2019年6月

バイオレンス・ボイジャー6/3シネ・リーブル池袋シアター1監督/宇治茶脚本/宇治茶
公式HPのあらすじは「日本の山奥の村に住むアメリカ人少年のボビーは、数少ない友人のあっくんと飼い猫のデレクを連れて、村はずれの山に遊びに出かけた。その道中、娯楽施設“バイオレンス・ボイジャー”と書かれた看板を発見した彼らは、その看板に惹かれて施設を目指すことに。施設のアトラクションを堪能し、遊び疲れて休息していたところ、ボビーたちはボロボロの服を着た少女・時子と出会う。彼女は数日前からここを出られずにいると言い、行動を共にすることに。彼らはさらに、先客として迷い込んでいた村の子どもたちとも出会うが、謎の白いロボットによる襲撃を受け、子供たちたちは次々と捕獲されて行ってしまう。時子の救出とバイオレンス・ボイジャーの謎を解き明かすため、ボビーは立ち上がるのだった…!」
Twitterへは「紙芝居の絵が動き出す感じなのは面白いけど、話に入り込めないのはこちらがオッサンだからか。グロエロ漂う昭和チックな少年冒険活劇。どんなかは予告編を見てくれ。」
冒頭から紙芝居風の絵というか、キャラなどが切り抜かれたものを影絵(じゃないけど)みたいに背景の上で動かす、アニメじゃなくて実写だけど写っているのは“絵”なのよね、なものが始まって。よくある一部アニメで表現な映画かと思ったらいつまでたってもフツーの実写にならない。あれ? もしかしてこれは、全編これなのか?
いやその、シネ・リーブル池袋のHPをさっと読んだだけなので、実写のグロ映画だと思い込んでいたわけで、肩すかしというか、なんというか。
画風は昭和の紙芝居風。いまでいうと五月女ケイ子を粘着にした感じ。話は、むかしあった少年向けSF冒険譚みたいで、ヒーローは登場せず、悪のオッサンにいたいけな少年少女が餌食にされるというもの。いくらなんでもフツーっぽいおっさんが山中に広大な土地を所有し、テーマパークをダシに子供を神隠しに、息子のエサにする、なんていう話はムリがあるんだけど、少年少女向けにはこの手の破天荒なのがあったんだよね。それを踏襲しているんだろう。もとをたどればグリム童話『ヘンゼルとグレーテル』とか『桃太郎とか』、おとぎ話にも通ずる感じで、そこに、その他の要素を加えて現代風にした感じか。なので、画調とかつくり(「ゲキメーション」と作者はいっているらしい)、おどろおどしさ、なんかに「サイコー!」とのめり込める人はいいけど、ストーリーに大きく意外性はないので、いささか退屈。まあ、故意にやってる子供だましたからね。
お母さんが病弱という設定は定番だ。あやしいジイさんも定番。チンパンジー、コウモリ、ネコを引き連れた金髪の少年は桃太郎? 手の傷は何かと思ったら、友人同士の仲間の血の誓い、なのに、あの縫い目はなんだよ。同行するあっくんとその弟にある額の、メロンパンみたいな、しわ、もしくは傷はなんなんだ? 悪の古池の目的は何なのかとか、あの巨大な母親は何なんだとか、いろいろ「?」は多い。でもまあ、そういうことはどーでもいいんだろうけどね、この映画では。
ところで、お父さんのジョージは、亡くなったんだっけ? 何となく記憶から抜けちゃってるよ。
私は、マリア・カラス6/5ギンレイホール監督/トム・ヴォルフ脚本/---
原題は“Maria by Callas”。allcinemaの解説は「3年の歳月をかけて世界中から集めた未完の自叙伝を含む未公開の資料や映像、音源をもとに、マリア・カラス自身の言葉で語られる知られざる素顔を明らかにしていく。」
Twitterへは「アリモノを編集したドキュメンタリー。山も谷もなく平板。少し寝た。しかし、濃すぎるぐらい濃い顔立ち。53歳没。オペラに興味なし。オナシスってモテるの? あ、金か。」
最初に生まれはニューヨークとか14歳ぐらいでギリシャにとか、そこで飛び級で音楽学校へとか、言ってはいた。けど、ひゅんと飛んで1960年代初頭の活躍、さして、最大の難関が・・・というから何かと思ったら体調不良で声が出なくて公演を中止したら非難囂々でどうたらという、なにそれ、事件? というようなもの。さらに、なんとかいう劇場を「わがまま」というだけでクビになったとか。でも、他には出演してたんだから、それが事件? というようなもの。と、思ったらオナシスと知り合いになって、とか。いまの亭主は金だけだけど、彼は違う。私は亭主に働かされた云々というはなしになって。え? いつのまにか結婚してたの? 相手はだれ? 説明なかったよな。な感じで。
さらに、声が出なくなって公演を中止。支えてくれたのはオナシスだけど、亭主は離婚してくれない。とかいってるうちに、睡魔が・・・。対した内容じゃなくて、たまに歌うぐらいだから、退屈なのよ。開演前にギンレイのロビーで軽く寝てるんだけど、それでも寝てしまったぐらいつまらない。で、気づいたら、オナシスがジャッキーと結婚して、今度は、あんなやつ、とかいってたと思ったら、久しぶりにオナシスが会いに来て、マスコミを避けるために家に入れたとかなんとか。で、寄りが戻ったとかなんとか。
このあたりの関係が説明不足でよく分からない。Wikipediaで見ると・・・。
マリア・カラス 1923-1977 1956デビュー 30歳年上の実業家と結婚 1957にオナシスと出会う
オナシス 1906-1975 1946最初の結婚 1957マリア・カラスと出会う 離婚 1963ジャッキーと結婚
カラスとオナシスの関係は9年ほどつづき、オナシスがジャッキーと結婚。でも、その後、関係が再開?
とか、よく分からん。
で、死を意識したオナシスが会いに来た、とかいう話があったけど、その後、オナシスがどうなったか、は語られず。と思っていたら、1977年にカラスが心臓発作で死去、と。もしかしたら波瀾万丈なのかも知れないけど、そう見えないような平板でつまらない編集。飽きた。
そういえば、冒頭近く、の活躍は蝶々夫人で始まるんだけど、衣装とかとてもブキミ。そして、最後の方では、日本公演の様子もチラリと。日本との縁も、どれくらいか知らんけど、あったのね。
ゴジラ キング・オブ・モンスターズ6/7MOVIX亀有シアター9監督/マイケル・ドハティ脚本/マイケル・ドハティ、ザック・シールズ
原題は“Godzilla: King of the Monsters”。allcinemaのあらすじは「ゴジラが巨大生物ムートーと死闘を繰り広げ、サンフランシスコに壊滅的な被害をもたらしてから5年。その戦いに巻き込まれ、夫マークと破局を迎えた科学者のエマは、特務機関モナークで怪獣とコミュニケーションがとれる装置の開発に当たっていた。そんなある日、エマと娘のマディソンが、装置を狙う環境テロリストのジョナ一味によってさらわれてしまう。事態を重く見たモナークの芹沢博士とグレアム博士は、マークにも協力を仰ぎ、ジョナたちの行方を追うのだったが…。」
Twitterへは「設定も話も底が浅くて最初は退屈してたんだけど、途中からなぜか神々しさが感じられてきて、しっかり見てしまった。クライマックスもなかなか。伊福部昭、古関裕而の音楽も寄与してるね。」
怪獣映画は、はじめソロソロ中パッパ、じわじわ迫ってクライマックスでどかーん! という定番が呆気なく崩れてしまった。マークの娘がネット電話で話している、と思ったら、その娘のいるところは中国奥地で。そこにエマが、モナークの科学者として働いている。と思ったら緊急事態。エマが育てていたモスラが目覚め(?)、活動を開始した、というような展開でいきなり毛虫が登場する。と思ったらそこに環境テロ集団がやってきて、モスラを落ち着かせた装置とエマ、娘マディソンをさらって行く。
環境テロ連中は銃撃ちまくりでどんどん殺していく。どうも連中は、自然破壊は人間が原因。怪獣たちを自然のままに解き放ち、もって本来の自然を取り戻そう、というような思想らしいのだが、それが人殺しにつながるのは何なんだ?
