2018年1月

オリエント急行殺人事件1/7109シネマズ木場シアター7監督/ケネス・ブラナー脚本/マイケル・グリーン
原題は“Murder on the Orient Express”。allcinemaのあらすじは「エルサレムで華麗に事件を解決した名探偵のエルキュール・ポアロは、イギリスでの事件解決を依頼され、イスタンブールでの休暇を切り上げ、急遽、豪華寝台列車オリエント急行に乗車する。ほどなくアメリカ人富豪ラチェットから、脅迫を受けているからと身辺警護の依頼を受けるが、これをあっさりと断る。ところが深夜、雪崩で脱線し立ち往生してしまったオリエント急行の車内でそのラチェットが何者かに殺害される。鉄道会社から調査を依頼されたポアロは、列車は雪に閉ざされており、犯人は乗客の中にいると確信、一人ひとりへの聞き込みを開始する。しかしやがて、乗客全員にアリバイがあることが明らかになるのだったが…」
とくに見たいわけではなかったんだけど、木場に行く用事があって、そのついで。1974版もロクに見てないんだが、でも、そのナイフで順番に刺していくシーンは記憶していて、これが不思議なんだけど。でまあ、12時45分の回だったんだけど、持参したパンをかじりつつ・・・。ヒキがあれば寝ないと思ったんだけど、途中からうつらうつら。目覚めては寝てまた少し気がついてまた寝て・・・で、2〜30分は記憶が飛んでいる。まあ、ヒキがなかったっていうことだろう。
冒頭の、嘆きの壁の犯人捜しは、昨今の事情も勘案した感じで興味深く見たんだけど、(原作にもあるのか?) その後の人物紹介がピリッとこないというか、散文的で、移動撮影で顔も良く分からなかったり、頭によく入らない。やっぱり、関係する乗客は、それぞれどこの誰兵衛でどういう人物、というのを最初にカチッとやって欲しいよな。てなわけで、いまいちメンツが理解できないまま、ポアロの聞き取りが始まって。次第に名前=固有名詞がセリフに登場するようになるに至って、おいてきぼりな感じになったのかな。な、具合で、腹が多少膨れたのもあって、寝たわけだ。
気がついて後は、デイジーがどうしたという話が聞こえてきて、このあたりは寝ている間に説明があったのかも知れないけどピンとこず、なんとなく見つづけていったんだけど、まあ、分からなくはないけど、
というわけで、個々人の微妙なセリフの奥とか、そういうのは理解もできず、だから、なるほど、もなく、最後は、なるほどみなさん、デイジー殺害の関係者で、その面々がみんなでラチェットを・・・は分かるんだけど。やっぱり思うのは、そんなことで、12人もの人がリベンジのために人殺しをするか? なんだよな。あとは、だれがトドメを刺したのか、によって量刑は変わってくるよなあ、とか思ってしまう。というわけで、リアリティも感じられないし、うーむ。
・ラチェットの悪事は、デイジー殺しだけなのか? 他にはないの?
・ポアロのケネス・ブラナーばかり目立つ。ひとりで画面を占めることがたびたびで、うっとーしい。監督が自分を見せるばかりじゃ、ダメだろ。
・客車は4両なのね。食堂と、ラウンジと、客室=個室と、スタッフ及び調理場? で、思うのは、客は総計何人だったんだ? 1等と2等があるという話だったけど、1つの車両に1等と2等があるのか? 映画に登場した面々も、1等の客と2等の客がいるの? ポアロは、最初、ラチェットの秘書ヘクターと同室にさせられたけど、すぐに個室に移された。あれは、室があいたから? よく分からない。
・列車が走る様子を俯瞰で描く場面がよくでてきたけど、あれ、つまらない。どうせCGだろ、と思うと、なにも感じないよ。
・神経質なポアロ、という設定だけど、たかが卵の大きさで、あそこまでするか? まあ、寝てるときにヒゲが乱れないようにするプロテクターみたいなのはおかしかったけど、あんなのつけてたら、つけてる煩わしさで神経に障ると思うけどな。
・最後、ポアロが犯人を指摘する場面。旅客や関係者が、トンネルの中、横ならびでいる様子は、「最後の晩餐」風だったけど、そういうことなのかね。
ノクターナル・アニマルズ1/11ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/トム・フォード脚本/トム・フォード
原題は“Nocturnal Animals”。allcinemaのあらすじは「アート・ディーラーとして成功を収めながらも夫との結婚生活は冷え切り、満たされない日々を送るスーザン。ある日そんな彼女のもとに、20年前に離婚した元夫エドワードから彼の著作『夜の獣たち(ノクターナル・アニマルズ)』が送られてくる。作品が彼女に捧げられていることに困惑しつつも、早速読み始めたスーザン。そこに綴られていたのは、車で移動中の家族が暴漢グループの襲撃に遭い、妻と娘が殺され、夫は刑事と共に犯人たちを追い詰めていくという壮絶な復讐の物語だった。そのあまりに暴力的な内容と完成度の高さに衝撃を受けながらも、これを彼女に捧げたエドワードの意図をはかりかねるスーザンだったが…」
冒頭は、肉塊ぶよぶよオバサンのダンス。うげ。踊り終わった2人の肉塊が展示台に横たわり、それを客が眺めているのは、それも含めて作品なんだろうけど。えげつない。・・・のパフォーマンスの後、元夫から送られてきた小説のストーリーが同時進行で進むんだけど、これが神経を逆なでする話で、見つづけるのが嫌になった。↑のあらすじにネタバレしてるけど、ハイウェイで前を塞ぐというトラップをかけてきて、追い抜いたときに娘が中指を立てた、というのがきっかけで、チンピラ3人が家族の車に追突。2台とも止まって家族のクルマはパンク。チンピラ達はタイヤを替えてやるよ、お前が絡んできたんだろ、事故なんだから通報の義務がある、など絡んで、妻と娘、亭主は別々のクルマで連行される。亭主と同乗のチンピラがマヌケで、先行の車を見失った? で、亭主を降ろして去ってしまう。あとから3人が亭主を探しに来るけど、亭主は隠れてやり過ごし、翌朝、民家から警察に電話するという流れ。
担当の警官が陰気すぎるぐらい妙な存在感で。もしかして犯人と知り合い? とも思ったぐらい。妻と娘は、トレーラーハウスの横で裸で抱き合うようなカタチの死体で発見されるんだけど、せいぜいレイプされるぐらいかと思ったら、殺されているとは・・・。
よそで起こった強盗事件で犯人らしき人物が見つかり、1人はその場で射殺されたんだっけかな。で、残る1人は亭主が面通しで逮捕。最後の一人も、家に居るところを逮捕。なんだけど、この2人が否認するので起訴できない、とかいう話になり。じゃあ、と担当警官が亭主にもちかけるのが、私刑なのだよ。なんと自分は肺がんだかで余命わずか。というわけで、自分の小屋へ2人を連れていき、締めようかという。怪しいのか正義なのか、よく分からない警官だよ。でもちょっとしたスキに2人に逃げられ、警官が1人を射殺。もう1人に逃げられるんだけど、二手に分かれた亭主の方が、例のトレーラーハウスのベッドで寝っ転がっていてるのを発見。なんだけど、どうしてそんなところに居るんだ? 亭主は銃を向けるんだけど、犯人も火かき棒みたいので抵抗し・・・。亭主は顔を殴られたのか目が見えない状態で覚醒し、拳銃を手に立ち上がる。足もとに人間。犯人は死んだ。のはいいけど、亭主が小屋から出て少し歩いたら目が見えないから転んで、銃が発射されて亭主も死亡・・・。なんだこれ。
小説中の家族は、現実のスーザン、エドワード、スーザンの実娘と同じ役者が演じてるんだけど、現実とフィクションとの間にどういう連関があるのか? がキモだと思うんだけど、それがよく分からんのよね。
スーザンは、夜っぴてその小説を読み終えるんだけど、小説は彼女に捧げられていたんだったかな。
でまあ、この2つの話とともに、スーザンと元亭主エドワードの出会いと別れの過去話も描かれていて。要は、昔なじみがニューヨーク(だったかな)で再会。イェールを卒業してコロンビア大学の大学院で学ぶスーザンと、小説家目指してテキサス大学(だったかな?)で学ぶエドワード。どうもスーザンはエドワードが好きだったようで、スーザンは学校を辞めてテキサスに行ったんだっけかな。当時は、愛する男が夢を追うことになんのためらいもなかったんだけど。そのことを身分違いとか母親に責められて。でも、母親が言うように結局、母親と同じ性格が発揮されるようになって、実利を優先してエドワードを振り、別の男と結婚して現在に至る、な感じ。現在の亭主も同じアート業界で働いているらしいんだけど、破産寸前なのかな。というような状態のときに、「僕の書いた小説のゲラを読んで欲しい」と送られてきて。ということは、エドワードの勝利宣言? いや、でも、スーザンが現亭主と上手くいってないことは、エドワードは知らないはずで。では何が目的? いや、もしかして、別れてからずっとエドワードはスーザンをストーカーしてて、ここぞというタイミングで小説を送りつけてきた?
