでしまうのは、姉妹で一緒にいたい、という気持ちなんだろうけど、その気持ちがよく分からない。歳のせいなのかね。
でまあ、主人公たちを追いやった連中が一気に感染してしまう、というのはザマを見ろなんだけど、そういう気持ちになってはいかん、とか思い直したり。
というところで、列車事故で線路が塞がれていて先へ進めず。運転手は別の列車を調達してくるんだけど、なんと例の自己中のオッサンだけはしぶとく逃げてきて、代わりに運転手が食われてしまう。野球チームのマネージャーの女の子がやられ、悲しむ彼氏も餌食になり・・・。ホームレスも、列車事故から主人公父娘と、妊婦を救うために犠牲になり、3人が、動き出している新しい列車に乗るんだが、運転席にいるオッサンは目が変わってる。どこかで食われ、ゾンビ化の途中だったのね。で、争ってる最中に主人公も食われ、オッサンはやっつける(んだっけか?)んだけど、妊婦に娘を託して列車を飛び降りる・・・。とまあ、え、あの人が死んでしまうのか、な展開は、意外性もあってなるほど。
というわけで、話はジェットコースター的でなかなか面白い。ラスト。列車はもう動かない(なぜ止まるんだっけ?)。妊婦と、主人公の娘が、目的地の釜山近くにちどりつき、あとはトンネルを抜けていくばかり。でも、反対側では狙撃兵が狙っている・・・。上官の命令は「撃て」だけど、娘の歌を聞いて、撃つのをやめる、だったかな。なるほど。余韻もある。
あとから気づいたんだけど、ソウルから釜山への道というのは、朝鮮戦争時に韓国軍が北に攻め込まれ、釜山に追いつめられた状態をトレースているのだな。ということは、ゾンビたちは北の思想に感化された人々ということなのか。はたして釜山は『ダンケルク』となるのか。ふたたび生き残りの戦いに勝利を得ることができるのか? などと考えると、金正恩がミサイルを打ち上げたり核実験を繰り返しているいま、とても興味深いものがある。
幼な子われらに生まれ9/5テアトル新宿監督/三島有紀子脚本/荒井晴彦
allcinemaのあらすじは「互いに再婚同士の田中信と妻の奈苗。一見、平穏な結婚生活を送っているが、信は妻の2人の連れ子とはうまく関係を築けず悩みを募らせる。一方、元妻・友佳の再婚相手は末期ガンで余命わずか。友佳と暮らす実の娘からは、血のつながらない義父の死を前にしても悲しめないと打ち明けられてしまう。そんな中、奈苗が妊娠したことをきっかけに、長女との溝が決定的になる信。“本当のパパに会いたい”と口にした長女に対し、半ば自暴自棄の感情のままに、その願いを実現すべく奈苗の元夫・沢田を捜し出す信だったが…」
やーな感じの設定と話である。たかが連れ子の話ではないか。そんなのアメリカ映画なら当たり前で、日本だって増えてきている。血のつながっていない父親を嫌悪するという薫(菜苗の実子)の気持ちは、分からなくもないけれど、異常な気がする。同じように連れ子となった沙織(信と友佳の実子)は、義父との関係は悪くない。末期がんになった義父を見舞っても「泣けない」といっていたけれど、危篤状態の義父を見舞う段になって「涙がでてきた」と信に言っている。つまり、連れ子という環境のせいではなく、たんに個体差でしかないということを映画はいっている。しかも、薫のふて腐れ具合とか、他者と関わりを持ちたくないという心もちは、実父である沢田と似ていて、ああ、遺伝か、と思わせる。つまり、この映画において、やっかいものの薫を取り外せば、血がつながっていなくても、円満な家庭は築ける、という話にすぐなれる。そういう話だ。
というわけで、沙織はとてもいい子供で、だから共感できる。この映画で唯一共感できる存在といっていい。その他の連中は、みなどこか変である。
田中信は一流会社に勤めているらしいけど、リストラで配送倉庫勤務へ。会社は辞めさせる気だ。でも、本人はとくに気落ちしていなくて、給料は下がるかも知れないけれど・・・といいつつ、家庭を大事にするタイプ。もともと休日出勤や残業もせず、有給休暇はすべて消化。「子供とふれあえるのはいまだけ」と上司にもいったりする。まあ、そういう主義ならリストラも甘んじて受ければいいわけだけれど、そういう男性がこの日本にどれぐらいいるっていうのかね。家庭のために家庭を犠牲にして会社に殉じる、というような、テンプレ的な設定なら、あるあるな感じがするんだけどね。
信を演じるのが浅野忠信で、『淵に立つ』の印象が強いので、おとなしい感じだけど、いつか切れそう、と見えてしまうのが困ったもの。彼が感情的になるのは、「部屋にカギをつけてくれ」と主張する薫のために、ドライバーでカギをつけようとする場面で、妻の奈苗が「やめて」と何度も言うのでつきとばすときぐらい。あとは、ホント低姿勢。くだんのカギのときも、正直いって友佳がしつこすぎて、見ているこちらも、うっとうしい、と思ったほどだったしね。
その奈苗だけど。田中麗奈もずいぶんオバサンになった、はいいとして。2人の娘を連れて元亭主から逃げ出し、どうやって出会ったのか知らないけれど信とけっこんすることになるんだが。プロポーズの言葉が「結婚しましょうか」で奈苗の返事が「ありがとうございます」だったかな。完全に信の側の救済だ。の割りに、仕事はしていないような感じで、顔パックをしたり、高そうなマンション住まいも満喫しているような感じで、亭主への敬意が見られないのが、なんかな。まあ、4年(だったかな)も暮らしていれば苦労も過去のもの、なのかも知れないけど。女って奴は、って思ってしまう。しかも、娘の整理に気がつかないとか、鈍感すぎるだろ。
それに、元亭主の沢田がやくざもので、娘の薫を殴って歯を折ってしまうような男。自らも「子供は嫌い」といっている。なぜにそういう男を選ぶか。まあ、本当のところは、ちゃらちゃらした遊び人風情が好みなんじゃないのか、な感じ。まあ、男選びも下手なんだろうけど、そのあたりで、ダメ女な気がして、沢田と奈苗の娘が薫だから、そうなるわな、信はお気の毒、と見えてしまう。
信の元妻・友佳も、変な女。信と結婚していた当時は大学助手で、夫に黙って中絶したことについて「なぜ相談しなかった」と信に責められても「したいことができなくなる。私の人生に子供は要らない」というばかりで、相談しなかった理由を口にしない。信はそれでも子供が欲しかったみたいで、次も避妊せず交接してできた子供か沙織という次第。なんだ、今度は堕ろさなかったのか。じゃなんで離婚したんだ? それに、子供がいても大学で准教授になり、再婚相手は医学部の教授さん? 子供がいたって出世できたじゃないか、と思ってしまう。
さらに、現夫が末期がんで、久しぶりに再会したとき、「あなたは、なぜ私の気持ちを聞かないの? 私が中絶したときもそう。病院でひとりで、どういう気持ちだったか、なぜ聞かなかったの?」と責めるんだが、なんだこの自分勝手な女は、と思ってしまう。やな女。
自分に一番正直なのは、奈苗の元夫の沢田かも知れない。沢田が、奈苗のことを「あいつ、べたべた寄ってくるでしょ」みたいなことを言っていたけれど、それは映画を見ていて感じた。ああいう、ねえねえな感じは、つき合っているうちはいいかも知れないけど、一緒に住むにはうっとうしい、というのは、なんか沢田に共感してしまう。まあ、だからって、奈苗のまつ家庭に帰りたくない、という自分勝手はこまると思うけどね。妻はともかく、2人の娘に対しては責任感をもって欲しいところ、であるけれど、ああいう人も世の中にいるのであるから、つまりは奈苗の男を見る目がダメだった、ということだ。
というわけで、見ていて不愉快になるような人々が、正直いってどうでもいいようなことで、ぐだぐだやっている話なので、気が滅入るばかり。連れ子のいる家庭はこうなる、というようなことを頭の中で考えてつくった親子関係話みたいで、すんなり受け止められない。世の中には、連れ子がいても、養子であっても、とても実りある家庭を築いている例はいくらでもあるのだから、あえて奇妙な設定で、連れ子は悩みもの的な話をしなくたっていい、と思ってしまう。本人たちも、みんなあんなに否定的に捉えてないと思うがな。
