mid90s ミッドナインティーズ | 10/1 | 109シネマズ木場シアター5 | 監督/ジョナ・ヒル | 脚本/ジョナ・ヒル |
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原題は“Mid90s”。allcinemaのあらすじは「90年代半ばのロサンジェルス。兄と母との3人暮らしの13歳の少年スティーヴィー。体が小さい彼は暴力的な兄に怯えて暮らす日々。ある日、街のスケートボード・ショップで、店に出入りする年上の少年たちと知り合う。スケボーの腕前もさることながら、悪いことも平気でする自由な姿に憧れを抱き、彼らの仲間に入れてもらうスティーヴィーだったが…。」 Twitterへは「スケボー不良にあこがれる中坊の楽しくも苦々しい話。ダルデンヌ兄弟みたいなセミドキュメントタッチで、突き放したような描き方がちょうどいい。いまじゃ40凸凹になってるはずの彼らのいまは、どうなってるんだろう、と思ったり。」 押しつけがましさも教訓もなく、ただ、あるがままな感じで、結論も特になく、映画としては良くまとまってる。主人公の立ち位置は明確で、憧れる連中や家族のキャラもはっきりしてるから、戸惑うところはひとつもない。とはいえ感情移入できないのは、自分が、ああいう世界に近づいていったこともないし、禁忌を破ることを快感としたこともないからで、その意味ではいい子だったわけで、それは、別の面から言えば、面白くねえ奴だった、ってことだろう。でもそれを悔いてはいないし、いまだって気が小さい。それに、仲間と一緒にいることを求めないし、1人でいてもなにも不自由はしない。したいことは1人でする。スケボーに世界を見たりもしない。それは家庭が経済的に恵まれいたから、では決してない。要するに、個人の素質だ。環境のせいではないのである。と思っているから、映画としてよくできていても、それ以上の思い入れは発生しないのである。 スティーヴィーが小柄なので10歳ぐらいかと思ったら、あとで13歳と知っておどろいた。なら、ああいう行動もありうるか、と。にしても、いろいろ幼いのは、母子家庭だから? でも兄イアンはたぶん17ぐらいだけど筋トレしてスポーツ関連のアイテムをコレクションして潔癖症みたいに整然と並べている。とはいえ、あとからスティーヴィーに「友だちもガールフレンドもいないくせに!」と言われてショックを受けていて、アメリカでは仲間と女の子は必須条件なのか。よくある青春モノのもやしタイプ主人公がそういう感じだけど、イアンはハンサムだし、なんであんな感じなんだろ。しかも、よくスティーヴィーを殴ってストレスを発散させている。なのに、スティーヴィーは兄思いで、誕生日のプレゼントも考えたものを送っているのに、イアンは、ふん、てな感じで。でも、喧嘩してない時はちゃんと会話もするし、不思議な兄弟なのが面白い。 黒人のレイはボードショップの店長なのかな。いちばんスケボーが上手い。その仲好しはファックシット(が口癖)で、サモア系の黒人? いいとこの息子で親に大学に行くよう言われているけど無視して、スケボーとパーティと女の子が頭の中の総てで、あきらかにアル中でドラッグもやってる刹那主義。フォースグレード(4年生)は、イアンに言わせると「靴下も買えない貧乏」で、頭も悪いから4年生なんて呼ばれてるけど映像が好きで、映画を撮りたいと考えている。だから、つねに仲間の様子を撮っている。ルーベンはスティーヴィーの少し上なのか? 同年齢かも知れない黒人で、家庭はよくなくて、始めはスティーヴィーに兄貴かぜをふかしてたけど、スティーヴィーが他の連中に好かれていくと、態度が変わってくる。まあ、ありがち。…な連中がたむろってるボードショップにじわじわ近づいて会話に仲間入りして、「黒人は日焼けするのか?」という誰だったかが言った疑問にレイが「分かんないのか?」なんてはぐらかしてるうち、スティーヴィーにも応えるよう噺を向けられ、「黒人って、なに? 知らない」とかいって、この応えが気に入られた経緯かな。スティーヴィーは分かっていてそう言ったのか、どうかはよく分からないけど。 スケボーの場面が多い。どうやって飛んだり回転させてるのか知らんけど、よく見ていても、分からんな。 ほとんど乗れなかったけど、みんなの真似して屋上のギャップを跳び越えようとして下に墜落し、でもその勇気が認められ、レイからちゃんとしたボードをもらって、ケガなんかそっちのけでご満悦なスティーヴィー。ファックシットの家のパーティでは、年上の女の子に誘われ、部屋で服を脱がされ、チンポいじられ、自分はマンコに指突っ込んだりと、青春の儀式を通過し、それを仲間に報告するとか、なかなか素直なところもみんなに気に入られ、そのうちスケボーも少しずつ上達していく。たどたどしい青春。 でも、そんな仲好し関係が、少しずつ変化していく。まあ、当然だろう。 ファックシットは酒浸りで、レイの知り合いであるスケボーのプロたちにも失礼な態度をとるようになる。でも本人はまったく気にしない。ルーベンは身の置き所がなくなってスティーヴィーに当たり始める。知性的なレイは、そんな仲間に手を焼き始めようとして…いた矢先、酔ったファックシットの「パーティ行こうぜ」にしぶしぶ同意するけど運転が心配だから「家まで送れ」、フォースグレードも「降りる」といってた直後、画面は暗転。事故っちゃった! スティーヴィーだけが大けがで、あとは軽症だったのか。入院してるスティーヴィーの横には、母親と兄のイアン。母親が待合室に行くと、仲間の4人が寝てる。そのレイを起こし「会いたいでしょ?」と促すという流れが、定番だけどなかなかいい。だって、一度は「うちの子に近づかないで!」ってボードショップに乗り込んで行ったんだぜ。その後、スティーヴィーは母親の言うことを効かず、罵るようになっていたのに…。仲間思いの連中にほだされた、のか。まあ、イアン曰く、「昔は母さんも遊びまくってて、男が入れ替わり立ち替わり、夜もあの声で眠れなかった」っていうぐらいで、イアンを生んだのも17歳とかいってたから、そうなんだろう。スティーヴィーとイアンも、父親が違うのかも知れない。そんな家庭があたりまえ、なアメリカの1990年代半ば、の話である。 病室にやってきた仲間に、スティーヴィーはなにかの写真を見せるんだけど、あれはなんの写真だったんだろう? いや、スティーヴィーのケガは、どの程度だったんだろう? 気になるけど。というところで、フォースグレードが「見るか?」といって、病室に映し出すのが、編集したビデオで。そこには、みんなで仲よくつるんでスケボーしてる場面が映る。じゃん。で、いきなり終わる、という粋なラスト。 貧乏。見えない将来。刹那主義。逃避先はスケボー。酒。タバコ。ドラッグ。若いうちに女のこと関係…。という典型的な背景だけど、ファックシットは裕福な家庭だし、スティーヴィーだって片親だけど、いまはまともな母親とともに暮らす。レイだって仕事はしてる。類型にあてはめるような安易なメッセージはなくて、いろいろ考えてしまう。 黒人の中に白人がいる状態についてもチラチラ言及されていて、フォースグレードなんかは「白人でも弱者はいる」といっていたし、ファックシットは「初めからハンデ」といっていたような…。このことについては『行き止まりの世界に生まれて』でも描かれ、話していたので混同してるところはあるんだけど…。簡単には決めつけられない奥深さ。 ・通学しているはずの学校のシーンがまったくないのは、物足りない。チビだから相手にされないとか、兄貴が変人でバカにされてるとか、弱虫の友だちはいるけど物足りないとか、そんな背景が少しあると面白いと思うんだけど、まあ、フツーの映画になっちゃうかもだけど。 ・画面はスタンダードサイズだったけど、サイズを感じさせない映画だった。 | ||||
行き止まりの世界に生まれて | 10/2 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3 | 監督/ビン・リュー | 脚本/--- |
原題は“Minding the Gap”。allcinemaの解説は「監督のビン・リューは、少年時代から自分たちを被写体にスケートビデオを撮り続けていた。成長した彼は映画監督を目指し、スケボー仲間でアフリカ系アメリカ人のキアーとカリスマ性のあるザックにカメラを向ける。大人になった彼らは多くの問題を抱えていた。なぜ、こんなことになってしまったのか、彼らへのインタビューを通して原因を探ろうとするビン監督だったが…。」 Twitterへは「昨日見た『mid90s ミッドナインティーズ』の元ネタ(かどうかは知らんが)みたいな感じで、似てるんだよね。こっちはドキュメントで、大人になってみな現実にぶつかってる。リアル。とはいえ中盤は平板だと思うけど。」 スケボー青少年。カメラを回す仲間。若い両親、赤ん坊、でも別居。アルコール漬け。貧乏。低学歴。あらら。昨日見た『mid90s』と設定がそっくりじゃん。あっちは13歳の不良志願が主人公だったけど、こっちにはそれはいない。あっちより年上で、20歳超えたぐらいの3人の若者が描かれていて、なかの1人は撮影者で中国系のビン。主に写されるのは白人のザックと若い妻と2人の息子、そして黒人のキアー。こっちは2018年製作で、『mid90s』も2018年製作か。たまたまなのか? なんか、こっちを見てドラマ化したのが『mid90s』みたいにも思えるけど、それは分からない。 編集がチラチラバラバラしてるので、3人の関係がよく分からないのが、いまひとつ。