2018年5月

パティ・ケイク$5/7シネ・リーブル池袋シアター2監督/ジェレミー・ジャスパー脚本/ジェレミー・ジャスパー
原題は“Patti Cake$”。allcinemaのあらすじは「ニュージャージーの寂れた町で、酒に溺れた元ロック歌手の母と車椅子の祖母と3人暮らしのパティ。ラップでの成功を夢みるが、周囲ばかりか母親からも冷たい視線を浴びる日々。くじけそうになりながらも、同じくラッパーを目指す親友のジェリとともに魂の叫びをライムに込めるパティ。そんなある日、ついに正式なオーディションに出場するチャンスを得たパティだったが…」
Twitterへは「前半のタルサは後半の盛り上がりのためだったのかな。いまいち女系3代の話も面白い。けど、やっぱり、痩せろよ!」
かなり太めの娘で、地元では昔からダンボと呼ばれているパティ。歌手デビュー目前で妊娠・挫折のアル中の母と、病気で車椅子生活の祖母を支えつつ、いまだにラップで成り上がる夢を見てる、という地味な話が前半部。これが、断片的なエピソードの羅列で散漫的。どこがどうつながって行くのか良く分からず少しイライラ。どうなるんだ? と思っていたんだけど、陰気なミュージシャンのパスタードを仲間に引き込んだあたりから話はがぜん面白くなっていく。それまでバラまいていた伏線のようなのも、うまくからんできて、なるほど。ラップの歌詞も、前半の訳は音楽に合ってないし、通り一遍な感じで入って来なかったけど、後半の歌詞はリズムにも合った訳だったし、心にとどいていたように思う。前半のつまらなさは、後半のためだったか(?)と。ははは。
なかでも音楽仲間で薬局で働くインド人(?)のジェリとパスタードの隠れ家に乗り込み、バスタードの変わったリズムを手直ししながら自分たちの音楽に仕上げていく様子は『ONCE ダブリンの街角で』『シング・ストリート 未来へのうた』なんかと同じような高揚感。さらに、地元のステージに上がり、むかしからの仇同士みたいなラッパーにひと泡吹かせ、観衆から喝采を浴びる。こういうサクセスストーリーは惹きつけられる。
さらに、バイトしてるとき、女性ミュージシャンに自作のCDを渡してたんだけど、それを聞いた彼女から連絡があって、新人発掘オーディションにエントリーすることになって。しかも、そのオーディションの観客席には、パティが師と仰ぐO-Zも臨席して、女性を侍らせへらへらしてる。さあ、本番、どうなるか。歌詞も、それまでのありふれたものでなく、自身のいまを叫ぶものになっていて、心が震える。これは、O-Zに会ったときのアドバイスが役に立ったのかな。いまじゃ反面教師的な存在になってるけど。でも、
しかし、グランプリは全員一致で別の男性ラッパーの手に。まあ、そんなものだろうな。で、屋外のどこかでクルマを止め、3人で残念会してたら、カーラジオから自作の曲が流れてくる! リクエストが急に増えた、というはなし。乱舞するパティ! いや、高揚がとまらない。これからの活躍が、あるかも、と期待させて終わる。
・パティは、かなりのおデブちゃん。痩せろよ、と思うんだけど、アメリカでは下層階級がジャンクフードなんかでムダに太る、という話も聞く。そういう設定なんだろうか。
・パティの母は、元歌手の卵で、デビュー寸前に妊娠し、歌手をあきらめた、という過去があるという設定。毎夜、酔っ払ってはバーで歌う生活で、家計もままならない、ようだ。祖母がいて、足が悪いのか、車椅子生活。病院(?)からは医療費の未納の追及電話が・・・。なのでパティは、夜のバーの仕事だけじゃなくて、昼の仕事をさがす。やっと見つけたのがパーティのウェイトレスで、巨漢を白いブラウスと黒いパンツにつつむ様子は、うわあ・・・な感じ。でも仕事ぶりは評判がいい。真面目なんだな。なんか共感してしまう。
・なパーティで、たまたま出会った女性歌手。彼女はCDを受け取ってくれて、後にオーディションへのエントリーもしてくれた。で、もうひとりは、神と崇めるO-Z。彼の要求はカクテルだったけど、もっていったときついでに歌って、CDをテーブルに。そしたら、「お前のは嘘っぱちだ。カクテルつくってるのが似合ってる」と言われてしまう。しかも、O-Zはこれをパティの上司に告げ口したのか、怒り心頭で首に、なったんだっけかな。この対応の違いも、興味深い。
このときO-Zは、壁に掛かったバスキア(?)っぽい絵をさして、「これには本物がある。〇億の価値がある」とかなんとか言うんだけど、アホか、成り上がり、にしか見えないんだよな。ラストのオーディションでも女侍らせて殿様気分だし。当たって有名人になると、精神は堕落する、ということか。パティも成功して金が入ったら、仲間と対立したり分裂したり、はたまた豪邸に住むとか、バカみたいなことをするのかな。しないで欲しいな、と思ったのであった。
・地元ラジオ局のリクエスト殺到・・・。これはたぶん、昔からの仇敵が持ち込んだんだろ。パティたちがCDをつくったけど、「売れない・・・」といってるところにやってきて、「1枚くれ」ともっていく場面があった。いいものは認めるし、応援する、という態度が素晴らしい。
・バスタードのところでのサンプリングで、祖母もノリノリで歌ってたけど、その後に心筋梗塞かなんかで亡くなってしまった。なかなかイケてるバアサンだった。
・バスタードは実はいいところの坊ちゃんで、でも家出して自活してたようだ。しかし、公園の端のトンネルを抜けるとキラキラ光る森で、そこに妖しい一戸建てがあって、バスタードが住んでる、って設定は、ちょっと夢幻的すぎるかな。いや、あれは夢の国的な場所だからいいんだ。あんな家に電気が通っているのも変だけど、それでいいんだ、ということになってくるのが不思議。
オー・ルーシー!5/8テアトル新宿監督/平柳敦子脚本/平柳敦子、ボリス・フールミン
日本/アメリカ映画。英文タイトルは“Oh Lucy!”。allcinemaのあらすじは「43歳で独り身の節子。退屈で憂鬱な毎日を送っていた彼女は、ひょんなことから姪の美花に頼まれ英会話教室に通うハメに。そこで風変わりな講師ジョンと出会い、“ルーシー”と名付けられ、金髪のウィッグまで与えられてしまう。最初は戸惑う節子だったが、いつしかジョンに恋心を抱くように。ところがジョンは、美花と一緒にアメリカへ帰ってしまう。どうしてもジョンのことが忘れられない節子は、姉である美花の母・綾子とともに2人を追ってアメリカへ旅立つのだったが…」
allcinemaの解説によると「桃井かおりを主演に迎えて撮り上げた短編「Oh Lucy!」で高い評価を受けた平柳敦子監督が、同作を長編化した脚本でサンダンス・インスティテュート/NHK賞を受賞し、同賞のサポートを受けて日米合作により記念すべき長編デビューを飾ったコメディ・ドラマ」だそーである。
Twitterへは「クズ女とダメ男の話だった。つまらなくはないけど、どこにも共感するところがないので、笑えるところがあっても後味はいまいち。不必要に暗いし。ジョシュ・ハーネットのダメぶりはなかなか。」
寺島しのぶ、南果歩、役所広司・・・。それそれれ海外の知名度がある役者で、外国向けを考えたキャスティングだな。ジョシュ・ハートネットとどういうコネがあったから知らんが、ここも戦略なんだろう。
役所広司が英会話学校? なので『Shall we ダンス?』、オバサンが英会話? で『マダム・イン・ニューヨーク』、なので陽気なコメディかと思ったら冒頭から暗くて、笑えるところもあるけど全体にダーク。しかも、人物はみな頭がおかしな連中ばかりで、いまいち共感するところがない。