で、分からないのが、「本当のパパに会いたい」といっていた薫が、信が会える算段を整えてやったのに、会いに行かなかったこと。あれはなんなんだ? デパートで会えるように設定して、信、奈苗、末娘の3人でそのデパートに行き、「もういないだろう」と覗いた屋上に沢田ひとりがいて。「こない」と。その代わり、オモチャのクルマに乗る末娘のために100円あげる、というくだりは、沢田の人のよい一面をみせてくれて、しみじみ。で、一同戻ってくると、自室でなく居間のソファでうなだれている薫。沢田が渡そうと用意していたものはぬいぐるみで、それを見てなんかわからん顔になる薫。その肩に手を回すと、もたれかかってくる・・・という弁証法的解決は、なんだよ。さっぱり意味が分からんよ。ようは、義父に逆らってみたかったとかいう思春期のせいにしてしまうのか? やめてくれよ。
で、なんか最後は、薫が千葉の祖母の家に行く練習だとかいっていて、これは高校を出たら(入ったらだっけか?)別居して独立するらしいんだが、てことはやっぱり信との同居は嫌ということなのか? それと、千葉の祖母って誰だよ。信の母親? 奈苗の母親? で、信がひとりカラオケに行ったら、妻の奈苗がきていて、ストレスを発散してました、とかいう感じで丸く収めてる。なんか、いい加減だな。
・セリフがよく聞こえないところがままあって、改善して欲しいものだ。
台北ストーリー9/7ギンレイホール監督/エドワード・ヤン脚本/チュー・ティエンウェン、ホウ・シャオシェン、エドワード・ヤン
原題は“青梅竹馬”。1985年の映画を、2017年に初公開らしい。allcinemaのあらすじは「急速な経済成長で大きく変わりゆく台北。マンションの下見に訪れる一組の男女。女は不動産ディベロッパーで働くキャリアウーマンのアジン。男は家業を継ぎ、廸化街で布地問屋を営むアリョン。リトルリーグ時代の栄光を今も引きずっていた。そんなある日、会社が買収され解雇されてしまったアジンは、アリョンにアメリカへの移住を提案するのだったが…」
人物関係がひどく分かりにくい。メインの男女。冒頭で部屋を物色していて、でも男の方は海外に行くから住めないね、みたいなことを言っている。その後も、2人がどういう関係なのかよく分からず、だらだら話が進む。2人は夫婦? 兄妹? でも、ときどき女性が男性にもたれたりして、やっぱり夫婦かな。じゃ、なんで一緒に住まないんだ? などと思いつつ見ていたら、最後の方で女性が「結婚しようか」という。げ。恋人同士なの? そんな雰囲気というかそぶりがないので、まったくの盲点。いや、そうみても不思議はないのかも知れないけど、見えなかった。
やたらに出てくる「義兄」。男はその義兄の仕事に出資し、でも義兄がダメな男で小切手が不当たりになって・・・みたいな話がでてくるんだけど、これまた「義兄」ってだれよ? な感じで話がだらだらつづく。(最後の方で、男の姉の亭主と分かる) 最初の方ででてきた小太りオヤジ? 中盤で、男が友人に追及されていたとき椅子に座っていた小太りオヤジ? あれは同一人物? よく分からない。※公式HPには、「アリョンの義理の兄を頼ってアメリカに移住し新たな生活を築こうと、アリョンに提案する。しかしアリョンにはなかなか踏ん切りがつけられない。ここには少年野球の仲間もいるし家業もある。一度は決心して資金を作るため家も売るが、昔気質のアジンの父親が事業に失敗するとその肩代りに奔走することになる」と書いてある。うわ。そんなの、ちゃんと説明あったっけ?
女性は、父親とよくない関係で、実家には戻らないようなことを言っていた。で。前半で、2人が実家のようなところに行って、女は「ここに泊まる」などといい、若い娘と話す場面があるんだが、あれはどこ? 男の実家? あの娘は、男の妹? そういえば、男は夜祭りに行き、友人と会ったりしていたけど、そもそも、あそこは台北市内なのか、離れた田舎なのか、そういうことが分からない。
他にも、少年野球の監督とか、かつての少年野球の仲間で肩を壊した男がでてきたけど、その仲間の家庭も、はっきり描かれない。最初会ったとき、仲間はタクシーの運転手ぐらいしか仕事がない、といってたけど、仕事があるんじゃないか。でも、金がないのか、男は札を与えていた。で、後半になって、男が家を訪れると、子供が「母親がいない」とかいっていて、男が雀荘(?)に行くとそこにいて、その女をムリやり連れ戻すんだけど、あれがその仲間の女房、でいいのか? 後半では、仲間は出てこなかったように思うんだが、だから手がかりがなさすぎ。
後半で、男がどっかの家に行くと日本語が聞こえ、子供をあやすオッサンがいる。若い女もいる。なんかぐちゃぐちゃ女と話していたけど、あれは誰なんだ? などと思っていたら、たまたまWebの感想を見ていたら、あれは元妻だという。ありゃ。そういえば、初めの方で「山本と結婚」とかいうセリフが、誰のだか知らないけどあって、それと関係あるのか。そのセリフのとき、元妻とかいう説明はあったかな?
で、女の部屋に、例の娘が遊びに来ていたかしていて、男のカバンに入っていたビデオを見ているシーンがあって。それが石原裕次郎のCMだったりするんだが、そのあとに広島カープの試合が録画されている。で、それを見て女は、男にビンタを食らわせ、ケンカ。男は逃げだし、男のカバンも放り投げる。というくだりがよく分からなかったんだけど、「東京で何していたの!」とかいうあれは、男が元妻とよりを戻して、を疑ったと言うことか・・・? でも、男は、もともとアメリカに行くのが目的で、東京は乗換で寄っただけ、といっていたよな。じゃ、女は、乗り換えだけじゃなくて立ち寄って、元妻と・・・と疑った訳か。それって、当たっているのか外れなのか、知らんけど、分かりにくすぎ・・・。
娘は、女に、「原宿に行きたい」とかちゃらちゃらしているが、日本への憧れはあるんだろうけど、そんなものなのか、というような感じ。とくになし。
この男と女のケンカの後だったか、女が若い連中と遊びまくって、バイクの2ケツしたりしていたな。このあたりで寝てしまったんだよ、ははは。で、あの遊んでいた相手というのは、誰だったんだ? ラストに関係してくるけど、あのときのバイク男が女につきまとってて、それを咎めた男の乗ったタクシーがバイクに追跡され、降りてケンカとなって、男が刺される・・・という、脈絡のない展開・・・。
男は翌朝、救急車で運ばれていく、という波面が描かれているけれど、死んでしまったのかどうかは分からない。女の方は、女性からの電話で呼び出され、スカウトされた模様。冒頭では、当時働いていたボスに殉じて(と思ったら、ボスはクビにはならなかったみたいだけど、後半では泣き言を言っていたから、クビになったのか?)会社を辞めていたんだけど、再就職でおめでとうさん、な感じで映画は終わる。
とにかく、もうちょっとセリフや状況説明カットで、それは誰でどういう関係で、を分からせればいいのに、まったくそれをしていない。たんに脚本が下手なのか、あえて分かりにくくしているのか知らんけど、分からないまま見つづけるのはとても辛い。なので、途中から理解してやろうという心が失せてしまい、環境ビデオでも見ているような気分になった。
それで、ラスト近くで2人が恋人関係と分かったり、Webの感想から「元妻」のことを知ったりして、あー、そうだったのか、と振り返っても、冒頭に近いところの会話なんてさっぱり憶えてないし、そもそも、ほとんどの会話がぶっきらぼうで分かりにくいので、思い返して意味をつなげる作業も面倒くさい、というか、できない。こういう映画は嫌いだ。でも、「理解する映画ではない」とか書いている人もいたりして、バカかと思う。
でもまあ、分かりやすくセリフを補い、理解しようとしてみると、話自体はたいしてドラマチックでも何でもなく、女の方は会社が乗っ取りにあって辞めて、男は、途中で分かるけど記事を扱う商売をしているのだけれど、ダメな身内のせいで借金がかさみ・・・というような、とくにどうということのない話なのだよな。
男の方は、かつて少年野球のエース、という栄光があるようだけど、それがどう影響しているのかも分からない。たとえば、中学・高校では目が出なくてプロの道をあきらめた、とかいう話でもあるなら別だけど、知り合いとダーツをやっていて「少年野球のエースが、ダメだな」と言われてケンカをしたり、どーも挫折感に苛まれているようなところもあったりして、曖昧模糊。
最後の、男が刺されるのも取って付けたような出来事でしかなく、突然のほったらかしではないか。こんな映画を想像力で補っても、しょうがない。大した内容のないダメな話を、さもいわくありげに分かりにくくして、ありがたそうにしているだけの話であるよ。
・↑のあらすじによると、女が働いているのは建設業界かと思ったらデベロッバー? そんなのどこで分かるんだ? 男は家業を継いだ? 公式HPには、2人は幼なじみ、と書いてある! そんなのどこで分かるんだ?