分かりやすいのはザックで、キアーはあやしいな。ピンは、途中からときどき顔が出るけど、一緒の場面がないので、だれこれ? なところがある。幼い時の映像は、誰がどれか分からんし。もうちょい3人の様子が分かるようなベースがあって、その上で個々が描かれる方が見やすかったような気がする。この編集と、スケボーシーンがつづくせいで、中盤はちょっと飽きてきて、少しトロっとしてしまったよ。 あと、さかんに生まれ育ったロックフォードのせいでこうなってる、みたいなことを言うんだけど、いまいち納得はできない。環境のせいにしてはいかんよ。同じ環境からでも、ちゃんとできるひとはいるのだから。数年後にはザックは別の街に移っているし、キアーもデンバーだったかに行っている。なこと、当たり前だろ、と思う。出て行きゃあいいのだ。アメリカじゃ死ぬまで故郷を離れない連中も多いと言うけど、そんなの知ったこっちゃない。 始まって早々、ザックはつき合ってる彼女に子供ができて、出産。では落ち着いて働いてラブラブかというと、なんと毎日喧嘩で。妻は子供をザックに預けて遊びに行くし、それをザックは不満に思ったりしてて、映らなかったけど、ザックのDVもあったらしい。なので、妻は叔母の家に避難し、別居してしまう。そもそも、結婚してたのかどうかも疑わしい。なので、週に何日か、父親として会ってはいたようだけど、なんだかな、な感じ。アメリカは、こんな感じでみんな片親になっていくのか? | ||||
ブリング・ミー・ホーム 尋ね人 | 10/5 | 新宿武蔵野館2 | 監督/キム・スンウ | 脚本/キム・スンウ |
韓国映画。allcinemaのあらすじは「ソウルの病院で看護師として働くジョンヨンは、6年前に当時7歳だった息子ユンスが公園で姿を消して以来、懸命にその行方を捜し続けていた。ある日、そんな彼女のもとに有力な目撃情報が寄せられる。その情報を頼りに郊外の漁村へ向かい、ユンスに似た少年ミンスがいるという“マンソン釣り場”を訪れたジョンヨン。しかし釣り場を営む一家も従業員も“ミンスなんて少年は知らない”と言い張るばかり、頼みの地元警察も不自然なまでに非協力的で、明らかに何かを隠していると直感するジョンヨンだったが…。」 Twitterへは「最初はトロトロしてて、いまいち盛り上がらない。こりゃまずったなと思ってたら後半一気にドロドロにパワーアップ。おおおお。こうなるのか。スゲエ。おそるべし韓国映画。」 行方不明になった子供を探す若夫婦の話らしい冒頭。だけど、どうしていなくなったのか、の説明がまったくなくて、少しイライラする。失踪、誘拐、事故? 手がかりも提示されない。同じように行方不明の子を持つ親の組織や、支援する人、はたまた、発見された家族も紹介される。トロトロしてて、いまいち話に入り込めない。 子供の誘拐は中国映画にあった。『最愛の子』(2014)。あれはひとりっ子政策での果ての事件だったけど、同様のことは韓国でも今でもあるのか? 働き手? しかし、いつの時代の犯罪だ。もしかして実話ベース? などと思いつつ見ていた。目撃情報などを募っているらしく、夫の方がその情報をもとに車を走らせていて、事故死。情報は嘘で、被害者家族をからかう類のいたずらだった。スマホの情報からなのか、犯人は見つかったけれど中学生あたりらしい。ひどい話だ。こういうやつらを罪に問えないのか? という話とともに、海辺の釣り場でこき使われる少年が描かれ出す。こき使っている連中は釣り場の経営者のようだけど、地元警官やらなにやら、得体の知れないのがたくさんいて、関係性がよく見えないのがイライラ。 署長と新任警官がその釣り場にやってきて、新任の方が行方不明ポスターをもってきて、「似ているけど…」と話すのだけれど、署長は釣り場と怪しい関係らしく、首を突っ込むな、な対応。 なので新任は個人的にジョンヨンに電話するんだったかな。あと、よく分からんのが、それと前後して、男が誰かを使ってジョンヨンにコンタクトし、報奨金の頭金を奪う場面があったんだが、でもその情報はあの釣り場を差していて、じゃ、情報源の男は誰だったんだ? よく分からんけど、釣り場で班長と呼ばれてた男か? よく見えなかったけど。 な訳でジョンヨンは日帰りのつもりで釣り場に行くんだけど、たまたま子供は狩猟に連れていかれていて、撃たれた鹿を運ばされていたりして…。悪人連中に問いただしても素直に返答がもらえるはずもなく、帰れ、帰れといわれるだけ。のあたりから、ジョンヨンがスーパーおっ母さんになってくる(『黒い家』の大竹しのぶを連想したよ。こっちは悪人だけど)。夜、悪人たちの家に潜入し、別の子供が鎖でつながれているのを発見したり、あれやこれや。疑いを深め、潜入捜査の果てにデブに捕まり、あわや、というところで何かの薬を使ってデブを意識不明にし、危機を回避。の後も、鎌をつかって連中に斬りかかったりと大立ち回りで、でも、最後はこの機に乗じて逃げ出していたミンス(ユンスか?)が波にさらわれてしまう…。 翌朝、なのかな、浜辺で少年を発見し、抱きすくめるのだけれど、反応はない。とはいっても、まあ、この流れでは生きているはず、でも、その気配もない演出は、うーむ、な感じ。ピクリ、と指が動くとかすればいいのに。 で、半年後ぐらい。釣り場にいた年下の少年で、ジョンヨンになついていた子供は、養子になった様子で、2人でどこかへ行く。そこは孤児院らしく、いるのはミンスなんだろう。ということは、ミンスはユンスではなかった、というエンディングなのね。行方不明のユンスを探す旅は、まだまだつづく、ということなのね。 ・しかし、新任警官はいいとしてあの署長は何なんだよ。不愉快すぎて心がムカムカ。素性がよく分からんが、ああいう連中や警官は、韓国にはまだフツーにいるのか? と思ってしまうような映画だよ。 ・ジョンヨンが連中の住み家に入ろうとすると、殺人・強姦犯のお尋ね者のポスターが。顔は、あのデブなんだけど、そんなポスターを身近に貼っておくものか? でも、デブはちょっと知恵遅れ的な描き方だったし、自慢して貼っているとも考えられる。そして、もしかして、デブは幼児姦淫もしてたのか? ・釣り場の場所も教えて前金とった男は、あれは班長? 何の班長なんだ? 班長は前科者? 刑務所の班長? ・ラスト。生きてると思ったけどあの反応は? でも生きてるよな、と思ったら生きてたけど。片方を養子にして、片方を孤児院に入れる理由が分からん。とくに、ミンスは似ているのだから、こちらを養子にしてもおかしくないと思うんだが。 ・ミンスはユンスではなかった。では、なぜ床に、ユンスと名前を刻んでいたのか? 誘拐されたのがはるか昔のことで、ポスターを見て、自分はユンスなのかも、と思ってのことかな。 ・ところで、ジョンヨンvs悪人たちの結果は、変態デブ死亡? 女は顔に傷? 班長は重傷? 署長(釣り場に出資してるのか?)は溺死? でも、オーナーみたいな2人は、ぬくぬくなのか? よく分からん。・ジョンヨンがデブに打った何とかいうクスリは、冒頭近くに登場していて、危険だということが示唆されていた。それはいいんだが、ジョンヨンは何のために持ってたんだ? 武器として? 自殺するため? | ||||
浅田家! | 10/6 | 109シネマズ木場シアター3 | 監督/中野量太 | 脚本/中野量太、菅野友恵 |
allcinemaのあらすじは「幼い頃から写真を撮るのが大好きだった浅田政志は、家族全員を巻き込んで製作したユニークな写真集で写真界の芥川賞といわれる木村伊兵衛写真賞を受賞する。これをきっかけに、ようやく写真家として軌道に乗り出した矢先、東日本大震災が発生する。被災地に向かった政志は、その被害の大きさを前に、写真家の自分に果たして何ができるのか自問してしまう。そんな時、津波で泥だらけになった写真を一真一枚洗って家族のもとに届ける写真洗浄ボランティアとして奮闘する人々と出会い、その活動を手伝い始める政志だったが…。」 Twitterへは「久しぶりに映画に没入。笑わせてもらって、泣かせてもらった。ほんと面白い家族。菅田将暉はほとんど気がつかず、な使い方。何度か行ったことのあるEARTH+GALLERYが登場してた。」 冒頭、父の葬儀の場面で、「?」。というのも、先日見たパルコミュージアムの『浅田撮影局』で、父親は車椅子だったけど存命だったよなあ…。それに、妻の「お父さん!」という泣き方が大げさで。なんか演出にギクシャクがある感じ。その後も、テンポや間の悪い展開で、いまいちスキッとしない。 話は淡々と進み、大阪の写真専門学校から戻ると、腕に刺青。なんだけど、両親はそんなことより、卒業できるかどうか怪しい、ということの方に関心があるのが、家族として不思議というか違和感ありありなのよね。なんだ、この人たち。 ふと思いついて、あの日、家族がケガして母親が看護婦してる病院に行ったときのことを、現在の家族で写真にする、というのを思いついて卒業写真に提出したら好評価で卒業。実家に戻ってきたけど[定職にも就かず、だらだらして」と兄だったかが言うと、みなが父親の方を見る、のがおかしい。妻が看護師長になるので、父親は家事専門になっていたのだ。これまた不思議な家族。でも政志はパチスロで15万入れている、とか。 で、ふと思いついて、父親のなりたかった職業が消防士だったからと、その恰好をして写真を撮ろう、という発想になるのはいいけど、兄が知り合いの消防士に頼み込み市の消防車を借り、一家で写真を撮ってしまう、というのも、これまた不思議な一家。それにしても、頼めば消防車の1台ぐらいなんとかなるのか。レーシングマシンにも乗ってたし。