2021年1月

ハニーボーイ1/4ギンレイホール監督/アルマ・ハレル脚本/シャイア・ラブーフ
原題は“Honey Boy”。allcinemaのあらすじは「若くしてハリウッド・スターとなったオーティスだったが、いつしかアルコールに溺れ、飲酒運転で事故を起こしてしまう。更生施設に送られた彼は、そこでPTSDの兆候があると診断される。心当たりのなかったオーティスは、カウンセラーに今までの思い出を振り返ってみるように言われ、子ども時代の記憶を辿り始める。するとすぐに、人気子役だった12歳の自分と、癇癪持ちで前科者の“ステージパパ”ジェームズとの辛い思い出が蘇ってくるオーティスだったが…。」
Twitterへは「『トランスフォーマー』に主演したシャイア・ラブーフの自伝で、自身が脚本を書き、父親役を演じてる。自身の奇行・アル中を、ちょいイカれた父親に育てられたせい、って言い訳してるだけな感じで、とくにドラマもなくだらだらと退屈だった。」「不法侵入、酔っぱらい運転、出廷拒否の連続だけど、映画出演は途切れてないのは、これはお国柄なのか?」
実をいうと去年、『ファヒム』と一緒に見たことは見たんだけど、あのときは事情があってほぼ寝てしまっていたので再挑戦。なんかイメージ的なシーンがつづく映画だなと言うのが前回の印象だったけど、やっぱりそうだった。なにか事件が発生し、対してなんだかんだ、というのはない。ずっと父親の支配下にいて、褒められたり、急に叱られたり。そんな父親に対して「僕が稼いでるの」ということはあっても、父親が「ここを出ていく」というと、「連れてって」と懇願する。12歳だから依存するのはしょうがない。それに、それほどひどい体罰を食らってるわけでもないし。どこがどうPTSDなのか、よく分からない。
たぶんあの父親は脳に器質的な障がいがあるとか、双極性障がいがあるとか、ではないのかな。フツーの人が、なにかに悩んでいる風にはあまり見えない。
背景が良く分からない。母親は同居してないけど、出稼ぎ中? 電話してくる場面はあったけど、父親と喧嘩になって、オーティスが通訳している場面があった。まだ結婚しているのか、別れてるのか、もよく分からない。
父親は、むかしはコメディアンなの? その息子が、どうやって子役になったのか、その説明もない。オーティスが学校に行ってる場面もない。子役で売れっ子ならギャラもいいのかと思うけど、住んでいるのは移民が住むようなバラックで、向かいにはジャマイカあたりからやってきたような黒人たちが住んでいる。ギャラも現金で日払いみたい。もっと売り込めばいいのに、父親の妙な性格=病気のせいで、損してる感じかな。
そんな場面が延々続くので、飽きる。
ただし、向かいの家の年上の娘(何歳の設定なんだろ。これも気になる)との淡いふれ合いが気になる。実をいうと、最初に彼女が泊まった場面で、数分だと思うんだけど、寝てしまった。なので、身体の関係になったのかどうか分からないんだけど、その後の映像を見ると、そうではないような感じかな。分からんけど。では、なぜ向かいの、しかも年上の娘がオーティスとそういう関係になったのか。これが分からない。だって、彼女のことを具体的に描かないから。彼女は過去の場面にしか登場しない。その後、どうなったのか、とても気になる。
現在のオーティスが鶏に導かれ、そのかつての家にやってきて。向かいの家、だと思うんだけど、みるとピエロがいて。てっきり彼女かと思ったら父親だったので、がっかり。父親と心を通わせても、なんとも思わんよ。彼女はどこに行った? その方がよっぽど大切だ。
現在の女関係(事故のとき同乗してた相手とか)とか、アル中離脱プログラムの指導者とか、女性カウンセラーとか、顔をよく映さないし、人物も掘り下げない。人間というより、記号のような感じで、ちっとも面白くない。
Wikipediaにあるみたいに、女優と同乗してて事故って、指を2本失ったとか、ということをちゃんと描いてくれた方が、よっぽど興味をもって見られるはず。
だらだらとイメージ映像みたいに同じような、アホな父親の所業を見せられても、なにも感じないよ。
ノッティングヒルの洋菓子店1/5ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/エリザ・シュローダー脚本/ジェイク・ブランガー
イギリス映画。原題は“Love Sarah”。allcinemaのあらすじは「イザベラと親友でパティシエのサラは、自分たちの店を持つという長年の夢がついに実現しようとしていた。ところがオープンを目前にサラが事故で亡くなってしまう。親友を失い悲しみに暮れるイザベラ。店のほうもパティシエなしでは諦めざるを得ないと考えていた。そんな彼女の前にサラの娘クラリッサが、サラと絶縁状態だった祖母のミミを連れて現れ、母の夢を3人で実現させようと言い出す。こうしてパティシエ不在のまま開店準備を始めた3人のもとに、なぜかミシュラン二つ星レストランのスターシェフ、マシューがやって来るのだったが…。」
Twitterへは「全然わくわくしないサクセス物。暗く陰気に始まり、とくに壁にぶちあたることもなく、なんとなく軌道に乗るまで、だらだらと。情報の交通整理ができてないまま始まるので、いまいちスッキリしない。人間関係、時期、年齢とか曖昧だし。」
いきなりサラが死んでしまうとはね。ミミがサラの母親だというのは分かった。イザベラがサラの親友で共同経営者になるはずだったのも、分かった。分からなかったのはクラリッサ。冒頭で、柔軟しながらスマホ見ながら誰かと会話してたけど、相手は誰だったんだ? さらに、同居人と別れ、開店予定だった店に潜り込んで、警察沙汰になって、イザベラが呼ばれた? イザベラはクラリッサを「姪」って説明してたけど、ん? イザベラに「うちにくれば?」といわれたのを断って、ミミのところへ。どういう関係? と思っていたら、しばらくして、孫だと分かった。では、サラの姪? やっとサラの娘、と分かったのはずいぶん経ってからだった。脚本が下手なんだと思う。
で、↑のあらすじ読むと、疑問だったことがささっと書いてあって。でも、大半、映画では説明されないんだよ、すぐには。
マシューが登場して、過去がだんだん分かってくるけど、じゃあそれはいつのこと? 何歳だったんだ? と、もやもや。イザベラは39歳? マシューがサラに会ったのは19歳のときで、フランスの洋菓子学校で。イザベラも同級生。サラ、イザベラ、マシューが同年齢として、クラリッサは20歳過ぎだろうから、サラが10代のときの子なのか。父親の分からない子を生んで、サラはどうやって生活していたのか? サラが死んだのはいつなのか? この物語は、サラの死後、何年目のものなのか? それに、サラが死んだときクラリッサは何歳で、以後どうやって生活していたのか? ミミは、孫娘の存在を知っていながら、受け入れなかった? なんで? とか、疑問が山積み。
出展予定の店は、借りていたようだけど、ずいぶん時間が経ってしまっていて、荒れ果てている。でも、内装は、出展予定だったときの状態なんだろ? だとしたら、現在まで、イザベラが賃料を払っていたのか? あの物件の次の借り手の話が冒頭にあって、イザベラが決定権をもっているような感じで描かれていたのは、どういうこと? もしかして所有物? と一瞬思ったんだけど、のちにミミが「家賃も払えない」っていってるんだよね。というわけで、あの物件に関する疑問も残る。
イザベラはマシューと再開したとき、毛嫌いの感じだったけど、あれはなんで? 意味不明。
イザベラは、フツーの会社に勤めていたようだけど、あっさり止めてしまったのか?
ミミは、年金あるいは、サラに貸してやる予定だった資金を、店に注ぎ込んだということなのか?
クラリッサはダンサーだ、なんて話が途中に突然でてきたり。
とにかく、人物の関係や背景をしっかり見せないので、ずうっともやもやしつつ見ていた。なこともあり、さらに、話が暗いのでいまいち、のれず。さらに、マシューがサラとつき合うようになったのは実は行き違いで、マシューはの目相はイザベラの方だった、なんて告白がでてきて、さらに追い打ち。イザベラも、否定せず、一夜の関係をもってしまって、やれやれな感じ。この手の映画でロマンスは欠かせないとはいえ、サラの存在を汚すようなエピソードは、どうなんだ?
