2018年12月

生きてるだけで、愛。12/3シネ・リーブル池袋シアター2監督/関根光才脚本/ 関根光才
allcinemaのあらすじは「津奈木と同棲して3年になる寧子だったが、鬱のせいで過眠症になり、家事もせずに引きこもり状態が続いていた。一方、週刊誌の編集部で働く津奈木も仕事にやり甲斐を感じることもなく、夢を早々に諦め淡々と日々を送るだけ。寧子が感情のままに理不尽な態度を取っても静かにやり過ごすばかり。それがさらに寧子を苛立たせてしまう。そんなある日、寧子の前に津奈木の元カノ安堂が現われる。津奈木に未練いっぱいの安堂は2人を別れさせようと、寧子の社会復帰に向けて世話を焼くのだったが…。」
Twitterへは「不愉快が渦を巻くような映画。障がいを美化するような視点は古いし、現実的でもない。その前に、病院に行け、だろうよ。はともかく、仲里依紗って、こんな顔になっちゃってるのかよ。テレビ見ないから、久しぶりなんだよね。」
飲み会で知り合って、酔った寧子を送っていったのがきっかけで同性・・・。の経緯をもすこし知りたい感じだが。まあいい。で、飲み会のときにいた寧子の3人の友だちは、以後、まったく登場しない。では、飲み会あたりまでビョーキは発症してなくて、友だちもいて、どこかで働いていたということか? それが3年の間に双極性になった? などの説明がないのは、もやもやする。
若い2人の同性ならセックスが目的、といってもいいだろうけど、2人のセックスシーンは一度もない。発症してからは、セックスレスなのか? 津奈木はそれで満足できるのか? 毎晩残業して弁当を買って帰り、でも帰ると寧子は寝ていて、あれこれ命令して騒いで文句を言って、でも津奈木はいわれるがまま従っている、という関係がいつからなのか? そもそも寧子が鬱になって働けなくなったのはいつからなのか。こういうのは重要なことだ。
そもそも、おかしくなったら病院に行くのがフツーだし、行かないならそれなりの理由がなくちゃいけない。他の映画にも多いけど、精神障がいをエキセントリックな変わり者的に描いていることが多い。これは、いいことなのか? 津奈木も寧子の姉も、気づかなきゃいけないだろ。寧子は双極性障がい、人格障害、最後は被害妄想を伴う統合失調症も発症してる感じで、ほっとけないだろ。
周囲は、理解ある人ばかりで、こんなのあり得るか、な感じ。津奈木の元カノの安堂という女性(仲里依紗が演じてる)が、津奈木とよりを戻したいからと寧子に接近し、いきつけのレストランで寧子を働かせようとするのは、なんなんだ? レストランの夫婦が安堂に借りでもあるならいざしらず、ただの常連が紹介して、寧子みたいな娘を雇うものか? フツーは雇わないだろ。しかも、遅刻、無断欠勤しても夫婦は怒らず、見守ってくれる。よほどの理解がありすぎな・・・。フツーあんな人はおらんだろ。というか、夫婦も、寧子に「病院で一度診てもらったら?」ぐらいいうんじゃないのか?
そもそも、安堂が津奈木とよりを戻したい、という動機もよく分からない。分からないと言えば、忙しくてしょうがない、と言ってる割りに、安堂は件のレストランでいつもお茶を飲んでいる。なんなんだ。
津奈木の無気力感も、いまいち理解不能。人を不幸にするような記事は書きたくない、という思いに至るようだけど、あんなふうに自覚もないまま、週刊誌の記者なんてやってるやつはおらんだろ。デスクも、津奈木に任せたままで、ゲラが上がって初めて記事が差し替わっているのが気づくなんて、あり得んぞ。
とか、あれこれあって。寧子は結局、元気になることもなく、どんどん悪くなっていく。どうやらLINEかなにかのSNSに自分の状況をアップしていたのか、その反応に変調を来して、裸で街を走り出したりする。最後はどうなったんだっけ。よく覚えてないけど、屋上で裸の寧子を抱きしめる津奈木のところに、安堂が現れる、んだっけか。よく覚えてないけどあの手の病気は、話し合えば理解し合えるのか?