スーザンは、エドワードと再会を約してレストランを予約し、待つのだけれど、いったい何を期待したんだろう? 謝るつもりだった? でも結局、エドワードは来ない。意図的なすっぽかし? でもそんなのが復讐になるのか? ただの粘着な野郎だろ。
・なんとなくデ・パルマとか、デヴィッド・リンチみたいな感じの、妙な感じのクライム・ストーリーな感じ。
・スーザンの事務所にあるアート。奇妙なモダンアートがいくつかあるけど、廊下に“REVENGE”と文字が書かれたのがあって。どうもスーザンは、買ったのをおぼえていない? しかし、露骨なメタファだよなあ。
・スーザンは、妻と娘の死体がでてきたところで本を置き、娘に電話する。と、死体と同じ格好の裸体の2人がいて、その片方がスーザンの娘で、男と居る、ということらしい。これは、スーザンと現夫との娘なのね。でも、何かを表しているようには見えないんだけどな。なんのメタファ? ただの思わせぶり?
・現実の過去と、小説の登場人物は、似ているようでとくに似ていない感じ。これまた、思わせぶり?
・スーザンのアート仲間の女性の亭主が、なんとゲイで。だから、うまくいっているようなことをいってたかな。それって偽装結婚? 知らんけど。
・・・というようなわけで、メタファに満ちているように見えて、実は大した意味はない感じ。思わせぶりが目について、底が浅い気がするんだけどね。
とはいえ、冒頭から、チンピラに絡まれて、の流れは、監督の術中にはまって、いやーな気分を味あわされたのは事実だけど。
南瓜とマヨネーズ1/11新宿武蔵野館2監督/冨永昌敬脚本/冨永昌敬
allcinemaのあらすじは「売れないミュージシャンのせいいちと同棲中のツチダ。芽が出ないままずるずると夢を追い続けるせいいちとの生活を守るため、ライブハウスの仕事とは別に、内緒でキャバクラでも働き始めていた。やがてキャバクラの客からもっと稼げる仕事があると持ちかけられ愛人契約を結ぶ。ところが、そのことがせいいちにバレてしまう。するとせいいちは、ツチダが体で稼いだお金を拒絶し、自らバイトをするようになる。そんな矢先、ツチダは今でも忘れられないかつての恋人ハギオと偶然再会するのだったが…」
なんか、うんざり、な内容だった。原作は魚喃キリコのマンガで1999年のもの。でも当時を描いている訳ではないようだ。にしては、商業主義にひれ伏す音楽仲間から離れ、純粋に自分の音楽を追求する せいいち の存在が、とても嘘っぽい。いまどきあんなやつがいるか? いや、昔もそんなやつ、いたのか? 売れることより、やりたい音楽、は分からんでもないけど、理想と手段は違うわけで。なので、せいいち は社会不適応者にしか見えない。だって、同棲中のツチダに、歌を書けと言われても書かず、なのに、ラスト近くでやっと自分の歌を完成させたのを聞けば「道の向こうに猫がいる」とか、アホみたいな歌詞。メロディだって、どってことない。げんなりだな。まあ、一度は音楽性の違いで離れた仲間とも、結局は呼びかけに応じて再び一緒にやるようになる、というような終わり方で。なんだ。結局は折り合いをつけるのか。だったら、突っ張ってんじゃねえよ、な感じ。
ライブハウスで働くツチダが せいいち と同棲するようになった理由はよく分からない。でも、せいいち には「私が稼ぐから、せいいち は働かなくていい。曲を書いて」と男に貢ぐ生活なので、メロメロなのかと思いきや。金を稼ぐためにガールズバーみたいなところで働きはじめ、さらにはお客と個人売春をはじめて金をつくるようになる、って、いつの時代の話だよ。で、それが せいいち にバレて。別れるのかと思ったら喧嘩もせず、同棲をつづける関係がよく分からない。同棲相手が売春してた、と分かったら、フツー引くだろ。
で、ガールズバーも売春もやめてライブハウスに戻ったら、むかしの男と遭遇し、どうやらツチダが一方的に好きだった男らしく、子供を堕ろしたこともある、らしい関係で。またまた、そのハギオを追いかける日々が始まり、ガールズバーの元同僚に「せいいち、私を振ってくれないかな・・・。ハギオはそのうちどっか行っちゃうのは分かってるけど」なんて言うんだぜ。たんに、男と遊ぶのが好きの尻軽女じゃないか。やだやだ。
で、せいいち がバイトのかけもちで働いてる最中、アパートにガールズバーの時の元同僚とハギオを連れ込んで、ひと晩中飲み明かし、そこに せいいち が返ってきて・・・。何かあるかと思ったら、せいいち は、ハギオに「ゆっくりしていってください。なんなら風呂でも入っててってください」なんて言う。まあ、元同僚とハギオはこそこそ帰ったけど、その後、ハギオは元同僚の家に三日間も居つづけだった、とかなんとか。やれやれ。
で、最後は せいいち はアパートを出て行く宣言をし、曲を作って昔の仲間と再び合流。ツチダの働くライブハウスでライブをした、という感じで終わるんだったかな。
なんだよこれ。1970年ぐらいの感覚だな。時代錯誤な勘違い映画だと思う。ロマンポルノから裸を引いて、話を少し膨らませたら、こんな感じになるかもな的な映画で。だったら、話を端折って裸を足してくれ方がまだマシ。
・金もないツチダと せいいち なのに、煙草は吸う、酒は飲む。バカかと思った。
・水着のビデオは、元の仲間がボーカルとして(レコード会社から)あてがわれた女性なのか? あのあたりの関係が、良く分からない。とくに、川べりでキャンプで女がどうのという話が「?」な感じ。