あと、もうひとつ。クラリッサの父親はマシューなのかどうなのか問題。結局NOで、これは装幀の通り。親子だったら、ドラマにならんだろ。
なんか、話を素直に盛り上げる話づくりでなく、妙なところからジャマするようなエピソードを突っ込んでくる。ま、脳天気にハッピーエンドにしない方針なのかも知れないけど、それならそれでもっと人間を掘り下げないと話にならないだろう。抹茶クレープケーキを注文してくる田中という女性にしても、いまいち存在がよく分からない。突然、明日朝までに同じ抹茶クレープケーキをふたつ頼まれ、難儀しているイザベルにミミが名刺を見せるんだけど、ありゃどういう意味だ? 後日、取材の依頼があって、雑誌かなんかに載るのか? 名刺に書いてあった内容も、よく分からんよ。
そもそも、洋菓子の店でやっていくのか? あるいは、イザベラが途中でひらめいたように、各国の御菓子つくります対応になっていくのか、そのあたりもアバウトで、大丈夫かいなこの店は、なんだけど。最後はとくに大成功でもなく、なんとなくうまく行きそうな終わり方。なんか、ストレスがたまる終わり方だな。
・ミミが元サーカスのブランコ乗り、というのは、ほとんど生きてないね。
・クラリッサは、バレエの練習を再開したようだけど、彼女はもともとどれだけダンスに本気だったのか、もよく分からず。
・向かいに住んでる発明ジジイは、なんで接近してきたの? ミミに一目惚れ? 変なの。
新感染半島 ファイナル・ステージ1/6109シネマズ木場シアター6監督/ヨン・サンホ脚本/ヨン・サンホ
原題は「半島」という意味のようだ。allcinemaのあらすじは「謎の感染爆発で半島が崩壊してから4年。脱出の際に家族を守れなかったことがトラウマとなり、亡命先の香港で廃人のように暮らしていた元軍人のジョンソク。ある日、裏社会の人間から仕事の依頼を受ける。それは、今も完全封鎖されている半島に潜入し、大金を積んだトラックを見つけ出し、回収してくるというもの。依頼を引き受け半島への上陸を果たしたジョンソクだったが、そこに待っていたのは想像を絶する大量の凶暴化した感染者の大群と、終末世界と化した半島で非道な所業を楽しむ狂気の民兵集団631部隊だった。2つの脅威にたちまち追い詰められたジョンソクは、荒廃した世界で生き延びてきた幼い姉妹とその母親ミンジョンに助けられるのだったが…。」
Twitterへは「前作の“列車内”という斬新な設定からは大きく後退。どっかで見たことあるような設定やアクションばかりで、わりと退屈。見せ場の情緒的なタメもムダに多いし、ラストも、なんだよ突然! とか、そもそも論を始めたらキリがないかも。」
生き残ったジョンソクが姉夫婦を車に乗せ、日本行きの船に乗ろうとしている場面から始まる。なんとか乗り込んだものの、船内で感染が発生。姉とその子供も犠牲となり…。で、その4年後。ところは香港。いじけて暮らしているジョンソクが、どっかのボスみたいのに呼ばれると、そこに義兄もいて、半島に潜入して米ドルを運ぶよう命令される、というところから今回のお話しが始まるんだけど、面白いのはここまで。半島に潜入して以降は、従来のゾンビ物で見たような話と映像、あるいは別の映画のディストピア的な感じのテイストばかり。全体の雰囲気はレグイザモが出演した『ランド・オブ・ザ・デッド』、後半のカーチェイスは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』、世紀末的なコミュニティは古くは『ニューヨーク1997』、新しいのでは『アンチグラビティ』、『今際の国のアリス』なんかも同類項だな。なので、どうなるのかおおよそ予想がつくので、いまいちドキドキもハラハラもない。なかで、ちょっと興味を引いたのが、捕虜(?)をゾンビを戦わせ、2分逃げ延びたら命を助ける、というところぐらいかな。
ホモ・サピエンスの涙1/7ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2監督/ロイ・アンダーソン脚本/ロイ・アンダーソン
原題は“Om det oandliga”。allcinemaの解説は「永遠や普遍をテーマに、時代も境遇も様々な人々の人生の一瞬を詩的に切り取った映像詩。全33シーンすべてをワンシーンワンカットで撮影し、実在の名画の数々からも多くのインスピレーションを受けたこだわりの映像美で、不条理な世界に生きる人々の悲喜劇を静かに描き出していく。」
Twitterへは「1話2分程度のつまらない小咄の連続。笑いのない「ゲバゲバ90分」ならぬ76分。複数回に登場するのは信仰を失った神父ぐらいかな。前作『さよなら、人類』を見てるので寝るとは思ったけど、やっぱり一瞬気を失った。」
『さよなら、人類』は見てるので、寝るだろうとは思ったけど、一瞬寝落ちした程度で、1〜2話は見そこなってるかも知れない。で、『さよなら、人類』はセールスマンという設定と切り口があったけど、こちらは2分程度の短編が延々とつづくのみ。複数回に登場するのは、信仰を失った神父が3回ぐらい? あとは分からず。顔のアップもないし、設定もみんな違うので。しかし、つまらない。ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)は解せないな。
とくにオチがあるわけでもないような短い話が、延々とつながっている。昨日見たばかりなのに、はっきり覚えている話は少ない。映像的に美しい、と思うような場面も、そんなになかった。こういうスタイルの監督であるのは分かっていたけど、やっぱ、ドラマ=事件がないと、飽きてしまう。事件らしい事件が、信仰を失った神父ぐらいでは、ありきたりすぎるだろ。まあ、とりあえず、見ましたよ、というアリバイのために見たようなモノだけど、見終えてみれば、見なくても良かった部類の映画だった。
マイ・バッハ 不屈のピアニスト1/12ギンレイホール監督/マウロ・リマ脚本/マウロ・リマ、マルシオ・アレマオン
原題は“Joao, Maestro”。allcinemaのあらすじは「幼くしてピアノの才能に目覚め、13歳でプロの演奏家として活動を始めたジョアン。20歳の若さでクラシック音楽の殿堂カーネギーホールでの演奏デビューを飾り、明るい未来が約束されているかに思われたが、不慮の事故で右手の3本の指に障害を抱えてしまう。それでも懸命のリハビリでついに復活を果たすジョアンだったが…。」
Twitterへは「ジョアン・カルロス・マルティンスの伝記らしいがそんな人知らん。で。負けず嫌い。女好き。妙にもてる。病気とケガ。いろいろあった。以上。なあらすじ的でドラマがなく人間を掘り下げてないので退屈。とくにバッハ、も感じない。」
ジョアン・カルロス・マルティンスという人は知らんので、感慨もなく見た。幼年時から現在まで出ずっぱりだけど、人となりがほとんど分からない。全体がスケッチのように描かれるので、せいぜい女好きで手が早いこと、意外ともてるらしいことぐらいだ。それにしても、初の海外公演が成立し、到着したウルグアイの空港から売春宿に向かい、そこで女を数人買い占め、それが筆おろしというのはびっくり。しかも日も居つづけで、あわてて合同リハーサルに向かうってどういう神経してるんだか。子供の頃の奥手な雰囲気とは全然違う。その後もバーや街角で女に声をかけては成功し、ってのも、チビでハンサムでもないのに、なんで? な感じ。
音楽教室で指導もしていたようで、そこて知り合った女生と結婚し、子供も誕生。NYに呼ばれて転居して直後なのか、窓の下の公園に母国(?)の有名(?)なサッカー選手がきてるのを見つけて飛び入りし、試合もどきをしてたら転倒して指の神経を損傷するって、指を使う音楽家としては失格だろ。ところで、音楽ばっかりかと思ったら、ボールさばきはちゃんとしてて、ブラジル人なら誰でもそうなのか?
手術したのかな、の後、指に嵌める金属のギプスをつけて演奏再開、ってのも凄いけど、鍵盤が血だらけになるほどやるかね。医者から13日は開けろといわれてるのに10日未満で公演したり。アホかと思う。ストレスたまってかみさんと子供は出てくけれど、こちらのその後が気になる、けど描かれず。ののち、どっかで(海外だっけか)で女に声かけて一緒にのみに行こうってことになって、でもこれは美人局らしく仲間の男たちに頭殴られ、こんどは脳の損傷? よく分からなかったけど、言語中枢がおかしくなって長い間話せず。でもその部分は指の動きも司ってるので、手術すると指も思い通り動かなくなるってことに。これでピアニスト止めるんだったか。保険会社だかなんだか、いくつかフツーの会社で働いたってセリフがあって、どんな人生なんだ? で、バーで知り合った美人弁護士と知り合いになって同棲し始め、彼女の話からヒントを得て左手だけの演奏会を始め、これが大うけの大復活って、どういう人生なんだ。
けど、右手は引きつるようになり、左手の自由も次第に損なわれ、じゃあ、ってんで指揮者に転向し、今度はこっちの路線で人気者に。今にいたる、らしい。
本人も凄いけど、トラブルのつど支えてくれた人がいたり、演奏会の再開や指揮者転向後のあれこれをサポートしてくれた人がいたはずで、でも、そういうのはバッサリカットされている。せいぜい、アメリカのなんとかいう部署の人ぐらいか。でも、あんなボロボロのピアニストに金を出しつづけたのは、なんで? という、経済的な視点とか興行的な部分がまったく見えないので、いまいちストンと腑に落ちない。
というわけで、テンポ良く進む波瀾万丈のあらすじを見せられてるだけな感じ。とくに感情移入することもなく、あーそうですか、で終わってしまったかな。
・少年時に、喉に貼り付けてあった絆創膏が気になってて。後半で、そこにでき物ができてて医師が注射する場面はあったけど、あれは何だったんだ? あれが何か、彼に影響を及ぼしたのか? 言及されてなかったけど。
・マイ・バッハ、が題名だけど、そんなにバッハにこだわってたか? クラシック知らんのでピンとこなかったんだけど。あの、前半のヤマ場になってる連打の曲は、バッハじゃないよね? 
海の上のピアニスト イタリア完全版1/12ギンレイホール監督/ジュゼッペ・トルナトーレ脚本/ジュゼッペ・トルナトーレ
原題は“La leggenda del pianista sull'oceano”。allcinemaの解説は「99年に日本で公開されたインターナショナル版に対し、40分以上も長い本国イタリアで公開されたオリジナル版。2020年9月、日本での初公開が実現。」
Twitterへは「遠い記憶の彼方の通常版より50分近く長いらしいけど、どこが長いのか分からん。とくにストーリーもないおとぎ話なので全170分は冗長すぎ。一瞬、寝落ちしそうになった。ジェリー・ロール・モートンってあんなやな奴だったの?」
覚えてたのは、冒頭に店に入る、ということ。床を滑りながら演奏すること。ピアノに置かれたタバコ。結局、降りなかったこと…ぐらいかな。ふえた40分は、どこなのか分からん。
前半は、人間の動き(ドラマとか描写)が主体の映像なので、わりと面白かった。でも、中盤で、陰気なオッサンと話をする場面で、数分、目をつむってしまった。このあたりから次第に観念的な会話が増えてきて、後半は、一目惚れの娘に関するところ以外は割りと退屈。セリフも、いい加減に聞いていた。
そもそも、船の底で子供が育つわけがないだろ、とか、だれにピアノを習ったんだよ、はあるけれど、それは言わない約束のおとぎ話だから、それはそれでいい。気になったのは、ラッパ吹きのマックスのこと。彼が船に乗り込み1900と出会ったのは1927年のはず。船で6年間働いたというから、1933年に下船。で、現在の時制は戦後すぐだから1946年ぐらいか。ってことは、1927年に豪華客船だったのが病院船になったのは船中なのか、そして、廃船として爆破されようとしている。船の運命として短すぎやしないか? 病院船として大きな損傷を受けていたのかね。
でまあ、この映画は起承転結がはっきりしてるわけでもなく、エピソードの集積なので、大きなドラマとか全体のダイナミズムはない。なので、170分もあるとダレるよね。1900にとっての事件としても、乗船客の娘に惚れたのと、その後に下船しようかと思った、ぐらいのことしかない。
なので、マックスが狂言回しになって楽器屋のオヤジに語る、船を爆破するスタッフに語る、という場面を介在させて話を展開させるわけなんだが。マックスがこんなに熱く語る1900との交流はたったの6年間で、しかも、13年前ぐらい前のこと、なのが解せない。そもそも1900を知っているのはマックスだけじゃないはず。なのに、10年ちょいで伝説の人になっている。なんか変だよな、とツッコミを入れたくなってしまう。
1900は、隠れているわけではない。新聞の取材も受けるし、レコードの吹き込みにも応じる。1900の噂は陸にも広がっていて、ジェリー・ロール・モートンが挑んできたりする。じゃあ時の人じゃん。レコード原盤を奪い取ったのは、たぶん、あの曲は多くの人に聞いてもらいたくなくて、たまたま目に入って惚れてしまった娘への思いが込められていたから、なんだろう。もっと他の曲を依頼したら、応じてくれたんじゃないのか? 
