2019年12月

わたしは光をにぎっている12/6新宿武蔵野館2監督/中川龍太郎脚本/未木はるみ、中川龍太郎、佐近圭太郎
allcinemaのあらすじは「野尻湖の湖畔で民宿を切り盛りする祖母・久仁子と暮らしていた20歳の澪。亡き両親に代わって育ててくれた久仁子が入院してしまい、父の古い友人・三沢京介を頼って、彼が銭湯を営む東京の下町へとやって来る。スーパーでバイトを始めるも、人付き合いが苦手な彼女には向いておらず、すぐに辞めてしまう。その後、三沢の銭湯を手伝い始めた澪は、少しずつ仕事を任されるようになり、ようやく東京に自分の居場所を得たと思えて喜びを噛みしめる。そんな矢先、街に再開発の波が押し寄せ、三沢の銭湯も立ち退きを迫られていると知る澪だったが…。」
Twitterへは「発達/学習障害気味の娘が上京してよろよろする話だけど、背景や周囲の人物との関係も曖昧。ミドル/ロングショットが多く、役者の顔もよく見えず。こういう芒洋としたつくりを好む向きにはいいんだろうけど、いまいちセリフも刺さらず。」「京成立石駅周辺の再開発が底流に流れていて、飲んべえの街への郷愁と近代化への抵抗も見せているんだけど、それが最後、生にでてくるのは、ダメだろ。そこだけ説明過剰なのに、それ以外の説明を避けているのも、ダメだろ。」
淡々と、控え目に、なんとなくエモーショナルな映像がつづく。といっても、ポエムではないけどね。とはいいつつ、人物関係とか澪の家族環境とか、そういったことが曖昧にしか描かれないので、隔靴掻痒。加えて、澪の態度がうじうじしすぎで、イライラしてくる。さっさと動け、話せ、とかね。こういうのを生来の性格で納得する人もいるかも知れないけど、あれは明らかに障がいがある感じ。たぶん知的障害も入ってるか。なんていうと、偏見だとか言われそうだけど、いやいや、ちょっと奥手の少女にロマンを投影するような方々は少なくないからね。
冒頭は、田舎の温泉宿? (民宿と書いているサイトもあった)でも、廃業するのか? な雰囲気。そこにデイサービスみたいなワゴンが来てて、当の本人がでてこないので、澪が探しに行くと風呂場で掃除をしてる。そこで、祖母の好きな詩人の古書を手渡される。なわけで、数人に見送られて上京・・・。なんだけど、↑のあらすじなどを読んで、そうだったのか、と思うところがいくつも。
まず、田舎は野尻湖なのか。どこだっけ。新潟県境の長野か。両親に代わって育ててくれたのは、祖母なのか。まあ、これについては中盤で澪が緒方に(だっけ?)話すので、ああそうか、とは思うけれど、遅すぎると思う。それに、映像がヒキで役者の顔もよく見えないので、母親らしい女性と祖母らしい女性の区別がよくついてなくて、湖畔で2人並んで話していたのは、母親と? と思い込んでいたけど、あれは祖母だったのか? というのも、風呂掃除してたのが矍鑠としてて、婆さんに見えなかったからなんだよね。しかも、エンドロールで樫山文枝と出てきて、おやおや、と驚いたのだ。バストショットもロクにないから、分からんよ。
でも、このシーンの無神経さに、本質を見たような気がした。というのも、掃除中の銭湯の長椅子の上に本が置かれていて、それを澪が手にして祖母に近づく。祖母はモップを持つ手を休めて、そのまま本を受け取る。詩について話した後、祖母はページを開いたまま片手で澪に渡す。それを受け取る澪。・・・おい、古書をそんな風に扱うなんて無神経だろ。と。
他に、母親ぐらいの年齢の女性もいたので、ずっと彼女が母親かと思っていた。彼女はいったい誰なのだ? 従業員? 他に妊娠してる娘と、男性もいたか。彼らは誰なのだ?