・音が悪い。ハギオとツチダが2度目に角打ちいったときの音声が、ぼそぼそすぎ。エンドロールのバックに流れるのも、よく分からないぼそぼそ声で。なんだこれ、な感じ。しかも、いちおうミュージシャンの映画なのに、音楽が全体に貧弱なのも、なんだかな、な感じ。
オン・ザ・ミルキー・ロード1/16早稲田松竹監督/エミール・クストリッツァ脚本/エミール・クストリッツァ
原題は“On the Milky Road”。allcinemaのあらすじは「隣国と戦争中のとある国。ミルク売りの美女ミレナは村の人気者。男たちは彼女に夢中で、ミレナ目当てにミルクを注文する。そのミルクを配達するために雇われている変わり者のコスタ。毎日兵士にミルクを届けるために、銃弾飛び交う前線へとロバで向かう。そんなコスタに想いを寄せるミレナは、兄のジャガが戦場から帰ってきた暁には、兄の結婚式と同じ日に、自分もコスタと結婚しようと考えていた。そんなある日、ミレナが兄の花嫁にと、難民キャンプで見つけてきた絶世の美女が村にやってくる。初めて出会った瞬間から互いに運命的なものを感じ惹かれ合う花嫁とコスタだったが…」
ブタが屠殺された血を浴びるアヒル、ロバ、ヒツジ、子羊の誕生、コスタの口からエサを食べるクマ、コスタの命を助ける(?)大蛇、コスタの相棒のハヤブサ、イヌ、ネコ、ウシ、鏡をみて撥ねながら卵を産む雌鶏、蜜蜂、蝶・・・と、動物がうじゃうじゃ出てくる。ヘリコプター、戦闘機、爆撃、地雷、火炎放射器と、殺戮手段もたくさん。人を襲う狂った振り子時計、義眼のジャガ、兵士になっている神父(ということはキリスト教?)、オフィーリアを連想させる川の中のウェディングドレス、魚の網、滝、天国のイメージ、耳を削がれるコスタ(ゴッホか?)、井戸、ロバに乗って傘をさし、ミルクを運ぶコスタ・・・と、要素も相変わらずどっさり。なんだけど、なにかのメタファーになっているのか単なる思わせぶりの虚仮威しか、よく分からない。最初は、これぞクストリッツァと喜んでみていたけど、ストーリー自体がなんだかピンとこず、自作の劣化コピーに見えてくる。音楽が弾けるのも結婚式前後の大騒ぎぐらいで、ジプシー音楽が全編に鳴り響くわけでなし、最後の1/3はコスタと花嫁(モニカ・ベルッチ)の逃亡と追う黒服兵士3人なんだけど、遊びの要素は少なく、ひたすら悲惨なラストへと突き進んでいく。そして15年後、コスタは神父か牧師のひとり暮らしで、毎日、砕いた石をモニカ・ベルッチが爆死した地雷原に運んで一面を覆い尽くそうとしている・・・というラストは、『アンダーグラウンド』のような、悲惨の中に楽天性が弾けるおおらかさとはかけ離れている感じ。なんだこの後半の暗さは。ちっとも乗れないぞ。
3つの事実をもとに多くの寓話を交えた話、と冒頭に出るけど、その事実がどれかはよく分からない。戦っている国名も、クロアチアが最初に出るけど、あれは敵国? では、コスタのいる側はセルビア? ボスニア? よく分からない。まあ、『アンダーグラウンド』もそうなのかも知れないけど、国家や為政者の片鱗は見えていた。それがもう、単なる純愛のお話になってしまって。うーむ。
その純愛も、コスタ=クストリッツァ60過ぎ、モニカ・ベルッチ50過ぎ。こんなジジイとババアのロマンスなんて、たいして興味も湧かない。むしろ、コスタがミルクを仕入れに行く農家の娘・ミレナの方が若くて可愛い。なんだけど、どういうわけかコスタとベルッチが相思相愛になって行く理由が分からない。だから話にも乗れない。
ベルッチの素性もよく分からなくて。最初は監視カメラで挙手を監視されていて。あるとき袋詰めにされて運ばれ、開放されて。どうやらミレナの兄のところに嫁入りすることになったようなんだけど、経緯が不思議すぎ。ベルッチは難民ではなく流民だとか言ってたけど、働いていたのは収容所なのか? で、なんでミレナの兄ジャガの嫁に選ばれたんだ? もう分からんことだらけ。しかも、最初、ミレナの兄は、時計が壊れたときに手を貸した男かと思っていて、彼が登場しなくなったからアフガンに行って、それでそのうち帰ってくるのかなと思ったらそうではなくて、後から義眼をはめた男がバイクでやってきて、それがジャガだった。そのうちダブルで結婚(ジャガとベルッチ、コスタとミレナ)だ! なんてウェディングドレス着てはしゃいでいるうち、我慢できずにうとうと・・・10分ぐらい寝たのかな。やっぱ、話にヒキがないと、ダメだわ。
ジャガとベルッチは、会ったことのない結婚、な訳だよな。で、ミレナはコスタが好き。コスタはミレナに関心がなくて、たまたま見たベルッチに恋した? というところに説得力が足りないだろ。だいたい、コスタを演じるクストリッツァがジジイすぎるし、顔がマジだからエキセントリックな感じもなくて、どーも乗れない。
てなドタバタしてたら、黒い軍服の兵隊が村にやってきて、狙撃手と火炎放射器で皆殺し。ジャガとミレナは炭化した死体ででてくる。そういえば、村の中にスパイみたいのが潜入していて写真撮ったりどこかに連絡していたりしていた。あれが敵なんだろうけど、目的は何なんだ? 村を殲滅する理由は何なんだろう? で、井戸にもぐったりあれやこれやでコスタとベルッチが逃げまくるんだけど、黒い兵隊3人はしつこく追ってくる。なんで? 意味が分からない。寝ているときに、なんか理由を告げたのか?