しかし、ジェリー・ロール・モートンが派手で横柄なオッサンに描かれていたのは、へー、な感じ。ジャズ草創期の人とは知ってたけど、あんなラグタイムばかりの人だっけ? 
1900が船の生活にこだわり、下船しなかった理由は分からない。破壊される寸前の船と出会い、1900を探しに行くマックス。なんとか出会って話をするけど、下船しない1900。分かったよ、と涙ぐんで去って行くマックス…。まあ、ここの1900は、マックスの見た幻影なんだろう。いや、もしかしたらすべてはマックスのつくり話なのかも知れない。いまは落ちぶれたけど、古き良き時代にすがるマックスが見た、幻影なのかも知れない。
・自由の女神を見つける乗客たちの場面は、スティーグリッツを連想してしまうよね。
・女性客の船室に潜り込んでいく場面は、近ごろの風潮では気になり過ぎな場面になってしまっている。
・娘はどこからの移民なんだろう。どこかの通りの魚屋にいるとか言ってたから、親戚を頼ってやってきたのか。貧乏な未来が感じられるけど、世界恐慌をどう乗り切ったのか気になるところ。
水曜日が消えた1/14キネカ大森3監督/吉野耕平脚本/吉野耕平
allcinemaのあらすじは「“火曜日”は、幼い頃の交通事故をきっかけに、曜日ごとに人格が入れ替わるようになってしまった青年。性格も個性もバラバラな7人は、互いをそれぞれの曜日で呼び合っていた。そんな7人の中で、“火曜日”は一番地味な存在だった。他の曜日の尻拭いや雑用を押し付けられてばかりの孤独で退屈な日常。ところがある日、“火曜日”が目覚めると、周囲の様子がいつもと違っていた。その日はなんと、水曜日だった。突然、“水曜日”が消えたのだ。いつもは休館している図書館を利用するなど、初めての水曜日を謳歌する“火曜日”だったが…。」
Twitterへは「解離性同一性障害をオシャレでユーモラスに、そしてロマンチックに。ツッコミどころは多いけど、まあいいか、な感じ。」
多重人格を描いて、不気味でも怪しくもなく、軽いタッチで爽やかに描いているのが珍しい。展開の骨格としては、水曜日が消えたのをきっかけに、他の曜日も消えていき、火曜日の意識に月曜日が介入してくる。最終的に残るのは、派手で乱痴気な月曜日。手術が必要と言われ、さてどうなるか?
魅力的な女性も登場して楽しいのだけれど、見ながらたくさんの「?」が浮かんできてしまう。
・最初、隣のベッドに寝てた女が出てくとき、投げつけた赤いハイヒールは誰のなの? 女のモノだったら、片方びっこで出てったのか?
・人格が切り替わるのはいつだ? 夜中の12時? じゃ、徹夜して起きてたらどうなるんだ? 遊び人の月曜日なんて、そういう場面がしょっちゅうじゃないのか?
・水曜日の日誌に「出勤」だったか、の文字があって。では、水曜日は週一で会社勤め? それを許す会社があるのか?
・イラストレーターもいるし、月曜日はミュージシャンらしい。ということは、週一の登場を受け入れる相手が居るということになるわけで、各曜日の周囲はみな理解があるということになるし、存在や病気のことを知っているということになる。なら、もっと有名人になっていてもいいんじゃないの?
・他の曜日=他の人格との交流も、もっとあって然るべきなのでは。月曜日だっけか、が、司書娘と知り合いになっていて、なんてことは、日誌には書かないのか? 他も同様で、助け合うことはしないのか? などと。
・図書館の切り文字の意匠。ひとつなくなったまま、は変だろ。司書娘がまたつくればいいだけなのに、なぜしないのだ?
・一ノ瀬は、幼い時の友人らしいけど、なぜ彼に興味をもち、近づき、毎日会っているのか? も、よく分からない。なんか過去とのつながりを埋め込むことはできなかったのかな。もったいない。あと、一ノ瀬も、何して暮らしている人なのか分からんよね。
・彼は、10歳ぐらいの時の交通事故で人格が分裂したようだ。両親は亡くなったのか(遺影は出てこなかったけど、どっかにあるはずだ)。以後、どうやって暮らしてきたんだ? 生活資金は? 隣近所、役所なんかの対応はどうしてるのだ? まあ、そんなツッコミはヤボと言われそうだけど。
・病院に行って報告するのは、水曜日の役目? それはなぜ? きたろう先生が、データを改ざんしていたのは、なぜなんだ? 後半で、きたろう先生は、言ってたような気がするけど、よく覚えてないのよね。若い先生に代わって、あれこれ聞いていたけど、目的は特になかったのか? 珍しい症例だから、だけだったの? ダークな目的はなかったのか?
・水曜日が消え、次第に別人格が消えていき、残ったのは月曜日と主人公の火曜日。2人が短時間に入れ替わって言い合う場面があったけど、ごちゃごちゃしていて、いまいち不明瞭。で、最後に残ったのは、火曜日ではなく月曜日だった、と。その月曜日が、手術(しないと危険だったんだっけ? 覚えてない)に当たって要望したのは、これはオチになるんだけど、各曜日の復活だった、という話で。これが、みんなの望んでいる姿だ、ということらしい。なかなかハートウォーミングで意外な結果に見えるけど、まだそんな手術はできっこないし、それで各人格が喜ぶとも思えないんだよなあ。その後の各人もチラリと映るけど、果たしてうまく行くのか? 月、火曜日以外のキャラがほとんど登場しないので、なんとも言えないよね。
・ところで、そもそも、元の人格は何曜日なんだ?
・で、彼らの未来はどうなるのだ? あのまま、個別の人格を生き抜くのか? 司書娘と月曜日は恋をするのか? 火曜日と一ノ瀬はつき合うのか? 想像に任せる、だって? うーむ。難しい未来しか待ってないように思うなあ。
・主人公は火曜日で、次に実体として多く登場するのが月曜日。他は、ほとんど登場しない。最後の方に、さらっと紹介されるのみ。これがもったいない。もっと他の曜日を登場させて欲しい感じがしたけどね。
人数の町1/14キネカ大森3監督/荒木伸二脚本/荒木伸二
allcinemaのあらすじは「借金取りに追われる若者・蒼山は、黄色いツナギを着たヒゲ面の男に助けられ、“居場所”まで用意してもらう。バスに乗せられやって来たのは、ある奇妙な“町”だった。そこはツナギを着た者たちによって管理され、住人たちは誰もが衣食住を保証されていた。彼らには、ネットへの書き込みや他人に成りすましての投票といった簡単な仕事が与えられるが、それが何のためなのかを問う者はいなかった。蒼山もそんな町での暮らしに馴染んでいった。ある日、町に紅子という新たな住人がやって来た。行方不明になった妹を探しに来たという紅子のことが気になってしまう蒼山だったが…。」
Twitterへは「ダークなディストピア感ただよう話で、切り口は面白いけど、現実味がほぼあり得ない展開なのでツッコミどころだらけ。まったくゾクゾクもハラハラもしない。」
ストーリーは違うけど、人が隔離され操られていく様子は『ときめきに死す』とか『わたしを離さないで』とか『●●』とかと似ていて、だからとくに驚きはない。とはいえ、この話に宗教は登場しない。世間に居られなくなったような人材を、衣食住と交換に人権を取り上げる。そして、選挙の際の員数や、イベントの盛り上げ、なんかに送り出す。しかも、人材は世間と隔離されてしまう。こんな組織があったらやだな、とは思うけれど、すでに似たようなことは実際に行われている。金で投票権を売り渡す人はいるし、代行で行列に並ぶ人もいる。戸籍を売るとか、そういう話だって、聞かないことはない。だから、話自体はとりたてて驚くようなことではない。それを誇張して、ドラマチックにしただけのことだろう。
とはいえ、リアリティは皆無である。あんな町を、どこにつくる? 働くチューターたちは、元ダメ人材? そればかりじゃないだろう。フツーの人間もいて、家庭を持ち、世間とつながっているのかも知れない。そんなんだったら、簡単にボロが出るはず。あと、決定的だったのが、戸籍。戸籍も取り上げられる、ということは後半になって突然知らされるんだけど、蒼山が役所にいって問い合わせると、「そんな戸籍はない」と言われてしまう。そんな蒼山に、チューターが「戸籍はこちらがもらった。活用もしている」と言うんだけど、他人が戸籍を使うことはできるだろうけど、消すことはできないだろ。
かりに戸籍の操作が自由にできるとして。それはもう、この組織が国家の組織とつながっているということになる。でも、政権交代が起こったらどうするのか? もしかして、独裁国家になっている? なら、人材を集めて操作するようなことは不要だろう。なので、矛盾する。
町に来たとき首に埋め込まれる何かは、人材をコントロールできるなんか、なんだろう。町の外に出るとノイズを発生するのも、この何かのせいのはず。人材が町の外に出るときは、ハンディなコントローラーを使って、ノイズ発生を抑えるのだろう。でも、後半で蒼山たちが逃げたとき、離れ離れになって、コントローラーから遠く離れた場面がなかったっけ? よく覚えてないけど。
まあいい。そして、見るからにあの組織がチャチいのも説得力を欠くところだな。チューターたちも、そこらのおっさん、オバサンで、蒼山たちもやすやすと逃げ出せてしまう。町のスタッフたちはみんなトンマぞろいなんだろう。あんなん、人材たちがまとまって反乱を起こせば、簡単に倒せるだろう。
まあ、製作費がなくて、欧米映画のようなスケールで描けない、というのはあるのかも知れないけれど、やってることが安っぽすぎ。だから、リアリティも説得力も、怖さもない。
だいたい、借金苦だからって、人生を売るやつはおらんよ。あの妹にしても、暴力亭主から逃れるために、町に来たってか? そんなんで、戸籍まで売り飛ばす人間なんておらんよ。その妹を探しに来た姉だって、町に入るために戸籍を売る、というのは分かってやってきた、ってことだろ? あり得んよ、そんなの。
チャンシルさんには福が多いね1/19ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/キム・チョヒ脚本/キム・チョヒ
