2021年5月

朝が来る5/7ギンレイホール監督/河瀬直美脚本/河瀬直美
allcinemaのあらすじは「長い不妊治療の末に一度は子どもを持つことを諦めた栗原清和と佐都子の夫婦。テレビで偶然“特別養子縁組”という制度を知り、やがて男の子を迎え入れる。夫婦はその子を朝斗と名付け大切に育てていく。6年後、朝斗と3人で幸せな日々を送っていた夫婦のもとに、産みの親である片倉ひかりを名乗る女性から、“子どもを返してほしい。それが駄目ならお金をください”との電話がかかってくる。動揺しつつもひかりと名乗る女性と会うことにした清和と佐都子。2人は朝斗を引き取ったとき、当時14歳だったひかりと会っていた。しかし今、彼らの前に現れた若い女性を見ても、その時のひかりと同一人物とは到底思えない2人だったが…。」
Twitterへは「保育園の面倒くさいママ友の話かと思ったら不妊治療の話かと思ったら色気づいたバカ女子中学生の話だった。今どきのネタ詰め込んで自然な会話とドキュメンタリーっぽい演出で樹木のザワザワ挟んで河瀬タッチだけど、どれも腑に落ちないし共感できなかった。」
内容については一切知らずに見た。ところでこの映画、Netflixでも見られるんだけど、わざわざ出かけたのは、拘束されないと一気に見られないと思ったから。これは正解で、いろいろくどかったり、森や水や風とか、河瀬映画にお馴染みのインサートカットがもったいぶってて、家じゃ飽きるだろうな、と思った。分かりにくいのは時制の錯綜で、考えてのことなんだろうけどもすっ、と頭に入って来ない構成なんだよな。
最初の、朝斗が保育園の同級生をジャングルジムから落として、同じタワマンのママ友から、謝れ、治療費を払え、と言われたくだりは、なかなかのザワザワ感。昔なら、ちょっとの怪我で泣くな、で済む問題が、いまは大問題になる。この先どうなるんだ? ところが、突然の訪問者が現れ、子供を返してくれ、さもなくば金をくれ、と要求されることになる。この場面で、訪問者の顔を映さないのがポイントで、誰なんだ? と思わせて引っぱろうとする。それがミエミエで、いささかうっとーしー気もする。前後して、夫の無精子病と養子の話に入っていく。そして、子供が生まれるまでの経緯を、わりと丁寧に描き込んでいく。
告白、つきあい始めた中学生、彼の部屋でのセックス、思いがけない妊娠…。母親は「まだ生理も来てないのに」と動揺していたけど、そういうこともあるのね。そのせいか、中絶できないぐらいまで気づかずに…。とはいえ、たんに色気づいたバカ中学生にしか見えないんだよね。そもそも田舎でいちゃいちゃ自転車相乗りしたり一緒にいる時間が長けりゃ、あんなの一気に噂になるだろ。いくら田舎の子だって、セックスすれば妊娠の可能性があるぐらい分かるはず。そういう教育もしてるはずだし。なのに、無防備すぎるだろ。ひかるの姉は奈良の名門高校らしくて、その妹なんだからバカじゃないはず。ちょっと知恵遅れで理解できないまま…なら、説得力あるけど、あの設定ではバカとしか思えない。純粋な少年少女の恋なんて、ありゃせんだろ。さらに、妊娠させた相手に対する一家の追及はないし、学校の対応もない。学校に内緒? でも、母子は産婦人科外来を受診してるんだろ? あんなの目撃されたら一発だろ。遠くの総合病院に行ったって? それにしたって…。相手の少年は、なにもお咎めなしで、少年の親も知らんのか? 気になってしょうがない。
で、ひかりは、ベビーバトンという、養子を斡旋する組織に頼り、広島の離れ島で子を生む。その子が、清和と佐都子の手に渡る。このとき、夫婦はひかりに会い、ひかりは夫婦に手紙を渡している。
その後の ひかりは、復学したけど高校受験はしなかったようで、半ばぐれた感じで都会にでてしまっている。この飛躍がよく分からない。両親は説得したんだろうけど、どうやって出奔したんだ? 行き先が大阪ではなく東京なのはなんなんだ? 新聞配達かよ。水商売じゃないのか。結構いい部屋住んでたけど、あれは自前? 寮? なところに、ベビーバトンで一緒に暮らした女の子、みたいに見える娘が新たに入ってくる。のだけれど、これまた意図的にそう思わせるような描き方をしていて、嫌らしい。2人の会話で他人、だろうというのは分かるんだけどね。で、仲良くなって、彼女に化粧の仕方を教わったり、どんどんケバくなって。と思ったら取り立て人がやってきて、お前が保証人になってるんだから払え、と脅されることに。どうも娘が借金し、ひかりを保証人に仕立て、逃げたらしい。で、こっから先が不可思議なんだけど、ひかりは、どこでつくったのかお金を取り立て人に返し、戻ってきた娘に同情して抱き合ったりしているのだ。なんだこれ? しかも、直後に娘は、どうやらひかりの手持ちの札だけ抜いて消えてしまっている。ウブすぎるというか、バカだろ。いくら17歳ぐらいだからって。
この後だったか、ひかりはベビーバトンを再訪し、ここで働かせて欲しい、と主催の女性(浅田美代子が好演)に頼み込むんだけど、主催者は病気らしく、近く業務をやめる、という。これでアテがなくなったから、なのか? ひかり本人は清和と佐都子に会いに行くことにしたのだろう。でも、数年前に夫妻が子供を手渡されたときに会ったときの純真な面影はなく、金髪のケバい女。子供を返せ、さもなくば金をくれ、でなけりゃ養子ということを近所にバラす、と言うのだけれど、逆に「養子ということは周囲はみな知っている」と言われ、お手上げ。2人は「あなたは別人。自分の子の歳を間違えるなんて、本当の親じゃない」と強く言い放ち、なんと本人ひかりは床に手をついて謝り、2人の元を去る…。のだけれど、直後に警官がやってきて、「この女性を知らないか?」と尋ねるのだよ。で、その女性はさっきやってきた女性で、警官は、ひかりの名を告げる。そこで、さっきの金髪派手なジャンパー(新聞屋で会った娘が消えた時に置いてったもの)姿の女性が、ひかり本人、と分かり「あちゃー!」なんだろう。
佐都子は、かつて ひかりに会った時、渡された手紙を取り出し、手紙の白い部分を鉛筆でこする。すると、上から強く書かれたのだろう「なかったことにしないで」という文字が浮かんでくる。一枚上の紙に書いて、やっぱりそれはやめて、次の紙に書いた手紙を渡した、ということなんだろう。とはいえ、こういうメッセージを読むと、あどけない中学生だな、と思ってしまう。
これで、ひかりの本心をいまさらに知り、あわてて追いかけて行って、河辺でうなだれるひかりを、佐都子が発見し、連れて行った息子・朝斗に会わせ、「広島のお母ちゃんだよ」と紹介するところで映画は終わる。
その後、エンドロールとテーマ音楽が流れ、音楽が終わった頃に、子供の声で「あいたかった」と流れる。うーむ。できすぎというか、つくりすぎだろ。もうすぐ小学生の6歳の子供が、実母と育ての親と、そんな区別はついてないと思うし、広島のお母ちゃんが生みの親とは分かってるかどうか怪しいよな。本当の意味で「会いたかった」のかどうか、疑問。大人の考える、こうあってしかるべき、がねつ造されているようで白けた。
監督は、養子は早いうちから子供に話すべき、と思っているんだろう。たぶん、自分が実の両親ではなく、母方の祖母の姉に育てられた、という過去に沿った考えかもしれない。でも、すべての子供がその状況に耐えられるわけでもないだろうと思うのだ。それに、かなり年長になって養子ということを知り、それでグレた、という例が多いということもとくに聞かないし。
中学生の恋愛は純真? 自分の娘が同じことをして、純真、っていってられる親がいるか? むしろ、教育がなってないと非難されるのがオチだろ。やむなく手放した娘を「返せ」と言いに行った心境も、よく分からない。本当に子供に会いたかったのか? それとも、金なのか? 