というような訳で、最後はヒツジの群れに隠れ、地雷原に逃げるのだけれど、黒服兵隊もやっつけたけど、ヒツジもたくさん死んで、ベルッチも死んでしまう、というオチになるわけだ。羊飼いも近くにいて、黒服兵隊に対立する立場のようだけど、あんなにヒツジを爆死されて、それは哀しくないのかね、と思ったりしたけど・・・。
てなわけで、寓話と音楽は従来を継承してはいるが全体にパワーダウンで、後半の幾分シリアスなオッサンとババアの恋物語&逃避行には惹かれない。これまでの洗練された寓話のイメージはなくなって、妙に泥臭くなってく感じだな。やはり劣化コピー? クストリッツァは『アンダーグラウンド』と『黒猫・白猫』で十分だな。
・傘をさしてロバに乗ってるコスタの様子は、ストーンズのアルバム『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト』のジャケットを連想したけど、まあ、関係ないだろうけどね。
・早稲田松竹は、はるか昔に一度行ったきりの2度目。椅子の具合は新文芸座風で座りやすい。けど、床が波打っているのが気持ち悪い感じ。規約の入りはイマイチで、ギンレイのようにおばちゃんがたくさん、ということはないようだ。そういえば、ギンレイでよく見かける男性スタッフ(ハゲてる人)が来てたぞ。
伊藤くん A to E1/18シネ・リーブル池袋シアター2監督/廣木隆一脚本/青塚美穂
allcinemaのあらすじは「一度はヒットを飛ばしたものの、今は売れないアラサー脚本家の矢崎莉桜は、自身の講演会に参加した4人の女性たち【A】〜【D】の恋愛相談を新作のネタにしようと企んでいた。【A】〜【D】の話を聞いて、そんな男のどこがいいのかと思いながらも、ネタのためにと彼女たちを巧みにけしかけていく莉桜。そうして取材を重ねていくうちに莉桜の中で相手の人物像が一人の男へと集約されていく。なんとそれは、莉桜が講師を務めるシナリオスクールの生徒で、彼女がもっとも見下していた男、伊藤誠二郎だったのだが…」
書いている今日は2月1日だから2週間経ってしまった。しかし、ほとんど覚えてないな。そんな映画なんだろう。で、↑のあらすじを見て、ああ、そういえばそんな話だったな、な感じ。Twitterに書き込んだ感想は「女の腐ったのと男の腐ったのが粘着くどくどやってる感じ。こんなのが受けるのか。話の流れ=構成や、人の出入りやセリフもムダにくどい。ざっくり90分くらいに刈り込んでメリハリをつけたらまだ見られるかもな。しかし、いまどきの役者は似たような顔ばっかだな。」というもので、いまでも困惑してるのが、役者の顔がよく分からない、ってことかな。岡田将生は高良健吾に似ているので、「?」とか思いつつ見ていたし、木村文乃も、これまで映画で見ているはずなんだけど、あまり記憶にない。顔で分かった=すぐ区別がついたのは、田中圭と夏帆ぐらいなもんか。まあ、テレビを見ない弊害かも知れないけど、知らない顔の若い役者がぞろぞろ登場されると、それだけで、画面を追うのが大変になるのだよ。じじいだね。
この映画で一番気になったのは、崖っぷち脚本家の矢崎の生活で。一度ヒットを飛ばした程度であんないい家には住めないし、仕事もやってこないと思う。まして脚本教室の先生なんて、話は来ないぞ。ああいう教室では、長年働いてきて、50過ぎてもう書けなくなったような、そういう人が教えているものだ。まして講演会なんか開いて客が来るはずがない。
というわけで、講演会にやってきた客からアンケートを採り、その中から興味深そうな女性を選んで話を聞く・・・という設定も、いまいちリアリティがないし、そもそも、そういう女性たちが本心を脚本かに洗いざらい話すはずがないだろ。と思ってしまうと、もうこの映画は面白くもなんてもないのだ。
女たちもまたアホばかり。伊藤くんに惚れてる女が何人も登場する。なんで? まあ、伊藤くんが追っかける女もひとりいるけど、贅沢すぎだろ、な感じでちっとも共感できず。どーでもいいや、な感じかな。
で、最後はそれぞれ、どうなったんだっけ? もう覚えてないよ。なんか、外の街角で、すれ違わずに歩いている場面だけは覚えてるけど。
エル ELLE1/24ギンレイホール監督/ポール・ヴァーホーヴェン脚本/デヴィッド・バーク
フランス映画。原題は“Elle”。「彼女」という意味らしい。allcinemaのあらすじは「新鋭ゲーム会社で敏腕女社長として辣腕を振るうミシェル。彼女はある日、ひとり暮らしをしている自宅で覆面をした男に襲われる。男が去ると、何事もなかったかのように振る舞い、訪ねてきた息子を迎える。その後、ミシェルの行動を監視していると思われる嫌がらせメールなどから、レイプ犯が彼女の身近にいると確信するミシェル。それでも幼いときのトラウマから、決して警察に頼ろうとしない彼女は、自ら犯人探しを始める。そんなミシェルの周囲には、犯人になりうる動機を持つ怪しげな人物が何人もいたのだったが…」
これを書いているのも2月1日だから、8日ぐらいたってるのか。Twitterの書き込みは「変態と変人しか登場しない映画。話も輻輳してて人の出入りも多いから最初は、どうなるの? と思ってたけど、次第にだから何? な感じになっていった。その意味ではフランス映画らしいけど、いまひとつ妖しさが足りないかな。」
冒頭からいきなり、突然侵入してきた暴漢にミシェルが犯されるという場面で。おりやおりゃ、なんだこれ。なんだけど、暴漢が立ち去ると落ち着いた様子で風呂に入り、やってきた息子ヴァンサンと世間話(息子の妻の話だったかな)をし、翌日会社にいった後で病院に行ってHIV検査を受けるという落ち着きさとのんびりさ。なんだ。警察に行かないのか? が、最大の疑問。まあ、その後、会社の同僚や元夫なんかと食事したとき、レイプされたことを話し、なぜ警察に行かないのか? とも責められていたけど、みんなそう思うよな。
で、その後メールで、監視してるような内容が届く。ということは、知り合いだ。だから、相手は会社の同僚か、でもその同僚とは不倫中だし、道をはさんだ隣家の亭主か、息子はないだろ、と思うと自ずから相手は見えてきて。犯人捜しは興味の対象から外れてしまう。どころではない。2度目に襲われたとき、ナイフかアイスピックだったか、なんだかで手の甲を刺し貫いて、暴漢は逃げる。でも、そのおかげで相手が隣家の亭主パトリックと分かるのだけれど、ミシェルは落ち着き払ったもので。自分が事故ったとき、助けに呼んだのが、そのパトリックなんだから、よく分からない。ミシェルは何を考えているのか?
そもそもミシェルを演じるイザベル・ユベールは60過ぎ。おっぱい出したり体当たり演技なんだけど、ってことは、パトリックは老け専の変態なのか。パトリックの女房は敬虔なクリスチャンのようだけど、フラストレーションが高まっていた? いや、これまでも変態犯罪歴があったのか。パーティの後だったか、ミシェルはパトリックに送ってもらって。で、今度は襲われごっこをしようとして、でもミシェルが怖がらないので、パトリックは「それじゃダメだ」とかいってるところに息子のヴァンサンがやってきて。母親が襲われてる! という訳で何かで殴ってパトリックは死んでしまう。やれやれな話ではある。
しばらくして、パトリックの妻は荷造りして引っ越すんだけど、その妻のところにミシェルが寄っていって話をするんだけど。なんか、こういうところも、日本的ではないね。だって、レイプ犯の妻と被害者であり、その被害者の息子がレイプ犯を殺している、という関係の中で、ひとりだけおいてきぼりになってる敬虔な女性。ああ。よく分からんよ。
というのがメインストリーム。息子のエピソードは、ちょっとエキセントリック。女房は蓮っ葉な女で、すぐにヴァンサンに当たり散らす。でも、献身的なヴァンサン。生まれてきた子供は色が黒くて、明らかに種は別人。しかも、妻の胸には別の男の名前がタトゥーで彫られている。でも、子供は自分で育てる、と主張するヴァンサン。彼は、知恵遅れか? とも思ったけど、どっかの店で働いてるし、そうでもないのかな? よく分からない。いったんは赤ん坊をミシェルの家に連れてきてしまうんだけど、妻が凄い形相でやってきて、連れ戻してしまう。ヴァンサンに、子育てをしたい、という強い意志があるのは分かるんだけど、他人の子供でもいいなら、養子でもとればいいだろ、と思ってしまうのだった。
あと、大きいのは、ミシェルの父親の存在か。なんでも数10人を殺害した罪で収監中で、仮釈放を申請しているところ・・・という人物。もう老人だ。以後、父親が大量殺人犯というトラウマを抱えながら、会社のトップになって切り盛りしている、ということらしいけど、それがどう話に関係しているのか、よく分からない。母親は健在で、若い男を金で買って同居しているらしい。その資金はどっからでてるのか? ミシェルなの? まあ、話の後半で母親は亡くなってしまうのだけどね。
で、少女の頃の記憶が濃すぎて、母親に「お父さんに会いに医ってって」といわれているんだけど、決心して刑務所に行ったら、直前に亡くなっていたというすれ違い。
とにかく、いろんな性癖、過去、考えの人間を集めてきて、変なことをさせて話をつくった、というような感じで。まとまりというか、一本芯が通ってないような感じ。映画が終わっても、何も変わってないし、誰も成長していない。たいしていいこともない。だからなに? である。その意味でフランス映画的ではあるけれど、ほわん、とした手がかりのなさではなく、波瀾万丈の手がかりのなさという感じかな。変な映画だったよ。
