2018年7月

万引き家族7/6109シネマズ木場監督/是枝裕和脚本/是枝裕和
allcinemaのあらすじは「高層マンションの谷間にポツンと取り残されたように建つ古びた平屋の一軒家。そこに治と妻・信代、息子・祥太、信代の妹・亜紀、そして家の持ち主である母・初枝の5人が暮らしていた。治は怠け者で甲斐性なし。彼の日雇いの稼ぎは当てにならず、一家の生活は初枝の年金に支えられていた。そして足りない分は家族ぐるみで万引きなどの軽犯罪を重ねて補っていた。そんなある日、治は団地の廊下で寒さに震えている女の子を見つけ、彼女を家に連れ帰る。ゆりと名乗るその女の子は、両親のともに戻ることなく、そのまま治たちと暮らし始めるのだったが…」
Twitterへは「『誰も知らない』の子供に社会不適応な大人を足したような感じ。たいして罪のない三面記事の愚かな事件を寄せ集め、いかにもな話に仕立ててる。上手いけど、あざとい気もしないではないかな。」
タイトルに「万引き」とあるけど、家族全員がしてるわけではなく、この家族の犯罪のほんの一部でしかない。基本は初枝の年金に頼っていて、のちに初枝が亡くなってから、届けを出さずに地下に埋葬し、不正に年金を受け取る、というのが一番大きな犯罪かな。まあ、死体遺棄もあるだろうけど。
他に現金は、父・治がときどき稼いで、母・信代がパートをしている。亜紀はのぞき部屋だから、一番稼いでるんじゃないかな。万引きは、もっぱら治と祥太のコンビ。こちらはたいした金額にはならんだろ。日用品とかだから。
そういうセコイ犯罪をしているわけだけど、でも、観客はこの一家にたぶん共感し、同情しちゃうはず。政治が悪いとか制度がよくないとか。多分だけど。そういうつくり、見せ方が上手いというか、やはりあざといと思う。
でも、よーく考えれば、家族全員社会不適応のダメ人間ばかりで、働くのが基本嫌いな連中ばかりなのだ。でもこれは映画で、役者が演じているから凶悪さや性悪さ、気味悪さは薄らいで見えてしまう。はたしてそれでいいのか?
監督は、答を提示しない。これまでの映画でもそうだけど、こういうことがありますよ、と提示して終わる。こうしたらよいだろうという提案はしない。これまた、あざとい感じ。問題提起は、知的でカッコよく見えるからね。でも、リベラルな人々と同じく、現実のあれこれを考慮しない問題提起だから、ある意味でそれは容易なのだ。じゃあ、どうする? が政治や社会活動では一番難しい、と思う。そこを回避して、つくられた映画。とても感動とはほど遠いけれど、強く訴えかけてはくる。でも、見ている側も、どうすればいいか分からないまま、になってしまう。はたしてそれでよいのかね。
亜紀は、初枝の元亭主の家の人間だ。どういう別れ方をしたか知らないが、元亭主が再婚し、そこの孫娘。それがなぜ初枝と共同生活するようになったのか。とても疑問ではあるけどね。それと、ときどき初枝は元亭主の家を訪れ、わずかなお金をもらっていたようだけど、元亭主に弱点があったのか?