ひかりの両親はバカ親ではないように見えるし、ちゃんと躾けていたようにも見える(家を出て行ってしまった経緯がよく分からないので、そこは保留だけど)。スマホ漬けで男に狂うひかりが、バカ、と見るのが正解なんじゃないのかね。新聞屋の経営者は、ひかりに色目を使っているように見えたけど、結果的にそんなこともなく、むしろ「何でも言える人が近くにいることが大切だよ」と。まっとうなことを言っていた。ひかりの両親は、ひかりを疎外していたわけではない。むしろ、手篤く見ていたはず。ひかりが、そんな両親に、子供ができた時も、家を出ていく時も、保証人にさせられてしまった時も、金がなくて困った時も、言い出せなかったのは両親が悪いとは思えないんだよね。ベビーバトンの主催者に頼ってしまうのは、むしろ筋違いかなと。それすら分からないバカ女、ということではないかと思うのだが。
・全体に会話が自然で、頭でつくった感じがつない。それはいいんだけど、ベビーバトンでの様子を描くところの多くが完全にドキュメンタリー風でタッチが違うのが、とても違和感。もしかして、あの場面に登場する母親達は、本物? と思ってしまった。
・清和と佐都子の初デートは宇都宮で、大谷石記念館らしくて、一泊した、とかいってるんだけど、なのに、後半で大谷石の採掘場の場面が登場するんだけど、どう考えてもあれは養子をもらうと決めてからのことではないのか? とか思うと、どーも、すっきりしない。
・ラスト近くに警察が訪れ、「この女性のことで聞きたいことがある」とやってくるんだけど、警察はどうやって栗原家が関係していることを知ったのか? また、栗原家の住所をどうやって知ったのか? さらに、警察が帰ってから慌てて佐都子が ひかり を追って、探し当てるというのは偶然が過ぎるだろ、と思ったのだった。
・娘が堕ちると金髪にして化粧が濃くなる、というステレオタイプを現在の ひかり に採り入れているのは偏見ではないかと思った。
ドリームランド5/13新宿武蔵野館3監督/マイルズ・ジョリス=ペイラフィット脚本/ ニコラス・ツワルト
原題は“Dreamland”。allcinemaのあらすじは「1930年代半ばのテキサス。退屈な毎日を送る17歳の少年ユージンはある夜、納屋に隠れている女性を発見する。怪我を負っていた彼女の正体は、銀行を襲い5人の命を奪ったとして指名手配されていた強盗犯アリソンだった。その美しさに心奪われたユージンは、危険と知りつつも彼女を匿うことにするのだったが…。」
Twitterへは「30年代の男女ギャング? じゃボニー&クライドへのオマージュ? と思ったら家族の話の方が濃厚で、派手な見せ場はほとんどない。しかもあれこれ表現が舌足らずで素っ気ない。そこが、なんか妙に印象に残った。」
ぜんぜんボニー&クライドじゃなくて、年上の女性への勘違いな片思いと、哀しく堕ちていく物語だった。
冒頭で、ユージンの両親の話と系統が畳みかけるように話されて、あれで分かるのか? な感じ。ちょっとついていけず。結論だけいうと、父親は出奔し、メキシコへ。残された母は警官と再婚し、妹が生まれた。その妹が語り手で物語が始まる、でいいのかな? 父親が家族を棄てた理由とか、ほとんど記憶にない。
この映画、人物もエピソードも、その場限りでどんどん捨てていく感じ。たとえばユージンの幼なじみの少年は、両親とともに西海岸(?)へ行ってしまい、以後登場しない。アリソンの過去も深掘りせず、行動を共にしていた男は撃たれて死んだ、ということのみ描かれる。アリソンも、最後にはホントに呆気なく撃たれて死んでしまう。どれも未練なく使い捨てられる。その反面で、案外と描かれているのが、父親と母親、そして、妹。つまりこれは、家族の話なのだ。妹にとっては実の両親のいる家庭であっても、ユージンにとっては居心地の悪い家庭。そこから脱出し、父親の後を追い、メキシコを目指す、という話だ。では、父親はそんなに憧れの存在なのか? それがよく分からない。たとえば父親からユージンに絵はがきが来たとか、その絵はがきのイメージが、とかいう話はない。あるのは、ユージンが描くメキシコのイメージで、これはスタンダードサイズの8mmみたいな画角で描かれる。あとは、父親が出ていったときのイメージが繰り返されるとか。だったら、父親の出奔時の様子を語りで済まさないで、物語として描け、という話なんだけど。
アリソン自身も、本音がどこにあるのかわからない感じで。 ユージンを利用してるはずが、セックスしちゃうの? サービスか? 意味分からん。
ユージンも、アリソンに「ついてくるな」と言われてるのに付いていき、強盗にもせっせと加わって、客が動いたからとさっさとぶっ放す。もちろん後悔して吐いたりしてたけど、だったら強盗なんかするな。っても、アリソンが「強盗して大金送るから」って言葉に、おー、って期待しちゃうアホだからしょうがない。まあ、そういう時代だったんだろう、と思いたい。
てなわけで、すべてが断片的なエピソードの積み重ねで、いまいちうねりもないし、少年の心の揺れも薄っぺら。なんだけど、この、すべてが薄っぺらな感じが、なかなかいいんだよね、変だけど。
アリソンがしでかした強盗(少女を殺害し、連れの男がいたけど射殺された云々)の経緯を知ろうと、父親の鍵を盗んで警察に侵入し、事件ファイルを見てたら父親の同僚がやってきて、「お前何やってんだ?」と問われ、「オヤジに、見たいから持ってきてくれ、って頼まれた」って話して、同僚が「そうか。じゃあな」って許される警察があった時代といえばそれだけだけど。あまりにもいい加減すぎだよね。
で、アリソンが少女を撃ったのか、アリソンの相棒が撃ったのか、警官の流れ弾が中ったのかは分からずじまい。まあ、アリソンの口から出まかせだと思うけど。それを信じて付いてくるユージンもアホだよな。
で、モーテルに泊まって、一緒にシャワーを浴びよう、って誘うのは、やらせてあげて信頼を得ようというアリソンの魂胆だと思うけど、まあ、そんなのに引っかかっちゃうんだろうな。父親が住むのがドリームランドなら、アリソンと一緒の時間も、ドリームランドなんだろう。
・アリソン役はマーゴット・ロビー。『ハーレイ・クイン』ではケバい化粧だったけど、それでなくても濃い顔立ちで、情緒とは遠い感じだな。
・ユージンは、字幕では25歳とでてたような気がするんだが・・・。ポスター他では17歳になってる。いや、若くなくちゃ話がおかしいから17歳だろうけど。読み間違えかな?
