今日も嫌がらせ弁当 | 7/3 | シネ・リーブル池袋シアター1 | 監督/塚本連平 | 脚本/塚本連平 |
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allcinemaのあらすじは「八丈島のシングルマザーかおりは、次女の双葉と2人暮らし。高校生になってからすっかり反抗期となり、話しかけても返事すらしてくれない娘に困り果てたかおりは、いまや母娘の唯一の繋がりとなっているお弁当でコミュニケーションを取ろうと思い立つ。さっそく仕事で忙しいにもかかわらず、娘の嫌がるキャラ弁づくりに奮闘するかおり。一方の双葉は、すっかりクラスの注目の的となった“嫌がらせ弁当”を迷惑がりながらも、一口も残さず食べ続けるのだったが…。」 Twitterへは「思いがけず面白く、ちょっとほろりだった。克服する何か、は足りないけど、暗くならずに楽しく見られたからいいか。」 反抗期の娘に3年間キャラ弁つくりつづけ、和解するという話なんだが。双葉の反抗理由が“思春期”というだけなのは弱い。しかも、「もうつくるな」と怒るわけでもなく、双葉のキャラ弁はクラスメートの関心の的、というのも、あり得ない展開なんだけど、話として面白い。しかも、当初の、芸人ネタ(エレキテル連合、スギちゃん、小島よしお、ゲッツのダンディ坂野とか古い!)に尽きたら、「皿を洗え」とかのメッセージだったり、漢字パズルだったり、これが結構おもしろくて、思わず笑ってしまう。罠にハマった感じかな。 双葉や母親が何か壁にぶち当たり、それを克服する、という必須の話がないのも、ほんとうは弱いはずなんだけど、それがあまり感じられないのも不思議なところ。なんとなく見てしまえる。母親=篠原涼子のキャラと、双葉=芳根京子の、してることはガキなのに、清潔な顔立ち、というのヒキがあるからかな。 サブストーリーとして、都内の、妻を亡くした父と息子・幼稚園生というアナロジーと、ブログ上のコミュニケーションも、押しつけがましくなく見られるからというのもあるのかも。 あと、あまり横道に逸れないのも、正解か。幼なじみ達雄の太鼓の話にずるずる、東京での大会シーン・・・になることもなく。双葉の東京での面接も、あっさり済ませたり、くどくないところもよかったかな。 あと、途中でエンドロールが登場して、これにたいして母親=篠原涼子が「まだ終わりじゃない!」って2度怒鳴ったりするのも、マンガ、映像的で笑える。 夫が交通事故で亡くなってる設定だけど、その場面を出さないのも、嫌な気分にならなくていいし。とにかく、不幸のどん底に落とし、そこから這い上がるんだ的な浪花節にしてないので、見ている方の負担が少ない感じ。 とはいえ、母親が軽度の脳梗塞で倒れるというところは、40歳そこそこで・・・という怖さは多少あるけど。まあ、朝から晩まで働きづめで、そのせい、ということになっているんだろう。まあいい。 とはいえ、母親が毎日6時前に起きて弁当を作っているのは、すごいな、と。昼間の食品工場は、長女と一緒。夜は居酒屋。そして、何かの内職も。八丈島にそんな仕事がたくさんあるのか? 最後、双葉が「東京で働くのはやめる。むかし言ってたみたいに、3人でレストランしよう」という場面があるけど、親子姉妹で八丈島でレストランって、3年でつぶれそうな感じ。 とはいえ、母親は八丈島に残り、相変わらず。双葉は東京で就職。長女は島内でひとりぐらし。ということは、母親は40過ぎでひとり暮らしかよ。と思うと、現実は淋しそう・・・。でも、エンドロールで、ブログで知り合った東京の父・息子が島を訪れ、会う、というシーンがあったので、まあ、そういう展開なのかもしれないが。では、父・息子が八丈島に来るのかな。しらんけど。 冒頭近くで、八丈島の人口とかあらましを観光案内的に説明してくれるのは、とてもいい。アウトラインが、すっ、と頭に入るから。 気になるのは、幼なじみの達雄くんだよな。双葉の失恋が決まったところで、彼の出番はなくなってしまう。果たして、都内で行われた太鼓の大会での成績は? アメリカに渡ったのか? とか、気になるところではある。そのへんも、フォローして欲しかった。たとえば、彼女と別れたよ、とかいうハガキがエアメールでくるとかね。 | ||||
家へ帰ろう | 7/4 | ギンレイホール | 監督/パブロ・ソラルス | 脚本/パブロ・ソラルス |
英文タイトルは“The Last Suit”。allcinemaのあらすじは「アルゼンチン、ブエノスアイレス。子どもたちや孫に囲まれ、家族全員の集合写真に収まる88歳のユダヤ人の仕立屋アブラハム。翌日、彼は老人施設に入ることになっていた。しかしその夜、家族の誰にも告げずに家を出ていく。向かう先は、ホロコーストの忌まわしい記憶から彼が決してその名を口にしようとしない母国ポーランド。アブラハムは、第2次大戦中にユダヤ人である彼を匿ってくれた命の恩人である親友に、最後に仕立てたスーツを届けに行こうとしていたのだった。しかし飛行機でマドリッドに降り立った彼は、そこから列車でポーランドに行くためには、あのドイツを通らなければならないと知る。頑固一徹の彼にとって、ホロコーストを生き延びたユダヤ人の自分が、たとえ一瞬でもドイツの地を踏むなどということは、決して受け入れられることではなかった。いきなり難題に直面し、駅ですっかり途方に暮れるアブラハムだったが…。」 Twitterへは「シンプルな話を盛り上げようと、前半はムダにコメディ要素を盛り込んでる感じ。退屈。フランスに到着してからやっと本論。もっと本筋を掘り下げるべきだろ。文化人類学者のドイツ女性、ポーランドの看護婦が、なかなかいい。」 冒頭、家族写真を撮ろうとして、生意気な孫娘(ひ孫?)におちょくられるアブラハム。娘はiPhone代をせしめようとしてるんだから、時代は現代。だけど、彼は家族によって家を売られ、施設に入れられようとしていて、しかも、足も切断の危機にある、らしい。のだが、このすべてが伏線になっていないのだよ。 彼は旧知の営業する旅行代理店に行くんだけど、入口があやしい。闇? 入ると旧知の相手は不在だったか亡くなったか、娘(孫?)がやってる。というこれらも、伏線になっていない。 で、そこでマドリッド行きの今夜のチケットを入手。ということは、舞台はポルトガルかスペインのどこかなのか? と思っていて、アルゼンチンというのは後々わかった。やれやれ。 飛行機では隣席の青年に意地悪して横になり、でも、到着したら、帰りのチケットを持っていない、というので留められるんだが、あれはどう解決したんだったか。ついでに、隣席青年も留められて、どうもマドリッドに女房子供がいるらしいんだけど、なんでか入国できない、というのをアブラハムが幾ばくかの金を与えて解決、というのは賄賂? よく分からんエピソード。 で、あやしいホテルに入り、団体料金ならいくらになる? みたいな話をして15ユーロで泊まろうとして失敗し、40ユーロで泊まったんだっけか。の受付がすごいババアで。なぜか気が合ってその夜、飯を食べに行くんだったか。でも、返ったら彼の部屋に物取りで、1万4000ユーロ? だったかすっかり盗まれ、仕方がなくマドリッドに住む娘のところに行く羽目になるんだけど、些細なことで仲違いしてるらしく、行きたがらない。それをババアが説得し、隣席青年がクルマで送ってくれて、会ったら40凸凹な感じ。その娘も顔を見せる。 でだ。あとからアブラハムは1927年生まれって分かって。ということは彼は89歳ぐらい。その孫が10歳ぐらい? ひ孫かやしゃごじゃなきゃ、合わないだろ。 あともうひとつ。マドリッドの娘の腕に、収容所の番号が刺青されてたんだが、どういう意味だ? 錯覚か、イメージ? なわけで、金は借りた、らしい。この娘との仲違いも、よく分からず。これらも伏線にはなっていない。 てなわけで列車の人になるんだが、不明な服をぶら下げている。一切説明なし。これが、もやもや。さてパリ到着。このあたりは、あっさり、な感じ。で、ここからポーランドへ行くのに、ドイツを通りたくない、らしい。駅員に話すが言葉が通じない、ということなんて、あるか? たまたま近くにいた女性が助け船で、世話をしようとするが、彼女がドイツ人と分かると顔色が・・・。そこまでドイツが嫌いか。とはいえ、このあたりでやっと、ポーランドには行きたいけれどドイツが嫌い、という映画の芯がやっとみえてきて。それまでムダなだらだらだったのが、少ししまってきた感じ。だって、それまでの話は伏線にもなってないんだもん。 列車がムリなら飛行機敷かない、なら、足を地面につけなければいい、というアホな考えで、乗り換えの時ホームに降りるにも、衣服をホームに敷いて歩くというバカかよお前的なことをしたのが、いざ、次の列車に乗るのに、靴でホームを歩いたりする。まあ、精神状態がそういうこと、なんだろうけど、ムダに誇張しすぎな気もする。列車の中で、ドアを開けたらドイツ兵だらけでビビるという場面もあったけど、こういうのは分かるんだよね、映画的表現として。 でも、緊張しすぎてなのかなんなのか倒れてしまい、気がつくとポーランドの病院で。それまで、どうやって連れてこられたかは描かない。ドイツ女性が世話したのかな。で、担当看護婦に、どこそこに連れてってくれ、と不躾にも頼んだりする。病院から遠いのか、しぶしぶ顔だったけど、次の場面では2人は看護婦の運転するクルマにいる。とはいえ、入院期間は何日で、足のリハビリはどうした、金はどうなった、なんだけど、そのあたりはお構いなし。 これまでも、ポーランドの様子はいくつか描かれてはいる。冒頭のジプシー音楽、少女、少年。足を引きずる青年、家に辿り着くが、家主に追い返されそうになる。が、息子が家主の父親を殴り倒し、地下室に連れていく・・・。父親は、その青年=アブラハムの父親に世話になっていた、らしい。というようなアバウトなことだが。 どうもアブラハムの父親はポーランドの街で店を開いていて。多分、仕立屋なんだろう。青年の父親は使用人で、青年とともに地下室に暮らしていた。同年代の2人は、仲好しだったらしい。ドイツ軍が侵攻し、家族は、たぶん収容所へ。妹も、12歳に足りなかったから? 過ぎていたから、ガス室だったのか? 本人は強制労働か。でもソ連軍によって解放され、アブラハムは脱出し、家に戻ってきた。ところが、家は使用人が占拠していた・・・。ということらしい。 かつての家のドアを叩くが反応なし。ではと、地下室へ向かう。看護婦が階段を降りていく。ふとアブラハムが、建物の1階の窓を覗くと…。相手も気づいて、出てくる。という場面は、分かっていてもピリビリきたよ。アブラハムは「君がつくった青いスーツだ」といって(だったかな。アブラハムがつくったんだっけか? 忘れた。)、今は老いた青年に見せ、老青年はアブラハムを家に迎える。そっと場を離れる看護婦。というわけで、このシーンだけのためにすべてはあったのか? でも、前半はムダが多すぎ。 そもそもスーツはなんなんだよ。というか、原題が“The Last Suit”なのに、邦題が『家へ帰ろう』で、そこに注目が行かない。というか、そもそもの2人の関係とか、青年がアブラハムを助けて以降の経緯がないので、アブラハムはいつまで地下室にいて、いつ、なぜアルゼンチンに行ったのかもよく分からない。アルゼンチンに叔母だったか、知り合いがいたとはチラといってたけど。アブラハムを助けた青年は、父親と仲違いして、それからどうなったのか。とか、気になるよな。あのスーツにしても、なんでそんなにこだわったのか、よく分からんし。あれこれとっ散らかしてほとんど回収してない。もっとスーツや、青年の家族にスポットを当てた話にすればよかったのに。戦後、もとから住んでいたユダヤ人に、家は戻されなかったのか、とか、気になってしまう。 | ||||
新聞記者 | 7/8 | MOVIX亀有シアター2 | 監督/藤井道人 | 脚本/詩森ろば、高石明彦、藤井道人 |
