2020年11月

パピチャ 未来へのランウェイ11/4ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ムニア・メドゥール脚本/ムニア・メドゥール
原題は“Papicha”。Web情報によると「タイトルの“パピチャ(PAPICHA)”とはアルジェリアのスラングで、「愉快で魅力的で常識にとらわれない自由な女性」という意味」らしい。allcinemaのあらすじは「1990年代、アルジェリア。ファッションデザイナーを夢見る大学生のネジュマ。彼女はおしゃれなドレスを自作しては、それを親友とナイトクラブのトイレで販売していた。こうして自由奔放に青春を謳歌していたネジュマだったが、街にはイスラム原理主義が台頭し、女性はヒジャブを強制され、おしゃれを楽しむことは許されなくなっていく。そんな中、ある悲劇をきっかけに、抵抗の意思を示すためにファッションショーを開催しようと決意するネジュマだったが…。」
Twitterへは「90年代のアルジェリア。自由を志向する娘たちと、抑圧しようとする連中と。信仰の度合いにもグラデがあり、尊重されていたのが崩れていく…。原理主義はフツーの市民にも浸蝕してて、コロナ下の自粛警察も似たような感じだな。」
宗教上の理由による女性の自由に関する話で、1990年代のアルジェリアの話だという。主要人物はヒジャブをつけてないし、Gパンで、肌も露出している。フランスの影響の強い国だから、なのか、かなり自由に見えるけれど、それを制限しようとする動きが活発化しつつある、という背景。学内では女性の服装に関するポスターが貼られ、外国語の授業に黒づくめの女性の一団がやってきて、男性教授を掠っていく。街の人々も、ネジュマに、そんな恰好するな、と言ったりする。それでもまだ自由を志向する女性は多くて、深夜のクラブには多くの青年が集い、ネジュマとワシラは、寮を抜けだして朝帰り。門番も、口止め料で見逃している。それが、風向きが変わっていく…。そういうなかで、ネジュマは伝統的なイスラム女性の布を利用し、それで自由なスタイルを志向するファッションショーを寮内で開こうとする。
というあらすじから、なかなか元気な娘というイメージかも知れないけど、実際は現実が読めないバカ女というところも多い。たとえばネジュマの姉はジャーナリストらしいけど、やってきた女にいきなり射殺されてしまう。げげ。なのにネジュマは臆せずこれまでと行動スタイルが変わらない。犯人に対する憎悪も、見えない。そういう社会を受け入れているよう。というのも、ボーイフレンドができて、彼はツテを使ってフランスに移住するという。ついては一緒に行こう、結婚しよう、というんだけど、彼女は「この国が好き。離れるつもりがない。この国で闘う」というのだ。しかも、ボーイフレンドの言い方が、上から目線だ、と腹を立てて別れてしまう。これって、合理的な選択なのか? 
さらに、黒服一統に、部屋を荒らされ、準備中のドレスを破られ、寮母に「ショーは中止」と宣告されても、やりたい! と直訴。こっそり開催するんだけど、最中に銃を乱射する原理主義者たちに乱入される。この結果、死傷者がでてる思うんだけど(はっきり明かされない)、ネジュマは家に戻りつつも、懼れる態度を見せず、彼女を頼ってきた寮で同室のサミラを受け入れる。つまり、一緒にここで住むということか。ここまで追いつめられても、国外脱出を考えないの? それに、彼女が強行したショーで、死んだかも知れない友人・知人に対する罪悪感は、ないのか…。と思うと、なんかな。もうちょい頭を使って、被害の少ない抵抗をすればいいのに、と思ってしまう。
映画はここで終わる。はたして、この後、アルジェリアの様相はどうなったのか? アラブの春っていつだったっけ? (調べたら2011年〜) でも、詳しくは知らんけど、広がった民主化も、多くの国で内部分裂して、さらにはイスラム国への志向が強まったんだよな。そのあたり、映画からは見えないので、隔靴掻痒な気がする。
・当時のアルジェリアは、ヒジャブの人もいれば、全身黒づくめもいるし、長い髪さらさらジーンズで化粧、という人も混在してる。同じムスリムでも、教義と自由の解釈はまちまちで、でも、それが尊重されていた感じ。そこに原理主義の台頭、という流れがあったのか。これにたいして政府がどう対応したのか、よく分からない。テロはしょっちゅうのようだし、民衆の中にも原理主義賛成、が増えているような気配だし。政府も、自由化は困る、だったのかな。な、なかで、仲好し4人組が浜辺で水浴びするんだけど、あんなの大丈夫だったのか? 通報されそうだけど。
・そもそもネジュマのファッション志向は、どっから? 生前の父は戒律に厳しかったようだけど、よく姉はジャーナリストになれたよな。死後、母親はルーズになって、放任主義? デザインの情報はどっから仕入れるんだろ。欧米のファッション誌はフツーに売ってるのか? でも、公には売買できず、仲間にはトイレで売ったり、街の生地屋に置かせてもらってたり、だった様子。その生地屋まで戒律に厳しくなって、もう販売ルートなんてないだろうに。それでも国内にこだわるネジュマの気持ちが分からない。
・同室のサミラは、ヒジャブは欠かさない女性。でも、婚前交渉で妊娠し、それを知らない実兄が結婚相手を押しつけてきて悩んでいるという設定。信仰の度合いと性的嗜好は、また違うのか。驚いたのは、3ヵ月で堕胎が許される時期は過ぎている、というセリフで、もうちょっと早く対応しておけばOKだったのか、ふーん。堕胎は禁止かと思っていた。で、彼女は結局、生むことにしたようだけど、実家との縁はこれで断ち消えたんだろう。
・ワシラにもボーイフレンドができて、でも彼は原理主義に近い考え方で、彼女にGパン禁止とかうるさい様子。でも、彼が好きなワシラはそれに従って、オシャレしなくなってしまう。という心変わりが、へー、な感じ。そんなに男が大切なのか? よく分からないのが、寮生活であることを知られたくない、ということ。のちにそれが発覚すると、ワシラは殴られ、結局別れたようだけど。なんで寮生活だと男に嫌われるんだ? よく分からん。
・厳しい寮母だけど、ヒジャブはしていない。ということは、自由主義者か。最後はショーの開催を認めるのだから。
・寮生活では、牛乳に何かの薬品を混ぜていて、それで女性の性的衝動を抑制する? それは、大学の方針なのか、国の考えなのか。でもそれは、何らかの中毒症を副作用とするらしい。寮母も新聞でそれを知り、でも「私も中毒患者かも」と言う程度で、そんな大事に思ってないのが不思議。
・教室にやってきた女性の原理主義者たちは、あれは学内の生徒? 学外から? よく分からん。学内なら、もっと学内で喧嘩沙汰があってもいいと思うのだが。
・ショーに乱入したテロ集団は、どっからの情報で? 逃げるネジュマがかがんで隠れ、見上げるとそこにいた男性は、それまでに登場していた誰かなのか? 知らん他人? よく分からんな。
罪の声11/5109シネマズ木場シアター5監督/土井裕泰脚本/野木亜紀子
allcinemaのあらすじは「35年前に起きた食品会社を標的とした脅迫事件は、警察やマスコミを翻弄し続け、日本中を巻き込んだ衝撃的な日本犯罪史上初の劇場型犯罪となった。しかし犯人グループは忽然と姿を消し、事件は解決することなくそのまま時効を迎えた。大日新聞記者の阿久津英士は文化部記者ながら、この“ギンガ・萬堂事件”を取り上げた特別企画班に入れられ、戸惑いつつも取材を重ねていく。一方、京都でテーラーを営む曽根俊也は、父の遺品の中に古いカセットテープを発見し、自分の声が“ギン萬事件”で使われた脅迫テープの声と同じことに気づく。知らないうちに事件に関わってしまったことに罪悪感を抱きながらも、なぜ自分の声が使われたのか、その謎を解き明かすべく自ら事件を調べ始める曽根だったが…。」