・富士フイルムの緑の電飾広告、NECの電飾広告、原宿、石原裕次郎のCM、日本のプロ野球とか、日本がやたら登場する。
禅と骨9/8キネカ大森1監督/中村高寛構成/中村高寛、白尾一博
allcinemaの解説は「京都嵐山の名刹・天龍寺の禅僧ヘンリ・ミトワ。1918年、横浜でアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれた彼は、1940年に単身渡米し、戦時中は敵性外国人として、日系人強制収容所で過ごした。戦後、仏教に目覚めた彼は、やがて日本に帰国すると、禅僧の道を歩むとともに、茶道や陶芸などにも造詣の深い風流人として、“青い目の文化人”と評されるようになる。ところが80歳を目前に突如、童謡『赤い靴』の映画化に情熱を燃やし、その実現に奔走していく。本作はそんなヘンリ・ミトワの晩年に密着するとともに、型破りな彼の一代記を、ウエンツ瑛士演じる青年時代の再現ドラマを織り交ぜ描き出していく」
ヘンリ・ミトワという日米ハーフの禅僧のドキュメンタリーなんだけど、とにかく面白かった。まったく中味を知らずに行ったんだけど、なんだこの波瀾万丈。強烈すぎるインパクトで。こんな人が日本につい先頃までいたということを、知らなかった。なぜつたわってこなかったんだろう? Wikipediaにもまだ人物項目ができていない。知られざる奇人ということなのか。
天竜寺の禅僧をしているとというし、最初の方に登場した茶の湯の有名な人との話なんか聞いていても、俗っ化のない人なのかと思いきやさにあらず。過去や物事、物質にとても執着し、果ては映画をつくりたいとこだわり、しかも、自分の思い通られないと嫌だという。こんなんで禅僧をしているというのが、よく分からない。これで天竜寺はOKなの? な感じ。
でも、それがヘンリ・ミトワの魅力であって面白さなんだからしょうがない、のかも知れない。逆に見たら、一生、俗っ化を抜くことに邁進した人物ともいえるかも知れないから。
当初は、なんでも撮れ、と言っていたようだけど、自身が病気になって入院するようになると、拒否しだす。分からんでもない。でも、そこで監督は、ああいったじゃないか、こういったじゃないか、と説得に回りはじめる。人の心にずかずかと踏み込む姿勢に、とても不快感が湧いてくる。
他にも、アメリカから長男がやってきているとき、近所にすむ次女が酔っ払って「写さないで」とフレームから逃げようとするのに業を煮やし、次女を殴る場面がある。殴られた長女が、なんと高齢の父・ヘンリ・ミトワ殴り返す。凄まじい場面だ。そこには長女もいるし、長男は「やめろ」といっているんだけど、そんなことはお構いなし。これが禅僧かよ、なんだが。
こういう、その家庭内にズカズカ入り込むスタッフへの嫌な感じもそのまま残していて、それも含めてお見事な出来映え。きれいごとにせず、なんでも写すぞという心構えは、ドキュメンタリー作家として正統なんだろうけど、うううむ。怖ろしい気がしないでもない。そういえば、監督は『ヨコハマメリー』の人で、でも、あれから華々しく活躍していたかというと、そういうこともないのは、こういう映画づくりの姿勢なのかな。まあ、撮られる方もひと筋縄じゃいかないだろうからな。
映画は、衰えたベッドの上のヘンリ・ミトワも映し出し、遺骸や納棺、骨揚げ、納骨まで写す。納骨については、それまであった谷中感応寺(だったっけ?)から母の骨(父もだったか?)を京都に移し、たしか、天竜寺の塔頭かどっかに、手元にある一族の遺骨をまとめて入れていたような。その手元にあるというのは、ヘンリ・ミトワのもとの仏壇にあった兄なんかの骨で、数人分あったかな。どうやって集め、保管していたかよく分からないが、この骨は最初の方に登場していた。あと、自分で調べた系図も・・・。そういう意味では、出自や由来にこだわる心をもっていて、まあそれは日本で生まれ育ったからかも知れないけど、不思議な感じがしないでもなかった。
いい悪い、ではなく、こういう人がいたのだ、という驚きの方が優ってる。まあ、戦時下の日米ハーフで、米国では強制収容所にいれられたとか、こういうのはよくある話ではあるけれど、それを超えた凄さがにじみ出てたよ。
ところで、劇中でインサートされたアニメは、調べたら『ヘンリの赤い靴』というもので、中村高寛の監督作品らしい。未公開となっているのは、とりあえずつくったということか。もしかして、ヘンリ・ミトワの願いを叶えるために、そして『禅と骨』をうまくすすめるためにつくったのかな。そんな感じがしたけど。
あと、ドキュメンタリーの間に、役者を使ったドラマが挟まるんだけど、ウェンツ瑛士がヘンリ・ミトワを演じてる。母親の余貴美子、渡米費用をつくるために関わる緒川たまきと永瀬正敏、会社の上司佐野史郎とか、なかなかいい感じ。
台北ストーリー9/9ギンレイホール監督/エドワード・ヤン脚本/チュー・ティエンウェン、ホウ・シャオシェン、エドワード・ヤン
公式HPにアリョンとアジンは幼なじみ、と書いてあったので、原題に気づいた。調べたら“青梅竹馬”は「男女の幼なじみ」という意味らしい。なーんだ。そこで2人の関係が分かってるんじゃないか。『台北ストーリー』じゃ分からんよ。
寝てしまったのは、アリョンが店にいるシーン、アジンが女性と仕事について話すシーン(これが、最後の方で電話をかけてくる女性か)、アジンが妹の部屋を訪ね、屋上で話すシーン(あれは、妹が妊娠中絶するということだな)、で、次はアリョンが運転していたらクラクションを鳴らされるところで、ここは見ている。アジンが若い連中と遊びほうけているところは、だいたい見ていたようだ。
前回の話の理解度が30%としたら、今度は90%分かった。背景や人物をおさらいしてからなので、なるほど、と見ていけた。セリフも注意して聞いていると、義兄はアジンの姉の亭主でアメリカに住んでいるとか、最初に訪れた家はアジンの実家で、いたのはアジンの父親、娘はアジンの妹、と分かる。まあ、あのシーンの前に、アジンが「戸籍を取りに田舎に行くからついてきて」とかいう場面がありゃあ、より分かりやすいんだけど、そういう、分からせるセリフや場面を最大限削って、セリフの内容で関係性などをつなぎ合わせられるような仕組みにしているようだ。でも、アジン、アリョンという似たような名前を覚える前にどんどん話が進んでいってしまったので、何が何やらおいてきぼり・・・というのが正直なところ。セリフの短縮化も、後半ならいいけど、最初からそれをやられると、観客はついていけないよ。
最初に少年野球を見るところでは、アリョンは監督(?)みたいな男に「東京は?」と聞かれて「一週間いた」といっている。一方、アジンには「乗り換えだけ」と言っている。嘘だ。で、日本のCMとプロ野球は、元妻or元彼女のところで録画したみたいな感じなんだろう。その元妻or元彼女は日本人と結婚したようだけど、あの監督がアリョンと元妻or元彼女とが別れたことについて「何があったか知らないが」と言っているのは、監督が元妻or元彼女の父親だからなのか? よく分からない。
その元妻or元彼女が子供を連れて帰省して、アリョンに電話してくる。なんで? だが。あそこで子供をあやしているのは、元妻or元彼女の父親? 日本語を話していたな。で、2人は公園に行くんだけど、アリョンが「子供の手続きは」どうのといっていて、意味がよく分からない。もしかして、あの子供はアリョンとの子供? 分からない。それと、元妻or元彼女が、アリョンの野球の練習を見ていた云々と言っていて、3人が小学生ぐらいからの知り合い、と分かった。なるほど。しかし、元妻or元彼女の未練がましい感じを、アリョンは振り切っている。あの関係はどうなっているのか、よく分からない。もしかして元妻or元彼女は、日本人とも別れた、とかあるのか?
あとは、えーと。登場するオッサンはすべてアジンの父親で、商売下手なのに事業に手を出し、借金がかさんで不当たり小切手を乱発し、脅されているところをアリョンが助けた、と。その資金は、アリョンが家を売ってつくったもので、アメリカ移民のための資金だった。のは分かったけど、それに対してアジンが怒るんだが、あんたの父親の苦境を救ってやってんだろうに、という気がしてしまう。それに、いくら近所の知り合いだとしても、なぜアリョンはアジンの父親のために金を工面してやらなければならないのだ? そんな義理はあるのか? がこの映画の最大の疑問だな。このおかげでアリョンは苦境に陥るのだから。
そもそも、なんだが。1985年というと日本はバブル真っ最中。台湾は経済成長だったのか? 知らんが、アリョンの生地屋が困窮しているようには見えない。ただし、アリョンの姉は亭主と一緒にロス移民となり、羽振りがいいらしい。父親はもういないようだけど、母親もロスに暮らしている。なので、自分も移民となって、義兄の仕事でも手伝えばいいか、な感じなんだよね。自らの環境から是が非でも脱出したい、とは見えない。
にもかかわらず、この映画は全体的に陰気で暗いのはなぜなんだ? 昔の仲間の生活苦は、彼が肩を痛めて仕事ができないからで、もちろん経済不況でもない。アジンだって、あっさりと仕事をやめ、どーせいつかは次の仕事に。あるいはアリョンと一緒にアメリカに行けばいいや、な感じだろ?