虐待両親から娘・ゆりを救ったのに、それが原因で治たちが逮捕され、虐待両親はテレビで被害者家族として紹介されるとか、矛盾した話をピタリと物語の中にはめ込むとか、お見事。
ケイト・ブランシェットが泣いたという、信代(安藤サクラ)の独白涙シーンは、うーむ、な感じ。
あなたの旅立ち、綴ります7/12ギンレイホール監督/マーク・ペリントン脚本/スチュアート・ロス・フィンク
原題は“The Last Word”。allcinemaのあらすじは「ビジネスで成功し、何不自由ない老後を送るハリエット。ある日、新聞で他人の立派な訃報記事に接した彼女は、自分の訃報記事の内容を知りたいと思い立ち、さっそく馴染みの地元新聞社に原稿を依頼することに。しかし担当を押しつけられた若手記者アン・シャーマンが周囲に取材してみると、自己中心的なハリエットの評判は散々なものだった。こうして出来上がった原稿に落胆したハリエットは、“最高の訃報記事”にするために自分を変えようと決意するのだったが…」
Twitterへは「山なし谷なしメリハリなしのだらだら話で早々に少し寝た。話も、で? な感じでなんだかよく分からず。」
あー、こんな映画、見たな、な思い出・・・。といってもわずか20日ぐらい前の話だが。そもそも「自分の訃報記事の内容を知りたいと思い立ち、さっそく馴染みの地元新聞社に原稿を依頼することに」のところが弱いと思う。演出なのか、テキパキ画面が切り替わっていくけど、説得力とはほど遠い。でも、なぜ彼女は、よく書かれたいのだ? というところがよく分からんので、話に入れないのだよ。
あと、よく分からんのが、彼女の現在の立場。かつて創業した会社は、すでに辞めているのだよな。だったら、いくらかつて広告を掲載していたからって、新聞社はハリエットの命令を無視してもいいんじゃないのか? でも、最後の方では、かつての会社の、あれは自分の頭文字なのか? をクルマにロープをつけて引き千切っていたけれど、ハリエットは会社を追われた? 現在の経営者たちは苦い顔してたけど、かつての部下? は今でも親身にサポートしてるし、現在の若い社員たちからも支持されるてる様子。あのあたりの経緯がよく分からんので(寝てたときに説明があったのか?)、ここもまた、「?」なのだ。それに、ハリエットを悪くいう人たちと、よく言う人たちの、その根拠もよくわからんし。
まあ、全体に、つくりがチャラチャラしてて、いまいちであるけど、輪を掛けて、よく分からん、という感じ。
そういえば、旅の途中だっけか、3人(ハリエット、アン、あと黒人少年)で夜中、池に入る必然性はあるのか?
しかし、いまどき訃報記事に精を出してる新聞なんてあるのかね。
ベロニカとの記憶7/12ギンレイホール監督/リテーシュ・バトラ脚本/ニック・ペイン
イギリス映画。原題は“The Sense of an Ending”。allcinemaのあらすじは「ロンドンで中古カメラ店を営みながら平穏な年金生活を送っていたトニー。ある日、法律事務所から一通の手紙が届く。そこには、初恋の女性ベロニカの母親セーラが亡くなり、一冊の日記が彼に遺贈されたと記されていた。しかしその日記は、トニーの学生時代の親友エイドリアンのものだった。彼はトニーと別れたベロニカと交際し、やがて自ら命を絶ってしまった。そんなエイドリアンの日記をがなぜセーラが持っていたのか。しかも今はベロニカのもとにあり、トニーへの引き渡しを拒んでいるという。思いがけず過去の記憶と向き合い、日記を読まなければとの思いを募らせ、ベロニカとの再会を決意するトニーだったが…」
Twitterへは「ミステリアスなのは人間の心で、自分に都合よく過去を変えたり忘れたり。最後になっても、正しく過去に向き合えてない主人公の、少し壊れたストーカー具合がなんだかな。なんだけど、人はみなそういうものなのかもね。」
まあ、ミステリアスな展開ではあるのだけれど、すべてがクリアに明かされるわけではないので、すっきりとはしない。いやその前に、残された日記にこだわってしつこく迫っていくトニーの心境も、よく分からないしね。だいたい、過去の事実も小出しに明かされたりするので、輪郭もなかなかつかみづらい。まあ、ミスリードさせつつ、もっていこう、という魂胆かな。
パブで、エイドリアン達を引率する男がトニーに言った「ベロニカはエイドリアンの姉で、母親はセーラ」という引率男のセリフの意味が分かるまで少しかかった。やっと分かって、考えながら見ていったのだが。ということは、エイドリアンはベロニカの母親の息子ということか。トニーがベロニカ宅に行った折り、セーラがトニーにモーション掛けてる風なところもあったし、トニーが帰るとき下の方で手を振っていたけど、あれは、あのとき2人の間に性交渉があったということ、だよな? 違うか? でも、トニーは若いエイドリアンを、友人エイドリアンの息子と断じていた。まあ、名前もエイドリアンだから、そうなのかも知れないけど、トニーの子という線がなくなってはいないよな。どうなんだ。時期が合わない?