そもそもルーシーは何を考えてるのかよく分からない。会社では地道に貢献してるつもりだったのかも知れないけど、最後に、実は自分も周囲から「不要」と見られていたことが分かって、ではその原因は、妹に彼氏を取られた怨念が現在に至る? のか。それって、うじうじし過ぎだよな。本人に魅力があるなら切り替えればいいだけなのに。でも、姉妹ともに男選びがヘタなわけで、ルーシーは捨てられ、姉の方と結婚、でも結局姉とも別れた、というか、姉親子は捨てられているわけで、そういう男に魅力を感じるバカ女どもということな訳だ。運命だね。
姉の娘・美香は、英会話学校で知り合ったジョンとアメリカ行き。60万払って残りの授業を受けることにしたルーシーも、ジョンに一目惚れ? アメリカに行ったジョンと美香を追って、仲の悪い姉と渡米し、探し出したら、ジョンもまた美香に捨てられていた、と。さらに、ジョンには妻と子がある、と分かって・・・。まあ、身持ちの悪いバカ白人が「日本に行けば女とやり放題」と言われてやってきて、日本娘を連れ帰る、というところからしてダメ男なわけで。
なわけで「クズ女とダメ男の話」を見せられて、でも何か別のメッセージがあるかと思い返しても、思わせぶりはあるけど、深みはなさそう。
たとえば、冒頭の駅での身投げ。あれは、なんなんだ? ぶつぶつ独り言はルーシーかと思ったら、後ろの男かな。で、ルーシーの耳元でひとこと囁いて飛び込むんだけど、何言ったんだ? 一緒に行きませんか、とかか? よく聞こえない。それと、その男の身体は向かい側のホームに飛ばされてたようだけど、そんな感じに飛ぶものか? あと、ルーシーのマスクは、風邪?
それと、アメリカで美香と断崖の上で口論になり、美香が落ちるんだけど。あれは美香の身投げ? 誤って落ちただけ? 身投げするようなヤワな娘には見えなかったんだけどな。あと、同僚オバサンが退職で送別会のとき、「みんなあんたのことなんて言ってるか知ってる?」と本音を曝露し。その帰り、向かい側のホームにオバサンがいて、ここもオバサンの身投げを暗示するけど、実際には飛び込まず、つまりは精神的な身投げかも。というような、周囲の人の“落ちる”で何をつたえようとしてるのか? ただの、思いつきかな。
それにしても解せないのが、ルーシーのジョンへの恋心で。でも、英会話教室でハグしてもらって、そんなんで心が溶けるか? 渡米も、美香探しより、ジョンが目当て? 色キチガイばばあじゃねえか。アメリカでもジョンに運転教えてもらってて、いきなりフェラして。糞ジョンもその気になってバックで40過ぎのブス日本人とやっちゃうって、おいおい、な感じ。
みなさん、理性的になって、平穏な日々が送れるようお祈りしています、な感じの話で、人の不幸も本人がバカすぎると、笑うに笑えないという、そんな感じだった。
・ルーシーは、会社では営業なの? 総務への移動を告げられて「じゃあ辞めます」と即座に言う理由が良く分からない。総務だっていいじゃないか。どこが不満なんだ?
・大後寿々花は、どこに? メイドカフェで最初に案内してくれた娘?
否定と肯定5/10ギンレイホール監督/ミック・ジャクソン脚本/デヴィッド・ヘア
原題は“Denial”。allcinemaのあらすじは「1996年、アメリカの大学で教鞭を執るユダヤ人歴史学者デボラ・E・リップシュタットは、自身の著書で非難したホロコースト否定論者のデイヴィッド・アーヴィングから名誉毀損の訴えを起こされる。悩んだ末に裁判で争うことを決めたリップシュタット。しかし裁判の舞台となるイギリスの法廷では、訴えられた側が立証責任を負うとされ、たとえアーヴィングの主張がどんなに荒唐無稽であっても、裁判で勝利することは決して容易なことではなかった。そんな中リップシュタットは、法廷弁護士リチャード・ランプトンをリーダーとする弁護団からホロコースト生存者ばかりか彼女自身にも証言しないよう求められてしまう。それは自らホロコーストの真実を証明したいと意気込むリップシュタットにとって到底納得できるものではなかったが…」
Twitterへは「ホロコースト論争・裁判の話だけど肯定派の主張も証言だけに頼っている様子で、ガス室があったという物的証拠はない、なんて話もでてくる始末。展開や判決もいまいちスッキリしないし・・・。ちゃんとした検証はできてないの? な素朴な疑問。」
ホロコースト否定論者ではない。と言っておかないと、なにかで突っ込まれたらやなので最初に表明しておく。
Twitterにも書いたけど、展開も結論もなんとなくスッキリしなくて、否定論者が全面的に悪、のように見えないのはなぜなんだろう? 裁判が名誉毀損であって、ホロコーストの存在を争うものではなかったから、だろうか。たとえばリップシュタットは、学生たちに「ガス室の証拠となる写真はない」と明言している。では、なにをもって「あった」と明言できるのか? に関心が向いてしまう。のだけれど、この映画では、アーヴィングの、ガス室と言われる建物にあった煙突状の柱についての疑問に、リップシュタット側は応え切れていなかったりする。ラストシーンで、アウシュビッツの建物の屋上に開いている穴を写しはするのだけれど、それが、柱があったことの証明になっているのか、よく分からない。ホロコーストに関して、確かにあった、という論証が出来ているのなら、それについては読みたいと思う。
日本でも否定論はあった。『マルコポーロ』の否定論なんかは、その最たるものだ。細かくは触れないが、いまだに否定論が語られつづける、というところに、もやもやを感じてしまう。よく知らないで書くのも憚られるのだけれど、あった、という揺るぎない証拠はあるのだろうか? そんな風に思ってしまう。あるなら、それを出せば済む話。そういうものがないから、否定論がいわれつづけるのだろうか。
日本でも、南京事件が同じような感じかな。「あった」派と「なかった」あるいは「そんな規模ではなかった」派がいまだに論争している。「あった」派は、あったことが事実であるという前提で話していて、なかった派は「じゃ根拠は?」とツッコミを入れている。これと似たようなものなのかな。
『松嶋×町山 未公開映画を観るTV』のなかに、ユダヤがらみで、否定論やその類の映画・発言を封じているようなことがある、ということを話していたような記憶があるんだけど、論争自体を許さない風潮というのは、なんかコワイ。むしろ、いやいや、なんでも言ってください。真実を解明するために、とことん話し合いましょう、という姿勢が欲しいな、と思うのだ。疑問すら許さないのは自由な発言の圧殺であって、学際的でもない。そういうタブーは、おかしいのではないかな。
という風に思っていたので、この映画には、名探偵が犯罪者のアリバイをくずしてとことん凹ませる、を期待したんだけど、そういう具合にはなっていなかった。リップシュタットの論も、あったことは事実で前提、というように見えてしまった。うさんくさいとは言わないけど、論争を避ける、というのは、曖昧な部分に触れたくないということがあるのかな、と思ってしまった。
というようなことを思いながら見ておったのだった。
でもな、リップシュタットはアーヴィングからの論争を挑まれてるのに逃げているように見える。裁判も、アーヴィングの仕掛けによってむりやり引っ張り出された感じ。しかも、イギリスでの裁判と言うことで、被告側が正当性を証明しなくちゃならないとかいう話で、これは、へー、な話だった。イギリスはそうなのか。
まあ、仕掛けた方のアーヴィングの方も、切れ味鋭いとはいかなかったし。どっちもどっちな感じで、裁判は名誉毀損については退けたけれど、これでホロコーストはあった、ともならないわけで。もやもやのまま、これからも同様の否定論は出つづけるのだろうな。
それと。最後の方で裁判長が、アーヴィングが自説を信じ込んでいたら名誉毀損にはならないかも、みたいなことを言うんだが。ちょっと「?」だったかも。法律的には、そうなの?