・妹のナレーションで、義兄を最後に見たのは1935年で、以来、連絡はない、と言っていた。まあ、ユージンがどうなっていようと、構わないけどね。
・それより、ユージンの警察侵入・証拠ファイル持ち出しでクビになった父親は、知り合い2人連れてユージンを追うんだが。連れがユージンに銃を向けようとすると、それを止めるのは、心が優しいのか。妻を思ってのことなのか。なんか、警官にしては心が弱いような気がしたよ。
・母親役のケリー・コンドンが、なかなか美人。
くれなずめ5/14テアトル新宿監督/松居大悟脚本/松居大悟
allcinemaのあらすじは「友人の結婚式で久々に再会したアラサー男子6人組が、ある秘密を胸に、二次会までの中途半端な時間を、高校時代の思い出とともに当時と変わらぬノリでバカ騒ぎして過ごすさまを描く。優柔不断だが心優しい吉尾は友人の結婚式で高校時代の帰宅部仲間、欽一、明石、ソース、大成、ネジと久々の再会を果たす。文化祭で披露した赤フンダンスを披露宴の余興で満を持して繰り出すも、結果は無残にもだだスベり。暗澹たる気持ちのまま、二次会までの3時間を持て余す6人。そしていつしか、学生時代のくだらないことばかりが思い出されていく彼らだったが…。」
Twitterへは「いまいち退屈。30過ぎまで高校時代の思い出にひきずられ、いまだにバカやっててる仲間、って田舎もんだろ。たいした話もなくだらだら…お、一発仕掛けはあったのか。でも、あんなひきずることでもないだろ。」「6人が呼び捨てだったり敬語だったり、どういうつながりか分からない。心底仲好しに見えないんだよな。だれの結婚式かも分からない。現在何をしてるのか、は淡く示唆程度。こういう輪郭の曖昧さが、感情移入しにくくしてると思う。あと、セリフがもう、断然聞きづらい。」
幽霊が登場する映画は少なくない。最近では『ふきげんな過去』、あっとおどろく仕掛けの『シックス・センス』など枚挙に暇がない。これもそのひとつで、でも、吉尾が幽霊と分かっても、ちっとも驚きはない。フツーなら、そーか、それで、とか、あのあれは幽霊だったからか、てな具合に前半にあったあれこれ、違和感などを回収していくのが常套手段。だけど、この映画はそれがほとんどない。せいぜい、カラオケ店でだったか、赤い天使の羽根を付けていたのはそのせい? ぐらいしか思いつかない。
そもそも吉尾がこの世に未練があって成仏できない、という感じもない。無理に探せば、せいぜい、同級生だった前田敦子のことが好きだった、程度。幽霊でいる必然性がないんだよね。視点を変えて、残された連中が吉尾を蘇らせている、と考えて見る。でも、前田敦子には吉尾が見えているし、吉尾の分の引き出物もちゃんとある。ってことは、周囲のだれにも吉尾が見えている、ということではないのか。まあ、細かなことは、見直してみないと分からないけどね。もしかして、細かな演出がされているのかもしれない。知れないけど、観客に気がつかれないようなものじゃ、意味ないだろ。
もうひとつの、そもそも、でいうと。高校の友人が30過ぎてカラオケで盛り上がって昔話に盛り上がり、バカやってるというのが信じがたい。なかにはいるのかも知れないけど、そういうの、いわゆるマイルドヤンキーって類の連中じゃないのか? 加えていうなら、彼らの絆がわからない。察するところ、大卒は田島大成(藤原季節)だけなのか? あと、藤田(高良健吾)、明石(若葉竜也)、ネジ(目次立樹)は、お笑い系の演劇? といってもネジは、2人にムリやり引っぱられて助演程度? 他にソースと吉尾、ってことになるけど、全員をつなぐ糸が見当たらない。高校時代に遡っても、だ。だから、なんで連中がわいわいつるんで盛り上がっているのか、分からない。
映画の現在は、友人の結婚式の3日前の事前打ち合わせと、当日の式後の時間。では、結婚式の主役たる新郎新婦は誰なんだ? 一瞬、ちらと見えたように思うけれど、それはいい。結婚式に呼ばれるんだから、友人なんだろう。どういうつながりなんだよ? が、見えないから、ストンと腑に落ちない。新郎も含めた7人仲好しグループ、ではないのか? 変なの。
自分にあてはめると、高校時代の友人で、いまだにつきあってるやつは、いないかも。小学校、中学校は数人。環境ががらりと変わって大学の友だちが、いちばんつきあいが濃い。それって変かね? いや、この映画を見たら、高校時代の友人が人生でいちばん重要、みたいに見えたからなんだけどね。だいたい、高校時代にバカをするってのが、あまりなかったし。
てなわけで、ほとんど共感するところがない話だった。
・仲間うちで、さんづけ、呼び捨て、が混在してる。ってことは、上級生下級生が混じってるのか? よく分からん。現在の彼らが何をしているのかも、アバウト。ホワイトカラーは藤原だけ? ネジとソースはガテン系? 吉尾は技術職っぽく見えるけど・・・。明石と藤田は、まだ芝居やってるのか? バイト? とか、気になるんだよ。
・吉尾のイメージとして、いつも背負ってるカバンがあるけど、とくに意味がある感じではない。あと、小水後に手を洗うのはチンチンに失礼、というのを最初に明石に言ったのは吉尾で、同じことを明石がネジに言う、んだったかな。でも、これまた、とくに意味があるとも思えないエピソードだよね。
・高校時代の何で赤フンしたのかしらんけど、それを15年後にやって、記憶にあるやつなんているのか?
・高校時代の番長(?)の城田優が、あきらかにハーフ面で違和感ありまくり。
・二次会の会場へ向かう途中、吉尾の引き出物を畑に埋めようということになって(これも意味分からん)埋めてると、持ち主が現れ、元に戻せ、という。その持ち主が吉尾で、そのうち吉尾は聖人みたいに赤く染まって燃えるんだっけか? で、菜の花畑の天国みたいなところになるんだけど、天国ったら花園って、ワンパターンすぎるだろ。これで成仏した? しらねーよ。なんだこの妙なCG画像は、な違和感ありすぎな場面だった。
・ソースが結婚してる、ってことにみなが驚くのが、え? な感じ。仲のいい友人なのに、知らないのか? 結婚式に呼ばれてないのか? 変なの。後半でその嫁さん(内田理央)が出てくるんだけど、蚤の夫婦なのがいい。この映画でいちばんほのぼのした場面だ。
ところで、吉尾が亡くなったのは勤め先(転勤?)の仙台で、だから一瞬、あの地震で? と思ったけど、5年前なら時間が合わない。たんに心臓病だという。これまた拍子抜け。深みがまったくない。
・滝藤賢一の屋台のおやじも、違和感ありまくり。
スプリー5/18ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3監督/ユージーン・コトリャレンコ脚本/ジーン・マクヒュー、ユージーン・コトリャレンコ
原題は“Spree”。公式HPのあらすじは「フォロワーを増やしたい一心のライドシェアドライバー、カート・カンクル(ジョー・キーリー)はSNSをバズらせて人生の一発逆転を狙うために、乗客を手にかけ、その様子をライブストリーミング配信するという恐ろしいアイデアを思いつく。絶対バズると意気込むカートだったが、「フェイクだ」「退屈だ」というネガティブな反応ばかりで全く盛り上がらない。怒りの矛先は乗客だけでなく、拡散させないインフルエンサーにまで向けられ狂気は加速していく。」
Twitterへは「SNSでフォロワー増やしたい一心で、一線を超えた映像配信に突っ走る、配信タクシー兄ちゃんの話。エスカレートしたというより、ある日突然変異したサイコな感じ。概ねつまらなくて退屈。韓国人娘が警官を・・・のところは面白かったけど。」「emojiだけじゃなくて、hentaiも英語化してるのね。」
冒頭で、あれこれやってるのに閲覧者が依然として6人、とかいう悲惨なカートのSNS。そして10年、ある日彼のSNSがバズった、という感じで物語が始まる。で、まず男性客、次に女性客をペット水で眠らせて・・・と思ったら、この時点で殺してたのね! エグっ。で、次はオッサンを乗せるんだけど、女性客からもコールが来て。でも、黒人の彼女(ジェシー)は相乗りなら乗らない態度。これにオッサンが焦ってなんとか乗せるけど、途中で彼女は降りてしまう。ペット水ぶちまけて。オッサンは無事だったのかな? の次はオカマ男とケバい女2人を乗せ、廃車置き場のようなところに向かう。ルーフを開け、2人が上半身だしたところでルーフを閉めると、猛犬がやってくる! もう1人の女性はハンドドイルでガリガリ。