両親の説明で、よく覚えてないんだけど、父親は別れて出ていった? 母親は生まれたとき死んだ。と言っていた。でも、澪の年齢が分からんので、これまた困るのだ。で、最後の方で祖母が亡くなって帰郷。銭湯・伸光湯のオヤジ三沢も一緒に帰る。で、こちらが母親と勘違いしていた女性と話す中に、「19年前のあのとき以来」ってことは、母親が亡くなった頃? ってことは、実の父親なのか? という疑惑が。そもそも澪の父親と三沢の関係が、旧知の仲という以外分からないので、よけいに思う。
澪の誕生で母が死に、父親はどうしたのか? 家を嗣がず、出奔? いまいずこ、だよな。三沢は、行方を知らないのか? 三沢も野尻湖にいたのか? 澪を預かる因縁でもあるのか? というか、祖母が、澪の世話を頼め櫓関係にあるというのが、解せない。19年も野尻湖に行っていない三沢が、澪の祖母の葬儀に出席する義理はなんなのだろう? と、フツー思うのだよ。
何がきっかけで、澪は状況を決断したのか? 家業の廃止のせい? 地元の高校を卒業し、家を手伝っていたのか、ロクに働かないまま上京することになったのか? 地元で就職したほうがマシだったろうに、いきなり東京というのもよく分からない。周囲の誰も止めないのも不思議。
アーケードを見た瞬間、立石と分かった。3月ぐらいに2度行ってるから。北口の迷路のような廃墟の飲み屋街。南口のアーケード。それはいい。やってきた伸光湯。そこで三沢は1人で営業してるのか? しかし、しばらく世話になるのなら、その日からでも風呂屋の手伝いぐらいしろよ、気が利かない娘だな。さっさとうとうとして、起きたら11時ぐらい? 脱衣所ではしゃいでいる男女は、緒方と、島村? それとも、緒方と映画を撮ってる娘? この2人の女性も、区別しにくい。
立石での生活は、たいして面白くない。なぜなら、澪が成長しないから。スーパーのバイトも、先輩の女子校生にも相手にされない。で、できることから始めよう、という気になって、三沢の手伝いを始めるんだけど。銭湯の売上げが上がるわけでもないから、迷惑が居候しているだけだ。覗きジジイのときは大声が出たけど、三沢の、お客さんのことを考えろ、に応えようとミカン湯を単独で挙行する。見ていて、ダメな人もいるだろうに、と思っていたら案の定、「娘にはアレルギーが」と怒り狂う母親に頭を下げることに。なぜ三沢に相談しない? というか、三沢も管理が足りないだろ。
緒方は地元の映画館でアルバイトで、映写室に居候して地元のドキュメンタリーを、仲間の娘と撮っている、という設定。けど、この、仲間の娘が誰なのか説明がないので、隔靴掻痒。
田舎の宿、東京の銭湯、映画館、昔からの商店街・・・。ノスタルジーに浸るようなモノ・連中ばかり登場させて、去りゆくものへの郷愁をかもし出そうとしているのは、手垢の付いたよくある手段で、中味空っぽな感じ。
緒方の知り合いなのか? 島村という美人は、何者? ラーメン屋の職人が「田舎に帰る」といったら、「聞いてない」としつこく言っていたのは、この島村だっけか、緒方の仲間の娘だったか。そんなことも、はっきりしないような撮り方しかしてない。でその島村が、元彼と食事ということで、緒方も誘われてスッポン鍋をつつく場面は、ありゃ必要なのか? 意味分からん。
三沢が剥がしてた紙は何なんだ? 再開発反対の紙? 伸光湯の建物・土地・権利は、三沢のモノじゃなかったのか? 銭湯をやめることに悔しさを覚えて飲んだくれてたけど、あれもただのノスタルジー? 酔った三沢が、銭湯は終わり、と言った最後に「さっさと仕事を決めて出て行ってくれればよかったのに」てなことをいって、その後、すいません、みたいになったのは、なんなんだ?
なところに、祖母の訃報が入ったのかね。だだっ広い宴会場の片隅に、布団が敷かれている。診ているときは「婆さん?」な感じだよ、背景も説明されてないから。で、食堂室みたいなところで三沢と、最初に母親かと思ってた女生とが話していて、ここで「19年前」とか口にするんだけど、この食堂室がまた立派で。あ、ただの温泉宿じゃなくて、大きなホテル経営してたんだな、と納得したんだけど。あとからHPの情報を見たりしたら、澪の実家は民宿だと書いてある。じゃ、遺体のあった大広間はどこなんだよ。
で、ここで、澪と祖母が三途の川を渡る舟にいるんだが、澪は戻ってきたんだよな。
で、伸光湯の閉鎖前に、緒方の取ったドキュメンタリーの上映会。人、いっぱい。でも、あの手の上映は人集めに苦労するはずだけどね。
の後に、なにやら高層マンションで荷物を整理する三沢が写る。あれは、立ち退き料が入ったってことなのか?
