2018年3月

シェイプ・オブ・ウォーター3/5MOVIX亀有シアター10監督/ギレルモ・デル・トロ脚本/ギレルモ・デル・トロ、ヴァネッサ・テイラー
原題は“The Shape of Water”。allcinemaのあらすじは「1962年、アメリカ。口の利けない孤独な女性イライザは、政府の極秘研究所で掃除婦として働いていた。ある日彼女は、研究所の水槽に閉じ込められていた不思議な生きものと出会う。アマゾンの奥地で原住民に神と崇められていたという“彼”に心奪われ、人目を忍んで“彼”のもとへと通うようになる。やがて、ふたりが秘かに愛を育んでいく中、研究を主導する冷血で高圧的なエリート軍人ストリックランドは、ついに“彼”の生体解剖を実行に移そうとするのだったが…」
Twitterでの感想は「話の本筋はアレなんだけど、切ないロマンス部分にやられた感じ。伏線も効いてて、最後には「なるほど」。会話に込められた小ネタも豊か。60年代に『パンズ・ラビリンス』的あやかし世界を混ぜてるのも好きかも。」。アレというのはB級のことで、要はアマゾンの半魚人ものなんだよね。昔からあるチープなSFもので、そういえはイーストウッドが映画デビューしたのも『半魚人の逆襲』という映画だった。つくりは丁寧で、あれこれ小綺麗にまとめているから破綻もなくて、欲をいえばそこが物足りないと言えなくもない。のであるが、本日発表のアカデミー賞では作品賞、監督賞、音楽賞、美術賞を獲得したのだった。
というわけでアカデミー賞発表当日に見に行った。いずれギンレイにかかるとは思うけれど、まあいいか。
評価としては星3.5かなと思っていたんだけど、ラストの盛り上がりと「なるほど」な納得感がプラスされて星5つな感じ。中盤から後半にかけて、が少しダレる。まあ、研究所からまんまと連れだした半魚人がだんだん弱っていくとか、追求するストリックランド、ソ連のスパイとか、いまいち展開がありふれていて、ワクワクする感じではない。そう。なんたってこの映画、基本は“アマゾンの半魚人”なんだから。
見る前は、人魚かな、と思っていた。『スプラッシュ』みたいにね。ところが現れたのは硬いウロコというか皮膚に覆われた半魚人! なのにイライザは興味津々で、人を襲ったりと凶暴なのに積極的に近づいていく。半魚人の方も、抵抗なく受け入れて、交流が始まる・・・という流れで。それはそれで興味深い展開なんだけど、でも、なんで? という疑問がずっと底流にあった。のだけれど、それは、ラストシーンで明かされるイライザの秘密で「おお、なるほど」と、ちょっと感動した。まあ、感のいい人なら途中で感づいてたかも知れないけど、うまくやられた感じ。
まあ、ミスリードもあった。イライザは宇宙研究所の掃除夫で、歳も40凸凹。美人ではない。もちろん独り身。しかも、?。首に傷もある。さらに孤児院育ちで、毎朝、バスタブで自慰をしていくのが日課、という描かれ方をしている。つまりは、誰もつき合ってくれる男はいないのかな、と。だから、半魚人に・・・と。しかし、そういう背景は、すべてイライザの真実を隠す小細工だった。なんとイライザは、□□□だったのだから。見事にやられたよ。
話は単純で、アマゾンで捕獲された半魚人が研究所に連れてこられ、研究のためにあわや解剖・・・というタイミングでそれを阻止する者が2人。ひとりは、こっそり心を通わせ、手話で会話を成立させていたイライザ。もう1人は、ソ連のスパイで研究者のホフステトラー博士。互いに別々に行動していて、生体解剖される前日、イライザと家主(?)のジャイルズが逃がそうとしているタイミングでイライザたちの企みを知って助勢。まんまと半魚人をつれだすのに成功する。が、家のバスタブで半魚人は次第に弱っていく。雨が降ったら桟橋から運河に逃がそうとしていたけれど、ストリックランドの追求でホフステトラー博士が口を割り、さらにイライザの計画を察知して・・・でラストへ。という、まあ、ありきたりなストーリー。
これにミステリアスなロマンスが加味されていて、それが実に儚く描かれているので、イライザと半魚人とに感情移入してしまう。
なぜにこうイライザは半魚人にやさしく対するのか? だけではなく、なんとセックスまでしてしまう。そのことを、同僚のゼルダに話しちゃったり! 自分の部屋を水道水で満たして抱き合ったり、もの悲しくバスの車窓から外を眺めたり、そして、最後は半魚人がイライザを抱いて運河の中へドボン。で、イライザの首の傷が□□□であることが分かって膝を打つ。そうなのか!
まあ、イライザの不憫さがあってこそ感動ストーリーで終われるんだろうけどね。
・イライザの部屋は、ジャイルズの部屋の奥にある、のか? ジャイルズが大家? 建物の1階は映画館、というのも話が膨らむ。
・ジャイルズが見ているテレビ番組。『ミスター・エド』だけ分かった。下の映画館で上映されていたのは、なんだろう?
・ジャイルズは商業画家で、でも写真が主流になりつつある時代にあって会社を追われたらしい。かつての社の上司から仕事をもらっているけれど、細々、な感じ。数匹の猫を飼っている、のだけれど、背景に見える程度、という描き方がいい感じ。で、この猫も伏線になってるんだよね、ははは。半魚人に食われたりして。
・そのシャイルズは、ゲイのようだ。好きな男性がチェーン店のパイ屋の店員で、会いたさに、イライザを連れてしょっちゅう出かける、というエピソードが哀しい。しかし、シャイルズがゲイだから、イライザも一緒に住んでいられるのだな。
・会話がけっこう面白くて。イライザがコーンフレークを食べていると「コーンフレークは自慰をやめさせるために開発されたんだ」とかいうようなことを言い、イライザがドキッとしたり、というのも面白い。これ、イライザが毎朝の浴槽でのオナニーしてるから、なんだけど。ゼルダがイライザに「うちの亭主は話さない。屁だけはでかい。絶倫だから結婚したのにこのところご無沙汰」とか言ったり。
・ストリックランドは、どういう存在なのか、よく分からず。自分では「警備員」といっていたけど、研究所で働く博士連中を顎で使っている。そもそも半魚人を捕獲したのが誰で、ストリックランドとはどういう関係で、とかがよく分からない。彼の上司である元帥とは朝鮮戦争で知り合い、手足となって仕えてきたようだけど。まあ、それでも、すべて暴力で何とかなる的な人物なのか。ホフステトラー博士が「あれは意思疎通ができる。生体解剖はやめてくれ」と直訴しに来たとき「朝鮮人やロシア人も殺していい存在だ」なんていってたし。でも、自宅には妻と2人の小学生ぐらいの子供がいる、いいパパなんだよね。妻とのセックスシーンもあるんだけど、なんとボカシが入っていた。ボカシなんて久しぶりに見たよ。
・突然のミュージカル(白黒になったりする)シーンは、イライザの心の願い、なのか。このあたりは、実をいうと、少し飽きてきていた。
・塩分7%とかいってたように思うんだけど水道水で部屋を満たしたり・・・。しかし、ポタポタ漏れるぐらいはいいけど、部屋の水がドバって流れ出した後、映画館はどうなったんだろね。
・アマゾンで捕獲されて塩水が必要? あの桟橋が9メートル云々は、そうなると水位が上がって運河部分に海水が混ざるから逃げやすいとか言うことか?