もしかして、実はやっぱりベロニカが生んだ子供で、でもそういうわけにいかないから、母セーラの子供として育てた、ということもあるかも知れないよな。などと。
トニーは元妻に「ベロニカともセーラともやってない」と明言してたけど、ベロニカとやってるような場面がでてきてるぞ。でも、あの時期がよく分からない。エイドリアンが自死してから後のことか? だとしたら2人とも精神的にどーかしてるだろ。それにしても、時間の流れが分からんところがあって困る。意図的?
そもそも、彼らは画面に登場したときから大学生なのか? 1人が遅れて講堂にやってくる場面が繰り返されるけど、遅れてきたのはエイドリアンかな。あのときは、高校生? もしかして、あれ、反対向きに座っていたから、卒業生? でも。エイドリアンは転校生なんだよな。よくわからん。女生徒はいなかったよな。
で、パーティ抜けだしてトニーがライカいじってるベロニカと声を交わしたのは、あのときは大学生? ケンブリッジ? んで、ベロニカとエイドリアンがつきあい始めたときあたりの経緯はまったく描かれず。まあ、端折ったでいいけど、時間の経緯がつたわってこないのよね。時間が経っているのであれば、若きエイドリアンはトニーの子供ではないかも知れないし。でも、情報だけで、あれは親友エイドリアンの子供、といわれてもなあ。ベロニカとつきあうと、母親も一緒に付いてくる、がお決まりなのか? などと、もやもやは尽きない。
エヴァ7/13ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ブノワ・ジャコー脚本/ ジル・トーラン、ブノワ・ジャコー
原題は“Eva”。allcinemaのあらすじは「急死した作家の戯曲を自分の作品として発表し華々しいデビューを飾ったベルトラン。しかし、ほどなく2作目のプレッシャーに押しつぶされそうになる。そんな時、執筆のために訪れた別荘地で、謎めいた娼婦エヴァと出会い、たちまち心を奪われてしまうベルトランだったが…」
Twitterへは「初めの1/3ぐらいはミステリアスでよかったんだけど次第にぐだぐだ。ただのダメ男の話になって、最後も、いかにもかつてのフランス映画らしいよくわからん出来上がり」
冒頭の、劇作家のアシスタントみたいなことをしているベルトランと、劇作家の死の場面は、なかなかの緊張感。なので期待したら、どんどんグズグズになっていく。いや、そもそもベルトランは劇作家の何で、いかにデビューしたか、もよく分からんので、少しいらつきもしたけど。
で、ベルトランには若い彼女もいるのに、地方(彼女の別荘?)で出会ったエヴァにしつこくからみ、エヴァの語る話を採録して芝居にしようとするんだけど、もともと才能が無いらしく、ホンにならない。なので、どんどんエヴァに接近していく・・・のだけれど、どうして50過ぎの娼婦にメロメロになるのか、というところがまったくつたわらないので、共感も何もない。残念。
エヴァは夫持ちで、でも現在は就労中で、古物商かなんかで違法行為をしたんだっけかな。その夫には献身的。というところは、まったくフツーのオバサンで、とくに魅力があるようにも見えないし・・・。ミステリアスでもない。なんか、いまいちなのだ。
最後は、ベルトランがエヴァに入れ込んでることを知った恋人が逆上し、冬の山道で運転を誤って墜落・・・死んだと見ていいと思うが。その現場を、チラと覗くベルトラン。とかいうあたりで終わったんだっけか。話をあれこれ広げたけど、ほとんど何も回収すること亡く、ほったらかしな感じで、昔はこの手の噺が多かったよなあ、フランス映画、という感じ。
正しい日 間違えた日7/17ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ホン・サンス脚本/ホン・サンス
