2019年9月

ロケットマン9/6109シネマズ木場シアター6監督/デクスター・フレッチャー脚本/リー・ホール
原題は“Rocketman”。allcinemaのあらすじは「ロンドン郊外で不仲な両親のもとに生まれ、愛のない家庭に育った少年時代のエルトン・ジョン。冴えない日々を送る中、音楽的な才能を見出されて国立音楽院に入学する。やがてロックに傾倒していったエルトンは、レコード会社の公募に応募し、そこで同じ応募者のバーニー・トーピンと運命的に出会い、以来2人は作曲家・作詞家コンビとして幾多の名曲を生み出してく。こうして稀代のメロディ・メイカーとして一気にスターダムへと駆け上がっていくエルトンだったが…。」
Twitterへは「本人が制作総指揮らしい。愛に飢えた自分を振り返りつつ、ときどきミュージカル。でも、ヒット曲でつづるサクセス感が薄いので、『ボヘミアン』みたいな高揚感がないかな。髪の毛だけは、着実に薄くなってたけど。」
またまた有名スターの伝記物。同工異曲かと思ったら、違うところもあり、似たところもあり、な感じ。同じところは、有名になるにつれ本人がドラッグに溺れていくところ。豪邸に住み、美女を侍らせ、でも自分はゲイ道まっしぐら。本人がワガママ傲慢になり、独立し、それまでのパートナーを切り捨てていくところ。まあ、でもエルトン・ジョンは、プロモーターであるゲイパートナーとの関係が終わって、放り出そうとしたけど、契約の関係でうまく行かず、エルトンの死後も(だったかな)利益の20%は彼に行くとかいわれて怒り狂っておった。ストレートな彼女を不幸にしたこと。こうういところは、『ボヘミアン』なんかと同じで目新しさはなく、むしろ、バカなんじゃねえの? としか思えない。
そして、幼少期から描き、売れ出して、ドラッグにはまり、復活する、という流れも『ボヘミアン』と似てるけど、ところどころミュージカルになったりするのが、気持ち悪い。それと、エルトンの曲をあまり知らないからなんだけど、デビュー以前のシーンで流れるミュージカル音楽は、エルトンの曲なのか、違うのか、それも気になった。というのも、後半でのミュージカル部分はエルトンの曲もあったから。あとは、詞が話にピタリのところがあったけど、そういう詞だったのか、それとも映画に合わせて変えてるのか? とか、知らない故の疑問も湧いてくる。
あとは、この映画、ドラッグでどん底にあった本人が自らステージから逃げ出し、郊外の精神病院のグループカウンセリングで告白していく、というスタイルをとっていて。これが、映画から疾走感とか高揚感を無くしている感じ。『ボヘミアン』が、ヒット曲とともに綴るサクセススーリーになっていて、見ている方もつられてウキウキしてくる感じだったのとは大違い。しかも、幼い頃から奇妙に厳格な実父にあれするなこれするなと躾けられ、一度でいいからハグして欲しかった、という渇望感=恨み節になっているのが、みていてつらいというか、うんざり。
本人が制作総指揮で、ゲイ告白とか裏切りとかドラッグとか、結構あけっぴろげに吐露しているのは評価できるけど、心の問題を公にするというのは、どうなのかね。そこまで恨んでいるということか。
その実父だけど、ジャズが好きで、でもピアノなんて女のすること、と冷ややか。レコードジャケットも「触るな」といい、妻に男ができると、エルトンにハグもせず出て行ってしまう。まあ、妻のことが嫌で嫌で、やっと別れる口実ができたと喜んで出ていったのかも知れないけど。その意味で、実母や祖母に対しては、いい方に傾いた評価なのかも知れない。
不思議なのが、成功後に会いに行った実父が、フツーのオッサンだったこと。2人の息子をソファの脇に座らせたり抱いたり。子どもとして、どこがエルトンと違ったのか。と考えると、エルトンは嫌な子どもだったんじゃないのか、と邪推してしまう。だって、成功した実の息子にサインも求めないなんてね。実母や祖母がエルトンの家に招待され、興奮しているのと大違い。ここがよく分からない。
あとは、エルトンの、奇行がいまいちな感じ。音楽性は豊かなんだから、あんな派手な格好、しなくたっていいだろうに。いままで知っていた、派手なトンボ眼鏡だけじゃなくて、あんな色んなコスプレして歌っていたとは! あたま、おかしいんじゃないのか? というのが率直な感想。
作詞家だったパートナーが離れて行き、でも、最後まで心が通い合っていた感じなのは救われるけど。最初に見出してくれたプロダクションの社長と、社員で同世代のレイっていったっけ、なんて、ゲイのプロモーターに追い出されてからまったく登場しなくなる。かれらはどうしたのか? 少し心配。あと、偽装結婚? したレコードエンジニアみたいな女性もね。
最後に、現実のエルトンも登場するけど、まあ、ここはいいお爺さんとして紹介されるのは、しょうがないだろうな。
心ならずも亡くなってしまったフレディと、生きながらえているエルトン。うーむ、な感じではある。
やっぱり契約破棄していいですか!?9/9ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/トム・エドマンズ脚本/トム・エドマンズ
イギリス映画。原題は“Dead in a Week (Or Your Money Back)”。allcinemaのあらすじは「小説家として全く芽が出ず、人生に絶望した青年ウィリアムは、7回も自殺を試みるも全て失敗してしまう。そこで彼は、7回目のときに出会った老紳士レスリーの力を借りることに。レスリーは英国暗殺者組合に所属するプロの殺し屋だったが、ノルマを達成できずにクビ寸前だった。さっそくレスリーと面会したウィリアムは、一週間以内に暗殺できなければ返金するという契約書に、ターゲットを自分に設定してサインする。ところがその直後、彼の小説を出版したいと女性編集者のエリーから連絡が。2人で打ち合わせをするうちに、すっかり心惹かれるウィリアム。そこでレスリーに契約破棄を申し出るが、どうしてもノルマを達成したいレスリーは聞く耳を持たず、ウィリアムは契約期間の一週間をプロの殺し屋相手に逃げ切らねばらならなくなるのだったが…。」
Twitterへは「テレビの1時間枠がちょうどいいようなコメディ。テンポがゆるく、さあどうなるか!的なヒキがいまいち。非現実的な話なんだから、もうちょいはじけてもいいんじゃないのかな。」
「笑ゥせぇるすまん」というか、落語の「死神」にも似た感じのブラックなコメディ。小さくまとまっていて、オチも読め。その分目新しさはなく、よくある感じ。次にどうなる、というヒキがたらず、ちょっと退屈。ブラックさも、いまいち。芝居ならこんなもんでいいのかもだけど、映画ではものたりない。
ノルマを達成しないとクビになる老殺し屋レスリーという存在は面白く、殺し屋組合もあるらしい。妻も亭主の仕事を知っていて、関連記事もスクラップしてたりする。このあたりはブラックなんだろうけど、いまいちほのぼのし過ぎかな。むしろ、妻の趣味が刺繍で、コンテストに応募してるという設定の方が興味深い。部屋の壁にはモリスのみたいな壁紙が額に入ってかかっていたり、インコを飼っていて、刑事ドラマ好き。亭主が引退したら、2人で世界一周船旅するわ!的なところも、いなにもありそうなイギリス婦人的なんだよね。なのにレスリーは「まだまだ現役」にこだわり、ノルマまであと一人の客となったウィリアムのキャンセル要求を呑もうとしない。にしては、携帯音で何度も実行失敗を繰り返したり、レストランでのウィリアム狙撃に失敗したり、いいところはちっともない。いい加減あきらめたら? と思ってしまうよね。
ウィリアムが死にたい理由も、あまり説得力がなくて、小説がアバンギャルドすぎて出版されない、ということらしい。フツーに生きればいいいじゃないか、と思ってしまうよね。そんなウィリアムの小説に目をつけたのが若い女性編集者エリーで、でも顔の頬のシワが右側だけ深いので、顔が歪んでるように見えてしまって、とくに魅力がないのが、うーむ、な感じ。
そういえばエリーの両親は交通事故で死んでいて、でも、田舎に立派な家を残してくれている。で、ウィリアムの両親は、街を歩いていて上から落ちてきたピアノにつぶされて死んだ、という設定なのが、意味不明。話にどう関係あるんだ?
