2018年9月

モリーズ・ゲーム9/7キネカ大森2監督/アーロン・ソーキン脚本/アーロン・ソーキン
原題は“Molly's Game”。allcinemaのあらすじは「女子モーグルのトップ選手として活躍していたモリー・ブルームは、五輪目前の大事な国内予選で転倒して重傷を負い、五輪どころか選手生命も絶たれてしまう。その後、LAで1年間の休暇をとることにしたモリーは、ひょんな成り行きからハリウッド・セレブやビジネス界の大物たちが高額を賭けて遊ぶ非合法のポーカー・ゲームでアシスタントをするようになる。そこで違法賭博のイロハを学んだモリーは、数年後には自ら地下カジノの運営に乗り出し、たちまち成功を収めるのだったが…」
Twitterへは「テンポが早い上に闇賭博×裁判話で漢字の専門用語+人名多数飛びかって早々と脱落。機微とか分からんとこの手の話は、あー、そーですか、で終わってしまうよ。」
というわけで、細かなカットと断片的な会話&説明でどんどん進む前半は、なんだなんだなんだ? な感じで。ついていくのが精一杯どころではなく、脱落した。彼女がのし上がっていく経緯も、なんかよく分からない。最初は何とかいう男の事務員みたいな感じで、それが賭博の仕切りも任されて・・・だったけど、そのボスも後半ではただのゲームの参加者みたいな扱いになって、借金地獄、みたいな話になっていた。あれがよく分からない。
そのボスのところを離れてホテルで賭場を開き大繁昌。では大儲けかと思うと、そんな稼ぎはないようで、これまたなんで? な感じ。最初からずっと参加していたマイケルは、どういう男なんだ? とか。もうちょい説明がないと、隔靴掻痒。なので、退屈。さらにまた、ポーカーかな、のゲームの様子をカードの説明付きで進めるところなどは、どの手が強いのか知らないから、あーそーですか状態。で、最後は本を出して、それが売れて、な話だったかな。でも、こっちにとっては、それがどうしただから何? なんだよなあ。うーむ。
ところでそもそもあの賭博は正統なのか? 判事だか誰だか覚えてないけど、いちいち確かめる場面があって、賭博自体は合法だけど、何かをすると違法、とかいうことで起訴されてたけど、その何かがよく分からないので、これまた、うーむ。とにかく、スッキリしない話だった。アメリカ人なら、まるっと理解できて大うけ、な話なのかね。よく分からん。
・・・というわけで、公式HPの“FACT”のページを見たら、概略分かった。なるほど。しかし、手数料を取らなければ合法らしいけど、では、賭けを行った参加者たちは、問われないの? とか、疑問が残るけどなあ。とはいえ、こういうことが日本人にもよく分かるようになってないと、ダメだな。以上。
女神の見えざる手9/7キネカ大森2監督/ジョン・マッデン脚本/ジョナサン・ペレラ
アメリカ/フランス映画。原題は“Miss Sloane”。allcinemaのあらすじは「大手ロビー会社“コール=クラヴィッツ&W”で働くエリザベス・スローンは、手段を選ばない巧妙な戦略と妥協のない仕事ぶりで高く評価される花形ロビイスト。ある日、銃擁護派団体から新たな銃規制法案の成立を阻止してほしいと依頼を受けるが、これをきっぱりと断るエリザベス。その情報を聞きつけた小さな新興ロビー会社のCEO、シュミットから誘いを受けると、彼女は部下を引き連れ電撃的に移籍し、規制法成立へ向けた大胆かつ巧妙なロビー活動を開始するのだったが…」
Twitterへは「つづいてのこれもロビー活動×公聴会という日本ではなじみのない話で脱落するかと思いきや、分からないなりに次第に面白くなってきた。設定とかちゃんと理解できてたら、もっと楽しめたかも。」
主演が同じジェシカ・チャステインで、話もロビー活動がどうたら。冒頭の話の展開もインドネシアがどうのと設定も背景もよく分からんまま進み、こりゃ難儀だな、寝ちゃうかも。と思いつつ見てた。そもそもロビー活動の概念が日本にないので、「?」の連続。なに、ロビイストって会社組織でやってんの? とか、引き抜きとか、なんだなんだ? だったんだが。しばらくすると銃規制法案に関して応援する側vs反対する側を支援する団体およびロビー会社の対決、という枠組みが見えてきて。細かなところは分からないままだけど、戸惑うようなことがなくなった。あとは一気呵成。ロビイスト同士の騙し合い、情報収集、足の引っ張り合いの連続で、投票する議員=票の奪い合いが刻々と進んでいく。なかなかスリリング。
この映画、切れ目がはっきりしてて、そこで話が鋭角的に変化していく。スローンの移籍に、信頼できる部下だったはずのジェーンが「ついていかない」宣言をする。移籍先の部下・エズメの過去・・・。公聴会に呼ばれてくるホスト男。そして、公聴会を仕切る上院議員と銃擁護団体ボスとの密会映像。最後は、ジェーンがトロイの木馬だったというという事実。そもそもジェーンは、インドネシア関係の書類を発見し、スローンが公聴会に引っ張り出されるきっかけをつくっていたのだから、まるっと誤魔化された。
すべてはスローンの仕組んだものだった! というオチは、ううむ、と唸ってしまう。だって、スローンは移籍する以前にいろんな仕掛けを埋め込んでおいた、ということになるのだから。
とはいえ、あの銃規制法は国会レベルで投票されるものなのか? にしては投票する議員が少ないような気がするぞ。まだ、日本で言うと委員会レベル、なのか? とか、疑問はあって、いまいち日本ではすんなり理解できるとは思えない。ある程度の前知識が必要なんではなかろうか。
では、スローンはどこまで仕組んでいたのか? ジェーンのスパイ、公聴会議長と銃擁護団体ボスとの会話録音、前の会社での安易なサイン→公聴会に呼ばれる・・・あたりまでは、そうなんだろう。では、彼女が男を買い、その男が公聴会に呼ばれる、とどうなんだろう? 発覚したのはホテルで遭遇し、男の方から声をかけ、それを相手方が目撃して、だった。でも、呼ばれた男は自分がホストであることやスローンと会ったことは認めたけれど、性行為は否定した。はたして、これもスローンの仕掛けで、実はセックスしていなかった、ということはあるのだろうか? ではなんのため? そもそも、男を買うような、ヤバイ橋を渡るとは思えんのだよなあ。彼女は。