allcinemaのあらすじは「日本人の父と韓国人の母のもとアメリカで育った東都新聞社会部の若手記者・吉岡エリカは、記者会見でただ一人鋭い質問を繰り返し、官邸への遠慮が蔓延する記者クラブの中で厄介者扱いされるばかりか、社内でも異端視されていた。そんなある日、社会部に大学新設計画に関する極秘情報が記された匿名FAXが届き、吉岡は上司の陣野から調査を任される。やがて内閣府の神崎という人物が浮上してくるが、その矢先、当の神崎が自殺してしまう。神崎の死に疑問を抱いた吉岡は、やがて同じようにかつての上司であった神崎の死に疑問を持つ内閣情報調査室(内調)の若手エリート、杉原拓海と巡り会うのだったが…。」 Twitterへは「ここ数年の安倍関連疑惑を背景に、最後に取って付けたような大陰謀。リベラルが喜びそうな展開だけど、疑惑はほぼ生のまま。ほとんど知ってることだらけで新事実もない。映画的に練れてないし、ドラマになってない。」「記者の父や官僚がなぜ“そう”したのか理由が分からん。内閣調査室も絵に描いたような悪人。松坂くん家はタワマンで上司も立派な一戸建て。二人が飲むのは高そうな料亭。戒名は院号。FAXも電話も、発信元バレまくりだろ。ほかにもツッコミどころ満載。」 文科省・前川喜平が陥れられた、のと同じような事件。伊藤詩織さんの事件を握りつぶした、のと同じような事件。森友・加計問題、と同じような事件が次々と発生し、そのうち加計学園の獣医学部新設にそっくりな話が中心になり、新設の目的が生物兵器の開発ができる研究施設をつくるため、だった、という流れになる。これを、女性記者吉岡が追う。外務省から内閣調査室に出向中の杉原は、知らぬ間に自身も大学新設に加担していて、さらに、上司もこの問題で自死するにいたり、告発する側に回る、のだが・・・。というような流れで、前半はネットでみるネトウヨとリベラルの争いそのものなので、新鮮味もなく退屈。後半の特区での大学新設話は、トンデモな感じ。安倍疑惑を注視しているリベラルの方々は「そうそう」と憤りとともに力こぶ握りしめる話なんだろうけど、そういう話をするならドキュメンタリーにすればいいじゃないか、と思ってしまう。 記者吉岡は米国の生まれ、育ち、という設定。だから日本語がたどたどしいのか、と思ったら母親が韓国人だという。それで日本語が変なの? 理屈に合わないな。で、父親も新聞記者で、かつての誤報で自死、だとか。吉岡の号泣シーンがあるけど、クサイ演出かな。で、この自死と、杉原の上司、神崎の自死が重なるという寸法。 この神崎は、新大学新設案件を進めるよう言われていて、でも、生物兵器が目的を知って、企画書を新聞社にFAXした、らしい。なんでも5年ぐらい前にも何か(忘れた)を責任を一人で背負い、陰の人に。で、またまた、このような仕事を押しつけられ、悩んでいた、らしい。それが告発後、自死するのは理由がよく分からない。告発者であることが特定されたから? そういえば、この神崎は、加計学園の公文書偽造問題で自死した官僚をモデルにしている、のかもだけど、たんに責任感がどーのという話しかね。説得力は薄い。 杉原は、純な人らしい。外務相時代はよかった、と神崎と懐かしみ、現在の、内調でのフェイクニュース拡散の仕事に疑問、な毎日。なんだけど、内調の職員みずからPCでTwitterにデマを書き込んでるのかい? という疑問も感じてしまう。この内調の、杉原の上司・多田が、マンガみたいに冷徹で無表情。神崎の自死も自分のせいなのに感情が動かず、ラスト近くでは吉岡にデスクの電話から直接電話し「あなたのお父さんは誤報ではなかった」などと、脅しのようにいうのも、漫画チックすぎ。内調の職員は、みんなこんな感情のない悪魔みたいな連中なのか? 疑問をもつのは、出向してきた杉原ぐらい、なのか? なんか、話が薄っぺらい。 ここまで人物が記号的だと、どこにも感情移入できなくなる。そもそも、映画の背景も現実のモロ引き写しで、映画として作り込まれていない。政府の狙いが、生物兵器が開発できる研究所でも構わんが、そこへ向かう話づくりが必要なんじゃないのかね。たとえば、外敵のリスク、疑問をもつ研究者、731部隊の亡霊、なんてのも背景に登場させるとか。物語性が足りなすぎる。 先にも書いたけど、神崎の自死の理由も、弱すぎる。吉岡の父親の自死の理由も、よく分からない。内調の圧力があってなのか。それとも、個人の問題なのか。そもそも、内調はどこまで把握しているのか、もよく分からない。吉岡と神崎が佃島へ向かう橋の上で密会するんだが、2人がつながっているのを多田はつかんでいたよな。なのに、大学新設と生物兵器の記事が出た後、多田は杉原に「お前じゃないだろうな」と言うのは、杉原が告発者であることを知らないと言うことなのか? 知ってて言ってるんだよな。多田は「外務省に戻りたいか。だったら、今持ってる情報はすべて忘れろ」と言うんだが。これは、お前の告発は知っている。これ以上やめておけ。そうすれば外務省に戻してやる。ということなんだろうけど、そんな場合か? 多田もあんな記事が出て、自分の首が危ないだろ。そもそも、神崎の件を知らされずにいた杉原が、多田にあれこれ仕事を任せられていたのも、変な感じ。多田は、杉原はヤバイやつ、と感じなかったのか? 杉原が大学新設の企画書を盗む場面も、杜撰すぎ。都築という同僚、かと思っていたら個室にいるからもっと偉いのか。の部屋を訪れ、デスクの引き出しからファイルをみつけ、写メるのだ。げえ。受付を通して入ってるんだから、バレバレだろ。その行為も西岡との連携で、企画書は西岡の先輩記者のもとへ。3人集まって、記事にしよう、で印刷されるのだけれど、ここで内閣から新聞社に圧力で白いまま発売されるのかなと思ったらそうならず。むしろ、読売・朝日・毎日も追従するという。なんか、肩すかし。それより、あんな記事を一面にするのに、社会部のデスク(なのか?)の一存で決められるのか? 記事が出た後、内閣は「誤報だ」と言い訳するだろう、その場合は自分の名前を出していい、と杉原は言う。けれど、多田に外務省復帰をほのめかされ、心変わり。国会裏で吉岡に、遠くから「ごめん」という場面で終わっている。名前を出すのはダメ、ということだろう。純な杉原も、腰砕け、ということか。でも、大学新設がポシャるような記事の告発者が、そうそう生き残れるはずはないだろ。まあ、杉原も神崎と同じ道を進むだろう、というニュアンスか。 でも、告発後に自死の神崎、誤報後に自死の吉岡の父。ともに、弱い人間だった、ということなのか。圧力があった、とのほのめかしもなく、なんかいまいち怖さが足りない感じかな。 というわけで、過去の記事のつぎはぎに、純な官僚と真摯な記者を追加し、トンデモ案件をひっつけたバタバタ感は否めず。内調の闇も凄みがないし、官僚の悲哀もいまいちつたわってこず。そもそも、新聞社の体制とか、官庁の関係も分かりづらい。たとえば杉原と都築が食堂で出会う場面。都築は「神崎の仕事を引きついでる。神崎を追っていたのは内調だろ?」といわれ、杉原が「?」となる場面。あれは、どこの食堂なのだ? どこかの合同庁舎? ・冒頭の、全国一律同じ扱いで、文科省官僚の記事が出るのは、東都新聞の地方版が、ということなのか? 全国紙、地方紙、すべてが、ということなのか? ・杉原は、神崎からの手紙を後から発見するんだけど。神崎が、自分が告発した、というようなことを後輩に、証拠が残るカタチで伝えるというのは、ないだろ。 ・その杉原の妻の帝王切開は、内調の仕掛けかと思っていたらそうではなく、たんに杉原のサポートが足りなかっただけ、というような感じで拍子抜け。 ・その杉原は佃島のタワマン暮らし。若手の官僚でもそんな暮らしができるのか。神崎も、立派な一戸建てで。しかも、戒名が院号。もともと資産家なのか知らんが。 ・いっぽうの吉岡は、狭く照明の暗いアパートで深夜までPCでSNSにアクセス。陰気だな。というか、新聞記者は高給取りなんじゃ亡いのか。 ・新聞社内の場面がカメラブレブレ。迫力だそうとしてるのかも知れないが、あれは酔うよ。 ・原案の望月衣塑子、前川喜平らが登場するYouTubeがしきりに登場するのは、なんだかな。 | ||||
ローラ | 7/9 | ブルースタジオ | 監督/ライナー・ベルナー・ファスビンダー | 脚本/ライナー・ベルナー・ファスビンダー、ペア・フレーリッヒ、ペーター・メルテシャイマー |
1981年製作西ドイツ映画。原題は“Lola”。Movie Walkerのあらすじは「終戦から10年ほど経ち、市場経済が急速に活気づく西ドイツのある都市に、新任の建設局長フォン・ボーム(アーミン・ミューラー=スタール)がやって来る。彼は娼婦のローラ(バルバラ・スコヴァ)に心を奪われるが、彼女は建設会社の経営者シュッケルト(マリオ・アドルフ)の愛人だった……。」 Twitterへは「いい話だ、で終わるかと思ったら、なんとしたたかなローラ! 話自体はなかなか面白い。でもライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは脚本・演出が下手なので、ムダに饒舌だったり意味不明なところが多く、前半はそこそこ退屈だった。」 1981年製作だけどそれ以上に古くさく見える。フィルムの状態は悪く、全体に赤味を帯びて雨も降っている。つなぎもときどき飛んだり。 この人の映画はヒキで全体を見せたり風景を感じさせるところがなく、この映画も概ねヨリ気味。話も、背景を何気で分からせるということもなく、いきなり部屋での男女の会話から入る。男は詩を読み、女はなんだかな、な顔をしている。その後のトイレのシーンで、さっきの男は建設局の職員エスリンと分かる。ほかにヒゲのおっさん。この後もしばらく娼館の経営者?と考えていたけど、建設会社の経営者シュッケルトだった。そこに、市長が顔を見せる。ここはどこ? 雰囲気的には娼館だけど、わいわい男たちが飲んでたり。よく分からないまま。まあ、ドイツ人ならすぐ分かるのかも知れないけど。 で、前任の建設局長が亡くなり、そこに新任のフォンがやってきた。45歳という設定だけど、ハゲてるしオッサンだし、どーみても50半ばなのがおかしい。で、全体会議をすると、そこに警察署長やシュッケルト、おしゃべりな秘書、エスリンなんかも参加していて、よく分からん。なんかプロジェクトが進行しているのか? このあたり、ちゃんとした説明もなくいきなり始まってどんどん進んでいくので、概要つかめず。昼食後で少し眠かったのもあって、うつらうつら。フォンのところにローラから好意的な電話がかかってきて、すこし動揺したシーンはなんとなく覚えてるんだが、しばらく沈没。どうやら2人はつき合うようになり、ピクニックみたいなのにでかけ雨に降られたり、フォンはプレゼントに指輪を買ったりしていた。てなあたりで、少し流れが分かってきた。 なぜローラがフォンにアプローチしたのか。そこを見逃してる(寝てた)のが少しくやしい。けどまあ、娼婦が世間知らずのフォンを手玉にとり、無垢な女の振りをしていたんだけど、あるときエスリンだったかな、がフォンを娼館に連れていく。おどおど、なフォン。というところに、歌い手として登場したローラ。愕然、のフォン。という図式だ。これでフォンは、いままで進行していたプロジェクトの認可を取り消してしまう。あわてるシュッケルトら街の権力者の面々。フォンはシュッケルトの悪事を新聞記者にあれこれ述べるが、記者は「利権は独占されず、末端まで波及する。そもそも違法行為ではない」てな反論をする。それでもフォンは秘書に3年分の書類から、関連する人物を洗い出すよう命じる。 職場な泊まり込んで乱れた毎日のフォンを、エスリンが再び娼館に連れてったんだったかな。ローラはシュッケルトの専用娼婦だったけれど、フォンが入れ込んでいるのを知り、シュッケルトは2階に上がるよう奨める。フォンはローラにエロ下着を着けるよう求め、その膝に泣き崩れる・・・。そこでいたしたのかどうかは、描かれていないけど、したんだろう。多分。 フォンは、一大決心。なんとローラを嫁にすることにする。これでローラも上流階級、てな場面もあって、娼婦でも毛嫌いされない社会だったのか、と少し驚き。そして、なかなかいい話だな、と思ったのだが、これをきっかけにプロジェクトは再スタート。どうやら大きな団地が作られるらしい。 さて結婚式。