てなわけで、ウィリアムがエリーに惚れてしまい、死にたくなくなる、という当たり前の展開は、とくに感動もなく進展する。それでも殺そうとするレスリー。失敗の連続にいらだち、レスリーへの刺客を放つ組合のハーヴェイ。でも、その刺客はつまらなすぎるくらいの筋書きでレスリーに逆にやられてしまうという、予想通りの展開・・・。
さて。ハーヴェイはレスリー宅にやってきて、一触即発、になるんだけど、レスリー妻が機転を利かせてうまく追い返すんだが、イザとなったら妻自らがハーヴェイを刺そうと用意していた、とかは、まあ、当然かな。結局、レスリーは引退を受け入れるかたちになるんだが。
さて、追っ手もいなくなり、小説も売れて、恋人もできた。というところで、ウィリアムは轢かれそうな子どもを救う代わりにトラックにはねられてしまう。まあ、死ぬなら、犠牲になって死にたい、と言っていたから、理想的な最後なんだけど。まだ息のあるウィリアムをそのままにカメラは上空に上がってしまい、救急車はやってきたけど、ウィリアムの安否は分からない、というエンディング。これちょっとフラストレーションかな。
ブラックを効かせたつもりなんだろうけど、皮肉を強調するなら、ちゃんと死んだことを分からせてもよかったんではなかろうか。死んでない可能性もある、という期待を持たせるのは、どうなのかね。
・この映画だったか。M.J.フォックスがどうの、というセリフがあって。「何?」って分からず、メモだけしてたんだけど、これ、マイケル・J・フォックスのことか? 分からんだろ、いきなり、これじゃ。
トールキン 旅のはじまり9/12シネ・リーブル池袋シアター2監督/ドメ・カルコスキ脚本/デヴィッド・グリーソン、スティーヴン・ベレスフォード
原題は“Tolkien”。allcinemaのあらすじは「幼い頃に父を亡くし、母と弟と英国の田園地域で暮らしていたトールキン。しかしその母も彼が12歳の時に他界してしまう。孤児となってしまったトールキンだったが、母の友人のモーガン神父が後見人となり、高校では名門キング・エドワード校に通うことに。そしてそこで、ロバート・ギルソン、ジェフリー・スミス、クリストファー・ワイズマンという3人の仲間と出会い、かけがえのない友情を育んでいく。そんな中、同じ家に下宿している3つ年上の女性エディス・ブラットと恋に落ちるトールキンだったが…。」
Twitterへは「とくに事件も起きず、淡々と生意気エリート青少年の戯言がつづき、そのうえ分かりにくいところがたくさんあるんだけど、妙に残るし気になったのだった。とにもかくにも、こういう育ちだったのね。」
トールキンといったら『指輪物語』か『ロード・オブ・ザ・リング』? くらいしか思いつかず、しかも原作は読んでない。なので、彼個人についての情報もイメージも皆無。ポスターから、ファンタジー世界に夢想する青年作家の恋物語? かとおもったら、ガチな話で肩透かし。しかも、なんらかの壁にぶつかってそれを乗り越え成長するという話でもなく、淡々とあらすじ的に話が進む。のだけれど、妙に飽きもこず、最後まで集中できたのが不思議な感じ。
話は、塹壕な場面をはさみなが、生い立ちから生徒、学生生活を描いていく。塹壕では、インフルにでもかかってるのか、体調悪く、でも、同窓のジェフリー中尉? の安否を気にし、探しにいく、というのを部下が引き止めるんだけど聞かず、仕方なく部下がひとり探しにいくという、戦闘中で、戦友はバタバタ死んでいくのに、はたから見ると身勝手な少尉さんに見える。そうそう。この戦場での幻想が、ファンタジー世界の戦いに重なるイメージが少しあって、そういうイメージはここだけにしかない。
いきなり父親の死? 実は、一緒にいたおっさんを父親かと思ったんだが。なぜって「ロバが手に入った」だったか、よく分からんセリフを吐いてたし。でも、街に出たら母親弟と3人ぐらし。かと思ったら母親も死んでしまって、最初に出てきたおっさんは牧師だったのか、と分かるんだが。
後々まで「?」なのは、この牧師が父親の仕事、ずっと一家の面倒をみて、良家の子弟しか入れない学校に入れてくれ、受験勉強中はエディスとの付き合いはやめろと言ったり、あれこれサポートしてくれたのはなんでなの? なところかな。それほど優秀な子供だった、という描写もなかったし、将来は自分の後を継がせよう、と牧師が思ってたようにも見えなかったから。
まあいい。でその、良家の子弟ばかりの学校で、やたら目の敵にされて喧嘩を売ってくる相手が校長の息子ロバートで、校長がトールキンとロバートに「いつも一緒にき行動しろ」と命じたことから関係が変わっていく。校長息子ら仲良し3人組のひとりジェフリー(だったかな)がトールキンのところにお茶の誘いにきて、始めは警戒してたけど、行ってみたら意気投合。4人でT.C.B.S.なる結社をつくって、以後、いつも4人は一緒に行動するようになる。
という時点でフツーに考えると、トールキンは良家子弟組になっちゃったのかって、嫌な感じがするはずなんだけど、とくにそんなこともなく話が進むのは、要所でトールキンは貧乏人、って念押しがあったりするからかも知れない。
トールキンとジェフリーはオックスフォード、ロバートとクリストファーはケンブリッジと別れたけど、なんとか進学。とはいえ、同じ下宿人娘のエディスに夢中で、勉強も手につかず。試験後「追試をお願いします」とか牧師に言ってたので落ちたのかと思ったら、受かってた。他の3人は、良家の出だから、入試はあったのかどうか知らんけど。
で、入学したはいいけど、今度は授業についていけず、なのか? 奨学金の打ち切りを通告されて退学を決意。というところに、エディスから別の男と婚約した、という手紙が来たんだったか。自暴自棄で酔っ払ったトールキンは学校の芝生に入って大騒ぎ。翌日、学校で老教授に声をかけられ「あれは君か」とか話しかけられ、言語学と、言葉まで作ってしまうほど言語が好き、なんてことを話したんだが、結社仲間に、それはこの本を書いたライト教授だ、と言われて、あわわわわ。専門家相手に偉そうなことを言ってしまった。ということを結社仲間に話したら、ライト教授の生徒になればいいと言われ、直接、聴講を頼みにいくんだけど、いっぱいだ、と断られ。でも、一晩で書いたレポートが評価され、教授の授業出ることが叶い、奨学金の問題もクリアしたのかな。
というところで、対独開戦の知らせ。
ここでやっと、塹壕の場面とつながって。結局、ジェフリー中尉は戦死。他の2人も、1人は戦死で、もう1人はPTSDな感じで人生終わった感じ。校長の息子は、どれだったかな。