これと同時に明かされるのが、モナークが世界各地で怪獣を育んでいる、ということ。テロ一味は装置を持って南極に行くんだけど、そこにはキングギドラが誕生しつつあった、のかな。で、ここでもモナーク職員はバタバタ殺され、装置でキングギドラと会話しようとしていた・・・。と思ったら、なんと、エマはテロ一味と通じていることが分かるのだ。おやおや。でもだったら、わざわざ中国奥地まで潜入し、モナーク職員殺さなくても装置や情報は簡単に手に入るだろうに、と思うのだが…。
なわけで蘇ったキングギドラが南極からアメリカに行くんだっけか? どうやら他の怪獣はキングギドラを王と認めていて、従うらしい。というところで、ゴジラが登場するんだけど、どうやって目覚めたんだっけ? もう忘れてるよ。
最初、ゴジラはラドンと闘って、なんとか勝利。でも、なんでだったか、疲れ果てて眠っちゃうんだよな。居場所が分かるので、芹沢が目覚まし役を買って出て、自らの命を犠牲にして巨大爆弾をゴジラの寝床で爆破させて起こすんだが、せっかく寝入ったのに迷惑な話だよなあ。
でもって、母親のしてることに疑問をもったマディソンが一味のねぐら(あれはどこにあったんだ?)から抜けだし、ボストンの野球場まで装置をもって逃走。そこで装置をオンにすると、周波数が世界中の怪獣に届き、ぞろぞろやってくるのはなぜなんだ? あの球場は巨大アンテナなのか?
で、ここでゴジラvsキングギドラだったかな。その前にラドンとモスラが闘って、モスラが勝ったんだったかな。ゴジラvsキングギドラはその後かな。まあ、すったもんだでゴジラが勝つのだが。
なんか、理屈で成り立っているというより、これまでの怪獣映画の判例で物語が成り立ってる感じ。たとえばゴジラは人間の味方。モスラも人間側、というのは、もう理屈じゃない感じ。
しかし、テロ集団の目的は、キングギドラが海獣の王になり、地球を支配することで達せられるのか? そのとき人間はどうなるの?
はたまた、あの装置でモスラは攻撃性を鎮められ、落ち着いたんだけど、では、マディソンはどういう周波数を放送し、怪獣たちは何を感じて集まって来たんだ? そもそも、装置はどういうコミュニケーションがとれるのだ? とか考え出すと、何が何だか分からなくなってくるのである。
なので、この映画は、理屈で考えてもダメのようだ。つじつまは、ない。要は、怪獣たち総出演で闘わせ、盛り上がればそれでよい的な気がした。
たしかに、最初にモスラが活動し始めるとき、あの有名なモスラのテーマに入ろうか、というイントロがじわじわ流れ、日本人としては感動的だった。もちろんゴジラのテーマもかかりまくりで、これまた日本のゴジラ映画への敬意がそのままカタチになっている。
最初にゴジラが登場する場面でも、ゴジラの横には鉄塔がちゃんとあって、これまた日本のゴジラの正しい姿を継承している。ゴジラの吐き出す放射能も、前にゴーッと立ち上がって、こりまた感動もの。歌舞伎でいう、見得を切る姿がちゃんと描かれているのだから。
まあ、その分、動きなんかがゆるいところもあるけど、そんなことはどうでもいい。まあ、外国人もマニアは盛り上がるかも知れないけど、いまどきのMARVELの激しく変化するCGに慣れてる目に、どううつるか、は分からんけどね。
・エマとマーク。以前のゴジラ出現で息子を失った、という設定だけど、前作にそういう話があったんだっけか? 覚えてないよ。
・芹沢博士らのいるところが、めまぐるしく変わる。いつのまにか、三角翼の巨大ジェット機に乗り組んでいたり、いつのまにか潜水艦に乗り組んでいたり。ちゃんと乗り組むところが描かれていないから、え? なところも少なからず。
・芹沢博士がゴジラの横で爆弾を破裂させる直前、ゴジラに向かって「さらば、友よ」というんだが。前作で友だち関係になってたんだっけか?
・芹沢博士の時計が登場するシーンがあったんだが。対して気にもせずにいたら、あとから、広島原爆爆発の時間で止まっている、と何かで知った。そういうことだったのね。ふーん。
・エマはテロ一味の一員で環境派だったわけだ。。なのに、それが分かっても、捕まったり尋問されたりしないのが疑問だった。まあ、最後、球場で他の人々がヘリで脱出するため、自分から囮になって亡くなるのではあるが。だからといって罪は消えない。 ・エンドロールの音楽は、念仏風だったり、ソイヤソイヤの音頭風だったり、まるきり日本の音になっていて、日本人の私が少し違和感を感じてしまったよ。やりすぎではないの?
・エンドロールの後で映像。「王が現れてからいろいろあって、魚が死んで漁ができない」と、環境テロのリーダージョナーに訴える漁師。漁師が見せたのは、キングギドラの首だった。ってことは、次回作がある? どんな?
僕たちは希望という名の列車に乗った6/10ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ラース・クラウメ脚本/ラース・クラウメ
ドイツ映画。原題は“Das schweigende Klassenzimmer”。Google翻訳では「静かな教室」と出た。allcinemaのあらすじは「まだベルリンの壁が建設される前の1956年の東ドイツ。エリート高校に通い、青春を謳歌していたテオとクルト。ある日、西ベルリンを訪れ、映画館に入った2人は、ニュース映像でハンガリーの民衆蜂起を知る。市民に多くの犠牲者が出たことに心を痛めた彼らはクラスメイトに呼びかけ、教室で2分間の黙とうを敢行する。それは純粋な哀悼の気持ちから生まれたささやかな行動だったが、ハンガリーと同じくソ連の影響下にある東ドイツでは、たちまち社会主義国家への反逆とみなされ、政府が調査に乗り出すほどの大問題へと発展してしまう。生徒たちは1週間以内に首謀者を明かすよう命じられ、従わない者は全員退学と宣告されてしまうのだったが…。」
Twitterへは「ベルリンの壁以前の東ドイツでの話。時代背景や、生活環境に分からないことが多く、理解できないところがたくさん。とはいえ、ささいなことから変化していく様子がなかなかの緊張感だった。」
壁を乗り越えて西側に逃げる途中で撃たれる、という情報が頭にあるので、当時は監視体制もゆるかったんだな、っていうのが最初の感想。なにしろ高校生2人が墓参を口実に西ベルリンに行き、映画まで見て戻ってくるんだから。で、ニュース映像でハンガリー動乱を知り、クラスメートであるパウルの叔父さん(だったかな)の家で西側のラジオを級友たちと聴き、クラスの多くが反ソ連で燃えあがってしまうのだが、エリート高校生たちは、ソ連の占領下が嫌だったのね。テオとクルトが街のカフェでソ連兵に豆をぶつけ、追われ、つかまってもすぐ放免されるあたりも、ゆるい。ソ連兵が「お前らいくつだ」「17」「俺は21だ。好きで来てるんじゃない」とかいって帰っていく姿は、ともに体制に翻弄される若者だな、と。
クルトの発案で、2分間の黙祷。だけど、授業の開始とともにそんなことすれば問題になる、ぐらい分からなかったのか? それぐらいなら大したことないと思ってたのか。浅はかすぎる。後から、テオの父親はベルリンの暴動に参加した、と分かるんだが、このことをテオは知らなかったの? わずか3年前なのに。知ってれば自重しただろうに。ソ連兵に豆をぶつけるぐらいのいたずらは、日常的だったのかね。とはいえ、蛙の子は蛙で、親子で反ソ連をやってる訳だ。
校長は労働者階級の出身らしく、テオに同情的。でも、学校を管理する連中が何人かやってきて、あれこれほじくり出す。生徒の管理が厳しくなりつつある時代だったのか。とくにハンガリー動乱もあったし。とはいえ生徒を監禁・拷問するわけでもなく、詰問はお手柔らか。むしろ、生徒の自主的判断に任せる的なも。
でも、質問は引っかけだったりブラフだったり、次第に生徒間にヒビが入っていく。とくに、テオやクルトに同調的ではないエリックの存在が面白い。自分の父親は熱心な共産主義者で、収容所で死んだ(?)、とかなんとかで、父親やソ連を信奉している様子。母親は、神父(叔父?)と再婚しているのか? けれど、仲間を売るほどでもない、という微妙な状態。でも、このエリックをオバサン官僚が狙い撃ち。父親の死の真相を知らされるとエリックは動揺。抑留中(?)にエリックの父はナチ(?)に寝返り、最後には社会主義者らに「裏切り者」として処刑されてしまったらしい。しかも、処刑した中に、クルトの父親もいたりするんだが、この経緯がよく分からない。いつのことなんだ? 大戦後? ナチじゃなく、ファシストだったっけ? っていうか、この映画で呼ばれるファシストは、自由主義者のことらしいので、なんだか話が混乱するのだ。
動揺したエリックは、クラスのみんながパウルの叔父のところで西側の放送を聞いていたことを、思わず口にしてしまう。その後、別の教官を撃ち、義父の教会に乱入し、あげく逮捕されてしまうという、気の毒にも程がある人物として描かれているのだが、いろいろ同情してしまう。だって、寝返った父親の息子が、クラスの仲間を売ったのだから。