それにしても、肉を切らせて骨を切る的なやり口が凄まじい。お見事、ではあるけれど、あんな具合に有名になっちゃったら、次の仕事がもうできんだろ。いや、もう、足を洗うつもりで、信念に基づいての行動だったのかな。
映画ではスローンが1年ぐらい拘留された、ということらしいけど。あれは、違法なインドネシアの関係でのことなのかな? それはさておき、銃規制法の投票の結果はどうなったんだ? 実際はまだ銃規制法は成立してないよな、多分だけど。
ウインド・リバー9/12ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/テイラー・シェリダン脚本/テイラー・シェリダン
原題は“Wind River”で地名。。allcinemaのあらすじは「アメリカ中西部ワイオミング州にあるネイティブアメリカンの保留地ウインド・リバー。ここで野生生物局の職員として活動している地元の白人ハンター、コリーはある日、雪の上で凍りついているネイティブアメリカンの少女の死体を発見する。彼女は亡くなったコリーの娘エミリーの親友ナタリーだった。やがてFBIから新米の女性捜査官ジェーンひとりだけがやって来る。検死の結果、ナタリーは生前にレイプされていることが判明する。犯人からの逃亡中に死亡したのは明らかだったが、直接の死因はマイナス30度にもなる冷気を吸い込んだことによる肺出血のため、FBIの増援を受けられないまま、ジェーンがひとりで捜査を続けることに。そこでこの土地に詳しいコリーに協力を要請、2人で事件の真相に迫っていくのだったが…」
Twitterへは「インディアン居留地が舞台で、冒頭からの流れは地味にいいんだが、後半になると極めてフツーな展開になってしまって、うーむ、な感じ。最後まで周辺を描いた方が身にしみるような気がしたな。」
居留地、殺人事件、不良インディアン、インディアン娘と離婚したコリー、ピューマ、荒涼とした雪原・・・。孤絶した地域の雰囲気が、じわじわくる。『ウィンターズ・ボーン』を連想した。ここでしか通用しないルールとか、捨てられた人々とか、じわじわ来そう、と。
被害者は18歳のインディアン娘。コリーも、娘を亡くしているらしいことも感じられて、そのアナロジーも深みが増す。そこにやってくるのは、何も知らない若い女性FBI捜査官ジェーン一人。コリーと地元警官が「舐めてるな」とつぶやく。被害者娘の兄と、地元のチンピラ兄弟を訪れるところで、いきなり銃撃、というのも驚き。しかも、その兄弟の家から雪上車の跡が延びて、たどっていくと被害者娘がつき合っていた男の死骸が見つかる。これは、どうなるのか、と引っぱってくれる。
とはいいながら、半ばまで、怪しい人物がまったく登場しなくて。意外な犯人、という流れではないのかな、と。
被害者娘がつき合ってた相手は、国の管理下にある施設かなにかで働いていた男らしく、でも地元警察には捜査権はなく、コリーはまったくの部外者。唯一ジェーンだけが捜査できる、らしい。という一団で件の施設に行くが、そこで働く数人が見るからに怪しくて、いきなり銃を向け合うシーンはなかなかの緊張感。まあなんとか収まって・・・。だけど、この場面、地元警官数人と施設の警備係たちの区別がつきにくいのが難点かな。まあいい。
で、ジェーンは死んだ男のコンテナハウスのドアの前に立ち、ノックする。カチリ、と開くと、被害者娘が彼氏を訪れた場面に戻り、事件の経緯を見せていくんだけど。これがいまいちフツーで、仲間がいないからと彼女を呼んでイチャイチャし、終わったところで酔った仲間が戻ってきて、2人をからかっている内に争いになり・・・。暴行された娘は裸足で雪原を逃げ、男は殴り殺された、らしい。
というシーンが終わった途端、現在に戻り、コンテナハウスの中からショットガン。吹っ飛ばされるジェーン。あとは、警官と警備係たちとの撃ち合いで。ほとんど倒れたところに、息のあるジェーン。まあ、防弾チョッキは着てたんだろう。警備係の一人が銃を向けるが、遠方からの一撃。これなどは、映画の冒頭でコリーが雪原のコヨーテだかを撃ち殺すのがダブる。もうひとつ印象的なのは、遠方からの銃撃で、コンテナハウスの中で吹っ飛ぶ男の場面かな。てなわけで、ジェーンは助かるんだけど、コリーが逃げた一人を追って、雪山で裸足で走らせ、肺からの出血でそいつは・・・という、被害者娘と同じ死に方を選択させる。
というわけで、意外な展開もドンデンもなく終わってしまう。うーむ、な感じ。とくに、被害者の働く施設のことが分かったあたりからは、冒頭からのじわりとした雰囲気もなくなってしまうし。
犯罪の内容も微妙で、集団レイプの果てに娘は逃亡し、雪原で死んでしまう。相手の男は撲殺だろうけど。むかしなら、それほど取り上げられる内容ではないかも知れない。女性の地位向上と意識の変化ゆえに、やっと問題化されるようになった、といえるのかな。べつに犯人たちを擁護するつもりはないけれど、もうちょっと犯罪に至る要因を妖しく描けなかったかなという気もしなくはない。雪山で周辺は居留地で、遊ぶところもなく、うつうつとしているところに、仲間の一人だけがインディアン娘とイチャイチャ・・・。
まあ、そういうことをすれば犯罪者になる、という自覚がないわけではないだろうに、暴走してしまう背景を見せてくれたら、あの環境の異常さも引き立ったかなと。
居留地に住むインディアンの問題にも触れているけれど、コリーも言っていたけれど、結局は自分の意志と選択が大事なわけで。軍隊や大学に行っていれば人生は違っただろうに、不良インディアンで終わってしまう人生もあったりするようだ。
事件を綿密に描くよりは、そういった周辺環境をじわじわともっと描いていたら、印象もまた変わったかもな。
・被害者男が、チンピラ兄弟の家の近くで裸で死んでいたのは、なんでなんだ? 犯人たちは、反対側にある施設から遺体を運び、あそこに捨てた? なんか、安易だよなあ。で、チンピラ兄弟は、事件には関わってないんだよな? 違うか?