精神障がいを無垢で純粋のように描いていくのは、もうこりごりな感じ。塚本晋也の『KOTOKO』もそんなところがあったような気がするんだが、困ったものである。
悲しみに、こんにちは12/3ギンレイホール監督/カルラ・シモン脚本/カルラ・シモン
スペイン映画。原題は“Estiu 1993”。“Estiu”は、「夏」の意味らしい。allcinemaのあらすじは「バルセロナに暮らす少女フリダ。両親を亡くし、田舎に暮らす若い叔父家族のもとに身を寄せることに。叔父夫婦のエステバとマルガ、そして2人の娘で幼いいとこのアナに温かく迎えられたフリダ。それでも都会っ子の彼女は自給自足の田舎暮らしになかなか馴染めず、不安と戸惑いが募るばかりだったが…。」
Twitterへは「設定がよく分からんままだらだらスケッチ的な映像が・・・。すぐ寝た。後半は見たので、冒頭から1時間近くもういちど。主人公の両親のこと、その顛末は小出しにでてるけど、初見で理解しろ、はムリすぎ。ドラマもなく、状況描写だけで退屈。」
冒頭からの流れは・・・。少女。花火。路地? 家? クルマで別の場所へ。・・・田舎暮らし、卵・・・。で、「?」「?」「?」だった。淡々とスケッチ風に少女2人と両親らしき2人の様子が描かれる。ドラマも何にもない。説明もない。すぐに寝てしまったよ。で、気づいたら、下の娘が行方不明で、通ったら発見されて、下の娘は腕に包帯。夫婦が、上の子についてなにやら口論・・・。ん? 上の子は、実子ではないのか? どうやらそのようだ。けど、上の子は、性格が悪い感じ。てな感じで、なんとなく終わってしまう。
うーむ。実子ではない、実の両親はウィルスか何かで亡くなった、というのがちゃんと説明されてるかどうか。ギンレイなので、冒頭から見直してみた。
なるほど。小出しに、示唆するようなことを、ぱらぱらと話してはいる。でも、それは一度目、途中から見て設定がなんとなく分かっていたからだ。あれじゃ、注意して見ていても、冒頭のやりとりなどは分からんと思う。
まあ、そういう、なかばドキュメンタリー的な手法を選択して、なんとなく雰囲気で見せていこうという意図なんだろう。とはいえ、分かりにくいのは、ほめられたことではない。一般的な入替制の映画館では、冒頭を見返すのは、再度料金を払わないとできないのだから。
でまあ、両親が伝染病で亡くなり、母の弟の家に引き取られた6歳ぐらいの娘フリダの話。伯父夫婦は意地悪してないけど、フリダはまだ両親に思いがあって、素直になれない。とはいえ、なんだあの反抗的な態度は、と思うところがたくさんあって、あんまり好ましい娘とも思えない。日本なら、引き取られた娘はもっと肩身を狭くして、周囲に気を使って暮らすだろうに、そういうわけでもないし。お国柄というのかな。とくに同情もできなかった。祖父母が健在なのだから、そこに一緒に暮らすのはできなかったのか、とか思ったりもしたし。まあ、とくにドラマもないし、だらだら映像を見ていてもオーケーな人なら、また別な感想があるだろうけどね。
ワンダー 君は太陽12/3ギンレイホール監督/スティーヴン・チョボスキー脚本/スティーヴン・チョボスキー、スティーヴ・コンラッド、ジャック・ソーン
原題は“Wonder”。allcinemaのあらすじは「顔に障害を抱え、27回も手術を受けている10歳の少年、オギー。一度も学校へ通わず、ずっと自宅学習を続けてきたが、母のイザベルは心配する夫の反対を押し切り、5年生の新学期から学校に通わせることを決意する。しかし案の定、学校ではイジメに遭い、孤立してしまうオギーだったが…。」
Twitterへは「内容は感動的。でも展開がご都合主義というか、この手の話のパターンから抜け出せてない感じ。お姉ちゃん役の、イザベラ・ヴィドヴィッチの清楚なかわいさがなかなか。両親役はオーウェン・ウィルソンとジュリア・ロバーツだよ。」
ヘルメットをかぶる少年の姿から、光に当たってはいけない病気だと思い込んでいた。それじゃなくて、遺伝子異常で造作がうまく行かない顔になってしまう、というものだった。そういえば、見たことはある。
要は、息子を社会に溶け込まそうとする母親と、その期待を担って学校に行き、嫌悪されつつも次第に友だちができてくる、という心温まる話で、多少の悪役はいるけど、おおむねいい人ばかりが登場する。そういう意味でご都合主義だと思う。でも、こういう主題には、こういうつくりでいいんだろうとも思う。悲惨な例をもってきて、失望させてもしょうがないわけだから。
オギーが友人を得ることが出来たのは、彼が勉強のできる子だったからで、あれがフツー、あるいはフツー以下だったらどうなったのかな、と思わないでもない。そういう意味で、頭がいいことは相手を説得する財産だ、ということでもある。
オギーに執拗に意地悪する少年も出てきて。その少年の両親が学校に呼ばれて校長から意見される場面があるんだが。両親、とくに母親の方が、息子の正当性を主張し、寄付もしているのに、と述べるのだよね。まあ、こういう人もいる、ということなんだろうけど。彼らが考えを変えることがあるのだろうか、ということも心に残る。少年は、学期末で転校させられるらしいけど、その後はいじめもしてないようで、ラストシーンでオギーが学校賞のようなものをもらう場面では、彼もまだ画面の中に映っていた。だったら、彼の心の変容も、もう少し見せてもよかったんじゃないのかなと。
並行して進むのが、姉・ヴィアと、その友人・ミランダの不仲の話で。どうやら友人は、夏休みにパンクな友だちに触れてそっちに興味が移ってしまい、ヴィアをダサイと思うようになった感じ。ともに演劇部に所属し、公演のオーディションでミランダが主役に。ヴィアは代役になる。という、微妙な話があって。公演当日、ヴィアの両親が見にきてることを知ると、監督に「体調が悪くて・・・」とウソをいってヴィアに譲るという、わさとらしい一幕もあるんだが。まあ、仲直りには、そういう話でもつくらないと、納得しにくいからなのかね。もちろん代役主演はその日だけで、後の公演(2日なのか3日なのか知らんが)は、ミランダが勤めたんだろう。