その三沢が、どこかうろうろして、銭湯を見つけて中を覗くと、番台に澪がいる。ふーん。あり得ない展開だろ。銭湯なんてどんどん消えて行ってるのに、どうやって就職したんだ? それとも、ただの幻想か?
の後だったかに、取り壊されいく立石のバラックとか古民家とかが写る。これがメッセージ? うーむ、だな。
そういえば、3月ぐらいに立石に行ったとき、線路の傍にいた老人と少し話をした。線路の位置を移動しながら、再開発する、とか言ってたかな。南側の、アーケードがあって有名なモツ焼き屋のある一角は、残るようなことを言ってなかったかな。北側の、「吞んべ横丁」の看板のある一角は店も半分以上閉まっていて、早晩、取り壊されそうな気配だったけど。まあ、詳しくは知らんけどね。
立石駅に着いて、道を尋ねた相手がエチオピア人、というのは、面白くなくはないけど、あまり活かされてない感じ。後に登場するのは予想されたけど、店に招待されるだけで、とくに澪の成長にはつながってない。要は、澪がぜんぜん成長しないから、愛着も湧きにくいんだと思う。最後に、「わーっ!」でもいいから声を挙げて、自ら誰かに話しかけたり、こまごまと動き回れるようになっているとか。そういう姿を、見せるべきだったと思うぞ。
・ラスト近くの船上、澪と祖母は、イメージだよな。池を三途の川に見立てたのか。そういえば、上京する前に祖母? と並んでた場面も、あれもイメージ? リアル?
家族を想うとき12/18ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ケン・ローチ脚本/ポール・ラヴァーティ
イギリス / フランス / ベルギー映画。原題は“Sorry We Missed You”。allcinemaのあらすじは「イギリスのニューカッスルで介護福祉士の妻アビーと16歳の息子セブ、12歳の娘ライザ・ジェーンと家族4人で暮らすリッキー。悲願のマイホームを手に入れるため、フランチャイズの宅配ドライバーとして独立することを決意する。そのためにはトラックを自前で用意する必要があり、アビーを説得して車を売り資金を工面する。おかげでアビーは介護先をバスで回らなければならず、家にいられる時間がどんどん削られていく。一方リッキーには、個人事業主とは名ばかりの、自由な裁量がまるでない過酷なノルマと、労働者の権利を剥ぎ取られた非情な自己責任のルールが待ち受けていたのだったが…。」
Twitterへは「日本でも宅配と介護、ついでにコンビニ経営も付け加えて、過酷な労働環境を映画化したらいいのに。1936年生のケン・ローチ監督凄い。しかし、あのバカ息子も、かなり足を引っぱってる。甘やかしすぎではないの?」
銀行の取り付け騒ぎで家のローンがダメになり、何だかの理由で定職も失い、あれやこれや仕事をやったけど、金玉が凍りそうな仕事は嫌で、宅配に応募した、というようなことが言われていたけど。銀行の取付でローンが、というのがよく分からない。銀行が倒産して、組んでたローンがダメになったってことなのかな。その他の仕事もうまく行かないというのは、仕事が悪いのか本人の問題か。でも、宅配は、仕事だけでいったらリッキーは真面目だし、よくやってたけどね。というわけで、問題は、個人事業主というかたちで参入した宅配業なのか。これは、日本でいったらコンビニの形態みたいな感じなのかな。
奥さんは訪問介護をしてて、とても律儀で良い人な感じ。ダメなのは息子で、落書きアートに夢中で学校を休み、スプレー缶を盗んで御用になって学校を停学。すべて親の足をひっぱることしかしない。娘はまだ幼いのか、トラックの鍵を隠せば万事うまく行くと思っているレベル。というなかで、しっかりしろ、といいたいのはやっぱり息子で。15、6にもなりゃ親の苦労も分かって家を支える手伝いもするものだ、と思ってしまうのは古い日本人だからか。