ほぼ終わって、ローラはフォンに「ちょっと用事があるから」って、花嫁姿で赤いスポーツカー。行った先は、シュッケルトが用意した一戸建てで、手にしたのは娼館の権利書とローラの娘が21歳まで面倒みるという証明書(だったかな。これ、よく分からず)。で、さて一発やりますか、なところで終わるのだ。げ。ローラ。したたかすぎる! という、生真面目な官僚、翻弄される街の面々、官僚を手玉に取る娼婦、というお話しだった。これが、1960年前後の西ドイツを舞台にして繰り広げられる。もう少し背景がわかり、展開も自然に表現されたら、もっと面白くなるだろうに、と思った。 ローラの母親は、フォンの家政婦になる。経緯は分からないけど。ローラには7、8歳の娘がいて、父親は誰なんだ? ローラがフォンにアプローチするのは、母の入れ知恵? 知らんけど。でも、狭い町で、ローラが娼婦とみな知ってるのではないの? それがフォンと堂々とデートしたり。上手く結婚できたら、今の生活から抜け出せる、と思っていたのか? いや、実際、フォンと結婚してすぐ、街の名士の奥様方と話していたりして、そういう成り上がりが可能だったのかな。 ローラはシュッケルトの専用? なのにエスリンとも部屋にいたりして。あのあたり、よく分からない。他の客を取らなくてもOK、というぐらいシュッケルトが出していた、ということかな。 ローラは、娼館の経営者になりたがってた。シュッケルトにねだってたかな。そんな場面もあったような。それほど儲かる商売なのか。しかも、当時から合法・・・。なのに、フォンがそういう世界を知らないというのも、不思議。しかも45歳まで独身? エスリンの立ち位置が面白い。役人なのに、デモ活動も積極的。夜は娼館でドラマー。詩を読み、バクーニンがどうたらと言っていた。名前だけは知ってるけど、調べたら、アナキストらしい。へー。 フォンの秘書の痩せたおばちゃんが笑いどころ。どうもフォンにぞっこんらしい。存在としては浮いてるけど。 フォンが、シュッケルト夫妻や市長夫妻(もいたかな)なんかを自宅に招き、食事会、の場面も不思議。フォンは女中であるローラの母をテーブルにつかせ、彼女の田舎の料理を供する。それにシュッケルト妻は「どこの料理? 胃がもたれて食べられないわ。女中も一緒に食べるなんて」って、露骨に口にするんだけど、あれは、田舎名士の意識を伝えたかったのかね。 西ドイツの復興期が舞台で、いろいろあったんだろう。日本にも似たような時代、話、映画もあったと思う。面白かったのは、フォンの住む家に、進駐軍兵士が住んでいることで。これが黒人兵で、娼館に入り浸り、という設定。示唆的だけど、記号的でもあるな。 | ||||
COLD WAR あの歌、2つの心 | 7/11 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1 | 監督/パヴェウ・パヴリコフスキ | 脚本/パヴェウ・パヴリコフスキ、ヤヌシュ・グロワツキ |
ポーランド/イギリス/フランス映画。原題は“Zimna wojna”。英文タイトルは“Cold War”。allcinemaのあらすじは「1949年、共産主義政権下のポーランド。音楽舞踊団を結成したピアニストのヴィクトルは、養成所のオーディションに応募してきた歌手志望のズーラに興味を抱き、やがて激しい恋に落ちる。しかし当局の監視を受けるようになったヴィクトルは西側への亡命を決意、ズーラにも決断を迫るが、結局2人は離ればなれに。数年後、パリで暮らしていたヴィクトルは、舞踊団の花形スターとしてパリ公演にやって来たズーラと再会を果たすのだったが…。」 Twitterへは「気ままな娘と翻弄されるおっさん。そんな好きなら一緒にいりゃいいだろうに。よく分からん。つなぎもざっくり省略。ラストも、なんで? な感じ。なれど、どのシーンも切り取って額に入れていいような構成美。白黒スタンダード。」 終戦直後のポーランド。男女が民族音楽の収録で全国を行脚してる。そういう話かと思ったら、全国から集められた青少年による歌唱団の話になる。選考員は、カチマレクとオバサン教師だったと思う。そ生徒の一人がズーラで、教師のひとりヴィクトルと恋仲になり、やりまくってる。とはいえ、ヴィクトルはとくに画面にフィーチャーされてなかったので、いつ、どういうふうに、が分からない。 さて、歌唱団の成果が次第に認められ、東ベルリンで興行。ヴィクトルは「逃げよう。検問所の近くで待ってる」っていうんだけど、ズーラはすっぽかし。ヴィクトルだけが西側に。2年後、ヴィクトルはパリでジャズピアニストとして活躍してる。と思ったら、ズーラが会いにやってくる。このときは、歌唱団のバリ公演だったのかな。どうやって連絡を取り合ったかとらんけど、あるバーを待ちあわせ場所にしてた。ともに、「つき合ってる相手はいる」というようなことを言ってたかな。でも、別れ際に、ズーラから熱いキス・・・。 このあとに歌唱団のユーゴスラビア公演をヴイクトルが見に行く、だっけか? かつての同僚カチマレクがヴイクトルを発見。やあ、ひさしぶり、なんて感じだったんだけど、客席に秘密警察みたいのが何人かやってきて、ヴィクトルは連行されてしまう。「会わなきゃ行けない女がいる」「大丈夫だ、○○経由でパリに戻れる」とかいいつつ、別の仲間が待ち受ける列車に乗せられてしまう・・・。「○○は東のパリだ」なんて言うところをみると、ポーランドに送られたのか。 どうなったんだ、と思ったら、次の場面では相変わらずバリでピアニストで。恐怖映画の音入れの最中。ということはスパイにさせられたのか。というところにズーラが訪ねて来る。シチリア人と結婚し、合法的にポーランドから出国したらしい。だけど、以後、その旦那が登場することもなく、さっさと2人は抱き合って同棲している様子。得体が知れない。いつのまにかズーラは歌手として働きはじめ、かつてヴィクトルがつき合っていた詩人の女性が作詞した曲でレコードデビューするんだが、彼女はその詞がずっと気に入らず、できたレコードにも興味がない様子。どころか、ヴィクトルの知り合いでプロデューサーみたいなことをしてる(?)ミシェルといい仲になったのかな。 ヴイクトルが業界の連中とつき合ったりしてるのが気に入らないのか、いつもふて腐れてる。そのままクラブみたいなところに行ったらロック・アラウンド・ザ・クロックが鳴り始め、知らん男たちと踊りまくり酔っ払いまくり。そんなズーラを抱きかかえてもどると、「あんたはダメな男だ。ミシェルなんかひと晩に6回も・・・」なんて言ったりする。 と思ったら、突然、ズーラが消えてしまう。ヴイクトルがミシェルの所に押しかけると、彼は別の女といいところで。「ズーラは国に帰った」と。おやまあ。ズーラの気まぐれさはなんなんだ? この世のジャズプレーがおかしくて、ひとりピアノを乱れて弾きまくりで、サックスの2人が呆れてみていた。 と思ったら、次の場面ではズーラがえっさえっさと廃鉱みたいなところを歩いていて、なんだ? と思っていたら、収容所で。そこにヴィクトルが収容されている。スパイとして2つの国を行き来して、15年だかなんだかの刑だとかいってたかな。でも、何があったかまったく分からない。 でまつ次の場面はポーランドのどこかで歌唱団の屋外公演で、ヴイクトルが見にきている。カチマレクがいて、「パリでつくったレコードはよかった」とか言っている。カチマレクは子供を抱いていて、どうやらズーラとの子供らしい。歌唱が終わったズーラが舞台から降りて近づいてきて、カチマレクと子供を無視してズーラと抱き合う。なんだこれ。 次の場面は、ヴィクトルとズーラがどこかに向かう場面。2人とも年老いて疲れている。田舎の十字路でバスを降り、かつてヴイクトルが訪れた廃教会に行き、2人だけの結婚式。終わると、薬を飲む。なんと心中かよ。の次の場面は、ベンチに座る2人。「あっち側へ行こう」とか言っているから、三途の川を渡るということか。で、オシマイなんだが。よく分からんな。 そもそも「COLD WAR」って何なんだ? 米ソの冷戦と、どういう関係があるの? ポーランドは東側だけど、ソ連の支配下であって、アメリカと敵対しているわけじゃなかろうに。 だいたい2人がそんなに愛し合っていたなら、ズーラは一緒に西側に行きゃあよかったじゃないか。後から「言葉もしゃべれないし、自信がなかった」とかいうのも、なんかね。さらに、シチリア人と結婚ってなんだよ。そんな状態で、なんでヴィクトルとずるずるになるのか。しかもジャズはお気に召さない様子で。あてつけがましく他の男と寝て、揚げ句はポーランドに帰ってしまう。録音した曲も詞も、お気に召さないのはなんでなの? 帰国して、カチマレクと結婚し、子供までなすのは、どういう心境? 冷戦とか東西に翻弄されている様子は少しもなく、ズーラに翻弄されてるヴィクトルがあるだけ、にしか見えない。 時の経緯、そこで何があったか、も大胆に省略している。べつにそういう手法は悪くない。けれど、見る側が納得のいくかたちでやってくれないと、困るよな。 ※あとからWebの感想を見たら、ポーランドの民謡の歌詞を詩人が訳し、それに納得がいかないまま歌うのが意に沿わなくて云々というようなこととか、その民謡を歌う場面が2度あるとか書いてあったのがあって。でも、そのあたり、フツーに見ていて、そんな気づかせるような描写ではなかったよね。「Rが多くて不自然」とか「振り子時計」がどうたらというのは覚えているけど、それと民謡と、ズーラノ思いみたいなのは、すんなり重ならない。むしろ、「母親と間違ってのしかかってきた父親を刺して執行猶予中」というわりにふてぶてしいというか、じゃあなんでそんなポーランドに思いがあるのか、ということに首をひねってしまう。 ・エディット・ピアフは売春窟、というような話がでてきて。しらべたら、本人が娼婦、ではなく、母親が娼館を経営していた、ということなのね。 ・ズーラ役のヨアンナ・クーリクは、「Born 24 June 1982 (age 37)」だと。ひぇー。素朴な娘役から、豊満な女まで演じていたけど・・・。 ・とはいえ、白黒画面は非常に美しい。プリントして飾りたいようなシーンが全編つづく。 | ||||
Girl/ガール | 7/16 | 新宿武蔵野館1 | 監督/ルーカス・ドン | 脚本/ルーカス・ドン、アンジェロ・タイセンス |
ベルギー映画。原題は“Girl”。allcinemaのあらすじは「15歳のララの夢はバレリーナになること。晴れて難関のバレエ学校への編入が認められたララだったが、ある大きな悩みを抱えていた。実は彼女はトランスジェンダーで、男性の体であることの違和感とコンプレックスに苦しんでいたのだった。それでも理解ある父に支えられ、周囲の好奇の目にも負けずに、厳しいレッスンに打ち込んでいくララ。しかし待望のホルモン療法が始まりはしたものの、期待していたような成果が見られず、次第に焦りを募らせていく。しかも本格的な性別適合手術は18歳になるまで待たなければならないという現実が、ますますララの心を不安定にさせてしまうのだったが…。」 Twitterへは「“彼女”の気持ちが分かるわけではないので同情も共感もムリ。はたからの感想は、いたたまれない、に尽きる。周囲に理解者は多いのに、寡黙すぎて意固地で。多くを求めすぎな気がしてしまう。課題は、自分の中の折り合い、なのかね。」 家の中ではフランス語、学校はドイツ語みたいで、英語もまじる。フランス映画だろ、と思っていたら、ベルギーだと。へー。で、トランスジェンダーなのかな。外見は男で性器もついていて、でも心は女性。ホルモン療法を継続中で、性転換手術の準備中、という設定。15歳なのか。17、8歳かと思ってたよ。同級生の女の子、けっこう胸が大きい子、多かったし。 ↑のあらすじでは「性別適合手術は18歳になるまで待たなければならない」と書いてるけど、そんな説明あったかな? 気づかなかった。驚くのは、父親はララを理解していて、バレエ学校への編入も全面的に支援してるということ。へー、な感じ。病院にもついていき、ホルモン療法や性転換手術の説明も一緒に訊いている。どんだけ理解があるんだ。 さらに、バレエ学校もララの存在を受け入れ、生徒にも明らかにしている。