・ジャイルズがうとうとしている間に半魚人が部屋をうろつき、猫を食ってしまう場面が少し笑える。まあ、そうだろうな。エサに見えるよな、と。このとき、半魚人はジャイルズにケガをさせてしまうんだけど、その後、猫は食ってはいけないもの、と理解したのかな。半魚人がジャイルズの頭に手を当て、腕のケガもさっとなでる。で、翌日、ジャイルズの頭に毛が生えていて、腕の傷もなくなっている! やはり、半魚人はアマゾンで神と崇められる存在? というミステリアスなものとして描かれておった。元ネタのアマゾンの半魚人ではどうなのかね。
・半魚人がストリックランドに刃向かったのか、彼がケガをする場面。掃除の2人が呼ばれるんだが、血液を洗うのに先ず水をぶちまけるんだよね。それって汚れを広げるだけだよなあ。と、そのとき、千切れた指を2本見つけるんだが。その後、とりあえず腱を縫い付けたらしいが、次第に腐ってくる。という経緯は、何を象徴しているのかね。
・で。ラストで、なるほど、イライザの首の傷はエラだったのか! つまりイライザはもともと半魚人の血を引いて生まれ、捨てられ、孤児院暮らしだった、のかも。だから、研究所に半魚人がやってきたときに自然と反応し、怖がらず、セックスまで・・・なんだろうな、と気づかせてくれて、ちょっと感動。
・ラストの方で、海水に青海波が重なって見えていたのは、監督の日本趣味なのかな。
・この映画は、世の中から迫害される人、毛嫌いされるような人たちをもってきて、その偏見を和らげようとする意図が見える。まあ、話は分かりやすい。分かりやすさというと、ストリックランドがホフステトラー博士からの情報でイライザの家に行くが、もぬけの殻。ふと見ると、カレンダーに「雨、桟橋」というメモ書き! というのがあつて。それはあまりにやり過ぎだろ、と思ったんだけど。でもB級映画ではよくある手法だから、それはそれでいいのかな、と。
ブラックパンサー3/12109シネマズ木場シアター7監督/ライアン・クーグラー脚本/ライアン・クーグラー、ジョー・ロバート・コール
原題は“Black Panther”。allcinemaのあらすじは「アフリカの秘境に隠れるように存在している超文明国ワカンダ。国王の突然の死を受け、息子のティ・チャラが急遽王位を継ぐことに。しかしワカンダの国王はある重要な使命を帯びていた。それは、世界を崩壊させるパワーを秘めた希少鉱石“ヴィブラニウム”というワカンダ最大の秘密を守ること。そのためには戦いの儀式に挑み、ヒーロー“ブラックパンサー”の称号も勝ち取らねばならなかった。こうして心の準備のないままに国王とヒーローという2つの重責を担うことになったティ・チャラ。戸惑いながらも持ち前の正義感で、自らに課された使命に応えるべく奮闘していく。そんな中、恐るべき野望を秘めた元アメリカの秘密工作員エリック・キルモンガーがワカンダの秘密を知り、武器商人のクロウと組んでヴィブラニウムを手に入れようと暗躍を始めるのだったが…」
Twitterへの書き込みは「つまらない。資源や技術を隠し持たず提供とか難民受け入れとか国際貢献話はとってつけた感じ。そんなんで格差はなくならんし、紛争の根元は宗教。そして人の欲望だ。本筋の方はありきたりすぎて眠くなったよ。」
冒頭で人類の起源見たいのががさつに語られて、5つだったかの部族に分かれて争ったけど、ある部族は争いを避けて山に籠もった、だっけか? で、争いがつづく間にワカンダはヴィブラニウムのおかげで文明が発達し、でもそれはひた隠しにしてた、とかなんとかだったかな。で、つづいてニューヨークだったかな(オークランドらしい)。黒人チンピラ2人がヤクがどうの騒いでいた(んだっけかな?)ら円盤がやってきて、やってきたのは片割れの兄だったのか。が、なんか違反したとかで殺されちゃうんだったか。どんな悪事を働いたか、よく聞いてなかった。で、現在のワカンダ。その兄の息子ティ・チャラがブラックパンサーに就任する儀式で、待った、をかけた男がいて、戦うんだけどティ・チャラが勝ってブラックパンサーに。というのと並行して、ある黒人がどっかの博物館からヴィブラニウム製の斧を盗み出すのは、クロウっていう白人と組んでのことだったけかな。でまあ、しだいに分かってくるのが、ある黒人はキルモンガーといって、殺された弟の息子で、父の仇と王位をねらっていた、と。クロウは武器商人らしい。なななんと、要するに君主制国家での王位をめぐる親族対立なのか。神話的な話ともいえるけれど、たんなるお家騒動。むしろ、北朝鮮を連想したぞ。ブラックパンサーも、とくに正義の味方的ヒーロー振りを発揮することなく、いまいち肩すかし。
で思ったのは、話のつくりが『スター・ウォーズ』に似てるな。ということ。王位は、ちょっと待った的な儀式はあるようだけど、基本的に世襲。その王位すなわち権力をめぐって王族が仲間割れして戦う。そこに、ティ・チャラの妹とか、元カノのナキアがからんで、なんてのもどこか似てる。もちろん、一般市民がほとんど登場しない、というのもだ。
なので、途中で眠りに入りそうになってしまった。かろうじて目は開いていたけどね。まあ、弟が何を企んでいたのか、についてよく把握しないまま見てたのも悪いだろうけど、話としては小さすぎて、つまらなかった。この映画がアメリカで大ヒット、しかも、白人客も詰めかけている、というのが信じられない感じ。だって、どこも新しくないのだもの。
まあ、現代風なテーマもチラリと見えはする。ヴィブラニウムを独占してないで世界のために活用しようとか、難民を受け入れよう、とかいうことだ。でも、大半は言葉だけで添え物的。本筋とはほとんど関係ない。そんなんでウケを狙うのは姑息だよな。
最後はどうなったんだっけか。ティ・チャラに「俺にも王位継承権が」とキルモンガーが主張して戦い、キルモンガーが勝って王家とブラックパンサーを継承。ブラックパンサーになるのに必要なハーブを燃やすよう配下に命じて、権力の独占を図ったんだっけか。妹たちが反乱軍を組織して山の方へ逃げていったら、最初の方で「ちょっと待った」宣言して負けた部族にティ・チャラが救われていたことが分かり、残っていたハーブを使って死の淵から復活させた、んだっけか。で、キルモンガーのダークなブラックパンサー&キルモンガー勢(といっても、元はティ・チャラの配下だけど)と、ティ・チャラのブラックパンサーが戦って、こちらが勝利したんだ、よな。どうやって勝ったかまでは、もう覚えてない。というか、どうでも良くなっていたし。
・むしろキルモンガーに肩入れしたくなるようなお話しで、うーむ、な感じなんだけどね。
・↑のあらすじにヴィブラニウムは「世界を崩壊させるパワーを秘めた」とあるけど、そんな説明はあったか? というか、そもそもヴィブラニウムはどういう力があるのかさっぱり分からず。で、ヴィブラニウムは隕石(?)らしいけど、では有限なのか? あるいは、合成できるのか? 加工は? そうした知識やノウハウは、どうやってきたのか、などなど。
・ティ・チャラの父親(兄の方ね)は国連みたいなところで爆殺されたんだけど、誰が何の目的で実行したのだ?
・CIAのロスは、どういう役回りなんだ? よく分からず。
・父を殺された弟は、なぜにクロウと組んで博物館からヴィブラニウムを盗んだんだ? ひとりでできるだろうに。
・取り引きの場面は釜山なんだけど、意味あるのか?
・ブラックパンサーのパワーとか特権とは何なんだ? どこがどうヒーローなんだ?
・ブラックパンサーのパワーは、要はハーブ(麻薬?)の力なんだろ?
・最後、ワカンダが国連みたいなところで「国際貢献を」と言うのに対して、他国代表が「何が貢献なんだ?」みたいなことをつぶやいていた。ヴィブラニウムが物質的に、医学的に貢献するのは描かれてるけど、でも、物質的豊かさが仕合わせ、という考えには違和感があるな。健康に貢献というのも、みな長生きになったら世の中困ることだらけだぞ。
・映像的に、21世紀的SF世界と、ありふれたアフリカのバザー的な風景のギャップが甚だしい。まあ、ステレオタイプなアフリカイメージが必要だったからなんだろうけど、市民はどんなところに暮らし、ヴィブラニウムのもたらす便利をどう享受しているのだ? その辺りがまったく描かれていない。
・でそのアフリカ的な国家の顔から、ハイテクの実像世界へは、どうゃって出入りするの? はたまた、航空写真で分かっちゃうじゃ亡いか、とか、ツッコミどころはたくさん。 ・クレジットの後だったか。妹が白人と一緒にいる。次回への伏線か(※あれはキャプテン・アメリカの人らしい。ふーん)。次はアベンジャーズで、なんていう字幕もでてたけど、うーむ、な感じだった。やっぱりMARVEL原作の話は、生理的に合わない。
・バスケットして遊んでた小さな少年は、キルモンガーだったらしい。そういえば部屋で父親の死骸を見る場面があったかな。ぼーっと見てたよ。ははは。
グレイテスト・ショーマン3/13109シネマズ木場シアター3監督/マイケル・グレイシー脚本/ジェニー・ビックス、ビル・コンドン
原題は“The Greatest Showman”。allcinemaのあらすじは「19世紀半ばのアメリカ。貧しい少年時代を過ごしたP・T・バーナムは、幼なじみのお嬢様チャリティとの身分違いの恋を実らせ結婚する。そして愛する家族のために成功を追い求め、挑戦と失敗を繰り返した末、ついに前代未聞のショーをつくりあげ、大衆の心を掴むことに成功する。しかし、そのあまりにも型破りなショーに上流階級の人々は眉をひそめるばかり。そこで英国で成功を収めた上流階級出身の若き興行師フィリップを口説き、パートナーとして迎えるバーナムだったが…」
Twitterには「じわり感動できる話だった。実際はハッタリ興行師だと思うんだが、美談に仕立て上げるため一部ミュージカルしたのは成功してる感じ。サーカスはフリークスの見世物から。亀井俊介の『サーカスが来た!』でも読み直そうかしら。」