英題は“Lucky Chan-sil”。allcinemaのあらすじは「映画をこよなく愛する映画プロデューサーのチャンシル。人生の全てを映画に捧げるつもりでいた彼女だったが、ある日突然、これまでずっと支えてきた映画監督が心臓発作で急死してしまう。唯一の生きがいだった仕事を失い、40歳にして子どもはもちろん、カネも男も家もないことに気づく。ひとまず老女が一人で暮らす丘の上の家に間借りして、仲良しの女優の家で家政婦さんとして働き始めるチャンシルだったが…。」
Twitterへは「タイトルバックがモロ小津でローアングル、シンメトリーも。と思ってたらモロに小津の名前が登場、な映画愛はさておき軽妙な前半はくすくす笑いで楽しんだけど、後半は観念に走りすぎて収集つかずな感じかな。福もないし。」
冒頭からの流れは少し分かりにくくて。監督が酔い潰れた後に、チャンシルを先頭に坂道を上り、どっかのロケハン? と思っていたら、なんか変。チャンシルになついてたソフィーという女優の家に行き、家政婦にしてもらう? なにそれ、と思ったら、飲み会の場面がまた出てきて。どうも、監督は心臓発作かなんかで急死したようだ。で、山の上の家は、新しい下宿? って、なんで転居の必要があったんだ? よく分からない。
とはいえ、とらえどころのない会話とか場面がひょうひょうとしていて、思わず笑ってしまうことしばし。とはいえ、ほとんど伏線にもなにもなっていなくて、その場のおかしさだけなんだけど。(外人娘が木を見てる場面とか、なんの役にも立ってない)
しかし、ついてた監督が死んで仕事がなくなるって、そういう環境なのか、韓国は。映画プロデューサーなんて、口八丁で世間を渡り歩く山師で、儲かる時は儲かるけど、ダメな時は借金の山、かと思ってたんだけど。なんか、地道なプロデューサーだったのね、チャンシルさんは。他の監督からのお呼びもないし、売り込みもしないようだ。ついてた監督がアート系(?)で、商業的にはイマイチだったからなのかね。
はさておいて。収入が途絶えて安い下宿に越し、女優の女中をしながら暮らす40歳のチャンシルさん。毎日通ってるうち、ソフィのフランス語家庭教師に惚れてしまう。相手は5歳も年下なのに…。で、突然登場する、自称レスリー・チャンの幽霊男が、恋の手ほどきを。うまくいくはずもなく、年甲斐もなく告白し、彼に抱きつくと、「僕にとってあなたはお姉さんのようなもの」といわれ、恥ずかしっ! なチャンシルさん可愛いけど、よくみるとオバサンだからね。ははは。
大家の婆さんの手伝いや、ハングル学習の手伝いをしたり。ソフィの家では、チャンシルさんのことを知ってる映画関係者から隠れようとしたり。まあ、やってることはコミカルで、笑える。でもまあ、失恋して。それでも、なんとかめげずに生きていられるのは、ソフィーがときどきやってきて応援してくれたからで。ラスト近くにも、ソフィ+知り合いのスタッフ+家庭教師までやってきて、わいわいやっている。現実離れした話だよなあ。と思っていたら、突然、試写室の映像になって、走る列車から捉えた、雪をかぶったレールが映る。観客は、幽霊1人。ということは…。こっそり書いていたシナリオが映画化された、ということなのか? 前半の具体的な話の展開、人間関係を思うと、失恋して以降は話が観念的で、しかも、ひゅん、と飛んでしまう。
ときどき登場する、なにかの本からの引用の言葉、みたいなのも、いまいちよく分からんし。ある時は、ソフィの家にあった本だったり、家庭教師が使っているテキストからだったり。チャンシルさんの状況を説明するようなフレーズだったかな。すっかり忘れてるけど。でも、そういうのは、メッセージとして残らないんだよね。具体的にドラマで見せてくれないと。映画なんだから。というわけで、前半は★★★★な感じだったけど、後半は★★になってしまって、もやもや…。もったいない。
家庭教師と飲みに行く先が、日本の居酒屋で、日本語だらけ。映画の話になって、チャンシルさんは小津の『東京物語』がいちばん好きだ、というと、家庭教師は首をひねり、「クリストファー・ノーランが好き」と応える。それに対して興奮し、小津の良さを熱く語り出すチャンシルさん。家庭教師が「香港映画が好き」というと、「レスリー・チャン? マギー・チャンも? 」と話すんだけど、家庭教師は「?」となる。好きなのは、きっとカンフーだよね。
そういえばどこかで、絵画の世界に憧れたのは、『ジプシーのとき』を見たから、といっていた。見てるけど、クストリッツァなら『アンダーグラウンド』『黒猫・白猫』だよなあ、と。
聖なる犯罪者1/20ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1監督/ヤン・コマサ脚本/マテウシュ・パツェヴィチュ
原題は“Boze Cialo”で、「聖体」らしい。allcinemaのあらすじは「少年院を仮釈放となった20歳の青年ダニエルは、少年院時代に出会った神父の影響で熱心なキリスト教徒となり、前科者は聖職者になれないという決まりを知りながらも、神父になる夢を諦めきれずにいた。そんなダニエルが、偶然立ち寄った村の教会で新任の司祭と勘違いされてしまう。すると、これをチャンスと司祭になりすましてしまうダニエル。その言動は宗教者としては型破りながら、少しずつ村人の心をつかんでいく。そんな中、1年前に起きたある悲劇が今も村人たちの心に深い傷を残していると知り、問題の解決を目指すダニエルだったが…。」
Twitterへは「ダルデンヌ兄弟の映画みたいな感じで始まって、なんと!な展開。集団の悪意がからんでくるのは『不思議な少年』を連想したよ。正義はエクスタシーなのかね。尻上がりに、複雑怪奇に面白くなっていったぞ。」
最初は少年院の作業風景。監督官がいなくなると、集団で弱い者へのいじめが始まる。されていたのが誰か、良く分からず。ダニエル? 一方で司祭による信仰のプログラムもあって、みな従順にしたがっている。ひとり、司祭のサポートをしているのがダニエル。聖歌を歌っていたのかな。食堂。ダニエルの近くに、大男がやってきて挑発する。どうもダニエルを恨んでいる様子で、カッとしたダニエルは大男に皿をぶちまける。どういういきさつがあったのか、は最後まで分からず。
というイントロがあり、どうやらダニエルは仮出所らしい。ここで彼は司祭に、聖職者の学校に行きたい、と懇願するけど、前科者はムリ、と一蹴されてしまう。酒もタバコも薬もやらない、と司祭に誓ってたのに、さっそく昔の仲間とクラブでバカ騒ぎ、ヤク、女子大生という女とバックでズカズカ。やれやれ。で、次はバスの中で、仮釈放中に働く予定の製材所に向かっているところだろう。タバコを吸っているところを非番(?)の警官に注意され、「いつでも見てるからな」と言われて・・・。で、村に着いて、教会へと入っていき、そこで「自分は司祭だ」と主張して、まんまと入り込んでしまう…。
とここまでは、いささかのんびり、な流れで。さあどうなるのかな、な感じ。引っかかったのは、製材所側の対応で、仮出所の人間がやってくる予定がこないことを不思議に思わなかったのか? なんだけどね。
たんなるニセ司祭の話かと思ったら、村に漂う不穏な悪意が平行して明かされていく。このあたりは、マーク・トウェインの『不思議な少年』を連想させて、興味深い。でその内容なんだけど、しばらく前にトラックと自家用車の交通事故があり、7人全員が死亡。自家用車には6人乗っていて、若い男女だった。その遺族が、教会墓地へのトラック運転手の埋葬に反対し、教会近くに6人の献花台をつくっていまだに拝んでいるというもの。遺族はトラック運転手の飲酒が原因で子供たちは殺された、と団結している(警察の調べでは、運転手は酔っていなかった、らしいけど、誰もそれを信じなかったのかね)。しかも、死んだ若者の中に、司祭の息子がいて、司祭の妻も反対団の一員になっているという異様さ。詳細がじわじわ分かっていくにつれ、あやしい緊張が広がっていく。イントロ部分ののんびりさは、もうない。
教会の司祭が検査入院かなんかで不在になるとかで、しばらく代理を頼まれたダニエル。不在が長びくということで、代理はしだいに長くなる。教会での作法をあまり知らないダニエルは、エイヤとばかりに自分の考えと声で説教したりするようになり、これが村人に好評という、なんか不思議な展開になっていく。まさにトリックスター。ここでもうひとり、トリックスター的な役割を果たし始めるのが司祭の娘マルタなんだよね。最初に教会に入ったときダニエルが話した相手が彼女で、先々、関係が深まりそうだな、と思っていたら、そうなっていくのも、じわじわくる。
ダニエルは献花台に運転手の写真も掲げよう、って村人の前で発案するんだけど、当然のように拒否されて。でも、いつまでも献花台にこだわることをやめさせようと、遺族から遺品を集めだす。運転手の妻は、村人が送りつけてきた非難の手紙を遺品として突きつける。マルタが見ると、なんと、自分の母親が書いたものまである。
マルタにも秘密があって。実は事故直前に兄から映像メールを送られていて。そこには、ドラッグを吸引し、酒浸りの兄たちが写っていたのだ。マルタは、立場上、この映像を誰にも見せていないと思われるんだけど、ダニエルに見せてしまうのだよね。なので、村人の寄付金で運転手を墓地に埋葬する宣言をしたダニエルを支援する側にまわってしまう。そのせいで母親と険悪になり、ダニエルの家にやってきて結ばれてしまうのだよね(このときマルタはダニエルの刺青に気づいてるはずだけど、なにも問いたださなかったのかな?)。
真の信仰とはなにか。正確に事実を見極め、感情にながされない教えを村人に与えなければならない司祭やその妻が、怨嗟に取り憑かれている。それを正そうとするのが、ニセ司祭の犯罪者ダニエルだってところが、この映画のキモなんだろうな。
少ない行列で、運転手の葬儀の列が進む。冷ややかな目で見ていた遺族。でも、その中から1人の女性が、列に加わるというところも、興味深い。
