映画日記

2018年10月

運命は踊る10/2ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/サミュエル・マオズ脚本/サミュエル・マオズ
英文タイトルは“Foxtrot”。ダンスの名前らしい。劇中でステップを披露するあれかな? allcinemaのあらすじは「ある日、ミハエルとダフナ夫妻のもとに、息子のヨナタンが戦死したとの知らせが届く。ダフナは気絶するほどショックを受け、気丈なミハエルも役人の対応にいら立ちを募らせていく。そんな中、やがて戦死したのは同姓同名の別人だったと訂正の知らせが届く。ダフネがほっと胸をなでおろすのとは対照的に、ミハエルは軍への不信感から激高し、息子をすぐに呼び戻すよう要求する。一方ヨナタンは、戦場の緊迫感からは程遠い閑散とした検問所で、仲間の兵士たちと一見おだやかな時間を過ごしていたのだったが…」
Twitterへは「ベネチアの審査員大賞らしいが、20分のショートフィルムで事足りる話。8割方退屈。」
最初に、夫婦の家が30分ぐらい? 次に国境近くの検問所? これが長かった。次に夫婦の家で、20分ぐらいか。最後は検問所に戻るトラック。冒頭でのトラックの走る道や、ミハエルが痴呆気味の母親を訪問する場面もあるけど、おおむね4つの場面だけ、の構成。
最初は息子・ヨナタンの戦死報告で動揺する夫妻なんだけど、妻タフナは兵士の訪問を見ただけで気絶しちまう。こんなんあり得ないだろ。兵隊に出していれば、その覚悟はできてるはずだし、いくらなんでも卒倒はひどすぎる。アホな演出。夫ミハエルも、あたふた動揺。兄が速攻でやってきて慰めるが、落ち着かない様子。へんなの。さらに、伝えに来た兵士が夫婦の部屋の中にいつのまにかいたり、いなくなったり、これまた奇妙な感じ。
不思議なのは軍隊付きのラビの話で。葬儀の手順を話してるときミハエルが「息子に会えるか?」と聞いても無視するというのは、意味不明。ユダヤ教は、そういう習慣なのかしらんが。戦死の状況や、遺体が戻ったら面会とか、そういう話抜きで進むのがとても違和感。しかも、それにあまり文句をつけない。そんなのありか?
ところが、しばらくして、診断の同姓同名の他人だった、と分かる。妻は喜ぶんだけど、なぜかミハエルは怒りだす。怒りだして、すぐに息子を連れてこい、と兵士に言う。さらに、コネも使って、息子の帰宅話を進める。いや、それ、変でしょ。息子は、誤報のことなんて知らないんだから。ここで息子に会って、どうすんだ? 数時間の落ち込みを、それで取り戻すのか? 変だろ。
そうそう。夫が息子の部屋?の引き出しを空けると『プレイボーイ』誌があるのが変だな、と。 で、次は検問所なんだけど、4人の若い兵士が荒涼たる砂地のコンテナ生活で、仕事をしている。ときどきラクダも通り、クルマも通る。クルマは3〜4台止めてたかな。それぞれに、意味はなく、淡々と。興味ぶかいのは、IDの写真、とくに女性のを、あれはネット経由なのか?チェックして、問題なし、とでるやつ。前科でも見てるのか? それとも写真と顔が違いすぎるからのチェックなのか。まあいいけど、あんまり長くて何も起こらないので寝るかと思った。
そうそう。息子が仲間に、あるとき『プレイボーイ』誌を書店で見かけ、家にあった、代々伝わる聖書と交換して入手した、というエピソードがあったな。友人に見せたらページが貼り付いていて。後にチャンとした同じ号を手に入れ、それを息子に引きついでいくのが伝統になった、とかいう話をしていた。だからどうしたな話だよな。
で、あるとき若者4人連れぐらいのクルマを止めて。さあ、出ようというとき、女の子がスカートをドアに挟んだ、とかいってドアを開けたとたんカランという音を立てて何かが道路に落ちた。でも、あんな砂漠の道でカラン、なんて乾いた音はしないと思うんだが。その音を聞いた兵士の1人が「手榴弾だ」と叫び、機関銃手が銃撃を浴びせる。のだけれど、手榴弾を落とされて、そこで撃つか? ホントにクルマが投げるんなら、動き出してから投げるじゃないのか? 兵士たちだって、撃つより逃げるだろ。変だろ。
でまあ、上官に報告? すると巨大なパワーショベルがやってきて、穴を掘ってクルマごと埋めてしまってオシマイ。上官も、まがいはある的なことを言ってオシマイなのだ。そんなことあり得んだろ。仮にも市民だ。行方不明の手配ぐらい出るだろうし、警察だって捜すだろ。探さないのか? イスラエルじゃ軍隊至上主義なのか? 知らんけど。
で、次の場面は夫婦の家なんだけど、久しぶりに夫が家を訪れた感じで。家の中は荒れ放題。妻は、強迫神経症的に食器を洗ったりしている。次第に分かってくるのは、かなり時間が経っていて、夫が息子を呼び寄せたせいで息子が死んでしまった、らしいということ。それで諍いが起きたのか、夫は家出をしたみたい。とはいえ、なぜ戻ってきたのかはよく分からないし、なぜケーキを焼いていたのかもよく分からない。だれかの誕生日だったか?
で、ここで、夫がダンスのステップを披露するんだが、このダンスは、検問所で息子も踊っていたもののようだ。それがどうした、な話だが。
で、最後は冒頭の道路のシーンにつながって。トラックで検問所に戻ろうとしていたら、トラックの前にラクダが現れ、運転手がヘタをこいて崖というより、砂の斜面に落ちていくシーンで映画は終わった。
なんか、ムダに長いだけで、物語的な要素は少ない。ひねりもない。ラストシーンは『恐怖の報酬』を連想させるし。そもそも、運命は日々刻々変わっていくのであって、たらればで言えば、夫が呼び寄せなかったら事故は起きなかったかも知れない。けれど、そういう選択はつねん行われているのだから、しょうがないといえばそうなんだよなあ、と思う。たまたま事故だから気に病むだけで、そうでない場合は誰も気に留めない。夫も、戦後、帰ろうとしていたとき、後ろのクルマを先に行かせたら、そのクルマが地雷を踏んで炎上した、なんてことを言っていたが。そういうものなんだと思う。事故などの大きな出来事は、責任を感じてしまうけれど、そうでない選択もたくさんあるのだよ。
・息子が書いていたあの漫画は何を象徴してるのだ? そもそも彼ら4人は、発砲事故に責任を感じているのやらいないのやら。あ、それと。「手榴弾だ」と叫んだ奴はだれだったか、一瞬でよく分からなかったよ。機関銃手も、誰だったのか、よく分からん。
・俯瞰の場面がよく出てくるが、視覚的に気持ち悪い。とくに最初の、息子の死をつたえられたミハエルが椅子から立ち上がり、トイレにいくところは平衡感覚を失って、くらくらした。
・ミハエルの職業はなんなんだ? モダンアートでいっぱいの家だったけど。
・それと、あの文字はヘブライ語?