そのアジンだけど、会社の上司と関係していたような気配が濃厚だ。その上司に「アリョンが帰国した」となにげでつたえるのは、これから密会はできなくなりますよ、とつたえているようなものではないか。それに、アリョンの元妻or元彼女との東京での密会を疑い、ケンカ別れした後、その上司に自分から電話している。これなんか、心の隙間を埋めて下さいコールだろ、おい。
アジンは、アリョンとケンカ別れした後、妹の友人たちと遊びまくるんだけど、なんだこの尻の軽さは。あのバイク青年とも肉体関係があったんだろう。だからしつこくストーキングしてるんだろ? でもそのせいで、アリョンはバイク青年と暴力沙汰になり、刺されてしまうのだから、気の毒としかいいようがない。アジンの父親のせいで経済苦になり、アジンのせいで刺されてしまう。なのに、アジンはちゃっかり再就職。ところで、あのオバサンは誰?
アリョンは、翌朝、救急車で運ばれるが、あのとき、救急車のスタッフは警察官にたばこの火をつけてもらって一服してる。ということは、急がない、ということだ。つまり、死んだ可能性が高い。やれやれだよ。まったく。アジンの父親だって、逃げ回ってはいるんだろうけど、命に別状があるわけでなし。アリョンは踏んだり蹴ったりだな。
そういえば、最後の方でアリョンはどこかと電話していたけど、あれはアメリカの義兄に送った金がどうにかなった、ということか? となると、義兄の方も商売がどうにかなったのか、よく分からんけど、なんかな、な感じ。
というわけで、人物関係さえはっきり分かれば話の流れもほぼ分かる映画ではあるけれど、話が分かっても、だからどうしたな内容なので、いまひとつ乗れない話なのであった。残念。
散歩する侵略者9/11シネ・リーブル池袋シアター1監督/黒沢清脚本/ 田中幸子、黒沢清
allcinemaのあらすじは「日本海に面した小さな港町。ここに暮らす加瀬鳴海のもとに、数日間行方不明となっていた夫・真治が帰ってくる。鳴海は夫の浮気を疑うが、性格が一変してしまった夫の様子に困惑する。やがて夫は会社を辞め、毎日散歩するようになる。その頃、町では謎めいた一家惨殺事件が発生し、不可思議な現象が頻発していた。ジャーナリストの桜井は、偶然出会った奇妙な青年・天野に興味を抱き、彼とともに事件のカギを握る女子高生・立花あきらの行方を追う。そんな中、真治から“自分は地球を侵略に来た宇宙人だ”と告白される鳴海だったが…」
↑という話なんだけど、設定をよく詰めてない感じで、こういう場合はどうなる、という論理的・合理的説明が中途半端なまま話が進むので、とても「なるほど」とは思えない。だから話に入れなくて、むしろあら探しをしてしまう。そのうち、かなりいい加減なことがわかってきて、だんだん集中力も落ちてくる。やっぱり、この手の話は、「なるほど、そうなるよな」「そうか、それでか」というように、辻褄が合ってないと、つまらない。
むしろ、複数の概念を奪われ、だんだん壊れていく人物を描くとか、なエピソードがあってもよかったんではなかろうか、と思うのだが。
・まず、宇宙人は、あの3人を偵察として送り込み、何を調べさせているんだろう? 人間の概念=考え方を調査している? それで、結論として、どういう情報を本体に送ったのだ? わざわざ、そんな手間をかける理由がよく分からない。
・で、得た情報を、電気屋で買えるような部品でつくり、たまたま出会った桜井のクルマの、車載のパラボラアンテナから送る? って、やることがプリミティブ過ぎないか?
・宇宙人の実体は出てこない。宇宙人には、実体はあるのか? 概念だけを飛ばせるのか? そこらへんはテキトーなのかね。『寄生獣』は、変態できるシステムだったけどなあ。
・立花あきらの入院先へ、桜井と天野がやってくる。のはいいんだけど、どうやって場所を知ったんだ? で、警備の刑事と揉めて、刑事が室内に入ってしまい、でもドアを閉めないので2人も入ってしまうというのは、変だろ。まるで、入ってくださいといわんばかりだ。さらに、2人に向かってこの刑事、自分は高卒だから大卒エリートにはどうのと愚痴るんだが、何これ? もしかして、すでに入院中の立花あきらに、何かの概念を抜かれたのか?
・あの宇宙人は、概念的な存在で、かたちはないんじゃなかったっけ? なのに、立花あきらは通信機というカタチのあるものをつくり、それを桜井が運転するパラボラ付きのクルマに接続し、仲間にメッセージを送ろうとする。地球の状態や人間の思考や生態を知らない宇宙人が、桜井に通信機の部品を買いに行かせ、物体を造り上げてしまうというのは、いいのか?
・民家の青年からは所有の概念を奪ったんだよな。で、どうしてその青年が街頭演説したりするのだ? 鳴海の上司が、真治に仕事の概念を抜かれた後、アホみたいになってしまうんだけど、まあ、これは理屈と合ってるからいいとして。
・立花あきらは、なぜに格闘技に精通しているの? 人間の立花あきらが、格闘技系だったから?
・その立花あきらは、最初、金魚に乗り移った、って、アホかよ。その後の立花あきらと、その家族の話がよく分からんのだが。場面は家族がみんな死んだあと、血だらけの立花あきらが道路を歩いている場面になる。あとから分かるのは、彼女がどこかの施設に保護されていること、だな。でも、なぜ警察は逮捕しないのか? 謎の厚労省部隊は、「ウィルス」と説明していたけど、最後までウィルス説をとっていたのか? あるいは、宇宙人の侵略と気づいたのは、どの時点からなのだ? 最初から? ウィルスは隠れ蓑的な説明だったのか? よく分からない。
・家にやってきた桜井を追い出そうとする鳴海。「誰?」という真治に「この人ガイドだって」というのは変だろ。ガイド、と言ったら、真治が興味を示すに違いないはず。「誰でもない、知らない人」と拒絶するのが、本来の脚本だろ。
・どこかの施設に、鳴海の運転するクルマが入っていく。と、追ってきた桜井がやってきて、「2人はまだ話がある」という。だけど、鳴海の家の前で3人が立ったまま、その状態で会話ができるのなら、わざわざ桜井が介在する必要もないだろうに。で、立花あきらがクルマに近づいてくるんだが・・・。はさておき、さっきまでいた町・病院では謎の厚労省部隊や自衛隊員がそこらに配備されていて、戒厳令下みたいな状態なのに、そこからそれほど離れていないだろう施設では家族連れがのほほんと楽しんでいるって、どーゆーことだ?
・去ってきた町の病院には、患者がたくさん。いったい彼らは、どういう症状なんだ? やはりウィルス? いや、最後で分かるんだけど、概念を抜かれた人々が、一種の痴呆状態になっているようなのであるが、たった3人の偵察隊が、あんなに多くの人と接し、概念を抜いた、というのは不自然ではないだろうか。
・宇宙人は、ある種の概念を、自分が興味をもったときだけ、相手から抜き取っているような感じ。なんてトロい宇宙人なのだ。概念を抜くのは、だれか1人からでも、十分ではないのかね。そもそも、最初に寄生した対象の概念をひと通りもらっているんだろ? なら、それでひとつの人格は確保できているのだから、概念だって把握できてるだろ。違うのか? ああ、じれったい。
・鳴海の運転するクルマに立花あきらがはね飛ばされ、意識朦朧・・・。なれど、周囲の人々は叫ぶでもなく運転していた鳴海を責めるでもなく、変わって真治が運転し去って行くのをただ見送るだけ・・・。かすかにパトカーか救急車のサイレンは聞こえるけど、なんじゃこれ。
・立花あきらは、天野にだったか桜井にだったか、寄生する相手を「変えるか?」と問われているのだが、変えない。また、天野もまた、謎の厚労省部隊に撃たれた後、よろめいたりしているのだけれど、助けてくれる桜井に乗り移ることをしない。なんで?
・で、桜井は通信装置をパラボラにセットし、メッセージを送るのだけれど、なんで人間である桜井が、地球侵略OKの信号を送るのだ? 理解不能。彼が宇宙人に洗脳されたようには、見えないのだけどね。
・その後の展開も、「?」が多い。信号を送った直後、桜井が外に出ると巨大な爆撃機が上空に・・・。最初はあれが宇宙人かと思ったんだけど、あれは桜井と天野のクルマの動きをトレースしていた自衛隊or怪しい厚労省なのかな? でも、なんでいまさら爆撃してくるのだ? トレースできる能力があるなら、もっと先に爆撃しろよ。というか、はるかもっと先に3人を確保し、拘留すればいいだろうに。じれったい。
・宇宙人は予想外の概念、つまり、愛に出会って、侵略をやめたって、なんなんだ? いや、そもそも、真治が鳴海の愛の概念を抜き出し、「なんだこれは」とうろたえるところなんて、下手なお笑いだろ。そんなの、多くの人とふれ合っていれば、片鱗ぐらい味わってていいはずだ。それが、なんだよ、あれ。だいたい、その愛の概念は、どうやって宇宙人本体につたわったのだ?
・でも、最初の方で鳴海は、真治の浮気を指摘して「夫婦としては終わってる」といっていたよな。なのに、まだ愛があったの?