韓国映画。英文タイトルは“Right Now, Wrong Then”。allcinemaのあらすじは「特別講義をするために水原(スウォン)を訪れた映画監督のハム・チュンス。スタッフのミスで1日早く着いてしまい、街を散策することに。すると魅力的な女性ユン・ヒジョンと出会い、絵を描いているという彼女のアトリエまでやって来るチュンスだったが…」
Twitterへは「女たらしの映画監督が、自称画家の娘をナンパする話。だらだら会話はつまらなくはないけど、腑に落ちないところが多いので手放しで面白がれん。ズームアップと首振りの多用はやめてくれ。キム・ミニは正面からだとそんな可愛くない。」
allcinemaの解説に「同じ設定でありながら些細な違いだけで対照的な結末を迎える2つの物語を、2部構成で描いた異色のラブ・ストーリー」とあるけど、対照的な結末ではないだろ。少しズレてる程度だろ。東京国際映画祭のときの題名は『今は正しくあの時は間違い』で、この方が英文タイトルの“Right Now, Wrong Then”に近い感じ。
なんかな。たまたま観光地で声をかけられた自称監督に1日ずっとつき合ってしまう若い女というのは、なんなんだ? はたまた、若い女に「ボクは映画監督でむと声をかける中年オヤジはなんなんだ、という基本的な疑問があるのだけどね。
ヒジョンのアトリエで、チュンスが彼女の絵について感想を言った内容で少し険悪になるのが後半だったかな。でも、前半と同じように、一緒に飲み屋に行っちゃうし、その後、先輩の家にまで行ってしまう。図々しい監督だ。で、前半では、悪酔いしてるとはいえ、フツーに帰っていった前半。先輩の家でパンツを脱いで裸になってしまう後半。なんだ、この差は。しかも、最後、ヒジョンを送って、別れるとき。後半の方が、ヒジョンのチュンスに対する思いは、愛に満ちているという不思議。
まあ、とはいえ、前半も後半も、最後はなんの後腐れもない感じで、監督はソウルへ。ヒジョンは家へと戻る。うーむ。で、何が言いたいんだ? な感じ。たんに、女好きで浮気な監督の(って、どの映画でも登場する監督は同じようなキャラだ)、スケコマシ具合を描いているということか? よー分からん。
クレアのカメラ7/18ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/ホン・サンス脚本/ホン・サンス
フランス/韓国映画。原題は“La cam?ra de Claire”。allcinemaのあらすじは「映画祭開催中のカンヌ。出張に来ていた映画会社の社員マニは、女社長から突然の解雇を言い渡され途方に暮れる。カンヌの街で時間を持て余していた彼女は、ポラロイドカメラを手に観光している風変わりな女性クレアと出会い、親しくなっていく。その一方でクレアは韓国の映画監督とも知り合うのだったが…」
Twitterへは、「説明不足なところはあるけど、説明しちゃうと面白くなくなっちゃうんだろうな、と思いつつ、でもたいして謎もないし、相変わらず男の監督は酔っぱらいで女たらしで。でやっぱり、ズームは使うな! と言いたくなるという」
ちとエキセントリックな感じで、クレア自体が変なオバサン。そのクレアが知り合うのが、マニと監督で、それぞれ偶然というのも、都合がよすぎるけど、まあいいか。
首を宣告されるのは、女社長の嫉妬。もともと女社長と監督はデキてて、売れない頃から支援してたみたいな感じ。だけど、監督がマニに手を出した。のは事実だったか、誤解だったか、忘れたけど。まあ、そんなわけで、首にしたわけだ。でも、最後には、マニは復職してたような気配なんだけど、ざっくりカットされてるので、つながりがよく分からない。けどまあ、クレアは仲を取り持つトリックスター的な存在で、だから、不思議な人物、ということでいいのかな。
気になったのは、カンヌなのに、クレアは英語で話しかけられ、応じているのだよな。クレアがフランス語を話すのは、自分の書いた詩集を読むときぐらいだったかな。でも、自分の詩集が書店で売られていると言うことは、無名ではないということかな。
しかし、ホン・サンスの映画は、映画監督がやたら登場するし、ズームアップや首振りパンも・・・。それが監督のやり口なのかしら。うーむ。