まあ、フツーと違うからといって仲間はずれにしたりいじめてはダメだよ、という話で。心温まる感じではあるけれど、ひねくれた見方をすれば、世の中いい人ばかりではないからなあ、ということになるのかな。
・ヴィアの彼氏になるのが黒人の少年で、オギーに自分から近づいていくのも、黒人の少女というところなんか、話づくりでムリしてるよなあと思ってしまうのだが。
ハード・コア12/4ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/山下敦弘脚本/向井康介
allcinemaのあらすじは「あまりにも純粋で信念を曲げることができずに世間からはみ出してしまった権藤右近。今は怪しげな活動家・金城銀次郎の下で埋蔵金探しを手伝う日々。唯一の友は一緒に働く牛山だけ。そんなある日、その牛山が謎の古びたロボットを発見し、2人は“ロボオ”と名付けて奇妙な友情を育んでいく。そこへ、いつも右近の尻ぬぐいをしているエリート商社マンの弟・左近がやって来て、ロボオが見た目とは裏腹に、現代の技術をはるかに凌ぐ性能を有していることが明らかになるのだったが…。」
Twitterへは「どこに連れていかれるか不安でワクワクするようなところもなく、山下敦弘にしてはつまらない。せいぜい“飛ぶ”ところぐらい? でもあれだって『DEAD OR ALIVE』連想しちゃうしなあ。なんかの寓話に、なってるのか? 芯も感じられず、よく分からん。」
呆けたから会頭を殺した? ケーサツに囲まれ、ロボットが飛行 上空で爆発 弟が帰国 あのカバン2つじゃ4億ぐらいしかないだろ で「完」。のあと、映像があって、南の島で原住民の女性が出産。取り上げている右近。牛山の子供らしい。で、浜辺にはロボオの残骸が・・・。
までは直後に書いたけど、ほったらかし。見終えて2週間も経ってるので、細部は忘れてしまった。で。↑のあらすじにあるように、右近が純粋かというと、そんな風にも見えず。むしろ、何も考えてない感じ。牛山君は荒川良々が演じる通り、少し足りない童貞中年オヤジ。2人はなぜか右翼街宣車みたいなのに乗って、埋蔵金をほる毎日で、ボスが何を目指しているのか、世直しだっけか? 2人は廃工場に住んでいて、牛山がある日ロボットを発見。左近が修復して動き出すんだけど、過去(戦前?)につくられたはずなのに現在のプログラムで動いているのはなぜなんだ的な疑問が湧くんだけど、まあいいか。でこのロボオも埋蔵金発掘に参加し、その能力を発揮してあっさりと金銀を見つけてしまう。これを左近が密輸船で運び出し、日本海のどこかで日本円に変える、と出かけていんだが・・・。なところで、銀次郎の幹部がやってきて、「銀次郎が一般人を殺害してしまった」とかいってスーツケースを持ってくるんだけど、実は幹部男が銀次郎を殺害したらしく、でもその理由は良く分からない。銀次郎は、ロボオに殺されるんだっけ? 忘れた。ののち、廃工場は警察に囲まれ、するとロボオが右近・牛山を抱えて上空へ・・・。で、爆発。その後、死んだと思われた左近が金の入ったカバンを提げて廃工場にやってくるけど、もぬけの空。と思ったら、南の島で原住民女性の出産シーン。やっと女ができた牛山が妊娠させたらしい。というところでENDなんだけど、まとまりもなくだらだらしてて、いまいち乗れなかった。かな。
山下敦弘の映画は多かれ少なかれ社会背景が描かれるのが常なんだけど、このたびはそういうこともなく。右近、左近、牛山、ロボオの4人がロボットの存在もあって『オズの魔法使い』を連想させるけど関係があるのかないのかよく分からない。すべてはファンタジーとして右から左へ忘れればいいんだろうけど、原作の漫画があるようで、それに忠実なのかな。だとしたら、それがつまらない原因かも知れない。
それぞれの人物、パーツの背景や因果関係がもう少し読めるようにしてくれると、あれこれ考えたり推理したりできるんだけど、そういうこともできないのがもどかしい。たとえば銀次郎と幹部、埋蔵金、誰が開発したのかロボオ、冒頭で歌っただけの松たか子・・・。その背後に何か見えてきても良さそうなんだが・・・。
・面白かったのは、牛山に童貞を捨てさせるため呼んだデリヘル女の生々しさかな。
・声がひどく聞き取りにくいのは残念。
いろとりどりの親子12/13新宿武蔵野館2監督/レイチェル・ドレッツィン脚本/---
原題は“Far from the Tree”。allcinemaの解説は「アンドリュー・ソロモンによる世界的ベストセラー・ノンフィクションを、社会派ドキュメンタリーを数多く手がけるレイチェル・ドレッツィン監督が映画化したヒューマン・ドキュメンタリー。身体障がいや発達障がい、LGBTなどさまざまな“違い”を抱える子を持つ6組の親子にカメラを向け、“普通”でないことの葛藤と向き合いながらも、“違い”を前向きに受け止め、人生に大きな喜びを見出していく親子の絆を見つめていく。」
Twitterへは「障がい者、ゲイ、犯罪者などを抱える家族の有り様を描くドキュメンタリー。とくにお涙ちょうだいにもなってなく、押しつけがましさもなくて、清々しい。」「観客のなかに車椅子の人がいた。三鷹駅ではダウン症の男性を見かけた。三鷹市美術ギャラリーには、障がいを持つ子供を連れた母親が見にきていた。PlaceMでは、結合双生児の写真に出くわした。」
“the apple doesn't fall far from the tree”という言い方があるようで、意味は「リンゴは木からあまり遠いところへは落ちない」(子どもは親のあとを継ぐもの)らしい。ということは、親と違う子供、というような意味なのかな。