てな感じでニセ司祭を演じているところに、少年院の仲間がやってきて、懺悔小屋にやってくる(運転手の葬儀の前だったか後だったか、もう記憶が定かじゃないけど)。実は、製材所の拡張の式典に呼ばれて行ったとき見かけて、知ってはいたんだけど。冒頭の少年院の場面で、どういう役割をしていたのか記憶にないのが残念。でまあ、金をよこせ、じゃなきゃバラす、と言われ、その夜だったかにダニエルの家を訪れてきて、ドラック&酒でぐだぐだに。で、パッと画面が切り替わって、ダニエルとマルタが献花台に集まる遺族に、運転手の妻に送られた手紙を突きつける場面になって。え? と思ったのは、あの仲間はどうなったのかな? だった。昨夜の様子では、仲間を追い返すのはムリな感じだった。これは、殺っちゃったのかな、と。そういえば、懺悔小屋で、ダニエルの兇状を話してたっけ。人前で自分が強いことをムダに自慢するようなやつで、そんな感じでケンカした相手を死なせてしまった、とかなんとか。
それでもダニエルは司祭の代理をつづけていて、本来の司祭の妻は、ちゃんと式のサポートをしているのが不思議。な感じで勤めているところに男がやってくる。始め分からなかったけど、少年院のときの司祭だったのね。が、ダニエルに詰めよって、儀式は自分が勤めるからお前は私の紹介をしろ、という。逃げようとしたけどムリだったのよね。窓が開かなくて。窓が開かないのは、最初に教会にきたとき確かめていて、伏線になってた。で、ダニエルが祭壇中央に行き、上半身裸になって刺青のある身体を披露し、そのまま祭壇を降りて外に出ていく…。
で、かつての少年院。あのときの仲間もいち早く戻ってきていて、ダニエルがニセ司祭になってることを告げ口したらしい。なるほど。で、決闘になるんだけど、その仲間とするのかと思ったら、さにあらず。冒頭でダニエルにケンカを売ってきた大男が相手だった。最初は劣勢だったけど金蹴りで逆襲し、ボコボコに…。というところで仲間が「もういいだろ。火をつける」と仲裁に入り、ボヤ発生。血だらけのダニエルは、いずこかへ逃亡するのかね。
司祭は病気が回復したのか、教会で何か話していた。運転手の妻も、そっと教会に入ってきていた。司祭の妻が、おいでおいでしてたような気もする。マルタは、クルマを拾って家を出ていったようだけど、どこでなにをするのやら。怨嗟の渦は収まったのか。表面的には片付いたけど、どす黒いものは澱のように淀んだままなのか。気になるのはマルタがあの映像を他の誰かに見せたのかどうか、だよね。
・神父って字幕に出てたけど、妻帯できるのは牧師の方ではなかったのかな。ポーランドのキリスト教が、どの流派なのか知らんけど。
写真の女1/23シネマ ブルースタジオ監督/串田壮史脚本/串田壮史
ブルースタジオHPのあらすじは「女性恐怖症のレタッチャーである械は、ある日、体に傷がある女・キョウコと出会う。械はキョウコに頼まれ、画像処理によって傷のない美しい姿を生み出す。キョウコはその姿に魅了されてゆく一方で、自分の存在が揺らぎ始めてゆく。」
Twitterへは「見合い写真の画像処理が面白い。屈折した自己顕示欲、死者からの抑圧、捕獲者がいつのまにか捕獲されてるカマキリのアナロジー、とか意味深なサブプットも埋め込まれてるし、あとはテクかな。」
日本芸術センター第12回映像グランプリ記念上映会の1本。これは、グランプリ作品。
全体的に、技術的にイマイチ、とは思うんだけど。たぶんそれは予算とスタッフによって解消されるのだろうなとは思う。とはいえ、映像の厚み、物語の豊穣さを欠くことになるのだから、決定的だ。そうしたことを除けば、いろいろ深い読みもできるし、重層的な構成もあって、そこそこ面白く見られた。
昆虫撮影が趣味の男・械の仕事は写真館。父親の跡を継いで、地味に経営している。自分が生まれた時に母親が死んだことで、どうも女性恐怖症がある様子。独身。カマキリを飼っていて、手ずからエサを与える。音楽はカセットで。械は、しゃべらない。もしかして唖? とも見えるけど、対話者の反応はそうではないので、しゃべっているところは省略しているということなんだろう。でも、とても不自然だけど。
客は、馴染みの葬儀屋がいる。飛び込みで、見合い写真。これは、レタッチの様子が映るので、なかなか面白い。千葉に昆虫を捕りに行って、山中で胸に切り傷を負った女・今日子と遭遇する。自撮り中に怪我したらしい。包帯をしてやり、同乗させて都内へ。保険証がないからと、薬を買って。械は今日子を写真館に連れてきて、泊まらせる。女性恐怖症の械は、居座りつづける今日子に畏怖を感じるが、葬儀屋が「居させてやれよ」というので、そのまま家に置く。今日子は御礼に、と食事に誘い、行ったところが木場のギャザリアだよ、あれ。すぐ分かった。HPによると写真館は大森らしいけど…。まあ現実とロケ場所は関係ないけどね。で、ここにカマキリを見つける。
さて、今日子の自撮りはインスタのため。かつてバレリーナだったけど、何かの理由で落ちぶれて。化粧品メーカーにスポンサーになってもらって、インスタの、いいね、を集める生活。しかし、胸の傷が…。
見合い写真の女が再びやってくるのは、この後だったかな。もっと後だったかな。女は「もっときれいに修正して。人は写真で人間を見る。修正された私を私だと思う。だから、修正しても大丈夫」といい、満足して帰る。
これで今日子も修正を導入するんだったかな。自分を械に撮らせ、傷を修正させてインスタにアップ。械の興味は昆虫から今日子を撮り、レタッチすることに移ってくる。ところが、いいねが激減。スポンサーも離れ、落ち込む今日子は、ありのままの自分を見せようと、傷を修正しないままの写真をアップする。賛否が分かれつつも、いいね、が急増する。
この後かな、今日子と械が結ばれるのは。もう順番がうろ覚えだよ。
傷を広げている今日子を見て、械もまたひげ剃りで頬を切るのは、このあたりだったか。ともに傷を共有したいという倒錯的な行為だろう。
しめしめと思っていた今日子のところに、インスタから、投稿写真を削除した、とのメッセージ。自傷行為を触発するから、とかいう理由らしい。結局、病院で傷を縫ってもらうんだったかな。このとき、対応した看護婦が見合い写真の女で、あの写真で成功した、相手は整形外科医、と械に伝える。そのあと、械が気を失ってしまう。理由は忘れた。で、今日子の運転で写真館に戻るんだったか。
今日子は、カマキリがエサを食べなくなった、という。械は、カマキリを手に載せて食べさせるんだけど、この後だったか、レストランのある広場に行って、カマキリを放してやる。と、以前からいた(ずと居るわけないけど)カマキリを食べてしまう。って、どっちがどっちを食べたのか実は見てても分かんないんだけど。で、「食べられるなんて可哀想」という今日子に対して、械が初めて言葉を発する。「自分が食べられることで、相手が生きているということを感じられるのさ」みたいなことを言うんだよね。これが唯一のセリフ! ここで今日子は解放されたように舞い踊り、械が撮るんだったかな。
予算の関係で見かけはチープだけど、いろいろ興味深い話だった。
葬儀屋の存在が、死に絡んで興味深い。7歳の娘を交通事故で亡くし、離婚。以後、ひとり暮らしは安アパート。械のレタッチを見て、娘の写真をもってくる。「若くできるなら、歳を取らせることもできるかい?」で、加工してやる。亡くした娘を追憶しつつ、自分の遺影も械につくってもらう。仕事で人を送ってきたきた人生の終末を、記憶とともに迎えようとする老境。一方の械は、母の死で女性がトラウマで女性恐怖症で、たぶんセックスもできない身体。それが、今日子の存在で解放される。
械は、昆虫のコレクターじゃない。家に標本のひとつもなかった。昆虫を捕り、レタッチして見栄えを良くすることに懸命だ。唯一、カマキリを一匹飼っていて、エサを与えるのが趣味。たぶん、あのカマキリは雌。それが、意に反して現実の女を捕獲し、家で飼うようになってしまった。距離をおいて共同生活しているけど、今日子の頼みで彼女の肢体を撮るうち、女を撮ること、そして、加工して美しくすることに目覚めてしまった。そして、彼女の痛みを共有することに歓びを見出し始めてしまう。まるで、カマキリに食われるかのように…。飼っていたカマキリの拒食症は、械の心をつかんだ今日子への嫉妬なのか。最後にカマキリは駕籠から解放され、野に放たれると、そこにいた雄を食ってしまう。本来は交尾のときに食べるそうだけど、これは、自然に戻ったことのメタファーなのかな。械は今日子によってトラウマから解き放たれ、本来の自然な男に戻る。今日子は、かつて人々に賞賛されていたバレリーナの自分にとらわれていて、落ちぶれた後も、見られたい衝動から逃れられないでいる。それがインスタグラム。傷を広げてでも見られたい、という倒錯。でも、そんなことに意味がないことに気づいたんだろう。見せる相手は、械だけでいい。愛する人に見られることで、満足は得られる。というようなことを、最後のダンスは語っているのではないのかな。…というような読み解きができるかもね。
にしきたショパン1/23シネマ ブルースタジオ監督/竹本祥乃脚本/竹本祥乃
ブルースタジオHPのあらすじは「阪神淡路大震災直前、ピアニストを目指す高校生の凛子と鍵太郎 地震のケガにより鍵太郎は作曲の道、凛子はピアニストの道へ・・・。凛子が留学から帰ってくるとそこには別人のように冷たくなった鍵太郎がいた。」
Twitterへは「ピアニストの挫折と再生…。よくあるテーマで、でも、メッセージが生のセリフになってたり、ムダにくどかったり、逆に説明が足りなかったり、息抜きのカットがないとか、技術的にイマイチなところが多いかな。」
日本芸術センター第12回映像グランプリ記念上映会の1本。これは、脚本賞作品。…でも、いい脚本とは思えないけどね。いまいち映研の映画に毛が生えた感じのデキで、概ね退屈。そもそも凛子が芸大へ、鍵太郎はワルシャワ留学をめざす、っていう選択あるいは分かれ道、その違いはどこにあるんだ? それがはっきり提示されないから、以後の話もいまいちしっくりこない。いつも鍵太郎が1番で凛子が2番だから? 