Twitterへは「端緒から芋づる式に人をたどって…な流れで、あらすじを手短にまとめてみました、な脚本。人物が多い割りに分かりやすいけど、映画としては色気がなさすぎ。みなさん口が軽くてペラペラ教えてくれるし、ご都合主義が目立つかな。」
個人の私生活をあばくような取材方針に嫌気が差して、文化部に移った阿久津。それが過去の事件を担当させられることになる経緯が、アバウト過ぎ。で、先輩記者の過去の情報からロンドンが鍵かと飛ぶが、目当ての中国人にはたどり着けず。の、のち、あれこれ人を伝って行くと、目的は金銭授受ではなく株価操作だと分かってきて、人脈も見えてくる…。というのがひとつの縦糸。
もうひとつの縦糸はテーラーの曽根で、天袋に押し込まれていたテープを再生し、自分の声が事件に使われたことを知り、死んだ伯父を手がかりに個人捜査を開始。小料理屋で働く板前から、事件グループの存在にたどり着く。
阿久津も小料理屋にたどり着き、曽根の存在を知る。ここから、2人の詮索行脚が始まっていく…という流れなんだけど、冒頭の、かつての経緯の説明から人づての遡行が、説明のためのカットの連続で、ちっともドラマチックじゃなくてワクワクしない。証言者の話、人の名前、昔の写真と、ヒントは断片的で、覚えきれないところもあるけれど、うまく整理されているので迷うことはないけれど、その分、ああそうですか、な感じになっていて、話に引き込まれないんだよね。人物はW主演の2人しか掘り下げられないのが残念。
人のつながりは、分かった。でも、なぜその連中がひとつのグループに? が、分からない。そもそも、元過激派の曽根達雄が元警察官の生島とつるむのは、なんで? さらに、ヤクザの青木がなぜ加入する? 釣り仲間からとか、なんかテキトーなんだよね。そういう連中が、株価操作で1人あたま1億円入るからどうだ、といわれて、はいはい、となるか? 仲間は多いほどほころびがでる。あんなグループ、いい加減すぎだろ。
録音の声にしても、生島が自分の娘・息子を使うか? そんな危ないことをするかねえ。そして、突然、生島が青木に殺されたという。生島の家族を達雄らが救うんだけど、いつのまにか青木の建設会社の飯場に軟禁されてしまう。なんで? 生島母子から情報が漏れる可能性は、ないわけではないだろう。だからって、延々と拘束しつづけるのは難しいはず。だって子供は成長するんだし。いろいろ「?」が多くて、話に没入できない。
たぶん小説なら、筆力で説得できるようなことも、映像にしてしまうと、え? と思うようなことがよくある。この話も、その類ではないかと思うのよね。
で、たどり着くのは、英国で古書店を営む達雄のところで、阿久津が行くと、外を歩こうといいつつ、発端から経緯まで、すらすら話してしまう。そんなの、フツーあり得ないだろ。阿久津が記事にすると、早速警察は達雄に逮捕状を発行する。海外にいた間は、時効にならないからだ。いそれでか阿久津はさっさと雲隠れ。なことになるのは分かっているのだから、ペラペラしゃべったりしないって。
・阿久津は、最初に英国に行ったとき、謎の中国人の行方を捜していた。けれど、最終的にそれは日本人・達雄だと分かって再訪するんだけど、最初に行ったとき韓国人や日本人を想定しないのはトンマ過ぎるだろ。
・阿久津は、すらすらと核心に迫っていくんだけど、株価操作の可能性ぐらい、当時の警察も考えたと思うぞ。
・トラックの運ちゃんが聞いたというCB無線が最初のきっかけだっけ。あれは、誰からのどういうヒントだっけ? そっから小料理屋だったかな。忘れたけど。それにしても、そんな店の座敷で作戦会議はないだろ。事実、板前は脅迫川柳をつくったのを覚えてるんだし。そんな杜撰なグループが、牛島の家族を軟禁するって、バランスがとれんだろ。牛島は家族もろとも殺してしまった方が、楽だったんじゃないのかとさえ思う。
・青木。牛島の家族には厳しかったのに、達雄の親族にはゆるいのは、なんで? いやいや。狐目の男も含め、烏合の衆だったのに、情報が漏れなかったのが不思議。小料理屋の板前なんて、あんなに知ってるのに、これまで漏らさなかったのが不思議。
・新聞で発表後、達雄の存在が明らかになったんだから、その親族にも警察やマスコミが押し寄せるはず。なのに、テーラー曽根は平穏そのもの。あり得んだろ!
・曽根の母親が、天袋に脅迫テープと達雄の取材ノートを隠し保存してる、というのもあり得ない。あんなもの、捨てるだろ。いくら彼女がむかし達雄と関係があったとしても、そんなことで取っておくとは思えんよな。
・エンドロールに、ベタで出てくる役者名に有名どころがゾロゾロ。佐川満男は、ああ、あれか、と思いつくけど。浅茅陽子(教師? 同級生? そういえば、この2人が並んで登場する場面があったんだけど、似すぎていて、とても変だった。)、桜木健一、塩見三省(予告編見たら分かった)ら、分からず。
星の子11/6テアトル新宿監督/大森立嗣脚本/大森立嗣
allcinemaのあらすじは「大好きな父と母の愛情を一身に浴びで育った中学3年生のちひろ。両親は病弱だった彼女を救いたい一心で神秘の力を宿しているという水にすがり、次第に“あやしい宗教”にのめり込んでいった。たとえ親友のなべちゃんが疑念を口にしても、ちひろの心が揺らぐことはなかった。そんな中、新任のイケメン教師に恋をし、授業中にせっせと似顔絵を描き続け、幸せいっぱいのちひろだったが…。」
Twitterへは「新興宗教にハマっている家庭の話で、娘も親の信仰を否定しておらず、ブキミな空気も漂っていない。山も谷もドラマもなく、なんとなく終わってしまう。社会性とか、批判の対象として描かれてはいないのよね。だから何がいいたいの? な感じ。」
新興宗教の話らしいのは知っていた。けれど、ドラマチックに対立とか人間関係あるかと思ったら、激しい場面は教師がホームルーム中に ちひろを罵倒する場面と、姉の まーちゃんが激高して伯父にハサミを向けるところぐらいで、あとはほぼのほほん、な感じ。怪しい予兆もあることはある。教団で誰それが(昇子さん?)が催眠術を使ってどうたらで訴えられて、という話が会話では登場するけど、具体的なトラブルとして登場しない。
家庭内では水を崇め儀式的なことをつづける両親の様子が記号的に映されるだけで、人間としては扱われていない。教団の海路という青年と昇子という女性も、記号でしかない。ちひろの学校生活も、へだてなくつき合ってくれる なべちゃんとその彼氏がいて、ちひろがクラスで浮いていたり差別されてもいない。とても違和感ありあり。
で、ちひろはどうかというと、両親の信仰心に疑念も抱かず、伯父と姉の まーちゃんが、例の水を水道水と入れ替えた、という事実を突きつけられても、目は覚めない。まーちゃんが両親と決別し、家出して帰ってこなくなるのと対照的だよね。まあ、個体によって差があるということだろうか。
最後も、両親と一緒に泊まりがけの大集会に参加し、夜中、誰もいない野っ原で両親と流れ星をみつける、という場面で終わってしまう。なんだよ。ドラマも何にもないじゃないか。ちひろは、これからも、宗教に疑問をもたずつき合って、大人になっていくのかね。まあ、現実にもそういう人は少なからずいるようだから。でも、それを映画として見せられても、ああそうですか、としか言いいようがないわけで。問題提示のされない映画は、見ていて感情移入できない。
・大集会で両親となかなか会えない状況というのは、なんか意味があるのか? 両親がどっかでリンチされてるとか、ドラマチックがあるかと期待したんだけどね。
・催眠術でどうの、という話は同級生と並んで話していたので、なべちゃん、も同じ宗教の子かと思ったら、違うのね。もうひとり、宗教の子が同級生にいたのか。区別、つかんぞ。
・なべちゃん、彼氏、ちひろの3人が南先生にクルマで送ってもらった翌日、南先生がちひろと2人でクルマでデート、という噂が広まったのは、なんでなの? 
