パーティで女の子に話しかけるには | 12/4 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1 | 監督/ジョン・キャメロン・ミッチェル | 脚本/フィリッパ・ゴスレット、ジョン・キャメロン・ミッチェル |
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原題は“How to Talk to Girls at Parties”。allcinemaのあらすじは「1977年、ロンドン郊外。パンクが大好きなのに自分は内気で鬱屈した毎日を送る高校生エン。ある日、ライブの帰りに不思議なパーティに迷い込んだ彼は、そこで美少女のザンと出会う。規則だらけの生活にうんざりしていた彼女はエンが語るパンクに興味を持ち、パーティを抜け出し、エンと一緒に街へ繰り出す。そんな彼女の正体は、遠い惑星からやって来た異星人だった。そして彼女が地球にいられる時間は残りわずか48時間だったが…」 イギリス映画かと思ったらアメリカ映画なのか。 さて、見てから2週間近く経ってしまった。タイトルとエル・ファニングに釣られて見に行ったんだけど、なにがなんだか。大半、意味が分からず、エル・ファニングも少女から大人になりかけで妖しい初々しさも薄れ、映画に入れない退屈な時間を過ごしたのだった。話は↑のあらすじの通りなんだけど、果たしてザンたちが宇宙人という確証もなく、新興宗教の団体とも思えるような感じで、ちっともSF感はない。いや、なくてもいいんだけど、彼らが何のために地球に来たのか、そして、去って行くのか、それもよく分からない。ヒントになりそうなセリフもあったと思うけど、真面目に聞いてないので、耳に入らず。 そもそも、ふらりと入れる不思議なパーティというのは何だよって話で。そこにいる自称宇宙人も60年代ファッションぽい格好で、何か何だか・・・。で、なかに、不思議ちゃんみたいな娘=ザンがいて、エンは彼女を彼女を連れ出してパンクのステージに上げたり、あれやこれや。なんだけど、ラストの方で、エンが妊娠しているようなことを言っていたけど、セックスシーンなんてあったっけ? まあいいけど、この、人間世界でのあれやこれやも、ほとんど記憶にない。つまんない場面ばっかりだったから。 で、48時間以内にもどる必要があるとかいう話は、どんなかたちでされてたっけ? 記憶にない。 なんだかしらんが、建物の上から集団で飛び降りるような感じで消えていったんっだっけかな? よく覚えてないけど、エンもそうやって消えたんだっけ? で、時代は過ぎて20年後だか現代だか知らんが、音楽評論家? みたいになったのか、どっかの書店でサイン会してるエンのところに集まって来てる連中は、かつての宇宙人たち、だったかな。でもたしか、中にザンはいなかった、と思うけど。というような、ほとんどアバウトにしか覚えていない。完全に寝てはいないけど、結構、ボーッとしてたのも事実で。これでエル・ファニングにかつての魅力があったら違ったかも知れないけど。たんなるブタ鼻の、猫背でなで肩の娘、にしか見えなくなっていたからなあ。残念。 | ||||
永遠のジャンゴ | 12/7 | 新宿武蔵野館3 | 監督/エチエンヌ・コマール | 脚本/エチエンヌ・コマール、アレクシ・サラトコ |
フランス映画。原題は“Django”。allcinemaのあらすじは「1943年、ナチス支配下のフランス。パリの名門ミュージック・ホールのステージで喝采を浴びるギタリストのジャンゴ・ラインハルト。彼がキャリアの絶頂期を迎える一方、彼が属するジプシー・コミュニティではナチスによる迫害が激しさを増していく。当初は戦争を他人事とどこか暢気に構えていたジャンゴだったが、やがて自分や家族にも危険が迫っていることを知る。そんな中、ナチス高官たちの前で演奏を披露するよう要請されるジャンゴだったが…」 ジャンゴ・ラインハルトの音楽はとても好きなんだけど、この映画はそういう期待に、音楽の面ではある程度応えてくれたかも知れないけど、ドラマとしては中味がなさ過ぎて、うーむ、な感じ。実をいうと、楽曲面でも、みんなが知ってる超有名曲は、隙なかった感じ。なので、なおさら、うーむ、だったかな。 だって、ジャンゴが出てくる意味が、ほとんどないんだもん。彼は、ひとつもヒーローというかレジスタンス的なことはせず、フランスから逃げようとするだけ。たまたま、レジスタンスが、傷ついた同志だったか誰だったかを、湖を渡って連れ出そうとする夜、ドイツ軍のパーティかなんかで演奏し、監視の注意が向かないようにする、というぐらいなもの。それでさえも、とくに監視の注意を誤魔化すようなことはしていない。フツーに演奏しているだけ。なんだよ。な感じ。 で、ふだんはとくに気にしていなかったんだけど、ジプシー=ユダヤ人、迫害の対象、だったんだな、という再確認。感じた部分は、こっちの方が大きいかも。というか、ジプシーでありながら、ナチ占領下で結構自由に演奏をさせてもらえていて、しかも、あるとき「ドイツ国内での演奏を」と頼まれたりもする。へー。寛容なんだな。としか思えない扱いで。それほどジャンゴは、ドイツ軍の幹部にも好かれていたのか、ということ。 でも、その命令というか依頼に背き、勝手にスイス国境の家に移住してしまい、そこで、湖を渡してくれる順番待ち? の状態だった。その間、手持ちぶさたなのか、路銀が足りなくなったのか、地元の居酒屋で結構派手に演奏をしていて、それが地元のドイツ軍にも知れ渡り。でも、パリの、ジャンゴを知るドイツ軍人にはつたわらないという不思議はあったけど。 でも、結局発覚してしまい、「なぜ逃げた」的な追求もあったけど、のらくらかわして、ドイツ軍のパーティで演奏しろ命令が下る、という案配で。とくに暴力でボコボコにされた、というような話は、たしかなかったよな。 で、そのパーティの数ヵ月後か、もうパリは解放され、自由の身になっているジャンゴが映される。なんだよ。当時はもう、ドイツ軍も追いつめられていたのか。なのに、結構、強気でいたんだな、ドイツ軍は。なんて思ったりしたんだが、どうなんだろ。時間の経過がよく見えないので、とくに感動も、なるほど、もないのだった。 で、自分がボートで越境するのをあきらめて、ドイツ軍のパーティで演奏し、役目を終えて。その次は、なぜか知らんが、山越えでスイスに逃げる? ということになって。母親と身重の妻は、途中で別れるんだったかな。しかし、そういうルートもあるなら、さっさとその方法でスイスへ逃げればいいのに、と思ったのであった。でもって、次のシーンは、解放後のフランスの教会みたいなところで、ジャンゴが演説してる。母親もいるし、妻は赤ん坊を抱いている。なーんだ。みんな無事だったんじゃないか。というか、ジャンゴがスイスに逃げて間もなく、フランスは解放されたらしいから、わざわざ逃げなくてもよかったのかね。とか思ったりしたのだった。 ・ドイツ軍の秘書みたいなことをしている女性ルイーズがジャンゴに接近し、軍のために演奏させようとするんだけど、彼女は何者なんだ? 最後の方では、ドイツ軍にいたぶられ、殺されたような感じだったけど。よく分からない。 ・愛人としてのルイーズがいるから、当時は独身、かと思ったら、なーんと、パリの家には実母と嫁がいて、嫁は身重だったりするという。なんだよ、おい。たんにルイーズは浮気かい。やれやれだな。 ・フランス国内でも、音楽を聞きながら踊ってはいけない、にような規則があったとは。まして、ドイツ国内で演奏するに当たって「スイングは20%以下にしろ」とか、あらかじめ指示される。ジャズ演奏家に、そんな注文はムリだろ、と思うんだけど、ナチは大真面目だったようだ。 ・冒頭から登場する、マネージャーみたいな人物。ジャズ博士、とか呼ばれてたかな。字幕では。の存在は、なんなんだ? ジャズに詳しいフランス人? 彼もジプシー? ・会話に、グラッペリがどうの、というのがでてきてたけど。ステファン・グラッペリだな。ヴァイオリンの。でも、なんで何度も会話に登場するのだ? と思っていたら、調べたら、ジャンゴと一緒にやってたのね。なんか、ジャンゴのメンバーについては、よく知らなかったよ。こちらの無知。ではあるが、ジャズを知らない人には、ちんぷんかんぷんだろうな。 ・湖畔に住まいを見つけるシーン。あれ、建物を借りたのか? 買ったわけじゃないよな。ドイツ軍に接収されるまで、どのぐらい住んだんだろ。 ・湖畔の村の酒場で演奏するんだけど、店主に「ジプシーではない」という書類にサインしろ、といわれておった。そういうことがあったのね 。 ・湖畔の家を追われ、親戚もいるのかな、なジプシー集団に潜り込むんだけど。今度は、移動の制限だかなんだかされて、しまいには馬車とかが焼き払われていた。これはよく映画に登場するね。戦争当時でなくても、現在でも、ジプシーを嫌う人々に、焼かれていたりするようだ。今年見た『グッバイ、サマー』でもそんな場面があったような。 | ||||
ビジランテ | 12/12 | テアトル新宿 | 監督/入江悠 | 脚本/入江悠 |