宅配業者は、システムとしては経営側のリスクを最小にして労働者を使い捨てにするものだから、問題はあると思う。簡単に休めないし、罰金はかかる。けれども、健康で頑張り屋で上手く廻っていれば、そこそこの稼ぎになる感じ。まあ、リッキーもそうするつもりだったけど、息子の件や、自分がトラブルに巻き込まれたりと、なかなかうまく行かない。そうなると負の連鎖で、のっぴきならなくなっていく、というような話だった。
思うにそもそも、妻のクルマを売ってトラックを買ったことがミスだな。あとは、息子の育て方。なんであんな具合に育ってしまったのか。そもそも。、ああいう性格だったのか知らんが。親が叱りつけているときにケータイをいじってばかりとか、信じられん。父親がそれを取り上げたら、母親が「あの中には友だちも宿題もすべて入っているのよ」というけど、宿題なんてするようなタマじゃないぞ、あの息子は。
というわけで、いかにもケン・ローチらしい視点での映画ではあるけれど、息子が真面目で親の手伝いもするような家族だったら、同じ設定で、話はどう転がるのだろうか、という話を見てみたい気がする。
ところで、リッキーが「休みをくれ」と上司に言ったとき、上司が「このボックスにはデータが詰まってる。俺の銅像がたってもいいくらいだ」とか、会社のシステムについて誇らしげにいうような場面があったけれど、いまいち理解できなかった。どういうこと?
アマンダと僕12/19ギンレイホール監督/ミカエル・アース脚本/ミカエル・アース、モード・アメリーヌ
フランス映画。原題は“Amanda”。allcinemaのあらすじは「パリで便利屋として働く青年ダヴィッドは、パリにやって来た美女レナと恋に落ち、幸せな日々を送っていた。しかしある日、仲の良かった姉が無差別テロに巻き込まれ、亡くなってしまう。悲しみに暮れるダヴィッドだったが、一人遺された7歳の姪アマンダを引き取る必要に迫られる。子どもを世話する責任の重さに戸惑いを隠せないダヴィッド。一方アマンダは、あまりにも大きな喪失を前に、幼いながらも懸命に向き合おうとしていく。そんなアマンダの悲しみに寄り添ってあげたいと思いながらも、どう接していいか分からないダヴィッドだったが…。」
Twitterへは「いまいち分かりにくいシナリオのせいで話がすんなり頭に入らんのが残念。人物も、誰これ? 的なのがポコポコでてくるし、最後は尻切れトンボ。ウィンブルドンでのアマンダの涙と笑顔も、よく分からん。みんな自分勝手なのはよく分かったけど。」
ギンレイHPの紹介文もロクに読まず、だったので、いきなりのテロで母親=サンドリーヌが死んでしまったのには少し驚いた。というか、それまでほとんどドラマがなかったので、やっと話が始まった感じ。なんだけど、この映画、シナリオが良くない。会話の中で名前だけ登場する人物も結構いて、あとから登場してもピンとこなかったり、いろいろ中途半端。それと、時間の流れや経緯もアバウトなところが多い。問題のテロだけど、それ以前のシーンと言ったら、サンドリーヌがシッター(?)に娘を預け、荷物を持ってどこかへでかける場面がまずあり、そこでダヴィッドに「パンを買ってきてくれ」といってたけど、自宅に、かと思ってた。次はダヴィッドがどこかの駅にいて、でも何かのトラブルで電車が来なくて、レナに「送れる」と言っていたのかな。次はいきなり自転車に乗ってるダヴィッドで、公園のようなところにいくんだか、血まみれの人がたくさん。てな具合で、いったい何があったのかよく分からず。もう一度見れば、もしかしたら、情報が分散されながらもちゃんと説明されているのかも知れないけど、見ていた限りでは、どこそこでピクニックで誰と誰が集まって、というようなことがはっきりとは言われてなかったような気がする。なので、誰か犠牲になったの? な感じで、レナもいたの? あと、もうひとり、名前がでてた人がいたな、ぐらいな感じ。あれは、分かりにくい。
日本なら肉親の遺体が病院に安置されていて、そこに近親者がいて、なんていう場面になるだろうけど、遺体を確認するような場面もない。レナもいたというのは、しばらく後でダヴィッドが会いに行って分かったほどだ。そして、後日になるのか、足をケガした男のところに見舞に行くんだけど、あのオッサンが、名前だけでてたピクニックの参加者なのか?