純平、考え直せ10/3シネ・リーブル池袋シアター2監督/森岡利行脚本/角田ルミ、木村暉、吉川菜美
allcinemaのあらすじは「歌舞伎町で“一人前の男”を夢見ながらも、末端組員として雑用に追われる日々を送る21歳のチンピラ、坂本純平。ある日、拳銃を渡され鉄砲玉を命じられる。気持ちが昂ぶる純平は、偶然出会ったOL加奈とホテルで一夜を共にした際、ふとそのことを漏らしてしまう。加奈も不思議な高揚感を覚えて、決行までの3日間、純平と行動を共にしていく。しかし次第に不器用だけど真っ直ぐな純平に惹かれていく加奈。やがてどうにかして純平を思い止まらせようと考え始めるのだったが…」
Twitterへは「『電車男』かよ。それにしても、いまどきの“鉄砲玉の美学”は悲壮感もなくてリッチ。とはいえ家族、親兄弟、義理・人情・・・って、基本は変わらんかな。でもまあ楽しかったけど。」
結構、面白かった。とくに、3日間の、加奈と純平のイチャイチャぶりが、現代的でドライな感じで、見ていて微笑ましい。のだけれど、よくよく考えて見れば、純平の考え方は典型的な昔気質で。鉄砲玉で「男になる」といって、加奈に「もう男なのに、男になるってなに?」とか言われてる。兄気分の北島には心底惚れていて「兄貴のためなら信でもいい」という。組の親分から、対立相手の幹部を殺って「男になれ」といわれると、「お願いします」と積極的に同意。地元の暴走族のアタマとは今でも昵懇で、表面的にはバカにしている母親には、実行前に何年かぶりに会いに行く。こりゃもう親分子分、家族血縁を大事にする昔のヤクザと変わりがない。鉄砲玉になってムショに入って男になって。そうまでして尽くすことに疑問をもたない純平には大いに「?」なんだよね。
かつての70年代のヤクザ映画ブームのときは、戦後を引きずる貧困・在日朝鮮人っていう明らかな社会問題があった。でもいまは、みな食えているし、抵抗する相手もほとんどいない。もちろん相対的貧困とか格差の問題は言われているけれど、だからチンピラヤクザ? そもそも暴力団員は急激に減少しているし、映画にあるような派手な出入りもそんなない。少し前、山口組分裂があったけど、そんな大きな話にもなってない。力でねじ伏せるのではなく、ビジネスライクに、互いに持ちつ持たれつな感じがあるような気がするんだよね。ということも考えると、ますます純平の考えの古くささが際立ってくる。
まあ、昔のヤクザの在り方への憧れが純平というカタチを取って表現されている、とも言えるかも知れないけど。
で、この映画の大きな部分に、LINEなのか? のSNSチャットがあって。加奈が現状をアップすると、フォロワーが反応して賛否を語りあうんだが。これはもう『電車男』そのもの。まあ、あっちは本人がアップして、いろんな知識を得たりアドバイスを受けて行動するんだけど、こちらでは、純平はその行動が晒されていることを一切知らない体になっているようだ。でも、あんな具体的な話、写真がアップされてりゃ、あっという間に関係者に知られちゃうと思うんだが、そこは映画。純平の身の上に共感しすぎた引きこもりの娘や、親には司法試験中と言いつつ水商売で働く青年とか、そわそわする様子が描かれているのも、これまた今どきの映画らしい感じ。
知られちゃうといえば、加奈が働いていた不動産屋は歌舞伎町にあるはずなのに、辞めて、純平とイチャイチャする間も、ずっと歌舞伎町界隈をうろついているというのは、おいおい、な感じ。『不夜城』の歌舞伎町が、実際よりも広範囲でディープだったのと似てるかな。まあ、これも映画的ウソでいいのかも知れないが。その加奈も、不動産屋に乗り込んできて啖呵をきった純平に一目惚れというのの根拠もなくて、いまいち説得力はないんだけど、そのうち慣れた。
で、当日、早朝。純平はターゲットに銃口を向け、発射する場面まで描かれている。純平を待つ加奈は花園神社にいて、無事に戻ってきた純平に顔を輝かせるんだけど、いったんは捨てた携帯を拾いに戻り、ふと顔を上げると、参道には誰もいない、というエンディング。さて、純平はどうなったんでしょうか。ご自分で考えてください、ということのようだ。原作があるから、そっちでは、ちゃんと書かれているのかも知れないけれど、まあ、映画はこれでもいいのかも知れない。
・純平が首を取るように言われたのは、彼が所属する組と歌舞伎町を二分する組の親分、なのか? いつも早朝にコインランドリー近くにやってくる、あの男・・・。いや、その、加奈が働いていた不動産屋の社長なのか、裏の社長なのか知らないけど、あの不動産屋に関係する暴力団のボスとは違うんだよな? 不動産屋のボスは、あれは、どっち組の、どういうやつなんだ? なあたりの整理が、つきにくかったな。
・バイクは、狭い道を逃げるために手に入れたわけじゃないのね。
・兄貴の北島は、純平を親分に差し出して、組内で偉くなった、のか? セリフがよく聞こえないところがあって、はっきり分かんなかったんだよね。
・加奈役の柳ゆり菜は可愛いし、脱ぎっぷりも大胆で、なかなかよろしい感じ。
君の名前で僕を呼んで10/4ギンレイホール監督/ルカ・グァダニーノ脚本/ジェームズ・アイヴォリー
原題は“Call Me by Your Name”。allcinemaのあらすじは「1983年、夏の北イタリア。両親とともに毎年夏休みを過ごしている田舎のヴィラへとやって来た17歳のエリオ。彼はそこで、大学教授である父がインターンとして招いた24歳のアメリカ人大学院生オリヴァーと出会う。自信に溢れて自由奔放なオリヴァーに最初は苛立ちを覚え、つい反発してしまうエリオだったが…」
Twitterへは「ホモとかゲイに興味ないので共感も乏しい。LGBTブームになって、この手の映画を、デキはともかく「よかった」といわなくちゃいけないような風潮があるのは、どーもね。自然とか風景ほめてもしょうがない。」「ゲイを扱った映画で、まともに性交シーンを描いたものをあまり知らない。大事なところになるとフレームが外れるとか、終わった後になってる。男女の交接は大抵の映画で見せるし、『アデル、ブルーは熱い色』では激しいレズシーンがあった。ではなぜゲイ映画ではないのかね。絵にならないからなのか?」「映画同様、日本の漫画もそうだけど。ゲイの世界は、具体的な部分からは目をそらして、イメージ=ロマンの味つけがなされすぎだと思うんだよね。尻の穴がひりひりするような、×××まみれの交接シーンを期待したいところではある。」
ホモ関係の機微とか哀しさに興味も共感するところもないので、その点ではまったく対象外。エリオの、地元あるいは同じ避暑仲間の娘との関係の方なら興味はあったけど。
というわけで、ひと夏、避暑地の別荘。父親が考古学か美術史かなにかの教授で、母親もまとも。地位も資産も教養もある家の息子エリオ。3人がいる別荘に、オリヴァーがやってくる。↑のあらすじでは24歳の大学院生となってるけど、ずっと最後まで説明はなかった。それにしても、オリヴァーが、おっさん過ぎ。演じるアーミー・ハマーは1986年生まれで、撮影時に31歳で、おっさんだろ。
エリオは、始めは大学生かと思ってたんだけどどうも違うようで、高校生だろと思ってたら、後半で17歳と言っていた。じゃ、17歳の少年との交接か。ティモテ・シャラメは1995年生まれで、撮影時に22歳。これも、いい歳だ。
ホモ映画、は分かっていたから、いつキスして掘り始めるのだ? と見ていたけど、なかなか関係が成立しない。延々と、のんびりムードの避暑地の生活が描かれる。というか、エリオと女友だちとの初体験の方が先にやってきたりして、なんかこいつ、両刀遣いなのか。とかいってたら、エリオがオリヴァーのショートパンツを頭からかぶったりして。徐々に・・・。