allcinemaのあらすじは「大型商業施設の誘致計画が進む埼玉のとある地方都市。地元の有力者だった父が亡くなり、市議会議員の次男・二郎は予定地に含まれている土地の相続を巡り、暴力団の下でデリヘルの雇われ店長をしている三男の三郎に連絡を取る。そんな中、ある出来事をきっかけに30年間行方知れずだった長男・一郎が突然2人の前に現われ、父の遺言書を盾に土地を相続すると主張する。想定外の事態を前に、いつしかその土地を巡って危険な立場へと追い込まれていく二郎と三郎だったが…」 冒頭は、川の中を逃げる3兄弟。長兄が川を渡り、何かを埋めるが、下の2人は父親に捕まる。でも、長兄も捕まり、家でしばかれる。ところを、長兄は逃げ去ってしまう・・・。どう見ても中学生には鳴ってない感じだけど。その後は誰に援助を受けて成長したのだ? で、30年ぐらい? ↑のようなことになって。だけど、二郎が議員である、というはっきりした描写がないので、もしかして市役所勤務? とか思ったりもしつつ見てたんだけど。父親も議員、ではなかったのか? よく分からんけど、二郎はまだ新米みたいで、会派の長老=市長? とか、会派の親分格の議員にヘコヘコしてる。のだけれど、神藤家の土地がモール進出にかかっているから、どうの、というのがよく分からない。目をかけられたかったら安く会派に提供しろ、ということなのか? だいたい、近ごろでは議員になりたくないトレンドも多くて、報酬も少ないから、そんなに議員なんて人気のある職業じゃないぞ。利権だって、世間の目が厳しいから、昔のようではないし。 三郎は、デリヘルの店長。でも、地元のヤクザに頭が上がらない。しかし、せいぜいが商売をする権利に恩義があるだけなんだろ? それ以外に借金があるとか、別の因縁があるということもなさそう。なのに、なんであんなに地元ヤクザにペコペコする必要があるのだ? あんな因縁、さっさと断ち切って、女たちも未練なく解雇して、地元を去ればいいではないか。それができないしがらみが、地元にあるようにも思えない。それに、デリヘルの店長しかできないようなヤクザな男にも見えない。 突然現れる一郎は、これまたよく分からない。ずっと行方不明だったのが父の死の直後に姿を現し、公正証書を振りかざして「あの土地は俺のもの」と主張する背景はなんなんだ? 過去の何時かに父親と再会して証書を書かせたらしいが、市の実力者(って、議員をしていたということか?)であった父親のダークな部分を受け持って、なにかやっていたのか? 覚醒剤もやってたようだし、数億の借金で横浜のヤクザに追われていたり、フツーではない。でも、その背景は結局分からない。 ビジランテ、は、自警団のことらしい。リーダーは二郎で、まあ、議員をつづけるためにやっているんだろう。市民による夜回り自警団で、公園の高校生に注意したり、中国人部落みたいなところで、夜もワイワイ外で飲み食いしている中国人を注意するぐらいで、物語の中核にはない。なんで、タイトルにしたのか、よく分からない。 で、全体に重苦しい感じで話が進み、意外な関係とか出来事が次々に湧き起こるので、つまらなくはない。けれど、それがどうした? と考えていくと、議員の件もそうだけど、いろいろ「?」が山積みになる。で、最後は、マンションのベランダで、あれやこれや電話の仲介をしている、あるいは、指示を出している金髪の男はなんなんだ? 黒幕なのか? となるんだけど、この件についてはなにもヒントが提示されていないので、よく分からない。というわけで、よく分からない話なのであった。 そもそも3兄弟の父親の暴力はなんでなの? たんなるバカオヤジ? 母親=が死んだ夜、3人で話し合って、一郎が父親を刺し、逃げた、というのが冒頭の場面のようだ。しかし、そんな暴力オヤジだったのか? 母親の死は、父親にアリ? 刺して、どうしようとしたのか? はたまた、3人で逃げて、どうしようとしたのか? そして、一郎は刺したナイフをブリキ缶に入れ、対岸のどこかに埋めたのだが、それはなんでなの? なんで隠す必要があったんだ? 意味不明。 あ、あと、後半で三郎が二郎の家を訪れたとき、二郎が「刺したのは一郎じゃなくて、三郎だよ」というんだけど、それは事実なのか? 嘘なのか? よくわからない。 でまあ、要は、土地をめぐってのあれやこれやで。その土地は、アウトレットモールの予定地にかかっていて、二郎は会派の長老から「なんとかしろ」と言われている。けど、↑に書いたように、会派の長老の意図はよく分からない。で、二郎は一郎と三郎に放棄させようとするんだけど、一郎は公正証書をかざして「俺のもの」と主張。三郎は「要らない」という。なんで三郎は要らないの? あんなオヤジの土地だからこそ、もらっておけばいいじゃないか。最初は、デリヘルの仕事に満足してるのかと思ったら、ヤクザにペコペコで、そんなこと、金があればしなくてすむのに、と思うけどな。 二郎も、なぜそれなりの金を渡して交渉しないの? たんに放棄なんてムリだろ。で、会派の幹部も、ベランダ金髪経由で地元ヤクザに連絡し、デリヘルの女を拉致して三郎を脅すんだけど、そんなのフツー無理筋だろ。三郎も、ヤクザに焼肉屋で手に金串を刺されてなお、一郎のところに「放棄してくれ」と交渉に行くのがアホらしい。さっさと逃げるか、ヤクザに刃向かって行けや、と思ってしまったよ。なんであんな及び腰なんだ? 中国人街のいざこざ、中国人によるパチンコで自警団の若手(中国人嫌いの右翼かぶれ)が失明し、その若いのが中国人街に放火、という別のエピソードもありつつ、最後は自宅を占拠する一郎の元へ、二郎、地元ヤクザ、一郎の債権者の横浜ヤクザがかち合って。でも、タイミング良く横浜ヤクザがやってくるもんだよな。で、地元ヤクザと横浜ヤクザの交渉で地元ヤクザが土地だけで引き下がってデリヘル女は介抱する、ということに。でも、一郎はかつて父親を刺したナイフ(これがまた、二郎が刺された手をかばいつつ川の向こうに渡り、テキトーに掘ったら昔のブリキ缶が出てくるという都合の良さ)で地元ヤクザの首を刺し、それを契機にみなさん入り乱れ、横浜ヤクザが拳銃で圧倒。一郎は地元ヤクザの子分にやられたのか絶命。地元ヤクザは横浜ヤクザにやれれて全滅。三郎は生き残って、デリヘル女の救出に。横浜ヤクザは死骸をセダンのトランクに入れて退散。という、何だかよく分からない展開。 なとき、二郎は、モールの実行委員に思いがけなく選出されるんだけど。それは、土地がらみでムリなところを、奥さんの手腕で会派の長老に取り入った模様。 二郎の奥さんは、二郎の出世と権力掌握を期待しているのか? 中国人のパチンコで失明させられた青年が描出を抜けだし、中国人街に火を放つのも、その直前に彼女が青年を見舞に来ていたから。見舞金だけで、あんなことをするか? はたまた、アウトレットモール対策委員を議員の中から市長(?)が選出する、というようなことを宣言した直後に、彼女は、市長室にひとりで入っていく。これはもう、色仕掛けだろ、ねえ。そういえば二郎がカーセックスしている場面があったけど、あの相手は奥さんなのか? なんでまた、女房と田舎の農道でまぐわう必要があるんだ? よく分からんな。女房じゃなかったとしたら、あれはだれ? で、選出された場で、会派の幹部から、スマホに送られてきた一郎の血だらけの写真を見せられ、スピーチの最中に壊れるかと思いきや、無事に終えてしまうと言う、つまんねえな、な展開。だって、地方議員の地位なんて、そんなにしてまでしがみつくものでもないだろ、と思うからなんだが。 で、デリヘル女を救出し、バンを運転していたら、ガソリンスタンドで横浜ヤクザのセダンを発見。近寄って行って「兄貴の遺体はどうした!」と詰めより、後部座席の男を、刺したのかな。でも撃たれて道に転がり、でも這って、デリヘル女の乗っているバンに向かう・・・というとこら辺で終わった、んだったかな。 なんなんだ、このアバウトさ、大げさなやり過ぎ感。こんなこと、あり得ないだろ、な話の展開で。重厚な話運びはそこそこヒキがあるものの、リアリティの面では、こちらが引いてしまったよ。 ・最初に、三郎が実家で見た男、バックで女とやってたのは、最初、勝手に入り込んでるオッサンかと思ったら、一郎だった、のね。しかし、なんで三郎は、実家の前なんか通ったんだ? あるいは、実家はずっと空き家になっていた? であるのに、電気はどうしたんだ? 一郎が電力会社呼んで契約したのか? で、その後、三郎が様子を見にやってきたとき、逃げ出してきた女がいたんだけど、駅まで乗せて東京に逃げ帰させてやった。で、その後、一郎のところにやってきた女がいる。あの女は、一度逃げた女なのか? よく分からない。だとしたら、なんで舞い戻ってきたの? ・市議会が終わったあとだったか、廊下で二郎(だったかな)が電話を終わって、その背後を女性が走ってくる場面があって。なにか言いに来るのかなと思ったら、途中で曲がって行ってしまった。なんか、思わせぶりなだけの演出だな。 ・連想したのは阿部和重『シンセミア』の街。閉鎖的な田舎の陰気な空間。でも、ロケは深谷らしい。あの程度の規模の市会議員が、あそこまで権力をふるい、ヤクザを使って人を抹殺し・・・というのは、金銭的にも割に合わないだろ。非現実的すぎる。 ・3兄弟の名前から、世良田二郎三郎も頭に浮かんだ。徳川家康の影武者、かな。 ・テアトル新宿。座席が一新して、真っ赤で、背もたれが高い構造の椅子になっていた。 ・最前列に新宿タイガーが座っていた。新宿武蔵野館に新聞を届けに来るのを見たことはあるけど、映画館内で遭遇するのは初めて。 | ||||
LION/ライオン 〜25年目のただいま〜 | 12/15 | ギンレイホール | 監督/ガース・デイヴィス | 脚本/ルーク・デイヴィス |