・しかし、ミシェルはなんであんな大きな家にひとり住まいなんだ? 息子も、なんで一緒に住まないの? 独立したいから? よく分からんなあ。母親も別居だし・・・。
セールスマン1/24ギンレイホール監督/アスガー・ファルハディ脚本/アスガー・ファルハディ
イラン/フランス映画。原題は“Foroushandeh”。英文タイトルは“The Salesman”。フランス語では“Le client”で、「顧客」。allcinemaのあらすじは「夫婦で小さな劇団に所属するエマッドとラナ。上演を目前に控えたアーサー・ミラー原作舞台“セールスマンの死”の稽古で忙しいさなかに、自宅アパートに倒壊の危険が生じて立ち退きを余儀なくされる。2人は友人に物件を紹介してもらい、まだ前に住んでいた女の荷物が残る部屋に慌ただしく引っ越す。それから間もなく、ひとりでシャワーを浴びていたラナが何者かに襲われ、頭部を負傷する事件が起きる。以来、心に深い傷を負ったラナは精神的に不安定になってしまう。一方、犯人を捕まえるために警察に通報しようとしていたエマッドは、表沙汰にしたくないラナの頑なな抵抗に遭い、苛立ちを募らせるが…」
Twitterに書いた感想は「本筋以外のあれこれがムダに多くて、いまいち焦点ボケな感じ。「セールスマンの死」を見てないせいもあるのかな。しかし、お国の事情は想像できるけど、さっさと警察呼べよ、だよな。それにトラックとその鍵のことを考えると、後半の展開は変すぎ。」
『彼女が消えた浜辺』『別離』の監督だな。にしては、全体にだらだらな感じ。話は単純で、自宅にいた妻が誰かに襲われ、その犯人を捜し、復讐しようとする物語。
亭主のエマッドは教師で、役者もしてる。ラナも同じ劇団の俳優。趣味で芝居をしているようではなく、結構、本気のプロみたいなので、そういうのもイランにはあるのね。で、演じようとしているのがアーサー・ミラーの『セールスマンの死』なんだけど、これがまたよく分からない。なぜに? イランでもそういうのがアリなのか? まあいい。
で、冒頭の、ビルが壊れる云々で退避し、アパートを移るという経緯が最初のうち「?」で。どうも隣の建設工事で地盤に影響が出て、倒壊の恐れ・・・らしいんだけど、だったらまずその建設工事に対する抗議と、アパートを移るにあたっての補償などの問題が頭に浮かぶんだけど、そういう話はまるきりでてこない。劇団の仲間の紹介で、さっさと別のアパートに越してしまう。このあたりの経緯も、お国柄なのか?
で、そのアパートで事件が起きるんだが。劇団仲間はその部屋の元の主が売春婦(とはっきり言ってないけど)で、むかしの客がやってきたせいだ、というようなことになっていくんだけど、エマッドはそのことを口にはするけれど徹底的に追求しないどころか、劇団員としてその後もその仲間と付き合いをつづけていくという。なんか隔靴掻痒。これもお国柄なのか。
それと、イランでも売春制度があるのか。という疑問。
で、ラナはチャイムが鳴ったので夫だと思い込み、玄関ドアを開け、シャワーに・・・なんだけど、なんとも無防備な話だ。で、発見したのは隣家の住人らしい。どうも血だらけで、外傷もひどかったようで、病院に担ぎ込まれているところにエマッドが駆けつける、という流れ。なんだけど、警察には連絡していないという。イスラム圏で女性がレイプにあったとはいいづらいのは分かるけど、ひどいケガをしている状態で隣人が警察に連絡しないというのは、どーも合点がいかないのだよね。これもお国柄なのか。
明日から公演開始というときに、この事件。エマッドは部屋の中に鍵の束とスマホ、それからのちにお金を発見する。まず、鍵はクルマのものと目星を付けて近所のクルマに鍵を差しまくり、トラックを発見。それを現アパートの駐車場に移すのだけれど、そんなことしてどうするんだ? な感じ。犯人が特定できたのだからさっさと警察に行くか、あるいはずっとトラックを見張ってれば犯人が現れるかも知れないじゃないか。移動してどうする? だよな。
で、翌日の公演初日。ケガを押してラナは出演するが、途中でセリフが出てこなくなって芝居は中止。そんなの当たり前じゃないか。と思うんだが…。
駐車場のクルマがジャマだどうだという話が他のクルマの持ち主からあって、どうやらラナがクルマを移動してしまって、それにエマッドはあとから気づくんだったかな。ラナが止めたという場所に行ってみたら、クルマが消えている。いや、その前に、クルマのダッシュボードの何かから、クルマの持ち主の情報をみつけて、たしかパン屋かなんかだったかな、でその店に行くのが先立ったか。でその店に行き、運びたいものがあるけどお宅のクルマで運んでくれないか、というようなことをいい、店の若いのは困惑するけど、年かさの方が「やってやれ」とかいって。エマッドは、前のアパートの部屋まで若いのを呼び寄せることに成功した、と思ったんだが。やってきたのは年かさのジジイで。これじゃ話にならん、と思っていたら、ジジイが足にケガしているのに気づく。事件の当日、階段に血がついていて、犯人は足にケガしている、ということは分かっていた。・・・のだけれど、裸足で逃げたならともかく、足の裏にケガして、靴を履いたら階段に血はつかないと思うんだが・・・。裸足で逃げて、靴は途中で履いたのか。よく分からない。
というわけで、なんと犯人はパン屋のジジイで、若いのは娘婿になる予定の青年だった、というオチ。まあ、それはいいんだけど、エマッドはジジイに「家族を呼べ。お前のしたことを家族に話せ」と強制し、ジジイを納戸に軟禁してしまう。で、面通しをさせるためにラナを連れてくるんだったかな。そしたらジジイは息も絶え絶えで、というのも心臓病かなんかでクスリが手放せない状態なんだという。というようなジジイがつね日頃からなじみの売春婦のところに通い、励んでいたのか? しかも、このたびは部屋に知らぬ女性がいて、嫌がるのを殴る蹴るで暴行レイプした? とてもそんな元気があるようには見えなかったけどな。
ラナはジジイのクルマからクスリを持ってきて、なんとかジジイ復活。さらにでラナは「許してやって」といんだが、エマッドは徹底的に懺悔させる立場を変えない。というところに、ジジイ女房(太ってる)がよたよた階段を上がってきて。娘と青年も一緒。「お父さんを助けてくれてありがとう」なんて、3人ともエマッドに感謝するんだけど、なんか変じゃないか? もともとエマッドがムリして運送を頼み込み、青年は忙しいからとジジイに行かせて、でもそのミッションは終わっているどころかジジイは病気で倒れている。しかも、やってきた部屋は倒壊寸前のビルで、部屋には荷物がない。フツーなら、「なんなんだよ、うちのオヤジをこんなところに呼び出して。どういう魂胆なんだ!」と疑問と抗議があっても不思議ではないだろ。
しかも、ヨタヨタのジジイは階段を降りるときにまたもや倒れて、家族はケータイで救急車を呼ぶが、はたして回復したかは分からない。で、これでよかったのか、と呆然と夜道を歩くエマッドと、すでに心がすれ違っているラナ・・・で、映画は終わるのだが。
最後の、ラナのジジイに対する態度で、これは「赦し」の映画なのか? と思ったけれど、どーもそんな感じもない。では、上演しようとしていた「セールスマンの死」にヒントがあるのか? でも、この芝居を見たことがないので、よく分からない。なのに、タイトルになっているぐらいだから、何かが込められてはいるんだろうけど、よく分からない。
・この映画にはいろいろ疑問なのは、犯人が残して行ったトラックと鍵とスマホと金だ。犯人が慌てて逃げたから、あれこれ置いていった、という話だけど。では、金はいつ置いていったんだ? というか、あれは、コトが済んでから料金として置いたのか? 事前に、あれは、どっかの引き出しにでも入れたんだっけか? というか、なんであんなところに金を? いや、最初は見えるところに置いたのをラナがしまって、それをエマッドが不審に思っていて。知らずにラナが使った、だっけか? よく覚えてないんだが。それにしても、金を払う時間はあった、というわけだ。いや、払ったのか? 暴行して悪かった、の慰謝料? よく分からないままだ。
スマホは使えない状態になっていた。ということは、犯人が解約したということか。それって、持ち主をたどれないものなのか? イランあたりなら、「これ拾ったんだけど、持ち主に返したくて。連絡先を・・・」で教えてくれたりしないのか? などと。お国柄だし。
で、鍵だけど。これは、すでにトラックが特定されている。で、犯人は、後にトラックを見に行って、無くなっていたのに気づいたはず。その時点で、「ヤバイ」と思うのがフツーだろ。なのに、のちにトラックが路上に戻っているのを見つけ、それを持ち帰っている。ではそのとき、鍵はどうしたのか? まさか、ラナは鍵を差したままトラックを放置した? 違うよな。では、あのジジイあるいは婿の青年は、どうやってトラックを動かしたのだ? よくあるようにコードをスパークさせて? まあ、それでもいい。けれど、トラックの存在を知られている、ということは自覚しているはず。なのに、同じトラックをつかって相変わらず配達している、という神経はなんなんだ? と考えると、この犯人のいい加減さに、どーしてもリアリティが感じられない。こういう鈍感さも、お国柄なのか?