「いいたいことは分かるだろ」「思っている通りだ」みたいな会話の打明で、でも、オリヴァーは当初は自制が効いていたけど、やっぱ我慢ができないのか、結ばれてしまう・・・。のだけれど、どっちがどっち役でどっちが掘ってどっちが掘られたのか、そういうことが分からない。というか、事前にエリオは自分がホモだと自覚していたのか? 相手とどういうことをすればいいのか、知っていたのか? とか、気になるんだけど、交接シーンはほとんどないので、よく分からず。つまんねえ。
だけどまあ、40日ぐらいの滞在期間は過ぎて、最後、帰国するオリヴァーに付いてミラノあたりを3日間旅して、でもって別れる、というだけの話。
1983年だから35年前か。イタリアの大学教授は郊外に豪邸と呼ぶような別荘を持ち、そこには下男下女がいて。避暑地だけの付き合いのような人々がいたり。まあ、説明がほとんどないからよく分からんとこが多いんだが。
エリオとオリヴァーの関係は、両親も感づいていて。とくに父親は、失意で戻ってきた(ときだったか、のちにオリヴァーが電話してきて、結婚すると告げたときだったか)エリオに、ひと夏の恋に生きる素晴らしさみたいなことを説いていたけど、ありゃなんなんだ? 父親も実はホモで本心の結婚ではなかったとか、あるのか? 理解ありすぎだろ。
まあ、互いに好き合っているのに一緒になれず、それだけではなく、カモフラージュのために女性と結婚しなければならない、というのは気の毒とは思うが。映画の中に、老齢のゲイカップルが登場していたけど、あんな具合にいい関係で、長く付き合えるのかね。これまで見たゲイの映画だと、発展場で相手を見つけて・・・なのが多かったけどなあ。事実は知らんけど。
しかし、知的上流階級、避暑地、スポーツ、音楽・・・てな設定があって、自然を背景に詩的に、ロマンチックに描けば、オカマ映画も美しく見える、というわけか。そういう属性を排除して、たまには一般人あるいは下層階級のホモ生活を美しく描いてみろ、な気がする。
でまあ、数年後にオリヴァーが電話してきて、エリオに「来春結婚する」と告げ、エリオはうずくまって泣く、というのがラストシーンで。延々とクレジットが映るんだが。その長回しはいいとして。そっちの方がドラマがありはしないか? 翌春、フィアンセを連れてきたオリヴァーと、エリオの再会。消えたはずの思いが燃えだして・・・。まぐわってるところをフィアンセに目撃されて・・・、とかの方が面白いだろうにな。
・音楽がいいとか、自然環境が素晴らしいとか、そういうのを評価してる人がいるようだけど、アホかと思う。
・後半の、一緒にミラノを旅するあたりで故意にピントを外すのはなんでだ?
散り椿10/10109シネマズ木場シアター5監督/木村大作脚本/小泉堯史
allcinemaのあらすじは「享保15年。かつて故郷の扇野藩で平山道場・四天王の一人と謳われた剣豪・瓜生新兵衛は、藩の不正を糺そうとして失敗し、放逐された過去を持つ。そんな浪人となった新兵衛に連れ添い続けた妻・篠が病に倒れてしまう。篠は新兵衛に対して“采女様を助けてほしい”と最期の願いを託す。采女は新兵衛にとってのかつての親友にして恋敵であり、不正事件をめぐる因縁の相手でもあった。篠の願いを受け、扇野藩へと戻ってきた新兵衛は、不正事件の真相を突き止めるべく奔走するのだったが…」
Twitterへは「説明セリフの棒読み。時代考証はテキトー。過去の事件や人物関係は分かりにくく、画面への気配りもいまいち。テーマの“愛”って、なんなの? な感じ。ま、唐突な展開や違和感過剰で、ときどき笑えたけど。」「石段でのでんぐり返り(巴投げ?)格闘は、おっ、て思った。」
脚本がボロボロというか、沿って撮っているのか、後で勝手につないでるのか知らんが、ぜんぜん“じわり”つたわってくる話になっていない。殺陣をほめる声もあるけど、そうかあ? な感じ。まあ、カット割りせずに刃を合わせているのはわかる。だから、完成度というより、その場の勢いとか弾みを大事にした感じは見えるけど・・・。でもたとえば、雨や雪のなか真剣で稽古するか? と思うと、途端に白けてきたりする。
そもそも、家老が田中屋とつるんで悪だくみ? のくだりがよく分からない。田中屋が藩内の和紙を専売して大儲け? その上がりの一部を家老に? という構図なのかな。で、西島秀俊は財政改革のために新田開発を主張するが退けられている・・・。らしい。しかしあんだけ家老の悪事が大っぴらなのに、反旗を翻す輩がほとんどおらんというのはなんなんだ? あとから問題になる起請文も、セリフがよく聞き取れなかったんだけど、田中屋が製紙を一手に引き受ける代わりに家老に千両やるとかいう話だったかな? けど、そんな証文を家老が書くか? 聞いたことないな。
で、家老は、かつて告発し、藩を去って京にいる岡田准一に刺客を送ったりしてるんだが。なんで? あとから、岡田は事の子細をよく知らないと分かるので、なおさら不自然な感じがぬぐえない。
さらに。岡田が藩に戻って昔の四天王仲間と再会して事実を知っていく過程で、何度も襲われる。地方の小藩だと思うんだが、そんなことがあればすぐに住民の耳に入るだろ。まあ、岡田はバッタバッタと斬り捨てるんだけど、家老は何千石か知らんが、陪臣は捨てるほどいるらしい。
そもそも岡田が進言したとき、一緒に行動しなかった3人がおかしい。まあ、なかの1人(西島)は、家老と田中屋の仲をとりもった(?)家臣の義理の息子ではあるが。とはいえ、西島など、3人のなかの1人が西島の義理の父を斬り、別の仲間がその責任をかぶって自刃した、という関係者の張本人だろ。なのに、なんで沈黙をつづけたんだ? そのおかげで、藩内で出世したのか? あんだけ家老の悪事が家臣に知られていながら、家臣はだれも家老に刃向かわない。いや、西島は面と向かって家老にはっきり不正について語っていた。なら、家老はまず西島を脅すなり殺したりするんじゃないの? なんか変。
その田中屋から起請文を受け取った西島も、起請文を手に「おらおら、ご家老、証拠はここに」と迫ればいいだろうに。そういうこともしない。
お家騒動なのに、ザワザワ感というか、お祭り騒ぎ的な二項対立が見えてこない。『椿三十郎』みたいに、おおらかにあっち側とこっち側に分けりゃいいのに、ムダに背景を複雑化させている。原作がそうなのかも知れないけど、そこをざっくりやるのがシナリオの仕事だろ。
そうそう。田中屋も、裏がありながら襲われているんだけど。襲ったのは家老の家臣? あの襲撃、とても不自然。しかも田中屋が蔵にいて、用心棒の岡田は呑んでるって、おいおい。
四天王の関係も変。互いに、経緯を知りながら沈黙してるって、どういう関係なんだか。坂下源之進は麻生の兄らしいけど、なんで彼が家老から切腹を命じられるんだ? 筋違いだろ。緒形直人も、殿の狩りに同道し、そこで家老の手下の銃弾に倒れ、息絶える直前、池松に「切ったのは俺」と告白するって、おいおい。
西島の義父が家老と田中屋の間にいた? それを岡田が告発した? なーんで家老を告発せず、西島の義父を? その西島の義父が、何とかいう太刀筋で斬られていたらしいが、それは四天王だけが使える太刀筋。それはいい。でその事件のあった日、たまたま西島、緒形、駿河太郎演ずる坂下源之進の3人が、西島の義父と出くわし、西島の義父が斬りかかってきた。あれ、誰に、なんだ? 養子の西島に? でまあ、緒形が西島の義父を斬って。で、駿河太郎演ずる坂下源之進が腹を切る、という流れがまったくわからない。
告発した岡田は逐電。でも、なぜ? しかも、家老にはどこにいるか知られているのかよ。どういう調査能力だ。というか、岡田を斬る理由はどこにあるの? で、京で襲われて、相手を4人斬っている。では、あの死骸はどうした? 大事件だろ。いや、追っ手に居所が発覚したなら、さっさと逃げなくちゃ、だろ。というか、逃亡生活は、何で生計を立てていたんだ? 傘張りにしては立派な家に住んでたが。
・黒木華と池松壮亮は姉弟なのか。はじめ夫婦かと思ってた。池松が岡田を、なぜ「兄上」と呼ばない?