原題は“Lion”。allcinemaのあらすじは「優しい養父母のもと、オーストラリアで何不自由なく育った青年サルー。友人や恋人にも恵まれ、幸せな日々を送る彼だったが、ひとつだけ誰にも言えない悲しい過去があった。インドの田舎町に生まれたサルーは5歳の時、不運が重なり兄とはぐれ、たったひとり回送列車に閉じ込められて、遥か遠くの街コルカタに運ばれてしまう。そして言葉も通じない大都会で過酷な放浪の末に、オーストラリア人夫婦に養子として引き取られたのだった。ある時、サルーの脳裏にこれまで押しとどめていたそんな少年時代の記憶が強烈によみがえる。インドの家族への思いが募り、わずかな記憶を頼りに、Google Earthで故郷の家を見つけ出すと決意するサルーだったが…」 前半が退屈。後半はご都合主義。GoogleとユニセフのPR映画かよ、これ。な感じ。 約1/3がインドでの過去の物語なんだけど、要は、サルーが迷子→孤児院→オーストラリアの里親へ、な流れなんだけどムダに長い。しかも、兄が深夜の仕事に行く、といったら、ついていく、と聞かないので連れていくが、やっぱり駅で寝てしまい、「そこで寝てろ。動くな」というのに目覚めてふらふらし、回送列車に乗り込んで1200キロだか1600キロだか遠くのカルカッタまで連れてこられる、という話。この手の、言うことをちゃんと聞いていれば、な話は山のようにあるので、うんざり。子供だからしょうがないというむきもあろうが、聞き分けのない子供にも責任はあると思うので、はっきりいってどうでもいい。むしろ、その後、いろいろあるけど孤児院に送られ、オーストラリアに里子に出されて、ある意味では幸せだよな、と思ったりした。 気になるのは、地下道で捕獲されてた子供たちや、サルーを助けた女性が、彼を男に値踏みさせていたけれど、あれはどういう筋なのか、もし捕獲されたりしていたらどうなってしまっていたのか、気になるところ。ラストで、字幕に、インドで行方不明になる子供は年間に8万人、とかでていたけど、どっかに売られて、その後、どうなっちゃうの? そういえば、中国映画にも『最愛の子』ってのがあったな。 で、25年後の現在。サルーはタスマニアから大陸に移って大学に入った、のか? 観光学だったかな。でも、30歳近くではないの? それとも、大学に行ったのは20年後ぐらいで、その後、生まれた街を探すのに5年ぐらいかかった、ってことか? よく分からず。 白人の恋人ルーシーができ、ラッキー、かと思ったら、知人に「GoogleEARTHで調べられるんじゃないの?」といわれ、最初は無視していたけど、ルーシーの後押しもあって始めたら止まらない止められないで、学校も辞めて生家調べに没頭。あげくはルーニーに別れ話を切り出す。いわく、「ボクの行方を25年も探している母と兄がいるんだ!」で、半ば廃人。その間にルーシーはニューヨークに行ったりキャリアを積んでいた。で、里親両親も心配はするんだけど、ほったらかしな感じで、このあたりはよく分からない。 でね。里親夫妻は、サルーを受け入れた直後に。もうひとり、インドの子供を受け入れるんだけど。これが自傷気味の異常な子で、インド側が知って送り出したなら、そんなのアリか? な感じ。あるいは、承知して受け入れたなら、里親夫婦はご立派、なんだけどね。もちろん長じても弟は変わらず、変人で家を出て、仕事もしていない。それでよいのかね、な感じがした。それはさておき、ラストの方で、サルーが、里親両親に「自分の子供が産めないから僕たちを受け入れてくれて、ありがとう」的なことをいうと、なんと、母親は「いえ。自分たちの子供はつくれるの。でも、世の中には人間が多い。自分たちの子供を育てるより、世の中の不幸な子を引き受けて育てることが、私たちの願いなの」なことを言うので、うわ、な感じ。もしかして、宗教がらみなのか? とても違和感。 それはさておき、学校も仕事(就いたのか? 経緯が良く分からず)もやめて、GoogleEARTHで絨緞爆撃的にインドの駅を検索の毎日のサルー。たまたまルーシーと出会って、関係の復活を口にするけど、ゴメンと言われてしまう。当たり前だろ。アホかと思う。そもそも、GoogleEARTHでという話がでたとき、ルーシーは「私も手伝う」といったのに拒否し、自分がはまり込んでしまうと、そのことを里親に告げようとしたルーシーに怒り出す。なんて勝手な奴、としか思えんよ。 いったんは、もう検索は止めようと、と思ったある夜、たまたまテキトーにカーソルを移動していて、都合よく記憶にある給水塔を発見し。さらに、地上をずんずん進んでいくと、自分の家があった集落にたどりつく。やったね。ではあるけれど、あんな細い路地までGoogleは行ってねえだろ、と思ってしまうけどね。というか、実際のところは、給水塔が認識できた程度ではないのかね。 で、インドに行くことを里親両親に告げると、快く送り出してくれて。では、里親に申し訳ない、というのは、サルーの勝手な思い込み、というわけで、なんか、アホっぽく思えてしまう。だから、ハナからしゃべって、ルーシーにも里親にも協力してもらってれば、よかったではないか、と。 で、実家のあったところに行ってみたら、廃屋。ても、近所のオッサンが「ついてこい」というので行ってみたら、なんか知らんが、あちらから女性たちがぞろぞろやってきて、先頭にいるのが母親だった、という場面なんだけど。家を移っていたということか。それはいいけど、息子がやってきた、という情報もないのに、どうしてぞろぞろやってこれたんだ? というツッコミ。それと、「兄は?」の問いに、「お前が行方不明になった晩に、別の列車にひかれて死んだ」というのは、呆気というか、なんというか。では、ひと晩に2人の息子を失ったということか。気の毒なことよ。 てなわけで、ハッピーエンドなのか、なんなのか、よく分からない。最後に、実際のサルー(記憶していた名前はサルーでも、実際は違っていたらしい。町の名前も、アバウトに覚えていたと。4歳だったらしいから、仕方ないかも。母親も文盲で、文字が生活になかったんだな)と、実際の母親、たしか、里親もでてたかな。映画よりずっと若い実母だった。まあ、25年前+30歳としても55歳だから、そんな老人ではないだろうしね。 ・冒頭で、「これは事実の話」みたいにでるけど、based on true storyだったかで、事実に基づく脚色がされてるはず。字幕は戸田奈津子だからなあ。 | ||||
マンチェスター・バイ・ザ・シー | 12/15 | ギンレイホール | 監督/ケネス・ロナーガン | 脚本/ケネス・ロナーガン |
原題は“Manchester by the Sea”。allcinemaのあらすじは「アメリカのボストン郊外でアパートの便利屋をして孤独に生きる男リー。兄ジョーの突然の死を受けてボストンのさらに北の港町マンチェスター・バイ・ザ・シーへと帰郷する。そしてジョーの遺言を預かった弁護士から、彼の遺児でリーにとっては甥にあたる16歳の少年パトリックの後見人に指名されていることを告げられる。戸惑いを隠せないリー。仕方なくパトリックにボストンで一緒に暮らそうと提案するが、友だちも恋人もいるからここを離れることはできないと激しく拒絶され途方に暮れてしまう。なぜならばリーには、この町で暮らすにはあまりにも辛すぎる過去があったのだが…」 アカデミー賞獲ってるらしいけど、いわれるほど刺さってこなかった。陰気に便利屋をして、ささいなことで他人に因縁つけてケンカしたり、のリーの過去が分かって、ああなるほど、は確かにある。けれど、その重荷=贖罪に対して暗く縮こまっているのでもなく、結構、派手にやらかすのが違和感なのだよね。まあ、もともと喧嘩っ早かったかから、なのかも知れないけど。 でね。兄の死で田舎に戻り、甥の後見人になる、ということで困惑しながらの日々を描いていくんだけど。ふと思うのは、火事のときはまだ父親が生きていたはず。ということは、リーがボストンに逃げた後で父親が亡くなったのだから、そのときも田舎に戻ってきたのだよな。そのときは、田舎に顔を出すことに戸惑いはなかったのか? また、そのときは、元嫁ランディは葬儀に来なかった、んだよな。そのランディが、兄ジョーの葬儀に顔を出したということは、傷が癒えてきたと言うことか。てな背景が曖昧で、いまいちすんなり来なかったりする。 そのランディと、兄の葬儀の後、街中でバッタリ。おやおや。ランディは再婚していて、子供も生まれたばかり、なんだが。気まずく別れるのかと思ったら、ランディの方から話があると誘い、ランディの友人は察して別れるんだが、あんなことがあって別れた亭主、ってことは分かってるはず。なんか、変な感じ。で、食事の誘いをリーは断りかけるんだけど、なんと、ランディの方が興奮して泣いて、「あのときは罵詈雑言投げつけて悪かった」って謝るのよね。ええっ? なんで? な感じ。 そもそも火事を出したのはリーが暖炉の火をちゃんと見ず、薪を足したまま片道20分かけて酒を買いに行っていた間の出来事で、しかも、夜中まで友人と家の中で騒いでいるのをランディに非難されていた直後、だったわけだ。で、戻ってきたら、家は火に包まれていて、2階にいた3人の幼子は焼死。ランディも煙に巻かれながらも泣きわめいていて・・・。なことがあったはず。こんなことがあって、バカ亭主を責めるのは当然だろう。で、10年ぐらいたって、再会して、あのときは悪かった、いまでもあなたを愛している、って、フツー言うか? ちょっと理解不能。なので、このシーンは笑ってしまった。同情とか共感、まったくできなかったし。 あと、驚くのは、あんな事故があったにもかかわらず、ランディが人口3000人ぐらいの田舎町に住みつづけ、同じ街で再婚し、子供をつくっていたりすること、かな。よく住んでられるよな。アメリカの田舎だな、と思う。 ジョーが遺言で、リーを息子の後見人に指定していた理由はよく分からない。弟に再起してもらいたいから? そのあたり、ほのめかしが足りない感じ。 でその甥のパトリックなんだけど、こいつがやな野郎で、チンピラではないけど傲慢な感じ。アイスホッケー部では、当たりに怒ってケンカしたり、仲間グループの同級生を家に泊めてやりまくってたり、はたまた音楽仲間の女の子の家で、その女の子ともやってたり。それだけではなく、学校で声をかけてる女の子に、リーが「だれ?」と聞くと「俺の彼女になりたい候補」と、しれっいう。なんなんだよこいつ。 父親が死んだことにもショックをあまり受けてない感じで、病院に安置されている父親の姿も、いやいや見に行って、ドアのところからチラッと見て「もういい」という。ただし、「オヤジが冷凍されるのは嫌だ」にこだわって、はやく墓地に埋葬しろ、とリーに迫る。