だから、あからさまな偏見や差別は、ない。教師も区別せず接し、とくにオバサン教師は個人レッスンみたいに指導してくれている。後半、ララは寮に入ったらしい(※じゃなくて、お泊まり会だったらしい。そんな説明あったか?)んだけど、そこで同級生の女の子に「私たちの裸を見てるんだから、あんたのも見せてよ」ってからかわれて、ララは嫌だというんだけど、しつこく言われて嫌々見せる、というところが露骨な差別かも知れない。でも、暴力は、ない。ちょっと暴力的かなと思ったのは、プールの授業で、水中で頭を押さえつけられたりしてるのかな、と思えるところがちょっとある程度。むしろ、いたって周囲は寛容で、おおらか。表だっての嫌悪感はない。ってことは、ベルギーはLGBTに関して、進んでる、ってことなんだろう。 ララの悩みは、なかなか女性体型にならないこと。なので勝手にホルモン剤を多く飲んだり、多く処方してくれ、と医師に言うけど、断られる。まあ、心が焦ってるみたい。それと、つま先が毎日、血だらけになること。そのせいで回転が上手くできない。とはいえ、それはしょうがないだろうと思うんだけど、その葛藤ばかりが描かれるので、ちょっとウンザリしてくる。 さらに、食欲不振で体重が減り、「手術に耐えられないので、延期しよう」なんて言われてしまう。なので、18歳になるまで・・・」とは思わなかったよ。それがホルモン剤のせい、とも描かれてないので、本人の技術の問題なのか、そこのところがよく分からない。 だとしても、女子バレエの特訓を受けつつホルモン療法をつづけ、近々性転換手術というのは、あれもこれも欲張りすぎてないか? と思えてくる。肉体的に耐えられるものから順番にやればいいじゃないか、と。あるいは、バレエは女子スタイルではなく、とりあえず男側で練習するとか、それはダメなのか? はたまた手術の後でバレエに集中するとか。いや、もちろん幼い時からやらないとダメなのは分かるけど、肉体的・精神的にムリなら、できることからするしかないじゃないか、と思ってしまう。 なので、後半、ハードな練習中に倒れ、家に連れ戻されてしまうところでは、少しほっとした。見ていられなかったからね。それでも学校に行きたいララ。でも閉じ込められ、揚げ句、自ら救急車を呼んだ、と思ったら、なんと、ハサミでペニスをちょん切ってしまうと言う! おお。見てらんねえよ。そんなことしたら、膣を形成する素材がなくなっちゃうじゃん! それでも回復し、長かった髪を切り、自信満々に街を歩くララ、で映画は終わるんだが。何の解決にもなってないよなあ。いいのか、これで? 悩みのチンポはなくなっても、バレエの夢はなくなったんだろう? もしかしてラストシーンのララは性転換手術を受けた後なのか? 知らんけど、それで心の折り合いはついたのか? なんか、周囲はおいてきぼりというか、翻弄されてるだけだよなあ。 ・勃起=朝起ちしてるのがチラと映るけど、どういう感覚なのかよく分からず。出したくなるのか? ・エレベーターで会う同じ建物に住む青年に惚れて、手紙の誤配達を口実に訪問し、家に入り・・・。2度目は、鍵を無くした、を口実に入り込み、自分からキスし、胸を触られそうになるとそっと払い、なーんと、青年のパンツを下ろしてフェラかよ。青年はイク寸前に止めて、自分でこすって果てる、という場面があるのだが。そういうことは知っているのか、ララは。もしかして初めてではないとか? 知らんけど。青年も謎で、ひとり暮らし。なにして暮らしてるんだ? ララは、口で精液を受けるつもりだったのか? 青年は、ララへの配慮で最後は自分で? ・母親がいない設定、というのは、死別か離婚か。意味深。父親はタクシー運転手? それでララの学校のために転居し、高そうなマンションに住み、バレエ学校に行かせ、恋人といそいそ、な感じだったり。そんな高給取りなのか? ・毎朝チンポをテープを貼って小さくしてる。肌は真っ赤。父親も、医師も「やめろ」というのに、やめない。そうしたいのかもしれないけど、カラダによくないのは自明。というか、何時間オシッコを我慢するんだ? テープを剥がすのは、あれ、家に戻ってからだろ? 8時間ぐらい我慢するのか? ぎょえー! ・つま先が血だらけなのは、ホルモン療法と関係があるのか? ・家に閉じ込められてしまう場面で、家のドアに内側から鍵を閉めている。ああいう仕様はフツーなのか? | ||||
ビール・ストリートの恋人たち | 7/17 | ギンレイホール | 監督/バリー・ジェンキンズ | 脚本/バリー・ジェンキンズ |
原題は“If Beale Street Could Talk”で、邦題とはエライ違い。allcinemaのあらすじは「1970年代のニューヨーク。19歳の黒人女性ティッシュは幼なじみのファニーと恋人同士。ところがある日、白人警官の怒りを買ってしまったファニーは、強姦の罪をでっち上げられ留置所送りとなってしまう。その直後、ファニーの子をお腹に授かったことが判明したティッシュ。留置所のファニーに妊娠の事実を伝えるとともに、子どもが生まれてくるまでに自由の身にしてあげると誓う。そして母のシャロンをはじめ家族や周囲の人たちの協力を得ながら、無実の証明に奔走していくティッシュだったが…。」 Twitterへは「題名はロマンスだけど中味は大違い。語り継がれるべきテーマなんだろうけど、設定は類型的で巡査も記号的。おどろおどろしい音楽、じらす展開は胃に悪い。もっとドラスティックでもいいと思うんだが。」「この手の話も、いまや過去に題材を求めないとつくれなくなっている感じ。」 若い黒人カップルの恋物語、がひとつの軸。それが、黒人だったら誰でもいい、という感じでレイプ犯にされてしまったファニーと、引き裂かれた妻ティッシュ、解決のために奔走するティッシュの母親、という話がからんでくる。甘く切ない話に、黒人嫌いの白人警官、黒人差別の司法が壁となり・・・。なんだけど、現在と過去の時制が交互になっているので、恋人同士のシーンにも、これがいずれ・・・という気持ちが入ってモヤモヤしてしまう。それが狙いなのかも知れないけど、見ていて嫌な気分になってくる。後半は、早く終われ、という気分で見ていた。 途中で、画面ががらりと変わり、これまで登場しなかった女性が映され、その後は早口のナレーションとカット割りで、レイプ事件の経緯を紹介するんだけど、え? え? え? な感じで、なにがなんだかよく分からなかった。あれはまずいだろ。 で、どうケリをつけるのか、なんだけど、結局、被害者は証言を変えず、ファニーは収監され、5歳ぐらいになった息子を連れて刑務所を訪問している、というシーンで終わる。もやもやは、解消されない。ところで、あのとき息子が描いていた絵はなんなんだ? ティッシュは「私が話したせいで、いつもこれなの」と言っていて、ファニーは苦々しく見ていたんだが。気になる。 1970年代はそういう時代だったんだ。忘れるな! ということなんだろうけど、好き好んで見たい映画には入らないと思う。実際、この日の2本立ては『マイ・ブックショップ』だったし。でも、こっちもモヤモヤは肥大するだけど、ちっともスッキリしなかったんだが。 ラブストーリーと犯罪ドラマを平行で描かず、前半と後半に分けてくれた方が良かったな、個人的には。とくに、ラブストーリーはだらだら描写が多くて中味がない。短くまとめて、黒人差別の輪郭がはっきりした映画にしてもらった方が、感情移入できたかも。 もうひとつ、この映画には切り口があって、それは信仰だ。ファニーの母親はどうも宗教活動に熱心で、息子がこんなことになったのはティッシュのせいだ。ティッシュは息子をたらし込んだ悪魔だ、みたいに見ている。この側面をもっと深掘りするのかと思いきや、さにあらずで。後半、この母親は一切登場しない。もちろんファニーとティッシュ、ティッシュの母親も神を信じていて、これはフツーのレベルなのかな。ことあるごとに、神よ、的なことをつぶやいている。こんな真面目に生きているのに、どうして! ということなんだろう。エンディングソングも、ゴスペル風だった。だからなのか、司法や警察の状況に切り込むことはしない。組織というより、個人の心に問いかけている感じ。 白人はやなやつ、という描写が露骨に強調されていて、むしろ悪意が感じられる。白人嫌いな巡査にかぶるSEは、おどろおどろしく不安を書きたるようなものだ。化粧品売場で、香水のついたティッシュの手を自分の鼻に押しつけて嗅ぐ紳士のエロジジイさ。白人はこういうもの、というテンプレ的な描き方のような気がして、素直に受け取れない。もちろんそういう白人はいたんだろうけどね。 いっぽうで、スペイン人だかポルトガル人の、店の男はファニーに親切。もちろん彼らもWASPから差別されているから、というのもあるだろうけど。あと、雑貨屋の女主人も、2人の肩を持ってくれた。そういう救いを描いてはいるけどね。 むしろ気になるのは、司法のいい加減さにツッコミを入れていかない姿勢かも。ここ、突っ込んで描いてくれれば、怒りの対象が見えてくるんだけど、そうはしていない。警察と検察が、被害女性に口裏を合わせるように指示したとか、被害女性をプエルトリコに行かせたとか、ダークな部分があるなら見せて欲しい感じ。その方が、ストンと腑に落ちると思うんだが、なんとなく情緒に流れ過ぎな感じ。 ところで、工作所に勤めたファニーだけど、仕事がつまらないので工具一式を盗んで会社を辞めて・・・とか、おいおい、な感じだよな。 ファニーは、当時は安かったソーホーあたりの工場を借りて住み、そこを工房に木彫してたようだけど、それもあっさりな感じで、もう少し掘り下げるというか、どこかのギャラリーが目をつけたところ、な展開があってもいいような気がする。いや、この映画、だらだらと長いけど、話は単純で中味が薄いと思う。 | ||||
マイ・ブックショップ | 7/17 | ギンレイホール | 監督/イザベル・コイシェ | 脚本/イザベル・コイシェ |
スペイン/イギリス/ドイツ映画。原題は“The Bookshop”。allcinemaのあらすじは「1959年、イギリスの海辺の小さな町。戦争未亡人のフローレンスは、夫との夢を実現するために動き出す。それは、これまで町に一軒もなかった本屋をオープンさせるというもの。精力的に準備を進めるフローレンスだったが、保守的な町ではそれを快く思わない人も少なくなかった。そして地元の有力者ガマート夫人の執拗な嫌がらせを受けるフローレンス。それでもどうにか開店にはこぎ着けたものの、なおも続くガマート夫人の妨害工作で、次第に経営が立ち行かなくなっていく。そんな中、町外れの邸宅に40年も引きこもっている読書好きの老紳士ブランディッシュ氏が、フローレンスの本屋経営を支援し始めるのだったが…。」 Twitterへは「題名は爽やかな印象だけど、さにあらずで。陰湿な港町の邪悪な人々の話だった。イギリスも出る杭は打たれるだったのね。いまは知らんけど。」 話の流れは↑のあらすじ通り。その後、ガマート夫人の差し金か、町の連中のいじめや策略にあい、本屋の入っているオールドハウスは町に強制摂取され、泣く泣くフローレンスは町を後にする。のだけれど、パートの小学生クリスティーンが店にストーブを仕掛けたのか、火事になってしまう・・・。で、現在、クリスティーンは書店を経営していて、いろいろフローレンスから学んだ、というような独白があって終わり。そのナレーションは、ジュリー・クリスティーのようだ。 このネット時代、田舎に個性豊かな書店を開く的な爽やか話かと想ったら50年も前の話で、しかも街ぐるみで意地悪が始まり、でも最後はそれを跳ね返して・・・かと思ったら、失意のどん底で町を去るというラストに、期待は裏切られっぱなしな感じ。気の毒すぎるだろ。スカッとしねえ話がつづいたギンレイだった。 ビール・ストリートの恋人たちが「信仰」の映画なら、こちらは「勇気」の映画だった。まあ、その勇気もしばしば負けちゃうのだけれど・・・。 ・フローレンスはもとからこの町の住人なのか? 亭主とはロンドンの書店で同僚で、とかいってたっけ。それが16年前亭主が戦死し、やもめに、らしい。