その後は、よく覚えてないな。話が単調でつまらなくて、眠気が襲ってきてたし。
ジェシーはSNSの人気者で、相乗りしたとき迫ってきたオッサンを早速アップしてたな。あのオッサンはどうしたんだっけ? 忘れたのでWebで検索したら、そうそう、ひき殺してたんだ。
その後、よく分からんけど、韓国人娘のDJを乗せて。彼女もペット水を飲んで、死んだのかな。のままガソリンスタンドに行くと、パトカーがいて。クルマに意識のない娘がいるから警官がカートにあれこれ質問してたら、突然、息を吹き返した韓国娘のDJが銃で警官を撃っちゃうところが、この映画でいちばん面白かったかも。
ところで、あの銃はどこで手に入れたんだっけ? これもWebで検索したら、そうそう、カートをフォローしてくれてるボビーの家でだった。ボビーを刺したら銃を取りだしたので、それを奪って撃ち殺してしまったんだった。そうだそうだ。すっかり忘れてる。
このあたりで視聴者数が増え始める。カートは逃走中、事故ってボロボロになりながらジェシーのライブ会場へ。そこでもひと騒動で、ジェシーが配車サービスでクルマを呼ぶと、その運転手がカートで。カートは自宅に彼女を連れて行って。戻ってきた父親が死んでいる妻を見つけるんだけど、詰まりは本日出かけるときにカートが母親を殺していたってことで。カートは父親も撃ち殺してしまう。逃げるジェシー。でも形勢逆転し、ジェシーが運転するクルマに押しつぶされて、血だらけのカート。てな経緯か。すっかり忘れてて、Webのネタバレページを見ながら思いだしてるよ。見ながら意識朦朧だったから。
で、相変わらずジェシーは人気者、てなラストだったかな。
でこの映画がなんでヒキがないのかというと、次第に狂気に入り込んでいく、って経緯がまったくないからだ。10年やってダメで、ある日突然、カートは母親を殺して配車サービスのスブリーに、これまで通り乗り込んで、その日のうちにどんどん殺していく。もちろん準備万端で、だと思う。とはいえ、韓国娘DJまでに7人殺し、両親も加えたら9人だ。突然どうしたんだ? なフツーの反応だろ。しかも、おどろおどろしくもなく、へらへら笑いながらやってる。これで面白いワケがない。ただただつまらない。飽きる。眠くなる。が通常のコースだよな。
SNSで反応がないから人殺し、なんて、話が飛びすぎてリアリティないし、現状への批判にもなってない。こんないい加減な映画は、やっぱ、寝ちゃうよね。
燃ゆる女の肖像5/19ギンレイホール監督/セリーヌ・シアマ脚本/セリーヌ・シアマ
原題は“Spree”。allcinemaのあらすじは「18世紀のフランス。画家のマリアンヌは、伯爵夫人の依頼を受けブルターニュの孤島を訪れる。注文内容は娘エロイーズの縁談のための肖像画を描くこと。しかし結婚を望まぬエロイーズは描かれることを拒み続けていた。そこでマリアンヌは画家であることを隠してエロイーズに近づき、一緒に散歩をするようになる。そしてエロイーズには何も告げぬまま、秘かに肖像画を完成させようとするマリアンヌだったが…。」
Twitterへは「画家に顔を見せないお嬢様? どんな女性と思っていたら・・・。前半は退屈。もしかしてそういう話? と思っていたらそうなって。以降は興味がもてた。時代背景がよく分からず、何世紀の話なんだ? 衣装しか判断材料ないだろ。とか思いつつ。」
この映画、わりとつくりがチープで、時代背景など説明ないし、大道具小道具も、各地ロケなんかもない。せいぜい衣装で16〜18世紀のいつかどこか、って類推できる程度。登場する屋敷の外観も映らないし、内部も背景に少し映るだけ。ほとんど人間しか映らない。あとは、海岸と浜辺と崖上の草原? 重厚感とかほとんどなくて、金がなかったのかしら? と思ってしまった。そのあたり、もうちょい凝れば、ドラマチックになったろうに。
日本語タイトル「〜肖像」の「肖」の字が、逆版になってる。なにかの示唆か? 最初は絵画学校で、現在か? と思ったら生徒の女性がみな中世風の衣装。でも時代が分からない。生徒が探し出した教師の絵は、海岸に赤い何かがあるもの? よく分からない。教師はエマ・ワトソン似。そのマリアンヌが、荒れる海を漕ぐ船に乗ってる。何かが流れてる。あわてて飛び込むマリアンヌ。どっかに到着し、漕ぎ手はさっさと帰ってしまう・・・。ま流れが、不親切。ひとりの女性を乗せて、あんな漕ぎ手が必要なのか? 場所はどこなんだ? 島か? 波止場もないようだったけど(到着場所は映らなかった)。流れたのは白木の箱。それをひとりかついで山を登るマリアンヌ。それにしても、船が近づいて拾い上げればいいのに、女が荒海に飛び込む? 非現実的だな。で、屋敷を訪れ、衣装を乾かすように言われ(対応したのは女中だったか)、暖炉の横に白い矩形のモノを立てかけ、自身は素裸で暖まってる。なんなんだ? タオルでも巻いた方が暖はとれるだろ。うーむ。
で、翌日か、オバチャンと対話するマリアンヌ。どーもこの家の女主人らしい。マリアンヌは画家で、当家の娘エロイーズの肖像画を描くためにやってきた。そうか。あの2枚の白い板はキャンバスか。エロイーズは顔を隠しているので、これまでの画家は肖像画を完成できないでいた。マリアンヌには姉がいて、本来は姉が嫁に行くはずが、最近、崖から身投げして自死してしまった。どうも、その代わりに嫁に行くことになった? オバチャンはミラノに伝手があるので、肖像画が完成した暁は、ミラノの何かを紹介するとか何とか言ってたかな。あと、自分もこの家に嫁いできたとき、すでに自分の肖像画が家の中に飾ってあった、といって、そのときの肖像画をマリアンヌに見せていた。たぶんこのエピソードは、後半で完成したエロイーズの肖像画を、運び人らしい男がもっていった場面とつながっているのだろう。エロイーズの肖像画は、嫁ぎ先に運ばれた、と。当時はそういう習わしだったのか。
その後、マリアンヌはエロイーズの散歩の相手ということでしばらく時を費やしつつ、覆いをとったエロイーズの顔を記憶し、帰ってきてスケッチにまとめ、下地を塗った画布に想像しながら、微笑むエロイーズの肖像画を定着させていくのだけれど、ここいら辺まではとくにドラマもなくて単調で退屈。実際、後方からオッサンのイビキが聞こえてきたぐらいだ。とはいえ、もしかしてこの映画、同性愛に発展するのかな、というのは伝わってきていて、どこがといわれると困るんだけど、そういう雰囲気は漂ってたな。
とりあえず完成し、オバチャンに「見せて」と言われるんだけど、マリアンヌは「私が画家であることを伝え、先に本人に見てもらいたい」ということで見せると、ちょっと驚きつつ、エロイーズは「これが私?」と不満顔。自分の本性が描かれてないことを感じた、のだろうか。マリアンヌは肖像画の顔を油で消してしまう。それを見て、エロイーズが「モデルになる」と自ら言いだすのだけれど、このときすでに、エロイーズはマリアンヌの性癖を見抜いていたのだろう。
モデルとなったエロイーズに、マリアンヌが、彼女の仕草とそのときの感情を指摘してみせる。するとすかさずエロイーズが、マリアンヌの仕草と、そのときの感情を指摘し返す。これ、決定的だな。エロイーズも、ずっとマリアンヌを観察していたんだ、と。
その後、いつだったか忘れたけど、マリアンヌの方からエロイーズにキスして、一夜を過ごす。ああ、やっぱりそういう話か。
いろいろ気になってたのよね。裏返しの「肖」の文字、マリアンヌの緋色のドレスに、モデルであるエロイーズの緑のドレス。これは、まさに補色関係。描かれるエロイーズは短髪で、不敵な笑み。こりゃもう男役だ。で、自死したエロイーズの姉も、たぶん同性愛者で、嫁に行くことを拒んでのことだったのかも。もっと勘ぐれば、姉妹でレズってた、こ考えられなくもない。でなけりゃ、エロイーズの同性愛のテクニックは開発されるはずはないもの。
ではマリアンヌは、自身の同性愛を意識していたんだろうか。これは分からないけど、自分からエロイーズにキスしに行ったんだから、経験があるとみてよいのではないだろうか、
しかし、絵が完成すればマリアンヌは帰らなくちゃならない。別れ。母親は肖像画に満足し、画料を支払い、マリアンヌと抱き合って別れの挨拶。そして、エロイーズとマリアンヌも抱き合う・・・。
この後だったかな、エロイーズの白い花嫁衣装姿が浮かぶのは。じつは、白い女が登場するのは3度目で、先の2回は亡霊のように暗闇に浮かぶ。あれは、エロイーズの怨念みたいなモノかなのか? 心はマリアンヌと結ばれたい、という思念?