愛を奪われた鳴海は、最初ホテルで「何も変わらない」といっていたのに、2年後だったか5年後だっか、には、呆けて病院にいる。よく分からない。意味不明。
・で、最後は、真治という個体を侵略したつもりま宇宙人が、真治と一体化してしまっていることを感じ、半ば宇宙人でなくなっていくって、なんかテキトー過ぎる解釈だよな。
未来よ こんにちは9/20ギンレイホール監督/ミア・ハンセン=ラヴ脚本/ミア・ハンセン=ラヴ、サラ・ル・ピカール、ソラル・フォルト
フランス/ドイツ映画。原題は“L'avenir”。「未来」の意味らしい。allcinemaのあらすじは「パリの高校で哲学を教えている50代後半の女性ナタリー。夫は同じ哲学教師で、子どもも2人いて、どちらもすでに独立していた。ひとり暮らしをしている年老いた母のことは気がかりだったが、それなりに充実した日々を過ごしていた。ところがある日、結婚25年目にして夫から“好きな人ができた”と告白され、唐突に離婚を告げられる。すると今度は母が突然の他界。長い付き合いだった出版社との契約も、時代に合わないからと打ち切りに。ふと気づけば、完全に一人きりになってしまったナタリーだったが…」
パニック症候群+認知症の母親にふりまわされ、教科書会社からは「表紙も内容も古くさい」と再版なしをほのめかされ、一生をともにすると思っていた夫からは「好きな女性ができた」と別離を告げられ、と踏んだり蹴ったりの老哲学女性教師の話。でもそれによって事件が起きるわけでもなく、淡々と物事は過ぎていくという、だからどうしたな話なんだが、不思議に見てしまう。
知らない哲学者の名前がゾロゾロでてきたり、むかしの教え子が過激思想にかぶれてるとほのめかされたり、そのあたりは煙に巻かれてる感じもするけど、興味を引くんだけど、でもそれ以上に話は進まない。最後は、娘に子供が誕生し、オシマイ。なのに? タイトルの言う「未来」は、子供のことなのか? うーむ。肩すかし、な感じもなきにしもあらず。
冒頭、子供2人とシャトーブリアンの墓にやってくる夫婦。でもシャトーブリアンの名前は聞いたことがあっても、よく知らないのでなんとも・・・。その6年後だったかな、子供たちは大学生なのか、別居してる感じ。娘が父親の浮気に気づいて「どっちか選んで」というのがすごい。母の元にもどれ、とは言わないのだな。で、夫婦は離婚。その1年後ぐらいに、娘が子供を出産するんだっけか。それだけの話で、大きな事件はとくにない。あれこれあって落ち込むかと思うと、そんなこともなく、わりとがさつに生きていく感じで、とくに気の毒とも思えないところが不思議な感じ。これが、節目のたびに鬱になって、母親みたいに老いていくとかなら同情心もわくと思うんだけど、バイタリティあふれてる感じなんだよな。
やっかいなのが学者や音楽家の名前で。ブラームス、シューマンはなんとかなる、わけではない。それぞれの音楽が浮かばないし。ブラームス? 子守唄か? なレベルなんだよ、こっちは。『パンセ』(パスカル)、ルソー、アランはまあ分かるけど・・・といいつつ読んでないけど。エンツェスベルガー、ジャンケレヴィッチ、ギュンター(ハンナ・アーレントの旦那)、レヴィナス、アドルノはまったく知らない。フーコーは、あの人か。ユナボマーは爆弾魔だな。ウディ・ガスリーはまあなんとか。てな案配で、他にも登場してたと思うけど、暗闇でメモが追いつかない。まあ、メモしても理解が進むわけでもないけど、知ってると知らないとでは話の理解に差が出るんだろう、と思うと気分が暗くなってくる。まあ、でも、知るのは今後もムリなので、深いところの理解はあきらめて見るしかない。そういう目で見るから話が単純に見えるのかも知れない。まあ、しょうがない。
エピソードとして、むかしの教え子が登場する。デキがよくて進学を勧め、いまじゃ彼も大学で教えていたりするらしい。参考書の共同執筆者でもあるのかな。でも、彼は過激思想にかぶれているらしく、ユナボマーと、あと彼の書棚でもう一冊著者名がでてきていた。そのうち彼がテロリズムでも・・・? と思ったけどそんなこともなく、山で仲間とコミュニティをつくって暮らしているようだ。思想的には、かつて共産党に加盟し、でもソ連に行ってソルジェニーツィンに会ったか読んだかして失望し、教師になったらしいナタリーは、もうデモなんかの「行動」とは距離を置いている。その彼女が、彼に妙にご執心なのは、思想的な連帯意識だけ、ではないような気がする。映画手でも、彼が若い女性仲間と行動するようになっていく過程を描いているし・・・。とはいえ、60近い婆さんが、30凸凹の教え子に恋心? そういうのもあるのかなう。知らん。
あとは、母親か。施設に入れた途端、のように、ベッドから落ちて・・・という連絡が来て、次のシーンは葬儀だったりして。呆気なさ過ぎな感じ。その母親は黒ネコを飼っていて、引き取るんだけど、ナタリーはネコアレルギーって、おい、な感じ。でも、最終的にネコは教え子の青年のところにもらわれていくんだけど、教え子および母親との決別のいみがあるのかな?
あと、ナタリーがひとりで映画に行くと痴漢が寄ってきて、途中で出たようなんだけど追ってきて、ムリやりキスするんだけどナタリーは叫びもせず「やめて」という程度というのは、あれはフランスの標準的な反応なのか? ちなみに上映していた映画にジュリエット・ピノシェがでていたけど、なんだろ?
・産まれた赤ん坊を横に、娘が突然泣く場面があるんだけど、意味がよく分からず。ナタリーは「私がお父さんのことを非難したから?」というような感じで娘に聞くんだけど、娘は答えない。泣いた理由も分からない。うーむ。
・最後は“Oh my love my darling”が流れる。映画『ゴースト ニューヨークの幻』のテーマか。これは、元亭主への未練? それとも、もしかして教え子への・・・?
マイ ビューティフル ガーデン9/20ギンレイホール監督/サイモン・アバウド脚本/サイモン・アバウド
イギリス映画。原題は“This Beautiful Fantastic”。allcinemaのあらすじは「図書館で働くベラ・ブラウンは、極端に几帳面な性格で、予測不能なことが大の苦手。とくに無秩序に伸びる植物に対して恐れを抱いていた。おかげで借りているアパートの庭は荒れ放題で、ついに家主から1ヵ月以内に庭を元通りにしなければ退去してもらうと最後通牒を突きつけられてしまう。しかし、どこから手を付けたらいいのか途方に暮れるベラ。手を差しのべてくれたのは隣の偏屈な老人アルフィーだった。実は、彼は一流の庭師だったのだ。そんなアルフィーにガーデニングを基礎から学び、初めての庭づくりに挑戦するベラだったが…」
いささか強迫神経症的なメンヘラ娘の話で、『アメリ』風に始まり、隣のジジイと、隣家の手伝い男との三方一両損みたいな展開になるあたりまでは、これは・・・と期待したんだけど、あとがズブズブ。ああもったいない、という感じ。
音楽も『アメリ』風で、前半はパクリといってもいいかも知れない。エキセントリックなベラも、不思議な人たちを呼び寄せるところも。でも、そんなファンタジックなテイストが、いざ庭を造り始めるに至って、がぜんつまらなくなってしまう。夢の世界が現実的になりすぎて、どうでもいい感じにみえてきちゃうんだよな。ベラの不思議ちゃんぶりも低化するし、ベラ自身がなにかに向かって行ってハンデを克服する、ということもない。庭造りは隣家のアルフィーに大半助けられ、食事の方はヴァーノンまかせ。じゃ、お前はなにをするんだよ!?