てな具合で、状況がスッと分からんのがいらつく。
そもそも、一族の状況も、よく分からんのよね。最初に出てきた婆さんは、母親かと思ったら叔母で、父の妹、と後から分かる。そんな歳でもなさそうなのに、アマンダを預かろうとは自分で言いださないのはなんでなの? 持病でもあるのかいな。名前だけでてた人物は、イギリスにもいて、テニスを見に行って会うとか何とか言ってたけど、それが実の母親なのか、とはっきり分かるのは、後半になってから。しかも、その母親はもともと英国人で、離婚して国に戻ったというようなことらしい。そういうことが、小出しにちょろちょろなので、イラつくのだ。
最後に、ダヴィッドとアマンダは当初(サンドリーヌが生きていた時にすでに)予定していたウィンブルドンへテニスを見に行くんだけど、ついでの予定に入っていた通り、姉弟の母親に会うんだけど、これまたつれない対応。表面的には支援すると言いつつ、まだ早い的なことを言ったりして、得体が知れない。すでに離縁して夫に任せた娘と息子には感心があまりないよね的な感じなのだ。もちろん、アマンダにも。
その前にだったか、ダヴィッドはアマンダの面倒を見る、と決意するのだけれど、ためらっていた理由も曖昧だったし、決意した理由もよく分からない。いろいろ、よく分からないので、どーも感情移入しにくいのよね。
さらに、ダヴィッドが知り合ったレナという女性も、変。ピアノ教師でロックバンドやってて、っていうからバンド仲間が出てくるのかと思ったらそんなこともなく、ダヴィッドと恋仲になる。なんのためにパリに来てるんだ? レコード店でバイト生活? が、アマンダにピアノを教えるようになりピクニックにも誘われた、らしいんだけど、レナが教えてる場面もサンドリーヌと一緒の場面もないので、いまいちピンとこない。なレナはテロで右手を負傷して、再起不能なのか? よく分からんけど、ダヴィッドとの仲も終わりにして田舎に戻ってしまう。というのも、なんだかな。後日、ダヴィッドが訪ねていって、乳繰り合う場面でおっぱい見せてくれるけど、意味ない露出だよな、あれは。
で、映画の終わりは、ウィンブルドンで。誰かと誰かの試合で一方的に負けているので、アマンダが「プレスリーは建物を出た」と言うんだけど、これは冒頭でサンドリーヌが「終わり」という“表現”の例として教えたやつなんだけど、負けてた方はフランスの選手だったのか? 知らんけど。泣いてるアマンダにダヴィッドが「まだ終わりじゃない」というと、負けてた選手が復活してジュースまでもってきて、アマンダは笑顔になる、というところで終わるのも、唐突すぎ。
てなわけで、すべてに中途半端なデキで、いまいち感情移入できず。それに、アマンダ役の少女が、とくに可愛くもなく、むっちり小太りなのも影響してるかも。
ある女優の不在12/23ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/ジャファル・パナヒ 脚本/ジャファル・パナヒ
イラン映画。原題は“Se rokh”。英文タイトルは“3 Faces”。allcinemaのあらすじは「ある日、イランの映画監督ジャファル・パナヒのもとに、マルズィエという少女の遺言動画が届く。女優を志して芸術大学に合格したものの、家族の裏切りでその道を絶たれた。憧れの人気女優ベーナズ・ジャファリに家族の説得を依頼しようとコンタクトを試みたが叶わなかったため自殺を決意したという。映像は彼女が首にロープをかけたところで止まっていた。その動画をパナヒ監督から見せられ、ショックを隠せないジャファリ。2人はことの真相を確かめるべく、マルズィエが住んでいたイラク北西部のサラン村に向かうのだったが…。」