で、数年後(実際は10年後ぐらい?)、オックスフォードの教授になってるって、すごいね。で、小説も書いてる風。妻と、息子2人に娘が1人。孤児だったトールキンの大出世物語でした。
神父の世話で、富豪風のばあさんの家に下宿するのは、彼女の慈善事業なのか? 同じ家に、エディスという娘も下宿してて、彼女が後の奥さんって、彼女しか女を知らないのかしら。すごい。純愛! というところも、なかなかキタ感じ。
校長の息子ロバートが、親父が留守だから泊まりに来い、って3人を誘い、ビリヤードしてたら親父が帰ってきて。3人を帰せ、と命じるんだが。3人がロバートをけしかけ、約束は約束、てな具合に主張したら、分かった、って校長である父親が了承するシーンがあるんだが。これで4人は天下を取ったみたいに大歓声。結社の力だ的にはしゃぐ。なんかな。良家の子弟の壁は、こんなもんなのかよ、と思ってしまった。
あと、面白かったのは、学生は芝生に入ってはいけないというルールで。教師は芝生の上を最短距離で移動するのに、学生は通路を歩くという。そういうのがあるのね。
中高生の役者と、上級生〜大学の役者が違うので、校長の息子(金髪巻き毛でなんとか、こいつかな?)とかジェフリーの区別がつきにくいのは、ちょっと困った。
結社仲間。校長の息子は分かるけど、あとの2人の出自がよく分からない。ジェフリーの母親は登場するけど(子供たちが多く戦場で死んでいるのは気の毒な限り)、クリストファーについてはよく分からない。
出自といえば、エディスもよく分からない。どういう関係で、夫人の家に下宿してるのか? 夫人のためにピアノを弾くのが日課、といっていたけど、もともとどういう生まれで、孤児になったのか。いつからいるのか。ビアノはだれに習ったのか? 彼女は学校に行かないの? とか。そうそう。トールキンの弟も、存在だけした見せてくれない。
という意味では、トールキンの周辺の人物についても、もう少しずつ掘り下げたら面白くなったのになと思った。
トールキンとエディスがコンサートに行くんだけど、チケットが高すぎて入れなくて、舞台裏手に潜り込んで耳を傾けるシーンは、なかなかいい。ワーグナー「ニーベルングの指環」なのか。エディスが好きらしい。よく知らなかったんだが、トールキンの『指輪物語』も「ニーベルゲン」も、同じ神話を元ネタにしているのね。
天国でまた会おう9/17ギンレイホール監督/アルベール・デュポンテル脚本/アルベール・デュポンテル、ピエール・ルメートル
原題は“Au revoir l-haut”。「また会おう」という意味らしい。allcinemaのあらすじは「1918年、休戦目前の西部戦線。上官であるプラデル中尉の悪事に気づいたために生き埋めにされたアルベールは、若い兵士エドゥアールに助けられ、九死に一生を得る。しかしその際、エドゥアールは顔に重傷を負ってしまう。休戦を迎え、2人がパリに戻ってみると、戦没者は称えられる一方、生き延びた帰還兵に対しては世間はあまりにも冷淡だった。仕事も恋人も失ったアルベールは、家に戻りたくないというエドゥアールの願いを聞き入れ、彼の戦死を偽装すると、身分を偽り2人で暮らし始める。顔の一部を失ったエドゥアールは、持ち前の芸術的才能を発揮して美しいマスクを作り上げる。そんな中、困窮を極める2人は、やがてある壮大な詐欺計画を企てるのだったが…。」
Twitterへは「犯罪コメディに分類されてるけど、むしろファンタジーな復讐劇な感じ。人物が錯綜するけどちゃんと糸がつながってて、なるほど。ムダに美男美女がでてこないのも、親しみが持てるかも。」
めくるめく妖しいダイナミズム、といっても、スケールは小さいけれど。波瀾万丈の物語が次々と展開。惹きつけられてしまった。どこかの警察署に、手錠の中年男が連れ込まれ、署長と思しき男に尋問されている。その中年男が話すには・・・。で、第一次大戦の塹壕の場面。おお。『トールキン』に連続しての塹壕か。
↑のあらすじは少し違っていて。プラデル中尉は戦争好き、な変態男で。ドイツ軍もフランス軍も、すでに撃ちたくない、という状況で敢えて自軍の兵士2人を真っ昼間に斥候に出す。あっけなく2人は銃弾に倒れ、それをきっかけにドイツ軍から銃撃。仏軍が砲弾攻撃。プラデル中尉は全員突撃命令! アルベールもよろよろ突撃するが、斥候2人が背中から打たれているのを発見。ふと顔を上げると、プラデル中尉が見ている! というところで爆弾が炸裂し、穴に埋まってしまうが、そこにいたのが瀕死の馬で。その馬がくれた空気で窒息せずにいると、上から誰かが引き上げてくれた。それがエドゥアールで、でも、またまた着弾し、エドゥアールは吹き飛ばされてしまう。一命を取り留めたが、下顎を失ったエドゥアールは、このざまで帰国するよりは殺してくれ、とアルベールに。そこで彼は、「お前は死んだことにして生きろ」と、身寄りもなく戦死した兵士とエドゥアールの記録を入れ替え、エドゥアールの家には戦死した、という通知が行くようにし、2人はパリの屋根裏部屋で共同生活を送るようになる。・・・という流れだった。
このプラデルが敵役なんだけど、いまいち本人の性格が分からんのよね。上流階級の出で、政府からの仕事を受注する会社のボス。でも、死者を冒とくするのもいとわず、手抜き工事で利益を得る。妻がいるのに(それも新婚)社員の女房と浮気。高級スポーツカーを乗り回し、羽振りがいい。は、分かるけど、戦闘オタクだというのは、なんなんだろう。自分も死ぬ可能性は高いの。不思議な悪役だ。
これに対するのは、戦場で顔を失い、戸籍からも自分を抹消したエドゥアール。彼の父親は銀行のオーナーで、その娘マドレーヌの亭主は、なんとあのプラデル! どうやら父親は息子エドゥアールの画才を正当に評価しなかったようだ。もしかして銀行を継がせたかったけれど、エドゥアールが拒否したのかも知れない。それでマドレーヌに世継ぎが欲しく、敬意を知らずプラデルと婚姻した、のかも。
もうひとり、エドゥアールとは命を助け、助けられた関係の50男、アルベール。戦前はどこかの経理を担当していたようで、値は生真面目。だけど、戦後復職叶わずエドゥアールと貧乏生活。もうひとり、孤児の娘ルイーズ。まさに最上層と最下層との戦いだけど、その両者には血のつながりがあった、というような構造だ。
で、鍵となるのが、エドゥアール自身がつくりつづける、自らの顔を隠すマスクなんだが。最初は失った下顎を隠す程度だったのが、次第に大きくなり、いつのまにか顔全面を覆うものになっていく。これは、物理的なマスク機能が拡張され、本人自身が変身していく、しかも、華麗に妖しく先鋭的になっていく様子を表現しているのかも。このあたりが見どころかね。