大したツテでなくても懇願すれば、なんとかなるのか。ふーん。 で、たまった家族写真をもって上京、というから、どっかのギャラリーに持ち込んで個展? かと思ったらそうはせず、いきなり出版を考える、というのが不思議な発想。本人はスタジオでアシスタントのバイトしてたようだけど。 そんな政志を応援する幼なじみがいる、というのも不思議な話で。上京して転がり込んで同棲してしまうのだから、厚かましいというか、そういう仲だったというのか。これ、史実かどうか知らんけど…。で、彼女が個展会場探してきて(この場所が木場のEARTH+GALLERYだった)、見に来た写真集専門出版社の女社長が気に入って、即出版! でも、自費出版だろ、金はどうすんだ? と思ったら、印税での出版だったのか。びっくり。そんなことがあるのか。 で、その後、出版社に木村伊兵衛賞受賞の電話が入るんだけど、あまりにも淡々とし過ぎてて、違和感。というのも、たしかノミネートがあっての決定だったと思うから。そして、ノミネートされただけで大騒ぎ、なはずだから。なので、ノミネートで盛り上がる演出の方が納得しやすかったかも知れない。とはいえ、たった1回の個展と出版で? まあ、本人の経歴を見ると、個展は何回かやっていて、ニコンギャラリーでもやってるようだったから、それなら、と、思いはしたが、映画的に端折りすぎかも。 で、写真集の末尾に「家族写真撮ります」と書いておいたら依頼が何件かあって。応じていく様子が楽しい。なかで、脳腫瘍の子の、Tシャツに虹を描く場面は、なかなか泣ける。その後も、震災後の東北で泣けるシーンは何度かあって、まさに悲劇と人情というベタすぎるエピソードで、なんだけど、そのベタさ具合がとても自然に描けているのが素晴らしいと思う。 で、富山の美術館で個展の打合せ(なのかな?)中に東日本大震災が発生。最初に家族写真を依頼してくれた岩手の家族を1ヵ月後ぐらいに訪れると、家はなくなっていた。避難所を訪れと、汚泥まみれの写真をきれいにしている青年に出会い、その作業を手伝うことになるのだけれど、これまた写真家らしいエピソードでいい。しかも、政志は被災地で写真を撮らないのだ。 政志が写真を洗っている一方で、瓦礫を片づけている人を写す写真家たちが、登場する。そう。災害があると駆け付けて、ジャーナリズムを標榜して撮る人々。一旗あげようという魂胆なのか。そういう写真が、ずいぶんあった。けれど、政志はまったく写さない。そういえば、「家族写真撮ります」で最初に依頼がきた野田町の家族。最初に政志が打合せに行ったとき、「今日はカメラももってきていない」といっていたんだけど、そんなことがあるのか? これまた不思議なことだ。 父親の72歳の誕生日に実家に戻り、その誕生日のパーティで父親が脳梗塞で倒れて意識不明。命に別状ないけど、半身マヒは残る、という状態でICU(?)に入っている。翌日、兄弟で高田寺に行って、かつて父親が年賀ハガキ用の写真を撮ったことを思いだしていて、政志は「これだ!」と、思いつく。実は、被災家族の小学生ぐらいの女の子に、家族写真を撮って欲しい、と言われたんだけど、政志にはどうしても撮れなかったのだ。なぜって、父親が見つかっていなかったから…。政志が考えついたのは、遺品である父親の腕時計を自分がはめて写真を撮ること。政志と兄の写真には、父親は写っていない。なぜなら、撮ってくれたのは父親だから。政志が被災家族の父親、という体で写真を撮れば、家族写真になる、というわけだ。うーむ。なかなか。 というアイディアを思いついた政志は、寺参りの帰りに父親の様子を見てくるはずだったのに、「岩手に戻る」といい、兄を置いて家に荷物を取りに戻る。母親が、「お父ちゃんどうやった?」「行かんかった。用事を思い出したから、東北へ戻る」という政志に、母親がビンタ。そして。「病気の父親を置いて自分の好きなことをしに行く息子を殴ったこの痛みは、置いていかれる母親の痛みなんだから、それを忘れてんといて。はよ、好きなことしに行き」というようなことを言って送り出す母親がカッコイイ。 以前に、「人様の写真なんか並べやがって!」と怒鳴ってきたオッサンが、「娘が見つかったけど遺影がない…」と言ってきて、卒業アルバムを探すくだりも、感動的。 なことしていて、煮え切らない政志に、「画廊代もろもろ100万返すか、私をどうにかするか、どっちかにしろ」と凄む彼女もカッコイイ。けど、そんな好かれる理由は何なんだ? うらやましい。 で、冒頭の葬儀の場面にもどって、でも、これまた「父親の葬儀」という設定の家族写真だった、というオチに、やっぱりな、と思ったのだった。 いや、それにしても、他のことを考えることなく、映画に没頭できたのは久しぶりだったよ。 | ||||
82年生まれ、キム・ジヨン | 10/13 | 109シネマズ木場シアター3 | 監督/キム・ドヨン | 脚本/ユ・ヨンア |
allcinemaのあらすじは「結婚・出産を機に仕事を辞めた82年生まれのキム・ジヨン。今は育児と家事に追われる忙しい日々だったが、次第に自分の母や友人が憑依したかのような言葉を発するようになる。ジヨンにその時の記憶はなく、心配した夫デヒョンは、一人で精神科医に相談に行くのだったが…。」 Twitterへは「原作は読んでないのだが、そういう話だったのか。世代の話かと思ってた。アレを家父長制とか嫁姑とか男尊女卑とか子育てに結びつけてもしょうがないだろ。大きな期待外れだった。」 小説の評判がいいから、世代論的な部分かなと思って見ていたんだけど、そんな気配もなく。結婚、子育てで会社復帰がなかなかできず苛立つ30半ばの女性と、仕事を始めようとする彼女を阻む姑、夫、なんかが延々と描かれて、特に新鮮なところはない。むしろ儒教思想が色濃く残る韓国では、いまだに「女は…」的な発言が多くて、なかなかの男尊女卑国家だな、という印象しか残らない。 なかなかドラマが始まらないな、と思っていたら、正月に夫の実家に戻り、予想通り妻は働かされどおしど、でも、ついに切れて夫の家族(釜山だったかな)に暴言を吐いてしまう(という風に見えた。というか、セリフの意味がよく分からなかった)。 そのまま家に戻ったんだっけか、妻の実家に寄ったんだったか。それはさておき、夫が会社で同僚に「知り合いの奥さんが憑依して云々」という会話をしているのが浮いた感じで、なんだ? と思っていたんだけど、よく分からず、そのまま見ていて。あれ? もしかして、妻は乖離性同一障害か? と気づいたのはずいぶん経ってからのこと。で、遡って、夫の実家での暴言は、それだったのか…。「ジヨンを帰して!」とかいうセリフだったと思うんだけれど、字幕だったから分かりにくかったのかもね。そうか。それで同僚に「憑依」の話題をふり、妻を精神科にいくよう薦めたのか。なるほど。 これ、原作を知らない観客にも、ちゃんと分かるのかな。俺だけ気づかなかった? いや、分かりにくいと思うんだけどね。 でまあ、要は妻の多重人格の話で。そうなったのは旧態依然の家父長制と、嫁の立場の弱さ、女は子供を育てるもの、仕事なんてしなくてもいい、という考え方にある、いいたいようだ。でも、精神病は素質であって、環境が契機になることはあるだろうけれど、いずれなる、ような病気である。たまたま契機がそれだったとしても、ほとんど意味がない。だって、大半の女性はそうしたシステムにずっと従ってきたんだし、現在もそうしている人がいるのだから。なので、話自体がまったくつまらないものになる。 多重人格なんてもちこまず、家父長制のおかげで夫婦離婚の危機、子供に当たり散らす、虐待に…てな話ぐらいにしておけば、まあ、あるだろうな、な印象になったはず。 妻は、夫が撮った映像で自分が他人のような口ぶりになることを見せられ、簡単に納得し、精神科を受診。病気がいつ発現するか分からないからと、元の上司が起こしたベンチャーには就職せず。でも、昔からの文才を活かし、『82年生まれ、キム・ジヨン』という小説を書き始める、というところで終わっている。なんか、都合のいい終わり方だな。多重人格者総てにそういう才覚があるはずもなく、病気のせいで離婚したり子育てできなくなる可能性だってあるだろうに。むしろ、妻の病気をあまり気持ち悪がらない夫の理解が、なかなかだね、と思ってしまった。知りたいのは、彼女の病気とその症状を知った、夫の家族の反応だ。それは、たしか、描かれてなかったと思う。 | ||||
ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語 | 10/14 | ギンレイホール | 監督/グレタ・ガーウィグ | 脚本/グレタ・ガーウィグ |