Twitterへは「設定も展開もよく分からず退屈。映画の9割方を占める田舎のムダな人物と会話がじれったい。まあ、パナヒ信者はそういう部分がいいのかも知れないが、背景を知らないと理解できないような映画は、メッセージもつたわらないだろ。」
とくに監督がどうのと知らずに、中東映画、という印象だけで見始めた。冒頭の携帯画面。女の子が自撮りであれこれ訴え、首をつるというモノだけど、実は近くに携帯をいじるババアがいて、それに気をとられて集中できず、詳細なセリフが把握できないまま。なので、マルズィエのメッセージがあやふやなまま見始めたのが悔やまれるところ。女優になれない、芸術大学がどうの、友だちがどうの、といってたかな、ぐらい。で、次は車内で、ロケをすっぽかしてきた女優ジャファリと監督パナヒが、縊死現場に向かっているところという設定なんだけど、ここからもうよく分からない。携帯画像は、マルズィエの友人がジャファリあてに、でもパナヒの携帯に送ってきて、それを見た2人があわてて現場に向かっているというのは、現実的に変だろ。マルズィエはジャファリの連絡先が分からない? では、パナヒとは旧知なのか? いや実は、あまりにつまらないので、うつらうつらしながらだったから、分からないの二乗なのだよ。ははは。
で、マルズィエの家に行くんだけど、母親は娘をかばうけれど、弟というのが怒り狂っている。あれはなんなんだ? 意味不明。どうも、田舎は芸人を恥じるような文化が未だあると言うことらしいけど、だったらそうちゃんと描かないと。雰囲気じゃわからんよ。
マルズィエはやっぱり生きていて、友人? なんとかいう名前。友人では亡いのか? (往年の女優だという話もどこかのWebに書いてあったが・・・)のところに世話になっていて、けど、誰かに火をつけられるかもとオドオドしてたりする。女優とマルズィエとの会話は、具体性もなくアバウトなことばかりいいあって、まどろっこしくてじれったくて、いらいらする。そういうのをよそに、友人?はのんびり、絵を描いたりしているのも不思議。※うつらうつら鑑賞だから、詳細は曖昧。
まず、舞台が良く分からない。トルコ語が使われているところ? でも、イランだよな? ペルシャ語がどうの、と、得体が知れない。そのロケーションは、なんか意味があるのか? で、地元の人たちは監督と女優に親切で、あれこれ世話を焼きたがるけど、裏では軽蔑していたりするところも描かれているけれど。でも、そんなことを描いて何になるのだ? イランの田舎はこんなで、大学にも行けず芸能界も恥ずかしい存在にされていると訴えて、何になるのだ? そんなの、映画のテーマにするのはくだらねえだろ。
他にも田舎の風習のようなことが、本筋と関係なくあれこれインサートされて、これがどうでもいいような話。崖の一本道の道の譲り合いのシステムとか、自分の墓を掘る老婆とか、足を折った種牛が道路をふさいで通れないとか、息子の割礼で余った皮をどうすると縁起がいいとか、さっさと終わらせて本筋に戻れ、とイライラしっぱなし。
最後は、マルズィエの父親が帰ってきたのかな。父親は、理解があるんだろうか? 激高する弟を家から追い出すけれど、その弟は監督のクルマのガラスを割っちまったようだ。そのクルマで監督と女優が帰ろうとすると、一本道の向こうから雌牛のトラックが何台もやってくる。女優は、歩いて先に行くという。後方から。女性の声で、女優に追いついて一緒に歩いて行くところで終わるけど、あとから来たのはマルズィエなのか? 彼女は家出したのか? 彼女の友人はどうなるのだ? 