そういう過去を持つエリックがエリート高校にいる理由がよく分からん。これはテオも同じくで、父親がかつて反体制運動に参加したこともあるらしい。そんな家庭の、労働者の息子がなぜにこの学校にいるのだ? しかも、テオの父親は大臣とも顔なじみ? いろいろと背景が深いようだが、よく分からない。
クラスメートの中に色恋を入れ込んで対立をつくり出してるのも、面白い。レナはテオとラブラブだったけど、黙祷の理由を「ハンガリー動乱」とはっきり言うべき、という立場。でも、テオは、問題が大きくならないよう、ハンガリーのサッカー選手が動乱の最中に死んだので、その選手についての黙祷ということにしよう、と主張。決を採って、テオの案が採用され、エリックも含めてクラスの総意とするのだけれど、レナは内心それが嫌だった様子。後に、パウルの叔父のところで西側ラジオを聴いたとき、クルトとレナがキスをするんだけど、それをパウルが見てしまい、パウルがそれをテオに告げ口するという、余計なことをする。告げ口をしたパウルが、後に、教会でエリックを殴るんだけど、これはエリックが西側ラジオをどこで聴いたかをゲロってしまったから。つまり、告げ口屋が告げ口屋を殴ってるわけだ。
というようなわけで、クラス仲間はバラバラになってしまった。
で、黙祷を発案したのはクルト、ってチクったのもエリックだったっけかな。父親のことを知らされたとき・・・。で、オバサン官僚は来るとの父親のところへ行き、大人の解決策を提案。エリックは監獄だから、発案者をエリックにしてしまおう。というわけで、オバサン官僚とクルトの父親は「明日、クラスのみんなの前で、発案者はエリック」といえ。そうすればすべて丸く収まる、と強要。でも、それが嫌なクルト。母親は「今夜のうちに逃げなさい」と言うのが凄い。というわけで、クルトはテオに挨拶し、一緒に逃げようと言うんだけど断られ、ひとりで西ベルリンへ。でも駅員に見つかり、父親も呼ばれるんだけど、父親はもうあきらめていて、そのまま墓参ということで、息子の逃亡を助けるんだよね。あれで、父親は職を失わなかったのか? 気になる。
でまあ、翌日。エリックとクルトのいない教室。オバサン官僚その他がテオに「首謀者は?」と問うけれど、相変わらず「自然にそうなった」と応えたら、「君は退学」と。口を挟んだパウルにも「あなたも退学」といったところで、レナが立ち上がり「私も発案者」と。次々に生徒たちが立ち上がり、「私も発案者」「私も」・・・って、こういうシーンは、かつとでこかで見た記憶があるなあ。どういう映画だったか。それはさておき、戸惑うオバサン官僚。生徒たちに「教室から出て行け」と命ずるけど、みんな退学になったわけじゃない。で、前庭に集まった生徒たちに、テオが「みんな、西ベルリンへ行こう。年末は監視がゆるくなる」と。で解散するんだが。それはさておき、教室の場面に戻ると、1人だけ立ち上がらなかった女生徒がいて、彼女の立場が気になるんだよなあ。前庭にもいたっけか?
で、年末。テオの両親と弟たちは、西ベルリンの(か?)の親戚へ。テオとパウルが電車に乗ると、同級生がすでに何人も乗っている。というわけで終わるんだが。そんな簡単に故郷や家族を棄てられるのか? というのが、大きな疑問なんだよね。
壁ができる前は、どうだったのか? よく知らない。それと、舞台になっている街は、ベルリンではなく東ドイツのどこかにあるところ、なのか? ベルリンに壁がなかったということは、行き来は自由だった? 東西ドイツの行き来、検問はどうなっていたのか? さらに、西ベルリンに逃げた生徒たちは、西側で卒業試験を受けた、ということだけど、そういうことができるのか? という基本的なことだけじゃなく、衣食住はどうしたの? 西側のサポートがあったのか? 彼らのその後は? 戻れたのか? ずっと西側で生活したのか。どうやって? いの、どうしてるのか? 東ドイツに残された家族はどうしたのか? といった疑問がどんどんでてくる。でも、基本的なことだけでなく、その後の彼らも語られることがない。クラスはたしか20人で、エリックは収監されたから、19-4=15人が西に行って、4人は西に行かず。は、最後に字幕で知らされたけど、それ以上のことを知りたいよなあ。
というわけで、主要な生徒5人は、レナとパウルを除いて親世代とのアナロジー、あるいは反発が書き込まれているのがなかなか。で、一藩強いのが女性で、レナだった、というオチだ。
でも、もう少し知りたいのは、親世代の経験と立場だな。戦時にはドイツ軍人だったんだよな? クルトの母方の祖父はナチスだったのか? 父親は、戦時も共産主義者? 鉄工所で働くテオの父親は、どうだったのか? レナとパウルの両親はどういう立場だったのか? とか、気になるんだが・・・。
さよならくちびる6/11シネ・リーブル池袋シアター1監督/塩田明彦脚本/塩田明彦
allcinemaのあらすじは「突然解散を決めた人気デュオの“ハルレオ”。孤独だった2人が出会い、路上から始めて今やライブハウスを一杯にするまでに成長した。そんなハルレオを影で支えていたのが元ホストのローディ兼マネージャー、シマ。順調かに思われた3人の関係だったが、いつしか危うさを孕み始める。そしてついに解散を決意したハルレオは、シマとともに最後の全国ツアーへと旅立つのだったが…。」
Twitterへは「解散寸前の女性デュオ。才能の有無男女関係とかベタすぎる展開で、ムダな車窓シーンもたくさん。ラストも予想通り。なんだが、飽きずに見られる不思議。小松菜奈がいい。地方ライブシーンもなかなか。」
というわけで、内容はベタで手垢の付いたものなのだが、心地よく見られてしまう。もちろん、予定調和なので、ハラハラはしない。ラストも、どうせ寄りが戻るんだろう、と思っていたらその通り。真面目に見なくても、流し見できるような映画なのだ。思うに、キャラで楽しめるからなのかも知れない。
後半、レオが楽屋でシマに聞かせる自作があって、歌詞に「春が来て」だったかな、とにかく、春=ハルという言葉が入っている。シマはとくに指摘しないんだけど、レオにとってハルはかけがえのない相手であることが、示唆されていたりする。
さらにもうひとつ、後半で。レオがハルにキスする場面がある。ただし過去の流れなのか、現在の時制なのか、よく分からないのだが。で、はっきりは覚えていないんだが、「私、ハルのためなら何でもする」というようなことをレオが言うのだ。これが現在の時制だとすると、レオがはっきりと自分にとってハルとは、を口にした瞬間ということに鳴る。
まあ、この2つの場面が、レオの態度が変わったことを示す場面、かな。これによって、ラストが元の鞘に収まるわけだけれど、欲をいうと、なぜ気持ちが変わったのか、をちゃんと描いて欲しかった。
というのも、2人の仲違いの理由が、はっきりしないからだ。もちろん、レオが反発する場面は描かれていて、それはローカル局によるハルレオのインタビュー番組で、インタビュアーの女性がハルの作詞・作曲を褒めてばかりで、イラついたレオがどんどん態度悪くなり、最後は退席してしまう、というものだ。
でも、レオはそんなことでハルを嫌いになるのか? そもそも洗濯工場でトンマなレオを誘ったのはハルで、ギターの弾き方もハルが教えた。だから、もっと恩義を感じてもいいと思うんだけど、レオはそういう正確ではないらしい。それに、自分でも作詞したいなら、書けばいい。しかし、書いた詞を見せる、ような場面が設定されていない。これももの足りない。欲が出て来たレオが、ハルやシマに否定されてひねくれる、という話にして欲しかった気がするんだよね。
あと、ハルがレオを誘う場面も、ちょっといきなりすぎ。後にハルは「歌いたそうな目をしてた」とかいってたけど、そういう目の場面がないのだよ。この場面も欲しかった。
でまあ、3人の関係なんだけど。ハルがレオを誘ってデュオ誕生。ハルは自立していて才能もあり、戦略家? レオは感情で生きてる感じ。そこにシマが関わるのは、彼が自分を売り込んできたのかな。はっきり書かれてないけど。かつてバンドを組んでいて、失敗した経験から、2人を成功させたい、という思いがあったんだろ。たけど、レオは男癖が悪くてとっかえひっかえ、自分を食いものにするような男とばかりつき合っていく。これ、たぶん、レオはシマに一目惚れで、シマの気を惹くためにやってることだ。だいたいシマはハルに惹かれていて、その嫉妬もある。で、レオが男とトラブルを起こすと、シマが助けに来てくれたりするんだけど、あれもわざとやってる感じ。これも、ハルレオの関係悪化の原因だろ。
レオはアホだけど、でも、演じているのが小松菜奈だったりして、なかなか可愛いのだ。そして、彼女が演じるレオも、バカすぎてカワイイ。ハルを演じるのは門脇麦で、実をいうと彼女は顔が苦手。ブスとは言わんが、可愛くない。なかなか絶妙なキャスティングだと思う。
てなわけで、一緒に行動しながら分裂状態のハルレオに、愛想を尽かしたのか、シマが最後のツアーを組む。浜松、大阪、新潟、酒田、弘前、函館・・・。登場するライブハウスは、おそらくホンモノなんだろう。メジャーデビュー前でも、結構、たいへんなのね、な感じ。客も少ないし。あれじゃ生活費も稼げないだろ。
な、後半に、前述のようにレオが態度を変え、帰京して解散、のはずが、2人はシマのクルマに戻ってくる。というところでジ・エンド。2人の歌唱も心地よく聞かせてもらいました。