まあ、最終的にリップシュタットの勝訴になるんだけど、スッキリしないのは変わらない。
ところで。実際のリップシュタットとアーヴィングの写真を見て、ちょっと考えてしまった。映画ではそれぞれレイチェル・ワイズとティモシー・スポールが演じているんだが、先入観を植え付けすぎではないか? これ、不細工な女性とハンサムな男性が演じたら、イメージは結構変わると思うんだが。
ザ・スクエア 思いやりの聖域5/15ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/リューベン・オストルンド脚本/リューベン・オストルンド
スウェーデン/ドイツ/フランス/デンマーク映画。原題は“The Square”。allcinemaのあらすじは「バツイチで2人のかわいい娘を持つクリスティアンは有名美術館のキュレーター。彼は次の展覧会に向けて人々の思いやりをテーマに掲げ、それを形にしたインスタレーション“ザ・スクエア”を発表する。そんなある日、道端で思わぬトラブルに巻き込まれ、携帯と財布を盗まれてしまう。すると“ザ・スクエア”の精神とは裏腹に、盗まれた物を取り戻すために後先考えずに行動しまうクリスティアンだったが…」
Twitterへは「1シーンがムダに長くじれったい。通して出るのは主人公だけで他はエピソードでからむだけ。しかも描かれ形が記号的。背景が分からず何の場面か分からんところも多くイライラする。格差とか差別語るなら他にあるだろ、な感じ。」
↑のあらすじに書かれている背景が分かるまでには、全体の半分ぐらい見ないとならない。もしかしてクリスティアンは若い館長? と思って見てたぐらいだ。次の展示のPR会議も、そのスタッフが館のどういう立場にある連中なのか、なんてことはほとんど分からないまま進む。ときどき開かれる会議とかレセプションとかパーティとか、そういうものも、何のために開かれているのか、来ているのは誰か、説明はほとんどない。娘がいるのが分かるのも半ばで、元妻はその後しばらくして登場する。で、この元妻は美術館の理事のような感じなんだけど、なんでそんな女性がクリスティアンと結婚? とか、分からないままのことが多すぎて、イラつく。
クリスティアンが何かのパーティ・・・あれは、館内でやってたやつなのか? 隣は王宮で、行けるけど、装飾に触れるな、とかいってたやつは、なんだかよく分からん。でそのパーティでトイレ待ちをしてると、後ろに女性が並び、彼女が「マンコ!」とか何度も言うんだけど、なんだこの女。で、心ならずも(なのか?)その夜セックスしちゃうんだけど、彼女がコンドームを欲しがるくだりが、意味不明。クリスティアンは、精液を勝手に使われるのを嫌がるんだけど、最終的に奪取され、それは使われたのか否か、よく分からない。で、その後しばらくして彼女がクリスティアンに会いに来て、「あんたはこないだの夜、何をした?」とか、くどくどしつこく追及するくだりは、ありゃなんなんだ? てっきり「妊娠したから責任を」という脅しかと思ったら違って、たんに「君とセックスした」と明言させようとするだけなんだよ。意味不明。で、この女性、家に帰ってから予告のトレーラー見たら、あ、最初の頃にクリスティアンにインタビューしてた女か、と気がついた。すっかり忘れてたよ。
スリに携帯と財布を取られるエピソードも、よく分からない。携帯のGPSで犯人の住むアパートがわかり、全戸に「返せ」の手紙をポストして、うまく返ってくる、というのが、えええ? な感じ。そもそも携帯なんかすぐ捨てろよ、だし。財布なんて現金抜いたら捨てるのがフツーだろ。トンマなスリなんだけど、でも、クリスティアンから盗むときは3人がかりの狂言芝居してるんだよ。プロだろ。それが、なんで下層階級の住むアパートに住んでるんだ? 納得いかず。
でそアパートの住人のひとり、といっても12、3歳の少年が、逆襲してくる。クリスティアンの手紙に両親が反応し、自分は泥棒扱いされ、ゲーム禁止になってしまった。どうしてくれる。誤れ。というんだけど、クリスティアンはのらくらいうだけで、なかなか誤らない。あんなの、さっさと誤るか、少年の家を訪れて両親に説明すれば済むものを、映画の最後まで引きずる。あれがよく分からない。
このエピソードで分からないことがもうひとつ。それは携帯と財布を返せ、と指定した場所のことだ。駅近くのコンビニのはずなのに、クリスティアンは最初、ファストフード店に入って届け物がないか聞く。最初は「ない」と言われる。その後、コンビニから電話があって、取りに行ったらしい。でも、その後、クリスティアンの部下の黒人スタッフは、クレーム少年と接触するためファストフード店に行ってるんだけど、返せと指定した場所はどっちなんだ? 両方?
あと、分からんのが、ゴリラ男のショーのあるパーティ。宴たけなわで投入されたゴリラ男が傍若無人に招待客をいじりまくり、最後は女性客の髪をつかんで暴行し始める、んだけど、誰も助けに行かない・・・と思ったら、ジイサマがやっと止めに入り、それを契機に男どもがどどどとやってきてゴリラ男をなぶり殺し(したのか? 死骸みたいのがチラと映ったけど)みたいなシーン。不愉快なエピソードなんだけど、あれも意味不明。そもそも何のパーティで、誰が企画してゴリラ男を呼んだのか? なぜ誰も止めないのか? スタッフはどうした?