ヒトラーと戦った22日間9/13ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/コンスタンチン・ハベンスキー脚本/アレクサンドル・アダバシャン、アンドレイ・ナザロフ、アンナ・チェルナコヴァ
ロシア/ドイツ/リトアニア/ポーランド映画。原題は“Sobibor”。収容所の名前だな。allcinemaのあらすじは「ナチスの収容所ソビボルには、多くのユダヤ人が何も知らされぬまま列車で運ばれてきていた。しかし、そこではガス室による大量殺戮が実行され、残った者にも壮絶な虐待が続いていた。やがて脱出を考える者たちが現われるが、強力なリーダーの不在ゆえに有効な計画がまとまることはなかった。そんな1943年9月、ソ連の軍人ペチェルスキー(通称サーシャ)が収容者として移送されてくる。ほどなく彼は反乱のリーダーになってほしいと要請される。そこでサーシャは収容者全員での脱出という、生き残るための困難にして唯一の計画を練り上げるのだったが…」
Twitterへは「エピソードばかりで話が全然始まらない。人物も中途半端。映画としてのつくりがまったくダメ。もっとちゃんとしたシナリオにせんとな。だいたい21日間は戦ってないし、ヒトラーなんて影も出てこんぞ。」
冒頭、ソビボルにやってきた目立つ3人。美しい女性とダンディな男、地味なひげ面の男。彼らが主人公あるいはメイン・・・かと思ったら女は速攻でガス室へ。ダンディはしばらくして、ナチに撃たれてしまう。残ったひげが、なんと美女の亭主で、彼女のためにつくった指輪をナチが集めた宝石の中に見つけて、最後までサブで登場はするんだが・・・。なにこれ。
延々と収容所幹部の残忍なあれこれを見せていくけど、物語にはなっていなくて。だから積み重ねの興味あるいは次はどうなるのか的な引きが皆無。ななかで、以前の収容所(?)で脱獄を図った(?)かなんかして失敗したらしい男が地味に現れる。これが主人公のサーシャらしいんだが、メインストリームになるとも思えないような話運びと容貌・・・。サーシャに接近して「リーダーになってくれ」と迫る男がいるんだけど、これまた背景がよく分からず。しかも、連中は夜中、宿舎の外でコソコソしてる。なんで? と思ったら、この2人を襲う連中がいたりして、あいつらは誰? と思ったら、サーシャに思いを寄せる若い娘がいつの間にか登場していたり、なんか、フツーの映画の文法では理解できない展開に、正直いってうんざり。
やはりハナからサーシャを登場させ、過去の出来事もフラッシュバックで見せるとか誰かに語らせるとか、存在をちゃんと見せないと。はたまた、ソビボルで脱獄計画を練る連中も並行して見せて、リーダーを失ったところにうってつけのシーシャが! 的な分かりやすい展開にしないと、ついていけねえよ。
というわけで、サーシャと連中の合流は時間も押しつまったあたりで、収容所の幹部を殺していく計画を話し合ったのはは2、3日前のこと。つまり22日間も戦っていない。
まあ、なんとか4人ぐらいを片づけて、所長のことは誰かが撃ったんだっけか。でも兵隊たちが機関銃で応戦し、ユダヤ人たちも奪った銃でやり返しつつ逃亡。なんだけど、このシーンがまた不思議な感じで、走って逃げている人物が、実は撃たれていたりする場面がインサートされていたり、いったいどっちが本当なんだ的な映像がだらだらつづく。まあ、心は逃げているけど、実際は死んでいる、とかいうことなのかも知れないけど、変な演出。
最後にクレジットで、400人ぐらいのうち100人ぐらいが逃げるときに死に、300人が逃げたけど、150人ぐらいが地元住民に捕まってナチに引き渡された、とか書いてあったかな。数字はうろ覚え。
収容所と言っても大きくはなく管理していたのは7人ぐらいの将校と下士官? あとは兵士のようだ。で、そのナチのやることなすことが残忍、というより、鈍感なんじゃないのか的な感じで。ドイツ人はみんなこんななのか? みんなあんな簡単にヤダや人を殺して、心が痛むやつはいなかったのか? と疑問に思ってしまうぐらい。ユダヤ人に対しては、そうだったのか? それともやはり、類型的な描写なのか? と。どうなんだろうね。
・あと、いつ、どこで、がないので、見ている方は手探りになってしまう。最初に字幕で知らせるべきだよな。
・洗礼がどうとかこだわっていたけど、意味がよく分からず。
輝ける人生9/18新宿武蔵野館3監督/リチャード・ロンクレイン脚本/メグ・レナード、ニック・モアクロフト
原題は“Finding Your Feet”。“自立”というような意味かな。allcinemaのあらすじは「35年間連れ添ってきた夫が定年退職を迎え、晴れてナイトの称号を授与され、自らも“レディ”となり鼻高々のサンドラ。ところが、その夫がサンドラの親友と浮気していたことが発覚してしまう。ショックと怒りで家を飛び出し、疎遠だった姉ビフが住むロンドンの団地に転がり込む。ビフはサンドラとは対照的に結婚もせず、お金や名誉とも無縁の自由気ままな人生を送っていた。そんなビフに無理やりシニアが集うダンス教室へ連れて行かれたサンドラ。最初は戸惑っていた彼女も、かつてダンサーを目指した若き日の情熱を取り戻していく。そんなダンスを通じて、ビフの親友のチャーリーとも打ち解けていくサンドラだったが…」