原題は“Little Women”。allcinemaのあらすじは「1860年代のアメリカ、マサチューセッツ州。マーチ家の四姉妹の次女ジョーの夢は小説家になること。そのためなら結婚できなくても構わないと思っていた。そんな強い信念ゆえに、周囲と衝突することもしばしば。一方、長女のメグは結婚こそが女の幸せと信じるおしとやかでしっかり者の女性、対照的に末娘エイミーは生意気盛りで元気溌剌な女の子。そして家族の誰からも愛されている心優しい三女のベスは、病気という試練と闘っていた。ある日、メグと一緒に参加したパーティの会場で、近所の裕福な家庭の若者ローリーと出会い、意気投合するジョーだったが…。」 Twitterへは「原作は読んでない。4姉妹のあれやこれや。冒頭から誰がどれやら…。しばらくして現在と過去が色分けされてるのに気付き、30分過ぎぐらいから、なんとなく分かってきた。で、ラストは原作と違うの?」 最初は、英国の下宿にやってくる娘。そのあと、老婦人と馬車に乗ってる娘が青年を発見。なんだなんだ? かと思ったら学芸会みたいな場面と、娘たち…。子育て中のエマ・ワトソン? てな感じで、地理的なことも含め、どこで誰が何をしてるのか、分からんままガチャガチャと短いつなぎの映像がパッパと映る。過去? ん? で、やっと30分ぐらいして、現在はブルー、過去はオレンジ調の画質なのに気づき、それとともに4姉妹も見分けがつくようになってきた。こういう見せ方は好きじゃない。最初にはっきりちゃんと4姉妹を見せ、紹介しなくちゃ。 でまあ、4姉妹の家は中流家庭なのか。父親は南北戦争に従軍中。近所に大邸宅があって、そこに息子ローリーがいて。それから、金持ちの伯母(父親の姉)がいる。長女は凡人なのか、大邸宅の家庭教師が好きになって、結婚。次女は小説家志望? 最初の頃、芝居の脚本を書いていたのは次女か? 三女はピアノが上手。なんだけど、いつ、どこで習ったんだ? 四女は絵が上手。とまあ、これだけみると、中流というより、上流に近いんじゃないのか? あとは、ローリーをめぐる次女と四女の複雑な関係とか、結婚後の長女の貧乏生活とか、病弱な三女の儚い人生とかがつづれ折りになって行く感じ。とはいえ、長女と三女は、添え物的な感じかな。主人公は、この物語の作者である次女。この次女とローリーを争う気の強い四女、が脇役な感じ。とはいえ、キャラの異なる4人の娘がガチャガチャやっているのは、役割分担が分かって見れば楽しいし、それなりに、人生いろいろ、って感じで、それぞれに波瀾万丈のドラマがあって、ドラマとして見ていて面白い。 とくに、イギリスに渡って小説を出版社に持ち込むと早速売れて、でも、通俗小説を書くよう指示され、そういう小説を書きなぐっていると、下宿にいる青年教師に「そんなんでいいの?」と言われてしまうんだけど、のちに、家庭内の些細なあれやこれやを小説にし、でも編集者は「こんなの売れない」というんだけど、編集者の子供たちが「続きを読みたい」というので出版に至る、という経緯は、サクセスストーリーなので感情移入できるし、楽しい。 でも、出版に当たって、編集者は「主人公を結婚させろ」と厳命し、どうやら次女はそうしたようなんだけど、この経緯がよく分からなかった。というのも、書いた小説は4姉妹の話で、いわば私小説。その主人公は次女で、ローリーとは結婚せず、ロンドンで出会った教師とも結婚しない、という話だったはず。それを、小説では結婚させた、ということなのか? というのも、映像では教師が西海岸に行くというのを追っていき、引き留め、結婚することになっているからだ。映像になっているのは、次女が書いた小説の話なのか? 実際は、次女は結婚しなかったのか? 結婚するというエンディングは、次女の本意ではなかったのか? などと、疑問が湧いたからだ。 しかし、ローリーに「あなたとは結婚しない」といった次女が、最後に、やっぱり…と、ローリー恋しい手紙を書くのはなんなんだ? どうも踏ん切りが悪い。次女がダメなら、と四女に結婚を迫るローリーも、なんだかな。まあ、次女も四女もローリーが好きだったんだろうけど。でも、ローリーから求婚され「私はいつも2番手。ジョーの次。それは嫌」と言い放つ気の強さは、なかなかだと思ったんだけど。最後、ローリーは四女と結婚してしまう。一見幸せそうでも、なんだかなあ。 最後、伯母が亡くなって、資産は弟である4姉妹の父親に譲られたのか? 屋敷は学校になって、三女は亡くなったけれど、次女と教師、長女と教師の夫、四女とローリーらが賑やかに子供たちと過ごす様子は、嘘くさい気もしないでもないけどね。 | ||||
リンドグレーン | 10/14 | ギンレイホール | 監督/ペアニル・フィシャー・クリステンセン | 脚本/キム・フップス・オーカソン、ペアニル・フィシャー・クリステンセン |
原題は“Unga Astrid”。Ungaというのは、若い、という意味のようだ。allcinemaのあらすじは「スウェーデンの自然豊かな田舎町で自由奔放に育った16歳のリンドグレーンだったが、次第に保守的な環境に息苦しさを感じ始める。やがて地方新聞社に職を得た彼女は、編集長のブロムベルイに文才を高く評価される。いつしかブロムベルイと深い男女の仲となり、19歳で予期せぬ妊娠をしてしまうリンドグレーンだったが…。」 Twitterへは「児童文学者の悲惨な青春…。新聞社の頃は生き生き、なのに、その後はバカ人生。うんざり。しかも芽が出始める前で終わってるので爽快感まるでなし。暗い気分になるだけだろ、これじゃ。最後はハッピーエンドに! って、これは『若草物語』の方か。」 ちょっと変人ぽい娘がいて、でも作文が得意で。そのツテで、地元の新聞社からお呼びがかかったのは17歳ぐらいなのか? そのうち垢抜けてきたのはいいんだけど、妻と離婚調停中で、愛人もいたのか? (銀食器を返せと言ってきた女性は、妻? その妻との間の子供が亡くなった? 子供が亡くなったのは、愛人? よく分からん)な主筆というか、新聞社は1人でやってたようだけど、な中年オッサンといい関係になり、妊娠…。というところから、あとは最後まで話は暗いまま。ちっともスッキリしない。うんざり。 冒頭は、世界の子供たちから送られてきた手紙を見るシーンで、主人公のリンドグレーンは児童作家らしい、と分かっていたので、ではそのサクセスストーリーが描かれるのね、と思っていたら、そういう話はまったくなくて。地元で妊娠が知られるのは困るからとストックホルムの秘書学校に行き、同宿の娘に教わったデンマークの里親屋を頼ってデンマークで子供を産み、でも子供は里親に預けっぱなし。たまに会いに行っても、里親になついていて、リンドグレーンには「嫌い!」としか言わない。それでも何年かして里親が病気になり、それをきっかけにして息子を引き取るのはいいけど、面倒を見るのが精一杯で、秘書の仕事もままならず…。だったんだけど、理解のある上司に恵まれて。な結果、子供も次第に懐いてきて。なところで映画は終わってしまう。なんなんだよ。 そもそも妻ある中年のオッサンに身体を許すのが、よく分からない。いまいち垢抜けない田舎娘が、なんでそんな尻軽なんだ? 妊娠すると、主筆の「逮捕監禁かも」を信じ、妊娠を知られまいとストックホルムに逃げる、というのも場当たり的。デンマークで出産後、そこの里親に子供を預けっぱなし、ってのもテキトー過ぎる。費用はどうしてたのかね。たまに会いに行っても自分にはなつかない、なんていうのは当たり前の話なのに、それでイラついたりする。主筆の離婚が成立し、一緒に暮らそう、という誘いをなぜか断ってしまうのは、なんで? さらに、里親から子供を呼び戻そうとして、でも子供がなつかないからって、引き取らない。そんなの自分のせいだろ。だからって両親に当たり散らすことはない。「あの子は私の子で、あなたの孫なのよ!」なんて、いってることが身勝手すぎるよね。子供なんて、次第に慣れるものだ。あのとき引き取ってりゃ良かった。だって、数年して里親が病気で倒れたら、仕方なくなのか引き取っていて、それでもちゃんと子供は生母に慣れてきている。早いうちに引き取ってりゃよかったんだよ。としか、思えない。いろいろ無知すぎて、まったく感情移入できない。 で、最後は、子供が慣れてきて、近所に仲よく散歩に行っているような場面になって、幸せを予感させるけど、話はそこまで。こんな陰気な話じゃなくて、児童文学を書き始める契機とか、最初の本とか、そういう場面を見せて欲しかった。 えーと。あとね。冒頭と最後に、老いたリンドグレーンが、読者たる子供たちから送られてきた感謝の手紙を見る場面なんだけど、背後からの映像で、ほとんどシルエットなんだよね。なので、ジジイかと思っていたのだ。なので、本題が始まって、主人公が女の子なので、え!? と思ったんだった。 でまあ、あとは。この映画で偉いのは、リンドグレーンの両親だろ。見放すことなく、ずっと見守ってくれている。それに対する感謝の思いが、リンドグレーンからはちっとも見えないのが、残念至極。 | ||||
博士と狂人 | 10/19 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/ファラド・サフィニア | 脚本/トッド・コマーニキ、ファラド・サフィニア |