人物の輪郭も、あいまい。とくに達磨先生。最初に登場した時は、どこのジジイが訳分からん言葉をしゃべってるんだ? と思ったし。音楽教師ならそうとわかるように登場させないと。
凛子はショパンが好きなのか? それとも、手が小さいからショパンなのか? タイトルにもなってるけど、ショパンの意味がいまいち分からない。題名の意味するのは、イコール凛子のことなのか?
この映画を見ていて思ったのは、一般の映画の、シーンとシーンをつなぐ時の情景カットの大切さだな。空とか車窓とか緑とか、意味ないカットが挟まって、それで息苦しさもなくなるのだよな。一方この映画、部屋の中から別の部屋の中、とか、つなぎがみっちりなのでクッションがない。ムダに重苦しくなるだけだよな。それともうひとつ。役者の大切さ、かな。やっぱ、主役クラスは花がないと見ていて気分が高揚しない。凛子役の水田汐音が、そこそこ角度によって可愛いんだけど、とくに、高校時代のメイクがイモっぽいんだよ。目とかね。もっと魅力的ななメイクはできるはずだけどなあ。撮り方もあるだろうし。
さて。2人の進路は阪神淡路大震災で変わるんだけど、いかにも唐突な感じ。なぜあの震災なんだ? という気持ちになってくる。必然性があるならいいけど…。映画には原作があって、それが震災をモチーフにしているらしいけどね。
鍵太郎は指をケガし、母親も圧死してしまう。の結果、コンテストには凛子がエントリーし、優勝してワルシャワへ。一方の鍵太郎は、何してんだ? というカットがつづく。この場面、凛子のワルシャワでのシーンと鍵太郎の何かやってるシーンが交互にカットバックで描かれるんだけど、よく分からんのよ。鍵太郎は、色んな人と会ったりしてる。半分ぐらいは外国人で、ある男性には腰あたりを触られたりして、もしかして身体を売ってるのか? と思ったぐらい。あとから分かるのは、鍵太郎は作曲の才能を活かし、達磨先生の紹介を頼りに個人に応じた練習曲を作曲し、人気者になっていった、らしいこと。でも、エチュードの作曲が金になる(のか?)なんて一般人には分からんだろ。
でまあ、自分は震災で未来がなくなり、練習曲の作曲家に落ちぶれた。かつての友人凛子はワルシャワから戻り、外国人の女性教師について特訓が始まる。その外国人ピアノ教師と契約し、練習曲をつくっている鍵太郎は、面白くない…。という話の流れは陳腐過ぎて見ていられんよ。しかも、鍵太郎とピアノ教師はエロ関係になっているという、これまた陳腐な展開で、なんだよおい、と思ってしまう。ひどい脚本だ。
で、なんとかいうコンテストに再び挑戦することになった凛子に、鍵太郎はなんとかいう作曲家(もともと鍵太郎が得意としていた曲)の難しい曲を指定する。ピアノ教師も、それはムリ、と反対するのに、こういう曲を選ばないと審査員に受けないとか何とかいうんだよね。高校卒業から5年ぐらいで、おまえ、そんな偉くなったの? それだけの経験があるの? と思っちゃうよね。
鍵太郎は凛子に、自分の屈折した心情を告げ、「お前なんかつぶれればいい」とまでいうんだけど、あれは本心なのか。それとも、厳しい修行を課しているのか、よく分からん。のちに、コンテストで失敗し、行方をくらます凛子を真剣に探すところを見ると、やりすぎた、って思ったような気もするんだけど、よく分からんな。
いや、それより、ワルシャワ留学帰りの凛子が日本で外国人教師について練習し、さらなるコンテストに挑むという、ピアニストへの道の複雑さが、見ているこちらには伝わってこないんだよね。でまあ、そのコンテストでは、凛子は途中で棄権してしまう。外国人教師のもうひとりの弟子が優勝するので、外国人教師は不満がない内容だと思うんだけど。
凛子は、指の使いすぎが出て棄権したのか? そういう描写もなく、途中でやめたので、意志をもってやめたのかと思ったんだけど、その後、達磨先生と病院に行ってるから、手のせいなんだろう。でも、分かりにくいよな。
でその達磨先生なんだけど、震災後、教師をやめて音楽バーを始めてるのは、なんでなの? もうちょい達磨先生を掘り下げて、サブプロットとして埋め込んでいけば、人生が対比できたと思うんだけど、描き方が中途半端すぎだよな。
で、心配した鍵太郎は凛子の自宅、達磨バーと電話するけど、凛子は捕まらず。でも、凛子は達磨バーでバイトしてたんだろ? あるいは、達磨バーに住んでいた? 母親とも会えない、なんて言っていたし。なら、実家の母親は行方を知ってるはずだよなあ。あんな中途半端な行方不明はないだろ。
でまあ、最後は、達磨先生と凛子が散歩してて、かつて鍵太郎とともにピアノの練習をした西宮の教会近くにやってくる。ひとり、ピアノを弾き出す凛子。達磨先生は鍵太郎に電話し、そのピアノの音を聞かせる。あ、と思った鍵太郎は押っ取り刀でやってきて、凛子と対面…。というところで、映画は終わるんだけど、なんかよく分からない終わり方だよね。
凛子は、達磨バーにやってくるお客が弾く、勝つためのピアノではない楽しみのためのピアノを聞いている。だから、コンテストにこだわる自分の生き方を問い直すことができているはず。そもそも、彼女はコンテストに挑むのではなく、芸大を経由してフツーの演奏家あるいは教師の道もあるだろうコースに乗っていたはず。もんだいは鍵太郎で、彼の挫折感、卑屈さが解消されたとは思えないのだよね。それに、年上のピアノ教師とのエロ関係もあるし。これで凛子とヨリが戻るかといったら、ムリだろ、と思う。そのあたり、ちゃんと描いてないよね、この映画。
ところで、凛子がワルシャワから戻ってカートを引きずって歩くのは、寂れた町。そして、コンテストで失敗して彷徨うのは、どっかの市場みたいなところ。ありゃ、なんなんだ? なんか意味があってそうしたところでロケしてるんだろうけど、説明がないので分からんよ。
FRONTIER1/24シネマ ブルースタジオ監督/服部正和脚本/服部正和
シネマ ブルースタジオHPのあらすじは「宇宙ベンチャー企業OSIが謎の小型ロケットを探知する。打ち上げ地点に向かうとそこには古風な家があり、一人の男が暮らしていた。彼は、まだこの世に存在しない技術によって発明された家庭用アンドロイドだった。」
Twitterへは「エンドクレジット見たら大学の卒制で指導は篠崎誠。結構な金をかけるんだな。でもムダに話を複雑にしすぎて退屈だしツッコミどころも満載。枝葉を刈って30分ぐらいでもできるだろ。途中でやめられなくなっちゃうんだろうな。」
日本芸術センター第12回映像グランプリ記念上映会の1本で「預言賞」だとさ。
エンドロールに、立教大学学映像身体学科の卒業制作で、指導教員が篠崎誠とクレジットされていた。ちょっと金をかけた映研レベルだなと思って見てたけど、なんと…。昨日に続いて自主映画だけど、『写真の女』を基準にするとどんどんレベルが下がってきてるのが分かる。賞もムリやり与えてる感じ。
宇宙開発の話にアンドロイドの話がからむんだけど、その必然性が薄くて話に入り込めず。ロケットに乗り込むあたりと、その後にも一度、ふっ、と少し寝てしまった。要は、事故で死んだ弟裕也を蘇らせようとアンドロイドをつくった兄がいる。兄は、それ以前にアキラというアンドロイドをつくり、下僕にしていた。なぜかそのアキラが宇宙会社の知るところとなり、食わないし寝ないのだからロケットに乗せようと言うことになって、宇宙へ。それを嗅ぎつけた記者を、宇宙会社の男が殺してしまう! 人間と信じてる弟は、宅配娘と知り合って、兄に禁じられた外の世界へ。宅配娘の父親は宇宙会社の社員(記者を殺した男だっけか?)。兄は弟の外出を知り、弟を奪還にくる。兄は宇宙会社の社員に拘束される。宇宙会社の社員同士は、成功と名誉のため仲間割れして殺し合い。弟は、家の中の秘密部屋で、自分がアンドロイドと知り、愕然。宇宙会社の社員がやってきて、兄は射殺される。そして、40年後。いまは老母となった宅配娘の息子がロケットに乗り込むことに。で、母息子で(だっけか?)かつての兄弟宅を訪れると、見知らぬ老人がいて。自分で加齢するよう加工した、という。つまり、年老いた弟。ロケットの発射を見守るアキラがいる。その横には、幼い日の弟の幻影(なのか?)がいる。というようなあらすじ。
新聞記者のエピソードとか、宇宙船内で家族と話す話とか(宇宙船内でタオルを首に巻いてるかよ、宇宙飛行士!)、宅配娘の家庭の場面とか、ざっくり要らんだろ。メインはアンドロイドの話にして、サブプロットとして宇宙の話を少し絡めればいい。ムダに話を広げるから辻褄も合わなくなるし、ムリが出るんだから。基本的な部分は2〜30分あれば済むはず。息抜きのイメージカットでつないで、40分あれば十分な内容。せっかく考えたんだからとシナリオのすべてを映像化して、ややこしく、つまらなく、退屈にしてる。省略を覚えないと。見せたいモノ、ではなく、客が見て話に入れるモノ、を目指してほしいものであるよ。
兄に、入ってはいけない、と言われていた部屋に、弟が入る。なんと、木造家屋の2階にコンクリ打ちっぱなしの広い部屋があるって、なんだよ。で、弟が触ってビリビリきた輪はありゃなんだ? あと、新聞記事に、ドローン事故で2人死傷(?)というのがあったけど、弟はこれで死んだのか? 2人って、あと、誰? そういえば、兄弟の父親は医者だ、と弟が言ってたけど、2人の両親は? どうなったんだ? 片親だったのか?