先入観で、ショーを題材にした浮かれ調子の中味のない話かと思い込んでいて。ところがフリークショーだということを耳に挟んで見に行ったんだが、なるほど、な感じ。アカデミー賞などには歌曲賞でしかノミネートされていないけど、物語ももっと評価されていい感じ。というか、現代において正面からフリークスたちを見せる映画に、驚き、感動し、目頭が熱くなる。問題がありそうだから触れない、というのは逃げだし良くない。この映画の姿勢は、これからもあって欲しいものだ。
最後の方で分かるんだけど、たんなる見世物興行から始まったバーナムのショーが、建築物の中でのものからテント興行へと移行し、要するに現代サーカスのカタチをつくったものだったのだ、と分かるくだりがあって、なるほど感が高揚した。あとは、見世物の対象でしかなかったフリークスたちの結束力。“This Is Me”と唄われる神々しさはなかなかの感動ものだったりする。
それで思い出したのが亀井俊介の『サーカスが来た!』なんだけど、本は既に売ってしまってない。書いてあった内容も覚えていない。だからか、激しく読みたい心が湧いてくる。
もちろん映画は、興行師本来のうさん臭さは取り除き、綺麗事にしている感は否めないのだけれど、それはそれでよいではないか。歴史的事実から、語るべき部分を引きだしてメッセージを織りなせば良いのだから。登場するフリークスたちも、映画のような扱いはされていなかったと思う。バーナムも、すべては金のため、だったに違いない。でもいいんだよ。
Wikipediaを見ても、その経歴は映画とはほとんど違っている。まあ、登場するフリークスや、ヴィクトリア女王に謁見したのは事実らしいけど、家族のこと、あと共同興行主となったカーライルについての記述はないので創作だろう。まあ、映画だからそれでいい。とくにこの映画に関しては。
で、思ったのは映画『フリークス』で。あそこに登場する人々とどれぐらい重なるのかなと。
Wikipediaによるとバーナムが博物館を買い取ったのは1842年で、あの時代にフリークスたちが“This Is Me”と言ったという話にはムリがある。のだけれど、それを不自然に見せなくしている。それはやはりミュージカル的な手法をところどころに挟み込んだり、歌でメッセージを伝えているところにあるんだと思う。あれをドラマでやっても、なかなか難しいと思う。
あとは、カーライルとサーカス芸人アン・ウィーラーとの恋物語かな。これまたアン・ウィーラー役のゼンデイヤが素朴にかわいらしくて感情移入してしまう。とはいっても、いろいろあるんだけどね。たとえばカーライルって、聞いたことがある名前だけど、あの有名人? そういう劇作家がいたっけかな? でも、映画のカーライルはサーカス人生を送る、で終わってるぞ? ど調べたら、知っていたカーライルはイギリスの歴史家で別人だ。さそして、アン・ウィーラーは黒人との混血なのか、でも、フリークスではないよな。カーライルの父親に「メイド風情と」と言われていた程度で、異形の人ではない。黒人系でサーカス芸人だと差別的な目で見られた、ということなのか。まあ、カーライルとヒゲ女との恋物語はムリだと思うけど、いまいち、やりやすい手で見せてきたな、な感じがしないでもない。しかたないとは思うけど。
それと、バーナムの妻との出会い(デキ過ぎ)、子供たちも含めた家族愛もつくりものだと思うけれど、この定番を見せてしまえるのも、ミュージカル的演出のおかげだろう。
興行主として成功したのはいいけど、フリークス=サーカスだけではなく、どこかで正統な興行主として評価されたいという思いがあるバーナム。興行は大成功で、フリークスたちをステージの隅の立ち席に招いたけれど、上流階級の人々を集めた歓迎パーティには呼ばない、というあたりの描き方も興味深い。まあ、バーナムとしても立場上、難しいよなあ。とは思うけれど。でまあ、そこにヒゲ女が先頭になり、“This Is Me”を歌いながら突入する。とはいえその後、バーナムの興行を快く思わない貧乏人たちによって博物館が放火され、途方に暮れるのではあるが。この、バーナムの興行を憎む連中の大半が貧乏人という設定も興味深い。フツーなら同じ被差別者なのだけれど、連帯はしない。妬みそねみが含まれているということなのかね。人権派とか、厳格な教育者とか、そういう連中が反対運動をしなかったのかな、というところは気になるところ。
ザ・シークレットマン3/15ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ピーター・ランデズマン脚本/ピーター・ランデズマン
原題は“Mark Felt: The Man Who Brought Down the White House”。allcinemaのあらすじは「1972年、長年FBIに君臨してきたフーバー長官が亡くなると、長官代理にはニクソン大統領に近い司法次官のパトリック・グレイが異例の抜擢で就任する。自他共に次期長官と目されていた副長官のマーク・フェルトは大きな失望を味わう。そんな中、ワシントンDCの民主党本部に盗聴器を仕掛けようとした男たちが逮捕される事件が発生する。捜査に当たったフェルトはすぐにホワイトハウスの関与に気づくが、先手を打つようにホワイトハウスもグレイ長官代理を通じて捜査に圧力をかけてくる。これに反発するフェルトは、世論を追い風にニクソン大統領に迫るべく、マスコミに捜査情報をリークし始めるのだったが…」
Twitterへの投稿は「いまいち盛り上がれなかったのはネタ元をよく知らないせいなのか。あまりにダイジェストすぎるのか。『大統領の陰謀』と併映なら少しは理解が進むのかね。」。
『大統領の陰謀』が新聞記者側からのウォーターゲートだとすると、これは、彼らに情報を提供したFBI副長官を主人公にしてのお話ということになるのかな。しかし、『大統領の陰謀』なんてはるか昔に見たので覚えてないし、ウォーターゲート事件についてもアバウトにしか知らない。という状況でこの映画の内容では、どこで驚きやサスペンスを感じていいのか、よくわからない、というのが正直なところ。事件に関する人物(つまり、FBI捜査官とか新聞記者とか大半の人々)は記号的にしか登場しなくて、人間ドラマになっていない。人間として描かれているのは主人公のフェルト、その妻ぐらい。司法局からFBI副長官としてやってきたグレイ、FBIの汚れ役を担当してきたサリバンも多少は生身の人間を感じるけど、それ以上ではない。なので、駒を並べたあらすじを見ているような気がして、いまいちドラマチックじゃないのだ。
時間の経緯も、よく分からない。グレイは「48時間やる」とフェルトにいったけれど、その期限はいつ切れたんだ? とか、その後の経緯など、いまいちよく分からない。ラスト近くでフェルトがFBIを辞めるのも、経緯も分からないし、時期も分からない。あらゆる意味で隔靴掻痒な感じ。
そりゃあアバウトに事件の経緯は分かるよ。でも、ぜんぜん話にのれないし、ワクワクもドキドキもしないんだからしょうがない。事件をよく知らない観客にも分かるように見せてもらえないとなあ。
あと、アェルトの娘が家出していて、どこかのコミューンにいるかもとか過激派として行動しているかも、とかいう話は、この手の話に人情味を与えるためによくある手だけど、妙に妻との関係とか目立ってしまって邪魔くさい。妻や娘こそ記号的でいいような気がするぞ。
・審問会かでなんかでグレイがあっさりと「大統領」とゲロってしまうのは、現在の日本の安倍政権下で発生した財務省公文書偽造事件と比べると、潔いな、と思ってしまった。
・事件が起こった当時は、フーバー長官がまだ在籍していて、亡くなったばかり、だったんだな。へー。そんな長くFBI長官だったのか。
・ベトナム戦争中であるのが何度も強調されているのが印象的。あー、そうだったんだな、と。
ちはやふる -結び-3/19ヒューマントラストシネマ渋谷THEATER1監督/小泉徳宏脚本/小泉徳宏
allcinemaのあらすじは「離ればなれになってしまった幼なじみの新にもう一度会いたいと願う千早が、もう一人の幼なじみ・太一を巻き込み創設した瑞沢高校かるた部。史上最年少クイーン若宮詩暢と千早の激闘から早2年が経ち、新入部員に振り回されながらも、最後の全国大会目指して奮闘する瑞沢かるた部の面々だったが、予選を前に太一のある決断が千早を激しく動揺させる。一方、これまで団体戦に興味を示してこなかった新は、千早への思いを胸に、ついに団体戦への出場を決意するのだったが…」
Twitterへは「上・下の句から丸2年なので人物に見覚えがあっても経緯はもうあやふや。対戦場面は変わり映えしないし札の並べ方に至ってはちんぷんかんぷん。いまいち緊迫感が伝わらず。飽きずに見たけど、肝心の部分はラストのぶら下がりでさらりかよ。」
公開日は、『上の句』が2016年3月19日、『下の句』は2016年4月29日。で、この『結び』が2018年3月17日。2年開くと、人物に見覚えがあっても経緯は結構忘れていて。冒頭のクイーン戦、名人戦は、どこからどこにつながるのか、よく分からないまま見てた。
部員の中で「?」だったのは真島太一で、それはないだろう、と言われそうだけどそうだったのだ。新の存在ははっきり残っているのに、太一が希薄。そして、3人の恋の関係性もあやふやで、もっと頭に入っていれば楽しめたかな。他の3人の部員ははっきり分かる。
あと「?」だったのは若宮詩暢で、存在は残ってるけどどんな位置づけだったのかがあやふや。どの高校で、過去にどういう接点があって、いまは・・・が曖昧なまま。だから、この映画の冒頭のクイーン戦も、流れの中でどこにあたるのかが、よく分からないまま。
なので、コアとなる3人、現行部員の残り3人、若宮詩暢、あと北央学園、あたりのキャラのおさらいが冒頭に欲しいよな。それがあったら、もっとなるほど感があったと思うぞ。
それと。周防という東大の講師? は、この「結び」で初登場? 調べたらそのようだけど、登場が唐突すぎて準備不足な感じがありすぎ。太一は、その周防がいる東大のかるた部みたいなところに行って修練したり周防に学んだりするんだけど、これまた関わりとか関連が唐突で。そりゃまあ原作漫画見てる人には問題ないだろうけど、初見の観客には不親切。このあたりちゃんと段取り踏んで欲しいところだな。