Twitterへは「高齢者向けのロマンスだった。不細工でも夢がもてるぞ! あちこちデジャヴュで予定調和な展開はあるけど、しみじみいい感じ。ティモシー・スポール好きだし。「時々晴れ」から「輝ける」になってるし。最後は飛んでるし!」
ティモシー・スポール。その容貌からか、だらしなくて汚らしくて嫌らしくて無教養で悪人、な役柄がわりと多い。だからこそ記憶にも残るわけだけれど、『否定と肯定』ではホロコーストはなかった説を唱えるとんでも学者の役までやっている。損なのか得なのか。なかなか主役クラスは難しいよなあと思っていたら、この映画ではほぼ主演男優になっていて、おお、な感じ。
男尊女卑の古くさい考え方にしばられていたサンドラが、その概念から解き放たれる映画なので、実質的にはイメルダ・スタウントンが主演で、その姉役のセリア・イムリーとティモシー・スポールが準主役なんだろうけど、3人が主役と考えてもいいよな。それにしても、そろいもそろって不細工ぞろいで、とてもいい。映画は美男美女だけのものではないのだから。
これは年齢のせいなのか分からないけど、夫が定年でというから60前後、その妻が、いくら夫が警察官だからと行って、夫唱婦随もいいところで。「女は男の付属物」「家持ちでないと一人前に見られない」という考えにしばられているとは思わなかった。英国はこういう古い考えがあるんだな、まだ。でもまあ、こういう古い考えを捨てろ、ということを映画は言っている訳なんだが。しかし、夫が爵位をもらったから私も偉い、というのは、やっぱなあ、な感じ。
そのサンドラの姉が革新的で、大麻は吸うし革新運動もする。亭主は持たず、セックスフレンドとやりたい放題。でも、昔からのなじみのチャーリーは、生活の友で愛人ではない、というのも興味深いかも。
な背景で、亭主が浮気で出ていって。怒ったサンドラが街場に住む姉・ビフのところに転がり込んで。そこで、ビフのダンス友だちとか、あれやこれやとふれ合いながら、次第に自分を見つけていく、というような感じ。なので、ジイサマバアサマがヨタヨタしてる場面が多いんだけど、それはそれで楽しい。しかも、街中で開催したダンスパフォーマンスがネットで拡散し、イタリアのダンスコンテストに招待されてしまうというオマケ付き。
娘の頃はミューガルスターに憧れオーディションまで受けようとしたサンドラ。たまたま妊娠が発覚して、すべてをあきらめ主婦業に徹してきた人生が、亭主の浮気でどんでん返しだから、まあ、そりゃあね。でもって考え方の違うビフと狭い家で暮らしつつ、いまいち汚らしくて貧乏っぽい周辺の人々と、嫌々ながらもつきあい始めていくところなども、定番だけど楽しい。
もう10年も会っていなかったサンドラとビフ。その、ビフという名前は、イメルダがエリザベスを上手く言えなくて、それでついた愛称、というのが泣けてくる。
最初のうちは煙たがっていたチャーリーのことが、次第に好もしく思えてくるくだりも、なかなかいい。ロマンスは、美男美女だけのものじゃないのだ! 
で、終盤。結局、浮気相手と上手くいかなくなって、よりを戻そうとする亭主に、心が揺れてしまうサンドラも、哀しい。しかも、チャーリーと一緒になろうとしてたのに、実は女房が痴呆症で施設にいて、だから結婚していると言うことを知って、これまた衝撃で、だから、嫌々ながらも元のサヤに収まろうとした、のかも知れない。かなしい性やね。
でもって、この後、チャーリーの奥さんがタイミングよく亡くなって、サンドラとのロマンスが成就! ってのはご都合主義的すぎて、おいおい、なんだけど。その連絡を受け、チャーリーがフランスに向かって、住んでいるボートを出向させるという日。その日は亭主が開いてくれたサンドラの誕生パーティの日でもあったんだけど。孫に誘われてカンナムスタイルを派手に踊ったら亭主にたしなめられ、これで切れたんだろうな。会場(自宅かな)を後に、チャーリーのところへ。やっと見つけたチャーリーのボートは、運河の上。そこに向かって、サンドラがジャンプするストップモーションで終わるのがなかなか粋なエンドシーン。まあ、とどかずに、ぼっちゃん!だと思うけど、その思いっ切りを象徴するようなシーンが最高すぎるから許してしまう。 ・「ビリの子は弱虫」というセリフの意味がよく分からず。
・ビフが検査する装置がAquilionPrimeで、TOSHIBAの文字が派手に見えていた。製品提供か、企業が金を出した? 東芝はこの後、キヤノンに売られているはずだが。
メイド・イン・ホンコン/香港製造9/20ギンレイホール監督/フルーツ・チャン脚本/フルーツ・チャン