なこといっても墓地の土壌は凍っているからムリ、といっても聞き入れない。わかにも、リーは、パトリックをボストンに連れていくか・・・と思っているのに、それは嫌だ。父親のボートを売るのも嫌だ。あれはいやだ、これはダメ、と文句ばかり言ってる。見ていてうんざり、というか、腹が立つ。 で、ジョーと別れた母親がいて、その母親とはメールのやりとりをしていて。でも、そのことはリーには内緒にしていたんだけど、「お母さんが引き取ってもいい」といっている、と主張。なので連れていくと、かつて一緒に住んでいた頃は飲んだくれ? で、だらしない母親だったのが、再婚して敬虔なクリスチャンになっていて。その亭主が拒んだのかどうか知らないけど、結局、母親に引き取られることはなく落ち込んでいたので、ザマを見ろ、的な感じがしないでもなかっちた。 しかし、なんであんな甥っ子の存在をだらだらと描いたのかね。音楽仲間の女の子の家では、一緒に勉強している、ということにしてやりまくってたようだけど、そのくだりをコメディっぽく延々と描いたり。そんなことより、リーと元妻、あるいは遠くに転居したリーの叔父さんのこと、関係の良く分からない銀髪のオッサンのこと、とか、説明すべきことはもっとあるだろうに、と思ってしまう。 まあ、彼の地の葬儀とかについても、映画で見知ってはいるけど。遺体を家に連れてくるとか、通夜でひと晩過ごすとか、顔を拝むとか、そういうのがホント希薄なんだよね。埋葬まで病院か、葬儀屋か知らんけど、そこに数ヵ月置いといて…らしい。日本みたいに位牌をまつるとかもないだろうし、せいぜい写真だろう。遺体そのものに、は関心がないんだな。と思っていたら、ある日、パトリックは自宅の冷凍庫の冷凍チキンにパニクって。それで父親を連想したらしいんだけど、保存するのに冷凍して、それがなんのトラウマなんだかさっぱり分からず。化けてでてくるとでも思っているのか? へんな感じ。 でまあ、最終的には、昔からの友人なのか? どういう関係なんだかよく分からないけど、パトリックは銀髪のオッサンの養子になることになり、兄ジョーの残したお金もその銀髪オッサンに託す。ボートの方は、ジョーが所有していた古式銃みたいなのを売ってエンジン代にして、売り払うことは回避。ということで丸く収めた感じだけど、このあたりは映画的なご都合主義でいまいちストンと腑に落ちない。銀髪オッサンにしても、たまたま実子が大学に入って手がかからなくなったから、とかいってるけど、あんなちゃらんぽらんなパトリックを引き取って、これから先が思いやられるな、な感じ。 というわけで、最後は、リーも、少し心理的に復活した感じだけど、元妻にいまさら「いまでもあなたが好き」といわれてもねえ。 ・音楽仲間の女の子の母親が、リーに興味津々で、上がってお茶でも、と誘ったはいいけど、話題がつづかなくて。いちゃいちゃしてる娘のところにいって、「話がつづかないのよ。どうしたらいい?」って相談に来るってのは、なんなんだ? 部屋の中では、コンドームがどうのの最中なんだが。こんなコメディ、いるか? ・過去シーンへの転換が、フツーのつなぎになっていて、最初は戸惑った。まあ、分かりづらくはないけど。 | ||||
DESTINY 鎌倉ものがたり | 12/18 | キネカ大森3 | 監督/山崎貴 | 脚本/山崎貴 |
allcinemaのあらすじは「ミステリー作家の一色正和と結婚し、彼が暮らす古都・鎌倉へとやって来た亜紀子。魔物や幽霊が普通に行き交う光景を目の当たりにして、初めてここが人と人ならざるものが仲良く暮らす街と知る。正和も執筆のかたわら、警察に協力して魔物がらみの怪事件を解決する探偵としても活躍していた。そんなある日、亜紀子が不慮の事故で亡くなり、魂が黄泉の国へと旅立ってしまう。正和は魔物に連れ去られた亜紀子を取り戻すべく、江ノ電に乗って自らも黄泉の国へと向かうのだったが…」 冒頭から、なかなかいい雰囲気。あの『ALWAYS 三丁目の夕日』の世界観と妖怪、鎌倉、高畑充希のコケティッシュな演技、そして、小ネタの連続で、話の中に引きずり込んでくれる。のだけれど、後半の、黄泉の国での天頭鬼とのバトルとかはつまらない。まあ、こういうの、肌に合わないのだよね。地味でも物語的な話の方が好みだし。むしろ、最初の方の妖怪市とか納戸の中をもっとこと細かに見せて欲しかった感じ。鉄道模型と戦士の干し首と、甲滝五四朗の原稿ぐらいしか見せてくれない。父も祖父も民俗学者なら、そして、妻に「入ってはいけない」というぐらいなら、もっと怪しいモノがあって然るべきだろ。 でね、納戸の中に入り込んだ亜紀子の頭の上に、甲滝五四朗の原稿がドサッと落ちてきて。その存在を、夫で、納戸にはよく入っていたはずの正和が「これが家にあったのか!」と驚くというのは不自然すぎるだろ。隠されていたのを発見するとか、何かの下になって見えなかったのが偶然に発見できたとか、工夫してくれよ、な感じ。 あと、不満があるとしたら、最初の殺人事件かな。江ノ電の上に飛び乗るぐらい、誰でも分かるだろ。というか、犯人で亭主の男に木下ほうかを使いながら、1シーンしか登場させず、しかも、このエピソードを後半でほとんど行かせていない。あ、なんか、ひとつぐらいはあったかな。程度。もったいない。死に神の茶碗が大活躍したのと大違いだ。 まあ、小ネタのエピソードが案外と素っ気ないのは、尺の関係もあってしょうがないのかも知れないけど。もうちょい伏線として活用して欲しい感じ。薬師丸ひろ子の小料理屋も、たんに背景としてあるだけ、だからなあ。もったいない。 前半の大ネタは貧乏神かな。まあ、このあたりから、後半への伏線が始まるんだけど。でも、なぜ貧乏神が入り込んだのか、が描かれていない。のちに、貧乏神のところに、次に行くべきリストが送られてくるんだけど、そういうリストに、一色家も載っていた、ってことか。でも、なぜに? あと、死に神は800年だか1000年だか生きていてるのに、最近の社会情勢をよく知らない、という設定も、いささか変だろ。 女中のキンは、いるだけ、な感じ。ほとんど機能していない。 前半から後半への伏線になっているのは、霊体離脱の毒キノコ、編集者とその死、死に神、幽霊申請、編集者の魔界転生、魔界転生した編集者が遊園地で亜紀子を目撃、父の不倫疑惑・・・といったところか。しかし、亜紀子の肉体を編集者が簡単に見つけられるのに、死に神に見つけられない、という設定は、どうなんだ? ちょっと軽率すぎるだろ、死に神さん。 とはいえ、安藤サクラのモダンな死に神は、なかなかいい感じ。 という流れで、亜紀子が妖怪に襲われ、いつのまにか霊体になってしまい。それに気づくと同時に死に神がやってきて、「肉体が見つからないので、黄泉の国に行くしかない」と連れて行ってしまう。のだけれど、この理屈は、古典的な死の解釈に合致しているのか? そこのところが、すんなりと理解できなかった。でもまあ、そうしないと後半の黄泉の国の話につながらないし、正和がいまになって知る父親の正体話にもつながらないから、しょうがないか。 編集者の死は、本質的にはサブエピソードで、後半にはあまり関係ないかな。まあ、編集者が魔界天性して遊園地でバイトしてたら、亜紀子の肉体をもつ存在を見かける、ぐらいか。編集者の妻と、その恋人の話はどうでもいい感じ。というか、編集者が借家で貧乏という設定が、うーむ、な感じだな、むしろ。 あと、タイトルにもなっている“運命”だけど。要は、正和と亜紀子は何世代も前から、生き返ってもこのカップルが延々とつづいてきた、という愛の運命を指しているんだろう。まあロマンチックな。でも、そういうの、どうでもいいけどね。で、思うのは、そこにちょっかい出して、亜紀子を我がものにしようとする天頭鬼は、なんなんだ? という疑問は残る。こいつも、はるか昔から亜紀子に横恋慕し、願いが叶わずじまいがつづいてきた、ということか。その意味では気の毒だけど、よーく考えると、未来になっても同じ関係は続くわけだから、正和と亜紀子の子も、同じような運命にサラされるのかしら? いや、生まれ変わりは血縁とは関係なしに発生するのかな。正和の両親には、天頭鬼が絡んでいるようには見えなかったし。 あとは、えーと。黄泉の国に住む正和の父・甲滝五四朗と妻のエピソードか。これもなあ。祖父から学者の道を強制され、反発した息子が変装して別宅に住まい、出張と称してそこで小説を書いていた、という話はなんかムリがありすぎる感じもするけど、まあファンタジーだからいいか、な感じ。むしろ、彼らも、そのうち霊体から輪廻転生し、生まれ変わるんだよなあ。そのときは、黄泉の国でも別れ、が発生するのか? とか、疑問。 ・原作は知らなかったけど、Wikipediaでみたらミステリー作家なのか。でも、映画ではそういうこともなかったような・・・。せいぜい、冒頭の殺人事件の解決ぐらいで、ミステリー作家とは言ってなかったよなあ。 ・冒頭近くの縁日には『千と千尋の神隠し』の面影が。黄泉の国は『アバター』『千と千尋の神隠し』な感じ。 ・古田新太は声だけだったのか。中村靖日は気づかず、クレジットで、ああ、あれが、な感じ。 | ||||
MR.LONG/ミスター・ロン | 12/21 | 新宿武蔵野館1 | 監督/SABU | 脚本/SABU |