というわけで、今回は高校3年、最後の地区大会→全国大会の模様が中心で。入試がプレッシャーで迷いが生じた太一が退部、なのか。大会に参加せず。の代わり、できる新入部員が加わって、地区予選はかろうじて突破。全国大会では、地区予選で苦杯をなめた北央学園には勝利し、新のいる高校と対戦し、復活した太一 vs 新の勝負は太一の勝利、だったよな。たしか。で、新の千早への告白話は結局うやむやで。千早のクイーン戦は省略。ぶらさがりのように数年後のイメージで、顧問に就任した千早がどうたらということになって、字幕だったかナレーションだったかで、千早がクイーン戦に勝利したことが知らされるという拍子抜け。なんだよ。
で、かるたの対戦シーンは上の句下の句以上にはなっていないし、見どころはなし。地区予選や全国大会の経緯も、まあそうなるだろうな的な流れで意外性はなし。いったん戦線離脱した太一が戻って本選で勝利という流れは、これまたよくあるシナリオ。なので、話は周防と太一の師弟関係、若宮詩暢、新の千早への告白の結末は・・・が関心部分なんだけど、どれも肩すかしな感じ。とくに若宮詩暢はコメディ担当で、かるた部門での本領発揮はなし。なんだかな。
てな感じでツッコミどころだらけなんだけど、まあ、フツーに見てつまらなくないし。成長物語は太一と、すこし自信過剰な新入部員が担当し。神秘的な存在部門は周防が担当。千早がきゃあきゃあ言っているうちに話は終わってしまうので、寝てしまうようなことはなかった。
で、気になるのは、太一は東大に入ったの? あと、その他部員の駒野くんは、これまた東大に行ったの? というか、太一はかるたと勉学の両立に悩んでたけど、駒野くんは悩まなかったのか? てなことが気になったかな。
あとは、欲をいうなら、新の高校の部員がほとんどフィーチャーされてないことかな。唯一、新に恋して「つき合って」というんだけど「嫌だ」と即答されつづけるだけで、彼女のかるたの腕前は、準クイーンらしいけど見せ場がないのももったいない。
素敵なダイナマイトスキャンダル3/20テアトル新宿監督/冨永昌敬脚本/冨永昌敬
allcinemaのあらすじは「少年時代に母親が隣家の息子とダイナマイトで心中するという衝撃的な体験をした末井昭。高校卒業後、工場に憧れて田舎を飛び出し大阪で就職するも、すぐに退社。その後上京し、キャバレーの看板描きなどの仕事を転々とし、やがてエロ雑誌の世界に足を踏み入れる。編集長として警察との攻防の末にエロ雑誌の創刊・廃刊を繰り返しながら、写真家の荒木さんをはじめ様々な才能との出会いを重ねていく末井だったが…」
Twitterへの投稿は「つくりがいささか素朴すぎる気がしないでもないけれど。『写真時代』のあった頃の空気感とともに、楽しませていただきました。」
『NEW SELF』は知らないけれど『ウィークエンドスーパー』『写真時代』は買っていた。もちろん原作の『素敵なダイナマイトスキャンダル』も読んでいる。『写真時代』に連載していた赤瀬川源平の1円で領収書をもらうとかトマソンとかアラーキーとか南伸坊とか、いろんなことを知って面白がっていた。『ウィークエンドスーパー』は1977年で『写真時代』は1981年か。スエーさんとは違うけど高杉弾の『HEAVEN』は1981年か・・・。はるか昔のことだ。『写真時代』は押し入れに積んでいたんだけど、あるとき会社の何人かが飲んで家にやってきて、なかの1人が夜中に寝ぼけて押し入れに小便をしてすっかりダメにしやがった。やれやれ。
『素敵なダイナマイトスキャンダル』の中味はすっかり忘れている。母親がダイナマイトで自殺したのだけ覚えている。だから、その経緯の部分を尾野真千子で少し神秘的に描くパートはともかく、末井昭の生い立ちと職を転々、エロ雑誌の創刊までは興味深く見た。工場労働者の時代は興味深かったし、看板屋から始まったデザイン業、そして、キャバレー看板、知人に誘われてエロいメディアの分野へ・・・という流れもとても興味深い。看板や時代には、青臭く芸術とか表現を語っていたのね、とか。
とはいえ、生い立ちを網羅的に描くために話に起伏がなくて、エピソードの積み重ねになっているのは、まあ仕方ないか。関心のある対象と話だから面白く見たけど、知らない人にはどう写るのか、興味があるところ。
周辺の文化人として登場するのは荒木経惟だけというのが、ちょっと・・・。源平さんとか南伸坊、その他、たくさんいるんだから少しずつでも登場させればいいのに・・・と思うのは、思い入れがあるからなのかしら。まあ、エロだけにしぼった方が話はつくりやすくて観客に理解させやすいんだろうけど・・・。
個人的な浮気話が結構露骨にでてきてるのも、ふーむ。なかでも笛子は末井からアタックして落としたけどすぐ別れたのかな。次に登場するのは精神病院で、さらには狂ったまま編集室に現れるという・・・。オソロシイ。で、『写真時代』で当たった頃から女遊びも金遣いも荒くなって、家で内職仕事で自販機本の写植張りですか。投資で数億の借金をつくったようなことは聞いていたけど、ホント、おかしくなってたんだな、と。ポケットから硬貨をバラまくように歩いていたりしたのは、狂気だよ。
その後のブランクはよく分からないけど、『パチンコ必勝ガイド』については、パチンコ屋での隣席のおばちゃんとの会話だけで。最後に『パチンコ必勝ガイド』のCMが流れて終わり、という締め方だった。まあ、エロじゃないから深追いしなかったのかも知れないけど。
あとは、嫁さんか。川崎に出稼ぎしてた父親のところに居づらくなって下宿し、下宿先の娘とデキちゃったのか。で、浮気はしても離婚はしなかった、のかね。子供はいないんだっけ? 知らんけど。ところで、下宿先にいた、頭に包帯の男はだれ? 彼も下宿人? いやその、風貌が父親そっくりなので、区別がつかなくてね。
・看板仲間の近松さんに母親の自爆のことを話したら、他の社員もそれを知るようになるというのは、近松さんがしゃべった、ということではないのか?
・母親のダイナマイト心中について、末井自身がどう思っているのか、というのは、結局、分からなかったような・・・。売り物にしてもいい、笑われてもいい、という感覚が、いまひとつなるほど感につながらず。
・アラーキー役の菊地成孔は、素で演じている感じかな。嫌だ嫌だというのを脱がせていく感じが面白いね。そういえば、ピンサロ勤めを嫌がっていた女性が、しばらくすると豪傑になっているのも楽しい。
・しっかし、キャバレー、ピンサロは、おまんこちんこまみれなのね。
・ピンサロで再会してエロ業界に引っ張り込んでくれた知り合いは、だれ? 看板屋にいたっけ?
・父親がテレビに登場、は、あれはなに? NHKののど自慢?
・本人は、キャバレー勤めしてたときに裸でペンキかぶって走り出したとき、すれ違った男として登場してた。他にもいろいろ関係者がいるのかと思ったら、いなさそうなのが残念。
・何度かでてくる「いい子いるよ」の爺さんは何を象徴しているのだろう。最後に、すれ違って爺さんが落とすのは、かつて末井が編集部員と選んでいた女性モデルの候補者のボラ、だよな。あれ。
・しかし、最初の看板屋の事務所は暗かったな。あんななのか?
・店長が移籍して、キャバレー看板を依頼された場面。二階屋に住んでるんだけど、奥さんは階下で他の人々と働いている、のはなんなんだ? 奥さんの職場の二階に住んでいたのか?
・しかし、写植、ソルベックス、ペーパーセメント、烏口。ん? ロットリングじゃないのか、あの時代はもう。
・しっかし、138分は長すぎる。後半ダレて尻すぼみだったし。過去に遡って母親の描写が何度もあって、あれもくどい。90分ぐらいから尿意で、我慢もこれが限度かでチラリとスマホ見たら12時30分で終映までまだあと25分。げ。なんとか我慢したけど、最後の方は画面に集中できずであったよ。
・オープニングタイトルはカラフルな色の丸の動きで。60年代ハリウッドの洒落た映画みたいな感じだったのは、なんなんだ?
・最後の(映倫)マーク。下段の隅ではなく、画面のど真ん中というのが。ははは。
聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア3/22ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ヨルゴス・ランティモス脚本/ヨルゴス・ランティモス、エフティミス・フィリップ
イギリス/アイルランド映画。原題は“The Killing of a Sacred Deer”。allcinemaのあらすじは「美しい妻と2人の子どもと郊外の豪邸で満ち足りた生活を送る心臓外科医のスティーブン。彼には家族に内緒で定期的に会って、その成長を優しく見守る少年が一人いた。それはかつて彼が担当した手術で死なせてしまった患者の息子マーティン。ある日、そんな彼をスティーブンは家に招いて家族に紹介する。ところがこれを境に、スティーブンの子どもたちに説明不能な異変が起き始めるのだったが…」
Twitterへの投稿は「つまらないし分からない。宗教的or神話あたりが下敷きになってるのか知らんけど。どこにも、なるほど、がない。セリフ棒読みぎこちなく淡々とした演技で不穏な音楽が薄気味悪くて、それで? な感じ。」「実は、狐憑きの一家のお話に思えたんだけど。まあいいや。」
平穏な家族の中に鵺のような存在が介入して家族を不安に陥れ、家族ののつながりを引き裂いていく話。けれど、ほとんど現実味のない展開なので、心配も同情も共感もできず。半ばで、うとっ、としてしまった。娘のキムがマーティンとバイクに乗ってたあたりかな。気がついたら娘が歩けなくなってベッドにいた。寝たのは数分かも知れないが・・・。
冒頭からしばらくは、スティーブンの仕事場(病院)と家族の話がだらだらつづき、なかなかドラマになっていかない。印象的なのは、妻のアナがセックスを要求する場面で、半裸でベッドにしなをつくって横たわる、というところ。なんなんだ?