・シマがハルの父親の三回忌についていった、という話がよく分からない。同棲相手、という名目で安心させるために連れていったのか? で、そのことをシマがレオに話したとき、シマが「ハルも色々苦労しているから」的なことを言ったんだが、どういう苦労があったのか、あとから説明があるのかと思ったらないので、うーむ、な感じ。
・後半、とうとう、なのか、レオがシマに「ホテル行こう」と誘い、キスしようとするところがある。でも、シマは拒否。あれでレオのプライドが傷つくかと思いきや、逆にあきらめがついたのかな。であるなら、レオが楽屋でシマに聞かせた曲もどきを、ハルに手伝ってもらって完成させ、ラストステージで披露するぐらいの展開があってもよかったんじゃないのかな。
・コインランドリーで、シマがひとりになり。でも、そのスペースには見ず知らずの女がひとりいて・・・。という場面。そこにハルが戻ってきて・・・。もしかして、シマが女をクルマに連れ込んで、とかいう話になるのと思ったら、そんなことはなかった。コインランドリーの前にいた幼い少女とハルが話すような展開になるのだが、「お母さんは?」に少女はコインランドリーをシャベルで指す。「お父さんは?」に対しては、シャベルをハルに向けてゴリゴリするんだが、いないと言うことか。というようなエピソードが示すのは、ハルの父親との関係なのか。そういえば、三回忌の場面がチラッと出るんだが、母親はいたか? もしかして、母親が出奔して父親と暮らしていた、とか? それが、苦労? よく分からんが。
ファンにインタビューの場面で、女子校生2人組が登場。片割れが歌い出すところ、歌に救われてる感がつたわってきてなかなかいい。この2人、函館のライブ会場の外にも、いたよね。入場できなくて、肩を寄せ合い、1つのイヤホンをつかって、たぶんネット配信されてるライブ映像を2人でベンチで聞いている。もしかして、同性愛で悩んでいるとか、あるのかなとか、想像。
マルタ6/12ブルースタジオ監督/ライナー・ベルナー・ファスビンダー脚本/ライナー・ベルナー・ファスビンダー、クルト・ラーブ
1975年・西ドイツ映画。原題は“Martha”。Movie Walkerのあらすじは「図書館に勤めるマルタ(マルギット・カルステンセン)は父親とローマを旅行していて、父親を心臓発作で亡くす。その混乱の最中に財布を盗まれたことに気づいたマルタは、ドイツ大使館に行く。大使館を出たマルタは、ある男性を見かける。帰国後、マルタはヘルムート(カールハインツ・ベーム)に紹介される。彼は、ローマで見かけた男性だった。ヘルムートはマルタを言葉で侮辱したり、嫌がることを強要するが、マルタは従順に受け入れていく。そして2人は結婚する。ハネムーンに出かけたイタリアで、ヘルムートの要求はさらにエスカレートしていき、精神的、肉体的にマーサを痛めつけるようになっていく。マルタは友人マリアンヌ(バルバラ・ヴァレンティン)に相談するが、ヘルムートの振る舞いについて説明することができなかった。ある日ヘルムートの殺意を感じたマルタは、図書館の同僚カイザー(ペーター・カテル)に助けを求める。2人はカイザーの運転する車で逃げるが、動転したマルタがハンドルをつかみ、事故を起こしてしまう。病院で目を覚ましたマルタは、カイザーが事故で死に、自分も下半身麻痺になったことを知る。マルタは心配ないと告げられるが、ヘルムートは車椅子で彼女を病院から連れ出すのだった……。」
Twitterへは「1975年ライナー・ベルナー・ファスビンダー作品。前半がムダに長くて退屈。少し寝た。後半、やっと話が転がり出して、そういうことか。けど、異常さが増幅されてる感じでむしろホラー。というか、当時のドイツ女性はみんなあんな従順だったのか。」
アート志向があるのかな。70年代の妙な映画には、こんなテイストなのがあったような。でも、技術的に下手、とも見えてしまう。とくに、この映画の冒頭からの流れは、終わってみれば、なんなんだ? な感じ。
一室。電話のベル。女は「パパ。わかった。でるから」と、受話器を取る前からだらだら歩いている。ここはどこだ? さらに、アラブっぽい男が部屋に侵入してきて、ズボンのチャックを降ろす。女は叫ぶでもなく男を追い出す。階段を降りる女。ロビーに男性。彼がパパか。背後にアラブ人。フロントの男が、女に「どうでした?」と聞く。「?」「私に目配せしたじゃないですか」「しないわよ」・・・ということは、フロントは女が男を呼べ、と言ったと勘違いした? ところで、この女がババクサイ顔で。31か32だと聞かされて、え? な感じ。父親と女はスペイン階段に行くが、そこにもアラブ男が背後に。アラブ男に気づかないのか、2人は階段を上る。父親が倒れる。財布に伸びる手。「財布がない!」と女が叫ぶ。大使館。女は父の死骸を置いたままやってきたらしい。電話しているが、相手は母親のようだ。「全財産がなくなった」といきりまくってる。大使館にやってくる時だったか、金髪男とすれ違う。すれ違いざま、カメラが2人の周りをぐるぐる回る。どういう意味だ? 帰国する女=マルタを迎える黒衣の女性2人。母親と、妹? 後から思うに、マルタの友人だな。もうひとり友人ぽい人もいたな。棺が降ろされクルマに・・・あたりから、こらえ切れず眠くなり・・・。男=ヘルムートとの再会。「お会いしています」な会話。最後の晩餐みたいな感じのテーブルで結婚式? な映像を途切れ途切れに覚えてる。どこかにハネムーン、故意に日焼けさせひりひり状態のマルタの裸体(全裸だよ。陰毛も見えてる)を弄ぶ、とかは割りと覚えてて、ここでヘルムートの好物がブタの腎臓のワイン煮と知り、「あら、私の父親の好物だったわ」とか和気あいあいな感じ。で、帰国して、クルマの中。マルタは自分の母親と一緒に住むはず、と思っていたら、かつて殺人事件があった屋敷に住む、といわれ、少し違和感・・・。あたりから、ちゃんと見た。
要は、妻を自分の管理下に置きたいサディスト男の話で、マルタはそこから逃げようともせず、だからどんどん追いつめられていく。
マルタの職場には勝手に退職届。そんな音楽を聞くな、これを聞け。僕の仕事を理解するため、この本を読め(と橋梁の専門書)。ブタの腎臓の赤ワイン煮をつくったら「僕は内臓アレルギーだ」。陽の高い内からベッドへ誘い、行為時に首に噛みつく(だからヴァンパイア物か? と一瞬疑った)、さらに電話を取り外す、外出禁止を命ずる、、マルタの猫を殺す・・・とエスカレートし、最後は、マルタの職場で現在働く男性のクルマで逃げるんだが、途中事故って男性は死亡、マルタは半身不随の車椅子生活。迎えに来たのはヘルムート・・・というところで終わる。
早稲田松竹のHPに「設定の不条理さが‘70年代ドイツ市民社会の抑圧された結婚生活を辛辣にあぶりだす。」とあるんだけど、西ドイツはそんな亭主関白で主婦に自由がなかったのか? という素朴な疑問。それ抜きにしても、冒頭の父親の死とか財布とか、要らんだろ。そもそもリビア人はなんだったんだ? 寝てたときに解き明かされてたのか? ホラーにするなら、出会いの部分をフツーに描き、さっさと結婚生活に入ればいい。ムダに長いんだよ、イントロが。
・なぜマルタはヘルムートと結婚したのか? 寝てたから分からんのだが、つき合ってるときも「言葉で侮辱したり、嫌がることを強要するが、マルタは従順に受け入れていく」というのが分からない。
・なぜマルタは逃げないのか? まだ母親生きていて、家もあるんだろ? 友だちに相談してはいるけど、もっとはっきり言うべきだろ。当時の西ドイツ女性は、そこまで抑圧されていたのか? 物理的にも心理的にも逃げ場がない、と思わせないと、ホラーにはならんだろ。
・マルタの職場が図書館に見えない。ありゃ宮殿だろ。それと、館長らしき男に求婚され、「母親の世話をする必要がある」と断っていて、それがなぜヘルムートと結婚するのか。母親の面倒も見てないじゃないか。さらに、館長は翌日だったか、マルタの同僚に求婚して了解を得ている。なんだこの館長。
・電話を取り外しに来た男は、ヘルムートに雇われてるのか? へんなやつ。
・マルタは図書館で働くカイザーを知らなかったよな。ハネムーンの間に雇われた? マルタの辞職願の後に雇われた? その彼がマルタの相談を買って出る理由が分からない。
・マルタとカイザーがクルマで逃げると、追跡するクルマが・・・。あれ、マルタの妄想? 事故後、後続のクルマから降りてきたのは、電話を外しに来た男? その後にでてくる医師にも似てたけど・・・。ヒゲがね。
・ラスト、迎えに来るヘルムートだけど、半身不随のマルタを受け入れて、今度は何するつもりなの? セックスの相手もできなそうだし、料理もムリだろ。家に閉じ込めて、飼い殺しにするのか? あんまりヘルムートにとっての利点が思いつかないんだが・・・。
コレット6/13新宿武蔵野館2監督/ウォッシュ・ウェストモアランド脚本/リチャード・グラツァー、ウォッシュ・ウェストモアランド、レベッカ・レンキェヴィチ