原題は“Finding Your Feet”。allcinemaのあらすじは「1997年、中国返還を目前に控えた香港。母と二人で低所得者用アパートに住む少年チャウは、弟分のロンを引き連れ借金の取り立ての手伝いをしている。ある日、チャウは同じような境遇の少女ペンと出会い恋をする。が、彼女は重い腎臓病に冒されていた。やがて彼女の身を守るため、生まれて初めて銃を手にするが…」
Twitterへは「1997年製作だから約20年前なんだが、それ以上に古くさく感じるのは香港があまり変わらないせい? 無軌道な青年の話なんだけど、地に足がついてのはみ出し者なので、かわいく見えてしまうところが、どうなんだそれ? な感じ。」
チンピラ少年と少女の純愛、知恵遅れの弟分にやさしい主人公、正義感、鉄砲玉・・・。60〜70年代の日本映画によくあるような話話で、でも製作年を見たら1997年なので、ちょっと驚いた。返還前と言っても20年前の香港は、こんなだったのか、と。
若者2人と娘が1人、という組合せは昔からよくある。『突然炎のごとく』『トリコロールに燃えて』・・・。弟分との凸凹コンビは『傷だらけの天使』も連想させたり。薄幸のヒロインは、これまたよくある話で。3人が墓場ではしゃぐ詩的なシーンも、これまた定番な感じ。
こうした設定は、当時の、追いつめられてのっぴきならない香港の状況を象徴しているのかも知れない。せいぜいできるのは、鉄砲玉的な犯行だけ。でも、それも成し遂げられず、ヤクザの刺客にあってズタズタにされ、なんとか生きながらえたけれど、復讐のために駆けずり回る。死んでいく同志たち。最後は、自らの手で、束縛から解放される・・・。まあ、読めばそんなところか。
ヒロインがそんな可愛くないのが難点で、彼女がもうちょいキレた感じの美少女ならよかったのになあ、という感じ。まあ、これはお国柄と価値観の相違かも知れない。主人公のチャウは16、7歳だろうに、でも、キレキレでなかなかカッコイイ。痩せてて、腹筋がシャツの間からちらちら見えているのもセクシー。
飛び降り自殺したサンという娘の遺書。あれがもっと重要な役割を果たし、書いてある内容から謎を解く・・・という話かと思ったらさにあらずで。ほとんど遺書は関係ない。サンが彼氏に書いた、という遺書の相手は学校の教師のようで、でも、何があったかも説明はされない。サンの両親もチラッと出ては来るけれど、ほとんど機能していない。ちょっと物足りない。
鉄砲玉は嫌だから組織には入らない。といいつつ、ヒットマンの仕事を引き受けるのは「ペンのため」といっていたけど、どういう“ため”なんだ? 金のため? そもそもペンの母親が借金を抱えていたのは、もしかしてペンの治療費なのか? そんなことは言ってなかったように思うんだが。これが、ちょっと疑問かな。
鉄砲玉に失敗する場面は、なかなか手が込んでいてよかったかも。結局、恨みもないような相手を殺すことはできないのだ。最後に、弟分の仇で、ヤクザのボスを殺れるのは、ちゃんとした恨みがあったからだな。
それと、チャウは、チャンが送り込んだ手下に刺されるんだけど、チャンとの確執はペンの家でであったときだけのはず。そのときはビール瓶で1発ずつ殴り合い、でも、それ以上には発展せず、大人しくチャンは帰っていった。手下が3人ぐらいいたにも関わらず。それがなぜ、刺客を送ることになるのか、よく分からん。そんな大物なのか? 刺される以前にチャウは、チャンの会社に仲間を引き連れ乗り込んでいってるけど、あれはチャンが嘘の会社名を言っていて、違ったんだったんだよな? だからなおさら、刺客に納得いかない。
いやじつは、刺されたとき、刺した相手はヤクザのボスかと思ってたんだ。ヒットマンに失敗して、その叱責代わりに刺されたんだろう、と。ところが違っていて、あああのデブか、と分かったんだけど。それで↑のような疑問が湧いたというわけだ。
とはいえ、最後に死んでしまってオシマイというのは、昔の手法だよなあ。90年も末の映画とも思えない。
・あとは・・・。チャウのアパートに若者が逃げ込んできて、でもチャウはヘッドフォンで気づかない・・・。という場面。あれは、乗り込んで行ったときの仲間ということか? 乗り込んで行ったことがチャンの逆鱗に触れた? じゃ、やっぱりあれはチャンの会社だったのか? よく分からない。
・呼吸が苦しいから走れない、ということを知っていながら、チャン、ロン、ペンの3人はサンの墓を見つけに山上の墓に駆け上り、走り回っているんだが、変だろそれは。
コーヒーが冷めないうちに9/25109シネマズ木場シアター3監督/塚原あゆ子脚本/奥寺佐渡子
allcinemaのあらすじは「時田数が働く喫茶店“フニクリフニクラ”には、不思議な都市伝説があった。それは、店内のある席に座ってコーヒーを注文すると、望んだ時間に戻ることができるというもの。ただし、過去に戻っても現実は変わらない、過去に戻れるのはコーヒーが冷めるまでの間で、コーヒーは冷めないうちに飲み干さなければならない、などの細かいルールがあった。そんな噂を聞きつけ、幼なじみとケンカ別れしてしまった独身女性や若年性アルツハイマーの妻と優しいその夫など、店には過去に戻りたいと願う客たちが訪れていた。しかし肝心の席には、いつも同じ女性が座っているのだったが…」