・原田知世は、わりと老けていた。メークにもよるんだろうけど。53歳か。芦田愛菜って『パシフィック・リム』の子だっけか。福原愛に見えてしょうがなかった。
ビューティフルドリーマー11/9シネ・リーブル池袋シアター1監督/本広克行脚本/守口悠介
allcinemaのあらすじは「映画を撮ったことのない先勝美術大学映画研究会の部員たち。そんな彼らが見つけたのは「夢みる人」と書かれた古い台本。OBのタクミ先輩によるとそれは“これを撮ろうとすると必ず何か恐ろしいことが起こる”と代々いわれてきたとのこと。部員の一人サラは、そんないわくつきの台本にすっかり魅せられ、自分たちで映画を完成させようと思い立つ。こうしてサラを監督に、部員一同はじめての映画制作への挑戦が始まるのだったが…。」
Twitterへは「大学の映研を舞台に本広克行が監督。期待したけど『サマータイムマシン・ブルース』のウィットに富んだ緻密な脚本にはまったく及ばず。だらだら行き当たりばったりな感じで、退屈なだけだった。残念。」
大学の映研が、資金難の中、工夫しながら映画を撮る。そのなかに、『サマータイムマシン・ブルース』のタイムマシンとリモコンみたいな筋が通っていて、ドタバタコメディしながら、伏線を回収していく仕掛けが…と思ったら、そんなものはまるでなし。Webで見たら、脚本は一応あったけど即興劇のようにつくられた、なんて話がでていた。やっぱりな。勢いでやっつけた感、丸出しだもんな。
原案は押井守らしいけど、シナリオをちゃんと詰めて、ちゃんとオチに向かって収斂するような話にしてくれたらよかったのにね。ひどい映画、としか印象に残らんぞ。
・そもそも、撮ろうとすると怖ろしいことが起こる、はずなのに、何も起こらないんじゃしょうがないだろ。
・サラは、なぜ突然、脚本を探し出したのか? いきなりすぎるだろ。
・撮るには金がかかる。役者は劇研か自分たちか、と思ったら役者をオーディション? ギャラはどうするんだ? あとからノーギャラと分かるけど、大学映研の映画に、セミプロでもノーギャラで出るはずないだろ。まして、プロの升毅が、宅配のついでに頼んだらOKしてくれたとか、あり得んだろ。で、しかも、その役者たちの顔が似たり寄ったりで、キャラ立ちしてないという…。
・撮影に使った部屋とかスタジオとか、どうしたんだ? セットや小道具は? どうも資金はいくらかあったようだけど、誰が出したんだ?
・撮られた映像は黒バックあるはい暗黒にライティングされてたりするけど、スタジオは明るいし、照明がいないだろ! おかしいよ。
・撮影も大詰めなのに、リコがとつぜんいなくなって、中断。しばらくして(どのくらい?)もどってきて、いろいろあって、といいつつ、ラストシーンの校舎の模型(どういうつながりがあるのだ?)を撮るんだけど、いったいリコに何があったのか、説明はなし。けっ。
・だれそれがカミオを好きだけど…というような現実の話と、シナリオの設定が似ていたりするようだけど、だからなに? な感じにしか見えない。
・監督の「方言でいいよ」に役者が「〜だっちゃ」でしゃべって、なにこの「うる星やつら」的な設定は。他にも「うる星やつら」を思わせるものがいくつか…。
・でその、できあがった映画の内容は、どういうものなんだ? 撮影過程と、撮影されたらしい映像を見ても、イメージまったく湧かないぞ。
薬の神じゃない!11/10新宿武蔵野館2監督/ウェン・ムーイエ脚本/ウェン・ムーイエ
原題は“我不是薬神”。allcinemaのあらすじは「上海でインドから輸入した強壮剤を販売する店を営むチョン・ヨン。家賃も払えないほど金に困っていたある日、慢性骨髄性白血病の患者リュ・ショウイーからインドのジェネリック薬を購入してほしいとの相談を受ける。国内で認可されている治療薬は非常に高額な正規品のみで、多くの患者には手が届かなかった。最初は断ろうとするが、大きな儲けになると気づき、ジェネリック薬の密輸・販売に乗り出すことに。やがて白血病患者らでチームを組み、急速に販路を拡大していくチョン・ヨン。そんな中、ニセ薬が出回っているとの情報を嗅ぎつけた警察に目を付けられ始めるチョン・ヨンだったが…。」
Twitterへは「中国映画。バカっぽい題名だけど中味は切実。薬九層倍で貧乏人を切り捨てる製薬業界に、寄せ集めの一味が挑む。細かいカットでテンポよくコミカル&シリアスに。連携するのは中国とインド。未来を牽引するのは両国だよな。」
中国映画。予告編は、冒頭をちょっと見た程度。シリアスではなく、おふざけクライム映画? の気分だった。もちろん基本コメディタッチだけど、ベースがきっちりしてるから最後まで破綻なく、正統な話で突っ走る。とくに冒頭から細かなカットの積み重ねで軽快に背景を見せていくあたり、これがソダーバーグあたりが演出したら煙に巻かれるだけな気もするけど、しっかりと伝わってくる。
てなわけで、離婚手続きや父親の病気、仕事もいまいちなチャン。せっぱ詰まってると、やってきた3枚もマスクしてる怪しい男ワンに、白血病のジェネリックの輸入話をもちかけられる。ワンも白血病患者で、それでマスクが欠かせない。白血病患者にとって薬剤は欠かせないが、スイスの薬は高価すぎる。中国の正規代理店もスイス本社の言いなり。患者の多くは低所得者で、死ぬしかない状態だという。ところが、中国では認可されていないが、インドのジェネリックは薬効も変わらず安い。しかし、密輸になるから…と腰がひけていたけど、家賃未払いで店も閉鎖され、しかたなくワンに連絡。まずは単身インドに乗り込むが、大量に売らないと安く卸せないといわれ、まずは試しにボストンバッグに詰めて帰国。ところが売れない。ではとワンが頼ったのが、娘が患者で、患者掲示板の運営をしているポールダンサーのリウで、あっという間に患者が集まってきた。ではと、英語のできる教会牧師のリウにインドと交渉してもらい、代理店契約。商売が回り出す。と、薬を盗む金髪青年が登場し、捕まえてみると、貧乏な患者に与えるのだという。彼も仲間に引き込み、5人で正規価格4万元の1/8の価格5千元で販売し始める。
集まる5人が、みなキャラが濃い。個人背景も描かれて、感情移入できるんだよね。最近の日本映画の、記号的で、似たような顔の役者を並べたキャスティング&脚本とは大違い。まあ、古くさいといえばそうかもだけど、先日見た『罪の声』なんかと大違い。
対する警官(は、あれは妻の弟、でいいのか?)も、チャンたちの行為は脱法と知りつつ、でも、薬を求める患者たちの立場も理解して、悩める感じが描かれている。さらに、ニセ薬でひと儲けを企むペテン師の存在もなかなか。彼の、「貧乏という病は治らない」というひと言は、なかなかに切実だ。ところで、大きな会場でニセ薬を堂々と売っていたりして、あれはあれで、警察には目をつけられていなかったんだろうか。それと、ペテン師の存在にたどり着いたのは、チョンの薬を飲んで副作用がでた、というところから、何か別の薬を飲んでいないか? と訊ねて分かったからなんだけど、ペテン師のニセ薬は小麦粉だったんだよな。では、あの副作用の原因は何だったんだろう、と少し気にかかる。
いったんはペテン師とやり合って、ペテン師は逃亡。チョンたちも警察のお世話になったけど、これは軽犯罪だったみたい。でも、半年後ぐらいにペテン師が接触してきて、仕事の権利を譲れ、と脅してくる。まあ、チャンも警察に目をつけられそうなのは分かっていたから潮時、とペテン師と仕事を引きつぐ。このせいで、仲間5人からは恨まれたけど、自身は稼いだ金で縫製工場かなんか運営してご満悦。なところにリュの妻がやってきて、ペテン師が薬価を引き上げて買えなくなり、自殺未遂…。なわけで再び4人を集め、今度は500元という原価割れの低価格で提供することになる。義憤なのか。でも、リュは結局自死し、金髪も警官に追われ、事故死。自身も、軽犯罪で逮捕されたときの調書がきっかけで逮捕され、5年の実刑に…。そのチャンが刑務所に送られるクルマの運転手が「スピードを弛めろ」と運転にいうのだが、沿道には患者たちがびっしりで、つぎつぎに、していたマスクをとって感謝の意を表す。そのなかに、ダンサーのリウ、リウ牧師、そして、亡くなったはずのリュと金髪の姿も見えて、ここは涙を誘う。
ここで終わるかと思ったら、刑期が3年に短縮され、出てきたチョン。息子は、海外の母親のところに行くのを送るんだったっけか。近くにいる刑事に、以前は誘われても飲みに行かなかったけど、今日は行くようだ、というところで終わる。で、今では、高価だった薬も保険適用になったとか字幕で。
こういう、体制批判的な意味合いが濃い映画も、つくってよい時代がきたのが興味深い。大陸で大ヒットしたというけど、体制側も反省点として重く受け止めているのかね。それと、ジェネリックを製造しているのがインドというのも驚き。人口が多く、次代を牽引する2大国が舞台になっているのは、象徴的かも。つぎは、自国で正規の薬剤を開発することになっていくんだろうか。
・ダンサーのリウとチョンがいい関係というか、付き相のセックスを提供してもいいよ的な場面で、でも、娘が起きてきてチョンが萎えてしまい、やめるところ。なかなかいい。俺のおかげでいまが、というオッサンの支配関係を成立させないのは、グループが長続きする秘訣だし。とはいえ、前妻いない後、心は寂しかったろうにと思うと気の毒な気もしたりして。ダンサーのリウが、本気でチョンに惚れた、というのは無かったのかな。うーむ。少しあって欲しかったかも。
・患者のワンは、コメディリリーフ的な存在でもあり、また、患者代表でもあり、最後は悲劇の人になる。存在感が凄い。奥さんや子供も、涙を誘う。
・金髪の存在が、いまいち明確ではない。本人は病気、ではないんだよな? 病気なのか?