・池松がでかけるとき、中元が同道しない! 見送っている。おかしいだろ。
・藩主が家臣何人かと馬で国入り? なことあるか?
・岡田の妻の麻生久美子が死んで、位牌に「篠の霊」とか書かれてたけど、戒名なしか? そういうのあったの?
・ラストのクライマックス。突然雨が降ってくるお笑い演出。
・富司純子の母親が、最後、みんなとにこやかに笑っている違和感。だって息子・西島が死んだんだぞ!
・出演者名がヘタな手書きなのは、それぞれ自筆だからかな。
クレイジー・リッチ!10/11ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/ジョン・M・チュウ脚本/ピーター・チアレッリ、アデル・リム
原題は“Crazy Rich Asians”。allcinemaのあらすじは「中国系アメリカ人で生粋のニューヨーカー、レイチェルは、恋人ニックが親友の結婚式に出席することになり、一緒に彼の故郷シンガポールへと向かう。これまで家族の話を避けていたニックだけに、それなりの心構えをしていたレイチェルだったが、ニックはそんな彼女の予想とは真逆のアジア屈指の不動産王の御曹司だった。こうしていきなりセレブの世界へ足を踏み入れることになったレイチェル。しかしそこには、激しい嫉妬に燃える独身セレブ女子たちや、財産目当てと決めつけるニックの母親が、2人の仲を引き裂こうと待ち構えていた。」
Twitterへは「成り上がり中華系アメリカ女性と、大富豪中華系シンガポール人たちの、次元の違うハデな話。だけど、まったくうらやましくない。それはいいんだけど、みな顔が同じに見えるし、名前も覚えきれないので困ったよ。」
というわけで、見てからすでに17日。書いているのは10が28日。↑あらすじのアバウトな経緯の他は、よく覚えていない。というか、書いているようにニックの従兄弟とかたくさん登場するんだけど、さっさと話が進むので、誰が誰やら。なまま、あれこれ話が進むから、何がどうしてが分かりづらいのよね。要は、いろいろあった、みたいな感じで。
で、レイチェルはニックの母に好かれようとするんだけど、母親の方は米国系中国人をはっきり区別していて、心の底では認めていない。とくに、母親も、嫁いだ時は自身のキャリアを捨て、家を守ることに人生を費やしてきた、という考えがある。いっぽうのレイチェルは大学教授で、仕事を捨てて家に入る気はさらさらない。という価値観の対立があったりするんだが、決定的なのは、レイチェルの出自の問題で。たしか母親が調査したんだったか、実父は妻(レイチェルの母親)を捨てたんだったか。なわけでの母子家庭。実は父親はまだどっかで生きてるんだったか、ということをレイチェルも知らされずにきたとかいうのが明らかにされて、これまた血筋の面で「値しない」と母親に言われてしまうんだったか。まあ、こっちからすりゃ、そんなこと気にしてまでニックと一緒になる必要もないだろ、と思うんだけど。
そもそも、ニックとレイチェルがどういう出会いで付き合いで、というのが描かれていないので、あまり感情移入できないんだよね。レイチェルが授業の後、カフェみたいなところでニックと出会って、一緒にシンガポールへ、と誘われてるシーンしか出てこない。しかも、それをチラ見したニックを知る人がSNSにその様子をアップして、関係者にあっという間に広まる的な描写が、めまぐるしすぎて、なんかな、だったし。
でもまあ、最後は母親もしぶしぶ認めたんだったけか。でも、何で認めたのかはさっぱり覚えていない。ただ、その最後のパーティが、どでかい船上でのものだったんだっけかな。とにかく、もの凄いところでのパーティで。こんなことに金を使っているようでは、こいつら、一緒になっても庶民のことは理解できないだろ、と思った。まあ、庶民なんて歯牙にも掛けないレベルの方々の話で、それはそれでいいんだろうけど。
だって、レイチェルの大学のときの友人も登場するんだけど、結構な豪邸に住んでいるのに、その友人が仰ぎ見るようなクラスの人間なんだから、ニックは。
でその、友人(女子ね)と、そのオタクな弟が、いい味を出してる。ニックの従姉妹たちも、あれぐらいキャラ立ちしてれば分かりやすかったんだけどなあ。
しかし、この映画がアメリカで大ヒット、というのが、よく分からん。
ところで冒頭の、ロンドンでのホテル買収、奥さん訪問で慌てるスタッフ、は、なんなんだ? やってきた奥さんは、ニックの母親? 床を汚してたのはニック? それぐらいの資産があるということをいいたいのかもだけど、記憶に残らん場面だ。
私はあなたのニグロではない10/12キネカ大森2監督/ラウル・ペック原作/ジェームズ・ボールドウィン
原題は“I Am Not Your Negro”。allcinemaの解説は「ジェームズ・ボールドウィンの言葉を通して、アメリカにおける黒人差別の歴史を辿る社会派ドキュメンタリー。ボールドウィンと3人の公民権運動の指導者でいずれも暗殺されたメドガー・エヴァース、マルコムX、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアとの出会いと別れを軸に、今なお続く根深い黒人差別の本質を、ボールドウィンの著作やインタビュー、講演などで語った彼自身の言葉を使用して浮き彫りにしていく。」
Twitterへは「情報量が多いので付いていくのがやっと、というか、ときどきおいてきぼり。ボールドウィンは『悪魔が映画をつくった』しか読んでないけど、映画からの引用もたくさんだった。」
実をいえば、黒人抵抗運動の歴史を詳しく知っているわけではない。キング牧師はまあまあ、マルコムXはアバウトに。もうひとり、メドガーという人はよく知らなかった。マスコミが一般的に取り上げる比重に寄ってるかも知れない。この伝説的3人の足跡をたどる、というわけではなく、ボールドウィン自身が登場し、黒人差別の歴史や背景、その他について話す。あるいは、著作からの言葉をナレーションで紹介していく。それ以外に、黒人が映画や広告、その他、イメージ的にどう描かれてきたか、どう刷り込まれてきたか、なども見せていくので、とても情報量が多い。これをちゃんと理解するのは、なかなか難しい。けれど、知らなければならない歴史だし、黒人側からのメッセージだろうと思う。
やっぱり、歴史的事実の映像がそのまま使われているのは、インパクトが強い。なにせ3人は暗殺された人ばかりなのだから。それ以外に、チラッと出てきた黒人女性、彼女も早く亡くなった、とあったけど、彼女はどういう人なのかな。なかなか分からない。
印象的だったのが、ボールドウィンが「白人は黒人を憎んでいるのではない。おそれているのだ」的なことをいったことだ。なるほど。黒人は白人に対して、何もしていない。だけど、白人は黒人を必要以上におそれ、嫌っている。そもそもの歴史をひもとけば、白人が黒人に対して、しつづけてきたはずなのにね。
などということを、画面を忙しく見ながら(なぜって字幕がたくさんでてくるから)考えたりしつつ、見ていたのだった。