エドゥアールがマスクの下で企んだのが、ある銀行家=実父が発案した戦死者記念碑のコンテストへの応募だった。というのが犯罪映画に分類されている理由だけど、これは手段であって目的でないので、あまり犯罪感はないのだよね。
サンドイッチマンで糊口をしのぎ、傷兵からモルヒネを奪ってエドゥアールのヤク中に応えていたアルベールはある日、エドゥアールの姉マドレーヌの訪問を受ける。というのも、エドゥアールの遺品としてスケッチを送っていたからで、その縁でエドゥアールの父マルセルと3人で食事をすることになるんだが、応接間で見つけたのがプラデル中尉の写真! プラデル中尉はエドゥアールと兄弟? という疑問をしばらく引きずるんだが、のちのちマドレーヌの夫だと分かる。ここは、ちょっと説明がたりない感じ。
でまあ、マルセルのツテで彼の銀行に就職が叶って生活は安定するんだが、それ以上に客の預金(?)をちょろまかしてつくった大金が大きかった。というのも、エドゥアールが考えたのが大規模なサギで。大戦記念のブロンズ像を販売するという名目でカタログを作り、応募してきた連中から作品代を入金させ、それをいただこう、という作戦だったから。そのカタログづくりのために、資金がいったのだ。これは全国から応募がたくさん舞い込んで大成功。でも、悪事を働いてる感じの描写ではなく、金のある奴からいただこう的な頭脳犯な感じが強いので、サスペンス感やスリルはまるでなくまるでコメディ。
さらに、マルセル企画の記念碑コンテストにも応募していて、こちらはその建築資金を頂こうという魂胆。
2人といっしょに行動するのは、どういうわけかエドゥアールになついた孤児の少女ルイーズ(そんなにカワイイ顔立ちではないけど、そこが愛おしかったりする)。エドゥアールの、傷つき失われた下顎を見ても動じず、かえって同情してくれた程。これはまあ、ルイージもまた、家族を失っているという、ともに大切なものを失ったもの同士の共感を描いているのだろうか。もちろん、アルベールもまた、仕事を失っている訳だが。
いっぽうで、プラデル中尉は戦死者向けの墓地を国の委託で進める会社を営んでいた、のかな。だけど埋葬や棺桶でズルのし放題。これを知った3人は、堅物の役人に密告。役人の現地視察で告発されたプラデルは、義父であるマルセルに大臣への口利きを頼み、なんとか助かろうとする。が、アルベールが元上官を諫めに行き、運悪くなのか、プラデルは埋葬穴なのか、に落ちて、死んでしまった、のかな?
マドレーヌも、プラデルの家柄と子種が欲しかっただけ、とかいっていっていて、弟が戦死したので、家を継ぐべき子どもが必要だったということなのかね。
ここで少し疑問なのが、マドレーヌとプラデルが結婚したのはいつか、なんだが。エドゥアールが知らなかったとすれば、戦後なんだろうけど、結構短い間だよなと思ったりして、ここだけが素直に納得できなかったところかな。
でまあ、コンテストに応募されたデザイン案を見ていたマルセルは、遺品として送られてきたエドゥアールのスケッチに描かれていたサインと同じ物がある作品を見つけ、ピンと来る。息子は生きている! で。娘婿のプラデルに作者を探し出すように命じ、その居所を見つけるのだ。まあ、その後にプラデルは死んでしまうんだが。
大金に囲まれ、3人はホテルでバカパーティ。明けて、さあアフリカへ逃げようか、というところにやってきたマルセルに、エドゥアールはマスクを外すことも、返事することもなく、窓から身を投げてしまう、のだよ。ええええええ? なんで? な感じ。これまた納得のいかない展開なのだった。
あの顔では親に会わす顔がない、ということなのか。国民をだまし、親を騙して金を奪ったことを恥じた? そのあたりの、すっきりした答がないのが、とても気になってしまう。
というわけで、アルベールの話を聞き終わった署長は、アルベールを解き放つ。なぜ? 「あの、斥候にでて死んだのは、私の息子だ」というつながりは、出来過ぎな気がして、おいおいだけど、うまくまとまった感じ。
外に出ると、アルベールを待つルイーズと、ポリーヌ。ポリーヌはマルセルの家の家政婦で、なんとなくアルベールといい仲になっていたのだった。というわけで、両手に花と大金で、ここはアフリカだったのね。とはいえ、なぜアルベールが警察に捕縛されていたのかは、よく分からんのだが。
僕たちのラストステージ9/17ギンレイホール監督/ジョン・S・ベアード脚本/ジェフ・ポープ
原題は“Stan & Ollie”。allcinemaのあらすじは「1953年。スタン・ローレルとオリバー・ハーディは、“ローレル&ハーディ”としてハリウッドで一時代を築いた伝説のお笑いコンビ。しかしすっかり落ち目となり、2人は再起を期してイギリスでホール・ツアーを敢行することに。ところが用意されたホテルは2流で、小さなホールにもかかわらず客席はガラガラ。かつての栄光には程遠い試練が続く。それでもめげずにイギリス中を巡っていくスタンとオリバー。次第に観客も増え始め、ロンドンでの公演が決まったのを機に、アメリカに残してきたお互いの妻を呼び寄せる。少しずつ明るい兆しが見え始めたかに思われたローレル&ハーディだったが…。」
Twitterへは「ローレル&ハーディの名前は知ってても見たことはない。まあ、よくある芸人の末路な話ではあったが、劇中コントが面白くて、2、3度笑っちまった。面白かったのが、それぞれの奥方で、話をしみじみと豊かにしている。」
オープニング。絶頂期の2人が控室からスタジオまで、独立話とギャラアップについて話しながら歩いていくワンシーンはなかなか。で、一気に1951年のイギリス巡業になったので驚き。すでに往年の勢いはない。けれど、2人の会話はローレルが書いたコント台本と、撮影予定らしい映画のシナリオのことばかり。芸のことしかないみたい。この手のコメディアンって私生活では仲が悪いとか仲間割れしかないのがフツーなので、ちょっとびっくり。
その後、途中で挟まれるハーディの契約書にサインする場面と、象のシーンが良く分からないまま、が少し気になって引きずるんだよね。
イギリス巡業がどういう経緯で決まったのか分からんが、地方都市では小さな小屋もガラガラ。それでもめげず、大きな荷物を引きずりながら2人だけの移動旅。せっかく駅の階段上まで引き上げた大荷物がガタガタと落ちていく様子は、2人のコメディ映画そのものをなぞってるのね。
それでも2人を知ってる人たちには愛想よく笑顔やジョークを振りまく。芸人だね。感心。移動の最中も、食堂車でアイデア出ししかしない!