世の中の、見て見ぬフリをする風潮への皮肉を込めたメタファーなのかも知れないけど、違和感ありすぎで、すんなり腑に落ちない。
あとは・・・。次の企画のPRに関わるエピソード、か。広告会社の2人がつくる案が先行してYouTubeにアップされ、それが、少女が爆殺されるというもので、それでクリスティアンは最終的に美術館を辞めることになるんだけど、この経緯もよく分からない。アップしたのは館の企画スタッフと広告会社の連中らしい。でも、あんなビデオ流したら、話題にはなるだろうけど、炎上するのは分かりきってる。まあ、これも、炎上させる目的でバカなことをする、いい大人がいる、ということを言わんとしているのか? にしちゃ、アホくさいエピソードだ。
というようなぶっきらぼうなエピソードがつづく映画で、一本筋が通っていない。通っているのは、主人公のクリスティアンが博物館の人で、次の企画を進行中、というだけ。人物の掘り下げはないし、だいたい、主人公以外は通しで登場せず、エピソードでしか行動しない。なんなんだ。
で、クリスティアンが企画してる展覧会は「『ザ・スクエア』という地面に正方形を描いた作品を展示すると発表する。その中では「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」という『思いやりの聖域』をテーマにした参加型アート」らしいけど、公式HPにあるような「現代社会に蔓延るエゴイズムや貧富の格差に一石を投じる狙いがあった」とまでは話されていなかったと思うけどな。そもそもクリスティアンは、エゴイズムや貧富の格差に関心がなさそうだったし。
もちろん、エゴや貧富の格差を感じされる話はたくさんある。冒頭のスリも、クリスティアンが情け心をだしたせい、でもある。移民らしい乞食はたくさん登場して、ファストフードではハンバーガーかなんかを老女に恵んでやるんだけど、老女の「タマネギ抜き」に答えることなく「自分で取れ」と放り投げる。クレームをつけてきた少年が住むのは、下層階級が住むアパート。でも、ほとんどが生っぽくて、消化されないままエピソードとして見せられてる感じなんだよ。で? だよなあ。
そういえば、クリスティアンとセックスしたインタビュー女は、オランウータンと住んでるんだけど、パーティのゴリラ男と何か関係はあるのかね。よく分からない。
まあ、現代社会に蔓延るエゴイズムや貧富の格差に一石を投じよう、なんて高尚なことをいう連中なんて、自分たちは上流で、下層の連中を本気で考えてはいないということだけは分かるけど、そんなことは映画を見なくても知ってるしな。
四月の永い夢5/18新宿武蔵野館1監督/中川龍太郎脚本/中川龍太郎
allcinemaのあらすじは「27歳の滝本初海は、3年前に恋人を亡くして以来時間が止まったまま。音楽教師を辞め、今はそば屋でバイトしながら単調で穏やかな日々を送っていた。そんなある日、亡き恋人の母親から一通の手紙が届く。それは彼が初海に宛てた最後の手紙だった。やがてそば屋の常連で染物工場で働く青年からの思いがけない告白や、元教え子との再会をなど、凪いでいた日常が少しずつ波立ちはじめる初海だったが…」
Twitterへは「女は後を引きずりっぱなしで、親の方があっけらかんとしてるなんて、あり得ないだろ。それに、そんなんで先生辞めて蕎麦屋で働くか? そもそも、の話も明かされないし、いろいろまどろっこしい。だいたい、朝食の前に歯を磨くやつは信じられん。」
見始めたときは、いわゆる良心的映画の類かなと思っていた。でも、わざとらしい心の交流もとくになく、そもそも大きなドラマもない。せいぜい、恋人の死の原因がなにか? ぐらいの興味で引っぱっていき、その元彼の母親からの「息子のコンピュータのファイルに彼女に関するものがあるので、一度いらっしゃい」という手紙の真相がわかると、かすかな謎も氷解して「なるほど」な結論になるのかな、と思っていたら、結局そういうこともなし。中途半端なところでぶっつり終わってしまって、なんだよこれ、な感じ。
滝本初海役の朝倉あきの、謎めいた清楚さと繊細さは魅力的だけど、それだけで引っぱっていかれててもなあ、な感じ。
そもそもこの話は、3年前に死んだ恋人のことが後を引きずって教師をやめ、蕎麦屋で店員をしている女性の話。しかも、大学生のときと同じ国立に住んでいるということなので、一橋なのか。では、何があったのか? が最大の興味ではないか。なのに、その期待に応えないでは、話として画竜点睛を欠くだろ。
しかもだ、彼が死ぬ4か月前には別れていた、という告白が最後の方で彼の母親に対して告げられる。その理由に迫る手紙が、テーブルの上で燃やされている場面があったけど、火事かよ、と心配したぞ。内容? 忘れたよ。なんか、よく分からん思いが書かれていたのかな。どーでもいい感じ。
だいたい、死んだ人間を思いつづけるような純朴なやつは、いまどきおらんだろ。この映画は評価が高いそうだけど、賞賛する人はそういう純朴さにあこがれているということなのかね。なんか嘘くさい。というわけで、基本的なところが腑に落ちないので、映画すべてに共感するところはなかった。
・4か月前に別れた男が死んだ、ということで、何を引きずっているのか分からない。死ぬ1時間だか3時間前に、Facebookにスパゲティの写真? そんなの、見てるのかよ。別れるというのを決めたのは元彼の方? そもそもなんで別れたのか? なんで死んだんだ? 自殺? なんで? イライラする。
・初海の方は未練があった? だから引きずってるんだろうけど。彼の死に責任を感じてるようでもない。田舎の歓待具合をみると、富山に何度も行ってる風だけど、そういうのフツーなのかね。田舎なら、さっさと結婚しろ、と言われるんじゃないのか。
・妙な教訓風の言葉が多すぎる。冒頭の滝本初海のだらだら思い出、詩を読むようなやつとか、彼からの手紙とか。全然頭に残らない。映画なんだから見せろよ、と思う。
・田舎の両親の、息子を亡くしているのに、割りと陽気なのが違和感。子を亡くした親って、落ち込んだままのところがあるように思うけどな。それと、彼の母親の「若い頃は獲得する人生と思っていたけど、歳をとると失う人生」とかいうのも知ったかぶった感じで、うるせー、な感じ。
・元彼の母親は、息子のコンピュータのファイルに彼女に関する何かがあったとかで呼んだんじゃなかったっけ? 最後に秘密が・・・と思ったらなし。息子が死んだ理由もなし。
・臨時雇いに応募したらしいけど、面接のとき校長に、教師をやめた理由を聞かれて、正直に話したのかね。
・富山に向かうとき、彼からの手紙を座席に置いてたけど、そういうのあり得ないだろ。
・富山からの帰路、電車がたまたま停まって、たまたま入った駅前風の店のラジオから、染め物職人の、初海を慕う男性からの投稿が流れるっと、偶然すぎ。映画だねえ。でもそれで、くすりと笑うか? 初海さん。
・いくら田舎でも、息子の骨を3年も納骨しないというのは、あり得んだろ。だいたい自分たちの墓を心配する歳なんだから、墓ぐらいあるだろうに。
・彼の母親役の高橋恵子のザンバラ長い髪は薄気味悪い。
・エンドロールに森次晃嗣。階下の男だったのか?