原題は“Colette”。allcinemaのあらすじは「フランスの田舎町で生まれ育ったコレットは、14歳年上の人気作家ウィリーと出会い、激しい恋に落ちる。やがて1893年、ウィリーと結婚したコレットは、“ベル・エポック”真っ只中のパリに移り住み、華やかな社交界で享楽的な世界に染まっていく一方、ウィリーの浪費癖が原因の借金問題に悩まされていく。そんな中、コレットの文才に目をつけたウィリーは、彼女に小説を書かせ、それを自分の名義で発表する。この『クロディーヌ』シリーズは一大ブームを巻き起こすが、ゴーストライターという立場のコレットは、自らの人生に疑問を抱き始める。そして男装の貴族“ミッシー”との出会いが、コレットの生き方を大きく変えていくのだったが…。」
Twitterへは「コレットといえば『青い麦』で、はかない青春小説のイメージだったんだけど。あらま。こんなに奔放でキケンな女性だったのか。まさに目ウロコな話だった。どこまで史実か知らんけど。」
田舎。よくしゃべるオッサンが訪れていて、老夫婦が話し相手になってる。そこに老夫婦の娘=コレットが。どうやらオッサンはコレットがお気に入りで、わざわざパリからやってきてる、らしい。老夫婦は「持参金もない娘にだぞ」なんて話している。なんのこっちゃ。オッサンが帰ったあと、コレットはベリーを摘みに行く、と出かけるのだが、行き先はどこかの小屋で、そこにさっきのオッサンがいて、さっそく乳繰り合う!! おいおい。コレットって、そんな尻軽だったのか?!
で、次の場面ではすでにオッサン=ウィリーの新妻で、社交界=サロンへのデビュー。でもまだオシャレには縁がないのか、ウィリーの買ってきた赤いドレスは気に入らず、着慣れたドレスを着ていく。それを見たサロンの常連は「どこの田舎娘?」的なことをいい、ウィリーはにこやかに「妻ですよ」と説明している。こりゃ早晩、仲が悪くなって離婚かな、と思ったのだが…。
ウィリーって、作家だったのな。でもゴーストライターを2人ぐらい雇っていて、ウィリーが考えた筋書きを文章化するようなシステムらしい。で、始めはコレットもビジネスレターの代筆を手伝っていたんだが。ウィリーの浪費癖、博打好きが高じて一文無しに。でも、そういえば、ウィリーはコレットと結婚するために、実家の遺産相続を放棄したとかいってたけど、家格が違うせいなのか。それほどウィリーはコレットにぞっこんだったのね。
で、浪費癖がたたって金がなくなったウィリーは、コレットに小説を書くよう奨める。しあがった作品に注文をつけ、出版はムリ、と一度は突き放すものの、いよいよ資金難になり、ウィリーの手ほどきのもとで書き直したら大ベストセラーに。なんと、凄い。
な2人に、周囲は興味津々。ウィリーとお近づきに、と手紙をよこしたアメリカ人の富豪の奥さんがいて。食事したらどうやら富豪夫人はコレットに気がある様子。それを察したウィリーが「ひとりで訪ねれば」と奨めるんだが、なんと富豪夫人とコレットは速攻でレズ関係に。それを知ったウィリーは、単独で富豪夫人を訪問し、これまた肉体関係。その様子に気づいたコレットはウィリーを責めるんだけど、なんと、この話も2人で相談の上そのまま『クロディーヌ』の続編にしようとするのだから恐れ入る。それはそれ、これはこれ、と割り切る夫婦。離婚しようなんて考えない。凄すぎる。
ウィリーは次作の印税前払いで郊外に豪邸を購入。次回作(これが第2弾だっけ?)を、とコレットを缶詰にしてしまうんだが、彼女はそりゃ反発するわな。第2弾も大評判で、富豪夫人との話を第3弾にしようとしたら夫人は出版社から本を買い占め、燃やしてしまう。でも、版権はウィリーにあるとかいってたけど、あれは出版されたんだっけか?
2人の関係が破綻するのは、またまた資金難が原因。郊外の家は売り払い、『クロディーヌ』シリーズの版権も出版社に勝手に売り払ってた。コレットに内緒で。なわけで、離婚したのかな。で、コレットはかねて知り合いのパントマイム芸人に弟子入りし、ともに地方巡業なんてしてたのかよ。しかも、おっぱいポロリの場面まで! そういえば、舞台に上がるのは離婚前にもあったな。つき合っていたミッシーとの舞台で、舞台上でキスしたら大顰蹙を買っていた。当時、同性愛はそういうものだったのね。なるほど。この下地があって、の地方巡業だったか。その巡業先に出版社社長が見にきてて、そこで『クロディーヌ』版権売払いを知らされたんだった。
な経緯があって、やっと彼女はウィリーのゴーストをやめ、コレット名義で新作を書き始める、という流れだったかな。
いや、波瀾万丈。奇天烈な人生を送った人だったんだな。とびっくり。画面に釘付けだったよ。
・一緒に演劇ツアーをするマイム芸人は、サロンでチラッと出てきた程度、だったよな。
・キーラ・ナイトレイ34歳。まだまだ瑞々しい。胸はないけど。
・コレットの結婚は1893年で、20歳のときらしい。となるとウィリーは35歳前後。に見えないけど、演じるドミニク・ウェストが50凸凹だからしょうがあるまい。ヒゲの影響もあるし。
・ウィリーが愛人にし、小説も書かせていたというメグは、ウィリーのところにサインをもらいに来た娘? アメリカ富豪夫人と食事した時にいた女性にも似てたけど・・・。
・富豪夫人が色っぽかった。エレノア・トムリンソン。1992年生まれだから26、7歳か。
アナと世界の終わり6/14新宿武蔵野館1監督/ジョン・マクフェイル脚本/アラン・マクドナルド、ライアン・マクヘンリー
イギリス映画。原題は“Anna and the Apocalypse”。Apocalypseは、黙示録。allcinemaのあらすじは「英国の田舎町リトル・ヘブン。高校生のアナは、幼い頃に母を亡くし、父と2人暮らし。冴えない仲間ばかりのイケてない高校生活にうんざりのアナは、大学に進学してほしい父には内緒で、海外を旅する計画を立て、その資金を稼ぐためにダサい幼なじみのジョンと一緒にバイトに励んでいた。しかしある日、そのことが父にバレてしまい大ゲンカに。翌朝、ジョンと学校へ向かっていたアナは、いきなりゾンビに遭遇。間一髪で危機を回避したアナとジョンだったが、今すぐ町を脱出すべきだというジョンに対し、ケンカしたままだった父のことを心配するアナ。やがて2人は、学校に取り残されていた父とクラスメイトを救出すべく、町に溢れるゾンビに立ち向かっていくのだったが…。」
Twitterへは「ミュージカル以外は定番のゾンビ物なので、もうちょいひねりが欲しかった。食われ始めるとミュージカル色が薄れるのもなあ・・・。ヒロイン、アナ役のエラ・ハントは正統な美人で、なかなかカワイイ。」
ミュージカル、ということだったけど、ゾンビ物としては全体にゆるい。話の展開もよくある、家に閉じ込められ、別のところに移動する、というもので新鮮味はない。
ジョンがクリスマスツリーの倉庫で食われるのも、サンタのソリのトナカイの名前をアナに説明し終えて伸びをしたその手首を噛まれるというもので、トンマとしか言いようがない。ゾンビもののお約束というか、主人公たちはみんな周囲の警戒を怠っていているから、こちらがイライラしてしまう。な、展開なので、半ばからこちらも緊張が薄れ、眠りはしなかったけど、かなりボーっとしながら見ておった。
主役のアナは、正当な美形で、胸も大きい。なのに、彼氏のジョンがボンクラな感じ。どういうつながりなのか(↑のあらすじでは、幼なじみとなってる)。アナは進学、ジョンは美術学校からの通知を待ってる、と言っていたけど、専門学校なのかな。でも、2人は卒業したら1年間オーストラリアへ行く計画で、でも資金がないのでバイトに精を出してる、ということらしい。もちろん親には内緒で。でも、恋人同士でもない感じの2人が、そういうことをするのか的な疑問もあるけどね。しかし、アナの父親は高校の用務員で完全なる労働者階級。そこから進学させるのは大変だろうに。というか、学校で父親が働いてる姿を同級生に見られることに抵抗はないのかな、と。
その高校の校長が、いかれポンチで。校長程度で帝王になった気分であれこれ支配=命令することに快感を覚えてる感じ。なんとなく『博士の異常な愛情』のドクター・ストレンジラブ的な偏屈・変人だったけど。
ミュージカル風は『ラ・ラ・ランド』を思わせたり、『雨に唄えば」みたいなところもあったり。それなりに楽しい。でも、ゾンビが登場すると歌が少なくなるのが、ちょっと残念。
冒頭からの最初の日は、あれは、学校主催のクリスマスパーティー? 校長主導で準備してきたけど、勝手に『フル・モンティ』っぽい半裸ボーイズが登場して、校長がいきり立ってる。そのパーティーに、アナとジョンが出席してないのは、旅費のためにバイトだからか。でも、出席しなくて、いいのか? そういうパーティーに。
でその日、男女のステフに撮影を頼まれたクリスは、「舞台登場には間に合うから」とリサに言っていたけど、現れず。なんだが、しきりに写されてたリザーブシートは、リサが用意してた席なんだろうけど、字幕でのフォローが全くないのは不親切。あと、いきなり婆さんが映ってて、婆さんがクリスの祖母であることも説明が…されてたが? 気づかなかったが。 チンピラのニックがアナに「泊まったことは言ってない」と言っていたのはどういう意味? 昨夜のジョンとのことではないよな。アナはむかし、ニックと付き合ってたのか?