イギリス/アイルランド/フランス /アイスランド映画。原題は“The Professor and the Madman”。allcinemaのあらすじは「19世紀中ごろ。貧しい家に生まれ、独学で言語学者となったマレー博士は、オックスフォード大学で進められていた新たな辞書編纂プロジェクトの中心を担うことに。そのあまりにも壮大な計画は困難を極めるが、謎の協力者から送られてくる大量の資料が大きな力となる。協力者の正体は、南北戦争で精神を病み、殺人を犯して精神病院に収監されているアメリカ人の元エリート軍医マイナーだった。それでも、言葉に対する情熱と世界最大の辞書作りという大きな夢によって固い絆で結ばれていく2人だったが…。」 Twitterへは「博士は博士号がなく、狂人は博士(医者)なので始め混乱した。実話らしいけど、辞書編纂話は退屈。中盤、赦しと愛で目が覚めたけど、深掘りまで行かず。言葉の定義や赦しについてなんかは、翻訳・字幕では伝わってこない。大学の人間関係も物足りず。」 監督はイラン人らしい。 後から知ったんだが、編纂するのは「オックスフォード英語大辞典」で、世界最高峰といわれるものらしい。そんなこた知らん。なので、マレー博士の入れ込みようなんかは、なにこの人? なんだよね。最初に、辞書の権威づけをしてくれた方がよかったかも。つまり、最初に殺人、次に当時の辞書の様子とオックスフォードが目指したもの、そして、市井の学者マレー博士の様子…。そもそも誰がマレー博士に目をつけ呼んだのか、が分からんし。そうすれば、主軸が辞書編纂になって、理解しやすい。でも、映画はマイナーも同じウェイトで同時並行で描いているので、なにこの人? になってしまう。そのマイナーも、狂気に至った原因もさることながら、もともと読書好きだったとか言葉の世界に遊ぶ人物だった、てなことを最初に刷り込んでくれた方が、のちのちすんなり来るはず。でも映画は狂気をムダに掘り下げるから、そっちに引っぱられてしまう。2人の人物と背景を描きつつ、マレー博士の辞書編纂にマイナーが絡んでくればいいわけで、そういう流れの方が、ドラマになると思う。 ・マイナーが間違って殺害した男の妻イライザ。最初はただの脇役かと思っていたんだけど、途中から核心に位置する役割を発揮し出す。彼女がマイナーの「年金を提供する」という申し出を断ったのは、実は字が読めず、看守が持っていった手紙が読めなかったから、だと思う。このあたりで、話が面白くなってきて、目が覚めた感じ。『愛を読むひと』を思わせるエピソードで、いよいよドラマチックに、と思ったら、イライザのマイナーへのいくつかの短い手紙ぐらいしか登場しない。愛についての解釈もあるので、もっと深いのかも知れないのだけれど、原文が分からんし、解釈も概念的なので、愛に対しては愛だ、といわれても、いまいちピンとこず。この、イライザのマイナーに対する親近感から愛情へ、という変化は、実をいうとしっくりこない。だって夫を殺されたんだぜ。それが、年金をくれて、自分に文字を教えてくれたからって、恨みが消えるものか? そうは思えない。このあたり、もっと説得力が必要だよね。むしろ、怒りを忘れず、マイナーに殴りかかった長女のほうが自然に見える。マイナーと文字でやりとりすることに、そんなに興奮したのか? イライザは。あと、気になったのは、イライザは文字をもっと学習し、子供たちにも教えたのか? そんな知識が広がってく様子を描けば感動も深まったのになと思う。ところで、文盲の彼女がイギリス下町の女性で名前がイライザなのは『マイ・フェア・レディ』からきてるのか? それともこれも実話? ・本編終わりのクレジットに「初版は70年後」という字幕があったんだけど、どういうことだ? 最初に、自分たちで軽装版みたいなのを刷ってたよな。ハードカバーじゃないやつ。あれは校正刷り? その後に、AとBの項目で1冊、ハードカバーで刊行されて、お祝いパーティしてたけど、あれは“初版”じゃないのか? じゃ、なんなんだ? ・マイナーが収監された精神科病棟。なんか、待遇がよすぎじゃないか? 書棚が用意され、絵も描いてたり、そもそも広い個室が用意されてる。マイナーって、どういう人物なんだ? がよく分からない。マイナーは、なぜ英国に来たのか? あとで説明するとか本人が言ってたような気がするんだけど、説明は、あったか? 記憶にない。医師で、だから「博士」と呼ばれているんだろうけど、南北戦争に従軍した? 軍医? でも、なぜ脱走兵の顔に焼き印を押す役割を? これがトラウマになって妄想に悩まされてるようだけど、あれこれ説明が足りなすぎ。どこに辞書編纂で力になるような資質があったのか? これがないと、イライザとのやりとりも、いまいち薄っぺらだよね。 ・大学内の人物関係も、なんかよく分からない。AとBの一冊目を刊行後、マレー博士は編纂係をクビになるんだけど、直後にマレー博士の妻が編纂会議に乗り込んで、一席ぶつ。なにを話したのかは忘れたけど、大したことではなかったような…。その後、マレー博士はマイナーを病院から救いだし、米国に送ると、あらま、いつのまにかマレー博士は編纂係に復帰してる…。なんで? 痩せた同僚が支持してくれたようだけど、彼とマイナーはどういうつながりなのだ? よく分からんよ。 ・イライザの娘に殴られて以降、マイナーは落ち込んでイライザに会わなくなる。退行症状? とはいえ、以後の院長のマイナーへの態度は極悪非道になっちまう。マレー博士の面接も拒否し、マイナーの喉に手を突っ込んでムリやり吐かせるという“治療”をしたりする。おかげでマイナーは心神喪失状態。そういえば、TBSラジオ「セッション」で豊崎由美が、原作によると前半と後半で院長は別の人物なのを、映画は同じ人物で通している、と言っていた。なーるほど。ではあるけれど、当時の精神病院の治療のひどさが見えて、オソロシイ。いまなら薬物療法で概ね平常生活ができただろうに。 ・看守役がなかなかいい。とはいっても、映画によくある、悪条件下に於けるいいやつ、という定番な役回りだけど。彼は、マイナーと一緒に米国に渡ったのか? 院長に黙ってマレー博士をマイナーに面接させていたけど、あのとき院長に刃向かって喉輪を決めていたし、その後の看守生活は大丈夫だったのかと心配。 ・マレー博士はマイナーの知恵を借りるには退院しかない、と考え、内務大臣(チャーチル)に直訴する。チャーチルは「国外追放」 という離れ業を提案。それでマイナーは米国に戻ったらしい。けど、米国から辞書編纂に関わっていたのか? が、描かれない。統合失調症と診断され、何年に亡くなった、という情報が字幕で出るのみ。なんか素っ気ない。もうイライザと会うことはなかったのか? イライザは、あの後、どういう生活を送ったのか? 子供たちで、字が読めることで出世したやつはおらんのか? 気になる。 ・劇中では、単語の意味とか、ぶつぶつ言い合う場面がたくさんあるけど、字幕じゃほとんど分からない。痩せた同僚と、尻取りみたいに単語を出し合ってニヤニヤする場面とか、何なのかさっぱり分からない。他にも、看守がマイナーにプレゼントした本とか、イライザがマイナーに送った本とか、どういう意味があるのか、よく分からんのよね。知識がないと、理解も追いつかないよ。 ・TBS「セッション」で話されていたけど、登場人物の話す英語が、みな違うらしい。マレーはスコットランド訛り、マイナーは米国語、イライザは下町訛り…。それが興味深いといっていたけど、日本人じゃわからんらしい。やれやれ。 | ||||
望み | 10/21 | 109シネマズ木場シアター4 | 監督/堤幸彦 | 脚本/奥寺佐渡子 |
allcinemaのあらすじは「一級建築士の石川一登は、妻の貴代美と高校1年の息子・規士、中学3年の娘・雅と幸せな日々を送っていた。しかしある日、規士が家を出たまま帰らす、連絡もつかなくなってしまう。やがて規士の友人が遺体で発見され、次第に規士を含む少年グループ内でのもめ事が原因の可能性が高まってくる。当初は規士は加害者の一人ではないかと思われていたが、まだ発見されていない被害者がもう一人いるのではないかとの噂が広まり、規士がどのような形で事件に関わっているか判然としなくなる。そんな中、どんな形でも息子に生きていてほしいと願う貴代美は、規士が無実であってほしいと望む一登と雅の言動に苛立ちを募らせていくのだったが…。」 Twitterへは「10分で終わる話を、くどすぎる説明ゼリフとベタで大げさな芝居で108分に薄めて伸ばし、ドラマもオチもなく見せてくれる。意図してやってるんだろうけど、こんなの見せられる観客はいい迷惑。」 おおむねあらすじの通りで、それ以上の話はとくにない。単純な話を、くどく説明し、ムダに対立させ、怒鳴らせて、引き伸ばす。見ていて退屈というか、ウンザリ。 そもそも、この親はなんなんだ。設計事務所は隣接していて、客がくると隣の自宅へ案内して見せる、のはいい。けど、勉強中の中学娘やくつろいでる最中の高校息子もドアを開けて見せられる。うんざりだろ、こんなの。娘は意外とそれに理解を示すけど、世の子供はこんなの見たらゲロ吐くだろ。親も親でいちいち子供に注文付ける。将来はどーとか、あれこれ偉そうにアドバイスのつもりか。なんだこの親。 でも、それが大きな伏線になっていて、息子は反抗的な態度で、切り出しナイフを所持していたけど実はよい子で、父親の話をちゃんと聞いていて人生設計もしていた、というオチにもならないきれいごと。あり得んだろ。寒っ。 実は…の解き明かしは、最後近くになって、警察から説明的に聞かされ、経緯も数カットで紹介されるだけ。むしろ、そっちの方が面白くなるだろうに、夫婦の口げんかばかりがつづいて、キャラも立たないし、ドラマもほとんどない。うんざりだよ。 原作はベストセラーらしいけど、読んで心にくる話が映像化するとつまらないというのはよくあることで。筆力のある宮部みゆきの小説なんかが、そんな感じ。この『望み』も、読んでないけど、そうじゃないのかな。 母親の、息子を信じたい、という気持ちは分からんでもないけど、事実だけを追えば息子が無実であるのか否かなんて分からないのだから、ぎゃあぎゃあわめいてもしょうがない。父親も同じ。警察に「そんなことをする子ではない」と強弁したって、なんの説得力もないだろうに。 人間関係も、活かされない。息子を知る女生徒がひとり登場するけど、エピソードはほとんどない。男友だちも、登場しない。まあ、それをだすとネタバレしちゃうから出せないのかもだけど、最初の方から息子を追うような視点での話も挿入しとくべきだったと思うぞ。 でまあ、息子は先輩にサッカー試合中に意図的にケガさせられ…。って、そうする先輩については、ほとんど追わないのな、この映画。で、息子の友人が、先輩の行為に怒って、息子の知らぬ間に別の同級生2人と先輩をボコボコにした、と。その同級生2人は義憤じゃなくて金目当て? なんだ、この話。そうしたら、先輩を知るヤクザかなんかが2人に損害賠償50万だか要求してきて、それを息子友人に押しつけようとして対立。息子友人+2人の対立現場に、息子も立ち会っているうち、2人が息子友人を攻撃し、さらに、息子もついでにやられた、ということらしいけど、ささっと説明されても、なるほど、とはならんよな。 死んでから、いい息子だった、と分かってもしょうがないわけで。いい息子なら、日頃から親にこび売ってろよ。チンピラみたいな友人とつき合うなよ。で、終わりだ。 ・両親は事件発覚後、息子の部屋を見に行かないのだよね。なんで? と思って見てたんだけど、父親が部屋に入ったのは息子がいなくなってから数日後。そこで切り出しナイフを発見する。「もって行かなかったのだ…」と安堵するんだけど、遅すぎるだろ。話の都合なのかね。 ・人物が記号的で、つまらないのも難点か。警察2人は陰気でしかめっ面。婦警の棒読みセリフはなんなんだ。大工とか職人も、これ以上無いようなステレオタイプ。雑誌記者も、人間味が感じられない。・彼らの自宅には、「殺人者、出ていけ」なんかの落書きがあるんだけど、これも定番のステレオタイプ的演出。そんなこと、誰が書くんだよ。 | ||||