はじまりのボーイミーツガール5/21ギンレイホール監督/ミシェル・ブジュナー脚本/ミシェル・ブジュナー、アルフレッド・ロット
フランス映画。原題は“Le coeur en braille”。「点字で書かれた心」とかいう意味らしい。allcinemaのあらすじは「12歳のヴィクトールは優等生のマリーにほのかな恋心を抱くも、遠くから見つめることしかできなかった。そんなある日、落ちこぼれのヴィクトールに勉強を教えてあげるとマリーのほうから近づいてきて、いつしか2人はいつも一緒に過ごすようになる。思いがけない展開に心躍らせるヴィクトールだったが、マリーにはある秘密があった。プロのチェロ奏者を夢みる彼女だったが、徐々に視力が落ちていく目の病気を患っていて、音楽学校に行くことを両親に反対されていた。そんな両親を納得させるため、視力が悪くないフリをする必要に迫られていた。やがて彼女の秘密を知り、自分が彼女の“目”として利用されていただけと気づいて大きなショックを受けるヴィクトールだったが…」
Twitterへは「『小さな恋のメロディ』とか『エール!』とか連想する映画はあるけど、いまいち話に入り込めず。そもそもクラス1の人気者に友だちがいなくて、クラス1ダメな少年に接近する魂胆も不純だし、いちも一緒にいるのに目立たないってなによ。」
なんていうのか、いろいろもどかしくて、スッキリしない感じ。あらすじは上の通りなんだけど、ぜーんぜんリアリティがないので、見ててバカか、な気がしてしまうところが多いのだ。クラスのヒロインで優等生のはずなのに、友だちがいない、という。理由は目が悪いからというけど、だから友だちがいないにはつながらんだろ。クラスにアラン・ドロンみたいなハンサム野郎がいるけど、彼も実はマリーを狙ってたはず。なのに、マリーがヴィクトールに接近し、席が隣同士になり、行き帰りが一緒になってもも、つっかかってもこない。ヴィクトールとマリーがいつも一緒に行動してれば、こいつらつき合ってるのか、なんて囃されるだろうに、そういうこともない。違和感だらけな感じ。 マリーは目が悪くなっていくのを自覚している。医師はメガネを奨めているが、本人はかけない。その理由はなんなんだ? カッコ悪いから? 目が悪いことを知られたくない? いずれにしても、バカか、な感じ。メガネの演奏者はいくらでもいるだろうに。
音楽学校に入るのが夢。でも、目が悪くなる・・・。ではどうすればいいか。12、3歳なんだから、もうちょい自覚したらいいだろうに。ヴィクトールも、マリーのためには病院で治療がいい、と判断できる年頃なんじゃないのか。そのあたりがもどかしすぎてイラつく。最後は、病院に入れるという父親から逃げて、ヴィクトールと逃避行。幼なすぎるだろ。
最後。雨に打たれて熱を出し、でも今日が受験日。警察も繰り出してみなで2人を探しだし、父親は娘を病院に連れていくが、心変わりして試験会場へ。というのは、よくあるパターンだな。で、ヴィクトールの手引きでステージに上がり、演奏する・・・で、エンド。ありゃりゃ。なんだよ、ここでオシマイか。たぶん、これ以後もう視覚がなくなって…という感じなんだろう。
でも、目が見えるうちに試験が受けられてよかったレベルで話を盛り上げていいのかね。盲目の演奏者がいるとか、そっちになぜつなげない。
音楽といえば、ヴィクトールも双子と電子音楽を奏でたりしていた。だったらそこにマリーも交えて演奏会とかYouTubeで発表とかいくらでもあるだろう。なぜもっと前向きにしない。要するに、映画つくりがヘタなんだと思う。
・ヴィクトールはいつもクラスで最後列だったはずなのに、マリーと仲良くなると最前列でマリーと並んでいちゃいちゃ・・・って、席を勝手に変わっていいのか、この学校。
・マリーは優等生。なのに「友だちはいない」という。 ・席が隣同士の友人が、父がイスラムで母がユダヤ。宗教儀式は、代わりばんこにやっている、なんていう設定だった。この、彼の家庭の方が興味津々だよなあ。
・学校で、交通教室。でも、マリーの視界不自由がバレてしまう・・・。というとき、は学校に爆弾の電話。かけたのは、あれは双子? よく分からなかった。
gifted/ギフテッド5/21ギンレイホール監督/マーク・ウェブ脚本/トム・フリン
原題は“Gifted”。allcinemaのあらすじは「叔父のフランクと片目の猫フレッドと暮らす一見ごく普通の7歳の少女メアリー。しかし彼女は数学の才能に著しく秀でた天才少女だった。小学校に通い出すや、すぐにそのことが発覚し、学校側はフランクに天才児の英才教育で名高い私学への転校を勧める。しかしフランクは“普通の子として育てたい”とこれを拒否する。それは、メアリーをフランクに託して自殺してしまった姉の願いだった。ところがある日、メアリーの祖母イブリンが現われ、孫の才能を無駄にすべきではないとフランクと激しく衝突。そのままフランクを相手に裁判を起こしてメアリーの親権を主張するのだったが…」
Twitterへは「『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』の少女版みたいな感じでなかなか楽しいんだけど、オチがよく分からんぞ。なんだあれ? それに、そもそも叔父がキチンと就職して保険がもらえる立場になれば問題ないんじゃねえの?」
メアリーが生意気で、とてもかわいい。これが、大学生も顔負けの数学頭だから、さらに痛快。大人タジタジ。とはいえ、メアリー役のマッケナ・グレイス、よく見ると、派手なつけまつげをしていて、あれ取ったらどうなるんだ、な気もしないでもない。
事実、というか、経緯が小出しにされていき、次第に全貌が見えてくる流れで、よくあるずるい手だ。
母親は数学者で、姉・弟を産むが厳格なイギリス的感性の持ち主で、亭主は逃げていった、らしい。娘の数学的才能を伸ばすためかかりっきりで育てた、らしい。息子フランクは長じて哲学教授らしいから、理数系ではなかったのか。娘は、どういう関係でか男とできて、結婚したのかどうか知らんけど、メアリーを生んだ。けど半年後に自殺。自殺する日にどーのという説明があったけど、忘れた。どーも、姉はフランクにメアリーを託した、ということになっている。フランクは大学を辞め、イブリンから身を隠し、フロリダでボートの修理屋に。で、7歳まで育てたけど、どーゆーわけか小学校の教師からイブリンに連絡が行き、やっと見つけた、とばかりに駆けつけてきて、母と息子でメアリーの養育権を争う、というお話。これで順番通りかな。
裁判の途中でメアリーの実父も登場するけど、彼はメアリーと会ったことはない、らしい。でも、手を尽くしてさがした、と証人として話していた。それをフランクの弁護士が追及し、「ネットで探せば、すぐ出てきますよ」と証言を粉砕するんだが。でてきたのは新聞記事かなんかで。あれは天才ぶりが紹介された記事だったかな。忘れたけど。でも、じゃあ、イブリンも必死で探していたなら、ネット検索ですぐに見つかったはずだよな。でも、そうしていない。どういうこっちゃ。
というわけで、数学者としての名声を求める思いが娘をしばり、さらに、孫も縛り付けようとするのを、息子フランクが姉の思いも含めて防衛する、という展開だ。とはいえ、途中で和解が成立し、中立的な里子をたてて、そこにメアリーを預ける、ということになる。もちろんメアリーはフランクと離れたくないと号泣するが・・・。さて、いかにして取り戻すか、という話になるのだが、それが以下の流れ。
女教師が猫の里親募集のポスターを見てフランクに連絡→フランクは保健所へ。危機一髪でフラッドを救出。他の猫も数匹もらって・・・。→フランクは里親のところへ。別棟にイブリンがいて、家庭教師とともにメアリーの特訓中→で、イブリン激怒・・・なんだけど、イブリンの面会は許されてるのか? 許されてないなら、その時点でアウトだろうけど、そうならないのがよく分からない。さらに、フランクは亡姉が生前になんとかの定理を証明していた証拠をイブリンに見せつける→イブリン衝撃→フランク「姉は死後に発表しろといった」とかいったそのあとに「死後じゃない」とか言ってなかったか? このあたりで混乱。あと、イブリンに「あんたがそれを守るんだ」的なことも言ってたな。その後、フランクはだれそれという人物と共同で発表することになった、とかいって、その証明論文を置き、メアリーを連れて帰っていく→その後、イブリンはMITに電話して、そのなんとかいう人と話す・・・という流れなんだけど、「???」だった。DVDなら見返して確認するところだけど、意味がつかめず、ここにきて高揚感が一気にしぼんでしまった。
で、メアリーが大学で講義を受けている場面になって、授業が終わったメアリーをフランクが連れて帰るんだが、その大学は英才教育の学校ではなく、どーもフロリダのフツーの大学、なのか? 「小学校より変わった授業をしてる」とかなんとかメアリーが言うんだけど、ってことは、フランクとメアリーは一緒に住み、メアリーは地元の大学の数学の授業を受けていて、それが終わると小学生のお遊戯の時間にまぎれ込む、という生活をしているのか?