日本/香港/台湾/ドイツの資本が入っているらしい。allcinemaのあらすじは「東京でのミッションに失敗し、北関東のとある田舎町に逃げ延びた台湾の殺し屋ロン。ナイフの使い手である彼は、そこで台湾人の母を持つ少年ジュンに助けられる。次第にジュンとの間に世代を越えた友情が芽生えていく中、世話好きな住人たちとも奇妙な交流を重ね、ひょんな成り行きから台湾名物の牛肉麺の屋台を始めることに。屋台はたちまち評判となり、やがて追手の魔の手も迫ってくるのだったが…」 なんとなく香港ノワールのバイオレンスかな、という思い込みで武蔵野館へ。オープニングでSABU FILMと出たのに気づいてはいたし、舞台は香港ではなく台湾だけど、やっぱり中国映画か。が、あっさりと舞台は東京へ。あら。でも、ノワールには違いない、と見ていったら、傷ついたロンに少年が寄ってきて、その母親はシャブ中で、近所の連中があれこれ面倒みて屋台の店の世話までしてくれて。母親のリリーもシャブ中から脱し、でもそのうち不幸が訪れるんだろうなと思っていたら、その通りで。リリーをシャブ漬けにしたヤクザに見つかって・・・という、殺し屋が見つけたいっときの安堵の時が崩れ去るという定番の展開だけど、なかなかいい感じ。とくに、ほとんどしゃべらないロンの、険しい目つきと、それでもなお親しげに寄ってくるご近所仲間の脳天気さとかも含めて、引き込まれてしまった。 で、エンドロールが、日本語になってる。あら。やっぱ、日本映画だったのか。なるほど。SABU監督作品だったか。というか、監督が誰かも確認せずに見に行くか、という話だが。というわけで、香港ノワールではなく日本製で、しかも、バイオレンスは一部あるけど、つまりはロマンスであった。 台湾では名の知れた殺し屋が、ターゲットを東京に求めてクラブで実行するが、相手は鎧でも着ていたのか失敗。拉致され、北関東のいずこかに連れ出され、袋詰めにされてボコボコに。そっから、うまく逃げ出したんだっけか。拳銃で狙われながら、逃げ出したような記憶が・・・。よく覚えてない。気がついて、廃屋のようなところに転がっていると、少年がやってきて、クスリや衣服、食べ物を小出しに持ってくる。このあたりの距離感が、なかなかいい。 さらに、諏訪太郎らの日本人ご近所お仲間が、こんな人のいい連中なんていやしない、というぐらいの親切とおせっかいで。フツーなら警察に届けるだろ、な状況でも、ロンを家に招いて御馳走し、そのお返しにかロンが料理をしたら旨い旨いと賞賛し、これなら商売ができると屋台をつくり、神社(寺?)とも話をつけて、店をださせる。その店を、お仲間がずうっと見ている。おい、自分たちだって商売があるだろうに、とチラッと思うけど、そういうのは気にならなくなる。そういうもんだ、という世界がもうできあがっていて、その世界で物語が進んでいく。 シャブ中の母親リリーも、初めの手荒い治療を脱すると元気になり、息子の面倒も見るようになり、ロンの店も手伝うようになる。ままごとのような生活。でも、男女関係にはならない。でも、心はちゃんと通じ合っている関係が、なかなかいい具合に描かれる。 息子のジュンが、少年野球に入りたい、と意思表示。ロンは、言葉が通じない監督のところへ交渉に行く。監督はジュンにボールを投げさせて、次の場面では試合にも出ている、というスケッチが、なかなか胸に迫ってくるのだった。 でも、いいことは長くはつづかない。3人が神社へ向かう途中で、リリーをシャブ漬けにした男との再会。リリーは、面倒を避けるためか、同行をやめるんだけれど、追ってきた男に迫られ、再度のシャブ漬け。そして、犯す・・・。男が、リリーに拘泥する必要性はまったくないと思うんだけど、そういう疑問を気にさせない何かがある。あと、台湾からやってきてクラブかんなかで働かされているうちに、店の若いのといい仲になり、でも身ごもってしまったせいで、男は、見せの女に手をつけた、ということで痛めつけられ、そのせいで死んでしまったんだったかな。その後は、産まれてきた赤ん坊をつれて生活苦。身体を売って背活しているときに、例の男に出会ってシャブ漬けにされて・・・という、リリーが堕ちていく過程も丁寧に描いて分かりやすく、感情移入もしやすかった。リリー役のイレブン・ヤオ(姚以?)が、とても美しいのも、よかったのかも。 屋台は神社へ。そこへ、男がやってきて、?をすする。緊張感が、高まる。 廃屋の家に戻ると、リリーは奥でぶら下がっていて・・・。家の外には、男が連絡したのか、東京で狙い、失敗したターゲットとその配下がずらり。その連中が屋台を蹴倒すのをご近所仲間が止めようとするけれど、逆に脅されて・・・。がしかし、ロンはあっという間に、相手全員をナイフだけでやっつけてしまうという、あり得ない展開が素晴らしい。これぞ映画。 さて、この後はどうなるのかな、と思ったら。なんと、時は過ぎ、場所も変わって台湾。どっかの誰かと打合せをしているロンが外を見ると、なんと、例のご近所仲間の一団が、ロンに会いにやってきている! という、これまた、とても映画的な飛躍のエンディング。ははは。楽しい。 とはいっても、20人ぐらいはいた相手の死骸はどう処理したか、とか。どうやって日本を脱出したんだ、とか。あと、ジュンはどうしたんだっけかな。ご近所仲間が育ててくれてたんだっけ? これ、覚えてないや。とか、ツッコミどころはあるんだけど、この映画の場合は、そういうことはいい、っていう感じ。 そういえば、ロンは最初に、誰だったか、知らない男の携帯をつかって台湾の仲間に電話して、迎えの便がいつになるか、聞いていたっけな。その船がくるまで、のつもりで屋台を引いていたはずで、最後の事件の当日は、船がやってくる日ではなかったかな。でも、横浜には行かずに、神社へ商売をしに行ってたんだよな。ということは、リリーとしばらく日本で生活しようと思っていたのかな。 | ||||
泥棒役者 | 12/25 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3 | 監督/西田征史 | 脚本/西田征史 |
allcinemaのあらすじは「小さな町工場で真面目に働く青年・大貫はじめ。お人好しの彼には、かつて泥棒稼業に手を貸していた過去があった。ある日、その泥棒時代の相棒・畠山則男が現われ、脅されたはじめは再び彼の盗みを手伝うハメに。こうしてとある豪邸に忍び込んだはじめ。いきなりセールスマンと遭遇、家主と勘違いされてしまう。なんとか追い返すも、今度は本物の家主である絵本作家の前園俊太郎と鉢合わせ。万事休すかと思いきや、前園ははじめを編集者と勝手に思い込んでしまう。成り行きから編集者のフリをしてその場を乗り切るはじめだったが…」 あきらかに一幕ものの芝居の映画化で、でも芝居ならまだしも映画では設定と展開にムリがありすぎだよなあ、と見ていたんだけど、大貫の正体が前園俊太郎や編集者の奥にバレてからの転がり方は、そこそこ面白かった。とはいっても、やはり、そこへたどり着くまでが、つらい感じ。 あと、編集者を自分の妻ということにして話が進むのは、ええ? と思って見ていたら、あとから編集者の姓が「奥」だと分かり、ああそういえば、名刺には書いてあったな、と思い出した。しかし、名刺の名前をちゃんと覚えている客は、どれだけいるだろう? それと、映画だから名刺のアップもできるけど、芝居の場合はどうやって奥江里子=奥さん、の勘違いを観客に分かられたんだろうか? という疑問も残るかな。 つまりは、大貫のことを、屋敷の主である前園や編集者の奥、絵描きセットのセールスマンらが勘違いしてドタバタする部分は、面白くなくて、アイディアの枯れた前園をサポートするように新しい絵本の物語を考える部分は、そこそこ面白い。まあ、芝居の場合は、ディテールより、多少のムリがあっても、設定や記号化されたキャラで見せちゃえるけど、映画ではなあ、ということだ。 ・キャストの始めに高畑充希があったので、出ずっぱりかと思ったらさにあらず。大貫の同棲相手で、現場にはおらず、家で待っているという設定なので、あまり登場しない。なーんだ、な感じ。 ・絵本を考える部分で入るアニメーションは、まあまあ、かな。これは映画ならではの表現だろう。 ・隣家の変人が「音がうるさい」とクレームをつけてくる、という設定なんだけど、あんな大豪邸のクーラーや笑い声が、となりのボロアパートの二階まで響く、というのは、ありえんだろう。 ・前園に求められているのは、絵本についてのアイディアかと思ったら、新作だったのね。しかも、編集長は、ヒットした前作の続編を求めている。なのに、前園はまったくの新作をつくろうとして喘いでいた。という話が、いまいち、すんなり受け取れず。そんなの、編集長と前園の、意思疎通が上手くいってなかった、ってことではないか。奥編集者も、編集長からの意向を理解していれば、あんなムダな苦労はしなくても済んだろうに、と思ってしまう。 ・大貫のむかしの兄貴である畠山役は、宮川大輔。大きなメガネを取ると悪人面なのは知っていたけど、それを前面に出した今回は、大成功しているのではないのかな。いや、これまでも、メガネなしの演技があったのかも知れないけど、見たことなかったから。 ・畠山は、自身が見つかった後も、金庫の中味にこだわり、中に、前園の過去の原画が入っていて、それが100万円するということら知って、どうしても開けろ、と大貫に命ずるんだけど。あんな原画、売った時点で脚がつくだろうし、100万で売れる絵なんて、半額でも引き取ってくれないぞ。あんなのを狙うより、屋敷の壁にたくさん掛けてあった植物画とか、その他のアート、あれをもらっていけばいいのに、と思ってしまう。まあ、ああいう絵を飾るように指示した演出がトンチンカンだと思うけど。 ・クレジットの途中の後日譚で、片桐はいりがでてたけど、あれはノンクレジット? | ||||
美女と野獣 | 12/25 | ギンレイホール | 監督/ビル・コンドン | 脚本/スティーヴン・チョボスキー、エヴァン・スピリオトポウロス |