なので設定は1960年前後と分かったけど、『ロリータ』がイギリスで発売された年でもあるわけだが。 ・フローレンスは、オールドハウスを買ったのか? 借りたのか? 元から住んでいた家は、どうしたんだ? 仲介は、不動産屋かと思ったら、弁護士のようだ。でも、ガマート夫人が目をつけていたのなら、ガマート夫人のいいなりの弁護士が、その時点で契約を仲介しなければ、トラブルは避けられたのにね。 ・ガマート夫人は資産家の慈善事業家のようだけど、芸術センターという考え方は、1960年頃の英国にあったのかね。どういう使い方を想定してたんだろ。にしても、フローレンスの店を潰してでもつくりたい、という思いはどこからくるんだろ。たんに田舎の資産家(元貴族か何かか?)の傲慢? ・そのガマート夫人と犬猿の仲のようなブランディッシュって老人は、なんなんだ? 町の人々は彼の女房の死因を噂してるけどそれはすべて嘘で、実は結婚期間は半年(?)で別れ、その元女房はロンドンで健在らしい。なのに古びた豪邸にひとり暮らしでほとんど出てこない。用事は、あれはクリスティーンの母親か? よく分からんけど、用事を聞く女性がいて、必要なものは入手してるようだ。後半、ガマート夫人に「フローレンスに関わるな」と忠告に行くんだが、「家も土地も取られずにいる」なことを言うと、ガマート夫人に「出て行ってもいいんだ」とかいうようなことを言われていた様子。どういうことだ? ガマート夫人はブランディッシュにも圧力をかけていた、ということなのか? ・そのブランディッシュはガマート夫人の家から帰る途中、心臓発作かなんかで死んでしまうんだが、そのポケットにはフローレンスのスカーフが・・・。って、もしかして、むかしから秘かに彼女のことを想っていたのか。そのブランディッシュから家に招待されるというのも意味深。それはいいとして、お勧め本をといわれ『華氏451』を提案したら目からウロコのブランディッシュ。もっとブラッドベリを、なんて熱の入れよう。さらに、ノースから『ロリータ』を見せられ、店で売ったものかどうかの判断をブランディッシュに仰いだり。なかなか興味深い。 ・BBCに勤めているというノースも得体が知れない。放送人ならもっと忙しいだろうに、あんな町にゴロゴロしてる。しかもガマート夫人にすり寄って、フローレンスの不在時にクリスティーンの父親を地下室に潜入させ、オールドハウスの状態を検査させたりと、フローレンスの足を引っぱっている。クリスティーンが書店のバイトをやめてから、自らバイトの売り込みに行くほど、BBCの仕事は閑なのか? ・クリスティーンの母親も、得体が知れない。金にしか関心がないのかと思いきや、フローレンスに感謝の言葉を述べたり、と想ったら、クリスティーンがライバル書店に移るに当たって推薦してくれ、とか言うのは、なんだよ、な感じ。その亭主もノースと組んでフローレンスの足を引っぱる。 銀行員が現実的に判断するのは分かりやすいけど、弁護士もガマート夫人の言いなり。やれやれ。親切なのは、漁師のおっさんと、ボーイスカウトの少年たちだけ? ・しかし、クリスティーンはストーブに仕掛(石油を2箇所に入れると危険らしい。よく分からんけど)けをして書店を燃やしてしまうんだが。あんなの犯人はすぐバレるだろ。あるいはフローレンスに疑いがかかるはず。それをどう誤魔化したのか? あるいはクリスティーンは罪を償ってのち、書店経営に乗り出したのか。それと、書店内の本は残しておいたのか? 気になる。 ・最初の方でブランディッシュが、作者の顔は見たくない、ってカバーを火にくべている場面。あ、あれ誰だっけ、と裏表紙の写真の主に気が行ってしまい、しばらく考えてた。「・・・王子、星の王子さま、じゃなくて・・・」。まあ、あとからオスカー・ワイルドと分かったけど。 ・フローレンスがクリスティーンにあげた中国の盆。チラと見えた絵は、日本みたいだったけどな。 | ||||
シンク・オア・スイム イチかバチか俺たちの夢 | 7/19 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3 | 監督/ジル・ルルーシュ | 脚本/ジル・ルルーシュ、アーメド・アミディ、ジュリアン・ランブロスキーニ |
フランス映画。原題は“Le grand bain”。英文タイトルは“Sink or Swim”。allcinemaのあらすじは「うつ病を患い、会社を退職して引きこもり生活となり、家族からも冷たい視線を浴びるベルトラン。ある日、地元の公営プールで“男子シンクロナイズドスイミング”のメンバー募集を目にした彼は、思い切ってチームに参加することに。久々にやる気を取り戻したベルトランだったが、メンバーは妻と母親に捨てられ不満だらけのロランやミュージシャンになる夢が捨てきれないシモンをはじめ、いずれも悩み多き中年の負け犬オヤジばかりだった。それでも元シンクロ選手のコーチ、デルフィーヌの指導の下、練習に励むベルトランたちだったが…。」 Twitterへは「『Shall we ダンス?』+『ウォーターボーイズ』なフランスおやじのシンクロ挑戦話。人物紹介がこまごましてて誰が誰やら。エピソードも分かりづらい。なれどラストだけは盛り上がる。日本チームもちゃんと映してよ。」 マチュー・アマルリック(うつ病ベルトラン)は、分かる。が、それ以外のメンバーがちゃんと紹介されないので、もやもやがつづく前半。少しイライラし、あきらめて、眠くなりかけた。役者の顔が分かってりゃ問題ないだろうけど、馴染みのない人ばかり。しかも、“この人がメンバー”という撮り方をせず、どの役者もフラットに登場させるから、どの人に注目してよいか分かりにくい。たとえば、だらだら出社するダメ社員に忠告するオッサン、というシーンがある。ともに、誰? と見てしまう。プールではしゃいでいた当初のメンバーに社長はいたのかも知れないけど、裸で水泳帽と、スーツにネクタイでは同定するのは難しい。しかも、ダメ社員についても、この人もメンバー? と思いつつ見てしまう。ムダに神経を使わせ、ストレスは増すばかり。 ベルトラン以外ですぐ区別がつくのは、分からん言語しかしゃべらんデブ黒人ぐらいか。あと、途中加入の介護士は分かったけど、でもすでにあごヒゲ男がいるので、どっちがどっちやら・・・。その以前からのヒゲは、たしか息子が吃音で言語聴覚士にかかってる、だったか? 売れない歌手は、なんとなく分かるようになった。それと、鉄工所はなんで映るの? と思ってたらメンバーの職場らしいが、誰だ? デブ黒人? あと、プールの管理者みたいのもメンバーなんだな。最初気づかなかったよ。そうそう。最初の方で、こんな練習じゃダメだ、って捨て台詞を残して去って行った男は、いなくなったまま? 戻ってきたのか? 分からん。やっぱ、メンバーの紹介は細切れ断片的な見せ方じゃなくて、ちゃんと見せるべきだろう。メンバーそれぞれのキャラ設定も面白いのに、あれでは上手くつたわらんと思う。もったいない。 全体に、人と人との接点を省略する演出で、そこは想像しろ、な感じなんだよ。ちょっと、つらい。 世界選手権に、ネット経由でポチっ、でOKなのか? 選手権に参加してる他国選手団は、猛者ばかりなんだけどなあ。さて、選手権ではそれまで1位だった日本がスウェーデン(?)に抜かれ、フランスチームは? 入賞レベル? あるいは最下位になって、さあ人生仕切り直しだ! になるのか、と思っていたら、なんと優勝。これ、違和感ありすぎ。だってベルトランが参加したときは烏合の衆。コーチが変わってもあのレベルで、いくら特訓受けたからって、そうそう上手くはならんだろう。マンガ的過ぎていささか拍子抜け。 とはいえ、世界選手権の試合中の演技は、なかなか感動的。おお。そこまでできるようになったのか。よたよたながら、一応様になってるじゃん、と見てた。だからこそ優勝しちゃダメだろ。と思う。 日本チームも出てきて、最初は1位。それがスウェーデンチームに抜かされ2位。ということだったので、最終成績は3位なのか。ところで、他国チームは正面から映るのに、日本チームはパンツと後ろ姿が少しだけ。その後ろ姿も、東洋人には見えなくて。もしかして予算の関係で東洋人が集められなかったのかね。 帰国し、新聞を見るも記事が載ってない。で、がっかりして、さあ日常が始まる、で終わるんだが。それはそれでいいかな、と。 もとからのコーチは、プールサイドで詩を読むだけ、のやる気のない女性。おいおい分かるんだけど、もとは子に代表レベルだったけど、パートナーと交通事故に遭って(どんなか忘れた)、パートナーは下半身不随。それで人生投げやりになってるらしい。しかも、片思いの相手がいて、ストーカー状態だった、らしい。それで途中から消えてしまうんだが、くだんのパートナーが車椅子の鬼コーチとして登場。もともとは女子チームをコーチしてたけど、見かねて、なのか男子の方も見てくれるようになって・・・という経緯がアバウト過ぎ。ほとんど説明がない。元コーチとの邂逅場面もない。想像しろ、というような演出スタイルだ。 新コーチのスパルタは絵に描いたような感じでおかしい。しかも、メンバーが、イラッときて車椅子の彼女をプールに放り込んじゃうという、おいおい、な展開。それで彼女が萎縮したと思ったら、メンバーはサウナに閉じ込められてしまう、という逆襲は面白い。とはいえ、元ペアの2人の仲直り場面はあってもよかったんじゃないのかね。 仲間が水球の試合でデビュー、というとき、観客席にいわくありげな女性がいて、しっかり映るから、そのうち重要な人物に、と思ったらそんなこともなく。あれ、もしかして、吃音少年の母親だったか? 言語聴覚士の場面では気づかなかったけど。というか、だったらちゃんと紹介してくれ。もしかして、離婚してるのか、2人は。というか、吃音少年の位置づけがよく分からん。この家族も、その後どうなったのか。気になるけど、放り出しっぱなしなのだ。 売れないロック歌手で、普段は学校の給食室で働いてるオッサンがいる。コンサートの出演は、自費? まあ、夢を追いかけて、なんだろうけど、いそうな感じだな。で、彼のバスで一同は会場のストックホルムに行くんだが、音楽担当の仲間がいつのまにか会場にいたりする。あいつ、誰? さらに、反抗的な娘も、パパが出場、というだけで見直してしまうというご都合主義。ここらへんもなあ。もうちょい欲しいところ。 ベルトランの妻が姉に「2年旅行に行ってないなんて。1年ならまだしも」と言われるのが、へー、な感じ。フランスじゃそうなのか。 とはいえ、上から目線の姉はベルトランのことを糞味噌いってて。でも最後に、ベルトランの妻が姉の亭主(家具屋の上司? 経営者?)がSMで浮気してることをバラしたりして、反撃に出る。とはいえ、突如SM話がでるのもなあ。伏線なんてまるでないんだぜ。まあ、できた女房で、最後は亭主の味方になる。いい女房だ。 ・そろいの水着を買う金がないので、メンバーが万引きって、おいおい。 ・デブ黒人は、なんで現地語しかしゃべらないのだ。というか、他に東洋人はおらず、ほぼ白人というのは、どうなんだ? | ||||
東京喰種 トーキョーグール【S】 | 7/22 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2 | 監督/川崎拓也 | 脚本/御笠ノ忠次 |