で、最初にスティーブンがマーティンと会うのはどっかの店だったか。飯を食わせてやってたのだったかな。その後、マーティンが病院にずかずかやってきて、でもスティーブは拒まない奇妙さ。スティーブンは同僚に「娘の同級生」なんて紹介してたから、そうなのか、と思っていたんだけど。しばらくしてマーティンが自宅までやってくるんだけど、娘のキムとは初対面らしく、なんなんだこれは? ともやもやしてたら、半ばでやっと正体が分かる。↑のあらすじのようにすぐ分かるわけではないので、とてももやもやがつづき、いやーな感じがずっとつづくのだ。音楽がまた、とてもいやらしくザワザワ感を盛り上げる。
正体が分かると話は簡単、かと思ったら、どーも話が現実離れしてくる。マーティンは、父親が死んだ原因がスティーブンにある、と静かに脅していて、でも、金品を要求しているようではない。何を要求しているのか、もよく分からない。せいぜい、寡婦となった母親とつきあってくれ、といっているような感じがあるぐらい。どうすればよいか、をスティーブンがマーティンに聞き出そうとしているような感じもない。マーティンの言いなりになって彼を家に連れてきて家族に紹介したりと、得体の知れない対応をしている。そのうち息子のボブが歩けなくなるんだけど、それはどうもマーティンの影響のようだ。けれど、それがマーティンの呪いであるとも怨念であるとも、よくわからない。
マーティンはスティーブンに、4人死ぬか、4人残すために1人殺す(?)みたいな話をしてたけど、正確には覚えていない。あれは、家族の誰かが犠牲になれ、と脅していたということか?
そんなことがあって、スティーブンは学校で教師に、キムとボブのどっちが優秀か? と聞いたりしている。あれは子供を1人残すとしたらどっちか、という心境になってしまっているということか。なんでそうなるの? だよな。
なんてやってるうち、というか、こちらがウトウトしている間に、娘のキムも歩けなくなってしまう。なんで? マーティンは呪術師か?
スティーブンもがんばってマーティンを自宅地下室に監禁して殴ったりするんだけど、どーも中途半端な感じ。マーティンをとことん痛めつけるとか殺してしまうとか、そういう具合には、なぜか話が進まない。ずっと怯え、うろたえ、ついにスティーブンは目隠しし、妻と2人の子供をテキトーに座らせて銃をぶっ放し、結果、ボブに命中。って、なんだよ、な感じ。
その後しばらくしてなのか、スティーブンと妻とキムが安食堂で食べているとマーティンがやってきて。入れ替わって、3人が店を出て行く、というようなところで話は終わっている。
で思うに。マーティンは果たして現実の存在なのか? もしかしたら家族が作り出した妄想ではないのか。もしかして、集団ヒステリーのような、狐憑きのような。そういう感じもしてしまうのだけれど、どうなのか。でも、スティーブンの同僚には見えているからなあ。
それに、ああいう脅され方をしたとき、人はスティーブンのような反応をするものなのか? たとえ手術のときに彼が飲酒していたからとしても、病院として対応したら、徹底して裁判で戦うのではないのかな、と。でもそうしないというのは、スティーブンが非を認めているということか。
いやそのまえに。マーティンは、手術時にスティーブンが飲酒していたことをどうやって知ったのだ? それに対して、どうして個人的な脅しで対応したのだ? 病院やスティーブンを訴え、保証金をせしめることをせずに。と思うと、この映画がすっかり絵空事に見えてきてしまう。まあ、だから途中で寝ちゃったんだけどね。
妻アナも事態を把握しておらず、飲酒の件ではスティーブンの同僚から聞き出すんだけど。そのために、同僚のチンコをクルマの中でマッサージしてやるという代償を求められるのだが。そんなことを聞き出すために、そこまでするか、と思うし。
全体がブキミな雰囲気になっているけれど、でも、マーティンの存在はフツーの大人しい青年で、鵺のような妖しいところもない。せいぜい、容貌が西洋人風でなく、ロシア人的な、少し東洋系が混じっているようなのが気になるところなんだけど、それは役者の問題だしなあ。
ところでタイトルの「聖なる鹿殺し」は、なにから来ているんだ? 調べたらギリシア悲劇の『アウリスのイピゲネイア』らしいけど、だからなに的な感じだぞ。
20センチュリー・ウーマン3/23キネカ大森2監督/マイク・ミルズ脚本/マイク・ミルズ
原題は“20th Century Women”。allcinemaのあらすじは「1979年、サンタバーバラ。シングルマザーのドロシアと母ひとり子ひとりの生活を送る15歳の少年ジェイミー。家には他に、子宮頸がんを患いニューヨークから地元に戻ってきたパンクな写真家アビーと元ヒッピーの便利屋ウィリアムが間借りしていた。さらにジェイミーの2つ上の幼なじみジュリーも夜な夜な彼の部屋にやってきては一緒のベッドで眠っていく。けれども決して体には触らせてくれない。そんな中、反抗期を迎えた息子のことがまるで理解できず、お手上げ状態になってしまったドロシア。そこで彼女は、アビーとジュリーに息子の教育係になってほしいと相談する。こうしてジェイミーは、強烈な個性を持つ3人の女性たちと15歳の特別な夏を過ごすことになるのだったが…」
Twitterへの投稿は「とくにドラマもなくだらだらエピソードの連続なので退屈もあるけどエル・ファニングながめて何とか乗りきった感じ。つまらなくはないけど、うーむ・・・。それにしても年上の女友だちが2人もベッドに潜り込んでくる15歳の少年って・・・。」
アカデミー賞脚本賞ノミネートで、ゴールデングローブも作品賞・女優賞(アネット・ベニング)にノミネート。評判はいいようだけど、そのよさがよく分からない。はっきりしたストーリーがあるわけでなし、人物のエピソードがつながっている感じで、その結果なにかがある、というわけでもない。最後は、それぞれの以後の経緯と、現在はどうしてる、が簡単に語られるだけ。たしかドロシアは亡くなって、その他はそれぞれに、別々に暮らしている、のだったかな。要は、そういう時代があった、というだけのことで、とくに成長物語があるわけでもなく、何かを克服したわけでもない。なので、途中で少し退屈して、うとっ、としてしまったよ。ブタ鼻のエル・ファニングはかわいいけど、たんにそれだけで。彼女のセックスフレンドも登場しない。あくまで中心はドロシアジェイミーなんだよね。
このジェイミーがうらやましい。だって、夜な夜な17歳で幼なじみのジュリーが窓から侵入し、ベッドをともにするのだ。といってもセックスはしてない。でも、15の少年のすぐ横に17歳の娘がいて、勃起しないはずがないだろ。どうしてるんだ? というか、ジェイミーは喜んでいるのか迷惑なのか。いやもちろん後半でジェイミーはジュリーに告白し、「あんたとは近しすぎて対象ではない」とあっさり拒否されるんだけど、あれは生殺しだろ。
アピーは24歳ぐらいなのかな。彼女もジェイミーの部屋にやってきて、あるとき彼女もベッドの中に入ってくる。両側に17と24の娘が! って、おいおいな話だよな。妄想はなはだしくてもだえ死にしそうだ。
そのアビーはウィリアムとセックスするようになるんだけど、いきなりセックスじゃなく、シチュエーションを設定して小芝居の後に迫ってくれ、と要求したりして、これまたよく分からない娘だったりする。
で、母親のドロシア。亭主とは離婚してジェイミーを育てているらしいけど、ジュリーとアビーに息子の相談相手になってくれ、と頼むのもどうかしてないか? フツーなら、男友だちとどっかいって遊んでこい、ではないのか? いまいちこの映画の趣旨が分からないのだった。
ドリーム3/23キネカ大森2監督/セオドア・メルフィ脚本/アリソン・シュローダー、セオドア・メルフィ
原題は“Hidden Figures”。allcinemaのあらすじは「米ソ冷戦下の1960年代初頭。アメリカはソ連との熾烈な宇宙開発競争を繰り広げていた。そんな中、NASAのラングレー研究所には、優秀な頭脳を持つ黒人女性たちが計算手として働く“西計算グループ”という部署があった。ドロシー、キャサリン、メアリーはそこで働く仲良し3人組。ドロシーは西計算グループのまとめ役だったが、管理職への昇進は叶わないまま。エンジニアを目指すメアリーも、そのために学ぶ必要のあった大学は黒人に対して門を閉ざしていた。一方、幼い頃から類いまれな数学の才能を発揮してきたキャサリンは、その実力が認められ、ハリソン率いる宇宙特別研究本部に配属される。しかしそこは白人男性ばかりの職場で、黒人女性であるキャサリンを歓迎する雰囲気は微塵もなかった。それでも3人は、自分たちの力を信じて、国家的一大プロジェクトに貢献すべく奮闘していくのだったが…」
Twitterへの投稿は「バスやトイレに黒人用がフツーだった60年代に、実力でその存在価値を認めさせていった黒人女性たちの何とカッコいいことよ。「私は偏見はない」という女性上司に「偏見はないという思い込みでしょ」と切り返したり、見せ場もうまくできてる。お見事。」
久々にスッキリ! ま、テーマがはっきりしてるし、成長物語、というより障壁を打破して勝ち取っていく話でもあるので、とても感動的でもある。もちろん誇張や演出もあるだろうけど、60年代に黒人が置かれていた立場もしみじみとつたわってくるし、悪役と正義がはっきり描き分けられてもいるので、見ているこちらにも迷いがない。しかも、メッセージ性を娯楽映画としてしっかり成立させているのでトゲトゲしさもない。とても上手くできているところもいい。