・ペテン師も、人はいい感じで。でも、儲け主義? チョンから引きついだ後、価格を上げたのがいかんな。でも、最後、チョンが金を渡すと、ほっとした感じで。その後、警察に捕まっても、チョンのことは言わなかったし。
・ところで、あの刑事は、職を辞めてはいないのだよな、たぶん。では降格とかなったのかな。しらんけど。とはいえ、教条主義の中のひと筋の優しさは定番な存在だけど安心できたな。
カセットテープ・ダイアリーズ11/11ギンレイホール監督/グリンダ・チャーダ脚本/サルフラズ・マンズール、グリンダ・チャーダ、ポール・マエダ・バージェス
原題は“Blinded by the Light”。allcinemaのあらすじは「イギリスの田舎町でパキスタン移民の家庭に暮らす16歳の少年ジャベド。音楽と詩を書くのが好きな彼だったが、外では移民へのいわれなき差別や偏見に晒され、家では厳格な父親からの理不尽とも思える抑圧に苦しめられる日々を送っていた。鬱屈を抱え、いら立ちを募らせていたある日、ジャベドはアメリカのロック・スター、ブルース・スプリングスティーンの音楽と出会い、衝撃を受ける。彼の詩に激しく共鳴し、それまで抑え込んでいた自分を解き放っていくジャベドだったが…。」
Twitterへは「1987年のイギリス、パキスタン移民一家。もちろんイスラム教徒。肩身の狭い息子のヒーローがスプリングスティーン? フレディじゃないのか。インド人でゾロアスターは憧れにならんのか? ラストは強引にまとめちゃった感じだな。」
いまも英国では移民への迫害が多く、そうした団体も活動しているという。自分都合で移民を受け入れ、要らなくなったら首を切るのは身勝手だとは思うけれど、不況下で英国人すら職がない状況で、非難の対象が移民に向かうのもムリからぬことか。それを理性で正すのは難しい。差別の心も、同じ。いまここに危機に瀕した人がいて、同胞と外国人だったら、どっちを救うか? というように話でもある。日本だって、自国民が貧乏してるのにベトナム人や中国人が職を得て悠々暮らしていたら、憎しみはそちらに向かうだろう。まあだから、個人的には移民受け入れは賛成しないし、外国人は基本、お客様がよいと思ってる。それが、仲よく共存できる関係だと思う。
もうひとつ。イスラム教は他国との融和を疎外する傾向が強いと思う。自分たちの信仰は、それは自由。しかし、教義やルールを他国にもちこむのは、どうなんだ? と思ってしまう。もちろん、キリスト教は、そのようなことをかつて行い、他国を侵略したり虐殺したりした。でも、だからといってイスラム教もいま、そうしていいことにはならないわけで。現在ならではの落としどころを考えなくてはならないと思う。とはいえ、21世紀になって対立はなお激しく、テロは国教を超えて行われている。欲と偏見は限りない。とはいえ、これは1987年のイギリス。これからまだまだ対立が深まるぞ、というような時代の話だ。
スプリングスティーンはレコードを1枚、“Born in the U.S.A.”を持っている。当時はブームで、ラジオからも鳴り響いていた。この歌詞を、俺は米国生まれだ、って誇らしげに歌ってる、って解釈した人もいたけど(個人的に歌詞に興味がないので、聞いていたときは意味を考えなかった。あとから、こんなアメリカに生まれちまった、って言ってると知った)、驚くことに英国人のマットもそう誤解してたのね。まあ、若くてベトナムのことを知らないから仕方がないのかも知れないけど。
この映画が、英国映画によくある、炭鉱町の不況で貧乏で吹きだまりでくすぶってる下層階級が登場するとか、『8 Mile』(こっちはラップだけど)みたいな背景なら、なるほどね、と思えたと思う。でも、パキスタン移民のお勉強できる兄ちゃんの話となると、見方が違ってくる。てみじかに言えば、しょうがないじゃん、だ。この映画は事実をもとにしているらしく、パキスタン移民からジャーナリストになった人の自伝が元になってるという。であれば、なるほど。がんばったね。という風に見ればいいのではないか。移民への迫害は許せないとか、移民も平等であるとか、そこまで拡大して見なくてもいいような気がする。違いはある。その前提でつき合えばいい。そして、移民した側も、郷に入れば郷に従えで、折り合いを付けていく必要があると思う。いまどき結婚相手を親が決め、結婚する相手は会ったこともないとか、そんな話は過去のものにして欲しい。すべてを家長である父親が決定し、勝手な外出も許さないなど、文明社会ではもうあり得んだろ。まあ、移民一世が死滅するのを待たなくちゃならんのかも知れないが。それにしても、本国でさえ自由をもとめる世代が増えているというのに、周囲を自由と民主主義に囲まれていながら、原理に従おうとするムスリムが理解できない。こんなだから、欧米育ちのテロリストも登場するんだろうな、という感想しかもてないのも事実だな。
ジャベドは周囲の英国人に恵まれている。文才を認め、チャンスを与えてくれた女教師。隣人の老人もそうだ。分け隔てなく友だちだったマットもいる。スプリングスティーンの歌詞の解釈については、マットの父親と意見が一致して、通じてしまう。スプリングスティーンを教えてくれたシークの同級生もいるし。
近所や、レストランに出没する右翼青年たち。ああいう存在は、いつの時代にもいる。玄関に小便をかける子供たちは、親の影響だろう。そういうバカどもと闘っても、ムダだよね。うまくかわすしかない。自分より下層を探して痛めつける、が差別の構造で、英国の貧乏人は、そうしないと救われないまでに追いつめられている、ということだろう。
社会運動好きな娘イライザとの恋話は創作くらいけど、まあ、映画だから花がないとな。この娘の両親の、上流階級ぶりがなかなかで、でもちゃんとジャベドを夕食に招待するあたりは、興味深い。まあ、ジャベドをどっかの動物としか見ていない可能性もあるけれど。
不満なのはラストで、コンテストに入賞した作文を朗読するよういわれたジャベドだけど、途中で「できない」と止めてしまう。なぜなら、イライザが両親に出席するよう迎えに行き、「ん?」な感じで両親と妹がやってきたからだ。たぶん、元の文章は、貧困や差別に触れ、そこから脱出すること、を書いていたのかな。ジャベドは「書いたときと考えが変わってる」といい、自分の言葉で話し出す。まあ、簡単に言えば、自分があるのは両親のおかげ。それを忘れることなく、自分の夢も追いかけよう」というような感じで、両親への理解と歩み寄りだ。これはスタンスの後退だと思うんだけど、これで父親は一気に御機嫌になってしまう。父親がジャベドに歩み寄るとは到底思えないんだけど、そういう感じにうまくまとめてしまっている。嘘だろ、おい、という気分だ。
てなわけで、ジャベドは父親と一緒にマンチェスターの街へ、大学を目指す。これまではいつも父親が運転してたけど、鍵を渡され、ジャベドが運転していく、というのが象徴的だけど、これでやっとジャベドも独り立ち、というわけだ。なんとなく、収まった感じだけど、ムリくりすぎないか?