allcinemaのあらすじは「人の姿をして人間社会に潜み、人を喰らって生きる喰種が跋扈する東京。不慮の事故で半喰種となってしまったカネキだったが、喰種たちの憩いの場となっている喫茶店“あんていく”に居場所を見つけ、人間との共存を模索する芳村やトーカたちともに穏やかな日々を送っていた。そんなある日、カネキの前に月山習という男が現われる。トーカの忠告にもかかわらず、月山の招待を受け、“喰種レストラン”と呼ばれる謎めいた場所に足を踏み入れるカネキ。しかし月山の正体は、美食家(グルメ)と呼ばれる、食に対して異常なこだわりを持つ喰種だった。そして半喰種のカネキに対し、何としてでも食したいという恐るべき欲求を抱いていたのだったが…。」 Twitterへは「つまらない。よく寝た。」 『東京喰種』。聞いたことはあるけど内容は知らず。で、見始めたけど、設定が良く分からない。人物の説明もほとんどなく、ドラマらしいドラマもなく、だらだらと。なので睡魔が・・・。・月山がカネキを殺そうとしたか食べようとしたとき、カネキか隻眼と知ってあたふた(何でなの? 東京喰種では常識的な話?)・・・。というのは覚えてるけど、以後、記憶なく、気がついたら女の子(トーカ、というのか)が、月山に胸を突き刺されているところだった。以後もたいして面白くない。別の女性が台の上で昏睡し、男が過去の思い出にひたっていたり。誰なんだ。何なんだ。で、なんとなく分かってきたのは、グルメな月山が新たな素材をカネキに求めた、ということらしい。単に、それだけ? そう。それだけの話だった。お笑いじゃないか。 で。圧倒的に不利な戦いに、カネキとトーカが編み出した作戦。それは、トーカがカネキに噛みつく(先に食べちゃうぞ、と示唆して月山を焦らせる)というもの。お笑いじゃないか。 あと、月山、カネキ、トーカらの戦いを、冷ややかに見ているバーの3人組がいるんだけど、まったく位置づけが分からず。 もしかして、これ、シリーズの何作目かだから説明がないのか? で、見たら、『東京喰種 トーキョーグール』(2017)がある模様。で、今回は第2作で、でも「【S】」ってなんだよ。他にテレビとかビデオはあるようで、観客は概略知って、エピソードとして見るからこれでもOKなのかも。にしても、独立して面白がれる仕立てにしてくれよ、な感じ。そういうホンに、できると思うけどな。映像化されてるところは、大半面白くなかったし。 エンドロールにマギー、蒼井優、大泉洋なんて名前が。ん。寝てる間に登場したのか? でも、マギーはあの男優ではなく冒頭にでてきた美女モデルで、蒼井優、大泉洋は前作の出演者なので、そんな感じの登場だったのかも。 この話って、要はゾンビの亜流だよな。こんな話が人気で、たくさんつくられているのが、よく理解できん。 音楽が洒落てるな、と思ったら、小田朋美と菊地成孔だった。絵づくりがちゃちで、音楽があまり生きてないけど。 バトルシーンはワイアーつかってだけど、ワイヤーが見えてんじゃねえの? な感じのところもあって、いまいち迫力に欠けるかな。 | ||||
天気の子 | 7/23 | 109シネマズ木場シアター3 | 監督/新海誠 | 脚本/新海誠 |
allcinemaのあらすじは「天候が不順で雨が降り続く夏の東京。離島の実家を家出した高校生の森嶋帆高は、なかなかバイト先を見つけられず、東京の厳しさに打ちのめされかけていた。そんなとき、小さな編集プロダクションを経営する須賀圭介に拾われ、住み込みで働くことに。さっそく事務所で働く女子大生の夏美とともに、怪しげなオカルト雑誌のための取材を任された帆高。やがて彼は、弟とふたりで暮らす明るい少女、天野陽菜と出会う。彼女にはある不思議な能力があった。なんと彼女は、祈るだけで雨空を青空に変えることができるのだったが…。」 Twitterへは「いつになったら面白くなるんだろうと見ていたら、そのまま終わってしまった。前作で面白かったのは巫女話じゃなく、話の骨格。その骨格が今回は・・・。」 長梅雨の今年に丁度いいような話の展開だった。 神津島から家出した帆高は、船内で須賀に命を助けられる。あやうく海に飲まれるところを助けられたんだが、後々の展開を考えると、水難の相があった、ということか。 チンピラ2人といる陽菜を見かけた帆高は、陽菜を救い出し、逃げる。でも追いつかれ、組み敷かれる。そこで取り出すのが拳銃で、なんと撃つ! おいおい。で、2人は逃げだし、陽菜の話を聞けば、陽菜はネットカフェをクビになり、了解済みでチンピラとともにいたらしい。カラダを売る? それは知らんけど。 母を前年に亡くし、弟と2人暮らし。資金不足での選択らしい。がしかし、実は15歳の陽菜が選ぶ道か? という気がしてしまう。冒頭、歌舞伎町の「バニラは高収入!」の音楽は、陽菜の選択を示唆してるのかな。知らんけど。で、帆高は陽菜の雨空を晴れにする霊力を、金にしようと思いつき、HPを開設。ぼちぼち仕事が入りだし、またたくまに評判に。ついには神宮花火大会からもお呼びがかかり、雨を吹き飛ばす。が、これが話題になりすぎて商売は中止・・・。という流れは、なんとなく曖昧に尻すぼみ。相変わらず関東地方は雨だらけで、なぜか(使命感?)陽菜は自らの命を賭けて(人柱のつもり?)雨乞いをする。そのおかげで雨は去って晴れるんだけど、陽菜はいなくなる。 という流れと、冒頭から引きずる帆高の拳銃の話が重なるんだが、これは主たる巫女話の進行を妨げるために設定されただけのエピソードで、ほとんど意味がない。たまたまゴミ箱で拾った拳銃を持ち歩き、その拳銃のことを相談しに須賀のところに行ったのか、と思ったら話にも出さず。陽菜を救うためチンピラに発射し、さらに持ち歩き、ラスト近くでは代々木の廃ビルで警官にも発射する。これ、疑問だらけ。 最初はオモチャと思ったっていうけど、重さが違うだろ。で、ホンモノと分かってなお持ち歩く。自分が追われてるのは拳銃のため、(他にアパートを追い出された陽菜・弟といるとき、池袋でトラックを爆破させたってものあるけど・・・。でも、あれ、なんで爆破したんだ? 雷鳴を呼んだのか?)と分かっていながら、逃げる。もちろん陽菜を救うため、もあるけど、自分か犠牲になればいい話。むしろ逃げることで事態は悪化する。途中からこの拳銃が意味をもつ、ということもない。 この拳銃では大きな「?」がある。池袋の警察から逃げだし、代々木の廃墟ビルに辿り着く帆高。そこに須賀がいて、行く手を遮られる。直前に須賀を老刑事が訪れていて、なので帆高を説得するよう言われた? でも、なら、問題は拳銃不法所持だから大事にはならない、と帆高に言えばいい。なのに、屋上に上がろうとする帆高を遮るだけ。老刑事も一緒にやってきてたのか。というところにリーゼント刑事らが追いつく。で、リーゼントに、だったかせ、はね飛ばされた帆高。の頭の横に、なぜかあの拳銃が登場するんだよ。どこから湧いたんだ? 警察に身柄を確保され、取調室に入ろうか、というときに逃亡したんだから、身体検査はされてるはず。その後も拳銃を持って歩いてる風はなかったのに。変だろ。 雨雲を消し去る能力をもつ陽菜が、病床の母親のために一時、晴れ間を呼び出した。というエピソードが最初にあるんだが、もともと自分の能力を自覚していたのか否か、が良く分からない。というのも、母親のために祈ったとき、代々木廃ビル屋上の神社の鳥居をくぐったからだ。あそこでなくてはならなかったのか、よその神社でもいいのか、たまたま近くに鳥居が見えたから利用したのか。が、よく分からない。また、晴れ間が余命に役だったのか、も分からない。雨が続く東京で晴れ間を見せてやりたかった、というそれだけの話? しょぼいだろ、それじゃ。 祈ったのがたまたま代々木廃ビルの屋上、であるなら、最後に陽菜が命を賭けて晴れ間を呼ぶために利用する神社も、代々木である必要はなくなる。代々木でなくてはならない理由は、あるのか? ないと思う。 で、晴れ間を呼び出すたびに身体が弱っていく、という設定は、よくあるパターン。で、彼女が最後に身を賭して雨雲を追い払ったのは、なぜなんだ? だれかに要求された訳でもなく、どうしてそう決断したのか? が分からない。世のため人のため? でも何らかの危機があり、それを回避するため、という話にもなっておらず、首をひねるばかり。 で、突然やってきた晴れ間。消えた陽菜。児童相談所に保護された弟。に、もしかして、と思い至った帆高は、警察から逃げ出し、代々木の廃ビルに向かい、須賀や警官をなんとか振り払って屋上に上がり、神社の鳥居をくぐると、そこは天空のラピュタだった! おいおい。じゃ、帆高にも巫女的素質があったということか。それとも、他の誰でも、あの鳥居をくぐるとラピュタに行けるのか? でまあ、その野っ原(天国の入口みたいに見える)に横たわる陽菜に、現世に戻ることを提案し、なので東京は再び雨雲に覆われる、というラスト。セカイ系のように、少年少女が世界を救う、んだけど、自分たちの幸せのために地球を救うことをやめる、という話だ。だからどうした、な話だ。 そもそも地球温暖化がどうとか大気汚染がとか、人為的なCO2の結果だ、という環境破壊話とは別に、地球にはむかしからの流れがある。気温の変化や地震、嵐、その他の変化は人間にとって“異常”気象かも知れないが、地球にとっては自然の流れ。これからも、地球は人間に関係なく、暑くなったり寒きなったり揺れたり爆発するはずで、それを“異常”と呼び、阻止しようとするのは人間の勝手な都合。そんなことは、こっちは百も承知なので、いまさらそんなメッセージを送られても、わかってら、な気分なのだ。 巫女的存在をヒロインに仕立てるのは、新海誠の得意技。『君の名は』でもそうだったけど、その巫女話が面白かったわけではなく、時空を超えた入れ替わりとドタバタ劇が楽しく、途中で分かる隕石の衝突と地球の変化、という骨組に驚きがあった。なのに、今回は骨組の部分が脆弱すぎて、終わってみれば巫女話だけだった、という肩すかし。うーむ、な感じ。 そうそう。陽菜の復活後3年。は、前作同様の再会だけど、あっちは互いを知らなかったので、“感じる”再会だった。今回は、ちゃんとした再開。なのだが、出会いは、元から陽菜が住んでいた田端の坂道。ということは、ずっとあそこに住みつづけることができたのか。とはいえ、陽菜が何をして食っていたのかは、分からない。そもそも、弟は小学校に行ってたけど、陽菜はもとから中学に通っていたのか? も気になるところ。いや、それ以前に、母親が死んで身寄りのない姉弟になったのか? なら、その時点で養護施設あたりが手助けするのが、本来の筋だろ。ネットカフェでバイトする必要なんかない。すべては物語のための都合だろ。 ところで、帆高はなんで神津島を抜け出したかったんだ? あたりも、描いて欲しかった感じ。 さて。陽菜が生き返ったせいで雨雲は去らず、東京下町は水没したようだが、東京は機能している様子。でも、経済活動がどうなっているかは描かれない。国民総生産や東京の世界的役割の縮小、医療や高齢化の進展などへの影響、農産物はどうなったのかとか、気になるところはたくさんあるけど、ロマンスだけが優先されていて、見えない。残念。 ・神津島から出てくるとき、『キャッチー・イン・ザ・ライ』を持ってきてるが、いまどき青少年が読む本なのか? で、やってきた新宿は「バニラは高収入♪」が鳴り響いてる。疑問はYahoo!知恵袋に質問。食べるのはどん兵衛。と、下世話なリアリティが続々で、そういうところは興味深い。 ・船で出会った須賀は、なぜに神津島を訪れていたのかね。その須賀は、雑誌『ムー』のライターだったりして、占い師への取材をさせられたりする。須賀の姪がアシスタントをしてるけど、ほんの飾りの役回り。最後、警察から逃亡した帆高を応援する、のが見せ場ぐらい。あとは、エロいお姉さん的な感じ。 ・陽菜は18歳(実は15歳だったが)。帆高は16歳。年上? で、あの世に行った彼女と、地上(田端の上り坂)で再び出会う、という話の流れは『君の名は』と似てるかな。 ・最初の方で、空から魚や、訳のわからんものが落ちてくるというエピソードがある。昔からよくある話だ。空には、雲のかたちで大量の水がある、はそうなんだろうけど、そこに生物が住み、別の世界がある、という話は『ムー』的に見ても、うーむ、な感じで、なるほどとは思えない。 ・屋上に神社のある代々木の廃ビルは『傷だらけの天使』ビルがモデルなのか。あのビル、この8月に解体らしい。 ・陽菜が、豆苗の二毛作、万能ネギのコップ栽培とかやってて、それで帆高とチキンラーメンを食べるくだりは所帯じみてておかしい。 ・池袋ではシネマサンシャインの看板も登場してた。ここ、もうすぐ閉館のはず。 ・『天空の城ラピュタ』『崖の上のポニョ』をなんとなく思い浮かべてしまう。 ・今回も、実写を線画=アニメにしたような情景描写が多い。というか、多過ぎな気がする。 ・警察から逃走し、線路の上を代々木に向かって走る帆高。もしかして、線路の上を走るバカが出現するんじゃなかろうかしらん。 ・しかし、あの拳銃の出所と、ああまでして警官が追わねばならぬ理由は、なんなんだ? | ||||