Twitterへは「松重豊と薬師丸のエピソードがよかったけど、あとは先が読めそうな話ばかり。謎の女の正体もすぐ分かっちゃうし。最後のあたふたは、あれで時制は合ってるのか? とか、ちょっと疑問符。」
タイムワープものだけど、フツーに見ていろいろ不自然なので、話に没入できない。そもそも、そんな喫茶店をマスコミが放っておく分けないし、噂が広がれば長蛇の列。落語の『抜け雀』どこじゃなく、テレビ中継や研究調査も行われるはずだ。それになにより、幽霊がその席に座ってるんたろ? まあ、お話しだから、で済ませるのはムリがあるかも。
最初の、別れた幼なじみにどーの、の話はつまらない。女がアホなだけ。それはいいんだが、波瑠って広告ポスターでは清楚で落ち着いた見かけなんだけど、動いてるのを見たらがさつな役を演じていて、違和感もあってがっかり。
バーの女と妹の話。なんか、わざわざ田舎を抜けだした割りに場末の水商売って設定が、貧しいな。吉田羊は、何から逃げて、何を追って、いまになったのか、が見えないと感情移入できない。妹も、なぜしつこく姉にこだわるのか? 経営の才覚がある姉と愛嬌の自分で一緒に旅館を、らしいけど。妹だって結婚して家族ができれば、そんな姉幻想はなくなるだろ。だいいち、旅館の経営が傾いていて、姉がいないと・・・でもないだろ。それに、田舎を出るまえから、どうやって姉の経済センスを見抜いたんだ? とかね。吉田羊も結婚してない設定だろうし、最後に帰ることを決めたのは、たんに妹の事故死だけ? バーが行き詰まってたとかないのか? 妹も、あんなバーしか経営できてない姉に、なぜに経営の才覚と思ったのか意味不明。それになにより、妹を交通事故させるいい加減な展開が安易な感じ。
薬師丸と松重豊の話は切なくて、なかなか。早くから松重が亭主、はバレるけど。それもまた、じんわり。というか、自分を忘れてしまった女房を許せるか、どれだけ献身的になれるか、がつきつけられているわけで、リアリティもある。とはいえ、自分の痴呆の進行を知った薬師丸が、夫に渡すべく書いた手紙を渡せず、その手紙を松重がわざわざ過去に戻って受け取るという話は、いまいちな感じ。そんなの、妻が寝てるうちにそっと読んでしまえよ、な話だ。それに、薬師丸が、渡せなかった手紙を、過去に戻った松重に渡してしまう。しかも、事情を知っての上で。ってのは、過去を変えることになるんじゃないのか? 大勢に影響ないとは言え・・・。
あとは、店主(なのか?)の有村架純が、過去に戻って死んだ母親に会う話なんだが。あれは何のために行ったんだ? 有村架純が6歳のとき、死んだ父親に会いに行って、戻って来なくなった母親と話をしたかったから? それだけ? 他に何か理由があったっけ? 覚えてない。
あの話は、血筋の関係で、自分にコーヒーを淹れてくれる女性がいないので、その難題を克服する、というところに焦点が当たりすぎで、話の方が疎かになってるような気がするんだよね。
たしか有村の彼氏の亮介が思いついたんだっけか。まず未来に行って、2人の間にできる娘に事情を話し、現在まで戻ってもらう。そして、有村にコーヒー淹れ、有村は過去に戻って母親と会う、という段取り。なんだけど、そもそも誰が未来へ行ったんだ? 亮介が未来に行ったのか? 有村が行ったのか? よく分からない。
で、有村は自分が思っている過去に行こうとするが、娘はその過去時間ではなく、その過去時間の6ヵ月先の過去に行くように言う。行ってみたら、小さな女の子がだだをこねていて、男があやしている。女の子は有村だとして、あの男はだれだ? 父親は亡くなっているから別人だよな。よく見えなかった。で、男と幼児有村はすぐ画面から消え、有村は母親と話し始める。母親は、死んだ父親に会いに行ったのではなく、娘の将来が心配だから未来に行った、といっていたかな。でも、その未来がなぜ6ヵ月先なんだ? 5年後10年後ではなく、なぜに6ヵ月後?
それと。有村が自分の思う過去に行こうとしたら、娘は「違う。6ヵ月後」と指示した。それを娘は知っていたんだけど、誰が娘にその日時を伝えたのだ? 娘は、母親(石田ゆり子)が6ヵ月先に移動していたことを、どうやって知ったんだ? あるいは、なぜ6ヵ月後でなくてはならなかったんだ? よく分からない。
他にも、6歳で母親を失った有村は、誰に育てられたのだ? という疑問もあるし。もやもやは残るのであった。
・亡くなった母親の姿が喫茶店内に幽霊として見えているのだから、わざわざ過去に戻って話す必要はあるのかね、という気もしないではない。
・他の、制限時刻までにコーヒーを飲み干せなかった人たちは、どこで浮遊してるんだ? 店内の別の席にも、そういう人がうじゃうじゃいても不思議ではないと思うんだが。
・謎の女が読んでる本が、最初は「ねじの回転」で、次に「モモ」だったかな。あれは、いつ変わるんだ?