スパイの妻<劇場版> | 10/22 | MOVIX亀有シアター3 | 監督/黒沢清 | 脚本/濱口竜介、野原位、黒沢清 |
allcinemaのあらすじは「1940年、神戸。瀟洒な洋館に住み、貿易会社を営む夫の福原優作と何不自由ない生活を送っていた聡子。ある日、仕事で満州に渡った優作は、同地で衝撃的な国家機密を目にしてしまう。正義感に突き動かされ、その事実を世界に公表しようと秘密裏に準備を進めていく優作。そんな中、聡子の幼なじみでもある憲兵隊の津森泰治が優作への疑いを強めていく。いっぽう聡子は、優作がたとえ反逆者と疑われようとも、彼を信じてどこまでもついていこうと固く決意するのだったが…。」 Twitterへは「話には疑問も多く、どこがいいのかよく分からず。ヴェネチアでは扱ってる素材に興味をもたれたのか。全体に素っ気ない絵づくりでいろいろ記号的。考証されてるとこもあるけど、憲兵隊は東出以下、全員姿勢も軍服もだらしない。丸刈りにせい!」「蒼井優の話す山の手言葉、まるで小津なんかの映画を見てるようで、ずいぶん勉強したのかも知れん。それも含めて、記号的。」 これは、なんなんだ? 夫婦の騙し合いではないか。2人は嫌っているようには見えない。むしろ聡子は夫・優作を尊敬し、愛し、慕っているように見える。なのに、騙し合う必要は、どこにあるのか? その答は最後まで見えないので、困惑のまま見終えた。ヴェネチア映画祭で監督賞ということで評判で、Twitterなどを見ても激賞の感想が並んでいる。どこがどういいんだ? 聞いてみたいもんだ。 あの騙し合いは計算ずくなのか。本気だったのか。 そもそも聡子が、ペスト治療報告書の原本を憲兵隊の津森に渡した目的は何だったのだろう。聡子は優作を「非国民」と罵り、優作の所業を津森に密告する。この結果、甥の文雄は憲兵隊で爪を剥がされる拷問を受け、自分はスパイだ、と自白することになる。では聡子は国粋主義者かと思っていると、報告書の英訳と9.5mmパテベビーフィルムを優作に見せ、「必要なのは英訳でしょ?」といい、事実を米国に伝えるのに賛同するという。ん? ではなんで密告したの? 甥は拷問され、夫の優作も憲兵隊に尋問されることになったのに…。それも計算の内でのことなのか? では、文雄の犠牲は、意味があるのか? それが見えない。 ではと、優作は英訳とフィルムをもって米国に行き、亡命…という計画を聡子に話す。あれこれ綾があって、最終的に2人とも米国に行くことになるのだが、もしかしてこれは聡子の罠で、優作の本音を聞き出した上で憲兵隊にすべてを密告するのか? と思ったら、計画通りに聡子は貨物船に乗り込み、荷箱の中に潜む。ということは聡子の義憤は本物だったのか、と思ったら、船内に憲兵がやってきて船出前に見つかってしまう。通報があったというけれど、密告したのは優作しかおらんじゃないか。その優作は別ルートで上海経由米国行きだったけど、これは優作が聡子を嵌めたのか? そんなことをする必要が、どこにあるのだ? 1945年3月、精神病院の聡子・・・。野崎さんという老人がやってくるんだけど、彼の存在はロールスロイスを借りたときに名前しかでてきてないんだよなあ。まあ、いいけど。で、野崎に、私は狂っていない、狂っていることにされるのはこの国のせい、みたいなことを言う。このセリフを評価する声がTwitterに多くあるけど、ありふれてるよな。のあと神戸が空襲され、病院が焼かれ…。最後は浜辺を走る聡子、で映画は終わってしまう。なんだなんだ。 小さな漁船から帽子を振る優作の姿があり、字幕で、戦後に優作の死亡が報告されたがその報告書は偽者の可能性が高いこと、その後、聡子は米国に渡ったことが知らされる。最後はインドで目撃されたという優作は実はいてきていて、米国に渡った。その優作を追って、聡子も米国へ、という解釈がフツーなんだろうけど、いろいろ妙だよね。 優作が聡子を密告したのも計算ずくで、聡子は分かってて逮捕され、精神病院に入ったのか? 何のために? 米国から聡子に優作から手紙でもあったのか? ではなぜ、聡子の貨物船での密航をチクったのだ? もやもやしか残らない。 拡大解釈をすると、夫婦間の嫉妬が原因、と思えなくもない。聡子は優作と満州帰りの草壁弘子との仲を疑った。優作は、聡子とその幼なじみである津森との仲を疑った。とはいえ、そんなことで密告合戦をするものか? フツーはつないと思う。 その草壁弘子だけど、満州で医師といい仲になり、ペスト菌報告書を盗んで優作に渡し、一緒に帰国。その後、有馬温泉に仲居で働くけれど、旅館の主人に手込めにされ、でも抵抗したからと主人が殺して捨てた、という投げやりな顛末はなんなんだ。あとは、聡子の夢にしか登場しない。意味ありげな存在なのに、存在感なさ過ぎ。だいたい、一介の看護婦が医師の報告書やフィルムを盗めるものか。だったら、大陸での彼女の行動の一端を、映像で見せるべきだと思う。 そういえば、優作と文雄が満州に行っているとき、聡子と女中・駒子が山中で津森と会うのは、あれは津森の計算ずくなのか? 駒子の、驚いたような顔は何なんだ? 後に優作が、津森は聡子が好きでそれで神戸まで来た、というようなことを言うのだが、それはこの山中の遭遇のことなのか。このとき聡子は津森を家に誘うが、津森は「優作さんがいるのかと思った」といっている。はたして、優作が満州に行っていることを知っていたのか、知らずにだったのか。さて。 こういう夫婦間の思い込みはあるにせよ、映像で互いの不審感はほとんど描かれない。だからこそ、嫉妬の結果の騙し合いは、説得力がないと思う。 ・2人の住む屋敷は豪勢な洋館で、かなりな違和感。文化財にでもなっているのか、補修されていない箇所がいろいろ映って、ドアや壁のペンキは剥がれていたりしてる。CGで修正すりゃあいいのに。 ・憲兵隊の軍服の着方、動きなんかは、朴念仁な感じ。もっとキリッとしなくちゃ。軍人なのに長髪なのも違和感。 ・絵づくりがあんまりされてなくて、自然光でフツーに撮られてる感じなのも、画面が薄っぺらに見える。 ・ヴェネチアでの評価って、第二次大戦中に中国で細菌兵器の開発のため人体実験をしていたこと告発しようとした日本人がいて、そのことを日本人監督が描いている、という点についてのことが大きいのではないのかなと思ったりしたのだが。 ・製作はNHKで、BS放送されるか、されたのか。もしかして、もっと長くて、人物の描き込みもあったのを映画サイズに尺をつめて、それでいろいろ分かりにくくなってるのか。知らんけど。 ★しばらく考えた結果、これは、ホラーだと結論する(2020.11.02)。 夫を支配したい独占欲の強い聡子がいる。聡子は優作のすべてを知りたいし、優作に愛されたい。でも、平穏な日々は、優作が大陸で得た情報によって、変わろうとする。優作は、聡子に真実を告げ、スパイになる(情報を米国に知らせる)決意を告げる。ならば、自分もスパイになる、と聡子は決意する。義憤からではない。そうしてさえも優作と一緒にいたい、という思いからだ。しかし、聡子は優作が草壁弘子に惹かれている、と疑う。一緒に帰国しながら、彼女のことを知らせもしなかった。しかも、温泉地に匿うようにしている。アメリカには、弘子と一緒に行こうとしていた。自分は信頼されていない。ならば…。優作を引き留める手立ては、憲兵隊への密告しかない。そうすれば、夫は自分の元から離れないだろう。甥の文雄が拷問されても、そんなことはどうでもよい。優作が自分の近くにいさえすればいい。弘子が不可解な死を遂げると、優作は聡子に「一緒に米国に行こう」ともちかけてきた。やっと自分の元に戻った」と聡子は安心する。しかし、これは優作の罠だった。聡子にまとわりつかれていたら、情報をアメリカに伝えられない。いつまた自分を裏切るかも知れない。優作は、聡子に別行動を提案し、自分は国外へ。聡子は憲兵隊に逮捕させる。これで安心してスパイ活動ができる。聡子は、精神病院に収監される。もともと妄想が強かったんだろう。それが、優作に見捨てられ、精神に異常をきたした、と考えるのが妥当か。そして、戦後。聡子は執拗に優作の居所を追求し、死が偽装されたと確信する。米国で暮らす優作に会いに、執念で追いかけるのだった。そうそう。もしかしたら、草壁弘子を殺害したのも、聡子かも知れない。仲居をしていた旅館の主人が手込めにしようとして、抵抗されたので殺した、とは言っていた。けれど、裏で何らかの手引きをした可能性はある。というのが、大まかな筋ではないか。 ひとつ気になるカットかあって。それは、優作が大陸行きのとき、山中で津森に遭遇。聡子は自宅へ誘うのだが、同行していた女中・駒子が、じわじわくる驚愕の表情をしていた。あのときの駒子の心情は、なんだったんだろう? これが気がかり。 | ||||