旅のおわり世界のはじまり | 7/24 | テアトル新宿 | 監督/黒沢清 | 脚本/黒沢清 |
allcinemaのあらすじは「ウズベキスタンの湖に棲むという幻の怪魚を求めて番組クルーとやって来たテレビリポーターの葉子。本当は歌を歌いたいと思いながらも、レポーターの仕事をこなしていく葉子だったが、なかなか思い通りにロケは進まず、スタッフは苛立ちを募らせていく。そんな中、ふらりと一人で街に出た彼女は、いつしか美しい劇場へと迷い込んでしまうのだったが…。」 Twitterへは「性格の悪そうなヒロインだ。何を考えてるのかさっぱり分からない。何の成長もなく、突然の歌も異様。共感できるのはウズベクのコーディネーターと、あとカメラマンぐらい。ウズベクの人たちをハナから蔑視してるのも、やな感じ。」 まず主人公に共感できない。いつも不機嫌そうな表情で、でも、カメラを向けるとにこやかに演じられる。そういうタレントもいるだろうけど、枠にはめすぎてないか。さらに、20代後半の葉子は、撮影クルーと行動を共にしない。仕事が終わると速攻でホテルの自室に籠もり、東京の彼氏とラインでつながる。ずっと、切れ目なく。さらに、知らない町だろうに、1人でどんどんでかける。たとえばガイドブックのバザー、の文字をあてに、言葉も分からないのに「バザー? バザー?」とバスに乗り込む。乗客のほとんどはオッサン。で、隣席の男性が説明しようとしてるのも拒絶し、「NO! NO!」を連呼し、らしきところで降りてどんどん歩いて行く。人とふれ合い、ゆっくり楽しむのかと思いきや、そんなこともなく、街外れの雑貨屋に入り、いくつかの商品を選んで買い求める。歩き、迷い、飼われているヤギに会ったり、暗闇でたむろってる男たちの横をこそこそ通ったり(相手はまったくからかったりしてこない)して、どうするのかと思ったら、映画的都合でちゃんとバスに間に合い、ホテルに戻ってくる。で、買ってきたパンかスナックみたいなのを食べ、昼間の撮影終了後に食堂のおばちゃんがくれたモノを食べたりする。ほとんど無言だ。 ほかにも、葉子の勝手なズカズカ行動はあって。後半、大きなモールみたいなところで撮影中、カメラを手にしながらスタッフに振り向くこともなく進んでいき、迷う。あげく、撮影禁止地区で警官に呼び止められ、逃げる。浅はかな感じ。途中でカメラを捨て、結局、警官に捕まってしまうのだが、「あなたが逃げるから私たちは追いかけた。説明してくれれば良かった。カメラは見つかった。なかを見たけれど問題ないので返す」と現地の警官はとても紳士的。 葉子は何をおそれているのか。何から逃げようとしているのか。良く分からない、というより、性格が歪んでるだろ、としか思えない。 唯一、心を許している恋人は、東京湾の消防士、らしい。警察のテレビで、東京湾の火災と消防士にも犠牲者が、という報道にあわて、スマホを返してもらって連絡をとるのだが、無事と知ってひと安心。はいいとして、ここでもまだ、周囲の配慮に感謝の気持ちを表さない。ひたすら閉じこもって、仕事は仕事と割り切り、愛想も見せずにいる。やな女。 そんな葉子が、岩尾に夢を話す場面がある。ホテルの食堂。「歌手になりたい。日本に帰ったらミュージカルのオーディションを受ける」というのだが、それにしては、業界関係者につっけんどんすぎるだろ。つては、吉岡や岩尾にだってある、かもしれないのだから。 葉子が、どこかの町で、またまた一人歩きして、公会堂のようなところに入り込む場面がある。いくつかの部屋を抜け、たどりつくと音楽家がリハーサルをしている。いつしか葉子は舞台にいて「愛の賛歌」を歌っている。まあ、これは幻想で、警備員に見つかって、またまた遁走するのだが。 しかし、なぜ「愛の賛歌」なのか良く分からない。前田敦子の歌も、それほどではないので、とくに感動的でもない。 海魚が穫れない。尺が足りない。どうしよう、というとき、葉子が「ヤギを解放するというのはどうか」と提案し、みなが「それはいい」となるんだけど、そんなもん観客が求めてる話じゃないだろ、なのでディレクターの吉岡やカメラの岩尾のセンスを疑ってしまう。で、ヤギを買い取り、人気のありそうな草原で解き放すと、速攻でもとの持ち主がやってきて、ヤギを捕獲する。あわてる葉子、スタッフ。「誰の持ち物でもないヤギを捕まえたんだ」と主張する元持ち主。これは正しい。に、金をつかませ、再び解き放たせる吉岡。バカじゃないか。あんなことして、食べ物もなく死ぬか、誰かに捕獲される運命だろ。自由だ、なんて思ってる日本人、みんなバカ。 このヤギらしいのが、ラストに登場する。毛もじゃ怪獣を見たというジイさんと山を登って行く途中、葉子が先に歩き出し、下界を眺めると、小さく白いヤギが。あれは、自由になった、という象徴のつもりか? そして、葉子もまた、こんなくだらない仕事から自由になった、と言いたいのか? もしかして。でも、ありゃあのときのヤギとも言えない。あんなところで「愛の賛歌」を歌ったからって、オーディションに受かるわけでなし。勝手にもりあがってる感じ。 ところで、ヤギの後で、まだ尺が足りない、ということになり、コーディネーターが、第二次大戦後ソ連の捕虜になった日本人が建てた建築がある、と言いだす。吉岡は「そんなもん」と言い、でも、葉子が「私、そこ入った」というと、岩尾が「いいんじゃない」というので、次の場面はその建物の中での撮影かと思ったら、そうではなく。毛もじゃ怪獣だったかな、いや、その前の巨大モールだったかな、の撮影で。なんだよ。と拍子抜け。件の建物は、撮った、ということなんだろうか? というわけで、葉子の性格も治ったわけでもなく、葉子の夢だけ煽り、今後の運命をヤギに重ね、映画は終わる。でも、今回の旅は終わっても、何かを求める葉子の旅は終わらないだろうし、葉子にとっての新しい世界は始まらないだろうな、と思うような終わり方だった。 不愉快になるシーンが多々ある。たとえば現地の遊園地の回転遊戯。あんなのに女性タレントを何度も乗せて撮影する。気分が悪くなった。昨今のバラエティ番組の実態はこうなんだよ、ということなのかも知れないけど、カットするとか一部だけ使うとか、やりようはやあるだろうに。延々、ヒキで、フルで撮ってる。前田敦子も、3回乗ったのか。それをさせる監督も、バラエティの演出家と変わらんだろ。 同じようなところは他にもあって。当日訪問の料理店で飯をつくれ、いきなりではできない、金は出す・かたちだけでいい、のはてに出てきたのは火の通ってない米。それを美味そうに食べる葉子。撮影が終わって、店の主が「おいしいのができたよ」ともってきても、デイレクターの吉岡や葉子は目もくれない。わずかにカメラマン岩尾とAD佐々木が手をつける程度。という場面も、いまどきの世界訪問番組はこの程度のスタッフがやってる、といいたいんだろう。 海魚が穫れない、じゃあ別案を、といっても、視聴者はそんなもの求めてない、と下世話なネタにこだわる吉岡。それは分からないでもない。けれど、こういうフィルターで、ネタが選別されているのよね、というのは分かる。分かるけど、そんなこと、映画を見に来る多くの観客は知ってるよ。 ・接点を持とうとせず閉塞的で身勝手、ワガママな葉子は何の象徴なのか? ウズベクの人や文化を「何だよこの国は」と文句ばかり言ってるディレクター吉岡は、何の象徴なのか。 ・冒頭。タレントの葉子を置き去りにして先に出発するクルー、というのが信じられない。カメラマン岩尾が「よく場所が分かったな」って、アホか、な感じ。あとから呼びに行くつもりだったのか? | ||||
女王陛下のお気に入り | 7/29 | ギンレイホール | 監督/ヨルゴス・ランティモス | 脚本/デボラ・デイヴィス、トニー・マクナマラ |
アイルランド/アメリカ/イギリス映画。原題は“The Favourite”。allcinemaのあらすじは「18世紀初頭のイングランド。フランスとの戦争が長引く中、アン女王の幼馴染で、イングランド軍を率いるモールバラ公爵の妻サラは、病弱な女王に代わって宮廷の実権を握り、戦費の調達に奔走していた。そんな時、サラの従妹で上流階級から没落した若い娘アビゲイルが現われ、召使いとして働き始める。サラが政治に時間を取られるようになる一方、アビゲイルは巧みに女王の歓心を買い、着実にその信頼を勝ち取っていく。宮廷で不動の地位を築いていたはずのサラも、次第にアビゲイルの秘めたる野心に警戒心を抱くようになるが…。」 Twitterへは「時代とかどの王朝かとか議会との関係はとか、よく分からんので、もやもや。ど広角レンズぶんまわしで、ときどき酔う。要は女の戦い。以上。な感じ。」 アンなんて女王いたっけ。アン・ブーリンと、スコットランドの女王にいたけど・・・。時代は・・・。フランスと戦争中だから、フランス革命前で、となると1700年代のどこかか。でも、その時代、英国は議会があったのか。とか、いろいろ考えたりしつつ。 でも、そういう時代背景はどうでもいい感じ。だから描かないのかも知れない。要は、アン女王=モーリー夫人を操るほどの奥方様=モールバラ夫人=サラと、いまは没落して下層民になったサラの従姉妹アビゲイルとの女の戦い、足の引っ張り合い、意地の張り合い、女王へのお追従(性的サービス含む)を楽しめばいい。コメディタッチで、いささか様式的。陰気で陰湿なドタバタな感じかな。女の戦いを描くのに、18世紀イギリスがちょうど良かった、ってことかも。 父親がダメなやつで、賭け事でドツボに。最後は娘を懸けて勝負して、ドイツ男のもとに行った、というアビゲイル。本人は「月経が何ヶ月もつづいてて」とか誤魔化して逃げ出した、とか言ってたけど、はたしてどういうことだったのか。父親がどうなったかもよく分からない。とにかく、家は没落した、らしい。それが、いまは女王付で威勢のいいサラに連絡をとって、宮廷の女中になった、というのが発端。そういえばグリフィスの『東への旅』でも、主人公は落ちぶれてるけど、叔母のところは威勢がいい、みたいな設定だった。同族でも、そういう関係はよくあるのかね、西洋では。 アビゲイルは、よく落ちる。家が没落。城に来るとき、馬車から突き飛ばされて糞まみれになる。野党議員から、夜道でつき飛ばされる。ダメな時はこうでも、最後はサラを突き落とす。その逆転は、サラの落馬で表現している。ダメな時のアビゲイルは、女中仲間の意地悪で手をかぶれさせたり、むち打たれたり、痛みがともなっている。落馬で逆転されたサラは、全身傷だらけ。顔にも痛々しい傷。そういえば、女王は、痛風で足が傷だらけ。みな痛々しい。そのときの状況を、こうやって見せている、のかも。 サラは、女王の幼友達だったらしい。だから権力を握った? そういう従姉妹にすがりつき、なんとか這い上がろうとするアビゲイル。でも、最初はおとなしい、というか、健気な感じ。女中仲間からいじめられてるころは、気の毒なほど。女王の通風には薬草を処方し、でも、サラに黙ってやったのでむち打ちに・・・と思ったら、効果があったとかでサラ付きの奥女中に昇格。なころも、サクセスストーリー? と思ってたら、サラが女王とレズ関係にあるのを知り、そっち方面でもサービスし取り入る。女王がサラに言う。「彼女は口でやってくれたのよ」。げげ。したたか過ぎるじゃないか。この娘。 さらに、アビゲイルにからんでくる大佐だか少佐だか、いつも野党議員とつるんでる男をたぶらかし、結婚しようとする。相手は、「レディじゃない相手とは結婚できない。遊ぶだけ」と公言しつきまとうんだけど、最後は女王のサポートもとりつけ、一緒になってしまう。なんと。しかも、初夜は、アビゲイルが彼のチンポをこすって果てさせるという、なんじゃこの娘。相当だな。ところで、レディ、と呼ばれるのはどのクラスからなんだ? 貴族から? 女王につけいるアビゲイルを追放しようとするサラ、負けずに女王に進言するアビゲイル。最後はアビゲイルが紅茶に毒を入れ、そのまま1人乗馬に出かけたサラが途中で落馬で馬に引きずり回され、女郎屋夫婦(?)に助けられ、あやうく女郎にさせられそうになりながら、王宮に復帰。