ルームロンダリング7/19シネ・リーブル池袋シアター2監督/片桐健滋脚本/片桐健滋、梅本竜矢
allcinemaのあらすじは「幼い頃に父を亡くした上、母親にも失踪され、祖母に育てられた八雲御子。やがて、その祖母も亡くなり18歳で天涯孤独の身となった彼女だったが、祖母の葬式で母の弟・雷土悟郎と出会い、あるバイトを紹介される。それは、事故物件に一定期間住み込むというもの。人付き合いが苦手な御子にはうってつけの仕事と思われたが、行く先々でこの世に未練を残す元住人の幽霊たちと遭遇してしまう。そして嫌々ながらも彼らの悩み事を聞くハメになる御子だったが…」
Twitterへは、オカルト版の『アメリ』だった。池田エライザがかわいい。建物とか美術に凝ったらもうちょいよくなる感じがするんだけど、まあしょうがないか」
原色の緑と赤。衣服やブランコ、背景に多用されている。あと、空の飛行機をつまんでしまうところとか。でもって、御子のエキセントリックなところなんか、アメリそのもの。でもそれはデメリットではなく、うまく機能してると思う。名前が御子=巫女で霊が見える設定とかも、そうだったのね、な感じ。題名から、ルームロンダリングの過程で起こる様々なこと、かと思ったら、そこで亡くなった霊たちとの交流だったとはね。
とはいえ、深みが足りないのは、場所が安アパートにワンルームマンション的なところばかり、だからかも。ステンドグラスのある洋館とか、庭に緑の家とか、もうちょい凝ると、ミステリアス度もましかかな、と。
で、最後まで引っぱるのは、自分を捨てた母親、なんだけど。祖母の葬式に現れた不動産屋が、いずれ身内なんだろうとは思っていたけどやっぱりそうで、実母の弟=叔父だった。まあ、ミエミエだけど、それはいい。問題は母親の存在で。御子には、自分を捨てて消えた、というトラウマが残っているのだけれど、そんなのさっさと周囲が解消してやればよかったじゃないか、なんだよね。はっきりは描いてないけど、父親の死後、母親は精神を病んで病院に入ることになって、それで祖母に育てられたんだろ? それを御子にいままで伝えなかった理由はなんなんだ? ないよな。つたえてはならなかった理由なんて。
まあ、最後に母親と邂逅したら、母親も幽霊だった、というオチはいいけど。でも、そんなのあった瞬間に「幽霊」って分かるんじゃないの? そうではないのか?
あとは、同級生だったらしい少年がときどき登場するけど、彼の素性がよく分からないのが、うーむ、かな。御子とは、何があったんだ?
志乃ちゃんは自分の名前が言えない7/23新宿武蔵野館1監督/湯浅弘章脚本/足立紳
allcinemaのあらすじは「高校一年生の新学期、吃音に悩む大島志乃はクラスの自己紹介で自分の名前も上手く言えずに笑い者になってしまう。以来、ひとりぼっちの高校生活を送る志乃だったが、ひょんなことから同級生の加代と友だちになる。音楽が好きでギターは弾けるのに音痴な加代は、志乃の歌に心奪われバンドに誘う。そして文化祭を目標に猛練習を始める志乃と加代。そんなある日、志乃をからかったお調子者の男子・菊地がそんな2人の姿を見て、強引にバンドに参加するのだったが…」
Twitterへは「なんで日本映画って、この手の話をいつも悲劇+お涙ちょうだい+感度物語に仕立てるのかね。音痴のせいで引きこもってるやつなんて知らんし、明るいどもりも知ってるぞ。」
原作はあるようで、作者の実体験が元になっている、らしい。とはいえ、あそこまで悲観的に毎日を送るものかな、というのが感想。というのも、どもりの人は何人か体験しているし、中学のときの同級生など、とても明るかったからだ。もちろん「それはうわべだけ。本心は・・・」という反論もあるかも知れない。であれば、うわべは明るいキャラにすればいいわけで、この映画の主人公は、人前ではまったく口がきけないのだ。
あと、歌うときはどもらない、というのもよく知られていることで、話の展開としてはミエミエ。