キャサリンは、天賦の数学的才能を発揮して、東棟の計算部署に送られる。決定したのはドロシーで、彼女は管理することが得意みたい。そのドロシーは、管理職としての仕事をしているのに、正式には昇進させてもらっていない。のだけれど、しばらくしてIBMメインフレームが導入されても白人スタッフが使いこなせていないところを独学で学んで動かしてしまう。ITの知識はあったのかしら。で、メアリーはエンジニア的な才能はあるんだけど、黒人ゆえに十分に学ぶことができる環境になかったことで、NASAではエンジニアにはなれない、という矛盾の中にいる。
この、それぞれに、才能はあるけれど、黒人であるが故にその才能が生かされない、という状況にあることがバシバシつたわってくる描写で、見ているこちらも腹立たしくなってくるほど。だからといって声を荒げるのではなく、知識と実績で白人達に認めさせ、評価されていく様子が、これまたカッコよくてスッキリなのだ。
女性のパートナーに、当時の黒人男性の立場を割り振っているのも上手い感じ。たとえばメアリーの亭主は「権利は戦って勝ち取るもの」と思っている。一方キャサリンの新彼氏は軍人で大佐だったかな。こちらは組織の中で折り合いをつけつつ昇進していった感じか。だから、「女は・・・」と漏らして、いっときキャサリンから無視されている。そういえばドロシーの亭主はどんなだったっけ。あまり記憶にないな。
キャサリン自身は、公民権運動には積極的に介入しない立場みたい。子供を連れているとき騒動を目撃するけど、関わらないようにしていた。このあたりも、すべての黒人が公民権運動にかかわったのだ、というようなイメージをなんとなく回避していて興味深い。
白人男性では、仕事を手渡してくれる男が意地悪で、黒塗りデータをキャサリンに渡す。でも、その黒塗り部分を透かして数値を判断し、それまで「?」だった計算をシャカシャカやってのけてしまうところは、痛快無比。さらに、会議のたびに計算のやり直しになるので、「自分を会議に参加させてくれ」と言うんだけど、意地悪な白人職員は鼻から受け付けない。これをハリソンに直訴して、宇宙飛行士らの質問にも的確に応え、意地悪な職員の鼻を明かすところもカッコイイ。これでボスであるハリソンの信頼も勝ち取って、ちゃんとしたデータがもらえるようになるんだけど。あとから分かったのは、黒塗りもハリソンの指示だったのね。組織ぐるみ黒人には情報漏洩を心配し、でも、計算は頼るという矛盾。そのあたりがよく分からない。
差別という点では、バスやトイレで黒人用がまだあった時代なんだな。キャサリンが移ったオフィスに黒人用トイレがなく、元のオフィスのある西棟まで1キロ近く、だったかな、歩いていかなくちゃならないなんて、なんて不合理な。しかも、そのことについて、同僚の誰もハリソンに進言しない。雨でずぶ濡れのキャサリンが、ハリソンに「君はいつも席を外している」と責められ、声を荒げて訴えるところは、腹立たしさがつたわってくる。これを聞いて、ハリソンは「白人用」と書いているトイレのプレートを壊すんだけど、そういう差別が当たり前な時代は、差別を差別と認識していない人が大半だった、ということなんだろう。差別している白人に「なぜ?」と問うても、逆に「なにが?」と返されるぐらい当たり前だったのだな。同様に、オフィス内にあるコーヒーポットに、ある時点から「白人用」という紙が貼られたのも同様なんだろう。たぶん、同僚の白人たちは差別している感覚がないのではないか。そんな時代感がひしひしとつたわってきて、戦慄する。
他に、メアリーがエンジニアになろうとすると、なるために取得するべき単位を大学で取れていない、と退けられる。黒人の大学には、その手の科目がなかったからだ。それではと、その科目のある高校の授業を受けようとすると、黒人は入れない、という。八方塞がり。そもそも黒人がエンジニアになる、ということを想定していないからなのだ。それでもメアリーは裁判長に訴えて、なんとか高校の夜学に通うことが認められ、晴れてエンジニアになる。
みな、それまで他の黒人女性がなし得なかった実績を積み、新たな可能性を拓いている。その素晴らしさが感動的。
管理職が向いている、なドロシー。たまたまNASAにIBMメインフレームが導入されたけれど、白人スタッフはマニュアルを見ても上手く動かせず、ほったらかし。という状況を見て、人知れずマニュアルを熟読して動かしてしまう。驚く白人スタッフ。さらに凄いのは、ドロシーのところにいた事務職の女性たちにもメインフレームのオペレーションを教えていて、そっくりみんなコンピュータ室に異動することだ。メインフレームが稼働し始めたら、計算係はもう要らない、とお払い箱になることを回避してしまった。なんと。
そういえば、キャサリンはメインフレームが稼働し始めて、君はもう要らない、と言われてオフィスを去るんだけど。彼女もコンピュータ室に行ったのかね。それとも、数学的な能力を発揮したのか? どうなんだろ。
あと、宇宙飛行士たちがNASAにやってくるとき、ひとりジョン・グレンだけが黒人女性職員のところまでやってきて握手を求める姿がカッコイイ。白人職員は、黒人への挨拶なんていいから、みたいな感じで早く移動するよう促すんだけどね。
分かりにくかったのは、打ち上げの過程で。何度か打ち上げて失敗していたりするのは、衛星部分は積み込んでいるけど無人、なんだよね。で、どこまで飛ばす実験をしてたんだろう。軌道には乗せず、途中で切り離して落下させていたのか? それは何度ぐらいやって、どの域まで達成したからOKとか、いよいよ次は人間が乗って打ち上げ、とか、そのあたり。あと、グレンの計算を、とかいっていたけど、最初の衛星に乗り込んだからそう呼んでるんだろうけど、最初の衛星にグレンが乗ることに決まった、というようなこともはっきり描かれていないので、打ち上げまでに至る経緯が、ひしひしとは感じられないのが残念なところかな。
でもって、いよいよ打ち上げ。このとき、キャサリンは既に計算室から黒人用の西棟に移動していたんだけど、直前になって計算結果の再確認が必要になり、急遽お呼ばれ。で、ささっとやってのけて管制室にとどけると、ハリソンが管制室内に招き入れるところも感動的。
こうやって3人が、実力で白人たちに自分たちの必要性を認めさせていく様子は、ワクワクするほど。まあ、頭がいいからできることではあるんだけどね。こういう才能を活用しないから、アメリカは宇宙競争でロシアの後塵を拝したのかも知れないけど。
ところで、ドロシー、キャサリン、メアリーの3人が知り合ったのはいつで、どんな感じだったんだろう。ということが気になるのだが。
キャサリンにアプローチしてくる黒人の大佐だか大尉がいたけど。彼の部下に白人兵士はいるんだよな。そのあたりの、軍隊での黒人上官というのは、当時どんなだったのか、について知りたい気がする。
空海 - KU-KAI - 美しき王妃の謎3/27MOVIX亀有シアター2監督/陳凱歌脚本/陳凱歌、ワン・フイリン
原題は“妖猫傳”。英文タイトルは“Legend of the Demon Cat”。allcinemaのあらすじは「遣唐使として長安で密教の教えを学ぶ空海は、詩人の白楽天(のちの白居易)と出会い、次第に友情を深めていく。そんな中、空海は王朝を揺るがす怪事件に遭遇、白楽天とともに事件の真相解明に乗り出す。やがて調べを進めるうちに、かつて玄宗皇帝の寵愛を一身に受けた絶世の美女・楊貴妃にまつわる謎へと迫っていく空海と白楽天だったが…」
Twitterへは「化猫譚とは聞いていたが・・・。ホームズ物みたいな感じなのね。とはいえ中国俳優の顔も役名も区別がつかず、話もチャラチャラ、イメージ優先でよく分からず。途中2度ほど気を失った。染谷将太へらへら笑いすぎ、カメラぶん回しすぎ。」
↑の短い感想で言い尽くしてる感じ。もうちょっと空海フィーチャーのマジメな話かと思ったら、帰国を目前にした若き空海と白楽天のコンビが黒猫の呪いの秘密を追い、50年前の過去の出来事=玄宗皇帝・楊貴妃・阿倍仲麻呂・李白のいた時代の事実を解明し、現代で解決するという話だった。なので、空海と白楽天はホームズとワトソン的でもある。
のだけれど、最初に黒猫の被害に遭う役人、白楽天、玄宗皇帝あたりの顔の区別がつきにくく、さらに、50年前の幻術師の弟子の2人の区別や位置づけもよく分からず、その他の人物の役割もよく把握できないまま、びゅんびゅん動きまわってビジュアルもうねるような画面がつづくので、正直いってついていけず。そのうち飽きてきて、寝てしまう。いったん気づいてしばらく見ていたんだけど、いつのまにか2度目の気絶。身体は正直だ。映画がつまらないと、すぐに反応する。
だんだん分かる事実も、なんかよく分からない感じで。それは寝ていたせいもあるんだろうけど、それ以前に分かりにくく、上っ面だけちゃらちゃらしたつくりであることも影響しているんじゃないのかね。
でまあ、気になったところというと。
・最初に狙われた役人夫婦。なぜ猫は彼らを襲ったのだ? しかも、50年後に。他の時代に襲うべき相手はいないのか?
・後半。なんと、すべての答が亡阿倍仲麻呂の妻(かと思ったら側室なの?)がもっていた仲麻呂の巻物日記に書いてあったという拍子抜け!
・最後に門を叩いて入った青竜寺の住職は、街の幻術使いで、50年前の2人の若者の片割れ? にしては顔がつるんとしてて、分からんぞ。
・寝てたせいもあるんだろうけど、反乱とか、楊貴妃に魅せられた阿倍仲麻呂とか、位置づけがよく分からない。とくに、50年前の幻術使いの弟子の2人が楊貴妃に魅せられてしまっているのは、どういう訳なんだ?
・で、楊貴妃は生きてるの? 遺体は腐らずどこかにあるのか? それとも、ラスト近くの楊貴妃イメージは、あれも幻術? というか、猫に取り憑いていたのは幻術使いの弟子の2人のうちの片割れなんだよな。なんで?