原題は“Beauty and the Beast”。allcinemaのあらすじは「美しいが傲慢だった王子が魔女の呪いによって醜い野獣に変えられてしまう。呪いを解くためには、魔女が残したバラの花びらがすべて散る前に、誰かと心から愛し合わなければならなかった。以来、王子は城に籠り、絶望の中で心を閉ざして時を過ごしていた。一方、田舎の小さな村で父モーリスと暮らす美しい女性ベル。読書家で進歩的な考えを持ち、広い世界を見たいと願う彼女は、周囲から変わり者と見られてしまう。そんなある日、モーリスが森で遭難し、迷い込んだ城で野獣に捕らえられてしまう。モーリスを探して城までやってきたベルは、野獣の姿におののきながらも、父の身代わりとなり城に留まることを決意する。そんなベルを、呪いで家財道具に変えられてしまった城の住人たちが優しくもてなすのだったが…」 最初の方の、酒場の場面で寝た。その後、野獣がベルを救った直後に寝て、気がついたら仲よくこれから踊ろうというところだった。何があった? な感じ。だいたい、この手の話は肌に合わない。 傲慢な王子が罰として野獣に変えられる、はいいとして。なんで、ついでに、城の従者たちも調度品なんかに変えられなくちゃならないんだ? 一蓮托生? 気の毒だろ。で。魔法を解くには、外部からやってきた美女が野獣(王子)に恋しなくてはならない、という設定が、無体な感じがする。だって、ここで我慢するのは野獣ではなく、美女なんだもの。そもそも難題をふっかけられるべきは王子の方だろ。たとえば王子が不細工の老婆に恋して添い遂げられるか否か的な話なら分かる。でも、あれじゃ他人頼みでしかない。 ヒロインの美女ベルが、庶民面のエマ・ワトソンなのもいまいちな感じ。高潔で気品のある娘にまったく見えない。ただ貧乏くさいだけ。 ベルに恋い焦がれ、自分のモノにしたいガストンは、あれはどういう存在なのだ? 兵士? では、誰に仕えているのだ? 村人とともに、魔女に記憶を消されているから、自分のことも分からないのか? ガストンの傍若無人ぶりも、なんだかな、な感じ。そんなにベルを自分のモノにしたいなら、ああいう強引なやり方ではなく、もっと下手に、上手くやればいいのに。なんか間尺に合わない行動なのだよね。 村人だってそうだ。いくら記憶を消されたって、城が近くにあるぐらいのことは、すぐに分かるだろ。ベルの父親が迷い込んでしまうぐらいなのだから。その後、ベルが父を助けに行くときも、馬の力を借りてだろうけど、すんなり行ける。でも、ベルの父親が再度、城に行こうとすると(だったかな)、行けなくなってしまう。こういうところ、おとぎ話なんだから突っ込むな、と言われそうだけど、アニメなら無視できても、実写となると気になっちゃうんだよな。 というわけで、まったく話に入り込むことができなかった。寝たのは、直前に、インドールでニンニク焼き定食を食べたせいもあるけど、映画が面白ければ寝ないからなあ。 ・ガストンをバカにする歌の後で、丘に駈け上がる場面は、『サウンド・オブ・ミュージック』まんまで、パクリかよ、な感じ。あと、『水着の女王』みたいな場面もあったかな。ま、ミュージカだから似ちゃうのかも知れんが。 ・魔女は、どういう存在なのだ? なぜ王子に魔法をかけるのだ? 反省して欲しかったら。もっと別のやり方があるだろうに。なんていったら、この話自体が成立しなくなるかも知れんが。それと、ラスト近くに城にやってきていた女性が、王子に魔法をかけた魔女なのか? ってことは、ずっと見守っていたと言うことか? ・しかし、ベルが野獣に恋し、野獣が王子に戻ったとしても、あいつは、心の奥底から反省はしていないと思うぞ。だって、王子は野獣に変えられただけで、とくに試練が課されているわけではない。ひとり、城で傲慢にしていれば、召使いが何でもやってくれるのだから。別に、人間に戻らなくたっていいじゃないか、と思う。そんなに、毎夜のパーティが懐かしい? なら、往時の姿に戻っても、心は変わらんだろ。そのうち、浮気心を起こすに決まってるよ。 ・召使いや、パーティの招待客に黒人がたくさんいるのは、歴史的に正しいのか? ・そういえば、貴族仲間は、魔女に魔法をかけられなかったのか? たんに記憶を消され、フツーの生活を送ってる? そういう連中は、野獣にせず、ほったらかしなのか? 魔女さんよ。 ・ところで、王子は野獣になって何年、なの? 召使いの中には、村から来ている人もいたようだけど。妻である村人の顔を見てがっくりしてる召使いがいたけど、あれは、妻が歳を取ったのをみたから? なら、そのことについて、驚きはないのかね。とか。 | ||||
怪物はささやく | 12/25 | ギンレイホール | 監督/J.A.バヨナ | 脚本/パトリック・ネス |
アメリカ/スペイン映画。原題は“A Monster Calls”。allcinemaのあらすじは「教会の墓地が見える家で母親と2人暮らしの13歳の少年コナー。母親は不治の病のために余命わずかで、しつけに厳しい祖母とはソリが合わず、おまけに学校でも孤立して、毎夜悪夢にうなされる日々を送っていた。そんなある日、不気味な大木の怪物が現われ、“お前に3つの物語を話す。4つめはお前がお前の真実の物語を話せ”とコナーに告げる。こうして怪物は毎夜コナーのもとにやって来ては、不思議な物語を語り始めるのだったが…」 あらすじにあるように、母はがんで余命わずか。であるなら、母親に優しくなればいいし、祖母にも反抗する必要もない。なのに、なぜかコナーは祖母が嫌い。この、理由なく祖母が嫌い、というのがまったくしっくりこない。そんな、やな婆さんに見えないぞ。 学校でのイジメは、あれは、コナーがいじめっ子を睨んでいるから? いじめっ子はそう言っていたけど、どうなんだ? というか、あんなにボコボコにされて、学校は気づかないのか? あるいは、母親や祖母は、コナーを守ろうとしないのか? というほうに気が向いてしまう。 さらに、いまはアメリカに住む父親も登場する。離婚したようだけど、コナーに「遊びに来い」とはいうけど、「狭いから」といって引き取ろうとはしない。あのあたりの距離感は、。なんなんだ? つまりは、母親から遠ざけられ、祖母からきつく言われつづけ、学校でもいじめられっぱなしの少年の、つくりだした妄想怪獣の話、でよいのかね。にしては、いろいろと説教臭いところがあって、なんかうっとうしい。そんなことまで、少年自身が思いつくか? と思ってしまう。 で、怪物が3つの話を聞かせてくれ、最後に、コナーが1つ話をする、という流れで物語は進むのだけれど、この各話が、だからなんなんだ? 的なんだよなあ。最初の、不誠実だけれどちゃんと国を治めた王子の話、次の、憎らしいけど間違っていない調合師の話は、あれはなんなんだ? 世の中は理屈ではない、正しく裁かれるわけでもない、理不尽のおかげで世の中はなんとか回っている、とかいうことを言いたいの? なんか、よく分からない。 3つ目の話は、怪物がする話というより、怪物がけしかけて、コナーがいじめっ子に刃向かうという出来事になっている。この抵抗で、コナーはいじめっ子を病院送りにし、校長から叱責されていた。でも、そもそもの原因を追及しないのか? ということの方に気が向いてしまって、素直に受け止められないのだった。あれは、暴力で相手を傷付けても、それで上手く行くこともある、というような、1話、2話と同じことを言わんとしているのか、もしかして。よく分からんけど。 で、第4の話は、コナーがする話になるのか? でも、話と言うより、告白かも。裏庭でだったか、大地が割れ、母親が堕ちようとする。コナーは母親の腕をつかむが、最後は落ちて行ってしまう。既に何度も見ている夢、だ。でも、今度は、怪物に「真実を言え」といわれ、ついに「早く終わればいいと思っていた」とかいう。これは要は、コナーが、心の奥で、母親が早く死ぬことを望んでいた、ということか。でも、それを言わせてどうするの? な感じ。 母親の死後、コナーは祖母の家に住むことになったようだ。あんなに嫌っていた祖母との生活を、なぜ了解できるようになったんだ? よく分からない。母が死ぬことで事態は変わる、と内心思っていたことを自覚できたから? で、祖母が用意したという部屋に入ると、元の家と同じような写真や絵筆が揃ってるんだけど、あれは、家にあったのをもってきたのか? それとも別物なのか? 別物なら、よく揃えたものだ。で、机の上に1冊の画帳。ひらくと母親のものだったらしいが、怪物が話してくれた第1話の、不誠実な王子の話、第2話の、憎らしいけど間違っていない調合師の話の絵があり、最後に、怪物と、その肩に乗っている子供の絵があるのだ。ということは、怪物がしてくれた話は、もともと母親がかつてコナーにしてくれた話だった、ということなのか? なんか、よく分からんな。 で、思うに、ぜんぜん成長物語になっていないんだよなあ。自力では何も解決していない。解決するために、妄想で怪物を捻出した、ということか? うーむ。よく分からない。 ところで、祖母は別に住んでいるのか? 娘=コナーの母親が病気で、息子の世話もロクにできないのに、一緒に住まないのね。まあ、面倒を見にしょっちゅう来ているようだけど。ああいう生活スタイルは、人や家族としても、経済面から見ても、なんか受け入れられんな。で、祖母は、一人住まいなのか? 祖父もいるのかな? あるいは、パートナーがいるのか? とか、気になってしまう。 まあ、こういうのは、アメリカに住む父親のことも含めて、日本とは違うなあと思ってしまうのだった。 それにしても、シガーニー・ウィーヴァーもお婆ちゃん役か。感慨深い。 | ||||
勝手にふるえてろ | 12/26 | シネ・リーブル池袋シアター2 | 監督/大九明子 | 脚本/大九明子 |