自閉症ゆえに言葉がしゃべれず身体をコントロール出来ない、というのがあるのを知ったけど、そういうのはフツーなのか? 一般的に言われる自閉症とは、違うような気がするけど。で、そのジャックは、幼児のときはひどかったけど、いまは中学生ぐらいなのか。かなり身体のコントロールは出来てるみたいで、要は、話せないのがいちばんの壁のようだ。もっとも驚いたのは、両親のあきらめていたのが、ある女医のところで診断を受けると、女医は文字ボードをとりだし、いとも簡単に会話をし始めたこと。ということは、症例はあるけど、対応ができてなかったということなのか。とはいえ、あの場面は、取材していく過程で撮れたのか?  ヤラセなのかが気になるところ。
ダウン症の40男は、ちょっと哀しい。軽い症状だったんだろう。幼児のときは、学習して成長することができた。なので、両親ともども全米で講演して歩いたらしい。でも、もう、成長しない。かつての夢を背負いつつ、いまを生きている感じ。でも、30歳前から同じダウン症の仲間と共同生活し、親からは自立して社内の配達などの軽作業に従事しているらしい。彼女は欲しくないのかな。なんてことを、ふと思ってしまった。
この映画の原作者であるアンドリューは、同性愛者。期待を裏切り、両親からは嫌われたという。まあ、そういうこともあるだろう。母親はすでになく、でもいま、父親は理解してくれている。という感じ。いまやLGBTは当たり前の世界になりつつあるので、わざわざ取り上げる必要があるのかなとも思うけれど、原作者の動機がここに集約されているから、必須なんだろう。まあ、でも、LGBTも、当たり前といっても他人事で、自分の家族に誕生したら、受け入れるまでに時間はかかるだろうけどね。
面白かったのは、低身長症の人々の大会「リトル・ピープル・オブ・アメリカ」というのがあるということ。そこに初参加し、仲間がいることで生きがいを感じ始めるロイーニ。そして、リアも低身長だけれど、四肢が短いジョゼフと知り合い、結婚。ラストシーンでは、リアの出産シーンで、なかなか感動的。でも、押しつけがましくない。リアについては、フツーの彼氏とつきあったこともある、なんて話もでてきた。小人症の女性に興味をもつ一般人もいるということなのか。うまくいっている、そういうカップルも見てみたかった感じ。で、結婚相手のジョセフは大学で教えているらしくて、乙武洋匡を思い出してしまった。
8歳の子供を殺害した16歳(だったかな)という犯罪者の息子を背負った家族に、いちばん惹かれた。本では名前を伏せた、ようなことがいわれていたけど、映画では家族全員登場している。事件については、さらり。無期懲役で収監された息子と、毎日のように電話で話している様子が、ちょっと微笑ましい。というか、日本の犯罪者のように暗くない。もちろん、家族は避難に晒されたと思うけれど、子を思う親の視点から描かれているので、そういうところは描かれない。
それぞれのケース、家族について、ポジティブな部分を選択してつないでいる感じは否めないけど、でも、それもまた事実の一面。前向きで行こう。暗くならずに、明るく生きよう。と思わせてくれる内容だった。
レディ・バード12/20ギンレイホール監督/グレタ・ガーウィグ脚本/グレタ・ガーウィグ
原題は“Lady Bird”。allcinemaのあらすじは「2002年、カリフォルニア州サクラメント。閉塞感漂うこの町で窮屈な日々を送るクリスティン。堅苦しいカトリック系高校に通う彼女は、自分のことをレディ・バードと称し、何かと反発しては苛立ちを募らせていた。とくに口うるさい母親とはことあるごとに衝突してしまう。大学進学を巡っても、大都会ニューヨークに行きたい彼女は地元に残ってほしい母親と喧嘩して大騒動に。そんな中、ダニーという好青年のボーイフレンドができるクリスティンだったが…。」
Twitterへは「田舎町サクラメントに住む高3女子の、あたふた1年間。始めは大したドラマもなく、どうということもなく淡々と物事が進んでいくので退屈だったけど、後半になって少しずつ面白くなってった。」
田舎娘の、都会への憧れ、そして脱出劇なんだけど、手法は大学合格、という話。田舎町の、しかも、線路の向こうのスラム街(?)にあたるところに家があって、高所得者の住むエリアは羨望のまなざしで見てる。数学は不得意。他はできるのかな? 学校はカソリック系で、堕胎ができないとかうるさいのも嫌悪。演劇部では、オーディションがあるといいながら、全員に役を振るという平等主義も、うんざり。親がつけた名前も嫌で、自らレディ・バード、と名乗りたがってる。まあ、思春期の典型か。監督自身に体験に根ざしてるのかな。
友人はおデブちゃんのジュリーで、頭が良くて積極的。ボーイフレンドも少なくて、演劇部で見つけたダニーに一瞬惚れるけど、のちに彼がゲイだと分かってゲンナリ。次に目をつけたのが知的な雰囲気のカイルだけど、初セックスはカイルが一瞬でイッちまって・・・。なのに、カイルは「過去にセックスした女の子は6人ぐらい」なんていうので、これまたゲンナリ。
とまあ、ありそうなエピソードをだらだらと描いていくだけで、クリスティンになにか目的があるわけじゃない。ただ、この街から脱出して、都会に行きたい、というだけなのが少し物足りないだけな気もするけど、まあ、それもまた単純な動機で共感を得やすいのかも知れないなと。
クリスティンは母親の奨める地元のデービス校(カリフォルニア大学みたい)に受かったようだったけど、母親に黙ってニューヨークの大学を受験。コロンビア大学は落ちてたけど、ある大学は補欠合格。その後、正式に入学できて、ニューヨークへ行く。では、そのニューヨークの大学は、どこなんだろね。気になる。兄貴はバークレーらしいから、地頭はいいのかな。ちなみに、友だちのおデブちゃんは勉強できるのに地元の大学に行ったらしい。ふーん。
母親の書いた手紙は、部屋に着いてすぐだったか。「もう妊娠はムリかとあきらめてたのに授かって云々」という、娘に書いたけど結局出さずに捨てたのを父親が拾って、荷物にもぐりこませたもの。そんな風に母親は自分を見ていたんだ、と分かる場面はなかなかいい。