・マットの父親がやってるバザーのバイトに行ったら、そこにイライザがいて。まるでミュージカルになって、そこにいるみんながジャベドを応援、彼が告白する場面は、なかなか。
・イスラムの女性は気の毒だ。奥さんのミシン仕事、なんだありゃ。「家で働いてないのは父さんだけ」というセリフもあったけど、子供ら全員にバイトさせ、すべて回収し、長女(?)の結婚費用にあてる? そんなことしてるから…。
・でも、妹はときどき抜けだしてクラブで踊ってるし、つき合ってる彼氏もいたりする。なかなか。でも、演奏してるのは故国のなのか、中東ロックみたいなのだったけど。やっぱそういうのが好きになるのか?
ひとくず11/12シネ・リーブル池袋シアター2監督/上西雄大脚本/上西雄大
allcinemaのあらすじは「母親の恋人から虐待を受け続けている幼い少女・鞠。ある日、鞠が電気もガスも止められている家に置き去りにされているところへ、空き巣に入った男・金田。自らも幼いころに虐待を受けていた彼は、鞠のことが放っておけなくなり、彼女を救うために行動を起こすのだったが…。」
Twitterへは「説明セリフが全部教えてくれる、昭和の香り漂うベタベタな人情話。 涙より、笑ってしまう、いまどきこれかよ、な面白さだった。」「話も台詞も画調まで 昭和をパロってすべてがベタに 人情たっぷり浪花節 ああおっ母さん 義理は一切ないけれど 我慢ばかりの人生も いつか花咲こともある 辛いことなどアイスで忘れる恨み節 けれど半端者にはアイスは要らない この子の傷は俺の傷 おいしいの そのひと言が 泣かせてくれます」「『ひとくず』について、児童虐待がテーマ、という感想ツイートがあるけど違うだろ。これは、人としての成長あるいは再生、そして愛の話だ。児童虐待はモチーフのひとつにすぎない。金田も女も生まれ変わり、娘の皮膚も新しくなっている。変わらないのは母親だけ、というオチがあるけど。」
実母とヒモによる幼児虐待。悲惨を絵に描いたような、手垢が付きすぎて古くさいとしか思えないような話を、これでもか、というようなベタな演出と展開で2時間もたせる。セリフもベタ、演出もベタベタ、画調もコントラストを強調してギラギラしてる。先の見える脚本も、それを期待する客への答になってるんだろう。これだけクサくて、でも飽きずに見られるのは、随所に見られるユーモアで、もしかしたらマジで書いているかも知れないセリフやその言い回しが、ギャグにしか思えないところが随所にあって、ときどき笑ってしまうのだ。
たとえば、アイスを食べれば辛いことも忘れる、といいつつ、勧められると「俺は食わねえ」と答える。それが可笑しい。その後の話で、アイスで誤魔化そうとした母親に対する恨みで食べないのだ、と分かっても、その時はおかしいのだからしょうがない。他にも、真面目な場面で、笑ってしまうところはいくつかあった。競輪だか競艇で、刑事たちが「あいつの人生はついてない」といった途端、80万の大穴を的中させた金田。刑事が「ついてるみたいですよ」というのなんか、ギャグ以外の何物でもないだろ。
焼肉屋で、隣席になった家族が「上」をたのんだからと、「なんでもかんでも「特上をもってこい!」という金田。マリをいじめる同級生に「お前のオヤジの職業はなんだ?」と聞くと「社長」と応えられ、戸惑う金田。絶品のギャグの連続だ。
主人公はコソ泥でヤクザではないけれど、人情に厚い任侠路線を思わせる。意識してのパロディだと思うんだけど、もしかしてマジでやってるのか。それならそれで、おかしいけど、面白い。
マリという少女に同情するのは、自身もかつて、男がいないと生きていけないという自堕落な母親とヒモに育てられ、根性焼きや折檻と称する暴力を振るわれたからのこと。という重なりもまた、ベタすぎる背景だよな。
人とのふれ合いを教育されてこなかったせいで、不器用すぎる金田。名前からすると実父は在日二世か三世か。周囲の人間をバカ呼ばわりする。いまどきこんなじゃ、泥棒もできないと思うんだけど。まあ、それはそれとして。話としてはストレートで分かりやすい。
目の前で彼氏を殺され、その彼氏を埋めて、同居するマリの母親の神経は少し疑ってしまうけど、まあ、これも映画。彼女も死体遺棄とか死体損壊とか、起訴されるはずだけど、そうなっていないのも、映画だろう。金田の窃盗が熊のぬいぐるみでバレるのはミエミエの演出だけど、ヒモ殺しがなぜ警察の知るところになったのか、はサッパリ分からず、だけど、これも演出だろう。そのヒモの仲間のヤクザたちが、いまいちパッとしないとか、彼らが金田をいたぶってるときに金田を知る所轄刑事が乗り込んでくるとか、そのときヤクザ達はさっさと逃げて、刑事は見逃してしまうとか、いろいろ不自然なことは多いけど、それもまたレトロな演出で、面白い。
絵に描いたようなバカ女、絵に描いたようなヒモ、絵に描いたようなヤクザ、絵に描いたような所轄刑事と本庁の刑事、絵に描いたような児童保護局の担当者…。なんだけど、ただの記号になっていないところがこの映画の面白いところで、すべてが絵に描いたように機能していくのが面白い。
エンドクレジットのあとに出所する金田の場面があって。マリと母親が迎えに来るのはミエミエだけど、実母までやってくるとは思わなかった。この母親、性懲りもなく、アイス持参なのもまたまた笑えた。マリが可愛く成長して高校生ぐらいなのは、ちょっと泣けた。ということは、10年ぐらいくらったのか。あのヒモにも落ち度はあるし正当防衛だと思うんだけど、ちとやりすぎたのと、前の殺しがあるからな。その前も、情状酌量してもらえてるんじゃなかろうか。
前の殺しのときは少年院かな。そこで、いろいろ学べたはずだし、就職もできたと思うんだけど、そこを無視して、虐待されて人との付き合い方を知らず、窃盗と監獄を行ったり来たり、というのも映画的設定かな。とか、ツッコミどころは満載だけど、そういうところも含めて、すべての浪花節的映画を下敷きにした大人情話ということなんだろう。その意味で面白かった。
・金田の行きつけのキャバレーのキャバ嬢、なかなか性格的にもまっとうで、いい女じゃないか。
ジオラマボーイ・パノラマガール11/17109シネマズ木場シアター4監督/瀬田なつき脚本/瀬田なつき
allcinemaのあらすじは「東京に暮らすごく平凡な16歳の高校生・渋谷ハルコは、橋の上で倒れていた神奈川ケンイチに一目惚れする。運命的な出会いと勝手に盛り上がるハルコだったが、真面目そうだったケンイチはいきなり高校を辞めたかと思うと、マユミという危険な香りのする女性に夢中になっていく。ハルコの気持ちとは裏腹に、2人の恋はいつまでも平行線のままで、すっかり戸惑い混乱していくハルコだったが…。」
Twitterへは「地に足がついていないような不思議なテイストで、でも少しも飛んでいないところがもの足りないかな。そもそもマンガなら違和感なく受け止められる話も、実写になるとそうはいかないからね。」「主役の2人は印象が薄い。カエデ役の滝澤エリカの、妙なエロさばかりが気になったかも。それと冒頭の壁塗りパンはウザかったし、百万両の壺とかデモのニュースは、なんなんだ。村上春樹の本のタイトルは洒落てるけど(こういう会話がもっとあればいいのに)、彼女らが読んでるとは思えんぞ。」
もうちょいドラマが、それが日常的なものにせよ、あると思ったんだけど、ほとんど何もない感じ。というのも主人公の2人は最初と最後にふれ合うだけで、ほとんど一緒に行動しないのだから当然か。2人のキャラも設定されているようで、実のところとても曖昧だからつかみどころがなくて、ふわふわな感じ。ハルコの友だち2人、ケンイチが惚れたエロい女子大生なんかも、こんなやつおらんだろ、な感じ。だから、これってAVみたいだな、と思った。AVにでてくる女性はセックスが好きで、嫌々といいつつ男の思い通りになって、いろいろ応えてくれる。実際の女性はそんなことがないけれど、AVのなかでは、男にとっての幻想の世界が映像化される(たまに、それが現実だと思ってしまう男もいたりするらしいけど)。そういう、あり得ない高校生の様子が映画になっているのだから、けっ、で済ませればいい。けれど、この手の映画を見て、いいなと感じたりするひともいるわけで。まあ、ハナから幻想の体をとっていれば間違いはしないだろうけど、表面的には青春ドラマになっているから重なるところもないわけではなく、自分の高校生活と比べたりする人もいるんだろうな、と。
ケンイチのキャラなんて、ほとんど思いつきな感じ。学校が嫌でとつぜん退学し、ふらふらスケボーし、渋谷でナンパして失敗したところをマユミに拾われ・・・って、そんなことする女がいるわけないだろ、やっぱマンガだよ。ケンイチはマユミの彼氏? にボコボコにされ、血だらけで月島あたりに帰り着くけど、橋のたもとで倒れてしまう。そこに遭遇したハルコが助け起こし、それでハルコはケンイチに惚れて、拾った学生証をたよりに、ケンイチがすでに退学した高校の正門ででてくるのを待ち受ける、って、マンガだろ。
ボコられても懲りず、原宿までマユミを探しに行くケンイチ・・・。なにも考えてないだろ。友人2人とケンイチへの接触を試みるハルコ。うーむ。どこにも現実味がない。ではお伽話的ロマンがあるかというと、そういうのもない。ケンイチはマユミに惚れたようだけど、もちろん一顧だにしない、といいつつキスしたり会ったりする関係は何なんだ。しまいには、一夜をともにする。けど、マユミは「しなきゃよかった」とサバサバしてるし、ケンイチは納得してない様子で、これは花魁に惚れた大家の若旦那と同じなのか?