allcinemaのあらすじは「24歳のOLヨシカは博物館からアンモナイトを払い下げてもらうほど絶滅した動物が好きなオタク系女子。恋愛経験はゼロで、中学の同級生“イチ”への片思いを10年間も脳内で育て続けていた。そんなある日、会社の同期“ニ”から突然告白されたヨシカ。それなりにテンションは上がったものの、元々タイプでないニが相手ではどうしても気持ちが乗っていかないどころか、反対にイチへの想いが募っていく。そしてある出来事をきっかけに、もう一度だけでもイチに会いたいと、同級生の名を騙って同窓会を計画するヨシカだったが…」 こじらせ妄想女子の話で、勝手に傷ついたり傷つけたり技に走ったり先手を打ったり、毎日が波瀾万丈な日々が描かれ、『タモリ倶楽部』がどうのとか小ネタも満載。結構たのしく見られる。しかし、自意識過剰で神経症気味な、この手の女子とつきあうのは大変そう。 主人公のヨシカは「だれにも見えていない自分」を自覚して生きてきた。というけど、現在はそうでもないわけで。見えていないと思っていたのは、中学のときのことだろ? だっていまは会社勤めしていて、同期の月島来留美も隣の席にいてあれこれ話せる。しかも、会社の男子社員である「二」から「つきあってくれ」と言われるんだから、見えていないことはない。なのに、妄想だけは異常に発達して、駅員やコンビニ店員、バスで乗り合わせる婆さん、いつも釣りしてる叔父さん、店員なんかと、にこやかに話せているという妄想をフルに発揮させていたりする。このあたりの、現実と妄想の折り合いが、上手くつけられていないのか。傍から見たら、結構フツーに見えるんだが。ま、思い込みのズレが現在もつづいているということか。そりゃ、ビョーキだろ。 「イチ」は、運動会の時だったか、ヨシカに「ボクを見て」といったという話があったな。それは要は、みんなが自分のことを見ているのに、ヨシカだけが自分を見ていなかった、ということに気づいてイラッとしたから、のようだ。ということは、「イチ」もやな男だ、ということか。しかし、そもそも、ヨシカにとって「イチ」がどんな相手だったのか? よく分からない。中学の描写でも、「イチ」はそんな人気者でもなさそうだし、新年会でだったか「ボクはみんなにいじめられてた」と「イチ」が言う。ヨシカが王子さまと理想化するような相手では、本来なかったのかも、ということなのかね。まあ、それが理想化なのかも知れないが。 はたしてヨシカは、高校のとき、その後に短大か専門ぐらい行ったとしたら、その時代は? など、描かれない時代もあるので、いまいち中学から現在に飛んでいるところが、うーむ、な気がしないでもない。 人づきあいだって、会社ではとくに変人扱いされているわけでもなさそうだし、酔ってボヤ出したときも、アパートの他の部屋の住人に手土産持って謝りに行けたりしてるわけで、十分に社会適応しているような気がするんだけどね。 同郷友人のタワーマンションでの新年会で、「イチ」が、ヨシカの名前を覚えていないことを知って後、だっけか。もっと後だったか。ヨシカは「二」とピンポンし、レインボーブリッジを見に行き、動物園行って、「つきあおうか」宣言するんだけど、そんなにデートしてたら、もうつき合ってるのと同じだろ。気づけや。 ただし、これまで男とつき合ったことがない、というのは恥にしていて、月島来留美には話しているけど、そのことは他人には内緒にしてくれ、と言っていたにもかかわらず、「二」が事前の調査で月島来留美にヨシカのことを聞きに行ったとき、そのことをバラした、もう会社にいられない、という気持ちになって。「二」を拒否し、「妊娠した」と嘘を言って会社を休もうとしたり、月島来留美に決別宣言したり。プライドだけは高いのか。まあ、こういうのが、こじらせ女子なのかね。 でまあ、理想の「イチ」と現実の「二」との狭間に立って、いったんは「二」と交際しようとするんだけど、イザ二択となると夢を捨て去れないヨシカ。そういうもんなのか、女子は。まあ、学園ラブコメならそれでもいいけど、OL物語だと、なんか、ありえねえ感がでてしまう。まあ、面白いことは面白いんだけど。 でも、やっぱり「イチ」をあきらめるのは、どんな理由だっけ? この段階での理由が、名前を覚えていない、だったかな。あれこれあったので、よく覚えてないよ。まあいいけど。 で、妊娠したと嘘ついて会社休んで、その時点で「二」にメールしたら着信拒否されてて、それでも「二」に連絡できたのはなんでだっけ? まあいい。で、雨の中「二」がやってきて、妊娠は嘘、男とつき合ったことがない、を知られたくなかった、とか言い訳あれこれして、自ら「二」にキスして押し倒し「勝手にふるえてろ」というのは、なんか、怖いな。 だって、要は「イチ」は高嶺の花だからあきらめて、お前で我慢する、と言われてるようなもんじゃないか。とはいえ、たいていの男女は、そんな具合に、恋した相手をこころに秘めつつ、我慢した現実を生きているのだよな。そういうもんだよな、ということなのかいね。なんか、でも、この映画の場合は「二」には気の毒な未来が待っているような気がしてならない。だって、「二」にとって、ヨシカは本命なのだから。 ・整体に通っていて、整体師に「視野見ができるんですよ」と自慢気に言ってるんだが、それは良くするよ。こちらは「周辺視」と呼んでたけど。 ・ヨシカが勤務する会社は花火屋なのか。千束稲荷の近く、って、三ノ輪かよ。それはさておき、あんなに社員のいる花火専門会社って、あるのか? ・ヨシカの会社の昼休みが面白い。女子社員は座敷みたいなところで弁当を食べ、その後、かけ声にあわせて昼寝するんだよ。あんな会社、あるのか? だいたい、寝てる時間なんてないと思うけどな。というか、女子社員が全員その習慣に従ってる感じが、ブキミ。 ・ヨシカの絶滅危惧種好きは、自分がそうだから、なんだろうな、たぶん。 ・ヨシカは「恋愛10年コース」といってたけど、「妄想10年コース」だよな。あれは。 ・博物館の払い下げ(?)のアンモナイトを購入して飾っているんだけど、いじょうまきがどうの、って、よく分からない。調べたら、異常巻き、らしい。なんだそれ、な感じ。絵をインサートしてもいいと思うけどな。ヨシカが「イチ」とタワマンの屋上で話したとき、一緒にでてきたオオツノジカもね。 ・反省文で「私はもうしません」と大量に書く中に、「します」と、違う言葉を入れておけば、とアドバイスしたのはヨシカで。それを、他のときも「イチ」が実行しているのは、自分のアドバイスを守っているからだ、と確信しているヨシカ。でも、同窓会で出会って、自分の名前も覚えてないことに愕然としたりするヨシカ。 ・知り合いに聞いたパワースポットがあって、「二」とその近くまで釣りに行くんだけど、トイレと偽ってパワスポに行き、「イチ」の住所を知らせてくれ! と願う場面とか。ああ、ヨシカはマイペースでそういうの信じないのかと思ったら、そうではなかったのね、な感じ。要は、フツーの娘なんだよな、という感じ。本質は、ちっともエキセントリックではない。 ・「金曜の夜は『タモリ倶楽部』があるかダメ」「録画すればいいだろ」「もちろん録画もするけど」とか、営業の誰とかがタモリ倶楽部「空耳アワー」の手拭いを16枚持ってるとか、細かなネタが入っていて楽しい。 ・書き言葉をセリフにしているところもあって、聞いていては分かりにくい。あれはなんとかせい、な感じ。 | ||||
スター・ウォーズ/最後のジェダイ | 12/29 | 109シネマズ木場シアター3 | 監督/ライアン・ジョンソン | 脚本/ライアン・ジョンソン |
原題は“Star Wars: Episode VIII - The Last Jedi”。allcinemaのあらすじは「レイア将軍率いるレジスタンスはファースト・オーダーの猛攻に晒され、基地を手放し決死の脱出を図る。その頃、レイは伝説のジェダイ、ルーク・スカイウォーカーを連れ戻そうと説得を試みていた。あるトラウマから心を閉ざし、ジェダイの訓練を請うレイに対しても頑なな態度を崩そうとしないルークだったが…」 なんか、やたら長い割りに中味がない感じ。要は、撤退話で、前作で鳴り物入りで復活したルークも、最後にちょっと登場しただけ。しかも、なんだよあれ。麻原彰晃かよ、な感じで、ちっとも感動しない。 ・ルークを引っ張り出そうというレイのパート。 ・レジスタンス艦隊の崩壊と撤退。レイア。お調子者のパイロット、ポー。 ・ファースト・オーダーの戦艦に潜入し、探知機?を破壊するフィン、ローズ。 ・ファースト・オーダー側の階級闘争。 の4つの話が平行して進むんだけど、盛り上がりもたいしてなく、人間ドラマも希薄。たまにある戦闘シーンは、これまでのシリーズと大差なく退屈。というわけで、最初から集中できず、少し寝てしまう。ははは。 一方で、出番が少ないのがC3PO、R2D2、ファルコン号、チューバッカら、お馴染みの面々。なんだよ、つまんねえな、な感じ。まあ、チューバッカが鳥の丸焼きを食べようとすると、同じたき火を囲んでいる鳥が悲しむ、という場面は笑えたけどね。でも、本筋じゃないし。 ルークとレイのパートは、ううむ、な感じも。レイも、いきなりフォースに目覚めちゃうし。修練の果てに感がないし、もともと持っていた力が目覚めた感もいまいちかな。 レジスタンス艦隊の撤退話は、まさにそれだけ。むしろここでは、ポーの勝手な行動と反省のない態度が目について、男はバカ。そして、率いるレイアと、レイアが傷を負ってからの代理の館長も女性ということで、リーダーの素質は女性。という印象しかない。 そもそもポーのやり過ぎ爆撃でレジスタンス艦隊は窮地に陥り、後がない状態。あのとき、フィンは、本気で逃げようとしてたの? 脱出艇かなんかに乗り込もうとしていた?ところを整備係のローズに見とがめられ、さらに、ポーの入れ知恵でファースト・オーダーの戦艦への潜入を企むんだけど。これが簡単に潜入できてしまうテキトーさ。まあ最後は捕まっちゃうんだけど・・・。あれ、あのあと、どうやって逃げたんだっけ。なんか、しっちゃかめっちゃかの中を走り回って、敵の戦闘機かなんかに乗り込んで逃げたんだっけ。目的を達せず、なにやってんだ、お前ら、な感じで、なんだよこれ、な話だよな。 