そもそもベラは捨てられたんだっけ? それをジジイに拾われて、その後に修道院? で、なんであんな庭の広い家を借りられたのだ? 人づきあいも苦手そうで、仕事もたいしてできるとも思えないのに。というところから「?」なんだよな。まあ、ファンタジーなんだから現実の裏付けなんて・・・と思うかも知れないけど、やっぱり説得力は必要だ。ラストで、実は助けてくれた爺さまがアルフィーの兄弟で、長じたベラの面倒をみる約束をしていた、なんていう話があるのかと思ったら、なくて。うーむ。
あとから解説などを読むと、ベラは植物恐怖症らしい。けど、その恐怖症自体がよく描かれていないので、へー、そうだったんた、な感じ。だって、植物の長くなった枝を切ってるシーンもあったし。まあ、その植物はガラスケースに入っていたけど、恐怖症だから、という説明はなかったぞ。
でベラが、好奇心に駆られて、庭に足を踏み入れたのは、嵐の晩。図書館で見かけた不思議な青年のメモが風で飛ばされ庭に舞ってしまったから。といっても、その紙はメモそのものではなく、筆圧が残された紙で、エンピツの粉を塗りつけて解読しようとしていたものなんだが、図書館員がそういうことをしてもいいのか、はさておいて。それほどベラの興味を惹く青年だったのか? ビリーは。ただの変人じゃないのか? まあ、変人は変人を好むというところか。でもやっぱり、どこに惹かれたのか、ピンとこないんだよな。
ベラの几帳面さも、いまいち、そうなんだからそうなんだ的な描き方で、なにに由来しているのかよく分からない。やっぱりここも、ちょっとはヒントを埋め込んでくれよ。でないと読み解き甲斐がないよ。
で、あまりにも庭が荒れ放題なので大家がやってきて、手入れをするという約束だったんだから、そうしないと追い出す、ということになる。・・・というその前に、ベラはメモを取りに庭に入り込み、そこで気絶して隣家のアルフィーと使用人のヴァーノンに助けられる、という一幕もあるのだが。その庭がどうなっているのかよくわからない。隣家はアルフィーの家。では、同じような家と庭の構造の賃貸? でも、チラッと見えるベラの家の庭は、家よりも高いところにある。しかも、曲がっている。さらに、隣家との壁は煉瓦で、他に煉瓦の小屋みたいなのがある感じ? 後半で、ベラが描く庭の計画図がちょっと映るんだけど、全貌は見えない。いったい、どうなっているのだ、この庭は。あんな広い庭の物件に、なぜベラが入れたのだ? という疑問がずっとついてまわる。のだけれど、そもそもベラが倒れたのは、自分ちの庭? 隣家の庭? 自分ちの庭で倒れて、どうして隣家の人間が助けてくれたんだ? もよく分からない。隔靴掻痒。
おっとその前に、ヴァーノンはアルフィーのところをクビになり、ベラが助け船をだすという展開がその前にあって、ヴァーノンはベラの使用人ということになり、でも契約条件によって給与はアルフィーが6ヶ月(3ヶ月?)だけ支払うといういうことになって、でもその結果、アルフィーは満足な食事が摂れなくなり、みょうちきりんな提携が結ばれる。
まず、ベラは庭を元通りちゃんと造り直すこと。そのチェックは1ヶ月後。アルフィーはベラの庭造りのアドバイスをする。ヴァーノンはアルフィーの食事をつくる。というわけで、落語の『三方一両損』みたいな感じ。
というようなところまでは、先の展開が期待されたんだけど、こっからさきは、庭造りもテキトーにしか描かれず。むしろベラとビリーの恋物語みたいな話になって、ぜんぜんファンタジーでもなんでもなくなっていく。ここがとても退屈。だいたい、1ヶ月で花が芽吹くはずもないのに、アルフィーは「ひまわりを植えろ」といったり、ベラは地面を素掘りにして池を造ろうとしたり。そんなのムリに決まってるだろうに。というわけで、アホらしくて見ていられなくなって・・・。飽きてきた。
でまあ、途中、ベラはビリーにデートをすっぽかし、でもその直後にビリーが別の女の子といちゃいちゃしているところを目撃し、遊ばれていると落ち込むんだけど、まあこれは似て非なる他人かな、と思っていたんだけど、実はビリーは3つ子というテキトーなオチがつくんだけど、まあいいか。それはさておき、このエピソードのたっちはウディ・アレンっぽかったな。
でまあ、アルフィーが昔語りをしていくなかで、妻は最初の妊娠で亡くなり、胎児もともに亡くなった。以来、園芸家だった妻を思って庭造りに邁進。世界の植物を集めて庭を造っている。その妻がかいた園芸本をベラに貸してまで、手助けしている。でまあ、庭は1ヶ月で完成し、完成した庭でみんなでパーティ。ってアホかな感じ。その後、ベラとビリーがいちゃいちゃしてると電話が入り、アルフィーがなくなった、と。葬儀の席で、実はあの地所はすべてアルフィーのもので、隣家を賃貸物件にしている(のはなぜなんだ?)。そこにベラが入居して、観察していたけど、手助けする気持ちになったらしい(のはなぜなんだ?)。大家としてやってきていたのはアルフィーが雇った人物(ということなんだが、そんな手の込んだことをする理由はなんなんだ?) といった裏があっての手助けだった、と最後の方でダダっと慌ただしく説明されるんだけど、でも、それが分かっても「なるほど」よりも「なんで?」の方が多いんだよな。
後半もエキセントリックに、不思議感たっぷりに描けばよかったのに、と思うんだが。たとえば図書館の意地悪司書とか、なかなか存在感があっていい感じだったけど。
・ベラの植物恐怖症はなにに由来しているのだ?
・図書館に勤めだして間がないのに、どの棚にどの本があるか記憶してしまう才能は、どっからきたのだベラ?
・ヴァーノンも花粉症らしいんだが、もともとアルフィーの家の料理番だったんだろ? 部屋も庭も植物ばかりで、よく我慢できたもんだ。
・ところで、ヴァーノンの娘は双子で、まるで『アリス』の世界なんだけど、ビリーは3つ子。この設定は、どういう意味があるんだろう?
アルフィーは、妻が出産時に死んで、子供もともに死んでいる。マイナス2。
ベラは、両親に捨てられた? プラスマイナス0。
ヴァーノンは、妻が死んで双子の娘が残された。プラス1。
ビリーは、両親はどうだったっけ? はいいとして、三つ子のひとり。プラス3。
なんて考えて見たけど、意味がよくつながらんしな。
教授のおかしな妄想殺人9/25キネカ大森2監督/ウディ・アレン脚本/ウディ・アレン
原題は“Irrational Man”。Irrationalは、理性のない、不合理な、ばかげた、の意味。allcinemaのあらすじは「アメリカ東部ロードアイランド州ニューポート。この小さな海辺の町の大学に赴任してきた哲学教授のエイブは、“人生は無意味である”との哲学的答えに至ってしまい、すべてのことに無気力となってしまっていた。ところが、そんな悩める中年男に、教え子の優等生ジルは興味津々。さらに夫婦生活に問題を抱える同僚リタからも猛アプローチを受けるが、彼の心は沈んだまま。そんなある日、ジルと立ち寄ったダイナーで悪徳判事の噂を耳にするエイブ。その時、彼の脳裏にある完全犯罪への挑戦という企てがひらめく。以来、生きる意味が見つかったことで、見違えるように気力を取り戻したエイブ。その急変ぶりに戸惑いつつも、ますます彼の虜になっていくジルだったが…」
終わってみれば仕掛けもシンプルで、30分くらいの短編で十分なんじゃないのか、な内容だった。しかも、いろんな要素がそれぞれ非現実的で、どーもリアリティを感じにくい。まずは、なんであんな男がモテモテなんだ? な哲学教授。同僚の女性教授や学生のジルにアプローチされるなんて、なんなんだ? 腹もでてるじゃないか。
さらに、食堂で耳に挟んだ話で殺人を決意し、実行してしまうって、そんなアホな。はたまた、自分の犯罪に気づいたジルも殺してしまおうとするなんて、なんなんだ? そんなダークな人間に見えないし、これまたリアリティかない。
はたまた、若い恋人をふって関係をもった大人の男=エイブに向かって「殺人なんてあり得ない」「自首しろ。しないなら警察に言う」と豹変するジルも、たんなる教条的な感じ。どーも、出てくる人物が書き割りのようで、いまいち感情移入もできない。なので、少し飽きる。
世間で有名だったエイブがなぜ田舎の大学にやってきたのか? そもそもエイブは結婚の経験はないんだっけか? たんなる女たらし? それがなんで↑のあらすじのように「人生は無意味」と思うようになったのか? というか、そんな直接的なこと、説明されていたっけ? というような案配なので、ここも、なるほど感が足りない。そんな厭世的な哲学教授が、まいにち授業なんてできないだろ。うつ病棟にでも行くのがちょうどいい。でも、そうはなっていない。なので、困ったもの。
学生との交際は御法度、らしいのに、大っぴらにジルとエイブが一緒にいるのが、とても不自然。学内はもちろん、遊園地にまで行き、ルーレットゲームで大当たり。ジルは懐中電気をもらうんだけど、これがラストの落ちにつながるという、なんか、頭で考えたトリックのような・・・。うーむ。
というわけで、短絡教授の手抜かり殺人、とでもいう感じ。
後半の予想は、実はあの判事の判断は間違ってなくて、あの情報だけで殺人を犯したのは誤りだった、という展開になるのかな、だったけど、そうはならなかった。であるからこそ、食堂で話されていた内容、つまり親権の行方についてどうなったのか、ちょっと知りたい感じがある。つまり、判事が死んで、あの裁判の判断は変わったのかどうか? 母親に有利になったのかどうか、が知りたいね。
・エマ・ストーンはブスだな。ときどき顔をくしゃっとするけど、見事に歪んで変な顔になる。
・エイブは、鬱じゃなかったの?
・ジルの両親は「私たちは音楽だけれど」とかいっていたけど、あの2人ももしかして大学の教員?
・そもそも、ジュースのカップを変えた時点で、あのカップにエイブの指紋が付いていると思うんだけどね。それは、警察は調べなかった、ということなのか?