ジョジョ・ラビット | 10/23 | ギンレイホール | 監督/タイカ・ワイティティ | 脚本/タイカ・ワイティティ |
原題は“Jojo Rabbit”。allcinemaのあらすじは「第二次世界大戦下のドイツ。母のロージーと2人暮らしの10歳の少年ジョジョは、憧れのヒトラーユーゲントの合宿に参加する。想像上の友だちであるアドルフの叱咤激励を受けながら、クレンツェンドルフ大尉の厳しい訓練を懸命にこなしていくジョジョだったが、心優しい彼は臆病者とバカにされ、“ジョジョ・ラビット”という不名誉なあだ名をつけられてしまう。そんな中、ジョジョは自宅でロージーによって匿われていたユダヤ人少女エルサの存在に気づいてしまう。忌み嫌うユダヤ人を前にしてパニックになるも、やがてアドルフやヒトラーユーゲントの教えに反してエルサに心惹かれていくジョジョだったが…。」 Twitterへは「ナチ青少年団で、張り切りすぎて空回りの10歳坊主が、あれこれあたふたする話。『ルシアンの青春』と違ってカリカチャライズされてるので安心して見ていられるけど、中盤までドラマがないので退屈。スカヨハも母親役が似合ってた。」 あの時代のドイツには、この手の子供がたくさんいたんだろう。日本にも皇国少年がいたように、ね。それが、母親が自宅に匿っていたユダヤ少女との出会い、これまでの常識ががらがらと崩れていく話。こういうテーマを扱うからか、ちょっとシニカルなコメディタッチになっていて、戯画化することでシリアスさを薄めている。はたして、それは成功したのか? たとえば冒頭からビートルズで、ラストはロックっぽい音楽だったりするので、見やすくなってはいるけど、切実さがなくなってるような気がする。 ユダヤ人を匿う話で、少しユーモアを交えたものといったら『バティニョールおじさん』があるけど、あのユーモアとは違って、こちらはマンガみたいにしちゃってるからなあ。 で、ユダヤ少女と出会うまで、がムダに長くて遊びすぎかなと思った。合宿を指揮する落ちこぼれ将校2人と太っちょ女性なんか、リアリティなんてまったくなくて、コメディアンだろ、あの描き方。それに、あそこまで、うだうだ描く必要もないと思う。さっさと切り上げて、エルサとの話にしちまった方がいいように思う。 それと、ジョジョと母親(なんと、スカーレット・ヨハンソンがお似合いのおっ母さんになってて、35歳の時なのかな。なかなかの母親振り)との関係も重要なはずなんだけど、なんか薄っぺらで、あえて描いていないのかな。ユダヤ人を匿うだけでなく、「ドイツ解放!」なんていうビラを撒いたりしてて、ついには逮捕されて屋外で絞首刑にされてしまうらしいのだけれど、これをちゃんと見せない演出も、いかがなものかなと。たらたら歩いていたジョジョが、広場で見知った靴が浮いているのに気づき、へたり込んでしまうというだけの演出で、母親が吊されたのは分かるけれど、ジョジョの絶望や驚愕がまるで伝わってこない。あれはないだろ。あまりにも記号的すぎて、涙も出てこない。 と思うと、いったいあの母親はどういう思想の持ち主で、収入はどうしていたかとか、あんな活動を大っぴらにしていたら目をつけられるだろ、とか、そんな母親の息子なら、もう周囲から相手にされないだろ、とか思うんだけど、落ちこぼれ将校に「お前の母親はいい母親だった」なんて慰められてて、とても違和感。 あと、気になったのは、ジョジョが母親に、エルサのことを話さなかった理由。なんか、理屈を言っていたけど、忘れてしまった。母親も、ジョジョのナチ狂いを諫めることも言わず、そうさせていたんだよなあ。よけいなことをいうと、ジョジョがバラすんじゃないかと心配してたんだろうか。映画の後半、ジョジョはエルサに好意をもつようになるし、ユダヤ人への偏見もなくしている。母親がちゃんと話せば、ジョジョも納得できたんじゃなかろうか。 で、ある日、ロシア軍が攻め込んできて、ドイツ兵や街の人々も抵抗するんだけど。あそこまでしたのか? 簡単に降伏したような気もするんだが。あと、子供用軍服を着ていたせいで、捕虜扱いされるところ、落ちこぼれ将校に、あっち行け、されて助かったようなところがあるんだけど。いくら軍服を着てても子供なんだから、銃殺はされなかったんじゃないのかと思うんだが、どうなのか。ロシア軍は、したのかな。独ソ戦の恨み辛みがあったのか。 でもって、ロシア軍につづいて、アメリカ軍もやってきて。でも、ジョジョは、エルサの「外は?」に、「ドイツが勝ってる」と嘘をつくのは、解放されたというと、エルサが出て行ってしまうからなんだろう。それでも嘘がつききれず、外に出ると、エルサはジョジョにビンタを食らわせ、でも、解放されたら最初にしたいことに挙げていた、ダンスを踊り出す。このシーンは、なかなかよかった。リルケの詩はよく分からんけど。 ・ジョジョとエルサは、ユダヤ人の有名人を挙げて、あれは、競っていたのか? | ||||
お名前はアドルフ? | 10/26 | キネカ大森3 | 監督/ゼーンケ・ヴォルトマン | 脚本/クラオディオス・プレーギング |
ドイツ映画。原題は“Der Vorname”。英語でいうと、ファースト・ネームのことらしい。allcinemaのあらすじは「哲学者で文学教授のシュテファンと国語教師の妻エリザベトは、これから開かれようとしているディナーの準備中。といっても忙しいのは一人で料理を用意しているエリザベトばかり。そんな中、エリザベトの大親友で音楽家のレネやエリザベトの弟トーマスがやって来て、いよいよ楽しい宴が始まろうとしていた。さっそくトーマスは妊娠中の恋人アンナのお腹の中の赤ちゃんが男の子と判明し、すでに名前も決めていると明かす。そこで名前を当てようとシュテファンたちは次々と候補を挙げるが、一向に当たらない。業を煮やしたシュテファンが答えを求めると、トーマスの口からは“アドルフ”という予想もしない言葉が。まさか、あのヒトラーと同じ名前が許されるはずはないと絶句するシュテファンたちだったが…。」 Twitterへは「冗談から大喧嘩、な会話劇。まあ、フツーによくできてるけど、既定路線を外れるような意外な展開がないので、中盤はちょっと退屈。」 会話劇なので、芝居の映画化かな。でまあ、アドルフにするというのはトーマスのいたずらで、理屈っぽい義兄シュテファンをからかうつもりだったんだろう。冒頭に、間違って配達されたピザについて、店員にめんどくさく理屈をこねて絡んでいたのも、伏線のひとつか。レネは、トーマスの冗談を早々に見破るんだけど、シュテファンは気づかない。そのうちアンナがやってきて、名前のことで彼女に絡む。と、経緯を知らないアンナが、シュテファンのエセインテリ振り、さらに2人の子供の名づけ方について本音をぶちまけるなど、どんどん日頃の鬱憤がハメを外れて言い合いになっていく。のだけれど、ここまで本気にして口論するか、という気になった。たとえば日本で東條英機の英機をつけてもだれも文句を言わないだろう。麻原彰晃の彰晃も、気づかんだろう。映画でも、過去の悪人の名前を挙げて、使える名前がなくなっちゃう、と言っていた。まあ、ヒトラーは別格なのかも知れないけど。 なことでぐちゃぐちゃになりつつも食事をし、トーマスがレネのことを何と呼んでいるか、がバラされることになり、それが「女王」で、つまりはゲイなんじゃないか、ということらしい。でも、それはこの座にいるみんな感じていることだったんだけど、ひとりアンナだけが違うことを知っていた。一瞬、レネとアンナがつき合っている? とミスリードさせ、実は、レネはエリザベトとトーマスの母親であるドロテアと男女関係にある、と分かってまたひと騒動。なんと、トーマスがレネを殴ってしまう。 レネは孤児だったのか、一家と生活していて、親子のように暮らしていたのに、そうなってしまった、ということらしい。でも、 殴ることか? 夫に死なれてひとり暮らしの母親の世話をしてくれる人が身近にいるのは、大助かりじゃねえの? 少しは生っぽい気がするだろうけど、慣れりゃ大したことないと思うけどな。 というとおり、アンナの出産になって、レネとドロテアは仲よく並んでたではないか。で、またしてもトーマスの大発表は、息子ではなく、娘だった、ということ。って、超音波まで撮ってるのに、医者が間違えるはずがないと思うんだが。まあ、いいか。 ・ドロテアの愛犬を殺したのはシュテファンだけど、レネが肩代わりして名乗り出た。そのせいで、犬殺しの名声が奪われた、と考えていたシュテファンは、やっぱ変な奴だ。そのほかにも、いろいろとシュテファンはめんどくせえやつだな、という印象。 ・みんなを招待するのに、料理をするのはすべてエリザベートなのね。ドイツは、まだ女性が家事をする、が定番なのか。 ・そのメインディッシュがカレーで、見てるとどうも、ご飯にかけているように見えたけど、そういう食べ方なのか、ドイツでも。 | ||||
アルプススタンドのはしの方 | 10/26 | キネカ大森3 | 監督/城定秀夫 | 脚本/奥村徹也 |