そして、スマホも鍵もトラックも、すべてに指紋がついているはずで。警察に通報されたらオシマイ、と分かっているはず。なのに、堂々と生活し、知らない男=エマッドの依頼にノコノコとでかけていくというのも、なんだよ、こいつ、という感じがしてしまう。
というわけで、何が言いたいのかよく分からない映画だった。罪を許すか、裁くか。しかし、お国柄があるので、日本の感覚ではいまいち理解できないところも多い。宗教や犯罪に関する周囲の目のことも知らないと、人物の心境は分からないようだし。なので、共感するところは少なかったし、本筋に関係のないエピソードが長すぎ。とくに、犯人が特定されてから、エマッドがねちねちとジジイをいじめる経緯は、要るのか? な感じ。
まあ、リベンジなんだろうけど、負の連鎖はこうして始まる、を見せている感じか。もしかして、イスラム世界のテロの連鎖を意識していたりするのか? それをなくすのは、赦しの心である、とか? リベンジしても、決して救われない、とか? うーむ。そうなのかなあ。
・劇団の仲間の、部屋を紹介してくれたオヤジ。こいつも変なやつで。事件後、エマッドの家に寄ったときに近所の住人に事件のことを聞かされ、そのことを劇団のメンバーにしゃべりまくり、というのでエマッドが少し怒るんだけど。殴ったりしないのがよくわからないところ。あれだけ事件を隠そうとしていながら、どんどん広まっていってしまう。どこにでもおしゃべりなやつはいるし、ゴシップが好きなのは万国共通なのね。
・エマッドが教師であることの意味はどこにあるのだ? しかも、教室の場面を長々と描く。授業で上映する映画なんて、どんな関係があるのだ? それと、相乗りタクシーの出来事。隣席になったオバサンが、エマッドを嫌がって、前の席の学生と場所を変えてくれるよう運転手に言う。その学生はエマッドの教え子で、のちに「あの女性は失礼だ」とエマッドに言うのだが、エマッドは「あの人はかつて男に嫌な思いをさせられた経験があるのかも知れない」と、擁護するようなことをいうのだが。まあ、妻が被害者となったことと関係が無いわけでは無いけれど、そんなに意味があるようなエピソードには思えないよな。必要か、このエピソード。
密偵1/26キネカ大森2監督/キム・ジウン脚本/イ・ジミン、パク・ジョンデ
韓国映画。allcinemaのあらすじは「1920年代、日本統治下の朝鮮。そこでは独立を目指す武装組織“義烈団(ウィヨルダン)”が過激な武力闘争を繰り広げていた。朝鮮人でありながら日本の警察に所属するイ・ジョンチュル。上司から義烈団の監視を命じられ、義烈団の地域リーダー、キム・ウジンに接近する。そんな中、京城(現ソウル)で日本の主要施設を標的に大規模な破壊工作を計画し、着々と準備を進める義烈団だったが…」
Twitterに書いた感想は「日本統治下 朝鮮での爆弾テロ集団の話。人物の区別がつかず、流れもいまいちで、サスペンスが足りないかな。モデルはいるらしく、でも映画的に派手にしている感じ。あと思ったのは、イスラム過激派のテロと同じだな、ということかな。」
アクションシーンもあって、面白い部分もあるんだけど、不満もたくさん。まず、時代背景が分からない。1930年代かと思ったら、↑のあらすじに1920年代、とある。では大正か昭和の初めなのか。警官の制服は古い感じだったけど、日本統治時代(1910年の韓国併合〜1945年)の1920年代、と書いてくれたらよかったのに。
人物がたくさん登場するわりに整理ができていなくて、混乱。テロ集団と警察側の区別がつきにくい。写真館のウジンと一緒に行動する素朴な青年も、役割や地位がよくわからない。ハシモトの部下みたいなのも、いつのまにかいたりする。列車の中で裏切り者と分かる義烈団の男も、いつどこで登場してたっけ? な感じ。要は、最初の古物商のところとか、その後のアジトにいた面々もちゃんと映さないのがよくない。はじめに、観客に顔と立場を印象づけないとな。
で、ウジンたちが何を企んでいるのか、も芒洋としている。上海から爆弾を運ぶ? なんで? 近くでつくれないのか? いやそのまえに、テロリストが中国と朝鮮を自由に行き来できるぐらい、警備はゆるかったのか? とか。
上海にいる義烈団の団長の存在も、いまいちな感じ。団長とウジン、ソウルと上海との関係とか、上海から爆弾を運ぶ理由とか、ナレーションで説明しても良かったんじゃないのかな。
日本の警察に勤務しているイが義烈団のウジンにリクルートされたり、テロ側に日本側の密偵になっていたり、が面白いところなのは分かるんだけど、その意外性とサスペンスも、人物がちゃんと頭に入っていてのこと。現状では、誰が仲間で、誰が敵なのか、というスリルが足りない。列車の中で、団員の裏切り者が判明されるくだりも、やっぱりあいつか、な感じで全然スリリングじゃないのよね。
イが上海にいるウジンに会いに行き、そこで団長に会わされて、なんとなく二重スパイにされるところはコメディみたいで面白い。頭の中では警官なのに、酒を飲んでいる相手は義烈団の団長と、ソウルのリーダー。日本の警官として責務を果たしているという自負がありながら、義侠心というか民族の血にはさまれて、「俺は、どうなっちゃうのだ?」と戸惑っている。迷いながら、半ば自分を疑ぐりながら、なんとなく情報を提供することを約束させられてしまった感じがよくでていた。
その後、列車の中でも、イは戸惑いのままで、でも、同胞意識がそうさせたのか、仲間であるはずの警官2を撃ち殺したところで、自我が目覚めた感じかな。
とはいえ列車内の殺戮現場を警察手帳ひとつで収拾し、さらに自分は列車から飛び降り、警察へは被害者面してノコノコ出頭し、上司に褒められるという成り行きは、それはないだろう、な感じ。まあ、あの時点で上司もうすうす感づいていた感じだけど。
爆弾を運び運び込もうとした義烈団の数人も、駅で顔が割れてしまう。団員の女性が最初の方で、ウジンに撮らせた写真のせいなんだけど、あまりにも軽率だ。撮ったウジンもアホか、な感じ。
でも、ウジンは爆弾をもってなんとか逃げたんだっけか。その爆弾を、警察署のパーティで爆発させるんだけど、そのとき、イは既に辞職させられていたんだったよな。それでもパーティに入り込み、上司と目が合っていたけど。
山小屋みたいなところでイとウジンが会って、残りの爆弾を受け取るのはそのあとだっけ? よく覚えてない。まあ、女性も、ウジンも、イも逮捕され、女性は獄中死。ウジンはどうなったんだっけ。覚えてないけど。イは釈放される。でもって、しばらく後のことなのか、若い男に爆弾を渡し、若い男は朝鮮総督府に向かうところで映画は終わっている。で、クレジットが終わった頃、子爆発音がしたから、成功したということなのか? で、最後に爆弾を託した男は、それまで登場してたっけ? 次世代に託した、ということか?