・セリフが聞き取りにくいのが難点。
寝ても覚めても9/26テアトル新宿監督/濱口竜介脚本/田中幸子、濱口竜介
allcinemaのあらすじは「地元の大阪を離れて東京で暮らしていた泉谷朝子。カフェで働く彼女は、コーヒーを届けに行った先である男を見て息をのむ。丸子亮平と名乗ったその男は、2年前、朝子のもとから突然姿を消した恋人・鳥居麦とそっくりな顔をしていた。5年後、朝子は亮平と共に暮らし、満ち足りた穏やかな日々を送っていた。そんなある日、麦がモデルとして売れっ子となっていることを知ってしまう朝子だったが…」
Twitterへは「9割方ぴりぴりしながら話を追ってたんだけど、最後に“なんだそれ”な展開になってしまったよ。女の人は、どこかで共感できるのかしら。あるいは、ずっと夢を抱きながら、みんな追っていくのかしら。」「とりあえず。「白馬にまたがる王子様を夢見る乙女はやっかいもの」という理解にたどりついた。」
変な話。というのが、後半の、麦の再登場からの印象で。それまでは、まあ、緊張感を孕みながらの興味深いストーリー、という感じだった。話自体は珍しくはないけど、描き方が絶妙、というか、あやうげだしね。なので、ラストは息切れな感じ、と思ったんだが。しばらく考えているうちに、現実の中に朝子の妄想を、あたかも現実のようにはめ込んでいる映画かな、と思うようになった。つまり麦は理想=夢=欲望で、亮平は現実、であるとか、そんな感じ。いやもう、そんな女とつき合っていかなくちゃならん男は難儀だね。てなところかな。
牛腸茂雄の写真展で出会う、というのが朝子が恋人に期待する理想のイメージだった、んだろう。考え方が同じ、好みが一緒、ということかな。だから、現実世界でも、亮平と実質的に出会ったのは、東京での牛腸茂雄の写真展だった、ということかな。牛腸茂雄が撮るのは、無垢な子供たち。まあ、朝子に邪心がないことの象徴か。あるいは死または別れの予感? 麦の父親が生物学者、だったな、で、妹の名前が米、というのも、つくりものの世界の人物みたいだ。そういう、現実的ではない恋人が欲しい、ということなんだろうと思う。
麦との別れは、寝覚めの後にやってくる。いや、それ以前にも、ひと晩帰ってこないことがあったけれど、寝ることで別れがもたらされる。で、後半、朝子が麦の手を取って、麦の実家のある北海道へ逃避行、でも、仙台あたりで朝子が目覚めると、すでに朝子の熱は冷え切っていて「これ以上行けない」と別れてしまう。というか、麦は消え去ってしまう。まるで、それが夢だったかのように。いや、夢だからこそ、覚めるのだ。
少女の夢が覚めて、現実が見られるようになって。亮介と出会って、つきあい始める。麦がいなくなって2年。でも、まだ夢を見ていたい、という思いが捨てきれない。で、またふと、夢が戻ってくる。震災の前に、朝子の心が亮介から離れていくのは、まだ浮かれていたからだろう。その浮かれ具合に冷水を浴びせ、現実に戻してくれるのが震災で。これで目が覚めた朝子は、亮介と同棲する。そして5年。いざ結婚、という現実が迫ってくると、またまた夢=現実逃避したくなってくる。再び現れた麦がモデルで、旅人で、なんていうのは、典型的な理想型だな。私の人生はこんなんじゃない。もっと素晴らしい未来があったはず・・・。いやあ、陳腐過ぎる。けど、女は夢を捨てきれない。
再会し、朝子を連れにやってくる麦。最初は家を訪れてくる。まあ、これは妄想と片づけてもいいんだけど、次は、友人たちと結婚・大阪へ転勤の食事会にやってくる。おやおや現実なのか、と思わせるけれど、これすらも妄想で、要は、現実と妄想=夢が曖昧になっていることの現れだろう。あれが現実か否かなどと言うのは、問題ではない。すべてが朝子の妄想なのだから。
その彼が、仕事も携帯も捨ててしまうのは、そうあって欲しいという朝子の期待がそうさせているだけ。逃避行のクルマから、朝子が携帯を捨ててしまうのも、現実から逃げたい=このまま結婚してしまっていいのか? 私にはロマンがあったはず、白馬にまたがった王子様が迎えに来てくれるはず、という妄想がさせたこと。こんな具合に夢を捨てて、女はみんな現実と妥協する、ということだな。
仙台で、朝子が麦と別れるのは、震災後につくられた防潮堤の横。向こうに海があるなんて知らなかった、みたいなことをたしか言っていた。ファミリーロマンス的な夢想の世界の向こうには、現実という荒波があるのだよ、とでも言っているかのようだな。
女心はコワイと思わせるのは、友人・岡崎の母親のエピソード。彼女の口癖は「朝ご飯食べるためだけに新幹線で東京へ行き、阿佐ヶ谷のアパートでご飯だけ食べて帰ってきた」なんだが。ラスト近くで母親が、ASLで動けない岡崎には聞こえないように、朝子に、あの話、うちの亭主と違うねん、というようなことを言う。実際の結婚相手とは別に、想い人というのが、どんな女性にもあるものだ、ということなんだろう。うーむ、だな。
ラストシーン。大阪の、一戸建て。二階のベランダで、あきらめたように亮介が「汚い川だ」というようなことを言う。つづいて朝子が「でもきれい」と言う。これなども、女の本心について、男性からの意見と、女性からの見解のようにも聞こえる。二心あることを、男は嫌う。でも、女にとっては、それこそが真実なんだよ、と。。
・久しぶりに東京で春代と出会って、喫茶店で亮平と3人。で、そこから亮平が「親不知に行く」と席を外すのが唐突な感じ。それとも親不知は聞き間違いか?