新歓コンパみたいので知り合った男の子と飲んで、乳繰り合ってるうちにいきなり嘔吐で、病院に行ったら「飲み過ぎ」といわれ、気がつくと横のベッドで黒人の母・幼児がケガしているのが見えて。なわけで、スッキリした面持ちで朝の街を歩くクリスティン。いろいろ通過儀礼もすませて、これから、可能性だけが待ってるよ、みたいな感じ。
しかも、親がつけたクリスティンって名前も、「けっこういいじゃん」てな気持ちになっていて、これまた思春期からの離別というか、成長になっている。女の子は、こういうストーリーにグッとくるかもね。
タリーと私の秘密の時間12/20ギンレイホール監督/ジェイソン・ライトマン脚本/ディアブロ・コディ
原題は“Tully”。allcinemaのあらすじは「2人の幼い子どもの育児に追われるマーロだったが、お腹の中にはもうすぐ生まれてくる3人目の赤ちゃんが。それでも夫のドリューは優しい言葉をかけるだけで、家事も育児もマーロ任せ。元来が真面目で完璧主義のマーロはたった一人で頑張ってきたが、それも3人目が生まれてついに限界に。抵抗を感じながらも、裕福な兄クレイグに紹介された夜専門のベビーシッターを頼ることを決断する。やって来たのは、意外にも若くて美しい女性タリー。しかし見た目の印象とは裏腹に、その仕事ぶりは完璧。そんなタリーのおかげで肉体的にも精神的にもゆとりを取り戻していくマーロだったが…。」
Twitterへは「ずっと育児の話だと思っていたのに、最後はなにこれ!な感じ。設定にアレをもってくる映画は好きじゃない。驚きより、うんざり。なんだけど、贅肉あってもシャーリーズ・セロンがきれいなので・・・。」
腹のでかいシャーリーズ・セロン。産後も贅肉たぷたぷ。でも、顔はやっぱりきれい。はさておいて。長女はフツーなんだけど、長男が自閉症っぽくて、感情をコントロール出来ない。なので、校長から転校を求められ、激高するところなんかは、いかにもアメリカ映画かな。息子はフツーで、頭が良くて、だから大丈夫。1対1の介護役を個人的につけるのはムリ。学校の方でつけてくれ。と主張するところなんか、日本の感覚ではないので、うーむ。
亭主ドリューとの仲は悪くないけど、家事・育児は手伝ってくれない。出張も多い。すべて自分でするのはムリ! というところに、亭主の妹から出産祝いに専門のベビーシッターを紹介される。たぶん、お金はあちらもち。でも、ドリューは、あちらの亭主クレイグが自分を良く思ってない、と感じているので素直に受け入れられない・・・。というところに、ある夜、タリーが玄関ではないところから入ってきて、あれこれ面倒を見てくれて。マーロは完全にタリーを信頼し、頼っていく。のだけれど、ある日突然、タリーは「もう、シッターはオシマイ。都合で、できない」と宣言して・・・という話。なので、後半まですっかり育児ノイローゼと、ベビーシッターとの交流話だと思って見ていた。のが突然、実はあの世界の話だったと分かって、おいおい、またかよ、な感じになってしまった。
兆候はあった。夫婦間のセックスが随分ないと知ったタリーが、むかしマーロが買ったウェイトレスの制服を着て、2人で寝室のドリューのところへ。で、ドリューにまたがるタリー。背後でマーロが微笑んでいる。なになに。タリーに亭主とセックスさせようというのか!? どういうこっちゃ。が、頭から離れない。
その後、タリーがマーロを誘って街に繰り出し、飲んで踊って、かつて住んでいたアパートに向かうんだけど、マーロが入ろうとするのをタリーが止める。で、2人はクルマで帰路につくんだけど、途中、マーロがうとうとし、ハンドルを誤って川に落ちる・・・。この場面で、あれあれ? ということになる。「私が運転する」と言っていたタリーが右側にいて、左側にマーロがいる。ということは、運転しているのはマーロ。なんで? そのうちマーロが眠りに落ち・・・。水没したクルマから、白い女性がマーロを救い出すんだけど、救ったのはタリーなのか。でも、彼女はクルマの中にいなかった。ということは・・・。多重人格か。
その後、病院で覚醒したマーロのところに無傷のタリーがやって来て、別れを告げる。あ、やっぱり。で、最初の頃にマーロがカフェで出会った昔のルームメイトのことが思い浮かぶ。そうか。あのルームメイトは、かつての別人格。その別人格、あるいは、もうひとつの人格が、育児や息子のストレスの影響でなのか、また登場し始めた。それがタリーだった、ということか。ウェイトレスの制服の件も、これで納得。タリーが冷蔵庫でみつけたサングリア(調べたら香味付けワインだと)も、もともと同一人物なのだから、好みは同じということか。
とはいえ、なにかというと精神障害者を登場させて謎をつくり、解いていくというやり方は、なんか素直に感心できない。いくら話が上手くつくられていても、なのだ。というわけで、後味も悪いし、またか、な感想しかない。
春待つ僕ら12/24シネ・リーブル池袋シアター2監督/平川雄一朗脚本/おかざきさとこ
allcinemaのあらすじは「いつもひとりぼっちだった春野美月は、高校入学を機に“脱ぼっち”を目指すが、なかなか上手くいかなかった。そんな時、美月のバイト先に浅倉永久をはじめとするバスケ部のイケメン四天王が入り浸るようになる。いかにもチャラそうな彼らに最初は距離を取ろうとしていた美月だったが、永久たちのバスケに対する真剣さに心打たれ、次第に友情を育むようになる。その一方で、幼なじみの神山亜哉と思いがけない再会を果たす美月。亜哉はバスケの名門校のエースとして、全国大会出場を目指す永久たちの前に大きく立ちはだかる。しかも、そんな亜哉から積極的にアプローチされてしまう美月だったが…。」
Twitterへは「キーワードは「みんながんばれ!」「君がいれば強くなれる!」か。青春ロマンス、楽しく見たよ。日本映画には珍しくカメラがFIXじゃなく静かに動いてるのも興味深かった。知ってる役者は緒川たまきと酒井敏也ぐらいだったけど・・・。」
・並以上の容姿で欠点も特にないのに、なぜ同級生からハブられるのか?