英国巡業のマネージャーは、米国でも同じくマネジメントしてる男なのか、知らんけど。2人を見放さないのはなぜなんだろ。まだ金になると踏んだからなんだろうけど、不入りは想定外なのかね。でも、新しく考えたという、2つのドアのある駅でのコメディが大受け。これなら、半ば諦めていたロンドン公演も大丈夫かな。で、開けてみたら、大入り満員のバカ受け。この劇中コメディは、見てて笑っちゃったよ。
ロンドン公演に合わせてアメリカから2人の奥さん方がやってくる。この2人の凸凹具合がとても楽しい。ローレルの奥さんは独特の訛りで、どこの人なんだろ。「スタージェスの映画に出たことがある」が口癖で、態度もでかい。※調べたらIda Kitaeva(1899-1980)で、生まれはロシア。スタージェスはPreston Sturgesだった。こちらのスタージェスは脚本家から監督になり、監督作は13本。大半がスクリューボール・コメディとある。イーダの出演作は2本で、いずれもスタージェス作品。でも、uncreditedになっている。ハーディの奥さんは元スクリプターかな。小柄で、芯から旦那が愛おしい様子が伺える。喧嘩まではしないかと、チグハグな会話が、なんともな感じ。
ロンドン公演の打ち上げパーティで、2人が言い争い。どうやら、かつてハルと袂を分かった、バーディが一人、別会社と契約して象の出る映画に出たことがあるらしく、そのしこりがある模様。これで、あの契約シーンの意味がわかるんだけど、すべてくっきり、ではないのが、モヤモヤ。
ローレルは「勝手に一人で映画に出やがって」、ハーディは「しょうがないだろ、仕事がなくなったんだから」とかいう。ハルとの契約解除時期にズレがあるとかだけど、よく分からず。でも、(たしか)ハーディの「君は僕という人間に興味がない。あるのは、ローレル&ハーディというコンビにだけだ」というのが記憶に残った。まあ、いつも仕事の話ばかりだったからな。
ローレルが下手に出ても、仲違いで口も聞きたくないハーディ。だけど、ハーディが美人コンテストの場で倒れちまって。マネージャーの発案で別の芸人とのコンビで公演をつづけようとするのだけど、幕が開かない。最後の最後で、ロールレが「ハーディとじゃないと」と決断したらしい。
そういえば、映画の話がなくなった、っていうのは、いつローレルがハーデイに伝えたんだっけか。忘れた。
でまあハーディは心臓病で、医者からは仕事はするな、よくなったら帰国して静養、と厳命されている。そんなハーディに気を使うローレル。心が開くハーディ。なかなかしみる。
次のアイルランド公演は中止、と帰り支度のローレルの部屋に、ハーディがやってくる。「やろう」ということらしく、いざ船の人に。アイルランドでは、なぜか港で大歓迎。イギリスも地方では不入り、ロンドンは大入り、アイルランドも大入り。このあたりが、よく分からないが、まあいいか。その公演は、ハーディ、脂汗で息も絶え絶え。よく、奥さんが許したもんだ。まあ、ここら辺は映画的演出なんだろうけど。
映画はここで終わり、あとは字幕での解説。
帰国後はステージに立たなかったローレル&ハーディ。ハーディは1957年に亡くなり、ローレルは196?年に亡くなるまで、ローレル&ハーディの台本を書き続けた、と。なかなか泣かせるいい話だけど、ご都合主義的にエピソードをつないだ感もぬぐえず。とはいえ、Wikipediaによれば、2人はずっといい関係だったとあって、そうだったんだ、という感想。
・ひとつ疑問。コンビ名はローレル&ハーディなのに題名は名字なのはなんでなの?
●終映後に、30年代の2人が出演した映画のギャグ集が4分ほど。大人と子供を演じるやつと、ピアノのやつ。前者では、大きなセットを作って、2人が子供に見えるようにしていたり、すごくお金がかかってる! のにびっくり。
タロウのバカ9/24テアトル新宿監督/大森立嗣脚本/大森立嗣
allcinemaのあらすじは「戸籍がなく、学校に一度も通ったこともない少年。名前もない彼はなぜか年上のエージ(菅田将暉)とスギオと仲良くなり、彼らからタロウと呼ばれるようになる。エージとスギオはそれぞれに悩みを抱える高校生だったが、タロウとつるんでいるときだけは、心を解放することができた。自分たちの町を自由気ままに走り回っていただけの3人がある日、偶然にも一丁の拳銃を手に入れてしまうのだったが…。」
Twitterへは「社会からはみ出た設定の登場人物たちを、実際の障害者と同じフレームに収めるやり方は不愉快この上ない。善悪の区別や、好きという感情が理解できず、他人の痛みも分からないのは、障害だから? うーむ。よく分からない。セリフもよく聞き取れない。」
冒頭の、森の中に隠れるようにある障害者施設。そこで障害者に向かってヤクザが叫ぶ「お前ら死んだ方がいい」は、3年前の相模原の事件そのもの。そして、足立区の河川敷らしい場所で、主人公の一人がつぶやく、高校生拉致事件は、綾瀬の女子高生コンクリート詰め殺人事件のこと。引用元が生のまますぎ。しかも映画の舞台が上空に高速が走る荒川河川敷で、こういう出来事は足立区で発生する、とでもいうのか、短絡・稚拙である。
登場する3人は、たまたま間違いを犯した、というより、非社会的で暴力的なのは生得的。矯正・更正はムリな存在に描かれている。絶望的である。
そういえば、綾瀬の犯人の幾人かが再犯を繰り返し、更正の意味が問われたりもした。もちろん、名前を変えて社会に溶け込もうとしても難しく、それで暴力団に入ったという経緯もあるだろうし、マスコミの執拗な取材もあったに違いない。とはいえ、暴力的、支配的な行為を繰り返すのは、そもそもそういう体質なのではないのか? というような問いかけが、この映画にはあるような気がする。
たとえばいじめは「社会」の中の問題だ。仲間がいて、上下関係があり、抑圧・利用される。ところが、この映画の人物たちは、社会から遠いところにいる(別の言い方をすると、自由人なのか)。モラルも配慮も法律も関係ない。好きにやってる感じ。そして、彼らには、気の毒、という感情は起こらない。
もちろん、3人には、それぞれ社会との関係性の濃淡はある。
はっきりした家庭環境はよく分からんが、エージ(菅田将暉)はスポーツ推薦で高校の柔道部に入ったけど膝を壊して部長に退部を迫られてる。兄貴が部にいて、それは出てくる。校舎内で頭突きくらわせた相手は兄貴だったのか。あれは、畳の上で歯が立たなかったのの仕返し? はさておき、もともと社会性がある存在だったし、善悪も指導されてきたはずなのに、どこで壊れたのか。いや、そもそも無かったのが、解放されてああなったのか。
スギオがいちばんビビリで、その意味で、多少節度があり、罪悪感をもちながら生活してたはず。でも、2人に憧れた。それがよく分からない。父親からは「自衛隊に行け」と言われたと、ヘラヘラ話していた。学校より、それがいいと自分でも思っている感じ。たしかに、昔から、勉強ができず、規律が守れないやつは自衛隊、という風潮は昔からある。上意下達の組織は、もしかしたら合ってるのかも。その意味で社会性があり、ヤクザにもなりやすい存在かも知れない。
タロウは学校に行ったことがないらしく、字が読めない。そんなのあり得るか、という疑問は残るが、近ごろの海外からの移住者の子弟には、学校に行っていないというのもあるらしい。なので、もしかしたら、そういう子なのかもしれない。母親はいて、狭いけどマンションに住んでいて、室内も整頓されている。母親は若く色っぽく、でも何かに悩んでるようだ。誰かが「壺か」どうとか言っていて、それは宗教なのか。ならば悩みはあるんだろうけど、壺を買うぐらいの金もあるわけだから、存在そのものが不可思議。水商売? でも、男の影は見えない。とはいえ、子どもをほったらかしにするような親なんだろう。でも、タロウ自身が、たとえば『万引き家族』の人物のような、引け目も何も感じていないおおらかさなので、気の毒な感じは、ない。
そんな3人が足立区の荒川河川敷あたりで毎日好き勝手してたら誰かに通報されるだろ。彼らと、ダウン症の2人がたむろするサンクチュアリィなのか?