というわけで、実直な朝鮮人警官が義烈団にほだされて仲間になり、逮捕はされたけど、その後の爆弾闘争を支えました、というような内容だ。そういえば、後半にソウルでだったか、アクション場面があって、そこに登場した義烈団のメンバーは、あれは、団長と行動をともにする連中? それとも、最初の方に登場していたソウルの団員? よく分からない。
で、終わって感じるのは、やってることは昨今のイスラム過激派のテロと同じではないのかな、ということだった。組織も貧弱で、できることは爆弾テロだけ。しかも、実行犯はペーペーの青年たちで、団長は後ろにいて糸を引いている感じ。とても独立運動とは呼べない。あの程度のアピールで命を落とすのは、もったいないと思う。もう少し戦略的に、大切な人命の消耗を避けるようにした方が、よかったと思うんだが・・・。そういうところも、イスラム過激派のテロと似てるかも。まあ、あれが最大限、できる抵抗だったのかもしれないけど・・・。
まあ、日本にも明治時代には、ああいうテロはあったけどね。
興味深いのは、イやハシモトのように、朝鮮人だけれど、日本の警察官として実直に働いていた人々を登場させていること。イは、転向するけれど、ハシモトは日本のために死んでいった。そういう朝鮮人もいたのだ、というのを見せているのは面白かった。
Wikipediaで見ると義烈団は実際にあった組織で、モデルとされた人物もいる。爆弾闘争も、結構、行われていたようで。映画のような派手な爆発や銃撃戦、捕り物があったかどうかは分からないけれど、まったくの創作でないのも、なるほど、な感じであった。
・あんな街中のアジト(人力屋?)なんて、すぐ分かるだろうに。冒頭の、釈放された青年も、追跡されればアウトだ。尾行はされてない、といってたけど、ありえんだろ。
・警察のパーティで殺されたのは、最初に逮捕され、解放された青年? だとしたら彼は、日本の密偵となっていた、ということか。最後にメガネが逃げた先を教えたのも、彼だっけか。この辺りのほのめかしが、いまいちピンとこないつくりがもったいない。
・イにとっての情報源は電話交換手らしいけど、彼女の存在はまったく説明がなかったな。
・イには妻と幼子がいるのに、大変だよな、という感じ。あの後、世間からどういう目で見られたことか。
・旭日旗とか、壁に見えたりする浮世絵とかは、昨今の日本の侵略イメージからかる演出なんだろうけど、日本人から見ると、奇妙にしか見えない。
少女1/29キネカ大森2監督/三島有紀子脚本/松井香奈、三島有紀子
allcinemaのあらすじは「幼なじみで親友同士の高校2年生、桜井由紀と草野敦子。天真爛漫だった敦子は、剣道の団体戦でのミスが原因でイジメの対象になってしまう。読書が好きでおとなしい由紀は、敦子が集団でイジメられていても助けることができない。そんな由紀も、書き上げたばかりの自作の小説原稿を何者かに盗まれてしまう。やがてその小説は、国語教師・小倉の名前で新人文学賞を受賞する。そんな2人の前に、親友の死体を目撃したという転校生・紫織が現われる。本当の死というものにすっかり囚われてしまった由紀と敦子は、夏休みに入るとそれぞれ小児病棟と老人ホームでボランティア活動を始めるのだったが…」
冒頭から、意味のよく分からない断片的なシーンやイメージが細切れに綴られていく。もしかして、これは敦子の妄想? 由紀の無独り合点? なんて思いつつ見ていたんだけど、なかなかそれぞれが絡み合ってこない。というか、最後の方では、それらは示唆するイメージでもなければ、妄想や幻想でもなく、事実だった、ということが分かってきて拍子抜け。あれやこれや広げた風呂敷を結局ほとんど何も回収してない。なことするなら初めからフツーに撮ればいいのに。なにを意味深ぶって中途半端に思わせぶりを拡散してるのかね。そんなに違いをだしたいか。自分をだしたいか。勝手にせんずりこいてろ。と思ったら、監督は女性か。『幼な子われらに生まれ』の人なのか。じゃあダメだ。
たとえば、由紀と敦子が幼友達で、2人とも小さいときは一緒に剣道をしてた、ということが分かるのは後半になってから。そんなの、最初に描けばいいだろうに、それをしない意味はどこにある? 韜晦に意味などないだろ。フツーに描いて見せる力がないから、こんなつまらないことをする。でもって、この映画の主題がどこにあるのかも曖昧で、あれはどうなったのだろう? 的な疑問や、意味不明のツッコミどころをそのままにして終わる。なんだよ、これ。アホか、な映画であった。
以下、ツッコミ
・国語教師は、由紀の書いた小説を盗み、盗作して賞に応募。小説は入選して雑誌に掲載される。のだけれど、国語教師がそういう安易なことをするかね。では、どうやって教師は内容を知ったのか? とりあえず盗んで、よさそうだから応募した? よく分からんな。
・その教師は、途中で「自殺した」と話題に挙がるだけになるんだけど、なんで自殺したの? 意味不明。
・鉄道に飛び込むとき、由紀の原稿を破いたものをバラまきつつ・・・らしいけど、たまたま居合わせた由紀の男友だちが目撃し、それだけではなく破れた原稿を拾い集めてコレクションしてたらしいが、そんなことできる分けないだろ。さらに、その原稿をつないで、由紀の描いた原稿の最後のページを再現できているって、ありえねえ! いくらそこに「Aに捧ぐ」と書かれているのを見せるためだとしても、ありえねえだろ。そんなこと。
・ついでに。その原稿を、由紀が最初の方で書いているシーンがあって。さらに、ラストシーンも同じ部分を書いているところなんだけど、エンピツの濃さが違うし、字も違うように見えるんだが、意味があるのか?
・時間を遡って由紀は、図書館に行って棚の、小説の掲載された雑誌を手に取って、その小説の部分を引き千切る。それを見ていた少年に「この小説を地上から消滅させたい」的なことをいうんだけど、なぜに図書館なんだ? 書店に行けよ。
・介護士と敦子が仲良くなって、花火を見た帰り道か、件の小説の話になって。掲載誌があると知ると、敦子は「読みたい」と迫るのだけれど、なんでいま? と思う。自分がモデルにされている、というのなら、さっさと買うか図書館に行けよ、な話である。
・敦子が級友にいじめられる理由はどこにあるのだ? 意味不明。敦子が、剣道の試合で足をくじき、すると部の仲間が寄ってきて、気遣う声の後に本音が聞こえる。これは妄想? と思ったら、事実らしいが、いやでも妄想じゃないのか? 意味不明。
・由紀が、病気の少年の父親の居場所を知るために、なぜ住宅展示場にいくのか? そこで、なぜオッサンが由紀に声をかけるのか? 「どこにいるか聞いてやるよ。その代わり・・・」という嫌らしい誘いになぜ乗ってしまうのか? そもそも、オッサンは情報をくれていない。なのに、まずは家でコンドームを手にして「嫌だ!」というんだけど、まず、どっからコンドームを手に入れたのか? さらに、男友だちを連れていくのはいいけれど、なぜ身を売ってまで少年の父親を見つけようとするのか? フツーしないだろ。説得力なし。それと、最終的に由紀は、誰から少年の父親の居所を聞いたのだ?