でも、この間にアビゲイルは大佐か少佐と結婚してレディ身分になって(なのか?)いる。さらに、女王は戦争継続から和平へと態度を改めてしまい、サラの出る幕なし。さらに、アビゲイルが、サラの亭主(フランス軍の大将なのかな)が戦費を懐に入れていた、という嘘を女王に刷り込み、亭主ともども国外通報処分! これでアビゲイルの天下だ! となったんだけど、こうなるとアビゲイルは夜な夜な宴会で女王の部屋でゲロ吐くほど。もう女王へのサービスは不要、となると、いい加減なもんだ。女王も、なんだか不満ありげだけど、とくに口に出さず、なもやもやな感じで映画は終わり、沈鬱な模様が立ちこめる。アビゲイルの未来も暗そう。あまり笑えないコメディだ。 ・アン女王は実在の人物なの? Wikipediaによると「史実及び実在人物を題材としている(略)。史実ではアビゲイル・メイシャムが宮廷に上がったのが1702年頃であり、1709年のマルプラケの戦いでの損害から、1710年にマールバラ公爵ジョンとサラ夫妻が女王の信頼を損ね、ゴドルフィン首相が更迭されるまで8年余りを要している。しかし、作中では、実在の出来事が登場するものの時間軸に触れられることはほぼ無い。 」とあって、ふーん。アン女王に関するWikipediaを見ると、ホイッグ党とかでてきて、ふーん。アビゲイル、サラの項目も、読んでいくとなかなか興味深い。 ・しっかし、いまだつづく王制なのに、女王はレズだったとか、こんな描き方してもいいのね。ふーん。 ・議会の、野党の代表みたいなやつ。頬にあるのは、ありゃホクロだったのか。議会の人材として、与党の人間は、黒い髪のジジイ、なのかな? ほとんど目立たなくて、野党のやつしか出てないように見えるのは、なんで? ・アン女王には亭主もいるんだろうに、まったく登場しないのは、なんか変。 ・アン女王をモーリー夫人と呼んでいたのは、サラだっけか? 何でなの? ・アン女王の唯一の慰みはウサギ、というのが・・・。子供をたくさん産んだけどみな死んだ、とかも言ってたな。なんというか。ホント? ・サラは、戦争継続派で、税金倍増支持。野党黒髪男は、フランスと和議を結び、増税は反対派、だったかな。 ・裸の男に果物をぶっつけてるのは、ありゃ何なんだ? 何かの罰ゲーム? ・女王の私室に行くには、暗く長い廊下を通らないといけないの? ・後半って、女王はどっか別の、田舎の宮殿に越した? そんな感じはなかったんだけど、そんな風に感じられたところもあったんだよなあ。 | ||||
ワイルドライフ | 7/30 | 新宿武蔵野館3 | 監督/ポール・ダノ | 脚本/ポール・ダノ、ゾーイ・カザン |
2018年製作。原題は“Wildlife”。allcinemaのあらすじは「1960年代。父ジェリーと母ジャネットとともに、カナダとの国境にほど近いモンタナ州の田舎町に引っ越してきた14歳のジョー。ようやく生活が落ち着きだした矢先、ジェリーが働いていたゴルフ場をクビになってしまう。生活が苦しくなる中、仕事を選り好みするジェリーにジャネットの苛立ちは募るばかり。やがてジェリーは妻子を置いて、危険な山火事の消防士として出稼ぎ仕事に旅立ってしまう。残されたジャネットとジョーは、生活のためにそれぞれ仕事を見つけるのだったが…。」 Twitterへは「きっちり丁寧にショットを重ねていくのがいい感じ。キャリー・マリガン好きなんだけど、こちらもきっちり丁寧に老けてる感じ。まあメイクもあるんだろうけど。監督は役者のポール・ダノ。共同脚本のゾーイ・カザンはエリア・カザンの孫娘だと。」 ジェリー(ジェイク・ギレンホール)が主役かと思ったら途中からいなくなり、ジャネット(キャリー・マリガン)が主役かと思ったら、どんどん視点は息子ジョーのものになっていく。1960年の話だとすると、ジョーはこのとき14歳だから、現在(2018年)は72歳か。72歳のジジイが昔を懐かしむ姿を思い浮かべてしまった。老ジョーは円満な夫婦生活を送って、息子や孫に恵まれたんだろうか、と見ながら思ってしまった。 両親の関係が壊れていく様子(晩夏から冬まで?)を体験した14歳の少年の思い出、である。プライド、生活費、孤独感、かつての自分とのギャップ・・・。日常のささいなことが契機となり、夫婦の信頼が揺らいでいく。 ジェリーはプロゴルファーになれる、と思っていたんだろう。けど、田舎のレッスンプロに甘んじていて、ちかごろやっと身の丈の生活が分かったような40代、というところか。でも、ゴルフ場経営者に嫌われて、なのかクビになってしまう。しばらく後に経営者が「悪かった、また来てくれ」と電話があったのに、行かない。プライドなのかも知れない。けれど、後がないのを知って、そうするのはどうなんだ。このあたりは、やっぱりバカオヤジとしか思えない。 仕方ないので働きにでる妻のジャネット。初めての町をうろつき、飛び込みで「仕事はないか」と声をかける。勇気があるな。しつこくねばって、水泳教室の指導員の職を得る。やるじゃん。息子も、写真館でバイトを始める。もともと父親からアメフトを強要されていたけど、肌に合わない感じで、そこから逃げる、というのもあった感じ。ほんと、アメリカの家庭はアメフトで回ってる感じで、やだね。 相変わらずの父親は、ある時テレビ報道の山火事を見ていて「俺も行く」と宣言、妻の制止も無視して時給1ドルで行ってしまう。ジョーの女友だちの父親も消火活動に行っていて、初雪が降ったら戻ってくる、らしい。延々燃えつづける山火事の消火、というか、延焼防止活動は、ボランティアみたいなものなのかも。しかし、これまた「正義」を振りかざしつつの現実逃避だよね。自分を整理するのに、そんな過程が必要なのかしら? バカオヤジとしか思えない。 母親は、どんどん派手になっていく。息子に「これでも私は学校のスポーツクイーン(だったかな)だったのよ」と、ちやほやされた頃の思い出にひたったり。ありがちな感じだけど、これまたバカ母である。 ある日、ジョーが戻ると玄関前に派手なクルマ。なかに知らないジジイがいる。母曰く、プールで知り合ったミラーさん。クルマの販売店を経営していて、彼のところで働くことにした、と。でも、ビジネス関係だけには見えない。あるときジョーが販売店へ母親に会いに行くと、そんな人は働いていない、と言われてしまうのだから。というこのシーンも、説明シーンな気がする。フツー、そんなところ、息子が行かないだろ、と。なんか理由があるならまだしも。 そのうち2人はミラーの家に招待されるんだが、ここがよく分からないところ。母親だけを自宅に、なら分かるけど、なんでジョーも? ミラーとダンスするジャネット。その間に、ミラーの寝室を覗くジョーがいるんだけど、この手の室内漁り=説明のためのシーンは映画ではよくあって、でもジョーに覗き見癖があるようにしか見えないのが残念なところ。でもここでジョーは引き出しの中にコンドームをみつける。さらに、母とミラーのキスを目撃する。さらに帰宅後、夜中に咳とトイレの音。そっと見ると裸の男の背中。出かける音。母の寝室の乱れたベッド。残されたウィスキー。窓外のミラーの車。傍に立つ母親。いきなり戻ってきた母に「何コソコソやってるの!」と怒鳴られる、という経緯があるんだが、この場面は素直に受け取れない感じ。そもそも、母親に関心があるなら息子を招待するのが不自然。連れていく母親もどうかしてる。しかも、息子の見てる前でキスとか、ジャネットはどうかしてる。だいいちミラーは足が悪く年寄りだ。とはいえ演じるビル・キャンプは1961年生で、60前なんだが。いくらダートマス大学出身で金持ちだといっても、ジャネットが惚れる相手なのか? と思うと、いろいろ「?」がつきまとってしまう。 あんまりなので、翌朝、家出しようとするジョー。早朝のバス停。ベンチに座ってるジョーの頭の上に、初雪が。「父ちゃんが帰ってくる!」。バスがやってきて止まり、出発する。ベンチは空。まさか、乗った? カメラがパンすると、走って行くジョーが見える。というシーンはなかなかいい。 割りと元気な父ちゃんで、真面目な仕事ぶりが認められたのか、森林警備の仕事を得た、という。だけど、ジャネットは「アパートを借りた。ジョーと住む」と決別宣言。落ち込むジェリーは、ジョーからミラーの存在を聞くんだけど、冒頭のゴルフ場でおべっか言ってた相手がミラーだったんだよな。カッとなって放火しちゃうのは、これまたバカ親。ミラーは、知らない女と飛び出てくる。妻と離婚後、取っ替え引っ替え、だったのかもね。とはいえ、自室に元妻の写真をいまだに飾ってたよなあ、このオッサン。よく分からん。 ミラーが「息子の前で逮捕されたいのか」といってたので、いったんは逃げ帰ったジョーが警察を訪れる場面がなかなかしんみり。で、家に戻ると両親が出迎えて、父親曰く「ミラーとは話が付いた」ので告訴はされない、らしい。んだけど、どう解決したのかは明かされない。ミラーが、「俺も悪かった」といったんだろうか。両親はケンカしたようにも見えないし、ジャネットも現実に戻ったのか。ミラーの女は自分だけじゃない、と分かって・・・。 で、数ヵ月後、なのかな。ジョーは父親と世話しなく暮らしている。ジュリーは、もしかして、ミラーの販売会社でセールスマン? そういえば、ミラーがジャネットに「山から戻ってきたらうちで働いてもらうか」なんていってたけど、マジ? な感じ。どう折り合いをつけたのか。ミラーからの提案なのかな。 母親がオレゴンから久しぶりに戻ってくるという。どうも臨時教師の職を得たようだ。翌日、戻る前、ジョーは2人にスタジオに寄るよう言う。バイトだったのに、いまじゃシャッターも押しているらしい。椅子を3つ。カメラから見て左に母親、右に父親、真ん中にレリーズをもって座るジョー。「押すよ」で、笑みをつくるジャネット。ジェリーは、それ程でもない感じ。で、END。心は離れていても、僕が仲を取り持ってつながっているよ、てな感じなのか。息子は着実に大人になっている。 ところでこの夜、夫婦はセックスしたのかな、と少し気になる。 というわけで、息子の目から見た夫婦の崩壊と、あやうい再生の物語で、夫婦同居はせず、離婚もせず、壊れずにつながっているのが不思議なぐらい。まあ、田舎だから、あんなもんなのかも知れないけど。 一家は、アイダホからモンタナに越してきて、家を借りたのか。妻が銀行に行くと小切手が不当たり、といわれてるのは、すでに預金がないと言うことか。。 母親が息子に、自分の名前は好きか、と聞く。「ジョンは覚えやすい」「母さんは?」「ジャネットはウェイトレスみたいよね」と、なんだったか、気に入った名前を口にする。息子は「ジャネットがいいよ」と答える。息子は、母親に平凡でいて欲しかったんだよね。たぶん。もしかして、命名したのは父親かその親か。ジャネットの意見は通らず、な過去もあって、欲求不満がつのっていたのかも。とか、想像したりして。 ・何気ないセリフの中に人物や設定の情報をちらちら埋め込んでいて、知らず知らずに話の輪郭がはっきりつたわるようなシナリオになっている。かなり綿密。これを気にしながら見ていたので、ある意味では説明ゼリフになってるところがあるな、と思ったてはいたけど、フツーに見ていれば気にならないかも。 ・カメラ移動も少なく、静的に、じっくり撮って、シーンごとにFOしてく感じで、とても丁寧。こういう感じの撮り方は好き。 ・キャリー・マリガンは34歳の役で、1985年生まれだから製作時は33歳か。にしては老けた。メイクもあるだろうけど。なかなかのおばちゃん顔になっていた。 ・息子ジョー役のエド・オクセンボールドは2001年生まれ。製作時17歳で14歳の役を演じている。学校で、彼に話しかけてくる女の子がいて、なかなか好ましい。フツーはスポーツマンタイプに惹かれるのに、越してきた地味なジョーのどこがよかったのか。もしかして彼女も、クラスメートから浮いてるのかね。父親はいつもは建設現場で働き、でもいまは山火事だから消火に行っていて、初雪が降ったらもどってくる、と説明ゼリフをいってたな。 「ヨハン・ヨハンソンを偲んで」とエンドロールにあったけど、作曲家で、ポール・ダノとの関係があったのかな。この映画に直接は参加していない様子。 |