祖母イブリンは、あきらめた? で、あの証明の論文は、なんとかさんと亡姉の名で発表された? でその、なんとかさんは、なんで突然、論文に名前を連ねるんだ? とかいうことが良く分からない。もやもやもや・・・。
※あるところで見たら、「母の死後に発表するように」と言い残していたと書いてあった。ああ、なるほど、そんなことも言っていたな。「あんたが死ぬのを待つか?」とかも言っておった、たしかに。それで「あんたがそれを守るんだ」的なことを言ったのか。なるほど。会話が早すぎて追いつけなかったのか、字幕が読み切れなかったのか。
とはいえ、論文が発表されたのか否かはよく分からんよな、あの結末じゃ。それに、母親が死んでから発表なんて、その間に別の誰かが解いちまったらどうすんだよ。数学漬けで遊べなかった恨みを、そんなことで意趣返しだなんて、ちょっとピントがずれてるような気もしないでもない。
それに、亡姉の自殺した原因が直接母親にあるわけでもないんだろ? 17ぐらいのとき駆け落ちしたのを母イブリンに連れ戻されてどーのこーの、の恨みなら、大人になったらなんとでもできるはず。要は、うつ病とか、天才過ぎるが故の自殺なのか? そのあたり、よく分からないし、亡くなった日のこともフランクがしゃべっただけだから、いまいちピンとこず。回想場面を挟むとか、もうちょい分かりやすい描写にして欲しかったでござるよ。
しかし、たまたま幼い頃からフランクといるからフランクになついているだけで、もしイブリンと暮らしていたら、彼女に慣れていたかも知れない、とも思ったりもする。だってフランクが「遊びに行こう」とさそっても数学の本の方がいい、といっていたし。あの数学好き加減は、半端ないと思うんだがなあ。
・猫の活躍どころが少ないのが残念。
のみとり侍5/22109シネマズ木場シアター1監督/鶴橋康夫脚本/鶴橋康夫
allcinemaのあらすじは「十代将軍・徳川家治の治世。老中・田沼意次の規制緩和によって賄賂も横行する一方、景気は上向き、人々は太平を謳歌していた。そんな中、長岡藩の真面目すぎるエリート藩士・小林寛之進は、ふとしたことから藩主の怒りを買い、江戸の貧乏長屋に左遷され、“蚤とり”というよく分からない商売をすることに。しかし猫の蚤とりは表向きで、実態は女性に愛を届ける“添寝業”だった。そんな寛之進の前に初めての客として現われた女・おみねは、なんと亡き妻・千鶴に瓜二つ。胸が高鳴る寛之進だったが、おみねからは“下手くそ!”と身もふたもない罵声を浴びてしまう。失意の寛之進は恐妻家の伊達男・清兵衛に教えを乞うのだったが…」
Twitterへは「話も演出も大雑把。時代考証もちゃんとしてるところといい加減なところが混在。わりとテキトーな感じ。性愛描写はちと退屈。まあ、なんとなくアバウトに理解して楽しむ分にはいいかもね。雛形あきこどこにでてた?」
大雑把、というか、大味、かな。のわりに背景は歴史的事実を反映しているようで、蚤取り業があったかどうかは知らないけど、田沼時代の規制緩和で世の中ゆるゆる賄賂横行風紀紊乱なあたりを把握しておくべきなんだろうけど、そんなことを知っている観客は私も含めてほとんどおらんだろ。
江戸・明治からの用語が結構使われていて、分かるのか、ちゃんと? と思う反面、寺子屋の手習いの文字がまるっきり現代風だったり、でも近江屋の店先の商品名にはくずし字が使われていたり、でも飲み屋はテーブルと椅子ではなく板敷きであんなもんかな、と思うけれど、会話はほとんど現代風・・・。思いつきのテキトーさが前面に出てる。
あと気になったのは、近江屋清兵衛が旗本の次男坊(だったかな)から大店に婿入り、ってのはアリかなと思うんだが、長岡藩の馬に蹴られて後、いつのまにか長岡藩士になっているというのはどうなんだ? ラストのぶら下がりで長岡藩士になった経緯をさらっと話していたけど、うっかり聞き逃した。直臣旗本から陪臣になるのはどうなんだ? とか、細かなところで考えてしまうところがいくつかあったり・・・。まあ原作でそうなってるのかも知らんが。
あと、小林寛之進が主君の命で蚤取りになる経緯が、実はよく分からない。ラスト近くに、長岡藩の内情からそうなった、な話はあるんだけど、うーむ、な感じでもある。で、どうも流れは・・・。長岡藩家臣の間で賄賂・付け届けが横行→藩主の知るところになるが、藩主の女好きが原因で取り締まれず(のくだりがよく分からず)→真面目な勘定方侍の小林寛之進が改革に取り組もうとしていたが・・・。これが、主君の怒りを買ってフツーなら切腹(?)のところ、主君の「蚤取りにでもなれ」のひと言で浪人の身に・・・らしい。なぜ主君の牧野備前守忠精はなぜ寛之進を追放したのか? 本来は切腹を命じたかったけど追放にしたのか。寛之進に申し訳ないので追放にして命だけは救ったのか。そのあたりが分からない。
後半で、田沼意次が失脚し、蚤取り業も禁止令が出され、寛之進も晒し者になるんだが、そこに長岡藩から救いがやってきて、藩邸へ。賄賂横行でも女好きで諫められず、申し訳ない顔の牧野備前守忠精。で、寛之進は撃ち首にならず救われる、のかな。さらに、ラストでは堕落した家臣を咎めるため(なのか)、国許に出立する場面で終わってるんだけど、これは主君の命を受けてのこと、と理解していいんだよな。とはいえ、やっぱりいろいろもやもやなままなんであるよ。こういうところ、気にする方が変なのかね。
・長屋住まいの浪人佐伯友之介って、父親の代から浪人だっけ? しかし、食べるものも食べずに子供たちに寺子屋してるというのも、おいおいな感じ。ゴミ箱漁って猫に引っかかれ、リンパあたりが腫れたのか? そんなんなるまえに、子供らの親が食いものもってこいや、な話だろ。で、治療した医者だけど、最初は断っておきながら300両(?)の名刀で治療を! と言われて前言を翻し治療。でも、あとから、あの刀は二束三文、と返しに来るところが、良く分からない。ただの欲得医者なのか、友之介の立場が分かっている医者なのか、そこのところがアバウト過ぎ。
・猫とり屋の親方は風間杜夫で、女房が大竹しのぶ、なんだけど。大竹のセリフ廻しが、いまいち風間らと噛みあってなくて。自分のセリフだけうまく言おうとしてる感がつたわってくる。
・小林寛之進を買う妾・おみねはどういう存在なのだ? 後半で、失脚寸前の田沼意次がやってくるけど、では、田沼の妾なのか? しかし、田沼の妾があんなところに住んでるの? 田沼があそこに、しょっちゅう出入りしてた? よく分からない。それに、失脚寸前に、田沼が訪れ、下屋敷あたりにくるように、と言い残すのは、どういうこっちゃ。意味不明。
・おみねを演じるのは寺島しのぶ。もう45歳だろ。かわいくもなくキレイでもなく、ヒロインにはどうなんだ? ただのオバサンだろ。
・飲み屋で。周囲の客が小芝居しているのが面白かったかな。聞き耳を立て、2人の会話を聞いている。ほかにも、端役の小芝居は、結構あった感じ。
などなど、いろいろあるけど、総じてあんまり猫が活躍しないのが、物足りないのだった。
モリのいる場所5/24シネ・リーブル池袋シアター1監督/沖田修一脚本/沖田修一