そうか。ボールドウィンは同性愛者だったのか。
デトロイト10/12キネカ大森2監督/キャスリン・ビグロー脚本/マーク・ボール
原題は“Detroit”。allcinemaのあらすじは「1967年7月、デトロイト。黒人たちによる暴動が激化し、鎮圧に乗り出した軍や地元警察との衝突で街はまるで戦場と化していた。そんな中、運悪く暴動に巻き込まれ身動きできなくなった人気バンド“ザ・ドラマティックス”のメンバー、ラリーが宿泊していたアルジェ・モーテルで銃声が鳴り響く。それは黒人宿泊客の一人がレース用の空砲をふざけて鳴らしたものだった。しかし、それを狙撃手による発砲と思い込んだ大勢の警察官がモーテルになだれ込んでくる。やがて、偶然居合わせただけの若者たちが、白人警官のおぞましい尋問の餌食となっていくのだったが…。」
Twitterへは「白人警官も司法もひどいけど、ムダな挑発さえしなけりゃとも思えるし。なぜあのことを誰も言わないのか、も不思議。白人vs黒人の問題というより、おかしなやつが警官にもいた、という感じに思えてしまうのだよなあ。」
深夜酒場の摘発から始まる。警察は、黒人の反発をおそれて関係者を裏口から出す手筈が、うまくいかず。表に並んだ経営者や客(黒人兵士の退役パーティ?)を見て、周囲の住民(黒人)が集まり、ヤジや投石。警察は急いで検挙者を移送するが、おさまらない住民は無差別放火、強奪を始め、次第に広がっていく・・・。というのが発端のようだが、これみて、悪いのは違法酒場と素直に退去しない経営者・客だろと思ってしまう。さらに、自分に関係ない検挙なのに、この機に乗じて「またまた白人・警察の威圧」と騒ぎ出す連中も、不良としか思えない。なんてことをいうと、これまでの歴史が・・・とかいうむきもあろうが、なら、何しても許されるのか? なんだよな。そもそも摘発警官のリーダーは黒人だったし、潜入警官も黒人だった。白人警官は、リーダーの指示にしたがっていたではないか。
というような流れで、警備員のディスミュークス(初めは摘発リーダーの警察官かと思ってた)、ドラマティックスのメンバー、さらにモーテルの利用者らが描かれ行く。のだか、ドラマティックスのメンバーと、利用客の何人かの区別がつかずに、もういいや、で見ながしてたんだけどね。
でまあ、暴動の話かと思ってたら、利用客のデブがモーテルの窓から、警官に向けて競技用の銃を数発撃ったことから次の話になっていった。すぐに警官が駆けつけ、リーダー格のクラウスが利用客から発砲について聞き出そうとするが、一同何もしゃべらず。なので、あの手この手で脅し、殴る蹴るを始め、ついには殺害に至る、という話だ。
モーテル内での一連の出来事を見ていて違和感を覚えたのが、だれも「デブが競技用の銃で撃った」と言わないこと。みんな知ってるのに、なんで? 最初はかばっているのかと思ったけど、デブも撃たれ(彼は最初の警察の突撃のときクラウスに背後から撃たれた)、クラウスが他の客も殺したような狂言を打ったので、それこそキョーフは最大限のはず。であれば、あったことをしゃべだろ? なんで? とまあ、この一点でこの映画には奇妙な違和感を感じて入り込めなかったし、黒人側にも共感や同情が湧かなかった。
それと。黒人vs白人の図式をとっているけれど、当時のデトロイト警察や白人たちは、それほどでもないように思える場面が結構あった。まず、暴動の日の午前中なのか、クラウスは食料品を抱えて逃げる黒人を背後から撃って、上司から咎められている。まあ、そのクラウスが夜、暴動鎮圧に出かけているのは妙な話だが。さらに、警備員のディスミュークスは、近所にやってきた州兵にコーヒーを振る舞っていたりする。他州の警官なのか、もチラッとでてきて、モーテル内の拷問に感づいて「人権に関することは面倒だ」と見て見ぬフリをしている。州兵の1人は、黒人ひとりをそっとモーテルから逃がしていた。その逃げた彼を確保したのは、たぶんデトロイト警察の白人警官で「誰がこんなことを・・・」と同情して病院に連れていった。事件が治まってからだったか、警官の誰かが「黒人にも人権がある」と話していた。おおむね黒人の人権は認めていて、同情もしている。それを思うと、白人警官の中に異常なレイシストがまぎれ込んでいて、彼らがテンション上がりまくりで暴走した、と見えてしまうのだよね。この点が、『私はあなたのニグロではない』の視点と決定的に違うところではないのだろうか。
『フルートベール駅で』でも感じたことなんだけど、黒人の方々って、見た感じが不良っぽくて、無闇にからんできて、いざなにかあると「何もしていない」と反論する場面が多く見られるような気がして、どーも共感・賛同しにくいところがあるように見えてしまう。大人しくて、素直で、嘘をつかず、弱々しい黒人少年・青年が登場する映画だと、また別なんだろうけど。あるいは、一般的に、白人少年はそのように描かれ、黒人少年は、そうでないようなステレオタイプで描かれるのだろうかしらね。 ・白人娘2人が登場するんだけど、なぜにデトロイトの黒人ばかりの地域のモーテルに泊まって、売春はしていなかったのかも知れないけど、黒人青年たちとちゃらちゃらしてたんだ。それだけで印象が悪いと思うんだが。
クワイエット・プレイス10/15MOVIX亀有シアター5監督/ジョン・クラシンスキー脚本/ ブライアン・ウッズ、スコット・ベック、ジョン・クラシンスキー
原題は“A Quiet Place”。allcinemaのあらすじは「音に反応し人間を襲う“何か”によって壊滅状態となった地球。そんな中、どうにか生き延びていた1組の家族。リーと妻エヴリン、そして子どもたちは手話で会話し、裸足で歩くなど、音を出さずに生活することで、かろうじて“何か”の襲撃を免れてきた。しかしそんな一家には、妊娠中のエヴリンの出産という最大の危機が目前に迫っていたのだったが…。」
Twitterへは「怖くないし、退屈だし、ツッコミどころだらけだし。なのになんで全米大ヒット? な映画を体験するのも醍醐味のひとつである、としておくか。」
最初はクリーチャーが発生? 飛来して? 90何日目かで、一家でスーパーかなんかに漁りに行ってるところか。父親が「音の出るオモチャはダメ」といったのに、娘が気の毒がってそっと与えたのが仇になって、クリーチャーの餌食になってしまう。で、次は400人日目からなんだが、娘リーガンは弟を失ったのは自分のせいというトラウマを抱えていて、でも怖いもの知らずなところがある。もうひとりの弟マーカスは男のくせに臆病。まあ、いつものパターン。「してはいけない」のにミスをして迷惑をかける子供という設定は、黄金の定番だ。
音に反応して襲ってくるクリーチャーが、なんだこりゃな感じ。声を聞かれないよう手話で会話してるけど、生活音は結構出してる。そもそも、自然の中も音だらけなのに、どうやってクリーチャーは聞き分け、襲うのだ? 食うため? 破壊・支配するため? 人間や他の静物が出した音と、自然に発生する音を聞き分けている? なんでも音がすれば、襲うのか?