・亮介は、朝子の同居人・マヤが役者ということを知る。で、マヤが亮介を招待。亮介は会社の同僚・耕介を連れていく。で、マヤの芝居のビデオを見た耕介が、マヤを批判する場面はなかなかの緊張感で、どうなることやら、だったけど、なるほど、なまとめ方。
・東北で、地元の人たちと食事をしている場面で、画面が変だな、と思っていたら、それは朝子がスマホで撮っている画面、というのがあったけど。あの場面だけ、なんか少し違和感。
・なんかつくりが西川美和っぽい感じだな。
・画面の細部まで神経が行きとどいている感じで、なにげない場面でも張りつめた緊張感が伝わってくるのが、なかなか。画面の比重が重い感じかな。たとえば、震災のとき、電車が停まってるぞ、と言ってる連中の描写や、座り込んでいる婦人の描き方なんて、ついで、というには力が入ってる。
・東北の、地元の老人が仲本工事と気づかず。
・岡崎の母親役に田中美佐子。59歳か。うーむ。
・仁丹という猫に助演賞。
響-HIBIKI-9/28109シネマズ木場シアター6監督/月川翔脚本/西田征史
allcinemaのあらすじは「若者の活字離れが進み、出版不況が続く文学界。そこへすい星のように現われたのが、現役女子高生の天才少女・響。文芸誌『木蓮』の編集者・花井ふみとの運命的な出会いによって、一躍脚光を浴びた響だったが、その言動はあまりにも常識離れしていた。相手が誰であろうと、歯に衣着せぬ物言いで思ったままを口にし、時には暴力さえも厭わない。次々と物議を醸しながらも、関わった人々の価値観を揺さぶり続ける響。そんな彼女の処女作は社会現象を巻き起こし、ついには直木賞と芥川賞のダブルノミネートという歴史的快挙にまで発展していくのだったが…」
Twitterへは「アイドル使った学園ものかとタカをくくっていたらけっこうトゲのある話で。キャラが類型的だけれど、記号を動かしながらも言うべきことを言ってるし、ブキミな正義感もなかなかクール。しかし、タイトルで損してるな。これじゃ客は来んだろ。」
コミックが原作らしく、設定も展開も、思いも描けないところがあって、フツーなら気遣うだろう微妙な感じがない。だからこそ、不思議な魅力に満ちているとも言えるんだけど。
なぜに響が天才的なのか、は描かれない。とにかく文学が好きで歩きながら本を読むという、スマホ・タブレットの時代にはあり得ないキャラだけど、そういうのがいても構わない。で、新人賞に応募するんだけど、それは審査員の評価が聞きたかっただけで、入賞のことは考えていなかったという、これまた変な少女。それで食べていこうとか名声を得たいとか、そういうことには興味がなく、文学をしたい、書きたい、書かないではいられない、という人物設定にしているのが、世の流れにアンチテーゼをぶちまけているようで清々しい。まあ、あり得ないけど、あり得ない設定だから、共感しちまうんだろう。
対比として登場するのが、1年先輩の凛夏で、彼女の父親は売れっ子の大作家で、だから編集者も彼女に目をつけ売り出そうとする。ありそうな設定だ。もう1人は、苦節10年だったか何年だったか、芥川賞4回目の候補となって、受賞を懇願する、でも売れなくてバイト生活の山本春平。いそうだけど、それだけ候補になってりゃ肉体労働のバイトはしてないだろ。そして、小説を書いている自分は平民とは誓うという意識高めの応募生活何年目かで響と同時に木蓮新人賞を受賞した田中康平。どれもいそうだなと思わせる意味では“なるほど”なんだけど、コミック原作だから型にはまった設定が“記号的”なのはしょうがないか。
でまあ、響は芥川賞・直木賞ダブルノミネートで両方受賞してしまうというあり得ない展開が、これまた意外性ありすぎで笑えるくらいおかしい。自身は自信満々で、編集者もノミネートを期待していた凜夏はノミネートもされず。田中康平も対象外。山本春平は芥川賞にノミネートされるけど選ばれず。あるある、こういうの。と思わせるから面白い。ということは、現実も結構、記号的に進んでいるのかな。とか思ったりしてしまう。
凜の性格がまっすぐすぎて、トラブルの連続。凜夏とは、最初の出会いで、ある本の評価が分かれ、凜夏が整理した書棚を倒してしまう。その凜夏の出版作をこき下ろして絶交に。木蓮新人賞の授賞式では、田中康平をパイプ椅子で殴打してしまう。原因はなんだっけかな。忘れたけど。ほかにタレント化した作家に蹴り。さらに、芥川賞授賞式では、嫌みな質問をする(自分へ、ではなく、編集者の花井ふみに失礼なことをした、といって殴りかかる。主張は一本筋が通っているのだけれど、フツーなら我慢して配慮=忖度する事柄も遠慮なく口にし、手を出す。その意味で潔しなのだけれど、周囲には迷惑、なやつ。だけど、傍から見てる分には応援してしまうような性格だから、楽しい。
マスコミに対する皮肉もたっぷりで、木蓮新人賞の授賞式での派手な暴力を写真付きの記事にした記者を徹底的にマークする。尾行して部屋に入り、別れた(?)妻と子供にの存在に触れ、遠回しに脅すところなど、犯罪すれすれだ。しかし、スキャンダルで食ってる記者や雑誌への皮肉は、これまた気持ちがいい。
最後。落選してうつろに歩く山本春平と踏み切りで出会い、言葉を交わして相手が誰かを互いに確認する。呆然とする山本。踏切内から、飛び込んだりするな、と諫める響。近づく列車は響の直前でストップし、助かりはしたが・・・。で、次のシーンが連行される響なのは、これまたおやおや。刑事かな、が、罰金は数千万(4千万って言ってたかな?)と響に言うのだが、受賞作の初刷りが100万円と言うことを思い出して花井に電話。印税が1億円以上と聞いて、弁償なんてへっちゃらだ、という顔をするところがまた不敵すぎて、やれやれ、と応援してしまう。
すべてが記号的ではあるんだけど、鮎喰響を演じる平手友梨奈のキャラもあるのかな。冷酷無比な正確なのに、可愛いいことをするじゃないか、と思わせてくれたりする。たとえば、いくら正式なドレスがないからといって木蓮新人賞の授賞式にひらひらのロリータ服ででるのは、ありえんだろう、と思うんだけど、そういうスキを見せたりするところもなかなか可愛い。凜夏や田中康平、先輩作家には同情なんかせず、バシバシやるってのに。
あと、授賞式で、自分が認める作家には、「あ、〇〇〇〇」とさん付けもせず呼び捨て、でも近づいて「あの作品は好き」と握手を求めたりする素直さなんかも、なかなか可笑しい。
まあ、でも、心のままに生きるのは難しい、というか、フツーはしないなかで、マイペースをここまで徹底されると、清々しく思えたりするものだ。
・設定では、新しく高校に入学した、ということなのか? 一緒にいた同級生の男子は、中学が同じだったのかな? 説明がないのでよく分からない。
・たまたま部室にいた先輩と対立し、屋上から落ちて平気なのは、おいおい、な感じ。

 
 

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