allcinemaのあらすじは「昭和49年、東京。94歳になる画家のモリは、30年間自宅から出ることもなく、小さな庭に生きる虫や草花を飽きもせずに観察しつづける、まるで仙人のような毎日を送っていた。結婚生活52年の妻・秀子は、そんなモリの浮世離れした言動を当たり前のことのように飄々と受け止めていく。そんなある日の熊谷家。いつものように夫婦のもとには、朝から様々な訪問客がひっきりなしに現われ、にぎやかな一日が始まろうとしていたのだったが…」
Twitterには「つまらなくはないけど、虜にはしてくれなかった感じ。」
東京郊外? 埼玉あたり? の緑深い住宅地に住む94歳の画家が、庭の虫なんかを観察し、妻と姪と、訪れる人たちとコミカルに交流しつつ1日を過ごす、という話。モデルは熊谷守一で、でも最後の方に「勉強に行く」だったかな、と言って夜中にアトリエに向かおうとするところと、誰もいないアトリエが一瞬映るだけで、絵は登場しない。庭は緑豊かで、掘り下げた池があったり、ほのぼのな感じ。隣では高層マンション建設が始まっていて、モリを支援する絵描き達が「反対」の看板を立てている。
というわけで、庭の虫の様子が科学番組のように映されたりもするんだけど、そういうところは概ね退屈。泰然自若で何でも受け止める妻と、いい男願望のあるひょうきんな姪、訪れる不思議な人々が登場するシーンの方が、エピソードも含めて面白い。とはいえ、人を魅了する人柄というわけでもなく、感動できるエピソードもとくにないので、見ているときは、ふふふ、と笑えてもすぐに忘れてしまいそう。
見終えて、東京芸術劇場で何かやってるという話だったので寄ったら、これから、か、終わっている、ものばかり。で、パンフレットを見ていたら、近くの千早町に熊谷守一美術館があることに気付き、ああ、そういえば、と。緑が深いので埼玉あたりかと思ったら、こんな近いのか。では、あの家の敷地は残っているのか? それとも、全然別の場所にできた美術館? というわけで、てくてく。閑静な住宅地に、それはあった。
で、次女で館長の熊谷榧が「美術館だより」に映画のことを書いていて。住まいは30坪(のちに増築して40坪弱?)で、庭はせいぜい50坪。男の人を家に上げるようなことはしなかった。家から出られなくなったのも、最後の数年だけ。姪も大人しい性格だった、と。脚本を読んで、違うところは何度も指摘したけれど、監督から「大きな修正をしないまま作らせて欲しい」と言われ、「こちらがどうしてもというところ以外は、沖田監督が書かれた最初の脚本に近い感じで撮られた」らしい。
ってことは、庭は映画の1/4以下か。もちろん地下の池もなかった。その80坪の敷地に、いまの美術館が建っているらしい。なんと映画は、人名と画家、という枠組みだけ残して大半フィクションのようだ。ありがちなことではあるけれど、それでも、ちょっと萎えた。ところで、美術館1Fロビーに座っていた老女はひょっとして熊谷榧本人だったかも。
・オープニングは、天皇が熊谷守一の「切り餅」の絵を見て、「何歳の子どもが描いたのか?」と聞く場面。とはいえ、天皇とはっきり示されてないけどね。
・食事のとき、ウィンナーとかその他を、モリがペンチで潰しながら食べている。これもよく考えれば、あらかじめすりつぶすとか小さく切れ場いいんだから、笑わせるための演出だろう。
・ドリフターズで誰がハンサムか、妻と姪が話す場面で、来客たちの頭の上にブリキの盥が3つ(だったかな)落ちてくるコント場面があって。まあ、現実を離れたお遊びとは分かっていても、そこだけ浮いてる感じは否めないな。
・妻が文化勲章を断る場面。これまた、むりやり同じ1日に入れ込んでるんだろう。それはいいけど。なんか、あっさりし過ぎな気もしないではない。
・表札が盗まれる、というエピソード。これまた、つくりごとか、と思うと、うーむな感じ。まあ、姪が郵便配達員にほの字で迫る、という、これもコントの一種かな。
・信州の宿屋の主人が「看板を書いてくれ・・・」と訪れるエピソードも、そんな気軽に書いてやっちゃうのか? と思っていたら、まあ、これも創作だろうな。宿名ではなく、座右の銘みたいなのを書くんだけど、そうなるだろうことはミエミエなのでいまいちつまらない。
・やたら足つる姪というのは、どういう設定なんだろ。よく分からない。
・やたら肉が登場するんだけど、モリは肉が好きだった、というようなことがあったのかしら。
・のちに死神みたいになる男が、客として居間にいたりする。「あのひと、誰?」なんて言われてたりするんだが、後半、その男が池の方へと手招きする。頭には、チョウチンアンコウのような光が。あれは、94歳のモリにつきまとっている死神、ということなのかね。モリは誘いに乗らないが、つまりは生命力が勝っているということなのか。本人も、生への執着を口にしてたけど。
・文化勲章は断ったけど、人がたくさんきたりして面倒くさいから、という理由だったっけ。権威にも興味がない、という設定なのか? なわりに画商や知らない宿屋の主人、その他を見境なく家に上げたり、カメラマンに自由に撮らせていたり、人と接することに関心がないわけではない、ような設定でもあるのが、なんかよく分からない。なんか、モリのキャラづくりが中途半端な感じも、したりする。
・トイレを借りに来る作業員はなにだと思ったら、隣のマンション工事の人なのか。で、マンションの施主と現場監督が、反対看板を取り下げてくれと交渉にくると、拒否することなく居間に挙げてしまったり。肉がたくさんあるからと、隣の作業員達に食べさせたり。やってることもちぐはぐ。まあ、このあたりはファンタジーなんだろうけど、いまいちよく分からない。
・ほぼフィクション、でもいいんだけど。だって映画だから。とはいえ「30年間、自宅の庭を冒険(!?)し続けた伝説の画家 熊谷守一」とか、本人の名前を出してしまうのはいかがなものか。熊谷守一にインスパイアされた物語で、別物、というかたちの方がいいように思うな。まあ、売り方の問題ではあるけどね。
gifted/ギフテッド5/21ギンレイホール監督/マーク・ウェブ脚本/トム・フリン
2度目。
Twitterには「2度目。こないだの疑問点を確認するため。でも、やっぱりスッキリしなかった。まだ、結構もやもや。もとのセリフがよくないのか、字幕がタコなのか。知らんけど。」
前回「?」だった、クライマックスのフランクvs母イブリンの会話。
フランク「死後に発表してくれといわれた」
イブリン「彼女はもう死んでるわ」
フランク「彼女の死後じゃない」
というような流れで、「あんた(イブリン)の死後に、という意味だ」というような言い方はしていなかった。想像で、イブリンの死後だ、と分かるだろ、な感じ。だけど、分かりにくいよなあ。
ほかにもこの会話には、自転車の運転はどうの、自動車はどうの、というのがあったり。あと、フランクの「子育ての時間はない」とか、再度聞いてもよく分からんセリフがある。前者は、さっぱり分からない。「子育て」は、イブリンがメアリーにつきまとって数学を教える時間、ということか? よく分からない。
さらに、大学のシャンなんとかいう研究員と共同発表(だっけかな)のくだりはやっぱり分からないし、イブリンがそのシャン何とかいう人物に電話するのも、よく分からない。もしかして、シャンなんとかいう人物は姉の共同研究者で、姉がなんとかという問題を解いていることを知っているのか?