という中で、ファースト・オーダーの方では最高指導者スノークの命令にカイロ・レンが反逆し、かといってレジスタンス軍と一緒になるわけではなく、自分がファースト・オーダーのリーダーになっちまうという。なんだこれ、なお家騒動。なんじゃこれな話ではある。 で、なんだかよく分からないままに、ある星の岩の中に逃げ込んだレジスタンスの残党。そこに、でかいパワーの何かしらん装置をもってきたカイロ・レンの一群が迫り・・・。と、そこにルークが現れて。レイアたち主要なメンバーは裏側から脱出。なんだけど、そんな、歩いて行ける距離のところに逃げて大丈夫なのか? な感じ。 その、でかいパワーの放出口に、フィンが突入して破壊しようとするのを、ローズが横あたりして止めされるんだけど、ローズは「敵を憎むより、好きな人を救うのが愛」というようなことをいってたな。で、フィンにキスするんだっけか。おいおい。個人的な感情が、レジスタンス全員の命に優先するのか? しかし、黒人のフィンにアジア系のローズが惚れるという、いろんな人種の登場人物がいますよ、はいいんだけど、なんで黒人と白人、アジア系と白人の恋ではなく、黒人とアジアが結びつくんだよ、的な不自然さは感じてしまうよな。 で、そこにルークが登場し、でかいパワーが炸裂して焼き尽くし状態。なれどルークは生きていて・・・。な、あとはどうなったんだっけ? よく覚えてないな。レジスタンス達はうまく逃げたんだっけ? 記憶は曖昧ざんす。 あ、そうそう。ルークは実体ではなく、あのレイの島で念力を発していて、あの星に現れたのは霊体だったから焼けなかった。力を使い果たしたルークは、空中浮揚から崩れ落ちて死ぬ、というラストだったかな。というわけで、どうしたって麻原彰晃を連想してしまうよなあ。 ・カイロ・レンと呼んでたところに、ベン・ソロなんていう呼称が突然入り込んで、なんだ? とか思っていたら、同一人物かよ。な感じ。 ・暗黒部があるとかいうけど、だれだって少しはあるだろうに。最高指導者スノークは、レイにも暗黒部がある、といってたけど、だから何なのよ。敵になる連中は、みんな暗黒部、で片づけられてしまう。だから、暗黒部ってなんだよ! と言いたい。 ・犠牲的精神のカミカゼ特攻=自殺行為がやたら登場。冒頭の爆撃で自ら殉じるのはアジア系の女性(ローズの姉らしいが)。レイアが逃げた後、母艦に残ったリーダーの女性も、ひとり敵艦に突入して行っていた。あとフィン、がよく分からんエネルギーの発生器に突入しようとして、ローズに止められておった。 ・で。全体では、男はマヌケで邪悪で屈折してて過去の存在。女は正義で冷静でリーダー。という、女性優位の思想が残る感じかな。 ・スノークに反抗するカイロ・レン。カイロ・レンとスノークを守る赤い甲冑の面々との剣劇シーンは、まんま鈴木清順だ。 。えーと。実はハン・ソロが生きていた! というのはあるのかと思ったら、なかったよ。残念。もしかして、次回であったりして。でも、レイアのキャリー・フィッシャーが亡くなって、次は誰が演じるんだろう? もしかして、少しぐらい、撮影してあったりして・・・。 | ||||
ローマ法王になる日まで | 12/30 | ギンレイホール | 監督/ダニエーレ・ルケッティ | 脚本/ダニエーレ・ルケッティ |
イタリア映画。原題は“Chiamatemi Francesco - Il Papa della gente”。Google翻訳では「私をフランシスコと呼ぶ - 人々の教皇」とでてきた。allcinemaのあらすじは「後にローマ法王フランシスコとなるホルヘ・ベルゴリオは、1936年、イタリア移民の子としてアルゼンチン・ブエノスアイレスに生まれる。20歳のとき、家族や友人、恋人と別れ、神に仕えることを決意し、イエズス会に入会すると35歳の若さで管区長に任命される。折しも国内は軍事独裁政権の圧制下で、ベルゴリオの周囲にも命の危険が迫るが…」 ポスターイメージなんかから、おおらかな青春時代の物語かと思ったらまったく違って、アルゼンチン・軍事政権下で仲間の神父が次々と殺されたりするなか抵抗するレジスタンスを救ったりと、中盤のほとんどは社会的・政治的な話が大半。かなりシビアでびっくり。そうだよな、アルゼンチンだもの。当時は聖職者への弾圧も激しかったのね。あらためて思う、軍事独裁は怖い。そんな時代を乗り越えてきた法王に拍手! 冒頭は青春時代のホルヘで、博物館で恋人とキスしたりもしてる。1960年のこと。だけど、もう教会に行くことは決めていたようで、友だちからからかわれている。酒場で、恋人や仲間が「ペロン万歳」と叫んで喧嘩になったり、政治的に混迷しておったのね。で、ここでよく分からないのは、それまで何かの仕事をしていたようで、そこを去るにあたって、同僚の女性から「あなたがいなくなって大丈夫かしら?」なんて言われてるんだけど、何してたのかね。で、Wikipediaで調べたら会計事務所らしい。へー。でも説明が足りない。で、イエズス会への入会が1958年の22歳。1969年に司祭、管区長になったのは1973年だと。この、階級制度や役職がよくわからないのでアレなんだけどね。それまでも熱心な信者だったかのも知れないけど、どんどん出世するのは、優秀だったから? とか、入会以前の政治思想とか、そのあたりがアバウト過ぎかな。もうちょい説明が欲しいところ。 入会直後のホルヘは、日本での普及活動を希望していたらしい。なんでも、日本のキリスト教信者は15xx年に50万人だったのが、1960年には10万人に・・・。だから盛り返したかったようだ。アホかと思うけど、海外からの視点はそうなのかもね。で、ところで、日本のキリスト教信者はずうっと90万人ぐらいで変わらないという話を聞いたことがあるんだが、この10万人はカソリックで、ということかな。 で、時代は過ぎて1976年だったかな。管区長で、神学校の校長もしてる感じ。でも軍事独裁が進み、地方で活動する神父が軍に殺戮されたりと、教え自体も自由にできない様子なのが、怖い感じ。しかも、政治犯を生徒と偽って学校に匿ったり、学校内の教師?のなかに軍に通じるやつがいたり、混沌としていて、よくもまあそういう状況でも行動でき、上司からも信頼されたりしているのが、そうなのか、とは思うけど、素直には納得できない部分もある。まあ、ダイジェスト的にまとめてるからしょうがないのかも知れないけど。 で、こうしたなかで、またまた神父2人が、ホルヘの「目をつけられてる。やり過ぎはよせ」というアドバイスを聞かず、貧困民の救済に走りすぎ、軍に拉致られる。ほかに、反体制の若いグループも登場し、中の若い女性がこれまた拉致られるのだけど、この若い女性の母親は、冒頭で恋人のようだったあの彼女なのかな。みんな拷問され、さてどうなるか、というところを、ホルヘは上司を通じて軍の幹部に直談判するんだけど、あんなんでよく開放してくれたよな。 でも、娘を解放してくれたはずなのに、元恋人が、行方不明者を捜そう運動しているところに軍がやってきて、元恋人も連れ去られてしまうんだが、たしか、その後は描かれていなかったかな。つまりは、拷問の果てに・・・なんだろうけど、いやはや、自由のない軍事政権は怖ろしい。 ののち、場面は変わって、1980年代になって、あっさりと軍事政権後が描かれる。これも、いきなりすぎて、ちょっと味気ない感じ。でもまあ、ホルヘは田舎の方で最前線で普及活動をしていて、そこから法王命令? で、アルゼンチンのトップの補佐係みたいな立場として連れ戻されるのは、これまた、誰かがちゃんとホルヘの日頃の活動を見ていた、ということなのか。 あ、そういえば、ドイツへ勉強に行ったのは、軍事政権下でだっけか、その後だっけか。ここで、たまたま入った教会でスペイン語を耳にして、祈っていたオバサンから、結び目を解くマリアのと出会い、このカードを以後も様々ところで相手に与えるという活動をするようになったらしい。そういえば、最近も、ホルヘ=フランシス法王が、日本の、弟を焼き場に連れてきて順番を待つ少年の写真と「戦争が生み出したもの」という言葉をカードに印刷し、配布を指示したというニュースがあった。うーむ。あの彼が、という気持ちで一杯になる話だ。 で、最後のエピソードは、アルゼンチンの再開発で住み家を追い出させる貧しい住民のために動くエピソードで。まいままさに、住宅が破壊されようとするところで祈りの言葉を発したら、建設作業員や警官が黙って立ち去り、破壊を免れる、というものだったけど。素晴らしい話だ、という思いと、でも、結局、あそこは再開発されちゃったんだろうな、きっと、という気持ちが入り混じったものになった。だって、スラムみたいなところを残すはずもないし。残ってるのか? もしかして。知らんけど。 むしろ、この話で印象的だったのは、開発会社の人に話しに行ったとき、「再開発は上からの力」みたいなことをいい、ホルヘが「神?」というと「投資家」というくだりだったかな。いまや、投資家がもっとも影響力がある、ということだよな。行政も教会も、そこからは逃れられない、ということか。しかし、あのスラムがその後どうなったのか、気になるところ。 で、ローマ法王の選挙があって、ホルヘが選ばれて法王へ。どうも、アルゼンチンからの選出は、珍しいことだったようで、なるほど、なんだけど。コンクラーベの仕組みがよく分かってないので、ああ、そうですか、な感じになってしまうのが残念。ホルヘが法王に、がいかに凄いことなのか、もうちょっと描いてくれてもよかったかな。 法王フランシスは、ビデラ政権の情報公開をすると明言しているようだけど。思うのは、つい30年前ぐらいに、独裁政権下で弾圧する側にいた人たちもまだ生きているわけで、そうした人たちは、訓示政権崩壊後にどういう生活になり、いまどうしているのか、そういうのも気になるところ。たとえば軍に通じていた神学校の教師とか、あのあとどうなったんだろうね。 |