そんな志乃が友だちにしようとしたのが奇妙な同級生で、でもその加代にも音痴という劣等感があった、という展開は、なんだかな。音痴なんていくらでもいるし、悩んでもしょうがないことだ。音痴でも耳のいい人はいるし、作曲もできる。なんか、2人の出会いとか、とてもつくられた感がして、いまいち心に触れてこない。
あと、最大の違和感は、菊地の参加で志乃がひがみだすのは、佳代と菊地がフツーに会話して仲良くなっているのを見て、仲間はずれになった感が高まったからだろ? なのに、いつまでうじうじして。最後の、学園祭みたいな所で、加代の歌が終わったとき、なんとか声を出して主張するところで、うまく話せないから云々的なことを言う。ありゃ変だろ。嫉妬した、ってはっきり言えばいいじゃん。なんだこの娘。
なわけで、感動も同情もできず、うーむ、な感じで見てた。
あ、それと。音痴な加代が最後にステージで歌うシーン。音痴の威力を発揮するのかと思ったら、ほとんどフツーに歌えていて。それはないだろ。音痴のままで歌えよ、と思ったな。いやじつは、ここの場面で、音痴でバカにされる加代を見るに見かねて志乃がステージに駈け上がり、代わりに歌うんだろう、。と思っていたので、あのラストのどもり演説にはがかりだったのだ。残念。
夜の浜辺でひとり7/25ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/ホン・サンス脚本/ホン・サンス
英文タイトルは“On the Beach at Night Alone”。allcinemaのあらすじは「既婚男性との不倫が暴かれ、逃げるようにドイツのハンブルクにやって来た女優のヨンヒ。会いに来ると言っていた恋人を半信半疑のまま待ち続けるが…。その後帰国したヨンヒは、東海岸の都市、江陵(カンヌン)を訪れ、昔なじみと再会して旧交を温めるが…」
Twitterへは「背景も経緯もよく分からず、会話も駄話がだらだらつづくだけで、とてもつまらない。少し寝た。」
『それから』『正しい日 間違えた日』『クレアのカメラ』につづいてのホン・サンスだけど、一番つまらなかった。やっぱり、背景が分からなくて散文的にだらだら映像がつづき、後から思うにたいして意味のない会話が蔓延してると、ついていってやろうという気持ちが失せる。妻子ある男との恋に破れ・・・とか行ってるけど、やってきたのがハンブルグ、という説明もないしな。ヨンヒが女優、と分かるのは後半も半ばを過ぎたあたりで、だからイライラもピークを過ぎてあきらめた頃だからな。
で、帰国してだらだらしてると浜辺で知り合いの映画スタッフに会って。でも、まだ女優だとははっきり分からない状態で・・・。で、なぜか知らんが、件の監督(浮気相手なんだろ?)も交えて飲むことになって。なんか知らんが酔ってからむ場面など、なんだかな。知らんよ。どーでもいい。な感じ。
という中で、この映画がキム・ミニの正面からも含めて、ちゃんと撮れていて。顔がはっきり分かった。他の映画は横からと遠景ばかりで、正面も不細工に映ってる。まあ、この映画は、ちょっと可愛く撮れてるかな、な感じ。
ゴースト・ストーリーズ 英国幽霊奇談7/27ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/ジェレミー・ダイソン脚本/ジェレミー・ダイソン、アンディ・ナイマン
イギリス映画。原題は“Ghost Stories”。allcinemaのあらすじは「オカルトを否定し、英国各地で発生する様々な超常現象のトリックを暴いてきた心理学者のフィリップ・グッドマン教授。ある日、そんなグッドマンのもとに彼が憧れるベテラン学者から、どうしても解明できない3つの超常現象の調査を引き継いでほしいとの依頼が舞い込む。こうしてグッドマンは、妻に先立たれた初老の夜間警備員、両親との関係に悩むティーンエイジャー、妻が出産を控え入院中の金融マンという3人の超常現象体験者に話を聞くべく旅に出るのだったが…」