で、マリアンヌのナレーションで、その後、2度エロイーズと出会った、というエピソードが紹介される。1回目は、展覧会で、そこにエロイーズと娘を描いた絵が展示されていたのだ。人妻となり、子まで生んだかつての恋人の姿は、凛々しく描かれていた。その手には、一冊の本。本をもつ手が、28P目に挟まれている。そのページには、情事の後にマリアンヌが鏡を見ながら描いた自分の裸体図が描かれている。まだ忘れていない、というメッセージだ。
最後(という言い方は、これが最後で、エロイーズは亡くなったかのように思えてしまう)は、コンサートかオペラか。向かいのボックス席に、エロイーズ1人でやってきていた。「こちらを見ようともしなかった」というようなことを言っていて、突如音楽が激しく鳴り響き、次第にクローズアップされるエロイーズは、泣き震えているように見えたんだが、いかなる感情なのか、よく分からず。マリアンヌに対する怒りなのか、抑えきれない情念なのか。いったいなんだろね。
・いちばん面白かったのは、女中の妊娠と堕胎、かな。女中は結構ひょうきんで、ちょうどエロイーズの母親が外出中だったので、この間に堕ろす、とわけもなく言う。で、やったのは、浜辺をひたすら走るというモノで、マリアンヌとエロイーズも手助けしてた。それから、ヒモか何かにぶら下がり、落下すること。そして、薬草を摘んでいたから、それを飲んだのか。それでダメだったのか、堕胎医へ行く前には当然の行為なのか知らんけど、最後はババアのところへ行って堕ろしてもらってた。むかしはよくあったのかな、こんな感じのことが。
・女中も交えて3人でカードゲームする場面も、興味深い。母親のオバチャンが留守だと、女中が元気。そういうつきあいを、娘たちともしてきたのかも。もしかして、エロイーズの性癖も知ってるのかも。だって、2人は女中の堕胎を支援したりしてるんだから。
・気になったのは女中の相手で。だって、ずっと島民が登場しないから。まあ、その後に、夜に島民が集まってアカペラで何か歌う場面が登場し、そこでエロイーズのスカートに火が移る、という出来事があったんだけど、騒いだのは周囲の連中だけで、本人は平気な顔をしていたのが、不思議。これが、ポスターやタイトルにもなっている「燃ゆる女」を示しているのか? 外見はおとなしく見えるけど、内心は燃えている?
・肖像画を描いているのを知られたくないマリアンヌ。でも、たまたまエロイーズが部屋に入ってきて…、という場面があるんだけど、油絵の具の臭いで、すぐバレるだろう、そんなの。
・マリアンヌ役の ノエミ・メルランは、エマ・ワトソン似だな。
シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!5/19ギンレイホール監督/アレクシス・ミシャリク脚本/アレクシス・ミシャリク
原題の“Edmond”は、作家の名前。allcinemaのあらすじは「大女優サラ・ベルナールには気に入られるも、目下スランプ中の若き劇作家にして詩人のエドモン・ロスタン。ある日、サラの紹介で名優コンスタン・コクランと面会することになり、何の準備もないままに彼の新作舞台の戯曲を手掛けることに。決まっているのは200年も前に実在した剣豪作家のシラノ・ド・ベルジュラックを主人公にした喜劇というだけ。しかも初日までわずか3週間。いきなり崖っぷちに追い込まれるエドモンだったが…。」
Twitterへは「シラノの話を知ってる人は面白く見られるんだろう。でも鼻でか男としか知らん身には難解。現実と台本との二重構造の流れも、スッと頭に入らず。我々のイメージするシラノ像がつくられた実話、をベースにした話らしい。」「で、シラノ・ド・ベルジュラックをwikiで見たら、実在の人物だけど鼻でか男は、映画の主人公であるロスタンの創作なのか。へー。で、現実のシラノは17世紀に『月世界旅行記』なんていうSFを書いていたって! へー。メリエス/ヴェルヌの『月世界旅行』と関係はあるのかな?」
邦題の『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』は分かりにくいよな。原題は、エドモンドが劇作家であることを知らないと分からんし。『シラノ・ド・ベルジュラックを生みだした劇作家』というような感じでないと、内容と合わないかも。
たぶん、シラノの話を知っていて、登場人物についてもアバウト知ってる客を前提につくられてる様子。だから説明的な部分は概ね端折られていて、人物が登場しても紹介もほどほどにぽんぽん話が進んでく。それでいてでてくる人物が多い。こちとらのような素人は、ただもう振りまわされるだけ、な感じ。
カフェの黒人店主がロスタンに、書棚から本を引き出して、「シラノ・ド・ベルジュラック? サヴィニヤン?」てヒントを与える場面も、シラノの他にサヴィニヤンという人物がいて、どっちにする? と言ってるのかと思ったら、見終えてから、サヴィニヤン・ド・シラノ・ド・ベルジュラックという名前だと分かったぐらい。しかも、鼻でか男のすでにある話を脚色し、新しい話をつくるのか? とずっと思ってた。なので、以降の、ロスタンの友人のレオが、衣装係のジャンヌに恋してて、でも相手にしてもらえず、ロスタンが愛の言葉を代筆する・・・という現実の流れをヒントに、ロスタンがシラノの話をつくっていく、という流れが、ピンとこなかった。ここが多分このアナロジーが映画のキモで、シラノの話を知ってれば、ああ、こういう経緯であの物語ができたのか、ってすぐに分かるんだろうけどね。
さらによくないのが、ロスタンが代筆したラブレターって、どうなってるんだ? な感じもある。あれは、ロスタンがレオをさしおいて先走りし、架空のレオとジャンヌが盛り上がっちゃった、ってことなんだろうけど、うーむ。
他にも、ロスタンとサラ・ベルナールが知り合いというのも、なんで? な感じ。サラとツーカーなら、仕事に事欠かなかったのでは? そうでもないのか? 冒頭の、サラ主演の芝居は大コケだったようだけど、サラはダメだししなかったんかい! 
大物俳優コクランは、サラの紹介なんだろうけど、なんで借金苦? さらに、組合から排除されそうになってるのはなんで? 他に、気位の高い女優マリアはどういう存在? レオとロスタンは、そもそもどういうつながり? とか、交通整理はそこそこできてるけど、キャラの掘り下げ・紹介が薄いから、記号のように出てくるだけ、に見えてしまう。もうちょい要素をしぼって、最初の30分ぐらいは状況と人物を丁寧に描き込んだ方が、分かりやすいと思うんだけどね。
でもまあ、なんとなく大まかな流れは分かったけど、実在のシラノと、彼を鼻でか男として芝居に仕立てたのは違っていて、仕立てたのがロスタン、というのは、映画を見ていた限りではおぼろな理解。wikiでシラノの項目を見て、なるほど、だった。
あと、不可思議だったのが、一介の衣装係が詩劇が好きで、恋の言葉も詩的じゃないとツボにはまらないほど、というのが、へー、というか、そうなの? と。興行主や観客も、「冗長だ」「喜劇にしろ」というぐらいなんだから、韻を踏んで麗々しい詩的なセリフは、当時でも疎まれていたのでは? と思ってしまう。
ジャンヌは恋文をくれる相手がレオだと思い込み、レオは早くキス・セックスしたいと先走り、バレたら脚本が書けなくなると焦るロスタン。結局、手紙を書いたのはチビのロスタンと分かってしまい、それでもジャンヌは書いた本人のロスタンに恋してしまう、という流れも、現代じゃかなりムリがあると思うんだけどね。最後は、どうなるんだっけ? 別の芝居の衣装係で旅に出るジャンヌを、レオが追っかけるんだっけか? 忘れた。
というくだりも、シラノの芝居の最終幕と重なって、芝居を知ってる人なら拍手喝采なのかな。しらんけど。
ヒロイン役だったマリアが奈落に落ちて失神し、急遽代役にジャンヌが駆り出されるとか、童貞でセリフベタなコクランの息子が、女房役の女優に楽屋でしゃぶってもらって人間が変わるとか、劇場に出演停止処分のコクランが、制止を無視して芝居を決行してしまうとか、亭主の浮気を疑ってロスタンを責める妻・ロズモンドとか、展開の早いエピソード満載で、分かってれば面白いんだろうけど、素人にはちと慌ただしいコメディ作品。もう一度見たら、楽しめるかな?