あと、もうひとり女優がいるらしいんだけど、それは、マルズィエの母か祖母? 友人の母? 誰だっけ? 登場しない女優らしい。これも合わせて、タイトルの“3 Faces”なのか? よく分からんな。つまりは、イランで女優になるのは大変だよ、ということ? くだらねえ。
カツベン!12/24109シネマズ木場シアター6監督/周防正行脚本/片島章三
allcinemaのあらすじは「子どもの頃、活動写真小屋で観たカツベンに憧れ、自分もカツベンになることを夢みて成長した青年、染谷俊太郎。見よう見まねでカツベンの技術を身につけた彼だったが、訳ありな事情を抱え小さな町の映画館、靑木館に流れ着く。そこで雑用係として働き始めた俊太郎は、館主夫婦や先輩弁士をはじめ個性の強い曲者たちに囲まれ悪戦苦闘の日々を送る。やがて靑木館がライバルのタチバナ館の攻勢で窮地に陥る中、ついに弁士デビューのチャンスをつかむ俊太郎だったが…。」
Twitterへは「もったりした感じで始まったのは、後半のスラップスティックコメディへの助走だったのか。監督は周防正行なんだけど、三谷幸喜といわれても、そうかな、と思うような感じ。クレジットに、どこにでてたの? な役者名は、劇中映画の中なのかな。」「しかし、大正14年といったら、間もなくトーキー登場の時代。この映画に登場していた弁士や役者、映画館主は、その後、どういう人生を送ったんだろう。と思いを馳せてしまったよ。」
今回、周防正行は脚本を書いていない。書いたのは片島章三で、『ハッピーウエディング』の監督だった。この映画以降も助監経験が長いのはなぜなんだろ。とはいえ、サイレントや当時のギャグに詳しいのか、よく調べたのか、分からんけど、そういう役回りの人なのかも知れない。周防らしさが薄いのも、脚本への参加が、皆無ではないだろうけど、少なかったからか。
冒頭の、子ども時代のシークエンスは、いまいちピリッとこない。子役が下手なせいもあるし、撮り方の工夫がないから、かも知れない。いろいろとベタだし、心に残らない。
その後もテンポは悪く、もっさりしてる。撮り方も、ピリッとしない。青木館の主人が2回の床を踏み抜いて足を突っ込むあたりは、まだスラップステックとはいえず、リアルに近い。それが、タンスの引き出しのギャグあたりからバカっぽく、スラップスティックになっていく。なんだこれは。アホっぽい、と思ったんだけど、これは映画自体がサイレント時代のスラップステックを取り込んでいき、どんどんカリカチャライズされていくという流れなんだろう。たぶん過去映画の有名なギャグをなぞっているのかも。観客を、次第にサイレント時代の映画の世界に取り込んでいこう、という構造を狙ったのかも知れない。ラストへは、追いつ追われつ、逃げろや逃げろの展開になっていき、俊太郎は牢獄へ。梅子は京都の撮影所へ、という引き裂かれる運命も、定番の泣き別れな運命な感じ。終わってみれば、じわじわと話の中に引き込まれていき、すっかり堪能してしまった。
最も感動的だったのは、安田の手下の大男に喉を潰され、その状態で舞台袖に上がるが声が出ない。そのとき、梅子が女役の声を買って出て、2人活弁で場内の喝采を浴びるところ。まあ、その後もドタバタになるのだけれど、見せ場をちゃんと作ってくれているのは嬉しい。
そして、ラスト。牢獄で『ジゴマ』の活弁を唸り、看守や他の受刑者から喝采。たまたま面会? に来ていた梅子もそれを聞き、長年の約束だった『ジゴマ』を堪能でき、思い残すことはない、とキャラメルを差し入れるというのも、ベタだけど気が利いている。
興味深かったのは、最初の方の撮影現場で、役者がセリフの代わりに「いろはにほ!」とか、しゃべっていること。へー。そんな具合にしていたんだ! という驚き。そして、多少のジャマが入っても撮影を続行してしまうおおらかさ。なかなか面白い。
それにしても、あんな田舎の映画館で、専任の弁士がいたり、引き抜きがあったりするのは、どうなんだ? と思っていたものが、翌日の12月25日、国立映画アーカイブを訪れたら、膨大な数が書かれた弁士の番付表があって。なるほど、当時はとんでもない数の弁士がいたんだな! と分かって、モヤモヤは解消した。
エンドロールに、草刈民代 上白石萌音の名前が。さらに、HPを見ると、シャーロット・ケイト・フォックスも。え? どこに? うーん。きっと、上映されていた劇中映画の中の俳優かなあ。分からんけど、
さそりとかゑる12/25シネ・リーブル池袋シアター2監督/毛利安孝脚本/毛利安孝