とか、そんなレベルで疑問なのでした。まあ、寝たのが悪いんだけど。
15時17分、パリ行き3/29ヒューマントラストシネマ渋谷シアター監督/クリント・イーストウッド脚本/ドロシー・ブリスカル
原題は“The 15:17 to Paris”。allcinemaの解説は「2015年にフランスの高速鉄道で発生した銃乱射テロ事件で、犯人を勇敢に取り押さえて大惨事を阻止したアメリカ人青年3人の英雄的行為を映画化した実録ドラマ。幼なじみの若者アンソニー、アレク、スペンサーの3人が、旅行中に遭遇した無差別テロにいかにして果敢に立ち向かうことが出来たのか、その知られざる真実の物語を、彼らの子ども時代からの半生と、緊迫の事件のリアルかつ詳細な再現を通して明らかにしていく。また3人の主人公のほか、事件が起きた列車に偶然乗り合わせていた乗客たちの多くが本人役として本作に起用され、劇中で自らを演じるという前代未聞のキャスティングも話題に」
Twitterへは「やる気のなさがミエミエの手抜き映画。『インビクタス』みたいな頼まれ仕事なのか。だからなのか3人を結構アホに描いてる。1/3はイタリア観光映画で最後もニュース映像。本編94分だけど、15分ぐらいの短編で十分だろ。」
アレク:母子家庭。少年時はチビ。兵として中東へ。でも、アラブ人に盗まれたバッグを取りに戻るエピソードは、なんなんだ? 兵隊として注意不足もいいところだ。
スペンサー:母子家庭。少年時は小太り。デキの悪い兵士。奥行の認識が不合格で、救出が任務の兵士になれず、第2志望の任務も落第(縫い物がヘタすぎ)。で、負傷した兵士を救う任務? で、授業中に非常ベルが鳴り、校内で発砲の疑い、というとき、教師は「じっとしていろ」というのに、ボールペン握ってドアの横に構えて、命令を聞かない。これ、兵隊失格だろ。こんなの兵士にしたら、仲間が危険にさらされる可能性大だぞ。
アンソニー:黒人。少年時は生意気。職業不明。ちゃらちゃらネットで遊んでる感じ。
小学校は、みな転校して現在のキリスト教系のところに来たらしい。でもアンソニーは汚い言葉の濫用でしょっちゅう校長室へ。アンソニーと友だちになった2人も、それに習うように校長室の常連に。
そもそもアレクとスペンサーは担任に「落ち着きがない」。ADHDだったかな、といわれて。「将来的に薬を飲むことになるだろう」「男親と過ごすのが理想」といわれ、母親2人は激高して担任や校長に罵詈雑言浴びせている。そういう家庭。で、2人のうちぢっちだったかが、父親に引き取られていっている。
アレクとスペンサーはサバイバルゲームが好きで、学校でも迷彩服。アンソニーはそれを「イケてない」というけど、変えてなかったよな。スペンサーだったか、サバゲー用の銃をたくさん持ってて。母親はこんなんを買って与えているのか、な家庭。あと、部屋に『硫黄島からの手紙』『フルメタル・ジャケット』のポスターが張ってあった。後者はいいとして、なんで自分の映画のPRするんだよ、イーストウッドは。あと、スペンサーは生徒会長に立候補して落選し、不満を漏らしていたけど、人の上に立ちたい欲がみなぎってる感じかな。
な感じの少年時代で、いじめられっ子ではないけど、頭はあんまり良くない感じ。
というような子供時代は、果たして何のためなのか。事件後だったか、スペンサーが祈りを唱える場面があったけど、子供のときは決して信心深い訳でもなかった。それに、母親はともに、校長に罵声を浴びせるような案配で、とても信仰心が篤いようにも見えない。それが、どうして後半で信仰が? な疑問。
長じてアレクは、兵隊には数学は不要、な感じで。兵士のための学校なのか大学だったのか、教師にたしなめられておったな。アンソニーは、何してるのかよく分からん。仕事をしてるのか?
この映画ではスペンサーが立役者だから志願から兵役への経緯も細かに描かれてるけど、人の役に立ちたい気持ちが先に立ちすぎて上官の命令は無視するし、直情径行的な感じ。はっきりいってダメ兵士だ。
というポンコツ旧友3人組。スペンサーとアレクが休暇でヨーロッパ旅行をすることになり。スペンサーがアンソニーを誘って2人でイタリアへ。これがずっと観光映画のようで、あっちこっちで自撮りばっかしてる。夜に背徳ナイトツアーを申し込んだらしいけど・・・。昼間の観光はただのバカ兄ちゃん。スペンサーは「フランスに行く意味はあるのか?」なんて自問してたけど、バーで会った爺さんに「アムステルダムへ行きな」と言われ、そっちへ行くことにしたのかな。場面はいきなり深夜のディスコ風で、これが背徳ナイトツアーかと思ったら、それは端折ってもうアムステルダムらしい。ここでもうアレクがいるんだもん。
アレクは、大学時代(?)の女友だちと会ってからの合流。アレクの祖父はドイツ人らしく、むかし祖父が通った店に2人で入り・・・。で、何かあるのかと思ったら話はそれで終わりで、いきなりアムステルダムなんだよ。おいおい、な流れだ。
なかなかトイレから出てこない乗客を待つ男性2人。のところに上半身裸ででてきた犯人は当然ながらアラブ顔。犯人の顔をそれまでずっと見えないままにして、後半でアラブ人と分からせる。なんか、やらしい感じ。で、男性がひとり撃たれたんだったか。あたふたする車内。気づいた3人。スペンサーは、満を持してダッシュの構えで。2人のうちどちらかが「スペンサー、行け」っていってたよな。で、概ねスペンサーが格闘・組み伏せ担当で。の間に、スペンサーは首と手首をナイフで切られていた。痛っ! な感じ。のところにアレクがやってきて、犯人のマシンガンの銃把で犯人顔面をがつがつ叩いておった。それまでアンソニーは傍観? やっと席から離れて近づき、えーと、捕縛に参加、だったかな。
で、最後に勲章授与のニュース映像が流れるんだが。勲章は4人授与で、他にも何人か授与式に参加してる乗客がいて。え? な感じ。4人目のオッサンは何をしたんだ? 活躍したのは3人だけかと思っていたよ。そして、式に参加した乗客は、どういう基準で選ばれたのだ? とか、疑問が渦巻くのであった。
身体に多少障がいがあったり、頭の切れが良くなかったり、遊び人だったり、ごくごくフツーの兄ちゃんやオッサンでも、時と場合によってはヒーローになれる。ヒーローは完全無欠な人物ばかりじゃないのだ。ということを示そうとしているのかも知れないけど、この映画はムダな部分が多すぎ。ひどく退屈したのであった。
背徳ナイトツアーはどんなだったんだ? アレクは友人のドイツ女性と、なにもなかったの? 小学校の後、どうやって友人関係を保ちつづけたの? とか疑問だらけなのも、うーむ。
RAW〜少女のめざめ〜3/29新宿武蔵野館2監督/ジュリア・デュクルノー脚本/ジュリア・デュクルノー
フランス/ベルギー映画。原題は“RAW”。生肉かな。allcinemaのあらすじは「ベジタリアンとして育てられた16歳の少女ジュスティーヌは、姉のアレックスも通う獣医科大学に入学する。初めての寮生活で不安いっぱいの彼女を待っていたのは、上級生たちによる新入生を迎え入れるための過激な儀式の数々。そんなある日、ジュスティーヌは儀式の一環として、うさぎの生の腎臓を強制的に食べさせられてしまう。以来、なぜか肉体的にも精神的にも急激に変わっていく自分に戸惑い、原因も分からないまま混乱していくジュスティーヌだったが…」
Twitterへは「なかなかのザワザワ感で、いやーな気分も味わえた。で、よくあるアレの亜流かと思ったら、あっちの方なのか。ふーん。」
ヴァンパイアもの、という先入観で見ていた。たぶん映画館のHP解説の斜め読みと、少女の目覚め、という惹句のせいかも知れない。で、最後までそのつもりで見終えて。allcinemaの解説読んだら「人肉への渇望」と書いてあって、おお、ではカニバリズムの目覚めだったのか、と。そういえばジュスティーヌはもともとベジタリアンで、両親と食事中に、料理の中に肉片が混じっていたと大騒ぎしていたのが、医学部の入学儀式で鰻の生の肝臓をむりやり食べさせられ、次に学食でハンバーグを盗み、その後食欲旺盛になって夜中に冷蔵庫を開けたりするようになる。で、あるとき切断された姉の中指をちゅるちゅるすすっていたので、ヴァンパイアの始まりか、と思っていたのだけど、そういえば少し囓っておったな。さらに、酔っ払ったとき、姉に解剖用の遺体の手をエサのように差し出され、がぶりとしようとしている映像もあった。このあたりが、カニバリズムの開発の過程だったのか。とはいえ、最後、隣に寝ているアドリアンの毛布をはがしたら足が食われていて、でもそれはジュスティーヌの仕業ではなく、姉のアレックスのしたこと、のようだ。それがせいでアレックスは刑務所に入るのだが、では、ジュスティーヌの人肉欲求はどこまで進んだのか? それはよく分からない。
しかし、不穏な雰囲気は冒頭から発揮されていて。最初に、ふらふらと車道に出てクルマが大破、の場面。あれこれあってこの場面につながるのかと思ったらそんなこともなく、要は、人が食いたくてアレックスがときどきやっていたこと、のようだ。
で次に、ジュスティーヌと両親の食事で。どうやら彼女は大学へ“秀才”という触れ込みで入学するらしいのだが、それは獣医学部で、なんと姉アレックスや両親も同じ大学の獣医学部というのだから、妙だ。それはいいとして、新入生への儀式が強制的なもので、ああいう保守的なあれこれは生理的にやなので、見ていてうんざり、だった。まあ、監督にしてやられているんだが。それにしても、ああいうの、日本だけじゃなくてフランスあたりにもあるのか?