あの論文は、イブリンが死ぬまで預かる、ということでイブリンが了解した、ということでいいのかね。
メアリーの里子問題は、どう解決したんだか。フランクの元に戻る、だけ? 大学教育を受けさせる、はメアリーの意志? とか、最後は曖昧で、やっぱりよく分からんよ。
ところで。イブリンがメアリーを大学に連れていって、問題を解かせようとしたときの場面だけど。イブリンは板書されている問題を見て、不備がある、と気がつかなかったのか? 彼女も数学者なら、それぐらい分かってもいいんじゃないのか? と、今回思ったぞ。
あとは・・・。フランクが猫を救いに保健所に行ったときのこと。フランクが「誰が連れてきた?」と問うと、受付の女性が「男性。アレルギーらしい」と応えるんだけど、それに対してフランクが「イブリン」とつぶやいていた。ここは、アレルギーという言葉から、里親のところにイブリンが来てる、と察したんだな。で、保健所から引き取った他の猫は、いままさに処分されようとしていた猫をみなもらってきた、ということか。
あとは・・・。フランクになかった保険は、健康保険だったか。それはないと困るよな。でも、それって、オバマケアのこと?
それと。メアリーがピンポン玉が好きだってのは、あったっけ? ピアノにこだわるのは、なんで? あと、フランクが戸棚の中を開けると、バケツとボールみたいなのがある場面、あれはなんなんだ?
海を駆ける5/31テアトル新宿監督/深田晃司脚本/深田晃司
allcinemaのあらすじは「日本からアチェに移住し、NPO法人で災害復興の仕事をしながら大学生の息子タカシと暮らす貴子。彼女がタカシの同級生クリスとその幼なじみでジャーナリスト志望のイルマの取材を受けているとき、海岸で身元不明の日本人らしき男性が発見されたとの連絡が入る。男のもとへと向かった貴子は、記憶喪失らしい男をひとまず家で預かり、海を意味する“ラウ”と名付ける。いつも静かに微笑んでいるだけのラウだったが、やがて彼の周りで不可思議な現象が起こり始める」
Twitterへは「海は恵みももたらすし災難ももたらす的なことを長々だらだら盛り上がりもなく主人公が誰なのかもよく分からないような流れで話だけ広げてほとんど何も回収しないような退屈極まりない107分だった。」
『淵に立つ』の監督なのか。分かるような分からないような。しかし『海を駆ける』は中途半端なファンタジーで、それ以上の深みがない感じ。ラウは名前の通り海の精のような存在で、恵みをもたらす代わりに津波や水難事故をもたらすものとして登場させているのだろう。ラウの不思議な能力は、そうした力のメタファーだ。でも、だからなに? と思ってしまう。だからあきらめろ? そのようなものとして見ろ? そんなこたあ誰でも知っている。それをいまさらいわれても、ねえ。
イルマという娘は、裕福だったけど津波に呑まれて財産を失い、大学にも行けなかったという設定。でも、その父親は、何かの独立運動で足をケガし、歩くのが不自由な感じ。でも、父親は「日本人が」どうたらと嫌っていて、独立運動と日本人が、どう関係するのかつたわってこず。それに、海とも関係ないだろ?
貴子と息子のタカシは、裕福。では、2人と海との関係は? 貴子の復興支援だけ? タカシと海との関係は、あるのか? せいぜい、友人クリスとその幼なじみのイルマが貴子の取材を手伝ってるぐらいなもんだろ? まして、タカシの従妹サチコは、どういう位置づけだ? 大学を辞めて(なぜに?)部屋に引きこもり、突然インドネシアに行く、とやってきた(なぜに?)らしいが。引きこもりがなぜにインドネシア? 父親の遺骨を海に撒くため? でも、その遺灰はどっからもってきたんだ? ではその父親は、なぜにインドネシアのトーチカから海を見ているのだ? 戦争? でも、時代が違うだろ。戦争にいった人たちは、もう90歳を超えている。そんな人は、この映画にでてこない。
あれこれ思わせぶりで話を広げ、でも、その背景はほとんど語らず、分かれ、ってか? やだよ。調べるのなんか。
陸に運ばれたままの大きな船が登場する。津波=海の怒りの象徴か。でも、丘にあげられた船に見えないのが残念なところ。あれじゃ、ただの廃工場にしか見えない。
で、最後、ラウは子供たちを水難事故で数人川に引きずり込み、でも自分はへらへら笑いながら「帰る」と海の上を走りぬけていく。それを追うタカシ、サチコ、クリスも海の上を走る。ラウが海中にもどると、タカシたちし水没し、カメラは上空へ。で、オシマイ、なんだけど。つまらん時間を過ごした感じが拭いきれない。
・この映画、ベターっとした展開で、どこに向かって行くのか分からないままラストに突入する。盛り上がりはない。主人公も、だれ、とは言えない。集団劇というわけでもない。平板そのものだ。だから、ひとつも引き込まれないし、次への期待も生まれない展開。
・とくに、なんだか良く分からなくなるのは、サチコがトーチカに行きたいといい、クリスが連れていってやる、と約束したあとの場面から。クリスは、修理から戻った電話をつかい、ノートの電話番号にかける。「使われておりません」とメッセージ。波止場にはタカシとサチコがいて、サチコは「クリスが来ない」と不満をいう。クリスがくると2人はいない。フェリーがもうすぐ出るといっている。乗るのか? そこにイルマが来るんだったか。イルマは「次のフェリー」という。次の場面で、イルマとクリスはフェリーの中。そこにタカシがやってきて、「どうした?」などと。フェリーの屋根で、サチコがクリスを詰問し、なぜ遅れたのか、なぜイルマと一緒なのかと問い詰め、殴る。クリスは「電話したんだが・・・」といい、試しにかけるとタカシのポケットから呼び出し音。なーんだ、で仲直り。・・・しかも、この間、別のところにいるラウや、あと、たしか、どっかのベランダみたいなところにいるサチコの姿も映ったり。しかも、場面ごとに衣装が違うから、同じ日とは思えない。というような、時制を見出したようなシーンがつづいて、混乱する。あれはなんなんだ? これもラウが仕組んだ不思議のひとつなのか?
・貴子の知人の女性ジャーナリストは、イルマの撮影したラウの超能力動画を「自分が撮った」としてプレス発表する。この仕事の汚さは、どういう意味があるんだか。訳分からん。

 
 

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