allcinemaのあらすじは「演歌・歌謡グループ “あまがゑる” として活動する鴨川一郎、三郎、四郎の三兄弟は、メジャーデビューを夢みながら、地方のドサ回りを懸命にこなす日々。そんなある日、場末のスナックで訳あり風の男、町田と出会う。そして彼らの歌声を気に入ったといって、半ば強引にマネージャーを買って出る町田に振り回されてしまう三兄弟だったが…。」
Twitterへは「やりようによってはもっと面白くできそうな雰囲気なんだけど、いろいろ手抜きとかツメの甘さがもったいない。不思議はいいんだけど、謎のママほったらかしては、見る方は少しストレス。」
設定がいろいろ不思議。でも、それはいい。要は、どうまわしていくか、で面白くもなり、つまらなくもなる。この映画は、いろいろとビミョーである。つまり、不思議の風呂敷を広げただけで、そこそこ回収していかないのだ。たとえば、最も大きな設定である、町田の“運び屋家業”。これが、いまひとつ腑に落ちない。別に、何を運ぶか、ではない。つぎつぎ尻取りのようにブツを渡し、預かり、しつつ関東甲信越をクルマで行き来する。その経緯が、もやもやするのだ。
冒頭の足利で、3兄弟がみかけたカバンをもつオッサン。電話にでて悲嘆にくれていたが、彼がなぜブツとして町田によって運ばれなくてはならなかったのか? どこかの組織が始末するなら、そんな手間をかける必要はない。手間をかけた理由が透かして見えれば、ふーん、なるほど、になる。それがない。そのオッサンはヤクザで、ブツを奪われ、殺されかけたけれど、3兄弟によって助けられる。そして、最後にブツ=カバンをもっていったアパートに行く。でも、なんでヤクザがもっていたカバンが、あんな手間をかけて運ばれなくてはならなかったのか。その理由が、うっすらも分からない。これは、モヤモヤする。
3兄弟が長男、三男、四男で構成されているのはなぜか? 町田も、食堂で3兄弟に尋ねるけれど、たちまち場が暗くなった。で、最後まで、その理由は分からない。これも、モヤモヤする。なら、そんな設定にする必要はないだろ。ついでにいうと、病室にいた少女は誰なのか? そして、彼女はどうなったのか? 彼女を応援したのは、どういう理由だったのか?
ほとんど唯一、疑問が解消されるのは、町田の過去で。田舎のレコード店の店内に、かつてデビューした頃のポスターが。しかも、サソリがどうのというタイトルの曲。そうか。それで町田は“あまがゑる”の3兄弟を応援したくなってしまったのか。そして、冒頭で町田がカエルをクルマで轢けなかったのは、かつてサソリの歌を歌っていても、町田自身はサソリではない、そして、ヤクザはヤクザ、ということなんだろう。疑問を回収したのはこれぐらいで、あとは広げっぱなしというのは、ちょっとね。もうちょいシナリオを詰めて、まったく明らか、でなくてもよいから、示唆するぐらいにできたら、感想は変わったかも。
ヤクザが、宇宙人かも、というのは、OK。でもまあ、三男の妄想でもいいわけで、なんとでも解釈できる。あんなもんで、十分。
他にもいくつか。
ラストで、警察に逮捕され、出てきた町田が「北海道でテレビ出演が決まった」とか、いうのは、なんなんだよ。どういうルートなんだよ。唐突すぎる。
冒頭の駅は足利の近くで無人駅で、そこから20キロの地点のスナックでキャンペーンって、地理的に異様すぎる。そのスナックに電話したのは3時ぐらいで、到着予定は7時。目的のスナックは20キロ先。バスはすでになく、歩けば4時間かかるはず。だから、あんなのんびりしてられないと思うぞ。
キャンペーンは、自費あるいは押し売り的なのか? で、スナックでは客も来ず、深夜に。そこに町田がやってきて、一緒にクルマで行動を始めるんだが、町田が来なかったら、3人はどうしていたのだ? 深夜、駅まで歩いて戻るつもりだったのか?
そのスナックで、町田がかかってきた電話に激怒していた理由は何なのだ?
上越市という設定だったか、深夜のシャッター商店街で歌い、終わると町田が手のひらを出して、拳を繰り出させる。拳と、演歌の拳のダブルミーニングは、しょぼい。そして、一郎が、勢い余って路上のゴミ袋に突っ込むんだけど、あきらかに路上の真ん中で、一郎が倒れてもいいように置いているクッション代わり。そう見えてしまう美術は、ダメだろ。
監督/●脚本/●
原題は“●”。allcinemaのあらすじは「●」
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