・薬品室でエイブを見かけるエイプリルという女性は、学生なのか? 研究生? 助手かなにか? 結構、歳を食ってる感じだったけど。論文がどうたらといっていたけど・・・。
カフェ・ソサエティ9/25キネカ大森2監督/ウディ・アレン脚本/ウディ・アレン
原題は“Caf? Society”。allcinemaのあらすじは「1930年代、黄金期のハリウッド。業界の大物エージェントとして活躍するフィル・スターン。ある日、ニューヨークの姉から電話があり、息子のボビーがハリウッドで働きたいというので面倒を見て欲しいと頼まれる。やがてボビーが現われると、秘書のヴェロニカ(ヴォニー)に街を案内させる。美しいヴォニーにすっかり心奪われるボビーだったが、彼女にはワケありの恋人がいた。その後ニューヨークへと戻ったボビーは、ギャングの兄が経営するナイトクラブの支配人となり頭角を現わしていく。そんなある日、奇しくもヴォニーと同じヴェロニカという名の美女と出会い、たちまち恋に落ちるボビーだったが…」
主人公のボビーは、どういう才覚があるのか知らんが、叔父を頼ってハリウッドにやってくるという、他人頼みの青年。その叔父フィルは、映画界で見栄を張りつつ大物振りを発揮してはいるけれど、秘書に手をつけてしまうオッサン。その秘書ヴェロニカは、役者志願のなれの果てで、オッサンのフィルに惚れている・・・のか? ホントは金と地位だろ? ボビーの兄貴は殺しも平気なギャングで、姉はといえば、自分のひと言で隣人が死んだのにたいして罪悪感も感じてない。
いつまでたっても(といってもつきあって1年らしいけど)離婚しないフィルに愛想を尽かし、アプローチしてきたボビーとつきあい始め、2人でニューヨークで貧乏暮らしでも幸せならば・・・と思っていたら、フィルの突然の「離婚する」宣言に心が動いて結婚。ハリウッドを去ったボビーは兄貴の店で働くようになって、知名人とも顔見知りになり、悪さはしないけど店の顔になっていく・・・。って、ボビーもコバンザメ人生だろ。まあ、兄貴の悪事が露見して逮捕・絞首刑。その後は、誰だったかの支援を受けてボギーが店を切り盛り。なとき、フィルがヴェロニカをつれて店にやってきて、互いの人生と過去を振り返るという、いささか切ない話ではあるけど、よくよく考えると、ロクでもない奴ばかり登場してるんだよな、この映画。
たせいたい、なんであんな男=フィルがモテモテなんだ? やっぱり金とか地位のある人間の妻の座が魅力なんだろ。しょうがねえな、女ってやつは。若い男より、オッサンを選ぶんだから。やだね。
ボビーは、任された店にやってきた美女と知り合って結婚するんだけど、これまたどういう位置づけなのかよく分からん女で。結婚していたけれど、亭主がほかの女のところに・・・とかいってたかな。で本人は市役所勤務らしいんだけど、そんな仕事をしていて、あんな高給な店にキラキラドレスを着て夜中まで遊びまくるのか? 30年代はそういう感じだったの? で、つき合ってデキ婚はいいけど、どんどん子供をつくるというのは、なんか貧乏人臭い感じがするけどまあいいか。
ところで、市役所勤務の方のヴェロニカは淡泊な感じの女優なんだけど、『ロスト・バケーション』の人だったのね。まったく気づかず。ということは、あの映画のときはそれほど美人に見えてなかったということか。まあいいけど。
「マンハッタン」「ジーパーズクリーパーズ」とか、当時をしのぶジャズが繰り返し流れて、なかなかいい雰囲気。ウディ・アレンはN.Y.が好きなんだなあ、というような感じも受ける。
三度目の殺人9/27109シネマズ木場シアター1監督/是枝裕和脚本/是枝裕和
allcinemaのあらすじは「勝ちにこだわるエリート弁護士の重盛朋章は、同僚がサジを投げた依頼人・三隅高司の弁護を渋々ながらも引き継ぐことに。三隅の容疑は、解雇された工場の社長を殺害し、遺体に火をつけたというもの。30年前にも殺人を犯した前科があり、自白もしているため死刑は確実と見られていた。さっそく重盛は無期懲役に持ち込むべく調査を始める。ところが、肝心の三隅は証言をコロコロ変え、味方であるはずの重盛にも決して本心を語ろうとしない。そんな中、三隅と被害者の娘・咲江との意外な接点を突き止める重盛だったが…」
ゆっくりと、静謐かつ丁寧に話は進んでいく。冒頭はいきなり犯行場面。つづいて、弁護士事務所・・・。すでに三隅は逮捕され、起訴されている。検察側は死刑を求刑するだろう、と。それを摂津弁護士は、無期懲役にしたい、という。重盛は、この事件を強盗殺人だったか否かで争おうとする。つまり、財布を奪おうとしたか、あるいは、殺した後に財布を奪ったか。・・・なんていう話を聞いていると、そんなんで量刑が変わるのかよ、という気分になる。
ほかにも、法廷の前に裁判官、検事、弁護士があらかじめ打ち合わせ、何で争うか合意して、それで了解する場面なんかもある。あるいは後半、三隅が突然殺害を否定して裁判が混乱、またまた裁判官、検事、弁護士が打ち合わせて、最初からやり直すよりこのままつづけた方が「訴訟経済に叶う」と裁判官が言ったりと、結構、法廷の裏側が描写される。
なるほど、とは思うんだけれど、そういう裏側はさらっと示される程度で、それ以上突っ込んで描かれない。たとえば、三隅の起訴は自白だけ、ということになっているけれど、証拠に頼らない起訴・死刑が問題化されている昨今なのに、ここはそれ以上触れない。また、三隅は「最初は否定した。検察にも、弁護士にも否定した」と言ってるのに、その正誤についても触れない。こういったところに隔靴掻痒で、なんかいまいち歯切れが悪い。司法の在り方への問いかけなら、もうちょいそこを前に出してくれないともどかしいではないか。
では、真犯人は誰か、あるいは、その動機は何か、という推理劇の部分は、まあまあな展開なんだけど。途中で動機が想像できちゃうんだよね。足の悪い娘の咲江、その父親を殺した三隅、三隅の家に咲江がよくやってきて話していた・・・。じゃ、父親の性暴力ではないのか・・・と。で、あっけなくその通りになって。咲江が、三隅のために証言すると言いだすんだけど、重盛や摂津はあまり乗り気ではない。いわく、「君はいろいろ聞かれる。嫌なことも聞かれる。足のことも・・・」と、見ていると、やめた方がいい、というような感じで、要は、それまで描いていた筋書き=被害者の妻が保険金めあてで夫の殺害を三隅に依頼した、というのが崩れてしまうのを恐れているみたいなのだ。
でも、そもそも、そんな根拠薄弱(被害者の妻から三隅にメールで「例の件よろしく」とあった直後に50万円振り込まれていたというものだけしかない)な想像で、はたして裁判が覆るものなのか? もし、そういうことが日常的に行われているのなら、もうちょっと、そのあたりのいい加減さ、テキトーさを突いて欲しいんだよな。いらいら。
でまあ、そういう弁護側の筋書きに、はいはいとしたがっていた三隅が、咲江が父親の性暴力について証言すると知ると、突然「僕はやってない!」とこれまでの証言を法廷で翻してすったもんだ、となるわけなんだけど、まあ、これは最後の方で重盛が言っているように、三隅を減刑させようと自分の恥を告白しようとする咲江に、証言をやめさせようとするものなんだろう。争点が強盗殺人か否かから殺害したか否かに変わることで、咲江の証言はあまり意味がなくなる。とは思うんだけれど、裁判の争点はともかく、なにが起こったのかという真実の追究はされなくなってしまう。はたして、それでいいのか? 裁判は。
まあ、そういうことを言わんとしているのだろうとは思うんだけど、明瞭に主張されていないんだよな。このあたりが、推理劇を含む部分の弱さかも知れない。
それと、もうひとつ。この映画では、人が人を裁くことの意味についてのセリフがかなり多く登場する。「命は理不尽。選別されている」というのは、三隅だったか。重盛も同じようなことを言っていたように思うんだが。重盛の父で、かつて三隅を裁いて死刑にしなかった裁判官は「あのとき死刑にしていれば、被害者が増えることはなかった」というようなことを。あるいは「人は、殺す奴と殺さない奴に分かれる」というようなことや、新米弁護士の「産まれてこなかった人なんていないと思います」なんていうセリフ。そして、最後に、咲江を救うために咲江の父親を殺害した三隅に、重盛は「あなたは器なのか?」というようなことを言うんだが、「ん? 器?」だよな。まあ、これは、あなたには意志はないのか? 人のために、なんでもするのか? というようなことなのかな? よく分からない。
そもそも三隅は30数年前、北海道で廃鉱にの憂き目に遭い、高利貸し2人を殺しているんだったかな? よく憶えてないんだけど。そのとき2人殺害していて、でも、死刑にはならなかった。このときも、もしかして自分の意志と言うより、社会正義の殺人だったのかな。当時、逮捕した警察官が、廃鉱で失業者が増え、そうした連中に暴力団が高い金利で金を貸していた・・・というようなことを言っていたし。そのときの刑で30年服役し、出所後、就職したのが食品会社で。ここの社長を殺害した、ということなんだが、事件当時はクビになっていたらしい。なぜクビになったのかは語られていなかったように思う。
そういえば、被害者の妻からのメールの「例の件」は食品偽装に関するもので。得体の知れない小麦を仕入れ、販売していたことを黙っていてくれなのか、手間賃なのか、よく分からない。その金のことで、三隅は被害者である社長と争っていたこともあるようだけど、でも、それは犯行とは関係ないよな、咲江の件があるんだから。
それにしても、たまたま出会った三隅と咲江が打ち解けて、実はお父さんに・・・なんていうことをいうものなのだろうか。という疑問は最後まで残るけどね。
というようなわけで、事件・裁判劇として見ても物足りない。なんか中途半端。そして、人の裁き、という観点からも、意味深で分かりづらい説明セリフがムダに多いので、すらりと頭に入ってこない。考えさせる、ではなくて、何を言ってるんだ、この人は? 的な、根本的なところで、分からなくなってしまう感じ。
まあ、こうやって振り返って整理すると、なんとなく分かってくるような感じはするけどね。
ラストシーンは、生活道路の十字路の中心で、電線だらけの空を見渡し、いったい自分はどこに行けばいいんだ的な表情をする重盛で、分かりやすすぎてちょっと拍子抜け。
・三隅とカナリヤのエピソードは、バート・ランカスターの『終身刑』を少しだけ連想した。
・ところで、「三度目」とは何を指しているのだ? 最初の事件で2人、今回が1人で3度目? あるいは、司法による三隅の死刑が3度目?