とにかく。バイト先に閉じ込められたアナとジョンがニックたち4人と合流し、父親のいる学校をめざして移動。途中、近道のためクリスマスツリー倉庫をわざわざ通り、そこでジョン、ニックの仲間2人だったかが食われ(残りはどうしたんだっけ?)、なんとか学校へ。校長がゾンビを校舎内に入れたせいで、なかはゾンビがウロウロ。ここでクリスとリサが食われる。父親を助けようとしたけど、なぜか校長が舞台上で父親を縛り付けていて。なんだかんだで校長がゾンビたちのもとにダイブして食われ、あおりを受けて父親も食われる。で、アナとニックが逃げ出し、そこにクルマのキーをみつけた(校長に昨日とられてた)ステフがやってきて、いずこかを目指す、というエンディング。
軍隊はさっさとゾンビに食われちゃうのに、学校内で生徒が生き残る不思議はあるけど、まあ、映画だし。テレビ局だの電力会社、その他、社会インフラは誰が維持してるのか知らんが、まあ、こういうのもゾンビ映画は無視するから、そういうものとして納得しなくちゃいかんのだ。ははは。
・『アナと雪の女王』のアナと関係あるのかな? ディズニー、という言葉もセリフに登場してたけど。
・色んなスターの名前がでてきて、あいつがゾンビになった! とか盛り上がってた。
・アナが武器に使うのが、ステッキの恰好をしたねじり棒のキャンデイで。キャンディケインっていうのか。あれ、なんか意味あるのかな。
耳を腐らせるほどの愛6/17シネ・リーブル池袋シアター2監督/豊島圭介脚本/石田明
allcinemaのあらすじは「無人島のリゾート・ホテルを舞台に、“たとえ話サークル”の部長・鈴木鈴吉が死体で発見された事件を巡り、偶然居合わせた探偵が真相解明に乗り出す中で、意外な事実が次々と明らかになっていく」
Twitterへは「つまらない。劇場公開、という名目のために吉本が小屋を買った、のかな。」
枠組みは、いわゆる密室殺人事件。被害者は“たとえ話サークル”の部長で、中核を成すのがメンバーの4人。それに自殺願望の女、ストーカー女、ストーカー男、探偵と助手、宿の主人。で、流れは、譬え話の積み重ねで笑わせようとするスタイルだけれど、これがちっとも面白くない。この映画で唯一、くすっ、となったのは、公園での土下座場面かな。あとはひたすら退屈。
舞台劇のようなセリフ、演出、展開。でも、芝居ならそれでいいのかも知れないけど、映画じゃムリだ。
そもそも無人島での密室殺人という設定が手垢尽きすぎ。被害者の霊が問わず語りをするのが、うっとうしい。さらに、なにかとうざい探偵と助手は『TRICK』そのもの。人物がすべて類型的すぎるのだ。
話のつくりはさておいて。そもそも“たとえ話サークル”はいかにしてできたか、の方にも注力すべきだったかな。たとえば、ダジャレ好きな鈴木が同僚の誰かと盛り上がり、さらに、それを見ていた街中の誰かが参加し、落ち込んでたオタクの眼鏡女子に声をかけた(だから彼女は鈴木に好意をもった、とか)・・・とか、そんな背景。そして、鈴木のストーカー女についても、なぜ鈴木を? という根拠がないと納得しづらい。もちろん、その彼女をストーカーする男についても。そのうえでの“たとえ話サークル”なら納得できるかな、多少は。
しきりに手をこする眼鏡女子を犯人と断定し、宣告しようとしたらサークルのメンバー男が「僕です」と自白。さらにストーカー女の正体がバレ、自殺願望の女のドタバタがあり・・・。の後に「K計画」の紙が発見される。書いたのは眼鏡女子で、やはり彼女が犯人、と思わせて、でも「K」は「殺す」でなく「キス」と分かる(Kは告白かな、と思ったんだけどね。当たらずといえど遠からず)。メンバー男の自白も、眼鏡女子をかばうため、となると、あとはもう犯人はいない、となるほかないだろ。という最後のオチ(ゴキブリを殺すために灰皿を天井に投げるやつがいるか? おらんだろ)も、やっぱりな、な感じで意外性のかけらもない。
思わずおかしくなったのは、浮気がバレた鈴木がメンバーの女性に土下座、そこに、メンバー男がやってきて土下座、さらに、公園のホームレスが土下座、それで、メンバー女性も土下座という4すくみになったと公園の場面。それと、自殺志願女が、刺されて、「何時何分?」と聞いて、「0時1分」といわれ、「死にたくない!」といったときぐらいか。あとの、笑わせようとしている所は、わざとらしすぎてうんざり。
ところで、宿の主人が、みんなが会食中だったかに気分悪くなって吐きながら退出する場面、あれはなんの伏線にもなってないのな。
彼が愛したケーキ職人6/18ギンレイホール監督/オフィル・ラウル・グレイザー脚本/オフィル・ラウル・グレイザー
イスラエル、ドイツ映画。原題は“The Cakemaker”。allcinemaのあらすじは「ベルリンのカフェでケーキ職人として働く青年トーマス。イスラエルから出張でやって来たオーレンは彼のケーキを気に入り、出張のたびに立ち寄るようになる。そしていつしか2人は深い仲に。しかしある時、いつものように再会を約束してイスラエルに戻ったオーレンからの連絡が突然途絶えてしまう。実は、オーレンは交通事故で亡くなってしまったのだった。悲しみに暮れるトーマスは、オーレンの面影を求めて彼の故郷を訪れる。そこではオーレンの妻アナトが悲しみを乗り越え、休業していたカフェを再開させていた。やがて客として現われたトーマスは、ケーキ職人としてカフェで働き始めるのだったが…。」
Twitterへは「ほのぼの楽しいケーキ屋さんの話かと思ったら、しみじみと切ない愛の物語だった。歴史的背景もじんわり効いて、なるほど、なところも。」
冒頭からの流れが、え、ええ、ええええ、で、どうなるの的な引きで、疲れで寝るのではないかな、と思っていたのに、ずっと見入ってしまった。出会いから1年後、オーレンの死を知り、なんと、イスラエルまで行ってしまう理由はなんなんだ? それほど深い愛だったのか。トーマスは、オーレンがいかに妻を愛するのか、具体的に逐一聞き、オーレンも素直に話していた。嫉妬するでもなく、平穏に。いったいその妻はどういう女性なのだ? と思ったのかも知れない。もちろんオーレンはスマホの写真で息子や妻を見せていた。ただしそれは、後半になってからで、前半では観客に分からないので、そのもやもやが次第に解消されていく、という編集になっている。
こういう、あの行為はそういう意味だったのか、という編集は他にもあって。それは映画の中盤でアナトが夫の遺品である携帯を手にした時のこと。留守録が13件ある、というメッセージが流れ、でも、聞かないで元に戻す場面だ。あれ? と思いつつ、聞いたんだよな。だから、夫とトーマスのことは知ったんだよな、留守録で。ところが後半、オーレンはアナトに別れ話を切り出していて、ベルリンに移住する、とまでいっていた、とトーマスに話す場面がある。その準備でオーレンがホテルに引っ越す途中でクルマに跳ねられ、亡くなった、のだとトーマスが知る。おお、そうか。あのとき留守電を聞かなかったのは、夫にできた愛人からの者だと思い込み、聞かなかったのか。と分かって、なーるほど。いや、なかなか巧妙なシナリオだ。
その後、アナトは夫の遺品の中のメモが、ケーキづくりの材料なのを知り、それが、オーレンとともに買い出しに行った時のものと同じであることに気付き、留守録を聞く。じゃーん。ここでやっとアナトは夫とトーマスの秘密を知ったのだ!おお。
という状態で見せに行くと、扉に認定取り消しの貼り紙。ケーキの大量注文は取り消され、バイト娘ともに消沈・・・。なことも知らず、部屋で粉をこねているトーマスの所に伯父がやってきて、ドイツまでの航空券といくらかの金を押しつけ、4時間後には飛行機に乗れ。二度とこの国に来るな、と言い残して去って行く。
おー。と思いつつ、ここで少し疑問。伯父の態度からすると、アナトはすべてを伯父につたえた、ということなのか。伯父は弟が愛人の元に逃げたことを、知っていたのか。でもって、その愛人が男だったと言うことも・・・。そんなことを話し合える親戚、ということなのかなあ。それが、少し引っかかる。