ヤクザは社会の一員なので、善悪を理解している。しかし、3人は善悪の判断ができていない。それは、ダウン症の少年、少女と同じだ、と言ってるのか?
分からないのは冒頭のシーンで。ヤクザ吉岡のセリフがほとんど分からないこともあるんだけど、設定や経緯も分からない。時制も曖昧だ。最初、次の場面で過去に遡ったのかと思ったんだが、そうでもないようだ。であれば、あの、閉鎖された施設はなんなのだ? 相模の時間を連想させるけど、障害者の収容施設? そこに、なぜ吉岡と男が入っていくのか。で、そこにエージがいて、誰かが死んでいて、それを咎めたのか? 吉岡がエージをボコる。で、吉岡と男が死骸を山中の穴に放り込み、手を合わせる男を吉岡が撃ち、ともに埋める。この一連の中身は何なんだ。
エージは、吉岡のパシリかなんかしてたのか?
ところで、施設にいた多くは本物の障害者だった。彼らをこの手の映画に使い、しかも、彼らに向かって吉岡に「おまえら死んだ方がマシだ」と言わせるのは、どうなんだ? 気分的にかなり引いた。何をいいたかったんだ? そして、映画であり、演出されているとはいえ、障害者に与える影響は、どうなんだ?
で。
以後は、3人の乱行。なぜか3人が吉岡を襲い、奪ったカバンから拳銃を見つけ、「無敵!」な高揚感に満たされる。このとき、エージが2人に拳銃を向け、裸にしたりする場面は、バカの見本みたいな行為。仲間にそんなことをするのか? その後、3人に諍いがないところをみると、された2人も恨みはないみたい。これがまた、よく分からない。
3人はかなりひどく吉岡をボコったはずなんだが、しばらくして吉岡と仲間に、エージがつかまる。ところがエージは少し殴られたぐらいですぐ解放される。それはないだろ。拳銃のありかを吐かせるまで、殴り倒すのではないの? 以後、吉岡たちと3人組の追いつ追われつが繰り広げられるけれど、吉岡たちの、なにがなんでも拳銃を取り返す感が見えないのが、不可思議すぎる。話を進めるための都合か? 
エージがボコられる場面でおかしかったのは、女子高生たちがスマホで撮っていて、それに吉岡の仲間が「撮るな!」って怒鳴ることで、コメディかよ。
タロウが公園で見ず知らずのおばさんに拳銃をもたせ、自分を「撃て」と怒鳴る場面も、よく分からない。とくに、自身の状況(社会から見放されている、とか)に対するメッセージとも思えないし。
スギオの父親が、エージとタロウに「付き合うのはやめてくれ」と言いに来る場面があって。エージは「けじめ」と言ってスギオを殴るんだけど、でもスギオは2人と引き離されるのは意に反していたのか、すぐさま3人で抜けだし、見ず知らずのサラリーマンをボコボコにする。こういうことが、スギオもできてしまう。もちろん「死んだかな」と心配はするけど、してしまう。
スギオは、同級生の少女が好きで、でも彼女は売春がやめられずにいる。14歳で初体験して、それこら100人は寝た。肌が触れ合うのは気持ちがいい、とか言ってたかな。セックス依存症か。これまた、矯正できない異常に分類されるのか。彼女とホテルの一室に入り、セックスしよう、という場面があるんだが、どうやってホテルまで誘ったんだ? フツー、ムリだろ。そっちの方が気になってしまう。ここで彼女は男スギオに軽くキスし、でもセックスは拒否して帰ってしまう。彼女は「好きって、なに?」と聞いていたけど、彼女は好き嫌いの感覚が分からない? 感情障害ということか?
このあとだったか、スギオは路上でオバサンを襲い、でも、遂げられずに逃げられる。まあ、そのつもりがあったというより、むしゃくしゃして、だったのかも知れないが。
で、3人は吉岡たちとまたまたイザコザ起こし、タロウが拳銃で吉岡を撃ってしまう。なんか、ここまで対立をムリやり引っぱったよなあ。で、逃げ込むのはいつもの寝ぐらの建築途中の家。なんだけど、こんなの、すぐ追い出されるだろうに。もしかしてトラブル物件で、大工が長期放置してるのか?
タロウは「死んじゃったな、吉岡」とヘラヘラ言い、エージは「虫みたい」とケタケタ笑う。でもスギオは真剣で、ぼんやりと拳銃を頭に当て、撃ってしまう。スギオに、いちばん社会性が残っていて、罪悪感もあったからそうしたのか。壁に書かれていた「いのる いきる しぬ」という落書きは、スギオが書いたのか? 生きる意味、未来への期待、すらも感じられなくなった?
この時すでにエージは後頭部に異常を訴えていて。イザコザの時殴られて脳挫傷かなんかか。翌日、太郎と荒川土手まで行ったけど、そのまま死んでしまう。
社会に近かった2人が死んで、いちばん遠いタロウが残った。で、終わりなんだが、よく分からん映画だった。・「好き」という感情が分からない、は、タロウも言っていたな。タロウは本名があるけど、タロウと呼ばれつづけたらしい。名前は日本名だったが、生まれたときは祝福され、届出もされたのかな。
・河原のダウン症の、少年は、理由は分からないけど、水死してしまう。これまた、どういう扱いなのか、よく分からんままだ。
シークレット・スーパースター9/24ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/アドヴェイト・チャンダン脚本/アドヴェイト・チャンダン
原題は“Secret Superstar”。allcinemaのあらすじは「インドに暮らす14歳の少女インシア。歌が好きで歌手を夢みる彼女だったが、強権的な父親の暴力に母親と2人で怯える日々を送っていた。そんなある日、ついに父親から学業の邪魔になるからと歌うことを禁じられてしまう。それでも夢を諦めきれないインシアは、ブルカで顔を隠して歌を歌い、その様子をYouTubeにアップする。するとその歌声がたちまち注目を集め、“シークレット・スーパースター”としてインド中で話題になる。やがて、それを見た落ち目の音楽プロデューサー、シャクティから、レコーディングの申し出を受けるインシアだったが…。」
Twitterへは「ご都合主義的な設定たけど、後半の盛り上がりが感動的。ベタすぎる話だけど素晴らしい。主人公の娘はぽっちゃりさん。むしろ、母親が美しい。外見も、中味も。それにしても、インドって男があんな威張ってるのか、今でも。」
↑のあらすじの通りで、父親の目を盗んで動画をアップしたり、シャクティと連絡した後は、両親に内緒でムンバイまでひとり、飛行機で日帰り往復して録音したりするんだけど、いやもう、すべてがご都合主義的な流れで、ツッコミどころは満載。だいたい、そこらへんにいそうな女の子がYouTubeにアップした楽曲が、何10万何100万も再生されるかよ。ではあるんだけど、すべてがおとぎ話であると思えば、そういうことはまったく気にならない。むしろ、DVで厳格すぎる父親という壁を乗り越え、大成功を収める超感動的なサクセスストーリーとして、涙ものなのだ。最後の、音楽祭での場面で、「私はシークレット・スーパースターではない。本当のシークレット・スーパースターは、お母さんです」というところで、泣かないやつはおらんだろ。
実をいうと、前半はわりとタルイ。厳格な父親に対しても、もうちょっとおだて、うまくあしらって、都合よく利用すればいいじゃないか、とか思ったりするぐらい。だけど、この父親が、なぜかシンシアにはつらくあたり、弟にはやさしい。妻に対しては、暴力振るい放題。なんなんだ、と思うんだけど、YouTubeに、ブルカで登場する、というところで、なるほど、な感じになってくる。このブルカ、母親のものらしいが、つまりこの家は、ムスリムなのだ。だから男尊女卑なんだろう。となると、これは、インド側のイスラム教批判、ひいては、パキスタン批判が含まれているのかな?