・ベル・エポックの雰囲気は、カフェのカンカン踊り(ロートレックの絵みたい)とか、娼館とか登場して、なかなかいい。娼館に結核を患ったチェーホフがいて、フツーに会話してるとか、いまじゃ考えられない場面もあったりする。まあ、そのチェーホフからも、ロスタンはヒントを得るんだけど。
・エンドロールに、この映画に登場する主要人物の実際の写真がでてくるのが面白い。はたして、この映画のどこまでが真実に近いんだろう? あと、シラノを演じた有名役者のシーンも登場した。
SNS-少女たちの10日間- 5/21ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/バルボラ・ハルポヴァー脚本/バルボラ・ハルポヴァー、ヴィート・クルサーク
チェコ映画。英題は“Caught in the Net”。allcinemaの解説は「監督のバルボラ・ハルポヴァーとヴィート・クルサークは、巨大な撮影スタジオに3つの子ども部屋をつくると、幼い顔立ちをした18歳以上の女優3人に偽のSNSアカウントを用意し、彼女たちに12歳のフリをして連絡をしてきたすべての男性たちとコミュニケーションを取ってもらうのだった。やがてカメラは、相手が12歳の少女だと知ったうえで、彼女たちを性的に搾取しようと言葉巧みに近づいてくる成人男性たちのおぞましい実態を次々に暴いていくのだったが…。」
Twitterへは「幼顔の女優が12歳になりすまし、SNSで変態オヤジを誘惑。ホイホイされたオヤジはちんちん見せたり胸見せろといったり裸画像バラまくと脅したり、な囮企画ドキュメント。オヤジは当然ダメだけど、こういうのやってる12歳が実際いることに驚き。」
映画で利用してるのがどんなSNSなのか分からんが、登録すると相手と文字チャット、映像で話ができるものらしい。12歳として登録すると速攻でフォローがどかどかついて、相手をしだすと、これまた速攻で「いくつ?」「かわいいね」「見たい?」なんてことを言いだし、せんずりこいたりペニスの写真見せてきたり。まあ、世界どこでもこんなもんだろうな、という感想。でも、かなり演出されてるんじゃなかろうか。ペニスなんて披露したら管理者が削除するだろうし、常連の変態はアカウント削除されるんじゃないのか? そのあたり、チェコはゆるいのか。
フォロワーの男は大抵この類、という感じで見せているけど、実際はどうなんだろう。フォロワーは何人で、ペニスを披露したのは何人、デートに誘ってきたのは何人、裸の写真を送れと言ってきたのは何人、写真を拡散したのは何人、って統計的に知らせてくれないとなあ。実際、最後まで登場していた変態おっさんは数人しかいなかったし。
途中で、1人だけ、性的な指向性のない20歳ぐらいの青年が登場し、最初は顔がマスクされていたけど、それがとれて。フツーに会話し始める。この相手に、相手をしていた女優が感激して涙を流すんだけど、ってことはごくフツーの利用者はほとんどおらず、みなエロ目的のおっさんってことか? じゃあ、このSNS自体がエロ専用ってことで、そんなSNSがあるのかよ。それに、この男性にしたって12歳の少女と知って会話してるんだろ? これだって一種の変態じゃないのか?
てなわけで。全体的な感想は、変態おっさんホイホイな企画かな。囮捜査に近いだろ。ひっかかる変態おっさんが12歳の娘にチンチン披露したりするのはダメ、なのは当然として、いくらか釈然としないものが残る。
そもそも3人の女優は成人なんだから、法的には引っかかったおっさんたちは罪に問えないはず。なのに、ラストシーンでは、旅行代理業のおっさんを撮影クルーや学者たちが寄ってたかって非難する。もちろん、こんな変態おっさんが少年少女のサマーキャンプの付き添いにいる、ということは気持ち悪い。でも、いまはそういう心情的な問題ではなく。成人女性が12歳を装って大人を騙し、変態映像を見せるよう促した、と考えてみると、だ。そもそも、明白にはなっていないけれど、心の底では少年少女の裸をイメージしながら日々暮らしている大人はいくらでもいるだろうし、その心の思いを行動に移さなければ法的には問題ないはずなのだから。
それと、あるおっさんが12歳の裸体画像をSNSで拡散した、というけれど。でも、そのコラ裸体画像は12歳を偽った成人女性が自ら自分のサイトにアップしたもの(それとも、変態おっさんの1人の要望に応えて、女性が自ら変態おっさんに送ったものなのか?)、だろう。であれば、罠だと考えるのが妥当になる。 たとえ罠だとしても、他人の写真を拡散したり恐喝したのはダメだと思う。
とはいえ、他人の写真をリンクしてアップすることは、Pinterestだのtumblerではフツーに行われている。つまりは、アップした時点で拡散されることを自覚しなくちゃいけないということだ。なんていうと、12歳でそんなことはムリ、と言われそうだけど。12歳でこんなSNSにアクセスし、ちんぽの画像見せられても依然としてquitせずにチャットをつづけている時点で、この仮想12歳はアウトだろ。教育が悪い、と旅行代理業のおっさんが、みなに責められながら最後に言っていたけど、それは当たっている。
むしろ、12かそこらであの手の画像チャットにハマり、おっさんと日頃から会話し、裸の写真を送ってる娘がいる方が驚き。そして、12歳だからという理由で患者らは擁護され、彼女らに惑わされ振り回されてるおっさんが非難されてるのは、バランスが取れてないんじゃないのか?
というわけで、SNSの恐ろしさはまずまず伝わってはくるものの、そっちの方向に演出=過剰に誇張してるんじゃないのか疑惑が感じられて、いまいち成る程感がなかった、かな。こんなの、当たり前じゃん。それをいまさら、なにやってんの? ってところか。
ところで、チンポとか見せてきたオッサンたちと待ち合わせて、レストランとかカフェで話をするって場面もあったけど、あれもそうだよね。オッサンたちからすれば、チンポ見せてるのに会おうって反応してくる娘なら、会ってみようとなるよな。じゃない? そのカフェで、変態おっさんの座ってる椅子に犬が小便ひっかけてくのがおかしかった。あれ、やらせじゃないのか?