音は波長だけど、光りも電波も波長なわけで。音に反応するなら、光りや電波も感知できるんじゃないの? とお思うんだけど、そのあたりがよく分からないので、素直に納得できない感じ。
ところで父親は、クリーチャーを監視するため旧自宅地下にカメラをたくさん設置し、モニタで監視してる。住まい付近には、たくさんの電球も設置されている。では、どこで誰が発電してるんだ? という根本的な疑問が、離れないだよ。まあ、このいい加減さがたまらんのでもあるが。
子供2人に危機が訪れ、それを救うために自分が叫ぶ父親。でも、クリーチャーが近づいても、彼は撃たない。なんで? 撃つと仲間がやってくるから? そんなの逃げればいいんじゃないのか?
そのクリーチャーだけど、アメリカ大陸には3匹、とかいってたっけか。あの地域に3匹で、全世界的にはうじゃうじゃいるのか? そのあたりが、よく分からないぞ。
娘リーガンが耳につけてたのは、ありゃ補聴器? もともと難聴だったのか? そんな説明あったかな。でその補聴器が、クリーチャーが近づくと高周波を発する。なので、リーガンは試しに補聴器の発する音をマイクに当てると、クリーチャーは悶絶。そうか、これが弱点か、というわけで、そのスキに母親がクリーチャーを撃ち殺す。けど、その音を聞いて、他の2匹がやってくる。そこでリーガンと母親は目を合わせ、“よっしゃ、やったるで”な笑みを浮かべるところで映画は終わる。なんか、呆気ないね。
その、やってくる2匹をやっつけたら、この世は平穏無事になるのか? それとも、あの周辺だけなのか、よく分からない。
でも、なんで補聴器から高周波が発生するのだ? クリーチャーの発する何かとのハウリングか何か? で、クリーチャーは、なぜその高周波を嫌うのだ? もしその音を随時発生しようと思ったら、その高周波の成分を調べないと、高周波発生器はできないよな。いまのところは、クリーチャーがおびき寄せ、近づいたところで高周波を聞かせて撃つ、という危ない橋を渡ることになるよなあ。違うか?
・妻が出産のため籠もったのは、あれは元の自宅の2階? 釘を踏み抜いたのは地下室? 生んでから、また地下室に逃げ込んだのか。で、水が浸入してくるんだけど、ありゃどこからの水なんだ? どっかのタンクが壊れたのか?
・地下室に入ろうとするマーカスに「入るな」と言ったのは姉だったか母親だったか。なんでかなと思ったら、父親の監視システムがあったわけだが。なんで入っちゃダメと言ったのか、意味がよく分からず。
・出産予定日が分かるって、母親は医者か看護婦?
・クリーチャーは、生物を殺して、食べてるの? たんに襲ってるだけ? 主食はなんなんだ? とか、考えると分からんことだらけ。
ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男10/19ギンレイホール監督/ジョー・ライト脚本/アンソニー・マクカーテン
原題は“Darkest Hour”。allcinemaのあらすじは「1940年5月、第二次世界大戦初期。独裁者ヒトラー率いるナチス・ドイツの前にフランスは陥落寸前で、英国にも侵略の脅威が迫る中、新首相に就任した前海軍大臣のウィンストン・チャーチル。国民には人気があったものの、度重なる失策で党内はもちろん国王からも信頼を得られず、弱音を吐く彼を妻のクレメンティーンは優しく叱咤する。就任直後の演説では勝利を目指して徹底抗戦を誓うも、戦況は悪化の一途を辿っていく。そしてドイツ軍に追い込まれた英国軍が、ついにフランス・ダンケルクの海岸で絶体絶命の状況を迎える。英国への上陸もいよいよ現実の脅威となる中、犠牲を回避すべくドイツとの和平交渉を主張する外相ハリファックスの必死の説得を受けるチャーチルだったが…。」
Twitterへは「『ダンケルク』『人生はシネマティック!』と“ダンケルク3部作”な感じ。wikiでチャーチル見たら波瀾万丈ストーリーが長々書いてあって、パス。ところで地下鉄のエピソードは感動的だけど創作かな。」
チャーチルはカーシュの写真で知ってるぐらいで、実は実績についてほとんど知らない。最近の『ダンケルク』『英国総督 最後の家』なんかで、ふーん、ということがあったぐらい。でも、首相就任直後にあのダンケルクがあったとは知らなかった。で、映画も、就任直前の英国議会の模様、彼を嫌う国王ジョージ6世、ドイツとの和解交渉を主張する前首相チェンバレンとハリファックス子爵との対立、選出された経緯なんかを紹介しつつ、狂言回しにタイピストのエリザベスを交えて描かれる。構図も分かりやすく、ドイツのベルギー、フランス侵攻、そしてダンケルク。犠牲となったカレーのイギリス軍、アメリカとの交渉の失敗、小型船舶のダンケルクへの派遣(ダイナモ作戦)、妻クレメンティーンの支えなんかをうまく見せていく。
チャーチルって、いいところの出て、バスにも乗ったことがなく、地下鉄も1度だけ。戦争大臣経験者で、あとから調べたら士官学校出で、若い頃から戦場を渡り歩いてきたような人だったのね。しかも嫌われ者で、ハッタリ屋っぽい。知らなかった。
「ドイツと交渉しない、断固戦う」という信念もいったんはぐらつくけれど、結局、信念は曲げず。まずは閣外大臣たちへの演説で心をつかみ、その足で国会で演説。これまた賞賛の嵐で、交渉派チェンバレンも仕方なく支援するハメに・・・というところで映画は終わっている。まあ、これから終戦まで、まだ5年あるんだけど、すでに勝利したかのような盛り上げだった。
のであるが・・・。
・嫌っていた国王がチャーチル宅を訪ねてきて、和解する場面があるんだけど。どこをどう評価しての訪問なのか、よく分からず。
・閣外大臣への演説で、心をとらえてしまうんだけど、どこがよかったのか、よく分からず。国会での演説も同じく。そんなすごい演説でもなかったけどな。
・ヒトラーの脅威に、国王はカナダへの亡命も考えていたのね。ふーん。
・和平交渉か徹底抗戦か。まよったチャーチルは庶民の声を聞くべく、自動車から消えて地下鉄に乗り込む。そこで、名もなき国民の声を聞いて、抗戦を確信する。というエピソード。あれ、自分の信念に自信がもてなくなった、ということなのか? ところでこのシーン、創作だよな、多分。この映画、いちばんの感動シーンではあるけど。ところで、当時の首相は、国民がひれ伏すような存在だったんだな。あと、車内で喫煙してもOKって、これは日本でも70年代ぐらいまでは吸えたんだっけか。
・あと、タイピストのキャラも、映画的演出だと思うんだが、どうなんだろう。
・しかし、改めて思うのは、70年少し前まで、他国を堂々と侵略しても構わない世界があったことだよね。
止められるか、俺たちを10/25テアトル新宿監督/白石和彌脚本/井上淳一