ジュスティーヌは先に入学しているアレックスがいろいろかばってくれるかと思いきや、さにあらず。鰻の生肝も、姉に無理強いされる。まあ、これも儀式かなと思っていたけど、姉との関係はつかず離れず? あるとき姉が「ムダ毛をなくせ」とジュスティーヌの股ぐらに薬剤を塗って剥がしていると、薬剤が剥がれずに大慌て。痛がるジュスティーヌが蹴飛ばして、なんとアレックスの指がチョッキン! 思わず笑ってしまったよ。で、ジュスティーヌは病院に電話するんだけど、医者が来るまでに指に惹かれ、しゃぶり出すという・・・。
で、これで姉妹の仲が悪くなるかと思ったら、そうでもないのが不思議で。すでに述べたように、酔ったジュスティーヌに解剖用の遺体の腕をちらつかせ、ジュスティーヌは噛みつこうとする、という状態をビデオに撮られて同級生たちから妙な目で見られたりしているのは、なんなんだ、と。
さらに、姉妹で道路を歩いていて、アレックスがふらふら車道に出てクルマが樹木に激突。アレックスが乗客の頭の血をペロペロしたりと、次第に輪郭がつかめては来るんだけど、まだこちらは吸血鬼かなと思っていたわけで…。
でまあ、ジュスティーヌのルームメイトのゲイ、アドリアンをめぐる確執もあったのか、アレックスがアドリアンを食ってしまう。そういえば姉妹で喧嘩して、アレックスはジュスティーヌの頬肉を食いちぎってしまうんだったか。でも、食いたくて食ってる感じはしなかったんだよね。ところでアドリアンは、「俺はゲイだ。本気で女と寝たりしない」といったりして、なんでアドリアンをめぐって姉妹が喧嘩するのかよく分からない。
てな経緯でアレックスと刑務所で面会し終わったジュスティーヌが家に帰ると、父親が「大学時代は母さんと・・・」とシャツの胸をはだけたら、傷跡だらけ、というのは推測できはしたけれど。何か少しもやもやは残るよね。父親は「母さんを恨むな」といっていたけど、カニバリズムは母親系統で受け継がれてきた、ということなのか?
で、カニバリズムが開発されたジュスティーヌは、これからどうなるのか。それは描かれていないのだが、ううむな感じ。抑えているのかしら。
とかいう感じで、いやーな感じが蔓延していて。なかなかザワザワと見てしまった。細かなツッコミどころはあるけどね。
アレックスが事故を誘発して囓っていたのなら、人間なら誰でもいい、とも言える。でも両親の関係を見ると、愛している相手の肉体も囓りたい、のか。両親の例を見ると、殺さずに囓る、なのか? アレックスのアドリアンへの欲望などを見ると、愛しているが故に囓った、とも言えそうだけど。
根本的なことだけど、がつがつ食べるという感じではないのだよな、この映画。囓る程度、なんだよ。ほんとに食べたいのか、囓るぐらいでいいのか、その辺りが曖昧な感じ。
両親ともにカニバリズムなのか、母親がカニバリストで父親を囓りつつ夫婦生活? では父親はマゾなのか? 食われないよう妻と戦いながらバランスを保ってきたのか? とか気になる。
・事故した被害者が囓られてたら、死体を囓る誰か、が地元で話題になるんじゃないのかと思うんだが。そういうことはないのかね。
・ジュスティーヌとアドリアンが夜、街に遊びに行くとき、ブタを運ぶ運転手と話をするんだが。運転手はアドリアンの耳をいじりながらしゃべっておった。あれは、運転手もゲイだから?
・アレックスが指を失ったときの病院でだったか。向かいにいた入れ歯のジジイが気になった。なんの意味があるんだろう。
・ジュスティーヌが、教師から「神童は嫌いだ」と言われたりしているのが、なにか唐突感。神童に見えないし・・・。
BPM ビート・パー・ミニット3/30ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ロバン・カンピヨ脚本/ロバン・カンピヨ
原題は“120 battements par minute”。battementsは、ドキドキとか鼓動のことのようだ。allcinemaのあらすじは「90年代初めのパリではHIV/エイズの脅威に対し、ゲイや麻薬常習者の病気との間違った理解が広がり、政府や製薬会社もエイズ対策に真剣に向き合おうとはしていなかった。そうした社会の偏見や差別を打ち破るべくパリを拠点に活動をしていたのが市民団体の“ACT UP - Paris”。そこには感染者だけでなく、それぞれの事情や問題意識を抱えた様々な人々が集っていた。グループの中心的メンバーのショーンは、自身もHIV陽性という切実な現実を抱え、その抗議活動は次第に過激さを増していく。新たにメンバーに加わった青年ナタンは、そんなショーンと活動をともにしていくうち、いつしか互いに惹かれ合うようになるのだったが…」
Twitterへは「偏見はあるし区別もする立場なのだが、そういう人への理解が深まるような内容ではないと思う。あんな具合に喧嘩腰でやられちゃなあ。ゲイのセックスシーンや仲間の死も、冷ややかにしか見られなかったよ。」。
携帯も登場しないしミッテランの時代というので昔のことだろうと思って見ていたけれど。時代背景とかちゃんとでるわけでもないので、いまいちピンとこず。そもそもゲイに興味もないし、とくに共感も同情もしていないので。なので、なぜこの映画が評価されるのか、よく分からない。
おそらく時代の流れなんだろうと思う、LGBTという呼び方が一般的になったのは、ここ2、3年で、対する見方も変わった、というか、変わりなさい、と強制されているようなところもある。Twitterでも書いたけど、個人的にはゲイもレズも好きではないし、共感もしない。もちろんひとりの人間としての尊厳は認めるけれど、それが一般的なものだとも思っていないから。
単純に考えて、生殖活動で繁殖する種にとって、あまり意味がない方々であって、たとえばそれが動物であったら即座に排除される存在だろう。もちろん人間と動物は違うけれど、もしも同じだとみるならば、動物にも尊厳を認めて食べたりしてはいけないことになる。
変異であることを正視することをやめ、権利を過剰に認めようとしている傾向には与したくない、というのがあるのだよ。いても構わないけど、ジャマしないでね、という感じ。それが私のスタンスであり、見方なのだ。なので、がんばれ、とも言わないし、とくに気の毒とも思わない。
たとえば同性愛者の性行為も、好きにおやりください、と思う。でも、その結果としてエイズに罹患する可能性が高いことが分かっているのだから、それなりに覚悟して行えばいいわけで。製薬会社に「実験データを公表しろ」と運動するのはお門違いな気がする。製薬会社だって営利企業なんだから、同性愛者に不利なこと、意地悪なことはしていないだろうと思うのだ。
むしろ、チラッと出てきていた、血液製剤による感染について、が問題だと思う。日本でもあったけれど、あれを隠したりするのは犯罪だ。だから、こっちの問題についてもっと取り上げていたら、応援したかも知れない。何しろ、企業の都合で、エイズにさせられてしまったのだから。
それにしても、と思うのは、ゲイの方々は性的欲望が強いのかしら、ということだ。相手がキャリアと分かっていながらアナルセックスする場面や、学校の教室に殴り込みして「コンドームを!」という運動をしていながら、自分たちでするときはコンドームなしで、みたいな場面がでてきたり。言ってることとやってることが違うだろ、なところも感じたんだけどね。
ゲイの性交シーンぐらいちゃんと見せろ、と思っていたら、後半で出てきたのはご立派、なんだけど。カメラが揺れるというか、寄りや部分の映像が多く、全体をじっくり見せる性交シーンがないのは、不満。一般的な映画やAVのように、裸の男同士が掘りまくる様子をちゃんと写してくださいよ、という気がする。なんか、ゲイのセックスをきれいなものに仕立て上げようとする感じが見えて、でも実際は違うだろ的な感じが見えて、いまいち共感できなかった。ウンコまみれのシーツでもちゃんと見せるとか、してもいいんではないのかな、と思ったり。
それと、いつも打合せで過激なことを発言していた青年が、後半でどんどん弱っていき、入院するんだけど。相手がキャリアでも関係なく性交する恋人青年が病室を訪れ、チンポを擦ってあげるところがあって。身体は衰弱しているのに、性欲はあるんだな、とちょっと不思議な感じがした。
というわけで、思ったのは、彼らへの共感を集め、ついでに同情も集める映画にするには、こういう過激なことを主張したりする話ではない方が良かったんじゃないのかな、ということだ。もちろん、そんな軟弱なことはしたくなかったんだろうけど。
世の中、権利の主張、要求だけでは、うまくまわらないのだよね、と思ったのだった。彼らがやっているのは、かつての日本で過激派という連中が大学や企業相手にやったことと同じようなレベルのプリミティブなことばかりで、合理性はない。共感を集めるでだけではなく、反感を買うだけだろう。いかに共存するか、ということを考えてもよかったのではないのかな、と思ったりしたのだった。
・メンバーのアデルを演じた女優に見覚えがあって、あとから見たら『午後8時の訪問者』の女医さんだった。あのときの落ち着いた感じとは違って、結構、過激な活動家を演じていて、ふーん、な感じ。
・それにしても、企業や講演会に侵入してペンキをぶちまけたりしても、そんな重い罪に問われないのか、というのが不思議な気がした。フランスはゆるいのかね。

 
 

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