過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい 写真家 森山大道5/25新宿武蔵野館2監督/岩間玄撮影・編集/岩間玄
allcinemaのあらすじは「写真家・森山大道の活動に密着したドキュメンタリー。発表当時センセーションを巻き起こした1968年のデビュー作『にっぽん劇場写真帖』を復刊するという大掛かりなプロジェクトの舞台裏に完全密着するとともに、コンパクトカメラ1台で東京の街と対峙する日常のスナップワークも丁寧に追い、森山の知られざる創作の秘密と写真哲学に迫っていく。」
Twitterへは「キャッチフレーズの「いま、明らかになる孤高の天才の素顔。写真史上、最大の謎に迫る前人未到のドキュメンタリー。」は誇大すぎ。人のいい爺さんが映ってた。映画はいろいろツッコミ不足も。」
冒頭、菅田将暉のナレーションがある。高校のとき、森山大道の写真は凄いな、とおもってて。芸能界に入り、何かのポスターを撮るのでゴールデン街集合、で、待ってたら、コンパクトカメラ提げた人が現れて「森山です」と挨拶され、ビビった、とかいう話。嘘くさくて、なんだかな。以後、たしか菅田将暉のナレーションは、ない。ところで、菅田将暉のイントネーションは、変だ。
以降は、『にっぽん劇場写真帖』の復刊までの240日(だっけかな)を追ったドキュメント。出てくるのは、本人と、装幀家、編集者。この3人。ところどころに伐採、丸太、など紙への加工の過程が挿入されるけど、あまり意味がない。なぜって、なぜこの木にしたか、なんていう話は一切ないし。
元の写真をそのままに、復刊のイメージではなく、新しい写真集をつくりたい、らしい。その意図は、中盤に語られたりする。他にも、いまはデジタルとか、も中盤以降。盟友・中平卓馬については、そのプロフィールも写真もほとんど登場しない。
編集者との打合せも断片的で、話している内容の写真もはっきり映らない。オリジナルと内容を比較したイメージも登場しない。おおむね雰囲気を見せるだけな感じで、具体性が欠けるから、なるほど感がない。まあ、一般の観客に細かいことを言ってもしょうがないのかもだけど、抑えるところは抑えて、深みを見せて欲しかったかな。
たとえば、50年前の『にっぽん劇場写真帖』で使った写真原稿はまだ存在するのか? ネガは残っていてニュープリントなのか? 似たようなプリントを使ったのか? もしかしてネガもプリントもなくて、原本の複写というのもあるのか? とか、気になって仕方がない。とくに、あの犬の写真が数回アップになるんだけど、大きな網点が露骨なんだよ。でも、いまは原稿をスキャナで取り込んで、網点なんてほとんど見えない。網取りじゃなくて凸取りならなおさらだ。まあ、粗い網取りなのかもしれないけど。昔風の網点処理した写真なんて、近ごろ、ほとんどみないものなあ。そのあたり、気になってしょうがないけど、なんの説明もないんだよ。
とはいえ、森山がふらふら町を歩きながらささっと撮影していく様子は興味深い。結構、人も写してる。たまに気づかれて握手を求められたり、一緒にセルフィーに収まったり、気さくな爺さんだなあ。気難しさはほとんどない。これじゃ、謎でも何でもないだろ。
先日、写大ギャラリーの森山大道展行ったら、同じ場面の別カット、トリミング違い、裏焼きとか並んでて、意図的なのは分かるんだけど、そういうことのツッコミは皆無。犬の写真の裏焼きも、画面には登場する。編集との会話で、別カットがどうとか、違う、とか話される。けれど、説明が一切ない。そこへの切り込みがないんじゃ手落ちだろ。
・コロナ以前なので誰もマスクなし 80歳の時らしいので、撮影は2018〜9年か。2021年現在82歳らしいから。
・パルプ素材の材木の切り出し、加工の過程は要らんだろ。あっても数分の一でいい。くどすぎる。
・本人曰く、中平卓馬はゴダールで、僕はフェリーニが好き。とか言わすなら、中平についても描けや。
・ムダに煙草を吸うシーンが多い。やめてくれ。
・パリフォトに、完成した写真集を出品したら数分で売り切れ、とかなんとか。それ以前につくった写真集も「飛ぶように売れた」とかいってたけど、そんなに人気があるのか? であれば海外の写真評論家を登場させて語らせるとかすりゃあいい。せいぜい、何とか賞の授賞式のスピーチが1〜2分と、サインを求める一般人数名じゃなあ。
・アラーキーとか高梨豊とか、同時代の友人写真家との交流があるかと思ったら、一切なし。これも肩すかし。
・写真の荒れとかボカシについて、どうやってんだ? な疑問があった。かつては手焼きで、今はデジタル。さて? と見てたら、25、6年前のテレビドキュメンタリーが引用されてて、現像シーンがでてきた。なーるほど。マスクを動かして焼きを調整しつつ、焼き込んだりしたりしてた。では、デジタルのいまは、どうやってんだ? はまったくスルー。そういえば、『にっぽん劇場写真帖』の直前に出版した写真集の中味が少し映って。これは、ほとんどボケなしなんだな。撮影してる場面も登場していたので、あのときのカットがこうなったのか、はあるけど。
な感じで、そこそこ面白いけど、不満も残るな。
劇場版 『アンダードッグ』 【前編】5/31キネカ大森2監督/武正晴脚本/足立紳
allcinemaのあらすじは「一度は日本タイトルにあと一歩まで迫りながらも、今は“かませ犬”ボクサーとしてリングに上がり続ける元日本ライト級1位の末永晃。きっぱり諦めることもできず、デリヘルの送迎で日銭を稼ぎながらボクシングにしがみついていた。妻には愛想を尽かされ、唯一応援してくれる息子にも合わせる顔がない。そんな末永に対し、養護施設出身の若き天才ボクサー・大村龍太は、辛らつな言葉を投げかけてくる。そんな中、大物俳優を父に持つ鳴かず飛ばずの芸人・宮木瞬がボクシングに挑むことになり、テレビのイベントで末永とのエキシビジョンマッチの企画が持ち上がるのだったが…。」
Twitterへは「断片的な描写が中盤ぐらいまでつづき、因果関係が次第にあぶり出されてくる構成。練り込まれた脚本で、人物もみな立っている。終盤のボクシングシーンも長回しを多用していて、引き込まれた。」
末永という人物の仕事とか家庭とか考えとか、そういうことが断片的に見せる・示唆されていくシナリオになっていて、その輪郭が次第に見えていく流れがなかなか巧妙。多くを語らず、観客に、見せて理解させる。
見えてくるのは、上のあらすじの前半部分かな。分かったところで末永に感情移入はとくにできなくて、ボクサーは大変ね、ぐらいなんだけど。それでも、彼の“目的を失いながら”も、“あきらめきれない何か”は伝わってくる。まあ、そのせいで家庭は壊れ、暮らしも最底辺なんだけど。まあ、映画の主人公としては最適だ。
この映画、とりまく脇役がみな立っていて、目立ちすぎず、ちゃんと機能している。とはいえ、立派な人はほとんど登場しない。そこがまた、社会の陰で、それはそれで懸命に生きる人々を描いているのが興味深い。もちろん、そんなことしてないでフツーに働けよ、とは思うけれど、そうできない事情がそれぞれにはある、というのもちゃんと伝わってくる。だから、客観的にダメな他人の生活を覗くようなところもあり、つまりは、自分とは関係のない世界の話なんだもんね、と安心して見ていられるんだろう。心を揺さぶられるようなところがないのは、何かを訴えていないからだ。メッセージ性はとくになくて、所詮は娯楽映画で、登場するのはほとんどが負け犬たち。成功しいるのは、世界チャンピオンになりいまは解説者として活躍する、かつて末永をタイトルマッチで破ったやつと、芸人・宮本の父親ぐらい。あとはほとんど敗残者だ。
とはいえ、謎なところもいくつかあって。その最大のものは、なぜ龍太が末永に執拗にからむのか、だった。これは前編ではそのままだったけれど、後半でその確執が明らかにされるという仕掛けになっていた。これで、すっきり。売れない(とはいえテレビには出ている)芸人・宮本が豪華マンションに住んでいるのも疑問だったけど、これはたしか前編の後半では、父親が有名俳優と明かされて、なるほど。ただし、ひとつだけ「?」が残った。
明美の仕事中、末永が彼女の娘・美紅をジムに連れてきている(施設にいたけど、逃げ出してデリヘルの事務所を訪ねてきていた)と、そこに龍太がやってくる。龍太は施設の慰問で、たしか美紅に会っていたはずなのに、まったく初対面のように対する。これが、この映画でほとんど唯一、つじつまで気になってしまったところかな。
いろいろ、謎な部分を残しつつ展開するけれど、その謎の大半は前半の中で、あるいは後半になって過去のエピソードが挿入されるなどして明らかにされている。その、霧の晴れ方は、なかなかいい。
で、ラストの末永と宮本とのリングは、どうなるのか考えた。八百長はせず、末永が宮本をKOする。もしかしたら、宮本は死ぬ、あるいは、障害者になる。または、油断して宮本のアッパーを食らい、末永が負けてしまう。どっちだろう? 後半の展開にも影響するしなあ、なんて思っていたら、予想の間をふらふらしつつ、末永が思わぬダメージを多少受けながらも、結局KOできなかった、というカタチで終わった。なるほどね。とはいえ、実際のボクシングであんなに殴られたら倒れるだろ。死ぬんじゃないのか? と思わせるような漫画チックなモノになっていて、それはそれで、映画的と言うことでしょうがないのかな。
・デリヘル店長の木田はどもりで頭も弱そう。でも経営者なのね。熊谷真実が経営者かなんかかと思ったら、彼女もデリヘル嬢とは!