allcinemaのあらすじは「1969年、春。21歳の吉積めぐみは、ピンク映画の旗手・若松孝二率いる“若松プロダクション”の扉をたたく。助監督となり、男でも逃げ出すピンク映画の過酷な現場に圧倒されながらも、若松監督の存在感と、いくつもの才能が集う若松プロの熱気に魅了されていく。しかし、自分でも映画を撮りたいと思いながらも、何を表現したいのかが分からず焦りと不安が募っていく。そんな中、若松監督は過激な政治闘争へとその軸足を移していくのだったが…」
Twitterへは「女性ピンク助監督の目を通してのドタバタ青春物語として面白い。でも若松孝二の周囲の連中の顔と名前が区別つかんというのが少しあるかな。あと、いくら事実に基づいているとはいえ終わり方が、なんで? な感じなのが、うーむ、かな。」
若松孝二は、むかし『胎児が密漁する時』『犯された白衣』『毛の生えた拳銃』(大和屋竺)なんてのを見て、よく分からないというか、つまらないと思った。そもそもヘタだと思った。赤軍への関わりとか、そんなのもあって消えるのかと思ったら、そんなこともなく。『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(未見)で、内容は左翼的らしいけど一般映画に近いところで公開されて注目され、『キャタピラー』では寺島しのぶがベルリン映画祭女優賞を獲ってしまった。もっとも、映画自体はヘタだったけど。まあ、内容=メッセージ性が評価されたのかな。というわけで、とくに思い入れはない。
のだけれど、話題には事欠かない人だった。出演する役者は当時のアングラの世界の人だったし、『映画芸術』関係の評論家なんかも出演したり、大島渚に近い人物関係も感じられたり、映画自体でより、本人の存在自体が影響力があるような気配で。でも、それがなぜなのかは、よく分からなかった。だって、映画は下手なんだから。
そういう人の伝記映画らしい、ということで興味をもったんだけど、描かれるのはすでに大学闘争が終わった60年代の終わりから『赤軍派-PFLP 世界戦争宣言』の公開直後までの2〜3年のことで、実際の主人公は助監督としてスタッフを務めていた吉積めぐみ、という女性の一時の青春物語だった。めぐみがスタッフになり、チーフ助監督に昇格し・・・というあたりは、映画づくりの裏物語、青春群像がコメディタッチも含めてとても楽しい。のだけれど、そのうち妊娠し、なんと最後は自殺してしまうという暗いラストにげんなりした。しかも、ブツ切れみたいな終わり方で、しんみりともしない。放り投げたような終わり方。なんだこれ。で、めぐみは実際のスタッフをモデルにしているのだそうで、でも、自殺の本当の理由はよく分からない。
難点は、若松プロの若い者が、足立正生と荒井晴彦、あと、オバケぐらいしか区別がつかないところかな。オバケが秋山道男と後から知って、なるほど。でも、ガイラとか知らんし。あと、沖島勲とかも知らん。こっちは若松プロのファンじゃないし。大和屋竺は知名度高いし知ってたけど、映画の中の誰なのか、最初に紹介されたとき以降、分からなくなった。群衆でいるとき、これが誰、って言われてもインプリントされないよ。あれが、もうちょい区別ついたら、もうちょい面白くなったかも。
あと、めぐみと寝たやつは、途中から入ってきた、学生2人のうちの右側の方だったか? 監督はダメだから撮影専門で、とかいってたやつ(高間賢治?)。あれか? で、左側の、幼い顔の方は、その後、登場してたっけ?
その高間賢治も実在の人物らしいけど、この映画では、めぐみを妊娠させ、めぐみは堕ろすこともできずに命を絶った、というような流れになっていて、これは高間賢治本人はどう思っているのだろう? と、とても気になってしまう。
あと、足立正生はなかなかの出番で、中東に行って赤軍に入る前は、あんな感じだったのか・・・。その後の傾倒は、描かれてなかったけど。で、クレジット見たら名前がでてて、本人どこかで映ってたみたいだな。気づかなかったけど。あと、めぐみはホントは足立正生に気が合ったけど、足立の方が無視してた、というようなところがあったりして。そういう内部事情を明かしてしまったいいの? 存命の方も多いのに、などと思ったのだった。
若松孝二は、あんな感じだったのか? 井浦新だと、丸顔で太った様子に結びつかないけど・・・。
めぐみ役の門脇麦は、険のある顔つきでそんな好みじゃないけど、見てるうち次第に可愛く見えてくる、かな。あと、音楽はわりとよかった。
マイ・プレシャス・リスト10/29ヒューマントラストシネマ有楽町監督/スーザン・ジョンソン脚本/カーラ・ホールデン
原題は“Carrie Pilby”。allcinemaのあらすじは「ニューヨークのマンハッタンに暮らすキャリー・ピルビーはIQ185の超天才少女。ハーバードを飛び級で卒業したものの、実はコミュニケーション能力に乏しく、引きこもり気味で、読書するばかりの孤独な毎日を送っていた。そんなキャリーを心配したセラピストは、彼女に“ペットを飼う”“友だちをつくる”など6つの課題が書かれたリストを渡し、それをクリアするようアドバイスする。半信半疑ながらも、ひとまず外へ出て一つずつ課題をクリアしようとするキャリーだったが…。」
Twitterへは「頭はいいけど友だちおらず、すぐ責任転嫁し、融通の効かない謹厳実直娘のリハビリ話。面白かったのは隣人2人ぐらいかな。原題は“Carrie Pilby”で主人公の名前で、洋画にはよくあるパターンなのに、邦題は・・・。」
いま19歳。15歳だったかな、で飛び級でハーバードに入学。でも仕事はしてなくて、父親の友人のセラピストのところに通ってる。で、コミュ障のキャリーは、リストの課題をクリアしていく、という話なんだが。積極的にクリアすると言うより、偶然にクリアしたり、な感じで、克服していく感じがないのだよね。
コミュ障と言うけど、引っ込み思案じゃない感じ。主張は強くて、言いたいことはいう感じ。バイト先でも、同僚とフツーに話せるし、誘われたパーティにもでかけてる。隣家の、不思議な青年とも会話するし、さらには、新聞の友だち求む欄で探した男性とデイトもする。どこがコミュ障なんだか。
で、こうなったのは、父親が飛び級でハーバードに入れたから、と責任転嫁。まあ、こういう言い方については、セラピストが「言い訳」と言ったりしてたけど。てなわけで、リトをクリアするために向かって行く、苦慮するというより、ドタバタしつつついでにリストの課題もかろうじて達成し、そんななかで知り合った隣の部屋の青年と知り合いになっていく、というような話で、それほどワクワクもしないし、感じるところもない。
っていうか、父親は外国生活。母親は亡くなっているけど、頭がよくて、生活に困ることもなく、なにが不満なんだ、なんだよな。要はハーバードとか関係なく、個人の資質だろ? 貧乏人だってコミュ障はいるし、そういう連中はもっと悲惨かも知れない。お気楽でいいよな、な気がしてしまう。
そういえば、友だち求むで知り合った相手はMIT卒で、でも婚約者がいて、という男性なのにセックス一歩手前まで行ったりして、おまえどこがコミュ障?