そして、3ヵ月後。アナトはネットで検索し、ケーキ屋を見つける。その店先に、トーマスの顔が・・・。えーと、ここでもひとつ疑問点。トーマスはオーナーなのか、雇われなのか。オーナーのような気がするんだけど。店構えが違っていたから。しかも、アナトは、店を閉めて自転車で走り去るところを見ているから。見せの名前が以前と今と同じだったので、抱いた疑問。簡単に店を閉めたり開いたりできるものなのかね、と。
ラストは、いくらでも想像できる。わざわざイスラエルからトーマスを追ってやってきたのだから、きっと再会するのだろう。と思いたい。そして、トーマスが異性愛に目覚めて、家族をもつ、と思いたい。
というのも、オーレンはバイセクシャルで、妻ともセックスできて、「家族をもつのはいいもんだぞ」とトーマスに話していたから。そのときに妻と息子の写真を見せていた。それがオーレンの元に行く決心をしていたのは、本来の自分で生きたい、と思ったからだろう。
でも逆に、トーマスは、アナトの求めに応じ、調理場でセックスしてしまう。その後も、セックスできている感じだった。最初、アナトとのキスを嫌がっているように見えたけど、できないわけではなかった。もしかしてトーマスは、自分はゲイで女性には関心がない、と思い込んでいたのが、できてしまった、ということではないのかな、と思えるのだよね。もちろん、アナトとするときは、自分がオーレンと一体になったつもりでのことだと思うが。
それはたとえば、スイミングクラブの、オーレンのロッカーで見つけた彼の赤い水着をずっと身に付けていたり。あるいは、アナトの家に招待されたとは雨に濡れ、オーレンのモノだった着替えを提供された時の内なる興奮がつたわってくるから、なんだが。
オーレンに成り代わったトーマスは、これからもアナトと暮らすことができる、のではないかと期待したい。なにせ、アナトをいかに愛するかは、オーレンにこと細かに伝授されているのだから。とはいえ、ユダヤ教の女性がどうやってベルリンで生活するのか、は分からんけど。もう一度、生のトーマスを見たかった、だけなのかなあ。などと、想像がめぐってしまうエンディングだよ。
それにしても、トーマスのオーレンを思う気持ちが切なく、哀しい。
しかし、ひと口食べると恋に落ちる媚薬でも這入っているのか。トーマスのケーキ、クッキーは、食べるひとを魅了する、という設定になっている。まあ、それがトーマスの人柄、魅力でもあるのだろうけど。
・オーレンの母親が出てくるんだが。なぜか、彼女はすべて知っているかのように見える。もちろん、知るはずがないんだけど、察知しているような気がしてしまう。
・あの認定というのは、具体的によく分からなかった。トーマスがオーブンを使えない、というのも、宗教的なものかに来ているのか? 最後、アナトの店は認定を取り消されるのだけれど、どういう理由でそうなったのかな。そして、じゃあ店が開けないのか? 暮らせないじゃん、と思ったら、なんと、ラスト近くでは認定なしでも店はやっていける、というような場面もあって。しかも、トーマスのレシピでクッキーやケーキをつくり、繁昌していた。
それと、伯父がトーマスに台所の使い方を教える時、「肉と乳製品は別の場所で調理しなくちゃダメ」とかいう。これもユダヤ教? イスラムのハラルと似たようなのが、あるのか。安息日という言葉がでてたけど、その日は働いてはいけないんだろうけど、食べるのはいいのね?
天才作家の妻 -40年目の真実-6/18ギンレイホール監督/ビョルン・ルンゲ脚本/ジェーン・アンダーソン
スウェーデン/アメリカ/イギリス映画。原題は“The Wife”。allcinemaのあらすじは「アメリカ、コネティカット州。現代文学の巨匠として名高いジョゼフのもとにノーベル文学賞受賞の報せが舞い込み、ジョゼフは40年間連れ添った妻ジョーンと喜びを分かち合う。さっそく2人は作家となった息子を伴い授賞式に出席するためスウェーデンのストックホルムを訪れる。するとジョーンの前にジョゼフの伝記本執筆を目論む記者ナサニエルが現われる。彼は、作家として二流だったジョゼフがジョーンとの結婚を機に傑作を次々と生み出した事実を突きつけ、その裏には単なる内助の功以上の秘密があったのでないのか、とジョーンに迫るのだったが…。」
Twitterへは「こないだ見た『コレット』そのまんまじゃないか、ほとんど。どちらも登場する男どもがみな自分勝手で無神経で浮気野郎という類型で描かれるのは、これまたいまどきの女性上位映画の類型か。」
いきなりジジイとババアのベッドシーンでげんなり。と思ったらノーベル賞受賞のお知らせで2人は大はしゃぎ・・・。の後に、2人の出会いの過去シーン。これでもうジョーンがジョセフのゴーストだと言うことは予想がついて、こないだ見た『コレット』と同じじゃないか、と萎えてしまった。あちらは事実ベース。だから意外性や驚きがあった。こちらは同工異曲のフィクション。ムリやりドラマに仕立てているからムリがある。現実味もない。
一介のライターが妻ゴースト説を追求するぐらいなら、アカデミーはすでに知ってるだろ。知ってたら調べ尽くし、候補にもしないはず。と思うと、まともに見ていられない。
女性の創作力を自分の手柄にし、悪びれない男、という図式も『コレット』とまったく同じ。まあ、『コレット』の方は事実なんだろうけど、似すぎていて薄っぺらすぎる。まあ、発想力はジョセフだけど、筆力はジョーン、ということになっていて、それはジョーンも認めていて、だから離婚しなかった、ということになってはいる。ここが、この映画の最大の肝であり、疑問なんだけどね。それほどジョーンはジョセフに惚れてしまった、と。それをいいことに、ジョセフはジョーンをないがしろにした、と。でも、フツーそうなるものか? 女房に頭が上がらなくて、かえって大事にするんじゃないのか? 女房殿の逆鱗に触れ、すべてバラされたら元も子もなくなる訳なのだから。なのに堂々と浮気はする、偉そうにする、はないと思うぞ。
ライターの調査によると、ジョセフの初期作品は箸にも棒にもかからないような駄作が数編、だったらしい。それが、ジョーンと結婚してから人が変わったように傑作を発表するようになった、と。それはいい。疑問なのは、そんな三流作家でも大学で小説コースを担当できる、ってことだ。しかも、すでに結婚して子供までいる。それがジョーンとの出会いで離婚・再婚。という略奪婚のジョーンが、亭主の浮気をあれこれ言うな、というところも多少あるけど。
でその出会いは1958年だっけか? で、映画の時間は映画製作年の2017? 公式HPに原作は2003年とあって、それなら2人の年齢にも合致するかな。2017年なら、2人とも80〜90歳ってことになっちまう。
作家志望の不肖の息子が登場するけど、とってつけた感じ。どういうコネで短編が掲載されたのか。あの態度では親のコネでもなさそうだが。あのひねた態度は、違和感ありすぎ。親に承認されたいのかね。だいたい、なんで彼が授賞式に同席するのかもよく分からない。反抗的態度なら、こなきゃいいだろうに。と思ってしまう。
受賞式の前後の夫妻を撮るカメラマン女子が登場するんだけど、意味ありげで、結局、ほとんど機能していない。せいぜいジョセフがキスしようとしたぐらいで、それも薬の時間! という時計のアラームでオジャン。でも、彼女もキスして良さそうな雰囲気になっていたのは、ありゃどういう意味なのだ? ムリありすぎだろ。
・ホテルで、シャンパンの送り主の名前に「誰?」というジョセフ。実は、小説の登場人物の名前らしいが、それも覚えていないぐらい、作品には関与していなかった、といいたいのか。であれば、ジョーンはもっと態度で大きくていいと思うけどな。
・授賞式直後、心臓発作で亡くなってしまうジョセフ。ぎりぎりでノーベル賞に間に合った、ってことか。で、帰りの飛行機で、ジョーンズはノートを開くんだが、ありゃ何のノートなんだ? 何も書き込みのない真っさらなページを開くのは、これから私自身の創作活動が始まるのよ、ということなのかね。