落ち目とスキャンダルであたふた、なシャクティの存在が、なかなか楽しい。演じるアーミル・カーンは、『きっと、うまくいく』の人だったのね。ぜんぜんイメージ違ってて、びっくり。2人の女性と不倫して離婚して、楽曲は売れない・・・。が、インシアに目をつけ、プロデュース。しかも、インシアの両親の離婚調停のため、元妻の弁護を担当した女性弁護士をインシアに紹介したり。やってること滅茶苦茶だけど、憎めないキャラになってる。
インシアも、なかなかの小太りちゃんで。これがカワイイ美人系なら共感も薄まったかも。このインシアと双子みたいに仲のいい母親が、なかなかよい。しかし、夫に殴られ罵倒されても、「お父さんのいうことを聞きなさい」とまで言わせるのは、これがイスラム教なのか? 
夫のサウジだったか、の転勤で一家そろって飛行機で移動、の最中。インシアのギターを「捨てろ」といわれ、ついに母親もぶち切れ、離婚に踏み切るところは、スカッとするところ。とはいえ、夫に逆らい、自立していかねばならない実としては、決断だったんだろう。でも、あのまま中東に行ったら、インシアは見ず知らずの上司の息子(?)の嫁にさせられていたのか? と考えると、妥当な展開か。
しかし、インド映画恐るべし。このところ、感動的な、質の高いものばかり製作している。
エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ9/26ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ボー・バーナム脚本/ボー・バーナム
原題は“Eighth Grade”。allcinemaのあらすじは「優しいけどお節介なシングルファーザーの父と2人暮らしのケイラは憂鬱な中学校生活を送っていた。卒業目前だというのに友だちは一人もおらず、“学年で最も無口な子”に選ばれてしまう始末。なんとか自分を変えようとがんばってはみるものの、なぜかいつも空回り。そんなある日、クラスのイケてる女子からプール・パーティーに誘われ、勇気を振り絞って参加するケイラだったが…。」
Twitterへは「おくてな思春期娘のあれこれ恥ずかし話。見ていてじれったい。考えすぎなんだよ。とはいいつつ、あの年には自分だって・・・。まあ、年を経れば概ね解決するようなことばかだけどね。」
エレメンタリースクールは。1〜6年生で、6歳から。ミドルスクール(ジュニアハイスクール)は、5 or 6〜8年生。ハイスクールは、9年生〜12年生。なので、エイス・グレード(8年生)は日本でいうと中学2年生ぐらいのようだ。14歳?
この映画、あまり感情移入できなかったのは、あまりリアリティがないからなんだよね。とはいいつつ、世界中で評判が高く、「私も!」という声もあるらしい。ふーん。アメリカでも、こういう地味で奥手で自己表現が下手な連中もいるのか。帰国子女なんかのいう、「アメリカは意見を言う国」「自分を出す社会」というのは、じゃ、どうなんだ?
学校では無口で通っていて、でも、秘かにYouTubeに、こうすれば人生OK的な啓蒙ビデオを自信満々にアップしているというのが、よく分からない。もしこんなのがクラスメートにバレたら、「何様?」って言われるだろうに。
そもそも、奥手の原因がよく分からない。ただの性格? 勉強ができないとか、デブだから、ブスだから、という具体的な原因はなさそう。というか、結構小太りだけど、自分じゃ気にもしていないのだから、原因にはならんたろ。だから、余計に不思議なのだ。
で、仲好しグループのリーダー的な娘は出てくるけど、とくに美人ではないし、少しお金持ちかな、という程度。こんなのが、どうしてちやほやされるのか。よく分からない。で、この映画で、いじめが出てこないというのも、どうなんだ、という感じ。いじめられないなら、マイペースでいりゃあいいじゃないか。それができないのは、仲好しグループに入りたい、からなんじゃないの? でも、相手にされないなら、それでいいじゃないか。世間の流れなんかほっとけ、という気になってくる。
スキな男の子・エイデンもいて、これまた全然クールじゃなくて、蓮っ葉な感じで。どこがいいんだ? な感じ。もっと知的でスマートで地味な男の子にすりゃいいだろうに。女の子って、アホだな、と思ってしまう。
実際、ケネディの家のプール開きパーティに招待されて、そこで出会った彼女の従弟とは、ちょっと話して気が合ってたみたいじゃないか。まあ、ラストでは、その彼の家に招待されたのか、会食してたけど、あれでいいんだよね。身の丈、というより、波長が合う相手が、いつか見つかるものだ。だから、いまはうじうじしてても、君の将来は大丈夫だよ、と教えてくれているんだろうとは思うけどね。
もちろん、歳を取ってしまったいま、思春期の感情なんて忘れているから、そんなことが言えるんだ、のは事実なんだけど。でも、合わないやつらにすり寄ってくようなことは、しなかったと思うけどね。
ところで、母親が登場しないのはなんで? と思っていたら、後半で、出て行ってしまった、と分かるんだが。妻に逃げられた父親のことを、カッコ悪い、とは思わないのかしら。この親にして、私がある! とも。そのあたりが、よく分からない。
高校の体験入学というのがあって。そこで、年上のオリヴィアと知り合って、誘われてモールに出かけたりしている。こういうとき、ケイラは引っ込み思案になってないよね。これはもう、環境を変えれば、自分を知っている人はいないのだから、堂々と自分が出せる、ってことで。きっとケイラは、高校生になったら、もっとズケズケとものが言える女の子になってると思うけどね。
とはいえ、オリヴィアの同級生の男の子たちの話は、結構、際どくて。しかも、その一人がケイラを送っていく途中にクルマを停め、裸になるように話しかけたりっていうところは、18ぐらいでそんなこと、フツーするか? な気もしないでもなかった。
セックス話は、同級生エイデンとの間でもあって。「フェラすき?」とかいわれ、その気になってセックスビデオを見て、バナナを・・・なんていう場面もあったりして。好きな男のためなら、いろいろしてあげる用意はあります、な感じがして、日本のフツーとは違うな、と思わせてくれたりした。
あ、そうそう。卒業式の日だったかな。に、エイデンに告白、かと思ったら、ケネディに向かって不満をぶちまけるのだったのだけれど、それがいえるというのは、仕返しなんてないと分かっているからだろうな。だったら、もっと早くに、こちらから相手にしない、でよかったと思うけどね。