な翌日、ハルコの友人たちに連れ出され、建設中のマンションの一室で開かれているハルコの誕生パーティに顔を出すものの、ハルコを見ても誰だか思い出せない。にも関わらず、2人になったら、あらま、一夜をともにしてしまう。なんなんだ。ケンイチ君は、初めて会ったハルコとセックスしてしまうとは。ハルコも、憧れていたけど、自分なんか興味もないような男に抱かれて、それでよいのか。翌朝、先に出ていったケンイチを追っていき、あらら、2人はいい関係になるのか? こんなんで、いいのかね。関係は、これから築かなくちゃいけないんだぜ。やれやれ。仲好し友だちのカエデとも、ギクシャクしだしてたし。前途多難だね。
・ハルコは自転車窃盗、2人乗り、飲酒、とかで停学になって、大学の推薦も取り消されて。これから大学に自力で挑むわけだろ。大丈夫なのか。ケンイチは中卒になるわけで、器用なところもなさそうだけど、ずっとホテルのバイトで暮らしていくのか。こんな男のどこがいいのか、さっぱり分からず。
・女子3人のへらへらな関係は、ウィットに富んだ会話もあって楽しいけど、それぞれの背景が見えない。オトナっぽいカエデだけど、素顔が見えない。マルは、大人しめかと思ったら、渋谷のイベント(何のだ?)で知らぬ男と話し込んだりしてて、オトナなのか? でも背景は見えない。
・ハルコの妹の同級生で、関西弁の男の子がいいキャラしてるけど、たんなそれだけ、でしかなかったり。
・ハルコの父親は、ありゃ、ただの脳天気なバカか?
・ケンイチの姉はしっかりしてるとして。母親は病気で入院中なんだろ? 登場はなかったけど、さて、どうなるんだか。
・舞台となるエリアが、アバウトに広すぎる。ハルコのマンションはお台場になるのか豊洲あたりなのか。ケンイチの家は佃嶋あたりを想定? でも、ちょっと買い物でも橋を渡っていくのか。現実とは違う感じ。
・最後、2人は家とは違う方向の電車に乗ろう、というのだが、あの駅のホーム、 レール2本だったけど、ではゆりかもめ ではないのか・・・。ゆりかもめ路線かと思ってたんだが。
はちどり11/25ギンレイホール監督/キム・ボラ脚本/キム・ボラ
英文タイトルは“House of Hummingbird”。allcinemaのあらすじは「1994 年、ソウル。両親とそれぞれに問題を抱えた姉と兄と暮らしている中学2年生の少女ウニ。仕事で忙しい両親の関心はもっぱら長男の大学受験のことだけ。ウニのことなど気にかける素振りもみせることはなかった。ウニは学校でもクラスメイトに馴染めず、孤独な日々を送っていた。そんなある日、ウニは初めて自分に関心を示してくれる大人と出会う。それは通っていた漢文塾に新しくやって来た女性教師のヨンジ。彼女に少しずつ心を開き、いろいろな悩み事も相談するようになるウニだったが…。」
Twitterへは「韓国の女子中学生をめぐる一家の話だけどドラマらしきものもなく淡々と退屈。前半のあれやこれやは伏線にもなってない。突然、社会事件で話を転がしたり。思春期の、というより、女性に対する男の暴力が認められる韓国の父権主義が問題かと。」「いちばんの問題は、主人公の少女ウニを延々と描いているつもりで、ほとんど描けていないこと。そもそも、ウニにはクラスになぜ友人がいないのだ? さして、兄貴や両親はあの程度の記号でいいけれど、姉をほとんど描いてないのがもったいない。」
Wikipediaには、ハチドリは「鳥類の中で最も体が小さいグループであり、体重は2〜20g程度である」「足は退化しており、枝にとまることはできるがほとんど歩くことはできない」とある。タイトルの意味が、これに由来しているのかどうかは分からない。
主人公のウニは中二で、進学校に通っているようだ。父親は餅屋を経営していて、母親や兄、姉と手伝いもしている。両親はおそらく学歴がなく、子供たちに大学進学を期待している。兄は猛勉強中でストレスがたまり、妹たちに当たり散らす。姉は両親が希望する高校に行けず、塾をサボって夜な夜な彼氏と遊んでいる。ウニ本人は、勉強より漫画を描くことに興味があり、クラスには友人はいない。
まあ、思春期の揺れ動く女子中学生の心を描いた、とかなんとか言うんだろうし、公式HPにも「誰しも経験したことのあるだろう思春期特有の揺れ動く思い、 家族や友人との関わりを繊細に描いた」と書いている。こういう一般化を見るたび、バカか、と思ってしまう。これは、ウニという個人の物語のはずで、「誰しも経験」するようなことではない。そもそも、ウニの通う中学の同級生にも思春期はあるし、兄や姉にも思春期はある。ウニの取りだして一般化しても、説得力はほとんどないだろう。ウニは、多くの少女の代表ではなく、特殊なのだ。そして、根底には韓国特有の男尊女卑があるんだと思う。決して一般はできないだろ。
なのだが、その特殊がはっきりとは描かれない。いくらなんでも周囲から「不良」と見られているのは解せないし、学校にひとりや二人友だちがいてもおかしくはないはず。なぜ周囲に打ち解けないのか、その理由がピンとこない。そのウニが心を許すのが、書道塾で一緒になった女生徒で、制服が違うから別の学校なのだろう。ではなぜ、彼女とは友人づきあいできて、信頼できていたのか? その二人でグラブみたいな所に行ったら、同じ学校の下級生2人に出会い意気投合。その片割れから、「好きです」などと告白されて、おうおう、な感じになる。下級生も、学校にはなじめないタイプだったのか? しかも、いろいろあって最後の方で、学期が変わると下級生は別の友だちとくっついてしまい、ウニが問い詰めると「あれは前の学期のこと」と軽くいなされる。あのあたりの感覚が分からないのは、こちらが男で世代が違うから? もやもやだな。
他に、ウニを理解してくれる存在として、書道塾の女教師が登場する。けれど存在としては取って付けたような感じで、納得できるようなものではない。大学を休学していて、それでバイト中らしくて、論語みたいな文章から教訓らしいことを話してくれていた。えーと、多くの人に会っていても、心まで見える人は少ない、とかいうのだったかな。それがどうした、な感じ。他にも、殴ってくる相手がいたら、抵抗しなさい、とかいっていたかな。
想像するに、猛勉強してソウル大学に入ったけれど男社会や、儒教的な秩序に阻まれ、思うように生きられなかったのかも知れない。塾教師を辞めて、新たなスタートを切ろうとしていた矢先、彼女は橋の事故で亡くなってしまう。これも唐突すぎるし、男尊女卑とも関係なくて、意味不明。この事故では、本来の時間にウニの姉がバスに乗っていれば、彼女が犠牲者になっていた、らしい。それが、日頃からの怠惰でバスに乗り遅れ、助かったことになっている。真面目が得するとは限らない、何が幸いするか分からない、ということか?