・バイトしてる喫茶店に四天王が入り浸っているのに、彼らの応援団がなぜ寄りつかないのか?
・女の子は選び放題なのに、なぜ四天王は美月に入れ込むのか?
・美月と朝倉は、知り合い? とくに説明がないので、よく分からん。同じ小中だった? 外にも、そういう子はいないのか?
・っていうか、狭い学校で、「初めて会った」なんていう生徒がいる不思議・
・亜哉は、なぜ幼い頃、女の子みたいだったんだ?
・亜哉とは久しぶりの再会だったはずなのに、美月は亜哉がアメリカに行っていたことをなぜ知っていたんだ?
・作文コンテスト。いまだに原稿用紙に書いて応募? そりゃないだろ。
・最後の試合で、美月が声を張り上げて、やっと他の生徒も声援を上げるようになる。四天王が有名なのに、試合の応援団はいなかったのか?
とか、ツッコミどころ満載だけど、コミックが原作らしいからしょうがないか。そういうのを無視して、まあ、そこそこ楽しめた。
日本映画はFIXか手持ちが多いけど、この映画はほとんどのカットでゆっくりとカメラがパンしたりしていて、どことなく洋画風なところがある。なんか、いい感じ。
とはいえ、スポーツドラマにはなりきっていない。ロマンス、も中途半端な感じ。でもまあ、いいか。許そう。
マチルダ 禁断の恋12/25ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/アレクセイ・ウチーチェリ脚本/アレクセイ・ウチーチェリ
ロシア映画。原題は“Матильда”。allcinemaのあらすじは「1890年代後半のサンクトペテルブルク。ロシア帝国の次期王位継承者ニコライは、イギリスのヴィクトリア女王の孫娘アリックスという婚約者がいたにもかかわらず、美しいバレリーナのマチルダ・クシェシンスカヤに心奪われてしまう。2人のロマンスは、たちまち国中を巻き込む一大スキャンダルとなる。そんな中、アリックスがロシア入りするのだったが…。」
Twitterへは「乳ポロリの悪女に遊ばれた世間知らずのぼんぼんの話だった。ロシアで上映禁止の話題作らしいが、どこまでホントなんだ? 人間造形やドラマは手抜きで、経緯を大げさに見せるだけなので、かなり退屈。眠かった。」
マチルダがどんな人間で、いかに皇帝と出会い、どのように恋に落ち・・・ということはほとんど描かれない。すべてが上っ面で、雰囲気的に描かれるだけ。なので、流れは見えても、人が見えない。だから、感動とはほど遠い。いくらなんでも、バレエの演技中におっぱいポロリでニコライが恋に落ちる訳がない。やはり、出会いがあって、ふれあいがあり、結ばれなくては説得力はない。
嫉妬に狂ってニコライを襲った顎髭の少尉は、首を吊られたのかと思ったら、次に登場するときは水責めされてた。生きていたのか? でも、拷問する目的はなんなんだ? しかも、ニコライは少尉を解放してやれ、といったはずなのに拘束していて。そのうち解放されたか逃げたかしてマチルダに接近するんだけど、なんかよく分からん人物だ。
渡し船でいく屋敷が登場するけど、あれはマチルダの家? なんでまた渡し船? で、逃げ出した顎髭少尉が渡し船に爆弾をセットして爆破するんだったか。あやうく難を逃れたんだったか、もうよく覚えてない。しかし、設定ばかりに凝って、話がよく分からないんじゃしょうがないだろ。
ニコライの母が使わしたんだったか、ハゲの男。あれもよく分からない。何を工作してたんだ? マチルダとニコライの逢瀬をジャマしたのか? ニコライの婚約者の息はかかっていたのか? あのあたりも、ドラマチックを装いつつ、中味がない。困ったもんだ。
で、結局、ニコライは王位を継承し、婚約者と結婚。マチルダは、ニコライの親友みたいななんとか大公と結婚し、99歳まで生きたと字幕が出ていた。ニコライ一家はロシア革命で処刑されてしまうのだから、なんともはやな感じである。
Wikipediaによるとマチルダは結婚前の愛人だった、と書かれていて。とくに愛し合っていたとか結婚を考えていたようにも思えない。まあ、創作なんだろう。お話しとしては、それはいいんたけどね。
人魚の眠る家12/26ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/堤幸彦脚本/篠崎絵里子
allcinemaのあらすじは「2人の子を持つ播磨薫子だったが、IT機器メーカー社長の夫・和昌とは別居中で、娘・瑞穂の小学校受験が終わったら離婚することになっていた。そんな時、その瑞穂がプールの事故で意識不明となってしまう。医師からは回復の見込みはないと脳死を告げられ、夫婦は苦渋の決断で臓器提供を受け入れる。しかし薫子は直前になって翻意し、和昌の会社の研究員・星野のある研究成果に最後の望みを託すのだったが…。」
Twitterへは「なかなかのホラーだった。科学者の考えることはオソロシイ。 いろいろ考えることも多くて、なるほど、な感じ。ミステリーの要素はほとんどなかったぞ。オープニングとエンディングは「?」なんですけど・・・。」