Twitterへは「オカルト否定派の学者や教授が戦慄する・・・ほどの幽霊譚じゃないので拍子抜けの前半。眠かった。後半は奇妙な具合に話がねじれて面白くなりかけるけどすでに時遅し。ホラーというより心理サスペンスな感じだなあ。」
ほんとに3つの超常現象がたわいなさすぎて、なんじゃこれ。脅しも音圧の強い音楽とSE、突然のなにか、で、本質的に不可解=ブキミがない。前半がこれなので、眠くなった。のだけれど、少しずつ異常がグッドマンに迫っているのは、分かる。たとえば自分のクルマの運転席に自分がいたり。なんじゃこれ、は後半への予兆なんだろうけど、いまいちなんだよね、引きずり込み方が。
で、グッドマンが依頼者の学者のところに報告に行くと、学者が面の皮を引き千切り、でてきたのは金融マンで。その後、ちょっと忘れたけど、事故かなんかで入院したグッドマンを診ている看護師がティーンエイジャーで、掃除夫が警備員という・・・。で、医師が金融マンだったかな。ってことは、もしかしてすべてはグッドマンの夢あるいは妄想? もしかして、グッドマンが自殺か何かして、それで入院して・・・? などと想像がふくらむけど、伏線が弱いし広がりにも欠ける。もうちょっと妖しを前半から仕込んでおいて、でもって後半で爆発、にしてくれないとな。
ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー7/30MOVIX亀有シアター3監督/ロン・ハワード脚本/ジョン・カスダン、ローレンス・カスダン
原題は“Solo: A Star Wars Story”。allcinemaのあらすじは「惑星コレリアで生まれ育った若者ハン。銀河帝国の暗黒支配が激しさを増す中、自由を求める彼は幼なじみのキーラとともに故郷からの脱出を図るも失敗、2人は離ればなれに。やがて銀河一のパイロットとなってキーラを迎えに戻ると誓い、帝国軍のパイロットを目指すハン。しかし3年後、彼は帝国フライト・アカデミーを追放され、歩兵として戦場に送られる。そこでウーキー族の戦士チューバッカと出会うハンだったが…」
Twitterへは「いつか見た冒険映画をSW用に仕立て直した感じ。つまらなくはないけどワクワクしない。どんでんな展開も、そもそもSWは善が悪に突然変異する話だからな。むしろヒロインのダークを見たかった感じ。」
少し疲れていて眠かったけど、なんとか。しかし、アナログ感もはなはだしい。最初のカーチェイスは、あれはホバークラフト? コアキシウムを運ぶモノレールとか、なんで崖にレールを敷設する必要があるんだ? 照準器は単純線で、エピソード3〜のを踏襲? まあ、新3部作がレトロ復活路線だったからな。その方が受けるのかも。
地方のボスの上にボスがいて、さらにその上に大ボスがいて、さらに・・・って、ヤクザ映画みたいだな。まあいいけど、で、最後に登場する大ボスは、顔が紅い。覚えはあるけど、よく分からん。調べたら、ダース・モールで、これが、ヒロイン・キーラの上司になるのか。で、キーラって、どうやってギャングの親玉ドライデンの副官になったんだ? ドライデンの女? とか、そっち方面に気が向いてしまう。だって、ギャングでありながら、見かけは清楚な可愛さで、まだハン・ソロに惹かれてるみたいだし。
ミレニアムファルコンの元の持ち主、ランドの相棒が女型ロボットで。ロボットにも性別があるのかよ、な話だが。ランドはロボに恋して求婚するけど拒絶される、というのが近ごろのLGBTの話題と関連して興味深いんだけど、この手の話は、いつも有色人種に任されるんだよな(ランドは黒人)。宗教的な理由でもあるのかね。でそのロボットは突然、奴隷解放運動に目覚めるんだけど、直後に撃たれて死んでしまう。ところが、宇宙の道を知りつくした頭脳が、ミレニアムファルコンの頭脳として生き残るというエピソードがあって。これはまさに生体移植だよなあ。うまく話をつくるもんだと思ったかな。
ところで、ハン・ソロはランドとの賭に負けたのに、なんで追及されず、一緒にコアキシウム掠奪にでかけちまうんだ?