韓国でも、四半世紀前は漢字教育がされていたんだな。いまでも、してるのかしらんけど。とはいえ、女教師が左利きで板書する感じは下手くそだった。
冒頭と中盤に不思議なシーンが二つある。冒頭の、ウニが自宅ドアのノブをガチャガチャして「開けて」というのに応えてくれない様子と、中盤の、公園で呼びかけてもまるでウニの声が聞こえないかのようにふらふらしている母親のシーンだ。母親は、ウニの声を聞いてくれない、ということを象徴したかったのかな。でも、母親なら聞いてくれるはず、という期待が前提にあるなら、なるほど、だけど、そういう感じでもないし。なぜ母親とだけ断絶しているのか、分からない。ウニも、母親に何を期待しているのか分からんし。もしかして、両親の喧嘩で母親が切れ、ランプで夫の腕を傷つけてしまうんだがもも翌日、ウニが見ると、2人は並んでテレビを見て笑っているのを見て、結局女は、という現実にいらだっているのかね。
その母親は、自身の兄の進学のために犠牲になって、高卒のままだったのかな。その兄=ウニにとっては母方の伯父は、雰囲気的には心を病んでいて、独身(といっても死別なのか離婚なのか、ずっと独身なのかは分からないが)のようだ。ある夜、ふらりとやってきて、しばらくして亡くなっている。死因は言及されていないけれど、病気とはいってなかったので、自死かも知れない。社会的な責任や負荷に耐えきれず、そうなった、可能性もある。これまた、韓国の学歴社会、男尊女卑を象徴する場面か。でも、こういう人は少数派なんじゃないの? もしかして、大半は思ってるけど、口に出せない?
男尊女卑では、ウニの兄が両親のいるところでウニを殴り、鼓膜を破ってしまうというのがあった。父親は「両親の前で妹を殴るな」といっていたけど、あれは、両親に対する無礼であって、妹への暴力に対してでは亡いと思う。まあ、四半世紀前は、こんなだった、ということか。とはいえ、ひどい慣習ではあるよ。でも、父親は娘にも進学を希望しているところもあって、教育費を惜しんでいないようだし、素直でできる子には、不満を言う筋ではないような気もする。まあ、子供の才能は多様性に富んでいるのだから、進学だけを基準で選ばれてもしょうがないとはいえるけど。でも、ウニも描くマンガは、あまり上手くなかったけどね。漫画家やイラストレーターを目指しているようにも見えなかったし。
あとは…。ウニの、首のしこりと手術の件か。あのしこりは、心のしこりを象徴しているのかな。それを取り去って、ラクになった、のか? そんな風には見えなかったけど。
ヤウンペを探せ!11/26シネ・リーブル池袋シアター2監督/宮脇亮脚本/高石明彦、渋谷未来
allcinemaの解説は「20年ぶりに再会した映画研究会のメンバー4人が、かつてのヒロインが欲しがる謎の“ヤウンペ”を求めて右往左往するさまをコミカルに描く」
Twitterへは「吉本の映画。落語の「転失気」と、かぐや姫の宝探しを合わせたような話。長いコントみたいな脚本で、映画としてムダが多すぎ。関西のお笑いはそこがキモなんだろうけど、笑えるところはひとつもなく、眠っちゃうぐらいつまらなかった。」
最初に「吉本」とでてきて、ああそうか、とは思ったんだけど。以前見た、吉本製のおバカ殺人事件の映画を下回るつまらなさだった。思うに関西のお笑いは、本筋にあまり関係ない部分で、しつこく、くどく、繰り返し、が基本なんだろう。その部分で笑いを取っている感じ。だから、話はシンプルになっていて、それが、つまらないんだよね。たぶん、知ってる芸人がでてくるだけでおかしい、んだろう。でも、こちらには、それはない。とはいっても主要な役者の顔は分かる。けれど、みな役を演じてというより、本人のもつキャラで引っぱろうとしてる感じ。まあ、池内や池田は多少違うかもしれないけど。加えて、池内は強面チンピラやくざのイメージが強いので、おとぼけキャラがしっくりこず、なにをやっても笑えない。
そもそも、4人が20年前の映画に出た美里のことを、そろいもそろっていまだに思っている、という設定があり得ないだろ。吉本喜劇なんだから受け入れなさい、と言われてもできんのよ。しかも、池内は女にモテるようで、朝起きたら居酒屋で会った女とやってた、なんて感じらしい。だったら、アラフォー美里に入れあげる必要はないだろ。
だいたい、美里にそんな魅力はないし(蓮佛美沙子がそんな神秘的でも美人でもない)、マドンナになっていない。ただの居酒屋のオバサンだ。いつ行っても会える彼女に、なんで? だろ。
さらに、みんなで決めた合い言葉を、4人がそろいもそろって忘れてる、ってのはバカすぎな設定。というわけで、途中で少し寝てしまったのも致し方ないか。
最後にちらっと登場したのが川島海荷なのか。目玉でっかくて小太り四角丸顔な娘だったけど、えらい変わったもんだ。
滑走路11/27テアトル新宿監督/大庭功睦脚本/桑村さや香
allcinemaのあらすじは「幼なじみをいじめから救ったせいで今度は自分が標的になってしまった中学2年生の学級委員長。シングルマザーの母に心配をかけたくなかった彼は、一人で問題を抱え込んでしまう。30代後半の切り絵作家・翠は、子どもを産みたいとの思いが強くなってくるが、将来への不安も募るばかり。そんな中、夫との関係にも違和感を抱き始めてしまう。厚生労働省の若手官僚として激務に追われ、働く意味を見失いかけていた鷹野。ある日、“非正規雇用が原因で自死したとされる人々のリスト”の中に自分と同じ25歳の青年を見つけ、その死の真相を探り始める。それぞれに困難な状況に直面し、それでも懸命に生きる3人だったが…。」
Twitterへは「いじめ、の話ではなく、いじめられっ子の話だった。あいかわらず、いじられる側の話ばかりで、いじめる側からの映画は登場しない。いじめられっ子を悲劇の主人公のように美化し、淡い恋物語をまじえてもしょうがないだろ」「あと、翠はあの翠で、幼なじみの2人は、過去と現在なんだよな? 違うのか? 別人? 時制と人物の関係が、いろいろよく分からん映画。」
まず、分からないのが、主要3人の関係性と、時制。
1.委員長と弱虫鷹野、そして少女翠の話。
2.官僚鷹野の話。
3.絵本作家翠と夫の話。
1.の話は、官僚鷹野と絵本作家翠のかつての話かと思って見ていた。とくに、委員長の顔と、官僚鷹野の顔がつながるつなぎが目立ったから。でも、これはミスリードさせるための意図的なもののようだ。あとから、官僚鷹野は弱虫鷹野だと分かるから。
で、1.の少女はたしか翠といった。だから、3.の絵本作家と同じ人物だと思っていた。ところが、見終わって↑のあらすじを見たら、絵本作家翠は30代後半となっている。え? じゃ、別人なのか。たんに、少女翠と存在がかぶるだけなのか?