アキラが海岸で拾い、老母の宅配娘の息子に(だっけか?)渡したペンダントは、何なの? 寝てる間に見逃したか何かなのか。
老母の宅配娘は、兄弟のの家に行くのに、大きなカバン2つもっていくんだけど、ありゃ何なんだ? 中から何か出てくるのかと思いきや、ただの荷物? 
再会した弟は、老母の宅配娘に「他のみんなが死んで行くのに、自分は変わらず残ってしまう。それが嫌だから死ぬ体にした」というようなことを言っていた。そんな加工ができるかどうかは別として、なら、アキラは、自分も歳をとるよう改造を頼まないのか? という疑問が残るよね。
あれから、400数10カ月、弟はあの家で1人で暮らしてたって? その間、何して暮らしてたんだ? 人間に近いアンドロイドは飯を食うのか? 糞はするのか? 電気だけ? では、家の固定資産税とか電気代とか、どうしてたのだ? 親の遺産で40年暮らせたとでも? 
しかし、宇宙会社の連中、簡単に人を殺しすぎ。あんな成功のため、ばんすか人を殺すかね。殺した後の死体はどうやって処理したんですか? 
突っ込みたいのは、他にも山のようにあるけど。めんどくさいのでやめる。頭の中で構築した辻褄も、現実として考えて、端折れるところはそれでいいけど、観客が疑問に思うようなところは、帳尻を合わせるようにしないとね。
終映後、ロビーに監督がいて、誰かと話していた。CM会社のようなところに勤めていて、これからも映像に関わりたい、みたいな話が聞こえてきたけど。うーむ、な気がしてしまうのだった。
焦りと懸念1/24シネマ ブルースタジオ監督/小山田誠脚本/---
シネマ ブルースタジオHPのあらすじは「システムLSI設計の研究開発に従事する男の、焦りと懸念を描いた作品。自身の情報解析能力に限界を感じ始め、自身の意識と人工知能との共存を、模索し始める。」
Twitterへは「下手なCGアニメと観念的すぎるナレーションと。」
日本芸術センター第12回映像グランプリ記念上映会の1本で、啓発賞ねえ…。
15 分の短編。脳と男と簡単な背景だけ。脳の機能とかAIとの関係とか、概念的なことを延々モノローグで男が語るだけでドラマはなく退屈、つまらない。SEの足音と男の動きはまるで合ってないし。途中から男の頭髪が変わっちゃったり。早く終われとだけ思っていた。
ミスりんご1/24シネマ ブルースタジオ監督/岡部哲也脚本/岡部哲也
シネマ ブルースタジオHPのあらすじは「地方回りのオレオレ詐欺集団で現金の運び屋をしていた健二と雄介は、仲間の金を持ち逃げした犯人・石井と間違われ主犯格の剛田に追われる。剛田から逃げ出すために二人が逃げ込んだのはミスりんごコンテスト会場。女装してもぐり込んだ二人は成りゆきでコンテストに出場し優勝してしまうが…。」
Twitterへは「35分の小編だけど、手慣れたホンとカメラでテキパキ進んでくすくす笑えてなかなか楽しい。やっぱプロ経験があると、低予算でも見られるモノがつくれると分かるね。」
日本芸術センター第12回映像グランプリ記念上映会の1本で、演技賞だと。
監督は「専門学校在学中から、矢崎仁司、篠原哲雄らの現場に参加。以降、フリーの助監督として石井裕也、山下敦弘など多くの監督の作品に従事」だという。なるほど。
これまで見てきた入賞作とは一線を画す表現力だ。大胆な省略、絶妙のカット割り、カメラアングル、テンポの良さ。青年2人が女装してコンテストに入賞という、あり得ない話を観客にすんなり納得させてしまう技術がある。あとから経歴を見て、やっぱりね、と思った。プロの表現力は、凄い。もちろん、身につけてしまえばルーチンワークなので、とくに目新しさはないんだろうけど、素人とプロの境目がはっきり分かる出来だ。
男2人が女装して逃げて、片割れがオッサンに気に入られ、最後に「男でもいい」と迫られるのは『お熱いのがお好き』のプロットそのもの。なので話自体にとくに目新しさはない。でもうまく引用していて、ムダなくコンパクトにまとまっているから、ついつい話に引きずり込まれて見てしまう。
役者の存在が大きい。ヒロイン役の加村真美はなかなか可愛いし、その父親役もいい味をだしてる。主役の青年2人も、いいコンビだ。
ボスともうひとりの仲間との争いが裏でつづいていて、それがちょくちょく顔を出すのも、話にリズムをつくってる。とはいえ、金塊ではないけど、あのカバンのどこかに札束が、とは思ってたけどね。よくある展開とネタだし。でも、最後に、逃げた仲間がくれたのは1千万ぐらい? それをおっさん1人に返して罪を償うのはどうかと思うけどね。それと、金が入ったら、速攻で会社を買うオッサンも、どうなのかね。みんなでハワイだ! で終わってるけど。まあ、いいか、とも思いつつ…。
気がかりは、ヒロインの元亭主と、ヒロインの兄のことかな。画面には登場しないけど、行く末が気になってしまう。
Surface1/24シネマ ブルースタジオ監督/谷口雄一郎脚本/谷口雄一郎
ゆうばり国際ファンタスティック映画祭HPのあらすじは「人気少女漫画家と人気声優の不倫がSNSの写真投稿により発覚、拡散。牧野雫による依頼により弁護士から呼び出される誹謗中傷を行なった加害者達。徐々に明らかになる真相の中、加害者達の表の顔があらわになっていく」
Twitterへは「38分の小編ながら切り口も見せ方も鋭い。取り上げてるSNSでの中傷発言が訴訟対象になるかどうかは別として。内容をよく理解しないまま出来事の善悪もさておき、法律に則って依頼者の要望に応えるだけの弁護士への皮肉が痛烈。」
日本芸術センター第12回映像グランプリ記念上映会の1本で、糾弾賞ですと。
監督は日本映画学校出身で、プロの現場にも参加。映画録音では場数をこなしているらしい。完成度が高く、プロの仕事といっても通用するし、この種の1話完結ドラマシリーズあったら、そこに入っていても遜色ないデキだと思う。きっと、この映像グランプリは、こうしたセミプロの仕事に点が辛く、純然たるアマチュア作品に甘いんだろう。応募資格は「不問」らしいし、それでいいのかねえな気もする。
最初に、だらしない男がスマホで何かを撮るシーン。つづいて会議室の男女2人。漫画の話題になって、少女漫画の読み方は、どのコマからどう読むのか。男が説明するが、女は理解できない。依頼者の描く漫画も、読んでいないとキッパリ。で、中傷コメントをアップした面々が呼び出され、説明を受ける。そこで女が弁護士で、男が秘書だと分かる。呼び出されたのは板前、漫画家、声優、女子大生、アイドル(?)、警官、編集者…あと、どういう人物がいたか、忘れたけど、10人ぐらいかな。弁護士は彼らに訴えられていることを説明し、和解するか否かを問うのたが、それぞれの立場から驚いたり意外な表情になったり、受けて立ちましょう(裁判)だったり。彼らの言い訳も、金がない、悪いのは不倫した漫画家、描いているマンガは好きだったのに許せない、などと説明や反論をしていくのだけれど、淡々と切り返しで弁護士、召喚された人を写していくだけなのに、なかなかの緊張感。さて、どうなるか、で引っぱる力がなかなか。
対面が2巡したぐらいの後、弁護士側から「依頼者から手紙がとどいています」と。結局、その手紙の内容はよく分からないのだけれど、納得する人、考えが変わらない人など、さまざま。なかの1人に弁護士が「先生のマンガ、読んだことあります?」と問われ、一瞬ためらいながら「ありますよ」と応える場面がある。召喚された人たちが帰ったあと、秘書が弁護士に「なぜ嘘を言ったんですか?」と軽く問う。「え?」と返す弁護士。秘書は、マンガを読んでないのに読んだ、と応えるのは不誠実、と思ったんだろう。でも、立場上、それ以上つっこむことはなく、笑顔でごまかし別れる。おお。なるほど。
ののち、弁護士は依頼人の漫画家に電話して、「先生の手紙が効いたようですよ」というから、たぶん、読んだ後に和解に応じることにした人が増えたんだろう。それに対して、漫画家が、「私、いつも嘘を書いているから、嘘が上手いのよ」と笑いながら返す。「え…」な顔になる弁護士。というところで、映画は終わる。おお、こうやって落とすか。冒頭の、弁護士はマンガを知らない、という伏線、召喚人への弁護士の軽い嘘。漫画家が高笑いして話す嘘。
ある召喚人と話しているとき、「漫画家の不倫は罪じゃないのか?」というようなことを言われるけど、「それを争う場ではない」というような感じで返していた。そう。法律は、真実を明らかにする場ではないし、善悪も判断しない。法律に則って、依頼人に有利になるよう物事を進める場である。そこには、嘘も十分にあり得る。ということが示されて、なかなか鋭いのだった。
多くは検察の邪悪をとりあげるけれど、この映画では依頼人と弁護士が取り上げられているのも、興味深い。SNSでの発現で起訴されることもある時代だからね。