東野圭吾の原作らしい。監督は、堤幸彦だったのね。エンドクレジット見て知った。ははは。
脳死の子供をどう扱うか、という話だったのだが。むしろ、コワイのは、脳死状態の子供の筋肉に電気信号を送り、手足を動かし、表情をつくることに全力をつくす技術者がいることだった。あんた、それってフランケンシュタインじゃん。でも、それによって母親は、子供はまだ死んでいない、と信じ込み、さらに、その技術を将来の企業の柱にしようとする会社社長=父親がいることだな。まさに、ホラーだよ。
脳死状態でも呼吸器なしで、横隔膜ペースメーカーで生命維持する、なんて話がでてきて。調べたら、あるのだね。もっとも、脳死に使われてるかどうかは知らんけど。で、その脳死状態の娘を車椅子に乗せて、弟の入学式に行ったり、近所を散歩したり。母親は狂気に堕ちているんだけど、本人は気づかず。
父親も最後はあきらめて、脳死判定しようとするんだけど、母親が娘に刃物を向ける。脳死が「死」なら、殺しても殺人罪ではない。殺人罪に問われたら、この子が生きている証拠だから本望、なんて警官に向かって叫ぶのだけれど、ちょっと芝居がかりすぎて、少し興ざめな感じ。
まあ、最後は母親も脳死判定に同意はするんだけど。脳死をめぐる話としては、あきらめの悪い母親と、娘を実験材料に使って商売に結びつけようという父親&技術者の話かな。どうも、海外ではもっとドラスティックに脳死判定するみたいで、日本ならではのドラマみたいな感じ。
しかし、ああいう実験が可能だったのも、父親がIT会社の社長で、家は白金の豪邸(居間の書棚に箱入りの作家全集があったりして、いつの時代のものなんだ! とツッコミを入れていた。)。というのが大きいような気がする。つまり、貧乏人は関係のない話だ。
映画のジャンルではミステリーにも分類されているけど、ほとんどその要素はない。せいぜい、最後の方で、従姉妹の幼女が、自分がプールに落とした指輪か腕輪を、瑞穂が取りに潜り、そのせいで排水口から指が抜けなくなった・・・ということが分かる程度。でも、犯人捜しをする話ではないので、ほとんど関係ない。むしろ、その従姉妹の幼女は、一生のトラウマだろうな、と思ったぞ。
最初と最後が分からない、というのは、以下の如し。
冒頭、少年たちが道を走っていて、ボールがある家の庭に入ってしまう。1人の少年がおそるおそる入って行くと、そこに車椅子の少女が・・・。で、ラスト近く、葬儀で医師が父親に命日について質問する。脳死宣告した日と、臓器を摘出した日が違うのだろう。医師の「いつ死んだと思うか?」に父親は「心臓が止まった時」と答える。医師が「心臓は誰かの身体でまだ動いている」と応える。で、冒頭の少年(だろう)が、家から道を走って行く場面になる。あのときの道だ。なんだけど、冒頭では、少年は心臓病には見えなかったんだよな。じゃ、別の少年か? なんか、つながりがよく分からない。さらに、ラストは、播磨家のあった土地なんだろう、が、更地になっていて。カメラはどんどん上空へ・・・。なんだけど、これまた、意味不明。なぜ播磨家はあの家を壊して引っ越したんだ? よく分からない。
・葬儀の場面でチラリと斉木しげるらしい半身が写って。外に出てたっけ?  見間違い? でも、クレジットには、その他大勢ではなくでてた。出番がカットされたのかな。
アリー/ スター誕生12/31ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/ブラッドリー・クーパー脚本/エリック・ロス、ブラッドリー・クーパー、ウィル・フェッターズ
原題は“A Star Is Born”。allcinemaのあらすじは「ウェイトレスとして働きながらも歌手を夢見るアリーだったが、なかなか芽が出ず自信を失いかけていた。そんな時、場末のバーで歌っていたアリーの前に、世界的ロックスターのジャクソンが現われる。彼はアリーの歌声に惚れ込み、彼女を自身のコンサートに招待する。そして、いきなり大観衆が見つめるステージにアリーを呼び込み、一緒にデュエットを披露し、観客からの喝采を浴びる。これをきっかけにアリーは一気にスターへの階段を駆け上がっていくとともに、ジャクソンとも深い愛情で結ばれていくのだったが…。」
Twitterへは「話自体はよくある感じ。最初の30分だけで、いいかな。ガガ様の歌う役者振りはお見事。アメリカから日本の競馬に賭けてる人って、フツーにいるのか、が驚き。」「賭けてるんじゃなくて見てるだけ? よく分からん。」