・ジムのボクサー、タイ人がいい感じで。彼もかませ犬なのか? やる気よりエロに生きてる感じがいい。ジムの会長も、なかなかいい。
・明美の得意の田淵。きっと障害者、とは思っていたけど、若かったんだな。
・ライバルジムのオーナーの徳井優が、エンドロールがその他大勢レベル扱いなのが不思議。
・エンドロールの後、末永と龍太がリングへ上がろうとする場面が映り、これは後編への予告。けど、展開が読めてしまうのはつまらんよな。やめて欲しい。
劇場版 『アンダードッグ』 【後編】5/31キネカ大森2監督/武正晴脚本/足立紳
allcinemaのあらすじは「後編では末永晃と大村龍太の因縁を軸に、やがて迎える2人の壮絶な死闘の行方を描き出す。」
Twitterへは「前編の疑問が解けラストへとまっしぐら。前編の最後に後半の行方がチラッと見えるんだけど、あれは要らなかったんじゃないのか。北村匠海は『とんかつDJアゲ太郎』他のイメージが強く、すんなり受け入れにくいよな。」
テレビ局のスタッフから八百長(数発パンチをもらってくれ。倒れてくれたらなおいい)を依頼され、金のためならとジムの会長もしぶしぶOK。勝ったとはいえKOできず、あからさまな様子に「試合が終わったら即引退しろ」といわれた末永。かつて対戦し、いまは解説者の元世界チャンピオンにも「二度とボクシングはやるな」といわれた末永。けれど、龍太との因縁が明かされて、なるほど。龍太とその妻は施設育ちで、そこにボクサーの末永が慰問に来ていた。喧嘩っ早かった少年龍太は、末永から間違ってパンチを浴び、鼻血。以来、いつかは、と思っていたらしい。それで、しつこく絡んでいたのか。という流れがひとつ。ここに、明美のお得意・田淵が車椅子生活になった原因が、龍太にあった、という事実が絡んで話は進む。
龍太は、ずっと打倒末永という目標を抱いてトレーニングしてきた。いつかは末永と・・・ということなんだろう。話としては前半より明確で、通俗的な感じになっているので、見ていてこっちの方が気楽というか、物語を見ている気分になる。いっぽう、田淵は青春と自由を奪われ、たぶん目的を失っていた。だからデリヘルに没頭してきた。ところがある日、自分をいたぶった相手の顔が間近にあった。後の龍太の告白にもあったけれど、むかしは意味なく暴力を振るい、たくさんの相手を半殺しにした、らしい。オソロシイことだ。これが、同じ施設の娘を妻にし、悪い友だちとの縁を切り、ボクシングに邁進。赤ん坊も産まれ、試合も勝ちっ放しで向かうところ敵なし。が、ある日、田淵の攻撃を受け、以後ボクシングをすると右目は失明の可能性が・・・。因果はめぐるで、されることの痛みを味わった、ということだ(末永が慰問に行った施設に、長じた龍太が慰問に行き、そこで明美の娘と出会っていることも、因果と言えば因果)。
以降、田淵は登場しない。これがちょっと不満かな。田淵は罰せられたんだろうけど、原因となった龍太はお咎めなしなのか? 
明美がいつのまにか男と同居していたのは、話に少し飛躍があるかも。明美と末永は関係をもっていたから、明美が別に男をつくる要素がなかったから。配信版の 『アンダードッグ』 には、経緯が描かれているのかな。でこの男がDVで、明美にサディスティックな好意をもとめ、娘はジャマだと檻に入れている。明美も男の言いなりで、娘に暴力を振るっているのか。それに違和感を抱かなくなっている状況は、ちょっと理解しにくい。揚げ句、娘を崖から放り投げて傷つけてしまうし・・・。でも、明美には末永に電話するだけの理性が残っていて、病院へ。明美だけ連行されたようだけど、ここは末永も一応事情聴取が筋だろうけど、端折ってる。うーむ。末永は明美に、「待ってる」というんだけど、お前まだ離婚してないし、妻に未練があるんだろ? というツッコミも入れたぞ。
木田とのつきあいも、後編で明かされる。タイトルマッチで負けて地元に戻ってたらたまたま出会い、用心棒のようにカタチで木田のデリヘルに出入りするようになった、のか。同級生なのか、もしかして木田は末永に同性愛的な感情を抱いていたのかもね。のちに「キスして」なんて病室でいってたし。その木田のデリヘルはライバルに女の子を引き抜かれて廃業に? てな頃、熊谷真実に半ば襲われるカタチで関係をもつんだけど、もしかして童貞だった? やっぱ本命は男なのかな。でも、ムショから出たらふたり所帯を持つような感じだった。
で、女の子を引き抜いた相手先に包丁もって木田は殴り込み。1人刺して、数人に傷つけるも、結局ボコボコに。殺した? と思ったらそうでもなく、木田も死んでなくて、病室に。では暴力団がらみで内々に? と思ったら、「退院したらムショ」といってたから、そうじゃないか。そういえば、殴り込んだ先に、木田がショバ代払ってる組の若いのがいて、どうやら二股かけていたのか、あるいはこれは自分が所属する組への裏切りか。自分でも、いまどきヤクザはやっていけない的なことをいっていて。近ごろのヤクザの立場も微妙なのね。『ヤクザと家族』『すばらしき世界』も同様だったけど。
あとは末永の、息子との約束、か。龍太側からの対戦要求に、息子のヒーローでいつづけたい、という目的もできて、いざ対戦。なんだけど、これはどういう試合なんだ? 同じ階級同士の試合? こないだまで4回戦だった龍太は、ランクがいま何位か知らんけど、紹介されるときは前1位と紹介される末永。龍太は、これが最後の試合と決めての末永への挑戦。受ける末永は、ただの意地? とはいえトレーニングして身体を絞って。
こちらも、どっちが勝つのか? まあ、ドローかな、と思ったら、ポイントで龍太の腕が上がった。まあ、6回ぐらいから末永はほとんど見えないぐらい顔が膨れあがってたし。しかし、龍太はそんなに強いのか? 末永は、こんなに弱いのか? 
この試合も、映画的にはなかなか激しい戦いで。マンガ的という意味では、前編よりもはるかにマンガ的。殴られても殴られても倒れないし。まあ、いいけど。試合のハラハラ度では、前編の方が気になったかな。
で、戦いすんで、両者とも死なず、不虞にもならず。あんな激しい打ち合いだと、父親とか奥さんとか、見てらんないだろ、と思うけど、映画だからな。
芸人をやめたはずの宮木瞬は、テレビではなく寄席に出ていた。ピンで漫談。場所は池袋演芸場かな。でも、クレジットの協力にでてたかなあ?
龍太は引っ越し業の仕事。あれで女房子供養えるのか? ひとり黙々とランニングの背中は、末永? まだ引退してないの? 世界チャンピオン目指すのか? おいおい。

 
 

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