さんかく窓の外側は夜1/25109シネマズ木場シアター3監督/森ガキ侑大脚本/相沢友子
allcinemaのあらすじは「幼い頃から幽霊が視える特異体質に悩まされてきた青年・三角康介。ある日、そんな彼の前に心霊探偵として警察にも協力する凄腕の除霊師・冷川理人が現れ、三角の特異体質を見込んで助手にスカウトする。やがて2人は刑事・半澤の要請で、ある未解決殺人事件の捜査協力をすることに。2人で調査を進めていくうち、呪いを操る謎の女子高生・非浦英莉可の存在が浮上してくるのだったが…。」
Twitterへは「ホラー感覚の前半は期待させてくれたけど、背景が分かるにつれてスケールが小さくなり、辻褄もあやふやで、とてもいい加減に終わってしまった。なんだよ、おい、な感じ。」「筒井道隆? どこにいた? 教祖様? 和久井映見? もしかして、お多福顔のあの母親!?」
最初の連続女子殺人事件。次の議員関連の殺人事件(北川景子が一瞬だけ登場、ってありなのか?)、あれは単なる前振りなのか? 中盤で、どっかのアパートの霊を払ったときは、最初の連続女子殺人事件と関係アリかと思ったけど、ないのかな。な感じで、どっから本題なのかよく分からんのよね。それでも、霊が見える三角が冷川にスカウトされ、除霊のアシスタントをするあたりはコミカルなホラーで楽しい。刑事・半澤がからんできて本格的な事件に首を突っ込むようになって、さて、と思ったけど、その犯人に迫るとか言う感じではなくて、非浦英莉可の存在が目立つにつれて話がどんどん逸れていく。製作者からすると逸れるのではなく、こっちが本筋だ、なんだろうけど。その本筋がありきたりで、つまんないのよね。
次第に分かってくるあれやこれや。ざっくりまとめると、教祖・石黒がいて。かつては冷川を霊能者として教団を率いていた。しかし、母親と接触を禁じられた冷川が反逆し、教団員が大量死。約10年後のいまは、非浦を呪い屋として活躍中。石黒と非浦は怨念の貯金箱を利用して目的の人物に呪いをかけ、次々と殺害しているということらしい。三上はその貯金箱に潜入し、むにゃむにゃ…。で、石黒や幹部は警察に捕まって、一件落着。ということなんだけど、冷川の除霊力は、まあいい。非浦の呪い屋はどうなんだ? オカルトにしても根拠ないだろ。貯金箱ってなんだよ。どうやって怨念をためこんで、どうやって使うんだ? 貯金箱の正体はどっかのビルの一室で、中は赤い糸が張り巡らされているけど、どれが呪いなんたせ? 非浦は、どうやって貯金箱から怨念を引き出して使ったんだ? 貯金が使えた非浦が、貯金箱に絡め取られるのはなんでなの? そもそも石黒ってなんなんだ? 彼に霊力はあるのか? とか、もんのすごくアバウトなので、ぜーんぜん終わってもスッキリしないのだ。
議員関連の殺人事件では、非浦が北川景子に呪いをかけ、交通事故死させていたけど、それって政敵が石黒に殺人の依頼をし、それに応じてたってことか? とか、ぜーんぜん説明もない。いらいら。
三角は幼少期から霊視ができたらしく、川で幽霊を見たことが描かれている。で、川で遊んでいたいじめっ子たちはどうなったんだ? 2人とも流されたのか? 幽霊に襲われた? 三角は、見殺しにした? で、川の幽霊は、悪さをする幽霊だったのか? 
冷川も幽霊を感じるけど、三角みたいには見えず、三角の身体を使うと見える、ということ? さらに、怒りで教団員を呪い、同士討ちさせるよう仕向ける力もあるってことだよな。 でも今は除霊が収入源になってる、と。ところで、彼は教団員殺戮以降の10年、どうやって生きてきたんだ? 母親は死んでるんだから、孤児院? そこら辺が曖昧すぎだろ。
で、いろいろ一件落着し、日常に戻るみなさん。最後に、非浦の腕に、呪われた印の黒い筋が! って、続編の予告ですか? 非浦は誰かに呪われているのかい。
冷川も非浦も、石黒に操られていたわけだ。だったら石黒という存在をちゃんと描かないと話にならないよな。彼の目的、腹黒さこそが、話のキモにならなくちゃ。でもって、警察も石黒の存在に気づいて追う、というカタチにしないとな。あまりにも話がテキトー過ぎるんだよね。
・ところで、貯金箱がどっかのビルの一室なのは、なんでなの? あの、赤い糸の集まりは、アーチスト塩田千春からのものなの? それとも、丸パクリ? 
・刑事・半澤の妻とか、非浦の父親とか、幼い冷川の母親とか、三角の母親とか、教団幹部の男とか、みんな記号的にしか登場せず、機能しないのもつまらんよね。それぞれ役割を与えて動かさないと。
ズーム/見えない参加者1/27MOVIX亀有シアター1監督/ロブ・サヴェッジ脚本/ジェド・シェパード、ジェマ・ハーリー、ロブ・サヴェッジ
イギリス映画。原題は“Host”。allcinemaのあらすじは「ロックダウン中も週に1度はZoomで飲み会を開く男女6人の仲良しグループ。ある日、その中の一人が霊媒師をゲストに招き、みんなで“Zoom交霊会”なるものを始めることに。最初は軽いノリだったが、交霊の儀式を進めていくうちに、それぞれの部屋で不可解な現象が起こり始める。霊媒師が慌てて除霊を試みようとするのだったが…。」
Twitterへは「Zoom交霊会を開いたら、あれやこれや、のホラー。なかなかゾクッとする場面もあるんだが。参加者が逃げたり動きまわったりする場面でも、慌てることなくPCで自分を写しつづけるところが、アレだよね。」
ぶら下がりのメイキングも含めて70分強ぐらい。すべてzoom画面。参加者が集まるあたりは、わりと退屈。っていうのも、誰それがどーとか名前が多くでてくるので、意味不明だし、降霊会が始まっても、本気なのか茶化してるのか分からん感じもあるし。で、ドキッとするのは、主催者らしいヘイリーの座っている椅子が突然後方に引っぱられるところ。ここから各参加者に異変が起きていく。ところが、このときには年かさの霊媒師が画面からいなくなってるんだよ。電波がどうのでアクセスできなかったらしい。で、中国系のジェマがふざけて霊がやってきたようなフェイクをかませたせいで、悪霊が降りてきてしまった! ということらしい。霊媒師は、紐を断ちきるイメージを、とアドバイスするものの、効果なし。キャロラインは頭をPCにがんがんぶつけだすし、他の娘もあれやこれや、痛めつけられていく。途中から参加してきた男性も、これまたガンガンやられて、果ては身体に火がついてしまう。ジェマは部屋を離れ、ヘイリーの家までやってきて、引きずり込まれてしまっていたヘイリーと対面し、奥の部屋に行くと…、くるぞくるぞ、と思わせておいて、その通りに異形の物が向こうから襲ってきて、END。
悪霊の登場は手を変え品を変えで飽きないけど、たんに首をつった人の足が見えるとか、透明な悪霊の足跡が見えるとか、布を投げたら透明な悪霊の輪郭が見えるとか、得体の知れない黒い何かが飛ぶ(これ、ジェマに命中するんだけど、チープすぎて笑ってしまったよ)とか、最後は実体のようなものの登場と、千差万別。悪霊は1つなんだろ? こんなに形態を変えるのはアリなのか? と思ってしまうよな。
で、『クローバーフィールド』とか『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』もそうなんだけど、つねにカメラが場面を映していなくちゃならないという縛りがあるようで。窓から訪問客が映る場面や、部屋の中を移動する場面などは、PCをハンディカメラのように使っていると思われるのだけれど、ノートPCの画面を外に向けて持って歩いているということになるよね。でも、フツーそういう持ち方、撮り方はしないだろう、と思うと気分が削がれてしまう。とくに、梯子を引き出して二階の物置に登る場面など、どうやってノートPCをもって登っているのだ? と思うと、かなりバカバカしくなってくる。あと、後から参加した男性もそうだ。部屋から庭に出てプールの横にでて、いろいろあって地面に倒れ込み、燃えていくまでフレームはバッチリ。そんな、逃げるときにまでPCのカメラで自分を写しつづけるわけないだろ、と思ってしまうと、萎える。
ところで、霊というのは分散して降霊できるものなのかね。同じ霊が、同時に別の場所に居ることもできる、と? なんか、よくわかんねえな。
で、本編が終わった後に流れるのはメイキングと称していたけど、ただZoomで、本編と同じようなことを、監督(?)ら他のスタッフも交えて話しているだけで、これといってどーということはなかった。「なんかいるみたい」的なことをどっかで言っていたけど、こちらは気がつかず。

 
 

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