allcinemaのあらすじは「高校野球・夏の甲子園一回戦。周囲の熱狂をよそに、観客席のはしのほうでトンチンカンな会話をしている女子生徒2人は、野球にまったく興味がない演劇部の安田と田宮。そこにやって来たのは元野球部の藤野。少し離れたところには成績優秀ながら友達がいない宮下恵の姿も。それぞれに諦めや鬱屈した気持ちを抱え、応援にもまるで身が入らない4人だったが…。」 Twitterへは「これも会話劇で、冒頭からの演劇部女子2人のトンチンカンな会話が秀逸。元野球部、秀才、努力型とか登場し、しだいに背景も見えてきて…。最後はちょっとマジになりすぎ? でもよかった。原作は高等学校演劇大会で最優秀賞だって。」 冒頭から、野球のルールをまったく知らない安田と田宮2人の会話が楽しい。元野球部・藤野が加わって、彼が部をやめた理由、いまベンチにいるけど練習しても試合に出られない矢野のバッティングのこと、それから、この高校に入ったら県立大は楽勝かと思ったけどとか。安田が「お茶」と頼んで田宮が買ってきたのが黒豆茶で、でも安田がイメージしてたのは、お〜いお茶だったという妙なこだわりと「買い直してくるよ」という田宮の気づかいとか。宮下に飲料を差し出したら「要らない」というのだけれど、「こういうとこの自販機は、高いんだよ、もらっといた方が得だよ」と言ったのは安田だったか田宮だったか。久住について話していて、「みんなできてるじゃん、部活、恋愛、勉強…」と並べた途端のリアクションが「進研ゼミ!」だったり。『セトウツミ』みたいなところもあって、ウケる。 他の2人、秀才の宮下は友だちいなくて、美人で吹奏楽部で勉強もできる久住というキャラ設定は少女漫画にありがちで、あまり興味を引かない。やっぱり、安田、田宮、藤野の3人が面白い。 他には、熱血教師がいるけど、彼は記号的すぎて、なのに出番多すぎ。それから、ピッチャー園田と、例のベンチ組の矢野は名前だけで、「桐島」みたいだ。でもって、場面の大半はスタンドの端の方だけ。これだけで、話がふくらんでいくんだから、なかなかなシナリオ。 次第に分かってくる、それぞれの人間関係。たとえば久住と園田がつきあってるとか、秀才宮下が園田を好きだとか、田宮までもが園田が好きだとかいうのは、どーでもいい気がした。むしろ、野球部のエースが女生徒の人気という、定番過ぎる話でつまらない。もっと意外性を追求できるだろうに。もったいない。 もうひとつは、安田と田宮の関係で、最初の方から田宮が安田に気を使っている理由が明らかになってくる。演劇部は県大会の出場チャンスをつかんだけれど、田宮がインフルになって棄権した、という過去。その負い目があったのね。これは、冒頭の、安田が顧問教師に「しょうがない」と言われて(たっけ?)た場面につながるわけだ。でも、あんまり効果はないかな、この2人の関係は。こんなのなくても、いいようなきがした。 とはいえ、現在の2人は今季のコンテストに出場するつもりはないらしい。たとえ県大会の権利を獲得しても、大会は来年なので、自分たちは出場資格は無くなるからエントリーしないことにしたようだ。でも、犠牲バントの矢野を見て、安田が心を入れかえたようで。田宮に「今年はインフルの予防注射打って」と念を押すけど、田宮は受験のためと勘違いしたまま、とといオトボケはいいとして、「しゅょうがない」といってあきらめない、という話は教訓クサイからいまいち感動せんな。 安田と田宮は、全校生徒応援、ということで仕方なくやってきて、だらだら見てる。とはいえ、田宮は園田君応援の気持ちが根底にある。藤野は元野球部だから、負い目を持って見てる。宮下は、孤独な秀才だけど、憧れの園田君を応援。久住は、吹奏応援しながら、試合中の園田とスマホでチャットしてる。という、心のグラデーション。 冒頭からの冷ややかな感じが、次第に変化していくのは、4-0でほぼ負けが決まってからの最終回。園田がヒットで出塁し、この後、犠牲フライで得点するんだっけか。次に矢野がバッターボックスに立つ。一打同点? その前の打順でピンチヒッターとして打席に立ち、犠牲バント成功の矢野。アウトになっても喜んでる矢野のことが理解できない安田と田宮だったけど、熱血教師は「人生は送りバント!」と言ったりしていて。でも、自己犠牲でチームに貢献する、を目の辺りにした安田と田宮に、少し変化の徴候? ここで、安田、田宮、藤野は声を出して応援し始める。後ろで立ってみていた宮下も並んで座り、声を出す。それまでだらだら応援していたみんなが声を出して応援、というのは高校生活、野球、青春だ! なんだろうけど、当たり前すぎじゃないかな。話としてよくできてるけど、話としてフツーな感じがするのだよ。矢野はファールの後、大飛翔をかっとばし、見上げる4人の顔! ここで終わってもよかった気がするんだけど、終わらない。どうやらキャッチされ、4-2で試合終了。まあ、こんなもんか。のあと、社会人になった彼らが、またしてもスタンドに集うという場面がある。 安田と田宮は、どっかのOL? 野球部OBがプロ選手として初出場するのを見に来た、らしい。合流したのは宮下で、彼女は教師だったっけ? 違ったっけ。隣に、藤野もいる。彼はいまスポーツ用品の営業で、某企業に行ったら、そこで園田が投げていた、という。じゃあもちろん、プロになったのは矢野しかおらず、その大飛翔は…。完成度の高いシナリオだけど、決まりすぎてて、オチもミエミエ。意外な感動もなく、むしろ教訓じみていて、うーむ、なところもある。シニカルに始まって、シニカルに終わって欲しかった気もするのよね。最後まで安田には「しょうがない」と言って欲しかった。それも人生なんだし。面白かったことは面白かったけどね。 ・久住が宮下に言う、「真ん中は真ん中で辛いんだよ」というセリフは、ぜんぜん効かないだろ。美人で、園田とつき合ってて、吹奏部もリーダーらしいし。どこが真ん中なんだ。 ・宮下も田宮も、実はエース園田が好きだったとか、つまんねえ。 ・はたしてみんなどんな大学に行って、どう就職したか、にも興味あるね。久住さんは、いまなにしてるんだろ。 | ||||
わたしは金正男(キム・ジョンナム)を殺してない | 10/27 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2 | 監督/ライアン・ホワイト | 脚本/--- |
原題は“Assassins”。allcinemaの解説は「2017年2月13日、マレーシアのクアラルンプール国際空港で、北朝鮮の最高指導者・金正恩の実兄・金正男が何者かによって暗殺されるという事件が起き、世界中に衝撃を与えた。本作は実行犯として逮捕された2人の若い女性に焦点を当てつつ、無実を訴える彼らの前代未聞の裁判の行方とともに、恐るべき暗殺事件の驚愕の全貌に迫っていく」 Twitterへは「テレビ報道は見てないので正確ではないけど新情報はほとんどなく、まとめて整理した感じかな。それにしても監視カメラは凄い。ところで、原題と邦題、ポスターの彼我の違いが興味深い。」 経緯は新聞で知っている。うちはテレビがないので、映像での情報はあまり見てなくて、せいぜいが簡単なネットニュース程度。でもまあ、だいたい知っている。題名から、犯人2人の迫って、彼女らのインタビュー、証言があるのかと思っていたらそんなことはなくて。まずは概要を監視カメラ映像をつないで見せ、さらにインドネシアだったかのフリーの記者、2人の弁護士事務所が登場。合間に、北朝鮮の建国以来の指導者の系譜が紹介されるなど、わりと通り一遍。記者も、終わってみればほとんど機能していないし、弁護士たちも、裁判の前後にあたふたする様子が映るだけ。珍しいというと、シンガポールの裁判官が裁判後に記者会見に応じるところとかだけど、トンデモ事実が発表されるわけもなく退屈。中盤は、すこし寝そうになった。 2人の生い立ちも、たいして面白くない。インドネシア人のシティは貧乏で学歴もない。早くに結婚して子供もいるけど、夫の父親が育てている。ベトナム人のドアンは大学に行った、といっていたけど、そんな風には見えない。どっちもどっちな感じ。ドッキリYouTubeに出てたのは、どっちもだっけか? わざわざシンガポールまで来てなにしてんだか。ドアンは「女優になりたい」とかいってて、バカかと思う。北の工作員に、実行犯として操られるにしては、心もとない感じだけど。 驚くことは、よく見る2人の顔写真と、過去の映像、写真なんかと、顔が全然違うんだよね。どっちがどっちか、分からなくなるほど。で、素顔はどっちも不細工。弁護側は、2人とも「知らずにやった」と主張するんだけど、あまり効果はなく、政治的な判断で有罪になりそう。北の工作員たちは、何人か拘束されたけど簡単に釈放され、帰国してしまっている。やらせ裁判もいいところだけど、不思議なのは2人の証言がほとんどないこと。主に弁護士の主張で裁判が進んでいるんだろう。本人たちの自供とか、それとどうだったのか、ほとんど現れない。 さて、2人は有罪か、と思ったら突然、検察がシティの起訴を取り下げ、即刻、釈放。なんなんだ、だよね。インドネシアは北朝鮮に気を使う必要がないから、国としてシンガポールに話をつけたらしい。ベトナムは北との関係が濃いので、失礼なこともできず、そのまま、かと思ったら、少しは国も動いて、量刑が軽くなり、こっちも簡単に釈放されてしまう。 という経緯だけが紹介される感じで、事件をこととおりまとめました、なんだよね。最後に現在の2人が映るんだけど、事件のことは口にしない。なんだかな。なにも発見はないし。 それにしても、北朝鮮のやることは、こんな杜撰なのに、だれもツッコミを入れられないのが情けない。やれやれだよな、っていうことを再確認した、ということかな。 |