アド・アストラ9/27109シネマズ木場シアター3監督/ジェームズ・グレイ脚本/ジェームズ・グレイ、イーサン・グロス
原題は“Ad Astra”。ラテン語で「天界へ向かって」というような意味らしい。allcinemaのあらすじは「地球外知的生命体の探求に人生を捧げた父クリフォードに憧れ、自らも宇宙飛行士の道へ進んだロイ。ある日彼は、探索の旅へと出発してから16年後に太陽系の彼方で行方不明となった父がまだ生きていると告げられる。しかも彼は、太陽系を滅ぼすほどの力を持つ極秘実験に関わっていたという。そこでロイは、父を探し出し、危険な実験を阻止するという人類の未来を懸けた過酷なミッションに臨むべく、壮大な宇宙空間へと旅立っていくのだったが…。」
Twitterへは「つまらない。『地獄の黙示録』的な流れなのに盛り上がりもなく、意外性もない。いささか観念的というか家族的なのは、これが現代だからなのか。月の無法地帯は、ちょっと興味あったけど、地味すぎ。」
前半から淡々とし過ぎ。父との想い出、去って行った妻への想いなどがチラチラ挟まれ、神秘感をだそうとしてるけど、中味がなくて薄っぺら。ロイも、父の跡を継いで宇宙飛行しになったらしいけど、人間的に魅力があるとも思えない。人間が描けてないのだよね。
父親は、冥王星へ知的生命体を求めて行ったけど、ほぼ音信不通? ちかごろ、そこからサージが発生され、地球に影響を及ぼしているから、なんとかしてくれ。ついてはロイ、君は息子だ。火星の地下に、サージの影響を受けていない場所があるから、そこにいって父親にメッセージを送ってくれ。という命令を受けて出発するんだが、一緒に行くのは老大佐(ドナルド・サザーランド)で、こいつが怪しいよね。
ロイに魅力がないのは、少しのことでは動じないという、宇宙飛行士に必要な落ち着きがあるからなんだろうけど、人間性が感じられない。だから話もつまらないんだろうと思う。
月には定期便もあるらしく、軍の他にもビジネス、一般人もいる感じだけど、華々しくはなくて地味な観光地な感じ? ここでだったか、次の火星でだったか、老大尉が持病の不整脈で同行できなくなり、ロイに秘密の情報を渡すんだったよな。まあいい。
で、月の裏側にロケット発射基地があるので、護衛とともにいくんだけど、速攻で愚連隊に襲われるのが、おいおい、な感じ。月には国境もなく、でも、紛争地帯はあるらしい。どの国がどう関与しているのか、に興味が出るけど、そういうのは一切描かれないのが残念なところ。護衛たちは次々にやられ、でも、ロイはちゃんとロケットまで辿り着くんだけど、同じロケットに乗る連中が和気あいあいで怪しい。
で、火星への途次、遭難信号をキャッチ。船長が助けに行こうとするんだけど、ロイは任務のことを考えて止める、のだけれど、結局は折れる、という経緯も謎。それと、副船長が臆病で、助けに行こうとしないので、ロイが行くのだけれど、任務のことを考えたら自分は行かないんじゃないのか? で、行ってみれば実験動物の反乱で、船長はヒヒに噛まれてしまう。やれやれ。という中途半端なエピソード。
ロケットに戻るが、副船長がびびりまくりで、ロイが代わりに操縦して火星に着陸、という副船長の行動はなんなんだ?
火星で、ロイの担当になる黒人女性。ロイの父親が誰なのかは知っていてあれこれ話しかけてきたのは、理由があるんだけど、のちのち分かる。で、メッセージを放送するんだけど、冥王星までどれぐらいの時間がかかるのか知らんけど、映像ではすぐにでも反応があって然るべき、でも返ってこない、的な描かれ方なのがちょっと変。1度目の放送は無機的に。2度目は「父ちゃん!」みたいに情緒的なものになるんだけど、それを見た火星の上司は「君はこの任務に向かない。返れ」というのが、よく分からない。
ここでだったか、老大尉の情報を見ると、ハナからロイの父親を核爆弾で爆殺するミッションが進んでいて、火星まで一緒にやってきた和気あいあいの連長がそのミッションの遂行者たちだったというのは、こじつけっぽいよな。別便で来ればいいじゃないか。
で、冥王星に向かうロケットのことを、担当黒人女性に聞かされる(彼女の父親は、ロイの父親とともに冥王星に行って、死んだ、らしい)。どーも、父親は、冥王星でクルーの反乱に遭ってどーの、というメッセージが過去に送られてきていたらしい。で、父親もろとも、宇宙ステーションを爆破、のために発射させる寸前のロケットに、ロイが乗り込むのは、ありゃ無理筋だろ、な感じ。ケツから炎がでてるロケットのケツの入口から入るんだぜ。で、それを知った遂行者たちの抵抗に遭うけど、都合よく彼らは全身死亡し、ロイだけがロケットに乗って冥王星に向かう、って、都合よく筋が進みすぎ。
70日あまりで冥王星へ。ここも、土星みたいな輪があるのね。ドッキングしようとしたけどできず、ヴィークルは流されてしまう。なんとか中に入ると、そこに父親一人。「帰りたい」という連中が反乱。それを抑えるため、無関係のスタッフも含め、一部エリアを遮断したか空気を抜くかして、まとめて処分したんだったかな。その後も反乱がつづき、残るは父親一人。どーも、調査結果の「生命体はいない」という結論に納得できない父親が、30年(?)間、ひとりでこの宇宙ステーションに籠城していたらしい。で、サージ発生器は、反乱した連中がつくった、といってたけど、よく分からず。そんなものが簡単につくれるのか?
なんとか説得し、宇宙服を着せ、外に出るけど、父親は宇宙を浮遊・自死を選ぶ。これは、取り憑かれた男の運命なのか? で、ロイは鉄板を剥がして楯にし、宇宙ステーション爆破の勢いを得て輪の中をくぐり抜け、ロケットに戻るんだけど、あんなうまく行くわけないだろ。嘘っぽすぎ。
で、ロケットで直接地球に落下。助け出されましたとさ。なんか、いちいち突っ込むのもめんどくせえぐらいな話だった。そもそも、なんでサージがいけないのか分からんし。反乱した連中がなんでサージを発生させたのかも分からない。妻がもどってくるみたいなイメージもあったけど、それも曖昧。あー、退屈だった。
ブラット・ピットも55歳なのね。なかなかのジジイになってきた。
・宇宙軍という言葉が出て来たけど、どういう組織なんだ?
・父親は30年も宇宙船で、空気はどうしてたんだ? 食糧は? 虫歯とか、その他病気は? ウンコの処理は? 気になってしょうがない。

 
 

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