・由紀は、男友だちと突堤を歩いていて、突然、海に飛び込む。意味不明。さのすぐ後に、乾いた制服で電車のホームにいる。ありえねえだろ。
・病気の少年2人が、名前を逆にして由紀に教えていた理由はなんなんだ? ミスリードさせて、父親が実は、敦子がボランティアしていた介護施設の介護士だった、で分かる事実は、何があるんだ?
・かつて、由紀は祖母を殺そうとして失敗。そのせいで祖母に手の甲を傷付けられ、跡が今も残る。というエピソードがあるんだが、なぜに殺そうとしたのか。理由が分からない。というか、怖ろしい娘ではないか。そのことを追求しなくてよいのか?
・で、病院の少年、本物の昴の方は、やっと現れた父親を、刺す。なんで? バカじゃないのか、このガキ。父親は、痴漢の冤罪で女子校生に告発され、仕事も家庭も壊れているのに、それを恨むとはバカ息子だろ。
・で、由紀は見つかって祖母に「ごめん」といいつづけ、少年も父親に「ごめん」といいつづける、というアナロジーで由紀は耐えきれずに病室から逃げ出すんだけど、敦子も一緒に逃げて、そのうち開放されたようにへらへら笑ってるんだが。なにも解決してないだろ。
・由紀が、アナロジーに気づいたのは、このときなのか? それ以前は、祖母を殺そうとしたことの罪悪感がなかった? でも、少年たちに地獄とか因果応報とか説明していたけどね。
・だって、その裏では、由紀に援交を迫った、のかしらんオッサンが警察に捕まっていて、その娘が転校生で、由紀や敦子に接近してきた紫織で、紫織は敦子を仲間に引き込んで、痴漢冤罪をでっち上げてオッサンが金を巻き上げていた・・・という、めんどくさい関係だけど、それがどうした、だよなあ。な程度なのに、紫織は父親の逮捕を悲観して、なのか知らんけど、入水してしまったらしい。その紫織は、冒頭にも語られた、皆が平等に人生を歩めばいい的な文章を書いていたりするんだけど、その内容も紫織の日常とはかけ離れてるよなあ。よく分からん。
・介護施設で、デブの女子介護士を、他の女子介護士が、「似合ってない、あんなの」とかあざ笑うのは、なにを意味しているのだ? 女の陰気な脚の引っ張り?
・敦子はなぜいつまでも足を引きずった演技をしているのだ? なにが都合がいいんだ?
・学園祭というのに、人気がないの…。あの、テープを持ってぐるぐるまわるのは、どういう意味だ?
・由紀だったか、人が死ぬところを見たい、とかいってたけど。そのうち、そんな話もどこへやら。夏休みになってボランティア始めたら、由紀も敦子も怪しいところはこれっぽっちもなくなり、フツーの娘になっちゃってるんだが・・・。
以上、思いついたツッコミ、こんなにある。みんな意味不明だよ。
・川上麻衣子は、由紀の母親か。気づかなかった。銀粉蝶は、何役だったんだ?
ゴーギャン タヒチ、楽園への旅1/30ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/エドワール・ドゥリュック脚本/エドワール・ドゥリュック、Etienne Comar、Thomas Lilti、Sarah Kaminsky
フランス映画。原題は“Gauguin - Voyage de Tahiti”。allcinemaのあらすじは「1891年パリ。作品が売れずに画家として行き詰っていたゴーギャンは、新天地を求めてフランス領タヒチへと単身旅立つ。彼はそこで野性的な美少女テフラと出会う。彼女の自然の美に新たなインスピレーションを得たゴーギャンは作品制作に精力的に取り組んでいくのだったが…」
タヒチで呑気に絵描き三昧な生活かと思ったらさにあらず。貧乏生活の連続で、何か知らんが病魔に犯され死ぬか生きるか。なのに山奥へ行くんだけど、あれは、なんでかね。文明の匂いのしない何かを求めていった、のか? そういう説明や描写はなかったように思うんだが。で、意識を失って倒れちまって、気がついたら山奥の村人に助けられていて、ガキどもが絵の具をひり出して遊んでいるのに激怒して追いかけ回すって、アホか、な感じ。
飯を御馳走になってるとき、給仕をしてた娘をチラチラ見てたら、おっさんが「嫁を探しにきたのか?」いい、娘に「あの男に興味があるか?」と娘に聞いたら「ある」と応えて。それで嫁取り成立、って、そんな簡単に若い娘が手に入ったのか、19世紀末のタヒチは。それは天国かも。
しかし、あとから調べてみたら、このテフラが当時13歳で、2度目のタヒチ行きでも、タヒチとマルキーズ諸島で14の娘を嫁にしてるらしい。ゴーギャンは1848年生まれだから、テフラの時が43歳、2度目のタヒチ行きは1985年で、もう50近くじゃないか。ロリータか。ゴーギャンが少女好きという話は、知らなかったでござるよ。公式HPによるとテフラを演じたプア=タイ・イクティニは17歳らしいけど、見た目は20歳以上で、うーむ、な感じ。もし13歳の娘がキャスティングされてたらどうだったんだろな。
映画はまだ売れない頃の、最初のタヒチ生活2年間のあれやこれやで、調べたら1981〜1983年の話らしい。2度目のタヒチ行きは1985〜で、1901年にマルキーズ諸島に行き、1903年に当地で亡くなったらしいが、そのことには触れられていない。なので、中途半端な印象が否めないかな。
で、映画はひとつもドラマがないのでひたすら退屈。貧乏生活、テフラをモデルにスケッチとか、あるいは病気とか、だらだらと起伏なく連綿と追っていく。ドキュメンタリーでももっとドラマチックはあるぞ。せいぜいあるのは、隣の青年とテフラとの浮気疑惑ぐらいで、それを嫌ってコーギャンは嫌いだったはずの街場に引っ越すんだけど、部屋代のための肉体労働で身体を痛めて、知り合いの医師によって強制送還される、というところでオシマイ。なんだよ。な、拍子抜け。
どこまで事実でどれが創作か知らんけど、どうせならもっと創作して面白くしてくれた方が楽しめただろうに、な感じ。
・ゴーギャンが丸太に彫刻してるのを隣家の青年が真似するんだけど、その青年がつくるのはみな同じデザイン。問うと、「白人向け」という。それでゴーギャンが怒るんだけど、お土産品にまでゲージツを主張するかね、な感じ。その後、青年はお土産品の卸業を始めたみたいだけど、商才があるじゃないか。
・タヒチって、フランス領だったっけか。18世紀末に西洋人がやってきて、キリスト教が浸透。19世紀半ばにフランス領になってる。だから、フランスの観光地として文明もどんどん入ってたのか。そんなところに無垢な土人を求めても、得られるはずがないよな。そういう意味では、ゴーギャンも浅はかなのかもね。
・フランスには妻と5人の子供がいて、それを残してタヒチに行って「絵を描くぞ!」でも、妻から仕送りしてもらって絵の具とキャンバスを・・・って、ゲージツ家はワガママでござるな。

 
 

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