・ホテルの寝室にスタッフがやってきてクリスマスの祝い? それだけで怒り心頭だろ。無神経な。
ハウス・ジャック・ビルト6/24ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ラース・フォン・トリアー脚本/ラース・フォン・トリアー
原題は“The House That Jack Built”。allcinemaのあらすじは「1970年代の米ワシントン州。建築家を夢みる潔癖症の技師ジャックは、車が故障して立ち往生している高慢な女性に遭遇し、車の修理に手を貸すが、衝動的に彼女を殺してしまう。以来、芸術を創作するかのように殺人に取り憑かれていくジャックだったが…。」
Twitterへは「サイコとゲージツカを同レベルで語ってるのか? 常識外れで夢中になる矛先がフツーと違うのはそうかも知れんが。だからって、うーむ。悪趣味としか思えん。」
サイコパスの、合理性も何もなく、血も涙もなく殺人を繰り返す様子を描いているだけ。しかも殺害の様子がグロテスクに再現されている。それも、無抵抗な女性や子供など弱者にも容赦がない。遺体は、自分所有の冷凍室に保存し、死後硬直がとけたあとにポーズをつけて凍らせたりする。揚げ句は、遺体を積み上げ、組んで家のようなものにしたりする。どうやら自分の美学に基づいて行っているようだ。
ではそのサイコパスの異常性に迫るかというと、とくにそういうこともない。たとえば『冷血』が犯罪者を淡々と描くような感じではなく、時に陽気にはしゃいだり、気ままに殺害を繰り返していく。もちろん、サイコに理由はない。病気というか、精神的な奇形なのだろうから。でも、そこに闇はない。あるのは、ジャックの考える絵画や音楽などのアートであり、その“表現”なのだ。
グレン・グールドがしきりに登場する。彼についてはほとんど知らない。Wikipediaで見ると変人だったようで、たとえ変人でも一般の人の心を打つ作品がつくれる、ということを言いたいのかね。他にも登場する泰西名画も、そういうことかも知れない。
とはいっても、ジャックが美術館や音楽会に行く様子はな。彼自身は何かの技師で、でも自分は建築家になりたくて、自分の家を何度も建てようとしたらしい。でも知識がないので、いずれも完成には至らず。というのは、コンプレックスになっているのか、上昇志向から来るのか。
ジャックは潔癖症で、神経症だ。けれど、次々に殺しを重ねるうち、行動は大胆で心も大雑把になって行きが、潔癖症も改善されていく。だから何だ、な話である。というか、サイコパスは神経症的であるという設定はどうなのかね。
最後は、男性を何人も生け捕りし、頭部が一直線になるように縛り付け、フルメタルジャケットという銃弾1発で何人殺せるかの実験をしようということになる。けれど、生け捕った1人に「それはフルメタルジャケットじゃない」と言われ、狼狽。最初に行くのは、トレーラーハウスみたいな所に住んでるジイさんの所だったかな。いや、これはその前か?  とにかくそのジイさんを殺し、やってきた警官も殺害する。その後になるのか、銃砲店で銃弾を手に入れるんだけど、実はその店が間違えて銃弾を渡したのかどうかもあやしい感じ。その様子に異常を感じ、銃砲店の店員が通報したんだったか。
というわけで、警官が冷凍庫のドアを焼き切り始める当たりから、話は観念的にズブズブになっていく。
冒頭からつづいていた、ジャックと誰かの会話。その相手は、警官とか検察官かなと思っていたら、なんとその実体が冷凍室に現れる。いままさに、警官隊が突入せんとしている冷凍室内に、だ。もしかしてジャックの心の中のもうひとつの人格? さらに、生身の人間による絵画風の場面も登場する。有名な絵画を下敷きにしているのか? 
それと、定量殺人の象徴なのか、ヒットラー、収容所の多くの遺体も映される。けど、どういう関係があるのか、よく分からない。ジャック本人がナチを意識しているのか? 意味分からん。で、ジャックとジジイは地獄みたいなところ(『ロード・オブ・ザ・リング』みたい)にいて、冷凍室に戻る橋は壊れている。ジャックは壁を伝って戻ろうとするが、途中で力尽きて溶岩るつぼみたいに所に落下してオシマイ。ジジイは、地獄のことを知っているところから見ると、ジャックの心の中の別人格ではなく、悪魔なのかね。人間にもとる行動をした報い、なのかね。にしては、遅すぎるだろ。もっと早く何とかすれば、犠牲者は増えなかっただろうに。
というわけで、全体を見ればとくに気の利いた教訓もなく、ずるずると人殺しの様子を描いているだけ。とくに不愉快だったのは、2人目に登場する婆さんが絞め殺されるやつかな。一度息を吹き返したのを、再度、絞め殺す。次は、若い女性の乳房を切り取るやつ。うえ。しかも、そのおっぱいを財布にして持ち歩いてるって・・・。殺した子供の表情をつくると言って針金で矯正したり。あと、少年時代のジャックがアヒルの足を鋏で切るところ。・・・悪趣味としか思えない。
この犯罪には、元になる実際の事件があるんだろうか?
・殺害も遺体の移動も、大胆というか無神経というか。警官にも無防備に接触するし、捕まらないのは偶然としか思えないような行動が多い。そのせいで神経症が治ったって?
町田くんの世界6/25MOVIX亀有シアター4監督/石井裕也脚本/石井裕也、片岡翔
allcinemaのあらすじは「物静かでメガネの男子高校生・町田くんは、その見た目に反して勉強が苦手で、しかも見た目どおり運動はまるでダメ。自分ではまったく取り柄がないと思っている町田くんだったが、人が好きで誰に対しても心の底から優しくできるという最強の才能を持っていた。ある日、授業中にケガをした町田くんは、保健室でサボっていた猪原さんと出会う。“人が嫌い”と言い放つ猪原さんのことが気になり始める町田くん。一方の猪原さんも、いつしか町田くんに恋心を抱くようになるのだったが…。」
Twitterへは「不思議キャラの町田くんに周囲が翻弄されて行く…。理屈はさておき、あり得ない映画的ファンタジーも楽しい。とはいえ前田敦子や高畑充希、その他アラサー役者が高校生してるのがブキミではあるんだが。http://www.」
町田くんの細田佳央太17歳、ヒロインの関水渚21歳はいい。女房子持ちの週刊誌記者役池松壮亮29歳も相応。だけどイケメン男の岩田剛典30歳、前田敦子28歳、高畑充希28歳、太賀26歳が高校生やってるのは、どうなんだ。他にもオッサンにしか見えない高校生がいすぎだろ。
とはいえ、妙な魅力もあるのもたしか。こんな理屈に合わない。リフリティのない話は、映画でしかかたちにならないだろう。他人のことしか頭になくて、すべての人を「自分にとって大切な人」と言い切る町田君。そのとき、フツーの人の感情は、ない。自分が相手を“好き”になる、“好かれる”という状況や感情が分からない。もちろん“愛する”と、心がどうなるかも分からない。これって、単なる感情障害ではないか。そういえば町田君は小さい時に井戸に落ち、助けられるときに周囲の人が「よかった、よかった」と言っているのを覚えていて、それから他人のことを思うようになった、だったかな。似たようなこと、かな、を言っていた。それが本当なら、脳の障がいかもね。走るのが異常に遅いのも、そのせいかも。
そんな町田君が、相手のことを強く思うと、なのかな、少年が飛ばしてしまった赤い風船。それを取ってあげようとすると、町田君は空が飛べるようになってしまう。この、すっとぼけた展開は、映画ならではのファンタジー。あの『赤い風船』の影響を受けているのかな。不思議なお話しの展開は。
モデル男の 殴られるのかと思ったら、そうならない不思議。 プール。 『バタ足金魚』『ウォーター・ボーイズ』とか 土屋アンナどこにいた? カメラマン? のようだな。気づかなかった。
監督/●脚本/●
原題は“●”。allcinemaのあらすじは「●」
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