・重盛の14歳の娘が登場するんだが、これが反抗期で万引き。警備員を誤魔化すため嘘泣きできるという設定。裁きなんて、簡単に騙せると言うことなんだろうけど、いるのかな、この娘のエピソード。
・咲江の足が悪い理由は、最後まで明かされない。産まれたときから、という話がある一方で、本人は屋根から飛び降りたという。こんなの、母親に取材すれば分かることなのに、なぜしない? と思ってしまう。
・一方で、三隅の、もう30年以上も会っていないという娘は登場しない。口止め料にもらった50万円は「娘に送った」といっていたけど、本当なのかどうか、さて。30年前の事件の背景も、もう少し知りたいものである。
サーミの血新宿武蔵野館19/29監督/アマンダ・シェーネル脚本/アマンダ・シェーネル
スウェーデン/ノルウェー/デンマーク映画。原題は“Sameblod”。allcinemaのあらすじは「1930年代、スウェーデン北部のラップランド地方。ここに暮らす先住民族のサーミ人は、他の人種より劣った民族と見なされ、理不尽な差別や偏見にさらされてきた。そんなサーミ人の少女エレ・マリャは、寄宿学校では優秀な成績で進学を希望するが、教師からはサーミ人はスウェーデン社会ではやっていけないと冷たくあしらわれる。そんなある日、洋服に身を包みスウェーデン人のふりをして夏祭りに忍び込むエレ。そこで都会的な少年ニクラスと出会い恋に落ちる。そして彼を頼って街に出るエレだったが…」
サーミ、という呼び名は知らなかった。ラップ人、というのは知っていた。でも、どういう人たちなのかは知らなかった。この映画は、ラップランドに住むサーミ人についての話で、ラップ人とは、こういうことだったのか。と、勉強になった。帰ってから調べたら、サーミは北欧3国からロシアにまたがる地方に住んでいて、人口は20万人程度というから、どういう生活をしているのか不思議になる。この映画の主人公マリャは、どちらかというと東洋人っぽい顔つきで、ふだん身につけている衣装を見ると、なんとなくアイヌとつながりがあるのではないのかな、と思えるようなところもある。ヨーロッパからロシア、カムチャッカを通ってアラスカに行き、南米までたどりついた、なんていう話もあるけど、そういう人種的な関係もあるんではなかろうか。
それと思ったのは、複数の国家にまたがって存在する民族という意味では、クルド人と似ているな、ということ。サーミも国家を持たず、ノルウェーやスウェーデンの少数民族として存在している。まあ、独立するには土地も広すぎるし、人口も少なすぎるとは思うけど。
で、映画だけど。あらすじのような流れで、寄宿学校を逃亡し、ニクラスの住む街にいきなり行ってしまうのだ。それ以前には、女教師の衣装を黙って着て、それで秘書かなんかに来ていたニクラスと知り合うんだけど、いったいこのマリャって女の子は、どこまで図太いんだ、という感じ。スウェーデン人への憧れ、があったにしても、そこまでやるか、な感じがしてしまう。まして、夏まつりで、あれは一夜限りの契りをしたのかしないのか曖昧だけど、かるく「近くに来たら寄りなよ」ぐらいは言ったかも知れないけど、それを間にうけて、行くかね、という感じかな。
で、家族は嫌がるんだけど少しの間だけ、ということで泊めるんだけど。どうやらここでも関係しているようで。このマリャなる娘は尻軽だな、と。ニクラスは気づいてなかったけど、両親はマリャがラップと分かっていて。ということは、言葉や顔つきで見分けがつくのか? 結局は追い出され、ふらふらどこかの建物の図書館に入り込んだら、「早くしなさい」などと言われ、体育の授業に行くように言われ、でもスウェーデン体操ができなくて・・・とかで、どうなることやらと思っていたら、勝手に入学手続きをされてしまったみたいなのが、これまた「?」なんだよね。ただし、授業料の請求書ももらってたけど。1930年代のスウェーデンは、素性の分からない娘も生徒にしてしまうような環境があったのか?
さらに、さっさと同級生と仲良くなって、「あの子ダサいわね」なんて話に加わって。一緒に笑っていたりするという、おいおい、なところもあったりするのが凄い。
さて、金だ。マリャは再びニクラスのところへ行き、「金を貸してくれ」というのが凄いというか、図々しいというか。世間を知らないからああいうことができたのか、そういう性格なのか知らないけど、いまひとつ同情できにくいつくりになってる。
でもって、それはことわられるんだっけかな。もうよく憶えていない。で、実家に戻り、トラカイを売って金を作ってくれ、と母親に言う。どうやら、最初の方に登場していた父親は、どこかの時点で亡くなっていたようだ。「そんなことはできない」と母親に断られるんだけど、父親の銀の帯がどうのと言い、母親は仕方なくそれをマリャに渡す、というのがマリャの脱サーミの実質的スタート、というところなんだが。たんにそれでマリャがスウェーデン人社会にすんなり入れたとも思えないのだよな。
銀の帯を売る→授業料を学校に払う、まではいいけど、保護者もいなくて、学校生活が送れるのか? 住まいはどうした。翌年の授業料は? どっかで働いたのか? そういう具体的なところをどうクリアしたのか? とても知りたい。なにせマリャは教師になったのだから。
この映画、マリャの妹が亡くなったので、息子がマリャを実家に連れて行こうとするところから始まる。拒むマリャを強引にクルマに乗せ、サーミの居留地みたいなところに連れて行くんだけど、村の人々は「誰?」「妹よ」的なこそこそ話である。
で、思うに。マリャは息子や家族に、自分の出自はちゃんと話しているのだね。ふーん、な感じ。
葬儀で、棺の中に献花するんだったかな。妹は、マリャのためにトナカイをどうたらとか言ってたけど、耳を切ってマリャのもの、とかいう印をつける儀式のようだ。妹は、それをずっと怠らなかった、とかなんとか。そういうのを知って、マリャはどこか近くの丘に登って泣き崩れる、というようなラストだったかな。まあ、サーミを捨てた自分を悔いているところもある、という感じかしらね。とはいえ、あそこまでしてサーミを捨てたんだから、ずっと家族にも内緒でよかったんじゃないの、とも思うが。
というストーリーはさておき。寄宿舎に住むようになったマリャと妹。ある日、都会から学者みたいなのがやってきて。頭の大きさを測ったり、裸の写真を撮ったりする。日本人も、アイヌや台湾蕃族に対して同じようなことをしていたはずで、そういう写真もいまだに残っている。そういえば、幕末か明治にやってきた外国の研究者が、アイヌの墓を暴いて骨を持って行ってしまった、という話もあるようだ。その骨は、最近、返還されたようだが。こういう具合に、人間同士でも、劣等民族とか優秀な民族とか、優生学的に判断していた時代があった。そういうことを、日本同様、北欧でもしていたのだな。なるほど。
しかし、上の学校に行きたい、というマリャの訴えに、「サーミは劣等民族だからムリ」と言い放つスウェーデン人の女教師は、凄いな、と。まあ、そういう時代だった、ということなのかもしれないけど。日本では、台湾の少数民族に対しても教育を施し、優秀な生徒は教師や巡査として取り上げていたりしたよなあ。などと。

 
 

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