でまあ、学歴も地位もない隣家の青年との方が、肩肘張らない付き合いができて、近づいていくという話なんだけど、果たして上手くいくのかね、な感じ。
その隣家の青年は、隣家に居候してるんだけど、住んでる奴は嘘つきらしく。キャリーが訊ねていくと「あいつは越した」簡単に言うのが面白い。家の奥からタキシード姿の青年が出てきて、「だから、嘘つきだった言ったろ」が笑える。そうそう。青年は、オーケストラの演奏家だったっけ。そんな風には見えなかったけど。
犬ヶ島10/31ギンレイホール監督/ウェス・アンダーソン脚本/ウェス・アンダーソン
原題は“Isle of Dogs”。allcinemaのあらすじは「2038年の日本。ドッグ病が蔓延したメガ崎市では、小林市長が人間への感染を防ぐために、すべての犬を“犬ヶ島”に追放すると宣言する。やがて犬ヶ島に隔離された犬たちは、自分たちだけで生き延びることを余儀なくされ、空腹を抱えて辛い日々を送っていた。そんなある日、一人の少年が小型飛行機で島に降り立つ。彼は3年前に両親を事故で亡くし、親戚の小林市長に引き取られたアタリ。孤独な彼の悲しみを癒してくれた護衛犬のスポッツを救出にやって来たのだった。そして島で出会った個性豊かな5匹の犬たちの協力を得て、いざスポッツを捜す旅に出るアタリだったが…。」
Twitterへは「なんかよく分からん。と思ってるうちに寝た。ラスト30分ぐらいは、見た。つまんない。」
なんか、いつまでたっても話が始まらない感じで。飽きてきて寝てしまった。話の前段階の前置きの部分。犬と人間が戦ってどうのな戦争絵巻みたいなところも、なんだなんだ、と思ってるうちに終わってしまって、よく頭に入らないまま。そもそも、の、少年の生い立ちやなんかも、ささっとセリフか字幕で紹介されたんだっけか。なんか、みんなそんな感じで、絵で見せる=説明する部分も少なかったような。いや、字が多すぎだよあれ。英文と日本語が併記で、画面のあちこちに配されるんだけど、これが小さくて。あれこれ読んでるうちに次の画面になっちゃったりするのも、いらいら。な訳で、犬のタグがSPOTSではなくて、別の犬だったというようなところまでは見たかな。で、沈没。
最後の30分ぐらいはちゃんと見たと思うんだけど、これまた面白くなくて。寝ていた部分があったから理解できずに面白くない、のかも知れないけど。見ていても多分、面白くなかっただろうな、と思って。ギンレイだから『リメンバー・ミー』のあと、すぐもう一回、見ようと思えば見られたけど、やめた。
これが海外の映画祭で賞を獲得した理由が、分からない。
アナと雪の女王/家族の思い出ギンレイホール10/31監督/ケヴィン・ディーターズ、 スティーヴィー・ワーマーズ=スケルトン脚本/ジャック・シェイファー
原題は“Olaf's Frozen Adventure”。allcinemaのあらすじは「クリスマスの伝統的な迎え方が分からず落ち込むアナとエルサのために立ち上がったオラフが、思わぬ大冒険を繰り広げるハメに」
22分もある。併映の短編にしちゃ、長い。伝統にこだわるというのも、古い感じがするし。飽きた。
リメンバー・ミー10/31ギンレイホール監督/リー・アンクリッチ脚本/エイドリアン・モリーナ、マシュー・オルドリッチ
原題は“Coco”。allcinemaのあらすじは「ミュージシャンを夢見るギターの天才少年ミゲル。しかし彼の家では、むかし起こったある出来事がきっかけで、代々演奏はおろか音楽を聴くことも禁じられていた。人々が先祖の魂を迎える“死者の日”、音楽のことで家族と衝突してしまったミゲルが、憧れのスター、エルネスト・デラクルスの墓を訪れたところ、いつの間にか死者の国に迷い込んでしまう。カラフルで美しいその世界ではガイコツたちが楽しく暮らしていた。しかし生者のミゲルは日の出までに元の世界に戻らなければ、永遠に家族に会えなくなってしまうという。そんなミゲルの唯一の頼りは、家族が恋しい陽気だけど孤独なガイコツのヘクター。しかし彼にも“生きている世界で忘れられると、死者の国からも消えてしまう”という過酷な運命が待っているのだったが…。」
Twitterへは「よくできてて面白い。メキシコにおけるあの世、死者の日、祈る、記憶される、忘れ去られる、などが描かれているのも興味深い。そういえば、今日はハロウィンか。それと、メキシコを取り上げたのは、トランプへの皮肉もあったのかな。」
家族を棄てた父親、禁じられた音楽、父親への思い・・・とか、要素としては単純だけど、話として面白くまとまってて、楽しいし、しんみりとさせてくれて、とてもいい。子供にも分かりやすいし、大人は大人でいろいろ想像できるような話になっている映画だ。
そういうのとは別にして、メキシコの死後の世界観が如実に見られて、とても興味深い。つまり、死んだ人は、祭壇に写真で祀られる。祀られている人は、死者の日に現世に戻り、家族とともにひとときを過ごせる。けれど、写真が祀られていない人は、現世に戻ることができない。それだけではない。現世に、自分を知る人がいなくなると、死者の国からも消えてしまう・・・。
写真というのが面白い。せいぜい150年の歴史だけど、祀られる形代としての役割を与えられていて、写真が死者を支配するような考え方だ。写真がなかった時代と、写真が祀られる時代とでは、死後の国の考え方はどう違うんだろう。とても興味深い。
写真と言えば、香港映画などを見ると、墓石に写真から取った顔が刻まれているのに気づく。あれも、陰影としての写真が登場してからの風習なんだろう。もちろん日本でも仏壇に写真を飾るところも多いし、鴨居のあたりに先祖の写真を額に入れて飾っているところがある。しかし、メキシコのそれは、現世と死者の世界をつなぐメディアになっているところが違うようだ。
というような設定で。スター歌手エルネストの墓に行き、飾ってあるギターをみた彼が父親だと思い込んだミゲルが、なんの因果か死者の国に行き。そこで、死んだ家族に出会う様子とか、死者の国のルールがどうとか、なかなか楽しい。で、出会ったのがヘクターで、実は彼は音楽も達者で、かつてエルネストと組んでいた、という。というところで、ヘクターが実父だろう、というのはバレてしまうんだが、それはなんの問題もない。というか、いつか実父と分かるヘクターとの凸凹コンビのあれやこれや、エルネストへの接近とか、そういうところが楽しい。
あれ? と思ったのは、エルネストがヘクターが大事に持つ写真を奪ったところ。あれはたしか、ミゲルが持っていったのをヘクターが見て、自分の顔の部分が千切られているのを見たんだっけか? ヘクターも同じ写真をもってたんだっけか? 忘れたけど。なんで写真にこだわるのか、しばらく分からなかった。でも、あの写真をミゲルが現世に持ち帰り、祭壇に飾ったら、いま死者の国から消えかけている=ヘクターのことを覚えている唯一の存在であるミゲルの曾祖母が、生を全うしようとしている、のが阻止されてままう。すると、ヘクターによって、自分がパクリだったことがバラされてしまう、のをおそれたんだな、と分かった。でも、ちょっと分かりにくいかな。
でまあ、ビルの階上ですったもんだがあって・・・って、どうなったのかよく覚えてないけど。はは。ミゲルは写真を現世に持ち帰って飾った、んだよな、たしか。そのせいなのか、死者の国におけるエルネストの権威は地に堕ちてしまうんだけど。それはいい。でも、現世でもエルネストの権威が地に堕ちてしまっているのはどうなんだ? それはムリだろ。死者の国の情報が現世に達するのは不可能じゃないのか?
とは思うんだけど、まあいい。
ところで、最後は曾祖母が亡くなっているんだけど。ヘクターの写真は飾られている。すでにヘクターのことを記憶している人はいないはずだけど、ヘクターは死者の国にいつづけられているのか? 曾祖母と入れ違いに、消えちゃってるのか? あるいは、写真が飾られていれば、死者の国にいられるのか? そこのところが、よく分からなかったりした。

 
 

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