2.で、自死問題を訴えるNPO法人の陳状が出てくる。上司は事務的に処理するけれど、官僚鷹野は他人事と思えず、勝手にNPO法人を訪ね、ある男性の自死の原因を探ろうとする。なので、最初はその男性は、弱虫鷹野? と思ったんだけど、実は自死したのは委員長と分かるので、では委員長かと思ったら、そうではなくて、まったく他人の25歳男性だったようだ。けれど、その男性の元カノとかでてきて、話がつづくのかと思ったら、あっさりと断ち消えてしまう。なんなんだよ。このエピソードは、官僚鷹野が、かつて自分を助けながら、自死した委員長のことを明確に思い出すためのものだけだったのか? なんか、安っぽいな。
あと、違和感を持ったところは、官僚鷹野が、かつて盗んだ数学の教科書を返しに、委員長の母親を訪ねるところ。なぜなら、遺骨と遺影が居間に置かれ、線香があげられていたから。そんなの、フツーあり得んだろ。まるで最近亡くなったかのようで、官僚鷹野がタイムスリップしたのか? あるいは、本来の時制は過去で、返したのは弱虫鷹野なんだけれど、あえて大人になった鷹野をここにもってきた、のかなと。
というような疑問が湧いてきて、とてもすんなり映画を享受できなかった。
で、映画のつくりとしては、重厚なタッチで、じわじわと、心に迫る、とでもいいたいような感じだけれど、要は人情浪花節的。こういうテーマをこういう切り口で描けば注目されるだろう的なあざとさに満ちている。映像で見せつつ、心情や状況をセリフで説明するのは、正直いってくどいしうっとうしい。
で、なにより違和感を感じるのは、いじめの扱い方。素っ気なく、記号的なのだ。かつて、いじめられた経験があるから、こんなくらいで自殺するか、という気分になってくる。なことをいうと、昔のいじめと今のいじめは違う、と反論されそうだけど、描かれているいじめは、今のいじめというより、昔風の、ステレオタイプなモノだと思う。
さてと。委員長が3人組にいじめられるのだけれど、その3人組についてはほとんど掘り下げがない。それでいいのか? 悪いのは連中だ。だったら、いじめる側の心も追求して欲しいもんだといつも思っている。でも、世の中の“いじめ”を扱った映画は、ほぼすべて、いじめられる側の悲しみしか描かない。その方が描きやすく、共感を得やすいから? アホかという気がする。簡単に人をいじめ、死に追いやってる連中のことを描くのが、本筋だろう。ヤクザ映画なんか、暴力側ばっかり描くのに、いじめ問題になると、被害者側しか描かないのは、変すぎる。映画監督なんて、いじめる側だった人が多いんじゃないのか。違ったら失礼しましただけど。
委員長は、いじめられている弱虫鷹野を助ける。あの場面を見ると、委員長はなかなか勇気があるように見える。ところがそれが仇になって、今度は委員長がいじめられる側になる。というのは、ありがちだけど、あのときの勇気があれば、3人組にもっと刃向かえたんじゃないかと思ってしまう。それができなかったのは、母親がシングルマザーだからなのか? って、なんの説明にもなってないだろ。刃向かう奴は刃向かう、たとえ母親が片親でも。少女翠が、先生に言おうか、といっても、母親に知られたくない、と委員長は言う。これも、同じだ。
しかし、この映画では教師がほとんど登場しない。あんな露骨な3人組を、知らないはずがない。まして、弱虫鷹野は不登校になっている。なら、原因追及をするのがフツーだけど、そういう熱血教師も出てこなければ、知っているけど関わらない無気力教師も出てこない。いじめっ子の親が街の有力者、とかいうありふれた設定もでてこない。だから、なおさら、こんなのあり得ない、と思ってしまう。
いじめられる委員長は、それでも登校し、3人組を避けつつ暮らす。にもかかわらず、少女翠と仲好しになって、図書館で仲よく並んで勉強したり、街の公園で話したりしている。こういうのを3人組が見逃すというのが、あり得ないだろ。こんなの学校中の噂になっちまうに決まってる。あと、少女翠が、3人組がプールに放り投げた委員長のカバンを、プールに飛び込んで拾い上げた、というのが、まったく解せない。それ以前に、なにも接触がなかったんだろ? 少女翠が委員長に同情する理由は、どこにあったんだ? 描かれていない。
そういえば、絵本作家翠のところに、級友からラインがあって、委員長は13年前に自死した、という話題になる。このとき翠は、「いたねえ、そんな人」と返信が素っ気ない。この映画のラストを思うと、この感情は何なんだ? と思ってしまう。まあ、少女翠と絵本作家翠は別人だから、自死した少年も別人、なのかも知れないけれど。
委員長が自死したことは中盤で分かるんだけど、その後も、少女翠との心のつながりが延々と描かれ、最後は、少女翠の転校ということになり、彼女を追っていく。ついに橋の上で再会し、別れるんだけど、ここだけ見てると甘い青春物でしかない。でも、この後、委員長は自死しているんだろ? それとも、この世界の委員長は自死しない、のか? なんかよく分からない。ところで、最後、じゃあ、と言って別れた2人が、互いに背を向けたまま橋を別の方向へ歩いて行くのは、ありか? フツーは男が女を見つめつづけるとか、歩いている途中でどちらともなく振り向くとか、男が女をクルマの近くまで送っていく、じゃないのか? とても違和感。
ところで、委員長が自殺を決めた決定的原因は、なんなのだ? これは描かれていない。いじめられても、殴られても、死ぬことはないだろ。と、3人組に刃向かったときの様子から、思うんだが。
この映画は、いろいろ説明不足。少年が「委員長」であることは、描かれていない。委員長と弱虫鷹野が幼友達であることも描かれていない。絵本作家翠の年齢が30代後半というのも描かれていなかった。これじゃ、背景が分からんだろ。意図的にぼやかしてるのか? 
あとは、生活感のない家ばかりでてくるのが、嘘くさい。絵本作家翠夫婦の家とか、官僚鷹野の家は、なんなんだありゃ。委員長と母親が暮らす家も、きれいすぎるし。
その絵本作家翠夫婦の夫も、描き方がステレオタイプ。高校教師に甘んじてるけど、ほんらいは作家として売れたい、らしい。自分は高校から首を切られ、妻の翠は売れっ子になりかけている。それでひがんで、酔っ払って殴ったりして、謝ったり。いまどきこんなの、おらんだろ。つくろうか、と悩む子供についても、たまたま妊娠して、でも、夫はどっちでもいい、という。翠は堕ろすつもりだったけど、直前で止めて。で、夫には「堕ろした、あなたの子だから」と怖ろしいことを言う。こういいつつ、堕ろしていなくて、生むんだけれど、そのことを、元夫には伝えていないようだ。オソロシイ女だ。
少女翠の父親は厳格で、勉強ができないと絵を描かせてもらえない、らしい。いまどき、そんなバカ親がいるのか?
弱虫鷹野は、引きこもりから転校し、のちに猛勉強して厚労省の官僚になったのか? 嘘くさい設定だ。
委員長の母親は、見覚えがあるけど誰だっけ、と思ったら、クレジットに坂井真紀。ずいぶん細面になったな。
ノスタルジア11/28シネマブルースタジオ監督/アンドレイ・タルコフスキー脚本/アンドレイ・タルコフスキー、トニーノ・グエッラ
原題は“Nostalghia”。allcinemaの解説は「ソ連を離れ“亡命者”となったタルコフスキーの初の異国での作品であり、祖国を失ってさまよう彼の心情が如実に出た、哀しく重厚で、イマジネーションに溢れた映像詩。主人公を彼と同じく国を追われた詩人とし、彼が不治の病に犯されながらイタリアで放浪を続け、故郷への想いや死への畏れ、実存的苦悩に囚われるさまを、独特の湿気にすべてがおぼろになるような映像でゆったりと綴っている。」
Twitterへは「タルコフスキー! 初見だけど設定も話もよく分からずだらだらと。何度か寝落ちしそうになった。あとから概要読んで、ふーん、な感じ。この映画の評価は、政治的な思い入れが大半だろ。説明不足を難解と称し、崇めていた時代の残滓。」
まともにタルコフスキーを見るのは初めてかも。評判がいいので楽しめるかなと思ったけど、人物の紹介とか時代背景、状況なんかの説明が一切なくて。男と女がイタリヤらしいどこかの、温泉のある村を訊ね、宿に泊まり、雨漏りのする家で犬を連れた男と出会い…。は分かるけれど、会話の示すところがよく分からんし。ときどきインサートされる娘や少女がなんなのか分からんので、話(というのもあるのかないのか分からん状態)にも入り込めず、2度3度うつらうつら、数分落ちかけつつ覚醒し、見つづけたんだけど、最後まで分からず。
終わって、簡単なあらすじを見ると、↑のようなことと、他に男は詩人で、女は通訳、とか書いてあったな。へー。そんなん、映像では分からんぞ。解説読まないと分からんようなのは、独立したまともな映画じゃないよ。
たしかに、ところどころに、なかなかフォトジェニックな場面はある。静寂、やすらぎ、安心、なんかを感じるから、あれはもしかして詩人の思う故郷の記憶、心象風景かも知れない。現在のホテルの場面も、構図が決まっていて、美しい場面もある。でも、基本的な話がつたわってこそ、そういう画像(動画というより静止画的だ)の価値も高まるはず。ああした場面をみたけれは、スチルを見ればいい。動画としての映画をみる必要はないだろ。
で、ふと気づいたら彫像の横で男性が火だるまに、ってのは何だったんだ? あとで別のあらすじ読んだら、あの犬を連れていた男らしいけど、理由は分からず。最後の方の、ロウソクを持ってお百度は、なんなんだ? これも、犬を連れた男に言われたのか、とか、あらすじ見て知ったり。やれやれだよね。
しかし、CGのない時代の火だるまとか、雪が降るとか、あれやこれや、実写で大変だったろうなあ。というのが感想。
ところで、「1+1=1」という落書きは、なんだ ?

 
 

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