『イヴの総て』だったかにもあるように、スターになっていく者、堕ちていく者、を描いている。で、この映画では、その2人がライバルではなく、発見し引き上げた大スターと、引き上げられた素人娘であり、愛し合う2人であるところがミソなのかも。とはいえ、昔からよくあるモチーフ。冒頭から30分ぐらいの、発見され、ステージに呼ばれ、ジャクソンと歌うアリー、というところまでは完璧なぐらい共感するし、高揚できる。でも、そのあとすぐに2人がセックスし、恋人同士になり、ツアーで一緒に活動する・・・あたりから、これからの展開は、堕ちるしかないよな、と感じられるから、素直に喜んで見ていられない。ジャクソンは一曲ごとに酒を引っかけ、ステージが終わってからも飲みつづけるほどのアル中で、ときにはぶっ倒れる。こんな状態なのに誰も病院に連れていこうとしないのが異常だと思うんだが…。
で、当然のごとくアリーにはやり手のマネージャーのレズが接近し、いい条件での契約が結ばれ、ジャクソンとは別行動になっていって、どんどん売れ出していく。このあたりは見ていて辛い。
衣装はケバケバしくなって、バックダンサーとともに振り付けで歌い、髪も染め、どんどん類型的な女性歌手になっていくアリー。始めは抵抗し、自分の好きにするといっていたのに、いつのまにかレズのいわれるがまま。それを、苦々しく、でも、表面には出さず、したいようにさせているジャクソン。彼は、心で歌え、というようなことを言っていた。でも、いつしか表面的でしかない歌手になっていく。しかもグラミーにノミネートされてしまうから、大きな声で否定もできない。
ジャクソンは、街外れのオカマバーで歌うアリーを発見し、彼女こそ、自分に正直に心で歌うシンガーを見つけた、と思ったはず。だから彼女をステージに上げた。それは、埋もれていたアリーのためだけじゃなくて、自分の支えにもなると思ったからのはず。ずっと一緒に歌って欲しかった。なのに、アリーはどんどん遠くに行ってしまう。人気商売であることを知っているジャクソンは、それを止めることができない。そんなエゴイズムは持ち合わせていない。そのやさしさが、自分を苦しめることになる、わけだ。
結局のところアリーも、ギョーカイに持ち上げられ、賞を得て、下積みの時代を忘れてしまう。しょせんそんなものだよな、ということか。こうやって、スターは入れ替わっていくんだろう。というわけで、後味は決して良くないのだった。ノー天気でもいいから、スカッとする成り上がり、ハッピーなラストが見たいよ。こういう暗いのは、やだな。
「アリゾナの牧場で、年の離れた兄貴は町へ出て行っちゃうし、オヤジは飲んだくれで、あれやこれやで天井扇にベルトをかけて首を吊ろうとしたら天井扇が落ちて。でも天井扇が落ちたことをオヤジは半年も気づかなかった」とか話す件があって。これが後々、ジャクソンの縊死にかぶる。思うにもともとジャクソンは鬱で、死への願望があったんじゃないのか。なんか、歌詞にも「死んだあとのことは分からない」とかいうようなのがあったような気がする。それを酒とコカインなのか睡眠薬なのか、で誤魔化してたのかも。アリーのグラミーの授賞式で倒れ、アル中の病院に入ったようだけど、もうすぐ退院というとき見ないにきたアリーに「どこに戻る?」と聞かれて、動揺していた。アリーには、帰ってこなくてもいい、という気持ちがあるのでは? と察したんだろう。アリーは「もちろん家よね」とおおらかに話していたけど、ジャクソンには応えていたはず。さらに、退院後、アリーのマネージャーのレズがやってきて、「あの後たいへんだった。その飲み物はそのうち酒になるだろう。もしまた飲むようなことがあったら、離婚して去ってくれ」なことを言うんだが、これに押されての縊死だったような感じ。
アリーを見出したジャクソンは、翌日のコンサートにアリーを引っ張り出そうとする。運転手(Heroesにでてた人だ)がやって来て、アリーから離れない。そんなアテにもならん話より、レストランの仕事・・・というアリーだったけど、またしても上司から「遅刻だ!」と怒鳴られて、「辞める」とクルマに乗り込んでジャクソンの元へ、な流れが前半に合った。さて、後半。大スターになったアリーは、アル中病院からでてきたジャクソンをステージに上がらせ、一緒に歌おうとする。「あとでクルマを回すから」といって、自分は先に行くんだけど、このときマネージャーのレズがやってきて、↑の言葉をぶつけるんだよね。それはさておき、立場が変わってしまって、クルマを差し向けた側が、差し向けられる側になってしまっている。まあ、そういうシナリオにしているんだろうけど、ちょっと見え見えなアナロジーかな。
音楽業界のプロが「声はいいけど、そのでかい鼻が・・・」とデビューできなかったアリーが、一夜にしてスター、という展開。
アリーの父親も、「シナトラ以上」といわれたとか何とかいってたけど、これまたアナロジーですな。
ジャクソンの音楽仲間やスタッフが、ほとんど描かれない。これがいまいちリアリティに欠けるところ。
最後に「エリザベス・ケンプに捧ぐ」と出てきて、調べたらアクターズスタジオの教師で、ブラッドリー・クーパーの指導者だった女性のようだ。
アリーの父親と仲間たちがやってるギャンブルと、見ている日本の競馬は、なんなんだ?

 
 

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