ハン・ソロは、「ハン」としか呼ばれていなかったのか? 通関で係員が、独り身だというので「ソロ」という姓をつけるんだけど。その後に、ハン・ソロの父親はどうたらという話もでてきて。じゃあ姓がないという話は変だろ。
トバイアス、ヴァル、宇宙人のトリオは、たんにドライデンに雇われたギャングなの?
その3人からコアキシウムを奪う仮面集団は、実は反帝国のレジスタンス?
まあ、要素の紹介というところもあるのかな。今度は、こっちのシリーズがつづくのかしら。ファンは大変だね。
しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス7/31ギンレイホール監督/アシュリング・ウォルシュ脚本/シェリー・ホワイト
カナダ/アイルランド映画。原題は“Maudie”。allcinemaのあらすじは「カナダ東部のノバスコシア州。小さな町で叔母と暮らしていたモードだったが、幼い頃からリウマチを患い、手足が不自由なために両親が他界した後は、一族から厄介者扱いされ、孤独な日々を送っていた。束縛の厳しい叔母との生活に辟易し、早く自立したいと考えていた。そんなある日、買い物先で家政婦募集のビラを目にしたモードは、住み込みで働くことを決意する。募集を出した男は、町外れの小さな家でひとり暮らしをしているエベレット。孤児院育ちの無骨な彼は、いきなり押しかけてきたモードに戸惑いつつも、彼女の熱意に押されて雇うことに。しかし理不尽で暴力的なエベレットとの同居生活は案の定トラブル続き。それでも自由を手にした喜びを噛みしめ、大好きな絵を家のあちこちに描き始めるモードだったが…」
Twitterへは「はじめのうちは、気の毒より扱いにくい女だな、てな感じでじれったかったんだけど。次第に、じわりと沁みてきた。とはいえ、いくつか疑問は残るんだけどね。」
亭主役はイーサン・ホークで、モード役は『シェイプ・オブ・ウォーター』サリー・ホーキンス。でも、エンドクレジット前の実写フィルムみたら、モード本人は結構美人で、亭主のエベレットの方がいまいちな感じ。亭主役がティモシー・スポールあたりで、モードをもうちょい美形が演じたらちょうどいい感じかね。主人公をブスにして、意地悪亭主をハンサム俳優にした理由は。なんだろ。
家政婦を雇うつもりのエベレット。求人の貼り紙を見たのが、モード。押しかけ家政婦で、嫌がるのをむりやり住み込んで・・・という流れ。しかも、エベレットはモードが描くのを好まなかったけど、Wikipediaを見ると、エベレットはいい奴で、身体が不自由なモードのために家事をしてるし、絵も、彼の方から売りに行ってる様子。映画では、ニューヨーク帰り(?)のインテリ女性がモードの絵を見出して・・・な流れになってるけど、多分、創作だな。彼女が画商と連絡をとって、値がつきはじめる・・・と予想したけど、大ハズレだった。
あと、雑誌に載り、テレビで放送され、ニクソン副大統領が買った! となれば画商が付いて・・・と思ったら、そんなこともないようで、これが疑問。いつまでも1枚5ドルで売ってたわけじゃないんだろ? 映画では、あの小さな家に生涯住んで、最後まで家で売ってた様に描かれてるけど、そうなのか? モードが生きているとき、最高でいくらに売れたのか、気になるところ。
娘とは対面できたのかなあ。気になるけど、娘が知らないうちに里子に出されていたという設定も、創作のようだ。
モードは「もしかして小児マヒ?」と思っていた。後半も半ばを過ぎてから「リウマチ」という言葉が出て来た。もっと早く説明してくれよ。
モードは、逆境に強いという具合にしたかったんだろうけど、その煽りで兄はだらしなく勝手で、叔母もモードを邪魔者扱い、無学なエベレットは冷酷・・・という風にしてるのは、そうやって退避させるため、かも知れないな。

 
 

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